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伊東マンショの正体を科学する No.0004

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 世界は大航海時代。日本は戦国「下克上」の世。同時期にキリスト教が伝来する。織田信長の比叡山焼き討ちのころに、また室町幕府が終焉しようとするころに、日向国一円に勢力する豪族の伊東家に数奇な運命を宿す一人の男児が誕生した。
 この男児が後に天正遣欧少年使節の正使となる伊東マンショ。
 だがこの人物についての実像を記す資料は今日に乏しい。その背景には当時の混乱と錯覚とが不遇にも交錯する日本史の実情がある。つまり記録として残せない深い闇の淵に置き去られた。
 No.2631ファイル・データはこの歴史人の正体に迫る研究をシリーズ構成でつづる資料コラム。中世の街道を往来した人物との交流を織り重ねながらマンショの足跡の真相を編集する。・・・・伊東満所

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南蛮の道街道をゆく 2 H72

     伊東マンショの生涯を透視するにあたり、特異な視点から中世を見る「街道を行く」シリーズの1冊に注目したい。この司馬遼太郎の小説は、地の文章に解説や余談が多くて随筆みたいな風貌だが、内容は多少の演出があってフィクティシャスに感じるスタイルである。ともかく司馬遼太郎とは不思議な小説家だ。

 どう不思議かといえば一つには、幕末の越後長岡藩家老・河井継之助のような本来はマイナーな人物が、一般の人々の間に人気が高いのは、あきらかに司馬の小説の影響であり、他にも、江戸時代の商人・高田屋嘉兵衛や、幕末の軍政家・大村益次郎、幕末明治の政治家・江藤新平、新撰組の創設者・清河八郎等々も、司馬小説以外ではあまり描かれない人物にもかかわらず、司馬小説の影響で知名度の高い人物となったことだ。人々は「歴史的人物としての彼ら」ではなく「司馬作品の登場人物としての彼ら」を愛しているともいえる。

 仮にそんな司馬が伊東マンショを主人公にしようとする場合、どう切り撮ろうとするのかの鍵が「街道を行く」に潜むように思えてくる。今回は、この司馬史観でマンショの事情に触れてみる。

司馬遼太郎 2 W150H295司馬遼太郎をスケッチする gif W450

 今年で17年目の「菜の花忌」が過ぎた。
 司馬遼太郎は1996年(平成8年)2月12日に他界する。
 最後の面影はその1月、「街道をゆく 濃尾参州記」の取材を終え日の夕刻の表情だ。そして「あと半年で、73の老人になるよ」と少しの言葉を交わして、ふッと笑われた。だがその連載中の2月10日深夜に吐血して倒れ、国立大阪病院(現:国立病院機構大阪医療センター)に入院、最期は腹部大動脈瘤破裂のため12日の午後8時50分という。翌朝に訃報を伝えられたが、72歳だった。
 濃尾参州記の旅宿で「今年の秋にはもう一度スペイン北部を訪ねたい」と語られた。これは楽しそうな旅になる、そう予定した矢先の訃報なのである。脳裏に遺された「半年後の73」が名残言葉となっている。

 司馬遼太郎、筆名の由来は「司馬遷に遼(はるか)に及ばざる日本の者(故に太郎)」から来ている。
 こう名付けたが、戦国(中世)・幕末・明治を扱った作品が多く、『街道をゆく』をはじめとする多数のエッセイなどでも活発な文明批評を行った。その司馬の作品、司馬の価値観はさまざまに語られてきた。

 司馬は、物語とは直接関係ないエピソードや司馬自身の経験談(登場人物の子孫とのやりとりや訪れた土地の素描)などを適度に物語内にちりばめていく随筆のような手法も司馬小説の特徴の一つであり、そこに魅了されている読者も多い。と、みると、歴史小説家としてはスコット(スコットランドの詩人、作家。「ランメルモールのルチア」)以来の人物中心主義の流れを汲んでおり、直接には司馬遷における『史記』列伝の形式を範にした作家と評することができる。

 特に後年は、小説から遠ざかり随想や批評を主としたが、抽象的な思索や哲学性よりも具体的な歴史評論や文明批評を主にし、合理的思考を掲げて考証を行ったところに特徴がある。じつは今回、司馬を執り上げるのは、このことに重きがある。「南蛮の道」を語る司馬の中には「小説家」と「歴史評論家」の二人の司馬が合作して取材するからだ。
 第二次世界大戦における日本のありかたに対する不信から小説の筆をとりはじめた、という述懐からもわかるように、司馬の考え方は狂信的なもの、非論理的なもの、非合理なもの、神秘主義、いたずらに形而上学的なもの、前近代的な発想、神がかり主義、左右双方の極端な思想、理論にあわせて現実を解釈して切り取ろうとするなどの帝国陸軍的な発想の対極に位置するものであり、司馬はこれらを否定的に書くか、エッセイなどで否定している。司馬は近代合理主義がこれらに対局するものと考え、その体現者こそが司馬の愛する人物像であった。

 司馬の歴史観を考える上で無視できない問題は、合理主義への信頼である。だから実証性の高い歴史小説という分野での司馬の評価の高さにつながってくる。

司馬遼太郎 1 W600

 この黒縁の眼鏡から司馬遼太郎は南蛮をみた。

 日本人にとって、ながらく日本・唐・天竺の三つしかなかった文明世界に、突然飛び込んできたのが「南蛮」文明だった。しかも、面白いことに、その伝道の中心人物フランシスコ・ザビエルは、フランスでもスペインでもなく、バスクの人だった。司馬遼太郎は、そこで、この旅路の前半は、バスクという国をめざしてパリからフランス南西部を横切って進む。そのバスク文化を理解するための第一の資料として、司馬遼太郎があげるのは、近代日本に宣教師としてやってきた、バスク出身のS・カンドウ神父の著作だ。

 「バスクは風と水と光の国だと形容される」とカンドウ神父は書く。そして、起源未詳のピレネー山脈先住民であるバスク民族の世界を、いとも魅力的に描き出す。騎士道精神と熱烈な信仰に支えられたザビエルは、その光輪の中に定置される。

 バスク人は、見かけはフランス人やスペイン人とさほどちがわない。バスク名物のベレー帽も、フランス人の象徴のように思われている。彼らのアイデンティティを支えるものは、その気質と、バスク語だけである。スペイン語とは、バスク語の音韻の上に乗ったラテン語なのだが、そのスペイン王国からも、国民国家論を信奉するフランス共和国からも、存在を無視され迫害された歴史がある。

 しかし、この司馬遼太郎の旅行記は、そうした剣呑な雰囲気をうまく筆先でさばいて取り払い、ひたすら純朴で美しい「常世の国」バスクを描き出している。これを読んで、バスクに行きたくならない人は少ないだろうと思う。それだけ、これは司馬遼太郎が楽しんで書いた渾身の旅行記といえる。




 Oi ama Euskal Herri. 「ああ、バスクの母よ」 バスク地方の歌謡。
 Benito Lertxundi dituen abesti arrakastatsuen artean, abesti hau lore ederra da.訳は「この歌はベニーLertxundiの曲の中では美しい花のある歌だ」となる。ベニートLertxundiは バスクに生まれたシンガー•ソングライターで、バスク音楽に特別なコミットメントを示し、バスクの文化や伝統を響かせる。これを司馬遼太郎は好んだ。

 住民は歴史的にはいわゆるバスク人であり、スペイン内の他地域とは、文化的には差異が大きい。スペイン国内では経済先進地域であり、他地方からの移民も多く、そのため州公用語のバスク語は少数言語状態にあり、公営テレビの「ETB」はそのチャンネルでスペイン語放送もせざるを得ないのが現状である(カタルーニャ州やガリシア州では公営テレビでは固有語による放送しか行っていない)。

