スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

伊東マンショの正体を科学する No.0005

Ron.gifSO 50World.gif     地球 gif WH80
波動 gif W300漱太郎 1

Science to elucidate the identity of X 20
X 100伊東満所 文字3 W385
ライン黒 W600
伊東満所 資料5 W300H30マンショ関連の画像 スライドgif

マンショ広告 7 W600

          ゼブラ球 W100      ZERO 連gif辻斬りZ W100H100 gif

ほん1 W45H40 伊東満所 資料1  Dr Donut W40H40
 世界は大航海時代。日本は戦国「下克上」の世。同時期にキリスト教が伝来する。織田信長の比叡山焼き討ちのころに、また室町幕府が終焉しようとするころに、日向国一円に勢力する豪族の伊東家に数奇な運命を宿す一人の男児が誕生した。
 この男児が後に天正遣欧少年使節の正使となる伊東マンショ。
 だがこの人物についての実像を記す資料は今日に乏しい。その背景には当時の混乱と錯覚とが不遇にも交錯する日本史の実情がある。つまり記録として残せない深い闇の淵に置き去られた。
 No.2631ファイル・データはこの歴史人の正体に迫る研究をシリーズ構成でつづる資料コラム。中世の街道を往来した人物との交流を織り重ねながらマンショの足跡の真相を編集する。・・・・伊東満所

伊東満所 文字5
伊東満所 文字4 W600
ドン満所 gif H150   Mancio 100
ライン黒 W600

Mancio C W600

signbot (4)To science Mansho W303H40To science Mancio gif
ボストン W600
Xの正体

ライン黒 W600
四角錘あか  File No.5 マンショの望影と南蛮の道(
ライン黒 W600

     辻斬りZ W50H50 gif  ① 南蛮の道「スペインに透視するマンショの面影」
     ライン黄色 gif
         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

     伊東満所 文字7  Dr Donut W50H50 gif

     前回に引き続き司馬遼太郎の「司馬史観」に少し触れる。
     バスク地方からスペインのマドリードまで着いたホテルで、司馬遼太郎の『街道をゆく22南蛮のみち』(1984 朝日新聞社刊)を再び読んでいたら、その冒頭いきなり「こんなホテル」と吐き捨てる女性が登場して、その名前に、すこしばかりハッとなった。
 司馬や担当編集者らがパリ市内で泊まっている、団体客ご用達のアメリカ式巨大ホテルを「いやだねえ、そばまできて、帰ろうかとおもった」などと流ちょうな日本語で揶揄(やゆ)した、このフランス人女性は、名をカトリーヌ・カドゥという。司馬は取材コーディネーションをつとめてくれた彼女を、親しみをこめて「カトリーヌ嬢」と呼んでいた。このカトリーヌ・カドゥは、黒澤明の通訳をつとめたり、永井荷風の仏訳本を出したり(『おかめ笹』『腕くらべ』)と、語学力をいかした仕事が多いことで高名な女性だ。そしてフランスで長年日本映画の紹介や普及につとめてきた。

 このカトリーヌ・カドゥの監督した新作ドキュメンタリー映画が、近年開催中のカンヌ国際映画祭の〈カンヌ・クラシック〉部門で上映された(『Kurosawa, la voie』)。それは、ベルトルッチ、呉宇森、アンゲロプロス、キアロスタミ、宮崎駿、スコセッシら、世界各国11人の映画作家が、黒澤明の映画について語るというもの。クリント・イーストウッドが、「この日本人映画監督が第7芸術にどのような影響を与えたのか」とも説明しているのだが、偶然その彼女と最近お逢いした。

カトリーヌ・カドゥと司馬 W600
 司馬遼太郎記念館


 そこで司馬遼太郎に関するエピソードを一つ思い出した。 

 司馬遼太郎は『南蛮のみち』を、つまり、伝道師フランシスコ・ザビエルの故郷であるスペイン北部バスク地方をたずね歩く紀行文を書くのに、マドリーなどスペイン国内の都市ではなく、パリを旅程の起点としている。このスタートの仕方が、司馬らしくて面白いと感じる。そして司馬が「中世の民の巡礼のみちすじを模倣したのだろうし、ザビエルの留学先カルチェ・ラタンから遡行したかったのだろう」と連想していた。
 だがカトリーヌ・カドゥの話を聞いてみると「どうも、そう単純ではなそう」なのである。司馬がパリを始点にして南下する旅の発想は、旅の事前にカトリーヌ・カドゥとの出逢いがあったようだ。

 そこには『ザヴィエルの書簡抄』という書籍が深く関わっていた。

 司馬は旅の前にこの上巻を読了する。このことをカトリーヌ・カドゥが薦めたという。この上巻は(アルーペ神父、井上郁二訳、岩波文庫)。カトリーヌ・カドゥが話すには、彼女が和辻哲郎の「鎖国」からパジェスの本をへて、同系列の本の三つめだ。そして司馬は「どう旅の計画をたてるか、途中、いろいろ寄り道はしているけれども、いちおう今年の本筋はキリスト教関連のことになるだろうという予感がある。といっても、べつに殊勝な発心をおこしたわけではない。ただ、いままで縁遠かった宗教というものが少しだけ身近なものに感じられるようになってきたというだけのことだ」と言いつつパリに向かったということだ。

聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄 上巻 W600

 さて本書だが、まず「緒論」がすばらしい。サビエルといえば、だれでも名前くらいは知っているが、さて彼がどんな人物だったかを知る人は意外に少ないのではないか。多くの宗教者と同じく、彼にも回心があった。イグナチオ・デ・ロヨラとの出会いである。その間の経緯が、この「緒論」にくわしく書かれている。
 「緒論」だけでも読み物としてじゅうぶんにおもしろいが、これを読めばどうしてもつづく書簡集に読み進みたいという衝動にも似た思いが勃然とおこってくる。まことにイントロダクションとしては申し分ない。で、つづく書簡集だが、これにはいちいちその前に解説がおかれていて、また後に註がついている。この解説がまたすばらしい。それぞれの書簡の読みどころを的確におさえていて、後の註とあいまって間然するところがない。
 そして、書簡にみられるサビエルその人の面目はどうかといえば、これはもう信念の人というしかない。全身全霊、神の恩寵だか聖寵だかに満たされていて、彼がたどった地上の足跡だけみても偉観とするにたる。真の達人にあっては、観照的生活と活動的生活とがけっして矛盾するものではないことを、彼の全生涯が証明しているかのようだ。
 というわけで、この本は上巻がおもにインドでの布教を扱っていて、下巻ではいよいよ日本での伝道のことが語られる。サビエルその人の口から当時の日本の様子がうかがえるのだ。われわれにとっては書簡集の核心といってもいいだろう。ひとつつけ加えておくと、この本を読んでまた気になった本として、イグナチオの「霊操」と聖女テレジアの「霊魂の城」がある。

 『ザヴィエルの書簡抄』には日本人のことが次のように記されている。

 例えば「私達が今までの接触によって識ることのできたかぎりにおいては、この国民は、私が遭遇した国民の中では、一番傑出している。日本人はたいてい貧乏である。しかし、武士たると平民たるを問わず、貧乏を恥辱と思っている者は一人もいない。かれらには、キリスト教国民の持っていないと思われる一つの特質がある。―それは、武士がいかに貧困であろうとも、平民の者がいかに富裕であろうとも、その貧乏な武士が、富裕な平民から、富豪と同じように尊敬されていることである。彼らは侮辱や嘲笑を黙ってしのんでいることはない。日本人は妻を一人しか持っていない。窃盗はきわめてまれである」と。

