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伊東マンショの正体を科学する No.0006

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 世界は大航海時代。日本は戦国「下克上」の世。同時期にキリスト教が伝来する。織田信長の比叡山焼き討ちのころに、また室町幕府が終焉しようとするころに、日向国一円に勢力する豪族の伊東家に数奇な運命を宿す一人の男児が誕生した。
 この男児が後に天正遣欧少年使節の正使となる伊東マンショ。
 だがこの人物についての実像を記す資料は今日に乏しい。その背景には当時の混乱と錯覚とが不遇にも交錯する日本史の実情がある。つまり記録として残せない深い闇の淵に置き去られた。
 No.2631ファイル・データはこの歴史人の正体に迫る研究をシリーズ構成でつづる資料コラム。中世の街道を往来した人物との交流を織り重ねながらマンショの足跡の真相を編集する。・・・・伊東満所

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         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

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     ミラン・クンデラ(Milan Kundera)は、小説執筆の傍ら、文学評論を手掛けており、小説を「世界を相対的に捉えようとする、ヨーロッパが独自に生み出した芸術の形式」だと考え、セルバンテスをその最大の先駆者に位置づけている。このようにドン・キホーテの作者であるセルバンテスの存在を位置づけた。
 また現代世界の運命と現実を捉えた小説家としてカフカ、ムージル、ヘルマン・ブロッホ、ハシェクらを高く評価し、中央ヨーロッパに現れたこれらの作家たちの系譜を継ぐものとして自らの作家活動を行っている。

ミラン・クンデラ 3 W600

 クンデラはチェコスロバキア共産主義政権に抵抗した作家として認知されている。

 しかし彼は、1950年、西ドイツに亡命しスパイとして諜報組織に加わった元チェコスロバキア軍兵士がプラハに潜入した際、その立ち寄り先を知人から聞かされたクンデラが当時のチェコスロバキア共産党秘密警察に密告し、その結果スパイが逮捕されたとする記録が2008年10月に明らかになった。
 これは、政府系「チェコ全体主義体制研究所」が発見したもので、チェコ地元誌「レスペクト」によって報じられ、文書のコピーも掲載された。元兵士は逮捕後、ウラン鉱山での強制労働を含め、14年間服役したという。

 クンデラ本人は、この件について「作り話」と全面否定し、秘密警察による文書の偽造・捏造の例があることから真偽は定かではないが、クンデラの作品には裏切りの物語が多く、特に小説『冗談』では友人の告発によって大学を追放され、鉱山送りにされた主人公が描かれるなど類似点が多いため、これらは実体験に基づいて書かれた作品なのではないかという臆測も飛び交っている。少し余談だが、彼はそんな人物だ。

 クンデラはチェコスロバキアのブルノ生まれ。プラハの音楽芸術大学 (AMU)を卒業。
 1963年発表の短編集『微笑を誘う愛の物語』で本格的な創作活動に入る。
 1967年に発表した共産党体制下の閉塞した生活を描いた長編小説『冗談』でチェコスロバキアを代表する作家となり、当時進行していた非スターリン化の中で言論・表現の自由を求めるなど、政治にも積極的にかかわるようになった。
 そして1968年の「プラハの春」では、改革への支持を表明したことによって、ワルシャワ条約機構軍による軍事介入の後、次第に創作活動の場を失い、著作は発禁処分となった。
 1975年、レンヌ大学の客員教授に招聘されたためフランスに出国する。1979年にチェコスロバキア国籍を剥奪され、1981年にフランス市民権を取得した。このころから、母語のチェコ語ではなくフランス語で執筆活動を行う。1984年発表の『存在の耐えられない軽さ』が世界的なベストセラーになり、フィリップ・カウフマンによって映画化もされた。


 Milan Kundera - INTERVIEW 1968
 Milan Kundera talks about his novel "The Joke" 小説"ジョーク"に関するミランクンデラ会談。プラハの春で、改革への支持を表明した当時のインタビュー。

Milan Kundera W600

The Unbearable Lightness of Being - Official Trailer 映画「存在の耐えられない軽さ」

 In 1968, a Czech doctor with an active sex life meets a woman who wants monogamy, and then the Soviet invasion further disrupts their lives. Based on a novel by Milan Kundera.Starring: Daniel Day-Lewis, Juliette Binoche, Lena Olin
 1968年、アクティブな性生活を持つチェコの医者は一夫一婦制を望んでいる女性を満たして、その後ソ連の侵略はさらに自分たちの生活を破壊する。ミランクンデラの小説に基づく映画。出演:ダニエル·デイ=ルイス、ジュリエット·ビノシュ、レナ·オリン。



 前回のファイルで少し触れたが、
 クンデラは、「私が固執したいことはただひとつ、セルバンテスの不評を買った遺産以外のなにものでもない」と結びながら、『小説の技法』の草稿文には、さらに次の一節がある。

 《 かつて宇宙とその価値の秩序を支配し、善と悪を区別し、個々のものとに意味を付与していた神がその席を立ち、ゆっくりと姿を消していったとき、馬にまたがったドン・キホーテが、もはやはっきりと認識かることができない世界に向かって乗り出した。「至高の審判官」がいなくなったいま、世界はその恐るべき曖昧性(多義性)をあらわにしたのである。こうして、唯一の神の「真理」が解体され、人間によって分担される無数の相対的真理が近代に向かって散らかされたのである。そしてそれとともに、その世界のイメージであってモデルであるような小説が生まれたのである。だが驚異は引き続き小説のモデルに根源を含ませていた。そのモデルが日本の少年とするのだから神の真理は再び解体される。実際にみたそのモデルによって、また分担される無数の相対的真理が近代に向かって散らかされたのである。 》と。

ミラン・クンデラ 5

 ここでクンデラが語る日本の少年とは「伊東マンショ」のことである。
 そのことを知ったとき、クンデラがそう起想したマンショの実像が、今日までの日本人にはそうとは映らないクンデラとは遠く乖離する実像があることが不可思議であった。またそこには、ドン・キホーテの作者ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラが求めたマンショの実像とも同時に日本人の想いが乖離する実情がある。そう思えたときに、さらにそこには日本人が感知でき得なかった中世史から欠落する伊東マンショの真相像を抱いた。そうなると日本において中世より語られるマンショ像とは、日本史観のみに偏る曖昧な領域に置かれた偏光の像でしかないことになる。このことは一体何を那辺(なへん)にして考えるべきなのか。彼の意図が那辺にあるのかわからない。私はこの真相を解き明かすことに相応の時間を費やした。

 そこで伊東マンショとの関係に入る前に、先ずどうしても私の、『存在の耐えられない軽さ』への書評を述べながら、クンデラという小説家を理解して頂く必要がある。クンデラは、言葉の原郷から発現するものをぴったり表出する方法を確立していること、そこに深すぎるほどの作家としての滋味を感じさせる。それは『生は彼方に』を読んだあたりでほぼつきとめられていたのだったが、本書『存在の耐えられない軽さ』によってさらに動かぬものとなった。この作品はやはりとんでもなくよくできているのだ。

 しかし、しかしである。
 そのように良く感心するにいたったのはクンデラの術中にはまっているかもしれないと、何度も自信がぐらついたのだ。こんなふうに「読まされている」のは、私がクンデラの仕掛けた虚構としての言語社会の鏡像に入りこんでしまったからなのか、それともそれを越えてクンデラが本当の告白だけをしているのか、あるいはだれにも理解されずに言葉を紡ぐ深遠にいるのか、そのあたりの「判読」でずいぶん迷ったのだ。

 その理由を書くのは「感心する」理由を書くよりどうやらずっと難儀しそうなので、できれば書かずにすませたいが、それでは大事なところを避けて通るようなので、せめて次のようなクンデラの小説作法の一端を紹介して、そこから、私のちょっとした悩みの見当が奈辺にあったかを暗示しておきたいとおもう。

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 読んでもらえばすぐわかるように、『存在の耐えられない軽さ』の第1行目には、「ニーチェの永劫回帰という考え方はニーチェ以外の哲学者を困惑させた」と書いてある。

 こんな始まりかたはとても小説の冒頭とはおもえない。いったい何をする気だという感じがする。まして、ニーチェである。けれども、『冗談』も『生は彼方に』も、そして『不滅』も、クンデラはいつもこのように、自分の思索の奥底に揺動するものから、物語を書きはじめるのである。
 そして次のパラグラフには、こともあろうに「永劫回帰の世界では、われわれの一つ一つの動きに耐えがたい責任の重さがある」、つづいて「もし永劫回帰が最大の重荷であるとすれば、われわれの人生というものはその状況の下では素晴らしい軽さとしてあらわれうるのである」などと書く。

ニーチェ 3

 これでは小説家に説教されているようで、とうてい気楽に小説を読むわけにはいかない。少なくとも私は、ニーチェに導かれて小説を読みたくはない。
 それでもまだクンデラは手をゆるめない。次の行ではこの物語の主題をあっさり明示してしまう。いや、臆面なく、あるいはぬけぬけとといったほうがいいかもしれないが、「だが重さは本当に恐ろしいことで、軽さは素晴らしいことであろうか?」というふうに。

 これでは、『存在の耐えられない軽さ』という標題がそのまま主題であるんですよというカラクリを冒頭からキャプション説明しているようなもので、とうてい物語にはなりそうもない。ふつうなら、こんな書き出しの小説なんて、絶対に読む気はおこらない。なんという理屈だと思いたくなるに決まっている。少なくとも私はそういう性(たち)だった。 ところが、そのように読者が気まずい思いをするかしないかという直前、それは小説を読みはじめてせいぜい数分後であるのだが、クンデラはすばやく次のように書いて(まさに読者の退屈な表情を測ったかのように)、そのまま虚構と現実のあいだにわれわれを連れ去ってしまうのだ。

 「私はトマーシュのことをもう何年も考えているが、でも重さと軽さという考え方に光を当てて初めて、彼のことをはっきりと知ることができた。トマーシュが自分の住居の窓のところに立ち、中庭ごしに向こう側のアパートの壁を眺めて、何をしたらいいのか分からないでいるのを私は見ていた。トマーシュがテレザと会ったのはその三週間ほど前のことで、ある小さなチェコの町でであった。二人は一時間も一緒にいたであろうか。彼女はトマーシュを駅まで送り、彼が汽車に乗り込むまで、待っていた」と。

 これがクンデラなのである。
 ここから先は一瀉千里、われわれはトマーシュとともにクンデラの正確な思索の揺動をたどってしまうのだ。
 どうだろうか。私がちょっと悩んだ理由がおわかりいただけただろうか。

