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伊東マンショの正体を科学する No.0008

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 世界は大航海時代。日本は戦国「下克上」の世。同時期にキリスト教が伝来する。織田信長の比叡山焼き討ちのころに、また室町幕府が終焉しようとするころに、日向国一円に勢力する豪族の伊東家に数奇な運命を宿す一人の男児が誕生した。
 この男児が後に天正遣欧少年使節の正使となる伊東マンショ。
 だがこの人物についての実像を記す資料は今日に乏しい。その背景には当時の混乱と錯覚とが不遇にも交錯する日本史の実情がある。つまり記録として残せない深い闇の淵に置き去られた。
 No.2631ファイル・データはこの歴史人の正体に迫る研究をシリーズ構成でつづる資料コラム。中世の街道を往来した人物との交流を織り重ねながらマンショの足跡の真相を編集する。・・・・伊東満所

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Vislumbres de Mansho está enterrado en la historia de España
 フェリペ2世に謁見した伊東マンショは1584年11月26日にマドリードを出発した。そして1585年3月1日にイタリアのリヴォルノに到着する。この間、約3ヶ月。スペインに伝わる一冊の史書をひもときながら歴史の地下に埋もれたマンショのエピソードを紹介しクローズアップする。
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 ムルシアに秘められたエピソード

     辻斬りZ W50H50 gif  ① 「伊東マンショが見た水の都ムルシア」
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         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

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     ムルシアはセグラ川と密接でその肥沃な土地の周囲には山々が連なるアラブを起源とするスペインでも古い都市の一つである。山々はこの古代都市の平野を囲むように座り、ギルドの通りに一歩足を踏み入ると、そこにはまず大聖堂の塔、市のシンボルの一つが現れる。そのムルシアには2000年以上に渡り人々が居住する。またこの居住地を取り囲むようにしてエミールAbderramanII世はセグラ川のほとりに城壁を築いた。
 そして城壁が築かれたのは、13世紀にカスティーリャ王国の一部となるまでの間、Mursiyaのムーア人の領域が重要性を得るために始めたのが最初で、エミールAbderramanII世による城壁の完成はその後のことだ。
 現在も市内にはそのムーアの過去の遺跡が数多く残されている。
 さらに旧市街は、ギルドの名残りを保つ歴史の街でもあり、セグラ川に隣接してプラテリア(銀の)、Trapería(パーズ)とVidrieros(ガラス切り)などの地名が当時を物語る。

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 ムルシア(Murcia)は、スペイン南東部の都市で、ムルシア州の州都。セグラ川に面する。人口は約42万人でスペイン第7位。衛星都市を含めたムルシア都市圏は56万人で、都市圏としてはスペイン第12位。

 825年、ムルシアは「メディナト・ムルシヤ」という名前で、アンダルスを支配した後ウマイヤ朝のアミール、アブド・アッラフマーン2世によって建設された。
 アラブ人はセグラ川の流れの利点を活かし、複雑な灌漑用水路のネットワークを作り上げた。これによって町は繁栄し、近代の灌漑システムの先取りとなった。12世紀にアラブ人の地理学者イドリースィーは、この町を人口が多く、強く要塞化されていると述べている。たしかにこの古代の先取技術は未だ現代に通用する。
 コルドバのカリフが倒れると、ムルシアは順にアルメリア、トレド、セビリャの支配下に入った。1172年、ムワッヒド朝の支配下に入ったが、1223年から1243年までは独立した王国となった。
 1243年、アルフォンソ10世に率いられたカスティーリャ王国はムルシアを奪い、多くの移住者が北カスティーリャとプロヴァンスから移住した。1296年、ムルシアとその領域はアラゴン王国に引き渡されたが、1304年、トレラス条約によって最終的にカスティーリャ王国に編入された。そして18世紀になると、ムルシアは絹織物業によって繁栄し、教会や記念碑の多くはこの時期に建てられている。

 Cartagena City Murcia Spain

 Tourist Information Video for Cartagena Murcia Spain. Only 20 mins from Hacienda del Alamo. カルタヘナムルシアスペインの観光案内。ハシエンダデルアラモからわずか20分。


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Episode gif エピソード・マンショ ①

 ムルシアはセグラ川に沿って市街地が形成されている。
 この川は、アンダルシア州を源泉とする延長325kmの川だ。そして流れはスペインの南東部沿岸の海へと注ぐ。じつは伊東マンショはこの川と関して一つの出来事を体験した。
 だが少し本旨から道草して現代の目線でこの川を述べると、セグーラ川 (スペイン語:Río Segura、ラテン語:Thader、アラビア語: وادي الأبيض Wadi al-Abyad, 「白い川」)は、ハエン県に源を発し、アルバセテ県、ムルシア州、アリカンテ県を流れる。
 上流域には水力発電用ダムがあり一定の水量を保つ。下流域では半ば干上がることすらある河川であるが、雨季である秋に突然土砂降りの雨が降ると洪水を起こすことがある。
 20世紀では1946年、1948年、1973年、1982年、1987年、1989年に洪水が発生した。多発、そのために1990年以降運河が掘削され、治水目的のみの排水地がつくられた。
 よって河川の蛇行が改善され、あふれ出た水の排出が改善されたことで、水量が低位置に抑えられている。現在もベガ・デル・セグーラ沖積平野は、非常に生産的な農業地帯で、果実・野菜・生花が生産されている。しかし反面ムルシア地域を含むセグラ川下流域は、ヨーロッパ有数の汚染河川である。近年の水質管理、排水浄化施設の設置で状況はやや改善に向かってはいる。


 セグラ川に沿いグアダルマールセグラへと散歩。約一時間半片道かかるが、軽食用アダルのバーやレストランが川沿いにたくさんある。町と海の素晴らしい景色と、アダル城の城壁を回る歩道があるが、この歩道からまた町への入り口は、古い水車小屋エリアで大噴水の景色を見ることができる。


 セグラ川の氾濫。(1946年)

