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聖マンショ伝「帰らざる丘」・No.0027

16世紀ポルトガルと、17世紀オランダからの視界。日本にも大航海時代があり、朱印船貿易はやがて鎖国へと連なる。

 日本が「鎖国」といわれた対外政策をとった江戸時代の直前、七万人ともいわれる日本人がアジアに展開していた時代が存在した。

荒波

 これを「日本の大航海時代」と呼ぶのは少し誇張に聞こえるが、確かにポルトガルやスペイン、オランダが相次いで日本に迫ってきただけでなく、16世紀の後半から17世紀の前半にかけて、日本人も勇躍、海を超えて現在のベトナムやタイにまで展開していたのである。世界史の中でこのような日本史を熟慮する時、世界のダイナミズムを受け止めるとともに、日本も内在するエネルギーをアジアに放ち、それが再び日本を突き動かすという相関の力学に気づかざるをえない。

朱印船貿易 朱印船 

 徳川家康は貿易に極めて積極的であった。関ヶ原の戦いの年(1600年)に大分に漂着したオランダ船リーフデ号を浦賀にまで回航させ、乗員のウィリアム・アダムズやヤン・ヨーステンを外交や航海術の顧問として登用して、通商の拡大を試みた。幕府を開いた次の年(1604年)には「異国渡海朱印状」という貿易許可証を発行し、最初の朱印状を携えた29隻の朱印船が海を渡った。200人~300人の乗組員と「商客」といわれた商人が乗船していたというが、幕末に太平洋を渡った咸臨丸(625トン)が96人の乗員だったことを考えると、千トン級の大型船だったことに驚かされる。

ウィリアム・アダムズ ウィリアム・アダムズ

異国渡海朱印状 渡海朱印状

 中国式ジャンク船と西洋式ガレオン船に和式を加えた折衷スタイルで、多くは長崎で建造された。「鎖国」に向けて幕府は1609年以降、500石以上の大型船の建造を禁止し、日本は大型船建造技術を一旦は失うが、17世紀初頭に大型船建造技術を保有していたことに注目したい。1604年から幕府が海外渡航を禁止した1635年(寛永一二年)までの31年間、朱印状を与えられた南洋渡航船が356隻も海を渡った。これに伴い、海外渡航した日本人は累計約7万人、南洋に移住した日本人は7千人から1万人と推計される。

茶屋四郎次郎 茶屋四郎次郎

 船主として朱印船をアジアに送った担い手は「豪商」といわれた京都の茶屋四郎次郎、角倉与一、長崎の荒木宗太郎だけでなく、あのリーフデ号のW・アダムズやヤン・ヨーステン、平戸の中国人商人の首領たる李旦などの「外国人」、小倉の細川忠興、平戸の松浦鎮信、島原の有馬晴信と松倉重政、熊本の加藤清正、佐賀の鍋島直茂、薩摩の島津忠恒などの「西国大名」であった。
 この海外展開によって日本人が集団的に居住した「日本人町」は7カ所、安南(現在のベトナム)にツーラン、フェフォの2カ所、呂宋(現在のフィリピン)にマニラなど2カ所、カンボジアにプノンペンなど2カ所、シャム(現在のタイ)のアユタヤであったという。貿易を扱う商人が主であったが、関ヶ原や大阪の陣の敗残浪人、追放されたキリシタンなども少なくなかった。

山田長政 山田長政

 この頃海外に雄飛した象徴として、伝説的に語り継がれてきたのが山田長政である。駿府の商人の息子だった彼は、1612年(慶長17年)23歳で朱印船に乗って長崎からシャムに渡航。アユタヤに入った長政は、アユタヤ王朝の護衛隊長にまで昇りつめるとともに、交易商人として財をなして日本人町の頭領となる。日本との修好にも努め、二代将軍秀忠の時代、1621年にはソンタム国王が日本に派遣した使節を仲介した。スペイン軍の侵攻を迎え撃つなどの功績で国王の信任を高め、王朝の高官にまで昇進したが、ソンタム国王の死去を境として運命は暗転、権力闘争と内乱に巻き込まれ、41歳で戦傷のため異国の地での数奇な人生を終えた。

