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聖マンショ伝「帰らざる丘」・No.0032

日本中世史の実像① 前編
細川家系譜における天正の時間。その光と影。

松井康之 松井康之

 日本の中世史における一人のキーパーソンとして、松井康之(まつい やすゆき)という人物が実在したことを少しご紹介してみたい。この松井康之は、1550年(天文19)から1612年(慶長17)を生きた。つまり戦国時代から江戸時代初期にかけての武将である。

 京都の郊外に松井城はあった。松井氏の居城である。康之はこの城で生まれた。松井氏は康之の曽祖父の松井宗富が8代将軍・足利義政に仕えて以来、代々室町幕府の重臣として仕えていた家柄にある。その松井家は山城守(しろやまのかみ)に任ぜられることが多く、康之の父は松井山城守正之という。清和源氏をそもそもの祖とする松井氏には、大きく二つの流れがある。清和源氏為義流の源維義(松井冠者)を祖とする松井氏①と、源満政を祖とする松井氏②である。またその①の源維義流には、三河松井氏(松井松平家)と、遠江松井氏もあるのだが、室町将軍家の御家人の松井氏もやはり同流である「山城松井氏」であった。

 この山城松井氏は、山城国松井に移住した渡来系の百済人でもある。続日本紀によれば、天平宝字5年に松井連を朝廷より下賜されている。ここに、居住地とした綴喜郡松井村などが見られるが、時代を重ねるにつれ同国の松井氏には清和源氏出身の流れも加わってきた。
 しかし長い歴史の時間軸でみれば、この松井氏は戦国という政治的動向にもまれる中において、江戸時代には、肥後熊本藩主細川氏の筆頭家老で実質の八代城主になった。こうした同氏の、京都から熊本へと移動する変遷にあって、松井康之は中世の重要な局面を後世に把握させえる貴重なキーパーソン役を果たしたといえる。

 松井氏が、室町時代には、足利将軍家に仕える幕臣であったことは述べた。足利義輝が永禄の変(永禄8年・1565年)で殺害されると、松井正之の子松井康之は、同じく足利将軍家に仕えていた細川藤孝(幽斎)と共に、義輝の弟・足利義昭を将軍に擁立するために行動するようになる。
 康之は、義昭が尾張・美濃の大名・織田信長を頼ったときにその宿所を訪れ、やがて細川藤孝の下で動くようになる。藤孝の子・細川忠興と明智光秀の娘(玉)の婚礼における玉姫輿入の際には請取役を康之が行っている。

 信長の下で細川氏は丹後国の領主となり、康之は丹後国松倉城を任せられた。生涯五十余度の合戦に出陣し、武功も高く、石田三成の家老・島左近や上杉景勝の家老・直江兼続らと並ぶ名家老ともいわれた。康之の働きぶりをみた豊臣秀吉は石見半国18万石を与えると申し出たが、康之は細川家に仕えることを希望してこれを辞退する。秀吉は、康之が信長から拝領していた山城国相楽郡神童寺村及び愛宕郡八瀬村の知行安堵の朱印状に「深山」という茶壺を添えて贈ることにした。この茶壺は、後世に「十八万石の壺」と呼ばれた。

松井家の銘器「南蛮締切耳付水指」 松井家の銘器「南蛮締切耳付水指」

 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いには、康之とその子・松井興長は藩主細川忠興に従って戦い、徳川方の勝利に貢献する。戦後、細川家は豊前・豊後国(現在の福岡県と大分県の一部)39万石余りの大名となり、康之は豊後国木付(杵築)城を任せられて2万5千石の領地が与えられた。興長は康之の次男として天正10年(1582年)に生まれるのだが、慶長16年(1611年)に康之が隠居すると、松井の家督を相続した。寛永9年(1632年)細川家が豊前・豊後から肥後熊本藩に国替になると、松井興長には玉名・合志郡に3万石が与えられた。

 以上のように松井家は松井康之の時代から急速に細川家と縁を深め、子の松井興長にいたる年間を細川家に主従することになる。さて、肥後八代城主と松井興長の関わりについては後編にて後述することにして、宮本武蔵らの登場などは少々お待ちいただくが、その前に関連する中世のキリシタン史について触れてみることにする。

