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伊東マンショの正体を科学する No.0003

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 世界は大航海時代。日本は戦国「下克上」の世。同時期にキリスト教が伝来する。織田信長の比叡山焼き討ちのころに、また室町幕府が終焉しようとするころに、日向国一円に勢力する豪族の伊東家に数奇な運命を宿す一人の男児が誕生した。
 この男児が後に天正遣欧少年使節の正使となる伊東マンショ。
 だがこの人物についての実像を記す資料は今日に乏しい。その背景には当時の混乱と錯覚とが不遇にも交錯する日本史の実情がある。つまり記録として残せない深い闇の淵に置き去られた。
 No.2631ファイル・データはこの歴史人の正体に迫る研究をシリーズ構成でつづる資料コラム。中世の街道を往来した人物との交流を織り重ねながらマンショの足跡の真相を編集する。・・・・伊東満所

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     辻斬りZ W50H50 gif  ① 中世を生きた少年の真相を映像で迫る
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         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

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     巡察師として日本を訪れたイエズス会のアレッサンドロ・ヴァリニャーノは、キリシタン大名・大村純忠と知り合い、財政難に陥っていた日本の布教事業を立て直しと、次代を担う邦人司祭育成のため、キリシタン大名の名代となる使節をローマに派遣しようと考えた。
 そこで使節に選ばれたのがセミナリヨで学んでいた伊東マンショを含む4人の少年たちである。こうして天正遣欧少年使節は長崎から出航した。
 その主席正使を果たした伊東マンショは永禄12年(1569年)に、日向国都於郡(今の宮崎県西都市)にて、伊東祐青と母である伊東義祐の娘(通称「町の上」)の間に生まれる。そして慶長17年(1612年)11月13日に長崎で病死する。
 マンショ没後400年、2012年は一つの記念すべき節目となった。次の節目を迎えるとすれば2019年となろう。生誕450年を迎える。この2019年を目指して進行する伊東マンショのプロジェクトがある。

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 前回のfile-No.2にて、新しい伊東マンショの肖像画発見の話題に触れたが、その鑑定の確証を2019年をメドに完了する。そして現在、残された課題をクリアーすべく慎重な精査が続けられている。
 また同時進行として、現在までに発掘した肖像画や足跡実態検証文献等をひもとき、各パーツを統合し整合させる手法から導かれる伊東マンショの実像に近づこうとする表現計画の具体化がある。

オバマ大統領とマンショ肖像 W600

マンショ文字 1 W400H133マノエル・ド・オリヴェイラ W200

 マノエル・ド・オリヴェイラ(Manoel de Oliveira)監督は2007年『コロンブス 永遠の海』で新大陸アメリカの発見を題材にした。本プロジェクトが提起される過程にこの映画が伏線にある。映画はアメリカで大きく話題化された。
 そして構想として伊東マンショの肖像画を所有するマノエル・ド・オリヴェイラは「中世・東洋の少年の旅」をテーマとする伊東マンショの実像に迫ろうとして描く映画化がある。

 現在、グルベアンキン美術館とボストン美術館が連帯する共同学芸技術チームが2019年公開を予定する映画化構想を底辺で助成する研究活動も活発化した。
 コンベルソの家系(ポルトガルから来た父方の祖父がコンベルソ)の末裔であるマノエル・ド・オリヴェイラが描く中世の東洋と西欧空間とは、そして伊東マンショの正体とは、果たしていかなる映像として世界を駆け巡るのか。大きな楽しみである。

J・K・ローリング 7 W200H215マンショ文字 2 W400H215

 さらにこの映画の脚本をJ・K・ローリングが提供する。

 世界的ベストセラー小説「ハリー・ポッター」シリーズの作者、J・K・ローリングは先年、ロンドンで開催された映画「ハリー・ポッターと死の秘宝 PART1」のワールドプレミアで、マノエル・ド・オリヴェイラ監督による映画化構想を明らかにした。制作準備事務局内の極秘事項はポロリと露見した。
 このときローリングは、再びレッドカーペットで「立てる日を楽しみにしているが、完成前にストーリーは話したい」と話している。
 また、ハリー・ポッターは、かなり前に書き終えたため、映画に出演した俳優よりも、シリーズ完結について消化する時間があったと語り、「小説を書き終えたときの喪失感をもう乗り越えたので、今自分は楽しい気分だが、マノエル・ド・オリヴェイラ監督は歴史の実像に迫る。きっと撮影現場は過酷、だから(俳優たちは)辛いと思う」と述べた。
 一方、そのことを聞いたマノエル・ド・オリヴェイラ監督は、ローリングの心配をよそに、既に主演の伊東マンショは、中世時代の真相に目を向けている。そのマンショ役を担う(日本人俳優の予定)人物は、伊東マンショと同じ胸中を演じることになるだろうとの考えを示し、「世界中で、伊東マンショの役を演じるのは400年間で一人なのだから、脚本は過酷過ぎるほど配役には栄光が待ち受けているし、撮影現場は過酷過ぎるほど私も俳優も気合十分。だから世界一過酷な撮影になるね」と話した。
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 伊東氏が島津氏の攻撃を受け、伊東氏の支城の綾城が落城した際、当時8歳だったマンショは家臣の田中國廣に背負われ豊後国に落ち延びる。同地でキリスト教と出会い、その縁で司祭を志して有馬のセミナリヨに入った。マンショの生涯は幼少期から波乱とミステリアスに満ちている。少年期にローマへ、帰国後の青年期から病死までの半世紀にも満たない人生の中で、全ての時間が波乱尽くし。そして瞬時が世界の時事と連動して駆け巡る。また伊東一族の豊後落ちの後、放浪の田中國廣は京都に定着し、高名な刀鍛冶となるが、そこには宮本武蔵との出逢いがある。そしてその武蔵が小倉城下でローマより帰国したマンショと出逢うことになる。
 こうした場面展開をどう映像で切り取るのか。その時代考証を三馬漱太郎が担当するのだが、是非、日本人の視線でも正確な考証を果たしたい。
 マノエル・ド・オリヴェイラ監督の要請により、肖像画から描き出して復元する伊東マンショの3Dグラフィックス像も完成間も無くの仕上がりとなってきた。
 後数年でマンショの顔が復元できる。これらも実に長い長い工程(30年間)であった。

