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小説『花そとば』 第27話

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   はなそとば タイトル
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               第二部 山端の巫女(やまはなのみこ)   27

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      五  泥の坂 (どろのさか)    



 気随な旅人のように、たゞ漠然と京都を訪れたわけではない。
 ささやかな糸口でも丹念に掘り起こせば、万に一つの手掛かりを得ることになる。考古学は最初の入口がすでに迷宮である。手数足数を重ねながらも、報われることは当初から切り捨てている。常日頃、波田慎五郎はそんな迷宮の暗渠の中で地道に手探りの作業をし続けてきた。
 その慎五郎は、長年さる植物に適する土壌を探し求めてきた。
「あのとき・・・の、あれが・・・。私に、夏の賦(くばり)を告白していたのかも知れない・・・」
 振り返ると、聞き漏らした声が、ようやく産声を上げたように思えた。
 聴くとロウソクの光でもきらめくような音色だが、どこか悲しみも帯びて聞こえる秋子の笛の音を、静かになぞりながらショート・ピースをくゆらせていると、やはりそう思われてならない。
 人は、たしかに、どこかの土の上に立っている。その土は干からびてから香気を立てるのだ。しかしその香気は常に地底深くにある。慎五郎はたゞ掘削の地点に立ちたかった。

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「菩提樹の、黄蘗(きはだ)の釉薬か・・・」
 秋子から貰った蟋蟀の湯呑をそっと握りしめた。
 握りしめると微妙に指先が震える。この土の匂いは、そこにまた風神がいることを感じさせる。神寂びて感じる漂いを人の数式で割り出せぬのと同じように、風土という匂いは、人の理屈なのでは成立しない。指先が改めてそのことを感じ取っていた。
 風土を、理屈なく人は特定して嗅ぐではないか。やはり秋子のように、そこに風神を立て、風袋で煽られた風が風土を焦すものだとすれば、固有の匂いが香りたつこともあろう。すると、やはり風神は本能として風土のなかにいる。慎五郎はそんな仮説を立てると、す~っと鼻から紫煙を吐いた。

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 ある特殊な匂いが、慎五郎に五条坂のモノだと直感させたのは、古い文芸誌の対談をスクラップにするために切り取ろうしたとき、ふと眼に止まった「その土を、泥鰌(どじょう)は好んで食べていました」という男性の言葉であった。
 慎五郎はこの一言から五条坂を訪ねようと思い、しかし未だ探し求めて歩き続けている。終点はもう少し先にあるようだ。くゆり昇るピースの紫煙にそんな五条坂が泛かんできた。
 関東という東京からは箱根で関西となる。長いトンネルをくぐる辺りから京都駅に着くまでに関西の泥鰌について考えていた。慎五郎の父寿一(としかず)は京都伏見の育ちである。その伏見から南に淀川を越えて巨椋池(おぐらいけ)はほどなく近い。学童のころ寿一はその巨椋池の痕(あと)でよく遊んでいたという。

