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伊東マンショの正体を科学する No.0008

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 世界は大航海時代。日本は戦国「下克上」の世。同時期にキリスト教が伝来する。織田信長の比叡山焼き討ちのころに、また室町幕府が終焉しようとするころに、日向国一円に勢力する豪族の伊東家に数奇な運命を宿す一人の男児が誕生した。
 この男児が後に天正遣欧少年使節の正使となる伊東マンショ。
 だがこの人物についての実像を記す資料は今日に乏しい。その背景には当時の混乱と錯覚とが不遇にも交錯する日本史の実情がある。つまり記録として残せない深い闇の淵に置き去られた。
 No.2631ファイル・データはこの歴史人の正体に迫る研究をシリーズ構成でつづる資料コラム。中世の街道を往来した人物との交流を織り重ねながらマンショの足跡の真相を編集する。・・・・伊東満所

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Vislumbres de Mansho está enterrado en la historia de España
 フェリペ2世に謁見した伊東マンショは1584年11月26日にマドリードを出発した。そして1585年3月1日にイタリアのリヴォルノに到着する。この間、約3ヶ月。スペインに伝わる一冊の史書をひもときながら歴史の地下に埋もれたマンショのエピソードを紹介しクローズアップする。
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 ムルシアに秘められたエピソード

     辻斬りZ W50H50 gif  ① 「伊東マンショが見た水の都ムルシア」
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         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

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     ムルシアはセグラ川と密接でその肥沃な土地の周囲には山々が連なるアラブを起源とするスペインでも古い都市の一つである。山々はこの古代都市の平野を囲むように座り、ギルドの通りに一歩足を踏み入ると、そこにはまず大聖堂の塔、市のシンボルの一つが現れる。そのムルシアには2000年以上に渡り人々が居住する。またこの居住地を取り囲むようにしてエミールAbderramanII世はセグラ川のほとりに城壁を築いた。
 そして城壁が築かれたのは、13世紀にカスティーリャ王国の一部となるまでの間、Mursiyaのムーア人の領域が重要性を得るために始めたのが最初で、エミールAbderramanII世による城壁の完成はその後のことだ。
 現在も市内にはそのムーアの過去の遺跡が数多く残されている。
 さらに旧市街は、ギルドの名残りを保つ歴史の街でもあり、セグラ川に隣接してプラテリア(銀の)、Trapería(パーズ)とVidrieros(ガラス切り)などの地名が当時を物語る。

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 ムルシア(Murcia)は、スペイン南東部の都市で、ムルシア州の州都。セグラ川に面する。人口は約42万人でスペイン第7位。衛星都市を含めたムルシア都市圏は56万人で、都市圏としてはスペイン第12位。

 825年、ムルシアは「メディナト・ムルシヤ」という名前で、アンダルスを支配した後ウマイヤ朝のアミール、アブド・アッラフマーン2世によって建設された。
 アラブ人はセグラ川の流れの利点を活かし、複雑な灌漑用水路のネットワークを作り上げた。これによって町は繁栄し、近代の灌漑システムの先取りとなった。12世紀にアラブ人の地理学者イドリースィーは、この町を人口が多く、強く要塞化されていると述べている。たしかにこの古代の先取技術は未だ現代に通用する。
 コルドバのカリフが倒れると、ムルシアは順にアルメリア、トレド、セビリャの支配下に入った。1172年、ムワッヒド朝の支配下に入ったが、1223年から1243年までは独立した王国となった。
 1243年、アルフォンソ10世に率いられたカスティーリャ王国はムルシアを奪い、多くの移住者が北カスティーリャとプロヴァンスから移住した。1296年、ムルシアとその領域はアラゴン王国に引き渡されたが、1304年、トレラス条約によって最終的にカスティーリャ王国に編入された。そして18世紀になると、ムルシアは絹織物業によって繁栄し、教会や記念碑の多くはこの時期に建てられている。

 Cartagena City Murcia Spain

 Tourist Information Video for Cartagena Murcia Spain. Only 20 mins from Hacienda del Alamo. カルタヘナムルシアスペインの観光案内。ハシエンダデルアラモからわずか20分。


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Episode gif エピソード・マンショ ①

 ムルシアはセグラ川に沿って市街地が形成されている。
 この川は、アンダルシア州を源泉とする延長325kmの川だ。そして流れはスペインの南東部沿岸の海へと注ぐ。じつは伊東マンショはこの川と関して一つの出来事を体験した。
 だが少し本旨から道草して現代の目線でこの川を述べると、セグーラ川 (スペイン語:Río Segura、ラテン語:Thader、アラビア語: وادي الأبيض Wadi al-Abyad, 「白い川」)は、ハエン県に源を発し、アルバセテ県、ムルシア州、アリカンテ県を流れる。
 上流域には水力発電用ダムがあり一定の水量を保つ。下流域では半ば干上がることすらある河川であるが、雨季である秋に突然土砂降りの雨が降ると洪水を起こすことがある。
 20世紀では1946年、1948年、1973年、1982年、1987年、1989年に洪水が発生した。多発、そのために1990年以降運河が掘削され、治水目的のみの排水地がつくられた。
 よって河川の蛇行が改善され、あふれ出た水の排出が改善されたことで、水量が低位置に抑えられている。現在もベガ・デル・セグーラ沖積平野は、非常に生産的な農業地帯で、果実・野菜・生花が生産されている。しかし反面ムルシア地域を含むセグラ川下流域は、ヨーロッパ有数の汚染河川である。近年の水質管理、排水浄化施設の設置で状況はやや改善に向かってはいる。


 セグラ川に沿いグアダルマールセグラへと散歩。約一時間半片道かかるが、軽食用アダルのバーやレストランが川沿いにたくさんある。町と海の素晴らしい景色と、アダル城の城壁を回る歩道があるが、この歩道からまた町への入り口は、古い水車小屋エリアで大噴水の景色を見ることができる。


 セグラ川の氾濫。(1946年)

 モンテロ家に伝わる史書の記しによると、伊東マンショがこのムルシアに到着したのは1584年12月5日とある。マドリードを発った日から9日後のことだ。
 途中、ラ・マンチャ地方をのんびりと一行は進んでいる。マンショはベルモンテ城で一夜を過ごしたことは前回のファイル7番にて触れた。なぜこうも長閑な歩行となるのかは、ムルシアから次の進路となるアリカンテの事情に左右される。
 一行はそのアリカンテの港から帆船による航海でローマへと向かう予定が組まれていた。この出航の準備に時間が必要であったようだ。もしその調整時間が不必要であったならベルモンテ付近からはアリカンテに向かう最短の道は他にもあった。よほどムルシアに重要な要件がない限り、ムルシアからアリカンテを辿ると少し遠回りとなる。したがってムルシアを訪れることは出航待ちの時間調整も兼ねていたことになる。


 ムルシアとその自然環境のハイライトで現在を救済する地質学的起源を説​​明する教育ドキュメンタリー。


 中世のムルシア

 史書伝によると伊東マンショがムルシアに滞在した期間は15日、半月はこの街で過ごしている。
 到着したのが12月5日であるから、冬季半ばのことであった。しかしムルシアは地中海性気候の影響を受けたステップ気候である。地中海に近いために、『半乾燥・地中海性気候』と一般的に称され、夏は暑く冬は温暖である。おそらくマンショの当時もそうであったろう。使節一行はこの比較的暖かい土地で旅の体調を整えようとした。

 史書をひもとくと「El muchacho siguió mirando la estrella de la noche un par de días.少年は数日間、夜の星を見続けていた」とあり、その後「El muchacho fue observar el flujo del río Segura.少年はセグラ川の流れを観察していた」とある。そして「Escuchó bien hablar de los agricultores.彼は農民の話によく耳を傾けた」と記す。さらに「Boy que expresaron su interés en el caudal del río, estaba dibujando una imagen de un foso o al río. 川の流れに関心を示した少年は、堀や川の絵を描いていた」ことを記している。そしてこの記述の最後に「El nombre del niño es Mancio.少年の名前はマンショ」だと伝える。

 このことは伊東マンショがムルシアの「灌漑システム」に関心を強めたことを物語る。おそらく日本には無い水の文明に驚き、不思議さを感じたのであろう。スケッチをしたとあるが、残念ながらその所在は不明である。なお特筆すべきことは彼が「天文に関心を示した」ことだ。史書には「Había oído hablar de curiosidad constelaciones.彼は好奇心で星座の話を聞いていた」とある。

 ムルシアに複雑な灌漑用水路のネットワークを作り上げた後ウマイヤ朝(こうウマイヤちょう756年~1031年)は、イベリア半島に興ったウマイヤ朝の再興王朝のことである。
 これを西カリフ帝国とも呼ぶ。日本での通称は後ウマイヤ朝であるが、史料や外国の研究者はアンダルスの(またはコルドバの)ウマイヤ朝と呼んでいる。
 この後ウマイヤ朝は、アッバース朝に匹敵するほどの繁栄の時代に達した。
 10世紀の地理学者イブン・ハウカルは、当時のコルドバはバグダードには敵わなかったが、エジプト、シリア、マグリブのどの都市よりも大きかったと伝えている。
 10世紀のコルドバは世界でも有数の大都会であり、史料によると人口は50万を下らなかったと推測されており、西欧で最大の都市であった。こうしたコルドバは洗練した文化の都ともなり、すでにクリスタル・ガラスの製法は9世紀後半にコルドバで生まれ、金銀細工の技術も発達する。
 また、バグダードからコルドバの宮廷によばれたジルヤーブは琵琶の演奏や歌手として名声を博し、バグダードの優雅な文化をコルドバにもたらした。
 彼がもたらしたものは、例えば、フランス料理の原型となった料理コース、ガラス製の酒杯、衣服を季節ごとに着替える習慣、髪の手入れ、白髪抜き、歯磨きの使い方、などである。

 10世紀半ば、コルドバの西北7キロの小高い丘にザフラー宮殿(花の宮殿の意味)が建造され、大理石だけでも4000本が使われ、宮中には40万巻の書籍が集められた。
 おそらく、当時の世界で最も輝く宮殿であっただろう。
 統治下で、さまざまな宗教や民族が共存しえたことは、この王朝の繁栄に大きな貢献をもたらした。一部のキリスト教徒は移住したが大部分はイスラムの支配下で信仰の自由を許されて暮らした。ユダヤ教徒も西ゴート王国時代には冷酷な扱いを受けることが多かったが、イスラム支配下では自由と繁栄を享受した。また、イスラム文明が極めて高度な文明であったので、それを土着のスペイン人がすすんで受け入れたことも安定したムスリム社会を形成した理由だろう。

 ムルシアの歴史上の特性をそう考えてみると、伊東マンショという人物は日本人の誰よりも一早くムスリム社会の文明を実際に体験した。その眼差しの一端が彼を灌漑システムの文明技術へと向かわせたといえる。したがってこの15~6歳の日本少年は、歴史的に驚異的な実体験を果たしたのだ。
 しかもそこに接近する意識が受身ではなくポジティブであるのだからマンショの精悍な性格もが浮き彫りとなる。これこそがじつに驚異的だ。





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Vislumbres de Mansho está enterrado en la historia de España
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 アリカンテに秘められたエピソード

     辻斬りZ W50H50 gif  ②「伊東マンショを魅了したスペインの黄金文明」
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         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

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     アリカンテ(Alicante)は地中海に面する港湾都市(人口約32万人)。
     物流拠点として重要な役割を果たすほか、アルミニウムなどの工業も盛ん。温暖な気候が続くため、保養地、海水浴場として多くの観光客も集める。近隣の都市としては、20キロ南西にエルチェ、70キロ南西にムルシアが位置している。
 歴史的には、紀元前3世紀、フェニキア人の植民市・カルタゴの名門であるバルカ家によって建てられた。
 当時はアクラ・レウケと称される。しかし、ローマとの第二次ポエニ戦争にカルタゴは敗れ、アクラ・レウケもローマの支配下におかれた。ローマの統治下ではルセンツムと称された。
 8世紀にイスラーム勢力に征服され、13世紀までその支配は続いた。
 その後はアラゴン王国の支配下に入り、15世紀後半のカスティリャ王国とアラゴン王国の合併によってスペインの支配下に入った。18世紀初頭のスペイン継承戦争では、一時フランス・ブルボン家の軍に街が包囲された。1936年に勃発したスペイン内戦では、人民戦線側を支持する勢力が強かったが、フランシスコ・フランコ将軍を中心とした反乱軍が最終的には勝利した。

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 地中海に面し、気候が温暖なアリカンテはコスタ・ブランカの中心的なリゾート地。 かつてローマ人に「光の都」(Lucentum)と、ギリシア人に「白い砦」(Akla Leuka)と 呼ばれていた。
 Alicante(現地の言葉ではAlacant)という地名はアラビア語の「Al-Laqant」に由来する。港沿いの遊歩道は幾何学模様のタイルが敷かれ、椰子の木が立ち並び、カラフルな椅子に座って憩う人々の姿があり明るい雰囲気に包まれている。主要都市からの距離はマドリード:432km、バルセロナ:544km、バレンシア:182km。



 この街からは紀元前3~4世紀の遺物や、また当時のものと見られる40以上の墓所が発見されている。ウエルタスとサンタ・ポラのふたつの岬に挟まれた地中海沿岸のアリカンテは、古くから港町として発展してきた。
 8世紀にイスラム教徒支配下に入り、13世紀末にジャウマ2世によりレコンキスタされ、14世紀初頭にはアラゴン王国の勢力下に。当時すでに、現在と同じドライフルーツ、羊毛、ワインを中心とした商業が盛んに行われたていたという。
 その後、17世紀にはフランス軍の攻撃で町が荒廃するも、18世紀にマドリードと結ぶ鉄道が開通したのをきっかけに、新大陸アメリカとの交易で再び繁栄。現在は、地中海岸のリゾート地コスタ・ブランカ(白い海岸)の中心地として、多くの観光客が訪れる町である。夏は海水浴、冬は避寒を求める観光客が、国内外から大勢押し寄せる。
 18世紀に作られたバロック様式の市役所などもあるが、アリカンテの魅力はなんといってもビーチだろう。パーム・ツリーが並ぶ整備された遊歩道の先が、ビーチになっている。海岸沿いは、大規模、中規模とりまぜてホテルが林立している。
 ここで、とても夢のないことを言ってしまうと、新しく開発された町ではないこともあって、町の中心にあるビーチの雰囲気は、日本の「熱海」かもしれない。静かに海水浴を楽しみたいなら、近くにある町からやや離れたビーチまで足を伸ばすほうがいいだろう。アリカンテを囲むウエルタスとサンタ・ポラの岬からは、広々とした地中海を見晴らすことができる。
 アリカンテは海沿いの街なので魚介類は新鮮だし、米どころであるタラゴナ-バレンシア-ムルシアのラインの間に位置するので、とりわけ米料理は美味に感じる。
 そしてポピュラーな魚介類は、ヒメジ、イワシ、マグロ、エビ、ヤリイカにコウイカなど。
 A la Planacha「ア・ラ・プランチャ」とあれば、これらを鉄板焼きしたものという意味だ。また、隣のバレンシアはパエージャ発祥の地であるし、ムルシアは特別な方法で生産する水分の少ない高級米の産地。この地方には米と魚介をふんだんに使った料理が何種類もある。
 D.O.(原産地呼称制度認定)Alicante「アリカンテ」は古くからワインの産地として知られてきたが、90年代になって一気に設備や原材料の見直しが行われてから、高品質なものが生産されるようになった。デザートワインとしては、甘口のMoscatel「モスカテル」(マスカット)種のものがおすすめとなろう。
 また、クリスマスに食べられるTurro'n「トゥロン」(ハチミツ、砂糖、卵白とトーストしたアーモンドを混ぜて作る、アラビア伝来の菓子)の産地としても有名で、これはスペインに二つしかないトゥロンの原産地呼称のひとつに認められている。


 コスタブランカ地方のアリカンテの海岸は約160キロ。この海岸線には、日光浴やスイマーのためのビーチ、スキューバダイビングのための岩の入り江の他、テーマパーク、サファリ公園、自然保護区、魅惑的な村、洞窟、滝などと共に、エキサイティングな祭り、国際的に有名なゴルフコースもある。


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 Alicante (Espagne)

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Episode gif エピソード・マンショ ②

 幾度か訪れているスペインではあるが、その中で記憶に残る意外な旅の出逢いがある。それは一度、日時を定める意味合いもなくただ目的地のみ意識して訪れたスペインは、Semana Santaセマナ・サンタ)の真っただ中であった。なので、その時期にスペインを訪れると、どなたでも下の動画のごとく神秘な光景に遭遇するだろう。

 何を祝う祭りかというと、話はキリスト教にまつわる。キリストが刑を受け、復活するまでの1週間を祝うお祭りである。毎年、3月末~4月初めの1週間が、このセマナ・サンタにあたる。英語では「イースター」と呼ばれるものだ。
 この熱烈な信者、好奇心の強い人、観光客やグルメなど、様々な人々が祝う情熱と楽しみの溢れる一週間、セマナ・サンタ(聖週間:Semana Santa)はふたつの顔を見せてくれる。
 ひとつは、カトリック教信者にとってその年の最も大事な時期であり、キリストが人間の罪をあがなうために自ら犠牲になったことを思い出すために様々な行事が催されること。
 そしてもうひとつは、その他の人々にとってセマナ・サンタはパソ(Paso:行列の神輿)やナザレノ(Nazareno:フードつきのマントを着用し受難者の格好をした人々の行列)の姿を見物する絶好の機会となることだ。さらに、この時期だけしか味わえないデザートやお菓子などを、スィーツ店やレストランなどで楽しむ習慣も異国人には魅惑な出逢いとなる。
 このセマナ・サンタにキリストの受難を再現する習慣は、スペインで最も伝統のある行事のひとつ。
 首都マドリードでも、当然のことながらセマナ・サンタを祝う伝統については、長い歴史がある。15世紀から毎年、新約聖書に記述されているキリストの死、磔の刑そして復活の再現が行われてきた。数日間にわたって催される行列で使われる神輿は、華やかに飾られ、20人あまりの男性が担いで教会の外へ運びだす。行列はプラド通り(Paseo del Prado)、アルカラ通り(calle Alcalá)、マヨール広場(Plaza Mayor)などの場所を巡る。これはマドリードだけに限らない。この期間、スペイン国内では各地域で特色のあるセマナ・サンタが行われる。

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 アリカンテのセマナ・サンタ。
 教派別に表現が違う。受難週(じゅなんしゅう:プロテスタント)、聖週間(せいしゅうかん:カトリック)、受難週間(じゅなんしゅうかん:正教会)、(英: Passion Week, Holy Week, 西: Semana Santa)とは棕櫚の主日(枝の主日、聖枝祭)から、復活祭(復活大祭)の前日までの一週間を指す。この週の木曜日は「聖木曜日」(「洗足木曜日」、「聖大木曜日」)、金曜日は「聖金曜日」(「受難日」、「受苦日」、「聖大金曜日」とも)、土曜日は「聖土曜日」と呼ばれる。これはイエス・キリストがエルサレムで受けた苦難を記憶する事から「受難週」等の名がつけられている。受難週の各曜日における出来事を福音書の記述に従って行う伝統は、エルサレム教会で2~3世紀頃から行われていたようである。今日でも正教会、カトリック教会、聖公会では各曜日に様々な行事が行われている。ただ、プロテスタントでは教派や国によって採用する行事にばらつきがある。