 司馬はこの「バスク語」に注目する。
 この司馬の注目が分からないことには、何故、司馬が南蛮の道を行くのにフランス・パリから南下してスペインとの国境を超えるルートを選定したのかが理解できない。ともかくも司馬遼太郎にとって「国境」の越え方が問題であった。この国境を南のマドリードあたりから北上して近づくと、それは司馬にとって無意味なのである。だがパリからの南下が正解ということではない。司馬は直接バスク地方に真上から飛び降りたかったであろう。街道を行くというテーマ上、司馬はスペインよりフランスに先ず足を踏みおくことを選択した。司馬の視線はあくまでも「南蛮の道」に固執して行く道を定義しようとした。
 それはバスク語(euskara)が孤立した言語で、現在でもバスク人によってしか話されない言葉だからだ。
 司馬はこの「孤立した言語」を先ず旅中に楽しもうとした。

 その「バスク」の名は、英語あるいはフランス語の「basque」の音訳であり、もともとはローマ帝国期に現在のスペインナバラ州やアラゴン州にいたヴァスコン人(Vascones)の名に由来する。ヴァスコン人とバスク語話者は完全には一致していなかったと考えられているが、中世にはVasconesという名称はバスク語を話す人々を指すために使われるようになった。スペイン語における伝統的な呼称「vascuence」も「ヴァスコン人の」を意味するラテン語の vasconice に由来する。

 文章は一般にラテン文字で表記される。音韻論的な特徴としては舌端音と舌尖音の区別があり、文法的な特徴としては能格と絶対格を使用する格の体系であることが挙げられる。語彙にはラテン語・スペイン語起源のものが多く見られる。なおスペインではフランシスコ・フランコ将軍の時代、使用禁止になっていた。こうした背景を踏まえてか、司馬はバスク地方を訪ねる前に、簡単な単語を引き出し何度も繰り返してバスク語のイントネーションを耳奥に焼き付けていた。言語の響きからバスクの風土を押えようとする。そしてパリから南下する折りにヘッドホンをあてたまま「これでは、まるで幼児教材に聞き入る園児レベルだね」と微笑みかけた。

 バスク語は、他の欧米言語との共通点の少なさゆえに印欧系言語話者には習得が難しいとされる。
 司馬遼太郎は、紀行文集『街道をゆく』の中で「ローマの神学生のあいだで創られたバスク語学習にちなむ(神話)」として、神からどんな罰を与えられても全くひるまなかった悪魔でさえ、3年間岩牢にこもってバスク語を勉強する罰を課されると神に許しを乞うた、という話を紹介している。

 これは司馬がフランスのバイヨンヌにあるバスク民族博物館で「かつて悪魔サタンは日本にいた。それがバスクの土地にやってきたのである」と挿絵入りでバスク語の歴史を描いた装飾品を見たからである。またそう書かれて飾られているのは、彼らバスク人が、同じく印欧系言語話者からみて習得の難しい日本語と重ね合わせているからだ。「悪魔、そう感じさせる日本人が今からこの地方を訪ねるのは、なかなか楽しいではないか」と司馬は語りかける。

 だから先ず旅の始めにバイヨンヌの話となるが、この都市を語るにはラブール地方という広域を押さえて歴史性を考える必要にかられる。どう必要で、司馬がどう重要視したかは、追ってご理解いただけるであろう。

 そこで旅の冒頭ながら司馬さんを見習い「少し余談だが」と、ラブール地方に向かう前の起点とするにふさわしいと思える古城の街「トゥール」へ道草する。

バスク地方へ地図 W600

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 パリからTGVに乗って1時間ちょっとのところに、トゥールという街がある。
 ルイ11世紀時代はフランスの首都もおかれていた由緒あるこの街には、当時の面影が残る旧市街をはじめ、いくつかの歴史的建造物が残っている。街自体は小さく、ほとんどの見所へは徒歩で行ける。

 このトゥール(Tours)は、フランスの中部に位置する都市で、アンドル=エ=ロワール県の県庁所在地である。そして古代ローマ時代、トゥールはトゥロネンシス(Turonensis)として知られていた。3世紀の半ばには聖ガティアヌスがローマからトゥールに派遣されている。また、4世紀の後半には、後に聖人となったトゥールのマルティヌスがこのトゥールの司教であった。さらに第二次世界大戦で、パリ陥落を前に、フランス政府はトゥールに移転したが、間もなくボルドーへ退避した。

 ここに「トゥールの道」がある。古代からある巡礼の道だ。
 フランスからは、巡礼の中心地であった都市を拠点として4つの道がピレネー山脈に向かっている。その一つがトゥールの道で「パリ - オルレアン - トゥール - ポワティエ - サント - ボルドー - オスタバ=アスム」の順路となる。つまりキリスト教の聖地であるスペイン、ガリシア州のサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路。おもにフランス各地からピレネー山脈を経由しスペイン北部を通る道を指す。トゥールはこの巡礼道の重要な通過起点地とされた。


Tours en Touraine

 1000年以上の歴史を持つ聖地への道は、今も年間およそ10万人がフランスからピレネー山脈を越えてゆく。スペインに入ると、巡礼の拠点の街がまた見えてくる。そこには巡礼事務所があり、名前を登録し、巡礼者の証明となる手帳を受け取る。巡礼者の数が増えると共に、道沿いには無料の宿泊所が整備されてきた。11世紀の礼拝堂を修復した宿泊所などもあり、こちらの宿では中世さながらの「洗足の儀式」が行われる。巡礼者の足を水で清め、旅の無事を祈る。食事も用意される。これらは巡礼を支える人々の無償の奉仕で成り立っている。徒歩によるスペイン横断は、イベリア半島内でもおよそ800kmの道程である。長い巡礼を続けることは、人々にとって信仰と向き合う貴重な時間となる。
 司馬はこのトゥールという街で、気の遠くなる巡礼の時間を思いながら一夜を過ごした。


Tours France

 トゥール駅はオルセー駅(今はオルセー美術館)の建設に携わることになる建築家ヴィクトール・ラルーの設計で建てられた。なので、どことなくオルセー美術館のデザインに似ている。駅構内の壁もとてもフランスっぽくて本当に美術館のようだ!。そんなトゥール駅を出て10分ほど歩くとトゥール美術館が見えてくる。

 館内にはイタリアの画家をはじめルーベンス・ドラクロワ他近代美術・陶器作品など数多くのコレクションに出会える。美術館を出るとすぐ横には、3世紀から13世紀に渡って建築され続けたゴシック様式の代表ともいえるサン・ガシアン大聖堂があり、大聖堂前の広場から見上げても観きれないほど大きさは圧巻。この大聖堂内部の様々な美しいステンドグラスは必見で、一つ一つを丁寧に見ていくと数時間はかかってしまいそうなほど!全てに物語があり、それぞれの解説パネルがフランス語で展示されている。

 大聖堂を出て歩いてしばらくするとトウール城が見えてきた。
 しかし現在「城」とは名ばかりで、場内では、芸術家達の特別展示に使われている。そのため「フランスのお城」といった豪華な面影はあまり残っていない。特別展示は有料だが、常設展示は無料なので花の咲く季節は敷地内に咲く花々を眺めながら見学するのもオススメ。
 そして駅から30分ほど歩いたところに旧市街がある。

 そこに残る15世紀頃の町並みは、まるでおとぎ話の世界のようだ。どうやら暖かい季節になると、この旧市街の中心にあるプリュムロ広場ではカフェがテラス席を出し、常に満席なほど賑わっているらしい。そんな話を司馬さんから聞いた。なるほど中華やイタリアン、地元のレストランなどが軒を連ね、日曜日でも営業している店もあり休憩としてのカフェ探しや食事でのレストラン探しはここでするのがオススメ。ドリンクはだいたいどこも2ユーロから、ランチは10ユーロから。バーは夜中まで営業している店がほとんどである。

