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聖マンショ伝「帰らざる丘」・No.0031

立体言語学から導く「中世の肖像」④後編

(バロック)サンタ・マリア・デラ・ヴィットリア教会のファザード 
サンタ・マリア・デラ・ヴィットリア教会のファザード(バロック様式)


 バロック建築(Baroque Architecture)は、1590年頃から盛んになった建築様式である。建築そのものだけではなく、彫刻や絵画を含めた様々な芸術活動によって空間を構成し、複雑さや多様性を示すことを特徴とする。特に内部空間の複雑な構成は、他の建築様式とは際立った特色となっていた。バロックという語源はポルトガル語のBarocco(歪んだ真珠)といわれ、元々は一部に見られるグロテスクなまでに装飾過剰で大仰な建築に対する蔑称であったのだが、のちに広く17・18世紀の美術・建築に見られる傾向を指す様式概念として用いられるようになった。
 そうしたバロック建築は、彫刻や絵画、家具などの諸芸術が一体となった総合芸術となっていることを特徴とする。現代的な視点では、彫刻や家具といったものは建築とはあまり関わりなく存在しているが、バロック建築において、これらは建築とは不可分の要素であった。このような芸術活動には、莫大な知識の集積と多くの芸術家を抱えられるだけの資本が必要であったが、これを支えたのが世俗化された教会権力と絶対王政であった。
 そのバロック建築は、宗教改革によって低下したカトリック教会の政治的権威を芸術活動によって補おうとしたシクストゥス5世や、パウルス5世などの活動により、16世紀末から17世紀初期にかけてローマで始まった。やがてイタリアでのバロック建築は衰退するが、絶対王政を敷く大国フランス王国に継承され、太陽王ルイ14世のもとで絶頂期を迎えた。バロック建築は、さらに当時の強国であったオーストリア大公国、プロイセン王国、ロシア帝国などにも波及し、ボヘミアでは独特なバロック建築を生み出す。しかし、他に比べ王権力が弱いイギリスなどではフランスやオーストリアのようなバロック建築はあまり取り入れられなかった。
 またバロック建築は彫刻や調度品が建築の一部を形成するため装飾に対する嗜好性が見られ、後期にはサロン文化の隆盛に伴って、室内装飾に重点が置かれるロココと呼ばれる傾向を示すようになる。しかし、18世紀になるとロココの繊細で洒落たデザインは軽薄で軟弱なものと批判されるようになり、フランスでは新古典主義建築の勃興とともに衰えることになる。しかし19世紀の様式氾濫期になると、このバロック建築が国家建築を飾るのにふさわしい様式として再び復興した。そのような(ネオ・バロック)も、また近代建築運動の隆盛によって終息することになる。
 それでは伊東マンショが体験したローマと北イタリアの初期バロック建築について考察してみることにする。

サン・ピエトロ大聖堂2 サン・ピエトロ大聖堂

 バロック建築の着想は、一般にミケランジェロの設計したサン・ピエトロ大聖堂の荘厳性や崇高性のなかにはじめて現れると考えられているが、そのデザインは、ほかならぬ彼自身のマニエリスム的な厳格さの中に埋没し、それ以上の展開を見せることはなかった。1520年代のミケランジェロやラファエロ・サンティらの芸術活動のなかに、バロックへの萌芽が見られることはしばしばこれを指摘している。

サン・ピエトロ大聖堂

ミケランジェロ ミケランジェロ

 17世紀に入ると、武力をも辞さなかった対抗改革の宗教的厳格さは退潮し、異端審問などはローマではほとんど行われなくなった。政治的な重要性が低下するにつれて、芸術によって信者をつなぎ止めるため、ローマ教皇や枢機卿は壮大な教会や宮殿を建設することに熱心なパトロンとなった。バロック建築は 1590年代のローマに始まり、こうした風潮が世間を支配するようになる1630年から1670年にかけて開花していった。