 ようするに、クンデラは小説の書き方を小説にするべく、小説という散文様式を選び、その選び方そのものにクンデラの思想と物語の展開とを重ねているわけなのだ。
 だから、クンデラの言葉のすべての選び方の目に私の目を合わそうとしたとたん(それ以外の読み方があるとはおもえないが)、私はまんまとクンデラの術中にはまってしまう(と見えてしまう)わけなのだ。
 しかし、結局はそれでいいわけなのだろう。最初の数分こそいつもギョッとさせられるが、読みはじめたらやはり停まらないのは、それでもクンデラは作家が作品の中でどのように言葉を選ぶかという意味で、完璧なストーリーテラーであるからだ。
 以上で、私の悩んだ事情の説明はおわる。ただし、これではあまりにサービスが足りなすぎるだろうから、少しだけ"付け足しの解説"をする。

 クンデラは小説を「反叙情的な詩」ととらえている作家なのである。
 もともとは詩人だった。セルバンテス、フローベール、ゴーゴリ、カフカ、ジョイス、ゴンブロヴィッチ、ブロッホ、セリーヌ、ナボコフを評価しているのはそのためだ。

8人の作家たち

 しかしクンデラは、「小説」というものなど世界に存在しないと考えている。
 クンデラにとっては、フランス人の小説、チェコ人の小説、日本人の小説というものがあるだけなのだ(これはものすごく正しい)。そのうえで、作家というものは自分が「書こうとする世界の様式」を問いつづけるために書くのだと結論づける(これもものすごく正しいのに、なかなか実行されていないことだ)。加えて、何を言葉として選択したのかということを読者に伝える以外に、作家が読者に伝えるものなどないのだと宣言をする(まさにこの宣言がクンデラだ)。
 だからクンデラは、ひとつだけ例をあげておけば、チェコスロバキアを舞台に書いていることがほとんどなのだが、小説の中では一度も「チェコスロバキア」という合成語をつかわなかった。どうしても地域の特定な呼び方をしたいときは、あるいはさせたいときには、「チェコ」か「スロヴェニア」か、あえて「ボヘミア」と書いた。
 それが自分の体に入っている言葉だったからである。また、作品に責任をとれるところだった(こういうところは、日本では井上ひさしのような作家をのぞいて、日本の作家にも徹底されていないところだ)。

 こんな選択自身が、クンデラをして作品を律義につくりあげさせてきたわけなのである。これで、よりもう少しはおわかりいただけただろうか。私としては、これだけでも『存在の耐えられない軽さ』の秘密の大半を説明したことになるのだが……。
 が、余計なことを言うと、もう半分のことがこの作品にはひそんでいる。さらに"付け足し解説"をしておくのだが、それは「キッチ」とは何かの秘密にかかわっていた。

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 「キッチ」とはキッチュのことだ。そういえば、ああ、分かったと思う人が多いだろうが、クンデラはその「ああ、わかった」を非難する。
 ヘルマン・ブロッホが『キッチ』を書いたとき、これがフランス語で「キッチュ」と訳され、がらくたを愛する感覚というふうに解釈された。日本でいえば風呂屋のペンキ絵とか駄菓子の包装絵のようなものである(当時、日本人の誰もがそうおもっていた)。
 けれどもそれはまったくの誤解であるとクンデラはいう。
 クンデラによると、キッチとは「あばたをえくぼと化する虚偽の鏡を覗きこみ、そこに映る自分の姿を見てうっとりと満足感にひたりたいという欲求」のことなのだ。

 このキッチの感覚は19世紀のドイツの歴史が生んだもので、多くの者が「近代という非現実的なもの」を信用したがっていた。それは「軽さ」を標榜する感覚だった(日本でいえば「軽チャー」である)。それはそれでいい。しかし、社会主義とその反動に苛まれた激動のプラハに育ったクンデラにとっては、キッチの復権は存在を危うくするものなのである。
 そのためクンデラは、存在(これは社会と関与している)がキッチ(これも社会の中で見捨てられずに立ち上がってきたものだ)によってどのように危うくなるかということを、プラハにひそむキッチを通して書こうとした。
 どうだろうか。わかってもらえただろうか。本書はキッチという「未熟を装う存在」を書くために選ばれたクンデラの方法の様式だったのである。そうであれば「未熟を装う存在として置かれていいる伊東マンショ」の、その存在性に今少し視線を注いで真相を正しておこうということになる。

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         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

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     チェコ出身、フランス在住の亡命作家ミラン・クンデラ、このお定まりの肩書きを繰り返されることに、おそらく、グンデラ自身は、飽き飽きしてきたことだろう。
 あるいは、今では白けた笑いを浮かべるかもしれない。「小説」という一芸術を、歴史的、政治的カテゴリーに還元する仕方で理解しようとする知的野蛮に、しばし、クンデラは苦々しい思いを味わってきた。「小説」は、歴史の証言でなければ、政治のプロパガンダでもない。
 しかし、こう問うことはできようか。歴史に「If」は許されないとしても、もし、クンデラが政治的な理由によってチェコを去り、母国語の読者を失い、フランスに居を移し、外国語を表現媒体とせざるを得ない、という状況に追い込まれなかったら、彼の文学世界はどのようなものになったのだろうか?。
 確かに、クンデラの辿った亡命という運命は、過酷なものであったに違いないが、彼の作家としての軌跡を辿ってみるならば、痛ましい喪失と引き換えに、「亡命」が作家としての彼に特有のヴィジョンを与えたことは、疑いを容れぬ事実であるように思われる。

 実存の探求の場、めくるめく世界の多様性と相対性のカーニバル。人間のキッチュな欲望に向けられた容赦ない視線。意志よりも、個人にふりかかる歴史や宿命といった「非人称的」な力の方が圧倒的であるような世界。こうしたクンデラの思考と作品世界の基調は、抒情詩と決別し、小説を自らのフィールドとするにいたった時から(すなわち、共産主義下のチェコでの青春時代から)フランス在住の作家となり四半世紀を経た今日まで、一貫していると見ることができる。この基調トーンの中にあって、祖国チェコを離れ、時間を閲するほどに、ますます明確な形をとって現れてくるテーマというのがある。

 そのひとつが「ヨーロッパ」という理念である。
 そしてこの理念のヨーロッパに、彼の伊東マンショはいた。

 それではクンデラの「ヨーロッパという理念」について、ドン・キホーテが生まれた、あるいは伊東マンショが滞在したスペイン・マドリードを起点として考えてみたい。クンデラが「ヨーロッパ」と言う時、そこに込められているものは何なのか、どのように彼の思考および作品の中で「ヨーロッパ」は形象化されていくのかについて考えてみたい。この形象化の源泉に伊東マンショは立っている。

 クンデラがマドリードに一時滞在したのは1983年のことであった。
 1979年にチェコスロバキア国籍を剥奪され、1981年にフランス市民権を取得した。このころから、母語のチェコ語ではなくフランス語で執筆活動を行っている。フランスに移り住み再び言論・表現の自由を確保したそのクンデラがマドリードに一時滞在した翌年、1984年に発表した『存在の耐えられない軽さ』が世界的なベストセラーになり、フィリップ・カウフマンによって映画化された。

 このクンデラのマドリードでの一時滞在とは果たしてどのような意味を付帯させるのか。
 またクンデラはそこで何を感受したのか。いかにも密かだが、このマドリードは重要なのである。

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 マドリード(Madrid)は、スペインの行政の中心地(首都)である。
 また、マドリード州の州都でもあり、マドリード県(マドリード州の唯一の県)の県都でもある。イベリア半島における経済の中心地の1つともなっている。

 人口は約325万人。2011年の近郊を含む都市圏人口は541万人であり、世界第57位、欧州では第5位となる。欧州の首都の中では最も標高が高い。

 そしてここはスペイン中央部のメセタ地帯のマンサナーレス川沿いに広がる。近郊にはモストレス、アルカラ・デ・エナーレス、ヘタフェなどの都市があり、マドリード首都圏を形成している。
 2012年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス・人材・文化・政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第18位の都市と評価された。欧州ではロンドン、パリ、ブリュッセル、ウィーンに次ぎ第5位である。
 このマドリードは2012年のオリンピックと2016年のオリンピックの開催地に立候補したがどちらも敗れた。そして現在2020年のオリンピック開催地を東京・イスタンブルとで争っている。

 Walking in Madrid, Spain マドリード市内

 LA CIUDAD DE MADRID マドリード

 Madrid 2020 Masterplan

 The Madrid 2020 Masterplan takes you through the installations that would be used during the 2020 Olympic Games, 80% of which are already built and ready to use.マドリッド2020マスタープランは、すでに構築され、使用する準備がされている80%のうち、2020オリンピック大会の間に使用されるインストールを介して表示されている。

 こうした現代の繁栄から4、500年を遡ってみると、
 1561年、フェリペ2世はマドリードを永久的王都と決めた。
 この決定はマドリードの歴史、社会、経済のあらゆる面とその地勢に変化をもたらした。

 15世紀の終わり、マドリードの人口は約12,000人に達し、市内のあらゆる土地に新しい建物が建ち並んだ。サンタ・クララ修道院(1460年)、ラテン救貧院(1499年)、サン・ヘロニモ・エル・レアル修道院(1503年)、ヘロニマ女子修道院(1509年)、フランシスカ女子修道院(1512年)、司教礼拝堂(1520年)、アトーチャ聖母教会(1523年)といった新しい施設が建設されたり、1529年には「王宮病院」やブエン・スセソ救貧院が太陽の門の方へ移転して、網の目のような都市の広がりはそれまでとは違う方向へも伸びていった。
 1535年、主に「コムニダーデスの反乱(コムネーロスの反乱)」(1520年から1521年)以後始まった新たな土地への入植で、マドリード市の面積は72ヘクタールに増えた。さらに、サン・フェリペ・エル・レアル 修道院(1546年)、アントン・マルティン修道院(1552年)、デスカルサス・レアレス修道院(1559年)の建設が、マドリード市が拡張する傾向に拍車をかけた。この建造物反乱の後、マドリードではアルカサルへ逃げ込んだ人を除いた、ほとんどの住民に特殊なウイルス性の病気が蔓延する。

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 1536年からマドリードのアルカサルにいたカルロス1世は、そこをより宮廷的で宮殿の趣を取り入れたものにするため、また政治的法律的環境も整えるために改革を始め、この改革が要因となって、1561年フェリペ2世がマドリードにスペイン王国の宮廷を設置した。
 この決定は、マドリードが、国王、その家族、随員が住むところになったというだけでなく、マドリードに国の中央機構や宮廷勢力に引きつけられた人々が波がのように押し寄せてきて、マドリード市に巨大な影響を及ぼした。
 1535年に72ヘクタールだったマドリード市の面積は、1565年には134ヘクタールになり、16世紀の終わりには282ヘクタールと、瞬く間に約4倍となる。同じく、住宅数も1563年には2,520件であったのが、1571年には4,000件を超え、フェリペ2世治世末期には7,590件以上となった。つまり、家屋件数が3倍となり、年間150件の住宅が建設されたという計算になる。
 人口データからも、1561年には12,700人だった人口が、1571年には42,000人、1584年には55,000人、そして1597年には90,000人に達した。わずか40年の間にマドリードの人口は4倍半に膨れ上がり、カスティージャ王国のほかの都市の人口増加率をはるかに上回り、ヨーロッパの20大都市のひとつとなった。

