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京都風土記『花そとば』 第22話

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   Web小説    はなそとば 文字 正

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               第二部 山端の巫女(やまはなのみこ)   22

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うりゅう山 1

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      一  瓜生山 (うりゅうやま)    



 冬の月に照らされると秋子は胃のあたりに鈍い痛みが走るのを感じた。 
 百年に一度下りてくる天女がいる。瓜生山(うりゅうやま)にはそんな言い伝えが昔からある。だがそれはカタルシスの仮身なのだ。それにしても百年一度とは、よほど運好く生きなければ見れるものではない。
 その天女の衣を身にまとうカタルシスは、巨大な石舞台がすり減るくらいに、長い長い時間をかけてこの世で起きた悲劇と未来で起きる悲劇とをを演じるという。そして舞い終えるとまた、長い時間をかけて静かに弔いの無量寿経を唱えるのであった。
 この世に何かを思いをめぐらす修行者は、皆、このカタルシスの石舞台を観つづけることになる。そして視た者だけが修行を終えて山を下る。山の頂には小さな祠(ほこら)があるが、瓜生山とはそんな山だ。

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 北米のアマーストから帰国した阿部秋子の一日はつねに時間で縛られていた。
「失感情症やなんて・・・阿呆(あほ)なこと言いはるもんや・・・」
 と、気がへこみ、指につまんだ錠剤を呑み込めないままでいる秋子は、誤診とも思える病状がそう度々あっては困るのだと、コップを握りしめながら泛かんでくる鬼頭次郎の赤鼻のとんがりを、さも五月蠅(うるさ)いとばかりにしかめた眉先でピンと弾き飛ばした。
「これ・・・、テクノストレスいうやつや。しばらくパソコンいじるの、やめときや」
 チョボ髭をパッサリと剃り落した医師は。カルテをながめながらそう軽口を叩くと、さらさらと軽く処方箋を書き終えたその指さきで、小娘とばかりに秋子のおでこをピンと弾いては、さらに赤い小鼻をくすっと斜(はす)にひねり曲げて意地悪く笑った。

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 じつに小憎らしい態度で診察を終えた鬼頭次郎の顔を思い出すと無性に腹が立つ。癪(しゃく)に障るから、いつか仕返しをしようと思うその次郎とは、烏丸(からすま)アガルに医院を構えて、少し癪なので認めたくはないが、京都ではなかなか評判の良い秋子の伯父であった。
「そう言われたかて、仕方(しょう)ないことや・・・とは、阿呆かいな」
 次郎の診断に不満な秋子は、刺し違えてやる、といわぬばかりに、ポンと口に錠剤を放り込んだ。
 家事をこなしながらの合間に、秋子は日替わりランチのようなメール原稿を、毎日、五通りは品揃えして工面する。そうしてそれらを、午前3時から午後4時までの間、五つのアドレスへと時差をみはからって送信しなければならなかった。この作業を滞りなく終える秋子にはつねに「Dhaka3時間 Lisbon9時間 São Paulo12時間 New York14時間 Memphis15時間」の時差がある。

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 秋子は時差ごとにそれぞれのアドレスへ同日の午前零時に着信するようにメールを送り届けていた。ダッカ午前3時、リスボン午前9時、サンパウロ正午、ニューヨーク午後2時、メンフィス午後3時に、いつも決まって秋子は送信ボタンをクリックすることになる。これはアマーストから帰国後に立ち上げた秋子の密かなプロジェクトだ。
 そうして日毎パソコンの電源を落とし終えた秋子は、いつもきまって一冊の表紙の面を指さきでなぞりながら、この後に課せられた夜支度の手順を、しばらくは手ざわりの中に泛かべるのであった。
「カタルシスか・・・・」
 診療の間合いに、医者の五郎がさりげなく語った一言が、秋子の耳奥でささやくようだ。転ぶようにコロコロと聞こえてくると、このとき妙な障りを感じた。連想に瓜生山の小さな祠が見えてくる。
「アリストテレスなら・・・ミメーシスやったなぁ~・・・ 」
「左がプラトン、右がアリストテレス、手前に寝転んでいはったのがディオゲネスやった」
 秋子はラファエロが描いた「アテナイの学堂」を思い起こして泛べた。直筆ではないが大学生のころ訪れたイギリスのヴィクトリア&アルバート美術館に展示された小さな複製画を一度だけ観たことがある。その中央に師のプラトン、右脇に青い衣に身を包んだアリストテレスが立っていた。