 細川忠興と明智玉との婚礼にあたり、松井康之は、玉姫の輿入請取役を行なっている。これもやはり松井康之が世に生きる宿命としてこの役を担ったのであろう思うと、と或る井戸を覗きこんでみたくなる。それが大阪の「越中井」(えっちゅうのい)である。
 大阪市地図で大阪城南側方面を拡大して見ていただけるとより分かりやすいかと思おもうが、地下鉄谷町線谷町4丁目駅から徒歩で法円坂を東へ、上町筋を渡り右手に難波宮跡公園をみながら進み、公園を過ぎてまもなく南に、谷町4から現地(越中井)まで10分程度である。またJR森ノ宮駅・中央線や、地下鉄長堀鶴見緑地線森ノ宮駅から歩いても同程度の距離にある。現在の所在地は(大坂府大阪市中央区森の宮中央2丁目12)となっている。

越中井4

 昭和初期まではこの辺りに「越中町」という町名が存在していたので解り易いのであるが、中世のころ、この一帯は武家屋敷群であった。越中井の「越中」とは細川忠興の当時の官位・越中守(えっちゅうのかみ)であったことから、当時その屋敷を「えっちゅう殿」と呼んだ。越中井とは、すなわち「えっちゅう殿」の屋敷にあった井戸という意味になる。その井戸跡が大阪府史跡第2号という立札とともに史跡として保存されている。この遺跡にて明智玉を偲ぶことができる。現在は蓋をされた小さな遺跡だが、その暗渠の井戸深くに明智玉の人影がある。

越中井2 越中井
越中井

 この明智玉の生涯を讃える後世の明治期になって「細川ガラシャ」という名の日本人が歴史の中に登場するようになるのだが、しかしその名は後世のキリスト教徒ら言うた通称である。前近代の日本は夫婦別姓であり、北条政子・赤橋登子・日野富子などの例に照らせば「細川」姓でこの女性を呼ぶのは明らかな間違いで、正しくは「明智 玉」として実在が解釈されるべきである。

 したがって通称される細川ガラシャは本名を明智玉(お玉)という。ガラシャとは洗礼名である。どうにもこの和訳しづらい洗礼名は、「グレーシア」というラテンの響きが桃山風の日本読みになった。その玉の父が明智光秀(本能寺変の首謀者)である。

明智光秀 明智光秀

 この父をもったということに、玉(たま)の第一の、そして決定的な宿命のルーツがある。玉の母親(煕子・ひろこ)のほうは妻木勘解由左衛門(つまき かげゆざえもん)の家から光秀のところに嫁いできた。そこにも多少の宿命が投影するのだが、そうして、その玉が嫁いだ先が細川家の忠興だった。これは細川幽斎こと細川藤孝の長男である。のちに茶数寄の名人の一人と評された藤孝=幽斎には、将軍足利義春の御落胤だという噂がつきまとうのである。また、その藤孝の子の忠興と玉の結婚は信長の命令によるものだった。ここに第2の宿命が待っていた。後にご説明することにしたいが、これには細川家という弱肉強食の世で延命を懸命に重視する家の宿命も関与した。

細川忠興 細川忠興

 しかし第3の、そして玉にとっての最大の宿命は何だったかといえば、玉が育った時代そのものが喉の奥まで当時の男と女の定めを咥(くわ)えこんでいたということである。玉であるガラシャが光秀の娘であったこと、信長の命令によって16歳で細川家に嫁いだこと、その父が信長を暗殺したこと、それらのすべてが玉を変え、後に不在の人とした。後談として、細川家と玉の輿入れの仲介者となった松井康之は明智玉の非業の死にあたって生涯悪夢に悩まされ続けたという。

 その明智玉はデウスを信じて受洗する。キリシタンになった。当時、これで玉の宿命が決まらないはずがない。案の定、関ヶ原合戦の戦端が開かれた当夜、玉は38歳で自害(実際には自害ではなく家来に殺させた)する。
 と、いうふうに、ふつうならこう記述する。けれども三浦綾子は、そうはこの物語を書かなかった。玉は、みずからキリシタンとしての第4の、神に導かれる宿命を選んだと書いた。だから、玉がガラシャとして選んだ死は自害ではなく、家老の小笠原少斎に討たせた天礼への昇華だったのだ、と。三浦綾子は自身がクリスチャンと視点で、明治期に通称された細川ガラシャをみつめる視線で、これを描いた。ともっとも、これだけではガラシャ玉の波瀾万丈の宿命の物語はわかるまい。父・明智光秀の謀反はどう玉にかかわったのか。光秀が信長を本能寺に襲ったことは玉にとってどんな意味だったのか。夫の細川忠興は玉をどう見ていたのか。キリシタンたち、たとえば三木パウロや高山右近はどんな役回りだったのか。とかく細川ガラシャという通称される人物視点だけでは、実在というものが遮断され、明智玉が自らで不在の人となる、その周辺の時間を説明しないとわからないことが多すぎる。