 このマドリード市の新しい住宅地は(アルカラ、カレーラ・デ・サン・ヘロニモ、アトーチャ、エンバハドーレス、トレドなどから)マドリードへの街道沿いに発達していったので、後に「ハプスブルグ(アウストリア)家のマドリード」といわれるようになった範囲はこうした街道を中心軸として構築されていき、重要な都市整備が成された。
 それは、1577年セゴビア通りが以前フアン・デ・エレーラが建設した同名の橋まで開通したことと、その後、道路拡張と、今日マジョール広場となっている有名なアラバル広場(1581年)などの新しい商業広場の建設のため、中世の城壁とほとんどの城門を取り壊したということになる。
 このような「宮廷の影響力」に引き付けられ、たくさんの職人、商人、貴族、そして、ビクトリア(1561年)、サンティシマ・トリニダ(1562年)ラ・メルセ(1564年)、カルメン・カルサード(1573年)、サント・トマス(1583年)、サンタ・アナ・イ・サン・エルメネヒルド(1586年)、ドーニャ・マリア・デ・アラゴン(1590年)、さらには、アグスティノス・レコレトス(1592年)などの新しい修道会の人々が、マドリードにやってきて住み着くようになった。

 しかし、宮廷がマドリードへやってきたことは決して「よいこと」ばかりではない。宮廷随員、官吏、貴族、聖職者たちがマドリードに滞在するために、国王が、こうした選ばれた移住者たちの宿泊先として、マドリードの住宅の20%を徴用する命令を下した。
 しかし、それでも十分ではなかったため、すぐにまた「国王の宿泊大権」と呼ばれた王権を行使して、マドリードの住宅の半分を確保するよう命令する。これにより当然、多くのマドリードの住民が、国王の下僕たちを泊めるにはふさわしくないような家の建設や家の内装改修工事をした。これらの家は「悪意の家」と名づけられ、ほとんど役に立たず、また、宿泊の提供を拒んだ家には新しい税が課せられた。この新税の税収は国王の下僕たちの滞在費に当てられた。伊東マンショは、このようなマドリードの発展の上に立ち会ったことになる。



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 クンデラがマドリードに一時滞在した1983年、その5月9日に、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が、地動説を支持したガリレオ・ガリレイに対する宗教裁判の誤りを認めた。
 この件がクンデラをマドリードに向かわせるのであるが、その根底には前年の事件をクンデラは秘めていた。

 1982年5月、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、ポルトガルのファティマを訪れていた際、教皇が進める第2バチカン公会議に基づく改革やバチカン・モスクワ協定に反発していた聖ピオ十世会のスペイン人神父、ジュアン・マリア・フェルナンデス・クロンに銃剣用ナイフで襲われ、怪我を負った。
 神父はその場で取り押さえられ、6年の判決を受け、3年服役した。襲撃事件そのものは知られていたが、教皇が出血を伴う怪我をしていたことは2008年10月15日になって公表された。教皇の元側近であった枢機卿の回顧録を基に製作されたドキュメンタリー映画の中でナレーターを務めた枢機卿自身が明らかにしたからだ。

 ここで問題はその近年のことではない。クンデラの滞在先がマドリードであっことにある。

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 ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei)の業績として今日においてもあまり知らないモノの一つに、関数尺を改良したものがある。これは、さまざまな計算を行うことができた。また分度器の機能も持っており、天体の観測に使用できた。またガリレオはパドヴァ大学教授時代にこのコンパスを販売し、使い方を教えることで収入を得ていた。
 そのガリレオはイタリアの物理学者、天文学者、哲学者である。
 そしてパドヴァ大学教授、その業績から天文学の父と称され、ロジャー・ベーコンとともに科学的手法の開拓者の一人としても知られる。1973年から1983年まで発行されていた2000イタリア・リレ(リラの複数形)紙幣にガリレオの肖像が採用されていた。
 しかしそうしたガリレオ・ガリレイは、彼の支持した地動説を口実にして異端審問で追及される。そしてこの問題が決着したのが上記の1983年、その5月9日なのだ。約400年間という長い年月を要した。これが世に名高い「ガリレオ裁判」である。

ガリレオ・ガリレイ 3 W600

 今日の大問題として、ガリレオが地動説を唱え、それを理由に有罪判決を受けたことはかなり有名だ。
 このことから、当時地動説を唱えるものはすべて異端とされ、それによって科学の発展が阻害された、という考えがされてきた。しかし現在では、ガリレオが神父たちよりもキリスト教の本質をよく理解し、科学的な言葉でそれを説いていたために快く思われず、でっちあげの偽裁判で有罪判決を受けたのではないか、と指摘されている。そう、これは既に現代社会の常識である。この奇妙に長い間放置された裁判が「ガリレオ裁判」なのだ。
 そしてこの年月の間に、ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラも、伊東マンショも他界した。

 その「ガリレオ裁判」とは・・・・・、

 ガリレオが地動説について言及し始めると、ドミニコ修道会士ロリーニと論争になり、ロリーニはローマ教皇庁検邪聖省(以前の異端審問所が名を変えたもの)にガリレオが唱えている地動説は異端であると訴えた。この裁判の担当判事はイエズス会員ロベルト・ベラルミーノ枢機卿 (Francesco Romulo Roberto Bellarmino)。このときの判決文はバチカンの秘密文書室に保管されているが、第2回の裁判までの途中で偽造された疑いが濃厚である。 その内容は、次のようなものであった。

 「太陽が世界の中心にあって動かず、大地が動くという上記意見を全面的に放棄し、そしてその意見をふたたび話してでも書いてでも、どのような仕方においても抱かず、教えず、弁護士しないようよう命じられ、申しつけられた。さもなければ聖省はかれを裁判にかけるであろうと。この禁止令にガリレオは同意し、従うことを約した」

 しかし、この判決文にガリレオの署名はなく、第2回の裁判においてもガリレオは見たことがないと主張している。

 1630年ガリレオは、地動説の解説書『天文対話』を執筆した。
 この書は、天動説と地動説の両方をあくまで仮説上の話として、それぞれを信じる2人とその間をとりもつ中立者の計3人の対話という形を取って、地動説のみを唱えて禁令にふれることがないよう、注意深く書いてあった。ガリレオは、ベラルミーノの判決文の内容から、地動説を紹介しても、その説に全面的に賛同すると書かなければ問題はないと考えて出版許可をとり、ローマ教皇庁も若干の修正を加えることを条件に出版許可を与えた。そして『天文対話』は、1632年2月22日、フィレンツェで印刷、発行された。

 翌1633年、ガリレオは再度ローマ教皇庁の検邪聖省に出頭するよう命じられる。
 被疑は、1616年の裁判で有罪の判決を受け、二度と地動説を唱えないと誓約したにもかかわらず、それを破って『天文対話』を発刊したというものだった。
 ガリレオが、あえてこの書をローマではなくフィレンツェで許可をとったこと、ローマ側の担当者に、序文と書の末尾だけしか送らずに許可をとったこと、ガリレオが事情に詳しくないフィレンツェの修道士を審査員に指名したことなどが特に問題とされた。
 ただし、全文が数百ページあるという理由で序文と末尾の送付で済ませることには事前にローマ側担当者も同意しており、ガリレオが指名したフィレンツェの審査官は正規のフィレンツェの異端審問官であった。
 さらに、書の表紙に3頭のイルカが印刷されていることさえ、それが教皇に手下がいるという意味だというねじ曲げた解釈をする者がローマにおり、問題とされた。ただしこの3頭のイルカは、フィレンツェの出版業者のマークで、他の書籍にも印刷されていたため実際には問題にはならなかった。

 裁判でガリレオは、ベラルミーノ枢機卿が記した「ガリレオは第1回の裁判で地動説の放棄を誓っていないし、悔い改めが強要されたこともない」という証明書を提出して反論する。
 しかし検邪聖省は、ガリレオを有罪とするという裁判記録を持ち出して再反論した。この裁判記録には裁判官の署名がなく、これは検邪聖省自らが定めた規則に沿わないものであった。
 しかし、裁判では有罪の裁判記録を有効とし、ガリレオの所持していた証明書は無効とされた。
 第1回の裁判の担当判事ベラルミーノは1621年に死去しており、無効の根拠を覆すことはできなかった。この結果、ガリレオは有罪となった。
 検邪聖省側の記録には、地動説を「教えてはいけない」と書いてあったが、ガリレオが提出した「ベラルミーノ枢機卿の証明書」には、教えることの是非についての記載はなかった。裁判ではこの命令が実際にあったという前提で進められた。ガリレオ自身はそう言われたかどうか記憶にないがなかったとは言い切れないと答えている。1616年にガリレオとベラルミーノ以外の人物もいたことになっており、これについてはガリレオも認めているが、その人物が誰で何人いたのかについては不明のままであった。

 さらに1633年の裁判の担当判事は10名いたが、有罪の判決文には7名の署名しかない。残りの3名のうち1名はウルバヌス8世の親族であった。もう1名はこの裁判にはもとから批判的な判事だったとされている。ただし、判決文に7名の署名しかないのは、単に残りの判事は判決当日、別の公用で裁判に出席できなかっただけではないかという推測もされている。なお、全員の署名がなくても、有罪の判決は有効とされた。
 以上が裁判経過の概要である。

 この「ガリレオ裁判という非常識なバイオリズムに揺らされた空間」に世界は400年もの間晒されていた。その空間に世界のあらゆる事象が影響する。それを悪影響とみなせば伏魔殿のバイオリズムとなる。ヨーロッパとはその中心なのだ。

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 さて、クンデラがマドリードに一時滞在した1983年、その5月9日に、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が、地動説を支持したガリレオ・ガリレイに対する宗教裁判の誤りを認めた。
 この件がクンデラをマドリードに向かわせるのであるが、その根底に、前年の事件(ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、ポルトガルのファティマを訪れていた際、教皇が進める第2バチカン公会議に基づく改革やバチカン・モスクワ協定に反発していた聖ピオ十世会のスペイン人神父、ジュアン・マリア・フェルナンデス・クロンに銃剣用ナイフで襲われ、怪我を負った)をクンデラが意に秘めていたことは前に述べた。
 そこでクンデラには一度訪ねたい場所が改めて強く意識させられた。

 ドン・キホーテの作者ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラは、スペインを代表する大文化人であり、現在スペインに関係する多くの文学賞や施設などに彼の名が冠されている。
 1976年にはスペイン教育文化スポーツ省が、スペイン語文学に貢献してきた作家の業績に対して送るセルバンテス賞が創設され、スペイン語圏内における最高の文学賞とされている。また1991年にはスペイン語の教育及びスペイン文化の普及を目的としたセルバンテス文化センターが設立され、20カ国以上に支部を置いている。また、ユーロ硬貨のうち10、20、50セント硬貨のスペイン国内発行分の片面にはセルバンテスの肖像が刻印されている。クンデラはマドリードにて、このセルバンテスの時間と、ガリレオの時間を対比しようとした。無論、そこには小さな東洋の少年・伊東マンショの動向もある。クンデラにとって、この3者が交差した場所がスペインのマドリードなのであった。
 だがこれはM・クンデラの中においてのみ起こる交差なのだ。現実には顕在化しない交差だが、彼の体内では潜在化されていた。その彼の視線に従えば、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が400年後の1983年に3者を交差させてくれたことになる。