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 現在までの日本史をひもとくと、マンショは大友宗麟の名代として使節に選ばれた。これはマンショが宗麟の姪(一条房基子女)の夫である伊東義益の妹の子という遠縁の関係にあったためで、本来は義益の子で宗麟と血縁関係にある伊東祐勝が派遣される予定であった。だが、当時祐勝は安土(現・近江八幡市安土町)にいて出発に間にあわず、マンショが代役となったという経緯がある。
 そして天正18年(1590年)、日本に帰国したマンショらは翌天正19年(1591年)、聚楽第で豊臣秀吉と謁見する。秀吉は彼らを気に入り、マンショには特に強く仕官を勧めたが、司祭になることを決めていたためそれを断った。その後、司祭になる勉強を続けるべく天草にあった修練院に入り、コレジオに進んで勉学を続ける。そして、文禄2年(1593年)7月25日にイエズス会に入会した。しかし、こうした日本人による史観と、中世当時の各国における史観とに整合性を求めたとき、実態に符合しない光と闇との部分が浮き彫りとなる。伊東マンショの真相と正体に迫る当プロジェクトは2019年を目指して未だ精査中である。

 映画化はワーナー・ブラザース映画によって、撮影はリーブスデン・スタジオで行われる。配役による撮影は2015年から開始予定だが、すでに2010年から時代背景に挿入するロケーション撮影は進められている。

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     辻斬りZ W50H50 gif  ② 中世・南蛮の道からもたらされた文化
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         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

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     西洋の動向は大航海の趨勢に伴い拡張されて西洋文明はついに日本をも席捲するようになる。西洋の列強帝国は航海技術を進化させて植民地支配で国領土を拡大しようと遠征し、東洋地帯へと動向を活発化させた。これが西洋文明のグローバル化であり国際化が萌芽する中世時代である。

 そんな中世の日本から想起される言葉の一つに「南蛮」という呼称がある。
 この言葉は日本の中世を考察する上で重要なウエイトを占めている。つまり日本人が初めてこの言葉を西洋列強に向けたとき、日本へと渡来したシルクロード文化が西洋文化とクロスし、新しい文明として意識され融合されようとする瞬間であった。このころ日本は室町から安土桃山期、下克上で台頭する戦国武将が内乱を繰り返している。西洋文明は、その戦国絵図の間隙に先ず鉄砲という文化技術で侵入した。

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 エピソード小話火縄銃の実戦活用は戊辰戦争の終盤まで・・・
 以下は、北海道南部松前での話。火縄銃ではもはや勝てない時代。「松前史、懐古談より」

 脱走兵(榎本軍)が来るというので、出陣ということになって、士族たちは城中に召集された。小具足に陣羽織の者、烏帽子をかぶった者、または金筋入りの白はちまきをした者、兵卒は火縄銃に切袴で草鞋がけという扮装で御城から御出陣という時は、法螺の貝をブウーと吹いて太鼓をドンドン叩き、士大将の進めの号令で、しづしづと繰り出した。ところが戦争になってからは、この方が強くないのか、脱走の方が強すぎたのか、何時も負けてばかりいた。なにしろ火縄銃では鉄砲を掃除して、玉をこめてフウッと縄を吹いたりしてドンと一発撃つ間に、敵は新式の銃で五、六発も撃ってくる。こちらは具足をつけているのに、あちらは股引き、脚半という身軽な扮装で、動作も敏捷であった。(鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗北すると、榎本武揚は、大坂城内にあった18万両という大金を富士丸に積み、残された旧幕府軍側の兵士達と共に江戸品川沖へ撤退した。 江戸へ撤退後、榎本は小栗忠順と共には主戦論を主張したが、すでに恭順の意思を固めつつあった徳川慶喜の容れるところとならなかった。新政府軍は江戸城を無血開城すると、幕府海軍艦隊を引渡すことを要求するが、榎本は拒否し、悪天候を理由に7隻を連れて品川沖から安房国館山に退去する。 勝海舟の説得により4隻(富士・朝陽・翔鶴・観光)だけを新政府軍に引渡したが、開陽等主力艦の温存に成功した。 5月、徳川家は駿河、遠江70万石に減封になり、艦隊は徳川家臣団の駿府移封の作業に従事する。 徳川家が約8万人の幕臣を養うことは困難となり、多くの幕臣が路頭に迷うことを憂いた榎本は、蝦夷地に旧幕臣を移住させ、北方の防備と開拓にあたらせようと画策し、朝廷に対して「蝦夷地殖民認可の嘆願書」を提出した。しかし、蝦夷地殖民は拒否され、徳川家臣団の駿府移封が完了すると、再び幕府艦隊の引渡しを要求されたため、榎本は抗戦派の旧幕臣とともに開陽、回天、蟠竜、千代田形、神速丸、美賀保丸、咸臨丸、長鯨丸の8艦から成る旧幕府艦隊を率いて江戸を脱出し、東征軍に抵抗する奥羽越列藩同盟の支援に向かった。 この榎本艦隊には、若年寄・永井尚志、陸軍奉行並・松平太郎などの重役の他、大塚霍之丞や丸毛利恒など彰義隊の生き残りと人見勝太郎や伊庭八郎などの遊撃隊、そして、旧幕府軍事顧問団の一員だったジュール・ブリュネとアンドレ・カズヌーヴらフランス軍人など、総勢2,000余名が乗船していた。 江戸脱出にあたって榎本は「徳川家臣大挙告文」という趣意書を発表している)
 上のエピソードはこの榎本軍と戦った松前藩の体験記である。当時の松前藩で使用していた銃は、300年前に渡来した火縄銃とほぼ同型式の銃で戦った。これに対し榎本は、オランダで国際法や軍事知識、造船や船舶に関する知識を学んでいる。北へ逃れる敗走軍とはいえ最新の兵器を装備していた。

