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ひとひらの書 第8話 『武原はん一代』 下

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      A 7 gif   第8話・・・『 武原はん一代    

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      A 15 gif ひとひらの書 第2 武原はん一代




      体の使いを考えるという点で、地唄舞の名手・武原はんは師のようにあるという。そう武原はんを話題にした若い武道家がいた。
      有名なプロ野球選手ではあるが、小生にはある種武道家に見える。
      桑田真澄である。
      その武道家が小生に、日本舞踊と武術のどこに接点を見出せばよいのか、を小生に語りかけたのだ。
      武道家は、彼女の踊りをヴィデオにとることができた。見てみるとなるほど流れるような動きだ。
      その武道家は 「見ていて自然で全然苦にならない 不思議だ」と感想を洩らした。
      桑田真澄がふと漏らしたその一言が、じつに今、新鮮である。

      くわたますみ桑田真澄 7 W500H167
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      くわたますみ桑田真澄 8 W500H380

      そして、小生は、何年振りかで武原はんの追悼テレビ番組を見た。
      山川静夫アナを相手に、彼女が自宅の鏡の前で動いて見せるが、その左足前の立ち姿が一歩進んで右足前になる それがため息が出るほど美しい。
      しだいに桑田真澄の言葉が、その姿に重なってきた。
      桑田は、カーブを軸とした「コンビネーションピッチャー」の一人である。140km/h台の速球だが、カーブ、シュート、フォーク(SFFで桑田自身は「サンダーボール」と命名して使っていた)、スライダー、遅いストレート(チェンジアップではない)を打者や調子によって織り混ぜ、173勝を積み上げた。
      そのカーブには主に全盛期時に投げていたカーブと、2002年の最優秀防御率賞奪取に貢献し、メジャー時代(後期)にも投げていた緩めのカーブと二種類あり、前者はキレを中心としたドロップ系の比較的速いカーブ、後者は山なりの軌道を描くスローカーブ(ドロップカーブ)である。後者のカーブは「レインボール」、「レインボーカーブ」、「すしボール」と様々な名称で呼ばれていた。
      彼は、まさしく舞い踊るかのように撓るカーブを華麗に投げた。

      くわたますみ桑田真澄 10 カーブ W500H148

      彼女の終生の芸であった(雪)という舞では、畳二畳分ほどの極端に抑制された動きの中で女性の過去 未来 幼さ 老け 心の動きを様々に演じ分けなければならない。
      舞台では遠くの客は表情はよく見えない。だから全身で表現するにはどうしたらよいか八十年毎日考えてきたと彼女が番組の中で語っていた。
      あらゆる動きに(はずみ)を無くしてみる。
      たとえばボールを投げるのに振りかぶってからパッと手を振り下ろさずにまるで砲丸投げをするような感じで手で押し出してみる。普段の動きならどこか一個所の筋肉をゴム輪を飛ばすように弾けさせて使うのだが、それが無くなると全身の筋肉を使って空気を前に押し出すようにせねばならない。重い荷物の台車を押すような感じで空気の中を動く。弾みの多い動きはアクセルとブレーキを交互に使ってしまう。どんなに精妙に動いてみても頭や体のぶれは出てしまうものだ。またそんな動きはエネルギーのベクトルが生じて速い動きの中で体の向きを変えようとすればぐらつきが必然的に起こる。
      そんな桑田の言葉を視野にして見ると、なるほど、武原はんの動きはどちらへ動こうが宇宙遊泳をしているように等量の圧力を四方に感じながら動いているようだ。

      武原はん 雪 W500T182
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      武原はん 雁金 W500H171

