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伊東マンショの正体を科学する No.0002

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 世界は大航海時代。日本は戦国「下克上」の世。同時期にキリスト教が伝来する。織田信長の比叡山焼き討ちのころに、また室町幕府が終焉しようとするころに、日向国一円に勢力する豪族の伊東家に数奇な運命を宿す一人の男児が誕生した。
 この男児が後に天正遣欧少年使節の正使となる伊東マンショ。
 だがこの人物についての実像を記す資料は今日に乏しい。その背景には当時の混乱と錯覚とが不遇にも交錯する日本史の実情がある。つまり記録として残せない深い闇の淵に置き去られた。
 No.2631ファイル・データはこの歴史人の正体に迫る研究をシリーズ構成でつづる資料コラム。中世の街道を往来した人物との交流を織り重ねながらマンショの足跡の真相を編集する。・・・・伊東満所

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         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

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J・K・ローリング gif W300ハリー・ポッター gif W300

     ジョアン・ローリング(Joanne Rowling)という英国の女性と初めて出逢ったのは1989年の晩秋のことであった。彼女は24歳であったはずだ。
 本人は文学方面に進みたかったが、両親の希望でエクセター大学でフランス語を学び、パリ留学も経験した。在学中も多くの小説を書いたが完成までは進まず、むしろ読む方に時間を費やし、ジェーン・オースティンなどの作品を読んだ。卒業後は、ロンドンのアムネスティ・インターナショナルで秘書として働いたが、仕事にはあまり興味を見出せないでいた。
 漱太郎は当時半年ほどロンドン市内に居住していたが、散歩の途中、テムズ河畔でローリングに声を掛けている。河畔には先に彼女の人影があった。彼女はぼんやりと議事堂の北側の時計塔ビッグ・べンを見ていた。そして背後を通り過ぎようとしたとき何故か彼女は振り向いた。しかし彼女はまたテムズ川の方へ振り向き直した。
 それで素通りにも出来ず「Hello. It is always beautiful scenery. I evaluate this tradition.(こんにちは。いつも美しい風景ですね。私はこの伝統を評価します)」と言った。

 その言葉の想いには「ロンドンに来ると、世界のありとあらゆる民族の人がそれぞれの文化を保ちながらも、何の違和感もなく生活していることに気付くだろう。まさにコスモポリタンという形容がふさわしい街だ。 その一方でこの街には歴史を感じさせる建築物や記念碑のなんと多いことだろう。ロンドンは新しいものと古いもの、あらゆる民族や文化、それらがすべて混ざり合い、独自の魅力を放っている」という日頃の感想がある。特にビック・べンは、粘り強く妥協しない精神を表すように、針が刻む光の微妙な色加減一つにもこだわる英国の職人気質を発揮して見せてくれるからだ。

 すると彼女は「I am glad when it says so to a traveler.(旅人にそう言われると、嬉しい)」と言い再び振り向いた。
 そして日本人だと知ると妙に嬉しそうな顔したのだ。

 伊東マンショのことを想うとき、いつも彼女との、この出逢いを思い出すことになる。
 そのスイッチは、ポルトガルの土を踏んだとき更に「カチっ」という音を立ててオンになる。
 二度目の再会はポルトガルの北部ポルトのポルト大学内であった。
 マンショが口にしたワインの故郷を訪ねる折りに滞在したのであるが、じつに奇遇な再会となる。
 後に彼女は、J・K・ローリング(J.K. Rowling)のペンネームで、子ども向けのファンタジー小説『ハリー・ポッターシリーズ』の作者となった。
 そんなローリングの着想の中には、伊東マンショが原潜して生きている。

 ローリングは「自分の好奇心に素直に従い、自分に誠実であれ」という。そのことを伊東マンショから彼女は教えられたそうだ。

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ManCio gave me hope and a dream and gave the tale.マンショは、私に希望と夢を与えて、物語を与えてくれた)」・・・・・by J.K.Rowling

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 『ハリー・ポッター』(Harry Potter)は、イギリスの作家J・K・ローリングによる児童文学、ファンタジー小説。1990年代のイギリスを舞台に、魔法使いの少年ハリー・ポッターの学校生活や、ハリーの両親を殺害した張本人でもある強大な闇の魔法使いヴォルデモートとの、因縁と戦いを描いた物語。

 その第1巻『ハリー・ポッターと賢者の石』がロンドンのブルームズベリー出版社から1997年に刊行されると、全く無名の新人による初作であるにもかかわらず、瞬く間に世界的ベストセラーになった。子供のみならず多数の大人にも愛読され、児童文学の枠を越えた人気作品として世界的な社会現象となった。2001年から8本のシリーズで公開された映画(2011年完結)も大きなヒットを記録する。当初から全7巻の構想であり、最終巻『ハリー・ポッターと死の秘宝』の原書が2007年7月21日に発売され、そして完結した。

 さらに2010年6月には、フロリダのユニバーサル・オーランド・リゾートに、映画版のセットを模したテーマパーク:ウィザーディング・ワールド・オブ・ハリー・ポッター(The Wizarding World of Harry Potter)が開園した。