 鉄砲伝来以降、16世紀後半から17世紀初頭の間、この約50年間の日本は、世界最大の銃保有国であった。つまり日本は世界のどの国よりも人間を合理的に効率的に殺傷する文明国として邁進した。これにより世界舞台では莫大な経済が動くことになる。西洋の視線には、やはり日本とは黄金の国と映る。

 ヨーロッパでは、マルコ・ポーロが『東方見聞録』で「黄金の国ジパング」という名で日本国の存在を伝えて以降、その未知の島は旧来のヨーロッパに伝わる宝島伝説と結び付けられ、多くの人の関心を惹きつけた。しかし、この東洋の未知の島はその後約250年に渡って未知の島であり続け、天文年間にポルトガル人によってその発見が成されるまで、ヨーロッパで発行される世界地図や地球儀の太平洋上をあちらこちらへと浮動しながら描かれた。
 日本史上においては、鉄砲伝来は日本列島の発見とともに1543年という説が採られており、有力であるが決定的な史料が見つかっておらず、特定できていない。

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 ホイールロック式(Wheellock)とは、鋼輪の回転による、銃の点火方式。鋼輪式または歯輪式ともいう。バネ動力などを使って鋼輪(ホイール)を回転させ、これにハンマーに装着した火打ち石(燧石=フリントや黄鉄鉱など)を打ち付け擦り付けることで火花を得て火薬に点火する方式。1510年ころにはそれに類する銃があったと推測される文献が存在する。またレオナルド・ダ・ヴィンチのメモの中にもこの構造図の着想が残されている。
                  回転人体図
 この銃の点火方式としては火縄銃(マッチロック式)の次世代として登場した歴史を持つ。マスケット銃や特に騎兵用短銃に実装されたが、構造が複雑であることから高価で、多くは上層階級の戦闘員が騎馬戦闘に用いるにとどまった。火縄銃の火種に関する欠点(火種の保存管理・光や匂いなどの対敵露見性)を克服するものとして一歩進んだものではあったが、高価のみならず構造上故障が多く信頼性が低い等の理由で、すぐにその次の世代のフリントロック式(打撃式)にとってかわられた。

 ホイールロック次世代の燧石式はミュクレット式とスナップハンス式の二つの流れがあるが、基本的に大差はない。やがてフリントロック式として同じ形態のものなって行き、その形式は雷管の登場(1800年代初頭)まで主流として続くことになる。日本においても幕末期に至りこの形式の銃を模造した例が残されている。
 日本においては久米(栄左衛門)通賢(くめみちたか・讃岐国坂出の人)が鋼輪式点火法を考案しているが、中国兵書『武備志』に載る地雷火の点火法から着想を得たとしている。外観の一部こそ洋式に似ているが、構造上から通賢独自の発明とみられる(四国には通賢弟子作の鋼輪式銃がいくつか見られる)。

 このような日本に伝来された火縄銃が技術進化する過程において、天正遣欧少年使節の正使者を果たした伊東マンショ等一行はポルトガルのリスボンに上陸した際にホイールロック式銃の祝砲により歓迎された。下記写真はマンショが当時垣間見たホイールロック式銃である。

ホイールロック式銃

 種子島に伝来したマッチロック式銃(火縄銃)は、火種がなければ発射出来ず、湿気に弱いという欠点があった。この欠点を解消するため、歯車と黄鉄鉱を用いた点火方式を採用したものがホイールロック式銃である。
 引き金を引くと歯車が回転し、黄鉄鉱とぶつかって火花を散らす(いわゆるライターの原理)。
 この火花を火種にして、火皿の中の火薬に点火するのである。ただし、この銃は構造が複雑であり、それゆえに高額となり、さらに暴発も多かった事から あまり普及はされず、後のフリントロック式に取って代わられる事となった。
 しかし当時マンショがリスボンで見たホイールロック式銃は、豊臣秀吉軍や徳川家康軍が使用した火縄銃より数段進化したタイプであり、この銃を見た日本人はマンショ等の他に前例者の記録はない。