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 セルバンテス文化センターの紹介

 セルバンテス文化センター(Instituto Cervantes)は、1991年にスペイン政府によって設立された、スペイン語教育及びスペイン語圏の文化普及を目的とした施設。スペイン語の教育と文化の普及を目的とした国営施設で、世界40カ国、72箇所に展開されており、本拠地はマドリードと作家ミゲル・デ・セルバンテスの生誕地であるアルカラ・デ・エナーレスに置かれている。日本では、東京都千代田区に2007年9月からオープンしており、その規模は各国のセンターの中で最大級である。 スペイン語講座のほか、スペイン語圏諸国の文化を紹介するイベントなどを行っている。 各界の著名人なども呼んで講演会を行うこともある。またスペイン語検定試験(DELE)も実施している。

 スペイン語版の日本童話「うさぎとカメ」アニメ編

 セルバンテス文化センター活動から波及されて諸外国の文化を紹介するプログラム制作も積極的に推進されている。上の例は、スペイン語が解らなくて­も楽しめる語学教材。

 セルバンテス文化センター東京のスペイン語コース


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 漱太郎がイタリアの元王家であるサヴォイア家の一員「アイモーネ・ディ・サヴォイア=アオスタ」氏に誘われてマドリードを訪れたのが1987年、M・クンデラが滞在した年より4年後であった。

 M・クンデラの行方追ってみると、彼はマドリードから南下してラ・マンチャ地方に向かっている。そのM・クンデラは何よりも先ず一番にヘロニモ修道院を訪ねた。伊東マンショがサン・ヘロニモ修道院におけるスペイン皇太子宣誓式に参列したのが1584年11月11日である。そこでクンデラは往時の伊東マンショ像にヨーロッパの実情を重ね合わせた。

 

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 San Jerónimo el Real de Madrid サン・ヘロニモ・エル・レアル修道院

 1584年11月11日、スペインの首都のマドリードの中心地にあるサン・ヘロニモ・エル・レアル王立修道院礼拝堂で国王フェリペ2世の皇太子であるフェリペの立太子礼が行われ、貴族や各国の大使の馬車あるいは警備の馬そして見物する群衆など、その礼拝堂付近では大混雑になった。賓客達が聖堂に入ってから、一団の馬車が到着し、はるばる日本からやってきた天正少年使節団、その正使者が伊東マンショ。
 その後、少年使節団はフェリペ2世に謁見し、警備隊長はロゴリドであった。そのロゴリドがフェリペ皇太子の母親のアナ王妃の小姓になったのは12歳のときであり、アナ王妃はフェリペ2世の四人目の花嫁で、神聖ローマ帝国の王女である。ロゴリドはそのアナ王妃が亡くなると、近衛隊に転じ、やがて警備隊長となる。
 そんなロゴリドは少年使節団の謁見の場に同席し、日本から使節団を引率してきたメスキータ司祭は少年使節団を彼に紹介するが、ロゴリドは日本の衣裳の特異な外観に驚き、またフェリペ2世に献上された精巧な蒔絵箱や気品のある陶器、さらに屏風絵などに心を動かされ、日本という国に強く惹きつけられた。

 そしてロゴリドがそう語る内容が当時の新聞に載せられた。
 この新聞こそが監獄の中でミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラが見た記事であった。こうしてドン・キホーテ物語の下敷きに伊東マンショが挿入される。
 クンデラにとってそれは中世ヨーロッパを語る上での重要な象徴となった。

 伊東マンショがローマへと向かうためマドリードを出発したのは1584年11月26日。その後使節一行はスペインを南下してアリカンテまでを旅する。
 その工程間にラ・マンチョ地方がある(下の図)。セルバンテスはその道程にあるマンショの姿を実際に見た。その姿が後に監獄でみた新聞の記事によって蘇りドン・キホーテの構想となって深化するのであった。そのためにクンデラもまたラ・マンチョ地方の光景上に立たねばならなかった。 

伊東マンショの工程 W600

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Castile-La Mancha ラ・マンチャ地方地図 W600
Castile-La Mancha 地方の起伏 W600
Castile-La Mancha W600

 Castile-La Mancha「ドンキホーテの土地」


 カスティーリャ=ラ・マンチャ州(Castilla-La Mancha)は、スペインを構成する自治州の一つである。 州都はトレド。カスティーリャ・イ・レオン州、マドリード州、アラゴン州、バレンシア州、ムルシア州、アンダルシーア州、エストレマドゥーラ州と接する。
 19世紀に県制度が導入されて以降、この州の県とマドリード県は「新カスティーリャ」(Castilla la Nueva)地方を構成していた。1978年憲法で自治州制度が導入されてからは、大きな経済格差のために、マドリード以外の地域は切り離されて別の州となった。その自治州政府はフンタ・デ・カスティーリャ=ラ・マンチャ(Junta de Castilla-La Mancha)。
 「ラ・マンチャ」とは、マドリードの南に広がる平原で、風が強く標高の高い地域である。「マンチャ」の名はアラビア語の「乾いた土地」に由来する。ミゲル・デ・セルバンテスの『ドン・キホーテ』の舞台となっているが他には、ひまわり、風車小屋、マンチェゴ・チーズでも有名である。またトレドとクエンカは、「古都トレド」「歴史的城塞都市クエンカ」として世界遺産に登録されている。

 セルバンテスのドン・キホーテを不朽の名作にしている一つの要因は、舞台となったラ・マンチャ地方の貧しい生活ぶりを赤裸々に描写していることにある。
 郷士ドン・キホーテの先祖はイスラム掃討のための国土再征服運動で手柄をたて、その恩賞として報土を譲り受けるが、これが非生産的な荒れ野ばかり。一向に暮らし向きが良くならないため、過去の栄光に逃避しようというのがドン・キホーテの「遍歴の旅」だ。
 ラ・マンチャ地方は経済的生産性の低い地方ではあったが、戦略的には重要であり、トレドを例とするよう多くの要塞が築かれている。その周辺に住民の住む町が発生するという城砦町が要所、要所に散在する。通信用の見張り塔も多く、岩山のあちこちに廃墟として残されている。ここにはアルマグロのように広大な高原を統治するための拠点として戦功の大きかったカラトラバ騎士団の騎士たちへの報償の地として与えられている町もある。
 スペイン特有の風土を醸し出すメセタ高原、この高原の南半分に広がり多くの文人を魅惑しているのがラ・マンチャ地方、ドン・キホーテの里であり、赤茶けた大地と青空は、オリーブ畑と風車を引き立てている。伊東マンショらはこの高原の道を通り南のアリカンテに向かった。

 La Mancha, por los siglos de los siglos (Toledo, Ciudad Real, Cuenca y Albacete)永遠であれラ·マンチャ、(トレド、シウダードレアル、クエンカとアルバセテ)


 「中世史」についての基本的な理解は結局二つの点に絞られるのではないか。
 その第一点は、ミラン・クンデラ(Milan Kundera)の「ヨーロッパ論」を引くまでもなく、「中世における侵略と戦争は政治の延長」ということ。これは現代にも相通じるが、もっと噛み砕いていえば、侵略や戦争という帝国の国策は「政治の失敗」に起因しているとの理解が必要だ。

 第二点は、侵略と戦争は「非日常の倫理・道徳が支配する空間」であり、平時の日常とは逆転した空間を創りだすという意味になる。特に15世紀から16世紀の帝国総力戦ではそれが明確になった。そしてこの侵略の記憶が後世において遠ざかることはない。

 この2点の基本的な理解に欠けると中世史の正体は見えにくい。だからラン・クンデラの「ヨーロッパ論」は、真の中世史観の確立を我々が成し得ているのか、との問いを突きつけている。
 このクンデラのヨーロッパ論を今少し深堀りにしてみたい。

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         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

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 クンデラがみずからの文学観、小説観を語る際に用いるキーワードとして「ヨーロッパ」という言葉を使うようになったのは、フランス亡命以後、しばらくしてからであり、1983年に発表した論文「誘拐された西欧——あるいは中央ヨーロッパの悲劇」(“Un Occidant kidnappé ou la tragédie de l’Europe centrale”)においてである。
 つまりそれは彼がスペインのマドリードおよびラ・マンチャ地方を訪れた以後のことだ。

 クンデラが、この論文の中で主張しているのは、ポーランド、ハンガリー、ルーマニア、チェコスロヴァキアなど、戦後の共産主義革命による政治的な経緯から「東欧」と呼ばれている諸国の本来は、そもそも歴史的には「中欧(Europe centrale)」と呼ぶべきであって、「中欧」とは単に地理的に確定されたものではなく、「一つの文化であり、運命」であるはずであるにもかかわらず、そのことは、全西欧文明からは、省みられていない、ということである。この文章から伺われるのは、政治的な経緯から、ヨーロッパの周縁とみなされることになったこれら中央ヨーロッパの国々が、むしろ、国家の枠組みを越えた、「ヨーロッパ」という文化の総合を示し、担ってきたはずだ、という並々ならぬ確信であり、また、その確信と表裏の、「中欧」への無関心、ひいては、中欧の体現する文化的な価値への無関心に対する絶望感である。

 クンデラが、フランスのレンヌ大学に招聘されたのを機に、自著の発禁処分を受けプラハ音楽芸術大学映画学部での助教授の職をも追われた故国、チェコを後にしたのは1975年のことである。論文「誘拐された西欧——あるいは中央ヨーロッパの悲劇」が執筆されるまでの年月は、クンデラにとって、西欧の大国たるフランスで、「東欧からの亡命者」として、他者の様々な屈曲を孕んだ目に曝された時間でもあったはずである。この論文は、文化論の体裁を取ってはいるが、その悲嘆のトーンは、異郷での他者による認知と、自らのアイデンティティの間のひりひりするような齟齬を生きた経験なくしてはありえなかったような切迫感を帯びている。

 1979年、フランス亡命後、初めての小説作品である『笑いと忘却の書』(Le livre du rire et de l’oublie)が出版される。
 実は、この作品が問題となってクンデラはチェコスロヴァキアの市民権を奪われ、81年にはフランス国籍を獲得することになるのだが、祖国からは弾かれ、しかしフランスに帰化するでもない、生活の現実としては、最も不安定な時期に執筆された作品である。
 この作品の中には、幾分かは、クンデラの分身であろうと思われる、チェコから来た、フランスへの亡命女性タミナが登場し、タミナのアイデンティティの危機が描かれていく。この作品は、クンデラの小説のキャリアの大きな転換点を示した作品といってよい。それ以前の作品が、あくまで具体的なチェコの風土と歴史に根差し、リアリズム的な手法を手放していなかったのに対し、この作品に描かれるのは、どこかシュールな、具体的な地理上の対応が想像しにくいような、そのような空間であり、時間である。

