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伊東マンショの正体を科学する No.0005

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 世界は大航海時代。日本は戦国「下克上」の世。同時期にキリスト教が伝来する。織田信長の比叡山焼き討ちのころに、また室町幕府が終焉しようとするころに、日向国一円に勢力する豪族の伊東家に数奇な運命を宿す一人の男児が誕生した。
 この男児が後に天正遣欧少年使節の正使となる伊東マンショ。
 だがこの人物についての実像を記す資料は今日に乏しい。その背景には当時の混乱と錯覚とが不遇にも交錯する日本史の実情がある。つまり記録として残せない深い闇の淵に置き去られた。
 No.2631ファイル・データはこの歴史人の正体に迫る研究をシリーズ構成でつづる資料コラム。中世の街道を往来した人物との交流を織り重ねながらマンショの足跡の真相を編集する。・・・・伊東満所

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     辻斬りZ W50H50 gif  ① 南蛮の道「スペインに透視するマンショの面影」
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         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

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     前回に引き続き司馬遼太郎の「司馬史観」に少し触れる。
     バスク地方からスペインのマドリードまで着いたホテルで、司馬遼太郎の『街道をゆく22南蛮のみち』(1984 朝日新聞社刊)を再び読んでいたら、その冒頭いきなり「こんなホテル」と吐き捨てる女性が登場して、その名前に、すこしばかりハッとなった。
 司馬や担当編集者らがパリ市内で泊まっている、団体客ご用達のアメリカ式巨大ホテルを「いやだねえ、そばまできて、帰ろうかとおもった」などと流ちょうな日本語で揶揄(やゆ)した、このフランス人女性は、名をカトリーヌ・カドゥという。司馬は取材コーディネーションをつとめてくれた彼女を、親しみをこめて「カトリーヌ嬢」と呼んでいた。このカトリーヌ・カドゥは、黒澤明の通訳をつとめたり、永井荷風の仏訳本を出したり(『おかめ笹』『腕くらべ』)と、語学力をいかした仕事が多いことで高名な女性だ。そしてフランスで長年日本映画の紹介や普及につとめてきた。

 このカトリーヌ・カドゥの監督した新作ドキュメンタリー映画が、近年開催中のカンヌ国際映画祭の〈カンヌ・クラシック〉部門で上映された(『Kurosawa, la voie』)。それは、ベルトルッチ、呉宇森、アンゲロプロス、キアロスタミ、宮崎駿、スコセッシら、世界各国11人の映画作家が、黒澤明の映画について語るというもの。クリント・イーストウッドが、「この日本人映画監督が第7芸術にどのような影響を与えたのか」とも説明しているのだが、偶然その彼女と最近お逢いした。

カトリーヌ・カドゥと司馬 W600
 司馬遼太郎記念館


 そこで司馬遼太郎に関するエピソードを一つ思い出した。 

 司馬遼太郎は『南蛮のみち』を、つまり、伝道師フランシスコ・ザビエルの故郷であるスペイン北部バスク地方をたずね歩く紀行文を書くのに、マドリーなどスペイン国内の都市ではなく、パリを旅程の起点としている。このスタートの仕方が、司馬らしくて面白いと感じる。そして司馬が「中世の民の巡礼のみちすじを模倣したのだろうし、ザビエルの留学先カルチェ・ラタンから遡行したかったのだろう」と連想していた。
 だがカトリーヌ・カドゥの話を聞いてみると「どうも、そう単純ではなそう」なのである。司馬がパリを始点にして南下する旅の発想は、旅の事前にカトリーヌ・カドゥとの出逢いがあったようだ。

 そこには『ザヴィエルの書簡抄』という書籍が深く関わっていた。

 司馬は旅の前にこの上巻を読了する。このことをカトリーヌ・カドゥが薦めたという。この上巻は(アルーペ神父、井上郁二訳、岩波文庫)。カトリーヌ・カドゥが話すには、彼女が和辻哲郎の「鎖国」からパジェスの本をへて、同系列の本の三つめだ。そして司馬は「どう旅の計画をたてるか、途中、いろいろ寄り道はしているけれども、いちおう今年の本筋はキリスト教関連のことになるだろうという予感がある。といっても、べつに殊勝な発心をおこしたわけではない。ただ、いままで縁遠かった宗教というものが少しだけ身近なものに感じられるようになってきたというだけのことだ」と言いつつパリに向かったということだ。

聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄 上巻 W600

 さて本書だが、まず「緒論」がすばらしい。サビエルといえば、だれでも名前くらいは知っているが、さて彼がどんな人物だったかを知る人は意外に少ないのではないか。多くの宗教者と同じく、彼にも回心があった。イグナチオ・デ・ロヨラとの出会いである。その間の経緯が、この「緒論」にくわしく書かれている。
 「緒論」だけでも読み物としてじゅうぶんにおもしろいが、これを読めばどうしてもつづく書簡集に読み進みたいという衝動にも似た思いが勃然とおこってくる。まことにイントロダクションとしては申し分ない。で、つづく書簡集だが、これにはいちいちその前に解説がおかれていて、また後に註がついている。この解説がまたすばらしい。それぞれの書簡の読みどころを的確におさえていて、後の註とあいまって間然するところがない。
 そして、書簡にみられるサビエルその人の面目はどうかといえば、これはもう信念の人というしかない。全身全霊、神の恩寵だか聖寵だかに満たされていて、彼がたどった地上の足跡だけみても偉観とするにたる。真の達人にあっては、観照的生活と活動的生活とがけっして矛盾するものではないことを、彼の全生涯が証明しているかのようだ。
 というわけで、この本は上巻がおもにインドでの布教を扱っていて、下巻ではいよいよ日本での伝道のことが語られる。サビエルその人の口から当時の日本の様子がうかがえるのだ。われわれにとっては書簡集の核心といってもいいだろう。ひとつつけ加えておくと、この本を読んでまた気になった本として、イグナチオの「霊操」と聖女テレジアの「霊魂の城」がある。

 『ザヴィエルの書簡抄』には日本人のことが次のように記されている。

 例えば「私達が今までの接触によって識ることのできたかぎりにおいては、この国民は、私が遭遇した国民の中では、一番傑出している。日本人はたいてい貧乏である。しかし、武士たると平民たるを問わず、貧乏を恥辱と思っている者は一人もいない。かれらには、キリスト教国民の持っていないと思われる一つの特質がある。―それは、武士がいかに貧困であろうとも、平民の者がいかに富裕であろうとも、その貧乏な武士が、富裕な平民から、富豪と同じように尊敬されていることである。彼らは侮辱や嘲笑を黙ってしのんでいることはない。日本人は妻を一人しか持っていない。窃盗はきわめてまれである」と。

 その後、ザヴィエルは各地を歩き、さまざまな質問に出会う。

 そして「日本人は私の見た他の如何なる異教国の国民よりも理性の声に従順の民族だ。非常に克己心が強く、談論に長じ、質問は限が無いくらいに知識欲に富んでいて、私たちの答えに満足すると、それを又他の人々に熱心に伝えてやまない」とある。

 そのザビエルは下野国足利庄五箇郷村(現・栃木県足利市)にあった学校、「足利学校」を「日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー(坂東の大学)」と記し、高く評価した(「イエズス会士日本通信」上)。

 足利学校


 ザビエルの日本での活動は京都以北での記録は無い。司馬遼太郎は「そのザビエルが、坂東の足利学校を評価するきっかけをどこで得たのか」に注目する。
 ザビエルは、全国での宣教の許可を『日本国王』から得るため、インド総督とゴアの司教の親書とともに後奈良天皇および足利義輝への拝謁を請願。しかし、献上の品がなかったためかなわなかった。また、比叡山延暦寺の僧侶たちとの論戦も試みるが、拒まれた。これらの失敗は戦乱による足利幕府の権威失墜も背景にあると見られ、当時の御所や京の町はかなり荒廃していたとの記録がある。
 京での滞在をあきらめたザビエルは、滞在わずか11日(約1カ月との説もある)で失意のうちに京を去った。山口を経て、1551年3月、平戸に戻る。
 ザビエルは、平戸に置き残していた献上の品々を携え、三度山口に入った。


 旅人・語り 杉本理恵子                              資料構成・監修: by Sotarou

 1551年年4月下旬、大内義隆に再謁見。それまでの経験から、貴人との会見時には外観が重視されることを知っていたザビエルは、一行を美服で装い、珍しい文物を義隆に献上した。
 献上品は、天皇に捧呈しようと用意していたインド総督とゴア司教の親書の他、望遠鏡、洋琴、置時計、ギヤマンの水差し、鏡、眼鏡、書籍、絵画、小銃などがあったとされる。
 これらの品々に喜んだ義隆はザビエルに宣教を許可し、信仰の自由を認めた。また、当時すでに廃寺となっていた大道寺をザビエル一行の住居兼教会として与えた(日本最初の常設の教会堂)。ザビエルはこの大道寺で一日に二度の説教を行い、約2カ月間の宣教で獲得した信徒数は約500人にものぼったという。
 また、山口での宣教中、ザビエルたちの話を座り込んで熱心に聴く盲目の琵琶法師がいた。彼はキリスト教の教えに感動してザビエルに従い、後にイエズス会の強力な宣教師となるロレンソ了斎であった。

 このロレンソ了斎1526年(大永6年)、肥前白石(現在の平戸市)にて生まれた。目が不自由であったため、琵琶法師として生計を立てていたが、1551年(天文20年)山口の街角でフランシスコ・ザビエルの話を聞きキリスト教に魅力を感じ、ザビエルの手によって洗礼を授かり、ロレンソという洗礼名を受ける。