 遣欧少年使節は1584年8月10日 (天正12年旧暦7月5日)ポルトガルの首都リスボンに到着。船が港に着岸したのは未明の暗がり、夜明けに上陸しサン・ロッケ教会が宿舎とされた。そしてリスボン近郊シントラのアルベルト・アウストリア枢機卿(フェリペ2世の妹マリアと神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の男子)の王宮に招かれる。少年使節の一行は宿舎から出発する際に祝砲により歓迎された。
          5月10日:喜望峰を通過。
          8月10日:リスボンに上陸、イエズス会修道院にはいる。
          8月13日:枢機卿アルベルト・アウストリアに謁す。
          8月20日~25日:シントラの王宮に招かる。
          9月5日:リスボンを出発。
          9月8日:エーヴォラに到着。


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                    アルベルト・アウストリア枢機卿(アルブレヒト7世)

 アルブレヒト・フォン・エスターライヒまたはアルブレヒト7世・フォン・エスターライヒ(Albrecht VII. von Österreich, 1559年11月13日~1621年7月15日)は、スペイン領ネーデルラント君主。妃イサベル・クララ・エウヘニアと共に共同統治を行った。

 神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世とスペイン王女マリアの五男として、ヴィーナー・ノイシュタットで誕生する。幼いうちにスペイン宮廷へ送られて、11歳まで叔父フェリペ2世に教育され、事実上聖職者になるべく定められていた。
 18歳でローマにあるサンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ聖堂の枢機卿に任命された。フェリペは甥をトレド大司教にしようともくろんでいたが、現職が長寿のためその機会はなかなかやってこなかった。アルブレヒトは教会内で責任ある地位につくことができず、ポルトガル併合後の初代副王となった。1588年にはアルマダを組織してリスボンの戦いでイングランド軍を撃破する。1593年にマドリードへ呼び戻され、スペイン絶対王政の指導者となっていった。
 1595年、三兄エルンストが死去したため、ネーデルラント総督の後継者としてブリュッセルへ入城する。アルブレヒトの最初の課題は、低地諸国でのスペインの軍事的優位性を建て直すことにあった。当時、低地諸国ではオランダ共和国、イングランド、フランスが入り乱れた状態であった。1599年、既に還俗していたアルブレヒトは従妹にあたるイサベルと結婚した。フェリペ2世はイサベルがアルブレヒトと共同君主であることを宣言する。1604年にイングランドとロンドン条約を締結後、スペイン領ネーデルラントは情勢が安定し、アルブレヒト夫妻は芸術の後援者として著名となった。ピーテル・パウル・ルーベンスはブリュッセルにある彼らの宮廷の専属画家であった。

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 ファド(Fado)は、ポルトガルに生まれた民族歌謡。ファドとは運命、または宿命を意味し、このような意味の言葉で自分たちの民族歌謡を表すのは珍しい。1820年代に生まれ、19世紀中ごろにリスボンのマリア・セヴェーラの歌によって現在の地位を得た。したがって伊東マンショがリスボンを訪れた当時この歌謡は未だなかった。

 イタリアにカンツォーネ、フランスにシャンソン、アルゼンチンにタンゴ、ブラジルにサンバがあるように、ポルトガルにはファドがある。主に「Casa de Fado」と呼ばれる(または「Casa do Fado」)レストランなどで歌われる大衆歌謡で、主にポルトガルギター(ギターラ)と現地ではヴィオラと呼ばれるクラシック・ギター(スチール弦使用)、(時には低音ギター(ヴィオラ・バイショ)が加わる場合もある)で伴奏される。
 日本では、ファドは女性が歌うものとの認識が強いようだが、実際には性別に関係なく歌われる。また、ファドは暗く悲しいものだという誤解をもって紹介されることも多いが、我が町を賛美したり、街のうわさ話などを題材とした陽気なファドも数多くある。
 因みに、「大航海時代に帰らぬ船乗りたちを待つ女たちの歌」という起源説は、1974年まで続いた独裁政権(エスタード・ノーヴォ)の文化政策の中で作られたでっちあげである。アマリア・ロドリゲス(1920~1999)が国民的歌手として国内外で知られ、その人気は死後も衰える兆しを見せない。
 首都リスボンと中北部の中心都市コインブラでそれぞれ独特のファドが育まれ、コインブラのそれはコインブラ大学の学生たちのセレナーデとして存在している。日本でよく語られる「リスボンのファドは暗く、コインブラのファドは明るい」という風説も、これは大きな誤解である。

 もう少し深く述べると、その起源については諸説があり、同様にイスラム色の強いお隣スペインの「フラメンコ」との類似点をとらえてか、かつてここを占領していたムーア人(イスラム教徒)達の11世紀頃の音楽、歌謡に源を発しているという説まである。
 わりあい広く認められている説は、大航海時代にポルトガル人達が植民地ブラジルへ連れて行ったアフリカ人奴隷達の踊り「悲しげな舞曲 Fado 」が、植民地から収奪した金やその他の産物とともに、港町リスボアに逆輸入されたというものだ。
 多様な人種と文化の混合する植民地ブラジルから渡ってきた踊り Fado は、 アフリカ色の強い様々な踊りがミックスされ、当時同様に南アメリカ大陸に広く進出していたスペイン支配下のアルゼンチンの「ファンダンゴ」にも影響された、きわめて官能的な踊りだったとのことである。
 リスボアに上陸したこの官能的な踊り Fado は、奴隷としてポルトガルに連れてこられた黒人達や、混血達が多く集まり住んだ古い市街地アルファーマやモウラリアを中心に、リスボアの黒人の間にブームを巻き起こした。
 古びたリスボアの下町で大いに歌いながら踊られた奴隷達の Fado は、やがて舞台音楽や他階級文化の影響を受けるうちにアフリカ的な打楽器の伴奏が次第に失われ、歌の部分のみが強調されて伸び縮みの多い叙情的な歌謡に変化してくる。19世紀に入ると植民地支配の栄光の時代は終わりを告げ、ブラジルやアフリカの植民地を次々と手放したポルトガルは暗い困窮した黄昏の時代に入る。その暗い世相の中で、現在歌われるスタイルの Fado は、貧しい人々が集まる下町の石畳に響くように、裏町の安酒場や売春宿から歌い出された。歌を創るのも歌うのも最下層の人々だった。荒んだ生活や辛い暮らしのうさを振り捨てるかのように、想いのたけを歌に託してほとばしらせたのである。