 アリカンテ(Alicante)での伊東マンショの動向をみるとき、このイースターにちなんだ料理について考えてみたい。モンテロ家に伝わるトメリョソ(Tomelloso)の歴史書には、伊東マンショがアリカンテで口にした料理が記されている。
 史書伝に「Los ingredientes que se utilizan qué? . この食材は一体何なのでしょうか」と質問が記され、また「¿Es lo mismo que los que comí en Macao antes.  これは私が前にマカオで食べたものと同じです」と伝えている。マンショはその「何か?」を体験した。

 ドイツなどでは、このイースターにはウサギをかたどったパンを食べたりする習慣があり、ヨーロッパの他の国々をみても、どちらかというと、羊の肉や、鶏肉、ソーセージなど動物性食品を摂る習慣が多い。スペインはというと、塩漬けの干ダラを使った料理を食べることが多いようだ。スペインではこの塩漬けの干ダラ(バカラオ)を食べることが多く、普段の料理にも登場する。
 そしてデザートでは、「torrijas(トリハス)」と呼ばれる、パンから作られるスイーツを食べる。これはバゲットなどを砂糖やハチミツを入れたミルクに浸して、溶き卵に通して、フライパンで焼く。似たモノでは、フレンチトーストみたいな感じであろうか。そしてセマナ・サンタの間は、学校や会社が休日になるのが大半なので、スペインではそれぞれ家で過ごしたり、遠出をして過ごしたりしている。

 伊東マンショがアリカンテに到着したのは1584年12月22日。少年使節の一行はアリカンテ近郊で年を越すことになる。年が明けて出航する支度は整えられた。したがって聖夜はアリカンテで迎えた。このときその食卓にセマナ・サンタ(イースター)の料理と同様のモノが並べられたと記されている。

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 バカラオ(西: Bacalao、葡: Bacalhau バカリャウ、伊: Baccalà バッカラ)は、タラ(鱈)の塩漬けの干物、またはそれを用いた料理を指す。南ヨーロッパ諸国、スペインやポルトガルの植民地であった中南米諸国、そしてタラの捕獲地である北欧諸国を中心に食べられている。
 スペイン語圏において、単にバカラオというとタラを指すが、むしろ塩漬け干ダラのバカラオ・エン・サラソン(Bacalao en salazón)を意味することが多い。
 塩漬けにして乾燥した場所で数ヶ月保存する。1匹丸ごと保存加工されたタラの塊はバカラーダ(bacalada)と呼ばれ、ほぼ三角形の形をしている。主な生産地は北欧諸国と北アメリカの北東部である。保存性の高いバカラオは航海中の食料に向き、三角貿易で盛んに取引されたため、タラの産地から遠いブラジルや西インド諸島、西アフリカでもよく食べられている。かつては庶民的な食材であったが、1990年代にタイセイヨウダラの資源量が激減して以来、価格が上昇した。
 同じく塩蔵されるタラ科スケトウダラ属の魚ポラック(en:Pollock)とよく混乱されるが、バカラオはタラ科マダラ属の魚(英語:Cod 、コッド)を用いる。 また北欧諸国のルーテフィスク(no:Lutefisk)は乾燥させた鱈を灰汁で柔らかくゼリー状にしたもので、塩蔵はしていないため、バカラオとは異なる。

 バカラオは塩漬け保存、この方法で保存すると、ココチャス(kokotxas、喉肉)などの肉、卵、骨、肝臓、浮き袋など料理に使える多くの部分を取り除くことになる。塩漬けで数ヶ月乾燥させると三角形の平らな形となり、持ち運びが楽になるとともに、少ない量であれば重ねて積むこともできる。
 塩蔵された魚は大量に塩が用いられているため、そのままで食べることはできない。調理の約24時間前から冷水で塩抜きする。塩抜きの途中で1度か2度水を変えるが、その頻度はタラの大きさによって異なる。塩抜きが完了したらすぐに調理を始めるべきである。また塩抜きの段階で薄くはがれた細切れの肉片は「バカラオの切れ端」(migas de bacalao 、ミガス・デ・バカラオ)として別売りされることがある。

 こうしたバカラオは、スペイン・ポルトガル・イタリア・フランスおよび中南米諸国と係わりが深い。これらのカトリック文化圏では、謝肉祭の最終日(マルディグラ 、太った火曜日の意)の翌日である灰の水曜日から復活祭の前日までの40日間を四旬節といい、かつてはこの期間中に小斎として鳥獣の肉を絶つことになっていたため魚を食べた。
 20世紀後半以降は四旬節のうち、灰の水曜日とキリストが十字架にかかった聖金曜日のみ、あるいは受難と同じ曜日である毎週金曜日に鳥獣の肉を食べない習慣となっている。南欧や中南米では聖金曜日を含む四旬節の最後の1週間に当たるセマナ・サンタ(聖なる1週間、Semana Santa)用の伝統食が確立されており、タラとくに塩漬けのバカラオはセマナ・サンタの象徴的な食べ物となっている。



 スペインにおいてタラはセマナ・サンタに食べる伝統的な魚であり、スープ、フライ、コロッケ、トルティージャなど様々な料理に用いられる。アルゼンチンでも肉食を避ける日はマグロを詰めたエンパナーダとともにバカラオのシチューが代表的な食事となっている。バカラオが手に入らない場合はサメの肉(カソン、cazón)で代用する。エクアドルとコロンビアではファネスカ(es:FanescaまたはJuanesca)というバカラオのスープを食べる習慣がある。また、この時期 ブラジルでも、スカンジナビア諸国から大量のタラを輸入しており、その量は世界最大となっている。近海の魚でなく敢えて遠方の寒流に棲むタラを食べるのは、宗教的な伝統食であること、三角貿易と旧宗主国であるポルトガルの食生活の名残であることとされる。
 しかしメキシコは例外で、セマナ・サンタの時期ではなくクリスマス・イブに食べる。カトリック教徒はクリスマス前の待降節期間中も四旬節同様肉食を避けるためである。

 史書伝では伊東マンショの質問に「Se Bakarao. Un plato de bacalao. それはバカラオ。タラの料理です」と応じたと記されている。どいやら以前の寄港地であるマカオでも一度食べたことがあるようだ。マンショは九州の日向国に生まれた。鱈という魚は北方の食材、食感は記されてないが、伊東マンショはアリカンテで鱈料理を体験した。

 19世紀半ばのアリカンテ。(1853年から1866年)。
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Vislumbres de Mansho está enterrado en la historia de España
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 サンタ・ポールに秘められたエピソード

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 Fastighetsbyrån Gran Alacant & Santa Pola

 アリカンテから南にバスで約30分の隣町サンタ・ポーラは、漁港であり、あるいは夏に賑わう海水浴場でもある。じつは、この地にも伊東マンショは足跡を残した。
 この情報を基に漱太郎も何度かサンタ・ポーラを訪れている。
 ところが近年、バスが街中に入ると急に初めてきた街のような気がしてきた。かってこんなに建物が密集している地域ではなかったはずだ。そう思っている間に乗車したバスは海岸通に入っていき、次の停留所で乗客の殆ど全員が降り始めた。道路の向かい側は砂浜である。どうにも記憶にあるサンタ・ポーラとは違う。

  しかし終点のようだと思って私も降りる。バスはそのまま直進していった。かつてこの街を訪れた時も終点まできたのだが、そこは海岸ではなく、周囲に植栽の多いロータリーであったと思う。そして、バスはそこから折り返すためにしばらく停車していたはずだ。以前はたしかにそうであったと記憶する。

 そう思いながらしばらく海を眺めていたが、海岸近くには高い建物が多く増えており、その背後にピソや戸建ての住宅も増えている。大型スーパーや商店なども多くなっている。どうやらこれは「う~ん、サンタ・ポーラも住宅バブルに飲み込まれたな?!」と呟いた。「とにかく以前食事したことのある漁港に近いバルに行ってみよう」そうすれば街がどのように変化したのかが判るかもしれない。

 そして市内地図を片手にとりあえず漁港を目指した。かつてこの漁港で夕方の競り市を見学したことがあった。また、その近くのバルで食事をしたこともある。バスを降りた海岸は西の方で、近年、街は西の方へと広がったようだ。港は東側にあった。その港にはかつて見なかった広い駐車場ができている。またその先に見える岸壁にはタバルカ島行きの客船が停泊しており、出発時刻が近づいているのか、急いで走りこむ客の姿が見られた。

 昼間の漁港には船舶の姿は見られず、競り市を見た建物が薄汚れた側壁を曝している。その近くに見つけた、食事の不味かったと鮮やかに記憶するあのバルも心なしか寂れて客足も途絶えているように思われた。この日、真夏の海水浴場と人出の多い街中や高い建物の商店街を見歩いたせいか、漁港の寂びれて古びた施設を見ると、サンタ・ポーラはすっかり様変わりした印象であった。これはまさに日本におけるバブル崩壊後にみせた同様の荒廃を感じさせた。

 そう強く思えるのには、この港の南エリアに砂と塩湿地の広がるサリナスデサンタポーラの自然公園(salinas de santa pola)があるからだ。かってサンタ・ポーラの街はこの広大な湿地湖と一体となって独特の風土をつくり上げてきた。その貴重な歴史性と比較すると、どうにも近代のリゾート開発は、やはり魅力を欠いて画一である。



Episode gif エピソード・マンショ ③

 前述の通り伊東マンショは聖夜24日にバカラオ(鱈料理)を馳走されたわけだが、その鱈に関連してマンショは隣町のサンタポールまで足を運ぶことになった。
 クリスマスとはキリスト教の教会暦における降誕祭。
 一般には馴染まないが、教会暦の一日は日没から始まり日没に終わる。降誕祭は24日の日没からクリスマスが始まり、25日の日没にて終わる。したがって24日の昼間は「クリスマスイヴ」ではなく、24日の日没以降がクリスマスイヴ(聖夜)となる。
 史伝によるとその聖夜に出されたバカラオの一件に絡んで「Mancio mostró interés en saber cómo hacer Bakarao. マンショはバカラオの作り方に興味を抱いた」とある。そして「Mansho estaba interesado en la tecnología de producción de sal. マンショは塩の生産技術に関心を示した」と記されている。さらに「Se sorprendió a grandes cantidades de sal apilados sobre la mesa. 彼はテーブルの上に盛られた大量の塩をみて驚いた」とある。

 史伝ではアヨセ・ロラ(Ayozw Lora)という男性がいた。そのアヨセに誘われて伊東マンショがサンタ・ポーラを訪れたのが12月28日のことであった。
 アヨセはバルセロナにあるCardona(カルドナ)の岩塩を採掘していた男である。そしてマンショはこのアヨセ・ロラから天日塩田の説明を聞いた。マンショの語学力で果たしてどれほどの理解を示したかは不明だが、史伝によると「Mansho escribió con entusiasmo, una descripción de la Ayose. アヨセの説明をマンショは熱心に書きとめた」とされる。

 こうして伊東マンショは次に、サンタ・ポールから南約30マイルに位置するトレビエハ(Torrevieja)という街にアヨセに誘われて訪れた。このトレビエハにはサリナス湖という塩湖があった。伊東マンショはそれほど強く塩というものに関心を示したようだ。

 そこで先に世界の塩事情について少し述べる。

 地球上の生物は原始の海水中で発生した。
 このことに起因して、塩は多くの生物にとって必須の物質であり、人類の生活に欠かせないものである.生活に欠かせない物質として空気と水があげられるが、空気はいたる所に存在し、人類は水と食料を入手できる所を生活の場とした。水や食料と比べれば塩の必要量はわずかであり、かつ塩の産出地が適当に偏在していることから、ある特定の場所で塩が生産され、またきわめて古くから塩の交易が行われた。塩の歴史は人間の歴史とともに始まったといえよう。

塩 1 W600

 古代エジプト人が天然塩の採集から、干潟に簡単な溝を設け、天日塩田の祖型ともいえる方法に到達したであろうことは十分に想像されるが、しかし現在にその確証はない。
 バビロニアでは塩泉、塩井等から得た塩水を天日で結晶させたといわれている。また地中海東部のフェニキア人が、海運、交易で活躍したのは、紀元前12~6世紀のことだ。彼らは死海付近の岩塩のみならず、はるか2000マイル離れたスペインの岩塩床から塩を採掘し、またカヂスの天日塩を積み出して地中海沿岸に売りさばいていた。そのスペインのカヂスは地中海から大西洋に出てすぐのところにある。近くのサンフェルナンドに水深が浅く口が狭い湾があり、この湾全体が天然の塩田となっていた。狭い湾口を春締め切っておくと、夏期の太陽熱によって蒸発し、やがて塩の析出がはじまる。これは古来サンフェルナンドのソルトパンといわれ、天然の天日塩田。フェニキアおよび古代ローマ人は、ここから乾魚や塩漬魚とともに、塩を積み出したのだ。

 地中海沿岸の気候は降水量が少なく、とくに夏期雨が少ないので天日製塩に適しており、現在でも各所に天日塩田がある。この地中海の真中に突出したイタリア半島では、ローマに近いコルネトー・タルキニアにおいて、古来海水を放置し天日を利用して製塩を行ってきたが、その品質はよくなかった。ローマ市4代目の王アンクス・マルキウスはその改善をはかって、ティベル河口のオスティアに塩田をつくり、さらにローマまで道路を建設したのが、紀元前630年頃と伝えられる。この道路を塩道路という。後にローマ帝国の版図の拡大にともなって、塩輸送のための道路も拡張され、国内の主要都市はもちろん、中央ヨーロッパから今のイギリスにまで達した。これらの道路の建設や警備にはローマの兵士が当たり、また兵士の給料は塩で支払われた。今日のサラリーという語はラテン語の「salarium」に由来している。オーストリアのウィーンの西北、サルツブルグは、現在岩塩の産出で著名である。その近くのハルシュタット(ケルト語で塩の場所を意味する)では、紀元前1000~500年頃岩塩の採掘が盛んに行われ、塩の交易を通して中部ヨーロッパの文化の一中心地をなした。

 ヨーロッパの塩生産拠点と製塩会社をみると、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、ハンガリー、ブルガリアには塩の生産拠点はないことがわかる。しかしヨーロッパには多くの岩塩鉱があり,乾式採鉱とともに溶解採鉱も行われ,そのかん水を原料としたせんごう工場も数多くある。特に地中海沿岸には多くの天日塩田があり,岩塩を溶解採鉱したかん水を天日蒸発させて天日塩を生産している塩田もある。

中世の食生活と塩に関する事例』(13~15世紀)

○塩の生産

(1)塩の質と費用は、生産方法によって変化した。

 A.最良の塩は「塩水の井戸から汲み上げられた水を煮詰めて作る」or「海水の浸み込んだ泥炭を燃やす」ことで作られた。
 B.泥炭は乾燥させた後に燃やすと、塩を含んだ灰が後に残る。これを水に溶かし、煮て水分を抜くと、綺麗で上品な白色の塩が残る(この塩はずいぶん尊ばれたが、生産過程は不愉快かつ退屈だった)。
 C.14,15世紀には、フランス西部のブルヌフ湾(ロワール河口)から新しい塩がもたらされるようになった。ここでは「海水を浅い人工の池に集めて、そこで長い夏の間に太陽によって蒸発させる」方法を採った。
 D.これは最小限の費用と労力で生産できたから、起業家たちはこれを「天からのマナ」と呼び、全ヨーロッパに輸出して大儲けした。

(2)しかし天日塩には見かけに残念なところがあった。

 A.人工池に集まった埃・ゴミを取り除いて塩を精製する試みがほとんどor全くされなかったのが原因だった。
 B.蒸発だと、煮た時と同様の穀粒のように綺麗な塩は後に残らない(現代でも天日塩に関する記述には「黒い」「灰色の」「緑の」という形容詞が用いられている)。また「粗大な」「ザラザラした」「粗い」とも表現される。

○食卓と塩

(1)現代と同様に、塩加減の好みは客によって異なるから、塩入れは食卓に必要不可欠だった。出された塩の質は(パンと同様に)「晩餐の主人役の財政状態」「主人役の客に対する評価」を知る手掛かりを与えてくれた。

(2)慎重な一家の主は、使用目的(使用者)に応じて異なる種類の塩を買い求めた。


 A.もちろん、白くてきめ細かくて綺麗な塩が最上だった。節約家は自分で塩を煮沸・精製する方法を実行して、白くて小さな塩を手に入れた。
 B.中世の優雅さは「パンを四角に切る」「塩を滑らかにする」ことを求めた。塩を滑らかにする方法として、幅2インチ・長さ5インチの象牙のヘラを推奨している事例がある。

(3)塩を使用する場合には、どんな食べ物も塩の中に突っ込んではならなかった。

 A.変わりに「塩をナイフの先に取り、客自身の敷板の上に置いた」(1600年頃の木の敷板には、塩を入れる部分が作られていた)。
 B.時には即席の塩入れとして、パンを切り取って臨時の敷板とした。
 C.塩入れを綺麗に保つために、一度出された塩を塩入れに戻すのは避けなければならなかった(過度の節約は戒められた)。
 D.塩は全員が使ったから、銘々の食卓に用意されたが、それとは別に主人の席のすぐ傍に「宴会の中心である名誉ある席」であることを示す、象徴的な塩が置かれた。他の塩は必要がなくなれば食事の途中に片付けられたが、この象徴的な塩だけは、最初から最後まで食卓の上にあった。

(4)塩入れはいつも陳列され、客の目を喜ばせ、所有者の権威を確かなものにする意図が込められていた。

 A.このため塩入れは、出来る限り最も高価な材質で作られ、その上材質に応じた装飾が施された。
 B.材質には「銀、金メッキした銀、金」がとても好まれ、装飾の例として「本体はめのう製で、金の蓋付き、その取っ手をサファイア1個と真珠4個で飾った」ものがある。
 C.中世文化の特徴を示す当時の格言に「質素なことは面白くなく、幻想的なことは面白い」というのがある。これに従って、塩入れはありとあらゆる形を装って食卓に出された。「ライオン」「竜が中から這い出してくるえぞばい貝の殻」などがある。

(5)ヨーロッパ大陸で最も人気があったのは船の塩入れだった。

 A.フェリペ2世とともに絵に登場するものは「手間をかけて作られた菓子で、蜘蛛の糸のような索具・非常に小さな錨・小型の大砲・ごく小さい袋や俵」まで表現されていた。
 B.船は塩だけでなく、ナプキンや刃物類も置けるほど大きいものもあった。
 C.このサイズだと、人気の家としての魅力を全て備えていた。「船首楼のところで旗を掲げている小さな人形が8体集まった船形の塩入れがあり、これを食卓の上を堂々と進ませて、祝宴中のぎこちない間を和らげた」こともある。