 あらすじを簡略化すると、孤児でいじめられっ子のハリー・ポッター少年は、11歳の誕生日に自分が魔法使いであることを知る。ホグワーツ魔法魔術学校へ入学し、いままで知らなかった魔法界に触れ、亡き両親の知人をはじめとした多くの人々との出会いを通じて成長する。そして、両親を殺害したヴォルデモート卿と自分との不思議な因縁を知り、対決していくこととなる。このような物語だ。

 彼女は1990年の夏に、マンチェスターからロンドンに向かう4時間遅れた列車の中で、魔法学校に通う少年ハリー・ポッター、そしてロンとハーマイオニー3人の着想が湧き、突然ストーリーを誕生させた。
 自宅に帰り、その晩のうちに書き始める。
 それは本人にとって初めての興奮する体験で、漱太郎の質問に対し、あの東洋の少年が前日の夢に現れ、その少年に導かれ、全体のイメージが湧いてきたのだと述べている。そして、その年の12月に母を難病の多発性硬化症で亡くして大きなショックを受け、その影響は執筆中だった本の内容にも及んだという。
 天正遣欧少年使節の話はその母が幼少のローリングに何度も語り聞かせた。
 そうして少年の名が「Mancio」ということも覚えた。

 はるかなる時の流れと天の配剤が創り出した東洋の少年がローマへと向かう旅は、彼女の知的好奇心と冒険心を呼び起こす不思議な空間になっている。



 現在のペンネーム「 J・K・ローリング」は、本のターゲットとなる男の子が女性作家の作品だと知りたくないだろうと心配した出版社が、イニシャルを用いるように求めたためにつけられたものである。
 ローリングはミドルネームを持っていなかったので、祖母のキャスリーン(Kathleen)にちなみ、ペンネームをJ・K・ローリングとした。最近のインタビューによると、ハリー・ポッターシリーズが終わっても作家業を続け、作家名も変えないと発言する。なお、本人がジョアン(Joanne)でなくジョー(Jo)と称するのを好むのは、子どもの時、ジョアンと呼ばれるのは怒られる時だけだったためで、これはペンネームではない。

 彼女は、イギリス南西部ブリストルの北東約15キロ、グロスタシャーにあるイェイトに住むジェームズ・ローリングとアン・ローリング夫妻の長女として生まれた。
 生まれた病院は、隣町のチッピング・ソドベリーにある。
 2年後に妹が生まれ、本人が4歳の時に家族はグロスタシャーのウィンターボーンに移り、さらに9歳の時にタッツヒルへと引っ越し、そこは「チャーチ・コテージ」と呼ばれる19世紀半ばに建てられたゴシック風の建物で、美しい庭に囲まれて成長する。近くには、自然豊かなディーンの森があった。

 そんな森の風景の中で、彼女は母から聞いた不思議な日本の少年を想ったそうだ。

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 1991年に、ポルトガルの英語教師としての職を得、ポルト在住中の1992年に結婚する。
 翌年一女ジェシカが生まれたが、夫との不和のため離婚し、1993年末にジェシカを連れて一文無しで帰国し、妹が住むエディンバラに落ち着いた。
 高校のフランス語教師になる道もあったが、二度とない機会かもしれないと考え、小説を書くことに集中した。小説が売れる前のエディンバラでの生活は、離婚後の生活苦と貧困でうつ病になり、「自殺も考えた」ことがあると明らかにする。少し過酷な出来事だが、この時の経験が、ハリー・ポッターシリーズに登場するディメンターのもととなった。
 そして何よりもポルトガルでの体験が物語の重要な鍵を創ることになる。漱太郎はその鍵を秘めたころの彼女とポルトの街で何度かお会いした。
 こうして彼女が案内してくれた美しい書店がポルト市街地にある。

 さらに、また奇遇にもこの書店が、未発見の伊東マンショに遭遇させてくれることなった。

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     辻斬りZ W50H50 gif  ② 世界で三番目に美しい書店
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         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

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     伊東マンショの肖像に関しては現在までに極数点が存在する。

     この極数点とするものは、それなりの裏付が施された肖像となる。現在までに伊東マンショの実態を調査しようとする試みは数多くあった。比較的にその動向は大正期に高い。それはモダニズムの影響による。しかし調査意識の高まりは、やはり戦後になってからであった。だがそれ以前に伊東マンショとおぼしき肖像の発掘が無かったわけではない。当研究所の把握するもので382点の肖像らしきものがある。これらは明治初期から今日までに発掘された。
 その「肖像らしきものがある」とは、真意が否定されるモノではない。大半は物的な存在は確認され相応の鑑定は行われているが、時代性や社会性と適合し、入手経路や保管実態、発掘の動機、制作時の動機・目的、制作主体者の明確、製作者の技法・実績などの鑑定項目に、未だ鑑定時間を要するものである。つまり製作者はマンショを描写したが、モデルがマンショではないというケースもあり、経過した時間外の検証における困難な実情がここにある。おそらく上記382点の内相当数は確証を得るまでに相応の検証時間が必要だ。

