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ひとひらの書 第3話 『中世歌論集』 下

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      A 7 gif   第3話・・・『 中世歌論集    

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      A 15 gif ひとひらの書 第1話 中世歌論集(心敬)正


      寛正4年(1463)、心敬は故郷の紀州に帰った。
      ところが戻ってみた紀州にも、畠山の家督争いが及んでいて、心敬は「紀州十余年のみだれ」に身を乱される。「月のみぞ形見にうかぶ紀の川やしづみし人のあとのしらなみ」。ここにおいて述作することになったのが『ささめごと』だった。まさに無常の極点において綴ったのであろう。
 そして綴りおわると、都に帰京した。59歳になっていた。
 しばらく都をあけた心敬は、細川勝元の重臣の安富盛長が張行した「熊野千句」の宗匠として迎えられた。
 つづいて、践祚した後土御門天皇の連歌会にも招かれた。一日二座の観桜連歌もあった。心敬はしだいに多忙をきわめるのだが、そうなればなるほどその風韻は冴えわたっていった。
 このころの発句に、小生が好きな「梅おくる風は匂ひのあるじかな」があった。 しかし時代のほうはついに応仁天明の大乱に突入していくのである。そして連歌史上からいうと、このときこそ世間が心敬の凍えるような感覚の軍門にくだるのである。「心あらば今をながめよ冬の山」。この山を面影とみなした歌はまさに道元に匹敵していよう。 こうして64歳がやってきた。

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      心敬は『ひとりごと』を述作し、『心玉集』を精選し、「雲はなほさだめある世の時雨かな」と詠んだ。そしてどうしたか。伊勢に向かい、大神宮に参籠すると、そのまま東国に下っていったのだ。
 ここから先、心敬はただ旅ばかりの歌詠みになっていく。伊豆にも富士にも品川にも、川越にも日光にも会津にも、ついには白河の関にまで脚を伸ばした。それはもはや芭蕉の一歩手前なのである。
 きっと小生はこうはいかないだろう。能登に行ったり京都の北に行ったりはするかもしれないが、そのまま旅先で枯れ野をかけめぐるようにはならないだろう。雪の枯れ野といえば、ま、小生はボストンの寒冷地までは来てみたが、これは苦笑しかない。やはり生身には限界がある。
       かくて文明7年(1475)、心敬は太田道灌に請われて「法華二十八品和歌」と「武州江戸歌合」の判者を勤めると、そのまま一人で相模大山に入り、そこで静かに示寂してしまうのだ。
      70歳だった。そのときまで、小生にはもう少しあるようだ。

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                 心敬が晩年を過ごしたという石蔵山浄業寺の跡地 (神奈川県伊勢原市)

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      さて、では、『ささめごと』『ひとりごと』、そして連歌や発句の心敬である。さまようのはいくらでも果てしなくなりそうなので、何かのレンズをつけて焦点を動かすことにする。
 まず、以前から気になっていたのだが、心敬には「打ち消し」が効いているということである。こういうぐあいに。 なるほど、打ち消せる眼が枯れた眼力だ。この打ち消しの眼が後世の歌を飛躍させた。

          古寺は松の戸たたく人もなし
          散る花にあすはうらみむ風もなし

          朝霧に萩の葉ぬれて風もなし
          日をいたむ一葉はおとす風もなし

          あさ鳥の霞になきて花もなし
          世は春とかすめばおもふ花もなし

          朝ぼらけ霞やちらす花もなし
          散るを見てこぬ人かこつ花もなし

          夏の夜は草葉を夜の露もなし
          神な月山里ならぬ宿もなし
          雪はれて鏡をかけぬ山もなし

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      心敬ばかりがこういう打ち消しを詠んでいるのではないが、心敬にはこの意図がいっそう強い。小生はボストン大学大学院の講義の稽古に、「そこにないものをあげなさい」という独特のエクササイズを組みこんでみたのだが、このように何かを歌い出したり、何かに向かうにあたって、当初に「ないもの」から始めるというのは、たいそう好きな方法の端緒なのである。
 最後にあげた「雪はれて鏡をかけぬ山もなし」は特段にそのことを感じる。 はたして初期の心敬にそういう意図があったかどうかは知らない。あったとすればブレヒトの“異化”に匹敵する方法だ。
 そこはどうなっていたかは予想がつかないけれど、これがいずれ「こほり」や「寒さ」や「枯れ木」の独壇場になっていくのを知ってみると、存外、このころから心敬には「欠如や欠損をめぐる美意識」が芽生えていたかとも思われる。