三浦綾子 細川ガラシャ夫人 三浦綾子著書「細川ガラシャ夫人」

三浦綾子 三浦綾子

 しかし最初に述べておくべきことは、玉は夫の細川忠興には決意を秘めてキリシタンに走っても、父の光秀に背いたことはなかったということである。
 明智は美濃の可児あるいは恵那に居城をもつ土岐一族の一門で、水色桔梗の紋で知られる。ただし光秀の青年期に明智家は急成長しつつあった斎藤道三一族の勢力に押され、光秀はいったん越前の朝倉義景に仕えた。玉が生まれたのはその越前でのこと、永禄6年(1563)だった。三女である(ただしこの場合、長女と次女は養女である)。ちなみに伊東マンショは、その6年後に生まれている。
 明智玉の生まれた、この年は桶狭間の合戦の年でもあって、今川義元が敗死する。このころまでの明智光秀は不遇だったといってよい。玉が5歳のときに、やっと光秀は信長に重用された。その光秀と信長の関係にはいろいろ複雑なところがある。なにしろ主君(信長)殺しの犯人なのだから、複雑な関係があったと想定できるだろうが、それがなまなかではなかった。なかで一番有名な関係は、光秀の叔母が斎藤道三に嫁いでいたこと、道三と叔母のあいだに生まれた濃姫が信長に嫁いで、やがて正室となったことである。こう書いただけでは、まだ解りにくいだろうが、この関係だけでも光秀は信長の掌中に入らざるをえない。しかも義理の叔父となった道三を、信長は駆逐した。
 それだけではない。光秀はことごとく信長に翻弄された。それでついに謀反をおこしたということになっている。しかし、必ずしもそれだけの理由で光秀が「敵は本能寺」と決断したかどうか、疑問が残る。三浦綾子もこの小説の3分の1ほどをつかって、その疑問を静かに投げかけた。

 それにしても、明智光秀ほど評価が定まらない武将はいない。主君に謀反をおこしたために逆臣のレッテルを貼られ、「三日天下」しかとれなかった戦略戦術家としても、まったく計画性がなかったかのように思われてきたのだが、日本史上、そんな謀反者はザラにいたし、そういう連中はたいてい計画性がなく破滅した。うまく立ち回れたのは尊氏や家康くらいのものなのに、そんななか、なぜか、光秀ばかりが必要に嫌われている。

 その一方で、光秀には秀吉の「中国大返し」のあと、山崎で農民の槍に突き殺されたのではなく、辛くも逃亡して生き延びたという説が早くからつきまとってきた。落ちのびて姿を変えて怪僧天海として活躍したというのは半村良が『産霊山秘録』に採用した突飛な話だし、これも半村が好んだのだが、坂本龍馬が明智一族の血を引いていたという一部の地方文書から、きっと光秀は土佐にまで流れていったのだという説もある。そもそも光秀は本能寺に信長を討ってはいないというさらに突飛な説も、八切止夫(やぎり とめお)をはじめいくつもあらわれた。これは光秀が本能寺に着く前に、信長はすでに別の"犯人"に包囲され、自害していたというものだ。

 最近の研究では、静岡大学の小和田哲男がそういう説なのだが、光秀が逆臣や謀反人扱いをうけたのはほんのちょっとした"差"によるもので、ごくわずかに時計の針が変わっていたら、秀吉以下、何人もが信長を殺していた逆賊になっていただろうというのが定説になっている。
 好き嫌いで語れば、漱太郎は光秀を描いた小説では藤沢周平の『逆軍の旗』が好きなのだが、そこでも光秀は秀吉との対決のために「お主殺し」をひらめいたというふうになっている。秀吉が光秀との争いに勝っていれば、秀吉こそが信長を殺していたということが暗示されている。ちなみに藤沢周平は、戦国武将のなかでは明智光秀に最も惹かれてきた、と書いていた。同情を根拠に引き込むのでは、やはりこれも小説である。