ローマのイエズス会の古文書館に保存されているザビエルの手紙群 W600

 ロレンソはザビエルが日本を離れた後もイエズス会の宣教師たちを助け、キリスト教の布教活動に従事した。1559年(永禄2年)、コスメ・デ・トーレスの命を受けガスパル・ヴィレラと共に京に入り、苦労の末に将軍足利義輝に謁見し、キリスト教布教許可の制札を受けた。
 また、当時の京都の実質的な支配者だった三好長慶にも会い布教許可を得る。さらにキリスト教に対し好意的でなかった松永久秀が、宗論のためにヴィレラを自らの領地である奈良に招いた時には、ヴィレラ自身が赴くのは危険すぎるということでロレンソが派遣された。ここでロレンソは理路整然と仏僧を論破し、その疑問にことごとく答える。論議の審査のため、その場に居合わせた高山友照はこれに感心し、自らの城にロレンソを招き教えを請い、友照は子の高山右近や家臣などと共にヴィレラから洗礼を受けた。そのロレンソは1563年(永禄6年)に正式にイエズス会に入会、修道士(イルマン)となった。
 司馬遼太郎が推察するには「このロレンソが足利学校の歴史由来をザビエルに伝えた」とする。しかし、直接はそうなのであるが「発端を握るのは鹿児島のベルナルドであったろう」と結論に迫る。

 足利学校の創建年代については長らく諸説が論争となっている。
 しかし一応、平安時代初期、もしくは鎌倉時代に創設されたと伝えられる中世の高等教育機関で、室町時代から戦国時代にかけて、関東における事実上の最高学府であった。
 室町時代の前期には衰退していたが、1432年(永享4年)、上杉憲実が足利の領主になって自ら再興に尽力し、鎌倉円覚寺の僧快元を庠主(しょうしゅ、校長のこと)に招いたり、蔵書を寄贈したりして学校を盛り上げた。その成果あって北は奥羽,南は琉球にいたる全国から来学徒があり、代々の庠主も全国各地の出身者に引き継がれていった。第7代庠主、九華が北条氏政の保護を受けて足利学校を再興し、学生数は3000人と記録される盛況を迎えた。この頃の足利学校の様子を、キリスト教の宣教師フランシスコ・ザビエルは述べている。
 足利学校では入学者には僧俗、身分を問わず学徒名を与えた。
 7代の九華は学徒名で、実際は臨済宗の僧侶である。玉崗瑞璵(ぎょっこうずいよ)という名だった。九華は大隅出身で、伊集院氏の一族だ。大隅から遠く離れた北関東で足跡を残したことになるが、よほどの学識の持ち主だったのだろう。現在、同校の鎮守として稲荷大明神が現存しており、九華が再建したという棟札(むなふだ)が残っていて、棟札には「大隅産島津的孫伊集院一族瑞璵九華」と署名されている。

 これに至る経緯については、生前、その司馬さんより手紙を頂いた。その中で「ミステリー作家ではないので謎の人物として終わらしたのでは気質が萎える。正体の証は難しいが、正体には近づく限り近視眼者として尽くしたい」と語り遺された。やはりこの言葉に司馬史観の真骨頂が現れている。

司馬書簡より W600

 さらに司馬は「ザビエルの布教計画は後のイエズス会のそれとは一線を画すものであった」ことに強く関心を示した。

 ザビエルは日本人をヨーロッパに派遣し、キリスト教会の実情とヨーロッパ社会を知らせ、同時にヨーロッパ人に日本人のことを知らせようとした。しかし後続のフランシスコ・カブラルは日本人が外国語を学ぶことを許さなかったし、ヴァリニャーノが「日本巡察記」に「日本人にキリスト教も仏教と同じくいろいろな宗派に分かれていると知られると布教に悪影響を及ぼす恐れがある」と記し、ヨーロッパの宗教は統一されていると教えていた。
 ザビエルは同僚を通じてスペイン国王に「日本を占領することを企てないように」と進言する。そして堺にポルトガル商館を建て、自分がそこの代理人になってもいい、と書簡で書き送った。

 これらを確かめた後、司馬遼太郎はパリへと旅立った。

フロイスのひく杖に導かれるロレンソ了斎 W600

 だが司馬はそのパリに発つ1ヶ月前に鹿児島に立ち寄ることにした。

 司馬遼太郎には気がかりな人物が「足利学校の一件に絡み」一人いたのである。
 それが「ベルナルド」という鹿児島出身の日本人だ。イエズス会の記録にベルナルドという洗礼名のみ記録され、日本名は現在も知られていない。しかし彼こそが、日本人初のヨーロッパ留学生であり、日本人として初めてローマ教皇とも対面した人物なのだ。

 1549年8月15日に日本に到来したフランシスコ・ザビエルは鹿児島で宣教を行ったが、ベルナルドはザビエルから最初に洗礼を授けた日本人である。以降2年間、ベルナルドはザビエルに同行してその活動を支え続けた。

 ザビエルは1551年11月5日に日本を離れたが、このとき5人の日本人を帯同させる。ベルナルドもその一人であった(他の4人は大友義鎮の家臣であったとされる上田弦佐なる武士と、日本名不明のマテオ(山口出身)、ジョアン、アントニオという青年たちであった)。一行はマラッカからコチンをへて、1552年2月にポルトガルの東洋における拠点都市ゴアにたどりついた。

 1552年4月、中国入国を目指すザビエルは、ベルナルドらと別れてゴアを出帆、上田弦佐もこれに同行した。2人はその後別れ、上田は日本に帰り、ザビエルは上川島に入った。残ったベルナルドとマテオの2人はゴアでイエズス会学校に学んだが、マテオはゴアで病を得て世を去った(ジョアンとアントニオの2人のその後の消息は不明)。

ザビエル公園(鹿児島市) W600

 しかし、一人残されたベルナルドは、1553年3月にポルトガルに向けてゴアを出発する。同年9月にリスボンに到着した。長い航海の疲れからベルナルドは病床に就いたが回復し、1554年2月からコインブラの修道院で暮らした。イエズス会員としての養成を受けることになったベルナルドの様子については、長上からローマのイグナチオ・デ・ロヨラのもとに書簡で報告されていたが、ベルナルドの強い信仰心と真摯な姿を聞いたロヨラはベルナルドをローマへと招いたのである。この前に、フランシスコ・ザビエルは友人のイエズス会ポルトガル管区長シモン・ロドリゲスに宛てて次のような手紙をしたためている。「マテオとベルナルドはポルトガルとローマを見たくてインドまで私に着いてきて・・・彼らの望みは祖国に帰り、同胞にその話を聞かせる事・・・ベルナルドは私の日本滞在中に実によく面倒を見てくれ・・・我々の大切な友人であり・・・」と。


 こうしてローマ行きの指示を受けたベルナルドは、コインブラを発って1554年7月17日にリスボンを出発した。陸路スペインを抜け、バルセロナから船でイタリアにわたった。慣れない土地での長旅はベルナルドの体に負担を与え、ベルナルドは再び体調を崩したようだ。

コインブラ 2 600



 シチリアからナポリを経由したベルナルドがようやくローマに到着したのは1555年1月のはじめであった。ローマにおいてベルナルドはロヨラと対面しただけでなくローマ教皇パウルス4世への謁見をも許された。ローマにおいてロヨラは常にベルナルドの健康を気遣っていたという。

 約1ヶ月間ローマおよびその近郊に滞在して1555年10月18日、ローマを離れたベルナルドは海路スペインに向かい、そこから陸路をとってリスボンに戻ったのは1556年2月12日であった。再びコインブラにやってきたベルナルドはコインブラ大学などで学んでいたが、積年の疲労から再び床に就き、そのまま衰弱して1557年3月のはじめにコインブラの地でこの世を去った。

 司馬遼太郎は天正遣欧少年使節の以前に彼がいて「東洋から来たベルナルドの深い信仰と清い生き方は、ヨーロッパのイエズス会員たちにその死に至るまで大きな感銘を与えた」ことを出身の地である鹿児島で想いを馳せようと考えたようだ。

 ヤジロウの案内でザビエルはまず薩摩の薩摩半島の坊津に上陸、その後許しを得て、1549年8月15日に現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した(この日はカトリックの聖母被昇天の祝日にあたるため、ザビエルは日本を聖母マリアに捧げた)。
 同年9月には、伊集院城(一宇治城/現・鹿児島県日置市伊集院町大田)で薩摩の守護大名・島津貴久に謁見、宣教の許可を得た。ザビエルは薩摩での布教中、福昌寺の住職で友人の忍室(にんじつ)と好んで宗教論争を行ったとされる。日本人初のヨーロッパ留学生となるベルナルドにはこの時に出会った。
 このベルナルドがローマ教皇パウルス4世への謁見をも許されたのが1555年、それは伊東マンショが日向国に誕生(1569年)する14年前の出来事であった。

伊集院大田 5 W600

 「南蛮の道・・・司馬遼太郎語録
 ロヨラはバスク地方の小さな町の城主の子として生まれた。ロヨラは軍人だった。彼は30歳のときまでは世俗の虚栄におぼれていた。特に、むなしい大きな名誉慾を抱き、武芸に喜びを見出していた。

