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聖マンショ伝「帰らざる丘」・No.0026

日本の歴史は「中世」のところで極端に分断されているために、今、その中世における「真の実在」が問われている。

 歴史とは今に繋がっている。都内人形町の駅前にそんなリアルさを感じさせる場所がある。そのリアルとは視覚には映らないのだが、駅前(地下鉄日比谷線/都営浅草線)に一軒の店構えが220年前からあり続けていることを知ると、その現代の空間に、かってきっと馬がポカポカと歩いていて、この場所に二本差の武士が買い物に来たり、馬の鞍を見にきたりしていたことを想像してしまう。「RON」とは、そんなプレミアム付きの喫茶店である。

喫茶店「RON」
 人形町のこの地に矢島家が店を構えて約220年(創業は江戸天明期の1780年)になる。今は喫茶店だが、当初の江戸期には馬具商という商売をしていた。馬具商というのは、武家総合雑貨商といっていいだろう。たとえば武士が使用する刀、鎧(よろい)、兜(かぶと)、薙刀(なぎなた)、馬の鞍(くら)や鐙(あぶみ)などをとり扱っていた。その馬具商の後両替商となり、明治期には唐物商(洋傘などの輸入洋品を扱う店)をし、現在はRONという喫茶店(昭和40年から)を営んでいる。写真はそのRON(ロン)の12代目の店構えである。

喫茶店「RON」2

 日本の書籍の中にずしりと重い本がある。この本を読んでいない人と日本を語るのは遠慮したいものだ。漱太郎は喫茶店「RON」で、最初に読みおわったとき(大学1年)に、そんな気分になったことを今でもよく憶えている。
 それほどに、本書からうけた衝撃は大きかった。あまりに大きくて、本書「中世の文学」の思索の跡をそのまま引用しないで日本を語るにはどうすればいいか、漱太郎はずっと病気に罹ったようなもので、その影響から脱出するのにたっぷり10年以上がかかってしまった。

中世の文学 中世の文学

井蛙抄 井蛙抄

 1956年(昭和31年)に読売文学賞・文芸評論賞を受賞した「中世の文学」、その著者である唐木順三は『井蛙抄』の挿話から、この一冊の思索を始めている。「文覚上人、西行をにくまれり」である。出家の身でありながら数寄に遊んだ西行についての文覚の印象を突端に置いて、以降、唐木は「数寄とは何か」という思索にふけるのであった。

唐木順三 唐木順三

西行 西行

 いったい数寄はディレッタンティズムなのかという問いが始まり、中世の初期では数寄が「外形を極微のところまで凝縮した栄華」だったことをつきとめる。それがしかし、鴨長明で変わってくる。「数寄に対する執着にのみ頼ることが数寄」ということになっていく。ここで風雅を友とする数寄が生まれた。
 さらに継いで数寄の背後にある「すさび」が問題になる。そこには「心理を離れた裸形の現実」がある。それは『徒然草』の思想でもある。裸形の現実を見つめると、そこには無常が見える。無が見える。そこで吉田兼好は、数寄の心をいったん否定する。

徒然草 徒然草
徒然草2
吉田兼好 吉田兼好

 しかし、思索はそこにとどまらない。唐木順三の「すさび」はさらに「さび」にまで進む。「さびはすさびと同じ語源をもちながら、すきをも止揚する」。そこにあらわれるのが世阿弥である。世阿弥は数寄を「せぬ隙」にさえ見とどけた。
世阿弥 世阿弥と能
松尾芭蕉 松尾芭蕉

 ここから松尾芭蕉へは直線的に一跳びである。唐木はそのことをしるして、序文をおえる。そして、このあとを、長明、兼好、世阿弥、道元、一休、芭蕉という順で、ゆっくりと日本の中世を初期から後期へと紐解いていく。
 長明について、唐木は「類型」と「類型を脱する」の両方を思索する。そのため、定家の「有心」をたどり、好奇心が類型をつくりながらもそこを脱していく経過に目をとめる。
 しかし、長明はその経過をたどろうとはしなかった。長明はむしろ「数寄の最後」を最初から狙っていた。その「数寄の最後」が長明の発心なのである。最後が最初であった。唐木はそこまでを確認して、ついで兼好の生き方に入っていく。
 その吉田兼好を見ていくと、「数寄」が好みを積極化していくのに対して、「すさび」はよしなごとであってなぐさみであるように、そこに受動というものがはたらいていることがうかがえる。それが兼好の「つれづれ」だった。だからこそ「あぢなきすさび」という奇妙な感覚も兼好の言葉になっていく。どうもそこには「質の変化」というものを観照する目がはたらいている。

