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ひとひらの書 第10話 『日本橋』 下

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      A 7 gif   第10話・・・『 日本橋    

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      A 15 gif ひとひらの書 第4 日本橋 鏡花




      泉鏡花といえば何といっても小村雪岱(せったい)である。二人のコンビネーションは先ずもって絶妙だ。後世においても尚、二人のコンビは美妙なのである。
      後編はこの雪岱から語り始めたい。
      小村雪岱は明治42年(1909年)に、東京美術学校日本画科を卒業した。
      在学中、下村観山、のち松岡映丘(まつおかえいきゅう)に師事する。
      その師の松岡だが、播磨北部の神東郡田原村辻川という旧家に生まれた。現在の兵庫県神崎郡福崎町辻川である。この旧家・松岡家に、世にいう「松岡五兄弟」がいる。映丘の兄には医師の松岡鼎、医師で歌人・国文学者の井上通泰(松岡泰蔵)、民俗学者の柳田國男、海軍軍人で民族学者または言語学者の松岡静雄がいた。映丘は末子になる。後に大和絵の復興運動を展開した。

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      まつおか 松岡映丘 5兄弟         まつおか 松岡映丘 1
      松岡五兄弟。後列左が若き日の松岡輝夫(映丘)、後列右が柳田國男、前列右から、松岡鼎、松岡冬樹(鼎の長男)、鈴木博。(1897年前後の撮影)

      まつおか 宇治の宮の姫君たち W500H243
      宇治の宮の姫君たち 松岡映丘筆 大正元年(1912年)

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      雪岱はその松岡から古画の模写、風俗考証を学ぶ。東京美術学校日本画科を卒業した同年の夏に福岡医科大学の久保猪之吉(くぼいのきち)が上京してきて、夫人とともに駿河台の宿屋に泊まった。
      日本国内に相当の宿屋があるだろうが、人の出逢いという一期一会の神業をこれほどすんなりと企てた宿屋はそうざらにあるものではない。
      雪岱は駿河台のこの時、歌川豊国(うたがわとよくに)の絵の模写を頼まれていた。雪岱がそれを届けに宿屋へ伺うと、久保猪之吉は外出しており夫人が応じた。
      こうして初めて久保と雪岱をつないだのが松岡映丘であった。

                            くぼ 久保猪之吉 1
                                久保猪之吉

      そこへ宿屋の女中が「泉先生の奥様がお見えになりました」と告げに来たというのだ。
      久保夫人(より江)と泉鏡花夫人(すゞ子)は昵懇(じっこん)であったようで、「明日は鏡花本人もここにお邪魔します」という言葉を聞いて、すでに鏡花の小説を愛読していた雪岱は、再びその宿屋を訪れた。
      鏡花が、たしか「白鷺」を執筆中のころだ。
      このようにして雪岱は、小柄で、ちょっと勝気な美女が男装したような感じのする鏡花と巡りあったのであった。雪岱という雅号を与えたのが鏡花である。
      じつは久保猪之吉は鼻や耳に関して優れている。わが国最初の耳鼻咽喉科講座を開設したこともあるが、ある時、老齢で耳が遠くなった自由党総裁の板垣退助が診療を受けるため来院した。
      旧二本松藩士・久保常保の子として出生するが、その久保の一族には、戊辰戦争で板垣の率いる軍兵に殺傷された者がいたことから、どんな気持ちで迎えたのであろうか。その逸話がある。
      診察を終えた久保は開口一番に「この耳はもうダメだなあ。年が年だから」と言うと板垣は大きな声で「バカを言うな。俺には昨年子供ができた。まだ若い」と反発した。すると、すかさず「それは、最後に老化するところだ」と突っぱねたところ、板垣は「う~む」とうなっただけで引き上げ、周囲からは「さすが、イノ・クボ」と笑いが起こったという。
      その久保の小学校時代は、いつも背中に幼い弟を背負い手には教科書と紙片、そして短くなった鉛筆を持ち勉強に励んだと伝えられる。
      そうした久保の自宅がいわゆる久保サロンで、大正から昭和の初期にかけて、より江夫人と共に、福岡の文化の向上に尽くしている。より江夫人は俳人として著名で、正岡子規(まさおかしき)や夏目漱石、高浜虚子(たかはまきょし)、泉鏡花に可愛がられ、歌人の柳原白蓮(やなぎわらびゃくれん)や、俳人の竹下しづの女たちと親交があり、久保サロンの主であったのだ。
      久保より江がつまり、鏡花と雪岱とを結びつけた。
      こうした最初の橋渡しをしたのが師の松岡映丘ということだ。