 作品は、7つの章に分かれ、また章の一つ一つは、番号を付された数頁の断章により成っており、断章と断章、あるいは、章と章の間に、思いもかけない反復や照応が見られる。それは、一つの物語を時間の系列に沿って順に読んでいくのとは違ったスリリングな驚きを与える。
 クンデラはこの作品を「変奏形式の小説」と呼んでいるが、あるモチーフを少しずつ変えながら繰り返し、その反復とずれによって、リニアな叙述とは別の仕方で新たな認識をもたらす、ということを、小説の技法として身につけたのである。クンデラ自身、こうした「変奏の技法」は、「亡命」という危機を乗り越えようとした結果、辿り着いたものであると述べているが、故国を離れ、母国語の読者を失うという危機は、皮肉にも新たなテーマと表現技法の発見の契機となったのである。

 それにしても、『笑いと忘却の書』における極度のアイデンティティ・クライシスと、論文の中で示された失われた「中欧」、「ヨーロッパ」というアイデンティティへの希求とは、まさしく表裏一体だとは言えないだろうか。祖国チェコから根こぎにされることと、彼の中の「ヨーロッパ」像の懐胎は、悲痛な仕方で結びついているように思われる。

 クンデラにとって「小説」とは、単なる文学の一ジャンルを指す名称ではなく、それ自体が、ある精神のあり方、一種の立場を表すものであると映っている。クンデラは、実際に交わされた会話として、『裏切られた遺言』Les testaments trahis(1993)の中に次のような奇妙なやりとりを書き付けているが、それは、「小説」というジャンルを選びとったのが、実存的な決意に基づくものであることを窺わせるとともに、小説という芸術の内的原理に沿ってではなく、政治的な文脈において小説家を理解しないと気がすまない世間に対する苛立ちが端的に現れたものでもあると思われる。

 「クンデラさん、あなたは共産主義者ですか?——いいえ、私は小説家です。」「あなたは左翼ですか、それとも右翼ですか?——いいえ、そのどちらでもありません。わたしは小説家です。と。

 Milan Kundera - L'identità L'アイデンティティ(1997年)

 この小説の主人公は、シャンタルとジャンマルク。一目で恋に落ちた後、長い間共存している。彼は年下で、不安定な仕事に、彼女は少し年上だが、広告代理店では良い仕事を持っており、両方を維持し得る。物語は、ある小さな町に始まるノルマンディー 。それはどこか幻想と現実の間の境界であった。

 クンデラの評論を読むと、「文学」、「作家」という概念が比較的希薄であるのに対し、「小説」というジャンルがことのほか、大きく、重く、特別な意味合いを込めて語られているのがわかる。
 クンデラは、文学上のキャリアを、マヤコフスキーや、エリュアールのような叙情詩人として出発させた。しかし、スターリン主義の絶頂期にあって、叙情的態度がことのほか賞揚される時代に青春を過ごし、叙情とテロル、叙情と全体主義が不分明に馴れ合っているのを見、叙情的な高揚が、自我と世界との批判的距離を無くさせ、盲目的なものになってしまうことに危険を覚え、また、いたく心をきずつけられたという経緯がある。
 クンデラにとって、叙情詩を書くことをやめ、小説の執筆を始めることは、叙情の精神とは反対の、「相対性」の支配する世界に身を捧げる決意と共にあった。
 1975年に執筆された『生は彼方に』(La vie est ailleurs)は、共産主義下の独特の叙情的高揚と、その裏面を描いた一種の詩人批判の小説であり、詩の叙情性の持つグロテスクさに向けられた容赦ない批評であると言ってよい。
 チェコの批評家クヴェトスラフ・フバチークも指摘するように、クンデラの小説においては、一貫して叙事的要素が中心的な役割を占めている。それは「叙情的精神」の負の側面に受けた痛手が、クンデラのその後の著作活動の性質を深く規定しているからなのである。

 「小説」というジャンルほど、曖昧模糊とし、多様で、定義し難いジャンルもないが、クンデラの小説観は、実に確信に満ち、明快である。クンデラは『小説の精神』L’art du roman(1986)の中で次のように語っている。

 しかし、この知恵とは何でしょうか、小説とは何でしょうか。「人間は考え、神は笑う」という、みごとなユダヤの諺があります。この格言に触発されて、私は好んで次のように想像します…つまり、ある日、フランソワ・ラブレーは神の笑いたもうのを聞き、こうしてヨーロッパの最初の偉大な小説の構想が生まれたのだと。小説という芸術が神の笑いのこだまとして誕生したという考えは気に入っています。と。

 「神の笑いのこだまとしての小説」とは、何とも、大らかなユーモアに満ちた把握である。クンデラによれば、神が笑うのは、人間が考えても、真実は人間から逃れ去ってしまうからであり、複数の人間が考えれば、たがいに考えることは違い、また、人間が自分がそうであると考えているものでは決してないという、その根本的な滑稽さからなのである。小説とは、性急に判断を下すのではなく、あくまで世界の多様性と相対性を、その豊かさまるごと描き出すことが可能なジャンルである。判断を宙吊りにし、真面目とも不真面目とも判別できないようなあわいで、実験的な思考も可能となる。
 「小説の精神」とは、「不確定性を不確定性としてうけとめる聡明さ」に発するものであり、絶対的真実を追究する宗教やイデオロギーとは、ベクトルを異にする。クンデラの思い描く「神の笑いのこだまとして生まれた芸術」である小説の敵は、アジェラスト(ラブレーの造語であり、笑わない者たちという意味)、紋切り型の無思想、キッチュであるという。そして更にクンデラは、こうした三つの敵と闘う小説という創造的空間は、近代ヨーロッパとともに生まれ、またそれは、ヨーロッパのイメージそのものであると断言するに至る。

 「小説」というジャンルを実存的に選び取ったクンデラの目に、このように「小説」と「ヨーロッパ」は分かちがたく結びついている。「小説の精神」のイメージとしてのヨーロッパ、とは無論、幾分の理想化を孕んでいよう。クンデラ自身、それが「ヨーロッパに抱く夢」であり、また、その夢は何度も裏切られたと語っている。小説の精神としてのヨーロッパという夢とその裏切りというモチーフは、殊に亡命後の彼の作品の中に恒に見え隠れしているように思われる。以下、彼のテクストを読み解く中から、その具体相を明らかにしてみたい。

 クンデラは、母国語の読者を失うこととなり、翻訳者の協力を得て、作品を外国語(まずフランス語)で発表する事態となったが、各国語に翻訳されたものの中に、翻訳者による自らのテクストの暴力的な改変ともいえるものがあるのに彼は大いなるショックを受け、その後、自作品の翻訳を点検し、訂正する作業に膨大な時間を費やすことになる。そうした作業の中で、クンデラは、自らが用いる用語ひとつひとつに思いをめぐらす機会を得、自らのキーワードを集めて、一種の定義集たる個人用辞書を執筆することを思い立つ。
 この「辞書」は「七十三語」(“Soixante-treize mots”)と題され、文字どおり、73のキーワードとその定義が並んでいるのだが、注目されるのは、その中に、正しく「ヨーロッパ」という項目が存在することである。少し長いが全文を引用しよう。

 ヨーロッパ Europe中世期、ヨーロッパの統一は共通の宗教に基づいていた。近代を迎えるに及んで、宗教はその地位を文化に(文化的創造に)明け渡し、文化はヨーロッパ人がそれによって自分を認識し定義し同定する、さまざまの至高の価値の実現となった。ところで現在、今度は文化がその地位をあけ渡している。だが何に、誰にか。ヨーロッパを統一できるような至高の諸価値が実現するのはどの領域であろうか。技術的偉業だろうか。市場だろうか。民主主義の理想、寛容の原則をかかげる政治だろうか。しかし、その寛容がもう豊かな創造や力強い思考をなんら擁護することがないならば、それは、空疎で無用なものになるのではないか。あるいは、文化の退位を天にも昇る心地で身を任すべき一種の解放と受け止めることができるだろうか。私にはわからない。私はただ、文化はすでに屈服してしまったと自分が承知していると思っているだけである。こうしてヨーロッパの自己同一性のイメージは遠ざかる。ヨーロッパ人。つまりはヨーロッパに郷愁をいだく人。

 この記述から窺われるのは、クンデラがヨーロッパというものを、「文化」を自らのアイデンティティの根幹としていること、またヨーロッパは「文化」を至高の価値の実現とするような共同体であったはずであるのに、もはや「文化」がそのような主導的な価値たりえなくなっているとする彼の苦い歴史認識である。このテクストが書かれたのは、1986年のことであるが1993年、ヨーロッパには、EUが成立する。
 無論、その統合の原理は、「文化」ではなく専ら、政治・経済的な合理性を根幹とするものであった。時代の趨勢に照らしてみても、クンデラのこのヨーロッパ観は、多分にユートピア的な、感傷的といってよいトーンを帯びているといわざるを得ない。

 このような、失われた「ヨーロッパ」というイメージ、喪失と幻滅を語る一方で、ユートピアとしての「ヨーロッパ」という観念、ヨーロッパの文化と芸術の歴史の栄光は、クンデラの中で、ますます大きな存在となってきているように思われる。
 クンデラの小説や評論の中には、ゲーテやベートーヴェン、ラブレーやセルバンテス、ヘルマン・ブロッホやストラヴィンスキーに至るまで、全ヨーロッパ的な名声を得るにいたった芸術家たちへの言及が数多く見られ、自らをそうした、全ヨーロッパを巻き込む大きな歴史の流れの中に位置づけ、ヨーロッパ文化の嫡子たりたいとする、並々ならぬ意欲と衿恃がありありと感じられる。まるで「ヨーロッパの偉大なる文化と芸術」がみずからのアイデンティティの起源そのものであるかの如くである。
 自らの拠って立つジャンルである「ヨーロッパ小説」をめぐって、『裏切られた遺言』の中でクンデラは次のように述べている。

 私が「ヨーロッパ小説」について語るのは、たんにそれを中国小説から区別するためだけではなく、その歴史が超国家的なものであることを言うためでもある。フランス小説、イギリス小説、あるいはハンガリー小説は、それに固有の歴史をつくりだすことはできず、それらはみな、国家の枠組みを越えたひとつの共通の歴史に参加しており、その歴史によって、小説の進化の意味と個々の作品の価値があきらかとなる唯一のコンテクストがつくりだされる、ということを言うためでもある。と。

