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小説『花そとば』 第37話

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   はなそとば タイトル
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               第二部 山端の巫女(やまはなのみこ)   37

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      九  雉子の聲 (きじのこえ)   



 奈良は樽井町に「なら天平ホテル」はある。
 近鉄奈良駅より徒歩5分ほど手軽さから当時、虎彦は定宿と決めていた。猿沢池西畔に位置し、奈良の旅館で数少ない日本文化遺産が窓から見える場所に当ホテルがあるからだ。 猿沢池はもちろん、興福寺・春日原始林などを眺望することができた。

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 京都八瀬の別荘で、故郷の夜空に輝く星々の遠い夢をみせられた雨田虎彦が、七年ぶりに来日したM・モンテネグロの泊まる奈良ホテルを訪ねたのは、2002年が明けた仲冬の土曜日、ぼたん雪の降る乙夜(いつや)のことであった。昨年の、そのホテルとは違う。だが虎彦には、この二つのホテルもまた、ある種奇遇な運命で結ばれているように思われてならない。

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 今、虎彦の眼に泛かばせている一筋の光景は、モンテネグロと一夜を過ごしたにその時すでに抱えていた。時の刻みの順番でいうならそうなる。しかし、どうやら天命の時間では、未だ満たされていなかったようだ。1978年・昭和53年のことであるから、すでに25年の歳月が流れている。こうして1年半の時をずらされた天の采配がどこのあるのかは人の不可視だが、老人の眼にはそれが芳醇でさえあった。
 老いてこそ熟成される揺らぎの美妙を思い計ることができる。
 光陰矢の如し、たしかに加齢する歳月は速く、しかし戦後復興の何と鈍感で怠慢な流れであったことか。進化とはいうが、実際は退化ではないのかとも思われる。戦後60年、虎彦の眼に映るその年月は、日本人が真の豊かさから少しずつ遠のいて過ぎた時間だった。
「戦後の日本は、人間が成熟しないまま経済だけが大国化した。いずれ退化が高じて泥水が溢れだす。すでに腐りかけた汚泥を匂い立たせているではないか・・・!」
 そんな苛立ちの中に光陰矢の如しなどと悠長に浸れない。加齢はしたが、それでも完全な失望の壊死だけは避けたいものだ。毒蜘蛛のドクイトグモに噛まれたことで壊死する日本人であっては、じつに多勢の戦友や英霊に面目が立たないではないか。彼らは暴走した軍部とは違う。家族という最小単位の八紘一宇を本分として天命を散らした。それは家族や親族のやはり英霊である。

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「靖国神社・・・!。あれこそが戦後の日本人が身勝手で成した神仏を偽る負の遺産ではないか。彼らの多くは国家の氏神の血筋ではない。故郷の個々の小さな氏神の血流ではないか。大半は小さな集落の将来のために軍靴をはいた。靖国の名で一塊に束ねられて、死に何の意義があろうか。何と馬鹿な・・・!、屈辱でしかない・・・」
 全国津々浦々の氏神を祀る悠久の集落が瀕死寸前の現代である。虎彦は一見の食客ほどにしか過ぎないが、現在暮らす京都山端の集落も例外ではなかった。
 25年前、虎彦は、ここで一人の万葉の旅人と奇遇な廻り会わせをした。
 それは西本秋夫という虎彦より年輩の男性であった。
 正確には、初対面だから、お会いしたというより、同じホテルに偶然宿泊したことになる。これが人と人の巡り合いというものであろう。しかもその出逢い方が大浴場の湯船の中であった。
 ようやく実証実験も終わったというので、
 湯船にひたりながら虎彦は半眼に身をだらりと、しばし湯けむりのやわらかな癒しを楽しんでいた。
 そこに先客が一人いた。何やら仁王のごとく湯船の中央を陣取っている。
 しかもヒソヒソと何事かをつぶやいていた。
 何度も繰り返すから、そうして『いつちんかつちん』というリズムが次第に耳に憑いてきた。