 近年に発掘されたものは、2005年の、16世紀に九州のキリシタン大名が送った天正遣欧少年使節の代表伊東マンショらの可能性の高い肖像画2枚を、当時のローマ法王グレゴリウス13世の子孫が所持していることがわかった。バチカンで同法王に謁見(えっけん)し、欧州各地で歓迎された同使節だが、実像を伝える史料は少ない。歴史の真相を研究する上で、これは非常に貴重な発見だといえる。

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 保管していたのはローマ在住のパオロ・フランチェスコ・ボンコンパーニ・ルドビジ公爵。現在の「グレゴリオ暦」の採用で知られるグレゴリウス13世(在位1572~85)が聖職者になる前にもうけた息子の子孫だ。邸宅の古い本にはさまっていたという。公爵は「遠い東洋の国からバチカンを訪れた天正少年使節がグレゴリウス13世に謁見した話は、わが家でも誇りとして代々伝わっている」と話す。つまり、これにしても口伝の域にある類の恣意を含むものでもあり、確証とするには課題解決が残されている。

 肖像画は2枚あり、1枚はえり付きの服の上に和服を着た少年。これは「マンティオ師 ブンゴの王の使節 ローマ法王グレゴリウス13世、1585」などと書かれており、豊後(ぶんご)のキリシタン大名だった大友宗麟の名代だったマンショとみられる。 みられる、であるから断定でない限り確証ではない。
 もう1枚は聖職者の格好で「ディエゴ・メスキート神父 日本からのインド人を引率した人物」などと書かれ、少年使節の教育係役だったイエズス会員メスキータ神父とみられる。ここも同様だ。

 いずれにしろ描かれた時期などの確認に調査が必要だが、少年たちが謁見の際、首や足が出るのは不敬になるとして和服の下にシャツとズボンをはいた、これは史実とも一致する。法王お抱えの画家が油絵用に描いたものの、謁見後20日足らずで法王が急死したため下絵のまま残った可能性があるとも考察できる。しかし、これは示唆させる視点資料に過ぎない。可能性と表現さるのは、やはり課題が残されている。

 翌2006年、長崎県は、昨年ローマで発見された天正遣欧使節の1人、伊東マンショの肖像画(天正13年=1585=制作)と、使節をローマへ引率したメスキータ神父の肖像画(同)=何れもデッサン=など、肖像画4点を購入した。「伊東マンショ肖像画」は、木炭でデッサンした後、チョークで淡い彩色が施されている。これまで知られていた同使節の肖像画と比べ、写実的に描かれているのが特徴だ。
 発見し購入しいたとするが、真作であればそれは正しい。中世とは地球上が流動化する時代。それは一筋の川の流れではない。つまりいずれが川下か川上かも判然としない時代だ。作為や意図は混沌とする。これは今後、残された課題をどうクリアーするかが期待される肖像である。

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 2006年に長崎県が購入した肖像をマンショだと鑑定されるのに、疑問が全て払拭されるものではない。頭髪の部分を何故短髪に刈り上げたのか。この明確な理由を証明できない問題がある。重要な課題が残された。これは解明されない以上、やはり疑問となる。元結は当時の日本人たらしめる象徴である。日本を代表する象徴を何故断髪して使者とさせ立てたのかは、それなりに然るべき仔細の解説が必要だ。

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        支倉常長

 慶長遣欧使節は慶長18年(1613年)に仙台藩主伊達政宗がフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを正使、支倉常長を副使として、エスパーニャ帝国(スペイン)の国王フェリペ3世、およびバチカンのローマ教皇パウルス5世のもとに派遣した使節である。この時期はマンショが長崎で病死するころで、時代性は近い。上の写真は、欧州における報告書に描かれた支倉常長の肖像。「Faxicura」との記載がある。そして日本の士族を象徴させる元結は描かれた。

 一方、下記の肖像のように、1997年にポルトガルにて発掘し、今日までに十数年を費やし鑑定をし続けている肖像画がある。このフラスコ画は、画そのものの真贋はもとより、歴史実態の整合性を含め精査中・未発表の肖像画である。史実上の見落としはないか慎重な鑑定を進めている。日本画のように柔らかく繊細に描かれているが、当時のスペイン人画家によるマンショの肖像。これには日本人の実情を踏まえ元結がある。

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                      1997年にポルトガルで発見した伊東マンショの肖像画

 さて上の肖像を発掘した経緯を述べるために、引き続きポルトの歴史地区について深層をめぐる。

 ポルトは、ポルトガル北部の港湾都市。人口約263,000人。
 リスボンに次ぐポルトガル第二の都市。同国屈指の世界都市であり、ポルト都市圏では、人口は約160万人を数える。市街地は大西洋に流入するドウロ川北岸の丘陵地帯に築かれ、河口に近い。ドウロ川にはドン・ルイス1世橋など4本の橋が架けれている。リスボンの北300キロに位置し、そしてポルトガル北部の中心地である。

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ポルトの景観 1 W600


 ポルトの創設は5世紀より以前にさかのぼり、ローマ帝国時代からの港町ポルトゥス・カレ(ラテン語でPortus Cale、「カレの港」の意)に起源をもつ。だが、ローマ以前のケルト文化の名残であるシタデルも市外の中心にも残存している。ローマ時代の周辺をコンダドゥス・ポルトカレンシスといい、ここに成立した王国が、ポルトガル王国となった。ポルトガルの名はこれに由来する。