 カルロ・マデルノは、1606年にサン・ピエトロ大聖堂の身廊部分とファサードを設計し、1626年にそれを完成するまで同聖堂の主任建築家として、そしてローマの主導的な建築家として活躍した。彼は最初の本格的なバロック建築としてパラッツォ・マッティを設計(1598年)したが、バロック建築史のなかで最も重要なのは、彼が最晩年に設計したパラッツォ・バルベリーニである。北イタリアの別荘に着想を得たプランを持つこの宮殿は、部屋の繋がりも楕円の第二階段もパラーディオの概念に基づくものだが、中庭を持たないH型の平面はそれまでには全く見られない新しい形状であり、後期バロック建築の宮殿建築の発展において重要な意味を持っている。この建築には、ローマ・バロック建築を代表する二人の芸術家、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニとフランチェスコ・ボッロミーニが参加しており、正面ファサードは主にベルニーニが、細部装飾についてはボッロミーニが携わった。

 ジャン・ロレンツォ・ベルニーニは、マデルノ亡き後、ローマの彫刻と建築の第一人者となった。彼はミケランジェロと同じ彫刻家として出発し、絵画を遺し、最も重要な建築を設計し、そしてミケランジェロと並ぶほど重要な芸術家とされる。しかし、両者の芸術的アプローチは全く異なる。ベルニーニは初期の作品では、マルティーノ・ロンギと同じく表現の選択肢を増やし、これを複雑に組み合わせることによって強い印象を与えるようなデザインを用いた。サン・ピエトロ大聖堂内部の天蓋付き祭壇(1624年設計)はこの典型で、ねじれ円柱や相互にかみ合う破風などのダイナミックな構成は、大聖堂内部の広大な空間の中でペテロの墓所を示す効果的な焦点となっている。しかし、これの形態はミケランジロをはじめとするマニエリスム芸術家の好みにはまったく合わないと思われる。
 やがて彼は、建築の空間そのものを意識的に構成するようになる。サン・ピエトロ大聖堂のレッタ広場(正面前の台形の広場)、オブリクァ広場(楕円形の広場)、そしてそれを取り囲む列柱廊にもそれは見られるが、より重要な作品はバチカン宮殿のスカラ・レジアである。そこでは敷地のいびつさを逆に利用し、両壁を収斂することによって空間の奥行きを矯正している。
 フランチェスコ・ボッロミーニは、すでに初期の作品において旧習を無視したバロック建築の独特な空間を生み出した。サン・カッロ・アッレ・クアトロ・フォンターネ聖堂の内部は、サン・ピエトロ大聖堂のドームを支える主柱に収まるほどの非常に小さな空間だが、初期バロック建築の最も重要な空間構成を持っていると言われている。彼の構築した空間は、どのような要素がどのように組み合わされているのか、一見しただけでは判らない。内部空間と外部空間の複雑な合成は彫塑的で、揺れや歪みという言葉によって修飾される。空間を複合・統合して作り上げていくその造形力はベルニーニよりも強烈だが、それゆえにベルニーニは、ボッロミーニの建築を妄想的であると断じた。さらに、彼は代表作となるサンティーヴォ・アッラ・サピエンツァ教会堂の設計に着手し、バロック建築の嗜好する空間を最も説得力のあるかたちで実現させた。ボッロミーニの建築は特殊なものに見えるが、同時に空間を扱う一般解を提示しており、その経験はやがてドイツのバロック建築に引き継がれた。

 ボッロミーニの空間処理方法は、イタリアではその真意をほとんど理解されることのないまま模倣されたが、グァリーノ・グァリーニはボッロミーニの方法をもとに独創的な空間をつくりあげた。ただし、彼の活躍の場はローマでなくてトリノである。また、彼は芸術家であるよりは、修道士、哲学者、そして数学者であった。数学的合理性に基づく空間を複雑に交差させる細部の処理方法は、彼が数学者であることに由来するかもしれないが、それゆえ、彼の建築は直接的な後継者をみなかった。ベルニーニやボッロミーニの造形がローマ的で個性的であるのに対し、サン・ロレンツォ聖堂などグァリーニによる装飾は、やはり個性的ではあるが、よりあか抜けた印象を与える。
 ローマと北イタリアの初期バロック建築は、ベルニーニ、ボッロミーニの後、カルノ・ライナルディ、ピエトロ・ダ・コルトーナによってさらに独創的で多様な造形を形成するが、彼らの底流には常に量塊と彫塑性に対する好みが流れていた。しかし、17世紀末にはイタリアの造形力は衰退し、後期のバロックはフランスの影響を受けた古典的なものに移行する。そして、以後、ローマの芸術的地位は一地方並にまで転落し、イタリアが建築芸術を主導する立場に立つことはなくなるのである。伊東マンショは、この萌芽の時期にイタリアを訪れた。

ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ

 こうした伊東マンショの動向に着目したのが、マンショ没(1612年)の34年後にドイツのライプツィヒで生まれたゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz)であった。

ドイツのライプツィヒ ライプツィヒ(ドイツ)
ドイツのライプツィヒ地図 位置

 彼のことについては②中編Ⅰにて触れたが、その中で彼がカトリックとプロテスタントの統合を構想していたことを述べた。話は少し東郷茂徳のことに飛ぶが、1937年(昭和12年)に彼は駐独大使として再びベルリンへ赴任することになる。この際にはナチスが勃興しており、状況は以前とは一変していた。対外的にはオーストリア、チェコスロバキアなどへ侵攻しつつある状態にあり、ドイツ国内的にはベルリンのシナゴーグがナチスによって焼き討ちされるなど、ユダヤ人迫害が顕在化しつつあった。元々ドイツ文学に深く傾倒し、ドイツ文化や建築様式に深い理解があった東郷はナチスへの嫌悪を感じざるを得ず、ナチスと手を結びたい陸軍の意向を受けていたベルリン駐在陸軍武官大島浩や、日本と手を結びたいナチスの外交担当ヨアヒム・フォン・リッベントロップと対立し、駐独大使を罷免されることになる。そうした心痛した帰国間際に東郷は親交のあったカール・ユーハイム(日本におけるバームクーヘンの生みの親)からの紹介で一冊の古書を入手した。

カール・ユーハイ カール・ユーハイム

 1937年当時のカール・ユーハイムだが、妻エリーゼはユーハイムの振る舞いに尋常でないものを感じ、ユーハイムを精神病院に入院させることにする。しかし当のユーハイムには病識がなく、病院からの脱走を繰り返すなど問題行動を繰り返したため、ドイツに帰国させて治療を受けさせることにした。東郷が古書を入手したのはこの時期である。東郷はその後のユーハイムへの回想に触れて「数年後ユーハイムは病から回復し日本へ戻ったものの明るかった性格は一変し、以前のように働くこともできなくなっていた。さらに1941年に開戦した大東亜戦争の戦況が悪化するにつれ、物資の不足により菓子を作ろうにも作ることができなくなった。1944年には店舗の賃貸契約を打ち切り、工場だけを稼働させることにした(工場ではドイツ海軍の兵士に支給するパンが焼かれた)」と独房の外伝に記している。その東郷は、1938年(昭和13年)に駐ソ大使として赴任した。それ以前の状況としては、1936年(昭和11年)に締結された日独防共協定の影響で日ソ関係は悪化しており、前任の重光葵が駐ソ大使として赴任している間ついに好転することはなかった。その後、東郷と対するヴャチェスラフ・モロトフソビエト外相とは、日ソ漁業協商やノモンハン事件勃発後の交渉を通じていくうちに互いを認めあう関係が構築され、東郷は「日本の国益を熱心に主張した外交官」として高く評価される。こうした状況の好転を踏まえ、東郷は悪化するアメリカとの関係改善、および泥沼化する日中戦争(支那事変)の打開のため、日本側はソビエトの蒋介石政権への援助停止、ロシア側は日本側の北樺太権益の放棄を条件とした日ソ中立条約の交渉が開始され、ほぼまとまりつつあった。そんな多忙極まる日々にあっても、ドイツで得た奇遇ともいえる古書を愛読したという。

中世の古書 
東郷が入手した「ライプニッツのノート」・・「神学と日本人」Theologie und der japanische


 その古書こそが、ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツの手記として書き遺された「神学と日本人」Theologie und der japanischeである。これを東郷は「ライプニッツのノート」Leibniz-Notizenと呼んでいる。これはライプニッツが自然神学を起草するための資料でもあった。おそらくこれを東郷がノートと呼称したように、出版された古書の類(たぐい)ではない。書き古された分厚い束のノートなのである。

