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聖マンショ伝「帰らざる丘」・No.0029

立体言語学から導く「中世の肖像」②中編Ⅰ

ヤン・レッツェル ヤン・レッツェル

 ポーランド国境に近いボヘミア・ナーホトで生まれた設計者ヤン・レッツェルは、1900年プラハで美術専門学校に入学し、ヤン・コチェラ教授の指導を受ける。彼はコチェラから石やコンクリートによるシンプルな近代建築の手法の影響を受けたほか、ユーゲント・シュティールやアール・ヌーヴォーの影響も吸収した。エジプトで働いた後、1907年(明治40年)に来日、ゲオルグ・デ・ラランデの事務所を経て1909年に独立する。そうして1918年、チェコ独立後、公使館の臨時商務官を務めた。関東大震災の直後に、チェコに帰国し、1925年にプラハで死去することになる。

日清戦争 日清戦争

 当時の広島市は、日清戦争で大本営がおかれたことを契機に軍都として急速に発展していった。経済規模の拡大とともに、広島県産の製品の販路開拓が急務となっていた。その拠点として計画されたのが「広島県物産陳列館」である。1910年(明治43年)に広島県会で建設が決定され、5年後の1915年(大正4年)に竣工した。
 そのヤン・レッツェルの前に師であるゲオルグ・デ・ラランデについて触れる。George de Lalande(1872年-1914年)はドイツ出身の建築家である。日本で設計事務所を開き、風見鶏の館(神戸市)をはじめとする作品を残した。彼はドイツのヒルシュベルクで建築家の家に生れ、ベルリン工科大学を卒業し、上海、青島で仕事をした後、日本を訪れている。先に日本で事務所を開いていたドイツ人リヒャルト・ゼールが帰国したため建築設計事務所を引き継いだ。実績としてはドイツ世紀末の様式であるユーゲント・シュティールの高田商会(1914年築・関東大震災で罹災、現存せず)などで知られている。そうして朝鮮総督府の仕事のため京城(ソウル)へ出張中に肺炎で倒れ、内地に戻って亡くなった。故人の妻エディは、子どもを連れてドイツに帰国したが、後に外交官・東郷茂徳(後の外務大臣)と再婚した。歴史とはまことに皮肉なエピソードを潜ませるもので、この東郷茂徳と形骸となる原爆ドームとは密接な関係で奇縁を結ぶことになる。

ゲオルグ・デ・ラランデ ゲオルグ・デ・ラランデ

東郷茂徳 東郷茂徳

 1888年(明治21年)、日本の官庁集中計画をドイツのエンデ・ベックマン事務所が引き受けることになった。明治21年といえば、5年前に鹿鳴館が完成し、大日本帝国憲法が発布される前年である。この年日本で初の本格的喫茶店が「可否茶館」と言う名で下谷黒門に登場した。店内には玉突き台やトランプ、内外の新聞雑誌等を置き、更衣室や200坪の庭もあり、コーヒー1銭5厘、牛乳2銭という豪華な喫茶店だったようで、多くの文士などが訪れている。が、もり蕎麦が1銭程度の頃で、しかも苦いものが美味しいとされていない時代だけに、さほど人気にはならず、数年で閉店になった。喫茶店が再びブームとなって脚光を浴びるのは、その後30年以上経てからである。さらにこの年の土日にかけて鎌倉、江ノ島、箱根方面へ遊覧客や避暑客が押し寄せるようになり、この頃から週末のレクリエーションや避暑が広がってゆく。夏と言えば、現在も懐かしい飲み物として売られている「ラムネ」が登場したのもこの年である。当時は「玉ラムネ」と呼ばれ、大阪酒造組合が日本橋に支店を出店して販売したのが、瓶の中にガラス玉が入った玉瓶で、その斬新さからとても人気だったようである。そしてこの後数年してブームとなったのが、この玉を取り出して遊ぶビー球遊びであった。皇居及び二重橋が完成し、以降「宮城」と称する事を宮内庁が告示したのもこの年、明治21年であった。