 1520年、フランス軍の侵入。かなりの間攻撃が続いたあと、一発の砲弾が彼のはぎに当たった。ロヨラは傷痍軍人として生家のロヨラ城に戻った。…かれは全身を他者に投与してしまうことを考え続けた。自分自身を一切否定し、それによって本来的な自分を生かそうと考え続けた。

 パリ大學でロヨラもモンテーギュ学院に入った。ザヴィエルを口説いてこれを僧侶にし、命も名も要らぬ勇者に仕立てねばならなかった。この間、ロヨラは同室のザヴィエルをつかまえては、説き続けていた。

 「私は、地上の英雄になりそこねた。いまはイエスのためにマリアのために騎士になろうとしている」と。

 「君、思いをひそめたまえ。君は学問をして浮世の栄達をもくろんでいるようだ。君ならきっと富も名誉も得るだろう。しかし全世界を得たところで、なにになる。生命が尽きればそれだけのことではないか。聖書にその意味の言葉があることをよく考えてもらいたい。<おれと一緒にやろう>」と。

 この旅の途上で思いかえしてみると、ロヨラがいなければ、更にロヨラが妖気をもってわがザヴィエルに迫る事がなかったなら、ザヴィエルが日本に来ることもなかった。
 イエズス会も存在しないし、こんにち、上智大学のキャンバスの中の多くの青春も、その場所には存在しない、ということになる。

 さらに司馬さんは語る。
弥陀は創造主ではないが宇宙における唯一絶対の存在である。その点で神と変わらず、また神は愛であり、弥陀が慈悲である点でも、変わらない。ただ親鸞における弥陀は、たとえ不信の者でも、むしろ不信の徒であればこそ追っかけても救う、という点が、ザヴィエルの神の厳しさと異なる。ただすべて救われるという親鸞的な世界には、偽善がないかわりに、敬虔、崇高、高潔、或いは純潔といった要素もすくないようであり、キリスト教とくらべ、美学的にはどこか寝転んでよだれを垂らしている感じがしないでもない」と。

 そしてバスクの現実の民族に直接触れて「<バスクは独立した国です。文化的にも……>と彼女はまずいった。<そこにいる人々は、誇り高い民です。ピレネーのフランス側の麓のバスクはフランス国の一地方ですが。しかしフランスは一度もバスク地方を植民地にしたことはありません。ですからフランス人としてはバスクに胸が痛まないのです。フランス人に少しもコンプレックスを持たさないというのは、たいした民族です。バスクは独立の文化を持っていますが、文化的にフランスやスペインから影響されることもなく、むしろ双方に影響を与えました>」と、いう末裔の言葉に、屹立として生きるバスク人の正体を垣間見た。

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Mesa de los Tres reyes メサ・デ・ロス・トレス・レジェス(三王の台地)

 現在のヨーロッパの人々は、ほとんどがその昔、中央アジアやコーカサスからからヨーロッパに移動してきた人々の子孫である。つまり、言葉や民族をはじめ、今日ヨーロッパ的なものといわれるものの根源は、ヨーロッパの土地の外から持ち込まれてきたことになる。
 そのなかで、バスク人はおそらく、もともとヨーロッパ(イベリア半島北部、もしかしたらフランスの一部も)に住んでいた古ヨーロッパ人の末裔、元からそこにいた人たちだった。

 バスク語をはじめとするバスク人のルーツはよく分かっていない。系統が同じ言語としては、これまでも、イベロ語(東地中海がルーツと思われるイベロ人の言語、非ヨーロッパ言語、イベリア半島に長く住んでいた)、北アフリカのベルベル語、コーカサスの非ヨーロッパ言語、北米にまで及ぶといわれるデネ・コーカサス大語族に属する言語、などが挙られてきたが、どれも仮説の域を出ず、現在はバスク語は系統の分からない孤立語、という意見が多数を占めている。語彙の研究から、氷河期を生きた古人類の直接の子孫ではないか、という意見もあるほどだ。

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 バスク地方のスペイン側では、スペイン語以外にもいくつかの言語が公用語になっているが、そのひとつのバスク語は、バスク自治州全域とナバラ州の一部で話される言語である。
 スペインの他の公用語であるカタルーニャ語は、なんとなくスペイン語とイタリア語とフランス語のミックスのように感じるし、スペイン語とイタリア語とフランス語自体も、スペイン語に似ている部分が結構あるので、聞けばなんとなく内容を想像できたりするが、バスク語はどの言語とも似ていない不思議な言語なのだ。
 しかし聞きようでは、むしろ、響きとしては日本語に近いような気もする。
 このバスク語は、フランコ独裁時代には、カタルーニャ語などの他の言語と共に、使用を禁止されていた。特にバスクの大きな都市では統制が厳しかった。したがって現代の都市部の年配層のバスク人はバスク語をほとんど理解できない状況となっている。

 という話を司馬遼太郎は、取材旅をしたバスク地方のチョコレートショップで、60代くらいのご婦人から聞いている。これは私も同じように現地にて聞いた。逆に若い層は、学校で必ずバスク語を習うので、実生活で使わないバスク人も知識としてはバスク語を知っているという実情がある。ただし、学校で習うのは、標準バスク語で、村々で話される方言のバスク語に至っては通じず対応が難しい。

 そこで古来由しいバスク語を聞くには、メサ・デ・ロス・トレス・レジェス山(Mesa de los Tres reyes )の山麓に暮らすバスク人に求めることになる。司馬もその方向を訪ねるのだが、ザビエルが生まれたザビエル城周辺の山岳に等しい辺境の集落には現在でも確かなバスク語がしっかりと根付いている。

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 ザビエル直筆のサイン

 ザビエルとは、バスク語で「新しい家」の意味である。
 「Etxebarria(家 etxe)」+ 「新しい(barria)」のイベロ・ロマンス風訛りで、彼の生家である城(ナバラ王国・現ナバラ州、バスク語ではナファロア王国)の名でもあった。
 「Chavier」や「Xabierre」などとも綴られることもあるが、「Xavier」はポルトガル語で発音はシャヴィエル。当時のカスティーリャ語でも同じ綴りで発音はシャビエルであったと推定される。現代スペイン語ではハビエル「Javier」。ただし、彼はバスク語及びナバラ語のバイリンガルだった。
 かつて日本のカトリック教会では慣用的に「ザベリオ」(イタリア語読みから。サヴェーリョがより近い)という呼び名を用いていた(例:下記「聖ザベリョ宣教会」や「ザベリョ学院」)。その他日本では「サビエル」も用いられる(例:山口サビエル記念聖堂)。だが、現地バスク地方においてザビエルでは通じず、名はロマンス語読みに近いが姓はラテン語読みに近いために、カタカナ呼びにして「シャヴィエル」なら比較的通用する。

  私は現地のバスク人に何度もザビエルの名を確かめてみたが、そのとき新井白石の『西洋紀聞』に「むかし豊後国に、鬼怪ある家あり。ポルトガル人の来れるを、かしこに按置す。ポルトガル人、其壁上にクルスをかきしに、そのゝちは彼怪やみぬ。国司此事をきゝて、不思議の事におもへり。一年を経し後に、フランシスコシヤヒヱル来たりしかば、国司やがて、其法をうけしといふ。そのフランシスコシヤヒヱルといふは、ポルトカルの語也。ラテンの語に、フランシスクスサベィリウスといふ、これ也。」とある、この新井白石の言葉を想い起こした。

Basque Country: Identity



     辻斬りZ W50H50 gif  ② 南蛮の道「ドンキホーテとマンショとの交差」
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         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

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Madrid.gif                       スペイン国旗 gif

     バスク地方から南下してスペイン国の首都・マドリードまできた。
 さて、ここから先は、司馬遼太郎の街道を行くと別れ、独自で訪ね歩いて発見したマドリードの見聞録とする。

マドリード・ストーリー B W600

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 伊東マンショがスペインのマドリードに到着したのは1584年10月20日。
 そしてマドリードを出発するのが11月26日。
 その間に、サン・ヘロニモ修道院におけるスペイン皇太子宣誓式に参列し、またフェリーペ2世に謁見する。この約1ヶ月間のマドリード滞在において伊東マンショの周辺では一体何が生じたのか。彼はマドリード市民に美貌の眼差しを向ける。東洋の使節者に、市民らはそう感じた。

 このマドリードでの伊東マンショと出逢うには、少しイタリアへ余談の道草をして、先ず一人の人物のことを語らねば先に進めない。

 チンザーノ(Cinzano)は、イタリアの酒類製造会社である。ベルモットやスプマンテを製造し、1757年にチンザーノ家の兄弟が創業した。日本では(チンザノ)で知られ、そのチンザノと言えば社名ではなくベルモットの製品名をさすほどにチンザーノのベルモットは有名である。また、イタリアで初めてスパークリングワイン(スプマンテ)を製造した。写真左は「日本ではベルモットの代名詞的存在」であるチンザノである。そのチンザーノ社は1786年、時の権力者サヴォイア家の公式な納入業者となった。

チンザノとサヴォイア家の紋章 W600

 右上の写真はそのサヴォイア家の紋章である。その「Casa di Savoia」家は、かつてイタリアのピエモンテとフランス及びフランス語圏スイスにまたがるサヴォイア一帯を支配していた辺境伯貴族の家系であった。
 そんな家系を継ぎながら1713年、スペイン継承戦争の結果シチリア王国の王位を獲得、1720年にハプスブルク家とシチリア島、サルデーニャ島の交換を行い、サルデーニャ王国の王位を代わりに得た。イタリア統一運動時に核となり、統一後はイタリア王家となる。