 モンテロ家に伝わる史書の記しによると、伊東マンショがこのムルシアに到着したのは1584年12月5日とある。マドリードを発った日から9日後のことだ。
 途中、ラ・マンチャ地方をのんびりと一行は進んでいる。マンショはベルモンテ城で一夜を過ごしたことは前回のファイル7番にて触れた。なぜこうも長閑な歩行となるのかは、ムルシアから次の進路となるアリカンテの事情に左右される。
 一行はそのアリカンテの港から帆船による航海でローマへと向かう予定が組まれていた。この出航の準備に時間が必要であったようだ。もしその調整時間が不必要であったならベルモンテ付近からはアリカンテに向かう最短の道は他にもあった。よほどムルシアに重要な要件がない限り、ムルシアからアリカンテを辿ると少し遠回りとなる。したがってムルシアを訪れることは出航待ちの時間調整も兼ねていたことになる。


 ムルシアとその自然環境のハイライトで現在を救済する地質学的起源を説​​明する教育ドキュメンタリー。


 中世のムルシア

 史書伝によると伊東マンショがムルシアに滞在した期間は15日、半月はこの街で過ごしている。
 到着したのが12月5日であるから、冬季半ばのことであった。しかしムルシアは地中海性気候の影響を受けたステップ気候である。地中海に近いために、『半乾燥・地中海性気候』と一般的に称され、夏は暑く冬は温暖である。おそらくマンショの当時もそうであったろう。使節一行はこの比較的暖かい土地で旅の体調を整えようとした。

 史書をひもとくと「El muchacho siguió mirando la estrella de la noche un par de días.少年は数日間、夜の星を見続けていた」とあり、その後「El muchacho fue observar el flujo del río Segura.少年はセグラ川の流れを観察していた」とある。そして「Escuchó bien hablar de los agricultores.彼は農民の話によく耳を傾けた」と記す。さらに「Boy que expresaron su interés en el caudal del río, estaba dibujando una imagen de un foso o al río. 川の流れに関心を示した少年は、堀や川の絵を描いていた」ことを記している。そしてこの記述の最後に「El nombre del niño es Mancio.少年の名前はマンショ」だと伝える。

 このことは伊東マンショがムルシアの「灌漑システム」に関心を強めたことを物語る。おそらく日本には無い水の文明に驚き、不思議さを感じたのであろう。スケッチをしたとあるが、残念ながらその所在は不明である。なお特筆すべきことは彼が「天文に関心を示した」ことだ。史書には「Había oído hablar de curiosidad constelaciones.彼は好奇心で星座の話を聞いていた」とある。

 ムルシアに複雑な灌漑用水路のネットワークを作り上げた後ウマイヤ朝(こうウマイヤちょう756年~1031年)は、イベリア半島に興ったウマイヤ朝の再興王朝のことである。
 これを西カリフ帝国とも呼ぶ。日本での通称は後ウマイヤ朝であるが、史料や外国の研究者はアンダルスの(またはコルドバの)ウマイヤ朝と呼んでいる。
 この後ウマイヤ朝は、アッバース朝に匹敵するほどの繁栄の時代に達した。
 10世紀の地理学者イブン・ハウカルは、当時のコルドバはバグダードには敵わなかったが、エジプト、シリア、マグリブのどの都市よりも大きかったと伝えている。
 10世紀のコルドバは世界でも有数の大都会であり、史料によると人口は50万を下らなかったと推測されており、西欧で最大の都市であった。こうしたコルドバは洗練した文化の都ともなり、すでにクリスタル・ガラスの製法は9世紀後半にコルドバで生まれ、金銀細工の技術も発達する。
 また、バグダードからコルドバの宮廷によばれたジルヤーブは琵琶の演奏や歌手として名声を博し、バグダードの優雅な文化をコルドバにもたらした。
 彼がもたらしたものは、例えば、フランス料理の原型となった料理コース、ガラス製の酒杯、衣服を季節ごとに着替える習慣、髪の手入れ、白髪抜き、歯磨きの使い方、などである。

 10世紀半ば、コルドバの西北7キロの小高い丘にザフラー宮殿(花の宮殿の意味)が建造され、大理石だけでも4000本が使われ、宮中には40万巻の書籍が集められた。
 おそらく、当時の世界で最も輝く宮殿であっただろう。
 統治下で、さまざまな宗教や民族が共存しえたことは、この王朝の繁栄に大きな貢献をもたらした。一部のキリスト教徒は移住したが大部分はイスラムの支配下で信仰の自由を許されて暮らした。ユダヤ教徒も西ゴート王国時代には冷酷な扱いを受けることが多かったが、イスラム支配下では自由と繁栄を享受した。また、イスラム文明が極めて高度な文明であったので、それを土着のスペイン人がすすんで受け入れたことも安定したムスリム社会を形成した理由だろう。

 ムルシアの歴史上の特性をそう考えてみると、伊東マンショという人物は日本人の誰よりも一早くムスリム社会の文明を実際に体験した。その眼差しの一端が彼を灌漑システムの文明技術へと向かわせたといえる。したがってこの15~6歳の日本少年は、歴史的に驚異的な実体験を果たしたのだ。
 しかもそこに接近する意識が受身ではなくポジティブであるのだからマンショの精悍な性格もが浮き彫りとなる。これこそがじつに驚異的だ。





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Vislumbres de Mansho está enterrado en la historia de España
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 アリカンテに秘められたエピソード

     辻斬りZ W50H50 gif  ②「伊東マンショを魅了したスペインの黄金文明」
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         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

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     アリカンテ(Alicante)は地中海に面する港湾都市(人口約32万人)。
     物流拠点として重要な役割を果たすほか、アルミニウムなどの工業も盛ん。温暖な気候が続くため、保養地、海水浴場として多くの観光客も集める。近隣の都市としては、20キロ南西にエルチェ、70キロ南西にムルシアが位置している。
 歴史的には、紀元前3世紀、フェニキア人の植民市・カルタゴの名門であるバルカ家によって建てられた。
 当時はアクラ・レウケと称される。しかし、ローマとの第二次ポエニ戦争にカルタゴは敗れ、アクラ・レウケもローマの支配下におかれた。ローマの統治下ではルセンツムと称された。
 8世紀にイスラーム勢力に征服され、13世紀までその支配は続いた。
 その後はアラゴン王国の支配下に入り、15世紀後半のカスティリャ王国とアラゴン王国の合併によってスペインの支配下に入った。18世紀初頭のスペイン継承戦争では、一時フランス・ブルボン家の軍に街が包囲された。1936年に勃発したスペイン内戦では、人民戦線側を支持する勢力が強かったが、フランシスコ・フランコ将軍を中心とした反乱軍が最終的には勝利した。