倭寇 倭寇の図

 しかしこのような17世紀の日本人の海外展開の伏線として、「倭寇」の存在がある。
「前期倭寇」と区分されるが、14世紀~15世紀にかけて対馬・壱岐・松浦や高麗・済州島の海人に、徒党を組んで朝鮮半島や中国の沿海部で海賊行為を働く者がいた。1368年に成立した中国の明王朝は海外渡航を禁止して「海禁政策」に踏み込んだが、倭寇による治安撹乱への対応という性格もあった。倭寇の実態は必ずしも日本人だけの海賊ではなく、朝鮮人や中国人のアウトローが流れ込んだ混成略奪集団であった。明や高麗が倭寇鎮圧に動き沈静化を見せたが、16世紀になって再び活発になったのが「後期倭寇」であった。
 明の海禁政策によって密貿易が盛んになり、密貿易者が中心になって中国沿海部などで略奪行為を働いたのが「後期倭寇」である。日本人はせいぜい二割以下で、大部分は中国人であった。
 先行して登場したポルトガルが1517年に遣明大使を北京に送ったが、皇帝との謁見を拒否され密貿易に転じたことは、当時、密貿易や海賊行為は特異なことではなく、遅れてアジアに参入したオランダ東インド会社でさえ、競合者にすれば海賊行為を働く危険な存在だったことを物語る。17世紀の同社の記録に残る日本人傭兵について興味深い記述がある。「その国(日本)では厳しい法律、数人の独裁者によって抑えられているが、そこで子羊のような存在が、国から出ると悪魔のような存在になる」(C・フレデリック『一七世紀オランダ人が見た日本』、)。これは日本人論につながる記録だと考える。

C・フレデリック C・フレデリック

 国際法の父といわれるオランダ人グロティウス(1583~1645年)が『戦争と平和の方法』を書いたのは1625年であった。やはり17世紀オランダの産物であり、それまでの世界では「国際秩序」という考えは無かったといってよい。30年戦争の最中に書かれ、国の交戦権という概念を確立し、戦争を終結させてオランダのスペインからの独立を確定した「ウェストファリア条約」の基本思想になった書である。「暴力的侵攻も略奪も当然」という混沌とした状況に、国際的秩序を構想する論理が芽生えたのが17世紀であった。

グロティウス グロティウス

 改めて考えれば、16世紀末の豊臣秀吉による朝鮮出兵は東アジアにとって究極の組織だった倭寇であったといえよう。「文禄の役(壬申倭乱)」(1592~93年)と「慶長の役(丁酉再乱)」(1597~98年)の評価は、歴史を考える者にとっての特別な謎である。一般に、「天下統一」を果たした秀吉が仕掛けた「無謀な対外戦争」、諸大名の勢力を削ぐための狂気の膨張主義とされる。合理性を欠いた野心とするのが今日的には妥当な評価だが、秀吉のスペイン国王への書簡などを読むと、ポルトガル・スペインの接近という外圧を受け止めて、少しずつ世界状況が見えてきた中で、外圧が内圧を高めて外に弾けた力学を感じる。それは、この朝鮮出兵が朝鮮半島を揺るがし、明国の滅亡を早め、東アジアにおける「国民国家」形成を促す契機ともいえるからである。
 織田信長は交易にも積極的で、キリスト教にも支援的であった。イエズス会の宣教師フロイスやヴァリアーノとも何度となく面談し、安土にはセミナリオの建設さえ許した。信長を継いだ秀吉も交易を重視したが、いつしかキリスト教を危険だと感じるに至った。彼が決定的にスペイン・ポルトガルを危険と感じたのは、1596年のスペイン船漂着事件であった。
 朝鮮出兵の最中、サン=フェリッペ号がフィリピンからメキシコに向かう途中、土佐の浦戸に漂着。秀吉は五奉行の増田長盛を派遣して積荷を没収、事情聴取した。船長は世界地図を示し、いかにスペインが強大であるかを語り、多くの国土がスペイン領となった理由を「宣教師を送り込み、信者が増えたところで反乱を起こさせ、その混乱に乗じて軍隊を送り込み、領土化する」と述べたという。事実、キリスト教の宣教師が植民地化の先兵となった事例は多く、秀吉の疑念を決定づけた。また、当時朝鮮出兵のため九州に出陣していた秀吉は、長崎の土地がキリスト教会に寄進されている現実に驚き、危機感を高めた。秀吉がキリシタン26人を捕え、長崎で磔殺した(二六聖人の殉教)のは、漂着事件の二か月後であった。