 その後、ザヴィエルは各地を歩き、さまざまな質問に出会う。

 そして「日本人は私の見た他の如何なる異教国の国民よりも理性の声に従順の民族だ。非常に克己心が強く、談論に長じ、質問は限が無いくらいに知識欲に富んでいて、私たちの答えに満足すると、それを又他の人々に熱心に伝えてやまない」とある。

 そのザビエルは下野国足利庄五箇郷村(現・栃木県足利市)にあった学校、「足利学校」を「日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー(坂東の大学)」と記し、高く評価した(「イエズス会士日本通信」上)。

 足利学校


 ザビエルの日本での活動は京都以北での記録は無い。司馬遼太郎は「そのザビエルが、坂東の足利学校を評価するきっかけをどこで得たのか」に注目する。
 ザビエルは、全国での宣教の許可を『日本国王』から得るため、インド総督とゴアの司教の親書とともに後奈良天皇および足利義輝への拝謁を請願。しかし、献上の品がなかったためかなわなかった。また、比叡山延暦寺の僧侶たちとの論戦も試みるが、拒まれた。これらの失敗は戦乱による足利幕府の権威失墜も背景にあると見られ、当時の御所や京の町はかなり荒廃していたとの記録がある。
 京での滞在をあきらめたザビエルは、滞在わずか11日(約1カ月との説もある)で失意のうちに京を去った。山口を経て、1551年3月、平戸に戻る。
 ザビエルは、平戸に置き残していた献上の品々を携え、三度山口に入った。


 旅人・語り 杉本理恵子                              資料構成・監修: by Sotarou

 1551年年4月下旬、大内義隆に再謁見。それまでの経験から、貴人との会見時には外観が重視されることを知っていたザビエルは、一行を美服で装い、珍しい文物を義隆に献上した。
 献上品は、天皇に捧呈しようと用意していたインド総督とゴア司教の親書の他、望遠鏡、洋琴、置時計、ギヤマンの水差し、鏡、眼鏡、書籍、絵画、小銃などがあったとされる。
 これらの品々に喜んだ義隆はザビエルに宣教を許可し、信仰の自由を認めた。また、当時すでに廃寺となっていた大道寺をザビエル一行の住居兼教会として与えた(日本最初の常設の教会堂)。ザビエルはこの大道寺で一日に二度の説教を行い、約2カ月間の宣教で獲得した信徒数は約500人にものぼったという。
 また、山口での宣教中、ザビエルたちの話を座り込んで熱心に聴く盲目の琵琶法師がいた。彼はキリスト教の教えに感動してザビエルに従い、後にイエズス会の強力な宣教師となるロレンソ了斎であった。

 このロレンソ了斎1526年(大永6年)、肥前白石(現在の平戸市)にて生まれた。目が不自由であったため、琵琶法師として生計を立てていたが、1551年(天文20年)山口の街角でフランシスコ・ザビエルの話を聞きキリスト教に魅力を感じ、ザビエルの手によって洗礼を授かり、ロレンソという洗礼名を受ける。

ローマのイエズス会の古文書館に保存されているザビエルの手紙群 W600

 ロレンソはザビエルが日本を離れた後もイエズス会の宣教師たちを助け、キリスト教の布教活動に従事した。1559年(永禄2年)、コスメ・デ・トーレスの命を受けガスパル・ヴィレラと共に京に入り、苦労の末に将軍足利義輝に謁見し、キリスト教布教許可の制札を受けた。
 また、当時の京都の実質的な支配者だった三好長慶にも会い布教許可を得る。さらにキリスト教に対し好意的でなかった松永久秀が、宗論のためにヴィレラを自らの領地である奈良に招いた時には、ヴィレラ自身が赴くのは危険すぎるということでロレンソが派遣された。ここでロレンソは理路整然と仏僧を論破し、その疑問にことごとく答える。論議の審査のため、その場に居合わせた高山友照はこれに感心し、自らの城にロレンソを招き教えを請い、友照は子の高山右近や家臣などと共にヴィレラから洗礼を受けた。そのロレンソは1563年(永禄6年)に正式にイエズス会に入会、修道士(イルマン)となった。
 司馬遼太郎が推察するには「このロレンソが足利学校の歴史由来をザビエルに伝えた」とする。しかし、直接はそうなのであるが「発端を握るのは鹿児島のベルナルドであったろう」と結論に迫る。

 足利学校の創建年代については長らく諸説が論争となっている。
 しかし一応、平安時代初期、もしくは鎌倉時代に創設されたと伝えられる中世の高等教育機関で、室町時代から戦国時代にかけて、関東における事実上の最高学府であった。
 室町時代の前期には衰退していたが、1432年(永享4年)、上杉憲実が足利の領主になって自ら再興に尽力し、鎌倉円覚寺の僧快元を庠主(しょうしゅ、校長のこと)に招いたり、蔵書を寄贈したりして学校を盛り上げた。その成果あって北は奥羽,南は琉球にいたる全国から来学徒があり、代々の庠主も全国各地の出身者に引き継がれていった。第7代庠主、九華が北条氏政の保護を受けて足利学校を再興し、学生数は3000人と記録される盛況を迎えた。この頃の足利学校の様子を、キリスト教の宣教師フランシスコ・ザビエルは述べている。
 足利学校では入学者には僧俗、身分を問わず学徒名を与えた。
 7代の九華は学徒名で、実際は臨済宗の僧侶である。玉崗瑞璵(ぎょっこうずいよ)という名だった。九華は大隅出身で、伊集院氏の一族だ。大隅から遠く離れた北関東で足跡を残したことになるが、よほどの学識の持ち主だったのだろう。現在、同校の鎮守として稲荷大明神が現存しており、九華が再建したという棟札(むなふだ)が残っていて、棟札には「大隅産島津的孫伊集院一族瑞璵九華」と署名されている。

 これに至る経緯については、生前、その司馬さんより手紙を頂いた。その中で「ミステリー作家ではないので謎の人物として終わらしたのでは気質が萎える。正体の証は難しいが、正体には近づく限り近視眼者として尽くしたい」と語り遺された。やはりこの言葉に司馬史観の真骨頂が現れている。

司馬書簡より W600

 さらに司馬は「ザビエルの布教計画は後のイエズス会のそれとは一線を画すものであった」ことに強く関心を示した。

 ザビエルは日本人をヨーロッパに派遣し、キリスト教会の実情とヨーロッパ社会を知らせ、同時にヨーロッパ人に日本人のことを知らせようとした。しかし後続のフランシスコ・カブラルは日本人が外国語を学ぶことを許さなかったし、ヴァリニャーノが「日本巡察記」に「日本人にキリスト教も仏教と同じくいろいろな宗派に分かれていると知られると布教に悪影響を及ぼす恐れがある」と記し、ヨーロッパの宗教は統一されていると教えていた。
 ザビエルは同僚を通じてスペイン国王に「日本を占領することを企てないように」と進言する。そして堺にポルトガル商館を建て、自分がそこの代理人になってもいい、と書簡で書き送った。

 これらを確かめた後、司馬遼太郎はパリへと旅立った。

フロイスのひく杖に導かれるロレンソ了斎 W600

 だが司馬はそのパリに発つ1ヶ月前に鹿児島に立ち寄ることにした。

 司馬遼太郎には気がかりな人物が「足利学校の一件に絡み」一人いたのである。
 それが「ベルナルド」という鹿児島出身の日本人だ。イエズス会の記録にベルナルドという洗礼名のみ記録され、日本名は現在も知られていない。しかし彼こそが、日本人初のヨーロッパ留学生であり、日本人として初めてローマ教皇とも対面した人物なのだ。

 1549年8月15日に日本に到来したフランシスコ・ザビエルは鹿児島で宣教を行ったが、ベルナルドはザビエルから最初に洗礼を授けた日本人である。以降2年間、ベルナルドはザビエルに同行してその活動を支え続けた。