(6)素晴らしい塩は財産であり、困窮の際には保証となった(塩の重さ・価格を慎重に記録した!)。古い塩を手に入れた新しい所有者は、好みや流行にあわせて塩を溶かして作り変えるまでした。

 聖夜にはフェリペ2世より贈られた青い船形の塩入れがあり、そこには山盛りの聖塩が少年使節一行の前で銀色に輝いていた。モンテロ家に伝わる史書伝は「El niño estaba fascinado por el misterio de la sal gradualmente.  少年は徐々に塩の神秘に魅了された」と伝える。

Salinas de Santa Pola 地図 W600
Salinas de Santa Pola 8 W600

Salinas de Santa Pola 塩田 W600
salinas de santa pola 塩田 1 W600

 サンタ・ポーラの天日田園(今昔物語)

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ライン黒 W600
Vislumbres de Mansho está enterrado en la historia de España
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Torrevieja gif
 トレビエハに秘められたエピソード


 トレビエハ(Torrevieja)は、バレンシア州、アリカンテ県の都市。コスタ・ブランカに面した観光都市で、サンタ・ポールの南約30マイル(metric mile:1マイルの長さは1500メートル)に位置する。このトレビエハの面積は約71平方kmで、領域内には通り、砂浜、潟がある。20kmもの海岸線は、ラ・マタ海水浴場など多くの海水浴場がある。年間の平均気温は、12℃から25℃の間である。

スペイン南東部沿岸マンショの足跡 W600


 スペインの南東海岸をトレビエハに向かって。





Episode gif エピソード・マンショ ④

 18世紀まで、ここトレビエハにはサリナス湖という塩湖があり、スペイン王家が所有していた。そして1802年まで、トレビエハ(古い塔を意味する)には地名の元となった監視塔があるだけで、他に塩鉱で働く者や漁民の家が点在していた。
 1803年、カルロス4世はサリナス湖管理をラ・マタからトレビエハへ移す布告をし、住宅建設が許可される。しかし1829年、地震によって人口が打撃を受け、だが後に徐々に復興した。これで塩の生産と貿易が決定的となり、1931年にはアルフォンソ13世によって工業都市に昇格す。19世紀の手工業生産は、一般消費のためのリネン生産、麻及び綿に制限されていた。停泊地が塩の積み荷の障害となったが、1945年以降に港が建設された。

 19世紀半ば以降、ここで精製された塩はスウェーデン船とオランダ船によって基本的に運ばれている。塩の海外市場の重要性は20世紀半ばまでであった。トレビエハで採れた塩は1/4がスペイン国内で売られ、残った塩は輸出された。19世紀、トレビエハは、ベガ・バヤ地方で生産される品物の積み出し港であった。
 そして近年の地元経済は観光業で非常に伸びている。
 イギリス人、スカンディナヴィア半島からの人々、ドイツ人はここで一年中暮らす強力な一団で、スペイン人観光客はトレビエハに休暇用住宅を所有する。2004年以降、トレビエハは在留イギリス人が多いムニシピオとして国内1位となり、現在は在留イギリス人人口が約12,000人となった。

フェリペ2世 W600

 フェリペ2世は、1527年神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王としてはカルロス1世)とポルトガル王マヌエル1世の娘イザベルとの間に生まれた。
 スペイン王にして神聖ローマ皇帝に選出された父カルロス1世は、当時のヨーロッパで最大の勢力を持ち、ヨーロッパ以外の広大な領土とあわせて、その繁栄は「太陽の沈まない国」と形容された。なお、現在のフィリピン共和国、フィリピン諸島などの「フィリピン」は、1542年、スペイン人のコンキスタドールによってラス・フィリピナス諸島と命名されたことに起源を発するが、これは、当時アストゥリアス公だったフェリペの名に由来する。そのフェリペは1556年11月16日、父の退位によりオーストリアを除く領土を受け継ぎ、スペイン王フェリペ2世として即位した。このとき28歳であった。また既に1521年にオーストリア大公、153年にドイツ王となっていた叔父フェルディナントも、この時に皇帝位を継承した。こうしてハプスブルク家は、スペイン・ハプスブルク家とオーストリア・ハプスブルク家に分化する。

 しかしフェリペ2世は、1556年の即位と同時に膨大な借金も受け継いだ。このため翌1557年に最初の破産宣告(国庫支払い停止宣言:バンカロータ)をせざるを得なかった。在位中にこれを含め、4回のバンカロータを行っており、フェリペ2世の時代の厳しい国庫事情が伺える。しかしイタリア戦争においては1559年、カトー・カンブレジ条約でフランスのイタリアに対する要求を放棄させた。

 折しもこのころに宗教改革は始まっている。
 宗教改革とは、16世紀(中世末期)のキリスト教世界における教会体制上の革新運動である。ルターの贖宥状批判がきっかけとなり、以前から指摘されていた教皇位の世俗化、聖職者の堕落などへの信徒の不満と結びついて、プロテスタントの分離へと発展した。

 ルターによるルター教、チューリッヒのツヴィングリやジュネーヴのカルヴァンなど各都市による改革派教会、ヘンリー8世によって始まったイギリス国教会などが成立する。また、当時はその他にアナバプテスト(今日メノナイトが現存)など急進派も力を持っていた。

 これには要因のひとつとして、16世紀は近代国家の萌芽の時代で、それまで各地域からの教会税はバチカンの収益となっていたが、近代国家の誕生とともに、各国は経済的な理由から自国の富がバチカンに流れることを可とせず、自国内に止めておくことをむしろ歓迎し、それぞれの地域の教会が、ローマと絶縁することを積極的に後押ししたことが背景にある。また、宗教改革の理念が拡大・浸透するうえでは、グーテンベルクによる印刷技術が大きな役割を果たしたといえる。

 このことからドイツ、フランスなどではローマ・カトリック勢力がプロテスタント勢力と争い、凄惨な闘争を繰り広げた。これを宗教戦争という。
 主なものに、カッペル戦争(スイス、1528年・1531年)・シュマルカルデン戦争(ドイツ、1546~1547年)・ユグノー戦争(フランス、1562~1598年)・三十年戦争(ドイツ、1618~1648年)・八十年戦争(オランダ、1568~1568年)があった。

 これに対し、カトリック内部でも改革の必要性は認識されていたが、プロテスタント運動が引き金となり、カトリック教会ではトリエント公会議を開催した。また、他を非難するよりまず自ら戒め、規律正しい宗教生活しようとロヨラやザビエルらが中心となりイエズス会が設立された。イエズス会はその後、キリスト教の大分裂を防ぐべく欧州各国に勢力を伸ばし、非ヨーロッパ諸国への布教活動を行った。
 これを対抗改革(対抗宗教改革)運動と呼ばれ、東アジアや日本への布教はこの延長であった。この宗教改革が無かった場合、日本への布教は随分遅くに行われたであろう。伊東マンショはこの時期の最中を生きた。それは改革の渦中といってよい。
 そしてこの宗教改革とスペインの塩とは重大で密接な関係があった。

 塩は生活にとりまた宗教上重要な物質であり、経済的側面、政治的側面などにおいて諸国の関心を誘っていた。当時の塩は、人間の生存と生活にかかわる全ての社会現象を理解するための原点をなしている。スペインの動向は、この物質における生活の意義を十分に象徴していた。
 塩は国の秩序を取り戻すよい手段である。否応なしに世界規模の商業を生じさせるからである。諸国家が関わりあうだけにそれだけいっそう重要なものとなる。また国家および商人にとって致富源である。

 その塩は欠くべからざるもので、手に入れるための障害をことごとく克服し、可能なあらゆる便益を利用する。したがって重量商品である塩は、河川路や大西洋の船舶で運ばれた。採掘されなかつた岩塩鉱山はひとつもない。また、塩田は地中海または大西洋で太陽に恵まれた国、すべてはカトリックの国であるが、そこに限られていた。北部地域の漁夫は、プロテスタントであるが、彼らは太陽の国のそれを必ず必要とする。スペインによる厳重に制御された塩の統制、生命を脅かして改宗を迫る、この抑えようもない酷い取引の要求を、これ以上物語るものはない。伊東マンショが体験した塩とは、当時の体制のそのものであった。

 したがって史伝に「Para Ayozw, el rey ordenó que. 国王はアヨセに命じられた」とある。前もってアヨセはフェリペ2世より少年らを塩田に案内するように命じられていた。それは少年使節の一行が日本に帰国して以降の国王の布石なのであった。さらにアヨセはトレビエハから南のカルタヘナという街に伊東マンショを案内する。
 一行はそのカルタヘナで年越しをした。この出来事は次回ファイルにてご紹介する。

トレビエハ塩田 1 W600
トレビエハ塩田 2 W600

 現在、地中海沿岸には数多くの塩田が散在している.規模の小さいものが大半であるが、中には100万トン/年の生産能力をもつ機械化された近代的な塩田もある。それは「CSMEのGiraud塩田」で10,000haの面積をもち,そのうちの700haが結晶池である。8~15 cmの塩層を形成し,年2回収穫する。
 そしてトレビエハには「Nueva Compania Arrendateria de las Salinas de Torrevieja社Torrevieja塩田」がある。
 スペインの首都マドリードの南東約400kmの地中海に面したTorreviejaにあるこの塩田も120万トン/年の能力をもっている。1400haのTorrevieja湖がその結晶池である。
 原料としては海水のほかに隣接している700haのLa Mata湖で濃縮された海水と54km内陸にあるPinosoから溶解採鉱されたかん水を直径45cmの配管で供給している。このようにかん水供給に特徴があるため、通常の海水濃縮で析出してくるきょう雑物が少なく,品質の高い塩が得られている、結晶他の底はかたい塩の層になっているがその上に薄い粘土層があり、その上に塩を析出させ塩層が5cm以上になると収穫を始める。
 塩の収穫は通常の塩田のようににがりを排出して採塩する方式ではなく、水深0.7mの浅い湖にに示す採塩船を浮べてスクレーパー付き掻き取り棟で採塩する珍しい方式である。
 収穫された塩はホッパー部から底が浅く平たい3.5トン積みのハシケに積まれ、曳舟で10隻ぐらいつないで湖中央まで敷設されているベルト・コンベアーのところに運ばれる。そこでハシケごとひっくり返して塩をベルト・コンベアーに移しかえる。
 塩は必要に応じてかん水、海水、淡水で洗浄し、粉砕、乾燥されて製品となる。このような特殊事情からこの塩田は機械化されているとはいえ、装置規模が小さく前近代的な感じはまぬがれない。しかしこれは歴史的に重要なシンボルである。






                      シリーズ連載・次回No.fileに続く
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伊東マンショの正体を科学する No.0007

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 世界は大航海時代。日本は戦国「下克上」の世。同時期にキリスト教が伝来する。織田信長の比叡山焼き討ちのころに、また室町幕府が終焉しようとするころに、日向国一円に勢力する豪族の伊東家に数奇な運命を宿す一人の男児が誕生した。
 この男児が後に天正遣欧少年使節の正使となる伊東マンショ。
 だがこの人物についての実像を記す資料は今日に乏しい。その背景には当時の混乱と錯覚とが不遇にも交錯する日本史の実情がある。つまり記録として残せない深い闇の淵に置き去られた。
 No.2631ファイル・データはこの歴史人の正体に迫る研究をシリーズ構成でつづる資料コラム。中世の街道を往来した人物との交流を織り重ねながらマンショの足跡の真相を編集する。・・・・伊東満所

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         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

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 少年使節一行がポルトガルのリスボンを出発したのが1584年9月5日、下記の図はその後一行が辿った旅の工程概要である。9月8日にエヴォラに到着し7日後の9月15日に出発する。
 そして国境を越え9月29日にはスペインのトレードに到着した。さらに10月19日にトレードを発った一行は、10月20日にマドリードに到着する。ようやく11月14日、フェリペ2世に謁見した一行は、11月26日にマドリードを出発した。こうしてマドリード滞在は約1ヶ月間に及んだ。
 そのマドリードからはラ・マンチャ地方を南下し、ムルシアを経てアリカンテ港より航路に変えてマヨルカ島のアルクディアに到着する。この島からまた船旅でローマを目指すのだが、このように伊東マンショは9月29日にトレードに到着して以降、約2ヶ月ほどをスペイン国に過ごすことになる。
 またローマより岐路もその一部の都市が重なる。ローマを発ったマンショが再びマドリード(モリソン)に到着しフェリペ2世に謁見するのは1585年9月14日、往路で謁見した日より10ヶ月後のことであった。

マンショの旅 スペイン W600

 この少年使節の一行長崎を出航したのが1582年2月20日。
 そしてマカオを経てゴアに到着したのが1583年11月20日であった。この年の1月20日までマカオに滞在したのであるから、長崎出航からマカオ出航までの間が約11ヶ月を要した。
 こうして喜望峰を回り(1584年5月10日)、リスボンに上陸したのが8月11日であった。これは長崎を出航して以来約2年半の歳月を費やしている。
 そんな伊東マンショらの航海を偲ぶのであれば、現在そのことを仮に思い起こさせてくれそうな帆船が一隻だけある。それがポルトガル海軍の所有する「サグレス号」である。
 私は今、2010年に長崎に寄港したそのサグレス号の勇姿を思い出している。

NRP Sagres 1 W600

 N.R.Pサグレス号(ラテン文字 N.R.P SAGRES)は、ポルトガル海軍所有の大型練習帆船である。
 サグレス名としてポルトガル海軍史上3代目の船であり、一般に「サグレスIII」として知られており、帆に描かれたヘンリー航海王子ゆかりのキリスト騎士団の十字紋章は有名。
 船名であるサグレスとは、ポルトガル南端に位置するアルガルベ地方ヴィラ・ド・ビスポに属する町の名であり、大航海時代の原点となり、ヘンリー航海王子が航海学校を設立したサグレス岬に由来する。なおNRPとはNavio da República Portuguesa(ポルトガル共和国海軍)の意。
 この3檣(しょう)バーク型帆船は、当初ドイツ海軍船「アルバート レオ シュラーゲターとして1937年ドイツ、ハンブルクにある造船会社ブローム・ウント・フォスにて起工進水し、練習船として運用されていた。
 第二次世界大戦後、サグレスは連合国によって収用され、その後アメリカ合衆国によって没収される事となる。1948年にアメリカ合衆国が5000ドルでブラジルへと売却、リオデジャネイロへと曳航されブラジル海軍の練習船グアナバラとして運用された。
 1961年10月10日、老朽化していた練習船サグレスIIの代替船としてポルトガル海軍が15万ドルで購入し、1962年1月30日以降、「N.R.PサグレスIII」と改名し1978年、1983年共に1年間の世界航海などを経て現在に至っている。
 そして再び2010年1月19日に出航(本船にとって3回目の世界一周航海)。同年12月にリスボンへ帰港予定の世界航海中であり、7月には明治政府とポルトガルとの間で修好通商条約締結150年記念として17年振りに日本(横浜港)へ寄港している他、種子島、長崎へと寄航した。

NRP Sagres 3 船内 W600

 上の画像の中央に銘版があるのだが、ハンブルグの「Blohm & Voss」造船所にて1937年の建造。以降~1948年まではドイツ海軍の練習船「Albert Leo Schlageter 号」であった。そしてアメリカ軍に接収された後、更に売却先のブラジル海軍で1948~1961年「 Guanabara 号」として活躍する。やがて1962年にようやく、ポルトガル海軍の「NRP SAGRES」として再び就役した。したがってサグレス号は独逸~亜米利加~伯剌西爾~葡萄牙と、実に4カ国を渡り歩いた帆船なのだ。長崎に寄港時73歳である。(総トン数:1940トン  全長:70.4メートル  全幅:12メートル  喫水:6.2メートル  帆総面積:1979㎡:16.5ノット  ディーゼル機関 MTU 12V 183 TE92:最大9ノット )

 ポルトガルの帆船「サグレス号」長崎出港

 2010年8月3日、17年ぶりに長崎に入港したポルトガル海軍の帆船「サグレス」が 8月8日午前10:00に長崎を出港した。

 Regresso do NRP Sagres - 2010

 O Navio-Escola Sagres regressou a Lisboa da Volta ao Mundo no dia 24 de Dezembro, uma viagem que durou cerca de 11 meses e durante a qual fez escala em 28 portos, tendo percorrido 40.000 milhas e realizado 5.500 horas de navegação, foi ainda visitado por cerca de 300.000 pessoas.
2010年12月24日、約11ヶ月40,000マイルにも及ぶ5500時間の長航海を終えたサグレス号はリスボン市民約30万のために第28埠頭に接岸した。


アントニオ・ロペス・ガルシア 7 W600

 訪れたスペインは夏本番、2011年8月、涼を求めて美術館に行くのなら、スケールの大きな芸術作品に触れてみたいと思いマドリード市内の企画展に足を運んでみた。
 そこには澄んだ青空とマドリードの町並み。だが人影はなく、時が止まったようなセピア色の世界が広がっている。私は作者が「セピア色の青空」という言葉をそこで初めて聞いた。それはスペインの画家アントニオ・ロペスの油彩画であった。写真と錯覚するほど精妙な描写で、このロペス画家は「スペイン・リアリズムの巨匠」と呼ばれる人気作家だ。作者は、過去の時間をも尊重して忠実に描き、同時に自己の感情も表現すことを試みてきた。上の両作品は、完成までに数十年の歳月を必要とする。そこには中世の光までもが輝いていた。

アントニオ・ロペス・ガルシア 6 W600

 アントニオ・ロペス・ガルシア Antonio López García

 超絶的な技巧と鋭い観察眼で、空間の匂い、そして時間の移ろいさえリアルに描き出すと­いわれる画家。それがアントニオ・ロペス。現代のリアリズム絵画を代表するス­ペインの巨匠である。
 ロペスは1936年、スペインの地方都市に生まれた。画家だった伯父に才能を見いださ­れ、14歳の時、ピカソも通ったマドリードの名門美術アカデミーに、最年少で入学する­。ベラスケスを始めとする、まっすぐに本質をえぐり出すスペイン・リアリズムに強い影­響を受けながら、常に実験的な表現を模索してきた。代表作「グラン・ビア」は、朝日に­照らされたマドリードの町並みに神秘的な美しさを感じ、毎年夏の朝6時半から20分だ­け筆を入れ、7年をかけて完成させた執念の大作だ。
 このNHKの番組では、日本で初めて行われる個展に合わせ、初来日を果たしたロペスにインタビュー­。スペインでの制作風景を取材した貴重な映像とともに、圧倒的なリアリティに秘められ­た独自のリアリズムの世界をひもとく。


 マドリードでの企画展を観た後日、私はアントニオ・ロペス・ガルシアのアトリエを訪ねた。
 彼がラ・マンチャ地方のトメリョソ(Tomelloso)で生まれたからだ。そのトメリョソについては前回のファイル6で触れたが、彼の実家は馬車博物館の近くである。