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 新幹線の車窓に父寿一の思い出話を泛かべていた。
『私は子どもの頃、よく泥鰌を掘った。
 池のすぐ脇に、水のなくなった田んぼに小さな穴がある。
 そこを掘っていくと泥鰌がいる。
 かなり太い泥鰌が捕れた。
 あれは冬眠しているのだろうか。
 泥鰌も随分と災難だろうよね。
 小学校から帰ると直ぐに、友だちの幸太郎と、弘子と、
 「ドジョウ掘りにいこか」などといって、
 ブリキのバケツを持って稲の刈り取られた田んぼに行った。
 穴を見つけそこを掘ると必ず泥鰌がいた。
 何匹か捕ると飽きてしまって家のほうに戻り、
 ベーゴマとかビー玉などをやった。
 しかし少し大人になって京都の歳時記で「泥鰌掘る」を見つけ、
 ふと、また泥鰌を掘ってみたくなった。
 泥鰌掘る、は季語として使われる。そう書いてある。
 冬になると泥鰌は田や沼や小川、水溜りなどの泥の中に身を潜め、    
 冬期は水も涸れているので、泥を掘り返して容易に捕えることができる。
 だから、冬の季語だという。
 だがな。これは少しおかしな話だと思った。
 巨椋池の跡地辺りでは、夏場でも掘るとよく泥鰌は捕れた。
 たしかに冬場は田んぼを掘ったが、夏場は沼地の泥を掘ると泥鰌はいたよ・・・』
 四条河原町から鴨川の右岸を下りながら、三十三間堂付近まで、その父のいう泥鰌のことを考えていた。
「夏場に掘っても泥鰌は捕れる・・・!」
 どじょうの歴史的仮名遣いは「どぜう」とする。この「どぜう」は江戸時代に鰻屋の暖簾や看板にそう書かれていた。しかしそれ以前の室町期、文献に「土長」「どぢゃう」の表記がある。だとしたら「どぜう」に泥鰌の起源を求めてもさほど意味はない。また泥鰌は、泥土から生まれる意味で「土生(どぢゃう)ともいう。その泥鰌が水中の酸素が不足する夏場の池を掘ると捕れたと父のいう、そんな小椋池の泥鰌がいることが不思議であった。

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「泥鰌は池の泥を食べれるのであろうか・・・?」
 巨椋池は干拓されて農地ではあるが、往年は多様な動植物の生息地として、豊かな環境を育み多くの人に恩恵を与えてきた。歩きながら泥鰌が一体何を食べていたかを考えていると、目前は五条坂であった。
 清水寺に程近い、東山五条。大通りからひと筋それて路地に入ると、そこは静かな住宅街である。河井寛次郎記念館はその京都五条坂にある。
 車一台がやっと通り抜けられるほどの狭い道沿いに、鐘鋳町の古民家が建ち並んでいるのだが、いかにも人通りが少ない若宮八幡宮を少し南に入ると、京都の人々の生活に溶け込むようにして閑静に建っているのが、かつての寛次郎の住居である。タクシーの運転手に「東山五条西入一筋目下がる」と伝えるとよい。寛次郎が他界したのは1966年(昭和41年)11月のことだが、その9年後の昭和50年、大学生の慎五郎は四条河原町からとぼとぼと歩いた。建仁寺を過ぎた辺りから徒歩10分ほどであったろうか。
 記念館は昭和48年に公開された。 慎五郎はその二年後に訪れたことになる。
 和風の空間なのに、ズドンと洋館のごとく吹き抜けで突き破られていた。雑多で未体験の違和感、そこにまた場違いな滑車が吊るしてあった。恐らく作品や資材を運ぶためのものだったのだろうが、記念館らしからぬ不純物のごとくに感じられ、突如それによって、なんだかえらく大きいもの、重い胸倉のようなものに包まれた。圧迫される、その理由がしばらく慎一郎にはわからなかった。なぜなら、そのころの慎五郎は、河井寛次郎の陶芸のすべてに嵌(はま)っているわけではなかったからだ。書も恣意に嬲(なぶ)られた筆感がして好みではなかった。そもそもそこらが、どうにも底が浅い。感心するほどの晴眼に乏しい。たかが本数冊を読みかじっただけの慎五郎は、寛次郎については先が見えない未だ晩生でしかなかった。