      舞の中で彼女が考える様々な姿から姿へ移り変わりながら一定の心身のバランスを維持し精妙に動きを進めていくのには、どれほどの細かい身体の使い方をしているか想像もつかないものがあると思われる。その動きの中では一般人のような意味での速い遅いはないし、勢い余ってなどということも絶対にない。途切れなく動くという事一つとっても並大抵のことではない。桑田はそう言ってしきりに唸っていた。
      相手の戦力を上回る能力を保持して戦うという事は、勝利の法則ではあるが、体格筋力、瞬発力などは先天的なものでしかもピークをすぎれば落ちていくばかりのものである。技術としての武術はあらゆる技芸に共通してやはり動きの熟練による技術の(異質化)を目指したものであった。
      そう熱く語る桑田がいた。
      その言葉通り、そしてその異質な動きとは、あらゆる瞬間においても意志的なものであり偶然やはずみで起こる動作など武術として命をかけるに足るものではありえなかった。
      そう考えた時に、左足前の立ち姿が一歩出て右足前になるという一動作においても、どれほどの全身の緻密な働きが要求されるのか、無限に思える追求の成果の武原の一歩に小生には今見える。
      動きを正確にとらえる、感じる多くの(見えている人)の目があることも揺るがぬ事実である。たとえ芸事に無縁の人であっても的確に物事を捉える人は驚く程多くいることを小生もよく知っている。真摯に人生を送る人には毎日が(生の異質化)の連続と言えるかも知れない。今、曲のどの瞬間を切り取っても最高の姿に見えてしまう彼女の舞を見ながら人間にとっての(真)がいかに(美)に密接するか感動を禁じえない。そして我々の普段の些細な積み重ねさえ、その道に連なり、小生の日常を輝かせてくれると確信する。
      武原はんの舞いは、そうなのである。

      たけはら武原はん 3 W500 gif

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      その武原はんに「 白寿まで一陽来福舞ゆかな 」という一句がある。

      すでに現代の日本社会では絶滅した「花柳界」の話ではあるが、この花柳界の時代性が分からなければ、歌舞伎や日本舞踊や斎藤緑雨、永井荷風や久保田万太郎の世界は全く理解などできない。
      とくに平成の芸能界にしか育たない若い人は、花柳界と吉原とがの、全く区別をつかない人もいるでしょうから、これでは到底、世代前の風俗であったはずの、はんの「百寿まで・・・舞ゆかな」の何をか、が見えてこない。芸事に一所懸命に入魂して生涯までを精進しようとする観念の矜持を能(よし)する人のみが挑む世界観がそこにあった。

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                          地唄「翁」               ホトトギス同人、はん女。(昭和55年頃)
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      武原はん 9 W500H375
      大正5年 乗合船(左、はん 右、ゆき)   大正4年 大和屋芸妓学校二期生代表(左より武原はん、阪口ゆき、岡久栄)

      それでは一、二世代前の若い人に「武原はんの舞い」を理解するための豆知識を少々ご伝授したい。これは俗界において芸能を生業として精進を試みる修羅場の花を演じる人の話ともなろうか。
      芸者になるには、まず「仕込」(しこみ)という修業時代を経て、15歳で「半玉」(お酌=おしゃく)となり、7年間勤め、21歳でやっと一人前になれる。お酌は、御座敷でものを運ぶだけが仕事だった。芸者(いっぽん)になる時には試験があり、その中に三味線を弾いて唄をうたう試験がある。清元や常盤津よりも長唄で試験を受ける人が多かった。これらを経た後の身の処し方を、はんは「白寿まで一陽来福舞ゆかな」というのである。

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              芦辺をどり              大正5年 大和屋芸妓学校生徒(前列左端が はん)
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        大和屋子供連と、芸妓姿のはん(中央)            大和屋分家の人々(真ん中がはん)
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      大阪に阿波座駅(あわざえき)がある。大阪市西区西本町三丁目にある大阪市営地下鉄の駅だ。中央大通(大阪市道築港深江線)と新なにわ筋の交差点に位置する。その駅名の由来は、かつて当駅付近に存在した遊郭、並びにさらに古代に所在した四国方面との海上貿易拠点「阿波座」との関係である。