                        まつおか 柳沢びゃくれん
                                 柳原白蓮

      柳原白蓮は歌人。本名は燁子(あきこ)。大正三美人の一人である。
      姦通罪のあった男尊女卑のこの頃、道ならぬ恋は命がけだった。その白蓮を語ると長くなる。恋多き女性の道は波乱万丈なのだ。ともかくも彼女は久保サロンの一員であった。
      長くなる、だが鏡花を語るには大正三美人の一人なのだから外せない。少しだけ述べてみる。
      大正三美人とは、九条武子・柳原白蓮・林きむ子、または九条武子・柳原白蓮・江木欣々をいう。
      白蓮の父は柳原前光伯爵。前光の妹は柳原愛子、大正天皇の生母である。
      ゆえに燁子(白蓮)は大正天皇のいとこにあたるのだ。
      前光は屋敷に正妻と妾を同居させた上、外にも芸者おりょうを囲っていた。おりょうが女子を生んだ時、子供のできない妾がこの娘を引き取って正妻に対抗しようとした。そこで正妻はそれを防ぐためにその娘を引き取ることになった。それが燁子である。
      前光の弟は跡継ぎのなかった北小路随光子爵の養子となっていた。
      ところが随光と女中との間に息子資武が生まれたので養子縁組は解消された。
      その代わりとして北小路資武と柳原燁子を結婚させることに決まった。
      燁子は華族女学校の途中で資武に嫁いだが、貧乏公家華族の北小路家は生活に困窮して京都に転居した。長男功光が生まれたが舅姑に取り上げられ、夫も女中に手をつけていた。結局結婚5年で燁子は子供を置いて逃げるように夫と離婚した。
      後に息子功光が語っている。
      「燁子は文学少女でわがままで亭主が気に入らないときている。5歳の私を置いてさっさと実家へ戻ってしまった」と。
      しかし母は妾の子燁子を実家に受け入れる気はなかった。24歳で東洋英和女学校に入学して寄宿舎に入った。ここで燁子は慈善事業に興味を持った。
      兄嫁が九州の炭鉱王伊藤伝右衛門との再婚を提案する。
      鉱夫から百万長者にのし上がった52歳の男だった。27歳だった燁子は慈善事業に協力してもらうという条件をつけた。伝右衛門が無教養の成り上がりで25歳の年齢差のあることを承知で再婚したのである。
      功光が再度語っている。
      「柳原家が大金の結納金に目がくらんで燁子を伝右衛門と結婚させたように言うけど、ありゃ嘘だよ。柳原は豊かだったよ」と。
      筑前の本邸、博多のあかがね御殿、別府の別荘・・・、
      豊かな環境に囲まれて筑紫の女王と呼ばれた。
      しかし、主婦の実権は伝右衛門の妾である女中頭が握っており、屋敷の女中たちも伝右衛門のお手つきであった。伝右衛門は燁子を床の間の飾り物のように扱い、約束した慈善事業の援助もしなかった。そして機嫌が悪いと暴力をふるい、性病も移した。
      燁子は心の鬱屈を歌にぶつけた。
      そんな燁子の前にはいろいろな恋の相手が現れた。医学博士の久保猪之吉、妻子があったので白蓮のその気持ちには応えなかった。陸軍中尉の藤井民助、燁子は彼に恋文を送り続けるが、姦通罪を恐れた藤井は彼女の気持ちに応えなかった。
      そして、東京帝大法学科の学生宮崎龍介28歳がいた。
      父は孫文の辛亥革命を支援した宮崎滔天である。燁子は帝大法科新人会が主宰する雑誌『解放』に戯曲を連載していた。これを担当したのが編集部にいた龍介だった。この戯曲を単行本にするため龍介は別府の燁子を訪ねて打合せをした。
      34歳の燁子は純粋に社会改革に打ち込む龍介に心を動かされる。
      自分をこの境遇から救い出してくれるのは彼しかいないと思った燁子は毎日毎日編集部宛てに手紙を書き、次々と電報で情熱的な和歌を送った。同僚に冷やかされながらも龍介も心が動いた。華族の娘で、資本家の妻で、旧道徳に縛られた女を救わなければと思ったのだ。
      伝右衛門夫妻は毎年2回上京する習慣があった。
      白蓮は上京するたびに龍介と逢瀬を重ねた。2年が過ぎた頃に燁子は妊娠してしまう。伝右衛門と結婚して10年が経っていた。二人は伝右衛門と離婚してから結婚することを演出する。
      龍介と仲間たちは策を練る。いつもの通り上京した燁子は伝右衛門と一緒に帰らず、東京駅で夫を見送った後龍介のもとへ走った。龍介たちは大阪朝日新聞にリークして、白蓮から夫への絶縁状を渡した。
      伝右衛門は事の次第を京都の妾宅で知った。
      遅れをとった毎日新聞が伝右衛門に反論の紙面を提供した。結局、伊藤家からの離縁という形で体面を保った。燁子の兄義光は伝右衛門に両手をついて謝った。右翼からの糾弾も激しかった。そして貴族院議員も辞職した。燁子は華族から除籍され、実家から絶縁された。
      燁子は男子を生み、やっと親子三人の生活が始まった。しかし龍介が結核を発症、白蓮は和歌、童話、小説で生計を立てた。3年後龍介は快癒して弁護士として活躍した。長男が戦死したのをきっかけに熱心な平和運動家にもなった。晩年は龍介に介護されながら歌を詠みつつ暮らした。
      一方、美智子皇后が皇太子妃に決まった時には強硬に反対し、右翼団体にも働きかけて反対運動をした。自分は華族制度に砂をかけるスキャンダルを起こし、社会派の弁護士と結婚しておきながらこの行動だ。小生は、当時、夫の龍介がこれをどう思っていたのか聞いてみたい。
      大雑把に語れば白蓮のエピソードはこんな風になる。