 国名自体に(そしてポルト ワインにも)その名前が使われているポルトは、リスボンに次ぐ規模を持つポルトガル第2の都市だ。オポルトとも呼ばれ、古い歴史を持つこの都市には、工業が発展した今でも過去の面影がくっきりと残っている。リベイラを中心とする旧市街はドウロ川を望む丘の上にあり、現在はユネスコの世界遺産に登録されている。主な観光スポットとして、14世紀に建てられたサン フランシスコ教会があるほか、聖グレゴリウス聖堂、大聖堂、ポルサ宮、そしてほとんどがヴィラ ノヴァ デ ガイアの川の対岸にあるポルト ワインのワイン蔵も名所である。


大きな地図で見る

 そのポルトの街の高台へと訪ねる。
 グレリゴス教会の坂を歩きながら行くと一軒の古い屋敷が佇んでいる。
 名をレロ・イ・イルマオン(Livraria Lello e Irmao)という。
 この建物こそ、地元ポルトの人々が、小さいけれどもヨーロッパで一番美しいと自負する書店だ。

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 ポルト大学の近くにあるこの小さな書店。白く、装飾の美しい外観は通りの中で特に目を引きつける。数多くの観光客が出入りし、店員さんの「No Photo!! NO Photo, please!!!」の声が飛んでいるので、一瞬、何のお店だか分からなくなってしまいそうな書店である。

 この、レロ・イ・イルマオン書店は、世界の美しい書店ランキングの常連として有名。間口の狭い店の中心に、アール・ヌーヴォースタイルの美しい木製の階段があり、2階は天井のステンドグラスから射す光が心優しい。

 レロ・イ・イルマオン(Libraria Lello e Irmão)」は、日本語だと「レロと兄弟書店」となる。ただし、ここはただの古い本屋ではない。建物自体も世界遺産に登録されており、そのネオゴシック・スタイルの建物に足を踏み入れると、レトロなインテリアの数々が出迎えてくれる。二階に続く複雑な曲線を描く階段は「天国への階段」と呼ばれる独特のものだ。そして天井のステンドグラスが、店内を照らしている。

 こうした重厚な雰囲気から、専門書ばかり扱っているのでは?と思いがちだが、新しいガイドブックやレシピ本もそろう現役の書店なのだ。この書店が、2008年にイギリス新聞による「The world’s 10 bset book shops」で第3位に選ばれた。

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 実はポルトガルのポルトにあるこの「レロ・イ・イルマオン書店」は、映画ハリーポッターのロケ地として有名である。作者のJ・K・ローリング氏は英語教師として2年間この街に滞在していたからだ。一歩店内に入ると、そこはまるで映画『ハリーポッター』の世界観そのものである。

 1869年創業のこのお店は、ポルトガル・北部の港湾都市ポルトにあるが、創業当初の場所から1906年にのカルメリッタス通り沿いに移転して以来、現在も営業を続けている。外観の印象からでは、内部の雰囲気をつかむことはできないが、しかし一歩店内に入ると、そこはまるで映画『ハリーポッター』の世界観そのものなのだ。実際に作品の撮影も行われた。



 1995年、J・K・ローリングから見定めて欲しい肖像画があるという。
 ローリングの連絡では「あれは天正遣欧使節のような気がします」との内容であった。そして案内されたのがレロ・イ・イルマオン書店の二階奥にある壁面である。

 しかし現地で簡易の検分を行ったが、壁面に架けられた肖像画はレプリカであった。だが描かれている人物は、少年使節4名の内いずれかであることは直感した。そのため以後、このレプリカの経緯を調査し、原画の行方を追うことになる。

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 それでは肖像原画の発見に至る道程を要約する。

 この原画の発掘調査および鑑定研究には、グルベアンキン美術館とボストン美術館の連帯した共同学芸技術チームが構成された。
 グルベンキアン美術館は、リスボンにあるアルメニア人の石油王カルースト・グルベンキアンが世界各国より個人で集めた6,000点ほどの美術品を所有している美術館で、グルベンキアンの死後、1969年に彼の遺言に従いグルベンキアン財団によってオープンした。
 カルースト・グルベンキアンのモットーは「1番いいものだけ」だったと言うだけあり、ルーベンスのヘレナの肖像、ディーリックの受胎告知をはじめ、モネ、レンブラント、ターナー、ルノワールの作品など世界的に有名な美術品がたくさんある。また、エジプトの彫刻などの古代美術から現代美術まで、幅広いコレクション(日本の浮世絵なども展示されている)が楽しめる。
 またボストン美術館 (Museum of Fine Arts, Boston)は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストン市にある、世界有数の規模を誇る美術館である。所蔵品は50万点を数え、「古代」、「ヨーロッパ」、「アジア、オセアニア、アフリカ」、「アメリカ」、「現代」、「版画、素描、写真」、「染織、衣装」および「楽器」の8部門に分かれる。エジプト美術、フランス印象派絵画などが特に充実している。またボストン美術館は、仏画、絵巻物、浮世絵、刀剣など日本美術の優品を多数所蔵し、日本との関係が深いことでも知られる。20世紀の初めには、岡倉天心が在職しており、敷地内には彼の名を冠した小さな日本庭園「天心園」が設けられている。