                     武原はん 阿波座 3 W250H150
                              阿波座ジャンクション

      その阿波座が物語るように、大阪と徳島の関係は地理的にも経済的にも浅からず、金回りの良い阿波の藍玉商人は大阪の花街で歓迎さた。そして芸能を大切にした阿波細川家の伝統は蜂須賀氏にも受け継がれ、自国の富田町に阿波商人御用達の立派な花街をもたらした。この伝統ゆえ、明治になっても徳島の芸妓は遊芸に秀でており、浪花の芸妓にも引けを取らなかったと言われている。
      徳島生まれの芸妓として、其の嬌名を大阪の南地で謳われ、のち小村翆雲の夫人になった伊丹幸の小奴もその一人であるように、そして徳島で産湯を使い、道頓堀が青い灯赤い灯を川面に映す前に南地で舞妓になり、不世出の舞踏家となった武原はんもその一人であった。

                     武原はん 徳島市富田町 W250H165
                                徳島市富田町

      武原はんが徳島で生まれた宿命はそこにある。たしかに糸は結ばれている。
      はんは、その糸の方へ顔を向けた。
      明治36年、夜な夜な三味や太鼓の音がさざめく徳島の富田町のすぐ近く籠屋町で、仕事一筋のブリキ職人の長女として生を受けたはん(本名武原ちか子)は、11歳のとき両親と大阪に引越し、宗右衛門町は大和屋芸妓学校に二期生として入学、礼儀作法から舞踏、三味線、唄までもみっちり仕込まれた。
      はん本人の回顧によると、13の歳に山村流の手ほどきを受けたものの、いかり肩が災いして踊妓には向かぬといわれ、当初は三味線を仕込まれたという。
      しかし本人は踊りが好きで、お師匠さん(山村千代)が暇をみて教えてくれたので踊り方になれたそうだ。さらに彼女には踊っている内に首を前に出す癖があったのを、大和屋の主人祐三郎は、着物の衿に縫い針を逆にさすという荒療治でこれを克服させた。

                     武原はん 縫い針 W250H116

      これが身をもって型を仕立て鍛える修行というものである。無意識に舞いの型となるようでなくては所詮半人前で終わるしかない世界なのだ。そうして、はんは大村流の型に入れられた。
      このころの大阪の踊りの主流は若柳、花柳といった華やかな流儀ばかりで、身体をためて深く腰をおろして舞い、稽古が終わった後は歩くのも辛い山村流は、たまに老妓が舞うぐらいで、宴会なんかでもあまり踊られる事はなかったようだ。
      しかし、山村流を懐かしむ老妓の一人が、19、20歳のはんにいつも山村の地唄舞でも珍しいものを舞わせ、これを受けたはんは自然と山村流が身体の中に溶け込んで行った。
      ここに流行りを追わない独自を歩く武原はんがすでに誕生する。
      さて、大正6年、14歳で大和屋芸妓学校を卒業すると、その歳で芸妓になったはんは南地の中でめきめき頭角を現し、19の時に、当時日本一の名人といわれた七世三津五郎の所望で地唄「寿」を舞い、是を褒められるとそれを糧にさらに舞に磨きをかけ、大正12年、20歳で大和屋から独立して自前芸妓になった。
      文楽好きのはんは大阪時代、よく劇場に足を運び、後年、名人吉田文五郎の中腰や後姿がなんともいえぬ魅力だったと語っており、文楽からの影響を仄めかしている。

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      東京での暮らしを、簡単にざっくり語ると、昭和5年に結婚のため東京に住んだはんは、わずか数年で結婚生活に終止符を打ったのだが、東京進出のきっかけとなり、藤間勘十郎から 「地唄舞は関西のものだが、東京で東京の地唄舞を普及させなさい」 と激励され、昭和15年「はん弥」の名で新橋芸者となり、お披露目は新橋始まって以来の花代を売り上げた。
      昭和19年戦禍が激しくなり芸妓を廃業、戦後は「なだ万」の女将を経て昭和28年、俳句の師匠であった高浜虚子の命名で赤坂新町に料亭「はん居」を開業した。
      以後も踊り手としてはんの実績と名声は増すばかり、昭和31年には代表作である地唄「雪」で文部省芸術祭賞を得ると、昭和44年に紫綬褒章、そして昭和50年には勲四等宝冠賞を授与された。