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 地中海に面し、気候が温暖なアリカンテはコスタ・ブランカの中心的なリゾート地。 かつてローマ人に「光の都」(Lucentum)と、ギリシア人に「白い砦」(Akla Leuka)と 呼ばれていた。
 Alicante(現地の言葉ではAlacant)という地名はアラビア語の「Al-Laqant」に由来する。港沿いの遊歩道は幾何学模様のタイルが敷かれ、椰子の木が立ち並び、カラフルな椅子に座って憩う人々の姿があり明るい雰囲気に包まれている。主要都市からの距離はマドリード:432km、バルセロナ:544km、バレンシア:182km。



 この街からは紀元前3~4世紀の遺物や、また当時のものと見られる40以上の墓所が発見されている。ウエルタスとサンタ・ポラのふたつの岬に挟まれた地中海沿岸のアリカンテは、古くから港町として発展してきた。
 8世紀にイスラム教徒支配下に入り、13世紀末にジャウマ2世によりレコンキスタされ、14世紀初頭にはアラゴン王国の勢力下に。当時すでに、現在と同じドライフルーツ、羊毛、ワインを中心とした商業が盛んに行われたていたという。
 その後、17世紀にはフランス軍の攻撃で町が荒廃するも、18世紀にマドリードと結ぶ鉄道が開通したのをきっかけに、新大陸アメリカとの交易で再び繁栄。現在は、地中海岸のリゾート地コスタ・ブランカ(白い海岸)の中心地として、多くの観光客が訪れる町である。夏は海水浴、冬は避寒を求める観光客が、国内外から大勢押し寄せる。
 18世紀に作られたバロック様式の市役所などもあるが、アリカンテの魅力はなんといってもビーチだろう。パーム・ツリーが並ぶ整備された遊歩道の先が、ビーチになっている。海岸沿いは、大規模、中規模とりまぜてホテルが林立している。
 ここで、とても夢のないことを言ってしまうと、新しく開発された町ではないこともあって、町の中心にあるビーチの雰囲気は、日本の「熱海」かもしれない。静かに海水浴を楽しみたいなら、近くにある町からやや離れたビーチまで足を伸ばすほうがいいだろう。アリカンテを囲むウエルタスとサンタ・ポラの岬からは、広々とした地中海を見晴らすことができる。
 アリカンテは海沿いの街なので魚介類は新鮮だし、米どころであるタラゴナ-バレンシア-ムルシアのラインの間に位置するので、とりわけ米料理は美味に感じる。
 そしてポピュラーな魚介類は、ヒメジ、イワシ、マグロ、エビ、ヤリイカにコウイカなど。
 A la Planacha「ア・ラ・プランチャ」とあれば、これらを鉄板焼きしたものという意味だ。また、隣のバレンシアはパエージャ発祥の地であるし、ムルシアは特別な方法で生産する水分の少ない高級米の産地。この地方には米と魚介をふんだんに使った料理が何種類もある。
 D.O.(原産地呼称制度認定)Alicante「アリカンテ」は古くからワインの産地として知られてきたが、90年代になって一気に設備や原材料の見直しが行われてから、高品質なものが生産されるようになった。デザートワインとしては、甘口のMoscatel「モスカテル」(マスカット)種のものがおすすめとなろう。
 また、クリスマスに食べられるTurro'n「トゥロン」(ハチミツ、砂糖、卵白とトーストしたアーモンドを混ぜて作る、アラビア伝来の菓子)の産地としても有名で、これはスペインに二つしかないトゥロンの原産地呼称のひとつに認められている。


 コスタブランカ地方のアリカンテの海岸は約160キロ。この海岸線には、日光浴やスイマーのためのビーチ、スキューバダイビングのための岩の入り江の他、テーマパーク、サファリ公園、自然保護区、魅惑的な村、洞窟、滝などと共に、エキサイティングな祭り、国際的に有名なゴルフコースもある。


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 Alicante (Espagne)

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Episode gif エピソード・マンショ ②

 幾度か訪れているスペインではあるが、その中で記憶に残る意外な旅の出逢いがある。それは一度、日時を定める意味合いもなくただ目的地のみ意識して訪れたスペインは、Semana Santaセマナ・サンタ)の真っただ中であった。なので、その時期にスペインを訪れると、どなたでも下の動画のごとく神秘な光景に遭遇するだろう。

 何を祝う祭りかというと、話はキリスト教にまつわる。キリストが刑を受け、復活するまでの1週間を祝うお祭りである。毎年、3月末~4月初めの1週間が、このセマナ・サンタにあたる。英語では「イースター」と呼ばれるものだ。
 この熱烈な信者、好奇心の強い人、観光客やグルメなど、様々な人々が祝う情熱と楽しみの溢れる一週間、セマナ・サンタ(聖週間:Semana Santa)はふたつの顔を見せてくれる。
 ひとつは、カトリック教信者にとってその年の最も大事な時期であり、キリストが人間の罪をあがなうために自ら犠牲になったことを思い出すために様々な行事が催されること。
 そしてもうひとつは、その他の人々にとってセマナ・サンタはパソ(Paso:行列の神輿)やナザレノ(Nazareno:フードつきのマントを着用し受難者の格好をした人々の行列)の姿を見物する絶好の機会となることだ。さらに、この時期だけしか味わえないデザートやお菓子などを、スィーツ店やレストランなどで楽しむ習慣も異国人には魅惑な出逢いとなる。
 このセマナ・サンタにキリストの受難を再現する習慣は、スペインで最も伝統のある行事のひとつ。
 首都マドリードでも、当然のことながらセマナ・サンタを祝う伝統については、長い歴史がある。15世紀から毎年、新約聖書に記述されているキリストの死、磔の刑そして復活の再現が行われてきた。数日間にわたって催される行列で使われる神輿は、華やかに飾られ、20人あまりの男性が担いで教会の外へ運びだす。行列はプラド通り(Paseo del Prado)、アルカラ通り(calle Alcalá)、マヨール広場(Plaza Mayor)などの場所を巡る。これはマドリードだけに限らない。この期間、スペイン国内では各地域で特色のあるセマナ・サンタが行われる。