 明智玉という女性は、そういう毀誉褒貶定まらぬ光秀の娘なのである。たえず時代の波頭に振りまわされ、砂に足をとられ、そのつど天空を仰いで踏みとどまった。三浦の小説では玉がキリシタンに惹かれる経緯に多くのページを割いているのだが、むろんそこにはいくつもの伏線と経緯があった。

 6歳のときに信長がルイス・フロイスを引見した。7歳のときに父が京都奉行になった。光秀が暇にまかせて開いていた軍学塾の評判を信長が聞いて、登用したためだ。けれども光秀はこの職には満足していない。光秀はある事情で知り合った年上の細川藤孝(幽斎)から将軍足利義昭を紹介されて、そのころはむしろ将軍のほうに敬意を払っていた。
 ところが藤孝が信長の配下になってからは、信長の言うことを聞くようになり、坂本城に入った。信長は楽市楽座のあと、この坂本城を拠点に比叡全山を焼く。やむなく光秀はこれを扶けたが、一方で僧侶を逃がしていたとも言われる。のちに光秀が天海だったという風聞が流布したのは、このときの光秀の配慮を比叡の僧がおぼえていて流布したのだという説が起因する。
 信長はそういう巧妙に立ち回る光秀の使い道を考えていた。悪用法といってよい。秀吉と競わせるようにも仕向けた。玉が12歳のときは、藤孝(幽斎)の息子与一郎と玉が同じ歳なのを知って、「おまえたちは一緒になるとよい」と言った。二人に言ったのではなく、父親の幽斎にそう諭したのだ。それがその通りになった。与一郎は青年忠興として玉を迎えた。天正6年(1578)、互いに16歳である。信長は二人の結びの神などではなく、藤孝の子を光秀と縁組させておけば、操りにくい光秀を動かすときに細川家を使えばよいと見抜いていたのである。細川が強い側に靡く一族であることをとっくに信長は知り抜いていたのである。

勝竜寺城 勝竜寺城の碑

  細川家に嫁いだ玉が安穏な結婚生活をおくれたわけがない。忠興は幽斎藤孝とともに石山本願寺攻めに出陣したままに、執拗で頑強な抵抗に手こずっていたのだから、ほとんど留守がちだった。玉は最初の最初から一人で生きることを強いられた新妻だった。

 そこであるとき紹介された清原佳代とちょくちょく会うようになっていく。清原家は細川家の親戚にあたる高位の公家で、佳代はその息女である。玉がデウスを知るのはこの佳代からのことだった。
 清原枝賢(しげかた)は、とても興味深い公家である。唯一神道の吉田兼倶の曾孫にあたっていて、和漢に通じる宮内卿でありながら、前代未聞のキリシタン公家になった。そのきっかけというのが、松永久秀がキリシタンを封じ込めんとして画策した法華宗徒と宣教師ガスパル・ヴィレラとの宗論に立ち会って、かえってキリシタンに感動してしまったというものだ。この前後に高山右近の父親の飛騨守もヴィレラの宗論に参加して感化をうけ、高山ダリオとして入信していた。これらは、この時代の激しい価値観の変動を象徴する。
 結局、その父親の感化が娘におよび、清原佳代は清原マリアとなり、そのマリアがやがて玉の侍女として仕えて、玉がついにガラシャ(西洋の宣教師視点では細川ガラシャ夫人)になったのである。清原家はそういう扇が閉じて開いていく役割をもっていた。

 ちなみに松永久秀は名器「平蜘蛛の釜」を所持していた茶の湯大名としても有名だが、それを欲しがった信長に逆らい、信長に烈火のごとく怒られて、釜を城から落として自害した。当時は、こういう男も目白押しの世の中だった。

 ここから先、光秀が本能寺に信長を討つまでに数年しかたたない。また、この間、キリシタンの動向が有為転変するのもまことに慌ただしいほどに劇的である。その劇的な事情をつぶさに知ってみることは、日本史をまったく新しい観点から読みかえるには急務のことであろうと思うのだが、そこは追い追い、ここではそのことを書くにはコラムの紙に暇がない。なかで、三浦綾子の小説ではとりわけ高山右近が重視されている。
 安土桃山期のキリシタンの動きほど、日本史をまったく新たな光で浮上させてくれる変遷史はない。とくに九州の大伴宗麟や大村純忠の西国の動向が先行して目立つのであるけれど、天正遣欧少年使節団の動向も特異なのであるけれど、それをべつにすれば畿内の動きこそさまざまな可能性に満ちて大きく、もしそのまま日本の中央部にキリスト教が定着していたら近世日本は見ちがえるほどに変わっていて、たとえばルネサンスとほぼ同じほどの稀有の充実がおこっていただろうと思わせる。それほどに、畿内キリシタンのあいだではありとあらゆる西洋による"実験"がめまぐるしく動いていた。その中心に光となり陰となっていたのが高山右近だったのである。