 じつは一度、慣れない左ハンドルマニュアル車を運転しながら、パリから古城で有名なこのトゥールの街まで来た。司馬さんが宿泊した、そこはシャトーホテルっていう、フランスの古城を改装したホテルだ。フランスの郊外には、こういったシャトーホテルが数多くある。
 中はもちろん城、☆はついてなくとも、5つ星ランクのホテルだと思える。司馬が取材で利用したホテルだが、値段はそう高くもない。一部屋15000円くらいだ。パリの中心部の狭いホテルと同じくらいなので、個人的には断然こっちのがいい!。庭はとても広い。庭師みたいなひとが何人かいたが、他の宿泊者はほとんど見かけなかった。トゥールの街近辺、ロワール地方の古城は世界遺産に登録されている。一応このホテルも古城なわけで、世界遺産の一つなのかと思える仮想気分の宿泊が楽しめた。

 古城に宿泊した司馬遼太郎の眼差しは、ここより南下して始まろうとする。司馬は古城に宿泊して巡礼道を見定めた。南の国境を彼方に少々ワインで脳ミソを浸しておいたと後に語っている。当然、そんな楽屋裏の出来事は書籍では語られることはない。したがってこれは「南蛮の道・外伝」を含む司馬史観ともなる。


Best of Tour de France

Tracé du Tour de France 2013

 ツール・ド・フランスまたは(ル・)トゥール・ド・フランス(仏: Le Tour de France)とは毎年7月にフランスおよび周辺国を舞台にして行われる自転車プロロードレースである。
 1903年から開催されているが、主催は傘下にスポーツ新聞レキップや一般紙ル・パリジャンなどを抱えるフランスの大企業・アモリ・スポル・オルガニザシオン (ASO, Amaury Sport Organisation)。この名称はフランス語で「フランス一周」を意味する。毎年7月に23日間の日程で行われるステージレースで距離にして3300km前後、高低差2000m以上という起伏に富んだコースを走り抜く。山岳コースはそれぞれ3日ほど繰り広げられ、それぞれピレネー山脈とアルプス山脈を使うことが多いため、これをピレネーラウンド、アルプスラウンドと呼ばれる。この区間の平坦基調ステージは、主にこの二つの山脈の間を移動するために設定されているが、この緩急をつけたレイアウトと平坦ステージの多さ、ポイント賞のシステム(後述)などもあり、スプリンターが一番ポイント賞を獲得しやすいグランツールとなっている。そうしてこの区間で最もバスク地方に接近する。


司馬遼太郎の書斎

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 ラブール(フランス語:Labourd)またはラプルディ(バスク語:Lapurdi)は、フランス領バスクの地方。ピレネー=アトランティック県のバイヨンヌ小郡に相当する。

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 ラブールは穏やかな海洋性気候である。地形は丘陵で、東と南に向かって標高が高くなっていく。山はそれほど高くない。ラブール最高峰のラ・ルヌ山は標高905mである。アドゥール川、ニーヴ川、ニヴェル川、ビダソア川が流れる。アドゥール川下流域は平坦である。
 バイヨンヌとブコーを含めて面積は858平方kmであり、バスク国全体の約4%である。およそ20万5千人の人口があり、フランス領バスクの3地方中で最も多い。このラブールに(バイヨンヌとブコー)の二都市を含めない場合、人口は15万2千人ほどである。

ラブール地方 地図 W600

 北をアドゥール川と接するラブールは、地理的にも歴史的にも海とつながりが深い。大規模な第四紀の堆積物の蓄積で海から得た土地であり、この地にはヴァスコン人が定住した。
 ローマ帝国の表面的な占領時代の後、彼らは半独立公国ヴァスコニア公国を建国し、ウード公はトゥール・ポワティエ間の戦いでサラセン人と戦っていた。
 海はこの地方の歴史的進化で大きな役割を果たしてきた。
 バイヨンヌはラブールの首都の機能が与えられている。12世紀まで、バイヨンヌが州単位の行政から切り離されていたのは事実である。ラブールの歴史的な中心はユスタリッツになった。

 1152年のアリエノール・ダキテーヌとイングランド王ヘンリー2世の結婚後、ラブールの土地はイングランド王のものとなり、複数の陰謀の舞台となった。主役の1人は、バイヨンヌの貿易と経済を発展させたことで有名なリチャード獅子心王である。
 こうしてイングランドの影響は1450年まで続いた。エィエール城で平和条約に調印した後、ラブールはフランス王国に返還される。そして1609年には国務院顧問ジャン・デスパニェとピエール・ダンクルが魔女裁判を導くことになる。
 こうしたラブールは、フランス国内であるため、公用語はフランス語である。古くから住民が話すバスク語の他、対スペイン国境の街アンダイエなどではスペイン語を話す。アングレットやバイヨンヌではガスコーニュ語を話す住民もいる。
 そして、この地方のバスク語の方言は、ラプルディ方言である。

 バスク語(euskara)は、スペインとフランスにまたがるバスク地方を中心に分布する孤立した言語で、おもにバスク人によって話されている。スペインのバスク自治州全域とナバラ州の一部ではスペイン語とともに公用語とされている。現在、約66万5800人の話者がバスク地方に居住し、すべてスペイン語またはフランス語とのバイリンガルである。
 バスク語の方言は音韻・形態・語彙の地域的な変異が比較的大きく「村ごとに異なる」ともいわれる。伝統的には六つから九つに分類されている。
 主なものは、ビスカヤ方言、ギプスコア方言、高ナファロア方言(北・南)、低ナファロア方言(東・西)、ラプルディ方言、スベロア方言(スベロア方言・エロンカリ方言)が確認される。ラブールのそれがラプルディ方言となる。
 しかしバスク国民党の毎月のスローガンにおいては、「今おそらく最も北バスクでバスク人であることの思い入れがないのは、ラブール住民である」と述べる。つまりこれには長い期間におけるバスク人の生活意識の転換があり変遷がある。まことにこの地方の歴史は複雑なのだ。



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Baiona, Pontevedra


Casco Histórico de Baiona


 バイヨンヌはビスケー湾からアドゥール川をさかのぼった、ニーヴ川との合流点に位置する。ピレネー=アトランティック県ではポーに次ぐ規模で、バイヨンヌ・エ、バイヨンヌ・ウェスト、バイヨンヌ・シュドの3つのカントンの小郡庁所在地でもある。バスク地方においてはピレネー山脈以北の北バスクの1地域、ラブールの主要都市だ。市街中心部はアドゥール川とニーヴ川によって3つの区域(大バイヨンヌ・小バイヨンヌ・サンテスプリ)に分けられ、それぞれの区域は橋で結ばれている。

 大バイヨンヌ(グランド・バイヨンヌ)には、アドゥール川左岸、市庁舎やサント=マリー大聖堂があり、市の中心部で、シャトー・ヴュや市の観光案内所がある。
 小バイヨンヌ(プチ・バイヨンヌ)には、アドゥール川とニーヴ川にはさまれた商業地域。バスク博物館、ボナ美術館、シャトー・ヌフなどがある。
 サンテスプリ(アドゥール川右岸)には、シタデルの南東にサンテスプリ(聖霊)教会やフランス国鉄のバイヨンヌ駅がある。

 現代のバイヨンヌは近郊の都市であるビアリッツ、アングレットとともにコミューン(自治体)連合を形成している。1972年からの交通インフラ整備を皮切りに、1999年からはバイヨンヌ=アングレット=ビアリッツ都市圏共同体(略称はB.A.B)として地域経済の活性化や環境保護、高等教育の分野で地域協力を行なっている。また、バイヨンヌからスペインのサン・セバスティアンまではユーロリージョンとして、国境を超えた自治体同士の連携がはかられている。