 彼は、日常的な光景を細部に引きずられない迫真的な描写で的確に描き出す一方、『アトーチャ』(1964)や『皮を剥がされたウサギ』(1972)のように演出の色合いが濃い、ドラスティックな作品もある。一作に膨大な歳月を掛けることも珍しくない。
 例えば『フランシスコ・カレテロ』(1961~1987)のように、20年以上の時間を割き、それ故にこそ堅固で荘重な文理・テクスチャーとよく探究された諧調・色価を備えた絵画を制作している。然るに寡作であって、2回目の個展以降、24年もの間作品をまとめて発表する機会を持たなかったという逸話がある。塑像などのいわゆる立体作品も手掛けている。しかし、ロペス自身は「他人がどういおうとすべて私の作品は絵画である」と述べる。また、ロペスを扱った映画もある。それが『マルメロの陽光』である。彼はその陽光こそを伊東マンショが体験したのではないのかと語り、川の物語を聞かせてくれた。

 タホ川(スペイン語:El Tajo 発音:[ˈtaxo])、テージョ川(ポルトガル語:O Tejo 発音:[ˈtɛʒu] テージュ)は、イベリア半島で最も長い全長1008kmの川である。
 そのうち上流側の約700kmがスペインにあり、河口側の約300kmがポルトガル領である。間の47kmは両国の国境となっている。
 この大河は、スペイン東部アラゴン州テルエル県のアルバラシン山地に源を発し、アランフエス、トレド、タラベーラ・デ・ラ・レイナを流れ、50kmほどスペインとポルトガルの国境を形成したあとポルトガルに入り「テージョ川」と名前を変えて、コンスタンシア、サンタレン、リスボンを経て大西洋に注ぐ。
 画家アントニオ・ロペス・ガルシアが語るこの大河を遡るようにして伊東マンショはローマへと向かったのだ。ロペル氏はそう熱くマンショの旅を透視する。

 天と地の間スペイン「テージョ川」 (マンショの見た大河


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     辻斬りZ W50H50 gif  ② 「伊東マンショが見た中世の城郭」
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         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

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 「キホーテの道(ルタ·デル·キホーテ)」の真っ只中に位置し、ベルモンテは詩人フレイルイス·デ·レオンの発祥の地として知られているだけでなく、印象的な15世紀の要塞がある。のためだけではありません。またその旧市街は、近郊の歴史文化を合わせ特徴ある遺産宣言をする。
 マドリードを11月26日に発った少年使節の一行は、初冬のこのベルモンテを通過した。

 ベルモンテ城は、丘の中腹に位置し、その外側五角形の複合体はゴシックゲートを持っており、町に走る街の壁にリンクされている。三角形の内部のハイライトは、ムデハル格天井、しっくい、ゴシックレリーフである。その他の地域内の建物は、ドンファンマヌエルの宮殿アルカサル。村の名ベルモンテの語源はベッジョ・モンテ(Bello Monte)美しい山に由来する。(マドリッドからは約157km)。

Castillo de Belmonte 1 W600
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 スペインの城塞としてはずいぶん遅く、15世紀になっての築城。
 要塞というよりは、宮殿として機能していたようだ。しかし大きな胸壁を頂く城壁は、そう簡単に陥落できそうにない堅牢な趣をみせる。内部は、19世紀、ナポレオン3世妃エウヘニアの修復工事により、多分にアフランセサード(フランス化)されている。
 築城主はフアン・パチェーコ。15世紀後半カスティーリャ王位を巡る内戦で鍵を握った人物である。彼の祖父フアン・フェルナンデス・パチェーコが、戦功によりエンリケ3世からここを領地として与えられ、その娘マリアを経て、パチェーコ家3代目領主が、1419年にベルモンテの旧アルカサルで生まれたフアンというわけだ。
 フアンは、フアン2世の治世で寵臣アルバロ・デ・ルーナに仕え、45年、王よりベルモンテ周辺からアラゴン西部、アリカンテまで至るビリェーナ伯爵領を与えられると、それまでアラルコンの管轄にあった生地ベルモンテを広大な伯爵領の首都として、56年、村の名の由来と言われる「美しい山(Bello Monte)」の上に、新城建設を命じた。
 この間にも、フアン2世を継いだエンリケ4世に影響力を及ぼし、元の主人デ・ルーナ失脚に荷担。宮廷で不動の地位を獲得していく。
 当時、カスティーリャは最後の内戦前夜。彼にとって、王家を巡る混乱は領地拡大の絶好のチャンスであった。これは対立する両陣営にとって不可欠な存在となることで、混乱をあおり、権力を手中に治めようという魂胆だったようにも見える。まずは、王妃の愛人と言われた政敵ベルトランを重用し始めたエンリケ4世に対抗して、王の異母弟アルフォンソ(イサベル一世弟)を王として担ぎ上げ、その裏で、エンリケ4世と密約も交わし、イサベル(後のカトリック女王)と弟のペドロ・ヒロンの結婚を画策した。
 ところが、結婚式を間近に控えて花婿が急逝する。享年40であった。毒殺の可能性も高い。続いて、67年にはアルフォンソ死去。享年14。これも毒殺との噂がある。万策尽きたかに見えたフアンはイサベルの王位継承を認めるものの、69年、イサベルとアラゴン皇太子フェルナンドが結婚すると、エンリケ4世の娘(少なくとも彼の妃の娘)フアナ・ラ・ベルトラネハ支持に回る。しかし、74年、今度はフアン本人が急逝する。これもまた毒殺との噂が伝えられる。
 天守閣(Torre de Homenaje)がさほど高くなく、どの塔にも胸壁が付いていないのは、内戦により工事が中断されたまま、カトリック両王の新城建設禁止令を受けて、あえて完成を見あわせたために、現在でもその名残を止めている。

 この城郭のシルエットの美しさはソフィア・ローレンの『エル・シド El Cid 』でひろく知れ渡るところとなった。城ができ、まちが形成され、コロンブスの最初の航海時にお供をしたガブリエル・バラオーナや高名な詩人フライ・ルイス・デ・レオンなどがここで生まれており、村史をさらに飾っている。

 CASTILLO DE BELMONTE


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 じつは、このベルモンテ城で伊東マンショが一夜を明かしたという伝承がラ・マンチョ地方に伝え残されている。しかしこれは、グァルティエーリ『天正遣欧使節記』には一切見受けられない出来事である。そうした不可思議さもあって、このベルモンテ城を執りあげてみた。

グァルティエーリ『天正遣欧使節記』 W600

 グァルティエーリの『天正遣欧使節記』。
 著者グィード・グァルティエーリ(Guido Gualtieri, 16th cent.)はイタリアの文学者で、ローマ教皇グレゴリウス13世(Gregorius XIII, 1502-1585, 在位1572-1585)の没後に教皇となったシクストゥス5世(Sixtus V, 1521-1590, 在位1585-1590)の側近として活躍した人物である。
 このころ、イエズス会日本巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano, 1539-1606)の企画で、1582年(天正10)に九州の三大名(大友宗麟、大村純忠、有馬晴信)が連名で派遣した天正遣欧使節一行が、1585年に当時の教皇グレゴリウス13世に謁見した。このことはキリスト教の広がりと共に、教皇の権威が日本にまで及んだものとしてさかんに喧伝され、多くの冊子に纏められてヨーロッパ諸国に伝えられた。本書もその種のもので、初版は本書と同年の1586年にローマで出版されている。

 本書の構成は14章からなり(但し章立てに間違いがあり、第7章が重複している)、第1章では日本の紹介、第2章は天正遣欧使節団の背景、第3章は日本出発からゴアまで、第4章はポルトガルまで、第5章はポルトガル滞在について、第6章はスペイン旅行、第7章はイタリアについて、第7章(重複)はローマでの謁見、第8章は教皇について、第9章はローマからボローニャまで、第10章はフェラーラでのこと、第11章はヴェネツィアでのこと、第12章はマントヴァについて、第13章はミラノとジェノヴァについて、第15章はリスボンから帰国までが書かれている。また、付録にはシクストゥス5世から九州の三大名へ宛てた書簡と使節団歓迎の挨拶文が掲載されている。
 なお、使節一行は教皇に謁見して間もなく同教皇の死にあい、その葬儀に参列したあと、新教皇にも謁見、帰途に就きスペイン、ポルトガルを経てアフリカ南端の喜望峰をまわって1590年(天正18)に8年半ぶりで帰国した。本書には使節一行の往路・復路含めての旅の出来事が記されている。
 しかし第6章には、ラ・マンチャ地方に伝わるベルモンテ城での一件は記されていない。

トメリョソの歴史書 W600

 このモンテロ家に伝わるトメリョソ(Tomelloso)の歴史書には「Mansho pasó la noche en el castillo. El niño estaba mirando, un molino de viento que brilla en el sol de la mañana.  Mancioは城で夜を過ごした。少年は、朝の太陽の下で輝く風車を見ていた」と記されている。


                      シリーズ連載・次回No.fileに続く
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伊東マンショの正体を科学する No.0006

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 世界は大航海時代。日本は戦国「下克上」の世。同時期にキリスト教が伝来する。織田信長の比叡山焼き討ちのころに、また室町幕府が終焉しようとするころに、日向国一円に勢力する豪族の伊東家に数奇な運命を宿す一人の男児が誕生した。
 この男児が後に天正遣欧少年使節の正使となる伊東マンショ。
 だがこの人物についての実像を記す資料は今日に乏しい。その背景には当時の混乱と錯覚とが不遇にも交錯する日本史の実情がある。つまり記録として残せない深い闇の淵に置き去られた。
 No.2631ファイル・データはこの歴史人の正体に迫る研究をシリーズ構成でつづる資料コラム。中世の街道を往来した人物との交流を織り重ねながらマンショの足跡の真相を編集する。・・・・伊東満所

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     辻斬りZ W50H50 gif  ① 「M・クンデラが透視するスペインのマンショ」
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         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

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     ミラン・クンデラ(Milan Kundera)は、小説執筆の傍ら、文学評論を手掛けており、小説を「世界を相対的に捉えようとする、ヨーロッパが独自に生み出した芸術の形式」だと考え、セルバンテスをその最大の先駆者に位置づけている。このようにドン・キホーテの作者であるセルバンテスの存在を位置づけた。
 また現代世界の運命と現実を捉えた小説家としてカフカ、ムージル、ヘルマン・ブロッホ、ハシェクらを高く評価し、中央ヨーロッパに現れたこれらの作家たちの系譜を継ぐものとして自らの作家活動を行っている。

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 クンデラはチェコスロバキア共産主義政権に抵抗した作家として認知されている。

 しかし彼は、1950年、西ドイツに亡命しスパイとして諜報組織に加わった元チェコスロバキア軍兵士がプラハに潜入した際、その立ち寄り先を知人から聞かされたクンデラが当時のチェコスロバキア共産党秘密警察に密告し、その結果スパイが逮捕されたとする記録が2008年10月に明らかになった。
 これは、政府系「チェコ全体主義体制研究所」が発見したもので、チェコ地元誌「レスペクト」によって報じられ、文書のコピーも掲載された。元兵士は逮捕後、ウラン鉱山での強制労働を含め、14年間服役したという。

 クンデラ本人は、この件について「作り話」と全面否定し、秘密警察による文書の偽造・捏造の例があることから真偽は定かではないが、クンデラの作品には裏切りの物語が多く、特に小説『冗談』では友人の告発によって大学を追放され、鉱山送りにされた主人公が描かれるなど類似点が多いため、これらは実体験に基づいて書かれた作品なのではないかという臆測も飛び交っている。少し余談だが、彼はそんな人物だ。

 クンデラはチェコスロバキアのブルノ生まれ。プラハの音楽芸術大学 (AMU)を卒業。
 1963年発表の短編集『微笑を誘う愛の物語』で本格的な創作活動に入る。
 1967年に発表した共産党体制下の閉塞した生活を描いた長編小説『冗談』でチェコスロバキアを代表する作家となり、当時進行していた非スターリン化の中で言論・表現の自由を求めるなど、政治にも積極的にかかわるようになった。
 そして1968年の「プラハの春」では、改革への支持を表明したことによって、ワルシャワ条約機構軍による軍事介入の後、次第に創作活動の場を失い、著作は発禁処分となった。
 1975年、レンヌ大学の客員教授に招聘されたためフランスに出国する。1979年にチェコスロバキア国籍を剥奪され、1981年にフランス市民権を取得した。このころから、母語のチェコ語ではなくフランス語で執筆活動を行う。1984年発表の『存在の耐えられない軽さ』が世界的なベストセラーになり、フィリップ・カウフマンによって映画化もされた。


 Milan Kundera - INTERVIEW 1968
 Milan Kundera talks about his novel "The Joke" 小説"ジョーク"に関するミランクンデラ会談。プラハの春で、改革への支持を表明した当時のインタビュー。

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The Unbearable Lightness of Being - Official Trailer 映画「存在の耐えられない軽さ」

 In 1968, a Czech doctor with an active sex life meets a woman who wants monogamy, and then the Soviet invasion further disrupts their lives. Based on a novel by Milan Kundera.Starring: Daniel Day-Lewis, Juliette Binoche, Lena Olin
 1968年、アクティブな性生活を持つチェコの医者は一夫一婦制を望んでいる女性を満たして、その後ソ連の侵略はさらに自分たちの生活を破壊する。ミランクンデラの小説に基づく映画。出演:ダニエル·デイ=ルイス、ジュリエット·ビノシュ、レナ·オリン。



 前回のファイルで少し触れたが、
 クンデラは、「私が固執したいことはただひとつ、セルバンテスの不評を買った遺産以外のなにものでもない」と結びながら、『小説の技法』の草稿文には、さらに次の一節がある。

 《 かつて宇宙とその価値の秩序を支配し、善と悪を区別し、個々のものとに意味を付与していた神がその席を立ち、ゆっくりと姿を消していったとき、馬にまたがったドン・キホーテが、もはやはっきりと認識かることができない世界に向かって乗り出した。「至高の審判官」がいなくなったいま、世界はその恐るべき曖昧性(多義性)をあらわにしたのである。こうして、唯一の神の「真理」が解体され、人間によって分担される無数の相対的真理が近代に向かって散らかされたのである。そしてそれとともに、その世界のイメージであってモデルであるような小説が生まれたのである。だが驚異は引き続き小説のモデルに根源を含ませていた。そのモデルが日本の少年とするのだから神の真理は再び解体される。実際にみたそのモデルによって、また分担される無数の相対的真理が近代に向かって散らかされたのである。 》と。

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 ここでクンデラが語る日本の少年とは「伊東マンショ」のことである。
 そのことを知ったとき、クンデラがそう起想したマンショの実像が、今日までの日本人にはそうとは映らないクンデラとは遠く乖離する実像があることが不可思議であった。またそこには、ドン・キホーテの作者ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラが求めたマンショの実像とも同時に日本人の想いが乖離する実情がある。そう思えたときに、さらにそこには日本人が感知でき得なかった中世史から欠落する伊東マンショの真相像を抱いた。そうなると日本において中世より語られるマンショ像とは、日本史観のみに偏る曖昧な領域に置かれた偏光の像でしかないことになる。このことは一体何を那辺(なへん)にして考えるべきなのか。彼の意図が那辺にあるのかわからない。私はこの真相を解き明かすことに相応の時間を費やした。

 そこで伊東マンショとの関係に入る前に、先ずどうしても私の、『存在の耐えられない軽さ』への書評を述べながら、クンデラという小説家を理解して頂く必要がある。クンデラは、言葉の原郷から発現するものをぴったり表出する方法を確立していること、そこに深すぎるほどの作家としての滋味を感じさせる。それは『生は彼方に』を読んだあたりでほぼつきとめられていたのだったが、本書『存在の耐えられない軽さ』によってさらに動かぬものとなった。この作品はやはりとんでもなくよくできているのだ。

 しかし、しかしである。
 そのように良く感心するにいたったのはクンデラの術中にはまっているかもしれないと、何度も自信がぐらついたのだ。こんなふうに「読まされている」のは、私がクンデラの仕掛けた虚構としての言語社会の鏡像に入りこんでしまったからなのか、それともそれを越えてクンデラが本当の告白だけをしているのか、あるいはだれにも理解されずに言葉を紡ぐ深遠にいるのか、そのあたりの「判読」でずいぶん迷ったのだ。

 その理由を書くのは「感心する」理由を書くよりどうやらずっと難儀しそうなので、できれば書かずにすませたいが、それでは大事なところを避けて通るようなので、せめて次のようなクンデラの小説作法の一端を紹介して、そこから、私のちょっとした悩みの見当が奈辺にあったかを暗示しておきたいとおもう。

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 読んでもらえばすぐわかるように、『存在の耐えられない軽さ』の第1行目には、「ニーチェの永劫回帰という考え方はニーチェ以外の哲学者を困惑させた」と書いてある。

 こんな始まりかたはとても小説の冒頭とはおもえない。いったい何をする気だという感じがする。まして、ニーチェである。けれども、『冗談』も『生は彼方に』も、そして『不滅』も、クンデラはいつもこのように、自分の思索の奥底に揺動するものから、物語を書きはじめるのである。
 そして次のパラグラフには、こともあろうに「永劫回帰の世界では、われわれの一つ一つの動きに耐えがたい責任の重さがある」、つづいて「もし永劫回帰が最大の重荷であるとすれば、われわれの人生というものはその状況の下では素晴らしい軽さとしてあらわれうるのである」などと書く。

ニーチェ 3

 これでは小説家に説教されているようで、とうてい気楽に小説を読むわけにはいかない。少なくとも私は、ニーチェに導かれて小説を読みたくはない。
 それでもまだクンデラは手をゆるめない。次の行ではこの物語の主題をあっさり明示してしまう。いや、臆面なく、あるいはぬけぬけとといったほうがいいかもしれないが、「だが重さは本当に恐ろしいことで、軽さは素晴らしいことであろうか?」というふうに。

 これでは、『存在の耐えられない軽さ』という標題がそのまま主題であるんですよというカラクリを冒頭からキャプション説明しているようなもので、とうてい物語にはなりそうもない。ふつうなら、こんな書き出しの小説なんて、絶対に読む気はおこらない。なんという理屈だと思いたくなるに決まっている。少なくとも私はそういう性(たち)だった。 ところが、そのように読者が気まずい思いをするかしないかという直前、それは小説を読みはじめてせいぜい数分後であるのだが、クンデラはすばやく次のように書いて(まさに読者の退屈な表情を測ったかのように)、そのまま虚構と現実のあいだにわれわれを連れ去ってしまうのだ。

 「私はトマーシュのことをもう何年も考えているが、でも重さと軽さという考え方に光を当てて初めて、彼のことをはっきりと知ることができた。トマーシュが自分の住居の窓のところに立ち、中庭ごしに向こう側のアパートの壁を眺めて、何をしたらいいのか分からないでいるのを私は見ていた。トマーシュがテレザと会ったのはその三週間ほど前のことで、ある小さなチェコの町でであった。二人は一時間も一緒にいたであろうか。彼女はトマーシュを駅まで送り、彼が汽車に乗り込むまで、待っていた」と。

 これがクンデラなのである。
 ここから先は一瀉千里、われわれはトマーシュとともにクンデラの正確な思索の揺動をたどってしまうのだ。
 どうだろうか。私がちょっと悩んだ理由がおわかりいただけただろうか。

