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小説『花そとば』 第43話

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   はなそとば タイトル
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               第二部 山端の巫女(やまはなのみこ)   43

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      十  宙の雉子 (いえのきじ)   



 江口章子(あやこ)は千葉県柏市の増尾(ますお)というところに住んでいたことがあり、手賀沼(てがぬま)を詠んでいる。増尾の少林寺境内にその歌碑がある。
 手賀沼は、もともと「つ」の形をした大きな沼であったが、現在では干拓事業によって約8割の水域が消滅し、北と南に分離された形になっている。干拓された地域には水田が開かれた。それでも残る2割の沼は我孫子のシンボルである。北の水域を手賀沼(上沼)、南の水域を下手賀沼(下沼)という。
 章子が住んだ当時の手賀沼は、カモなどの水鳥やコイ、ウナギなどの魚介類に恵まれ、特に水鳥とウナギは関東の人々に美味として珍重されていた。現在でも我孫子市内には江戸時代から続くウナギ屋や、コイやフナ料理の店が多い。
 大正時代の湖畔には、志賀直哉や武者小路実篤らの別荘もあり、手賀沼は白樺派ゆかりの地であった。

                 手賀沼の 水のほとりをさまよいつ 芦刈る音を わがものとせし

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 江口章子は大分県の出身である。平塚雷鳥を頼って上京したとはいえ、どんな縁があって柏に住むようになったのか。人の記録ではない記録の眼差しの他にある章子がいるはずだ。彼女の人生と京都山端とで有り得そうな接点を見出したい雨田虎彦は、徒労に終わることを承知して、その少林寺を訪ねた。
 名戸ヶ谷にある法林寺の大イチョウは天を突く。増尾城址の土塁に積もった枯れ葉を踏んで歩いた。万福寺を過ぎて細い道を入り右往左往しているうちに、ぽつぽつと雨が降り始めた。

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 道をたずねた。若葉のトンネルの細い坂道を下る。雨に濡れた木々は緑を一層濃くし、生気が横溢している。坂を下りきったところで少林寺にたどり着いた。
 歌碑はすぐに見つかった。1990年に地元有志によって建てられている。境内を一巡し、玄関に置かれた銅鐸のような鉦を叩いた。
 栗原照慶住職を訪ねたわけではない。不在であればよかったのだが、生憎そうではなく栗原住職とは大イチョウの話など少しして退散しようとすると、わずか二、三分ほどの会話に、住職は要領をえない顔でただ口をポカンと開いていた。玄関はただ叩き音を出すために意味があった。章子への挨拶である。

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  しょうりん寺 柏市の増尾 動1 gif       しょうりん寺 柏市の増尾 動3 gif

 何も栗原住職だけではない。脇にいた香織も口をポカンと開いていた。
 この後、千葉県松戸市南花島に回る予定もあった。
 グンゼ株式会社(大阪府大阪市北区に本社)という、男性用肌着・インナーを主とする繊維メーカーがある。
 創業者の波多野鶴吉が、1896年(明治29年)に創業した。蚕糸業の振興を目的に郡是製絲株式會社として設立されるが、蚕糸・紡績業が国家事業として、力が注がれていた明治期にあって、早くから海外に生糸を輸出し、高い評価を得ると共に、また海外の拠点開設も早い段階で行われていたことから急速に業績を拡大してゆく。
 その登記上の本社が現在、京都府綾部市青野町膳所1番地となっている。
 ここが創業の地である。
 現在でも綾部駅北口一帯はグンゼの社有地で、研究所、工場のほか、1933年年(昭和8年)築の本社、1917年(大正7年)築の旧本社(現グンゼ記念館)、大正初期築の繭蔵(現・グンゼ博物苑)、1917年(大正6年)築のグンゼ本工場正門、大正後期築の郡是製糸蚕事所本館など、グンゼの歴史的建造物が並んでいる。

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 江口章子は1922年(大正11年)年に、京都は綾部の郡是製糸工場本社に入社、4か月ほどで退社した。わずかな間だが、女工らの待遇問題などで同社の教育部長と「万朝報」紙上で論争を展開した。
 翌1923年には一休寺の林山太空との婚約を発表し、これは数か月で離縁。その年に京都・大徳寺の塔頭聚光院の住職中村(豊田)戒仙と出会い、東葛飾郡土村増尾(現在の柏市増尾)の寮に仮住い、後に我孫子に移る。土村には戒仙の実家があった。昭和5年に、戒仙との婚姻を届けた。章子43歳であった。
 この間に章子は一度、1924年(大正13年)に故郷の香々地に帰り、当時羽根福田寺の宇都宮高学が発刊していた「郷土文芸」という雑誌に自分の詩や随想を発表する。また香々地町松原に自由学園(後に「ポプラ学園」と改名)を開き、付近の子供たちに読み書きや童謡を教えた。

