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伊東マンショの正体を科学する No.0007

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 世界は大航海時代。日本は戦国「下克上」の世。同時期にキリスト教が伝来する。織田信長の比叡山焼き討ちのころに、また室町幕府が終焉しようとするころに、日向国一円に勢力する豪族の伊東家に数奇な運命を宿す一人の男児が誕生した。
 この男児が後に天正遣欧少年使節の正使となる伊東マンショ。
 だがこの人物についての実像を記す資料は今日に乏しい。その背景には当時の混乱と錯覚とが不遇にも交錯する日本史の実情がある。つまり記録として残せない深い闇の淵に置き去られた。
 No.2631ファイル・データはこの歴史人の正体に迫る研究をシリーズ構成でつづる資料コラム。中世の街道を往来した人物との交流を織り重ねながらマンショの足跡の真相を編集する。・・・・伊東満所

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     辻斬りZ W50H50 gif  ① 「伊東マンショが見た南蛮の道を行く」
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         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

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 少年使節一行がポルトガルのリスボンを出発したのが1584年9月5日、下記の図はその後一行が辿った旅の工程概要である。9月8日にエヴォラに到着し7日後の9月15日に出発する。
 そして国境を越え9月29日にはスペインのトレードに到着した。さらに10月19日にトレードを発った一行は、10月20日にマドリードに到着する。ようやく11月14日、フェリペ2世に謁見した一行は、11月26日にマドリードを出発した。こうしてマドリード滞在は約1ヶ月間に及んだ。
 そのマドリードからはラ・マンチャ地方を南下し、ムルシアを経てアリカンテ港より航路に変えてマヨルカ島のアルクディアに到着する。この島からまた船旅でローマを目指すのだが、このように伊東マンショは9月29日にトレードに到着して以降、約2ヶ月ほどをスペイン国に過ごすことになる。
 またローマより岐路もその一部の都市が重なる。ローマを発ったマンショが再びマドリード(モリソン)に到着しフェリペ2世に謁見するのは1585年9月14日、往路で謁見した日より10ヶ月後のことであった。

マンショの旅 スペイン W600

 この少年使節の一行長崎を出航したのが1582年2月20日。
 そしてマカオを経てゴアに到着したのが1583年11月20日であった。この年の1月20日までマカオに滞在したのであるから、長崎出航からマカオ出航までの間が約11ヶ月を要した。
 こうして喜望峰を回り(1584年5月10日)、リスボンに上陸したのが8月11日であった。これは長崎を出航して以来約2年半の歳月を費やしている。
 そんな伊東マンショらの航海を偲ぶのであれば、現在そのことを仮に思い起こさせてくれそうな帆船が一隻だけある。それがポルトガル海軍の所有する「サグレス号」である。
 私は今、2010年に長崎に寄港したそのサグレス号の勇姿を思い出している。

NRP Sagres 1 W600

 N.R.Pサグレス号(ラテン文字 N.R.P SAGRES)は、ポルトガル海軍所有の大型練習帆船である。
 サグレス名としてポルトガル海軍史上3代目の船であり、一般に「サグレスIII」として知られており、帆に描かれたヘンリー航海王子ゆかりのキリスト騎士団の十字紋章は有名。
 船名であるサグレスとは、ポルトガル南端に位置するアルガルベ地方ヴィラ・ド・ビスポに属する町の名であり、大航海時代の原点となり、ヘンリー航海王子が航海学校を設立したサグレス岬に由来する。なおNRPとはNavio da República Portuguesa(ポルトガル共和国海軍)の意。
 この3檣(しょう)バーク型帆船は、当初ドイツ海軍船「アルバート レオ シュラーゲターとして1937年ドイツ、ハンブルクにある造船会社ブローム・ウント・フォスにて起工進水し、練習船として運用されていた。
 第二次世界大戦後、サグレスは連合国によって収用され、その後アメリカ合衆国によって没収される事となる。1948年にアメリカ合衆国が5000ドルでブラジルへと売却、リオデジャネイロへと曳航されブラジル海軍の練習船グアナバラとして運用された。
 1961年10月10日、老朽化していた練習船サグレスIIの代替船としてポルトガル海軍が15万ドルで購入し、1962年1月30日以降、「N.R.PサグレスIII」と改名し1978年、1983年共に1年間の世界航海などを経て現在に至っている。
 そして再び2010年1月19日に出航(本船にとって3回目の世界一周航海)。同年12月にリスボンへ帰港予定の世界航海中であり、7月には明治政府とポルトガルとの間で修好通商条約締結150年記念として17年振りに日本(横浜港)へ寄港している他、種子島、長崎へと寄航した。