 歴史については、紀元前3世紀、ローマ人によって駐屯地(カストルム)が置かれ、ラプルドゥム(Lapurdum)と呼ばれた。この名は北バスク国の1地方名ラプルディ(ラブール)に今日も残っている。
 続いてヴァスコン人(バスク人の祖先)がこの地を支配、彼らによってバイヨンヌと名付けられた。バイヨンヌという地名はバスク語で「川」を意味する語に由来する。

 840年になると、現在のデンマークからヴァイキングがバイヨンヌに到達、その後も、9世紀から10世紀にかけてバイヨンヌはヴァイキングの侵攻を継続的に受けることになる。

 アキテーヌ公領に吸収されていた1152年、女性領主であるアリエノール・ダキテーヌがのちのイングランド王ヘンリー2世と再婚したことにより、バイヨンヌは12世紀から15世紀にかけてイングランドの支配下に置かれた。この結果、スペイン国境に近い軍事的要衝でもあったことから、百年戦争以降、英仏間でバイヨンヌをめぐる争いが繰り返されることになる。そのため、武器生産もさかんとなり、銃剣はその地名にちなんで「バヨネット」と呼ばれた。

 アドゥール川やバイヨンヌ港の整備が進むと、バイヨンヌ経済はタラ漁や捕鯨といった漁業およびその加工業で潤った。16世紀後半にはイベリア半島からユダヤ人たちがサンテスプリに移り住み、彼らがもたらした技術と知識によってバイヨンヌでチョコレートの生産が始まった。20世紀にフランコの独裁政権から庇護を求めてやって来たスペイン・バスクの人々は小バイヨンヌをその拠点とした。

 日本でいうと幕末のころ、1854年にパリと鉄道で結ばれる。こうしてビアリッツで休暇を過ごす人々の観光拠点となった。その後、経済は一時低迷したが、20世紀に近郊のラックに油田が発見され、石油関連産品や周辺地域の農作物などの輸送の要として活況を取り戻しつつある。バイヨンヌ港はラック油田産出のイオウや原油、ランド県やピレネー=アトランティック県産のトウモロコシや肥料、木材などの積み出し港である。年間の貨物取扱量は約400万トンで、フランス国内で第9位の規模である。

バイヨンヌのチョコ W600

 グランバイヨンヌのポンヌフ通り(Rue Pont Neuf)を歩くと両側にはチョコレート屋さんが並んでいる。サンジャンドリュズのパリエス「Paries」はバイヨンヌにもある。パリエスは司馬さんお気に入りの一品であった。
 カカオが新大陸からスペインに持ち込まれ、バスク地方に持ち込まれた。言ってみればフランスの中で最初にチョコレートがもたらされた地域だ。そのせいか、本当にバイヨンヌにはチョコレート屋さんが多い。そして老舗「Daranatz」のショーウインドウが美しい。
 フランス中にある(上写真)のアトリエ・デュ・ショコラ(L'Atelier du Chocolat)はバイヨンヌに工場を持つ。またポンヌフ通りを歩くだけで、たくさんのショコラティエ、パティスリー。その数多いショーウインドを見ているだけでも、チョコの香りがしてきそうだ。





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 『南蛮のみちI』は、司馬遼太郎の紀行文集『街道をゆく』の第22巻。
 本書は1984年3月に朝日新聞社より刊行され、1988年10月に朝日文庫化された。フランシスコ・ザビエルの故郷バスクを中心に司馬が旅をする。バスクがフランスとスペインの境にある事に司馬が深く関心を持ったエピソードがある。しかし、今回は刊行された年度以降、司馬から聞きおよぶ書籍には載らない司馬の口述も織り交ぜてみたい。

 スペイン側にバスク自治州があるが、歴史的な「バスク国」(広義の「バスク地方」)には、スペインのナバーラ州の一部およびフランスのピレネー=アトランティック県の一部(フランス領バスク)が含まれる。
 統一された「バスク国」の概念は近代バスク民族運動の中で展開され、現在も「バスク国」全体の独立を目指す運動がある。四方を海に囲まれて侵し難い日本国の人間には、この領土の成立は複雑すぎる。

 バスク(広義)は伝統的に7つの地域からなっており、Zazpiak Bat(サスピアク・バット、7つが集まって1つとなる)は、バスク人のスローガンである。
 Hegoalde(南部)と呼ばれる4つの地域(Laurak Bat)はスペイン内にあり、Iparralde(北部)と呼ばれる3つの地域はフランス内にある。およそ2万平方キロメートルの広さとなる。
 そして南バスク(スペインバスク)4地域は、いずれもスペインの県に位置づけられている。このうち西部の3地域「アラバ(Arabako Probintzia)、ビスカイア(Bizkaiko Probintzia)、ギプスコア(Gipuzkoako Probintzia)の3県」は、1979年以来バスク自治州(Euskadi)を構成する。「バスク3県」とも呼ばれる、バスク(広義)の中核的な地域である。

バスク 4 W600

 そして東部の1地域は、1県(ナファロア県Nafarroa)で1982年よりナバラ州Navarraを構成している。面積はバスク州3県を合わせたより大きい。このナバラ州の正式名称を「Comunidad Foral de Navarra」とするが、そのforal(名詞形fuero)は、封建時代に遡る用語で、特定の階級や地域に認められた法律のことである。
 かつてナバラ王国がピレネー山脈を挟んでこの一帯を統治していた。ナバラ王国はもともとパンプローナ王国と呼ばれ、824年頃にイニゴ・アリスタがフランク王国に反乱を起こして建国する。1512年、アラゴン王フェルナンド2世によって山脈から南側はスペインに統合された。
 またフランス側に分かれた地方はバス=ナヴァールと呼ばれ、現在はフランスのピレネー=アトランティック県の一部であるフランス領バスクになっている。ナバラ王エンリケ3世が1589年にフランス王アンリ4世として即位した後、歴代のフランス王はナバラ王を兼ね、フランス側のナバラは1791年まで別の王国として存続した。


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バスク縦断の地図 W600

 ピレネー山脈をはさみ、スペインとフランスの両側ににまたがるバスク地方。そこに住む人々はバスク人と呼ばれ、ヨーロッパの他の地域とは異なる言語を持ち、独特の文化を育んできた。近年では美食とアートの都としても注目を浴びている地域である。先ずそんなバスク地方の中でもスペインバスクの魅力をご紹介する。
 スペインといえば、 強い日差しに荒涼とした大地というイメージが強いが、バスク地方は「緑のスペイン」と呼ばれるほど緑豊かで、美しい山々と清らかな水に恵まれた地域。
 そこにスペイン北部屈指の湾岸都市「ビルバオ」がある。
 ビルバオ(スペイン語:Bilbao、バスク語:Bilbo)は、スペイン北部の都市。バスク州ビスカヤ県の県都である。人口は約35万4千人で、スペイン第10位の都市である。

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 スペイン北部屈指の港湾都市であるため、現在では、スペイン内外からの移民も多い。約20キロ東には、ナチスの爆撃、パブロ・ピカソの絵画で知られるゲルニカが、約70キロ北西には、サンタンデールが位置する。



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 スペインの主要都市の1つだが、大都市とは思えないほど緑が多くとても穏やかな街だ。元々は鉄鋼業で栄えた街で、経済的に裕福なため、マドリッドやバルセロナに比べると治安がいい街である。

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 街の小路に入るとこんなかわいらしい風景に出会うことができる。鮮やかな色の壁なのにとても趣がある。ベランダに飾られた花がスペインらしい。(右)こちらもビルバオのストリート。ちょっとノスタルジックな感じがして素敵だ。