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      銀座の松坂屋の裏、銀座消防署がある辺りに「三十間堀」(さんじゅっけんぼり)という川が流れていた。戦後の風営法で、すべて「料亭」という呼び方になったが、戦前は、「料理屋」と「待合」と区別していた。待合には板前がいないので、「仕出し屋」から料理を取っていた。
      新橋の仕出し屋には、「貴船」「三喜美」「田村」などがあった。「田村」は今の「つきぢ田村」。「山形屋」という洋食屋もあった。
      待合で大きかったのは「田中家」、そこから分家したのが、「金田中」(女将は金子とら)、「米田中」があり、「雪村」「山口」などがあった。「山口」は外務省と三井家が贔屓(ひいき)にしていた。
     「御料理屋」(おちゃや)の代表的なのが、「新喜楽」「錦水」「花月」。特に格式の高いのは「新喜楽」で明治8年に日本橋で創業、その30年後に、当時「海軍原」(かいぐんはら)と呼ばれていた現在地に移転して築地周辺が開けるきっかけをつくった。
      新喜楽は、伊藤博文、山縣有朋が初代の女将伊藤きんを贔屓にしていた。その「新喜楽」は今では、芥川・直木賞選考会場として使われている。

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      このような変遷をたどると、江戸時代には「料理茶屋」「貸席」「船宿」の三カ所で、芸者が呼ばれ酌を取り、三味線で唄った。維新直後に、新橋の「信楽」という待合茶屋が、「浜の家」と屋号を変え、かつての「出合茶屋」のように宿泊座敷を備えて繁盛したことから、新橋界隈に類似店が開業していった。
      よって、「貸席」は「待合」に発展解消し、「船宿」は衰微し、明治後期から芸者の出先は「料理茶屋」と「待合茶屋」の二カ所となり、ともに「御茶屋」と呼ばれる。格から言うと、板前を置く「料理屋」の方が上で、待合は「小待合」「安待合」などと蔑称されることもあった。
      戦前、今の新橋演舞場裏、癌研の前に関西から進出した料理屋「灘万」があり、ここで武原はん(一時、青山二郎と結婚していた)が働いていた。その灘万には、後に長谷川一夫の妻になる「りん弥」がお座敷に出ていた。
      地歌(ぢうた、地唄)は、江戸時代には上方を中心とした西日本で行われた三味線音楽であり、江戸唄に対する地(地元=上方)の歌であり、当道という視覚障害者の自治組織に属した盲人音楽家が作曲、演奏、教授したことから法師唄ともいう。

