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ひとひらの書 第7話 『武原はん一代』 上

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      A 7 gif   第7話・・・『 武原はん一代    

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      A 15 gif ひとひらの書 第2 武原はん一代




      去年今年貫く棒の如きもの
      この句は高浜虚子(下写真右)である。虚子は、明治7年(1874年)に愛媛県に生まれた。本名高濱清という。伊予尋常中学時代、河東碧梧桐を介して正岡子規に俳句を教わる。碧梧桐とともに、第三高等学校、第二高等学校を経て、東京の台東区根岸の子規庵に起居した。
 俳誌「ホトトギス」を引き継ぐが、子規歿後、俳句の創作から離れた。しかし、大正元年(1912年)、五七五調にとらわれない新しい俳句を提唱した碧梧桐に対抗して俳壇に復帰する。
 虚子は、五七五調と季語の伝統を重んじ、「花鳥諷詠」「客観写生」の理念を掲げた。「ホトトギス」からは、飯田蛇笏、水原秋桜子、山口誓子、中村草田男らが輩出する。昭和34年(1959年)に没した。
      この高浜虚子から俳句と文章を学んだのが、舞踏家の武原はんである。
      明治36年、徳島市に生まれる。大阪で上方舞を修行した後、昭和5年(1930年)、東京の大地主の次男、青山二郎に嫁ぐ。ここで小林秀雄、永井龍男、中原中也、宇野千代らの知己を得る。踊りは藤間勘十郎、西川鯉三郎に師事し、上方舞の普及に努めた。
 「ホトトギス」の同人となり、俳号はん女。戦後、さらに昭和21年、かつて文豪に親しまれた料亭「なだ万」の女将もつとめ、その後、虚子が名づけた六本木の料亭「はん居」を経営した。昭和27年から、「舞の会」を開催、平成6年(1994年)まで続いた。豪華な衣装と気品に満ちた舞姿は、「動く錦絵」と評価されたが、平成10年に没した。
      冒頭の句「去年今年貫く棒の如きもの」に、二人それぞれの人生が重なる。

      武原はんと高浜虚子 2 W500H328
                          写真は昭和31に撮影(虚子と武原)
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      さらにもう一人、はんと縁の深い男がいる。
      大佛次郎(おさらぎ じろう)である。
      その大佛次郎が、京北の浄照光寺の桜を連れ立って見に行ったとき、みんなが引き上げてもまだ一人花の下に佇んでいる婦人がいた。
      連れ立ちの亭主役である大佛が近づいてみると、武原はんが涙を流している。
 「あんまりきれいなもので‥」ときまりわるそうにして、さっと連れ立ちのほうへ戻っていったという。大佛は、はんが「なだ万」の別荘を借りて鎌倉雪の下に両親を住まわせたときのお向かいさんだった。そんな大佛は挨拶文などを何度も代筆していた武原はんが一番大事にしていた後見人にあたる。

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      おさらぎじろう大佛次郎 9 W500H344      

      「鞍馬天狗」の作者として知られる大佛次郎(1897~1973)は、現代小説、歴史小説、ノンフィクション、さらには新歌舞伎や童話などまで手がけた岩田藤七と同世代の小説家である。1964年に文化勲章を受章した。藤七とは大変懇意で、美術・文学はもちろん、歌舞伎や舞踊など広い世界を共に楽しむ、猫と鎌倉を愛する長身の紳士であった。
      下記文章の掲載されている、作品集の刊行世話人代表でもある。
      少し余段だが引き出してみた。
      「日本的な独創」大佛次郎 1967年毎日新聞社発行「岩田藤七ガラス作品集」より。