 このように両美術館は日本美術に精通した歴史ある学芸関連技術を保有する。

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           グルベアンキン美術館                     ボストン美術館

 調査の進展におよび、ポルトの老舗ホテル「Grande Hotel do Porto グランデ・ホテル・ドポルト」が原画を一時期展示していた情報を収集した。
 このホテルと原画との関係は極密接であった。

                  Grande Hotel do Porto グランデ・ホテル・ドポルト 1

 ホテルはSão Bento駅から徒歩5分の、ポルト中心部の歩行者ゾーン内に位置する。屋上テラス、ポルトガル料理を提供するアラカルトレストランを併設。ロマンチックな雰囲気のD. Pedro IIは、かつてのダンスホールを改装したレストランだ。地元の食材を用いた本格的なポルトガル料理を提供する。またWindsorバーではドリンクが楽しめる。位置的にバスと地下鉄のBolhão駅に近く、Serra do Pilar修道院へは徒歩10分で、フランシスコ・サカルネイロ空港から15kmほどである。
 ホテルマンの対応や、ホテル内の共同スペースの調度品、シガールーム、バーなどは確かに伝統の雰囲気。そこで、さすが老舗ホテルと感じたのは廊下に飾られた著名人のサインを眺めていた時だ。そこにはサッカーのロベルト・カルロス選手の名前、さらにポルトガルの誇る映画監督マノエル・ド・オリヴェイラ監督の名前が認められた。尚、スイートルームの部屋の名前が「MANOEL OLIVEIRA」とされている。

 GRANDE HOTEL DO PORTO


 オリヴェイラ監督はポルト出身なのだ。
 この映画監督マノエル・ド・オリヴェイラが原画の所有者である。

 鑑定医の精査によると、製作者は「ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez,)」であることが判定された。ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケスはバロック期のスペインの画家である。あのマネが「画家の中の画家」と呼んだベラスケスは、スペイン絵画の黄金時代であった17世紀を代表する巨匠だ。
 しかし制作時期の精査において多くの時間を費やした。

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                     Diego Rodríguez de Silva y Velázquez,
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         「アラクネの寓話」は1657年頃に描かれた、功成り名遂げたベラスケス、晩年の作。


 ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケスは、1599年6月6日(洗礼日)~1660年8月6日)の画家である。モデルとされる伊東マンショは、1569年~慶長17年10月21日(1612年11月13日)とされる。天正少年使節がリスボンの土を踏むのが、1584年8月10日(天正12年旧暦7月5日)。これは画家ベラスケスが誕生する以前の出来事になる。よって生まれてもいないベラスケスが制作を可能とするはずがない。不可思議なことが起きた。

 しかしベラスケスには肖像画制作に因む自筆の記述が残されている。彼がゴアを経由してマカオまでを描く旅行記である。そのなかで彼は「Conocí al joven de oriente. Apreté el dibujo para su cifra por el método inconsciente. Era un mensajero japonés. España fue visitado una vez y estaba bendecido por el rey. Un nombre es llamado Mansho. Era un joven sabio.私は東洋の青年に会いました。私は無意識の方法で彼の姿を図面に引きました。彼は日本のメッセンジャーでした。スペインは以前に訪れ国王より祝福された。名前はMancioと呼ばれます。彼は賢明な若者でした)」と記している。この記録は4歳のベラスケスが父に連れられて旅したマカオでのものだ。

 伊東マンショはローマから帰国後、慶長6年(1601年)には神学の高等課程を学ぶため、マカオのコレジオに移った(この時点で千々石ミゲルは退会)。慶長13年(1608年)、伊東マンショ、原マルティノ、中浦ジュリアンはそろって司祭に叙階される。ベラスケスの記録と伊東マンショがマカオにいた時期が符合する。

 どうやらディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケスは、4歳で素描写した構図を後に清書した可能性が高い。現在、この精査研究は続行中である。

 修業時代のディエゴ・ベラスケスは、生涯隠していたが、コンベルソの家系(ポルトガルから来た父方の祖父がコンベルソ)であった。スペイン南部の都市セビリアに生まれ、11歳頃に当地の有力な画家であるフランシスコ・パチェーコに弟子入りする。6年後の1617年、18歳のときに独立し、翌1618年には師匠であるパチェーコの娘であるフアナと結婚した。17世紀のスペイン画壇では、厨房画(ボデゴン)と呼ばれる室内情景や静物を描いた絵画が多く制作されたが、宮廷画家になる前のベラスケスもこの厨房画のジャンルに属する作品を描いていた。『卵を料理する老婆と少年』(1618年)などがその代表作である。1622年には首都マドリードへと旅行した。

 どの時期に肖像画が清書されたのかは、ベラスケスの技法・画風の成立過程から判断して17~8歳の彼が画家として独立したころの作、という鑑定結果が現段階で得られている。これに準ずると、制作時期は1616年~1617年、マンショが長崎で病死後4~5年の作品となる。