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「あの本・・・、何ィ記しはった本なんやろか・・・」
 秋子はアリストテレスの左手にあったと思う大きな本の内容の彼方が興味深く思い起こされた。
「ビュシスいうんは、うち、あると思うわ。せやけど、ディオゲネスのキャベツかて・・・」
 自己の自然(本性)を実現することが全ての存在者の使命である。そして人間の自然(=本性)とは、理性(ロゴス)に従う活動である。というアリストレレスだが、しかし秋子には壊れた樽の中で暮らしていたというディオゲネスが最高だと賛美したキャベツと、風変わりな野良犬のギリシャ哲人の方が、秋子の心の中に住み続けていて欲しいような気がするのだ。一緒にキャベツを川で洗って食べてみたくなる。

 キャベツ 動1 gif

 幼いころ秋子はアンデルセンの絵本の城で遊んでいた。
 小学生になるとファーブルの昆虫記で野原を歩き、中学生では観察範囲をさらに拡げてを楽しんだ。
 現代社会は、幼い子供でも読書テクノストレスから失感情症を引き起こす時代である。しかし秋子にとって夜は、痛みを伴うからこそ、他に代えようもない大切な時間であった。
 悲しみや苦悩というものは、浅いようで深い、深いようで浅い、なまなましくも儚い姿でしか普段は現れてこないものである。だが一度でも現れてその舞台を杳(よう)として知れない奇妙と観ると、秋子はしだいに暗い闇の淵へとまねき寄せられた。
 愚かさ、弱さ、卑しさ、残酷さなど、もろもろが泛かび上がると、秋子はしだいに暗い闇の淵へとまねき寄せられて、今という時代のいびつを体全体で映し出してくる。
 砂粒ひとつ落ちてない石畳を歩き、箒目(ほうきめ)で波の紋様を掃き入れた裏庭を一回りし、手抜かりの無いことを確かめた秋子は、さも来客でも訪ねてきたような仕種で初々しく門前に立つと、す~っと一息呑み込んでから、小袖の袂(たもと)に入れた青白い友禅染の巾着(きんちゃく)袋をそっと取り出した。
「これで〆や・・・!」
 とつぶやき、おもむろに結びを解くと、門の左右それぞれにお鎮めの塩を丁重に盛りつけた。日毎このように繰り返しながら秋子の一日は暮れるのである。こうして真昼間の忌みを祓い真新しい夜を出迎えることが阿部家代ゝの習わしであった。
 しかし秋子はそのたびに魔屈(まくつ)にでも踏み込むような怖れと嫌悪(けんお)を感じた。一通りの儀式を終えてみると、澱(よど)んだ空気にただよう自(みずか)らの匂いに、みずからがむせ返るのである。
 秋子のこれは陰陽(おんみょう)や巫女(みこ)の拘わりと似ていた。忌み事に拘わる媒介者は、ときとして封じ祓うべき忌みを自らに背負いきせられることがある。
 こうなると厄介であるから、阿部家の代ゝが鎮めの塩の盛りつけを終えると、しばらくは月の明かりの下にみずからを晒(さら)して清め、背負いきせようとする怨霊を鎮めた。