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 大正から昭和にかけて京都を拠点に活躍した陶芸作家・河井寛次郎の作品を展示する記念館である。寛次郎自身が設計し、亡くなるまで過ごしていた住居をそのまま公開しており、暖炉や板の間、書斎や居間も彼が暮らした当時の姿のまま遺されている。
 そうした遺品は、彼が制作・デザインした家具や調度品の数々や作品の一部が無造作に、ごく自然に配されていた。また、中庭奥には実際に使われていた窯や陶房もそのまま残されている。
 しかし自然体であるが故に、そこらは乱暴な寛次郎の形骸なのだ。気魄は何となく伝わるが、民藝運動論のみでゴリ押しをする、やはり門外漢には最初から一つ一つ積み上げて精査するしかなかった。本来、そこには闊達なユーモアが溢れた空間なのであろうが、その一つすら推しはかり難い慎五郎なのであった。
 大学卒業後に考古学に携わろうと思いたったときに、慎五郎はこっそり一つの目標をたてた。
 それは分類学的に「新しい場所」という問題を自分なりに追いかけようということだった。卒業に至るしばらくのあいだ「墓場と形骸」という研究論文を編集してみたのも、そうした一つの試みだった。
 新しい場所について本気で考えてみたかったのは、卒論として纏めた「墓場と形骸」でも触れてきたことだが、研究過程で明治・大正期に蠢(うごめ)いた人々の死に遭遇したこと、および柳宗悦の『用の美』という哲学観念を見て、そのときに初めて新しい場所というものを感じたからであるが、そのすぐあと、アンリ・ベルグソンの卒業論文「場所について」を読み、そのまま白水社のベルグソン全集をだいぶん読んだが、さらにそこからアリストテレスのコーラとトポスをめぐる場所論の周辺の道をあれこれさ迷ったせいでもあった。
 しかし幾度かのさ迷いとは、さしたる前進の足しになるほどのモノではないようだ。迷いは拓かれる道に憚(はばか)る棘(とげ)のようなものだ。一つ一つ抓んで引き抜くしかない。そうした未だ主軸の定まらない中にあって、開館されたことを知ると、一度、河井寛次郎記念館にも足を運ばねばならないと考えていた。
 昭和50年(1975年)6月3日、佐藤栄作元首相が逝去する。
 築地の料亭「新喜楽」で財界人らとの会合において脳溢血で倒れた後、東京慈恵会医科大学附属病院に移送されたが一度も覚醒することなく昏睡を続けた後のことで74歳だった。16日には国民葬が行われた。
 その翌月、梅雨明けの7月14日である。
 暑い盛りの京都盆地は、三方の山々が屏風、地を這う南風の熱射で酷く汗ばんだ。
 学生時代に古跡調査で何度か訪れていたが、その大半は春か秋の穏やかな日和ばかりだった。今回の背景には社会風俗の精妙な観察もあり、さらに社会に組み込まれた民衆が、どんな生き方を選ぼうとしているか、彼らの精神風俗をあざやかに描きだしていることが、肝心な読みどころでもある。そう思うにつけて夏の京都の祭り日を選んだ。
 祇園祭りの、宵々々山の日、その午後であった。
 四条河原町から八坂神社界隈は、16日宵山の大本番の佳境を兆す人いきれに噎(む)せ返るようである。
 豪壮かつ華麗なこの祭は、千百年の伝統を有する。
 秋子の湯呑を撫でてみると、慎五郎は、たしかに夏の賦(くばり)の告白を手のひらに感じた。