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 アリカンテのセマナ・サンタ。
 教派別に表現が違う。受難週(じゅなんしゅう:プロテスタント)、聖週間(せいしゅうかん:カトリック)、受難週間(じゅなんしゅうかん:正教会)、(英: Passion Week, Holy Week, 西: Semana Santa)とは棕櫚の主日(枝の主日、聖枝祭)から、復活祭(復活大祭)の前日までの一週間を指す。この週の木曜日は「聖木曜日」(「洗足木曜日」、「聖大木曜日」)、金曜日は「聖金曜日」(「受難日」、「受苦日」、「聖大金曜日」とも)、土曜日は「聖土曜日」と呼ばれる。これはイエス・キリストがエルサレムで受けた苦難を記憶する事から「受難週」等の名がつけられている。受難週の各曜日における出来事を福音書の記述に従って行う伝統は、エルサレム教会で2~3世紀頃から行われていたようである。今日でも正教会、カトリック教会、聖公会では各曜日に様々な行事が行われている。ただ、プロテスタントでは教派や国によって採用する行事にばらつきがある。

 アリカンテ(Alicante)での伊東マンショの動向をみるとき、このイースターにちなんだ料理について考えてみたい。モンテロ家に伝わるトメリョソ(Tomelloso)の歴史書には、伊東マンショがアリカンテで口にした料理が記されている。
 史書伝に「Los ingredientes que se utilizan qué? . この食材は一体何なのでしょうか」と質問が記され、また「¿Es lo mismo que los que comí en Macao antes.  これは私が前にマカオで食べたものと同じです」と伝えている。マンショはその「何か?」を体験した。

 ドイツなどでは、このイースターにはウサギをかたどったパンを食べたりする習慣があり、ヨーロッパの他の国々をみても、どちらかというと、羊の肉や、鶏肉、ソーセージなど動物性食品を摂る習慣が多い。スペインはというと、塩漬けの干ダラを使った料理を食べることが多いようだ。スペインではこの塩漬けの干ダラ(バカラオ)を食べることが多く、普段の料理にも登場する。
 そしてデザートでは、「torrijas(トリハス)」と呼ばれる、パンから作られるスイーツを食べる。これはバゲットなどを砂糖やハチミツを入れたミルクに浸して、溶き卵に通して、フライパンで焼く。似たモノでは、フレンチトーストみたいな感じであろうか。そしてセマナ・サンタの間は、学校や会社が休日になるのが大半なので、スペインではそれぞれ家で過ごしたり、遠出をして過ごしたりしている。

 伊東マンショがアリカンテに到着したのは1584年12月22日。少年使節の一行はアリカンテ近郊で年を越すことになる。年が明けて出航する支度は整えられた。したがって聖夜はアリカンテで迎えた。このときその食卓にセマナ・サンタ(イースター)の料理と同様のモノが並べられたと記されている。

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 バカラオ(西: Bacalao、葡: Bacalhau バカリャウ、伊: Baccalà バッカラ)は、タラ(鱈)の塩漬けの干物、またはそれを用いた料理を指す。南ヨーロッパ諸国、スペインやポルトガルの植民地であった中南米諸国、そしてタラの捕獲地である北欧諸国を中心に食べられている。
 スペイン語圏において、単にバカラオというとタラを指すが、むしろ塩漬け干ダラのバカラオ・エン・サラソン(Bacalao en salazón)を意味することが多い。
 塩漬けにして乾燥した場所で数ヶ月保存する。1匹丸ごと保存加工されたタラの塊はバカラーダ(bacalada)と呼ばれ、ほぼ三角形の形をしている。主な生産地は北欧諸国と北アメリカの北東部である。保存性の高いバカラオは航海中の食料に向き、三角貿易で盛んに取引されたため、タラの産地から遠いブラジルや西インド諸島、西アフリカでもよく食べられている。かつては庶民的な食材であったが、1990年代にタイセイヨウダラの資源量が激減して以来、価格が上昇した。
 同じく塩蔵されるタラ科スケトウダラ属の魚ポラック(en:Pollock)とよく混乱されるが、バカラオはタラ科マダラ属の魚(英語:Cod 、コッド)を用いる。 また北欧諸国のルーテフィスク(no:Lutefisk)は乾燥させた鱈を灰汁で柔らかくゼリー状にしたもので、塩蔵はしていないため、バカラオとは異なる。

 バカラオは塩漬け保存、この方法で保存すると、ココチャス(kokotxas、喉肉)などの肉、卵、骨、肝臓、浮き袋など料理に使える多くの部分を取り除くことになる。塩漬けで数ヶ月乾燥させると三角形の平らな形となり、持ち運びが楽になるとともに、少ない量であれば重ねて積むこともできる。
 塩蔵された魚は大量に塩が用いられているため、そのままで食べることはできない。調理の約24時間前から冷水で塩抜きする。塩抜きの途中で1度か2度水を変えるが、その頻度はタラの大きさによって異なる。塩抜きが完了したらすぐに調理を始めるべきである。また塩抜きの段階で薄くはがれた細切れの肉片は「バカラオの切れ端」(migas de bacalao 、ミガス・デ・バカラオ)として別売りされることがある。

 こうしたバカラオは、スペイン・ポルトガル・イタリア・フランスおよび中南米諸国と係わりが深い。これらのカトリック文化圏では、謝肉祭の最終日(マルディグラ 、太った火曜日の意)の翌日である灰の水曜日から復活祭の前日までの40日間を四旬節といい、かつてはこの期間中に小斎として鳥獣の肉を絶つことになっていたため魚を食べた。
 20世紀後半以降は四旬節のうち、灰の水曜日とキリストが十字架にかかった聖金曜日のみ、あるいは受難と同じ曜日である毎週金曜日に鳥獣の肉を食べない習慣となっている。南欧や中南米では聖金曜日を含む四旬節の最後の1週間に当たるセマナ・サンタ(聖なる1週間、Semana Santa)用の伝統食が確立されており、タラとくに塩漬けのバカラオはセマナ・サンタの象徴的な食べ物となっている。