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 1928年(昭和3年)に散文詩集「女人山居」、1934年(昭和9)に詩集「追分の心」を出版する。この間にまた、香々地や京都など居を転々としながら、谷崎潤一郎や生田春月をはじめ、多くの知人と交流し、昭和13年に戒仙と離婚した。
 意外な驚きは、江口章子が女工の待遇問題で「万朝報」紙上で論争したことである。しかしこれは、後に片山哲内閣の商工大臣を務めた水谷長三郎(社会党書記長・政審会長)と若いときに交流があり、当時の社会状況や青鞜社にいたことからすれば、ありえることだ。
 章子が郡是製糸に入社したのは35歳のときだ。「工女教育に力を入れる郡是の理念に感銘を受け」「教育係」として採用された。このときの水谷は京都帝大を出て間もない26歳ほどだ。章子がどんな拘わりから水谷と交流するようになったのかは記録として分からないが、彼の影響を少なからず受けているにちがいない。水谷宅に江口は寄寓したことがあるとの記述はある。

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 そこで手がかりとして、神戸大学付属図書館の新聞記事文庫で「万朝報」の主要記事をチェックした。郡是にいた1922年から23年にかけてのものは3件、そのいずれもが章子とは関係ない。その他にもあたったが、ここからは辿り着けなった。
 ところが後、日本学術振興会特別研究員・成田一江が「模範的工場の労働史的研究-江口章子の『女工解放』を手がかりとして・・・」(吉川弘文館・「日本歴史」02年8月号)を書いていることが判った。
 そのことは、吉川弘文館が主宰する日本歴史学会の第4回日本歴史学会賞が、成田の論文に贈られたとの報道(読売新聞03年6月11日)を見て知ることになる。またその成田が、九州大学の修士論文でも「郡是製糸株式会社の工女管理-『会社』における労使関係の史的考察-」をまとめ、その後も関連の論文を何本か発表していることも分かった。
 成田は「退社後の章子を『郡是の異端者』として書き立てた」ところの「万朝報」の記事をいくつか参考にしており、それらは1923年2月20日、24日、3月4日号にある。
 だがこれは虎彦が関心を持った論争内容(1923年3月14日、15日号)に言及した論考ではなかった。そのためこれに関しては依然として宿題を残している。
 章子が論争した相手は、郡是の教育部長をしていた宗教家の川合信水だった。
 その川合は1876年に山梨で生まれた。1年間で家族内の5人もが重病・死という不幸に出会った川合は、1890年、メソジスト教会で洗礼を受けた。その後、新島襄と並び称されたキリスト者押川方義に私淑し、押川が院長をしていた東北学院神学部に入学する。卒業すると同院教師に、函館毎日新聞記者、前橋市共愛女学校校長、1909年には郡是に招かれてキリスト教人道主義に立った従業員教育を開始した。1927年に基督心宗教団を設立する。そこで川合は「祈り・瞑想・霊的聖書研究」を実践すべきとした。1960年には富士吉田市名誉市民となっている。
 こうした労使論争の後に章子は中村戒仙と出逢った。
 柏市増尾の少林寺から虎彦は、その中村戒仙が一時期住職を務めた千葉県松戸市南花島の栄松寺を訪ねた。住職の五十嵐義雄に会えた。庭の手入れをしていた五十嵐は「ここには何も残ってはいない」と言いつつも、戒仙の「経歴書」を取り出して見せてくれた。

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 この経歴書によると、戒仙がこの寺の住職に就任したのは明治39年1月10日。「戒仙は京都に修行に出てしまい、実際に住職らしい仕事はここではあまりなかったようです」と五十嵐は語る。その通り、確かに翌明治40年には大徳僧堂に掛錫(かしゃく=錫杖を僧堂の鉤に掛け置き修行に入る)とある。また「章子もここには戒仙を訪ねてきたようだ」と住職は語った。
 虎彦の手元にある江口章子の復刻版「女人山居」に付けられた年譜では、戒仙がこの栄松寺の住職になったのは大正13年とあり、聚光院の住職になった年は大正15年とある。その記憶と見比べると、栄松寺の住職に見せられた経歴書とは、違いがありすぎる。そこで、住職に頼み「経歴書」のコピーを拝借した。