 ザビエルは1551年11月5日に日本を離れたが、このとき5人の日本人を帯同させる。ベルナルドもその一人であった(他の4人は大友義鎮の家臣であったとされる上田弦佐なる武士と、日本名不明のマテオ(山口出身)、ジョアン、アントニオという青年たちであった)。一行はマラッカからコチンをへて、1552年2月にポルトガルの東洋における拠点都市ゴアにたどりついた。

 1552年4月、中国入国を目指すザビエルは、ベルナルドらと別れてゴアを出帆、上田弦佐もこれに同行した。2人はその後別れ、上田は日本に帰り、ザビエルは上川島に入った。残ったベルナルドとマテオの2人はゴアでイエズス会学校に学んだが、マテオはゴアで病を得て世を去った(ジョアンとアントニオの2人のその後の消息は不明)。

ザビエル公園(鹿児島市) W600

 しかし、一人残されたベルナルドは、1553年3月にポルトガルに向けてゴアを出発する。同年9月にリスボンに到着した。長い航海の疲れからベルナルドは病床に就いたが回復し、1554年2月からコインブラの修道院で暮らした。イエズス会員としての養成を受けることになったベルナルドの様子については、長上からローマのイグナチオ・デ・ロヨラのもとに書簡で報告されていたが、ベルナルドの強い信仰心と真摯な姿を聞いたロヨラはベルナルドをローマへと招いたのである。この前に、フランシスコ・ザビエルは友人のイエズス会ポルトガル管区長シモン・ロドリゲスに宛てて次のような手紙をしたためている。「マテオとベルナルドはポルトガルとローマを見たくてインドまで私に着いてきて・・・彼らの望みは祖国に帰り、同胞にその話を聞かせる事・・・ベルナルドは私の日本滞在中に実によく面倒を見てくれ・・・我々の大切な友人であり・・・」と。


 こうしてローマ行きの指示を受けたベルナルドは、コインブラを発って1554年7月17日にリスボンを出発した。陸路スペインを抜け、バルセロナから船でイタリアにわたった。慣れない土地での長旅はベルナルドの体に負担を与え、ベルナルドは再び体調を崩したようだ。

コインブラ 2 600



 シチリアからナポリを経由したベルナルドがようやくローマに到着したのは1555年1月のはじめであった。ローマにおいてベルナルドはロヨラと対面しただけでなくローマ教皇パウルス4世への謁見をも許された。ローマにおいてロヨラは常にベルナルドの健康を気遣っていたという。

 約1ヶ月間ローマおよびその近郊に滞在して1555年10月18日、ローマを離れたベルナルドは海路スペインに向かい、そこから陸路をとってリスボンに戻ったのは1556年2月12日であった。再びコインブラにやってきたベルナルドはコインブラ大学などで学んでいたが、積年の疲労から再び床に就き、そのまま衰弱して1557年3月のはじめにコインブラの地でこの世を去った。

 司馬遼太郎は天正遣欧少年使節の以前に彼がいて「東洋から来たベルナルドの深い信仰と清い生き方は、ヨーロッパのイエズス会員たちにその死に至るまで大きな感銘を与えた」ことを出身の地である鹿児島で想いを馳せようと考えたようだ。

 ヤジロウの案内でザビエルはまず薩摩の薩摩半島の坊津に上陸、その後許しを得て、1549年8月15日に現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した(この日はカトリックの聖母被昇天の祝日にあたるため、ザビエルは日本を聖母マリアに捧げた)。
 同年9月には、伊集院城(一宇治城/現・鹿児島県日置市伊集院町大田)で薩摩の守護大名・島津貴久に謁見、宣教の許可を得た。ザビエルは薩摩での布教中、福昌寺の住職で友人の忍室(にんじつ)と好んで宗教論争を行ったとされる。日本人初のヨーロッパ留学生となるベルナルドにはこの時に出会った。
 このベルナルドがローマ教皇パウルス4世への謁見をも許されたのが1555年、それは伊東マンショが日向国に誕生(1569年)する14年前の出来事であった。

伊集院大田 5 W600

 「南蛮の道・・・司馬遼太郎語録
 ロヨラはバスク地方の小さな町の城主の子として生まれた。ロヨラは軍人だった。彼は30歳のときまでは世俗の虚栄におぼれていた。特に、むなしい大きな名誉慾を抱き、武芸に喜びを見出していた。

 1520年、フランス軍の侵入。かなりの間攻撃が続いたあと、一発の砲弾が彼のはぎに当たった。ロヨラは傷痍軍人として生家のロヨラ城に戻った。…かれは全身を他者に投与してしまうことを考え続けた。自分自身を一切否定し、それによって本来的な自分を生かそうと考え続けた。

 パリ大學でロヨラもモンテーギュ学院に入った。ザヴィエルを口説いてこれを僧侶にし、命も名も要らぬ勇者に仕立てねばならなかった。この間、ロヨラは同室のザヴィエルをつかまえては、説き続けていた。

 「私は、地上の英雄になりそこねた。いまはイエスのためにマリアのために騎士になろうとしている」と。

 「君、思いをひそめたまえ。君は学問をして浮世の栄達をもくろんでいるようだ。君ならきっと富も名誉も得るだろう。しかし全世界を得たところで、なにになる。生命が尽きればそれだけのことではないか。聖書にその意味の言葉があることをよく考えてもらいたい。<おれと一緒にやろう>」と。

 この旅の途上で思いかえしてみると、ロヨラがいなければ、更にロヨラが妖気をもってわがザヴィエルに迫る事がなかったなら、ザヴィエルが日本に来ることもなかった。
 イエズス会も存在しないし、こんにち、上智大学のキャンバスの中の多くの青春も、その場所には存在しない、ということになる。

 さらに司馬さんは語る。
弥陀は創造主ではないが宇宙における唯一絶対の存在である。その点で神と変わらず、また神は愛であり、弥陀が慈悲である点でも、変わらない。ただ親鸞における弥陀は、たとえ不信の者でも、むしろ不信の徒であればこそ追っかけても救う、という点が、ザヴィエルの神の厳しさと異なる。ただすべて救われるという親鸞的な世界には、偽善がないかわりに、敬虔、崇高、高潔、或いは純潔といった要素もすくないようであり、キリスト教とくらべ、美学的にはどこか寝転んでよだれを垂らしている感じがしないでもない」と。

 そしてバスクの現実の民族に直接触れて「<バスクは独立した国です。文化的にも……>と彼女はまずいった。<そこにいる人々は、誇り高い民です。ピレネーのフランス側の麓のバスクはフランス国の一地方ですが。しかしフランスは一度もバスク地方を植民地にしたことはありません。ですからフランス人としてはバスクに胸が痛まないのです。フランス人に少しもコンプレックスを持たさないというのは、たいした民族です。バスクは独立の文化を持っていますが、文化的にフランスやスペインから影響されることもなく、むしろ双方に影響を与えました>」と、いう末裔の言葉に、屹立として生きるバスク人の正体を垣間見た。

Mesa de los Tres Reyes 2 W600

Mesa de los Tres reyes メサ・デ・ロス・トレス・レジェス(三王の台地)

 現在のヨーロッパの人々は、ほとんどがその昔、中央アジアやコーカサスからからヨーロッパに移動してきた人々の子孫である。つまり、言葉や民族をはじめ、今日ヨーロッパ的なものといわれるものの根源は、ヨーロッパの土地の外から持ち込まれてきたことになる。
 そのなかで、バスク人はおそらく、もともとヨーロッパ(イベリア半島北部、もしかしたらフランスの一部も)に住んでいた古ヨーロッパ人の末裔、元からそこにいた人たちだった。