 しかし第二次世界大戦後の1946年6月、王制の是非を問う国民投票により王制廃止が決定して共和制となると、一族は国外追放を余儀なくされた。イタリア憲法でサヴォイア家は2002年までイタリアへの入国を禁じられていた。
 そのイタリアの元王家であるサヴォイア家の一員「アイモーネ・ディ・サヴォイア=アオスタ」氏に初めてお会いしたのは三馬漱太郎が大学院を卒した初夏の軽井沢での奇遇なめぐり逢いからであった。
 氏は1967年の生まれであるから、当時は10歳ぐらいの少年である。そんな異国の少年にとって14歳ほど年齢差のある日本青年は気軽で格好の家庭教師的存在であったようだ。

アオスタ家 W600

 軽井沢には追分宿郷土館というものがある。
 追分宿は、江戸時代に「中山道と北国街道」の二つの道が合流する宿場町として繁栄した。その館内には、追分宿の旅籠・茶屋・問屋の民俗資料と近世宿駅制度を研究する上で重要な歴史資料、本陣土屋家の古文書等を中心に展示・公開している。氏とのめぐり逢いはそんな郷土館の入口での背中越しにあった。背後からふいに風音でも滑るごとく「Ciao !」と声かけられざまに肩口を軽くポンと叩かれた。以来、毎週土曜日の午後には日本語教師として氏の別荘に足を運ぶことになった。

 その少年が現在45歳のアイモーネ・ディ・サヴォイア=アオスタこと称号プッリャ公を名乗る生粋のイタリア人である。その氏名(Aimone di Savoia Aosta)をイタリア語全名で綴ると(Aimone Umberto Emanuele Filiberto Luigi Amedeo Elena Maria Fiorenzo di Savoia Aosta)となり、第4代アオスタ公アイモーネの直系の孫にあたる。2006年に父アメデーオ(第5代アオスタ公)がサヴォイア家家長・サヴォイア公を称するようになった。氏は現在、アオスタ公の公位継承予定者に与えられる称号プッリャ公(duca di Puglia)を名乗っている。

 袖すりあうも他生の縁というが、約30年の交流の期間でアイモーネ・ディ・サヴォイア=アオスタは一度も元イタリア王家の血筋にあたるとは口にしたことはない。漱太郎としては、近年ふいに称号プッリャ公を名乗られて面食らっている。そんな事とはつゆ知らず、1987年、彼が二十歳になる記念だと言ってスペイン旅行に招待されたのだが、その旅行時のことを、数年ぶりに再会した東京渋谷で、彼と会食を交わし楽しくチンザノで飲み明かしたこともあって、貴重な体験を一つ思い出す機会があった。
 彼と過ごしたその旅先がスペインのマドリードに通じ重なることになる。

Don Quijote de la Mancha W600

 Don Quijote de la Mancha. Capítulo 1.


 「Don Quijote de la Mancha」という著書をご存知であろうか。音読すると『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』となる。こう発音すると「ああ、あの」ミュージカル「ラ・マンチャの男」を思い起こされる方も多いはずだ。そうして日本人なら、きっと松本幸四郎の名演技を思い浮かべるであろう。
 この著作者ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラ(Miguel de Cervantes Saavedra, 1547年9月29日 アルカラ・デ・エナーレス ~1616年4月23日)は、中世スペインの作家である。

ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラ W600

 そのセルバンテスは、イダルゴ(下級貴族)の家の次男として生まれる。父は外科医であったため、セルバンテスはコンベルソ(カトリックに改宗したユダヤ教徒)ではないかという研究者もいる。

 彼は少年時代から、道に落ちている紙切れでも字が書かれてあれば手にとって読むほどの読書好きであったが、各地を転々とする生活であったので、教育をまともに受けられなかったという。

 だが1564年ごろ(伊東マンショが生まれる5年前)、マドリードに転居したセルバンテスはルネサンスの人文学者ロペス・デ・オヨスに師事することになる。後にオヨスはセルバンテスを「我々の親愛なる弟子」と呼び、高く評価した。1569年にローマに渡り、ナポリでスペイン海軍に入隊するまでの生い立ちについては、あまり解明されていない。
 この時期に、セルバンテスが決闘相手に傷を負わせた罪を告発する文書が残っているが、同名の別人かどうかは定かではない。
 セルバンテスはスペイン最盛期の象徴であるレパントの海戦(1571年)において被弾し、左腕の自由を失った後も4年間従軍を続けた。そして本国へと帰還する途中、バルバリア海賊に襲われ捕虜となる。

 このとき仕官のための推薦状を持っていたことが仇になり、とても払えない巨額の身代金を課され、アルジェで5年間の虜囚生活を送る。この間、捕虜を扇動して4回も脱出を企てるがことごとく失敗。
 このとき処刑されなかった理由は、推薦状により大物と見られていたためと思われるが、これも定かではない。ようやく三位一体会(キリスト教の慈善団体)によって身請けされ本国に戻ったが、仕官を願うも叶わず、1585年に彼の最初の牧人小説『ラ・ガラテーア』を出版するが、これはあまり評価されなかった。

 1585年に父親ロドリーゴが亡くなると、セルバンテスの家庭は本人・姉・妹・姪・妻・娘(私生児)の六人家族となり、稼ぎ手の少ない家計は逼迫した。セルバンテスは無敵艦隊の食料調達係の職を得てスペイン各地を歩き回って食料を徴発するが、教会から強引に徴発した罪で投獄され、さらに翌年アルマダの海戦で無敵艦隊が撃破されたため職を失う。

 その後なんとか徴税吏の仕事に就くが、税金を預けておいた銀行が破産、30倍の追徴金を負債として負うこととなり、これが払えず1597年に投獄されることになる。
 そのセビーリャの監獄の中で、彼は、ピカレスク小説『グスマン・デ・アルファラーチェ』(1559年)の作者マテオ・アレマンもいたというが、セルバンテスは『ドン・キホーテ』(1605年)の序文で、牢獄において構想したことをほのめかしている。

 その『ドン・キホーテ』の成功にもかかわらず、版権を安く売り渡していたため、生活は良くならなかった。しかし、その後も創作活動は続き、有名なものに『模範小説集』(1613年)、『ドン・キホーテ 後編』(1615年)、遺作『ペルシーレスとシヒスムンダの苦難』(1617年)などを世に送り出した。そうして彼は1616年、69歳でその波瀾に満ちた人生を終える。

 イギリスのシェークスピアと死亡した日が同じであるとされることが多いが、当時はヨーロッパ大陸とブリテン島とで異なる暦を使用しており、実際には同じ日ではない。これは、1582年にローマ教皇がユリウス暦からグレゴリウス暦へ暦の変更を決定し、大陸のカトリックやプロテスタントの国々が順次変えていったのに対し、当時のイギリスは、カトリック教会の権威が及ばないイギリス国教会が優勢だったために新しいグレゴリウス暦を受け入れることが遅れたからであった。

 そのような彼が死後に名が知られたわけではない。当時からスペイン語圏による世界的大文学者であった。同時代および後世に多大な影響を与えた。同時代人のシェイクスピアは『ドン・キホーテ』を読んでいたと言われる。チャールズ・ディケンズ、ギュスターヴ・フローベール、ハーマン・メルヴィル、フョードル・ドストエフスキー、ジェームズ・ジョイス、ホルヘ・ルイス・ボルヘスらは、影響を受けた文学者たちのうちのほんの一部である。
 そのセルバンテスの小説『ドン・キホーテ』をもとにしたミュージカル作品がラ・マンチャの男(Man of La Mancha)である。脚本デイル・ワッサーマン、音楽ミッチ・リイ。1965年にブロードウェイでリチャード・カイリー主演で初演され、ニューヨーク演劇批評家賞などを受賞、5年6ヵ月のロングラン公演を記録した。現在も世界中で公演されている。

Musical「ラ・マンチャの男」Man of La Mancha 近年の状況(ブロードウェイ・ミュージカル2002・03年)


 日本では1969年より松本幸四郎が主役を務める公演が名高いが、「市川染五郎」時代の1970年にはブロードウェイにわたって主役を英語でもこなしており、その熱演は今や伝説となっている。
 脚本は、セルバンテスが小説『ドン・キホーテ』を着想したのは、セビリアで入牢中であったという事実をもとにしている。セルバンテスと牢獄の囚人たちの現実、彼らが演じる劇中劇における田舎郷士アロンソ・キハーナの「現実」、そしてキハーナの「妄想」としてのドン・キホーテという多重構造となっている。当初はテレビドラマとして書かれた。これをミュージカルにすることを提案したのが製作者アルバート・シェルダンと演出家のアルバート・マールである。

ミュージカル「ラ・マンチャの男」 W600

 ちなみにこのミュージカルのあらすじを見てみよう。
 舞台は中世のスペイン。劇作家ミゲルデ・セルバンテスはカトリック教会を冒涜したという疑いで逮捕、投獄される。牢獄では盗賊や人殺しなど囚人たちがセルバンテスの所持品を身ぐるみはがそうとする。セルバンテスは、自分の脚本を守るため、「ドン・キホーテ」の物語を牢獄内で演じ、囚人たちを即興劇に巻き込んでいく。
 ミュージカル・ナンバーとしては、タイトル曲『ラ・マンチャの男~われこそはドン・キホーテ(Man of La Mancha - I, Don Quixote)』、ドン・キホーテが宿屋の下働きかつ売春婦のアルドンサを高貴な姫と信じて歌う『ドルシネア(Dulcinea)』などが知られる。なかでも『見果てぬ夢(The Impossible Dream)』は、本作品のテーマとして、中盤でドン・キホーテが歌い、ラストでも大合唱によって繰り返される。なお2001年に全米で巡業された公演では、1966年に『見果てぬ夢』をヒットさせた(ビルボードのチャート35位まで上昇した)歌手ジャック・ジョーンズ自身がドン・キホーテ(ミゲルデ・セルバンテス)役を演じた。