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 秋子もこうして月より言霊(ことだま)が降ろされてくるまでを待ち、身の清めを授かるのである。このとき秋子の顔は言霊を降らす月を見上げさせられることになる。この言霊をうける間の、心の怖がりが最も胃を痛ませるときであった。「冬の月には歯切れの良さがある」
 という、数日前の新聞がこんなコラムの見出しを載せていた。
 西行の本名が佐藤義清(のりきよ)という文字を拾い、いかにも有触(ありふ)れた名であったなと再確認できたことの面白さから、興味深く秋子がていねいに目を通し終えてみると、文面にはコラムニストの月見観が淡々と述べられていた。某大学教授は西行を気隋に語りかけようとする。しかし書き手に生活臭のない西行の名をただ楯に述べて連ねたとして、その矛先やつまりるところ、秋子にとってじつに屁(へ)のような記事であった。
「モノにィは、肉体、幽体、霊体とあるんや。先生、ほんに、どこ見て書きはったんやろか」
 見上げて月を愛でるという観念を持たないで育った秋子には、コラムが文字を連ねてもたらそうとしている月見観という日本人の美意識への誘(いざな)いが、さも不自然なものに感じられたのである。
「月は人の勝手で見るもやあらへん。愛でるのが模範やなんて、ほんにおかしなこと書かはるわ」
 こう秋子が感じるように、代ゝに身のしのぎ方は変われども、天より強いられて夜を迎えねばならない習わしが、宿命として受け継がれ、阿部家の平安を今日につなぎ留めていたのである。
「西行さんやかて、歯切れ良いとは感じはらんやろ。そないなこと、思いもしはらしまへんわ」
 きさらぎの月が玉のごとく宙(そら)に凛として座るから、西行が譬(たと)えて「願はくは花の下にて春死なむ その如月(きさらぎ)の望月のころ」と、詠んだのではないのだ。
 死期を悟った西行にとって重要であったことは「如月の望月のころ」という、釈迦の命日に符合させることであった。阿部家では八瀬衆にこう指南する。幽体の儚(はかな)さを知る西行は霊体となった釈迦の命日をみずからの死の際に曳きつれてきて、山桜の花の幽けさにただ埋もれることを願いながら辞世とした。
 西行という人は出家後も長く煩悩に苦しんでおり、迷いや心の弱さを素直に歌に込めているのであるから、漂泊の人であり、いわゆる聖人ではなかった。
 月と花をこよなく愛して歌を認(したた)めたこの西行の終焉の地、南河内の弘川寺(ひろかわでら)の裏山の丘に秋子は何度か訪れたことがある。

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 弘川寺は役小角(えんのおづの)行者が開き、空海も修行をしたし、阿部家とは秋子の先祖が何度も生死を繰り返している間に結ばれた他生(たしょう)の縁が少なからずあった。弘川寺もそうであるが、さらに吉野あたりは御所谷に暮らす竹原五郎とは益々もって縁が深い。
 五郎の出た竹原の在は、奈良十津川である。その竹原家は後醍醐天皇の代に南朝に加勢した一族だ。一族は皇子護良親王(もりよししんのう)や河内の楠木正成らに、役小角の霊験をもって手助けした。そうした血筋が後醍醐天皇に従って京都に移り棲むようになる。竹原五郎はそうした一つの末裔である。
 その五郎は、いつしか阿部家に出入りするようにっていた。阿部家は山の仕事で人を繋ぎ止めている。五郎には彼でないと出来ない山の技術があった。その一つが岩塩の探索である。秋子が使う清めの塩も五郎がせっせと密かな場所より運んでくる。またその塩は、山端集落の命を支えていた。
 またその竹原の血筋が京都に縁がないころ、皇子と阿部家は塩によって結ばれていた。後醍醐天皇の皇子である護良親王は6歳のころ、尊雲法親王として、天台宗三門跡の一つである梶井門跡三千院に入る。さらに2度にわたり天台座主となる。三千院の皇子に阿部家は塩で仕えた。その塩の多くを若狭から運んだ。
 若狭モノより手短な比良山系の岩塩を竹原の血筋が探索し、阿部家に供給してくれるようになるのはそれ以後のことである。五郎はそれを継ぎ、滞りなく阿部家へと届けてくれている。

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 竹原五郎が塩を届けてくれる度に、秋子には匂われる芳しい花があることを覚えた。潮の満ち引きは、人の生死と密接である。花はその潮の香りをさせていた。
「紅色五弁の花、ほんにうつくしゅう咲いてはったなぁ~・・・」
 と、秋子のいう花は、桜の花が散り終えるころに咲く海棠(かいどう)である。弘川寺の本坊には樹齢三百五十年余の海棠がある。秋子がそれを好んで訪れた四月半ばごろは、じつに花信は按配よく、この海棠の花が見ごろを向かえていた。それは、桜の痕(あと)を鎮めるかに咲く花である。
「うちが花ァ選ぶんやしたら、そら~桜ァより海棠の花やわ。西行はんにもあの花の方がお似合いや思う。賢(かしこ)い花やさかいに。きさらぎの望月のころ、と願いはっても、結局間に合わんと一日遅れやして、願いも叶わんと亡(の)うなったお人や。せやから、遅れて咲きはるあの海棠や思うけどなぁ~・・・」
 秋子がこんなふうにつぶやくには秋子なりの理由があった。たしかに弘川寺は古刹には違いないが、もし西行がこの寺で終焉とならなかったら、後世にこれほど弘川寺の名は広まらなかったであろう。元は、この寺とは無縁の男であった西行である。身近に悟った終焉を、あえて無縁の地と選んだ二年間であったからだ。桜の下を望みながら果てた西行の、その桜の後に海棠は西行の死を弔うに咲いている。