 スペインにおいてタラはセマナ・サンタに食べる伝統的な魚であり、スープ、フライ、コロッケ、トルティージャなど様々な料理に用いられる。アルゼンチンでも肉食を避ける日はマグロを詰めたエンパナーダとともにバカラオのシチューが代表的な食事となっている。バカラオが手に入らない場合はサメの肉(カソン、cazón)で代用する。エクアドルとコロンビアではファネスカ(es:FanescaまたはJuanesca)というバカラオのスープを食べる習慣がある。また、この時期 ブラジルでも、スカンジナビア諸国から大量のタラを輸入しており、その量は世界最大となっている。近海の魚でなく敢えて遠方の寒流に棲むタラを食べるのは、宗教的な伝統食であること、三角貿易と旧宗主国であるポルトガルの食生活の名残であることとされる。
 しかしメキシコは例外で、セマナ・サンタの時期ではなくクリスマス・イブに食べる。カトリック教徒はクリスマス前の待降節期間中も四旬節同様肉食を避けるためである。

 史書伝では伊東マンショの質問に「Se Bakarao. Un plato de bacalao. それはバカラオ。タラの料理です」と応じたと記されている。どいやら以前の寄港地であるマカオでも一度食べたことがあるようだ。マンショは九州の日向国に生まれた。鱈という魚は北方の食材、食感は記されてないが、伊東マンショはアリカンテで鱈料理を体験した。

 19世紀半ばのアリカンテ。(1853年から1866年)。
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Vislumbres de Mansho está enterrado en la historia de España
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 サンタ・ポールに秘められたエピソード

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 Fastighetsbyrån Gran Alacant & Santa Pola

 アリカンテから南にバスで約30分の隣町サンタ・ポーラは、漁港であり、あるいは夏に賑わう海水浴場でもある。じつは、この地にも伊東マンショは足跡を残した。
 この情報を基に漱太郎も何度かサンタ・ポーラを訪れている。
 ところが近年、バスが街中に入ると急に初めてきた街のような気がしてきた。かってこんなに建物が密集している地域ではなかったはずだ。そう思っている間に乗車したバスは海岸通に入っていき、次の停留所で乗客の殆ど全員が降り始めた。道路の向かい側は砂浜である。どうにも記憶にあるサンタ・ポーラとは違う。

  しかし終点のようだと思って私も降りる。バスはそのまま直進していった。かつてこの街を訪れた時も終点まできたのだが、そこは海岸ではなく、周囲に植栽の多いロータリーであったと思う。そして、バスはそこから折り返すためにしばらく停車していたはずだ。以前はたしかにそうであったと記憶する。

 そう思いながらしばらく海を眺めていたが、海岸近くには高い建物が多く増えており、その背後にピソや戸建ての住宅も増えている。大型スーパーや商店なども多くなっている。どうやらこれは「う~ん、サンタ・ポーラも住宅バブルに飲み込まれたな?!」と呟いた。「とにかく以前食事したことのある漁港に近いバルに行ってみよう」そうすれば街がどのように変化したのかが判るかもしれない。

 そして市内地図を片手にとりあえず漁港を目指した。かつてこの漁港で夕方の競り市を見学したことがあった。また、その近くのバルで食事をしたこともある。バスを降りた海岸は西の方で、近年、街は西の方へと広がったようだ。港は東側にあった。その港にはかつて見なかった広い駐車場ができている。またその先に見える岸壁にはタバルカ島行きの客船が停泊しており、出発時刻が近づいているのか、急いで走りこむ客の姿が見られた。

 昼間の漁港には船舶の姿は見られず、競り市を見た建物が薄汚れた側壁を曝している。その近くに見つけた、食事の不味かったと鮮やかに記憶するあのバルも心なしか寂れて客足も途絶えているように思われた。この日、真夏の海水浴場と人出の多い街中や高い建物の商店街を見歩いたせいか、漁港の寂びれて古びた施設を見ると、サンタ・ポーラはすっかり様変わりした印象であった。これはまさに日本におけるバブル崩壊後にみせた同様の荒廃を感じさせた。

 そう強く思えるのには、この港の南エリアに砂と塩湿地の広がるサリナスデサンタポーラの自然公園(salinas de santa pola)があるからだ。かってサンタ・ポーラの街はこの広大な湿地湖と一体となって独特の風土をつくり上げてきた。その貴重な歴史性と比較すると、どうにも近代のリゾート開発は、やはり魅力を欠いて画一である。



Episode gif エピソード・マンショ ③

 前述の通り伊東マンショは聖夜24日にバカラオ(鱈料理)を馳走されたわけだが、その鱈に関連してマンショは隣町のサンタポールまで足を運ぶことになった。
 クリスマスとはキリスト教の教会暦における降誕祭。
 一般には馴染まないが、教会暦の一日は日没から始まり日没に終わる。降誕祭は24日の日没からクリスマスが始まり、25日の日没にて終わる。したがって24日の昼間は「クリスマスイヴ」ではなく、24日の日没以降がクリスマスイヴ(聖夜)となる。
 史伝によるとその聖夜に出されたバカラオの一件に絡んで「Mancio mostró interés en saber cómo hacer Bakarao. マンショはバカラオの作り方に興味を抱いた」とある。そして「Mansho estaba interesado en la tecnología de producción de sal. マンショは塩の生産技術に関心を示した」と記されている。さらに「Se sorprendió a grandes cantidades de sal apilados sobre la mesa. 彼はテーブルの上に盛られた大量の塩をみて驚いた」とある。

 史伝ではアヨセ・ロラ(Ayozw Lora)という男性がいた。そのアヨセに誘われて伊東マンショがサンタ・ポーラを訪れたのが12月28日のことであった。
 アヨセはバルセロナにあるCardona(カルドナ)の岩塩を採掘していた男である。そしてマンショはこのアヨセ・ロラから天日塩田の説明を聞いた。マンショの語学力で果たしてどれほどの理解を示したかは不明だが、史伝によると「Mansho escribió con entusiasmo, una descripción de la Ayose. アヨセの説明をマンショは熱心に書きとめた」とされる。

 こうして伊東マンショは次に、サンタ・ポールから南約30マイルに位置するトレビエハ(Torrevieja)という街にアヨセに誘われて訪れた。このトレビエハにはサリナス湖という塩湖があった。伊東マンショはそれほど強く塩というものに関心を示したようだ。