 しかしスペインでは「ドン・キホーテ」では通じない。(ドンは呼び掛けの称号のため)、定冠詞を付けて「エル・キホーテ」(el Quijote)と呼ばないと理解されにくい。

 また前編の正式な原題は「El ingenioso hidalgo Don Quijote de La Mancha(英知あふれる郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ)」という。
 セルバンテスは前編の序文の中で、牢獄の中でこの小説の最初の構想を得たことをほのめかしている。彼は生涯において何度も投獄されているが、おそらくここで語られているのは税金横領の容疑で入獄された1597年のセビーリャ監獄のことであろう。(ただし、「捕虜の話」など話の本筋ではない挿話のいくつかは、それ以前に書いたものである)。

 セルバンテスは釈放後、バリャドリードで多くの家族を養いながら前篇を書き上げ、1605年にマドリードのファン・デ・ラ・クエスタ出版所から出版した。
 おかげで前篇はたちまち大評判となり、出版した年だけで海賊版を含め6版を数え、1612年には早くも英訳が、1614年には仏訳が登場した。だが作品の高い評価にもかかわらず、版権を売り渡してしまっていたためセルバンテスの生活は依然困窮していた。
 後編は、Segunda parte del ingenioso caballero Don Quijote de La Mancha(英知あふれる騎士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ 第二部)として1615年に同じくファン・デ・ラ・クエスタ出版所から出版された。前篇と同様に大評判となったが、セルバンテスは相変わらず貧しいまま、ついに1616年に没した。

 前篇はセルバンテスの短編集としての色合いが濃く、作中作「愚かな物好きの話」(司祭たちが読む小説)、「捕虜の話」、「ルシンダとカルデーニオの話」など、ドン・キホーテとは直接のかかわり合いのない話が多く挿入されている。また、前篇の第一部(ドン・キホーテ単独の一泊二日の遍歴)も、ひとつの短編小説としての構成をもっている。後編ではこの点を作者自身反省して、そのような脱線を無くしている。

 この物語をもう少し詳しく述べると、ラ・マンチャのとある村に貧しい暮らしをする郷士が住んでいた。
 この郷士は騎士道小説が大好きで、村の司祭と床屋を相手に騎士道物語の話ばかりしていた。やがて彼の騎士道熱は、本を買うために田畑を売り払うほどになり、昼夜を問わず騎士道小説ばかり読んだあげくに正気を失ってしまった。

 狂気にとらわれた彼は、みずからが遍歴の騎士となって世の中の不正を正す旅に出るべきだと考え、そのための準備を始めた。古い鎧を引っぱり出して磨き上げ、所有していた痩せ馬をロシナンテと名付け、自らもドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャと名乗ることにした。
 最後に彼は、騎士である以上思い姫が必要だと考え、エル・トボーソに住むアルドンサ・ロレンソという田舎娘を貴婦人ドゥルシネーア・デル・トボーソとして思い慕うことに決めた。

 その用意がととのうと、彼はひそかに出発した。
 冒険を期待する彼の思いと裏腹に、その日は何も起こることなく宿屋に到着した。宿屋を城と思いこみ、亭主を城主だと思いこんでしまっていたドン・キホーテは、亭主にみずからを正式な騎士として叙任してほしいと願い出る。亭主はドン・キホーテがいささか気の触れた男であることを見抜き、叙任式を摸して彼をからかうが、事情を知らない馬方二人が彼の槍に叩きのめされてしまい、あわてて偽の叙任式を済ませた。

 翌日ドン・キホーテは、遍歴の旅にも路銀や従士が必要だという宿屋の亭主の忠告に従い、みずからの村に引き返すことにした。だが途中で出会ったトレドの商人たちに、ドゥルシネーアの美しさを認めないという理由で襲いかかり、逆に叩きのめされてしまう。そこを村で近所に住んでいた百姓に発見され、ドン・キホーテは倒れたまま村に帰ることになった。

 打ちのめされたドン・キホーテの様子を見た彼の家政婦と姪は、この事態の原因となった書物を残さず処分するべきだと主張し、司祭と床屋の詮議の上でいくつか残されたものの、ほとんどの書物が焼却され、書斎の壁は塗りこめられることになった。
 やがてドン・キホーテが回復すると、書斎は魔法使いによって消し去られたと告げられ、ドン・キホーテもそれに納得した。遍歴の旅をあきらめないドン・キホーテは近所に住む、いささか脳味噌の足りないサンチョ・パンサという農夫を、手柄を立てて島を手にいれ、その領主にしてやるという約束のもと、従士として連れていくことにした。ドン・キホーテは路銀をそろえ、甲冑の手直しをして二度目の旅に出た。

 やがてドン・キホーテとサンチョは3~40基の風車に出くわした。
 ドン・キホーテはそれを巨人だと思いこみ、全速力で突撃し、吹き飛ばされて野原を転がった。サンチョの現実的な指摘に対し、ドン・キホーテは自分を妬む魔法使いが、巨人退治の手柄を奪うため巨人を風車に変えてしまったのだと言い張り、なおも旅を続けるのだった。

 以上、物語の概要である。

 Documental - Don Quijote de la mancha.


 こんな小説を成したミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラという男について熱心に語る若かりしプッリャ公に三馬漱太郎は大いなる興味を抱いた。
 そして二十歳のプッリャ公と約2週間ほどスペインに滞在しドン・キホーテに関する周辺を二人で調査する。すると1597年のセビーリャ監獄当時のこと、その一つの真相にたどり着いた。

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     辻斬りZ W50H50 gif  ③ 南蛮の道「ドンキホーテと複層するマンショ像」
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         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

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 今となっては松本幸四郎の名セリフ「事実とは、真実の敵である」という言葉が実感として身に沁みるのである。
 その監獄の当時、ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラが獄内で目にしたものが「天正遣欧少年使節」に関する古いイタリアの新聞記事であった。
 1597年といえば、遣欧少年使節が帰国して7年後のことであるが、当時どうやらスペインのセビーリャ監獄で、これは新鮮な話題のようであったようだ。

 中世の当時は情報伝達も現代と違いかなりスローなのである。
 セルバンテスは監獄の中でその新聞を何ども読み返すうちに、無敵艦隊の食料調達係の職を得てスペイン各地を歩き回って食料を徴発していた時期のことを思い出した。

 セルバンテスはマドリードの街角で日本という未知なる遥かな国から国王の使者としてローマへと向かおうとする遣欧少年使節と遭遇もしたし、フェリペ2世との謁見話も聞き及んでいた。そんな記憶を新聞の内容と照らし合わせると、街角でみた少年使節の風貌が鮮明なものとなって現れた。

 1547年生まれのミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラは、伊東マンショよりも22歳も年上である。その彼が遺した手記に、そのような内容がある。この手記を発掘するまでの経緯や保管実態については後で述べることにしたい。

 またそこには「Mancio、ああ、彼こそが真実のキホーテだ」と書き記されている。どうやらセルバンテスは監獄でみた新聞記事から発想を得て、また記憶の中に眠る少年使節者の珍像をもって『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』の構想を大きくしたようである。
 つまりセルバンテスは東洋からの正使者・伊東マンショの風姿をお手本とし「みずからが遍歴の騎士となって世の中の不正を正す旅に出るべきだ」と考えるドン・キホーテなる男を創作したことになる。
 この物語では現実と妄想が複雑に交錯するのだが、ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラは東洋人の神秘性に触れて遥かなる国からの旅人・伊東マンショの現実を自身の妄想の中に置いた。

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 人間の言葉とは新しく進化する。その言葉からは時代の生々しい観念がみえてくる。そこでスペインの中世を論じる場合に考察してみたい造語を一つご紹介したい。それは「リブロ・エスコルソ」という表現である。

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 ホセ・オルテガ・イ・ガセト(José Ortega y Gasset)というスペインの哲学者がいた。彼は1883年5月9日にマドリードに生まれる。そうして1955年10月18日までを生きた。このオルテガが、こう書いている。「ドン・キホーテは観念の密林だ、リブロ・エスコルソだ」と。そのリブロ・エスコルソという言葉は「書物がもつ遠近法世界」といったことをいう。書かれた当時、そんな言葉はなかったのであるから、おそらくはオルテガの造語だろう。オルテガはこの造語を用いて『ドン・キホーテ』は書物のなかに観念の密林をすべて入れこんだだけでなく、その見方のパースペクティヴを「世界」としてつくったというのだ。
 このように何とも不可思議な解説を加えるのだが、後半は、このオルテガのいうリブロ・エスコルソの遠近空間を通して伊東マンショの旅をたどり寄せてみることにする。

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 オルテガはスペインを「世界」にしたのは『ドン・キホーテ』だったという。
 しかし、こういう見方はいくつもあった。91歳で亡くなった現代スペインを代表する詩人ダマソ・アロンソも、「スペインのすべてが『ドン・キホーテ』にこめられている」と書いた。
 であるから、その世界である「スペインの密林」に足を運ばねばならなくなった。それらは、かの江戸川乱歩の屋根裏からのぞきみる夜の散歩者の気分でもある。