 こうした、国家の枠組みを越えた「大きなコンテクスト」に言及するクンデラに対し、チェコ時代の作品も視野に収めつつ(当然、チェコ語テクストの読解も進めつつ)クンデラについて、現在、最も包括的で、綿密な研究を重ねている赤塚若樹は、「クンデラのまなざしは、以前はチェコ文学とヨーロッパ文学の両方に注がれていたのに、彼がフランスに渡ってからは、だんだんその焦点がヨーロッパ文学のほうに移動していき、それにともなって、いつしかチェコ文学がなおざりにされ、ヨーロッパ文学の理念だけが「ユートピア」としてひとり歩きを始めてしまった。」と述べている。さらに、「クンデラの文学に輝きをあたえているものは、チェコの歴史と彼が生きた経験的現実、チェコの歴史的現実がもたらす具体性なのではないか」として、フランスを舞台にした作品『不滅』以後の小説には、「著しい衰退」が見られるとの厳しい評価を下している。

 確かに、クンデラの文学にチェコ固有の歴史と現実の経験の具体性を求めようとするならば、「ヨーロッパ小説」たる、フランス移住後のクンデラの小説には、失望を禁じざるを得ないだろう。しかし、共産主義下のチェコでのしたたかな経験を経て、「西側」と呼ばれていた大国の一つであるフランスに移り、やがてクンデラのパースペクティブに「ヨーロッパ」と呼ぶほかない大きなイメージが浮かび上がってきたことは、彼の小説の別の次元の認識力へと明らかに繋がっていると、筆者は考える。クンデラの文学における「チェコ性」そのものより、強いられた移動を経ることによって、チェコにもフランスにも通底する「ヨーロッパ性」ともいうべきものに確かな表現のリアリティを与え得たところにこそ、クンデラの文学の独自性があるのではなかろうか。

 Žert (1969年Žert(ジョーク)からクリップ)


 またクンデラは、『小説の精神』所収「不評を買ったセルバンテスの遺産」(L’héritage décrié de Cervantes)の中で、次のように述べている。

 最後の逆説の時代が小説家をかり立てるのは、時間の問題をもはや個人の記憶というプルースト的問題に限定することではなく、集団の時間の、ヨーロッパの時間の謎に——老人が自分自身の過去の人生を一瞥のもとに把握するように——自分の過去を見、おのれを総括し、おのれの歴史を把握すべく振り返るヨーロッパの時間の謎に拡大することです。と。

 ここには、「ヨーロッパの時間の謎」が、クンデラにとって小説の不可欠のモチーフであることが語られている。実際、クンデラの小説の中には、ヨーロッパの歴史そのものを、彼なりのパノラマのもとに捉えようとする貪欲な視線がある。もちろん、その歴史の描き方は、登場人物の実存に降りかかるものとして、あるいは、実存のモチーフと何らかのアナロジーで結ばれるものとして、個人の歴史との具体的な連関と照応を保ったかたちを取っている。

 例えば、『笑いと忘却の書』の中には、ヤナーチェク音楽院の院長を務め、ベートーヴェンに関する研究を残した音楽学者であったクンデラの父の死の場面が描かれているが、クンデラは、それを「インターナショナル」を歌うピオニール協会の子供たちを交錯させながら描いている。フサークが「子供のみなさん! みなさんは未来です」「子供のみなさん、けっして後ろを見てはいけません!」と叫ぶ声が父の病室にまで届いてくる。子供をうまく政治的な祝祭に取り込む共産主義の、一種硬直した盲目的進歩主義が、一人の人間の死と重ね合わせられることによって、浮き彫りになっていく。
 そして、クンデラの父が亡くなる1年前、息子に連れられ散歩に出かけた折り、ソ連軍占領下のチェコで、至るところに据え付けられたスピーカーから無節操に流れる騒音と化した音楽、「歴史の重荷を忘れ、生きる喜びに身を任せるよう人々を誘う」その騒音を耳にしたのち、父が「音楽の愚かさだよ」という言葉で、何かを伝えようとする、というエピソードが語られる。辛そうに、やっとの思いで発せられた父の言葉を息子であるクンデラは解釈しようとするのだが、その件は以下のようである。

 彼はそれで何を言いたかったのか? 一生の情熱であった音楽を侮辱したかったのだろうか? いや、そうではない。音楽の原初の状態というものが、音楽の歴史に先立つ状態というものが、初めての問い、初めての省察、一つのテーマと一つのモチーフとの戯れという考え以上の状態というものがあると言いたかったのだと私は思う。音楽のそうした原初形態(思想のない音楽)のなかに、人間の実体と不可分の愚かさが反映される。音楽がそうした原初的な愚かさを越えた所にまで高められるためには、精神と心情との計り知れない努力が必要だった。それなのに、数世紀に渡ってヨーロッパの歴史に張り出していたその素晴らしいカーブが、ちょうど打ち上げ花火のように軌道の頂点で消えてしまったのだ。音楽の歴史は死を免れないが、ギターの愚かしさのほうは永遠だ。今日、音楽は元々の状態に立ち戻った。それは最後の問いと最後の省察のあとに来た状態、歴史のあとに来た状態なのだ。と。

 クラシック音楽の研究に終生打ち込んだ父が辿り着いた音楽の認識の煮詰められた形がここにある。『笑いと忘却の書』の中には、言葉の困難と闘いつつ、ベートーヴェンのソナタに関する本を執筆しつつある父が、ベートーヴェン最後のピアノソナタである作品(111)の変奏について、やはり何か重要なことを伝えようとするのだが、言葉にならず、それは何だったのかと、息子クンデラが考察する場面がある。そこでクンデラは、変奏曲という形式は、外界の無限へと貫いて行く旅ではなく、あらゆる事物の内に隠されている内的世界の、無限の多様性の内部に人を導くものである、と考えを進めていく。こうしてクンデラは西欧の音楽の探求のひとつの極点について思考しようとしている訳であるが、それだけに、そうした探求を無化してしまうかのような、「音楽の愚かさ」という言葉は衝撃的なのである。

 すべての人間を兄弟にしてしまう音の単純な組み合わせ、魂なき叫びの単調なリズム。ヨーロッパの音楽家たちが数世紀に亘って営々と続けてきた「高尚な」芸術的探求とははすかいに、人間の愚かさと結びついた音楽の深い根がある。そのようにクンデラは看破する。ヨーロッパの歴史の栄光と、「人間の実体と不可分の愚かさ」と。
 この両極の緊張のただ中に、鮮烈な実存の姿が描き出されていることが、クンデラの小説の無視しえない特徴なのではなかろうか。しかし、栄光と愚かさの間に紡ぎだされる物語は、何と哀しく、滑稽なのだろう。クンデラの祖国であるチェコには、民衆に根強く浸透した人形劇の伝統があるが、「繰り人形」とは、歴史の皮肉に翻弄され続けた小国の人々の精神構造に親和性を持つ、ひとつのメタファーであるとも言えるかも知れない。クンデラの小説の中でかたられるヨーロッパの歴史=物語には、何か、神の繰り人形としての愚かな人間たちの、壮大な寓話とでもいった趣がある。

 上に述べたように、亡命後に初めて執筆された『笑いと忘却の書』のなかには、明らかに、「ヨーロッパ」のモチーフが姿を表しているのであるが、この小説から5年後に発表されることになる『存在の耐えられない軽さ』L’insoutenable légèreté de l’êtreは、「ヨーロッパ」というもの、「ヨーロッパ人」というものを総体として捉えようとする熾烈な意志が更に明確化しており、登場人物や場面設定自体に「ヨーロッパ」を浮かび上がらせる力学が一層緻密に張り巡らされているように思われる。

 この小説は二組の男女を中心として展開していく。一方がプラハの外科医トマーシュとチェコの寒村出身のテレザであり、もう一方は、トマーシュの元愛人で放浪の芸術家であるサビナ、そして彼女の新しいパートナーである、ジュネーブの学者フランツである。思い切って単純化を試みるなら、前者のカップルは、人生のメタファーとして「軽さ」を選ぶ者と「重さ」を選ぶ者との組み合わせであり、後者は、裏切りを人生の基調としキッチュなものに対する距離感を持つ者と、ヨーロッパ知識人の一つの典型、それも篤実ではあるがキッチュなものに取り込まれやすい人物との組み合わせであると言うことができよう。この二組の男女の物語は交錯しつつ展開していくのだが、共産主義下のチェコの歴史的な現実を堅固な背景としつつも、主人公たちの都市から田舎へ、あるいは、ヨーロッパからアメリカへ、第三世界へ、といった移動も伴い、また、豊富な脱線的エピソードが挿入されるために、小説の見えない主人公である「ヨーロッパ」の像は、より、総括的で多角的、立体的なものになっていく。

 この小説の中で、徹底的な問いと探求の中心となっているのは、ヨーロッパの心性が生み出した「キッチュ」の精神である。「キッチュ」とは何であるかを、格言風の言葉でもって、あるいは様々なエピソードによって、明らかにしていくのである。クンデラの考える「キッチュ」とは、端的にいえば、「糞の否定」であり、「存在との無条件の同意」である。クンデラによれば、ヨーロッパのすべての信仰の影には、創世記の一章があり、世界が正しく創造され、存在はよいことであるとする思考があるという。クンデラはこうした「存在との無条件の同意」に由来する様々な感情や人のふるまいを検証していくのである。音楽に対する感受性の問題も、性愛の場に介入してしまう腸の音も、集団での輪舞への郷愁も、叙情詩のパトスも、全体主義の美的な理想も、配偶者の死をうけいれる心情も、すべて「キッチュ」の心性との関わりで眺められるのである。

 この小説の第6章は、「大行進」と題され、ここでは、フランツが参加する、カンボジアの共産主義政権に抗議してヨーロッパの左翼が組織した大行進のエピソードが語られ、左翼的な人々を惹き付ける観念、イメージがつくりだす、「政治的キッチュ」が徹底的に検証される。作品の中でヨーロッパの政治的キッチュが、どれほど突き放された目で眺められているかは、以下の文章に明らかである。

 フランツは、「大行進」の栄光が、そのなかで歩んでいる者達の喜劇的な虚栄と同じものであり、ヨーロッパの歴史の壮大な喧騒ががぎりない静寂のなかで終わってしまい、もう歴史と沈黙のちがいがないということを認めることができなかった。と。

 『存在の耐えられない軽さ』においては、個人のレベル、また集団や政治のレベルで、キッチュの心性が語られ、物語の進行とともに、キッチュの像は重層的なものとなり、やがて、ヨーロッパの総体としてのキッチュが、大きな歴史のパースペクティブの中に浮かび上がってくるのである。