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 秋子は祖父富造のたっての願いもあって国學院神道文化学部に進学した。
 さる事情が家庭にあって二回生で自主退学したのであるが、今、阿部家には養母の和歌子と二人暮らしであった。留学中、その和歌子が一人阿部の家を守ってくれた。
 国學院大学は明治15年に創立された。その11月4日の開黌式(かいこうしき)当日に、有栖川宮幟仁親王(ありすがわのみやたかひとしんのう)は、初代総裁として次のような告諭を述べた。
「凡學問ノ道ハ本ヲ立ツルヨリ大ナルハ莫シ故ニ國體ヲ講明シテ以テ立國ノ基礎ヲ鞏クシ徳性ヲ涵養シテ以テ人生ノ本分ヲ盡スハ百世易フベカラザル典則ナリ而シテ世或ハ此ニ暗シ是レ本黌ノ設立ヲ要スル所以ナリ」と、
 國學院大學建学の精神はこの告諭の「本ヲ立ツル」ことを基底としている。
 その校歌三番に、
      学のちまたそのやちまたに
      国学院の宣言高く
      祖国の道はみよここにあり
      祖先の道はみよここにあり
 と、ある。つまり秋子は少なからずとも国学院に育まれた憂国の乙女であった。
 そんな秋子が学生であったころに訪ね、弘川寺でみて西行に似つかわしいと思った海棠がそろそろ咲き誇ろうとする月夜が、今宵、狸谷の阿部家を照らし出していた。
 正しくはきさらずの月とは言えないが、月の趣はそれに似て、地上の梢の下で秋子はいつもこの高い氷輪を見上げさせられてきたのだ。
「なして弘川寺なんや。出家しはるお人は、身軽うてええなぁ~・・。なして縁ある吉野や高野山やのうて無縁な寺、選ばはったんや。お人がご縁、断ち切らはるなんて、ほんにそれこそ、えらい殺生なことやないか・・。馬や牛、魚ァ殺すンが殺生やとしたら、ほしたら自分の命ィ殺しはるの、大殺生やないか・・・」
 秋子は急に眼尻を細くつるし、眼の色を晃(ひか)らせた。これは気を強くしようとして高揚するとき秋子がいつもみせる癖のようなものでもあるが、そうして氷輪を見上げさせられる度にしだいに無言となる秋子には、遁世(とんせい)の身の許されようが恨めしく思えた。
「隠遁しはるお人やらに・・・、狸谷の森は守り通せへん。死は手放したらあかん・・・」
 さやかに冷めて星の従う月がある。
 冬の月は、春、夏、秋月と、見上げさせられるが、それらの月とはあきらかに異なるのだ。
 今、秋子の頭上にある月は、頚城(くびき)が結び、責められて見上げさせられる月でしかなかった。
 甘美の欠片さえ抱かせることのない此(こ)の冬月を、秋子は毎年冬の間、幾度も幾度も見上げさせられてきた。比叡山のさらなる上に冴えともるこの冬の月には、狸谷に暮らす秋子をそうさせしめるだけの記憶の粒子を空に溶かしてはぐらかすような不思議な力が込められていた。
 それは空から落ちる白い涙が秋子のもので、足跡のない雪の上へと落ちると、記憶の中でその無音の足音を聞かされるかの不思議場な力である。
 聞かされると、帰る居場所を忘れてしまうほどの秋子がそこにいた。
 冬の狸谷の暮らしには秋子が首を擡(もた)げたくなるほどの非情さがあった。それは阿部家の代々が千年という十世紀にも及ぶ狸谷での営みを継承し続けてきた重みと比例する。それは、代々が苦心した痕跡と対峙せねばならぬ立場へと25歳の小娘が一歩踏み入れようとする試練でもあった。
 やがて80歳になろうとする養母和歌子は、その秋子の脇にいて見届けようとしていた。
 屹立(きつりつ)と凍えるほど照らされてみると、血の温もりを奪われる人や獣は、どことも知れぬ闇を果てしなく落ちて、これを耐え忍ぶことになるのだ。
 比叡山の西麓、陽の射(い)さすことの遅い洛北の山端(やまはな)の、冬の間の暮らしの辛抱はことさらである。芹生(せりょう)の里がまた酷くそうであるように、秋子と和歌子が暮らす狸谷もまた同等の寒冷の地であった。
「もう清明(せいめい)やいうのに・・・ああ、冷やっこいなぁ~」
 啓蟄(けいちつ)が過ぎて早一ヶ月も経つのだが、颪(おろし)に晒(さら)される狸谷はまだ冬籠りの最中のように、人肌を震撼とさせていた。標高差800メートルの延暦寺ではきっと銀世界である。しかも真夜中のお山は魔界のごとく凍えたであろう。この日、そう感じつつ奈良方面へと出かけた秋子は、八大神社の森付近からためらうような仕種をみせて振り返ると、しばしじっと瓜生山の方をながめた。