 ようするに、クンデラは小説の書き方を小説にするべく、小説という散文様式を選び、その選び方そのものにクンデラの思想と物語の展開とを重ねているわけなのだ。
 だから、クンデラの言葉のすべての選び方の目に私の目を合わそうとしたとたん(それ以外の読み方があるとはおもえないが)、私はまんまとクンデラの術中にはまってしまう(と見えてしまう)わけなのだ。
 しかし、結局はそれでいいわけなのだろう。最初の数分こそいつもギョッとさせられるが、読みはじめたらやはり停まらないのは、それでもクンデラは作家が作品の中でどのように言葉を選ぶかという意味で、完璧なストーリーテラーであるからだ。
 以上で、私の悩んだ事情の説明はおわる。ただし、これではあまりにサービスが足りなすぎるだろうから、少しだけ"付け足しの解説"をする。

 クンデラは小説を「反叙情的な詩」ととらえている作家なのである。
 もともとは詩人だった。セルバンテス、フローベール、ゴーゴリ、カフカ、ジョイス、ゴンブロヴィッチ、ブロッホ、セリーヌ、ナボコフを評価しているのはそのためだ。

8人の作家たち

 しかしクンデラは、「小説」というものなど世界に存在しないと考えている。
 クンデラにとっては、フランス人の小説、チェコ人の小説、日本人の小説というものがあるだけなのだ(これはものすごく正しい)。そのうえで、作家というものは自分が「書こうとする世界の様式」を問いつづけるために書くのだと結論づける(これもものすごく正しいのに、なかなか実行されていないことだ)。加えて、何を言葉として選択したのかということを読者に伝える以外に、作家が読者に伝えるものなどないのだと宣言をする(まさにこの宣言がクンデラだ)。
 だからクンデラは、ひとつだけ例をあげておけば、チェコスロバキアを舞台に書いていることがほとんどなのだが、小説の中では一度も「チェコスロバキア」という合成語をつかわなかった。どうしても地域の特定な呼び方をしたいときは、あるいはさせたいときには、「チェコ」か「スロヴェニア」か、あえて「ボヘミア」と書いた。
 それが自分の体に入っている言葉だったからである。また、作品に責任をとれるところだった(こういうところは、日本では井上ひさしのような作家をのぞいて、日本の作家にも徹底されていないところだ)。

 こんな選択自身が、クンデラをして作品を律義につくりあげさせてきたわけなのである。これで、よりもう少しはおわかりいただけただろうか。私としては、これだけでも『存在の耐えられない軽さ』の秘密の大半を説明したことになるのだが……。
 が、余計なことを言うと、もう半分のことがこの作品にはひそんでいる。さらに"付け足し解説"をしておくのだが、それは「キッチ」とは何かの秘密にかかわっていた。

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 「キッチ」とはキッチュのことだ。そういえば、ああ、分かったと思う人が多いだろうが、クンデラはその「ああ、わかった」を非難する。
 ヘルマン・ブロッホが『キッチ』を書いたとき、これがフランス語で「キッチュ」と訳され、がらくたを愛する感覚というふうに解釈された。日本でいえば風呂屋のペンキ絵とか駄菓子の包装絵のようなものである(当時、日本人の誰もがそうおもっていた)。
 けれどもそれはまったくの誤解であるとクンデラはいう。
 クンデラによると、キッチとは「あばたをえくぼと化する虚偽の鏡を覗きこみ、そこに映る自分の姿を見てうっとりと満足感にひたりたいという欲求」のことなのだ。

 このキッチの感覚は19世紀のドイツの歴史が生んだもので、多くの者が「近代という非現実的なもの」を信用したがっていた。それは「軽さ」を標榜する感覚だった(日本でいえば「軽チャー」である)。それはそれでいい。しかし、社会主義とその反動に苛まれた激動のプラハに育ったクンデラにとっては、キッチの復権は存在を危うくするものなのである。
 そのためクンデラは、存在(これは社会と関与している)がキッチ(これも社会の中で見捨てられずに立ち上がってきたものだ)によってどのように危うくなるかということを、プラハにひそむキッチを通して書こうとした。
 どうだろうか。わかってもらえただろうか。本書はキッチという「未熟を装う存在」を書くために選ばれたクンデラの方法の様式だったのである。そうであれば「未熟を装う存在として置かれていいる伊東マンショ」の、その存在性に今少し視線を注いで真相を正しておこうということになる。

     辻斬りZ W50H50 gif  ② マドリード「ラ・マンチョ地方のマンショ像」
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         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

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     チェコ出身、フランス在住の亡命作家ミラン・クンデラ、このお定まりの肩書きを繰り返されることに、おそらく、グンデラ自身は、飽き飽きしてきたことだろう。
 あるいは、今では白けた笑いを浮かべるかもしれない。「小説」という一芸術を、歴史的、政治的カテゴリーに還元する仕方で理解しようとする知的野蛮に、しばし、クンデラは苦々しい思いを味わってきた。「小説」は、歴史の証言でなければ、政治のプロパガンダでもない。
 しかし、こう問うことはできようか。歴史に「If」は許されないとしても、もし、クンデラが政治的な理由によってチェコを去り、母国語の読者を失い、フランスに居を移し、外国語を表現媒体とせざるを得ない、という状況に追い込まれなかったら、彼の文学世界はどのようなものになったのだろうか?。
 確かに、クンデラの辿った亡命という運命は、過酷なものであったに違いないが、彼の作家としての軌跡を辿ってみるならば、痛ましい喪失と引き換えに、「亡命」が作家としての彼に特有のヴィジョンを与えたことは、疑いを容れぬ事実であるように思われる。

 実存の探求の場、めくるめく世界の多様性と相対性のカーニバル。人間のキッチュな欲望に向けられた容赦ない視線。意志よりも、個人にふりかかる歴史や宿命といった「非人称的」な力の方が圧倒的であるような世界。こうしたクンデラの思考と作品世界の基調は、抒情詩と決別し、小説を自らのフィールドとするにいたった時から(すなわち、共産主義下のチェコでの青春時代から)フランス在住の作家となり四半世紀を経た今日まで、一貫していると見ることができる。この基調トーンの中にあって、祖国チェコを離れ、時間を閲するほどに、ますます明確な形をとって現れてくるテーマというのがある。

 そのひとつが「ヨーロッパ」という理念である。
 そしてこの理念のヨーロッパに、彼の伊東マンショはいた。

 それではクンデラの「ヨーロッパという理念」について、ドン・キホーテが生まれた、あるいは伊東マンショが滞在したスペイン・マドリードを起点として考えてみたい。クンデラが「ヨーロッパ」と言う時、そこに込められているものは何なのか、どのように彼の思考および作品の中で「ヨーロッパ」は形象化されていくのかについて考えてみたい。この形象化の源泉に伊東マンショは立っている。

 クンデラがマドリードに一時滞在したのは1983年のことであった。
 1979年にチェコスロバキア国籍を剥奪され、1981年にフランス市民権を取得した。このころから、母語のチェコ語ではなくフランス語で執筆活動を行っている。フランスに移り住み再び言論・表現の自由を確保したそのクンデラがマドリードに一時滞在した翌年、1984年に発表した『存在の耐えられない軽さ』が世界的なベストセラーになり、フィリップ・カウフマンによって映画化された。

 このクンデラのマドリードでの一時滞在とは果たしてどのような意味を付帯させるのか。
 またクンデラはそこで何を感受したのか。いかにも密かだが、このマドリードは重要なのである。

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 マドリード(Madrid)は、スペインの行政の中心地(首都)である。
 また、マドリード州の州都でもあり、マドリード県(マドリード州の唯一の県)の県都でもある。イベリア半島における経済の中心地の1つともなっている。

 人口は約325万人。2011年の近郊を含む都市圏人口は541万人であり、世界第57位、欧州では第5位となる。欧州の首都の中では最も標高が高い。

 そしてここはスペイン中央部のメセタ地帯のマンサナーレス川沿いに広がる。近郊にはモストレス、アルカラ・デ・エナーレス、ヘタフェなどの都市があり、マドリード首都圏を形成している。
 2012年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス・人材・文化・政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第18位の都市と評価された。欧州ではロンドン、パリ、ブリュッセル、ウィーンに次ぎ第5位である。
 このマドリードは2012年のオリンピックと2016年のオリンピックの開催地に立候補したがどちらも敗れた。そして現在2020年のオリンピック開催地を東京・イスタンブルとで争っている。

 Walking in Madrid, Spain マドリード市内

 LA CIUDAD DE MADRID マドリード

 Madrid 2020 Masterplan

 The Madrid 2020 Masterplan takes you through the installations that would be used during the 2020 Olympic Games, 80% of which are already built and ready to use.マドリッド2020マスタープランは、すでに構築され、使用する準備がされている80%のうち、2020オリンピック大会の間に使用されるインストールを介して表示されている。

 こうした現代の繁栄から4、500年を遡ってみると、
 1561年、フェリペ2世はマドリードを永久的王都と決めた。
 この決定はマドリードの歴史、社会、経済のあらゆる面とその地勢に変化をもたらした。

 15世紀の終わり、マドリードの人口は約12,000人に達し、市内のあらゆる土地に新しい建物が建ち並んだ。サンタ・クララ修道院(1460年)、ラテン救貧院(1499年)、サン・ヘロニモ・エル・レアル修道院(1503年)、ヘロニマ女子修道院(1509年)、フランシスカ女子修道院(1512年)、司教礼拝堂(1520年)、アトーチャ聖母教会(1523年)といった新しい施設が建設されたり、1529年には「王宮病院」やブエン・スセソ救貧院が太陽の門の方へ移転して、網の目のような都市の広がりはそれまでとは違う方向へも伸びていった。
 1535年、主に「コムニダーデスの反乱(コムネーロスの反乱)」(1520年から1521年)以後始まった新たな土地への入植で、マドリード市の面積は72ヘクタールに増えた。さらに、サン・フェリペ・エル・レアル 修道院(1546年)、アントン・マルティン修道院(1552年)、デスカルサス・レアレス修道院(1559年)の建設が、マドリード市が拡張する傾向に拍車をかけた。この建造物反乱の後、マドリードではアルカサルへ逃げ込んだ人を除いた、ほとんどの住民に特殊なウイルス性の病気が蔓延する。

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 1536年からマドリードのアルカサルにいたカルロス1世は、そこをより宮廷的で宮殿の趣を取り入れたものにするため、また政治的法律的環境も整えるために改革を始め、この改革が要因となって、1561年フェリペ2世がマドリードにスペイン王国の宮廷を設置した。
 この決定は、マドリードが、国王、その家族、随員が住むところになったというだけでなく、マドリードに国の中央機構や宮廷勢力に引きつけられた人々が波がのように押し寄せてきて、マドリード市に巨大な影響を及ぼした。
 1535年に72ヘクタールだったマドリード市の面積は、1565年には134ヘクタールになり、16世紀の終わりには282ヘクタールと、瞬く間に約4倍となる。同じく、住宅数も1563年には2,520件であったのが、1571年には4,000件を超え、フェリペ2世治世末期には7,590件以上となった。つまり、家屋件数が3倍となり、年間150件の住宅が建設されたという計算になる。
 人口データからも、1561年には12,700人だった人口が、1571年には42,000人、1584年には55,000人、そして1597年には90,000人に達した。わずか40年の間にマドリードの人口は4倍半に膨れ上がり、カスティージャ王国のほかの都市の人口増加率をはるかに上回り、ヨーロッパの20大都市のひとつとなった。

 このマドリード市の新しい住宅地は(アルカラ、カレーラ・デ・サン・ヘロニモ、アトーチャ、エンバハドーレス、トレドなどから)マドリードへの街道沿いに発達していったので、後に「ハプスブルグ(アウストリア)家のマドリード」といわれるようになった範囲はこうした街道を中心軸として構築されていき、重要な都市整備が成された。
 それは、1577年セゴビア通りが以前フアン・デ・エレーラが建設した同名の橋まで開通したことと、その後、道路拡張と、今日マジョール広場となっている有名なアラバル広場(1581年)などの新しい商業広場の建設のため、中世の城壁とほとんどの城門を取り壊したということになる。
 このような「宮廷の影響力」に引き付けられ、たくさんの職人、商人、貴族、そして、ビクトリア(1561年)、サンティシマ・トリニダ(1562年)ラ・メルセ(1564年)、カルメン・カルサード(1573年)、サント・トマス(1583年)、サンタ・アナ・イ・サン・エルメネヒルド(1586年)、ドーニャ・マリア・デ・アラゴン(1590年)、さらには、アグスティノス・レコレトス(1592年)などの新しい修道会の人々が、マドリードにやってきて住み着くようになった。

 しかし、宮廷がマドリードへやってきたことは決して「よいこと」ばかりではない。宮廷随員、官吏、貴族、聖職者たちがマドリードに滞在するために、国王が、こうした選ばれた移住者たちの宿泊先として、マドリードの住宅の20%を徴用する命令を下した。
 しかし、それでも十分ではなかったため、すぐにまた「国王の宿泊大権」と呼ばれた王権を行使して、マドリードの住宅の半分を確保するよう命令する。これにより当然、多くのマドリードの住民が、国王の下僕たちを泊めるにはふさわしくないような家の建設や家の内装改修工事をした。これらの家は「悪意の家」と名づけられ、ほとんど役に立たず、また、宿泊の提供を拒んだ家には新しい税が課せられた。この新税の税収は国王の下僕たちの滞在費に当てられた。伊東マンショは、このようなマドリードの発展の上に立ち会ったことになる。



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 クンデラがマドリードに一時滞在した1983年、その5月9日に、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が、地動説を支持したガリレオ・ガリレイに対する宗教裁判の誤りを認めた。
 この件がクンデラをマドリードに向かわせるのであるが、その根底には前年の事件をクンデラは秘めていた。

 1982年5月、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、ポルトガルのファティマを訪れていた際、教皇が進める第2バチカン公会議に基づく改革やバチカン・モスクワ協定に反発していた聖ピオ十世会のスペイン人神父、ジュアン・マリア・フェルナンデス・クロンに銃剣用ナイフで襲われ、怪我を負った。
 神父はその場で取り押さえられ、6年の判決を受け、3年服役した。襲撃事件そのものは知られていたが、教皇が出血を伴う怪我をしていたことは2008年10月15日になって公表された。教皇の元側近であった枢機卿の回顧録を基に製作されたドキュメンタリー映画の中でナレーターを務めた枢機卿自身が明らかにしたからだ。

 ここで問題はその近年のことではない。クンデラの滞在先がマドリードであっことにある。

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 ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei)の業績として今日においてもあまり知らないモノの一つに、関数尺を改良したものがある。これは、さまざまな計算を行うことができた。また分度器の機能も持っており、天体の観測に使用できた。またガリレオはパドヴァ大学教授時代にこのコンパスを販売し、使い方を教えることで収入を得ていた。
 そのガリレオはイタリアの物理学者、天文学者、哲学者である。
 そしてパドヴァ大学教授、その業績から天文学の父と称され、ロジャー・ベーコンとともに科学的手法の開拓者の一人としても知られる。1973年から1983年まで発行されていた2000イタリア・リレ(リラの複数形)紙幣にガリレオの肖像が採用されていた。
 しかしそうしたガリレオ・ガリレイは、彼の支持した地動説を口実にして異端審問で追及される。そしてこの問題が決着したのが上記の1983年、その5月9日なのだ。約400年間という長い年月を要した。これが世に名高い「ガリレオ裁判」である。

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 今日の大問題として、ガリレオが地動説を唱え、それを理由に有罪判決を受けたことはかなり有名だ。
 このことから、当時地動説を唱えるものはすべて異端とされ、それによって科学の発展が阻害された、という考えがされてきた。しかし現在では、ガリレオが神父たちよりもキリスト教の本質をよく理解し、科学的な言葉でそれを説いていたために快く思われず、でっちあげの偽裁判で有罪判決を受けたのではないか、と指摘されている。そう、これは既に現代社会の常識である。この奇妙に長い間放置された裁判が「ガリレオ裁判」なのだ。
 そしてこの年月の間に、ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラも、伊東マンショも他界した。

 その「ガリレオ裁判」とは・・・・・、

 ガリレオが地動説について言及し始めると、ドミニコ修道会士ロリーニと論争になり、ロリーニはローマ教皇庁検邪聖省(以前の異端審問所が名を変えたもの)にガリレオが唱えている地動説は異端であると訴えた。この裁判の担当判事はイエズス会員ロベルト・ベラルミーノ枢機卿 (Francesco Romulo Roberto Bellarmino)。このときの判決文はバチカンの秘密文書室に保管されているが、第2回の裁判までの途中で偽造された疑いが濃厚である。 その内容は、次のようなものであった。

 「太陽が世界の中心にあって動かず、大地が動くという上記意見を全面的に放棄し、そしてその意見をふたたび話してでも書いてでも、どのような仕方においても抱かず、教えず、弁護士しないようよう命じられ、申しつけられた。さもなければ聖省はかれを裁判にかけるであろうと。この禁止令にガリレオは同意し、従うことを約した」

 しかし、この判決文にガリレオの署名はなく、第2回の裁判においてもガリレオは見たことがないと主張している。

 1630年ガリレオは、地動説の解説書『天文対話』を執筆した。
 この書は、天動説と地動説の両方をあくまで仮説上の話として、それぞれを信じる2人とその間をとりもつ中立者の計3人の対話という形を取って、地動説のみを唱えて禁令にふれることがないよう、注意深く書いてあった。ガリレオは、ベラルミーノの判決文の内容から、地動説を紹介しても、その説に全面的に賛同すると書かなければ問題はないと考えて出版許可をとり、ローマ教皇庁も若干の修正を加えることを条件に出版許可を与えた。そして『天文対話』は、1632年2月22日、フィレンツェで印刷、発行された。

 翌1633年、ガリレオは再度ローマ教皇庁の検邪聖省に出頭するよう命じられる。
 被疑は、1616年の裁判で有罪の判決を受け、二度と地動説を唱えないと誓約したにもかかわらず、それを破って『天文対話』を発刊したというものだった。
 ガリレオが、あえてこの書をローマではなくフィレンツェで許可をとったこと、ローマ側の担当者に、序文と書の末尾だけしか送らずに許可をとったこと、ガリレオが事情に詳しくないフィレンツェの修道士を審査員に指名したことなどが特に問題とされた。
 ただし、全文が数百ページあるという理由で序文と末尾の送付で済ませることには事前にローマ側担当者も同意しており、ガリレオが指名したフィレンツェの審査官は正規のフィレンツェの異端審問官であった。
 さらに、書の表紙に3頭のイルカが印刷されていることさえ、それが教皇に手下がいるという意味だというねじ曲げた解釈をする者がローマにおり、問題とされた。ただしこの3頭のイルカは、フィレンツェの出版業者のマークで、他の書籍にも印刷されていたため実際には問題にはならなかった。