 中世初期の『方丈記』や『平家物語』では、存在するもの、盛んなるもの、すなわち「有」が発想の中心にあった。それが『徒然草』では、存在するもの、有るもの、形あるもの、不動のものは、かえって「仮」である。兼好にとっては「変化の理を知らぬ人」は「愚なる人」なのである。
 これを唐木は「無有観」と見た。それは道元を先取りするものでもあった。
世阿弥は、唐木の思索にとって「すさび」を「さび」にまで進めた人である。世阿弥によって、王朝の荒涼寂寞は中世の枯淡幽静になっていく。
 ここでは有心はあきらかな無心にまで進む。たとえば「せぬ隙」は態と態との厳密な間であり、「時分の花」とは芸能者が一定の時間の中でのみ感得できる緊張の開花である。ここから「見の能」「聞の能」の先の「心の能」が出てくる。この「心の能」に「寂々としたもの」と「冷え」があらわれる。これが世阿弥の「さび」だった。
こうして道元の「道得」や「横超」が見えてくる。とくに唐木は道元が「梅華」「行持」「有時」の巻で展開した思索に目を注ぐ。そこにあらわれるのは「而今(にこん)」ということである。つまり「いま」ということである。

道元 道元

 しかし、道元の而今は、古仏のすべてに出会うための而今なのである。そこには時間の横超がある。その重畳がある。これが道元の「現成」であり、「身心脱落」である。いわば同時契合なのだ。唐木はそこにライプニッツのモナドロジーを思う。そして、あらかじめ設定された予定調和の否定を思う。
 道元は数寄を捨てたが、一休は同じく禅者でありながら、その数寄をほいほいと弄んだ。
しかし、唐木にはそのような一休がいささかわかりにくいらしい。一休は長明が依拠した庵を捨てたからである。そのあたりのわかりにくさが、本書のなかでも一休の章を甘いものにさせている。そこで唐木は、一休の二度にわたる自殺行に目を転んじようとする。そしてそこから一休以降の時代をおおう「風狂」「風流」を見る。『狂雲集』に分け入る。けれども、ここでは唐木はついに唐木らしくない。
 唐木がふたたび唐木らしい思索をとりもどすのは、やはり芭蕉においての風流の意味を解く姿にあるようだ。芭蕉の章は、ほかの唐木の著書と同様、渋い光に満ちている。唐木の思索はつねに松尾芭蕉において結晶にとどいていく。
 唐木は松尾芭蕉によって「象徴が生まれる場所」がどういうものであるかをときほぐす。「松のことは松に習い、竹のことは竹に習う」ということをあかす。そこに「さび」が立っていくところを見る。
 この最後の章で、唐木は次の主題を見出している。それは「無用」とは何か、「無常」とは何か、「無為」とは何か、ということだった。とくに連歌師・心敬への注目が、そのことを兆していた。
 こうした唐木のいう無用となるモノを考えるとき、現在放送されている日曜の大河ドラマNHKの「平清盛(たいらのきよもり)」の視聴率がはかばかしくないことに漱太郎は一抹の危うさを抱くのである。

 平安後期から鎌倉時代に至る経緯とは、中世の黎明であり、その正体の内では日本人が海外を意識し始める時代であった。そういう意味合いから平家物語を読み解くには、この物語が成立するために横超した時間の真相を知る必要がある。しかし、ここらは背景であるから、文学性優先の物語の中では触れられることはない。だが、面白いとか、面白くないとかにかかわらず、この時期の武士の台頭する時間こそが現代をひもとく日本史において重要なのであるから、この時期に平家物語が出世する必然さを感じることが重要なのである。これは、日本において武士なるものが台頭する時代に、果たしてヨーロッパでは何がどうなっていたのか、という小さな島国である日本の外に横たわるカテゴリーを孕んでいるところが極めて重要というのに等しい。
 中世の、その時代の、日常生活のささやかな哀歓を巧みに、繊細に描き出している様々な文学はもちろんすばらしい。しかし、文学形式は本来、等身大の個人の生をはるかに凌駕した巨大な主題を容(い)れることのできる融通無碍な器でもある。そうして政治や歴史をめぐる壮大な問題意識を中核に据えている。一個人の知識や想像力ではとうてい見通しが利かないような大問題に真っ向から立ち向かおうとする企図を孕ませる。ところが単なる共感の頷き合いを当てにしていては、ここらが見えてこないことになる。文学とは、政治学や社会学の論文とはまったく違う形で、「歴史」を問題化することができるのであるから、捉える人の想像力によっては、外洋をも超えて、融通無碍の世界史へと拡がり結び合わさることになろう。こんなことを念頭に据えたものだから、久しぶりに人形町へと足を運び、初めて唐木順三の「中世の歴史」を読んだ喫茶店「RON」の席に座り、改めてその著書を読み返してみた。するとその著書の視覚には無いが、しかし同史上に孕ませている外洋の光景が比較されて浮かんでくる。RONとはそういう暗渠へと通じる店なのである。