 スペインの密林をそっと歩き始めると色彩が見えてきた。漱太郎にとってスペイン・バロックは憧憬と謎と暗合に満ちている。そうして、かたやドン・キホーテの「ミゲル・デ・セルバンテス」がいて、かたやスペイン文化のマニエリスムを代表する詩人「ルイス・デ・ゴンゴラ」が机の上の左右にいるようだ。

ルイス・デ・ゴンゴラ W600

 ゴンゴラは1561年の生まれ、二人は15歳くらいしか離れていない。そこにセルバンテスの5歳年上のマニエリスムの巨匠として知られる画家「エル・グレコ」がクレタ島から渡ってきて入りこみ、最後にセビリヤに、かのマネが「画家の中の画家」と呼んだ「ディエゴ・ベラスケス」が宮廷をほしいままのようにして登場する。

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ディエゴ・ベラスケス A W600

 この4人に机上が占有されてみると、これはいったい何なんだというほどのスペイン・バロックの甘美で苛烈な開闢(かいびゃく)である。この一連の動向こそが、その後の近世ヨーロッパの秘密の大半を握る物語芸術の原点だった。

 なかでもセルバンテスの役割はとびぬけていた。『ドン・キホーテ』という大部の書物はスペインという民族の記憶の国家にさえなった。
 こうなるとドン・キホーテの世紀と呼んでいい。
 その世紀とは、『ドン・キホーテ』の前篇が刊行された1605年をはさむ数十年にわたる年代のことをさす。帝国スペインの太陽が昇り、世界を照らし、そしてその太陽が秋の落日のごとく沈んでいった時代なのである。つまりこの渦中で伊東マンショも生きたことになる。そうしてその渦中こそがオルテガのいうリブロ・エスコルソの遠近空間に広がる密林なのであった。

 カルロス1世に始まりフェリペ2世に継がれたハプスブルク朝スペイン帝国は、地中界世界を制して絶頂期を迎えると、南米にも次々に植民地を広げ(これがインカ帝国滅亡につながる)、1571年にはオスマントルコ軍をレパントの海戦で破って「太陽が沈まない国」と言われるまでに膨れあがった(フェリーペ2世はポルトガルも併合した)。

 24歳のセルバンテスにとっても、レパントの海戦は兵士として参加できた生涯の最も忘れえぬ一戦となっている。キリスト教カトリックの大義を守るために命を賭して闘ったということは、セルバンテス最大の誇りなのである。しかもこのとき戦火に左腕を失って「レパントの片手男」という異名をとったことも、セルバンテスの大いなる自慢となった。

 けれども栄光もそこまでだった。
 それから僅か17年後、スペインの無敵艦隊はエリザベス1世のイギリス艦隊に木っ端微塵に敗れてしまう。これをきっかけにスペイン帝国の凋落が始まった。

 以降、植民地も次々に失っていく。しかしそれを含んでなおこの時代は、セルバンテスとゴンゴラとエル・グレコとベラスケスの時代、すなわちドン・キホーテが旅した空想の世紀なのである。
 スペインが世界史上唯一の栄光と挫折を体験したことがドン・キホーテの世界をつくったとすれば、また伊東マンショも同じ空間を垣間見たことになる。
 このような意味でドン・キホーテと伊東マンショは一体なのである。

 スペインにおける『ドン・キホーテ』の意義は、こうなると日本人が想像をしていたよりもはるかに大きい日本人の意義となろう。スペイン語のインテリジェレは「中を見る」「内部を読む」という意味をもっているようだが、まさに『ドン・キホーテ』はスペインのインテリジェンスそのものなのである。
 同じく『伊東マンショ』は日本のインテリジェンスそのものなのであった。いや、必ずしも知性という意味だけではない。それもあるけれど、ありとあらゆる意味をこめた“最大級の情報戦略”という意味におけるインテリジェレになっているようだ。

 そもそも『ドン・キホーテ』は、物語のなかで物語を追慕するという構造を現出させている。
 作中人物ドン・キホーテは自分の過去の物語を書物にしながら進む騎士であり、その書物を抱えたドン・キホーテの体験を、セルバンテスが次々に新たな物語にして『ドン・キホーテ』という書物にしていった。
 そういう重層的追想構造になっている。
 ここにすでにバロックの萌芽が見られるのは言うまでもないけれど、そこにはさらに、民族が体験すべき国家的情報の記録がその情報の物語化を進めるという戦略的インテリジェンスを萌芽させていた。こうした戦略性の中に立たなければ伊東マンショの意義はみえてこない。

 だから『ドン・キホーテ』はふつう評されるような騎士道パロディの物語なのではない。
 パロディであったとしても、そこにはアナロギア・ミメーシス・パロディアの3原則のすべてを織りこんだパロディア・オペラというべきだし、しかも、そのようなアナロギア・ミメーシス・パロディアは、スペインという帝国の隆盛と衰退に対応し、そこで退場せざるをえなくなっていった「騎士の本来」の物語ともなりえていた。こういう文学はめったにない。

 たいへんな計画だったのだ。尋常ではない構想だったのだ。まさにスペインそのものをバロックにしてしまう、すぐれて知的な魔術であった。

 セルバンテスはどうしてそのようなスペインのインテリジェレをこめた『ドン・キホーテ』を書く気になったのか。このことに関しては、要因の一つが伊東マンショにあることには触れた。
 すでにセルバンテスが予想外ともいえるほどの歴史知識や宗教知識の持ち主だったことはわかっている。また、エラスムスの人文主義にも、ウェルギリウスからアリオストにおよぶ古代ローマこのかたの劇作や劇詩に通じていたことも証されている。

 しかし、そういうことだけでは、セルバンテスがどうして『ドン・キホーテ』を書く気になったかという説明はできない。インテリジェレとしての『ドン・キホーテ』が生まれた理由はわからない。それを理解するには、ひとまずはセルバンテスの波乱に富んだ生涯を追ったほうがいいだろう。なぜならセルバンテス自身がドン・キホーテそのものの二重化されたインテリジェレだったのだから・・・・。

 『ドン・キホーテ』を最初に読む場合、誰もが経験することなのだが、ともかく物語を追うことだけを使命にしたようなアサハカな読書で、いっこうに深まらないで終わる。また、これはなんだか数ページすら体に入ってこなかった(こういうこともよくある)。しかしその後にグスタフ・ルネ・ホッケの『文学としてのマニエリスム』でルイス・デ・ゴンゴラのバロック魔術、いわゆるゴンゴリスモに毒されてみると、さらにその後に幻惑のスペイン・バロックを形象しえた表象の歴史の秘密を知りたくて、バロック逍遥を悠然と楽しみたくなるのだが、ここに至ると、そこにいっこうに『ドン・キホーテ』が入ってこないのが無性に気になってくる。そうして、やっとひとこごちがつくのは、ギュスターヴ・ドレの稠密なエッチングが作り出した『ドン・キホーテ』を見てからのことではないか。おそらくは少しの真髄に触れるためには、長いトンネルとなる。ともかくも、こうしてドン・キホーテ体験がやっと始まるわけである。

 それでも『ドン・キホーテ』の密林を読むには著者セルバンテスの生涯が絶対に欠かせないことは、強調しておきたい。そのようなとき、岩波文庫に半世紀ぶりに新訳をもたらした『反ドン・キホーテ論』や、それをくだいた『ドン・キホーテの旅』などを参考になさるといい。新しい考察が試されている。

 それではこれよりセルバンテスが『ドン・キホーテ』を書きあげるまでのことをざっと綴ってみたい。彼はまさに波瀾万丈の人生だ。しかし、これで彼がドン・キホーテになれたことが分かる。
 ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラは、1547年にマドリード近郊の大学の町アルカラ・デ・エナーレスに生まれて、徳川家康やシェイクスピアと同じ1616年に死んでいる。ちなみに伊東マンショが長崎で病死したのはその4年前の1612年である。

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 Alcalá de Henares
 スペインの首都マドリード市内から35キロ、アルカラ·デ·エナレスはユネスコの世界遺産。
 15世紀末から16世紀初頭にシスネーロス枢機卿の発案により大学都市の建設が始まり、1499年にサン・イルデフォンソ学校が創設された。ヨーロッパのほかの大学都市とは異なり、アルカラ・デ・エナーレスでは最初から町全体が大学都市として計画されたことが特徴である。その後も大学施設が拡充され、学術・文化の中心地として発展を遂げた。



 父親ロドリーゴはイタルゴ(下級貴族)で、外科医をやっていた。
 外科医といっても当時は傷の手当をしたり、刺絡や罨法(あんぽう)をほどこす程度のもの、まともな医師とはみなされてはいない。おまけに父親はひどく耳が悪く、一家はかなり苦しい生活を強いられた。そのためいつも借金をせざるをえなくなるのだが、打開のためにバリャドリードに引っ越したりするものの、父親は借金の手続きの悪さで投獄されてしまった。

 貧しい日々をへたのち、フェリーペ2世が首都をマドリードに移した1561年に、セルバンテス一家もマドリードに引っ越した。14歳のときである。そのころのマドリードは騎士道精神が熱狂的にもてはやされる町だった(これがのちの『ドン・キホーテ』の発端になる)。