 裁判でガリレオは、ベラルミーノ枢機卿が記した「ガリレオは第1回の裁判で地動説の放棄を誓っていないし、悔い改めが強要されたこともない」という証明書を提出して反論する。
 しかし検邪聖省は、ガリレオを有罪とするという裁判記録を持ち出して再反論した。この裁判記録には裁判官の署名がなく、これは検邪聖省自らが定めた規則に沿わないものであった。
 しかし、裁判では有罪の裁判記録を有効とし、ガリレオの所持していた証明書は無効とされた。
 第1回の裁判の担当判事ベラルミーノは1621年に死去しており、無効の根拠を覆すことはできなかった。この結果、ガリレオは有罪となった。
 検邪聖省側の記録には、地動説を「教えてはいけない」と書いてあったが、ガリレオが提出した「ベラルミーノ枢機卿の証明書」には、教えることの是非についての記載はなかった。裁判ではこの命令が実際にあったという前提で進められた。ガリレオ自身はそう言われたかどうか記憶にないがなかったとは言い切れないと答えている。1616年にガリレオとベラルミーノ以外の人物もいたことになっており、これについてはガリレオも認めているが、その人物が誰で何人いたのかについては不明のままであった。

 さらに1633年の裁判の担当判事は10名いたが、有罪の判決文には7名の署名しかない。残りの3名のうち1名はウルバヌス8世の親族であった。もう1名はこの裁判にはもとから批判的な判事だったとされている。ただし、判決文に7名の署名しかないのは、単に残りの判事は判決当日、別の公用で裁判に出席できなかっただけではないかという推測もされている。なお、全員の署名がなくても、有罪の判決は有効とされた。
 以上が裁判経過の概要である。

 この「ガリレオ裁判という非常識なバイオリズムに揺らされた空間」に世界は400年もの間晒されていた。その空間に世界のあらゆる事象が影響する。それを悪影響とみなせば伏魔殿のバイオリズムとなる。ヨーロッパとはその中心なのだ。

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 さて、クンデラがマドリードに一時滞在した1983年、その5月9日に、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が、地動説を支持したガリレオ・ガリレイに対する宗教裁判の誤りを認めた。
 この件がクンデラをマドリードに向かわせるのであるが、その根底に、前年の事件(ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、ポルトガルのファティマを訪れていた際、教皇が進める第2バチカン公会議に基づく改革やバチカン・モスクワ協定に反発していた聖ピオ十世会のスペイン人神父、ジュアン・マリア・フェルナンデス・クロンに銃剣用ナイフで襲われ、怪我を負った)をクンデラが意に秘めていたことは前に述べた。
 そこでクンデラには一度訪ねたい場所が改めて強く意識させられた。

 ドン・キホーテの作者ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラは、スペインを代表する大文化人であり、現在スペインに関係する多くの文学賞や施設などに彼の名が冠されている。
 1976年にはスペイン教育文化スポーツ省が、スペイン語文学に貢献してきた作家の業績に対して送るセルバンテス賞が創設され、スペイン語圏内における最高の文学賞とされている。また1991年にはスペイン語の教育及びスペイン文化の普及を目的としたセルバンテス文化センターが設立され、20カ国以上に支部を置いている。また、ユーロ硬貨のうち10、20、50セント硬貨のスペイン国内発行分の片面にはセルバンテスの肖像が刻印されている。クンデラはマドリードにて、このセルバンテスの時間と、ガリレオの時間を対比しようとした。無論、そこには小さな東洋の少年・伊東マンショの動向もある。クンデラにとって、この3者が交差した場所がスペインのマドリードなのであった。
 だがこれはM・クンデラの中においてのみ起こる交差なのだ。現実には顕在化しない交差だが、彼の体内では潜在化されていた。その彼の視線に従えば、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が400年後の1983年に3者を交差させてくれたことになる。

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 セルバンテス文化センターの紹介

 セルバンテス文化センター(Instituto Cervantes)は、1991年にスペイン政府によって設立された、スペイン語教育及びスペイン語圏の文化普及を目的とした施設。スペイン語の教育と文化の普及を目的とした国営施設で、世界40カ国、72箇所に展開されており、本拠地はマドリードと作家ミゲル・デ・セルバンテスの生誕地であるアルカラ・デ・エナーレスに置かれている。日本では、東京都千代田区に2007年9月からオープンしており、その規模は各国のセンターの中で最大級である。 スペイン語講座のほか、スペイン語圏諸国の文化を紹介するイベントなどを行っている。 各界の著名人なども呼んで講演会を行うこともある。またスペイン語検定試験(DELE)も実施している。

 スペイン語版の日本童話「うさぎとカメ」アニメ編

 セルバンテス文化センター活動から波及されて諸外国の文化を紹介するプログラム制作も積極的に推進されている。上の例は、スペイン語が解らなくて­も楽しめる語学教材。

 セルバンテス文化センター東京のスペイン語コース


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セルバンテス文化センター(Instituto Cervantes) ロゴ W600


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 漱太郎がイタリアの元王家であるサヴォイア家の一員「アイモーネ・ディ・サヴォイア=アオスタ」氏に誘われてマドリードを訪れたのが1987年、M・クンデラが滞在した年より4年後であった。

 M・クンデラの行方追ってみると、彼はマドリードから南下してラ・マンチャ地方に向かっている。そのM・クンデラは何よりも先ず一番にヘロニモ修道院を訪ねた。伊東マンショがサン・ヘロニモ修道院におけるスペイン皇太子宣誓式に参列したのが1584年11月11日である。そこでクンデラは往時の伊東マンショ像にヨーロッパの実情を重ね合わせた。

 

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 San Jerónimo el Real de Madrid サン・ヘロニモ・エル・レアル修道院

 1584年11月11日、スペインの首都のマドリードの中心地にあるサン・ヘロニモ・エル・レアル王立修道院礼拝堂で国王フェリペ2世の皇太子であるフェリペの立太子礼が行われ、貴族や各国の大使の馬車あるいは警備の馬そして見物する群衆など、その礼拝堂付近では大混雑になった。賓客達が聖堂に入ってから、一団の馬車が到着し、はるばる日本からやってきた天正少年使節団、その正使者が伊東マンショ。
 その後、少年使節団はフェリペ2世に謁見し、警備隊長はロゴリドであった。そのロゴリドがフェリペ皇太子の母親のアナ王妃の小姓になったのは12歳のときであり、アナ王妃はフェリペ2世の四人目の花嫁で、神聖ローマ帝国の王女である。ロゴリドはそのアナ王妃が亡くなると、近衛隊に転じ、やがて警備隊長となる。
 そんなロゴリドは少年使節団の謁見の場に同席し、日本から使節団を引率してきたメスキータ司祭は少年使節団を彼に紹介するが、ロゴリドは日本の衣裳の特異な外観に驚き、またフェリペ2世に献上された精巧な蒔絵箱や気品のある陶器、さらに屏風絵などに心を動かされ、日本という国に強く惹きつけられた。

 そしてロゴリドがそう語る内容が当時の新聞に載せられた。
 この新聞こそが監獄の中でミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラが見た記事であった。こうしてドン・キホーテ物語の下敷きに伊東マンショが挿入される。
 クンデラにとってそれは中世ヨーロッパを語る上での重要な象徴となった。

 伊東マンショがローマへと向かうためマドリードを出発したのは1584年11月26日。その後使節一行はスペインを南下してアリカンテまでを旅する。
 その工程間にラ・マンチョ地方がある(下の図)。セルバンテスはその道程にあるマンショの姿を実際に見た。その姿が後に監獄でみた新聞の記事によって蘇りドン・キホーテの構想となって深化するのであった。そのためにクンデラもまたラ・マンチョ地方の光景上に立たねばならなかった。 

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Castile-La Mancha ラ・マンチャ地方地図 W600
Castile-La Mancha 地方の起伏 W600
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 Castile-La Mancha「ドンキホーテの土地」


 カスティーリャ=ラ・マンチャ州(Castilla-La Mancha)は、スペインを構成する自治州の一つである。 州都はトレド。カスティーリャ・イ・レオン州、マドリード州、アラゴン州、バレンシア州、ムルシア州、アンダルシーア州、エストレマドゥーラ州と接する。
 19世紀に県制度が導入されて以降、この州の県とマドリード県は「新カスティーリャ」(Castilla la Nueva)地方を構成していた。1978年憲法で自治州制度が導入されてからは、大きな経済格差のために、マドリード以外の地域は切り離されて別の州となった。その自治州政府はフンタ・デ・カスティーリャ=ラ・マンチャ(Junta de Castilla-La Mancha)。
 「ラ・マンチャ」とは、マドリードの南に広がる平原で、風が強く標高の高い地域である。「マンチャ」の名はアラビア語の「乾いた土地」に由来する。ミゲル・デ・セルバンテスの『ドン・キホーテ』の舞台となっているが他には、ひまわり、風車小屋、マンチェゴ・チーズでも有名である。またトレドとクエンカは、「古都トレド」「歴史的城塞都市クエンカ」として世界遺産に登録されている。

 セルバンテスのドン・キホーテを不朽の名作にしている一つの要因は、舞台となったラ・マンチャ地方の貧しい生活ぶりを赤裸々に描写していることにある。
 郷士ドン・キホーテの先祖はイスラム掃討のための国土再征服運動で手柄をたて、その恩賞として報土を譲り受けるが、これが非生産的な荒れ野ばかり。一向に暮らし向きが良くならないため、過去の栄光に逃避しようというのがドン・キホーテの「遍歴の旅」だ。
 ラ・マンチャ地方は経済的生産性の低い地方ではあったが、戦略的には重要であり、トレドを例とするよう多くの要塞が築かれている。その周辺に住民の住む町が発生するという城砦町が要所、要所に散在する。通信用の見張り塔も多く、岩山のあちこちに廃墟として残されている。ここにはアルマグロのように広大な高原を統治するための拠点として戦功の大きかったカラトラバ騎士団の騎士たちへの報償の地として与えられている町もある。
 スペイン特有の風土を醸し出すメセタ高原、この高原の南半分に広がり多くの文人を魅惑しているのがラ・マンチャ地方、ドン・キホーテの里であり、赤茶けた大地と青空は、オリーブ畑と風車を引き立てている。伊東マンショらはこの高原の道を通り南のアリカンテに向かった。

 La Mancha, por los siglos de los siglos (Toledo, Ciudad Real, Cuenca y Albacete)永遠であれラ·マンチャ、(トレド、シウダードレアル、クエンカとアルバセテ)


 「中世史」についての基本的な理解は結局二つの点に絞られるのではないか。
 その第一点は、ミラン・クンデラ(Milan Kundera)の「ヨーロッパ論」を引くまでもなく、「中世における侵略と戦争は政治の延長」ということ。これは現代にも相通じるが、もっと噛み砕いていえば、侵略や戦争という帝国の国策は「政治の失敗」に起因しているとの理解が必要だ。

 第二点は、侵略と戦争は「非日常の倫理・道徳が支配する空間」であり、平時の日常とは逆転した空間を創りだすという意味になる。特に15世紀から16世紀の帝国総力戦ではそれが明確になった。そしてこの侵略の記憶が後世において遠ざかることはない。

 この2点の基本的な理解に欠けると中世史の正体は見えにくい。だからラン・クンデラの「ヨーロッパ論」は、真の中世史観の確立を我々が成し得ているのか、との問いを突きつけている。
 このクンデラのヨーロッパ論を今少し深堀りにしてみたい。

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         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

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 クンデラがみずからの文学観、小説観を語る際に用いるキーワードとして「ヨーロッパ」という言葉を使うようになったのは、フランス亡命以後、しばらくしてからであり、1983年に発表した論文「誘拐された西欧——あるいは中央ヨーロッパの悲劇」(“Un Occidant kidnappé ou la tragédie de l’Europe centrale”)においてである。
 つまりそれは彼がスペインのマドリードおよびラ・マンチャ地方を訪れた以後のことだ。

 クンデラが、この論文の中で主張しているのは、ポーランド、ハンガリー、ルーマニア、チェコスロヴァキアなど、戦後の共産主義革命による政治的な経緯から「東欧」と呼ばれている諸国の本来は、そもそも歴史的には「中欧(Europe centrale)」と呼ぶべきであって、「中欧」とは単に地理的に確定されたものではなく、「一つの文化であり、運命」であるはずであるにもかかわらず、そのことは、全西欧文明からは、省みられていない、ということである。この文章から伺われるのは、政治的な経緯から、ヨーロッパの周縁とみなされることになったこれら中央ヨーロッパの国々が、むしろ、国家の枠組みを越えた、「ヨーロッパ」という文化の総合を示し、担ってきたはずだ、という並々ならぬ確信であり、また、その確信と表裏の、「中欧」への無関心、ひいては、中欧の体現する文化的な価値への無関心に対する絶望感である。

 クンデラが、フランスのレンヌ大学に招聘されたのを機に、自著の発禁処分を受けプラハ音楽芸術大学映画学部での助教授の職をも追われた故国、チェコを後にしたのは1975年のことである。論文「誘拐された西欧——あるいは中央ヨーロッパの悲劇」が執筆されるまでの年月は、クンデラにとって、西欧の大国たるフランスで、「東欧からの亡命者」として、他者の様々な屈曲を孕んだ目に曝された時間でもあったはずである。この論文は、文化論の体裁を取ってはいるが、その悲嘆のトーンは、異郷での他者による認知と、自らのアイデンティティの間のひりひりするような齟齬を生きた経験なくしてはありえなかったような切迫感を帯びている。

 1979年、フランス亡命後、初めての小説作品である『笑いと忘却の書』(Le livre du rire et de l’oublie)が出版される。
 実は、この作品が問題となってクンデラはチェコスロヴァキアの市民権を奪われ、81年にはフランス国籍を獲得することになるのだが、祖国からは弾かれ、しかしフランスに帰化するでもない、生活の現実としては、最も不安定な時期に執筆された作品である。
 この作品の中には、幾分かは、クンデラの分身であろうと思われる、チェコから来た、フランスへの亡命女性タミナが登場し、タミナのアイデンティティの危機が描かれていく。この作品は、クンデラの小説のキャリアの大きな転換点を示した作品といってよい。それ以前の作品が、あくまで具体的なチェコの風土と歴史に根差し、リアリズム的な手法を手放していなかったのに対し、この作品に描かれるのは、どこかシュールな、具体的な地理上の対応が想像しにくいような、そのような空間であり、時間である。

 作品は、7つの章に分かれ、また章の一つ一つは、番号を付された数頁の断章により成っており、断章と断章、あるいは、章と章の間に、思いもかけない反復や照応が見られる。それは、一つの物語を時間の系列に沿って順に読んでいくのとは違ったスリリングな驚きを与える。
 クンデラはこの作品を「変奏形式の小説」と呼んでいるが、あるモチーフを少しずつ変えながら繰り返し、その反復とずれによって、リニアな叙述とは別の仕方で新たな認識をもたらす、ということを、小説の技法として身につけたのである。クンデラ自身、こうした「変奏の技法」は、「亡命」という危機を乗り越えようとした結果、辿り着いたものであると述べているが、故国を離れ、母国語の読者を失うという危機は、皮肉にも新たなテーマと表現技法の発見の契機となったのである。

 それにしても、『笑いと忘却の書』における極度のアイデンティティ・クライシスと、論文の中で示された失われた「中欧」、「ヨーロッパ」というアイデンティティへの希求とは、まさしく表裏一体だとは言えないだろうか。祖国チェコから根こぎにされることと、彼の中の「ヨーロッパ」像の懐胎は、悲痛な仕方で結びついているように思われる。

 クンデラにとって「小説」とは、単なる文学の一ジャンルを指す名称ではなく、それ自体が、ある精神のあり方、一種の立場を表すものであると映っている。クンデラは、実際に交わされた会話として、『裏切られた遺言』Les testaments trahis(1993)の中に次のような奇妙なやりとりを書き付けているが、それは、「小説」というジャンルを選びとったのが、実存的な決意に基づくものであることを窺わせるとともに、小説という芸術の内的原理に沿ってではなく、政治的な文脈において小説家を理解しないと気がすまない世間に対する苛立ちが端的に現れたものでもあると思われる。

 「クンデラさん、あなたは共産主義者ですか?——いいえ、私は小説家です。」「あなたは左翼ですか、それとも右翼ですか?——いいえ、そのどちらでもありません。わたしは小説家です。と。

 Milan Kundera - L'identità L'アイデンティティ(1997年)

 この小説の主人公は、シャンタルとジャンマルク。一目で恋に落ちた後、長い間共存している。彼は年下で、不安定な仕事に、彼女は少し年上だが、広告代理店では良い仕事を持っており、両方を維持し得る。物語は、ある小さな町に始まるノルマンディー 。それはどこか幻想と現実の間の境界であった。

 クンデラの評論を読むと、「文学」、「作家」という概念が比較的希薄であるのに対し、「小説」というジャンルがことのほか、大きく、重く、特別な意味合いを込めて語られているのがわかる。
 クンデラは、文学上のキャリアを、マヤコフスキーや、エリュアールのような叙情詩人として出発させた。しかし、スターリン主義の絶頂期にあって、叙情的態度がことのほか賞揚される時代に青春を過ごし、叙情とテロル、叙情と全体主義が不分明に馴れ合っているのを見、叙情的な高揚が、自我と世界との批判的距離を無くさせ、盲目的なものになってしまうことに危険を覚え、また、いたく心をきずつけられたという経緯がある。
 クンデラにとって、叙情詩を書くことをやめ、小説の執筆を始めることは、叙情の精神とは反対の、「相対性」の支配する世界に身を捧げる決意と共にあった。
 1975年に執筆された『生は彼方に』(La vie est ailleurs)は、共産主義下の独特の叙情的高揚と、その裏面を描いた一種の詩人批判の小説であり、詩の叙情性の持つグロテスクさに向けられた容赦ない批評であると言ってよい。
 チェコの批評家クヴェトスラフ・フバチークも指摘するように、クンデラの小説においては、一貫して叙事的要素が中心的な役割を占めている。それは「叙情的精神」の負の側面に受けた痛手が、クンデラのその後の著作活動の性質を深く規定しているからなのである。

 「小説」というジャンルほど、曖昧模糊とし、多様で、定義し難いジャンルもないが、クンデラの小説観は、実に確信に満ち、明快である。クンデラは『小説の精神』L’art du roman(1986)の中で次のように語っている。

 しかし、この知恵とは何でしょうか、小説とは何でしょうか。「人間は考え、神は笑う」という、みごとなユダヤの諺があります。この格言に触発されて、私は好んで次のように想像します…つまり、ある日、フランソワ・ラブレーは神の笑いたもうのを聞き、こうしてヨーロッパの最初の偉大な小説の構想が生まれたのだと。小説という芸術が神の笑いのこだまとして誕生したという考えは気に入っています。と。