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 祇園祭は、京都市東山区の八坂神社(祇園社)の祭礼で、明治までは「祇園御霊会(御霊会)」と呼ばれた。貞観年間(9世紀)より続く。京都の夏の風物詩で、7月1日から一ヶ月間にわたって行われる長い祭であるが、そのなかでも「宵山」(7月14日~16日)、「山鉾巡行」(7月17日)、「神輿渡御」(7月17日)などがハイライトとなっている。
 宵山、宵々山、宵々々山には旧家や老舗にて伝来の屏風などの宝物の披露も行われるため、屏風祭の異名がある。また、山鉾巡行ではさまざまな美術工芸品で装飾された重要有形民俗文化財の山鉾が公道を巡るため、動く美術館とも例えられる。
 京都三大祭り(他は上賀茂神社・下鴨神社の葵祭、平安神宮の時代祭)、さらに大阪の天神祭、東京の山王祭(あるいは神田祭)と並んで日本三大祭りの一つに数えられる。また、岐阜県高山市の高山祭、埼玉県秩父市の秩父夜祭と並んで日本三大曳山祭の1つに、前述の高山祭、滋賀県長浜市の長浜曳山祭と並んで日本三大山車祭の1つにも数えられるなど、日本を代表する祭である。
 河井寛次郎記念館に何度も足を運んだ慎五郎は、いつしかこの一連の祭礼を見学するために京都へと足を運ばせたことになる。
 その慎五郎がそうしてようやく心得たことは、祇園祭が「古くは、祇園御霊会(ごりょうえ)と呼ばれ、貞観11年(869年)に京の都をはじめ日本各地に疫病が流行したとき、平安京の広大な庭園であった神泉苑に、当時の国の数66ヶ国にちなんで66本の鉾を立て、祇園の神を 祀り、さらに神輿を送って、災厄の除去を祈ったことにはじまる」ということである。またそうする祇園祭とは「7月1日の「吉符入」にはじまり、31日の境内摂社「疫神社夏越 祭」で幕を閉じるまで、一ヶ月にわたって各種の神事・行事がくり広げられる」という一連の期日で決済され、禊がれることである。だがそのためには蘇民将来子孫也(そみんしょうらいのしそんなり)の護符を身に纏うことであった。
 八坂神社御祭神、スサノヲノミコト(素戔鳴尊)が南海に旅をされた時、一夜の宿を請うたスサノヲノミコトを、蘇民将来は粟で作った食事で厚くもてなした。蘇民将来の真心を喜ばれたスサノヲノミコトは、疫病流行の際「蘇民将来子孫也」と記した護符を持つ者は、疫病より免れしめると約束された。その故事にちなみ、祇園祭では「蘇民将来子孫也」の護符を身につけて祭りに奉仕することになる。
 神事終日の7月31日には、蘇民将来をお祀りする、八坂神社境内「疫神社」において「夏越祭」が行われ、「茅之輪守」と「蘇民将来子孫也」と「粟餅」を社前で授与される。この夏越祭をもって一ヶ月間の祇園祭が幕を閉じるのである。
 八坂神社では茅の輪から抜き取った茅を参拝者が自分で小さい茅の輪にして持ち帰って玄関などに飾ることで、夏を健康に過ごせるご利益があるとして、「蘇民将来子孫也」と書かれた紙縒りを、作った小さな茅の輪に結べば完結となる。
 6月3日に雲仙普賢岳で大規模な火砕流が発生した1991年・・・、
 7月1日にエフエム京都(α-station)が開局したこともあり、今回は祇園祭の各鉾町が鉾、曳山を組み立てる山鉾建(やまほこたて)をじっくり見学したいという思いもあって9日には京都へと向かった。
 山鉾建は、10日から14日までの5日間で行われる。京都を訪れるのは3年振りのことであった。
 この山鉾建で祇園祭山鉾巡行が近づいたことを感じさせる。山鉾建は大きな筐体を複雑に組み立てる鉾や曳山、簡単に組み上げられる傘鉾などそれぞれ工程が異なるので、組み立てが始まる日は異なっている。
 昔から伝わる「縄がらみ」と呼ばれる手法で、専門の大工方が釘を一本も使わずに重さが12トンもある鉾を組み上げる。大きな鉾の組み立てには3日程も要する。20メートルほどもある長い真木(しんぎ)を空に向かって立ち上げる場面は圧巻である。
 真木をつけた櫓(やぐら)を道路に寝かせ、太く長い綱を人力で引き垂直に起こす。立ち上がった瞬間には見物の人達からいっせいに拍手が湧き上がる。形態の異なる船鉾は鉾建ての方法も異なるのだが、組み上がった鉾や山は飾り付けをして、それぞれの定められた日に曳初が行われ、前掛、胴掛、見送、水引などの豪華な織物の飾り物は17日の巡行本番に使われる物と、それまでに飾られているものとは異なることが多いので、連続した組立に興味を抱く慎五郎は14日、15日の正午近くまで各鉾町を見学した。