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 カラフルな建物が立ち並ぶ道を通りぬけていく真っ赤なバスは、バスク語でビルバオを表す「bilbo」のロゴがトレードマークのビルバオ市民の足、「ビルボバス(bilbo bus)」。こんなちょっとしたところにもバスクらしさを垣間見ることができる。バスの他には、市内をトラムが走っているので、トラムに乗って街を散策するのも楽しい。

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 そしてビルバオといえば、建築界の鬼才、フランク・ゲーリーによって設計されたグッゲンハイム美術館。港町として栄えてきたビルバオの地域性を意識してデザインされたものだが、ネルビオン川に浮かぶ一艘の船のようで、グッゲンハイム美術館を真上から見ると、バラの花びらのようにもみえるのだ。

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 また色とりどりの花が植え込んであるグッゲンハイム美術館の番犬「Puppy(パピー)」は、子犬と言うには少々大きい12.4m。季節や年によって異なる模様のパピーを見ることができるが、季節の移り変わりの時期には、お着替え中ということもある。どうせなら、めいいっぱいお花で着飾ったパピーを見てみたい。



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 こちらは、ビルバオ旧市街の南端に位置するサン・アントン教会。15世紀に建てられた石つくりの歴史のあるロマネスク様式の教会だ。そして、サン・アントン教会のたもとにあるアーチ型の石橋はサン・アントン橋。グッゲンハイム美術館のような超近代建築と、このような歴史的建造物が違和感なく溶け込んでいるというのも、ビルバオという街の魅力の1つである。

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 ビルバオを流れるネルビオン川にかかるビスカヤ橋は、世界最古の運搬橋として世界遺産に登録されている。橋から吊るされているゴンドラには、車6台と300人ほどが乗ることができ、24時間営業で、現在でも市民の交通手段として使われている。高さ50mという高さの橋の上部は歩道になっているので、港や湾を眺めながら歩くこともでき、高さが平気な方は海風を感じながらスリルと爽快感を味わえるはずだ。

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 なめらかなカーブが美しいズビズリ橋。歩行者専用の橋で、床はガラス張りになっている。夜は下からライトアップされるので、日が落ちてから歩くとロマンティックさは倍増。さらに奥に見えるツインタワーは、日本人建築家磯崎新が設計したイソザキタワー。日本からはるか遠くの地で、日本人の活躍を見るのはなんともうれしい思いにしてくれる。

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 そしてビルバオの主要駅のアバンド駅の構内に入ると、素敵なステンドグラスが出迎えてくれる。また一度見たら忘れられないいかつい顔のおじさんの銅像。ステンドグラスとミスマッチのようで不思議とマッチしている。

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 バスク地方を訪れて、やはり驚くことの1つに、道路標識や、看板など至る所にバスク語を見つけることができることだ。この案内も、上からバスク語、スペイン語、英語表記となっている。バスク語の起源は未だ謎のままで、世界で最も難解な言語の1つと言われている。悪魔がバスク人を誘惑するためにバスク語を習ったが、7年かかって覚えたのは『はい』と『いいえ』だけだったなんていうジョークもある。文法的には、ヨーロッパの言語よりも日本語の方が近かいとも言われていて、この言語はやはり興味深い。

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 サッカーファンなら訪れてみたいアスレティック・ビルバオのホームスタジアムであるエスタディオ・サン・マメス。このアスレティック・ビルバオはバスク人のみしか入ることのできない特殊なクラブであるが、レアル・マドリードとFCバルセロナと並んで、リーガ・エスパニョーラ創設以来1度も2部リーグに降格したことのない名門クラブ。日本のJリーグに置き換えると、大阪人のみを起用したガンバ大阪が100年近くも1部リーグで戦い続けているようなもの。そう考えるといかにバスク人のフットボール技術がすごいのかが分かる。これは一つのバスク文化である。

 このビルバオの歴史をみると、1300年6月30日、ビスカヤの領主ディエゴ・ロペス・デ・アロ5世によって、川岸の漁村(現在は旧ビルバオと呼ばれる)の対岸であるネルビオン川左岸に建設された。ビルバオの名前の由来は確かではないが、古スペイン語の「bel vado」(よい浅瀬)やバスク語の「bi albo」(2つの川岸)から来ているという説もある。ビスカヤの領主はビルバオに特権を与え、町は発展した。町はサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の途上にあったため、それにちなんで「サンティアゴ教会」(聖ヤコブの教会)が建設された。さらに15世紀には町を巡る貴族間の戦争が起き、3度の洪水に見舞われてダメージを受けたが、町は再建され市壁を越えて成長を続ける。伊東マンショが生きた16世紀にはメリノ種の羊毛をヨーロッパ北部へ輸出する港となり、スペイン黄金時代には北スペインでの商業・金融の中心地となった。


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     辻斬りZ W50H50 gif  ② 司馬で回想する南蛮の道「ザビエルの故国へ」
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         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

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ナバラ州Navarra 3 W600


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 ナバラ州は、北の山岳地域、中央のパンプローナ盆地、そして南の河岸地域と、大きく三つに分けることができる。そしてそれぞれがさらに細かな地域に分けられている。
 州の北部にはピレネー山脈が横たわり、フランスとの国境を形成する。標高の高い山々が見られるのは東側で、西に行くにしたがって標高が下がり、ビダソア川(Bidasoa)の盆地周辺でバスコス山地とつながっている。州内で最も標高が高いのはメサ・デ・ロス・トレス・レジェス(Mesa de los Tres Reyes 三王の台地)と呼ばれる台地で、最も高いところで標高2,434m。そしてピレネー山脈の山間にはアラゴン川により形成された広大な谷が広がっている。
 ピレネーの手前に横たわる支脈はウエスカ山脈で、ペニャ・デ・イサガ(Peña de Izaga)、イドコーリ(Idokorri)、サリキエタ(Zarikieta)、アルチュスバ(Artxuba)、イスコ(Izko)、サルビル(Sarbil)、サトゥルステギ(Satrustegui)、サン・ミゲル(San Miguel)、ウルバサ(Urbasa)といった山々がこれに含まれる。一方、県の南部には、オリベテ(Olivete)やサン・グレゴリオ(San Gregorio)といった標高の低い山々が点在する。
 またナバラの河川は主に二つの水系に分けられる。一方はエブロ川を中心とする地中海側の水系であり、もう一方はアラシェ川(Araxe)、レイサラン川(Leizaran)、ウルメア川(Urumea)、ビダソア川(Bidasoa)などの河川からなるカンタブリア海側の水系だ。
 エブロ川の支流には、エガ川(Ega)、アメスコア川(Amezkoa)、アラゴン川(Aragon)、エスカ川(Eska)、イラティ川(Irati)、シダコス川(Cidacos)、アルガ川(Arga)、アラマ川(Alhama)、ケイレス川(Queiles)などがある。エブロ川は南部にトゥデラ(Tudela)を中心都市とする大きな盆地を形成する。またその北部にはアラゴン州と隣接する広大な「ラス・バルデナス」(Las Bardenas)と呼ばれる平原がある。さらに州内にはいたるところに美しい谷があり、特にバスタン(Baztán)、ロンカル(Roncal)、サラサール(Salazar)、ビダソア(Bidasoa)、シンコ・ビヤス=マレレーカ(Cinco Villas-Malerreka)、ウルサマ=バサブルア(Ultzama-Basaburua)、ララウン(Larraun)の谷などは特筆に価しそうだ。
 バスク出身のS・カンドウ神父の著作に「バスクは風と水と光の国だと形容される」と神父は書く。まさしくその言葉通りの風光がある。