 そこで先に世界の塩事情について少し述べる。

 地球上の生物は原始の海水中で発生した。
 このことに起因して、塩は多くの生物にとって必須の物質であり、人類の生活に欠かせないものである.生活に欠かせない物質として空気と水があげられるが、空気はいたる所に存在し、人類は水と食料を入手できる所を生活の場とした。水や食料と比べれば塩の必要量はわずかであり、かつ塩の産出地が適当に偏在していることから、ある特定の場所で塩が生産され、またきわめて古くから塩の交易が行われた。塩の歴史は人間の歴史とともに始まったといえよう。

塩 1 W600

 古代エジプト人が天然塩の採集から、干潟に簡単な溝を設け、天日塩田の祖型ともいえる方法に到達したであろうことは十分に想像されるが、しかし現在にその確証はない。
 バビロニアでは塩泉、塩井等から得た塩水を天日で結晶させたといわれている。また地中海東部のフェニキア人が、海運、交易で活躍したのは、紀元前12~6世紀のことだ。彼らは死海付近の岩塩のみならず、はるか2000マイル離れたスペインの岩塩床から塩を採掘し、またカヂスの天日塩を積み出して地中海沿岸に売りさばいていた。そのスペインのカヂスは地中海から大西洋に出てすぐのところにある。近くのサンフェルナンドに水深が浅く口が狭い湾があり、この湾全体が天然の塩田となっていた。狭い湾口を春締め切っておくと、夏期の太陽熱によって蒸発し、やがて塩の析出がはじまる。これは古来サンフェルナンドのソルトパンといわれ、天然の天日塩田。フェニキアおよび古代ローマ人は、ここから乾魚や塩漬魚とともに、塩を積み出したのだ。

 地中海沿岸の気候は降水量が少なく、とくに夏期雨が少ないので天日製塩に適しており、現在でも各所に天日塩田がある。この地中海の真中に突出したイタリア半島では、ローマに近いコルネトー・タルキニアにおいて、古来海水を放置し天日を利用して製塩を行ってきたが、その品質はよくなかった。ローマ市4代目の王アンクス・マルキウスはその改善をはかって、ティベル河口のオスティアに塩田をつくり、さらにローマまで道路を建設したのが、紀元前630年頃と伝えられる。この道路を塩道路という。後にローマ帝国の版図の拡大にともなって、塩輸送のための道路も拡張され、国内の主要都市はもちろん、中央ヨーロッパから今のイギリスにまで達した。これらの道路の建設や警備にはローマの兵士が当たり、また兵士の給料は塩で支払われた。今日のサラリーという語はラテン語の「salarium」に由来している。オーストリアのウィーンの西北、サルツブルグは、現在岩塩の産出で著名である。その近くのハルシュタット(ケルト語で塩の場所を意味する)では、紀元前1000~500年頃岩塩の採掘が盛んに行われ、塩の交易を通して中部ヨーロッパの文化の一中心地をなした。

 ヨーロッパの塩生産拠点と製塩会社をみると、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、ハンガリー、ブルガリアには塩の生産拠点はないことがわかる。しかしヨーロッパには多くの岩塩鉱があり,乾式採鉱とともに溶解採鉱も行われ,そのかん水を原料としたせんごう工場も数多くある。特に地中海沿岸には多くの天日塩田があり,岩塩を溶解採鉱したかん水を天日蒸発させて天日塩を生産している塩田もある。

中世の食生活と塩に関する事例』(13~15世紀)

○塩の生産

(1)塩の質と費用は、生産方法によって変化した。

 A.最良の塩は「塩水の井戸から汲み上げられた水を煮詰めて作る」or「海水の浸み込んだ泥炭を燃やす」ことで作られた。
 B.泥炭は乾燥させた後に燃やすと、塩を含んだ灰が後に残る。これを水に溶かし、煮て水分を抜くと、綺麗で上品な白色の塩が残る(この塩はずいぶん尊ばれたが、生産過程は不愉快かつ退屈だった)。
 C.14,15世紀には、フランス西部のブルヌフ湾(ロワール河口)から新しい塩がもたらされるようになった。ここでは「海水を浅い人工の池に集めて、そこで長い夏の間に太陽によって蒸発させる」方法を採った。
 D.これは最小限の費用と労力で生産できたから、起業家たちはこれを「天からのマナ」と呼び、全ヨーロッパに輸出して大儲けした。

(2)しかし天日塩には見かけに残念なところがあった。

 A.人工池に集まった埃・ゴミを取り除いて塩を精製する試みがほとんどor全くされなかったのが原因だった。
 B.蒸発だと、煮た時と同様の穀粒のように綺麗な塩は後に残らない(現代でも天日塩に関する記述には「黒い」「灰色の」「緑の」という形容詞が用いられている)。また「粗大な」「ザラザラした」「粗い」とも表現される。

○食卓と塩

(1)現代と同様に、塩加減の好みは客によって異なるから、塩入れは食卓に必要不可欠だった。出された塩の質は(パンと同様に)「晩餐の主人役の財政状態」「主人役の客に対する評価」を知る手掛かりを与えてくれた。

(2)慎重な一家の主は、使用目的(使用者)に応じて異なる種類の塩を買い求めた。


 A.もちろん、白くてきめ細かくて綺麗な塩が最上だった。節約家は自分で塩を煮沸・精製する方法を実行して、白くて小さな塩を手に入れた。
 B.中世の優雅さは「パンを四角に切る」「塩を滑らかにする」ことを求めた。塩を滑らかにする方法として、幅2インチ・長さ5インチの象牙のヘラを推奨している事例がある。

(3)塩を使用する場合には、どんな食べ物も塩の中に突っ込んではならなかった。

 A.変わりに「塩をナイフの先に取り、客自身の敷板の上に置いた」(1600年頃の木の敷板には、塩を入れる部分が作られていた)。
 B.時には即席の塩入れとして、パンを切り取って臨時の敷板とした。
 C.塩入れを綺麗に保つために、一度出された塩を塩入れに戻すのは避けなければならなかった(過度の節約は戒められた)。
 D.塩は全員が使ったから、銘々の食卓に用意されたが、それとは別に主人の席のすぐ傍に「宴会の中心である名誉ある席」であることを示す、象徴的な塩が置かれた。他の塩は必要がなくなれば食事の途中に片付けられたが、この象徴的な塩だけは、最初から最後まで食卓の上にあった。