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      さて、『日本橋』に決めてみて、こう言うのも変だけれども、この本を手にするだけで、何だかホッとさせられる。 鏡花の時代の日本橋とはすっかり様変わりはしているが、それでも芳町の気分はまだこの文学の世界で残っているという安らぎだ。一時そこに小生が育ったというのも、何かの縁とも思われる。それになんといっても、『日本橋』こそ、鏡花の芸者がずらりと揃う。芸者が生きている。
      鏡花が『日本橋』を書いたのは42歳のときであった。
      大正3年になる。教科書的な文学史では、ここから後期円熟の鏡花が始まるということになっている。 だが、小生がまずもって肝に命じておきたいのは、この小説が千章館から上梓されたときに、初めて小村雪岱が装幀をしたということだ。掲げた2、3の写真を見てもらえばわかるように、溜息がでるほどに、美しい。とくに見返しが日本橋なのだ。先ず最初の見返しで溜息をつき、鏡花の小説に溜息をつき、最期の見返しで深い溜息を残すことになる。この三度の溜息は文庫本では果たせない。古書ならでの風格というか、人肌が揺れ擦れて動き息づかいに露わな湿り気を感じさせる。
      以来、鏡花といえば雪岱(せったい)なのである。
      新派の舞台の大半も雪岱が手がけた。 雪岱という男は鏡花の機微情緒を切り上げて、それを絶妙な線やら空間に、つまりは「ほか」に移す天才だった。
      この雪岱が筆に執る鏡花感覚がもっぱら『日本橋』に出ていることは、もっと知られておいてよい。否、知らないと鏡花を語れない一面がある。 だから『日本橋』は雪岱の絵のように感想することが、まずは前提なのである。