         いつちんかつちん
         樫の実
         眼病の小守が来て拾ふ
         いつちんかつちん
         樫の実
         拾ふはしから又おちる
         いつちんかつちん
         樫の実
         うしろのお山に
         陽がくれた。

 と、何度繰り返されたであろうか。他に聞こえる音もなく、ついに覚えた。

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 奈良の湯に浸かり「樫の実」と耳にすれば、それはやはり「・・・・ひとりか寝(ぬ)らむ。の万葉集1742 」であろう。樫の実は一つの殻に一つずつ入っていることから,「ひとり」にかかる。虎彦は自然とその枕詞の揺らぎを連想した。
 しかし、しかし繰り返しいう「いつちんかつちん」の抑揚が大和言葉のそれとは違う。ここだけは妙に耳に馴染まない。だが、ユーモラスに懐かしく聞こえていた。
 しかしそこはやはり奈良だ。田の実の祝(たのむのいわい)というものがある。これは陰暦8月1日、稲の初穂を田の神・氏神などに供える穂掛けの行事。また、贈り物を相互に取り交わした民間行事で、田の実の節ともいう。あるいはこれはまた、「たのむ」が「頼む」に通じるところから、主君に太刀・馬・唐物などを献じ、主君からも返礼の物を賜る儀式でもあった。どうやら鎌倉中期から行われ、江戸時代には徳川家康が江戸入城を8月1日としたため、元日と並ぶ重要な式日となった。
 そんな田の実の祝に関係した独特の言い回しであろうかと、何分奈良でのことであるから、そう深読みに考えてもみた。だが、そうした、いつちんかつちん、は豊後地方の方言であった。
 この方言の彼方から、虎彦の耳には、何かが届きそうなのだ。
 そして・・・、数日後、その西本秋夫氏からの郵便小包が届いた。
 開くと、一冊の書籍と丁寧な手紙。そこには観賞チケットが添えられていた。
 「白秋を恋した女 江口章子・・・
 北原白秋と運命的な出会いをし、数奇な運命を生きた情熱の詩人」
 これは昭和53年10月、大分県民芸術文化祭で公演された舞台の表題である。
 北原白秋の第二妻・江口章子(あやこ)が舞台化された。

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 ここで虎彦は、原田種夫の「さすらいの歌」を知り、章子の数奇な運命に驚愕するきっかけとなった。さらには西本秋夫の「北原白秋の研究」「白秋論資料考」という大著に出会った。西本氏はすでに北原白秋研究の第一人者として著名であったのだ。
 傍線を随所に引いて汚した数冊は今も虎彦の座右にある。この名著なくして江口章子は語れない。53年2月26日には、章子の歌碑建立除幕式が香々地町の長崎鼻であったようだ。どうやら西本秋夫先生はその建立に奔走されてこられたみたいで、10月の初演当日は東京から大分まで来県され、長崎鼻での除幕式での話などされ、舞台上から熱い感謝のメッセージを添えられた。この舞台のフィナーレで歌われた短歌が、建立された長崎鼻の歌碑に刻まれている。

          ふるさとの 香々地にかへり 泣かむものか 生まれし砂に 顔はあてつつ

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 江口章子(あやこ)は、大正5年白秋と同棲し千葉県葛飾に住む。
 その6年に上京、7年に小田原お花畑に移転し、北原家に入籍した。しかし木菟(みみずく)の家新館建築祝宴の席でのいさかいが理由で別離する。5月25日に離婚した。
 その後いくつかの遍歴の途次、昭和6年に発病。京都帝大病院精神科に入院(病名、早発性痴呆症)するも1ヶ月で退院する。
 9年から12年にかけ、詩集「追分の心」を出版。信州蓼科高原に観音堂建立、托鉢して資金集め、12年8月に入仏式を行う。観音堂増築のために托鉢して資金集めをする。その蓼科からの帰途、車中にて再び脳溢血で倒れる。また13年、詩文集「女人山居」を出版。