 徳川幕府の時代となり「交易は続けたいが、キリスト教は危険」という心理の中で、31年間の「朱印船貿易」の時代を迎える。そして、欧州の政治力学が次第に日本の歴史にもインパクトを与えていく。カソリックのスペイン・ポルトガルに対するオランダの対立が持ち込まれてくるのだ。
 アジアに先行したポルトガルであったが、1580年にスペインに併合され、再独立までの60年間、日本においては本能寺の変の二年前から「鎖国」体制を完成させたとされる寛永16年(1639年)の第5次鎖国令(ポルトガル人の国外追放)に至るまで、厳密にはスペイン・ポルトガルは一体であった。
 リーフデ号以来、遅れて日本に登場したオランダが、本国がスペインへの独立戦争を戦っていたこともあり、スペイン・ポルトガルの排除へと動き始める。W・アダムズやヤン・ヨーステンなども、自ら朱印船貿易の担い手となりながら、幕閣への影響力を高め、「カソリック国スペインの危険性」を耳打ちし続けた。キリシタン弾圧の中で、1637年には島原の乱が起こり、驚愕した幕府に対するオランダ商館長ニコラス・クーケバックルによる「スペイン・ポルトガルの排除と朱印船貿易の中止」の進言が決定づける。「オランダは宗教ではなく経済(交易)に徹し、出島による幕府管理下の朝貢貿易の形式を順守する。日本による朱印船貿易はスペイン・ポルトガルの報復や海賊行為を考慮すれば危険であり、オランダ東インド会社に任せたほうがよいこと」を説き伏せたのである。

  ところで、日本において「鎖国」という言葉が登場したのは1801年、江戸時代も後期に差し掛かっていた。1690年に長崎出島のオランダ商館で二年間働いたドイツ人医師ケンペルが書いた『日本誌』(1727年)を長崎通司だった蘭学者志筑忠雄が百年も経ってから翻訳し、幕府の海禁政策を「鎖国」と訳したことに由来する。厳密にいえば造語であり、原書(蘭語版にも英語版にも)に「鎖国」に相当する記述はない。志筑はロシアの接近(1792年の根室来航など)に強い危機感を抱き、「鎖国」の重要性を強調する表現に至ったと思われる。
  近年、「鎖国」に関して新しい視界を提起する研究や著作が発表されている。大島明秀「『鎖国』という言説」(ミネルヴァ書房、08年)、ロナルド・トビ「『鎖国』という外交」(小学館、08年)、松方冬子『オランダ風説書と近世日本』(東大出版会、07年)、大石学『江戸の外交戦略』(角川書店、09年)、速水融編『歴史の中の江戸時代』(藤原書店、11年)などは、「鎖国」といわれた時代を世界史との相関で柔軟にとらえ直す視座を刺激する。漱太郎もこのコラム連載を通じて、鎖国とは日本人にとって何だったのかを深く掘り下げていきたい。そこからは、「鎖国」という戦略外交が存在したこと、遮蔽された時代ではなく実は世界との持続的「交流」が存在したこと、日本にとって「国民国家」への自立と自覚のプロセスだったことが見えてくるであろう。

 さて本コラムの途中で挟んだ山田長政だが、彼は、駿河の大名の籠担ぎから身を起こしている。その山田長政の活躍した17世紀には、シャム(タイの旧名)は今のバンコク王朝ではなく、アユタヤに首都を置くアユタヤ朝が支配していた。

アユタヤ アユタヤ王朝の遺跡

 アユタヤは、チャオプラヤー川と数多くの支流を通じてもたらされるタイ内陸からの物流とタイ湾を通してやってくる東南アジア交易網とが結びつく地点にあるという地の利を生かして、古くから交易が盛んな豊かな国であった。17世紀のはじめまでには、アユタヤ市の南東に各国からやってきた外国人達の集まる外国人町が出来、日本人も自分たちの町を作っていた。この日本人町の人口は最盛期で1500人に上ったといわれ、山田長政の活躍した頃には商人だけではなくキリシタン・関ヶ原の役、大阪落城後亡命した浪人なども多くやって来ていた。