      つい昨日までの日本の生活では、ガラスの器は夏の季節につながっていたようである。
      梅雨が明け、青すだれで外の日射を防ぐ頃になって、土蔵や戸棚の奥から持ち出され、箱をひらき被布を除かれて、透明で涼しい、それこそ夏の姿をあらわした。欧米生活の四季の感覚が薄く、厚い壁の中で営まれていた日常とは、自から扱い方が違っていた。
 日本でも、冷暖房が発達した現代とは感じ方も異なる。それに、何としてもギヤマンには、日本で作られても、いつまでも舶来のよそよそしさが付きまとっていたものだろうか?。正直に言って私は、ガラスには冷淡であった。古い日本の切り子ガラスは、美しいがどこか不粋な重々しさがあるようであまり好まなかったし、バロック風の装飾の手がこんだ西洋のものも好ましいとは思わなかった。
      つまりは、物をみていなかったので、ヴェネチアへ行っても、サン・マルコの広場を囲む店の飾窓に、葡萄酒色の美しいガラス器が飾ってあるのを見ても、特別に入って見ようとも欲しいとも思わなかった。ただ日本にいて偶然に手に入れた中国の乾隆硝子の卵黄色の小さい壷には、珍らしく愛着を覚えた。器械的でない輪郭の、目に暖かい円味と、美人の肌に触れるような手ざわりの柔媚さに、西洋のガラスにはないものがあるようで、ガラスを夏だけのものと考えるのは偏見らしいと知ることができた。
      これも同じ料子でも、技巧を凝らし、梅や水仙の花など、精巧に彫刻したものなどよりも、飾りなく、すぽっとして、肌のなめらかなものが好ましい。聞けば、ガラスの面に人間の手を加えて磨き出すものなので、整然とし過ぎた冷やかさから免れ得たものらしい。

      武原はん 岩田藤七作 硝子「花器 焔」 W500H373

      私がガラスに興味を抱くように成ったのは、言うまでもなく、岩田藤七氏を知り、この優れた作家の年々のお仕事を親しく見まもる幸運を得てからである。ガラスと言うものが次第に、これまで見てきた性格のものではなくなって来た。傍にいて、その変化や進展の様子を見ていることが、どれだけ私にとって勉強になったろう。岩田さんの創作は、年々変わって、新鮮なものを生み続けた。古い能衣裳を見るように、絢爛とした色を見せていたかと思うと、深海の水を凍らせたように透明な、エメロードの色の塊となり、光と湿気に因って色調を変える敏感で濃い鮮苔の色を見るようなものさえ現れた。
      色は次第にマチエールに深く滲透して、ガラスの本来の性質まで変わったように見えることすらある。吹きガラスの成形も自在で、これまでの冷やかに整然とした形から離れ、彫刻されたオブジェの趣きを示した。十八世紀のイギリスあたりの精緻を極めてエレガントな性質よりも、重量感ある姿は、やはり日本の切り子のガラス伝統を、無器用からでなく、現代化したものとして、自然に現れたのではないか? 色調の、時に渋い古典的な趣きも、明らかに日本人のもので、西欧のガラスの作家に、想像がつかぬものではないか?。 
      ガラスの触感さえも、岩田さんは変更させた。前に言った乾隆硝子び自から近付いている。これも他所ならぬ東洋の味を生み出したものと言えないだろうか?。
      その岩田さんが近頃、ある雑誌に次のような若々しさに溢れた、おしゃれな感想を述べていられるのを読んだ。
      「真夜中の一時か二時、一人ぼっちになって、二、三のガラス器を並べる。ある時は戸のすき間から水銀灯を通し、ある時はスリム・ライト、サークリングライトと、光線を変えて、乱射し、反射して、ガラスの影と光りを、バリエーションの内で楽しむ。そうしたことによって、やっと昼間の粗雑、粗暴、ゴーゴー的な野卑から解放されて、さわやかな時をもつ。すると、飾ったガラスたちは、青や、茶や、緑の眼をパチパチさせて、話しかけてくる。ほんとに、夜中のガラスは、ささやく。秘事を皮膚から伝えてくる。いきものである。生きものというより魔女でさえあると思う。この赤い敷物の上で、いやベッドで映された燭台は、最近のヴェネチアのものだが、桃色と青と金色、よなよなした、もつれた腕のもろさは、私のだいすきなガラスの一つであり、茶やオレンジの敷物にすると、また変わる。周囲と置き所で変化し、感情をかえる細かい神経は、人間以上である。私は静かに、そおっと、なんでも、いうことを聞いてやる。ほんとに、扱いにくい、わがまま者、時には、しらん顔を見せる。こんなガラスの花の、燭台を作った職人に逢いたく思う。名器とは、博物館や個人の収蔵館や、お茶席の内のみにあるのではない。自分の周辺から自らに合うものを発見すればよい。私には、この二つが名器なのだ。私の欲している『エレガント』というものを語ってくれるから。すなわち、一方通行の交わりで、中年の女性の美しさを充分に楽しめる。ガラスは魔ものである。魔女で ある。」と。
      これは、私の制作はまた近く変わりますよ、と言う岩田さんの宣言のようである。この次の魔女は、どんななめらかで、体温のある肌をしていることであろうか?。 私は、今日この集にあるものだけを楽しんでいる。深夜を待たず、また光の戯れに待つこともしない。そのもの自らが美しく、また力をこもらせているからである。
      岩田とも親しい武原はんは、この文章を好んで繰り返し読んだという。