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 そうしてまた18日には東山五条の河井寛次郎記念館を訪ねた。
 1890年(明治23年)に当時の島根県安来町(現在の安来市)の大工の家に生まれた河井寛次郎が、陶芸のほか、彫刻、デザイン、書、詩、詞、随筆などの分野でも優れた作品を残しながら、師弟関係を重んじる陶工の世界にあって、学校という教育機関にて指導を受けた新しい世代の陶工となっていく姿は、惹かれて調べを進めるうちに、これはものすごい思想者であることがたちまち伝わってきた。
 五代目、清水六兵衛の技術顧問を務めた。六兵衛40歳のときだ。
 このとき清水六兵衛(のち清水六和)は55歳。この六兵衛が、それまでの清水(しみず)の読みを「きよみず」に改めた。寛次郎が技術顧問のころ後六代となる長男の正太郎は京都市立美術工芸学校絵画科を卒業する。
 時代性に鑑みて寛次郎という男の実在のかくれた側面が、すでに慎五郎の裡ではダントツなのである。連続性と複雑性、差異と内包、秩序と組織、変化と適合といった問題意識にみられる具体的な提起は、ほとんどこの男によって慎五郎の知覚のバリアを食い破っているといってよい。
 しかし、河井寛次郎が最高にすばらしいところは、「用の美としての人間の精神」というものを「観念として測定されたこと」に対して、つねに「具体的に設計したこと」と「変化させたこと」によってたえず照射しつづけようとしたことだった。しかも日本伝統の心髄でもある京都に根付こうとして、その古都に居を構えて気魄の生涯を貫き、それでも無位無冠の陶工として晩年まで創作活動を行い1966年に76歳で没したことである。
 寛次郎を取りまく人物たちの言動が縺(もつ)れあって、波瀾に富む生涯が躍動すらする。彼らはそれぞれ何かに反抗している。がしかし、反抗は個々ばらばらで、限りある時間の中では何の実りもなく終わるのだ。彼らは精神風俗を重んじる日本人のエッセンスを汲みとった上で、自家製に仕立て上げた。さらに西欧を望見するばかりに終わらせるのでなく、日本の伝統に深く分け入っていた。
 また、考えられる限りの冒険を尽くして、寛次郎は人間の魂の深層に辿りつこうとした。
「存命の内に、お会いしたかった」
 そう悔しく思うにつけても、寛次郎の遺した業績の多面さ、広大さにあらためて感嘆を深くする。されど流れ去った過去から実体と正体を把握することは不可能に近く、二十度目となる今回も慎五郎はやや肩を落とした。そうして一先ず記念館を出たものゝ、一呼吸して汗ばんだ身なりを整えると、慎五郎は改めて記念館全体を見渡した。
 だがそれでも立ち去り難い慎五郎には、奇妙に去り難くさせる輝きで記念館の庇瓦が琥珀色に夕映えているように思われた。棟方志功の筆による看板も淡い茜に絞られて妙にしんみりとさせられる。
 たゞに日本の民芸品に触れ研究するのであれば、都内目黒区駒場四丁目の日本民藝館でいい。柳宗悦によって創設され運営され、木造瓦葺き2階建ての蔵造りを思わせる本館には、柳宗悦の審美眼を通して蒐められたものが、日本および諸外国の新古諸工芸品約17,000点を数え所蔵されている。
 中でも、朝鮮時代の陶磁器・木工・絵画、丹波・唐津・伊万里・瀬戸の日本古陶磁、東北地方の被衣(かつぎ)や刺子衣裳、アイヌ衣裳やアイヌ玉、大津絵、木喰仏、沖縄の陶器や染織品、英国の古陶スリップウェアなどは、質量ともに国の内外で高い評価を受けている。また、民藝運動に参加したバーナード・リーチ、濱田庄司、河井寛次郎、芹沢銈介、棟方志功ら工芸作家の作品も収蔵している。これらを常設展と特別展とで見比べれはこと足りるわけだ。
 すでに足しげく日本民藝館には通っている。通えば見えてくるものはある。だがそれらは、やはり蒐集済みとなった先人の形骸でしかない。慎五郎はより生身の寛次郎に近づきたかった。観念ではなく、その人肌の実体に触れて見たかった。