 Fadoの歌い手をFadista(ファディスタ)と呼ぶが、Fado が最下層の人々の歌であったため、Fadistaという言葉は元々は「やくざ、ならず者、売春婦」の含みを持っていた。そのFadistaの元の意味通り、伝説的なファディスタ「マリア・セヴェーラ(1820~1846)」もモウラリアの売春婦だった。
 リスボアの裏町の石畳に響いていたFadoはやがて、下町の酒場や民衆サロンの狭い場所から出て、貴族達のお気に入りとしてお屋敷内で歌われたり、劇場でも公演されるようになり、たくさんの素晴らしい歌い手たちが誕生し、優れた作詞・作曲家が参加して、より洗練された魅力的な歌が歌われるようになった。
 そして、あまりにも有名なファディスタ「アマリア・ロドリゲス」が出現してFadoはその頂点を迎える。フランス映画「過去のある愛情」の挿入歌として歌われた彼女の「暗いはしけ」(この歌は正確にはブラジルの曲で、Fadoではないのだが・・・)が世界的に注目されて、小国ポルトガルの首都の片隅で生まれた民族歌謡が世界中に知られ多くの人々に愛好される時代を迎えたのである。

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 「アマリア・ロドリゲス」の偉大さについては、あらためて語るまでもないであろう。貧しい家庭に生まれ、一生涯心の歌を歌い続けた彼女は「ポルトガルの大いなる宝」として皆から愛され、1999年の没時には全国民が3日間の喪に服したのである。日本でも公演を行っており、発売されているCDも多く全国に沢山のファンがいるが、あまりにもその存在が大きかったため「Fado = Amalia = Fado」の固定観念が一般化している傾向がある。
 確かに、「アマリア」のFadoは素晴らしい。今なお多くのファディスタ達に影響を与え続けていることも事実ではあるが、他にも個性的な素晴らしいFadoを歌うファディスタも数多く存在しており、「アマリア」のFadoがFadoのすべてではないことを知らねばならない。

 ついでに蛇足ではあるが、多くの日本のFadoファンが、多分「暗いはしけ」に次ぐ有名曲と考えている「難船」は、ポルトガルでは殆ど歌われることはない。(カバーしている歌手がまれで、現地のCasa do Fadoでも聴くチャンスは無く、たくさん出ているアマリアのアルバムの中でもこの歌が入っているものは極めて少ない)
 尚、 Fadoの起源について、「大航海時代の男達の帰りを健気に待つ女達の歌がルーツである」という説がまことしやかに語られることがあるが、これは20世紀半ばに、当時の独裁政権が様々な思惑を理由に作り上げたデマで、政治的にFadoが利用された結果である。
 その時期、国策として Fado が恣意的に使われたことは、戦時中の日本に於いて、文学も音楽も、絵画や映画などあらゆる分野の文化や芸術が政治的意図で恣意的にねじ曲げられてしか存在できず、それに関わった人達が心ならずもそれに従い、あるいは積極的にその政策に乗ってきたのと同様に、現在でもポルトガルのFadoの歴史の中に、苦々しい汚点として後を引いている。

 Barco Negro


 伝統的Fadoは通常、歌い手である「ファディスタ」(女性歌手だけでなく男性歌手も多く、どちらも「ファディスタ」と呼ばれる)と、「ポルトガルギター」(ギターラ=Guitarra)という6コース12弦の楽器と「クラシックギター(鉄弦)」(ヴィオラ・クラシカ=viola Classica)の伴奏で構成され、これに低音部を担当する「低音ギター」(バイシャ・ヴィオラ=Baixa Viola)が加わる場合もある。
 この組み合わせが確定するまでには、かなりの変遷と試行錯誤があったのであろうが、「ポルトガルギター」の12本の鉄弦から響く可憐で心にしみる音色と、柔らかな「クラシックギター」の音色が絡み合い、「主張しすぎず、隠れすぎず」の絶妙なバランスで、マイク無しの生音で、伸び縮みの多いリズムに乗って絶妙な節回しと間の取り方で詞を歌いあげるファディスタの歌声を支え、Fadoの世界をつくりあげる。