      武原はん 新橋 W500H281

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      三味線を用いた音楽としては、初期に上方(京阪地方)で成立していた地唄は、元禄頃までは江戸でも演奏されていた。その後、江戸では歌舞伎舞踊の伴奏音楽としての長唄へと変化、また河東節などの浄瑠璃音楽の普及によって、本来の地唄そのものはしだいに演奏されなくなっていった。
      幕末までには、京阪を中心に東は名古屋、西は中国、九州に至る範囲で行われた。明治以降には生田流系箏曲とともに東京にも再進出、急速に広まった。
      現在は沖縄を除く全国で愛好されている。ただし東京では「地唄舞」の伴奏音楽としてのイメージがあり、地唄舞が持つ「はんなり」とした雰囲気を持つ曲という印象を持たれがちであるが、地唄舞は地歌に舞を付けたものであって、最初から舞のために作曲されたものはない。
      また地唄舞として演奏される曲目は地歌として伝承されている曲の一部であり、地歌の楽曲全体をみれば、音楽的には三味線音楽の中でも技巧的であり、器楽的な特徴を持つ曲が非常に多い。
      一方、三曲界内部においては、明治維新以来の西洋音楽の導入に伴って、その器楽的部分に影響を受け、江戸時代を通じて器楽的に発達していた「手事物」に注目されることも多い。しかしながら「歌いもの」の一つとして発達した地歌は伝統的な声楽としての側面も持っている。
      もともと地歌三味線、箏、胡弓は江戸時代の初めから当道座の盲人音楽家たちが専門とする楽器であり、これを総称して三曲という。これらの楽器によるそれぞれの音楽である地歌、箏曲、胡弓楽が成立、発展して来たが、演奏者は同じでも種目としては別々の音楽として扱われており、初期の段階では異種の楽器同士を合奏させることはなかった。しかし元禄の頃、京都の生田検校によって三弦と箏の合奏が行われるようになり、地歌と箏曲は同時に発展していくことになる。
      現在伝承されている曲の多くは三弦で作曲され、その後に箏の手が付けられているものが多く、三弦音楽として地歌は成立し、ほぼ同時かその後に箏曲が発展してきた。ただし箏曲の「段もの」は後から三絃の手が付けられたものであり、ほかにもしばしば胡弓曲を三弦に取り入れたものもある。
      胡弓との合奏も盛んに行われ、三弦、箏、胡弓の3つの楽器、つまり三曲で合奏する三曲合奏が行われるようになった。このような環境の中で地歌は、三弦音楽として発展する。

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      武原はん 写経 W500H375

      こうした三弦音曲に舞いつけたモノが「地唄舞」(上方舞)である。
      その上方舞(かみがたまい)とは、江戸時代中期(1800年頃)から末期にかけて上方で発生した日本舞踊の一種で、着流しに、屏風を立てた座敷で舞う素踊りを基本とする。源流となった御殿舞と、能を基本にした静的な舞に、人形浄瑠璃や歌舞伎の要素を加味しており、しっとりとした内面的な舞い方をする。歌舞伎舞踊より抽象的で単純化された動きである。伴奏に地唄が用いられることから、地唄舞とも呼ばれる。
      上方舞の流派のうち山村流、楳茂都流、井上流、吉村流を特に「上方四流」と呼ぶ。また、この上方舞が、京都で発展した流派の、井上流、篠塚流を京舞(きょうまい)と呼ぶ。
      武原はんは1915年、 大阪の大和屋芸妓学校に入学すると、山村流の上方舞を修行した。その山村流とは、文化3年(1806年) 、三代目中村歌右衛門と共に活躍し、当時の上方舞踊界を席巻した上方歌舞伎の振付師・山村友五郎が創始し、舞の品の良さから商家の子女の習い事として隆盛を極めた。

      地唄「雪」

      花も雪も 払へば清き袂かな
      ほんに昔のむかしのことよ
      わが待つ人も我を待ちけん
     (合)鴛鴦(おし)の雄鳥(おとり)にもの思ひ
      羽(ば)の凍る衾(ふすま)に鳴く音(ね)もさぞな
      さなきだに心も遠き夜半(よわ)の鐘(合の手)
      聞くも淋しきひとり寝の
      枕に響く霰(あられ)の音(おと)も
      もしやといつそせきかねて
     (合)落つる涙のつららより
     (合)つらき命は惜しからねども
      恋しき人は罪深く
      思はぬ(合)ことのかなしさに
     (合)捨てた憂き 捨てた憂き世の山葛(やまかづら)


      【 地歌「雪」。流石庵羽積作詞、峰崎勾当作曲。寛政元年(1789年)ごろ成立。大坂南地の芸妓ソセキが、来ぬ人を待って夜を明かすこともあった自らの過去を回想しつつ、仏門に入った現在の心境を述べたもの。名前が読みこまれているという。合の手は本来鐘の音なのだが、邦楽各流では雪を象徴する音として使われている。】