エンデ・ベックマン建築事務所員 エンデ&ベックマン建築事務所員

外務卿時代の井上馨 外務卿時代の井上馨

 日本の外務大臣井上馨は、西洋式の建築による首都計画(官庁集中計画)により近代国家としての体制を整えようとしており、1887年、エンデ=ベックマン事務所と日本政府は契約を結んだ。ベックマン、エンデ、所員のヘルマン・ムテジウス、リヒャルト・ゼール、カルロス・チーゼ技師(煉瓦製造)、ブリーグレップ博士(セメント製造)、ジェームス・ホープレヒト(ベルリン都市計画の父と呼ばれる)ら総勢12名が来日し、計画に関わることになる。まずベックマンらが来日し、都市計画などの案を作成した。当初の計画(ベックマン案)では日比谷・霞ヶ関付近に議事堂、中央官庁などを集中して建築する壮大な都市計画案であったが、後に縮小される。エンデはベルリンで作成した設計図を持って、翌1887年に来日する。奈良や京都などの社寺も見学して、同年帰国した。(その後、日本の古建築のデザインを採り入れた和洋折衷様式の議事堂計画案なども作成したが、採用されなかった)。
エンデの帰国後まもなく、井上が条約改正の失敗により失脚したことで官庁集中計画は破棄された。議事堂・司法省・裁判所の3棟については設計が続けられたが、結局、1890年にはエンデ=ベックマンに契約解除が通告された。後にエンデ=ベックマン設計の司法省、裁判所だけが実現したことになる。しかしリヒャルト・ゼールはその後も日本に留まり、1896年に横浜で建築設計事務所を開設し、教会堂やミッションスクールの工事を主に手がけた。

リヒャルト・ゼール(同志社大学クラーク記念館) リヒャルト・ゼール設計(同志社大学クラーク記念館)

 このようなドイツ人技師の繋がりある関わりの中で広島県物産陳列館(後の原爆ドーム)は建設されることになるのだが、そうしてこのドイツとの奇縁を結びつけるものがバームクーヘンでもあった。

バームクーヘン

 そう、ドイツの伝統菓子、バウムクーヘンである。ドイツでは「Der König der Kuchen お菓子の王様」と称えられ、ドイツ菓子組合のシンボルにもなっている、特別なお菓子でもある。このバウムクーヘンを、日本で初めて焼きあげた人物がドイツ人のカール・ユーハイムなのであった。

カール・ユーハイ カール・ユーハイ

 1908年(明治41年)にそのカール・ユーハイムは青島(チンタオ)、ホーエンツォレルン通りの菓子店に勤め、翌年1909年に店を譲り受け、独立する。1913年(明治45年・大正元年)に、青島、プリンツ・ハインリッヒ通り14番地に、菓子・喫茶の店ユーハイムを開店させた。しかしそのカール・ユーハイムは、第一次世界大戦の捕虜として日本へ連行され、5年間の収容所生活を余儀なくされる。だが1919年(大正8年)3月4日~12日に広島県物産陳列館(現原爆ドーム)でバウムクーヘンを出品・即売することになる。その後、ドイツ人ユーハイム夫妻は日本を永住の地と定め、横浜に会社設立(1921年)。翌年3月、日本における一号店を開設した。しかし1923年(大正12年)9月1日、関東大震災で横浜の店が倒壊し、避難船に乗って神戸へ移住。エキゾチックな元町居留地を目の前に見る元生田署前に夫婦でユーハイムを開設する。このユーハイムが六甲山上で他界したのは1945年、終戦の前日(8月14日)のことであった。そうしたカール・ユーハイムは、純正素材がおいしさの秘密(Exquisiter Geschmack durch feinste Zutaten)、一切れ一切れをマイスターの手で(Stück für Stück von Meisterhand)、革新が伝統を築く(Tradition durch Innovation)という菓子づくりの精神を貫いた。

カール・ユーハイ2 カールとエリーゼ

 こうした創業者の精神は、婦人エリーゼ・ユーハイムによって小さく、ゆっくり、着実に3S(small, slow, steady)の堅実な経営方針によって現在に継承されている。1947年、主人を亡くしたエリーゼ・ユーハイム一家は連合軍の命によりドイツへ強制送還となるが、ユーハイムと運命を共にした従業員がユーハイムを再興し、組織を株式会社に改め、生田神社西に店舗を設立しつつ、1953年(昭和28年)にエリーゼ・ユーハイムを再び日本に迎えることになった。このような経緯に深く関わるのが、東郷茂徳の妻エディー(元ゲオルグ・デ・ラランデ婦人)なのであった。やがて1959年(昭和34年)、ユーハイムは東京に渋谷店を開設し、さらに翌年、神戸・住吉に本社、並びに工場を建設することになる。また1963年(昭和38年)には「株式会社ユーハイム商店」を「株式会社ユーハイム」に変更しほぼ日本全国の主要百貨店に出店する。やがて(1971年)5月2日、エリーゼ・ユーハイムは六甲山の麓で他界することになるのだが、この折りの遺品の中に東郷茂徳の妻エディー(東郷エヂ)が遺した日記と元夫ゲオルグ・デ・ラランデの記録ノートが発見されることになった。これが「伊東マンショ」と「ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz)」との接点を結びつける貴重な資料なのである。

 そのライプニッツ(1646年7月1日- 1716年11月14日)は、17世紀中期から18世紀初期にかけて哲学者、数学者、科学者など幅広い分野で活躍した学者・思想家として知られているが、政治家であり、外交官でもあった。17世紀の様々な学問(法学、政治学、歴史学、神学、哲学、数学、経済学、自然哲学物理学、論理学等)を統一し、体系化しようとした。その業績は法典改革、モナド論、微積分法、微積分記号の考案、論理計算の創始、ベルリン科学アカデミーの創設等、多岐にわたる。

ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ2 ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ

 そんなライプニッツは稀代の知的巨人といえるのだが、その彼が、どうして見知らぬ東洋の伊東マンショに注視したのかは、いかにも不可思議である。しかしこの不可思議に直面したときに、ライプニッツのイノベーション(中世時代を省みた新しい活用法)の彼方が見えてくる。東郷茂徳の妻エディーが遺した日記には(伊東マンショと東郷茂徳とユーハイムとの関わり)が記され、ゲオルグ・デ・ラランデの記録ノートからは(東郷茂徳とライプニッツとの関わり)が読み解ける。そうして両記を折衷すると(ライプニッツと伊東マンショとがイノベーション上で符合する)こととなる。ここにはまた、広島県物産陳列館(後の原爆ドーム)の設計者ヤン・レッツェル、日本で最初にバームクーヘンを作って紹介したカール・ユーハイム、その夫人のエリーゼ・ユーハイム、外交官・東郷茂徳(後の外務大臣)、その夫人のエディー(東郷)、そうしてゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツからなる6名の成した「仕事」から絡み織られた中に、イノベーションとしての伊東マンショが介在することになる。

 その「仕事」とは、広義には人の能動的な活動全般をさすが、物理的には物体に力が働き、それが動いた時、力が物体に仕事をし、物体は外力から仕事を受けたという。この物理的な仕事概念が、ぼんやりとした形であれ、知覚されたのは太古の巨石時代であった。通常の人力を超えた「大きな力」が、物理の仕事を、広い意味での人間の仕事から分離させたのだ。それより前の狩猟採集の時代には、投げる、打ち込む、持ち上げる、持ち歩く、引っ張る、担ぐなどといった動作を一人か二人、もっと多くなってもチームワークでまかなうことができた。農業が始まり、剰余生産物をめぐって支配と侵略が横行し、王のための宮殿や墳丘墓が築造されるようになり、一時に10人、100人の規模の労力が必要となった。人力では間に合わず、丸太(コロ)、楔、テコ、滑車などといった道具が使われた。全体の労力が莫大となれば、一人当たりの労働者に加わる力も増え、危険もそれなりに増す。当時の労働者の多くは被征服民衆であり、現場監督者は同じ仲間で知能の優れた者であったから(支配者は、そうすることで巧妙に仕事の能率を高めた)、監督者は仲間の労働を少しでも軽減しようとしてこれらの単一機械を発明したと思われる。古代ギリシャの人々は、これらの機械によって力を節約したとき、ふと気がついた。「力を半分にすると、力による移動距離は2倍に伸びる。力は節約できたが、力と移動距離との積は、少しも節約できないではないか」。こうした歴史の過程を踏まえて、ライプニッツは力学の黄金法則を導き出すことになった。
 そしてこの「力と移動距離の積は一定である」ということを「力学の黄金法則」と呼んだのだ。この力学の黄金法則がアラビアを経てヨーロッパに伝えられ、19世紀の前半、フランスの土木技師にして物理学者グスタフ・ガスパール・コリオリ(1792-1843)が、それをひとつの物理量として扱ったらどうかと提案した。パリ大学物理学科のポンスレー教授が賛成し、【kg×m】という単位を提案した。仕事ができるのも、仕事をする能力を蓄えているからで、それをエネルギーと呼ぼう、という発想がそこから生まれた。仕事を、ギリシャ語でエルゴンという。それに接頭語エンを付けて、エン・エルゴン、これがエネルゴンとなり、ドイツ語でエネルギー、英語でエナジイとなったのだ。
 このエネルギーが単一概念として成立したのは19世紀半ば。こうして、WorkDone(なされた仕事量)という概念と量が物理量として確立されたのである。もっとも、それ以前にもガリレイは「仕事」の概念を持っていたし、ライプニッツは運動エネルギーに当たるものを「活力」と名づけていた。18世紀にはベルネーイが初めて「エネルギー」という言葉を使い、また高いところにあげられた物が持つ位置エネルギーを「潜力」と呼び、運動エネルギーとの変換を論じた。
 数学には記号がつきものだとおもわれている。そんなことはない。数学記号がないころから数学はさかんだったし、数式が言明しているメッセージ内容には、必ずしも記号は躍っていない。
 数学的能力と記号的能力も、べつものである。記号の力を借りない数学的思考はいくらでも可能だし、既存の数学に対応していない記号的思考はいくらでもある。急に引き合いにだすけれど、三浦梅園やウンベルト・エーコには記号的能力はあろうが、数学的能力はほとんどないだろうし、ニュートンやホイヘンスは記号的能力に頼る必要がないほどに数学的能力に長けていた。
 しかしいったん記号が定着し、それがしだいに体系性をもっていくと、数学的思考と記号的思考のあいだの峻別はあいまいになっていって、とくに、記号というものがどれくらい実体を指示しているかという議論や、思考はどれくらい記号の助けを借りているかという議論をしているうちに、記号的数学こそが数学だという観念をどこかに押しやることができなくなっていった。
 とくに代数学が記号で表現されてからは、この問題は、大きな謎とも、人間思考の本質を解く鍵とも、逆に、思考を阻む壁とも見えてきた。こうした問題を考えようとするとき、つねにその中央にあらわれてくるのがライプニッツなのである。

ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ 計算機 ライプニッツの計算機

 もともと代数学と記号化とは関係がないものだった。アル・フワリズミーの代数学、いわゆるアルジェブラには記号がまったく使われていなかった。
 代数学の呼称のルーツとなったアルジェブラが、プラス・マイナス記号もアラビア数字も使っていないということは、そのころはまだ、文章上のレトリックとして代数を“綴っていた”ということになる。代数は思考の文法に所属していたともいえる。
 それがラテン世界に入ってきて、これを写本するプロセスで省略記号を考案しているうちに、いわゆる代数記号に発展していった。たとえばアラビア語で1次元の未知数はシャイといい、それをラテン語ではレースというそうだが、その頭文字のRを独特の筆記文字で書くうちに代数記号になっていったという例が、記録上でも明確であるらしい。
 考えてみれば、文法や文体に所属する代数ならば、地域や国や民族や風習によって、代数は変わっていくものだったのである。
 しかし、それを記号化していくとなると、そこには共通性や共有性が問われることになる。距離と温度と質量をつなげる数学が必要になり、ポンドとドルと円には交換レートが必要になり、それらを“交ぜても”計算できる方法が必要になる。
 こうして未知数がだんだん記号になっていくとなると、ついでデカルト以前に代数学にとりくんでいたヴィエトが既知数も記号化して、幾何学的な解析はすべて記号代数学で展開できるようにした。これを継承したのがデカルトで、そこでは代数によって思考も方法も精神規則も説明できるというふうに、主張されるようになった。
 その代数思考をライプニッツが批判するところから、数理哲学思想史上の思考と数学と記号をめぐる巨大な幕があく。これが知のバロックの開幕なのである。
 ライプニッツが数学と記号のあいだに立っていたとき、その目はまず先行のデカルトに注がれていた。
 デカルトは『方法叙説』で幾何学を重視したのだが、この文章は読みにくいだけでなく、ニュートンが指摘しているように誤りも多いものだった。しかし、その訴えるところには実に大きなものがある。そこで、このデカルトの幾何学論には当時からいくつものコメンタリーがついて、しかもフランス語版からラテン語版にも移し替えられていた。その間に、デカルトが考えていることは「普遍数学」というものだという定説ができあがっていったのである。
 ライプニッツが目を注いだのは、このデカルト的普遍数学の、定まりきらない雄叫びのようなものだった。実はデカルト自身はそこまで考えきってはいなかったのである。
 しかし、ライプニッツはそのデカルト的普遍数学に挑み、そこに量概念しか機能していないという欠陥を見いだした。たとえば、代数的な離散量と幾何学的な連続量をそのままごっちゃにして扱っているという欠陥である。ライプニッツは、もし普遍数学というものがあるのだとしたら、そこには量だけではなく、もっと広くて多様なカテゴリーが扱われるべきだと考えたのだ。「質」や「関係」だって扱われるべきだと考えたのだった。
 マテマティカとは、そもそもは「学ばれるべきもの」という意味である。その原形には、プラトンのマテシスがある。
 マテシスやマテマティカは、想起されるべきすべてのものを学習記憶するための方法なのだ。そうだとすれば(まさに、そうなのだが)、そのマテシスやマテマティカは、いったん“記号の森”を通過して、そのうちから最も適切な記号群を連れ帰ってもよかったのである。そういうことをしても、平気なはずなのだ。
 こうしてライプニッツは当時の普遍数学の欠陥を前にしつつ、そこに記号をもちこんで、これを普遍記号学として確立する構想をもつにいたったわけである。
 1666年はライプニッツがまだ20歳。しかしこの年に執筆された『結合法論』(デ・アルテ・コンビナトリア)には、その後のライプニッツの構想がいろいろなかたちで発露した。こんなに独創に富んだ仮説は、当時も今日も、めったに見られない。それにしても20歳とは凄いのではないか。
 ライプツィッヒ大学でアリストテレス哲学とユークリッド幾何学を学んでいたライプニッツは、すでにいくつもの問題が対比的に自分の前に聳え立っていることに感づいていた。神の語り方と人間の語り方の対比、普遍の論理と個別の論理の対比、名前をもつ力(唯名論)とそこに物事がある力(実在論)という対比――。などなど。これらを前にしていたライプニッツは、はやくも二人の教師からすばらしいヒントを引き出していたようだ。哲学のヤーコプ・トマジウスからは幾何学と精神の関係と「モナド」の意味を、数学のエアハルト・ヴァイケルからは哲学と科学の和解の方法とその和解のための論証の方法を――と。