 その冒頭には「古い革袋には、新しい酒は入れられる」Um die alte Ledertasche, wird der neue Wein eingegangen.と断定し、バイブル福音の断食の問答についてライプニッツの所信が述べられていた。
 この断食についての問答であるが、《そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。だれも、織りたての布切れを取って、古い服に継ぎをあてたりはしない。新しい布きれが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする》と「マタイによる福音書」にはある。
 ライプニッツはカトリックとプロテスタントの統合を構想する中で『イエスのひとびとへの語りかけというものは、一部族宗教に過ぎないユダヤ教という枠組みを乗り越え、世界宗教(普遍宗教)への跳躍というひとつの挑戦だったから、世界宗教「として」のキリスト教が誕生した。新しいパラダイムは、古いパラダイムに準拠する。だから旧約と新約で聖書となる。しかし、摂受されるだけと見てしまうとそこが盲点となる。準拠は脱構築の出発点にしかすぎず、跳躍によってそれが完成されると見て取るしかはない。信仰の新たなパラダイムは、常に古いほうを駆逐する』と記している。
 ライプニッツはこうした統合の構想への過程に伊東マンショを介在させた。現在からの観点では、天正遣欧少年使節のバチカン訪問はイエズス会のトリックが明らかであるが、ライプニッツはすでに当時においてそう解析を終えている。そのライプニッツにおいて伊東マンショという存在は新しいワインなのであった。

ワイングラス

 モナドロジーの立場に立つライプニッツからすれば、認識は主体と客体の間に生じる作用ではなく、したがって直観でも経験でもない。自己の思想をロックの思想と比較しながら明確にする試みとして、大著「人間知性新論」を執筆したが、脱稿直後にロックが亡くなった(1704年)ため公刊しなかった。ライプニッツの認識論には、無意識思想の先取りもみられる。また、フッサールやハイデガーなどを初めとする現象学の研究者から注目を集め様々に言及されている。さらに彼は、20世紀後半に至って、「必然的真理とは全ての可能世界において真となるような真理のことである」といった可能世界意味論に基づく様相理解の先駆者と見なされるようになった。このような考え方は、ルドルフ・カルナップの『意味と必然性』を嚆矢とし、その後アーヴィン・プランティンガやデイヴィッド・ルイスなどの影響もあり、ライプニッツの様相概念についての通説として定着した感がある。その他、最近では、最晩年(1714年)に著した『中国自然神学論』が注目を集め、比較思想の観点からも(洋の東西を問わず)研究が進められつつあるのだが、こうした観点の初めに伊東マンショの実在をライプニッツは研究したことになる。そのライプニッツは、同時代の著名な知識人とはほぼすべて交わったと考えてもよいくらい活動的であった。ライプニッツが生涯に書簡を交し合った相手は1000人を優に超える。それらの王侯貴族から全くの平民にまで及んだ書簡相手の内でも特に重要と目されている人物としては、『形而上学叙説』をめぐって書簡を交わしたアントワーヌ・アルノー、デカルト主義者の自然学者にしてピエール・ベールの友人としても知られるブルヒャー・デ・フォルダー、晩年の10年間にわたり130通に及ぶ書簡をやり取りしたイエズス会神父のバルトロマイウス・デ・ボス(ライプニッツはルター派である)、最晩年の2年間、アイザック・ニュートンの自然学及び哲学との全面対決の場ともなったサミュエル・クラーク(ニュートンの弟子であり友人でもあった)などがいる。東郷が獄中でも手にし続けた「ライプニッツのノート」Leibniz-Notizenには、そのバルトロマイウス・デ・ボス神父から得た伊東マンショに関する情報が収められている。