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      能を習った者は誰もが「舞」と「踊」の差を知っている。
      舞は跳ねないが、踊は跳ねる差があるのだと。
      だが明治ご維新の頃「Dance」という外来語が入って来てから、舞と踊の違いがなくなって、どれもダンスでひと括りにされてしまって、その相違がなくなったのである。現在でいうなら、合併した都市が平仮名や由緒がなくなった地名を名乗るようなものだ。
      そもそも舞は幸若舞とか能舞とか延年の舞とか、能を含めた古い芸能を指す時が多く、踊は踊り念仏や盆踊りで代表されるように中世の仏教芸能から端を発し、歌舞伎や日本舞踊で集約された永い伝統の歴史がある。 ただ、能にだって飛んだり跳ねたりする曲がある。
      代表格は「石橋連獅子(しゃっきょうれんじし)」であろう。舞踊にだって、全く跳ねない舞のような踊が連綿としてある。京舞の先代四世・井上八千代の老女物や写真に掲げた武原はん「雪」という上方舞などである。ただしその区別は能には一定の型があって、踊には型がないように思われるのは早計だろう。
      多くの踊は魂振(たまふり)であり、舞には鎮魂(ちんこん 或いは たましずめ)の役割が多いのは確かに事実だ。能の型が彼女たちの舞踊に多大な影響を与えたこともある。したがって現在の舞と踊の区別をするのは甚だ得策ではないが、爾来それぞれに伝統があったことだけは厳密に申し上げておきたい。
      小生は何かと親には無粋であったから、今回この著書を執りあげる前に、亡き母の墓参に行って、紅いカーネーションを届けた。粉糠雨(こぬかあめ)がそぼ降り止まず、お墓の真後ろに植えた江戸彼岸の樹が堂々と大きくなり、青々とした櫻若葉で覆われていた。多分母は、亡くなった後初めての真紅のカーネーションを貰って歓んでいたのだと思う。都内に帰って、小生がいそいそと書斎の整えをするほんの束の間、ちょうど書棚の隅にあった母が大好きであった武原はんの録画映像を観た。
      第二巻の「雪」だ。静かに流れるような舞姿。じつに凛としている。
      動く日本人形と謳われたはんの舞にしばしうっとりとして観とれていた。
      12歳の若さで徳島から大阪へ来て、上方舞の山村流で舞踊を習いつつ、芸妓として座敷に出ていた。28歳にして、青山二郎と結婚し上京。しかし一芸を貫こうと武原はんは間もなく離婚し、「なだ万」などの女将を経て、芸道をへと一直線。
      はんという女性は生涯自分の芸を磨き続けた人だった。
      西川鯉三郎や藤間勘十郎などにも師事。そのはんは独自の芸風を確立し、全面ガラス張りの稽古場で、自分の師匠はガラスの中の自分であるとの信念を貫いた人であった。
      60歳には60歳の芸があり、80歳には80歳の芸があると言っていた。
      これは世阿弥の「時分の花」ということであろう。画家の小倉遊亀や野島青茲など多くの日本画家が、そうしたはんの瞬間の美を写し取っている。小生もその稽古場には何度かおじゃました。
      平成13年95歳で亡くなるまで現役を続行、この世のものではないとまで言わしめた至極の芸を披露し続けた。お座敷芸を芸術の最高到達点まで高めた人であり、文化功労賞にも輝いている。その、はんの「雪」こそ、舞と踊の融合を見事に果たし得たのではないだろうか。 地唄の、その記憶と歴史を一身に継ぐ、この振る舞いにこそ、忘却されようもない完成というべき存在感がある。