 「女性歌手は黒いドレスに黒いショールで、男性歌手は片手をポケットに入れて歌う」と言われるが、ドレスが黒とは限らない。但し、ショールを肩にかけて歌うのは原則のようだ。ショールを掛ければ、どんな服装であってもそれが舞台衣装に早変わりする。いかにも下町からおこった民族音楽らしい様式である。
 男性歌手の方は、たまにきちんとネクタイ着用の歌手もいるが、基本的にはノーネクタイでシャツの上のボタンはオープンの人が多いようだ。確かに伝統か?片手をポケットにつっこんで歌う人も多い。
 リスボアにはCasa do Fado(「カーザ・ド・ファド」/ Casa de Fadoという場合もある)というFadoを聴きながら食事や飲酒ができる「レストラン」「ライブハウス」(Fado House)が数多くあり、 バイロ・アルト地区やアルファマ地区に集中していて、夜毎、細い入り組んだ路地のほの暗い灯りに照らされた石畳に、そこここから漏れ聞こえるFadoの音色が響き渡る。(同様のお店は、ポルトガル第二の都市ポルトや、第三の都市コインブラにも若干数ある)

 異国の歴史の実態とは実際に足を踏み入れてみないと解らないものだ。
 繰り返すようだが、Fadoは「悲しく暗い歌」であるという、誤解ともいうべき固定概念が存在する。特に日本に於いて、日本固有の「演歌」と結びつけてか、一部の関係者によるそのような部分を強調した「概念のミスリード」があったような気がする。
 確かに、ポルトガルには固有の感情表現としてSaudade(サウダーデ・・・失われたものを愛おしみ、帰らぬものを悼む切々とした感情)があり、これがFadoの底流に流れているものであるといわれる。事実このSaudadeという言葉はよく使われ、歌詞の中にも頻繁に登場する。
 大航海時代に、遠く海の彼方に漕ぎ出した大切な身内や友人を、想い、心配する気持ちをあらわしたともいわれるが、 複雑な感情の表現で、「懐かしさ」「未練」「懐旧の情」「愛惜」「郷愁」「ノスタルジー」「孤愁」色々な訳語はあるのだが、端的に訳せるものではなく、これらを色々ひっくるめたものがSaudadeということになるのだろう。現地で聞くとSaudadeという感情は決して「絶望」「悲しみのどん底」「希望のない暗闇」だけということではなく、底に流れる「生への希望や執着」「遠い明日へのほのかな希望」といった、「強さ」や「エネルギー」を秘めたものであるように感じられる。
 そんなFadoには叶わぬ愛、宿命の苦しみなど、限りないメランコリーを歌うものから、軽快な波止場の噂話やお祭りの歌など明るい即興歌謡の面影が残るものまで、幅広い多様性があるのである。中でも特に「我が町リスボア」を歌った歌詞は多く、それらは、我らの町、そこに住む人々の誇りと喜び、人々への愛情に満ちている。Casa do Fadoでこれら「リスボア」の歌が歌われるとき、期せずして観客達の大合唱が起こり、いかに彼らが「我が町リスボア」に愛着と誇りを持っているかを思い知らされる。伊東マンショの足跡を尋ねる現地で幾度となく聞いたFadoは「暗く、悲しく、寂しい、絶望的なもの」ではなく、どんなに厳しいときであってもしたたかに生き抜く庶民の、エネルギーに満ちた力強い歌であるということを、日本人として再認識した。

Sintra Portugal


 ホテルを出て地下鉄でポルトガル国鉄(PC)のロシオ駅に向かう。シントラまでは28km、約40分の旅、発車して数分もしないうちに緑の中に新興のマンション群が両側に延々と続く。いずこも同じ近郊の住宅開発の結果だろうが東京あたりの郊外よりはまだまだ自然がたっぷり残っている。シントラまで大した距離でもないのに14駅もあるところをみると、今は朝夕の通勤路線としての役割が主力になっているのだろう。
 シントラはそもそもポルトガル王室の夏の避暑地として知られてきたところで、「シントラの文化的景観」として世界遺産に登録されている「シントラ王宮」、「ペーナ宮殿」そして「ムーアの城跡」などが緑豊かな山ふところに点在している。
 「ペーナ宮殿」下のバス停から山の麓にある「シントラ王宮」(Palacio Nacional de Sintra)へ循環バスで下る。この王宮、フランスやオーストリアなどにあるような豪華絢爛な離宮とは比較出来ないが、ポルトガル王家が夏の別荘として15~19世紀に使った所で、「シントラの文化的景観」として登録されている世界遺産の中心部分だ。ポルトガルは現在共和国制で王家は存在しない。しかし、レコンキスタ(キリスト教徒によるイスラム教徒からの領土回復運動。)が活発になる11世紀頃から王族支配が始まり、20世紀初頭まで続いた。それが1910年のポルトガル共和国成立とともに王政は崩壊し王族は英国に亡命した。
 王宮の見所はポルトガルが最も栄えた16世紀に増築された部分、当時の栄華を反映した室内装飾が施された「アラブの間」「礼拝堂」「中国の間」「紋章の間」「カササギの間」「白鳥の間」などが有名だ。 その中でも壁全面にアズレージョ(Azulejo)の装飾タイルが施され、天井には72個の紋章が描かれた「紋章の間」は見逃せない。アズレージョと言えばポルトガルだが、独特の上薬をかけて焼かれたタイル絵のことで青い色調に特徴がある。これはイスラム起源の技法をムーア人がスペインに持ち込み、その後ポルトガルに伝わって花開いたと伝えられる。絵の構図は寓話やギリシャ神話、聖書の一場面、聖人の生涯や貴族の狩猟風景などが描かれたものが多い。ポルトガルでは教会、宮殿などは勿論、一般の家の内外でも珍しくないし、鉄道や地下鉄の駅構内などの公共の場でも壁画などとしてよく見かける。