 バスク語をはじめとするバスク人のルーツはよく分かっていない。系統が同じ言語としては、これまでも、イベロ語(東地中海がルーツと思われるイベロ人の言語、非ヨーロッパ言語、イベリア半島に長く住んでいた)、北アフリカのベルベル語、コーカサスの非ヨーロッパ言語、北米にまで及ぶといわれるデネ・コーカサス大語族に属する言語、などが挙られてきたが、どれも仮説の域を出ず、現在はバスク語は系統の分からない孤立語、という意見が多数を占めている。語彙の研究から、氷河期を生きた古人類の直接の子孫ではないか、という意見もあるほどだ。

Mesa de los Tres Reyes 地図 W600

 バスク地方のスペイン側では、スペイン語以外にもいくつかの言語が公用語になっているが、そのひとつのバスク語は、バスク自治州全域とナバラ州の一部で話される言語である。
 スペインの他の公用語であるカタルーニャ語は、なんとなくスペイン語とイタリア語とフランス語のミックスのように感じるし、スペイン語とイタリア語とフランス語自体も、スペイン語に似ている部分が結構あるので、聞けばなんとなく内容を想像できたりするが、バスク語はどの言語とも似ていない不思議な言語なのだ。
 しかし聞きようでは、むしろ、響きとしては日本語に近いような気もする。
 このバスク語は、フランコ独裁時代には、カタルーニャ語などの他の言語と共に、使用を禁止されていた。特にバスクの大きな都市では統制が厳しかった。したがって現代の都市部の年配層のバスク人はバスク語をほとんど理解できない状況となっている。

 という話を司馬遼太郎は、取材旅をしたバスク地方のチョコレートショップで、60代くらいのご婦人から聞いている。これは私も同じように現地にて聞いた。逆に若い層は、学校で必ずバスク語を習うので、実生活で使わないバスク人も知識としてはバスク語を知っているという実情がある。ただし、学校で習うのは、標準バスク語で、村々で話される方言のバスク語に至っては通じず対応が難しい。

 そこで古来由しいバスク語を聞くには、メサ・デ・ロス・トレス・レジェス山(Mesa de los Tres reyes )の山麓に暮らすバスク人に求めることになる。司馬もその方向を訪ねるのだが、ザビエルが生まれたザビエル城周辺の山岳に等しい辺境の集落には現在でも確かなバスク語がしっかりと根付いている。

ザビエル直筆のサイン W600
 ザビエル直筆のサイン

 ザビエルとは、バスク語で「新しい家」の意味である。
 「Etxebarria(家 etxe)」+ 「新しい(barria)」のイベロ・ロマンス風訛りで、彼の生家である城(ナバラ王国・現ナバラ州、バスク語ではナファロア王国)の名でもあった。
 「Chavier」や「Xabierre」などとも綴られることもあるが、「Xavier」はポルトガル語で発音はシャヴィエル。当時のカスティーリャ語でも同じ綴りで発音はシャビエルであったと推定される。現代スペイン語ではハビエル「Javier」。ただし、彼はバスク語及びナバラ語のバイリンガルだった。
 かつて日本のカトリック教会では慣用的に「ザベリオ」(イタリア語読みから。サヴェーリョがより近い)という呼び名を用いていた(例:下記「聖ザベリョ宣教会」や「ザベリョ学院」)。その他日本では「サビエル」も用いられる(例:山口サビエル記念聖堂)。だが、現地バスク地方においてザビエルでは通じず、名はロマンス語読みに近いが姓はラテン語読みに近いために、カタカナ呼びにして「シャヴィエル」なら比較的通用する。

  私は現地のバスク人に何度もザビエルの名を確かめてみたが、そのとき新井白石の『西洋紀聞』に「むかし豊後国に、鬼怪ある家あり。ポルトガル人の来れるを、かしこに按置す。ポルトガル人、其壁上にクルスをかきしに、そのゝちは彼怪やみぬ。国司此事をきゝて、不思議の事におもへり。一年を経し後に、フランシスコシヤヒヱル来たりしかば、国司やがて、其法をうけしといふ。そのフランシスコシヤヒヱルといふは、ポルトカルの語也。ラテンの語に、フランシスクスサベィリウスといふ、これ也。」とある、この新井白石の言葉を想い起こした。

Basque Country: Identity



     辻斬りZ W50H50 gif  ② 南蛮の道「ドンキホーテとマンショとの交差」
     ライン黄色 gif
         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

     マンショ案内 7  Dr Donut W50H50 gif

Madrid.gif                       スペイン国旗 gif

     バスク地方から南下してスペイン国の首都・マドリードまできた。
 さて、ここから先は、司馬遼太郎の街道を行くと別れ、独自で訪ね歩いて発見したマドリードの見聞録とする。

マドリード・ストーリー B W600

マンショ広告 8 W600

 伊東マンショがスペインのマドリードに到着したのは1584年10月20日。
 そしてマドリードを出発するのが11月26日。
 その間に、サン・ヘロニモ修道院におけるスペイン皇太子宣誓式に参列し、またフェリーペ2世に謁見する。この約1ヶ月間のマドリード滞在において伊東マンショの周辺では一体何が生じたのか。彼はマドリード市民に美貌の眼差しを向ける。東洋の使節者に、市民らはそう感じた。

 このマドリードでの伊東マンショと出逢うには、少しイタリアへ余談の道草をして、先ず一人の人物のことを語らねば先に進めない。

 チンザーノ(Cinzano)は、イタリアの酒類製造会社である。ベルモットやスプマンテを製造し、1757年にチンザーノ家の兄弟が創業した。日本では(チンザノ)で知られ、そのチンザノと言えば社名ではなくベルモットの製品名をさすほどにチンザーノのベルモットは有名である。また、イタリアで初めてスパークリングワイン(スプマンテ)を製造した。写真左は「日本ではベルモットの代名詞的存在」であるチンザノである。そのチンザーノ社は1786年、時の権力者サヴォイア家の公式な納入業者となった。

チンザノとサヴォイア家の紋章 W600

 右上の写真はそのサヴォイア家の紋章である。その「Casa di Savoia」家は、かつてイタリアのピエモンテとフランス及びフランス語圏スイスにまたがるサヴォイア一帯を支配していた辺境伯貴族の家系であった。
 そんな家系を継ぎながら1713年、スペイン継承戦争の結果シチリア王国の王位を獲得、1720年にハプスブルク家とシチリア島、サルデーニャ島の交換を行い、サルデーニャ王国の王位を代わりに得た。イタリア統一運動時に核となり、統一後はイタリア王家となる。

 しかし第二次世界大戦後の1946年6月、王制の是非を問う国民投票により王制廃止が決定して共和制となると、一族は国外追放を余儀なくされた。イタリア憲法でサヴォイア家は2002年までイタリアへの入国を禁じられていた。
 そのイタリアの元王家であるサヴォイア家の一員「アイモーネ・ディ・サヴォイア=アオスタ」氏に初めてお会いしたのは三馬漱太郎が大学院を卒した初夏の軽井沢での奇遇なめぐり逢いからであった。
 氏は1967年の生まれであるから、当時は10歳ぐらいの少年である。そんな異国の少年にとって14歳ほど年齢差のある日本青年は気軽で格好の家庭教師的存在であったようだ。

アオスタ家 W600

 軽井沢には追分宿郷土館というものがある。
 追分宿は、江戸時代に「中山道と北国街道」の二つの道が合流する宿場町として繁栄した。その館内には、追分宿の旅籠・茶屋・問屋の民俗資料と近世宿駅制度を研究する上で重要な歴史資料、本陣土屋家の古文書等を中心に展示・公開している。氏とのめぐり逢いはそんな郷土館の入口での背中越しにあった。背後からふいに風音でも滑るごとく「Ciao !」と声かけられざまに肩口を軽くポンと叩かれた。以来、毎週土曜日の午後には日本語教師として氏の別荘に足を運ぶことになった。