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                              心敬直筆の和歌
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      これはつまり「負の芽生え」というものだ。「負をもって面影をのこす」という方法だ。
      結局、小生が心敬に惚れるのは「負を詠む」という方法に惹かれてのことだったのであるが、それはいろいろ読んでいくと、けっこう早期の心敬にも萌芽していたようなのである。
 その「負」や「打ち消し」にも多少つながるのは、心敬が中期からしきりに「青し」や「にほひ」を通して、色があるのかないのかわからない境い目のようなところに歌を投じていっていることだろう。
 ふつうは、敷島の道においては、「にほひ」や「色」は匂ひ立つものであり、立ち上がってくるものである。ところが心敬のは、そうではない。消え残るのだ。これらは「負の手前」のものなのだ。

          水青し消えていくかの春の雪
          風おろす山松あおし雪の庭

          露青き草葉はかべに枯れやらで
          月に見ぬおぼろは花のにほひかな
          みる人を色なる月のひかりかな

 これで見当がつくように、心敬の「にほひ」は「水青し消えていくかの春の雪」や「月に見ぬおぼろは花のにほひかな」をへて、「みる人を色なる月のひかりかな」に至るのだ。
 そして、こうなる。

          松の葉に冬野の色は残りけり

 小生には小学校4年生くらいに「木の壷にいちごの色や残したる」と、中学生になったばかりに「赤き水のこして泳ぐ金魚かな」と詠んだ句があったものだが、これはたんに色めいただけのこと、「冬野に色」というふうにはならなかった。
 心敬においては、松の葉と冬野は僅少きわまりない色だけで響きあっている。それを理解するには、「みる人を色なる月のひかりかな」の感覚のまま、「松の葉に冬野の色は残りけり」に入っていくといいだろう。
 心敬はこのように、二つに離れた現象内感覚を最小の共鳴で結ぶのが得意なのである。むろん、それは引き算による残部僅少というものだ。
 そこで、連歌独吟ということになる。引き算がきわどい一人連歌だ。「山何百韻」や「何路百韻」から少々あげておく。

          心あらば今を眺め世冬の山
          紅葉もすこし散りのこる枝

          木枯のときしもあらく吹きいでて
          こほるばかりの水ぞすみぬる

          打ちしほれ朝川わたる旅の袖
          棹のしづくもかかる舟みち

          世の中や風の上なる野辺の露
          迷ひうかるる雲きりの山

          啼く鳥の梢うしなふ日は暮れて
          月にも恥ぢずのこる老が身

          吹く風の音はつれなき秋の空
          むかへばやがて消ゆる浮き霧

                        心敬16
                          心敬が書いた古今和歌集の奥書
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      これらはまさしく「うしなふものの寸前」を詠んでいる。その寸前だけを詠みたくて詠んでいる。あるいは「消へるものの直前」の、それでもなお消え残って残響している「にほひ」や「ひかり」を詠んでいる。 ナッシングなのではない。ナッシング・ビーイングなのである。
 それが「向かへばやがて消ゆる浮き霧」なのだ。が、ここまではまだしも古今・新古今の和歌の風雅や余情の延長でも語れるものがあった。まだ余人を許さないというほどではない。
 それがこのあとの心敬においてはさらに冷えてくる。痩せてくる。枯れてくる。
 こうなると、もはや心敬を誰かと比較することすら不可能になる。唐木順三はそこをよくも心敬以外の者と比較しながら分け入ったものだった。
 では、『ささめごと』とその後における冷え寂びていく口調を、小生なりの順でつかまえておく。
 こんなふうなら、どうか。
 まずは、この一節。「心詞すくなく痩せたる句のうちに秀逸はあるべし」からである。これは草稿なのだが、それがのちの決定稿では「心詞すくなく冷えたる句のうちに秀逸はあるべしとなり」というふうになる。「痩せたる」が「冷えたる」に移っていくのだ。
 ついで心敬は、このことを言い換えて、「有心躰とて心こもりたる躰、たけたかき躰とてやせさむき躰をまなび」とのべて、「たけたかき躰」と「やせさむき躰」とを重ねてみせていく。
 こうなると、余人には手が出ない。「たけたかき」と「やせさむき」は重ならない。のみならず、『老のくりこと』では「たけたかく、ひえほこり侍る」というふうに出していく。これらの微妙な変化さえ、集約すれば、すべからく「冷え」なのだというふうに断言していくのだった。
 痩せるも有心(うしん)、冷えるも有心。寒きも有心なのである。無心ではない。有心なのである。いったい心敬は「冷える」ということをどんな意味でつかまえたかったのだろうか。やはり次の歌を知らなくてはならない。