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 経歴書は大徳寺の便箋に書かれたものだが、それが何に依拠するものか、誰が、いつ書いたものかが分からない。内容に間違いはないと思うのだが、だからといって信憑性を保証するような文書の形式は整えていない。
 そこで『女人山居』を復刻した藪崎香に問合せてみた。
 藪崎は「(『女人山居』に掲載した)年譜は余り見ていない」と、愛想のない返事だった。歌碑のある少林寺の栗原照慶和尚にも改めて問合せた。栗原和尚は「50年に1度、大徳寺が出している『正統世譜』から抜き書きしたものではないか」と、その『正統世譜』が発刊されたのは確か最近では昭和53年だと対応した。そうなるとこの一件は『正統世譜』で確かめるしかないのか。
 その日は、少林寺や栄松寺の本寺である松戸市馬橋の万満寺(まんまんじ)も訪ねた。由緒によると、万満寺は鎌倉時代の建長8年(1256年)に、小金城主であった下総国守護職千葉頼胤が、鎌倉・極楽寺の忍性・良観上人を請じて真言宗の大日寺を開いたのが始まりと伝わる。

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 現在の万満寺(臨済宗)となったのは、千葉満胤の時代の康暦3年(1379年)といわれ、満胤は鎌倉の瑞泉寺にいた夢想国師の高弟で夢想7哲の1人を招いて中興開山し、関東管領足利氏満の満の1字をとって万満寺と号したと伝えられる。
「ほんにけったいなとこォ、えろう、つやつやさしてはるわ!」
 と、言って、香織は妙に嬉しそうである。
 ここには国指定の重要文化財「木造金剛力士像」がある。この仁王像の「股くぐり(毎年3月と10月)」をすると無病息災になるそうだ。香織は股の部分が妙にツヤツヤしているのに納得した。
「ここでも・・・また、極楽寺の忍性・・・か!」
 虎彦は万満寺の甍を仰ぎみながら、ふと万福寺境内の万寿寺の一室が過ぎった。奈良を訪ねる途中で駒丸扇太郎が案内した寺である。寺人の留守らしき一部屋で、扇太郎から聞いた話の中で、阿部富造が東京赤坂の山王社へ戦友の貞次郎を訪ねたが、その件にも忍性との関わりがあった。そのことを思い出した。
 栄松寺より拝借した経歴書のコピーによると、中村戒仙は岐阜県多治見市の永保寺に修行に出ている。徐々に一連の暗がりが仄かな明るさを点し始めたことを感じる虎彦は、その眼に早春に訪れた一休寺を眼差していた。
 その一休寺は京都府田辺市にある。
 ここで虎彦は底冷えのする一休寺境内を歩いていた。名刹とはいえ、大徳寺に比べると地味でひっそりしていた印象が残る。一休宗純禅師が晩年を過ごした寺である。
 訪れた境内の光景と残像を思い出すと、虎彦の脳裏には一休寺で感じた、華やかさを求めた江口章子が田辺町一休寺でも悶々としていたかの侘しい姿が、また改めて痛く泛かんできた。
 一休寺には「渡ることならぬ」と高札して、小さな石橋を人にさも見せた気に架ける趣向があった。
 意図は禅師「一休」の名の遺徳なるを石橋を構えて偲べよという。敢(あ)えてこれに逆らわず眼を凝らして人陰の語り部に耳を傾けてみると、たしかに宙(いえ)に座る人の聲(こえ)になる。またその聲に通じ重なるようにあまたの人陰が禅師と同じことを賦(くばり)かけてくる。
「あれは・・・、やはり小さな宙の雉の声だ・・・!」
 その声を泛かべると虎彦は、辻潤、卜部哲次郎、中村戒仙、江口章子、水谷長三郎らの声はその音色こそ違えど根とする舌の振るえが雉の鳴女のそれなのだ。小さな宙々に同質の雉々が棲み居付いている。
 秋子がその宙々を鎮める笛を吹く雉の鳴女の影に思われた。
 そしてまた、虎彦は泛かんでいる一休寺の境内にじっと眼を凝らした。



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                              第44話に続く
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   京都 二十四節気 清明。


  
   京都 二十四節気 穀雨。




   そうごリンク
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   クリック・ボタン gifA 5 gif   ひめくり古都の道
   京都 花そとば



  つきの暦  2013年2月

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