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                                     表紙は日本橋川の両岸に並ぶ蔵
      雪岱は鏡花のことを次のように語る。
      「先生が生物なまものを食べないということは有名な話ですが、これは若い時に腸を悪くされて、四、五年のあいだ粥かゆばかりで過ごされたことが動機であって、その時の習慣と、節制、用心が生物禁断という厳重な戒律となり、それが神経的な激しい嫌悪にまでなってしまったのだと承りました。
 大体に潔癖な方ですから、生物を食べなくなってからの先生は、如何いかなる例外もなく良く煮た物しか召し上がらなかった。刺身、酢の物などは、もってのほかのことであり、お吸物の中に柚子ゆずの一端、青物の一切が落としてあっても食べられない。大根おろしなども非常にお好きなのだそうですが、生が怖くて茹ゆでて食べるといった風であり、果物なども煮ない限りは一切口にされませんでした。
 先生の熱燗あつかんはこうした生物嫌いの結果ですが、そのお燗の熱いのなんのって、私共が手に持ってお酌が出来るような熱さでは勿論駄目で、煮たぎったようなのをチビリチビリとやられました。
 自分の傍に鉄瓶がチンチンとたぎっていないと不安で気が落着かないという先生の性分も、この生物恐怖性の結果かも知れません。
 生物以外に形の悪いもの、性しょうの知れないものは食べられませんでした。シャコ、エビ、タコ等は虫か魚か分らないような不気味なものだといって、怖気おぞけをふるっておられました。
 ところが一度ある会で大変良い機嫌に酔われまして、といっても先生は酒は好きですが二本くらいですっかり酔払ってしまわれる良い酒でしたが、どう間違われてか、眼の前のタコをむしゃむしゃ食べてしまわれました。それを発見して私は非常に吃驚びっくりしましたが、そのことを翌日私の所へ見えられた折に話しをしましたら、先生はさすがに顔色を変えられて、「そういえば手巾にタコの疣いぼがついていたから変だとは思ったが――」といってられるうちに、腹が痛くなって来たと家へ帰ってしまわれた。まさか昨晩のタコが今になって腹を痛くしたのではないのでしょうが、私はとんだことをいったものだと後悔しました」という。

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      日本橋の見返し

      こうした雪岱の短距離で紡いだ心情が、鏡花の知遇をかたじけなくする動機となった。
      さらに雪岱は「御著書の装幀そうていは、私も相当やらせて頂きました。最初は大正元年ごろでしたが、千章館で『日本橋』を出版される時で、私にとっては最初の装幀でした。その後春陽堂からの物は大抵やらせて頂きましたが、中々に註文の難しい方で、大体濃い色はお嫌いで、茶とか鼠ねずみの色は使えませんでした。
 このように自己というものを常にしっかり持った名人肌の芸術家でしたが、神経質の反面、大変愛嬌のあった方で、その温かさが人間鏡花として掬くめども尽きぬ滋味を持っておられたのでした。
 同じ事柄でも先生の口からいわれると非常に面白く味深く聞かれ、その点は座談の大家でもありました。
 ともかく明治、大正、昭和と三代に亘って文豪としての名声を輝かされた方ですから、すべての生活動作が凡人のわれわれにはうかがい知れない深い思慮と倫理から出た事柄で、たといそれが先生の独断的な理窟であっても、決して出鱈目でたらめではなかったのでした。
 あの香り高い先生の文章とともに、あくまで清澄に、強靱きょうじんに生き抜かれた先生の芸術家としての一生は、まことに天才の名にそむかぬものでありました」と語り結ぶ。
      こうした語り口を思えば、二人は対等でも引き分けたわけでもない。ウイン・ウインの関係であった。どちらだどう捕捉するものではなく、際限もなく男と男が融け合って、やがて二人とも静かに滾るのであるから、不可視に鬩(せめ)ぎ合う二人は共に勝者なのである。

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      詳しいことは星川清司に名著『小村雪岱』(平凡社)があるので、それを読まれるとよいだろう。 だいたい雪岱は幼いときに父を失って、16歳のときに日本橋の安並家に引き取られた境遇で、その安並家というのが歌吉心中のあった家だった。亭主安兵衛が芸者歌吉に惚れたことで、傾いた吉田屋の元女将お孝は二人の娘を芸者として仕立てることにすべてを賭けるが、歌吉と安兵衛の心中は講談として評判になる。
      鏡花が東京のなかで一番好きだった日本橋檜物町あたりは、雪岱にも懐旧のかぎりの界隈だったのだ。
      しかし、いうまでもないことだが、鏡花は雪岱の絵から『日本橋』を書いたわけではない。芸者の日々や花街を書きたかったのだ。紅燈の巷に流される男女がモチーフなのである。 その風情は、吉行淳之介が『原色の街』や『驟雨』を書いた理由とは、まったく違っていた。
      鏡花にとっては、芸者こそは幻想の起源であり、人生の原点であり、憧憬の根拠律動なのである。ハイデガーなのである。 その芸者のことをこそ、書いておかなくてはならない。すでに鏡花ファンにはよく知られていることであろうが、いささか回りまわった消息をのべて、読了の感想としてみたい。