喫茶店「RON」3 喫茶「RON」の灯り

 13世紀(日本では鎌倉時代)、モンゴル軍によって残酷な殺戮と共に持ち込まれたペストの猛威で、ヨーロッパはその人口の3分の1を失うことになる。こうした中で起きた身の毛もよだつ、陰惨極まりない狂気の「魔女裁判」や、不思議であり且つ滑稽でもある「動物裁判」など、(キリスト教の)暗黒部分を内蔵した中世ヨーロッパは、なんとかイスラムの強圧に対抗しながら、次第に内陸部からその活動の舞台を再び地中海そして外洋へと視点を移していくことになった。
 まだスエズ運河の開通していなかった当時、ヴェネティアを筆頭に多くのキリスト教国家群は、地中海の制海権をイスラムと争いながら台頭と衰退を繰り返していた。
 しかしながら、当時のヨーロッパ王侯貴族、それに富裕層を虜(とりこ)にしたのは、地中海での抗争に敗れたものの、ペルシャ湾・紅海という地の利ならぬ海の利を得たアラビア商人たちのダウ船によって、海のシルクロードを経由して持ち込まれる、(胡椒に代表される)東インド・東南アジア諸国の物産であった。

胡椒 胡椒
ダウ船 ダウ船

 ダウ船とは、1本か2本のマストに一枚ずつの大きな三角帆(ラテンセイル)を持つイスラーム圏の伝統的な小型の木造帆船で、シンドバッドの仲間たちは、季節風を巧みに利用して、インド洋・アラビア海を乗り切っていったのである。
 当時マレー半島南岸に栄えたマレー系イスラム港市国家マラッカ王国(1402年~1511年)には、香料貿易の中継港としてインド、中東からダウ船が蝟集して殷賑を極め、東インド・東南アジアにおけるイスラム系商人の拠点となっていた。
 ちなみに、彼らは、西洋諸国とは正反対に、そうした当該地域の国々へイスラム教を広める役割をも果たしていったのである。
 ところがその、後ポルトガルによって、アフリカの希望峰を回ってインドや東南アジアに到る新航路の開発によって、インド洋・アラビア海の制海権をも制し、大航海時代の幕が切って落とされ、次第に東インド・東南アジア・チャイナの珍奇且つ貴重な物産の交易権を把握していく。
 その後スペインの後ろ盾を得たコロンブスによって、西へ進むことでアジアに到る新航路だと信じて大西洋へ進出するのだが、その結果新大陸の発見によって、続々と富を幸を求めての航海が始まった。
 新航路の発見は、地中海で制海権を把握した国々から、大西洋に面したポルトガル・スペインにつづいて、オランダそしてイギリスという、かつての辺境にあった国々に光を当てていったことになる。しかもそうした国々は、国内の物産に恵まれぬところから、海洋立国としてのアイデンティティを明確にしていくことになった。
 さて、当時西洋の民がいかにこの地の物産を欲したか。文明の海洋史観を考察すると、この地は、「コショウ(胡椒)に代表されるクローブ(チョウジ=丁子)・ナツメッグ(ニクズク=肉豆蒄)・シナモン(ニッケイ=肉桂)などの香辛料にとどまらず、木綿・絹製品・砂糖・コーヒー…、という豊かな物産を生み育みそして交易する東南アジアの多島海であった」ことになる。
 それだけではない。モンスーン地帯である東南アジアの熱帯雨林という自然が生み育んだ、豊かな植生が生んだ再生(継続)可能な贈り物、「紅茶・ゴム・バナナ・ココナッツオイル・コプラ……」などの物産であり、いまや乱伐によってすでに失われいしまった白檀・伽羅木・栴檀、紫檀・黒檀という香木や銘木、それに枯渇に瀕しているチークやラワン材という有用樹があった。
 さらに加えて、この地域では、ルビー・サファイア・エメラル・真珠・翡翠(ひすい)・珊瑚という宝石・貴石、それに金・銀という貴金属まで産出し集積された。こうした豊穣の品々が、当時のヨーロッパでいかに持て囃され、いかに巨大な富をもたらしたか。
 その後の当該地域の有り様を見れば、日本による大東亜戦争終結まで、ほとんど全ての地は西洋列強の植民地と化してしまった事実であり、そしてその尖兵として活躍したのが、(イエズス会を中心とした)カソリックの神父たちだったのである。
 日本におけるキリシタン禁令を考えるとき、問題視しなければならないことは、GHQによって、真実がすっぽりと覆い隠された戦後日本の歴史教育は、そうした西洋列強およびキリスト教の負の遺産をも漏らさずに隠蔽したため、当時秀吉・家康のキリシタン迫害の面のみが強調されてきたことである。
 したがって現代の私たち日本人が知り得たのは、日本文化を理解してそれを正確に本国に伝えようとした、イエズス会のフランシスコ・ザビエル(1506~1552年1)やルイス・フロイス(1532~1597年)くらいであったため、二十六聖人の殉教(1597)や踏み絵という非人道的行為、それに島原・天草の乱(1637~1638年)迫害ばかりが強調されてきた経緯があるために、中世の正体に日本人はまことに疎いのである。