          秋たてば氷をむすぶ清水かな
          山深し心に落つる秋の水

          日やうつる木下水のむらこほり
          日を寒み水も衣きる氷かな

          とちそひて月は入るまの氷かな
          下葉行くささ水寒き岩ねかな
          氷りけり瀬々を千鳥のはしり水

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      この絶品の連打は、まさに凍てつく艶(えん)である。零下の歌謡というものだ。
      あえて写生的にとらえれば、これらは、だいたいは「薄氷」の表象だということになるかもしれないが(そう主張する研究者も多い)、小生はそのように限定しなくともいいと思っている。 そのように限定しないほうがいいと思える証拠の端的な一節が、やはり『ささめごと』にあった。「道に心さし深くしみこほりたる人は、玉のほかに光をたづね、花のほかに匂ひをもとむるまことの道なるべし」というものだ。

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 「深くしみこほりたる人」というのは「凍み氷る人」ということだが、心敬はそれこそが「道心」をもつ人だというのだ。ついに人倫さえ冷え寂びたのである。それはまた、光といえば「玉」を、匂いといえば「花」を詠むようなクリシェな連中からは生まれまいとも言っている。
 このことについては『芝草』の自注において、さらに決定的になっていく。こういうものだ。

 氷は水より出でて水より寒し。藍はあゐより出でてあゐより青し。にほひは色より艶ふかし。藍よりもあゐは出でて藍よりも青しといへるごとく、花よりも匂いは艶ふかし。

      そろそろこのへんが絶顛である。まことに冷えきっている。
      あしたは雪かと思うばかりだ。 同じく『芝草』の自句自注では、さらにこのように絞りあげている。「木枯らしはさしもさえこほり侍れば、わが哥道のあたたかなる方をさそひうしなひ侍れかしと也」。こう綴ることによって、自分の温かなところもいっさい払拭してみようと決断をしているのだ。
 勘違いをしてもらっては困るのだが、これは非情を決断したというのではない。今回は解説しなかったけれど、心敬は横川に学び、歌道よりも仏道に時を費やした歌僧なのである。さまざまに仏教の蘊蓄も傾けている。とくに三体止観を中核にすえた天台教学への深まりには尋常でないものがある。
 仏道が慈悲に支えられていることなど、よくよく弁えていた。 それでも心敬は、自身の温もりを断とうとしたのである。生活の日々でそうしたいというのではなく、歌において断ち切ったのだ。
 こんなこと、小生にはとうていできそうもないことである。
 こんな歌がある。とんでもない歌だと見ていいだろう。こういう歌を中世に他の歌人や連歌師は詠んでいたのだろうか。小生には思い当たらない。「心を殺す春」という歌だ。
 「春は遠くからけぶって来る」と書いた朔太郎も、これにはとうてい及ばない。
  人の世は花もつるぎのうゑ木にて人の心をころす春かな ああ、今回も残り少なくなってきた。もう、やめよう。今朝という、誕生日はやっぱり不吉だったのだ。誰かと一緒に無常をしようとおもっていたけれど、その時間さえなくなってきた。心敬の、冷え寂びは、やはり格別すぎている。

                                 


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 久松潜一編『中世歌論集』(岩波文庫1934)・伊地知鐡男校注訳『連歌論集・能楽論集・俳論集』(日本古典文学全集51・岩波書店1973)・湯浅清『心敬の研究・校文篇』(風間書房1986)・横山重編「心敬作品集」(角川書店1972)より

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                        読了記  第4話に続く・・・連載

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