(4)塩入れはいつも陳列され、客の目を喜ばせ、所有者の権威を確かなものにする意図が込められていた。

 A.このため塩入れは、出来る限り最も高価な材質で作られ、その上材質に応じた装飾が施された。
 B.材質には「銀、金メッキした銀、金」がとても好まれ、装飾の例として「本体はめのう製で、金の蓋付き、その取っ手をサファイア1個と真珠4個で飾った」ものがある。
 C.中世文化の特徴を示す当時の格言に「質素なことは面白くなく、幻想的なことは面白い」というのがある。これに従って、塩入れはありとあらゆる形を装って食卓に出された。「ライオン」「竜が中から這い出してくるえぞばい貝の殻」などがある。

(5)ヨーロッパ大陸で最も人気があったのは船の塩入れだった。

 A.フェリペ2世とともに絵に登場するものは「手間をかけて作られた菓子で、蜘蛛の糸のような索具・非常に小さな錨・小型の大砲・ごく小さい袋や俵」まで表現されていた。
 B.船は塩だけでなく、ナプキンや刃物類も置けるほど大きいものもあった。
 C.このサイズだと、人気の家としての魅力を全て備えていた。「船首楼のところで旗を掲げている小さな人形が8体集まった船形の塩入れがあり、これを食卓の上を堂々と進ませて、祝宴中のぎこちない間を和らげた」こともある。

(6)素晴らしい塩は財産であり、困窮の際には保証となった(塩の重さ・価格を慎重に記録した!)。古い塩を手に入れた新しい所有者は、好みや流行にあわせて塩を溶かして作り変えるまでした。

 聖夜にはフェリペ2世より贈られた青い船形の塩入れがあり、そこには山盛りの聖塩が少年使節一行の前で銀色に輝いていた。モンテロ家に伝わる史書伝は「El niño estaba fascinado por el misterio de la sal gradualmente.  少年は徐々に塩の神秘に魅了された」と伝える。

Salinas de Santa Pola 地図 W600
Salinas de Santa Pola 8 W600

Salinas de Santa Pola 塩田 W600
salinas de santa pola 塩田 1 W600

 サンタ・ポーラの天日田園(今昔物語)

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ライン黒 W600
Vislumbres de Mansho está enterrado en la historia de España
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Torrevieja gif
 トレビエハに秘められたエピソード


 トレビエハ(Torrevieja)は、バレンシア州、アリカンテ県の都市。コスタ・ブランカに面した観光都市で、サンタ・ポールの南約30マイル(metric mile:1マイルの長さは1500メートル)に位置する。このトレビエハの面積は約71平方kmで、領域内には通り、砂浜、潟がある。20kmもの海岸線は、ラ・マタ海水浴場など多くの海水浴場がある。年間の平均気温は、12℃から25℃の間である。

スペイン南東部沿岸マンショの足跡 W600


 スペインの南東海岸をトレビエハに向かって。





Episode gif エピソード・マンショ ④

 18世紀まで、ここトレビエハにはサリナス湖という塩湖があり、スペイン王家が所有していた。そして1802年まで、トレビエハ(古い塔を意味する)には地名の元となった監視塔があるだけで、他に塩鉱で働く者や漁民の家が点在していた。
 1803年、カルロス4世はサリナス湖管理をラ・マタからトレビエハへ移す布告をし、住宅建設が許可される。しかし1829年、地震によって人口が打撃を受け、だが後に徐々に復興した。これで塩の生産と貿易が決定的となり、1931年にはアルフォンソ13世によって工業都市に昇格す。19世紀の手工業生産は、一般消費のためのリネン生産、麻及び綿に制限されていた。停泊地が塩の積み荷の障害となったが、1945年以降に港が建設された。

 19世紀半ば以降、ここで精製された塩はスウェーデン船とオランダ船によって基本的に運ばれている。塩の海外市場の重要性は20世紀半ばまでであった。トレビエハで採れた塩は1/4がスペイン国内で売られ、残った塩は輸出された。19世紀、トレビエハは、ベガ・バヤ地方で生産される品物の積み出し港であった。
 そして近年の地元経済は観光業で非常に伸びている。
 イギリス人、スカンディナヴィア半島からの人々、ドイツ人はここで一年中暮らす強力な一団で、スペイン人観光客はトレビエハに休暇用住宅を所有する。2004年以降、トレビエハは在留イギリス人が多いムニシピオとして国内1位となり、現在は在留イギリス人人口が約12,000人となった。

フェリペ2世 W600

 フェリペ2世は、1527年神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王としてはカルロス1世)とポルトガル王マヌエル1世の娘イザベルとの間に生まれた。
 スペイン王にして神聖ローマ皇帝に選出された父カルロス1世は、当時のヨーロッパで最大の勢力を持ち、ヨーロッパ以外の広大な領土とあわせて、その繁栄は「太陽の沈まない国」と形容された。なお、現在のフィリピン共和国、フィリピン諸島などの「フィリピン」は、1542年、スペイン人のコンキスタドールによってラス・フィリピナス諸島と命名されたことに起源を発するが、これは、当時アストゥリアス公だったフェリペの名に由来する。そのフェリペは1556年11月16日、父の退位によりオーストリアを除く領土を受け継ぎ、スペイン王フェリペ2世として即位した。このとき28歳であった。また既に1521年にオーストリア大公、153年にドイツ王となっていた叔父フェルディナントも、この時に皇帝位を継承した。こうしてハプスブルク家は、スペイン・ハプスブルク家とオーストリア・ハプスブルク家に分化する。

 しかしフェリペ2世は、1556年の即位と同時に膨大な借金も受け継いだ。このため翌1557年に最初の破産宣告(国庫支払い停止宣言:バンカロータ)をせざるを得なかった。在位中にこれを含め、4回のバンカロータを行っており、フェリペ2世の時代の厳しい国庫事情が伺える。しかしイタリア戦争においては1559年、カトー・カンブレジ条約でフランスのイタリアに対する要求を放棄させた。