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「あれは、やっぱり・・・、気のせいやなかった・・。やはり泣き声やったんや・・・」
その二日後の午後、あどけない子猿の杏子(ももこ)が行き倒れて死んでいた。
 群れをはなれ、親とはぐれ、山を彷徨(さまよ)いながら苦しい身体(からだ)をひっぱって、見覚えのある阿部家の裏庭にある餌箱までたどり着きながらも、ついに息絶えたようだ。
「うちの気ィ遣い足りへんよってから、ほんにごめんなァ~・・・」
 冬場はこんなこともあろうかと、切れ目なくサツマイモ等を補充しているのだが、折悪く、このときばかりは、たしかに餌箱は空であった。野生は餌漬けぬほどの施しを守ることが人の責務なのだが、苦心が足りなければ冬場の命は一粒の糧でそれを絶つ。秋子の気配りが不足した。
「あのとき、うち、あそこから引き返すことしィへんやったさかいに・・・」
 八大神社から瓜生山の方を振り返るとき、秋子は耳に障るものを確かに感じた。潮騒のうねりのような感じの中、人がささやくに似た音に曳かれるような妙な気がしたのだ。それが雁の文(かりのふみ)であったとしたら、手にむすべない我指の不甲斐なさが秋子にはとても堪(こた)えた。
 右の片耳が欠けていたから、あの杏子だと秋子には判る。まだ死後硬直はなく仄かな温もりを感じとれたが、蟻が山なりに群がり、ブンブンと蠅が飛び回っていた。唖然とし、何と惨(むご)たらしい晒(さら)されようか。蟻、蠅が集(たか)るそこに雀蜂(スズメバチ)までが参戦し、杏子の丸く見開らいた眼球をねらい、半開きの口をめがけ何度も侵入を試みていた。
 山に生き、山で死すモノの掟(おきて)には、まことに凄(すさ)まじき宿命がある。
 人や獣らより虫達の方がはるかに生命力に長けているではないか。人や獣が感じ取れない啓蟄という節目を敏感に捉え、女の秋子が羨(うらや)むような生命を、見事にうごめかせながら生きる機会を狙っている。杏子の息絶えた日は、前日とは一変を転じて小春日となっていた。どうやらこの日、天は虫達に力添えしたようだ。秋子は少し足がよろけた。
「うちが人やいうんなら、もうちょっと長(たけ)とらなあかんなぁ~・・・」
 これは二日ほど家を留守にした迂闊(うかつ)な寿子が、みなくてはならなかった然るべき光景であった。
 摂理とはいえ、留守をしたことを悔やむ秋子は、いてもたってもいられずに箒(ほうき)で虫たちを追っ払うと、死体(なきがら)をそっと裏山の草むらに運び、二度と掘り起こされぬよう涙ぐむ手でしっかり葬りながら、秋子だけが判る杏子の小さな墓をこしらえた。