マニラ時代(最晩年)の高山右近 マニラ時代(最晩年)の高山右近

 すでに右近の父親がヴィレラによって高山ダリオになっていた。当時は大和沢城の城主だった。この城に宣教師ロレンソを招いたとき、高山一族はことごとく受洗した。右近が12歳のときのこと、これが高山ジュスト右近の誕生である。
 右近はその後、父が高槻領主和田惟政の家老となると摂津に赴き、そこから京都布教に精を出し、教会やセミナリヨの建設に尽力する。天正3年の三層に聳えた輝く聖堂いわゆる南蛮寺は、フロイスとオルガンティーノの指導にもとづいて、ほとんど右近がプロジェクト・マネージャー役を引き受けて完成したものだった。
 当然、玉は右近の噂を聞いている。憧れていた。ところが信長が光秀に荒木村重を攻めさせたとき、右近が信長側についたと聞かされて気が動顛した。玉の姉が荒木の嫡男に嫁いでいて、それを父の光秀が攻めていることと、それに右近が加担しているかのように見えたからである。が、右近はやむなくそのような行動をとっただけで、やがて信長がそのような右近に心証をよくすると、ただちにキリシタン布教の拡張を願い出ることに奔走した。
 玉はそうした右近の心映えを知り、しだいに自分も右近のような覚悟をもつことを決意しはじめるというのが、三浦の、この小説の伏線になっている。これは史実の実在を深く探索した解釈である。
 右近のその後も劇的であった。
 本能寺に信長が討たれると、明智方に加担していた多くの関係者が討たれるか左遷されるのであるが、そのなかに三箇アントニオや三木パウロもいて、これらがことごとく殉教した。難を免れた右近は秀吉によって大坂に移された教会やセミナリヨをいっとき引き受けるものの、突然のバテレン追放令によって明石に転封され、教会も破壊される。このとき右近を呼んだのが加賀の前田利家である。ジュスト右近は能登に迎えられ、ここにキリシタン小国をつくろうとする。これが慶長元年前後のことであった。

 利家はそのような右近をおもしろがって、さらに能登に2館、金沢に1館の聖堂を建てさせた。内藤ジョアンが右近のもとではたらいた。しかし家康によるキリシタン全国迫害がはじまると、能登・金沢のキリシタンたちは七尾の本行寺に隠れ、右近もついにマニラに流される。その後の右近がどうなったかは、もはやこのコラムの主題をはるかに超えてくる。詳しくは、これまた傑作のキリシタン小説である加賀乙彦の『高山右近』を読まれるとよい。これは泣かずにはいられない。

 これでは話が先にやや進みすぎたので書きにくくなってしまったが、では、明智玉であるガラシャがどうなったかであるか、それを手短かにご紹介しておく。

味土野女城・細川ガラシャ隠棲の地 味土野女城・明智玉隠棲の地

 二度にわたって寂寞の地に居することを強いられた。最初は丹後宮津に、次には丹後の味土野(みとの)に、である。最初の宮津は細川忠興の居城になったのだから左遷でも幽閉でもないが、実際にはそれに近かった。味土野(現在の京丹後市弥栄町須川付近)のときはまさに幽閉だった。父が信長を討ったことを咎められての、夫と別居しての居宅幽閉である。忠興は秀吉の手前、これを受容した。しかし先にも書いておいたように、細川一族はこのような延命策をとるのは得意だったのである。
 2年後、玉はやっと大坂の忠興のもとに戻ることが許されるのだが、もう夫のことなど何も信用していない。忠興は玉の留守中に側室に子を産ませていた。

 玉は決断をする。清原マリアの先達でバテレン禁断の『こんてむつすむん地』(キリストにならいて)を読み、これをすべて暗記すると、天正15年(1587)に入信して、セスペデス神父とコスメ修士のもと、晴れて「明智ガラシャ玉」になった。