ルイス・フロイス ルイス・フロイスの像

 従って『日本人とは何か』を考えるとき、秀吉のキリシタン禁令の理由について、二十六聖人の殉教以降も自由に布教していたのだが、天正7年(1587)にイエズス会が長崎を勝手に「教会領」にしたことを怒って、以下五箇条の詰問状を同支部長ガスパール・コエリョ(1530-1590年)に突きつけたという事実は重いのである。それは・・・・、
1.いかなる権威で秀吉の臣下を親者に強要するのか。
2.なぜ(信者・門弟に)神社仏閣を破壊させるのか。
3.なぜ仏教の僧侶を迫害するのか。
4.なぜ耕作に必要な牛を殺して食用にするのか。
5.なぜ支部長ガスパール・コエリョは、その国民が日本人を購入してインドに輸出するのを黙認するのか。ということであった。
 この秀吉の詰問に対してガスパール・コエリョは、自分たちの罪ではなく、「売る日本人がいるからで、彼らも厳罰にしてくれれば解決する」という回答をした。 
 また当時、西洋列強による東アジアの植民地化の実情は、逐次日本の施政者の耳にも達していたため、そうした彼らの極東政策の危険性と同時に、その尖兵としての役割を担ってきたキリスト教の持つ、もう一つの顔をしっかりと見抜いていたのである。
 その後日本は、家康の鎖国政策へと進むのだが、家康の側近、外交顧問になった三浦按針(英国人ウィリアム・アダムス(1564~1620年)、それに長崎平戸に、唯一貿易の窓口を開かれたオランダのいずれも、カソリックに対抗する新教徒の国であったことと無縁ではないであろう。
 いずれにしろ、爾来500年近く経過しながら、依然として1桁台で、しかもごく低い入信率に止まっているイエズス会の事実こそ、なおこれはその後のマルキシズムにも通じるのだが、その裏にいかにも危険(秀吉の感じた危うさ)なものを察知する、ある種の民族的英知の存在を窺わせるのである。
 ということは、本能的に一神教の持つ「性悪説」を嗅ぎ取る能力持つ、理屈・理論を超えた「不文律の文化=智恵」を持つ大衆が現存する一方、教義・教典には一切踏み込まず、現世的な奉仕面に価値観を見いだす単純な信徒と、西洋発の不毛なイデオロギーにすぐさま翻弄されてしまう「地頭(じあたま)の悪い」者が、極わずかだが存在することを意味している。
 ところがその一方で、敗戦後GHQ及びソ連コミュンテルンの巧妙極まりない謀略によって、まんまと(縄文以来の)本能である『平和』への絶対的希求を刷り込まれてしまい、まるで言霊のと言うより「護符」のように、『憲法9条・戦争放棄』を唱えることで平和が成り立っていると、信じて疑わない人たちを生み育ててきたかのようであって、これを逆転させたいご意見があることも漱太郎は承知しているのだが、それにしてもじつに滑稽なのである。
 しかもその反面、戦いの内にでも、且つ敵であっても、そこはかとない憐憫の情「滅びの美学」を抱き、「昨日の敵は今日の友」として、また死せる者は区別なく神仏に帰すという、善意に満ちた「不文律の文化=智恵」を、アメリカの宗教戦争史観によって、違法な「極東裁判」「A級戦犯」を正当化することを正しい倫理観と錯覚する民に、ものの見事に変身してしまった事実は、何かモノ哀しい平和観の強要さえ思わせるのである。
 この2つの相反する倫理観・価値観を、なんの疑問もなく内在している、不可思議極まりない日本人の真の本質とは、一体奈辺にあるのだろうか。こうした無謀な経緯には、日本人のいかにも中世の正体への無知が働いている。したがって一概に戦勝国アメリカの性にしてしまうのも愚かである。

 西洋が東洋に、特に日本に近づこうとし影響した動向を年表につまびらかにすると・・・・、
1298-1299  
• 詩人ルスティチェロ・デ・ピサによって、マルコ・ポーロ『東方見聞録』口述の事実が判明。カタイオの東にある大きな島シパンゴ(ジパング) の存在 がヨーロッパ人によって初めて注目される。
• 鴨長明は出家の後、建暦2年(1212年)に『方丈記』を成立。
• 吉田兼好の『徒然草』は鎌倉時代末期、1330年8月から1331年9月頃にまとめられた。
マルコ・ポーロ マルコ・ポーロ

1492
• クリストヴァン・コロンボ(コロンブス)が西方を経て極東にたどりつく決心を秘め、アンダルシア地方パロスを出発。
• 猿楽を深化させていった世阿弥の『風姿花伝』(1400年ごろに成立)。
1498 
• ポルトガル人、インドに到達。ここでマラッカまでのアジア情報を収集。
1500     
• ペドロ・アルヴァレス・カブラルの船隊、インドにおいて東洋に関する新情報を入手。中国に関する正確な知識を初めて得る。
1502     
• マルコ・ポーロ『東方見聞録』ポルトガル語版、リスボンで出版される。
『東方見聞録』ポルトガル語版 東方見聞録