アユタヤ日本人町 アユタヤ日本人町の碑

 長政の出生(1590年ごろ)は駿河国の駿府馬場町とされるが、伊勢や尾張とする説もある。沼津藩主・大久保忠佐に仕え、六尺(駕籠かき)をしていたが、その後1612年に朱印船で長崎から台湾を経てシャムに渡ったことになっている。しかし『台湾通史』によると、山田長政が台湾を経てシャムに渡ったのは、1604年であったことが分かる。ここに8年の誤差があるのだが、この空間の狭間に、知られざる彼の実像があった。金地院崇伝(こんちいんすうでん)の『異国日記』という文献の中に、「山田仁左衛門長正」なる人物がなぜシャムへ渡航するようになったのかが判る。
 金地院崇伝とは幕府の公文書を写した『異国日記』(京都・南禅寺金字院所蔵)である。
 慶長12年(1607)に徳川家康が大御所として駿府城に在城するようになると、駿府は経済的に一挙に活気づいた。その異国日記にもあるが、外交政策の中枢が駿府におかれ、朱印状は駿府城から発行された。国際都市の様相を呈す城下には海外雄飛の気運が高まり、駿府の豪商たちも朱印船貿易に関わってゆく。滝佐右衛門、太田治右衛門はそうした商人だった。
 さらに家康と共に移住した家臣団は、駿府の文化水準を格段に上げていた。浅間通り周辺には家康を支える優秀な人材が居住する。西草深(現在のNHK静岡放送局裏)には林羅山(はやしらざん)の屋敷があり、その界隈は羅山の号「夕顔巷」をとって、夕顔小路と呼ばれた。羅山は徳川家康より四代にわたり将軍の侍講を勤めた儒学者である。家康が駿府城内に設立した図書館「駿河文庫」を管理し、『大蔵一覧』『群書治要』など多くの典籍の刊行を指揮した。これらの書籍の印刷には銅活字を用いた駿河版が使われ、作業には臨濟寺や清見寺の僧が動員された。羅山が晩年に江戸で家塾として開いた昌平黌は、後に官営の学校(昌平坂学問所)に発展し、武士の学問の礎を築いた。
 そんな駿府の、宮ヶ崎には前述の金地院崇伝が住んでいた。黒衣の宰相と呼ばれた崇伝は、家康が最も重用した側近である。宗教顧問であると同時に外交事務を担当して外交文書を起草した。彼らは家康の二大ブレーンとして徳川家を支え、二人が起草した「武家諸法度」によって幕府の体制は揺るぎないものとなった。このころ豊臣から徳川へと、時代が大きく回転するその中心が駿府にあった。少年から青年時代にかけての長政は、そうした空気を肌に感じていたのである。

アユタヤ4

 金地院崇伝によると、長政は滝佐右衛門、太田治右衛門らの商人と関わることになる。その長政が17歳(1607年)のときに約2ケ月ほど長崎に滞在する。当時の航海は季節風を利用したため、各国の商船は風向きが変わるまで、停泊した交易地に長期間滞在したのだが、長政は滞在した長崎で出航の算段を立てていた。この滞在期間に「アユタヤの南東に各国の外国人たちが集まる外国人町が作られ、日本人もまた自分たちの町を形成していた」ことを知る。これを詳細に伝えたのが伊東三之丞であった。この伊東三之丞についてはコラムNo.0006で述べたが、三之丞は伊東マンショの変名である。時代は、日本の朱印船貿易が盛んになる一方で、豊臣残党の浪人や、すでに弾圧が始まりつつあったキリシタンたちも、密かに国外へと脱出していた。こうした日本へ戻れない事情を持つ人々と貿易に関係する商人・船員たちが合流し、アユタヤ郊外の日本人町は最盛期には、千五百人とも三千人とも八千人ともいわれる邦人が在住していた。豪商の船に便乗してアユタヤへと密航を決意した長政が17歳であったのなら、伊東マンショは37歳であった。

アユタヤ5 アユタヤの風景
アユタヤ2 王朝の遺跡

 山田長政が関わったキリシタンの一人に、後に日本国内で壮絶な殉教死をとげるペトロ岐部がいる。長政は自身はそもそも浅間神社信仰だったが、伊東マンショに接しているうちに他の宗教に対しても寛容になったという。その長政はアユタヤの地で、日本人町にキリシタン教会の設立を許し、キリシタンと深い交流をすることになる。

アユタヤ3

                                              三馬 漱太郎
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まとめtyaiました【聖マンショ伝「帰らざる丘」・No.0027】

16世紀ポルトガルと、17世紀オランダからの視界。日本にも大航海時代があり、朱印船貿易はやがて鎖国へと連なる。 日本が「鎖国」といわれた対外政策をとった江戸時代の直前、七万

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Author:三馬漱太郎
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Sotarou Miuma
立体言語学博士
Social Language Academy Adviser
応用社会言語科学研究員

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