細川ガラシャ 明智ガラシャ玉

 これを聞いた忠興は驚いて、キリシタン信仰を捨てることをガラシャに迫るが、玉は動じない。そのうち忠興は秀吉の暴挙に加わって朝鮮に渡り戦場を駆けめぐる。どちらにせよ玉は放っておかれたのだ。忠興は2千余の首を挙げて帰ってきた。そんなことが玉に快挙に見えるはずはない。
 その後に秀吉が死ぬと、天下は大荒れとなり、戦国の世を駆け抜けたすべての武将が敵味方に分かれることになった。五大老の一人の家康と五奉行の一人の石田三成が眦(まなじり)を決して対立した。このとき三成が前田利家に近づき、家康が利家と対立した。細川家は密かに家康についた。利家のほうには高山右近の動静がある。玉は固唾をのんで成り行きを見守りつつも、信仰を深めていた。

 ここで三成が軽挙に走った。細川忠興に家康暗殺の計画を相談したのである。慶長4年(1599)、利家が死んだ。事態は家康のほうに動く。加藤清正・福島正則・黒田長政らは三成を討つ気になっていた。これに忠興も加担した。家康はこのような翻意をよろこばない。家康は細川を討つつもりになった。そこで細川家は懸命の釈明に出る。人質も差し出した。翌年、家康は細川を許すかわりに、忠興に三成征討を命じた。

 関ヶ原の一戦の裏で何がやりとりされたかは、想像を絶する。その大半がフェイントと裏切りと寝返りと虚偽で塗りつくされている。
 なかでも忠興・三成の関係が玉の生死を決めた。それがまた関ヶ原の運命を左右した。忠興は玉を残して出陣するのだが、これを見て三成が最初に打った手が、忠興を制して細川家を締めあげれば家康が折れてくるという勘違いの読みだったのである。三成は細川が寝返りすると思いこんだのだ。
 しかし三成はそれを勘違いとは思わずに、そのためには早々に加藤清正・福島正則・黒田長政の妻子を人質にとることを決めた。そんなことしか思いつかなかったのではなく、この時代はそんなことしか戦乱の発端にならなかったのだ。その人質の重要な候補に細川邸に残るガラシャ玉がいた。
 こうして三成が家康打倒の兵を挙げたのが慶長5年の7月17日である。三成挙兵の報を知ると、ガラシャ玉は家人に申し渡して、居宅から一歩も動かずに死を待つように言い渡した。それから数刻後、三成の使者が玉のもとにやってきた。玉は一人部屋に入ると白無垢を着て、天主デウスに祈りを捧げた。そして、「明智の一族はすべて非業の死を遂げる」とそっと加えた。
 つづいて家来を呼ぶと火を放たせ、家中に火薬を撒かせた。みずから絹をかぶり、そのまま轟音とともに果てた。これは関ヶ原の戦端が開かれた7月17日の夜のことである。38歳の昇天だった。
 キリシタンは自害を禁じていた。それを玉は守った。その日が必ずくると信じて――。この辺りを三浦綾子は苦々しく書いている。「玉の死は大きく徳川方の士気を鼓舞し、結束を固めることになった。天下分け目の関ヶ原の合戦において、徳川方を勝利に導いた一因に、実にこの玉の死があった」というふうに。
 そして、さらにこう書き継いで小説を閉じた。「逆臣光秀の娘という恥を見事に雪(そそ)ぎ、立派な最期を遂げた玉のことを思うと、わたしはふっと、あのホーソンの『緋文字』の女主人公が浮かぶ。罪ある女としての印の緋文字を終生胸につけなければならなかったその女主人公は、信仰と善行とによってその緋文字を罪のしるしから尊敬の印に変えてしまったことを思う」と。

大阪市東淀川区の崇禅寺にあるガラシャの墓 崇禅寺のガラシャの墓(大阪市東淀川区)

 ここに紹介した三浦綾子の作品『細川ガラシャ夫人』はだいたい新潮文庫で読める。同じく新潮文庫に『千利休とその妻たち』がある。高山右近が利休七哲に数えられる経緯はこちらのほうに詳しい。『母』は角川文庫にある。明智光秀に関する文献は少なくないが、ここでは小和田哲男『明智光秀』、藤沢周平『逆軍の旗』、桜田晋也『明智光秀』全3冊、それに八切止夫の『信長殺しは光秀ではない』というあからさますぎるような本もある。あるいは加賀乙彦『高山右近』は傑作であり、右近はマニラで客死した。

