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ひとひらの書 第2話 『中世歌論集』 中

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      A 7 gif   第2話・・・『 中世歌論集    

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      A 15 gif ひとひらの書 第1話 中世歌論集(心敬)正


      先日の連休はカレーを作りながらグラミー賞をTV観戦というリラックスした休日となった。カレーは(念願の)市販のカレー粉を使わないスパイスだけのものにチャレンジ。クミン、ターメリック、そしてコリアンダーを押さえておけばすっかり本格派カレーじゃないですか!。自己満足の域にしろ、初めての割には、意外と簡単だったのと小麦粉が入っていないのでヘルシー、何よりスパイシーさが際立っていて自分好みだった。これなら「店だと700円ぐらいとれるんじゃないか?」と、やはり過大評価で自己満足の世界に浸っていた。
 そんな小生のカレー作りの休日とは対照的に、華やかな世界を繰り広げていたのがグラミー賞である。最近の音楽シーンに疎いので正直興味はあまりなかったのであるが、プリンスやエルトン・ジョンが登場したり、ショーも凝っているので結構面白い。やはりエンターテイメントに関してはアメリカ流石だなと、感心もする。また、ダンスで魅せる訳でもなく、インテリっぽい雰囲気のゴティエが最優秀レコード賞をとっちゃう所も凄いですねと思わせた。
 そのゴティエが、インタビューの際に日本語を喋っていた。抑揚がどうにも耳触りよく聞ける。何故だろう?と思って調べてみると、地元オーストラリアの高校と大学で日本語を勉強していたらしく、三重県でのホームステイ経験もあるとか。どうりで隔たりを感じさせない。一気に親近感が湧いてきた。ジャズ部門では、話題となったチック・コリア&ゲイリー・バートンやエスペランサらが受賞。さてそんな現代の歌謡から日本の中世歌論に話を戻すことにする。
      カレーとはインド風の時雨煮のようだ。
      さてさて・・・、そのしぐれ哉、心敬の歌の抑揚に迫ることにする。

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      『日本人の心の歴史』(上下) 唐木順三 著 1976 筑摩叢書               『無常』 唐木順三 著 1965 筑摩叢書

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      昔の歌仙のある人の、歌をばいかやうに詠むべきものぞと尋ねる侍れば、枯野のすすき、有明の月と答へ侍り。これは云はぬ所に心をかけ、冷え寂びたるかたを悟り知れとなり。さかひに入りはてたる人の句は、此の風情のみなるべし。
 有名になりすぎた一節だが、その意図を汲みきるのは必ずしも容易ではない。だから、このくだりはよくよく読みこんでもらいたい。小生も可能な限り深堀に構えた。
 その小生も、よろしいか。心敬は「これは云はぬ所に心をかけ、冷え寂びたるかたを悟り知れとなり」と言うのである。「冷え寂びたるかた」を心せよというのだ。それが「さかひに入りはてたる人」の風情というものだというのだ。 西行を飛び越えた。突き抜けた。
 ここまで言っていいのか、というリミナルな幽境である。さらにはこのあと、「水精(すいしょう)の物に瑠璃をもりたるやうにと云へり。これは寒く清かれとなり」とも言っている。 寒いけれど、清いのである。それもガラスのコップに一杯の水が入っているだけの、そこに光が当たっているというだけの、ただそれだけの清冽だ。しかし、それ以上の何があるかという問いなのである。こうして唐木はさらにつづいて、『ひとりごと』から次の一節を引いていた。事態はついに、水から氷にまですすんでいく。
 小生はここらではもう冷凍されている。カチンと痺れて金縛りなのだ。