 通常であれば南蛮の道Ⅰの次に南蛮の道Ⅱを読むのであろうが、三馬漱太郎の場合はポルトガルがきっかけだったので南蛮の道Ⅱをまず読み終えた。

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 司馬遼太郎の南蛮の旅は、パリから入り、バスクを抜け、マドリードを経てリスボンに向かうコースを取っている。この『南蛮のみち』をつまり、伝道師フランシスコ・ザビエルの故郷であるスペイン北部バスク地方をたずね歩く紀行文を書くのに、マドリーなどスペイン国内の都市ではなく、パリを旅程の起点とした。このスタートの仕方が、司馬らしくて面白い。中世の民の巡礼のみちすじを模倣したのだろうし、ザビエルの留学先カルチェ・ラタンから遡行したかったのだろう。
 途上、フランス・バスクの中心都市であり、ロラン・バルトの育ったところとして知られるバイヨンヌで、聖なる固有名詞だと思っていた「ザビエル(Xabier)」という単語が、この地方ではごくありふれた男子の名前であることを知って、司馬は愕然としてしまう。しかし現代日本では、これは子どもでも知っている事柄だ。シャビ(シャビエル)・アロンソや、シャビエル・プリエトといった有名フットボーラーがバスク人であることなど、少年たちにとっては、ごくごく常識の範疇となっているからだ。と、いう余談は置いて、司馬遼太郎の街道をゆくは、それぞれの話しが完結するようにまとめられているのでどこから読んでもいいのだが、街道ごとに司馬自体の主題がたてられているので読み通した方が主題の理解に近づける。

 たとえば、南蛮の語は、タイ・ジャワ・ルソンなどの南洋諸島を指したが、さらにそこを経由して日本に来た西洋人や文物をも意味するようになり、やがてポルトガルやスペインに限定され、ポルトガルによってキリスト教がもたらされたことからキリシタンの意味にも使われるようになった。そのため、南蛮を調べると、ポルトガルから来た文物とか日本でのキリシタンと弾圧などが中心になってしまう。しかし、司馬さんの主題は、日本にキリスト教を布教しようとする背景に何があったのか、日本にキリスト教をもたらしたフランシスコ・ザビエルとはどういう人物で、なぜイエズス会に入ったのか、そもそもイエズス会はどのような背景で生まれたのか、など人間の生きようとするかたちを見つめようとしていて、いつもながら引き込まれてしまう。司馬はザビエルの男性を見出そうとした。歴史にいるザビエルではなく、ザビエルという男が歩いた道を歴史にしようとする。

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 フランシスコ・ザビエル(1506~1552)は、バスク地方の出身である。ときおり、バスク独立闘争がニュースで流れるから聞いたことがあるかもしれない。バスクという国は存在しないがバスク人の誇りはいまも続いていて、バスクについての話しも考えさせられる。さてザビエルだが、バスク(いまのスペイン・ナバラ州)のザビエル城で育ったが、城主である父はナバラ国の首都パンブロナの宰相で、スペインの攻撃にあって殺されてしまう。パンブロナ城に入ったスペイン軍の守備隊にやはりバスク人であるイグナチウス・ロヨラ(1491~1556)がいて、その後の攻防戦で大けがをする。
 ザビエルは1525年、19歳で名門パリ大学に留学。聖バルブ学院に入り、そこで自由学芸を修め、哲学を学んでいるときに同室になったのがフランス出身の若きピエール・ファーヴルであった。そこに同じバスクから来た37歳の転校生イニゴ(イグナチオ・デ・ロヨラ)も加わる。以後一度もザビエルは故郷バスクには帰ることは無かった。
 1529年、ザビエルの母が死亡。その4年後、ガンディアの女子修道院長だった姉も亡くなる。この時期ザビエルは哲学コースの最後の課程に入っていたが、イグナチオから強い影響を受け、聖職者を志すことになる。


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パンプローナ(Pamplona) バスク語イルーニャ(Iruña) Navarra


 ローマ帝国期、バスク人の遠祖はいくつかの部族に分かれていたが、ひとつの民族的な集団として広い領域に分布していた。少なくとも、アキテーヌと険しい中央ピレネー山脈からアンドラまでの地域を含んでいた。ローマ人の登場により、いくつかの道路や研究の進んでいない小さな町、使い回された田舎の入植地が残されている。パンプローナは有名なローマの将軍ポンペイウスによって築かれ、セルトリウスに対抗するための遠征の司令部として使われた。
 パンプローナ牛追い祭り(正式名サン・フェルミン祭)が毎年7月6日から14日まで開催されることで有名。またここはアメリカの小説家、アーネスト・ヘミングウェイの長編小説『日はまた昇る』の主な舞台にもなっている。
 そんなパンプローナは、クエンカ・デ・パンプローナで知られる円形の谷の中にあり、ナバラ州の中間に位置する。クエンカ・デ・パンプローナは、エブロ川谷とともに北の山地とつながる。気候とクエンカの風景は、2つの主なナバラ州の地理上を二分する、地方の間にある個性的な変わり目である。フェリペ2世は市南側に星型要塞の建物建設と、全ての城壁の現代化を命じた。16世紀終わりから18世紀にかけて建てられた城壁は現在も残っている。また街の中央にある十字路は、ナバラ州の非常に異なる自然の間をつなぐ重要な通商路となってきた。
 その十字路の、ナバラ州都のパンプローナからザビエル城までは東南に52kmとなる。パンプローナから車で約1時間。住所「Plaza San Francisco Javier S/N ,Javier 31411」。

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ザビエル城 2 W600


                                         ザビエル城 EI CASTILLO DE JAVIER



 ザビエルは、没落したとはいえ名門であり、パリの聖バルブ学院に入学する。やがて、軍人を諦めたロヨラが神の騎士になろうとして聖バルブ学院に入学し、1537年にイエズス会を起こす。当時は宗教改革が進んでいるときで、ロヨラはプロテスタントに対抗し、ローマ・カトリックの教義に戻ることを主張し、回心を説いた。その説得でついにザビエルもイエズス会に入ることになる。おりしも、大航海時代全盛のスペイン・ポルトガルは布教という名目でアジアへの進出を目指しており、イエズス会と符合することになる。ということで、日本に初めてイエズス会・ザビエルによってキリスト教がもたらされたのである。

 イグナチオの感化を受けた青年たちが集まり、1534年8月15日、イグナチオ、ザビエル、ファーブルとシモン・ロドリゲス、ディエゴ・ライネス、ニコラス・ボバディリャ、アルフォンソ・サルメロンの7人が、モンマルトルの聖堂において神に生涯を捧げるという誓いを立てた。
 これが「モンマルトルの誓い」である。この時のミサは、唯一司祭の資格を持っていたファーブルが執り行った。一同は教皇パウルス3世の知遇を得て、叙階許可を与えられたので、1537年6月、ヴェネツィアの教会でビンセンテ・ニグサンティ司教によって、ザビエルもイグナチオらと共に司祭に叙階された。彼らはエルサレム巡礼の誓いを立てていたが、これは国際情勢の悪化で果たせなかった。

 この司馬遼太郎の本にはマドリード周辺が描かれており、私も何度か座右の書として持参した。
 実はスペインが初めてのヨーロッパであり、セビリア、コルドバ、グラナダ、トレドなどを回るうちにキリスト教文明とイスラム文明のしのぎを削る相克、あるいは混在に強烈な印象を受け、この本の主題が小さくなってしまった。このときの旅の印象は、私をトルコのイスラム建築、イタリアのキリスト建築、さらに北アフリカのモロッコ・チュニジア・エジプトの建築へと展開させていった。途中、一息して旅の足跡をみるとポルトガルが気になりだした。かつてはスペインとともに大航海時代の幕開けをし、日本にはいち早く鉄砲やキリスト教によってヨーロッパの存在を伝えた国である。以後、幾度もポルトガルを訪れる。そこで2007年の暮れ、15度目のポルトガルを訪ねることにし、マドリードとともにポルトガルを描いているこの本をもう一度読み通した。