 その少年が現在45歳のアイモーネ・ディ・サヴォイア=アオスタこと称号プッリャ公を名乗る生粋のイタリア人である。その氏名(Aimone di Savoia Aosta)をイタリア語全名で綴ると(Aimone Umberto Emanuele Filiberto Luigi Amedeo Elena Maria Fiorenzo di Savoia Aosta)となり、第4代アオスタ公アイモーネの直系の孫にあたる。2006年に父アメデーオ(第5代アオスタ公)がサヴォイア家家長・サヴォイア公を称するようになった。氏は現在、アオスタ公の公位継承予定者に与えられる称号プッリャ公(duca di Puglia)を名乗っている。

 袖すりあうも他生の縁というが、約30年の交流の期間でアイモーネ・ディ・サヴォイア=アオスタは一度も元イタリア王家の血筋にあたるとは口にしたことはない。漱太郎としては、近年ふいに称号プッリャ公を名乗られて面食らっている。そんな事とはつゆ知らず、1987年、彼が二十歳になる記念だと言ってスペイン旅行に招待されたのだが、その旅行時のことを、数年ぶりに再会した東京渋谷で、彼と会食を交わし楽しくチンザノで飲み明かしたこともあって、貴重な体験を一つ思い出す機会があった。
 彼と過ごしたその旅先がスペインのマドリードに通じ重なることになる。

Don Quijote de la Mancha W600

 Don Quijote de la Mancha. Capítulo 1.


 「Don Quijote de la Mancha」という著書をご存知であろうか。音読すると『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』となる。こう発音すると「ああ、あの」ミュージカル「ラ・マンチャの男」を思い起こされる方も多いはずだ。そうして日本人なら、きっと松本幸四郎の名演技を思い浮かべるであろう。
 この著作者ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラ(Miguel de Cervantes Saavedra, 1547年9月29日 アルカラ・デ・エナーレス ~1616年4月23日)は、中世スペインの作家である。

ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラ W600

 そのセルバンテスは、イダルゴ(下級貴族)の家の次男として生まれる。父は外科医であったため、セルバンテスはコンベルソ(カトリックに改宗したユダヤ教徒)ではないかという研究者もいる。

 彼は少年時代から、道に落ちている紙切れでも字が書かれてあれば手にとって読むほどの読書好きであったが、各地を転々とする生活であったので、教育をまともに受けられなかったという。

 だが1564年ごろ(伊東マンショが生まれる5年前)、マドリードに転居したセルバンテスはルネサンスの人文学者ロペス・デ・オヨスに師事することになる。後にオヨスはセルバンテスを「我々の親愛なる弟子」と呼び、高く評価した。1569年にローマに渡り、ナポリでスペイン海軍に入隊するまでの生い立ちについては、あまり解明されていない。
 この時期に、セルバンテスが決闘相手に傷を負わせた罪を告発する文書が残っているが、同名の別人かどうかは定かではない。
 セルバンテスはスペイン最盛期の象徴であるレパントの海戦(1571年)において被弾し、左腕の自由を失った後も4年間従軍を続けた。そして本国へと帰還する途中、バルバリア海賊に襲われ捕虜となる。

 このとき仕官のための推薦状を持っていたことが仇になり、とても払えない巨額の身代金を課され、アルジェで5年間の虜囚生活を送る。この間、捕虜を扇動して4回も脱出を企てるがことごとく失敗。
 このとき処刑されなかった理由は、推薦状により大物と見られていたためと思われるが、これも定かではない。ようやく三位一体会(キリスト教の慈善団体)によって身請けされ本国に戻ったが、仕官を願うも叶わず、1585年に彼の最初の牧人小説『ラ・ガラテーア』を出版するが、これはあまり評価されなかった。

 1585年に父親ロドリーゴが亡くなると、セルバンテスの家庭は本人・姉・妹・姪・妻・娘(私生児)の六人家族となり、稼ぎ手の少ない家計は逼迫した。セルバンテスは無敵艦隊の食料調達係の職を得てスペイン各地を歩き回って食料を徴発するが、教会から強引に徴発した罪で投獄され、さらに翌年アルマダの海戦で無敵艦隊が撃破されたため職を失う。

 その後なんとか徴税吏の仕事に就くが、税金を預けておいた銀行が破産、30倍の追徴金を負債として負うこととなり、これが払えず1597年に投獄されることになる。
 そのセビーリャの監獄の中で、彼は、ピカレスク小説『グスマン・デ・アルファラーチェ』(1559年)の作者マテオ・アレマンもいたというが、セルバンテスは『ドン・キホーテ』(1605年)の序文で、牢獄において構想したことをほのめかしている。

 その『ドン・キホーテ』の成功にもかかわらず、版権を安く売り渡していたため、生活は良くならなかった。しかし、その後も創作活動は続き、有名なものに『模範小説集』(1613年)、『ドン・キホーテ 後編』(1615年)、遺作『ペルシーレスとシヒスムンダの苦難』(1617年)などを世に送り出した。そうして彼は1616年、69歳でその波瀾に満ちた人生を終える。

 イギリスのシェークスピアと死亡した日が同じであるとされることが多いが、当時はヨーロッパ大陸とブリテン島とで異なる暦を使用しており、実際には同じ日ではない。これは、1582年にローマ教皇がユリウス暦からグレゴリウス暦へ暦の変更を決定し、大陸のカトリックやプロテスタントの国々が順次変えていったのに対し、当時のイギリスは、カトリック教会の権威が及ばないイギリス国教会が優勢だったために新しいグレゴリウス暦を受け入れることが遅れたからであった。

 そのような彼が死後に名が知られたわけではない。当時からスペイン語圏による世界的大文学者であった。同時代および後世に多大な影響を与えた。同時代人のシェイクスピアは『ドン・キホーテ』を読んでいたと言われる。チャールズ・ディケンズ、ギュスターヴ・フローベール、ハーマン・メルヴィル、フョードル・ドストエフスキー、ジェームズ・ジョイス、ホルヘ・ルイス・ボルヘスらは、影響を受けた文学者たちのうちのほんの一部である。
 そのセルバンテスの小説『ドン・キホーテ』をもとにしたミュージカル作品がラ・マンチャの男(Man of La Mancha)である。脚本デイル・ワッサーマン、音楽ミッチ・リイ。1965年にブロードウェイでリチャード・カイリー主演で初演され、ニューヨーク演劇批評家賞などを受賞、5年6ヵ月のロングラン公演を記録した。現在も世界中で公演されている。

Musical「ラ・マンチャの男」Man of La Mancha 近年の状況(ブロードウェイ・ミュージカル2002・03年)


 日本では1969年より松本幸四郎が主役を務める公演が名高いが、「市川染五郎」時代の1970年にはブロードウェイにわたって主役を英語でもこなしており、その熱演は今や伝説となっている。
 脚本は、セルバンテスが小説『ドン・キホーテ』を着想したのは、セビリアで入牢中であったという事実をもとにしている。セルバンテスと牢獄の囚人たちの現実、彼らが演じる劇中劇における田舎郷士アロンソ・キハーナの「現実」、そしてキハーナの「妄想」としてのドン・キホーテという多重構造となっている。当初はテレビドラマとして書かれた。これをミュージカルにすることを提案したのが製作者アルバート・シェルダンと演出家のアルバート・マールである。