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      桃太郎という。芸者がいた。
      明治32年のこと、尾崎紅葉主宰の新年宴会が神楽坂の座敷で開かれていた。
      硯友社の一同が集まった。その座敷に顔を出したのが18歳の桃太郎だった。
      鏡花は26歳、すでに金沢から上京して、紅葉を訪ねて翌日から玄関脇に住みこみを許されて書生となり、博文館の婿養子の大橋乙羽のもとで日用百科の編集を手伝いがてら、早くも傑作の兆しなのだが、短編『夜行巡査』や『外科室』を書き終えていた。
      このデビュー当時の鏡花は、川上眉山の『書記官』と一緒に“観念小説”と名付けられていた。鏡花は気にいらなかったろう。 が、その前に紅葉との連名で脱稿発表していた『義血侠血』が、明治28年、川上音二郎の一座によって『滝の白糸』という外題として上演されて、それが評判となってからは、周囲の鏡花を見る目がやっと変わってきていた。
      こうして24歳、『化銀杏』と『照葉狂言』を書く。24歳でよくもこんなことが書けるものかと驚くが、ここに鏡花の原点がすべからく出来(しゅったい)した。
      『化銀杏』(ばけいちょう)は、鏡花をあまり読んでいない者が最初に鏡花を知るにはもってこいの作品である。少年を愛したお貞が「一体、操を守れだのなんのと、掟かなんか知らないが、さういつたやうなことを決めたのは、誰だと、まあ、思ひねえ」と言いながら、恋の自由を説くあまり、自分がながらく縛られてきた夫を刺してしまうという筋立てだ。 ラストシーンに金沢の町に覆いかかるお化け銀杏がふたたび出てきて、それがふわっと銀杏返しの黒髪にダブるという、なんとも凄い映像感覚を見せていた。
      もうひとつの『照葉狂言』は、主人公は早くに両親を失った貢という美少年である。北陸の暗い街に生まれて、薄闇の中の歌舞伎女優に憧れた鏡花自身の少年期の日々が、この作品の前半で描かれる。
      中盤、そこへ旅の一座「照葉狂言」がやってきて、舞の師匠が貢を可愛がる。この可愛がりかたが妖しくて、男女の交わりなどではなくて姉弟の戯れなのであるのに、それがかえってエロティックで、小生は最初にこれを読んだときはどうしようかと思った。
      緋色の鹿子の布など胸に温めたり、口紅の濡色などが乱れとび、女師匠は小稲だ重子だ小松だのにかしずかれて、この女と女の妖しさにも目がちらついて困ったものである。
      それが襖ごしの声をともなうから、なお、いけない。「丹よ」「すがはらよ」などの声が洩れ、すべてが露見を怖れるかのように、なんだか大切なことだけが憚られているかのように、読める。 鏡花の、この隠して伏せてはちょっとずつ開く手法は、その後はさらに粋にも、さらに濃艶にもなっていく。
      後半、こうして一座に身を投じた貢に8年の月日が流れて、いまは狂言・仕舞・謡曲の一人前、故郷に錦を飾る日となった。貢はかつての住まいの近くに仮小屋を拵え、興行をする。ここで昔日の人々の因縁ともいうべきが次々にめぐってきて、物語は貢のもとにいっさいが押し寄せる。 そこへ、野良猫が血まみれの鳩を屠って咥え去っていくという鮮烈な場面が入ると、あとは「峰の堂」のラストは霧に包まれた貢の心を描いた名場面――。
      こんなことを語っていてはいっこうに先に話が進まないが、この『照葉狂言』でいったん頂点に達した鏡花が、ついに因縁の回りまわった神楽坂の座敷で芸者の桃太郎に出会ったのが、このあとの鏡花の作品にも人生にも決定的だったのである。