 コンベルソ(converso)とは、スペイン語でユダヤ教からカトリックへの改宗者を指す。
 ディアスポラによってヨーロッパ各地に散ったユダヤ人のなかでも、最も多くのユダヤ人が向かったのが南フランスからイベリア半島南岸にかけての一帯であった。
 この地域に展開したユダヤ人たちをセファルディムと呼ぶ。イベリア半島のセファルディム政策は西ゴート王国時代から後ウマイヤ朝、レコンキスタ期の間に排撃と受容の間を揺れ動いたが、12世紀以降、カスティーリャ王国ではセファルディムの政治力・経済力をレコンキスタに利用する政策が続いた。
 しかし15世紀後半、レコンキスタの完了が近づくと、カスティーリャ女王イサベル1世とその夫のアラゴン王フェルナンド2世はイスラム教徒に代えてセファルディムを排撃の対象に設定する。
 これはアラゴンとカスティーリャという異質な国家を統合するための政策であった。一方、ユダヤ人共同体内部でも、政権中枢に入り込んでいた有力ユダヤ人たちは次々にキリスト教に改宗してコンベルソとなっていった。この背景には、キリスト教の王権と深く結びついて利権を確保している有力ユダヤ人たちへの、ユダヤ人共同体からの批判的な視線があった。
 こうしてコンベルソとなった家からは、スペイン異端審問所(カトリック教会が設置していた伝統的な異端審問所とは異なる組織)の初代大審問官であるトマス・デ・トルケマーダ、あるいは17世紀前半のスペイン王国宰相オリバーレス伯爵ガスパール・デ・グスマンなども出ている。
 しかし、そうした有力なユダヤ人の家を除けば、キリスト教に改宗しつつもユダヤ教の宗教規範を守り続ける者、あるいはより積極的にユダヤ教を信奉する者(フダイサンテ)など様々であり、スペイン異端審問所の厳しい追及の対象となった。スペインはフダイサンテ狩りにコンベルソを多く利用した。

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                         マノエル・ド・オリヴェイラ


 『ポルトガル、ここに誕生す ~ギマランイス歴史地区』4監督がポルトガルの古都描くオムニバス作品。
 2013年9月からシアター・イメージフォーラムほか全国で順次公開上映作品:
                『バーテンダー』(監督・脚本:アキ・カウリスマキ)
                『スウィート・エクソシスト』(監督・脚本:ペドロ・コスタ)
                『割れたガラス』(監督・脚本:ビクトル・エリセ)
                『征服者、征服さる』(監督・脚本:マノエル・ド・オリヴェイラ
                                     配給:ロングライド



 そして伊東マンショの原画を所有する映画監督マノエル・ド・オリヴェイラ氏もコンベルソの末裔なのだ。
 彼の名は、日本ではかつて「マノエル・デ・オリヴェイラ」と表記されていたが、ポルトガル語では「e」が無音になるため、『クレーヴの奥方』(日本では2001年公開)以後は「ド」に変更されて紹介されている。また、「マヌエル」の表記も用いられてきたが、本人の希望は「マノエル」である。
 若い頃は俳優を志し、スペインやイタリアで学んだ。
 監督デビューは23歳と早かったが、本格的かつ定期的に作品を創り上げるようになったのは60歳を過ぎてからである。その後、幾度かの監督業休眠期間を経て、63歳の時に撮った『過去と現在 昔の恋、今の恋』(1971年)以降、再び映画の演出を開始、1980年代に入り70歳を過ぎてからは1年に1作に近いペースで新作を撮り続けている。
 2006年、97歳の時に『夜顔』を撮り上げた。2007年の第60回カンヌ国際映画祭オムニバス映画『それぞれのシネマ』に参加、3分の短篇を撮る。2007年『コロンブス 永遠の海』を、2009年『ブロンド少女は過激に美しく』を監督。『ブロンド少女は過激に美しく』の撮影中に100歳の誕生日を迎えた。その後2010年の新作『O Estranho Caso de Angélica』を撮り上げ、さらに新作の撮影にとりかかっている。

 マラーノ(Marrano)と称する蔑視用語がある。
 このマラーノとは、スペイン語で豚、もしくは汚らしい人を示す言葉だ。歴史的な用語としては、かつてスペインにおいて、コンベルソと呼ばれたキリスト教に改宗したユダヤ人のことを、侮蔑的にマラーノと呼ぶことがあった。ザビエルが日本にキリスト教を伝えて以来、数多くのイエズス会宣教師やポルトガル商人が日本にやってくるが、その多くの人々がマラーノ(コンベルソ)であった。

 例えば、ルイス・デ・アルメイダ(Luís de Almeida)がそうである。
 彼はポルトガルの商人であったが、医師の免許を持ち、西洋医学を日本に導入して日本初の病院をつくったことで知られる。来日後にイエズス会員となった。
 アルメイダは、1525年ごろリスボンでユダヤ教からカトリックに改宗したコンベルソの家庭に生まれた。1546年ポルトガル王から与えられる医師免許を取得したあとで、世界雄飛を夢見てゴアからマカオに渡った。そして1552年貿易目的で初来日。やがて日本とマカオを行き来して多くの富を手にする。