ミュージカル「ラ・マンチャの男」 W600

 ちなみにこのミュージカルのあらすじを見てみよう。
 舞台は中世のスペイン。劇作家ミゲルデ・セルバンテスはカトリック教会を冒涜したという疑いで逮捕、投獄される。牢獄では盗賊や人殺しなど囚人たちがセルバンテスの所持品を身ぐるみはがそうとする。セルバンテスは、自分の脚本を守るため、「ドン・キホーテ」の物語を牢獄内で演じ、囚人たちを即興劇に巻き込んでいく。
 ミュージカル・ナンバーとしては、タイトル曲『ラ・マンチャの男~われこそはドン・キホーテ(Man of La Mancha - I, Don Quixote)』、ドン・キホーテが宿屋の下働きかつ売春婦のアルドンサを高貴な姫と信じて歌う『ドルシネア(Dulcinea)』などが知られる。なかでも『見果てぬ夢(The Impossible Dream)』は、本作品のテーマとして、中盤でドン・キホーテが歌い、ラストでも大合唱によって繰り返される。なお2001年に全米で巡業された公演では、1966年に『見果てぬ夢』をヒットさせた(ビルボードのチャート35位まで上昇した)歌手ジャック・ジョーンズ自身がドン・キホーテ(ミゲルデ・セルバンテス)役を演じた。

 しかしスペインでは「ドン・キホーテ」では通じない。(ドンは呼び掛けの称号のため)、定冠詞を付けて「エル・キホーテ」(el Quijote)と呼ばないと理解されにくい。

 また前編の正式な原題は「El ingenioso hidalgo Don Quijote de La Mancha(英知あふれる郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ)」という。
 セルバンテスは前編の序文の中で、牢獄の中でこの小説の最初の構想を得たことをほのめかしている。彼は生涯において何度も投獄されているが、おそらくここで語られているのは税金横領の容疑で入獄された1597年のセビーリャ監獄のことであろう。(ただし、「捕虜の話」など話の本筋ではない挿話のいくつかは、それ以前に書いたものである)。

 セルバンテスは釈放後、バリャドリードで多くの家族を養いながら前篇を書き上げ、1605年にマドリードのファン・デ・ラ・クエスタ出版所から出版した。
 おかげで前篇はたちまち大評判となり、出版した年だけで海賊版を含め6版を数え、1612年には早くも英訳が、1614年には仏訳が登場した。だが作品の高い評価にもかかわらず、版権を売り渡してしまっていたためセルバンテスの生活は依然困窮していた。
 後編は、Segunda parte del ingenioso caballero Don Quijote de La Mancha(英知あふれる騎士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ 第二部)として1615年に同じくファン・デ・ラ・クエスタ出版所から出版された。前篇と同様に大評判となったが、セルバンテスは相変わらず貧しいまま、ついに1616年に没した。

 前篇はセルバンテスの短編集としての色合いが濃く、作中作「愚かな物好きの話」(司祭たちが読む小説)、「捕虜の話」、「ルシンダとカルデーニオの話」など、ドン・キホーテとは直接のかかわり合いのない話が多く挿入されている。また、前篇の第一部(ドン・キホーテ単独の一泊二日の遍歴)も、ひとつの短編小説としての構成をもっている。後編ではこの点を作者自身反省して、そのような脱線を無くしている。

 この物語をもう少し詳しく述べると、ラ・マンチャのとある村に貧しい暮らしをする郷士が住んでいた。
 この郷士は騎士道小説が大好きで、村の司祭と床屋を相手に騎士道物語の話ばかりしていた。やがて彼の騎士道熱は、本を買うために田畑を売り払うほどになり、昼夜を問わず騎士道小説ばかり読んだあげくに正気を失ってしまった。

 狂気にとらわれた彼は、みずからが遍歴の騎士となって世の中の不正を正す旅に出るべきだと考え、そのための準備を始めた。古い鎧を引っぱり出して磨き上げ、所有していた痩せ馬をロシナンテと名付け、自らもドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャと名乗ることにした。
 最後に彼は、騎士である以上思い姫が必要だと考え、エル・トボーソに住むアルドンサ・ロレンソという田舎娘を貴婦人ドゥルシネーア・デル・トボーソとして思い慕うことに決めた。

 その用意がととのうと、彼はひそかに出発した。
 冒険を期待する彼の思いと裏腹に、その日は何も起こることなく宿屋に到着した。宿屋を城と思いこみ、亭主を城主だと思いこんでしまっていたドン・キホーテは、亭主にみずからを正式な騎士として叙任してほしいと願い出る。亭主はドン・キホーテがいささか気の触れた男であることを見抜き、叙任式を摸して彼をからかうが、事情を知らない馬方二人が彼の槍に叩きのめされてしまい、あわてて偽の叙任式を済ませた。

 翌日ドン・キホーテは、遍歴の旅にも路銀や従士が必要だという宿屋の亭主の忠告に従い、みずからの村に引き返すことにした。だが途中で出会ったトレドの商人たちに、ドゥルシネーアの美しさを認めないという理由で襲いかかり、逆に叩きのめされてしまう。そこを村で近所に住んでいた百姓に発見され、ドン・キホーテは倒れたまま村に帰ることになった。

 打ちのめされたドン・キホーテの様子を見た彼の家政婦と姪は、この事態の原因となった書物を残さず処分するべきだと主張し、司祭と床屋の詮議の上でいくつか残されたものの、ほとんどの書物が焼却され、書斎の壁は塗りこめられることになった。
 やがてドン・キホーテが回復すると、書斎は魔法使いによって消し去られたと告げられ、ドン・キホーテもそれに納得した。遍歴の旅をあきらめないドン・キホーテは近所に住む、いささか脳味噌の足りないサンチョ・パンサという農夫を、手柄を立てて島を手にいれ、その領主にしてやるという約束のもと、従士として連れていくことにした。ドン・キホーテは路銀をそろえ、甲冑の手直しをして二度目の旅に出た。

 やがてドン・キホーテとサンチョは3~40基の風車に出くわした。
 ドン・キホーテはそれを巨人だと思いこみ、全速力で突撃し、吹き飛ばされて野原を転がった。サンチョの現実的な指摘に対し、ドン・キホーテは自分を妬む魔法使いが、巨人退治の手柄を奪うため巨人を風車に変えてしまったのだと言い張り、なおも旅を続けるのだった。

 以上、物語の概要である。

 Documental - Don Quijote de la mancha.


 こんな小説を成したミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラという男について熱心に語る若かりしプッリャ公に三馬漱太郎は大いなる興味を抱いた。
 そして二十歳のプッリャ公と約2週間ほどスペインに滞在しドン・キホーテに関する周辺を二人で調査する。すると1597年のセビーリャ監獄当時のこと、その一つの真相にたどり着いた。

Don Quijote de la Mancha B W600

 
     辻斬りZ W50H50 gif  ③ 南蛮の道「ドンキホーテと複層するマンショ像」
     ライン黄色 gif
         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

     マンショ案内 7  Dr Donut W50H50 gif

 今となっては松本幸四郎の名セリフ「事実とは、真実の敵である」という言葉が実感として身に沁みるのである。
 その監獄の当時、ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラが獄内で目にしたものが「天正遣欧少年使節」に関する古いイタリアの新聞記事であった。
 1597年といえば、遣欧少年使節が帰国して7年後のことであるが、当時どうやらスペインのセビーリャ監獄で、これは新鮮な話題のようであったようだ。

 中世の当時は情報伝達も現代と違いかなりスローなのである。
 セルバンテスは監獄の中でその新聞を何ども読み返すうちに、無敵艦隊の食料調達係の職を得てスペイン各地を歩き回って食料を徴発していた時期のことを思い出した。