 ライプニッツは三十年戦争の後遺症がまだ残っていたドイツという後進国出身の悲哀を味わらなければならなかった。父はライプツィヒ大学の哲学教授で彼に幼いころから読書を教え、彼も14歳で同大学に入学し、2年後に卒業するのだが、当時のドイツの大学はイギリスやフランスに比べて立ち遅れていた。従ってライプニッツの理論を正当に理解・評価できる人はあまりいなかった。ライプニッツが外交顧問、図書館長として仕えたハノーファー選帝侯エルンスト・アウグスト妃ゾフィーと、その娘ゾフィー・シャルロッテ(プロイセン王フリードリヒ1世妃)と、エルンスト・アウグストとゾフィーの孫ゲオルク・アウグスト(後のイギリス王ジョージ2世)の妃のキャロライン(ドイツ語名はカロリーネ・フォン・アンスバッハ)らは、この哲学者を尊敬した。1700年に王妃ゾフィーの招きでベルリンに行き科学アカデミーの創設に参加して、初代総裁に就任している。しかし5年後に王妃ゾフィーが肺炎で死去すると、ベルリンはライプニッツにとって居心地のいい場所ではなくなってしまった。ハノーファーでも1714年に選帝侯妃ゾフィーが死去し、息子の選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒが同年にイギリス王ジョージ1世となってイギリス国王を兼任すると、キャロラインも皇太子妃となってイギリスに移住した。ジョージ1世はライプニッツを煙たく思っていたのでイギリスに連れて行くことはせず、ハノーファーに残された。ライプニッツは政治的な支援者を失い、周囲の空気は冷たくなった。晩年のライプニッツは侯家の家史編纂というつまらない仕事に携わり、他には自分を理解してくれる外国の学者や友人とひろく文通をかわすだけであった。こうした心情もあり、その文通者は国内外あわせて千人を超えていたのである。

 東郷茂徳がそのようなライプニッツの遣る瀬無い心情を自身の体験や境遇と重ね合わせながら「ライプニッツのノート」Leibniz-Notizenを肌身離さず愛読し続けたことは、その妻エディー(東郷エヂ)が遺した日記によって吐露されている。またその日記からは「東郷茂徳がライプニッツのノートを基に、伊東マンショの生涯を外交官の視点で辿り行こうする」東郷の果てしない願望も垣間見える。そんな東郷も1948年(昭和23年)11月4日、軍事裁判は東郷の行為を「欧亜局長時代から戦争への共同謀議に参画して、外交交渉の面で戦争開始を助けて欺瞞工作を行って、開戦後も職に留まって戦争遂行に尽力した」と認定して有罪とし、禁錮20年の判決を下された。東郷は後に「法の遡及」を行い、「敗戦国を戦勝国が裁く」というこの裁判を強く批判する一方で、国際社会が法的枠組みによって戦争を回避する仕組みの必要性があり、新しい日本国憲法第9条がその流れに結びつく第一歩になることへの期待を吐露している。こうした眼差しの先に日本の中世の肖像として伊東マンショの姿が東郷の脳裡にはあった。東郷は未曾有の日本のエポックに当事者として直面しながらライプニッツのノートからそれを学び省みたのである。それはライプニッツが日本の天正年間を重要なエポックとして捉えたように、東郷もまたそれを日本の貴重なエポックとして重要視したのであった。

 8月6日のアメリカの広島への原子爆弾投下、8月8日のソ連の対日参戦という絶望的な状況変化が日本に訪れると、事態の急変を受けて、8月9日午前、最高戦争指導会議が開催された。東郷は「皇室の安泰」のみを条件としてポツダム宣言受諾をすべきと主張する。しかしこの会議の中、長崎に第二の原子爆弾が投下された。戦争終結後、東郷は東久邇宮内閣に外相として留任するよう要請されたが、「戦犯に問われれば、新内閣に迷惑がかかる」として依頼を断り、妻と娘のいる軽井沢の別荘に隠遁した。しかし、「真珠湾の騙し討ちの責任者」という疑惑を連合国側からかけられて、9月11日に東條元首相とともに真っ先に訴追対象者として名前が挙げられる。こうして終戦の翌年、1946年5月1日に巣鴨拘置所に拘置されて、翌月には極東国際軍事裁判が開廷された。

巣鴨拘置所 巣鴨拘置所

 裁判は1947年(昭和22年)12月15日に東郷の個人反証に入り、この日「電光影裏、春風を斬る」とその心境を色紙にしたためて望んでいる。A級戦犯として禁固20年の刑が下された東郷は、1950年(昭和25年) 黄疸により米陸軍第361病院(現同愛記念病院)に入院した。同7月23日、動脈硬化性心疾患および急性胆嚢炎の併発により死去。その67歳の亡骸(なきがら)は青山霊園にある。漱太郎はこの霊園に墓参の手土産として三度ほどバームクーヘンを手向けた。無論、ユーハイムの製品である。日本人で最初に伊東マンショの正体に近づこうとした人物はこの鬼籍の人しかおるまい。機を得て「ライプニッツのノート」の詳細については述べようと思う。亡骸は1978年(昭和53年)10月17日、「昭和殉難者」として靖国神社に合祀されたのであるが、靖国に伊東マンショやライプニッツはどうにも不釣合いで、東郷は青山霊園(東京都港区)でこそこの二人の御影を温めながら抱き合わせて眠るのであろうから、やはり御霊(みたま)を偲ぶなら青山である。