ルイス・デ・アルメイダ 5 W400H220     ルイス・デ・アルメイダ 2 W160H220
            アルメイダ病院の胸像(大分市内)                  スペインで発見された肖像

 上の写真は左右ともルイス・デ・アルメイダ。左は病院設立の趣旨を記念して日本で造られた胸像であり、右は映画監督マノエル・ド・オリヴェイラ氏がスペイン・マドリードで発見し所有する肖像画である。肖像とは芸術性が加わると自在に変貌することが見てとれる。

 山口でアルメイダはイエズス会宣教師コスメ・デ・トーレス神父に会う。彼はフランシスコ・ザビエルの事業を継承して日本で布教を続けていた。
 アルメイダは宣教師たちとの出会いを通して、思うところがあり、豊後府内(大分県大分市)にとどまり、私財を投じて乳児院を建てた。これは当時の日本で広く行われていた赤子殺しや間引きの現実にショックを受けたからであるとされている。
 さらに豊後府内の領主であった大友宗麟に願って土地をもらいうけ、1557年に外科、内科、ハンセン氏病科を備えた総合病院を建てた。これが日本初の病院であり、西洋医学が初めて導入された場所である。また、大分において「ミゼリコルディア」(ポルトガル語:(Santa Casa de )Misericórdia 「憐れみ(の聖なる家)」)といわれるキリスト教徒の互助組織を発足させた。
 南蛮貿易の中心地であった平戸の領主はキリスト教に不寛容であり、日本初のキリシタン大名となった大村純忠の領地横瀬浦に貿易港が移されたのは1563年である。
 しかし純忠に反抗する勢力によって横瀬浦は焼き払われた。トレス神父は純忠と相談の上アルメイダを長崎に送った。領主の長崎甚左衛門は既に受洗しており、純忠の娘婿であった。
 1567年にアルメイダは長崎に基督の福音を伝道して会堂を開いた。彼は日本の教会の頭となる長崎の教会を始めただけでなく、長崎開港の扉をも開いたのである。
 1571年貿易の為に長崎の町が建設され、ポルトガル船が入港した。1580年長崎はイエズス会領となり、以後キリスト教と南蛮貿易の中心地として繁栄した。
 そのアルメイダは島原、天草で布教し、多くの信者を得た。亡くなる4年前ようやく修道士から司祭に昇格し、天草全島の責任者となった。1583年10月、彼は天草河内浦で逝去する。彼が天草で他界する一年半ほど前、1582年2月20日(天正10年旧暦1月28日)に遣欧少年使節は長崎港を出港した。


 イベリア半島の北部に追いやられたキリスト教徒は、イスラム勢力から領地を奪い返そうとする。それがレコンキスタ(ポルトガル語ではレコンキシュタ)。この運動は9世紀から始まるが、イベリア半島からイスラム勢力が駆逐されるまでには700年程かかった。
 その間、イスラム勢力は宗教には比較的寛容で、税金を納めればキリスト教徒、ユダヤ教徒はイスラム教徒と共存することができた。その間、ユダヤ人は社会の重要な位置を占めるようになり、特に金融の面で才能を発揮する。そしてえ12世紀他のイベリア半島の地域より早くレコンキスタを達成したポルトガルは王国として独立する。15世紀レコンキスタが完了し、スペインは異端審問所を開設し、ユダヤ人達は異端審問所のなかったポルトガルに移住して行った。実にポルトガルの人口の10%の割合に達し、キリスト教徒と摩擦を起し始める。
 16世紀(ブラジル発見と同時期)ジョアン三世は異端審問所を開設、マヌエル一世はユダヤ人を強制的にキリスト教に改宗させた。これが新キリスト教徒であるが、差別が残り「マラーノ(豚)」と呼ばれるようになる。
 すでに海洋帝国になっていたポルトガルにとってはユダヤ人の富が貢献していたのであるが、なんとポルトガルは改宗しないユダヤ人達を追放しようする。
 そして多くは比較的宗教に寛容だったオランダに逃れ、追放されたユダヤ人は財産を没収された。それとともに交易の中心はオランダに移って行く。
 ユダヤ人には大きく分けて、ユダヤ教を国教としたハザール王国の末裔出身のアシュケナージと、北アフリカやスペイン在住のスファラディとに別れる。比率はアシュケナージが9割、スファラディが1割。しかし両者とも様々な差別や圧迫があった。また古くから「ユダヤ陰謀説」流布されていた。そうしてそれを最大限に利用した人物こそアドルフ・ヒトラーなのであった。

マノエル・ド・オリヴェイラは語る
 肖像に関する情報を得るため何度も監督にはお会いした。マノエル・ド・オリヴェイラの脳裏では、マンショの肖像と、アルメイダの肖像とは結び合わされいる。
 彼は「マラーノ(Marrano)を理解しないと、中世はわからない。当時は宗教を軸にして世界が動いた。その表面と裏面でマラーノの動向が影響をあたえる。私が想像する伊東マンショは、東洋から来たアルメイダのようだ。ふたりは何もかも違うが、何もかも同じだ。マンショはアルメイダを鏡写しに見せてくれる」と語る。