 「神の笑いのこだまとしての小説」とは、何とも、大らかなユーモアに満ちた把握である。クンデラによれば、神が笑うのは、人間が考えても、真実は人間から逃れ去ってしまうからであり、複数の人間が考えれば、たがいに考えることは違い、また、人間が自分がそうであると考えているものでは決してないという、その根本的な滑稽さからなのである。小説とは、性急に判断を下すのではなく、あくまで世界の多様性と相対性を、その豊かさまるごと描き出すことが可能なジャンルである。判断を宙吊りにし、真面目とも不真面目とも判別できないようなあわいで、実験的な思考も可能となる。
 「小説の精神」とは、「不確定性を不確定性としてうけとめる聡明さ」に発するものであり、絶対的真実を追究する宗教やイデオロギーとは、ベクトルを異にする。クンデラの思い描く「神の笑いのこだまとして生まれた芸術」である小説の敵は、アジェラスト(ラブレーの造語であり、笑わない者たちという意味)、紋切り型の無思想、キッチュであるという。そして更にクンデラは、こうした三つの敵と闘う小説という創造的空間は、近代ヨーロッパとともに生まれ、またそれは、ヨーロッパのイメージそのものであると断言するに至る。

 「小説」というジャンルを実存的に選び取ったクンデラの目に、このように「小説」と「ヨーロッパ」は分かちがたく結びついている。「小説の精神」のイメージとしてのヨーロッパ、とは無論、幾分の理想化を孕んでいよう。クンデラ自身、それが「ヨーロッパに抱く夢」であり、また、その夢は何度も裏切られたと語っている。小説の精神としてのヨーロッパという夢とその裏切りというモチーフは、殊に亡命後の彼の作品の中に恒に見え隠れしているように思われる。以下、彼のテクストを読み解く中から、その具体相を明らかにしてみたい。

 クンデラは、母国語の読者を失うこととなり、翻訳者の協力を得て、作品を外国語(まずフランス語)で発表する事態となったが、各国語に翻訳されたものの中に、翻訳者による自らのテクストの暴力的な改変ともいえるものがあるのに彼は大いなるショックを受け、その後、自作品の翻訳を点検し、訂正する作業に膨大な時間を費やすことになる。そうした作業の中で、クンデラは、自らが用いる用語ひとつひとつに思いをめぐらす機会を得、自らのキーワードを集めて、一種の定義集たる個人用辞書を執筆することを思い立つ。
 この「辞書」は「七十三語」(“Soixante-treize mots”)と題され、文字どおり、73のキーワードとその定義が並んでいるのだが、注目されるのは、その中に、正しく「ヨーロッパ」という項目が存在することである。少し長いが全文を引用しよう。

 ヨーロッパ Europe中世期、ヨーロッパの統一は共通の宗教に基づいていた。近代を迎えるに及んで、宗教はその地位を文化に(文化的創造に)明け渡し、文化はヨーロッパ人がそれによって自分を認識し定義し同定する、さまざまの至高の価値の実現となった。ところで現在、今度は文化がその地位をあけ渡している。だが何に、誰にか。ヨーロッパを統一できるような至高の諸価値が実現するのはどの領域であろうか。技術的偉業だろうか。市場だろうか。民主主義の理想、寛容の原則をかかげる政治だろうか。しかし、その寛容がもう豊かな創造や力強い思考をなんら擁護することがないならば、それは、空疎で無用なものになるのではないか。あるいは、文化の退位を天にも昇る心地で身を任すべき一種の解放と受け止めることができるだろうか。私にはわからない。私はただ、文化はすでに屈服してしまったと自分が承知していると思っているだけである。こうしてヨーロッパの自己同一性のイメージは遠ざかる。ヨーロッパ人。つまりはヨーロッパに郷愁をいだく人。

 この記述から窺われるのは、クンデラがヨーロッパというものを、「文化」を自らのアイデンティティの根幹としていること、またヨーロッパは「文化」を至高の価値の実現とするような共同体であったはずであるのに、もはや「文化」がそのような主導的な価値たりえなくなっているとする彼の苦い歴史認識である。このテクストが書かれたのは、1986年のことであるが1993年、ヨーロッパには、EUが成立する。
 無論、その統合の原理は、「文化」ではなく専ら、政治・経済的な合理性を根幹とするものであった。時代の趨勢に照らしてみても、クンデラのこのヨーロッパ観は、多分にユートピア的な、感傷的といってよいトーンを帯びているといわざるを得ない。

 このような、失われた「ヨーロッパ」というイメージ、喪失と幻滅を語る一方で、ユートピアとしての「ヨーロッパ」という観念、ヨーロッパの文化と芸術の歴史の栄光は、クンデラの中で、ますます大きな存在となってきているように思われる。
 クンデラの小説や評論の中には、ゲーテやベートーヴェン、ラブレーやセルバンテス、ヘルマン・ブロッホやストラヴィンスキーに至るまで、全ヨーロッパ的な名声を得るにいたった芸術家たちへの言及が数多く見られ、自らをそうした、全ヨーロッパを巻き込む大きな歴史の流れの中に位置づけ、ヨーロッパ文化の嫡子たりたいとする、並々ならぬ意欲と衿恃がありありと感じられる。まるで「ヨーロッパの偉大なる文化と芸術」がみずからのアイデンティティの起源そのものであるかの如くである。
 自らの拠って立つジャンルである「ヨーロッパ小説」をめぐって、『裏切られた遺言』の中でクンデラは次のように述べている。

 私が「ヨーロッパ小説」について語るのは、たんにそれを中国小説から区別するためだけではなく、その歴史が超国家的なものであることを言うためでもある。フランス小説、イギリス小説、あるいはハンガリー小説は、それに固有の歴史をつくりだすことはできず、それらはみな、国家の枠組みを越えたひとつの共通の歴史に参加しており、その歴史によって、小説の進化の意味と個々の作品の価値があきらかとなる唯一のコンテクストがつくりだされる、ということを言うためでもある。と。

 こうした、国家の枠組みを越えた「大きなコンテクスト」に言及するクンデラに対し、チェコ時代の作品も視野に収めつつ(当然、チェコ語テクストの読解も進めつつ)クンデラについて、現在、最も包括的で、綿密な研究を重ねている赤塚若樹は、「クンデラのまなざしは、以前はチェコ文学とヨーロッパ文学の両方に注がれていたのに、彼がフランスに渡ってからは、だんだんその焦点がヨーロッパ文学のほうに移動していき、それにともなって、いつしかチェコ文学がなおざりにされ、ヨーロッパ文学の理念だけが「ユートピア」としてひとり歩きを始めてしまった。」と述べている。さらに、「クンデラの文学に輝きをあたえているものは、チェコの歴史と彼が生きた経験的現実、チェコの歴史的現実がもたらす具体性なのではないか」として、フランスを舞台にした作品『不滅』以後の小説には、「著しい衰退」が見られるとの厳しい評価を下している。

 確かに、クンデラの文学にチェコ固有の歴史と現実の経験の具体性を求めようとするならば、「ヨーロッパ小説」たる、フランス移住後のクンデラの小説には、失望を禁じざるを得ないだろう。しかし、共産主義下のチェコでのしたたかな経験を経て、「西側」と呼ばれていた大国の一つであるフランスに移り、やがてクンデラのパースペクティブに「ヨーロッパ」と呼ぶほかない大きなイメージが浮かび上がってきたことは、彼の小説の別の次元の認識力へと明らかに繋がっていると、筆者は考える。クンデラの文学における「チェコ性」そのものより、強いられた移動を経ることによって、チェコにもフランスにも通底する「ヨーロッパ性」ともいうべきものに確かな表現のリアリティを与え得たところにこそ、クンデラの文学の独自性があるのではなかろうか。

 Žert (1969年Žert(ジョーク)からクリップ)


 またクンデラは、『小説の精神』所収「不評を買ったセルバンテスの遺産」(L’héritage décrié de Cervantes)の中で、次のように述べている。

 最後の逆説の時代が小説家をかり立てるのは、時間の問題をもはや個人の記憶というプルースト的問題に限定することではなく、集団の時間の、ヨーロッパの時間の謎に——老人が自分自身の過去の人生を一瞥のもとに把握するように——自分の過去を見、おのれを総括し、おのれの歴史を把握すべく振り返るヨーロッパの時間の謎に拡大することです。と。

 ここには、「ヨーロッパの時間の謎」が、クンデラにとって小説の不可欠のモチーフであることが語られている。実際、クンデラの小説の中には、ヨーロッパの歴史そのものを、彼なりのパノラマのもとに捉えようとする貪欲な視線がある。もちろん、その歴史の描き方は、登場人物の実存に降りかかるものとして、あるいは、実存のモチーフと何らかのアナロジーで結ばれるものとして、個人の歴史との具体的な連関と照応を保ったかたちを取っている。

 例えば、『笑いと忘却の書』の中には、ヤナーチェク音楽院の院長を務め、ベートーヴェンに関する研究を残した音楽学者であったクンデラの父の死の場面が描かれているが、クンデラは、それを「インターナショナル」を歌うピオニール協会の子供たちを交錯させながら描いている。フサークが「子供のみなさん! みなさんは未来です」「子供のみなさん、けっして後ろを見てはいけません!」と叫ぶ声が父の病室にまで届いてくる。子供をうまく政治的な祝祭に取り込む共産主義の、一種硬直した盲目的進歩主義が、一人の人間の死と重ね合わせられることによって、浮き彫りになっていく。
 そして、クンデラの父が亡くなる1年前、息子に連れられ散歩に出かけた折り、ソ連軍占領下のチェコで、至るところに据え付けられたスピーカーから無節操に流れる騒音と化した音楽、「歴史の重荷を忘れ、生きる喜びに身を任せるよう人々を誘う」その騒音を耳にしたのち、父が「音楽の愚かさだよ」という言葉で、何かを伝えようとする、というエピソードが語られる。辛そうに、やっとの思いで発せられた父の言葉を息子であるクンデラは解釈しようとするのだが、その件は以下のようである。

 彼はそれで何を言いたかったのか? 一生の情熱であった音楽を侮辱したかったのだろうか? いや、そうではない。音楽の原初の状態というものが、音楽の歴史に先立つ状態というものが、初めての問い、初めての省察、一つのテーマと一つのモチーフとの戯れという考え以上の状態というものがあると言いたかったのだと私は思う。音楽のそうした原初形態(思想のない音楽)のなかに、人間の実体と不可分の愚かさが反映される。音楽がそうした原初的な愚かさを越えた所にまで高められるためには、精神と心情との計り知れない努力が必要だった。それなのに、数世紀に渡ってヨーロッパの歴史に張り出していたその素晴らしいカーブが、ちょうど打ち上げ花火のように軌道の頂点で消えてしまったのだ。音楽の歴史は死を免れないが、ギターの愚かしさのほうは永遠だ。今日、音楽は元々の状態に立ち戻った。それは最後の問いと最後の省察のあとに来た状態、歴史のあとに来た状態なのだ。と。

 クラシック音楽の研究に終生打ち込んだ父が辿り着いた音楽の認識の煮詰められた形がここにある。『笑いと忘却の書』の中には、言葉の困難と闘いつつ、ベートーヴェンのソナタに関する本を執筆しつつある父が、ベートーヴェン最後のピアノソナタである作品(111)の変奏について、やはり何か重要なことを伝えようとするのだが、言葉にならず、それは何だったのかと、息子クンデラが考察する場面がある。そこでクンデラは、変奏曲という形式は、外界の無限へと貫いて行く旅ではなく、あらゆる事物の内に隠されている内的世界の、無限の多様性の内部に人を導くものである、と考えを進めていく。こうしてクンデラは西欧の音楽の探求のひとつの極点について思考しようとしている訳であるが、それだけに、そうした探求を無化してしまうかのような、「音楽の愚かさ」という言葉は衝撃的なのである。

 すべての人間を兄弟にしてしまう音の単純な組み合わせ、魂なき叫びの単調なリズム。ヨーロッパの音楽家たちが数世紀に亘って営々と続けてきた「高尚な」芸術的探求とははすかいに、人間の愚かさと結びついた音楽の深い根がある。そのようにクンデラは看破する。ヨーロッパの歴史の栄光と、「人間の実体と不可分の愚かさ」と。
 この両極の緊張のただ中に、鮮烈な実存の姿が描き出されていることが、クンデラの小説の無視しえない特徴なのではなかろうか。しかし、栄光と愚かさの間に紡ぎだされる物語は、何と哀しく、滑稽なのだろう。クンデラの祖国であるチェコには、民衆に根強く浸透した人形劇の伝統があるが、「繰り人形」とは、歴史の皮肉に翻弄され続けた小国の人々の精神構造に親和性を持つ、ひとつのメタファーであるとも言えるかも知れない。クンデラの小説の中でかたられるヨーロッパの歴史=物語には、何か、神の繰り人形としての愚かな人間たちの、壮大な寓話とでもいった趣がある。

 上に述べたように、亡命後に初めて執筆された『笑いと忘却の書』のなかには、明らかに、「ヨーロッパ」のモチーフが姿を表しているのであるが、この小説から5年後に発表されることになる『存在の耐えられない軽さ』L’insoutenable légèreté de l’êtreは、「ヨーロッパ」というもの、「ヨーロッパ人」というものを総体として捉えようとする熾烈な意志が更に明確化しており、登場人物や場面設定自体に「ヨーロッパ」を浮かび上がらせる力学が一層緻密に張り巡らされているように思われる。

 この小説は二組の男女を中心として展開していく。一方がプラハの外科医トマーシュとチェコの寒村出身のテレザであり、もう一方は、トマーシュの元愛人で放浪の芸術家であるサビナ、そして彼女の新しいパートナーである、ジュネーブの学者フランツである。思い切って単純化を試みるなら、前者のカップルは、人生のメタファーとして「軽さ」を選ぶ者と「重さ」を選ぶ者との組み合わせであり、後者は、裏切りを人生の基調としキッチュなものに対する距離感を持つ者と、ヨーロッパ知識人の一つの典型、それも篤実ではあるがキッチュなものに取り込まれやすい人物との組み合わせであると言うことができよう。この二組の男女の物語は交錯しつつ展開していくのだが、共産主義下のチェコの歴史的な現実を堅固な背景としつつも、主人公たちの都市から田舎へ、あるいは、ヨーロッパからアメリカへ、第三世界へ、といった移動も伴い、また、豊富な脱線的エピソードが挿入されるために、小説の見えない主人公である「ヨーロッパ」の像は、より、総括的で多角的、立体的なものになっていく。

 この小説の中で、徹底的な問いと探求の中心となっているのは、ヨーロッパの心性が生み出した「キッチュ」の精神である。「キッチュ」とは何であるかを、格言風の言葉でもって、あるいは様々なエピソードによって、明らかにしていくのである。クンデラの考える「キッチュ」とは、端的にいえば、「糞の否定」であり、「存在との無条件の同意」である。クンデラによれば、ヨーロッパのすべての信仰の影には、創世記の一章があり、世界が正しく創造され、存在はよいことであるとする思考があるという。クンデラはこうした「存在との無条件の同意」に由来する様々な感情や人のふるまいを検証していくのである。音楽に対する感受性の問題も、性愛の場に介入してしまう腸の音も、集団での輪舞への郷愁も、叙情詩のパトスも、全体主義の美的な理想も、配偶者の死をうけいれる心情も、すべて「キッチュ」の心性との関わりで眺められるのである。

 この小説の第6章は、「大行進」と題され、ここでは、フランツが参加する、カンボジアの共産主義政権に抗議してヨーロッパの左翼が組織した大行進のエピソードが語られ、左翼的な人々を惹き付ける観念、イメージがつくりだす、「政治的キッチュ」が徹底的に検証される。作品の中でヨーロッパの政治的キッチュが、どれほど突き放された目で眺められているかは、以下の文章に明らかである。

 フランツは、「大行進」の栄光が、そのなかで歩んでいる者達の喜劇的な虚栄と同じものであり、ヨーロッパの歴史の壮大な喧騒ががぎりない静寂のなかで終わってしまい、もう歴史と沈黙のちがいがないということを認めることができなかった。と。

 『存在の耐えられない軽さ』においては、個人のレベル、また集団や政治のレベルで、キッチュの心性が語られ、物語の進行とともに、キッチュの像は重層的なものとなり、やがて、ヨーロッパの総体としてのキッチュが、大きな歴史のパースペクティブの中に浮かび上がってくるのである。

 クンデラが、フランスに居を移して15年の歳月を経て、長編『不滅』L’Immortalité(1990)が執筆される。この作品で初めて、フランスが小説の舞台の中心となる。『存在の耐えられない軽さ』の中には、物語の時間的な進行がストップするような、エッセイ的、哲学的な文体による一種の「逸脱」の手法が際立ってきていたが、『不滅』では、このエッセイ的、哲学的な断片の比重が増してきている。
 『不滅』は、『存在の耐えられない軽さ』と同じく7部で構成され、対照的な性格を持つ姉妹アニェスとローラを中心にした現代の世界の物語の展開してゆく奇数の部と、過去の時間に溯って歴史の奥行きの中に哲学的な視線を投げかける偶数の部が、ひとまず区分けされて進行する。次第に、現代の物語と歴史の奥行きとが複雑に交錯し、少々あざといと言いたくなるほど巧妙な照応を見せていく。現代の物語は、具体的なエピソードと、大胆な見取り図でもって提示された「ヨーロッパ」の心性に照らされて、特有の位置づけが為されていく。
 クンデラはこの作品の中で、ヨーロッパの心性を代表するものとして、「音楽」と「ホモ・センチメンタリス」という言葉を掲げている。「ホモ・センチメンタリス」とは、ラテン語であてこすったクンデラの造語であるが、ヨーロッパ文明の生み出した「感情を価値に仕立てる」人格の典型として提出され、小説全体にわたって、完膚なきまでに諷刺の対象とされる。「真実の愛はつねに正しきものである」つまり、愛は人間を無罪にするという確信に基づき、善と悪の基準が主観的であるようなキリスト教文化が、この人格の方を生み出したのだとクンデラは考えている。そして、その起源を12世紀の宮廷風恋愛に見定めている。現代に至る歴史の流れを踏まえてクンデラは、ヨーロッパにおいて音楽はこうした人格のタイプと密接に連関しあっているものであると考えている。

 クンデラは言う。「ヨーロッパ。偉大なる音楽とホモ・センチメンタリス。同じ揺籃に並んで寝ている双生児」。クンデラがヨーロッパの心性の根幹にあるとする音楽は、ことに、ロマン派的なものである。この小説の中には、音楽へのロマン派的な思い入れへの諷刺が散見される。たとえば、主人公ローラは、ロックには我慢ならない大のマーラーファンとして描かれ、典型的な「ホモ・センチメンタリス」にあたるのだが、かなり冷笑的に描かれており、またアニェスについても、父の葬儀にマーラーの『第9交響曲』の「アダージョ」を流したいと思ったが、式で涙を他人に見せるのをはばかって、事前に何度もプレーヤーに掛けて聴き、「十三度目には、パラグアイの国歌がすぐ目の前で演奏されるくらいにしか心を動かされなかった」そして、葬儀で涙を流さずにすんだ、という何やら人を喰ったようなエピソードがはさまれている。
 音楽の引き起こす感動や陶酔にどこか醒めた視線を投げかけずにはいられないクンデラは、この小説の中で、「絶対的に現代的であること」をモットーとしているアニェスの夫、ポールに次のような台詞を吐かせている。