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 先の歌碑の歌は、信州蓼科観音堂にいた章子から大分県中津市稲堀にいた縁者利光ふみ子あてに送られたハガキ(昭和12年9月20日消印)の文面に書かれた望郷のうたである。
 江口章子は明治21年(1888年)大分県西国東郡香々地町(当時岬村)で江口家の三女として誕生した。現在は豊後高田市香々地。編入前2005年3月までは香々地町であった。
 江口家は大阪通いの鉄の貨物船まで持った米屋と酒造業で、豊前第一の大分限であった。近所の小学校通学に、使用人が付いたほどだ。大分市に県立女学校が設立されると四期生として受験し、首席で合格する。母サツキの実家大分市威徳寺に寄宿し通学した。
 その卒業式前、授業参観にきた安藤茂九郎(弁護士)に見染められ結婚する。夫が検事になり柳川に転勤するが酒乱、女遊びの夫に愛想をつかし離婚するも、香々地に帰るがすぐに上京した。
 この東京で、女性解放を叫ぶ平塚らいてうの青踏社に入り野上弥生子、伊藤野枝、原阿佐緒、岡本かの子、尾竹紅吉などと交友を持ち、生田花世の夫生田春月の紹介で白秋に会う。
 その当時、北原家は柳川の大火で大酒造屋の工場、家を全焼し、一族郎党白秋を訪ね上京してきたので、北原家は貧乏のどん底にあった。
 貧しさに耐え歌を求めた白秋と章子は同棲し、千葉県葛飾真間に住み、紫烟草舎の生活を始める。白秋の「雀百首」「雀の卵」は、二人の愛の結晶から生まれた、白秋作品中の最高傑作と言われている。

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 大正7年、小田原お花畑に移転したころ、鈴木三重吉が白秋を訪ね、芥川龍之介、江口渙と話し合い、子どもの文芸誌「赤い鳥」を出版するのでと協力を依頼した。
 6月に創刊号を出版し、芥川は「蜘蛛の糸」を書き、白秋は「栗鼠、栗鼠、子栗鼠」と「雉子車」を寄せた。この創刊号に「かたぎの実」という白秋自選の推称童謡が載っており、作詞者は、槇田濱吉となっている。
 この歌を西本秋夫は湯船の中で歌っていた。

        いつちんかつちん
        樫の実
        眼病の小守が来て拾ふ
        いつちんかつちん
        樫の実
        拾ふはしから又おちる
        いつちんかつちん
        樫の実
        うしろのお山に
        陽がくれた。

 病ん目(やんめ)は、西国東地方の方言である。
 章子が出版した「追分の心」「女人山居」の中にこの童謡詩が載っている。これを鈴木三重吉は傑作だとほめている。そうしてこの歌は、後世の人々の間でも傑作となった。そうなる背景に、西本秋夫の地道な研究の牽引がある。
 このことを西本秋夫は、白秋が「赤い鳥」への投稿詩が少ないため、自作の詩に架空の人名をつけて載せたのではないか、これは章子のかいた詩とみてまちがいない、と語った。
 そうして「赤い鳥」次号に白秋の「雨」がのった。