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 古萩と呼ばれる萩焼の茶碗が茶会で使われていたことが、十八世紀半ばを過ぎたころの大名家の茶会記に表れていて、また幕末に至るまで、松本御用窯を率いた八代坂高麗左衛門は、その御用窯の開業から後年に没しした三代坂高麗左衛門までの時代の製品を「古萩」と呼ぶとする、漠然とした言い伝えのあることを述べていたのだが、それらのことから、十八世紀前半には萩焼茶碗を古萩の茶碗と、そうでない当代作の茶碗とに区別する認識が生じていた。しかし一方で、古萩の茶碗がどのような造形的特徴をもった茶碗を指し示すのか、またその古萩が古窯から出土する実に豊かな造形性を示す陶片のどれに相当するのか、その実態が明らかにされているとは言い難い焼き物の一つであった。
 これを為体(ていたらく)だと寛次郎は名指した。茶人贔屓目の有名無実、それは実態の底知れぬ虚説だと喝破した。
 日用の美意識から隔絶した勝手な主観論には手厳しかった。
 たしかに古くから「一楽、二萩、三唐津」と謳われ、侘数寄に適う茶の湯の具足として、高い声価を得てきた萩焼である。高麗茶碗を生み出した朝鮮半島由来の作陶技術を伝え、江戸時代を通して、萩藩御用窯で制作させた萩焼の精品は、しかしその流通規模は極制限されたものでしかなかった。藩主の御遣物として、貴顕への献上、諸侯への進物、家臣への下賜に用いられるなど、限られた階層とその周辺にのみ流通した。
 とくに、その主力器種である茶碗は、領内で採れる特定の土や釉の素材感を前面に押し出しながら、茶の湯における美意識の深化や流行など、折々に重視された使い手たちの趣味性を意識的にかたちへと編んでつくられてきた。だが、こうした当代の数寄者に好まれ続けた萩焼の茶碗のあり方が、桃山時代以来の侘びた風情を濃密に伝承する茶陶という、「古萩」イメージの形成に強く作用し、伝世の茶碗のごとく巧みをこらす逸品の銘として作為されるようになった。制限された用の美とは、それが日本人の美意識の限りではあるまい。寛次郎にとって普段の用の美こそが重要であったのだ。寛次郎は茶の湯文化成長のなかで日本人が忘れたはずの「普段の美意識の正体」を問い直すことになる。その正体を怖い顔で睨んだのだ。
 そう思うと、維新後の日本に、戦後の日本に、高度経済成長後の日本に、苦い記憶が多過ぎる。
 遠い眼をさせて、寛次郎の眼の奥底にあった光り、ここを思い起こした慎五郎は、さらに幾度かの出直しを覚悟し、改めて足を運ぶために一旦仕切り直さねばならないことを意に決した。
 「安木での調査が未だ残されてるではないか」
 河井寛次郎は明治23年に島根安来の大工の棟梁の家に生まれている。安来は松平不昧(まつだいらふまい)出雲松江藩の第7代藩主の影響で茶の湯がさかんだった町である。大工と茶の湯は、寛次郎の幼な心になにものかを植え付けたのだろう。松江中学の二年のときすでに「やきもの屋」になる決心をしていた。叔父の勧めもあったようだ。母親は寛次郎が四歳のときに死んだ。
「ああも、あの猫に、こだわる、その眼差しとは・・・」
「誰にでも分る、風情ある色合いと形・・・」
 安木を悉皆(しっかい)と眺めたら、またこの記念館に戻って来る。そうでもしないと全容を正しく見通せないであろう。物事のケジメにそう思い当たると、慎一郎の出直すべき足取りも少しは軽くなっていた。


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                              第28話に続く
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  きょうの細道    C 11 gif



  
   京都 二十四節気 清明。


  
   京都 二十四節気 穀雨。




   そうごリンク
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   きょうと 2はなそとば 2

   クリック・ボタン gifA 5 gif   ひめくり古都の道
   京都 花そとば



  つきの暦  2013年2月

  つきの暦 2013 2



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