 このときすでにライプニッツの胸中には、新たな「普遍学」を確立するという思いがいっぱいに膨らんでいたようだ。そのキーワードは「コンビナトリア」。すなわち「結合」である。
 かくて哲学の修士・法学の学士を得たライプニッツが、つづいて哲学の教授資格のために書いたのが、「結合に関する算術的論議」という論文と、それを一冊の書物にまとめた『結合法論』だった。ここに、ライプニッツをして有名にさせた「人間思想のためのアルファベット」というアイディアが開花する。
 新構想にとりくみたいライプニッツに一番大きな示唆を与えたのは、おそらくライムンドゥス・ルルスのアルス・コンビナトリア(結合術)だったろう。
 ルルスはこれを「アルス・マグナ」(大いなる術)とよんでいた。ライプニッツも「アルス・マグナ」を作りたい。そう志向した。
 13世紀のカタロニアでこの秘策を構想したルルスのアルス・コンビナトリアは、まさに三浦梅園にこそ見せたかったものである。
 ルルスは6系列からなる一種の範疇表を作成して、そこにBからKまでの9個の文字を用いて、絶対的述語・相対的述語・問い・主語・徳・悪徳などのプラトン的な9個の範疇(カテゴリー)を動かそうとした。とくにそのうちの絶対的述語と相対的述語は字母Aと字母Tの円に配当されて、概念が主語から述語へ、述語から主語へ置換できるようにした。
 驚くべきは、第四図と称されたクアルタ・フィグラが3つの同心円で構成されていて、そのうちの内側の2つの円が回転することによって、3個ずつの文字のすべての組み合わせが得られるようになっていることだ。なんだか遺伝アルゴリズムを思わせる。
 ルルスが構想したのは、限定されたいくつかの用語(テルミエ)をつかっての、あらゆる問いに応じ、そこから各種の学を構成することが可能な「ローギッシェ・マシーネ」(論理機械)なのである。それゆえ、それは論理術にも普遍術にも記憶術にも使えそうなものだった。けれども、その根幹にあったのは、なんといってもアルス・コンビナトリアという編集術なのである。
 ルルスのアルス・コンビナトリアは梅園の条理学のようには孤立しなかった。各方面に猛烈に吸収されていった。ライプニッツ以前、それは多くの学術と神秘思想と記憶術に採用されている。
 とくに、ニコラウス・クザーヌス、ピコ・デッラ・ミランドラ、アグリッパ、ジョルダーノ・ブルーノ、カンパネッラ、パラケルスス、ヨハン・ハインリッヒ・アルシュテート、アタナシウス・キルヒャーに特有された。
 この顔ぶれでわかるように、アルス・コンビナトリアはしだいにスペインからイタリア・ルネサンスへ、それからフランス・イギリスへ、そしてそれらが瀘過され尾鰭をつけて、ついに最も濃いものがドイツへと波及していったことが見てとれる。
 ドイツにルルスが色濃く波及した理由には、ひとつには、クザーヌスの『知の無知』とアグリッパの『学の不確実さと空言』のあいだでアルス・コンビナトリアをめぐる熾烈な論争があって、それがアルス・コンビナトリアを新たな論理マシーンとして議論できる素地にしていたことであろう。
 もうひとつには、おそらくルルス主義がカバラ思想と結び付いたことである。カバラでは、もともとセフィロートというフォーマットによって神の知の流出の組み合わせの可能性を追求していたし、そこではヘブライ文字のローテーションによる「文字と瞑想との対応関係」も重視されていた。それがもともと文字を重視するドイツの風土で新たな可能性への転換がはかられる契機ともなっていったのではないかと、漱石は考えている。
 一方、むろんルルスに対する容赦ない批判もあった。ブルーノのばあいは9個の文字が不足きわまりないとして30個の文字を持ち出して、それをギリシア文字とヘブライ文字の混合セットにしたくらいだから、批判というより批判的継承をしたほうであったけれど、ベーコンとデカルトになると、批判は痛烈になっていた。
 とくにデカルトは、自身で普遍数学を標榜するに至っていたところだったから、ルルスのような“魔法”には断固として与(くみ)しようとはしなかった。
 このとき、若きライプニッツが『結合法論』をひっさげて登場してくるのである。
 さきほども述べたように、ライプニッツはデカルトの普遍数学に疑問をもっていた。あんなものは「普遍」の名にふさわしくないと考えていた。ライプニッツは書いている、「申し上げておきますが、私はデカルト主義者ではありません」と。
 では、ライプニッツは何をめざしたのか。アルス・コンビナトリアを論理学まで高め、そこに普遍的な記号代数を関与させ、「発見の論理学」ともいうべきを確立することをめざしていた。それが「人間思想のためのアルファベット」というアイディアだったのである。