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      1967年当時の写真。武原はんの料亭、六本木「はん居」での、初午の会にて。真中和服女性が武原はん、その左が大佛次郎、右が藤七。左側後姿左が岩田マリ(藤七孫)、右が岩田邦子(藤七妻である。  
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      昭和57年は、武原はんは、数えの80歳。国立劇場で長唄の「傘寿」を西川鯉三郎の振付で初演した。鯉三郎の振付はその前の浄瑠璃舞踊「雪の角田川」に次いだ。
      「傘寿」の丸髷に黒紋付模様の舞は、典雅といったらこれほどの典雅はなかった。小生は板の上で一切を省かれた緻密を舞う「はん」の所作を、ただ冷静に見つめていた。
 そのあとに景色が変わって絶「雪」を舞ったとき、このときが絶品、小生はこの浄照光寺の桜の涙の話をふと思い出していた。 これはのちに句集のなかで知ったのだが、はんさん自身に「雪を舞ふ傘にかくるるとき涙」という句もあった。花と雪とは日本舞踊では同じものなのだ。

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                        寺島紫明の作・武原はんモデルの「愚痴」
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      毎年、5月になると国立劇場で「武原はん舞の会」が開かれた。
      二番か三番だけ地唄舞を披露するのを全員が固唾をのんで見守るという催しで、かれこれ40回以上も続いた、初期は春秋2回のときもあったが、晩年はずっと年に一度の畢生の舞台に賭けた。
 その会場で小生は、しばしば武満徹・勝新太郎・藤村志保・芝木好子・閑崎ひで女・高橋睦郎・多田美波の面々に会った。こうした出逢いも、武原はんが、小生に引き込んでくれた。随分と賑わいの濃い顔ぶれであった。
      舞台が国立劇場になる前のホールはいろいろで、日生劇場で舞ったことがあった。
      それは昭和41年のこと、小生は母とこの日生劇場の舞台を見た。小生13歳、これが初めて生の武原はんを見たときだった。それは「武原はん一代おさらいの会」と銘打たれた。
 小生が行ったのは調べてみると1日目だったようで、清元「山姥」のあと、「巴」を松本幸四郎と颯爽と踊り、荻江節の「深川八景」で粋にしめくくった。いまおもえば少年がみても溜息が出るほどの舞台で、地方が荻江露友・芳村伊十郎、都一中、富山清琴・清元延寿太夫・藤舎呂船と揃っていた。学童の小生はいかにも無粋な観客であったと思うが、母はたいそうご満悦であった。母が嬉しいと、小生も何となく嬉しいもので、鑑賞後は母の財布が弛むせいもあり、退席どきともなれば胸がトキメキ立てるのである。

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                      西頭哲三郎の博多人形 上方舞・武原はん「雪」
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      いま、武原はんの地唄舞はビデオでも見られる。
      米寿(88歳)のときにNHKが『舞ひとすじ』全6巻で制作した。それでもむろん存分に堪能できるけれど、はんの舞で溜息が出るのはやはり実際の舞台を見ていないと、おこらない。こういう体験をできずに日本に育った諸君には申し訳ないが、「武原はん」は、生きた舞台が奇蹟だったのである。