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「そうや、あの花や。あれしかあらへん・・・」
 翌朝、未明そうそうに起き出して朝餉(あさげ)の下ごしらえを終えた秋子は、闇に覆われて暗がりにある杏子の墓の鎮まりをあらためて確かめると、弔いに手向けたいと思う叡山すみれの花を採りに出かけた。
 この花は、他のどの花よりも聖なる叡山に似つかわしい花なのだ。
 だがそれは杏子への償いではなかった。比叡山に生きるモノへの畏敬(いけい)を表そうとしたのだ。
 これが杏子の死にも似つかわしいと思うと、秋子は逸るようにして瓜生山の頂きをめざした。 
 エイザンスミレは、葉が特徴で大きく菊のように裂けて、雪解けのころに淡紅色の花を咲かす山野草である。その葉の形は、ノジスミレやタチツボスミレ、スミレサイシン、スミレ等とはあきらかに異なるのだ。比叡山に生える山野草のことなら、秋子はあらゆるルートについて熟知していた。
「あそこ辺りや。違いあらへん。きっと咲いてはる・・・」
 この季節なら陽当たりのよい琵琶湖側の東なのだから、と秋子はにんまりと笑みを泛べ、なごり雪のある滑りそうな細い山路を慎重に踏んで、西塔から不動谷辺りに目星をつけていた。
 三塔十六谷三千坊の比叡山は、谷が深く杉や檜(ひのき)が生い茂る鬱蒼とした聖なる京の北嶺である。
「ああ、せや、六時の声明(しょうみょう)や。ほんに夢のようや・・・」
 鹿によって樹皮がめくれた木々の森の闇間をくぐり、根本中堂の近くまでくると、あさぼらけの淡い光に抱かれて石段を上がる秋子は、声明にくるまれて波濤にでも身を浚(さら)われるかの別世界を感じた。
 規則正しく耳奥に並ぶ声の大小が変化することで、大師の画像の濃淡が再現されてくる。人の人生のあらゆるイメージが声明により還元されて、受け手である秋子の心や網膜上に天界の像を結ぶのである。階段を上がり終えて根本中堂をみつめる秋子は、青い水玉が顔面いっぱいに広がっていた。
「六時いうは、最澄はんの、お目覚めなんやかもしれへん・・・」
 朝のお勤めの妙法蓮華経如来神力品第二十一〈作如是言南無釈迦牟尼佛南無釈迦牟尼佛〉の読経にしばし耳を傾けたが、秋子はそのまま丹(あか)い文殊楼の前を横切ると、もう何の迷いもなく不動谷へとするすると降りた。
 そこからまた杣(そま)道を踏んでたんたんと、もたて山の方へと上がる。この山の平たい野原には紀貫之(きのつらゆき)の墓がある。ここからなら朝陽にきらめく琵琶湖の風景がくっきりと泛びあがることも知っているのだが、ただ杏子への花を求める秋子は躊躇(ためら)いもなく墓の後ろに回り込むと、そこからさらに藪奥へとすっと押し入った。
 こうして秋子がまた阿部家の裏山に戻ったのは午前9時ごろである。
「この世の日々は短くして、死後の黄泉の年月は長いのやそうや・・・・。それが天命なんやそうや」
 杏子の墓前に今朝あらためてきて手を合わせる秋子は、かって叔父の清文から聴かされた九想の詩をおもい泛べながら、杏子が安らかに瞑(ねむ)れるように呪文をそっとつぶやいた。
 亡くなって高野山にいる清文さんはかつて、「比叡山でいう(さる)とは、阿部家に伝わる古文書に曰(いわ)く、有尾のものは『猿』、無尾のものを『猴』と記し、尾の有無のみで区分しているのだから、無尾の人生とは、端的に言えば(けもの心をどう遠くに鎮めるか)ということだ」と言っていたのだ。
 そう聞かされている眼で杏子の尾を想い起こしてみると、尾が有るようで無いようで、どちらとも区別し難い子サルなのである。清文は子については何も触れてない。
 その清文とは養母和歌子の義理の弟であった。しかしそれは清文が他界するまでの話だ。真相は幼い秋子には密かに伏せられてきた。清文は出家を祖父富造に勘当されて高野山へと上がった。清文とは出家後の名、本名は阿部清四郎といい、富造の四男である。
 その清四郎のことを、秋子が実父であること聞かされたのは四年前、20歳のときであった。


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                             第23話に続く
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  きょうの細道    C 11 gif



  
   京都 新緑紀行。
 新緑鮮やかな5月の京都。早朝の南禅寺から法然院、糺の森、高桐院。



    
   京都 凹凸詩仙堂。



   そうごリンク
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   きょうと 2はなそとば 2

   クリック・ボタン gifA 5 gif   ひめくり古都の道
   京都 花そとば



  つきの暦  2013年1月

  つきの暦 2013 1



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三馬漱太郎

Author:三馬漱太郎
Welcome to Ron「漱」World
Sotarou Miuma
立体言語学博士
Social Language Academy Adviser
応用社会言語科学研究員

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