 さてところで、さきほどからの漱太郎は、こうしたライプニッツが提示した知のバロックの周辺についての何かの感想を書こうと思って、1階の書棚から取り出した『ライプニッツ著作』を地下の書斎の机上にずらりと置いて、あれこれ考えをめぐらしていたのだった。
 一冊開いては、また別の一冊を開き、そこでちょっと文章を打ち、また一冊を開いて読んでは、また別の一冊を読む。そんなことをしていた。そのうち、この著作にちりばめられたライプニッツの思索の痕跡や、それこそ草稿に残響する手の痕跡などが、隅々から潮騒のような音を立ててせりあがってきて、はからずも中世時代の遠い日にかかわった記憶が蘇ってきたようで、いささか感傷的な気分にもなっていたのだった。
 20歳のライプニッツが『結合法論』で提案した「人間思想のためのアルファベット」は、せいぜい25、6個くらいの単純概念の記号化によって、ありとあらゆる「発見の論理学」を湧出させるシステムがつくれるのではないかということだった。
 ただし、ライプニッツはルルスや梅園のように円盤の上に概念や記号を置こうとはしなかった。円盤を動かすのではなく、概念や記号そのものを動かすこと、すなわち「計算」によって複雑な複合概念をつくりだすことを考案した。円盤の構造は、その動きの集積によって与えられると考えたのだ。
 いま、『結合法論』やその後に書かれた『普遍的記号法の原理』などを見てみると、数をあらわす数字と概念(名辞)をあらわす数字を区別していること、定義のメンバーにクラスをつくり可付番集合にしていること、いろいろの情報概念を分母の上に乗せてその総和が一定になるようにしていること、冠詞のないラテン語にギリシア語からの借用をおこしていることなど、独得の工夫があったことが伝わってくる。
 いかに先行する成果を点検したうえでのこととはいえ、よくぞ、そんなことまで考えたものである。とくに思考や論理を「計算」の対象にしたことは、ライプニッツにおいてこそマテマティカが(そして今日に至ったコンピュータをめぐる計算技術思想が)、ここに初めて自立したとさえ、いいたくなる洞察だった。
 とりわけ、概念の結合のために円盤を動かすのではなく、概念を動かすことが結合を生むのだという着想こそは、そこでギイッと音がして、全ヨーロッパの思索の歴史の転換がいま、そこで、おこったかのようだった。ところが、ライプニッツはこれを完成させはしなかった。「思想のアルファベット」は実行に移されなかったのだ。
 ニュートンと競った微積分や、パスカルのものより性能が高い四則演算器を作成したライプニッツが、アルス・コンビナトリアのためのシステム設計に着手もしなかったのは、まことに残念である。
 若すぎて気移りしたのかもしれないし、ルルスの延長では限界があると思ったのかもしれない。また、批判的であれ、これ以上はデカルトにかかわりたくないと思ったのかもしれないが、ひょっとすると、ライプニッツにはニュートンやパスカルのような対抗者や好敵手がどうしても必要だったのかもしれない。そんなふうにも思える。
 そう思いたくなるのは、その後のライプニッツはまるで新たな好敵手を探すかのようにして、ジョン・ロックに正面から対抗して『人間知性新論』を書き、また晩年には、なかなか出会えなかったバルーフ・スピノザに自ら近づき、その接近の度合いに応じて大胆な神学的形而上学を次々に仮説していったからである。
 しかしながら、では、これでライプニッツが発見論理学や普遍記号学を捨てたのかというと、むろんまったくその逆である。このあとのライプニッツは実に多様な領域で、この実現にこそ向かっていく。
 ライプニッツの全思索のなかでつねに一貫していたのは、人間の本性や知性に合致した認識というものがあるとすれば、それは直観的認識だけでできあがっているのではなくて、必ずや記号的認識を随所に交えているものであるはずだというものなのである。
 いろいろの理由によって、青年期のライプニッツは、人間の知は神の知に近づこうとしているという確信をもっていたはずだった。本当なら、人間は神のような直観的世界像をもったままでいられるはずだとも想定したはずだ。当然だろう。
 そうであるからこそ、人間は神に近寄るためにアルス・コンビナトリアとしての道具を使ってでも、その可能性に向かうべきだと考えたのであったろう。だから、当初のライプニッツにとっては「思想のアルファベット」は道具にすぎなかったのである。記号は援用されるべきものだった。さらにいうなら、このころまでのライプニッツは、数学や科学が神の知に匹敵しないまでも、十分に自立しうるシステムになれるとも確信していなかったようだ。
 けれども、ここからがやっぱりライプニッツらしいのであるが、1672年から1676年までにわたったパリ滞在期において、ライプニッツは大きな転換をとげ、さらにさらに長躯躍動することになる。ここではのべないが、かの「微積分の発見」をしたのもこの時期だった。ライプニッツはこのパリ滞在期のあいだのどこかで、記号法が普遍数学や普遍論理学になりうることを、一挙に悟ってしまったのである。