 僕はショパンの葬送行進曲を聞きながら死ぬより、子供の片言を背景にして死にたいね。そしてこれも言っておこう。悪のすべては、死の賛美であるあの葬送の行進から来ているのだとね。葬送がもっと減れば人は、もっと死ななくなるだろう。と。

 何か価値の高いもの、理想を求める心情とつながる音楽は、悲劇や戦争を導くものと同じ根から発しているとの考えが述べられている。この断片では死の賛美の問題が触れられているが、小説は、題名が示す通り、「不滅」、つまり肉体は死んでも、栄光として滅びずに生き残るという観念を、一見遠く離れていると思われるような日常的な些事や歴史上の事実を折り込みながら、次第に幾重にも取り巻いてゆくように、この作品は進行していくのである。死してなお栄光が残るという観念、そしてそこから生み出される欲望がヨーロッパ的な心性の根幹にあること、またそのことが現代の人間の存在にどのような影を落しているのかを、クンデラは批判的な観点からこの小説に盛ろうとしたのだと思われる。音楽、殊にクラシック音楽は、「不滅」を求めてやまないヨーロッパ的心性の典型であると捉えられているのである。

 次に挙げる『不滅』の断片には、ヨーロッパの「不滅」の心性の捉え方が良く表れているように思われる。これも、ポールの発言である。

 わたしは、これら全ての交響曲の完璧さに異議を唱えているのではないのです。ただその完璧さの威光に異議を唱えているんです。それら超崇高なる交響曲は無用の大聖堂でしかない。人間には近付けないんです。非人間的なんです。昔からずっと我々はそういう威光を誇張してきました。そのせいで劣等感を持たされました。ヨーロッパは自身を五十ほどの天才的な作品に還元してしまったのですが、ヨーロッパはそれをまるで理解してこなかったときている。この酷い不平等をよく理解してください。全てを代表する五十の名声に対して、何も代表することのない何百万ものヨーロッパ人? 階級の不平等なんてちっぽけなことですよ、一方を砂粒に変え、しかるに他方には存在の意味を授ける、この形而上的な不平等に比べればね。

 クンデラはこの小説の中で、ベートーヴェンやゲーテ、リルケ、ロマン・ロランなどを俎上に載せ、彼らの作品そのものではなく、後世の人々がその生涯に付与していった様々の伝説的な価値を次々に手玉にとっていく。偉大な芸術家達は「威光」の欲望にとりつかれた人間、あるい「ホモ・センチメンタリス」として、一種滑稽な存在として脱神話化されていく。

 La otra aventura. Programa . MILAN KUNDERA

 番組放送2011年。名門出版プレアデスに組み込まれ、プラハへの列車旅行を自覚するミランクンデラの戦いについて時間を語るコルタサル。彼の小説と彼のジャーナリズムを通じてホルヘIbargüengoitiaの仕事におけるユーモアの戦いに近づく新しいテーブル出版の世界。

 クンデラの評論や談話においては、広くヨーロッパの芸術全般にわたる熱烈なオマージュが見られるが、彼は、地理上の祖国を失った自分にとっての祖国=chez soi、つまりは、自己が本当に自己でいられる場所とは「ヨーロッパ文化」そのものである、と亡命の中で芸術家としての生をまっとうしたストラヴィンスキーに自らを重ね合わせるようにして述べてもいる。「ヨーロッパ」へのあまりにも強い愛着と、容赦ない「ヨーロッパ」の寓話化は、作用・反作用の関係にあると言ってよいかもしれない。

 ビロード革命を経、「正常化」した祖国チェコに、帰国するという道をクンデラはとらなかった。最新作『無知』Ignoranceは、亡命者のチェコへの帰還とその失望をオイディプスの神話に重ね合わせて描いたものだが、クンデラは今後もフランスに住まい、汎ヨーロッパ的という他ない小説を書き続けるだろう。クンデラの小説の中に、ヨーロッパの歴史と心性を真正面に捉えようとする記述は他にも数多く、さらに分析の対象としたいところである。以上、クンデラにとっての「ヨーロッパ」のエッセンスをいささか粗描した。

 ミラン・クンデラの表現に再び注目してみたい。クンデラは『小説の精神』の「不評を買ったセルバンテスの遺産」というエッセイで、次のようなことを書いている。
 《 フッサールとハイデガーによって、世界に何かが欠如したままになっていることがあきらかになった。それは「存在の忘却」という問題である。これは「認識の熱情」の現代的高揚とともに、それとは裏腹に喪失しつつあるものだった。「認識の情熱」なら、デカルトこのかたいくたびも視点と方途を変えて盛り上げてきた。けれども「存在の忘却」はデカルト的なるものではまったく掬えるものとはなってこなかった。これを掬ったのは、おそらくセルバンテスの『ドン・キホーテ』なのである。世界を両義的にものとして捉え、絶対的な一つの真理のかわりに、互いにあい矛盾するかもしれない二つ以上の相対的な真理を掲げ、そこに刃向かうすべての主義主張と幻影に対決していくということを教えたのは、唯一、セルバンテスの『ドン・キホーテ』だったのである 》と。

 そしてこの草稿文には《 そのモデルが日本の少年とするのだから神の真理は再び解体される。実際にみたそのモデルによって、また分担される無数の相対的真理が近代に向かって散らかされたのである 》とする記述が残されている。

 近年、ミラン・クンデラの新しい評論集『出会い』の翻訳が出た(西永良成訳、河出書房新社、原書は2009年刊)。これは「新しい」といっても中身はまったく新しくはない。『存在の耐えられない軽さ』の作家は、けっして新しいものをありがたがったりはしないからだ。モダンの後にポスト・モダンなどというバカな物差しにも縁がない。

 今年84歳(2013年現在)になったこのチェコからの移住作家(いまでは「亡命」という言葉も間尺に合わなくなってしまった)の「別れの儀式」の手始めとのことだが、ここには、クンデラに親しい文学や絵画それに音楽との「出会い」を語ったエッセーを集めてある。巻頭のフランシス・ベーコン論も読ませるが、「ブラックリスト、あるいはアナトール・フランスに関するディヴェルティメント」が、クンデラの嗜好や批評的意識の立ち位置をよく示していておもしろい。

 「ブラックリスト」とは、「流行」とか「風潮」が排除するものを、教会や警察のやり方で示した表現だが、フランスの文学界はそれ自身の「ブラックリスト」をもっていて、クンデラに馴染みの作家もそのなかに入れられていた。シュルレアリストが「死亡宣告」を下して以来、アナトール・フランスはその筆頭にあって、そんな作家に関心があると言ったら、パリの「趣味のよい」文化人たちを白けさせてしまうのだ。

 もちろんこのような「同化傾向」は、抑圧と排除のメカニズムとして全体主義体制のもとでは国家的に働いている。チェコからフランスに亡命した(1975年)直後、クンデラは「好意的な」フランス人たちの間で当たり前になっているそんな風潮に触れてしまった。
 ところが、「ブラックリスト」によってほぼ永遠に葬られているこの作家(フランスの国名を筆名にした)は、チェコで青春期を過ごしたクンデラにとっては日常の糧のような作品を書いた作家だった。フランス革命期の恐怖政治(「テロル」の時代!)を扱った『神々は渇く』は、革命の正義の名のもとに親しい者たちをも次々と断頭台に送った「邪悪な」青年の話である。クンデラはこれを例外的な歴史的悲劇の一コマとしてではなく、人間の日常生活を描いた作品であるかのように淡々と読んでいる。

 その中にこんなくだりがある。
 
 のちになってブロート(小説の主人公ガムランに告発される友人)のことを考えながら、わたしは共産主義の時期に体制に反対するふたつの基本式な態度があることに気がついた。ひとつは信念に基づく反対、そしてもうひとつは懐疑に基づく反対。教訓的な対立と反道徳的な対立。ピューリタン的な対立とリベルタン(自由思想)的な反対。前者は共産主義がイエスを信じないことを非難し、後者は共産主義が新しい〈教会〉に変わろうとしていることを非難する。前者は共産主義が堕胎を認めることに憤慨し、後者は共産主義が堕胎を困難にすることを非難する(このふたつの態度は、共通の敵に眼を曇らされ、両者の相違をほとんど見ていなかった。その相違は共産主義が消え去ったあとになってから、ますます強く際立ってくるようになった)。

 カトリックでもコミュニズムでもなく、「西」でも「東」でもないというクンデラの「中欧」の位置のありようがここにも読み取れる。

 また、この見方は、今では「ブラックリスト」に入れるまでもなく忘れられた旧ソ連の作家、アレキサンドル・ジノヴィエフを想起させる。77年に西欧に亡命を余儀なくされたこのへそ曲りは、「自由の空気の味はどうですか?」とマイクを突き付ける西側ジャーナリストに、「君たちは何もわかっていない、あの国ではそんなものは必要ないのだ」と一喝して嫌われ、みずから「醜いアヒルの子」を自認、やがて訪れたペレストロイカ、西側を熱狂させたペレストロイカに対しても「西側かぶれの指導者たちが企てた愚策」とこきおろし、『カタストロイカ』を書いて反論、西側ジャーナリズムからは「狂犬」扱いされて、「20世紀のカッサンドラ」としてソ連崩壊のがれきの中に消えていった。

 彼もまた、「私は歴史(理性)を信じている」という命題は「私は神を信じている」という命題と同型であるとして、「私は神を信じる、のではない」の「のではない」に賭けた作家だった。「のではない」は単純な否定ではない。「信じる」ことに安んじ、自らを正当化することの否定であり、根本的な留保だ。だがその「留保」は消極的だというわけではない。「無」は純然たる虚無ではなく、限定の不在にほかならず、ある意味ではそれは無限の充溢である、と気づいたのはベルクソンだったが、ジノヴィエフは「信」の対象を立てることを拒否しながら、生身の生存を全力で肯定する人でもあった。

 どういうわけかこの頃、「東方」に縁がある。ギリシア、東欧、旧ソ連...、「西洋(オクシデント)」が「東(オリエント)」に望見した地域だ。ついでに想起しておくなら、バルカン半島にはイスマエル・カダレがいた。『砕かれた四月』も忘れがたい作品である。

 クンデラの本に戻れば、随所にこの作家独特の「歴史を斜めに泳ぐ」創見が散りばめられているが、「近代」に殉じるようにもみえるこの作家が、その予期せぬ変奏ともいえるクレオール文学に魅了され、パトリック・シャモワゾーの『すばらしいソリボ』を、口承と書くこととの稀有の出会いとして賞賛していることも印象的だった。私にはクレオール文学の紹介に労をとってきた友人がいるが、その者としては嬉しいことであろう。

 Castilla - La Mancha - un paseo por las nubes カスティーリャ ラ·マンチャ「雲の中を歩く」


 それにしてもM・クンデラがマドリードからラ・マンチャ地方を訪ねたのには一人の人物に会うための最大の目的があった。
 ラ・マンチャ地方にトメリョソ(Tomelloso)という町がある。

Tomelloso gif

トメリョソ 1 W600
トメリョソ 地図 W600

 Semana Santa 2012 - Domingo de Ramos - Tomelloso トメリョソの町でパームサンデーの物語。

 イベリア半島南部に広がるラ・マンチャ地方の平原、D.O.バルデペーニャスの赤茶色の表土が、やや白味がかった石灰質を含んだ土壌へと変化する。
 これがD.O.ラ・マンチャのトメリョソに入った合図となる。
 M・クンデラはラ・マンチャのワイナリー「VERUMヴェルム」を訪れた。

 古くから世界でも最も大きなワイン生産地として知られるラ・マンチャ。
 この地方でワインの首都と言われるトメリョソは、広大な畑の中央に位置する。また歴史的にも高いワイン生産の技術を持ち、代々新しい技術に投資を行ってきた生産者たちは、現在トメリョソを高品質のワインと蒸留酒の産地として知らしめるべく、彼らの知識と経験を活かし生産を行っている。

 Wines from Spain 2010 Promotional Video

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 ラテン語で「真実」を意味する「VEURUM」という名は、大地に対し、ワイン造りに対し、また、すべてに対して真実でありたいという、ロペス・モンテロ家が代々受け継いできた思いを表している。

 このヴェルムの畑の歴史は1788年、ロペス・モンテロ家の先祖に当たるホセ・ロペスが受け継いだ畑に遡ることになる。1961年、ホアン・アントニオ・ロペスが蒸留酒製造所を設立し、世界的な成功を収めた。彼の死後、2005年に4人の息子たちがヴェルムを設立する。所有する畑は約200ヘクタール。標高およそ400メートルの平原に位置し、表土から3メートル下にある石灰岩を基盤岩とする。

 5つに区分されたこの畑では、カベルネ・ソーヴィニョン、メルロー、テンプラニーリョ、カベルネ・フラン、アイレン、シャルドネ、ゲヴュルツトラミネール、ソーヴィニョン・ブラン等、様々な品種が栽培されている。さらに、原産地統制委員会の研究機関の後押しもあり、失われつつある土着品種の再生を手掛けるプロジェクトの一環として土着品種の植え付けも予定されている。気候は、夏は暑く冬は寒く、昼夜の寒暖差が20℃もある大陸性気候で、ブドウ生産に適した土地柄といえる。

 ワイン造りにはモスト・フロール(フリーラン果汁)のみを使用し、全ラインナップ合わせての年間生産量8万本程度のの限定生産を行っている。また、古く中世より、人々は水分を貯めるこの厚い岩盤を掘り下げ、地下貯蔵庫として用いてた。ヴェルムは、今世紀初頭、親会社である蒸留酒製造会社の地下に高さ7メートル、面積8000㎡の広大な地下セラーを完成させた。

 そして、恵まれた土地に限りない愛情を注ぎ、類まれなるセラーを利用し、この土地の素晴らしさを100%活かしたいという、ワインメーカーエリアス・ロペス・モンテロの考えは、自然と有機栽培にたどり着く。さらにそれは、伝統を重んじながら、効果的な新技術も積極的に取り入れるせい新が「真実」の探求につながっている。

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ホセ・ロペス・モンテロ W201H268           ホセ・ロペス 書籍 W200H268

 このワイナリー「VEURUM」であるロペス・モンテロ家には、祖ホセ・ロペス(José López Montero)によって語り継がれるトメリョソ(Tomelloso)の歴史書がある。
 その内容の中に天正遣欧少年使節が描かれている。これは祖ホセ・ロペスが家伝とされる代々に継がれた伝承を残そうとして記した歴史書だ。その一節に「El nombre de ese chico es Mancio. Como un mensajero del rey, Se trata de un niño japonés que llegó a España. Ahora, se dirigen a Roma.  あの少年の名はマンショという。国王の使者として、スペインに来た日本人の少年だ。今、ローマへと向かっている」と記し、ラ・マンチャ地方を南下してローマに向かう少年使節一行の旅姿を伝えている。

 1983年に、この古書の内容を確かめるべくしてM・クンデラはトメリョソにやって来た。
 またそこにはドン・キホーテの著者ミゲル・デ・セルバンテスと伊東マンショに関する故実についても記されている。「Prototipo de Don Quijote es Mansho.ドン・キホーテのプロトタイプはマンショである」と。つまりこの古書には、ドン・キホーテの源泉は伊東マンショの姿であり、それをセルバンテスが描き出したと書き記している。
 この事実を確認した私もまたそれ以降、ワイナリー「VEURUM」に度々訪れるようになった。

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 ワイナリー「VEURUM」の現代表醸造家Elías Lopez Montero(エリアス・ロペス・モンテロ)は広大な葡萄畑を見つめながら語る。
 VERUM BODEGAS Y VIÑEDOSは200haの葡萄畑を所有しているが、その中で最も良い葡萄を厳選して、毎年8万本だけVERUMのワインとなり得る、と。
 また石灰岩層は、この地域の絶対的な主役だと語るエリアスは、恵まれた土壌に感謝と敬意の心を常に忘れない。トメリョソの土壌は特殊で、とても貧しく、表土はたった25cm~30cmのみで、その下は、3mの厚みを持つ石灰岩層を基盤としているからだ。その根は石灰岩層につき葡萄を育て、丹念に手をかけることで特別な個性を与えられる。そしてエリアスはワインの醸造だけでなく、葡萄の作付から全ての指示を統括する。さらに絶滅の危機にさらされているこの地域の、アリビーヨ、モラビア、などの土着品種葡萄を作付してラ・マンチャの風土特性を守り続けている。

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 ワイナリーVERUMのあるトメリョソにはエリアス・ロペス・モンテロお勧めの特別なレストランがある。
 その「VINOS Y TAPAS」は、米料理が有名だ。
 何度かVERUMの白(ゲヴェルツトラミネール&ソーヴィニオンブラン)をチョイスした。エリアスの葡萄畑を見た後、この地元の料理とワインはまた格別である。
 特にチーズのサラダはレベル高い。じつに美味しい!アロスバンダ。米料理に定評があるのがまったくもって頷ける。アリオリと一緒にいただくと美味しさが一段と増す。この恵まれた自然の恩恵と、醸造家の匠の技が加わり、「VERUM」のワインが誕生したのだということを、実際訪れて実感することができた。

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 伊東マンショがローマへと向かうためマドリードを出発したのは1584年11月26日。
 その後、使節一行はスペインのラ・マンチャ地方を南下してアリカンテ港から出航するのだが、その1584年から429年の歳月が流れた(2013年現在)。

 翌2014年には430年となる。そして2019年には伊東マンショの生誕450年記念を迎える。上述したようにロペス・モンテロ家には、祖ホセ・ロペス(José López Montero)によって語り継がれるトメリョソ(Tomelloso)の歴史書がある。
 この歴史書はモンテロ家がラ・マンチャ地方の伝統文化を絶やさないよう代々の責務として保管してきたものだ。中世における天正遣欧少年使節一行のラ・マンチャ地方を通過する光景はこうしてトメリョソの人々の間で大切に語り継がれている。

 ワイナリー「VEURUM」の現代表Elías Lopez Montero(エリアス・ロペス・モンテロ)は節目となる2019年に向けて生誕450年記念に相応しい醸造家としてのワイン開発計画を明らかにした。
 この計画は今後6年の歳月をかけてVEURUMのプライドを指し示す商品開発となる。
 開発のテーマは「中世当時のラ・マンチャの醸造と風景」を掲げる。
 折しもこの完成予定年には、マノエル・ド・オリヴェイラ(Manoel de Oliveira)監督と世界的ベストセラー小説「ハリー・ポッター」シリーズの作者、J・K・ローリングの脚本による伊東マンショを主人公とする映画化の完成予定と重なるのだが、映画制作関係者もこのワイナリー「VEURUM」の記念ワイン開発は一連に関わる重要なプロジェクトと位置づける。
 そしてJ・K・ローリングは2013年7月、早速VEURUMを見学した。さらに完成したワインはローマ法王に届けられバチカンを祝福する一品となる。この期待を背負いVEURUMの蔵人らは6年間の試練場へと突入した。

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                      シリーズ連載・次回No.fileに続く
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三馬漱太郎

Author:三馬漱太郎
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Sotarou Miuma
立体言語学博士
Social Language Academy Adviser
応用社会言語科学研究員

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