 クンデラが、フランスに居を移して15年の歳月を経て、長編『不滅』L’Immortalité(1990)が執筆される。この作品で初めて、フランスが小説の舞台の中心となる。『存在の耐えられない軽さ』の中には、物語の時間的な進行がストップするような、エッセイ的、哲学的な文体による一種の「逸脱」の手法が際立ってきていたが、『不滅』では、このエッセイ的、哲学的な断片の比重が増してきている。
 『不滅』は、『存在の耐えられない軽さ』と同じく7部で構成され、対照的な性格を持つ姉妹アニェスとローラを中心にした現代の世界の物語の展開してゆく奇数の部と、過去の時間に溯って歴史の奥行きの中に哲学的な視線を投げかける偶数の部が、ひとまず区分けされて進行する。次第に、現代の物語と歴史の奥行きとが複雑に交錯し、少々あざといと言いたくなるほど巧妙な照応を見せていく。現代の物語は、具体的なエピソードと、大胆な見取り図でもって提示された「ヨーロッパ」の心性に照らされて、特有の位置づけが為されていく。
 クンデラはこの作品の中で、ヨーロッパの心性を代表するものとして、「音楽」と「ホモ・センチメンタリス」という言葉を掲げている。「ホモ・センチメンタリス」とは、ラテン語であてこすったクンデラの造語であるが、ヨーロッパ文明の生み出した「感情を価値に仕立てる」人格の典型として提出され、小説全体にわたって、完膚なきまでに諷刺の対象とされる。「真実の愛はつねに正しきものである」つまり、愛は人間を無罪にするという確信に基づき、善と悪の基準が主観的であるようなキリスト教文化が、この人格の方を生み出したのだとクンデラは考えている。そして、その起源を12世紀の宮廷風恋愛に見定めている。現代に至る歴史の流れを踏まえてクンデラは、ヨーロッパにおいて音楽はこうした人格のタイプと密接に連関しあっているものであると考えている。

 クンデラは言う。「ヨーロッパ。偉大なる音楽とホモ・センチメンタリス。同じ揺籃に並んで寝ている双生児」。クンデラがヨーロッパの心性の根幹にあるとする音楽は、ことに、ロマン派的なものである。この小説の中には、音楽へのロマン派的な思い入れへの諷刺が散見される。たとえば、主人公ローラは、ロックには我慢ならない大のマーラーファンとして描かれ、典型的な「ホモ・センチメンタリス」にあたるのだが、かなり冷笑的に描かれており、またアニェスについても、父の葬儀にマーラーの『第9交響曲』の「アダージョ」を流したいと思ったが、式で涙を他人に見せるのをはばかって、事前に何度もプレーヤーに掛けて聴き、「十三度目には、パラグアイの国歌がすぐ目の前で演奏されるくらいにしか心を動かされなかった」そして、葬儀で涙を流さずにすんだ、という何やら人を喰ったようなエピソードがはさまれている。
 音楽の引き起こす感動や陶酔にどこか醒めた視線を投げかけずにはいられないクンデラは、この小説の中で、「絶対的に現代的であること」をモットーとしているアニェスの夫、ポールに次のような台詞を吐かせている。

 僕はショパンの葬送行進曲を聞きながら死ぬより、子供の片言を背景にして死にたいね。そしてこれも言っておこう。悪のすべては、死の賛美であるあの葬送の行進から来ているのだとね。葬送がもっと減れば人は、もっと死ななくなるだろう。と。

 何か価値の高いもの、理想を求める心情とつながる音楽は、悲劇や戦争を導くものと同じ根から発しているとの考えが述べられている。この断片では死の賛美の問題が触れられているが、小説は、題名が示す通り、「不滅」、つまり肉体は死んでも、栄光として滅びずに生き残るという観念を、一見遠く離れていると思われるような日常的な些事や歴史上の事実を折り込みながら、次第に幾重にも取り巻いてゆくように、この作品は進行していくのである。死してなお栄光が残るという観念、そしてそこから生み出される欲望がヨーロッパ的な心性の根幹にあること、またそのことが現代の人間の存在にどのような影を落しているのかを、クンデラは批判的な観点からこの小説に盛ろうとしたのだと思われる。音楽、殊にクラシック音楽は、「不滅」を求めてやまないヨーロッパ的心性の典型であると捉えられているのである。

 次に挙げる『不滅』の断片には、ヨーロッパの「不滅」の心性の捉え方が良く表れているように思われる。これも、ポールの発言である。

 わたしは、これら全ての交響曲の完璧さに異議を唱えているのではないのです。ただその完璧さの威光に異議を唱えているんです。それら超崇高なる交響曲は無用の大聖堂でしかない。人間には近付けないんです。非人間的なんです。昔からずっと我々はそういう威光を誇張してきました。そのせいで劣等感を持たされました。ヨーロッパは自身を五十ほどの天才的な作品に還元してしまったのですが、ヨーロッパはそれをまるで理解してこなかったときている。この酷い不平等をよく理解してください。全てを代表する五十の名声に対して、何も代表することのない何百万ものヨーロッパ人? 階級の不平等なんてちっぽけなことですよ、一方を砂粒に変え、しかるに他方には存在の意味を授ける、この形而上的な不平等に比べればね。

 クンデラはこの小説の中で、ベートーヴェンやゲーテ、リルケ、ロマン・ロランなどを俎上に載せ、彼らの作品そのものではなく、後世の人々がその生涯に付与していった様々の伝説的な価値を次々に手玉にとっていく。偉大な芸術家達は「威光」の欲望にとりつかれた人間、あるい「ホモ・センチメンタリス」として、一種滑稽な存在として脱神話化されていく。

 La otra aventura. Programa . MILAN KUNDERA

 番組放送2011年。名門出版プレアデスに組み込まれ、プラハへの列車旅行を自覚するミランクンデラの戦いについて時間を語るコルタサル。彼の小説と彼のジャーナリズムを通じてホルヘIbargüengoitiaの仕事におけるユーモアの戦いに近づく新しいテーブル出版の世界。

 クンデラの評論や談話においては、広くヨーロッパの芸術全般にわたる熱烈なオマージュが見られるが、彼は、地理上の祖国を失った自分にとっての祖国=chez soi、つまりは、自己が本当に自己でいられる場所とは「ヨーロッパ文化」そのものである、と亡命の中で芸術家としての生をまっとうしたストラヴィンスキーに自らを重ね合わせるようにして述べてもいる。「ヨーロッパ」へのあまりにも強い愛着と、容赦ない「ヨーロッパ」の寓話化は、作用・反作用の関係にあると言ってよいかもしれない。

 ビロード革命を経、「正常化」した祖国チェコに、帰国するという道をクンデラはとらなかった。最新作『無知』Ignoranceは、亡命者のチェコへの帰還とその失望をオイディプスの神話に重ね合わせて描いたものだが、クンデラは今後もフランスに住まい、汎ヨーロッパ的という他ない小説を書き続けるだろう。クンデラの小説の中に、ヨーロッパの歴史と心性を真正面に捉えようとする記述は他にも数多く、さらに分析の対象としたいところである。以上、クンデラにとっての「ヨーロッパ」のエッセンスをいささか粗描した。

 ミラン・クンデラの表現に再び注目してみたい。クンデラは『小説の精神』の「不評を買ったセルバンテスの遺産」というエッセイで、次のようなことを書いている。
 《 フッサールとハイデガーによって、世界に何かが欠如したままになっていることがあきらかになった。それは「存在の忘却」という問題である。これは「認識の熱情」の現代的高揚とともに、それとは裏腹に喪失しつつあるものだった。「認識の情熱」なら、デカルトこのかたいくたびも視点と方途を変えて盛り上げてきた。けれども「存在の忘却」はデカルト的なるものではまったく掬えるものとはなってこなかった。これを掬ったのは、おそらくセルバンテスの『ドン・キホーテ』なのである。世界を両義的にものとして捉え、絶対的な一つの真理のかわりに、互いにあい矛盾するかもしれない二つ以上の相対的な真理を掲げ、そこに刃向かうすべての主義主張と幻影に対決していくということを教えたのは、唯一、セルバンテスの『ドン・キホーテ』だったのである 》と。

 そしてこの草稿文には《 そのモデルが日本の少年とするのだから神の真理は再び解体される。実際にみたそのモデルによって、また分担される無数の相対的真理が近代に向かって散らかされたのである 》とする記述が残されている。

 近年、ミラン・クンデラの新しい評論集『出会い』の翻訳が出た(西永良成訳、河出書房新社、原書は2009年刊)。これは「新しい」といっても中身はまったく新しくはない。『存在の耐えられない軽さ』の作家は、けっして新しいものをありがたがったりはしないからだ。モダンの後にポスト・モダンなどというバカな物差しにも縁がない。

 今年84歳(2013年現在)になったこのチェコからの移住作家(いまでは「亡命」という言葉も間尺に合わなくなってしまった)の「別れの儀式」の手始めとのことだが、ここには、クンデラに親しい文学や絵画それに音楽との「出会い」を語ったエッセーを集めてある。巻頭のフランシス・ベーコン論も読ませるが、「ブラックリスト、あるいはアナトール・フランスに関するディヴェルティメント」が、クンデラの嗜好や批評的意識の立ち位置をよく示していておもしろい。

 「ブラックリスト」とは、「流行」とか「風潮」が排除するものを、教会や警察のやり方で示した表現だが、フランスの文学界はそれ自身の「ブラックリスト」をもっていて、クンデラに馴染みの作家もそのなかに入れられていた。シュルレアリストが「死亡宣告」を下して以来、アナトール・フランスはその筆頭にあって、そんな作家に関心があると言ったら、パリの「趣味のよい」文化人たちを白けさせてしまうのだ。

 もちろんこのような「同化傾向」は、抑圧と排除のメカニズムとして全体主義体制のもとでは国家的に働いている。チェコからフランスに亡命した(1975年)直後、クンデラは「好意的な」フランス人たちの間で当たり前になっているそんな風潮に触れてしまった。
 ところが、「ブラックリスト」によってほぼ永遠に葬られているこの作家(フランスの国名を筆名にした)は、チェコで青春期を過ごしたクンデラにとっては日常の糧のような作品を書いた作家だった。フランス革命期の恐怖政治(「テロル」の時代!)を扱った『神々は渇く』は、革命の正義の名のもとに親しい者たちをも次々と断頭台に送った「邪悪な」青年の話である。クンデラはこれを例外的な歴史的悲劇の一コマとしてではなく、人間の日常生活を描いた作品であるかのように淡々と読んでいる。

 その中にこんなくだりがある。
 
 のちになってブロート(小説の主人公ガムランに告発される友人)のことを考えながら、わたしは共産主義の時期に体制に反対するふたつの基本式な態度があることに気がついた。ひとつは信念に基づく反対、そしてもうひとつは懐疑に基づく反対。教訓的な対立と反道徳的な対立。ピューリタン的な対立とリベルタン(自由思想)的な反対。前者は共産主義がイエスを信じないことを非難し、後者は共産主義が新しい〈教会〉に変わろうとしていることを非難する。前者は共産主義が堕胎を認めることに憤慨し、後者は共産主義が堕胎を困難にすることを非難する(このふたつの態度は、共通の敵に眼を曇らされ、両者の相違をほとんど見ていなかった。その相違は共産主義が消え去ったあとになってから、ますます強く際立ってくるようになった)。