1506     
• ドン・マヌエル一世、イスパニアの進出にさきんじてマラッカに基地を設けるようインド副王を命ずる。
1508     
• ドン・マヌエル一世、マラッカ探索のための遠征隊を派遣。司令官ディオゴ・ロペス・セケイラ。
1509     
• ディオゴ・ロペス・セケイラ、マラッカに到達するも、イスラム商人の脅迫にあい、やむなく即却。
• 初めて中国人に遭遇する。
1510     
• ドン・マヌエル一世、第二次マラッカ遠征隊を派遣。司令官ディオゴ・メンデス・デ・ヴァスコンセロス。しかしゴアにおいて、アフォンソ・デ・アルブケルケ。より遠征続行を阻止される。
1511
• アフォンソ・デ・アルブケルケ、マラッカを征服。ひきつづき東アジアの探索に着手。
1512 
• 親王フェルナンド、喜望峰経由で、東アジアへ使節派遣を考慮するも、断念。アントニオ・デ・アブレウとフランシスコ・セラン、香料(チョウジ、ニクズクなど)の産地であるモルッカ諸島に到達。
1513     
• ジョルジェ・アルヴァレス、マラッカ司令官に派遣され、中国のカントン付近に到達。バルボア、パナマ地峡を横断して、太平洋を発見。
• 親王フェルナンドは、イスパニアの関心が極東アジアではなく、新大陸にあることを確信する。
1514     
• トメ・ピレス、『スマ・オリエンタル(東方諸国記)』をマラッカにて書き終える。日本に言及されたポルトガル最初の記録である。
1515     
• 中国に向け初のポルトガル使節を載せた船隊、ポルトガルを出帆。
1517
• ポルトガル大使トメ・ピレス、広東に上陸。
1519     
• カルロス五世の命により、フェルナン・デ・マガリャンイス、(マゼラン)、モルッカ諸島探索に出発。
1520     
• フェルナン・デ・マガリャンイス、大西洋と太平洋を結ぶ水路(マゼラン海峡)を発見(10月)。
1521     
• マガリャンイス船隊、東アジアに到達。マガリャンイスはルソン人との戦いで死亡。
• ポルトガル商人、広東から追放される。
1522     
• セバスティアン・デル・カノがイスパニアに到達。モルッカ諸島をめぐる葡西両国間の外交的紛争始まる。
• ポルトガル人、モルッカのテルナーテ島に要塞を建設。
• ポルトガル人、中国海域への進出を切望するも、越冬基地を見出し得ず。
1524     
• 東アジア産品の分配に関し、葡西間の交渉始まる。「モルッカ帰属問題」が焦点に。
1525     
• ホフレ・デ・ロヨサの指揮下、イスパニアより東アジア探索のための遠征派遣。モルッカのティドーレ島に本拠を設ける。
1526     
• ドン・ジョアン三世、マラッカ司令官に中国との交易再開を勧告。
1529     
• サラゴサ条約締結。ポルトガルは、モルッカ諸島のイスパニア支配下にあることを認め、三十五万ドゥカドで諸島の統治権を買収(四月十五日)。
1531     
• ドン・ジョアン三世、私設商人の非合法交易を規制するため、中国海域へ船隊派遣を命ずるも、実現にいたらず。
1542     
• ポルトガル商人、福建省のリャンポー(寧波)に拠点をおく。
1543     
• 種子島にポルトガル人の漂着。ヨーロッパ人の日本初来。
1544     
• 日葡交易始まる。これよりポルトガル商人、薩摩および豊後の港に渡来。
1545     
• リャンポーを追われたポルトガル商人、チンチェオ(泉州または漳州)に本拠定むる。
1547
• 日本人、初めてマラッカに上陸する。
• 日本人、初めてゴアに上陸する。
• 日本列島発見の噂流れる。
1549     
• フランシスコ・ザヴィエル率いる初の宣教師一行、鹿児島に上陸する(八月十五日)。
1550
• ポルトガル商人、平戸港を発見。
• ゴア当局、日中間貿易の独占を宣言、以後、毎年、特権的な官許商人にのみこれを遂行させることを決定。
1551     
• フランシスコ・ザヴィエル、インドに帰る。新たにコスメ・デ・トーレス、日本布教長となる(十一月)。
1552     
• 豊後の大名大友義鎮(宗麟)、ゴアに到達する。
• ザヴィエルの日本関係書翰、イタリアで印刷される。
• 中国入国を願いつつ、シャヴィエル、華南のサンシャン島において死去(12月)。
1552-1554  
• この頃、レオネル・デ・ソウザの努力により、中国政府との交渉に成功。東シナ海におけるポルトガル人の影響増大。
1554     
• ポルトガル商人広東に戻る。
• 大友義鎮へ派遣される。
• 日本人ベルナンド、ポルトガルでイエズス会イルマンとなる。
1555     
• ベルナンド、日本人として初めてローマを訪れる。
• 信濃朝日山の戦いにおいて、武田氏、火縄銃を使用する。
• ルイス・デ・アルメイダ、イエズス会に入会。府内に病院を、のち孤児院を設立する。
1556     
• 豊後出身のパウロとロウレンソ、日本人初のイエズス会士となる。
• イエズス会士、山口より追放され、府内が布教の中心地となる。
1557     
• ポルトガル人、マカオに居住を許可される。
• ポルトガルの摂政ドナ・カタリーナ、大友義鎮にドン・ジョアン三世の死去を伝え、ポルトガル国王と豊後「王」との友好を確認。
1558     
• イエズス会士、平戸より追放されるも、マカオからの商人は平戸入港を継続する。
1559     
• ガスパール・ヴィレラ神父、ロウレンソおよび日本人の同伴を得て京都に入り、キリシタン布教を始める(九月)。
1560     
• 織田信長、桶狭間の合戦に勝利、一躍注目を浴びる。
1561
• 大村純忠とイエズス会との接触始まる。
1562     
• イエズス会士の影響をうけ、ポルトガル商人、大村領横瀬浦で交易を行なう。
1563
• 大村純忠、初のキリシタン大名となる。
• ベルナルド、の敵対者によって破壊される。
1564     
• ポルトガル商人、平戸に戻る。
1565     
• マカオからの南蛮船、大村領の福田に来航。ポルトガル人は平戸の大名と決裂。
• メキシコからのイスパニア人、フィリピンに居住しはじめる。
• 松永久秀、幕府の実権を奪い、宣教師を都より追放す。
1567     
• 織田信長、美濃を制圧。
1568     
• 織田信長、入京する。
1569      
• 織田信長、初めてイエズス会士と会見し、その京都滞在を許する。
• 九州制覇をねらう毛利氏が大友氏に敗れ、豊後の勢力、九州で強化される。
• 日本人キリシタン、三万人を超える。
• 伊東マンショ生まれる。
1570      
• フランシスコ・カブラル、新たに日本布教長となる。
1571      
• 長崎、ポルトガル人による日中貿易の玄関となり、キリシタン布教の中心地ともなる。
1573      
• 織田信長、将軍足利義昭を追放する。
1575  
• 織田信長、長篠の合戦で武田氏を撃破。火縄銃の連続射撃が効果発揮。
 