                            武原はん5「山姥」
                               清元「山姥」はん
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      さて、この本が出版されたとき、武原はんは93歳だった。
      この年齢ですぐに生まれた時代がピンとくる人はよほど歴史に詳しいか、クロニクル派だ。日露戦争の前なのである。
      はんは、徳島の花街の裏のブリキ職人の家に育った。 けれども、時代がわかったからといって、武原はんの一代記が、おおざっぱに目に浮かぶ人はいまやそんなにはいないだろう。
 小生はそのへんの事情を母の言葉で扶けられてきた。母はクロニクルな話になると、それは花柳章太郎さんが明治座で初めて鶴八鶴次郎をやった頃やな、そうやそうや、あのとき市川寿海さんが瀬戸内海に飛びこみ、あれは三浦布美子が最初に三越名人会に出たときだったなというぐあいに、時代を芸能の出来事で語ることが多かったのだ。その手の話にときどき武原はんの名が出てきた。女が女を語る光景とは、これもじつに艶があるのだ。
      あれは、はんさんが「はん弥」の名前で新橋の芸者をしてたときやったな、ヘップバーンの『ローマの休日』見たあとに、赤坂の「はん居」(赤坂新町に武原はんが出した料亭)に行ったんや、その夜はヒラリーがエベレストのてっぺんまで行ったこともあり、えらい大騒ぎやった、といったふうに。
 これを最近の四方山話でいうなら、あれは藤田が投げて長島が2本のホームランを打ったときだとか、ユーミンが「中央ハイウェイ」を歌っていたとか、まだビートたけしがツービートにいたとき、テレビドラマの『不揃いの林檎たち』で泣いたころというようなことになるのだが、どうもこの手の話が野球は野球の話、漫才は漫才だけの話、テレビはテレビの話になりがちになっている。
 それでも当座のお喋りは盛り上がるだろうが、むしろ重要なのは一人の芸人や一人の舞い手がどんな時代をかいくぐって舞台に立っていたのか、球場にいたのか、ピッチに立っていたのか、レコードを出したかということなのである。

                            武原はん6「雪折竹」
                              大和楽「雪折竹」はん
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      武原はんは、徳島で生まれ、11歳のときに両親とともに大阪に引っ越した。
      大正3年である。それだけならなんでもないが、すぐに宗右衛門町の大和屋の芸妓学校に通わされた。 そのころの大和屋や富田屋は大きかった。
      今回の「武原はん一代」の本書にも出てくるが、20歳までの芸妓がそれぞれざっと30人ほどいて、修行中の女の子なら40人、50人がいた。稽古場には三味線が何十挺もずらりとかけてあったという。
      その大和屋が芸妓学校をやっていて、生徒が5、6人ごとにお稽古をしていた。はんは、長唄は安田フサに、清元は清元梅之助に、舞は山村千代に習った。山村千代はそのころは大和屋のご隠居さんの立場にあった。いまはなくなってしまった大阪ミナミの名物「芦辺踊り」の雪洞(ぼんぼり)が宗右衛門町や戎橋に華やぎを灯していたころのことである。
 それでどうなったかというと、14歳で芸者になり、20歳で大和屋から離れた。商家のぼんぼんに夢中になって自前の芸者になろうとしたからである。それが関東大震災の年で、大杉栄が虐殺され、朔太郎が『青猫』を問うた。そんな時代のことだ。
      昭和5年の27歳のときに、はんは、東京の大地主の次男の後添えとして嫁入りした。前年にニューヨークの株が大暴落して、世界恐慌が始まった年、日本はここから軍靴の音が大きくなっていって、翌年には満州事変に突入する。そういうときに、はんは東京で嫁になった。

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                               浄瑠璃「雪」はん
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      この大地主の次男というのが青山二郎である。
      ちょうど柳宗悦の民芸への関心が高まってきたころだ。たちまちはんの周囲は青山の広い交友たちに囲まれ、小林秀雄、永井龍男、中原中也、宇野千代らとの談笑が賑やかになる。
 が、それは一刻一刻が美の真剣勝負のようなものでもあった。ともかくも、この青山二郎との出会いがなかったら、はんは、武原はんにはならなかった。また、その青山二郎との「生活の日々」を、結局は拒否したことが武原はんを作った。3年で離婚してしまったのだ。
      べつだん喧嘩して別れたのではない。みんながはんを応援してのことだ。 31歳でふたたび独り身になると、はんは一方で写経を始め(これは死ぬまで続いた)、一方で「なだ万」の女将の妹分として働き、一方で踊りに打ちこもうとし、一方で俳句を始めた。
      写経は高野山の柴田全乗の指導、俳句は高浜虚子に師事した。俳号は「はん女」。
      けれども、独り身でなにもかもに挑もうというのはさすがに難しい。時代も風雲急を告げていた。はんは「はん弥」を名のって新橋芸者となった。 そこではんは、片手間なんぞで芸者はできないとみて、かえって気合を入れた。そこがこの人の真骨頂だった。