 伊東マンショはこうした南蛮文化を実際に体験した最初の日本人だといえる。

 南蛮(なんばん)あるいは蛮(ばん)は、四夷(しい)のひとつであり、中国大陸を制した朝廷が南方の帰順しない異民族に対して用いた蔑称である。日本でも当初は同様の意味で用いられていたが、15世紀にヨーロッパ人との南蛮貿易が始まって以降は、主にヨーロッパや東南アジアの文物を指す語となった。

 四夷あるいは夷狄(いてき)は、古代中国で四方に居住していた異民族に対する総称(蔑称)である。古代中国において、異民族の支配を含め、中国大陸を制した朝廷が自らのことを「中国」「中華」と呼んだ。また、中華の四方に居住し、朝廷に帰順しない周辺民族を「東夷(とうい)」「北狄(ほくてき)」「西戎(せいじゅう)」「南蛮(なんばん」と呼び、「四夷」あるいは「夷狄」と総称した。

南蛮2連 gif

 東夷の「夷」という漢字は「大」な「弓」と書いて、好戦的な民族として、蔑んだ意味合いを込めている。本来は古代中国が東に位置する山東省あたりの人々に対する呼び名であったが、秦以降は朝鮮半島、日本列島などに住む異民族を指すようになった。後に日本でも異民族を意味する「エビス」という語と一体化し、朝廷(京)から見て東国や蝦夷の人々のことを「東夷(あずまえびす・とうい)」「夷(い・えびす)」と呼んだ。

 北狄は、古代中国において北方の中原的都市文化を共有しない遊牧民族を呼んだ呼称である。歴史上、北方の民族は度々中原へ侵入して略奪や殺戮を行ったことから、北方にいた異民族は総じて狄と呼ばれるようになり、北狄は蔑称としての意味合いが強くなった。日本における用法もこの流れをくみ、古代においては日本海側に住む蝦夷を蝦狄と書いたり、単に狄と書いた。この場合、太平洋側の陸奥国の管轄対象が蝦夷または夷、日本海側で出羽国が管轄するのが蝦狄または狄と使い分けた。民族としての実体は同じである。

 西戎あるいは戎は、中国西部に住んでいた牧畜民で、たびたび中国の歴代王朝に侵入して略奪を行ったことから、西戎という言葉に蔑んだ意味合いを込めている。周(しゅう)紀元前1046年頃~紀元前256年の中国古代の王朝と共に商を滅ぼした諸侯国の一つである羌(きょう)、ほかには葷粥(くんいく)や氐(てい)などが含まれ、周代には現在の陝西省・四川省から甘粛省・チベット自治区の付近にいた。周の十二代王幽王は暴政を布いたので諸侯の恨みを買い、諸侯の一人申公の誘いを受けた犬戎(けんじゅう)は紀元前770年に周の首都鎬京を陥落させて西周時代の終わりを告げた。これ以降は春秋時代に入る。周が追われた地に秦が封ぜられた。秦の穆公は度々戎を討って覇者となった。その後も何度か秦と衝突し、最後には秦に吸収され、一部は匈奴に吸収された。民族や種族としては、南北で分かれる傾向があるもののチベット族や彝族(イぞく)とみられている。

 南蛮あるいは蛮は、中国大陸を制した朝廷が南方の帰順しない異民族に対して用いた蔑称である。「蛮」は、本来は中原で都市文明を営んでいた漢民族が、南に住む未開民族に対する呼び名であったが、やがて中華思想における四夷のひとつとなり、中国大陸を制した国が南西方面の帰順しない異民族に対する呼称となった。「蛮」という漢字は、部首に「虫」を用いて、人ではないことを示した悪字である。現在でも、「野蛮」「蛮族」「蛮行」などの熟語が、粗野であるという意味を込めて用いられている。異民族支配の時期でも「南蛮」という蔑称の概念を継続したように、先進文明としての中華に相対する蔑称である。

 13世紀、元が南宋を征服して中国全土を支配すると、モンゴル人は遼や金の遺民である華北の住民を「漢人」、南宋の遺民である江南の住民を「南家」と呼び、キタイ人(遼・金の遺民)は南シナの住民を「蛮子」の蔑称で呼んだ。モンゴル人や色目人と比べて、漢人や南人は公職への登用が限定されていた。マルコ・ポーロの『東方見聞録』では、中国北部のことを「キタイ」、中国南部のことを「チーン」と呼んでいる。
 中華思想は日本にも取り入れられ、「蛮」という語は『日本書紀』の時代には朝鮮半島南部の未開地や薩摩の西の五色島、薩摩七島、琉球を指す語として用いられた。

 16世紀、ポルトガルとスペインのイベリア半島諸国が、インドから東南アジア一帯の港湾都市や島嶼域の貿易拠点の一部に植民地を得て、交易圏を日本にまで伸ばしてきた。これらの諸国と日本との南蛮貿易が始まると、貿易によってもたらされた文物を「南蛮」と称するようになった。やがて、本来は人に対する蔑称であった「南蛮」が、侮蔑語というよりは、異国風で物珍しい文物を指す語(昭和初期までの「舶来」と同義)として使われるようになった。同時に、人に対する呼び名としては南蛮人(なんばんじん)という言葉が生まれた。そして南蛮と同類の言葉に紅毛があり、南ヨーロッパ系の南蛮に対し、北ヨーロッパ系のイギリス人やオランダ人を意味した。