        雨が降ります 雨が降る
        あそびにゆきたし かさはなし   
        紅緒のかっこ(下駄)も 緒がきれた 

        雨が降ります 雨が降る
        いやでもおうちで あそびましょう
        千代紙折りましょ たたみましょう

        雨が降ります 雨が降る
        けんけんこきじ(子雉)が 今鳴いた
        こきじもさむかろ さみしかろ

        雨が降ります 雨が降る
        お人形寝かせど まだやまぬ
        おせんこ花火も みなたいた

        雨が降ります 雨が降る
        ひるも降る降る 夜も降る
        雨が降ります 雨が降る

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 初めて江口家の庭に立ったとき、雨田虎彦は、遠くの小高い山から鋭い鳥の鳴き声を聞いた。
 案内の地元老人に聞くと、あれは雉の声だと言う。
 このとき「雨」の歌詞が頭をよぎり、あれはやはり章子の歌だと直感した。
 これについも西本秋夫の「白秋論資料考」にあり、「雨」は共作ではないかと指摘している。
 「赤い鳥」運動に賛同した作家は、小山内薫、野上弥生子、島崎藤村、高浜虚子、谷崎潤一郎、小川未明、江口渙、秋田雨雀、西条八十、佐藤春夫、三木露風、山田耕作、宇野千代、木下杢太郎、林芙美子、広津和郎などが星のように居並んでいた。
 大分の舞台では、「雨」は章子の作だと断定して上演された。
 そうして章子は、多くの観客の涙と共感の拍手をいただいた。
 虎彦が訪ねてみたが、江口家の家の中に人の気配はなかった。
 隣に立つ白壁の土蔵は、章子が晩年京都の養老院から帰ってきて最後に寝起きしたところだという。原田種夫の「さすらいの歌」の終わりに「1年3ヶ月、江口章子は極端に言えば糞尿にまみれて、座敷牢のなかで生きた。危険なので寒くなっても火の気ははいらなかった」とある。昭和21年10月29日の朝、雪の降りしきる中で、章子はひとり息絶えていた。59歳であった。
 その枕元には手垢で黒光りした白秋の「雀百首」が残されていたという。
 またその白秋も、太平洋戦争が始まって1年目の17年11月に死んだ。
 枕頭には陸軍省から贈られた将官刀が飾られており、青山斎場には帝国芸術院、日本文学報国会、大東亜文学者大会、日本文学報国会詩部会、日本少国民文化協会、日本音楽協会などなどの弔辞が捧げられ、大木惇夫作詞、山田耕作作曲の「挽歌」が合唱団により場内に流された。
 会葬者は3,000人、勲4等瑞宝章が授与された。そんな白秋に捧げた章子の歌がある。

        ひとときの 
            君の友とて生まれきて
                     女のいのち まこと捧げん

 江口家の墓所は、長崎鼻の対岸の丘の中腹にある。
 だらだらした坂の小道を上がると、小大名の墓かと思わせる苔むした大小の石の墓が整然と並ぶ空き地に出る。そこが江戸時代からの一族の墓所だ。探したが章子の墓がない。
 案内役に問うと、墓地の片隅、木陰になった場所に置いてある人頭大の石を指した。
「えっあれが章子の墓ですか」「そう聞いてます」と至極短い言葉を交わした。
 案内はしたがその老人に妙な沈黙がある。
 「おまえはこの墓所には入れないのだ」という江口家の怒りの焔がその石を包んでいるようにみえた。江口家の跡は平地になって今は何もない。故郷には粒ほどの痕跡もない。

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 この後、虎彦は大分市の章子にゆかりある諸寺を訪ねた。
 大分高女に通学していた市内勢家町の威徳寺、母方の実家であるが章子の痕跡は全くなかった。大分高女跡に戦後建った県庁の巨大ビルに寄り添って「大分県教育発祥の地」の碑が立っている。
 章子が病気と闘いながら西国巡礼の帰途訪ねた大分市松岡の浄雲寺では、古刹が大切に残され、住職のお母さん相馬さんに、おばあんから伝え聞いたという章子の印象を聞かせてもらった。この口伝も久しく人に語ることもなく走馬灯のごとく薄らいでいた。
 次に大分市内の木ノ上にある少林寺を訪ねた。
 章子はここで暫く寄宿し、広い寺内の小高い位置から平安開基という古い歴史を持つ霊山と対し、山裾を流れる七瀬川の清流で遊び、22首の歌を遺している。章子が寄宿していたという数寄屋風の茶屋はハイカラな建物に替わり、茶寮という名が刻まれていた。章子の痕跡はここでもなく、禅宗は代替わりになると本山から次の住職が派遣されるそうで、今となっては想い出を語れる人はなかった。
 皮肉にもこの少林寺境内に、白秋が訪れたときに詠んだ歌が碑となって堂々と立っていた。

         山かげの 
           ここのみ寺の かえるては 
                     ただあおゝし 松にまじりて

 この碑に真向かい、章子を憶う心情が隠語として隠されてはいないかを問いかけてみたが、それはなかった。今、虎彦が眼に浮かぶ光景は、香々地町の国道213号線を少し入った港から見た夕日である。最後にこの小さな漁村から落日の光景をみた。