 15歳になってセビリヤのイエズス会の学校に学んだ(セルバンテスはけっこう誠意のあるキリスト教徒)。セビリヤは詩人フェルナンド・デ・エレーラや劇作家ローベ・デ・エルダが人気を集めていて、セルバンテスはその目眩く劇詩の魅力にも引きずりこまれた(このあたりから自身の内なる作者性にめざめていったのだろう)。

 やがてマドリードに戻ったセルバンテスは、21歳のときに人文主義者ロペス・デ・オーヨスの私塾に入り、ここでエラスムスにどっぷり浸かった(このときのエラスムスへの傾倒はのちの教養の広がりとなる)。が、それもつかのま、セルバンテスはある男に重傷を負わせたかどで逮捕され、右腕の切断と10年間の流刑を言い渡されるという事件に巻きこまれた。

 ここから彼は片腕一本の半生を歩むことになる。
 なんとか這々の体で逃亡したらしいのだが、その逃亡の行き先がローマであったというところが、これまたのちのちのセルバンテスの文芸的素養の発揚にとって欠かせない体験になった。
 さる枢機卿の従僕になったのだが、その時期にウェルギリウス、ホラティウスからアリオスト、サンナザーロ、カスティリオーネなどを読み耽っていた。この読書はとびきりだ(実はセルバンテスは長らく諧謔だけの作家だと思われていたのだが、アメリコ・カストロが『セルバンテスの思想』を発表して以降は、セルバンテスがただならない知識人でもあったということになった)。

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 Leisure Tourism in Madrid

 彼の脳裡ではローマの体験はさらに初期バロック的に旋回していく。1570年、イタリア駐在のスペイン軍に入隊すると、ローマ、ナポリ、ミラノ、フィレンツェに駐留し、ルネサンス最後の残香を胸いっぱいに吸いこみ、そこに高揚していたマニエリスム(方法主義)を嗅ぎつけた。

 そのときである、法王ピオ5世が地中海を挟んで対峙してきたオスマントルコ軍とのあいだに戦端をひらくことを決意した。法王は法王庁・スペイン・ヴェネツィアの連合艦隊(いわゆる「神聖同盟」連合軍)の司令官に、スペイン国王フェリーペ2世の異母弟であるド・フワン・デ・アウストゥリアを任命した。弱冠24歳のこの司令官は、23歳のセルバンテスにとっては恰好の憧憬の的となる(むろんドン・キホーテのキャラクターに反映された)。

 やがてトルコ軍がキプロスを占領し、戦乱の火ぶたが切って落とされた。
 こうして翌年、あのレパントの海戦となり、セルバンテスは左腕に名誉の負傷を受け、おそらくは義手の男となったのだ。が、さきほども述べておいたけれど、セルバンテスはそれが自慢なのである。そんな戦歴には褒賞も贈られた。
 25歳、青年の勢いはますます高揚していった。今度は名将ローペ・ムデ・フィゲローアの率いる歩兵部隊に所属すると、またまたトルコとの戦火の只中に突進する。ローペ将軍はレパントの海戦でまっさきにトルコ軍の旗艦に飛び込み、敵の司令官の首を刎ねた猛将だった。ドン・キホーテが真似ないわけがない。

 かくてスペイン艦隊の一員として各地を転戦したセルバンテスは、28歳になった1575年、ガレーラ船「太陽号」(エル・ソル)に乗りこみ、船団を組んでナポリから出港すると意気揚々の凱旋帰国の途についた。

 ところが運命というものは怪しいもの、この船団がフランス海岸の沖で海賊船に襲われてしまう。セルバンテスらはことごとく捕虜となり、あまつさえセルバンテスの軍鞄にはナポリ総督の推薦状が入っていたため、大物とみなされて巨額の身代金を留守家族に課せられた。

 この海賊の一団はすべて背教者たちである。
 それゆえ、捕虜たちはキリスト教徒として幽閉されるか、ガレーラ船の漕ぎ手として駆り出されるか、つまりは徹底して奴隷扱いされた。すでにアルジェの一画には、そうしたキリスト教徒が2万5千人も収容されていたという。片腕が義手だったセルバンテスは奴隷のほうにまわされた。

 こうして5年にわたる奴隷生活が強いられる。セルバンテスは果敢にも4度にわたる脱走を試みるのだけれど、ことごとく失敗する。
 ここまでが「ドン・キホーテの夢」そのものであったセルバンテスの栄光の前半生である。ここからは身代金を払わざるをえなかったこともあり、33歳以降のセルバンテス一家はかなり悲惨な日々をおくる。 そして今度は、ドン・キホーテの「負の認識」のほうが蓄積されていく。

 祖国スペインのほうは、こうしたセルバンテスの変転する境涯をよそに、さらに大帝国に向かっていた。フェリーペ2世がポルトガルを併合して、首都をリスボンに移していた。中庸になっていた男は焦った。
 セルバンテスはなんとか生活の糧を得るため、スペイン無敵艦隊の食糧を調達する徴発係にもぐりこむ。セビリヤ、コルドバ、ハエン、グラナダの各地を巡っては、小麦・大麦・オリーブを集める仕事に精を出してみた。途中、この当時の食糧徴発は教会や教会領の産物からの徴発が多いため、各地の教会とつねにいざこざがあり、セルバンテスも二度に渡って破門されるという憂き目を負った。

 そのさなかの1588年、スペイン無敵艦隊がイギリス艦隊に撃沈されたのだ。セルバンテス41歳の7月のことだった。絶頂などというものは、決して持続するものではなかったのだ。時代は大英帝国の時代になっていった。
 むろん軍隊での仕事はすっかりなくなった。もはやすべてのことを変更しなければならなかった。やむなくマドリードで俳優になったり、セビリヤで宿屋の雇われ主人などをした。そしてこの時期、ついに自分は劇作をめざす執筆で身をたてることをひそかに決意したようなのだ。ロマンセを書いたり、セビリヤの興行主と6本の戯曲を書く契約などをしたり、48歳のときになるが、サラゴサの詩作コンクールで入賞したりしている。セルバンテスは非実行者になったのだ。

 しかし非実行者になってみると、実行者の存在というものが実に恨めしい。そのような眼鏡でみると思い出された「伊東マンショ」という東洋の実行者がまことに夢のように恨めしくなった。そこで彼はいまさら実行者にはなれずとも虚構の執行者にはなれるという予感めくものを働かせるようになる。

 さて、ここから先は54歳ころに『ドン・キホーテ』前篇を執筆しつづけ、1605年の58歳のときにその前篇が出版され、さらに10年をへた68歳のときに後篇を出版し、その翌年に永眠するという後半生になるのだが、それは「セルバンテスがドン・キホーテになる」という一事にすべて集約されていることなので、あえて事跡を追うこともないだろう。ずっと苦しい生活が続いていたと思ってもらえばいい。

 かくして、今回の渉猟は、いよいよセルバンテスにとっての『ドン・キホーテ』がどういうもので、それがスペインにとっての、そして日本人のわれわれにとっての何であったのかという、その話になってくる。

 かつてドストエフスキーは『ドン・キホーテ』のことを、「これまで天才が創造した書物のなかで最も偉大で、最も憂鬱な書物だ」とも、「これまで人間が発した最高にして最後の言葉である」とも評した。

 べつだんドストエフスキーに従う必要はないけれど、この指摘はかなりイミシンである。つまり、かって放浪の苦悩のなかの街角でみた伊東マンショの堂々たる姿は、まして少年でもあり憂鬱なのである。「偉大で、憂鬱」「最高にして、最後」とは、そこに正と負にまたがる告示があるということだ。

 そこには少なくとも別々の価値をもつ物語が二つ以上あるということ。一つの世界しかあらわさなかったルネサンスを脱却したのがバロックであった。ルネサンスが円の一つの中心をめざしたのに対して、バロックは楕円の二つの焦点のように、複数の中心をもちかかえることを選んだ。
 ドストエフスキーが『ドン・キホーテ』に正と負の両方の価値を見だしたのは、そこだったろう。ドストエフスキーにとって『ドン・キホーテ』はすでにあまりにも激越な二つの対比構造を告げていたのであろうと、漱太郎は思っている。

アンドレ・マルロー W600

 アンドレ・マルローには、心が狭くなったり苦しくなったりするときに読む本が3冊あったらしい。それが『ドン・キホーテ』と『ロビンソン・クルーソー』と『白痴』だった。これもすこぶるイミシンだ。マルローは伊達や酔狂でものごとの価値を口にはしない男だ。そのマルローが伊達や酔狂の文学とも思われてきた『ドン・キホーテ』を、『白痴』と並べたのだ。そこにダニエル・デフォーも入ってくる。これについては『モル・フランダーズ』を読んでもらえばわかるだろう。

 ハインリッヒ・ハイネは生涯にわたっておそらく数度、ウィリアム・フォークナーは毎年必ず『ドン・キホーテ』を読んだという。これもやはりイミシンだ。ハイネの民族の血液と革命の旗印の問題、フォークナーの滾る憎悪と逆上を想像すれば、そのイミシンの意味が伝わってくる。

 日本人でここまで『ドン・キホーテ』に熱意(ZEST)をこめた作家はいないようだけれど、かように『ドン・キホーテ』は世界中の大物たちをゆさぶってきた。

 それくらい、『ドン・キホーテ』は巨怪なのである。しかし、過不足ないところをいえば、ミラン・クンデラの見方が最も妥当なのではないかと思われる。今回は、そのことにも注目してみたい。クンデラは『小説の精神』の「不評を買ったセルバンテスの遺産」というエッセイで、次のようなことを書いている。それを簡素に要約しておく。
 《 フッサールとハイデガーによって、世界に何かが欠如したままになっていることがあきらかになった。それは「存在の忘却」という問題である。これは「認識の熱情」の現代的高揚とともに、それとは裏腹に喪失しつつあるものだった。「認識の情熱」なら、デカルトこのかたいくたびも視点と方途を変えて盛り上げてきた。けれども「存在の忘却」はデカルト的なるものではまったく掬えるものとはなってこなかった。