青山霊園 青山霊園(東京都港区)

 その人が「眠」るとはどういうことか、象形において「眠」は「民」の原字であり、その「たみ」は被支配層の人々であり、官や公に対応しその行為の対象となる人々が眠らされることである。伊東マンショが歴史の中に眠らされたように、東郷茂徳もまた地下深く眠らされた。写真はその東郷の墓標である。日本の終戦は、東郷の目を針で刺し、目を見えなくさせることによって迎えた。しかしこの墓標の前に佇むと、東郷は確かに眼を鋭く見開いて見えてくる。ロレードである黒い丸ぶち眼鏡の、その眼の奥底には中世を生きた一人の青年が得難い肖像として据えられていた。

カール・ユーハイ3

 人間や動物の精神や生命は、モナドの表象・知覚の能力によって説明される。これを逆に補うと、そこから、すべてのものにはそれぞれの度合いに応じて精神や生命があるということにもなる。そのモナド(Monad)とはライプニッツの案出した存在を説明するための概念である。霊が霊に作用するというとき、ひとつのありうるモデル、描像としては、作用するモナドから何かが出て、作用されるモナドの窓の中へ入るという構図が考えられるのだが、東郷の墓前では無意識にライプニッツに馳せるからか、生前の東郷が親交を深くした諸氏の霊が、あらかじめ時刻を合わせた数十の時計のような神が配剤した創造の時点で予定され調整された調和ある揺らぎの中にあって、ついつい一人の中世の肖像を知覚させられていることを感じてしまう。その墓とは人の存在を説明するためのモナドなのである。

原爆ドーム2

 原子論がアトムと呼んだものは物質の最小単位、粒子のことだが、ライプニッツのいうモナドは精神である。①前編の冒頭でも掲げたこの写真だが、これをアトムで見るか、モナドで見るのかで、死と生の両極にかけ離されてしまう。しかしモナドとは万能なもので自在な変換が可能である。リトルボーイの爪痕であるこの原爆ドームも、モナドへの変換で中世の肖像を想い描くにいたる。

小村寿太郎 小村寿太郎

 東郷茂徳は1926年(大正15年) 在米大使館主席書記官としてワシントンへ赴任することになるが、その帰国後の1929年(昭和4年)に青山霊園を訪れた。そこには小村寿太郎の墓がある、その墓参である。この墓参後に東郷はドイツ大使館参事官として赴任する。その折りに「ライプニッツのノート」を入手した。そのライプニッツの手記として書き遺された「神学と日本人」Theologie und der japanischeの日本人とは「伊東マンショ」なのであるが、安政2年(1855年)9月16日に日向国飫肥藩(現在の宮崎県日南市のほぼ全域および宮崎市南部)の下級藩士・小村寛平と梅子の長男として生まれた小村寿太郎と伊東マンショとの関係は、飫肥藩の初代藩主が伊東祐兵であるからじつに深い。

小村寿太郎の墓 小村寿太郎の墓

 東郷はノートの入手後にその関係の考察を深めたようであり、いつの日か寿太郎の故郷(飫肥)を訪うことを願っていたが、それは叶わず今、同じ霊園に互いの棺が隣人として結ばれたごとく納まっている。ただし漱太郎には東郷茂徳が墓の忘却される人の死が痛々しい。同じ墓碑域にある東郷家の墓には花が手向けられているが、茂徳の墓に花は無し。

東郷茂徳の墓 東郷茂徳の墓

東郷茂徳3


                                            三馬 漱太郎

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まとめtyaiました【聖マンショ伝「帰らざる丘」・No.0031】

立体言語学から導く「中世の肖像」④後編 サンタ・マリア・デラ・ヴィットリア教会のファザード(バロック様式) バロック建築(Baroque Architecture)は、1590年頃から盛んになった建築...

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Author:三馬漱太郎
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