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 丁度そのとき、これから時間をかけてオレンジ色の太陽が水平線へと沈んでいくのだが、章子の哀しみは既にこの世にはなく、あの海神の彼方に居るように感じられた。
 そうして後方の山並みを振り返ると、江口章子の故郷とは霊山の連なりである。
「この・・・、章子が、京都で暮らしていた・・・!」
 と、思うと、雨田虎彦の眼には、瓜生山に棲み居るであろう雉の姿が泛かんでくる。そこでその幻影には章子の故郷で聞いた雉の鳴き声が重なっていた。
 波田慎五郎の話を聞いてなれば、おそらく雉の泣き声が、これほど哀愁を帯びて痛切な籠らせ方をするものなどとは思いもしなかったであろう。25年前のモノは単なる感傷に過ぎなかった。
 太陽光で見る羽の色は綺麗なのだ。特に首から腹の色は宝石のように輝いて見える。冬から春にかけての羽は特に綺麗なのである。その綺麗さには深い意味が秘められていたようだ。
 雄の雉は、顔の赤い肉垂れと長い尾が特徴で、体は黒く見えるが、日が当たると首から胸の金属光沢が緑や紫に輝く。雌の雉は、全身薄茶に黒褐色の斑点があり、目立たない。
 そのキジは数羽のメスが複数のオスのなわばりを次々に廻り、オスはそれらのメスに対してディスプレイを行い、メスは気に入ったオスと交尾するという乱婚性をとっている。
 日ごろは、歩く方が得意であまり飛ばないが、外敵から逃れるときなどには丸味を帯びた翼で垂直に飛び上がり、滑空する姿が見られる。生息場所は平地から低山帯にかけての草原・川原・農耕地・明るい林などで、巣は地上に作る。しかし、この生態こそが「雉の鳴女」なのだ。神話などではなく、現代に継がれた実話なのである。
 オスはケッケーンと言う鳴き声の後にドドドドッと羽を打ち付けて音を出す。この「ほろうち」と呼ばれる動作を繰り返して、自身の存在を遠くのメス達にアピールする。 ほろうち は早朝から正午までは数分から数十分の間隔で続けられるが、さすがに午後3時を過ぎると回数は少なくなるが、また夕方ごろに聞く事ができる。
「あの眼配り・・・、あれこそが雉の特徴だ・・・」
 雉は、まぶた(瞬膜)を人間のように"上下"に閉じるのではなく、"左右"に閉じる。
 雉はその眼をさせて、「ケーン」と大声で鳴き縄張り宣言をする。その後両翼を広げて胴体に打ちつけてブルブル羽音を立てる動作が「母衣打ち(ほろうち)」なのだ。
 そう密かに思う虎彦の眼差しは、いつも阿部秋子の上がる、瓜生山の頂を向いていた。
「なはじつのひん(名は実の賓)・・・!」という。
 この言葉を思い出した。
 荘子曰く、 賓は主に対する客、そえものの意だ。尭から天子の位を譲られるのを,許由が辞退したときの言葉を逍遥遊にてそう記す。
 たしかに曰く通り、名誉は実際の徳のそえものである。実質のない名誉は無意味なものである。雨田虎彦には瓜生山の頂にある小さな祠に現れは鳴くという、雉が緑の胸を輝かせながら天を仰いで吠える「ほろうち」が、阿部家に言い伝えられる春の賦(くばり )の顕れであろうことが判った。
 そう思えると、阿部秋子がなぜ白秋の曼珠沙華を呟くのかも判った。



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                              第38話に続く
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   京都 二十四節気 清明。


  
   京都 二十四節気 穀雨。




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   きょうと 2はなそとば 2

   クリック・ボタン gifA 5 gif   ひめくり古都の道
   京都 花そとば



  つきの暦  2013年2月

  つきの暦 2013 2



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Author:三馬漱太郎
Welcome to Ron「漱」World
Sotarou Miuma
立体言語学博士
Social Language Academy Adviser
応用社会言語科学研究員

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