 折しもこのころに宗教改革は始まっている。
 宗教改革とは、16世紀(中世末期)のキリスト教世界における教会体制上の革新運動である。ルターの贖宥状批判がきっかけとなり、以前から指摘されていた教皇位の世俗化、聖職者の堕落などへの信徒の不満と結びついて、プロテスタントの分離へと発展した。

 ルターによるルター教、チューリッヒのツヴィングリやジュネーヴのカルヴァンなど各都市による改革派教会、ヘンリー8世によって始まったイギリス国教会などが成立する。また、当時はその他にアナバプテスト(今日メノナイトが現存)など急進派も力を持っていた。

 これには要因のひとつとして、16世紀は近代国家の萌芽の時代で、それまで各地域からの教会税はバチカンの収益となっていたが、近代国家の誕生とともに、各国は経済的な理由から自国の富がバチカンに流れることを可とせず、自国内に止めておくことをむしろ歓迎し、それぞれの地域の教会が、ローマと絶縁することを積極的に後押ししたことが背景にある。また、宗教改革の理念が拡大・浸透するうえでは、グーテンベルクによる印刷技術が大きな役割を果たしたといえる。

 このことからドイツ、フランスなどではローマ・カトリック勢力がプロテスタント勢力と争い、凄惨な闘争を繰り広げた。これを宗教戦争という。
 主なものに、カッペル戦争(スイス、1528年・1531年)・シュマルカルデン戦争(ドイツ、1546~1547年)・ユグノー戦争(フランス、1562~1598年)・三十年戦争(ドイツ、1618~1648年)・八十年戦争(オランダ、1568~1568年)があった。

 これに対し、カトリック内部でも改革の必要性は認識されていたが、プロテスタント運動が引き金となり、カトリック教会ではトリエント公会議を開催した。また、他を非難するよりまず自ら戒め、規律正しい宗教生活しようとロヨラやザビエルらが中心となりイエズス会が設立された。イエズス会はその後、キリスト教の大分裂を防ぐべく欧州各国に勢力を伸ばし、非ヨーロッパ諸国への布教活動を行った。
 これを対抗改革(対抗宗教改革)運動と呼ばれ、東アジアや日本への布教はこの延長であった。この宗教改革が無かった場合、日本への布教は随分遅くに行われたであろう。伊東マンショはこの時期の最中を生きた。それは改革の渦中といってよい。
 そしてこの宗教改革とスペインの塩とは重大で密接な関係があった。

 塩は生活にとりまた宗教上重要な物質であり、経済的側面、政治的側面などにおいて諸国の関心を誘っていた。当時の塩は、人間の生存と生活にかかわる全ての社会現象を理解するための原点をなしている。スペインの動向は、この物質における生活の意義を十分に象徴していた。
 塩は国の秩序を取り戻すよい手段である。否応なしに世界規模の商業を生じさせるからである。諸国家が関わりあうだけにそれだけいっそう重要なものとなる。また国家および商人にとって致富源である。

 その塩は欠くべからざるもので、手に入れるための障害をことごとく克服し、可能なあらゆる便益を利用する。したがって重量商品である塩は、河川路や大西洋の船舶で運ばれた。採掘されなかつた岩塩鉱山はひとつもない。また、塩田は地中海または大西洋で太陽に恵まれた国、すべてはカトリックの国であるが、そこに限られていた。北部地域の漁夫は、プロテスタントであるが、彼らは太陽の国のそれを必ず必要とする。スペインによる厳重に制御された塩の統制、生命を脅かして改宗を迫る、この抑えようもない酷い取引の要求を、これ以上物語るものはない。伊東マンショが体験した塩とは、当時の体制のそのものであった。

 したがって史伝に「Para Ayozw, el rey ordenó que. 国王はアヨセに命じられた」とある。前もってアヨセはフェリペ2世より少年らを塩田に案内するように命じられていた。それは少年使節の一行が日本に帰国して以降の国王の布石なのであった。さらにアヨセはトレビエハから南のカルタヘナという街に伊東マンショを案内する。
 一行はそのカルタヘナで年越しをした。この出来事は次回ファイルにてご紹介する。

トレビエハ塩田 1 W600
トレビエハ塩田 2 W600

 現在、地中海沿岸には数多くの塩田が散在している.規模の小さいものが大半であるが、中には100万トン/年の生産能力をもつ機械化された近代的な塩田もある。それは「CSMEのGiraud塩田」で10,000haの面積をもち,そのうちの700haが結晶池である。8~15 cmの塩層を形成し,年2回収穫する。
 そしてトレビエハには「Nueva Compania Arrendateria de las Salinas de Torrevieja社Torrevieja塩田」がある。
 スペインの首都マドリードの南東約400kmの地中海に面したTorreviejaにあるこの塩田も120万トン/年の能力をもっている。1400haのTorrevieja湖がその結晶池である。
 原料としては海水のほかに隣接している700haのLa Mata湖で濃縮された海水と54km内陸にあるPinosoから溶解採鉱されたかん水を直径45cmの配管で供給している。このようにかん水供給に特徴があるため、通常の海水濃縮で析出してくるきょう雑物が少なく,品質の高い塩が得られている、結晶他の底はかたい塩の層になっているがその上に薄い粘土層があり、その上に塩を析出させ塩層が5cm以上になると収穫を始める。
 塩の収穫は通常の塩田のようににがりを排出して採塩する方式ではなく、水深0.7mの浅い湖にに示す採塩船を浮べてスクレーパー付き掻き取り棟で採塩する珍しい方式である。
 収穫された塩はホッパー部から底が浅く平たい3.5トン積みのハシケに積まれ、曳舟で10隻ぐらいつないで湖中央まで敷設されているベルト・コンベアーのところに運ばれる。そこでハシケごとひっくり返して塩をベルト・コンベアーに移しかえる。
 塩は必要に応じてかん水、海水、淡水で洗浄し、粉砕、乾燥されて製品となる。このような特殊事情からこの塩田は機械化されているとはいえ、装置規模が小さく前近代的な感じはまぬがれない。しかしこれは歴史的に重要なシンボルである。






                      シリーズ連載・次回No.fileに続く
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