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      氷ばかり艶なるはなし。苅田の原などの朝のうすこほり。ふりたるひはだの軒のつらら。枯野の草木など、露霜のとぢたる風情、おもしろく、艶にも侍らずや。
 参った。もはや言うことがない。「氷ばかり艶なるはなし」まで行ってしまっている! 小生は痺れまくった。 少々ながら、当時の読書時のことをふりかえって解説をしておこう。唐木は『日本人の心の歴史』を、まず(1)「見れど飽かぬ」で始めたのだった。
 ついで、(2)万葉の「思ふ」が(3)古今の「見る」になって心で見るになっていったこと、そのため(4)「春秋がいづれまさる」を競い合わせ、(5)季節の呼び寄せが明示化され、(6)四季の彩りの配列と、(7)その部立(ぶだて)化が進捗したと説明して、そこでいったんは定家の「見渡せば」などの牽引によって(8)「秋の夕暮」への傾斜が深まったのだが、そこから一気に転じて、(9)「冬の美」の発見に向かったのだ、と説いたのである(数字は『日本人の心の歴史』の章立て)。
 小生はそのあたりでぜいぜい喘いでいたのだと想う。「氷ばかり艶なるはなし」の面影がついに近くなってきたという、ぜいぜいだ。完全に息切れる。
 ところが、唐木はここで明恵、道元、世阿弥と連打した。これには意表をつかれた。
 明恵は「雲を出でて我にともなふ冬の月 風や身にしむ雪やつめたき」、道元は「冬草も見えぬ雪野のしらさぎは おのがすがたに身をかくしけり」だった。 二首ともに、なんだか凄いものを詠んでいる。
 明恵は「風や身にしむ雪やつめたき」と言っているのに(これは当たり前だ)、それは「我にともなふ冬の月」の心だというふうにした。道元は雪野の白鷺をまるでマレーヴィッチのシュプレマティスムか、あるいは北園克衛の「白の中の白」のように見るのだが(これも当たり前だ、でもしかし)、それは我でもあって、それゆえの「おのがすがたに身をかくしけり」というのだ。
 そうなのだ、ここでは「すがた」が「身」を隠してしまっている。
 さあ、とんでもないところへ来たぞと思うまもなく、唐木は第9章を「冬の美」とタイトリングして、世阿弥から話を一気に心敬に飛ばしていったものだった。
 世阿弥の話は、むろん幽玄や「時分の花」などのことである。その当時のぼくにとってもおなじみのものである。が、とはいえ唐木はそういう話をしながら、突然に『花鏡』の次の一節を提示した。こういう介入は、当時の小生にはまだ新鮮だった。 心(しん)より出でくる能とは、無上の上手の、申楽に物数ののち、二曲も物まねも儀理(=筋のこと)もさしてなき能の、さびさびとしたる中に、何とやらん感心のある所なり。是を、冷えたる曲と申す。
 心(しん)なる能の無上の上手とは、「冷えたる曲」というものである。「さびさびとしたる」で、「冷えたる」ということが世阿弥の幽玄だったのである。 そのころは『花伝書』(風姿花伝)だけで、まだ『花鏡』を読んでいなかった小生は、このあたりでかなり浮足立っていたのではないかと憶う。しかしすぐに、ぜいぜいはどぎまぎに変じていった。世阿弥はつづいて「凍み氷りて、静かに美しく出でくるままに能をすれば、番数重なるとき、能の気色沈む相あり」と加えていたからだ。
 おお、おお。これはまさしく「花」から「氷」への転換だ。花に氷などではない。
 花がなくなって、氷だけがある。そういう花から氷への転換である。 このとき小生は、この「花から氷への転換」をのちのち誰かに説明するのは控えようと思ったものだった。事実、小生は、このことをとくとくと話すことを、あえてしてこなかった。
 こういうことは、めずらしい。小生はめったに入手したトピックを隠さない。なのに、この世阿弥と心敬については保留した。その理由のようなものは、この「ひとひらの書」の後編章に大仏次郎の『冬の紳士』をあげ、ヘミングウェイの『キリマンジャロの雪』をとりあげる理由と近いものがあるのだが、そのあたりの事情、まことに輻湊するので、今回は書かないでおく。
      それにしても唐木が心敬からの出発を解くにあたって、明恵・道元・世阿弥と連打したのは痛烈だった。当時の小生は、「さびさび」「凍み氷る」「冷えたる」「沈みたる」にひたすら右往左往するばかりだったろう。しかしながら唐木は平然と、これをさしずめ「寂寥相」というべきかなどと書いていた。 こうして、小生のなかにも、いよいよ心敬の本来が登場したのである。
 「艶」はまっしぐらに「冷え寂び」になっていったのだ。
 さて、ここからは心敬の著作『ささめごと』や『ひとりごと』などの著作のなかの彷徨と、和歌や連歌の心敬風雅のたゆたいに入りたいのだが、その前に心敬の生い立ちをかんたんに紹介しておきつつ、連歌師として作風をスケッチしておくことにする。

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                           心敬直筆の「連歌百句付」

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      心敬の70年ほどの生涯には仏道と歌道の両面が交差していた。
      それは西行と同じだ。
      ただし、連歌師心敬を知る者にはその仏道があまり見えてはこないのだけれど、心敬自身には仏道に励んで、むしろ歌道に精進しきれなかったという晩年の回顧があった。最晩年の『老いのくりごと』には「むねの内、さながら、かたみに入る水のごとく、一の露もとどまらず」とあって、仏道のために多くの暇を費やしていたことをふりかえっている。
      心敬が生まれたのは応永13年(1406)の紀州名草の田井庄である。3歳で都に上ってからの詳細はないが、15歳で清水坂の南にあった十住心院に預けられ、そこから比叡山の横川(よかわ)に入って仏道修行をした。
 この時代は後小松天皇時代、足利義持の4代将軍時代にあたる。応永は35年間もあるのだが、この時期はまだ政情は安定していた。
 十住心院はしばらく心敬のホームグラウンドになった。横川の修行がおわるとここに落ち着いた。そこは管領畠山家の氏寺でもあった。そのため応仁の乱では心敬の立場は微妙なものとなるのだが、そのような政治とのかかわりばかりでなく、のちのち長きにわたって師と仰いだ正徹(しょうてつ)が初めて訪れたのも、この十住心院だった。それが24歳ころからのことだ。
 以来というもの、心敬は「清岩和尚(正徹)に三十年師事」(『ひとりごと』)という立場を貫いた。
 永享3年(1431)、心敬26歳のときには将軍義教が十住心院に渡御して毘沙門講をひらいた。それから2年後、北野社の社頭で将軍主催の1日1万句の連歌会が催され、ようやく心敬も召し抱えられている。将軍義教と管領細川持之のもと、会衆には一条兼良や九条教満や二条持基が並び、連歌師にも北野連歌会所の奉行の承祐を筆頭に、忍誓・能阿・宗砌・親当らの当代一流が加わった。
 心敬は連海法師の名で日野中納言重松義松の席に連なって、第三を勤めた。連海は法名であろう。お題は「梅」だったようで、山何百韻の第三までの記録がのこっている。