 これを掬ったのは、おそらくセルバンテスの『ドン・キホーテ』なのである。世界を両義的にものとして捉え、絶対的な一つの真理のかわりに、互いにあい矛盾するかもしれない二つ以上の相対的な真理を掲げ、そこに刃向かうすべての主義主張と幻影に対決していくということを教えたのは、唯一、セルバンテスの『ドン・キホーテ』だったのである 
》と。

 こうしてクンデラは、「私が固執したいことはただひとつ、セルバンテスの不評を買った遺産以外のなにものでもない」と結んだ。『小説の技法』の草稿には、さらにこんな一節がある。

 《 かつて宇宙とその価値の秩序を支配し、善と悪を区別し、個々のものとに意味を付与していた神がその席を立ち、ゆっくりと姿を消していったとき、馬にまたがったドン・キホーテが、もはやはっきりと認識かることができない世界に向かって乗り出した。「至高の審判官」がいなくなったいま、世界はその恐るべき曖昧性(多義性)をあらわにしたのである。こうして、唯一の神の「真理」が解体され、人間によって分担される無数の相対的真理が近代に向かって散らかされたのである。そしてそれとともに、その世界のイメージであってモデルであるような小説が生まれたのである。だが驚異は引き続き小説のモデルに根源を含ませていた。そのモデルが日本の少年とするのだから神の真理は再び解体される。実際にみたそのモデルによって、また分担される無数の相対的真理が近代に向かって散らかされたのである。 》と。
ライン黒 W600
 上の文字で押さえた「そのモデルが日本の少年とするのだから」とする事項をクンデラが何処からこれを引き出したのか、今回の重要な事項となる。その鍵をマドリードで発掘し追跡することになるのだが、少々複雑となる。先ずクンデラという人物の周辺を執り上げる必要もあり、これは次回File6の主要テーマとして紹介することになる。
ライン黒 W600
ミラン・クンデラ 2 W600

 クンデラが『ドン・キホーテ』を、一つの真理をめざしたルネサンスを脱したバロック的な意味におる小説の誕生とみなしていることはあきらかだ。
 その小説の精神とは「複合性」である。クンデラは、その方法にしか「存在の忘却」を描く方法はないのではないかということを、デカルトに対するライプニッツの、またルネサンスに対するヴィーコのバロック精神として継承したいと書いたのだ。

 さて、以上のことを前提として『ドン・キホーテ』を見ると、この物語に650人の人物が登場し(これはトルストイの『戦争と平和』の550人を上回る)、35件にのぼる前後の脈絡をこえたエピソードが乱舞しているなか、ドン・キホーテとサンチョ・パンザが入れ替わり立ち代わりして「説明」をしつづけているこの前代未聞の物語が、実は時代錯誤の主人公の物語ではなく、ましてセルバンテスの悲嘆から来た妄想の物語でもなく、むろんたんなる騎士道精神の謳歌のパロディでもないことが、忽然としてあきらかになってくる。

 よくよく物語の発端とその後の展開を見てみれば、書物が書物を書き替えつづけている「リブロ・エスコルソの書物がもつ遠近法世界」の最初の方法の提示からくるものだったということに気がつくはずなのだ。 では、もう少し手短かに漱太郎の立体言語学で種明しをしてしまうことにする。
 実は『ドン・キホーテ』の主人公はドン・キホーテではない。ラマンチャの片田舎に住む50がらみのアロンソ・キハーノという郷士が主人公なのである。

アロンソ・キハーノ W600


 そのキハーノが昔の騎士道物語をふんだん読みすぎた。
 読みすぎてどうなったかというと、それらの書物に書いてあることのすべてが真実や真理であって(つまり一つの真理で!)、それはすべてキハーノが生きている現在のスペイン(つまり16世紀末から17世紀にかけてのスペインの社会)にことごとく蘇るべきものであると確信してしまうのだ。これはキハーノの妄想である。狂気である。

 けれどもこれが妄想であって狂気であることを示すために、セルバンテスはキハーノをキハーノに終わらせないようにした。そこで、郷士キハーノは鎧兜に身をかため、遍歴の騎士ドン・キホーテと名のり、隣村の農民サンチョ・パンザを従士にして、痩馬ロシナンテにまたがって旅をすることにさせた。

 このキハーノがキホーテになるところが、セルバンテスのインテリジェレなのだ。ここにバロックの「ずれ」を誕生させた。

 このことは、前篇の表題が『機知に富んだ郷土ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』で、後篇が『機知に富んだ騎士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』になっているところにも如実にあらわれている。
 「郷士」が「騎士」に変わっていったのだ。
 ということは、ドン・キホーテとは、キハーノの頭のなかにつめこまれた「物語の言葉」をもって、それを現実のスペイン社会にぶつけていく作中の語り部としての第二の(リアル・バーチャルな)主人公なのである。ここにすでに物語の相対的二重性が用意されていたわけなのだ。

 それならば、『ドン・キホーテ』はプラトン以来の対話篇だったのである。しかも書物の中の言葉だけによって、新たな書物を綴っていくための対話篇なのだ。『ドン・キホーテ』は対話の小説なのだ。キハーノがソクラテスならば、ドン・キホーテがプラトンなのである。

 とはいえセルバンテスは、17世紀のスパニッシュ・プラトンをつくりたかったのではなかった。そこに「スペインという世界そのもの」を現出させ(フォークナーの「ヨクナパトーファ」やマルケス「マコンド」のように)、そこから世界は両義的にしか語たれないことを、その価値はつねに多義的にならざるをえないことを、それは書物が書物を辿るように間テクスト的に編集されていかざるをえないことを、そうしないかぎりは「世界読書」の奥義(複合的な真理)などはあらわれてこないことを、満身創痍で示したのである。

 いまや漱太郎は、この『ドン・キホーテ』はジェネラル・アナロジーの物語だろうと思っている。ラブレーやボッカチオの伝統を踏まえて、ハイパー・ポリフォニーの原理を発見した巧妙な空間からなるテクストだと感じている。
 念のために述べれば、『ドン・キホーテ』はジェネラル・アイロニーの物語ではない。
 それなら戯作として読めばいい。そうではなく、『ドン・キホーテ』にはアナロジーとアブダクションのすべての可能性がつまっている。ミハイル・バフチンが指摘したようなポリフォニーの文学ではなかったのだ。ハイパーポリフォニーなのだ。その多声性は、キハーノとキホーテの両方が一対になって絡みついている。
 簡略だが、これが種明かしだ。およそのところは当たっているだろう。ところが、それでもなお立体言語学的には、実はこの物語がまだまだぴったりこないという憾みが残っている。それは、この物語がまさに「スペインそのもの」であるということにある。

 日本人はスペインが苦手なのではないか。
 日本の中世史にはそんな疑問が残る。平面でながめると、たしかにスペインという国はおもしろい。ダリもガウディも、ガルシア・ロルカもオルテガもとびきりだ。ヴィクトル・エリセの映画は他の国ではつくれまい。カタルーニャやバスクのナショナリズムを覗くのは、ときにどんな民族や部族の今日のありかたよりも深い過激というものを感じることがある。しかしわれわれは、いや日本人は、そうしたおもしろみを語るにあたって、すでにあまりにもスペインを一知半解したままに見すぎてしまったのだ。

 そもそも1492年を「いよ国みつけたコロンブス」と覚えたところで間違えた。
 この年にイスラム教徒からの国土回復戦争が終わったことや、この年にユダヤ人追放令が行使されたことが見えていなければならなかったのである。また、ここからマラーノとしてのスピノザの宿命が始まっていく。
 これは、オクタビオ・パスを読んでメキシコを感じるように、オルテガの『ドン・キホーテをめぐる思索』を読んでスペインを感じるように、そこに感じるものが深ければ深いほど、日本人に「スペインという物語の起源」をわからなくさせていくものなのだ。その起源に『ドン・キホーテ』があるというのだから、これはやっぱりお手上げとなろう。

 ポルトガル語の“barroco”は「歪んだ真珠」のことである。スペイン語の“berrueco”は岩のごつごつした手触りだ。このバロックのもつコノテーションは、これからも世の人間をさまざまところへ誘うだろうが、まだ郷土であって、仮想の騎士であったドン・キホーテの手触りには届いていないのだ。それを綴るには、今度は漱太郎のバロック論を先に開陳しなければなりますまい。が、それはまた別の機会の遊蕩としてみたい。

ドン・キホーテ2

 スペインのマドリードを思い起こしてみると、その道を通過した伊東マンショを眺めみたセルバンテスの印象の中からドン・キホーテの種が生まれ、その妬みのそれがバロックの萌芽と絡み合いながら多重虚構の深層的なスペインの密林世界を構成した。
 裏返せば、それはセルバンテスがそれを成し得るだけの素材が、伊東マンショが往来した当時の道の辺にはあったことになる。それはまた、伊東マンショらが日本人として初めてスペインのバロックを実際に瞳で捉えたということに等しい。これはやはり憂いえる真実である。

                                          
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                      シリーズ連載・次回No.fileに続く
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