 そもそも南蛮とは中国で南方の野蛮人を指す言葉として用いられ、転化して日本では南洋諸島を指す言葉として使われてきた。しかし、大航海時代に南洋諸島を拠点にポルトガル人がキリスト教の布教のため渡来したことから、ポルトガル人あるいはスペイン人を南蛮人と呼び慣わすようになったとされる。わざわざ南蛮と題したこの本を読み終えてみると、司馬遼太郎は、はるか彼方の日本にまでキリスト教を布教しようとした南蛮人の精神と、大航海時代に栄えたにもかかわらずいまや世界の表舞台から一歩退いてしまったそのわけを明かそうとしたように思える。
 前半マドリードでは天正遣欧少年使節団が登場する。伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチーニョ、中浦ジュリアンのいずれも14~15才のまさに少年が、1584年リスボンに到着し、マドリードでスペイン全盛期のフェリペⅡ世に拝謁、さらにローマ法王グレゴリウス13世に謁見して1590年に帰国するのだが、すでにキリスト教は異端視され、彼らの役目は悲劇として終焉する。
 しかしこれを終焉としたのでは今日の史観が許すはずもない。天正少年使節者が何を体験し、どう意識したのかを再認識するとき、司馬としては大きな使命感を覚えた。終焉とする既成観念は時代権力による無体な暴力的忙殺であったはずだ。司馬が鎖国から明治維新における日本治世の動向を考察した場合、より合理的な問題として導くべき視線だけは消さぬようにした。

マンショと天正少年使節 W600H195


 司馬遼太郎は少年たちの壮大なパノラマの真の意味を探ろうとして、当時ゲルニカが展示されていたプラド美術館には目もくれず、4少年がフェリペⅡ世に拝謁したサン・ヘロニモ修道院を探し当て、訪ねるのである。
 4少年にとっては法王との謁見であっても、キリスト教側では日本の王子が全権を持っての拝謁とされた。となれば日本はキリスト教下に入ったことであり、当時、世界はトルデシリャス条約(1494年)によってスペインとポルトガルに二分されていたため、日本はポルトガルの支配下に入ったことになり、スペインもその利権を取りたがっていた、という構図が浮かびあがる。やはり歴史は見たい側からだけ見てはだめなのである。

 後半ポルトガルでは大航海時代が主題になる。スペインに王位を狙われ続けてきたポルトガルは、ジョアン1世の時にイギリスと同盟(1386年)を結び、王妃をめとる。その子どもの一人がエンリケ航海王子で、海を目指し、アフリカへ、さらに喜望峰を回りインドへ、そしてマカオや日本、ブラジルに到達することになる。その栄華がジェロニモス修道院などに表れているのだが、しかし、植民地からの収奪による繁栄であったため産業が育たず、国力を失ってしまった。哀調をおびたファドがその気分を歌い上げているのかも知れない。歴史におぼれてはいけないということでもあろう。
 
 三馬漱太郎がポルトガルを強く意識したのは、ポルトガルがイベリア半島をスペインとで分かち合っているという地理的な知識もあるが、スペインの旅で強烈に感じたのは、イスラムに対するレコンキスタ(国土回復運動)で、その終盤、イスラムに対抗していたカスティリア、アラゴン、ポルトガルのうち、カスティリアのイサベル王女とアラゴンのフェルナンド王子が結婚(1469年)、スペインが誕生し、最後のイスラム王国グラナダを奪還(1492年)したことであった。
 その後、スペインのカルロス一世はハプスブルク家を継ぎ、神聖ローマ皇帝に選ばれる(1519年)など、スペインは黄金時代に入っていく。当然、ポルトガルへの食指が動かないはずはない。スペインの古都トレドを流れるタホtajo川はイベリア半島を西に下り、ポルトガルに入ってからはテージョtejo川と名を変え、リスボンで大西洋に出るのである。スペインの南の古都、コルドバやセビージャはグアダルキビル川沿いに位置し、大西洋への地の利はいいが、いつイスラムが巻き返してくるか分からない。アフリカ進出、そして新大陸発見など、大航海時代を仕切るには、ポルトガル併合は必須であったに違いない。

 もちろん、ポルトガルもスペインの狙いは感じていたはずである。そもそもスペインにしろ、ポルトガルにしろ歴史的な都市はローマ帝国時代の植民都市である。ポルトガルの国名にもなったポルトportoもローマ帝国時代の積出港といわれる。イスラムに支配されていたころこのあたりはポルトカレと呼ばれ、レコンキスタでこの地を奪回したのがフランス貴族であったため、彼がポルトカレ公爵としてここを治めるようになった。彼の息子エンリケスは、領内貴族の支援を受け、イスラムを撃退、カスティリアからも分離独立を勝ち取り、ポルトガル王国が成立した(1143年)。エンリケスは次にコインブラに都を移しながらイスラムを追撃し、リスボンに進出する。その後、リスボンに都が移され(1249年ごろ)、間もなく大航海時代(1415年~)に入っていくが、スペインの脅威を感じるポルトガルはイギリスとの同盟を結び、安定を図ろうとする。

 その一方で、ポルトガルはアフリカへ進出、さらには喜望峰を回り(1487年)、ゴア征服(1510年)、マラッカ征服(1511年)、そしてついに1543年種子島漂着、1549年ザビエル来日、1581年宣教師ヴァリニャーノ、信長と会見、1584年には天正遣欧少年使節団がリスボンに上陸することになる。ポルトガルの歴史によって日本の歴史が動いたと言っても過言ではないのである。にもかかわらず、ポルトガルがアフリカやアジア、ブラジルの富の収奪で国家をなしてきたため、ポルトガル内に産業基盤が成長せず、植民地での原資の消失、列強の植民地への進出、植民地の独立などによって、近代の波に隠れてしまい、明治以降の日本はむしろ近代の列強に目を向け、ポルトガルとの縁が薄れてしまった。

 この本「南蛮のみち」からは、ポルトガルの栄光と苦難、そして日本との結びつきを豊富な写真で理解することができる。また体質的にもポルトガルは日本とウマがあうことが窺える。

 このように司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズのひとつ「南蛮のみち」は、フランスから始まりスペインへと旅してゆく紀行文なのだが、一つの山場として両国の国境にすむバスク人たちが大きなテーマとなっている。

 フランスから日本に渡って、初めてキリスト教を伝えたザビエル神父が最初に紹介されている。そこもザビエルの信仰や当時の修道士の暮らしぶりなど伺えて良いところだが、そのあと、スペインに向かう前、両国間のバスク人に焦点をあてている。
 この本では、バスクの地を訪れて、バスクの人たちとふれあい、その言葉や風俗習慣、考え方を探ってゆくようすが興味深い。タイトルにもある「南蛮」のイメージのルーツをそこにひとつ、見ていこうとするねらいもあるようだ。
 司馬遼太郎の小説は時代劇にしても、本筋を離れて「余談になるが……」とわき道にそれて、その余談が延々と続くのだけど、そこに歴史をわかりやすく縦断してみせる独自の司馬史観があって面白い。「街道をゆく」シリーズはその真骨頂であろう。

 カンドウ神父という方がいる。ザビエル神父とは違い現代の人物だけど、この人もバスク出身ということで取り上げられている。信仰厚く、日本で人々の慈善に勤めてくれた方だという。感動させられる生涯だ。
 1925(大正14)年に来日、日本の人と文化を愛し、日本語も堪能でエッセイも多く残している。そのなかで、故郷のバスクのことを「風と水と光の国」だと愛着を持って描いている。そこに司馬遼太郎は魅かれて興味を持った。