 ここにはまったく言及できなかったのだが、実は細川藤孝がどのように戦国の世を切り抜け、利休に称賛される数寄の茶人となったのかということは、多岐にわたる謎と含蓄と虚実皮膜を含んでいて、興味がつきない。そこなら、たとえば桑田忠親の『細川幽斎』などにあたられるとよい。さらに、気になっていたものに安部龍太郎の『関ヶ原連判状』というとんでもない仮説を吐露した時代小説がある。連歌と和歌の「古今伝授」の切り紙が関ヶ原の決戦の決定的な鍵と鍵穴になっていたというお話だ。ここでは関ヶ原はガラシャをとりまく幽斎・忠興・三成・家康・利家のからみで発端し、あっというまに収束していったということになる。すべてが明智光秀の非業に結びついていたというものだ。

 しかしこれらは実に小説である。あくまでも小説なのであるから、歴史の正体を実証しようとさせる性質のモノではない。特に日本の中世史の南北朝以降からの戦国期をまたぐ間の正史資料というものは混乱に埋もれて、その多くが伝説めいている。それは応仁の乱によって、はじまる下克上の、相当の間、焼失した奈良の大仏殿が不在であったことにも証明されるように、補うにはじつに数多くの資料が国内に不在なのである。

 そうであるため、この期間の資料を当時のイエズス会に求めると、明智玉の動向の一旦を如実に指し示すことになる。天正14年(1586年)に、玉には次男の忠利(幼名・光千代)が生まれたが、病弱のため、玉は日頃から心配していた。天正15年(1587年)2月11日(3月19日)、夫の忠興が九州へ出陣すると(九州の役)、彼女は彼岸の時期である事を利用し、侍女数人に囲まれて、身を隠しつつ教会に行った。教会ではそのとき復活祭の説教を行っているところであった。玉は日本人のコスメ修道士にいろいろな質問をする。コスメ修道士は後に「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と述べる。玉はその場で洗礼を受ける事を望んだが、教会側は彼女が誰なのか分からず、彼女の身なりなどから高い身分である事が察せられたので、洗礼は見合わされた。細川邸の人間たちは侍女の帰りが遅いことから玉が外出した事に気づき、教会まで迎えにやってきて、駕籠で玉を連れ帰った。教会は1人の若者にこれを尾行させ、彼女が細川家の奥方であることを知った。

 その後、再び外出できる見込みは全く無かったので、玉は洗礼を受けないまま、侍女たちを通じた教会とのやりとりや、教会から送られた書物を読むことによって信仰に励んでいる。この期間に清原マリアをはじめとした侍女たちを教会に向かわせて洗礼を受けさせていた。しかし九州にいる秀吉がバテレン追放令を出したことを知ると、玉は宣教師たちが九州に行く前に、大坂に滞在していたイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいを得て、自邸で清原マリアから密かに洗礼を受け、ガラシャ、つまりグレーシア(Gratia、ラテン語で恩寵・神の恵みの意)という洗礼名を受けた。それまで、彼女は気位が高く怒りやすかったが、キリストの教えを知ってからは謙虚で忍耐強く穏やかになったという。しかしバテレン追放令が発布されていたこともあり、彼女は夫・忠興にも改宗したことを告げなかった。イエズス会の資料からはこのような行動がよみとれる。