NRP Sagres 3 船内 W600

 上の画像の中央に銘版があるのだが、ハンブルグの「Blohm & Voss」造船所にて1937年の建造。以降~1948年まではドイツ海軍の練習船「Albert Leo Schlageter 号」であった。そしてアメリカ軍に接収された後、更に売却先のブラジル海軍で1948~1961年「 Guanabara 号」として活躍する。やがて1962年にようやく、ポルトガル海軍の「NRP SAGRES」として再び就役した。したがってサグレス号は独逸~亜米利加~伯剌西爾~葡萄牙と、実に4カ国を渡り歩いた帆船なのだ。長崎に寄港時73歳である。(総トン数:1940トン  全長:70.4メートル  全幅:12メートル  喫水:6.2メートル  帆総面積:1979㎡:16.5ノット  ディーゼル機関 MTU 12V 183 TE92:最大9ノット )

 ポルトガルの帆船「サグレス号」長崎出港

 2010年8月3日、17年ぶりに長崎に入港したポルトガル海軍の帆船「サグレス」が 8月8日午前10:00に長崎を出港した。

 Regresso do NRP Sagres - 2010

 O Navio-Escola Sagres regressou a Lisboa da Volta ao Mundo no dia 24 de Dezembro, uma viagem que durou cerca de 11 meses e durante a qual fez escala em 28 portos, tendo percorrido 40.000 milhas e realizado 5.500 horas de navegação, foi ainda visitado por cerca de 300.000 pessoas.
2010年12月24日、約11ヶ月40,000マイルにも及ぶ5500時間の長航海を終えたサグレス号はリスボン市民約30万のために第28埠頭に接岸した。


アントニオ・ロペス・ガルシア 7 W600

 訪れたスペインは夏本番、2011年8月、涼を求めて美術館に行くのなら、スケールの大きな芸術作品に触れてみたいと思いマドリード市内の企画展に足を運んでみた。
 そこには澄んだ青空とマドリードの町並み。だが人影はなく、時が止まったようなセピア色の世界が広がっている。私は作者が「セピア色の青空」という言葉をそこで初めて聞いた。それはスペインの画家アントニオ・ロペスの油彩画であった。写真と錯覚するほど精妙な描写で、このロペス画家は「スペイン・リアリズムの巨匠」と呼ばれる人気作家だ。作者は、過去の時間をも尊重して忠実に描き、同時に自己の感情も表現すことを試みてきた。上の両作品は、完成までに数十年の歳月を必要とする。そこには中世の光までもが輝いていた。

アントニオ・ロペス・ガルシア 6 W600

 アントニオ・ロペス・ガルシア Antonio López García

 超絶的な技巧と鋭い観察眼で、空間の匂い、そして時間の移ろいさえリアルに描き出すと­いわれる画家。それがアントニオ・ロペス。現代のリアリズム絵画を代表するス­ペインの巨匠である。
 ロペスは1936年、スペインの地方都市に生まれた。画家だった伯父に才能を見いださ­れ、14歳の時、ピカソも通ったマドリードの名門美術アカデミーに、最年少で入学する­。ベラスケスを始めとする、まっすぐに本質をえぐり出すスペイン・リアリズムに強い影­響を受けながら、常に実験的な表現を模索してきた。代表作「グラン・ビア」は、朝日に­照らされたマドリードの町並みに神秘的な美しさを感じ、毎年夏の朝6時半から20分だ­け筆を入れ、7年をかけて完成させた執念の大作だ。
 このNHKの番組では、日本で初めて行われる個展に合わせ、初来日を果たしたロペスにインタビュー­。スペインでの制作風景を取材した貴重な映像とともに、圧倒的なリアリティに秘められ­た独自のリアリズムの世界をひもとく。


 マドリードでの企画展を観た後日、私はアントニオ・ロペス・ガルシアのアトリエを訪ねた。
 彼がラ・マンチャ地方のトメリョソ(Tomelloso)で生まれたからだ。そのトメリョソについては前回のファイル6で触れたが、彼の実家は馬車博物館の近くである。