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      武原はん あとがき W500H311

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      武原はんさんが他界されてから10年後のこと、六本木に出向いた。
      たまたまのことながら、向かったビルの道をはさんですぐ向かい側に7~8階建てのビルが今もあるのを見て、はんさんを懐かしく思い出した。
      そのビルは、かつて“生きた博多人形”とも例えられた上方舞の武原はんさんがお住まいになっていた場所である。そのビルを見て、武原はんさんが六本木のこのご自宅で亡くなられてからもう十数年が経つという深い感慨をいだいた。
      無機質な外観からは想像もつかないが、このビルの上階には、小体ながらも本格的な能舞台が設えられていて、この密やかな美しい舞台で、晩年の武原はんさんや、薫陶を受けた藤村志保さんらが舞を披露なさっていた。そう思うと小生は、ある年のことをまた思い出した。
      京都の知人に「ええ勉強になると思うし」と、言われて、祇園の某有名呉服店の東京での展示会に小生呼んでいただいたことがあった。「その会場、武原はんさんのお宅の上にあんにゃて。そらもうスゴイとこらしいで」とは聞かされていた。初めて武原はんという人の稽古場に伺ったときのことだ。
      思いもしない立派な能舞台が、六本木のド真ん中の、何でもないビル中にあるのを呆然と眺めて、世の中にこんな世界があるものなのか・・・と、驚いた。未だいろんなコトに無知蒙昧だった20代の小生には、その美しい空間はもう完全なカルチャーショックだった。
      しかし今から思えば、その20代で多少の古典芸能にふれたおかげで、明治、大正、昭和を生きてきた珠玉のような人たちの舞台を、かろうじて間に合って拝見できたように思うが、中でも記憶の宝物のように思える舞台のひとつが、92年に古典芸能鑑賞会で観た『松 竹 梅』という舞踊だ。
      それは、武原はんさんの「松」、藤間藤子さんの「竹」、吾妻徳穂さん(故中村富十郎丈のお母さん)の「梅」という、まるで芸風の異なるお三方による初共演という最初で最後の舞台だった。(ちなみにこのお三方はみな実にご長命でいらした)。
      観たのはNHKホールというおよそ風情のない場所ではあったけれど、何かとてつもなく崇高で美しいものを見た・・・という感動があった。20年近くたった今でもまぶたに鮮明に浮かぶ舞台のひとつである。
      そうしてその古典芸能鑑賞会の翌年だったろうか、『東をどり』の切符をいただき新橋演舞場へ出かけた。そのときのこと、幕間に化粧室へいこうとしたロビーで、ふと視線が吸い寄せられていく気がして、ついとその先を見ると、お供の方に付き添われて武原はんさんが化粧室にいらしたのだった。
      綺麗に結われた銀色のお髪に、銀鼠色のあれは江戸小紋だったのだろうか。まことに品のよい着物をゆったりとお召しで、その匂いたつような麗しい「何か」に痺れてしまい、人気のないのをさいわいに、場所もわきまえず小生は思わずその場でポ〜ッと見とれてしまった。
      ロビーにもどると、同行していたアメリカで日本画を描く知人女性が「いますごい素敵なお婆さんを見たのよ〜!。ひさし髪で着物の着こなし方もまるで違うし、すごい綺麗なの〜」と言った。
     「あ〜それ、武原はんさんだよ」と教えると、
     「え〜?!あの人がそうなの!どうりで〜!オーラがすごかったもの」と、しばらく興奮気味に言っていたのを思い出す。
      そんな武原はんさんのオーラからは、なんとも良い香りが漂ってきそうで、それはたぶんどんなにお歳を召されても、決して枯れることのない香気というのか、おなごはんの色香のようなものではなかったかと今でも思うのである。
      近年亡くなられた稲越功一氏の撮った写真の中に、最晩年の武原はんさんが、六本木にあるあのご自宅でお気に入りのイスに腰掛けて写っておられる一枚がある。
      そのつま先は一代の舞踊家らしく本当に真っ白で、キッチリとシワひとつない美しいつま先だった。
      うろ覚えで定かではないけれど、最期のときは、たしかそのお気に入りのイスで静かに息を引き取られたと聞いたように思う。きっとその最期のときも、つま先は白く美しかったに違いない。満95歳を迎えられたその翌日のことだった。

                                  


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                        読了記  第9話に続く・・・連載

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Sotarou Miuma
立体言語学博士
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