 カトリックでもコミュニズムでもなく、「西」でも「東」でもないというクンデラの「中欧」の位置のありようがここにも読み取れる。

 また、この見方は、今では「ブラックリスト」に入れるまでもなく忘れられた旧ソ連の作家、アレキサンドル・ジノヴィエフを想起させる。77年に西欧に亡命を余儀なくされたこのへそ曲りは、「自由の空気の味はどうですか?」とマイクを突き付ける西側ジャーナリストに、「君たちは何もわかっていない、あの国ではそんなものは必要ないのだ」と一喝して嫌われ、みずから「醜いアヒルの子」を自認、やがて訪れたペレストロイカ、西側を熱狂させたペレストロイカに対しても「西側かぶれの指導者たちが企てた愚策」とこきおろし、『カタストロイカ』を書いて反論、西側ジャーナリズムからは「狂犬」扱いされて、「20世紀のカッサンドラ」としてソ連崩壊のがれきの中に消えていった。

 彼もまた、「私は歴史(理性)を信じている」という命題は「私は神を信じている」という命題と同型であるとして、「私は神を信じる、のではない」の「のではない」に賭けた作家だった。「のではない」は単純な否定ではない。「信じる」ことに安んじ、自らを正当化することの否定であり、根本的な留保だ。だがその「留保」は消極的だというわけではない。「無」は純然たる虚無ではなく、限定の不在にほかならず、ある意味ではそれは無限の充溢である、と気づいたのはベルクソンだったが、ジノヴィエフは「信」の対象を立てることを拒否しながら、生身の生存を全力で肯定する人でもあった。

 どういうわけかこの頃、「東方」に縁がある。ギリシア、東欧、旧ソ連...、「西洋(オクシデント)」が「東(オリエント)」に望見した地域だ。ついでに想起しておくなら、バルカン半島にはイスマエル・カダレがいた。『砕かれた四月』も忘れがたい作品である。

 クンデラの本に戻れば、随所にこの作家独特の「歴史を斜めに泳ぐ」創見が散りばめられているが、「近代」に殉じるようにもみえるこの作家が、その予期せぬ変奏ともいえるクレオール文学に魅了され、パトリック・シャモワゾーの『すばらしいソリボ』を、口承と書くこととの稀有の出会いとして賞賛していることも印象的だった。私にはクレオール文学の紹介に労をとってきた友人がいるが、その者としては嬉しいことであろう。

 Castilla - La Mancha - un paseo por las nubes カスティーリャ ラ·マンチャ「雲の中を歩く」


 それにしてもM・クンデラがマドリードからラ・マンチャ地方を訪ねたのには一人の人物に会うための最大の目的があった。
 ラ・マンチャ地方にトメリョソ(Tomelloso)という町がある。

Tomelloso gif

トメリョソ 1 W600
トメリョソ 地図 W600

 Semana Santa 2012 - Domingo de Ramos - Tomelloso トメリョソの町でパームサンデーの物語。

 イベリア半島南部に広がるラ・マンチャ地方の平原、D.O.バルデペーニャスの赤茶色の表土が、やや白味がかった石灰質を含んだ土壌へと変化する。
 これがD.O.ラ・マンチャのトメリョソに入った合図となる。
 M・クンデラはラ・マンチャのワイナリー「VERUMヴェルム」を訪れた。

 古くから世界でも最も大きなワイン生産地として知られるラ・マンチャ。
 この地方でワインの首都と言われるトメリョソは、広大な畑の中央に位置する。また歴史的にも高いワイン生産の技術を持ち、代々新しい技術に投資を行ってきた生産者たちは、現在トメリョソを高品質のワインと蒸留酒の産地として知らしめるべく、彼らの知識と経験を活かし生産を行っている。

 Wines from Spain 2010 Promotional Video

viñedos 6 W600

 ラテン語で「真実」を意味する「VEURUM」という名は、大地に対し、ワイン造りに対し、また、すべてに対して真実でありたいという、ロペス・モンテロ家が代々受け継いできた思いを表している。

 このヴェルムの畑の歴史は1788年、ロペス・モンテロ家の先祖に当たるホセ・ロペスが受け継いだ畑に遡ることになる。1961年、ホアン・アントニオ・ロペスが蒸留酒製造所を設立し、世界的な成功を収めた。彼の死後、2005年に4人の息子たちがヴェルムを設立する。所有する畑は約200ヘクタール。標高およそ400メートルの平原に位置し、表土から3メートル下にある石灰岩を基盤岩とする。

 5つに区分されたこの畑では、カベルネ・ソーヴィニョン、メルロー、テンプラニーリョ、カベルネ・フラン、アイレン、シャルドネ、ゲヴュルツトラミネール、ソーヴィニョン・ブラン等、様々な品種が栽培されている。さらに、原産地統制委員会の研究機関の後押しもあり、失われつつある土着品種の再生を手掛けるプロジェクトの一環として土着品種の植え付けも予定されている。気候は、夏は暑く冬は寒く、昼夜の寒暖差が20℃もある大陸性気候で、ブドウ生産に適した土地柄といえる。

 ワイン造りにはモスト・フロール(フリーラン果汁)のみを使用し、全ラインナップ合わせての年間生産量8万本程度のの限定生産を行っている。また、古く中世より、人々は水分を貯めるこの厚い岩盤を掘り下げ、地下貯蔵庫として用いてた。ヴェルムは、今世紀初頭、親会社である蒸留酒製造会社の地下に高さ7メートル、面積8000㎡の広大な地下セラーを完成させた。

 そして、恵まれた土地に限りない愛情を注ぎ、類まれなるセラーを利用し、この土地の素晴らしさを100%活かしたいという、ワインメーカーエリアス・ロペス・モンテロの考えは、自然と有機栽培にたどり着く。さらにそれは、伝統を重んじながら、効果的な新技術も積極的に取り入れるせい新が「真実」の探求につながっている。

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ホセ・ロペス・モンテロ W201H268           ホセ・ロペス 書籍 W200H268

 このワイナリー「VEURUM」であるロペス・モンテロ家には、祖ホセ・ロペス(José López Montero)によって語り継がれるトメリョソ(Tomelloso)の歴史書がある。
 その内容の中に天正遣欧少年使節が描かれている。これは祖ホセ・ロペスが家伝とされる代々に継がれた伝承を残そうとして記した歴史書だ。その一節に「El nombre de ese chico es Mancio. Como un mensajero del rey, Se trata de un niño japonés que llegó a España. Ahora, se dirigen a Roma.  あの少年の名はマンショという。国王の使者として、スペインに来た日本人の少年だ。今、ローマへと向かっている」と記し、ラ・マンチャ地方を南下してローマに向かう少年使節一行の旅姿を伝えている。

 1983年に、この古書の内容を確かめるべくしてM・クンデラはトメリョソにやって来た。
 またそこにはドン・キホーテの著者ミゲル・デ・セルバンテスと伊東マンショに関する故実についても記されている。「Prototipo de Don Quijote es Mansho.ドン・キホーテのプロトタイプはマンショである」と。つまりこの古書には、ドン・キホーテの源泉は伊東マンショの姿であり、それをセルバンテスが描き出したと書き記している。
 この事実を確認した私もまたそれ以降、ワイナリー「VEURUM」に度々訪れるようになった。

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 ワイナリー「VEURUM」の現代表醸造家Elías Lopez Montero(エリアス・ロペス・モンテロ)は広大な葡萄畑を見つめながら語る。
 VERUM BODEGAS Y VIÑEDOSは200haの葡萄畑を所有しているが、その中で最も良い葡萄を厳選して、毎年8万本だけVERUMのワインとなり得る、と。
 また石灰岩層は、この地域の絶対的な主役だと語るエリアスは、恵まれた土壌に感謝と敬意の心を常に忘れない。トメリョソの土壌は特殊で、とても貧しく、表土はたった25cm~30cmのみで、その下は、3mの厚みを持つ石灰岩層を基盤としているからだ。その根は石灰岩層につき葡萄を育て、丹念に手をかけることで特別な個性を与えられる。そしてエリアスはワインの醸造だけでなく、葡萄の作付から全ての指示を統括する。さらに絶滅の危機にさらされているこの地域の、アリビーヨ、モラビア、などの土着品種葡萄を作付してラ・マンチャの風土特性を守り続けている。

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 ワイナリーVERUMのあるトメリョソにはエリアス・ロペス・モンテロお勧めの特別なレストランがある。
 その「VINOS Y TAPAS」は、米料理が有名だ。
 何度かVERUMの白(ゲヴェルツトラミネール&ソーヴィニオンブラン)をチョイスした。エリアスの葡萄畑を見た後、この地元の料理とワインはまた格別である。
 特にチーズのサラダはレベル高い。じつに美味しい!アロスバンダ。米料理に定評があるのがまったくもって頷ける。アリオリと一緒にいただくと美味しさが一段と増す。この恵まれた自然の恩恵と、醸造家の匠の技が加わり、「VERUM」のワインが誕生したのだということを、実際訪れて実感することができた。

マンショ・ワイン W600
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 伊東マンショがローマへと向かうためマドリードを出発したのは1584年11月26日。
 その後、使節一行はスペインのラ・マンチャ地方を南下してアリカンテ港から出航するのだが、その1584年から429年の歳月が流れた(2013年現在)。

 翌2014年には430年となる。そして2019年には伊東マンショの生誕450年記念を迎える。上述したようにロペス・モンテロ家には、祖ホセ・ロペス(José López Montero)によって語り継がれるトメリョソ(Tomelloso)の歴史書がある。
 この歴史書はモンテロ家がラ・マンチャ地方の伝統文化を絶やさないよう代々の責務として保管してきたものだ。中世における天正遣欧少年使節一行のラ・マンチャ地方を通過する光景はこうしてトメリョソの人々の間で大切に語り継がれている。

 ワイナリー「VEURUM」の現代表Elías Lopez Montero(エリアス・ロペス・モンテロ)は節目となる2019年に向けて生誕450年記念に相応しい醸造家としてのワイン開発計画を明らかにした。
 この計画は今後6年の歳月をかけてVEURUMのプライドを指し示す商品開発となる。
 開発のテーマは「中世当時のラ・マンチャの醸造と風景」を掲げる。
 折しもこの完成予定年には、マノエル・ド・オリヴェイラ(Manoel de Oliveira)監督と世界的ベストセラー小説「ハリー・ポッター」シリーズの作者、J・K・ローリングの脚本による伊東マンショを主人公とする映画化の完成予定と重なるのだが、映画制作関係者もこのワイナリー「VEURUM」の記念ワイン開発は一連に関わる重要なプロジェクトと位置づける。
 そしてJ・K・ローリングは2013年7月、早速VEURUMを見学した。さらに完成したワインはローマ法王に届けられバチカンを祝福する一品となる。この期待を背負いVEURUMの蔵人らは6年間の試練場へと突入した。

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                      シリーズ連載・次回No.fileに続く
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