 また、九州から帰ってきた細川忠興は5人の側室を持つと言い出すなど、ガラシャに対して辛く接するようになる。名を変えたガラシャ玉は「夫と別れたい」と宣教師に打ち明けた。当時のカトリックでは離婚は基本的に認めていなかったので、宣教師は「誘惑に負けてはならない」「困難に立ち向かってこそ、あなたの幸福は磨かれる」と説き、思いとどまるよう説得されるもした。そうして関ヶ原の戦いが勃発する直前の、慶長5年(1600年)7月16日(8月24日)、夫忠興が徳川方につき上杉討伐のため不在となった隙に、大坂玉造の細川屋敷にいた玉を、西軍の石田三成は人質に取ろうとしたが、ガラシャはそれを拒絶した。その翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませると、ガラシャは家老の小笠原秀清(少斎)に槍で部屋の外から胸を貫かせて死んだ(首を打たせた”の記述もある)。これは、キリスト教では自殺は大罪であり、天国へは行けないという教えがあったためだ。その38歳の、辞世の歌として、「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」と詠んだとある。それを見届け、この後、小笠原はガラシャの遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自らも自刃する。このことを、細川家の先祖由来附には「大阪越中屋敷へ、御奉行衆より人質の儀、達て被申ニ付、女房衆自害、家へ火をかけ、小笠原少斉、稲富伊賀守、河喜多岩見、両三人腹を切り申旨候事」と記されている。したがって辞世の歌も灰塵に化したであろうし、そもそも辞世は遺されたのであろうか、これは伝説に過ぎないモノと解釈した方がよかろう。ガラシャの死の数時間後に、神父グネッキ・ソルディ・オルガンティノは細川屋敷の焼け跡を訪れている。グレーシアの骨を拾い、堺にあったキリシタン墓地に葬った。細川忠興はそのような玉の死を悲しみ、慶長6年(1601年)にオルガンティノにガラシャの教会葬を依頼して葬儀にも参列した。後に遺骨は大坂の崇禅寺へ改葬される。その他にも、京都大徳寺塔中高桐院や、肥後熊本の泰勝寺等、何箇所かガラシャの墓所とされるものがあるが、これらの多くは供養の墓碑である。

細川ガラシャ辞世 明智ガラシャ玉の辞世

 なお細川屋敷を三成の兵に囲まれた際に、玉であるガラシャは世子・細川忠隆の正室で前田利家の娘・千世に逃げるように勧め、千世は姉・豪姫の住む隣の宇喜多屋敷に逃れた。しかし、これに激怒した忠興は忠隆に千世との離縁を命じ、反発した忠隆を勘当廃嫡してしまった。しかし忠隆の子孫はのちに細川一門家臣・長岡内膳家〔別名:細川内膳家〕となり、明治期に細川姓へ復している。

 こうした明智ガラシャ玉をモデルにした戯曲が作られた。それが「気丈な貴婦人(グラーシャ)」である。初演は神聖ローマ帝国のエレオノーレ・マグダレーネ皇后の聖名祝日(7月26日)の祝いとして、1698年7月31日にイエズス会の劇場でオペラとして発表された。脚本は当時ハプスブルグ家が信仰していたイエズス会の校長アドルフが書き、ヨハン・ベルン・シュタウトによって作曲がなされる。これが、日本人が主役として構成された史上初のオペラである。
 ここでガラシャの死は殉教と設定された。夫である蒙昧かつ野蛮な君主の悪逆非道に耐えながらも信仰を貫き、最後は命を落として暴君を改心させたという解釈である。当時のヨーロッパでは「武士道」と言う観念や武家社会の礼法が理解されていなかった為に、この戯曲はオーストリア・ハプスブルク家の姫君たちに特に好まれたとされる。戯曲の内容に日本人・明智玉としての実在感はなく、西洋主義に構成されている。彼女たちは政治的な理由で他国に嫁がされる細川ガラシャを自分たちの身の上に重ね、それでも自らの信仰を貫いた気高さに感銘を受けたと伝えられる。またこの戯曲に、マリア・テレジア、マリー・アントワネット、エリーザベト皇后たちも尊敬と感銘を受け、その生き方に深く影響を受けたとされている。

マリア・テレジア  マリア・テレジア

マリー・アントワネットとマリー・テレーズ王 マリー・アントワネットとマリー・テレーズ王

 これとは対照に、創作人形作家の辻村寿三郎の世界にあるガラシャには、人形匠から捉えた中世の世相感を表現しようとする人魂をも哀れに漲らせている。これは邦人がみせる人形を媒体とした明智玉の情念の揺らぎなのであろうか。
以上を前編の段として閉じることにするが、明智玉が生涯を享けた38年という歳月をひもときながら洋と邦の視点を対比しなければ中世という時代の正体は看取れない。後編においては、その暗部にさらに照準させてご紹介することにする。

創作人形作家辻村寿三郎のガラシャ 創作人形作家・辻村寿三郎の「ガラシャ」


                                             三馬 漱太郎
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まとめtyaiました【聖マンショ伝「帰らざる丘」・No.0032】

日本中世史の実像① 前編細川家系譜における天正の時間。その光と影。 松井康之 日本の中世史における一人のキーパーソンとして、松井康之(まつい やすゆき)という人物が実在

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立体言語学博士
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