 彼は、日常的な光景を細部に引きずられない迫真的な描写で的確に描き出す一方、『アトーチャ』(1964)や『皮を剥がされたウサギ』(1972)のように演出の色合いが濃い、ドラスティックな作品もある。一作に膨大な歳月を掛けることも珍しくない。
 例えば『フランシスコ・カレテロ』(1961~1987)のように、20年以上の時間を割き、それ故にこそ堅固で荘重な文理・テクスチャーとよく探究された諧調・色価を備えた絵画を制作している。然るに寡作であって、2回目の個展以降、24年もの間作品をまとめて発表する機会を持たなかったという逸話がある。塑像などのいわゆる立体作品も手掛けている。しかし、ロペス自身は「他人がどういおうとすべて私の作品は絵画である」と述べる。また、ロペスを扱った映画もある。それが『マルメロの陽光』である。彼はその陽光こそを伊東マンショが体験したのではないのかと語り、川の物語を聞かせてくれた。

 タホ川(スペイン語:El Tajo 発音:[ˈtaxo])、テージョ川(ポルトガル語:O Tejo 発音:[ˈtɛʒu] テージュ)は、イベリア半島で最も長い全長1008kmの川である。
 そのうち上流側の約700kmがスペインにあり、河口側の約300kmがポルトガル領である。間の47kmは両国の国境となっている。
 この大河は、スペイン東部アラゴン州テルエル県のアルバラシン山地に源を発し、アランフエス、トレド、タラベーラ・デ・ラ・レイナを流れ、50kmほどスペインとポルトガルの国境を形成したあとポルトガルに入り「テージョ川」と名前を変えて、コンスタンシア、サンタレン、リスボンを経て大西洋に注ぐ。
 画家アントニオ・ロペス・ガルシアが語るこの大河を遡るようにして伊東マンショはローマへと向かったのだ。ロペル氏はそう熱くマンショの旅を透視する。

 天と地の間スペイン「テージョ川」 (マンショの見た大河


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     辻斬りZ W50H50 gif  ② 「伊東マンショが見た中世の城郭」
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         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

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 「キホーテの道(ルタ·デル·キホーテ)」の真っ只中に位置し、ベルモンテは詩人フレイルイス·デ·レオンの発祥の地として知られているだけでなく、印象的な15世紀の要塞がある。のためだけではありません。またその旧市街は、近郊の歴史文化を合わせ特徴ある遺産宣言をする。
 マドリードを11月26日に発った少年使節の一行は、初冬のこのベルモンテを通過した。

 ベルモンテ城は、丘の中腹に位置し、その外側五角形の複合体はゴシックゲートを持っており、町に走る街の壁にリンクされている。三角形の内部のハイライトは、ムデハル格天井、しっくい、ゴシックレリーフである。その他の地域内の建物は、ドンファンマヌエルの宮殿アルカサル。村の名ベルモンテの語源はベッジョ・モンテ(Bello Monte)美しい山に由来する。(マドリッドからは約157km)。

Castillo de Belmonte 1 W600
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Castillo de Belmonte 2 W600
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 スペインの城塞としてはずいぶん遅く、15世紀になっての築城。
 要塞というよりは、宮殿として機能していたようだ。しかし大きな胸壁を頂く城壁は、そう簡単に陥落できそうにない堅牢な趣をみせる。内部は、19世紀、ナポレオン3世妃エウヘニアの修復工事により、多分にアフランセサード(フランス化)されている。
 築城主はフアン・パチェーコ。15世紀後半カスティーリャ王位を巡る内戦で鍵を握った人物である。彼の祖父フアン・フェルナンデス・パチェーコが、戦功によりエンリケ3世からここを領地として与えられ、その娘マリアを経て、パチェーコ家3代目領主が、1419年にベルモンテの旧アルカサルで生まれたフアンというわけだ。
 フアンは、フアン2世の治世で寵臣アルバロ・デ・ルーナに仕え、45年、王よりベルモンテ周辺からアラゴン西部、アリカンテまで至るビリェーナ伯爵領を与えられると、それまでアラルコンの管轄にあった生地ベルモンテを広大な伯爵領の首都として、56年、村の名の由来と言われる「美しい山(Bello Monte)」の上に、新城建設を命じた。
 この間にも、フアン2世を継いだエンリケ4世に影響力を及ぼし、元の主人デ・ルーナ失脚に荷担。宮廷で不動の地位を獲得していく。
 当時、カスティーリャは最後の内戦前夜。彼にとって、王家を巡る混乱は領地拡大の絶好のチャンスであった。これは対立する両陣営にとって不可欠な存在となることで、混乱をあおり、権力を手中に治めようという魂胆だったようにも見える。まずは、王妃の愛人と言われた政敵ベルトランを重用し始めたエンリケ4世に対抗して、王の異母弟アルフォンソ(イサベル一世弟)を王として担ぎ上げ、その裏で、エンリケ4世と密約も交わし、イサベル(後のカトリック女王)と弟のペドロ・ヒロンの結婚を画策した。
 ところが、結婚式を間近に控えて花婿が急逝する。享年40であった。毒殺の可能性も高い。続いて、67年にはアルフォンソ死去。享年14。これも毒殺との噂がある。万策尽きたかに見えたフアンはイサベルの王位継承を認めるものの、69年、イサベルとアラゴン皇太子フェルナンドが結婚すると、エンリケ4世の娘(少なくとも彼の妃の娘)フアナ・ラ・ベルトラネハ支持に回る。しかし、74年、今度はフアン本人が急逝する。これもまた毒殺との噂が伝えられる。
 天守閣(Torre de Homenaje)がさほど高くなく、どの塔にも胸壁が付いていないのは、内戦により工事が中断されたまま、カトリック両王の新城建設禁止令を受けて、あえて完成を見あわせたために、現在でもその名残を止めている。