1576  
• 有馬の大名有馬義直が受洗。
• 織田信長、安土城の建設を始むる。
1578      
• 織田信長に対する荒木村重の謀叛に際し、高槻城主高山右近、信長側に味方する(11月-12月)。
• 耳川の戦い(12月)。薩摩の擡頭により、大友氏の勢力にかげりが見えはじめる。
1579
• イエズス会士巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ、来日する。
1580
• 大村純忠、長崎をイエズス会に寄進する(6月)。
• ヴァリニャーノ、日本人聖職者養成の確固たる方針を打ちだす。日本人最初のセミナリオが建てられる。
• 有馬城主有馬晴信、洗礼を受ける。
• イスパニア国王フェリーペ2世、ポルトガル国王を兼任する。
1581      
• 日本のミッションが副管区に昇格。初代副管区長にガスパール・コエリョが就任。
1582      
• 天正遣欧使節、ローマに向けて長崎を出発(2月)。
• 日本人キリシタン、15万人を突破する。
• 本能寺の変(2月21日)。
• 豊臣秀吉、明智光秀を山崎の戦いに破り、信長の後継者となる(7月2日)。
1583      
• イエズス会、明国にて布教活動を始める。
• 薩摩の島津氏の支援を受けた有馬の鎮純、ポルトガル人より提供された武器を用いて、竜造寺隆信を破る。
1585      
• 天正遣欧使節、ローマ訪問。
• ローマ法王庁「エクス・パストラリス・オフィシオ」なる勅書を発布し、日本におけるイエズス会の独占的普及権を認める。
• 豊臣秀吉、関白となる。
1586       
• 長崎、薩摩の島津氏により占領される。
• 九州のキリシタン大名、イエズス会副管区長とともに、秀吉の仲裁を求める。
1587       
• 薩摩軍、府内を占拠(1月)。
• 秀吉、九州に進出(四月)。
• 大村純忠、死去(5月4日)。
• 大友義鎮、死去(6月6日)。
• 島津義久、秀吉に降伏(6月)。
• 秀吉、伴天連迫放令を発布(7月25日)。
• 長崎、秀吉の完全支配下に入る。
• 豊後領主大友義統、キリスト教を棄てる。
1588       
• ローマ法王庁、豊後府内に司教区の設置を主張(2月)。
• アレッサンドロ・ヴァリニャーノ、ゴア副王の使節として秀吉のへ派遣される。
• 初代日本司教セバスティアン・モライス、モザンビークで死去。
1589       
• ポルトガルのフランシスコ会托鉢修道僧、日本普及の意思を示す。
1590       
• 関白秀吉の天下統一達成。
• ヴァリニャーノ、長崎に到着。同時に天正少年使節、帰国(7月)。
• ペドロ・ゴメス、新たに副管区長となる。
1591       
• 秀吉、日本全国の戸籍調査を行なう。
• 京都にてヴァリアーノ、秀吉に謁見。キリシタン抑圧が緩和(3月3日)。
• 大友義統、教会と和解。
1592       
• ドミニコ会士を中心とするマニラからの初使節、来日。秀吉より教会建設の許しを得る。ポルトガルおよびイスパニア両国間で普及保護権をめぐる論争おこる。
• 秀吉の第一次朝鮮侵略。キリシタン大名もこれに加わり、以後、朝鮮にキリスト教が伝わる。
1593
• フランシスコ会士を中心とするマニラからの使節、来日。秀吉より教会建設の許しを得る。普及保護権をめぐる葡西間の論争激化。
1595       
• オランダ人、初めてインド洋に進出、南アジアの諸島で交易を始める。
1596       
• 日本司教ドン・ペドロ・マルティンス、秀吉に謁見(11月)。
• 日本人キリシタン、30万人となる。
1597       
• サン・フェリペの乗組員と日本政府とに意思の疎通を欠き、秀吉、再度キリシタンに圧力をかける。
• フランシスコ会士は国外退去を命ぜられる。
• 長崎で26名の殉教者出る(2月5日)。
• 日本司教ドン・ペドロ・マルティンス、離日。
• 秀吉の第二次朝鮮侵略。
1598       
• ドン・ペドロ・マルティンス、マラッカ付近で死去(2月5日)。
• ドン・ペドロ・マルティンスの補佐たりしドン・ルイス・デ・セルケイラ神父、長崎に到着(8月5日)。
• 秀吉、死去(9月16日)。
• イスパニア国王フェリーペ三世、ポルトガル国王を兼任。
• イエズス会とフランシスコ会、長崎殉教事件をめぐり相互を非難。
1599       
• セルケイラ、これまでの二年間に約7万の受洗者ありと報告。
• 日本軍、朝鮮より撤退。
1600       
• ローマ法王庁、ポルトガル勢力圏通過を条件に、托鉢修道僧の日本普及を認める。
• 新副管区長としてフランシスコ・パシオ神父が着任。
• 豊後沖でリーフデ号遭難。オランダ船の日本初漂着(4月)。
• 関が原の戦い。徳川家康の全国的支配権ほぼ確立(10月21日)。
1600-1610   
• この頃、東シナ海で南蛮船に対するオランダ船の海賊行為、頻発する。
• 日本各地で散発的にキリシタン迫害が起こる。
1601       
• イエズス会士木村セバスティアンとルイス・二アバラ、日本人初の司祭となる(9月21日)。