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                               地唄「翁」はん
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      新橋芸者40人を率きつれて御嶽山に登り、滝行をやってのけている。
      キャーキャー騒ぐ芸者一行の先頭に立って、高らかに「六根清浄」を唱えつづけたのは、はんさんなのだ。それが昭和15年の日独伊三国同盟を結んだ紀元2600年の年で、日本が翌年にはアメリカに先制攻撃を仕掛けようとしていた時期であることを知ってみれば、はんの覚悟が知れる。
 そのころ学習院の大学学長だった安倍能成がその凜とした覚悟に舌を巻いて唸ったという話がのこっている。そういうはんだから、座敷では平気に飲み尽くしては、座が盛り上がるなら阿波踊りを1時間以上も踊ってみせた。これらには吉井勇がシャッポを脱いだ。

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                              吉井 勇

      日本は敗けた。東京は焼けた。
      昭和21年、はんは木挽町に再建された「なだ万」を引き受けて女将となり、両親を徳島から呼ぶと築地会館の4階で糊口をしのぐ。 弟子をとったらという勧めでそういうこともするのだが、これはあまりに稽古が厳しすぎて弟子が近寄れない。
      大和屋のころのオッショサン(お師匠さん)はえらかったと、そこは自分で謙虚に回顧している。が、このとき(昭和25年)に三越名人会で舞った「雪」がすでに評判になっていた。
      はんの「雪」はまさしく「もののあはれ」なのである。
      やがて鎌倉に「なだ万」別荘に両親を移し、そこで昵懇となった大佛次郎を頼り、両親があいついで亡くなると、はんはついに第1回のリサイタルに向かっていく。これがその後もずっと続いた「武原はん舞の会」のスタートである。
      昭和27年師走に新橋演舞場で開かれたもので、鯉三郎、藤間勘十郎、尾上菊之丞がお祝いに踊って、はんは大和楽「師宣」と長唄「巴」を舞った。扇を横山大観と小林古渓が描いた。たちまち文部省芸術祭奨励賞を受けた。それが49歳のとき、美空ひばりが「りんご追分」を唄い、白井義男がダド・マリノを殴打して日本人が初めてボクシング世界チャンピオンになった年になる。
      ここから先、はんさんが亡くなるまでのことは省略する。本書巻末の詳しい年表を見られるとよい。モノクロだが写真も多い。 まさに地唄舞一筋であるけれど、生涯、写経や俳句や御嶽山参りはやめなかった。俳句は決して上手というものではないけれど、その五七五の舞台に、素面ですっと立つというような素直な風情を詠んでいる。

      行く年の扇ひとつをたよりなる

      はんさんは大阪に育った上方舞を東京に移して、美の極北にまで仕上げた。いま、上方舞は見る影もない。そこをどうしていくか、である。このためには改めて、本書をお読み直されるのもよろしかろう。
      ともかくもはんさんは、自ら工夫した豪華な衣装も話題にしたし、その美しく気品に満ちた舞姿は「動く錦絵」と言われた。特に男に捨てられた寂しい女心を舞う地唄『雪』ははんの代表作となった。小生はその雪よりも「鐘が岬」に静かさが胸に迫る。
      流派に属さず、また自ら流派を立て弟子を取ることもなく個人舞踊家としての身を貫いた。晩年には花柳寿々紫、藤村志保、神崎えんらを膝下に置き、薫陶を与えた。 俳句と文章を高浜虚子に学び、俳号はん女。虚子が名付けた六本木の料亭「はん居」を1982年まで30年間経営した。
      そこらの開眼というか真髄の妙については後編(下)のことにする。

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      武原はん 素材「鐘が岬」 W500H420


                        読了記  第8話に続く・・・連載

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Author:三馬漱太郎
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Sotarou Miuma
立体言語学博士
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