 セルバンテスはマドリードの街角で日本という未知なる遥かな国から国王の使者としてローマへと向かおうとする遣欧少年使節と遭遇もしたし、フェリペ2世との謁見話も聞き及んでいた。そんな記憶を新聞の内容と照らし合わせると、街角でみた少年使節の風貌が鮮明なものとなって現れた。

 1547年生まれのミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラは、伊東マンショよりも22歳も年上である。その彼が遺した手記に、そのような内容がある。この手記を発掘するまでの経緯や保管実態については後で述べることにしたい。

 またそこには「Mancio、ああ、彼こそが真実のキホーテだ」と書き記されている。どうやらセルバンテスは監獄でみた新聞記事から発想を得て、また記憶の中に眠る少年使節者の珍像をもって『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』の構想を大きくしたようである。
 つまりセルバンテスは東洋からの正使者・伊東マンショの風姿をお手本とし「みずからが遍歴の騎士となって世の中の不正を正す旅に出るべきだ」と考えるドン・キホーテなる男を創作したことになる。
 この物語では現実と妄想が複雑に交錯するのだが、ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラは東洋人の神秘性に触れて遥かなる国からの旅人・伊東マンショの現実を自身の妄想の中に置いた。

マンショimage 1 W600
マンショimage 2 W600
         

 人間の言葉とは新しく進化する。その言葉からは時代の生々しい観念がみえてくる。そこでスペインの中世を論じる場合に考察してみたい造語を一つご紹介したい。それは「リブロ・エスコルソ」という表現である。

ホセ・オルテガ・イ・ガセト W600

 ホセ・オルテガ・イ・ガセト(José Ortega y Gasset)というスペインの哲学者がいた。彼は1883年5月9日にマドリードに生まれる。そうして1955年10月18日までを生きた。このオルテガが、こう書いている。「ドン・キホーテは観念の密林だ、リブロ・エスコルソだ」と。そのリブロ・エスコルソという言葉は「書物がもつ遠近法世界」といったことをいう。書かれた当時、そんな言葉はなかったのであるから、おそらくはオルテガの造語だろう。オルテガはこの造語を用いて『ドン・キホーテ』は書物のなかに観念の密林をすべて入れこんだだけでなく、その見方のパースペクティヴを「世界」としてつくったというのだ。
 このように何とも不可思議な解説を加えるのだが、後半は、このオルテガのいうリブロ・エスコルソの遠近空間を通して伊東マンショの旅をたどり寄せてみることにする。

マンショimage 3 W600

 オルテガはスペインを「世界」にしたのは『ドン・キホーテ』だったという。
 しかし、こういう見方はいくつもあった。91歳で亡くなった現代スペインを代表する詩人ダマソ・アロンソも、「スペインのすべてが『ドン・キホーテ』にこめられている」と書いた。
 であるから、その世界である「スペインの密林」に足を運ばねばならなくなった。それらは、かの江戸川乱歩の屋根裏からのぞきみる夜の散歩者の気分でもある。

 スペインの密林をそっと歩き始めると色彩が見えてきた。漱太郎にとってスペイン・バロックは憧憬と謎と暗合に満ちている。そうして、かたやドン・キホーテの「ミゲル・デ・セルバンテス」がいて、かたやスペイン文化のマニエリスムを代表する詩人「ルイス・デ・ゴンゴラ」が机の上の左右にいるようだ。

ルイス・デ・ゴンゴラ W600

 ゴンゴラは1561年の生まれ、二人は15歳くらいしか離れていない。そこにセルバンテスの5歳年上のマニエリスムの巨匠として知られる画家「エル・グレコ」がクレタ島から渡ってきて入りこみ、最後にセビリヤに、かのマネが「画家の中の画家」と呼んだ「ディエゴ・ベラスケス」が宮廷をほしいままのようにして登場する。

エル・グレコ W600

ディエゴ・ベラスケス A W600

 この4人に机上が占有されてみると、これはいったい何なんだというほどのスペイン・バロックの甘美で苛烈な開闢(かいびゃく)である。この一連の動向こそが、その後の近世ヨーロッパの秘密の大半を握る物語芸術の原点だった。

 なかでもセルバンテスの役割はとびぬけていた。『ドン・キホーテ』という大部の書物はスペインという民族の記憶の国家にさえなった。
 こうなるとドン・キホーテの世紀と呼んでいい。
 その世紀とは、『ドン・キホーテ』の前篇が刊行された1605年をはさむ数十年にわたる年代のことをさす。帝国スペインの太陽が昇り、世界を照らし、そしてその太陽が秋の落日のごとく沈んでいった時代なのである。つまりこの渦中で伊東マンショも生きたことになる。そうしてその渦中こそがオルテガのいうリブロ・エスコルソの遠近空間に広がる密林なのであった。

 カルロス1世に始まりフェリペ2世に継がれたハプスブルク朝スペイン帝国は、地中界世界を制して絶頂期を迎えると、南米にも次々に植民地を広げ(これがインカ帝国滅亡につながる)、1571年にはオスマントルコ軍をレパントの海戦で破って「太陽が沈まない国」と言われるまでに膨れあがった(フェリーペ2世はポルトガルも併合した)。

 24歳のセルバンテスにとっても、レパントの海戦は兵士として参加できた生涯の最も忘れえぬ一戦となっている。キリスト教カトリックの大義を守るために命を賭して闘ったということは、セルバンテス最大の誇りなのである。しかもこのとき戦火に左腕を失って「レパントの片手男」という異名をとったことも、セルバンテスの大いなる自慢となった。

 けれども栄光もそこまでだった。
 それから僅か17年後、スペインの無敵艦隊はエリザベス1世のイギリス艦隊に木っ端微塵に敗れてしまう。これをきっかけにスペイン帝国の凋落が始まった。

 以降、植民地も次々に失っていく。しかしそれを含んでなおこの時代は、セルバンテスとゴンゴラとエル・グレコとベラスケスの時代、すなわちドン・キホーテが旅した空想の世紀なのである。
 スペインが世界史上唯一の栄光と挫折を体験したことがドン・キホーテの世界をつくったとすれば、また伊東マンショも同じ空間を垣間見たことになる。
 このような意味でドン・キホーテと伊東マンショは一体なのである。

 スペインにおける『ドン・キホーテ』の意義は、こうなると日本人が想像をしていたよりもはるかに大きい日本人の意義となろう。スペイン語のインテリジェレは「中を見る」「内部を読む」という意味をもっているようだが、まさに『ドン・キホーテ』はスペインのインテリジェンスそのものなのである。
 同じく『伊東マンショ』は日本のインテリジェンスそのものなのであった。いや、必ずしも知性という意味だけではない。それもあるけれど、ありとあらゆる意味をこめた“最大級の情報戦略”という意味におけるインテリジェレになっているようだ。

 そもそも『ドン・キホーテ』は、物語のなかで物語を追慕するという構造を現出させている。
 作中人物ドン・キホーテは自分の過去の物語を書物にしながら進む騎士であり、その書物を抱えたドン・キホーテの体験を、セルバンテスが次々に新たな物語にして『ドン・キホーテ』という書物にしていった。
 そういう重層的追想構造になっている。
 ここにすでにバロックの萌芽が見られるのは言うまでもないけれど、そこにはさらに、民族が体験すべき国家的情報の記録がその情報の物語化を進めるという戦略的インテリジェンスを萌芽させていた。こうした戦略性の中に立たなければ伊東マンショの意義はみえてこない。

 だから『ドン・キホーテ』はふつう評されるような騎士道パロディの物語なのではない。
 パロディであったとしても、そこにはアナロギア・ミメーシス・パロディアの3原則のすべてを織りこんだパロディア・オペラというべきだし、しかも、そのようなアナロギア・ミメーシス・パロディアは、スペインという帝国の隆盛と衰退に対応し、そこで退場せざるをえなくなっていった「騎士の本来」の物語ともなりえていた。こういう文学はめったにない。