1602       
• オランダ東インド会社。設立される。
• アウグスチノ会、布教を始める。
• 幕府、朱印状を交付して、日本人の海外交易活動を奨励。
1603       
• 徳川家康、征夷大将軍となる。
• ドミニコ会、日本での布教を始める。
1605       
• 家康、征夷大将軍の職を息子の秀忠に譲る。
1606       
• ルイス・デ・セルケイラ司教、家康に謁見。
1607       
• イエズス会副管区長、家康および秀忠に謁見。
1608
• ローマ法王庁、日本布教をすべての会派の宣教師に許す。
• 有馬晴信配下の日本人、マカオで、ポルトガル人と紛争を起こし、マカオ官憲に射殺される(マカオ騒擾事件)。
1609       
• オランダ人、平戸に商館を設置。
1610       
• マカオ騒擾事件がきっかけとなり、長崎に入港していた南蛮船の包囲を受ける。船長アンドレ・ペソアは南蛮船を撃破して自決(1月26日)。
• 日本‐メキシコ間の定期航路開設を求めて、幕府、イスパニアとジ条約を結ぶ(7月4日)。
1611       
• イエズス会日本副管区が管区に昇格。初代管区長にヴァレンティン・カルヴァーリョ就任。
• メキシコからの反応なく、日本とイスパニア間の関係微妙化。
• マカオからの南蛮船船長ヌノ・ソトマイオール、幕府とポルトガルの関係を緊密化。
1613       
• イギリス人、平戸に商館を設置。
1614       
• 幕府、キリシタン禁教令を発布。前線教師の国外退去を決定(1月17日)。
• セルケイラ司教、死去(2月16日)。
• 大半の宣教師、日本を追放される。なお数十人の宣教師は日本に潜伏(11月)。
• 大坂冬の陣。
1615-1623   
• この頃、多数の宣教師が商人に変装して日本へ密入国。
• 大坂夏の陣。豊臣秀吉滅亡。
1616      
• キリシタン発覚者は即時処刑される旨発布。
• 徳川家康没する(6月1日)。
• 日本の対外交渉、平戸と長崎のみに限定される。
1618       
• マカオ当局、これまでの大型の「黒船」に換えて小型のフラガタ船を日本へ送るようになる。
1619       
• 新日本司教ドン・ディオゴ・ヴァレンテの日本航海をマカオ当局が阻止。
1620       
• キリシタン迫害、北日本でも始まる。
1621       
• イスパニア国王フェリーペ四世、ポルトガル国王を兼任。
1622       
• マカオ、オランダの執拗な攻撃を撃退。
1623       
• 徳川秀忠、将軍職を息子の家光に譲る。
• 平戸のイギリス商館、閉鎖。
• ポルトガル人の長崎永住、禁じられる。日本人と結婚し、子供のあるものは息子のみを伴っての離日が求められる。キリシタンの迫害、さらに激化し、信徒には過酷な拷問が科せられる。
• 日本とイスパニアの国交断絶。
1624
• オランダ人、台湾に根拠地を設ける。
1627       
• ゴア当局、日中間貿易の一括管理を提案するも、マカオ商人はこれに反対。
1628       
• イスパニア国王フェリーペ四世、日本での布教活動を15年間イエズス会の独占下におくことを決定するも、インドの顧客官、この決定を反故とする。
• 台湾で生じた日蘭両国間の騒事件により、オランダ東インド会社の船は日本入国を禁じられる。
• ポルトガル、ふたたび日本で通商を許された唯一のヨーロッパの国となる。
1632       
• 徳川秀忠死去。家光が幕府権力を確立。
1633       
• オランダ人、平戸での通商を再会。
1634       
• 長崎で出島の建設始まる。
• この頃、残留宣教師は10名程度となる。
1635       
• 御朱印船の廃止。日本人の海外出国禁止。
1636       
• ポルトガル商人、出島の完成を「祝う」。
1637       
• 島原の乱。一揆軍にキリシタン多く加わり、幕府、ポルトガル人を煽動者とする口実を得る。
1638       
• 原城、オランダ船の艦砲射撃にさらされて陥落、一揆軍約3万7000人、幕府に皆殺しにされる(3月12日)。
1639       
• 幕府、ポルトガル人の入国を禁止。オランダ商館が平戸から出島に移される。
1640       
• 通商回復を願ってマカオ当局、日本への使節を派遣するも、使節一行は捕縛、処刑される。
• ポルトガル、新国王ドン・ジョアン四世のもと、イスパニアから再独立(12月1日)。
1642-1643    
• この頃、最後の宣教師密入国が偶発する。
1644       
• ポルトガル国王ドン・ジョアン四世、ゴンサロ・シケイラ・デ・ソウザを大使として日本に派遣。
1647
• シケイラ・デ・ソウザ、長崎に到達するも、ただちに国外退去命令が伝達される。
1685       
• 日本漂流民、マカオ当局によって送還されるも、国交回復の要請は拒絶される。
• 俳人松尾芭蕉による紀行文『奥のほそみち』元禄15年(1702年)刊。
 と、いうような外交の経過の中で日本人の動向と意識が明らかになる。