 若い頃のフランシスコ・ザビエルは神学とは無縁で、将来は哲学の研究に捧げようと思っていたのに、カルチェラタンでイグナチウス・ロヨラに出会ったばっかりにイエズス会に入り、ポルトガル王の支援で日本に伝道に来る事になった。司馬は「まことに人の運命って数奇なものだ」と語る。司馬遼太郎一行はザビエルの出身地、スペインのバスク地方を訪れ、実家のお城を見学する。
 そこで、茶道の所作は、キリシタンの司祭のミサの所作に影響を受けているのは?、とか、秀吉以後、港湾部に首都を作るようになったのはリスボンをモデルにしたのでは?、とか、当時のスペイン・ポルトガルが日本に与えた影響について語っている。後年、司馬は「スペイン史観とポルトガル史観は、日本にとって正確な史観を組み立てる最重要とすべき遺産なのだ。私も更に念入りに洗い直さねばならない。どうやらその時がきた」と、南蛮の道にした取材時を回想して、そう語ってくれた。

 日本とポルトガルの接点は1543年である。ポルトガル船が種子島に漂着し鉄砲が伝来した。しかしこれは日本人側による視点、ポルトガル人が日本という国を発見し上陸した年でもある。以後、日本の形成を大きく揺るがそうとする出来事が数多く起きることになる。その一つにキリスト教の伝来が上げれれる。その異国の宗教がもたらした新しい文化の中に伊東マンショは生きた。

 イエズス会(ラテン語:Societas Iesu)は、キリスト教、カトリック教会の男子修道会。宗教改革以来、イエズス会員は「教皇の精鋭部隊」とも呼ばれた。このような軍隊的な呼び名は創立者イグナチオ・デ・ロヨラが修道生活に入る以前に騎士であり、長く軍隊ですごしたことと深い関係がある。古くの日本では「イエス」の漢訳が耶穌であることから耶穌会(やそかい)とも呼ばれていた。

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 1534年8月15日がイエズス会の創立日とされる。
 パリ郊外のモンマルトルの丘の中腹のサン・ドニ聖堂(現在のサクレ・クール聖堂の場所にあったベネディクト女子修道院の一部)にイグナチオ・デ・ロヨラとパリ大学の学友6名の同志が集まり、ミサにあずかって生涯を神にささげる誓いを立てた。1534年8月15日、これをして創立日とする。彼ら7名は清貧・貞潔の誓いとともに「エルサレムへの巡礼と同地での奉仕、それが不可能なら教皇の望むところへどこでもゆく」という誓いを立てた。
 3年後の1537年、一行はイタリアへ赴き、教皇から修道会の認可を得ようとする。当時の教皇パウルス3世は彼らの高い徳と学識を見て、まず彼らの司祭叙階を認めた。
 ファーヴルはすでに司祭叙階されていたため、他の6名が6月24日にヴェネツィアで叙階を受ける。そしてオスマン帝国と神聖ローマ帝国のカール5世の間で行われていた争いのために、地中海を渡ってエルサレムに赴くことができなかったため、彼らはとりあえずイタリア半島にとどまって説教をしながら、奉仕の業に専念した。
 そして翌1538年の10月イグナチオはファーヴルとライネスの二人を連れて再びローマを訪れ、会憲の許可を願った。審査した枢機卿会の面々はほとんどが好意的にこれを評価したため、教皇パウルス3世は1540年9月27日の回勅『レジミニ・ミリタンティス(Regimini Militantis)』でイエズス会に正式な認可を与えた。このとき、与えた唯一の制限は会員数が60名を超えないようにということであったが、この制限は1543年5月14日の回勅『インユンクトゥム・ノビス(Injunctum Nobis)』で取り払われた。こうしてイグナチオは会の初代指導者(総長)に選ばれ、会員たちをヨーロッパ全域に学校や神学校設立のために派遣する。
 司馬遼太郎はこの経緯を念入りに確認した。
 そして司馬は、会が発展するに伴ってイエズス会の活動分野が三つに絞られていったことに注目する。
 第一は「高等教育」であり、ヨーロッパ各地で学校設立の願いを受けてイエズス会員は引く手あまたであったこと。イエズス会員は神学だけでなく古典文学にも精通していることが特徴であった。
 第二の活動分野は「非キリスト教徒を信仰に導く宣教活動」であった。
 第三はプロテスタントの拡大に対するカトリックの「防波堤」になることであった。
 このようなイエズス会員の精力的な活動によって、南ドイツとポーランドのプロテスタンティズムは衰退し、カトリックが再び復興する。
 これらを踏まえた上で司馬遼太郎は、別の機会でパリのモンマルトルに佇んだとき「死人のごとき従順(perinde ac cadaver)」という言葉を強く思い出したという。そう語る司馬さんの眼光は黒眼鏡のレンズに少し振動を与えるほど輝いた。それは70歳ぐらいだったと思う。

 その「死人のごとき従順」とは、イグナチオが1554に改定した会憲での言葉である。
 そこにはイエズス会が総長をトップとする組織であることが明記され、教皇と会の長上への絶対的な従順を会員に求めたとき、イグナチオは「死人のごとき従順(perinde ac cadaver)」という言葉を用いている。そして以後、彼のこの座右の銘はイエズス会の変わらぬモットーとなった。
 またそこには「神のより大いなる栄光のために(Ad Majorem Dei Gloriam)」という趣旨を含む。これは「どんな活動でもよい意志をもって精力的におこなえばかならず神の国のためになる」という精神を表していた。

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 パリ紀行「モンマルトルの誓い」
 Anversの地下鉄駅を出ると正面に白亜のサクレクール寺院が見えてくる。モンマルトルの丘に向かって正面に見える寺院を眺めながらスタンケルク通り(Rue de Steinkerque)の坂を上がる。この通りを登って、途中トロワ・フレール通り(Rue des Trois Freres)から右手に曲がるとイヴォンヌ・ル・タック通り(Rue Yvonne Le Tac)、この通りの11番地にオクシリヤトリス派の礼拝堂がある。
 ここはサン・ドニとその仲間たちがこのあたりで首をはねられたと伝えられている。そしてマルティリオム 「殉教者の記念堂」 として中世に聖堂が建っていた場所だ。その昔、この地下聖堂の中で、1534年8月15日、イグナチオ・ロヨラ、フランシスコ・ザビエルなど7人の同士が、ローマ教会のために宣教師となる事を誓い合った。上写真はその場所である。



 イグナチオが「死人のごとき従順」という言葉を遺した1554年から26年後の1580年(天正8)、11歳になった伊東マンショは有馬のセミナリオに入校する。
 このとき伊東マンショはイグナチオの信仰精神を宿したといえる。
 その1580年とは、石川本願寺が織田信長に降伏し、6月イギリス商船が平戸に来航した。そしてスペイン王フェリペ2世がポルトガルを併合。翌年にはオランダがスペインから独立した。天回するこの状況が天正遣欧少年使節の長崎出航の夜明け前である。

 いわゆる大航海時代というものは、アジア及び新大陸に対し「富とキリスト教徒」を要求した。このためイエズス会の東洋に対する布教活動も、ポルトガル本国の政治的・経済的進出から切離しては考えることのできない性質を有している。イエズス会の布教活動は、ある場合には軍事侵略の良きパートナトーであり、またある場合には貿易活動の良きアドバイザーとさえなった。特に日本においては、イエズス会士の貿易活動がその顕著な傾向として特長づけられる。
 ザビエルによって拓かれた日本布教の道は、その後継者達によって踏み固められていくこととなる。


南蛮屏風に描かれたイエズス会士とフランシスコ会士 W600


                      シリーズ連載・次回No.fileに続く
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