 現代の日本では、長ネギや唐辛子を使用した料理関連の言葉に「南蛮」の語が使われることが多い。「南蛮料理」という表現は、16世紀にポルトガル人が種子島にやってきた時代以降、様々な料理関係の書物や料亭のメニューに現れていた。それらに描かれる料理の意味は、キリスト教宣教師らにより南蛮の国ポルトガルから伝わった料理としての南蛮料理と、後世にオランダの影響を受けた紅毛料理や、中華料理の影響、さらにはヨーロッパ人が船でたどったマカオやマラッカやインドの料理の影響までを含む、幅広い西洋料理の意味で使われてきた場合の両方がある。

 南蛮料理が現れる最も古い記録には、17世紀後期のものと思われる『南蛮料理書』がある。また、主に長崎に伝わる「しっぽく(卓袱)料理」と呼ばれる卓上で食べる家庭での接客料理に、南蛮料理は取り込まれていった。唐辛子は別名を「南蛮辛子」という。「南蛮煮」は肉や魚をネギや唐辛子と煮た料理である。「南蛮漬け」はマリネやエスカベッシュが原型とされている。「カレー南蛮」や「鴨南蛮」の「南蛮」は、前述の「唐辛子」やネギのことを指しており、唐辛子の入ったカレースパイスとタマネギや長ネギが使用されている。

ザビエル W600

 日本にキリスト教を伝えた宣教師の名前は有名だ。
 それはイエズス会のフランシスコ・ザビエル。
 実はこれの名は、スペインやポルトガル人には通じない人名である。ザビエルという読み方はドイツ語からきている。昔、日本のキリスト教研究はドイツ人の研究成果から学んでいたため、ドイツ語発音が使われた。ザビエルはポルトガル語では「シャビエール」、スペイン語では「ハビエル」と発音される。研究者の中には現地語で発音すべきと主張した人もいたが、あまりに「ザビエル」の呼び方が知れ渡っていたため、これを断念した。いまだ日本人が「ザビエル」と呼び続けているのはそのためである。

 ザビエル以外に日本でキリスト教を広めた宣教師には、アレッシャンドロ・ヴァリニャーノ(イタリア人)、ガスパル・ヴィレラ(ポルトガル人)、ルイス・フロイス(ポルトガル人)、オルガンティーノ(イタリア人)の4人が挙げられる。この4人をはじめ、日本にキリスト教を伝えるためにやってきた宣教師達は、数多くの報告書や書翰を同僚に送っている。しかも、多くがヨーロッパなど各地に現存されている。もちろん、写本を含めてであるが、その報告書や書翰などから当時の日本の様子をうかがい知ることができる。
 中でも、日本について一番多く報告書や書翰を書いた宣教師が、ルイス・フロイスというポルトガル人宣教師。彼は書翰や報告書を書くとともに、日本に関する記録「日本史」を書き記した。
 これには日本の歴史史料ではうかがい知ることのできなかった、日本の様子が記されている。そのため、彼の書いた記録は、日本の歴史を知る上でも重要な史料として位置づけられる。
 ただ、フロイスの「日本史」よりも、書翰の方が注目される。当時現場にいたフロイスならではの生々しい記録が、そこには書き記されているからである。しかし、その中で語られる内容は、かつて『耶蘇会士日本通信』や『イエズス会士日本通信』として有名な、エヴォラ版日本書翰集のことではない。イタリアのローマやポルトガルのリスボンなどに現存する書翰(原本・写本)の内容を指す。

 1568年といえば、織田信長が足利義昭を奉じて上洛した重要な年である。フロイスが信長のことを初めて知ったのもこの年であった。
 1560年(永禄3年)にイエズス会司祭ガスパル・ヴィレラが将軍足利義輝から京都滞在を認めた許可状(実際は禁制)を得たことにより、畿内で本格的に宣教活動を開始した。その後、フロイスも畿内布教担当となり、ガスパル・ヴィレラとともに京都で布教活動を行っていた。
 ところが、彼らの後ろ盾となっていた足利義輝や三好長慶が相次いで死去すると、まもなくして正親町天皇によって伴天連追放の女房奉書が出された。そのため、ヴィレラとフロイスは京都退去を余儀なくされたのであった。
 1568年、フロイスは堺に避難していた。
 その堺で14代将軍足利義栄に京都復帰をお願いしようと、篠原長房という武将に依頼していたが、なかなか進展しないでいた。そうした時に、織田信長が足利義昭を奉じて入京してきたという情報を入手したのである。フロイス書翰には「尾張の国王(信長のこと)が、都で殺された公方様(足利義輝)の兄弟(足利義昭)を武力によって(将軍職に)就任させるために、6万の軍勢を率いて都にやってきました」と書かれている(1568.10.4書翰)。この箇所を読んでもわかるように、フロイスはまだ信長自身に注目したわけではなく、京都の情勢を書き記したに過ぎない。フロイスはこの事件によって「大変大きな戦さが起こることは避けられないでしょう」とも書いている。
 伊東マンショが日向国に誕生するのは、このフロイス書簡時事の一年後の1569年。それはフロイスがはじめて信長と対面したのは二条城の普請場であった永禄12年夏(1569)と同年であった。それはつまり、折しも日本において南蛮文化が開化されようとする具体の時節である。


                      シリーズ連載・次回No.fileに続く
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