 喫茶店「RON」(昭和40年から)の時間経過は未だわずかでしかないが、220年と受け継がれた老舗の灯りの下にある一席からは、さまざまな形の中世の正体が浮き彫りとなってくる。馬具商から始まった営みの時間の中にあってこそ、唐木順三が著書に旅した中世の時間が彷彿となってくる。

喫茶店「RON」4

 なぜ漱太郎が、冒頭の唐木順三の「中世の文学」を引き出してみたのかは、思春期の少年である伊東マンショが、いきなり国家と歴史の闘争空間に巻き込まれるという、この悪夢のような体験を共に享受したいからである。
 混迷極まる天正期に遣欧した四人の少年らは、ひたすらその時代に内閉しながらも、互いが外洋と向かい合って繊細なコミュニケーションの触手を伸ばしてゆく。4人は時代の嘘や虚栄心、勘違いやすれ違いに翻弄されつつ、いかにその内閉から解き放たれ、いかにして自身を「ひらいて」ゆくかという真摯な自問を、それぞれが誠実に追求した生涯として、拘った時間を終えた。彼らは風通しの悪い密閉空間で、わが国特有の同質化の圧力に耐えながら生きたことになるが、その中で特に伊東マンショは、四十余年の人生の時間を、見事に圧縮しおおせている。この情動に、脱帽のほかはない。


                                             三馬 漱太郎
喫茶店「RON」5 喫茶「RON]の位置図

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まとめteみた.【聖マンショ伝「帰らざる丘」・No.0026】

日本の歴史は「中世」のところで極端に分断されているために、今、その中世における「真の実在」が問わせる場所がある。そのリアルとは視覚には映らないのだが、駅前(地下鉄日比谷...

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Author:三馬漱太郎
Welcome to Ron「漱」World
Sotarou Miuma
立体言語学博士
Social Language Academy Adviser
応用社会言語科学研究員

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