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      桃太郎の本名は伊藤すずという。
      すずは鈴でもいいのだが、これは鏡花が10歳のときに亡くした母の名でもあった。 すでにどこにも書いてあることだから詳しいことは省くけれど、鏡花の亡母への思慕といったら尋常じゃなかった。
      12歳で松任の「成の摩耶祠」に詣でたときに、摩耶婦人に母を重ね、鏡花がその後は死ぬまで摩耶信仰を捨てなかったこともよく知られている。
      その母すずが芸者桃太郎のすずとして、たったいま、神楽坂に舞い降りた。
      しかも紅葉が座敷の中央に端座する硯友社の新年の宴の夜である。
      鏡花は桃太郎にいっさいを感じる4年をおくる。二人は同棲をし、それを紅葉はひどく叱って、鏡花は何よりも尊敬していた紅葉の言葉にさすがに動揺するのだが、その直後に紅葉は死ぬ。 結局そのあと、二人は結婚、鏡花はついに「母なるもの」と「摩耶なるもの」を、つまりは母と菩薩と雛と形代を、芸者桃太郎の裡に発見できた。
      こうして鏡花は、柳暗花明の機微人情の大半を、母であり恋人であり妻である芸者桃太郎から、肌でも言葉でも脂粉でも、微細に知ることになったのである。
      そして、この柳暗花明の芸妓がらみの機微人情のいっさいが、『湯島詣』『婦系図』『白鷺』『歌行燈』をへて、鏡花の42歳に花柳情緒として結晶したのが、『日本橋』だった。
      哀切、水よりも清いという。鏡花はこの哀切を信じて(というより信心して)、作品を書いてきた。 ところが、『歌行燈』を発表した明治43年(1910年)は、学習院の青年たちによる「白樺」の創刊があり、翌年は平塚雷鳥の「青鞜」と堺利彦・大杉栄の「近代思想」の創刊が加わって、明治天皇の崩御以降の時代はそのまま一挙に、自然主義やリアリズムの波に覆われていった。
      そのあとは大正デモクラシーである。 芸者を描いている作家なんて、啄木の言う「時代閉塞の状況」には、あわなくなってきた。鏡花は時代遅れの作家となり、そのような烙印も捺されるようになった。
      ここで鏡花がたじろいでいたら、その後の鏡花はなかった。
      けれども鏡花は主唱を変えなかったのだ。
      むしろあえて、哀切に芸者の「いさみ」を加えていった。
      これには反省もあった。明治末期に書いた『白鷺』では、芸妓小篠が哀切の立ち姿をもちながら日本画家の稲本淳一にあまりに尽くしすぎ、『歌行燈』では桑名の花街を描きながら、お三重をあまりに哀切のままに描いた。つまりは、もっともっと芸者や遊女の本来を書き切ればよかったという反省だ。
      こうして大正3年に発表された『日本橋』は、かつて玉三郎が演じて唸らせたお孝をはじめ、清葉、お千世らをずらりと並べ、芸者尽くしともいうべき反撃に出た。
      その生きざまと気っ風を、濃くも、潔くも、勝ち気にも描いてみせたのだ。
      その「いさみ」はお孝の次の言葉に象徴されている。
      とくに最初の一行と最後の一行は、玉三郎の名セリフともなっている。
      かつてなら喜多村緑郎や花柳章太郎や水谷八重子、だった。
      雛の節句のあくる晩、春で、朧で、御縁日。 同じ栄螺(さざえ)と蛤(はまぐり)を放して、 巡査の帳面に、名を並べて、女房と名告つて、 一所に詣る西河岸の、お地蔵様が縁結び。これで出来なきや、日本は暗夜(やみ)だわ。
      これで出来なきゃ日本は闇だわと、芸者の啖呵に言わせたところが鏡花なのである。
      鏡花は切り込みたかったのだ。
      どこへかといえば、社会を自然主義に捉えるなどという野暮な連中に切り込みたかった。
      実際にも鏡花は書いている、「自然派というのは、弓の作法も妙味も知らぬ野暮天なんじゃありませんか」と。 これを、鏡花が社会から逃げた姿勢などと思ってはいけない。
      鏡花は社会をむしろ逆悪魔に描いてこそ、社会になると考えていた。その悪の入れ方もたえず壮絶で、『日本橋』では赤熊をお孝が好きな葛木の前で刺し殺すという場面にさえなっている。
      これは自然主義リアリズムへの抵抗であり、反逆なのである。
      それも色街からの抵抗である。
      それもデラシネとしての反逆ではない。そこに本来の「母」がひそむという反逆だった。ただし、鏡花一人の反逆ではない。鏡花とともに闘う者があらわれた。永井荷風が『新橋夜話』を明治45年に書いて、鏡花をよろこばせたのであった。
      荷風はフランスから帰って、江戸情緒に耽ることこそ日本文芸の赴くべきところであることを実感していた。そこは鏡花のように、最初から金沢や神楽坂の脂粉に馴染んできたのとは違っていたが、しかしかえって、アメリカやフランスを知る荷風が柳暗花明の機微人情に没頭することは、鏡花にとっては勇気百倍だったのである。
      ちなみに、この鏡花・荷風の花柳界好みは、その後は久保田万太郎や水上滝太郎や川口松太郎らに続いていった。なぜかみんな“太郎”が付いている。これでは、漱太郎も俄に元気づいてくる。
      『日本橋』は、発表の翌年の大正4年、本郷座でお孝を喜多村緑郎が、葛木を伊井蓉峰が、お千世を花柳章太郎が演じて芝居になった。小村雪岱が舞台美術を手がけた。
      これがきっかけとなって、鏡花は新派の通り相場になっていく。小生の母は花柳章太郎・水谷八重子がご贔屓で、ときどき自宅の座敷に招かれていたが、いま思い出しても、章太郎・八重子という人はまさに鏡花の行間を、いま抜け出てきたという風情をもっていた。