 そのころもうひとつ、ライプニッツが躍動したことがある。それは百科全書についての構想が芽生えたことだった。
 ライプニッツには当初から、人間が世界のなかでふれうる全知を通過したいという普遍計画のようなものがあった。それを百科全書の実在への計画というなら、ライプニッツはずっとその計画の手を休めたことはない。
 けれども実際に百科全書の役割を明確にし、その構想がどのようなものであるべきかを提示したのは、パリ滞在以降になってからのことである。『ブルス・ウルトラ』という計画書も書いている。
 それは驚くべきことに、われわれが知るチェンバースやディドロが編集構成したような百科全書ではなかった。いわば、その百科全書のアーキテクチャそのものが、「思想のアルファベット」に対応できるエンジン機能をもつような、そういうエンジン付きのデータベース構造の提案だったのである。
 その計画は、第1部門が「普遍学の基礎」として、第2部門が「普遍学の範例」ととして機能するようになっていて、のちの『普遍学の基礎と範例』や『普遍的記号法』を読むとわかるのだが、知の目録と、それを使う方法と、その構造全体が見せる枠組の意味とが、相互に対応できるものに按配されていた。しかもそれぞれの要素は、つねに記号対応をはたしているというような、そういうものだった。
 ここにおいてライプニッツは、数学的思考と記号的思考の「あいだ」を、埋めきったのである。少なくとも、どうすれば埋めきれるかを読みきった。
 すなわち一言でいうのなら、ライプニッツが構想した百科全書とは、「方法の知」のための百科全書構造だったのである。
 これを漱太郎ならば、ライプニッツにおける「エディトリアル・エンジンを搭載したリレーショナル・エンサイクロメディアの計画」の発表などとよびたい気がするのだが、仮にそんなふうにふざけて名付けたとしても、ライプニッツはまだまだそんな程度の発表で満足はしなかったのだ。彼は、まったくもって手がつけられないバロックの天才である。
 このライプニッツの「方法の知」は、1937年に著された下村寅太郎の『ライプニッツ』(現在はみすず書房で刊行中)では、「それは一つの領域ではなく世界の、ある存在ではなくすべての、存在の原理の探求なのである」と書かれている。
 このような、なんといっても数理派ライプニッツの話なのであるから、まだまだ、綴っておきたいことが続くのである。
 漱太郎は長いあいだにわたって『単子論』(モナドロジー)を読みまちがってきたということだ。岩波文庫の河野与一訳で読んだのだが、あまりにも注解が本文に押し寄せるように介入していて、そうとうに読みにくかった。
 それで思いきって漱太郎なりのノートを作った。のちにそれにもとづいて『漱太郎のモナドロジー・ダイジェスト』を書いたのだが、いまだに納得できないでいる。何度もそれを試みようかとも思っていたのだが、ついにやめた。しかし、いつか再挑戦したい項目である。また、いまもなお『人間知性新論』よりも『弁神論』のほうに圧倒的に惹かれてしまうのだが、その理由を深くは考えていない。前者がロックに対する反論で、後者がゾフィー・シャルロッテの思い出を前提にしていることもあるだろうが、漱太郎としては『弁神論』こそが、その後のゲーテから手塚治虫におよんだ「悪」の扱いの原型に見えるからでもある。さらに、これはちょっとばかり重要なことだろうが、ライプニッツが生涯にわたって主張を譲らなかったこと、「主語はすべての述語を包摂し、すべての述語は主語に内属する」という考え方には、半分は賛成するとしても、残り半分をのちのゴットフリート・フレーゲの「述語が主語を包摂する可能性」のほうにも賭けておきたいのである。
 あるいはデカルトを採り上げ、ここではあえてライプニッツとの比較を書いておくことにすると、それは分かりやすくいうのなら、デカルトがつねに「混乱」に対して「明晰」を、「不明瞭」に対して「判明」もって臨んだとすれば、ライプニッツは「不十分」に対しては「十全」をもって立ち向かい、「直観」と「経験」に対しては、「原初性」と「記号性」をもって、その行く手の世界像の掴まえ方を大きく変えたことの違いである。
 このデカルトとライプニッツの分かれ目がヨーロッパ近代の思潮を大きく分けていくことになる。
 たしかにライプニッツは前半期にあっては、人間の本性や知性を神に近づけるという構想も発想ももっていたけれど、結局は人間の知性に限界を感じたはずなのである。そうでなければ、このバロックの天才があんなにも多彩大量の情報発信をしなかったのである。また、二進法を発明しようともしなかったはずなのだ。そのことも付け加えておきたい。