Trailer O ESTRANHO CASO DE ANGÉLICA PT   アンジェリカの不思議な事件(2010年)


Cristóvão Colombo - O Enigma コロンブス 永遠の海(2007年)


 マノエル・デ・オリヴェイラ監督が、ポルトガル人のはるか海の­彼方へのあこがれを描いた壮大な歴史探索物語。過去から続くポルトガル人の海へのあこがれと郷愁が心­地良く胸に響く。

マノエル・ド・オリヴェイラ 2 W600
 「コロンブス 永遠の海」の一場面
 ポルトガルが世界の大国へと上りつめた大航海時代、人々は何を想い、何を求めて、果てしない海へ向かったのか。この映画は「新大陸発見」で知られるコロンブスの謎を追い、旅をする夫婦の絆の物語。
監督:マノエル・ド・オリヴェイラ
撮影:サビーヌ・ランスラン
美術:クリスチャン・マルティ
音楽:ジョゼ・ルイス、ボルジェス・コエーリョ
出演:リカルド・トレパ、レオノール・バルダック、マノエル・ド・オリヴェイラ、マリア・イザベル・ド・オリヴェイラ他
2007年/ポルトガル・フランス/ポルトガル語・英語/75分/カラー

 これは巨匠オリヴェイラ監督が、大航海時代の偉人コロンブスの出生の謎をとおして、ポルトガル人の海の彼方への憧れを描いた話題作。

 「新大陸の発見」で知られるクリストファー・コロンブス(1451~1506)は、イタリア人ともスペイン人ともいわれ、その出生は謎とされていた。
 そして没後500年にあたる2006年に「コロンブスはポルトガル人だった」とする新説がマヌエル・ルシアーノ・ダ・シルヴァという歴史研究者によって発表された。

 映画『コロンブス 永遠の海』は、研究者である彼が妻とともに、コロンブス生誕の謎を追った半世紀にわたる旅をとおして、ポルトガル人固有の海の彼方への憧れ、ロマンティシズムを描いている。
 夫婦は、ポルトガルからアメリカ大陸への歴史探求の旅で、コロンブスへの想いを深めてゆく。――エンリケ航海王子やヴァスコ・ダ・ガマが海を渡り、ポルトガルが世界の強国へと上りつめた大航海時代、人々は、何を想い、何を求めて、果てしない海へとむかったのか。そしてあのコロンブスは、本当に、彼らポルトガルの偉大なる旅人たちの一人だったのか。

 100歳を過ぎて、みずみずしい感性を失わないポルトガルの巨匠マノエル・ド・オリヴェイラ監督は、2006年の新説に触発されて、本作の構想をふくらませた。そして彼独特の映画的技法によって、ポルトガル人の精神、サウダーデ(郷愁)の感情を明らかにしていく。

 マノエル・ド・オリヴェイラ監督は、1908年ポルトガル・ポルト市生まれ。
 1931年の短編ドキュメンタリー『ドウロ河』が監督第1作。
 無声映画時代から今日まで、特に80歳になってからは、ほぼ1年に1作という驚異的なペースで新作を発表し続けている。2008年カンヌ国際映画祭では、生涯功労賞が授与された。現在、世界の映画人に最も尊敬されている世界最高齢の映画監督である。(2013年7月現在104歳)

 この『コロンブス 永遠の海』は、オリヴェイラ監督の名人芸ともいえる作品である。またポルトガル人のアイデンティティともいうべき、海に対する思いに、シンプルかつ自在な映像表現によって迫った、オリヴェイラ監督の到達点ともいえる。
 若き頃の主人公夫婦はオリヴェイラ監督の孫であるリカルド・トレパ(『夜顔』『家路』)と、オリヴェイラ作品のミューズであり、アグスティーナ・ベッサ=ルイス(『アブラハム渓谷』『家宝』の原作者)の孫娘レオノール・バルダックが演じている。
 また、老年時代を演じているのは、オリヴェイラ監督自身とマリア・イザベル夫人である。本作は長い旅を続けることで愛情を深めていく作中の夫婦と、結婚70周年を迎えようとしているオリヴェイラ夫妻が重なり合い、織り成された、夫婦の絆の物語でもある。
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     辻斬りZ W50H50 gif  ③ 肖像から蘇る伊東マンショの正体
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         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

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     プロファイリングは万能薬ではない。
     プロファイルによって解決された歴史の真相などひとつもない。だからどれほど優れたプロファイルについても過大な評価をしてはならない。プロファイルとは現実の理論だからだ。非現実の中にこそ歴史の真相は秘められている。そうかんがえると、痕跡をもとに真相の割りだしを行うのが正確である。
 復顔法とは、頭蓋骨をもとに生前の顔を復元するという技法。
 そのためには、頭蓋骨を構成する要素を収集する。似顔絵および肖像がその要素となる。前述したが当研究所の把握するもので382点の肖像らしきものがある。これらは明治初期から今日までに発掘された。その内、信憑性の高い100点を厳選し特性を分析する。この要素で頭蓋骨を復元するのであるが、現在そうした精査研究を行っている。
 
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                      シリーズ連載・次回No.fileに続く
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