 この城郭のシルエットの美しさはソフィア・ローレンの『エル・シド El Cid 』でひろく知れ渡るところとなった。城ができ、まちが形成され、コロンブスの最初の航海時にお供をしたガブリエル・バラオーナや高名な詩人フライ・ルイス・デ・レオンなどがここで生まれており、村史をさらに飾っている。

 CASTILLO DE BELMONTE


大きな地図で見る

 じつは、このベルモンテ城で伊東マンショが一夜を明かしたという伝承がラ・マンチョ地方に伝え残されている。しかしこれは、グァルティエーリ『天正遣欧使節記』には一切見受けられない出来事である。そうした不可思議さもあって、このベルモンテ城を執りあげてみた。

グァルティエーリ『天正遣欧使節記』 W600

 グァルティエーリの『天正遣欧使節記』。
 著者グィード・グァルティエーリ(Guido Gualtieri, 16th cent.)はイタリアの文学者で、ローマ教皇グレゴリウス13世(Gregorius XIII, 1502-1585, 在位1572-1585)の没後に教皇となったシクストゥス5世(Sixtus V, 1521-1590, 在位1585-1590)の側近として活躍した人物である。
 このころ、イエズス会日本巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano, 1539-1606)の企画で、1582年(天正10)に九州の三大名(大友宗麟、大村純忠、有馬晴信)が連名で派遣した天正遣欧使節一行が、1585年に当時の教皇グレゴリウス13世に謁見した。このことはキリスト教の広がりと共に、教皇の権威が日本にまで及んだものとしてさかんに喧伝され、多くの冊子に纏められてヨーロッパ諸国に伝えられた。本書もその種のもので、初版は本書と同年の1586年にローマで出版されている。

 本書の構成は14章からなり(但し章立てに間違いがあり、第7章が重複している)、第1章では日本の紹介、第2章は天正遣欧使節団の背景、第3章は日本出発からゴアまで、第4章はポルトガルまで、第5章はポルトガル滞在について、第6章はスペイン旅行、第7章はイタリアについて、第7章(重複)はローマでの謁見、第8章は教皇について、第9章はローマからボローニャまで、第10章はフェラーラでのこと、第11章はヴェネツィアでのこと、第12章はマントヴァについて、第13章はミラノとジェノヴァについて、第15章はリスボンから帰国までが書かれている。また、付録にはシクストゥス5世から九州の三大名へ宛てた書簡と使節団歓迎の挨拶文が掲載されている。
 なお、使節一行は教皇に謁見して間もなく同教皇の死にあい、その葬儀に参列したあと、新教皇にも謁見、帰途に就きスペイン、ポルトガルを経てアフリカ南端の喜望峰をまわって1590年(天正18)に8年半ぶりで帰国した。本書には使節一行の往路・復路含めての旅の出来事が記されている。
 しかし第6章には、ラ・マンチャ地方に伝わるベルモンテ城での一件は記されていない。

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 このモンテロ家に伝わるトメリョソ(Tomelloso)の歴史書には「Mansho pasó la noche en el castillo. El niño estaba mirando, un molino de viento que brilla en el sol de la mañana.  Mancioは城で夜を過ごした。少年は、朝の太陽の下で輝く風車を見ていた」と記されている。


                      シリーズ連載・次回No.fileに続く
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三馬漱太郎

Author:三馬漱太郎
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Sotarou Miuma
立体言語学博士
Social Language Academy Adviser
応用社会言語科学研究員

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