 二進法についてだが、これはどこから眺めても傑作中の傑作である。『0と1の数字だけを使用する二進法算術の解説、ならびにこの算術の効用と中国古代から伝わる伏羲の図の解読に対するこの算術の効用について』は、今日のコンピュータ屋が全員読むべきだ。もうひとつ付け加えると、このライプニッツの発想と三浦梅園の発想を、そろそろ誰かが徹底的に比較してみるべきだろう。
 ライプニッツにおいては、「調停」もしくは「折衷」こそが、最も勇気のある科学であって哲学なのである。大いに縮めていえば、漱太郎がライプニッツから教わったことは、このことに尽きるのかもしれない。なぜなら、「調停」と「折衷」とは、つまり「編集言語学」のことなのだ。
 ゲーテは、ライプニッツがモナド(単子)という用語を、ときには平然と「蟻のモナド」とか「モナドの霊魂」というふうに使うのを読んで感動した。ディドロは、ライプニッツが一人でプラトンとアリストテレスとアルキメデスを演じられることにたじろいだ。二人とも自分の専門をさておいたところでライプニッツを称賛した。
 いっときライプニッツは、カトリックとプロテスタントの統合を構想していたことがあるのだが、このような高邁ではあるが無謀なライプニッツに拍手を送ったのは、量子力学者のマックス・プランクだった。プランクはライプニッツから自然神学を読みとったのである。
 どうやらライプニッツを語ろうとすると、その当人が専門をさておいて自分が知らないライプニッツのほうへ横超してしまうようになるらしい。
 これはノヴァーリスや宮沢賢治を語ると、誰もが青い花めいたり、交流照明電燈めくということではない。バッハやヴォルテールを語ると、ついついフーガになったり、カンディドっぽくなるということでもない。ライプニッツに幾何学や社会論があって、それを眺めてきた専門の数学者や社会学者たちが、数学以外でも存分に輝くライプニッツや社会哲学を逸脱してなお大胆に遊ぶライプニッツに、我知らずに別の本分をさぐろうとしてしまうということなのだ。
 数学者の彌永昌吉がライプニッツの幸福感を述べ、宗教社会学者のフォイエルバッハがライプニッツにひそむ結晶構造を語ろうとしたのは、そういうせいだった。
 こういう魅力がライプニッツだけにあるとは言わないが、専門家たちからお門ちがいの数々の矢に射られながら、その矢を300年にわたって受けつづけ、なおいっこうにライプニッツ像が確定しないというところに、やはり「途方もないライプニッツ」があったのだ。
 こういう例は、ライプニッツ以外にはなかなか思いつけない。これはレオナルドの天才とはちがっている。両者とも万能は万能だが、その奥に分け入ってみると、その細部の脈絡から突如として天才的な発想が躍り出てくるというような、そういう才能をもっているのがライプニッツなのである。レオナルド・ダ・ヴィンチの才能はすべて外側にあらわれている。
「一八九四年九月二二日 土 雨。ライプニッツの如くなるべし。禁茶禁烟、大勉学す」。この一文はこの年月日に、南方熊楠が記したメモである。大変な決断である。「ライプニッツの如くなるべし」だなんてことは、さすがに熊楠をもってしか言いえないことだろう。
 ただし、ちょっと変なのは「禁茶禁烟」である。まるで飲茶喫煙などしているとライプニッツが帰還する彗星のように遠のくとばかりに、二つのあいだの因果関係を暗示している。これは、困る。ライプニッツを追うには茶も煙草も禁断しなければならないというのは、困るのだ。漱太郎は飲茶と喫煙だけで生きているような男なのである。この件については、熊楠先生といえども、抗議をしておきたい。しかしこれとは別に意外な人物がライプニッツに思いを注ぎこんでいた。外交官・東郷茂徳である。この東郷とライプニッツとの関わりの中に、伊東マンショとの結び目が明らかとなる。・・・・この続きは立体言語学から導く「中世の肖像」③中編Ⅱでご紹介する。


                                         三馬 漱太郎
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まとめtyaiました【聖マンショ伝「帰らざる丘」・No.0029】

立体言語学から導く「中世の肖像」②中編Ⅰ ヤン・レッツェル ポーランド国境に近いボヘミア・ナーホトで生まれた設計者ヤン・レッツェルは、1900年プラハで美術専門学校に入学し、

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Sotarou Miuma
立体言語学博士
Social Language Academy Adviser
応用社会言語科学研究員

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