      いずみ泉鏡花 日本橋 見返し4 W500H220
      日本橋の見返し

      それにしても、である。
      日本橋は、いまや醜い町になっていて、見る影もない。
      かの日本橋そのものが高速道路に覆い被されて、喘いでいる。お孝と葛木が出会った一石橋は、ビルとビルとのあいだに押しこまれ、死に体になっている。かつて人形町にいまも店を構える辻村ジュサブローさんと、さんざん今の日本橋の悪口を交わしたことだった。
      これはもはや、鏡花のセリフだけでも日本橋を立たせなくてはいけないということなのだろう。 芸能花組の加納幸和座長が、こんなことを言っていた。ぼくの『日本橋』のポイントは、葛木が「やっぱり私は、貴女からも巡礼にならなければならない」と言うと、お孝が「たとい、からけし炭になろうとも、燃え立つ心はこの身一つに引き受けます」にあるんです。 よくぞ、芸能花組。この身一つに引き受けた。
      それなら、そうか、こんなところにハンナ・アレントがいたわけだ。
      その暗渠には今も泉鏡花の「日本橋」が描かれている。そう感じ取れる日本人が増えることを期待したい。
      そしてさて、最期に一つつづり加えたいことがある。
      夏目漱石は明治28年(1895年)6月下旬から翌年4月上旬まで松山市二番町の上野義方邸の二階屋の離れ(愚陀仏庵)に住んでいた。
      その28年8月27日、正岡子規がその離れに入居、子規は階下、漱石は二階を自室として、五十日余、同居生活をおくった。久保より江はその離れの家主上野義方の孫で、当時は11歳の小学生(当時の姓は宮本)、離れと廊下でつながる母屋に祖父母らと暮らしていた。
      漱石、子規はこのより江を妹のようにかわいがった。より江は後年、二人の思い出を語っている。
      つまり鏡花を読み、『日本橋』を読み終えたころ、そんな久保より江のことをふと思い出した。どうも鏡花を読むということは、そういうことにもなるようだ。
      明治29年4月11日、松山を離れ新任地熊本に向かう漱石を久保より江は三津浜港で見送った。
      のちに漱石が書く小説『吾輩は猫である』に登場する「雪江さん」は、このより江がモデルなのである。より江は高等女学校卒業後、医学博士久保猪之吉(九州大学医学部教授)に嫁した。
      子規門下の長塚節はこの久保猪之吉の治療をうけているが、長塚を久保に紹介して診察を依頼したのは漱石であった。若いころより文芸に親しんでいた久保より江はホトトギス派の俳人となり、福岡在住時は社交界の華やかな存在であったという。夫が他界した後は長く病牀生活がつづき、昭和16年5月11日に東京で死去、享年57であった。

      猫の眼に 海の色ある 小春かな  (より江)

      これは日本橋の余段である。                



      いずみ泉鏡花 32 鏡花全集 W500H251

      いずみ泉鏡花 28 日本橋 W500H753
      いずみ泉鏡花 29 日本橋 W500H281


                        読了記  第11話に続く・・・連載

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