          万代をしらゆふけよ八重ざくら(日野中納言)
          みどり春めく神の御さかき(藤原宗有)
          朝日寺さす宮井はのどかにて(連梅法師=心敬)

 ま、寺と照らすを掛けたり、固有名詞を入れこんだりの、やや技巧に走ったもので、のちの技巧を捨てた心敬の詠みとはずいぶんちがっている。しかしこれをきっかけに心敬は十住心院の住持として、いわゆる歌僧時代の20年をおくることになった。
 歌僧心敬を指導しつづけたのは正徹である。今川了俊の筋にいた。小生はいっとき正徹にも目がなかったのだが(とくに『正徹物語』)、ここではその歌業については省く。
 その正徹が何を心敬にもたらしたかは、しかしあきらかだ。ひたすら無常を伝えた。正徹自身が無常をかこっていた。心敬が31歳になったころの歌に、「三十(みそぢ)よりこの世の夢は破れけり松吹く風やよその夕暮」(百首和歌)があるのだが、これは、正徹の歌が最後の勅撰和歌集となった『新続古今和歌集』(飛鳥井雅世の撰)に一首しか採用されなかったことを含めて、そのころの正徹に「はかなさ」や「無常」が忍び寄りつつあったことを継承しているかのようなのだ。心敬は同じころ、次のような歌ものこしていた。

          はかなくもこの世の夢に入(い)る人の
                     玉の緒とめぬみじかよの空

 しかし「はかなさ」を内に入れるようになった心敬は、かえって次の時代の連歌師としての発露をすさまじくも、また端正にも、さらにその面影を寒くもしていった。それが40代から50代にかけてのこと、百韻連歌のいくつかから、その展開の妙をとりだしてならべてみれば、その心敬の職能力も伝わってくる。心敬の変化も見える。たとえば――。

          うちしほれわくる裳裾に鴫ぞ立つ 山田のはらの霧のゆふ暮(心敬)
          人もなき苅田のはらに立つ鴫や をのがあはれを寝にもなくらん(師阿)

          時雨ゆく遠山もとのははそ原 くれなゐまではえやは染ぬる(毘親)
          染めのこす峯のもみぢ葉ひさかたの 山より北の色なしぐれそ(心敬)

          泊瀬女が秋の手染のかた糸を こよひあはせにむすぶ露かな(心敬)
          かけうへし井垣のみしめ末終に 契りありてやなびきあふらん(青阿)

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                                 応仁の乱
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      正徹は77歳で往生した。長禄3年(1459)、心敬が54歳のときである。「ことの葉はつゐに色なきわが身かな むかしはまま子いまはみなし子」というドキッとするような歌を送っている。
 何という歌だろう。小生は「昔は継子、今は孤し児」などとはとうてい歌えない。あえていうのなら、かつて『日本流』や『日本という方法』で内村鑑三と野口雨情とを“棄民論”でつなげたときに、やっとのこと、この凍てついた意味を指先でたどれた程度であった。
 だから、小生にとってはここからが本気の心敬なのである。小生は居住まいをただして、そう思った。
 実際の心敬がどういうふうになっていったかといえば、一方で『ささめごと』を綴って連歌をゆさぶり、『ひとりごと』を綴って正徹門下を動かし、そして自身は発句に冷えていったのだ。その跡のよすがを知る『心玉集』に、こんなふうにある。
 毘親が「霜の色そふかみのあはれさ」と詠むと、心敬は「櫛の歯に風も音する冬の空」とやったのだ。正頼が「露もりあかす草のかり庵」とつなげたら、心敬は「いにしへを忘れぬ山の夜の雨」と切ったのだ。いや、有名な『芝草』では、それを自分一人でやってもみせた。その一方で『ささめごと』や『ひとりごと』にどんなことを綴っていたのかは、あとでふれる。
 寛正4年(1463)、心敬は故郷の紀州に帰った。帰って氏神である田井庄のお宮に参籠し、法楽の『百首和歌』を詠進した。なぜ故郷に帰ったかといえば、都が吹き荒れたからである。応仁の乱の激突まではあと3、4年のことなのだ。


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 久松潜一編『中世歌論集』(岩波文庫1934)・伊地知鐡男校注訳『連歌論集・能楽論集・俳論集』(日本古典文学全集51・岩波書店1973)・湯浅清『心敬の研究・校文篇』(風間書房1986)・横山重編「心敬作品集」(角川書店1972)より

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                        読了記  第3話に続く・・・連載

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Social Language Academy Adviser
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