 たいへんな計画だったのだ。尋常ではない構想だったのだ。まさにスペインそのものをバロックにしてしまう、すぐれて知的な魔術であった。

 セルバンテスはどうしてそのようなスペインのインテリジェレをこめた『ドン・キホーテ』を書く気になったのか。このことに関しては、要因の一つが伊東マンショにあることには触れた。
 すでにセルバンテスが予想外ともいえるほどの歴史知識や宗教知識の持ち主だったことはわかっている。また、エラスムスの人文主義にも、ウェルギリウスからアリオストにおよぶ古代ローマこのかたの劇作や劇詩に通じていたことも証されている。

 しかし、そういうことだけでは、セルバンテスがどうして『ドン・キホーテ』を書く気になったかという説明はできない。インテリジェレとしての『ドン・キホーテ』が生まれた理由はわからない。それを理解するには、ひとまずはセルバンテスの波乱に富んだ生涯を追ったほうがいいだろう。なぜならセルバンテス自身がドン・キホーテそのものの二重化されたインテリジェレだったのだから・・・・。

 『ドン・キホーテ』を最初に読む場合、誰もが経験することなのだが、ともかく物語を追うことだけを使命にしたようなアサハカな読書で、いっこうに深まらないで終わる。また、これはなんだか数ページすら体に入ってこなかった(こういうこともよくある)。しかしその後にグスタフ・ルネ・ホッケの『文学としてのマニエリスム』でルイス・デ・ゴンゴラのバロック魔術、いわゆるゴンゴリスモに毒されてみると、さらにその後に幻惑のスペイン・バロックを形象しえた表象の歴史の秘密を知りたくて、バロック逍遥を悠然と楽しみたくなるのだが、ここに至ると、そこにいっこうに『ドン・キホーテ』が入ってこないのが無性に気になってくる。そうして、やっとひとこごちがつくのは、ギュスターヴ・ドレの稠密なエッチングが作り出した『ドン・キホーテ』を見てからのことではないか。おそらくは少しの真髄に触れるためには、長いトンネルとなる。ともかくも、こうしてドン・キホーテ体験がやっと始まるわけである。

 それでも『ドン・キホーテ』の密林を読むには著者セルバンテスの生涯が絶対に欠かせないことは、強調しておきたい。そのようなとき、岩波文庫に半世紀ぶりに新訳をもたらした『反ドン・キホーテ論』や、それをくだいた『ドン・キホーテの旅』などを参考になさるといい。新しい考察が試されている。

 それではこれよりセルバンテスが『ドン・キホーテ』を書きあげるまでのことをざっと綴ってみたい。彼はまさに波瀾万丈の人生だ。しかし、これで彼がドン・キホーテになれたことが分かる。
 ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラは、1547年にマドリード近郊の大学の町アルカラ・デ・エナーレスに生まれて、徳川家康やシェイクスピアと同じ1616年に死んでいる。ちなみに伊東マンショが長崎で病死したのはその4年前の1612年である。

アルカラ・デ・エナーレス W600

 Alcalá de Henares
 スペインの首都マドリード市内から35キロ、アルカラ·デ·エナレスはユネスコの世界遺産。
 15世紀末から16世紀初頭にシスネーロス枢機卿の発案により大学都市の建設が始まり、1499年にサン・イルデフォンソ学校が創設された。ヨーロッパのほかの大学都市とは異なり、アルカラ・デ・エナーレスでは最初から町全体が大学都市として計画されたことが特徴である。その後も大学施設が拡充され、学術・文化の中心地として発展を遂げた。



 父親ロドリーゴはイタルゴ(下級貴族)で、外科医をやっていた。
 外科医といっても当時は傷の手当をしたり、刺絡や罨法(あんぽう)をほどこす程度のもの、まともな医師とはみなされてはいない。おまけに父親はひどく耳が悪く、一家はかなり苦しい生活を強いられた。そのためいつも借金をせざるをえなくなるのだが、打開のためにバリャドリードに引っ越したりするものの、父親は借金の手続きの悪さで投獄されてしまった。

 貧しい日々をへたのち、フェリーペ2世が首都をマドリードに移した1561年に、セルバンテス一家もマドリードに引っ越した。14歳のときである。そのころのマドリードは騎士道精神が熱狂的にもてはやされる町だった(これがのちの『ドン・キホーテ』の発端になる)。

 15歳になってセビリヤのイエズス会の学校に学んだ(セルバンテスはけっこう誠意のあるキリスト教徒)。セビリヤは詩人フェルナンド・デ・エレーラや劇作家ローベ・デ・エルダが人気を集めていて、セルバンテスはその目眩く劇詩の魅力にも引きずりこまれた(このあたりから自身の内なる作者性にめざめていったのだろう)。

 やがてマドリードに戻ったセルバンテスは、21歳のときに人文主義者ロペス・デ・オーヨスの私塾に入り、ここでエラスムスにどっぷり浸かった(このときのエラスムスへの傾倒はのちの教養の広がりとなる)。が、それもつかのま、セルバンテスはある男に重傷を負わせたかどで逮捕され、右腕の切断と10年間の流刑を言い渡されるという事件に巻きこまれた。

 ここから彼は片腕一本の半生を歩むことになる。
 なんとか這々の体で逃亡したらしいのだが、その逃亡の行き先がローマであったというところが、これまたのちのちのセルバンテスの文芸的素養の発揚にとって欠かせない体験になった。
 さる枢機卿の従僕になったのだが、その時期にウェルギリウス、ホラティウスからアリオスト、サンナザーロ、カスティリオーネなどを読み耽っていた。この読書はとびきりだ(実はセルバンテスは長らく諧謔だけの作家だと思われていたのだが、アメリコ・カストロが『セルバンテスの思想』を発表して以降は、セルバンテスがただならない知識人でもあったということになった)。

Madrid W600

 Leisure Tourism in Madrid

 彼の脳裡ではローマの体験はさらに初期バロック的に旋回していく。1570年、イタリア駐在のスペイン軍に入隊すると、ローマ、ナポリ、ミラノ、フィレンツェに駐留し、ルネサンス最後の残香を胸いっぱいに吸いこみ、そこに高揚していたマニエリスム(方法主義)を嗅ぎつけた。

 そのときである、法王ピオ5世が地中海を挟んで対峙してきたオスマントルコ軍とのあいだに戦端をひらくことを決意した。法王は法王庁・スペイン・ヴェネツィアの連合艦隊(いわゆる「神聖同盟」連合軍)の司令官に、スペイン国王フェリーペ2世の異母弟であるド・フワン・デ・アウストゥリアを任命した。弱冠24歳のこの司令官は、23歳のセルバンテスにとっては恰好の憧憬の的となる(むろんドン・キホーテのキャラクターに反映された)。

 やがてトルコ軍がキプロスを占領し、戦乱の火ぶたが切って落とされた。
 こうして翌年、あのレパントの海戦となり、セルバンテスは左腕に名誉の負傷を受け、おそらくは義手の男となったのだ。が、さきほども述べておいたけれど、セルバンテスはそれが自慢なのである。そんな戦歴には褒賞も贈られた。
 25歳、青年の勢いはますます高揚していった。今度は名将ローペ・ムデ・フィゲローアの率いる歩兵部隊に所属すると、またまたトルコとの戦火の只中に突進する。ローペ将軍はレパントの海戦でまっさきにトルコ軍の旗艦に飛び込み、敵の司令官の首を刎ねた猛将だった。ドン・キホーテが真似ないわけがない。

 かくてスペイン艦隊の一員として各地を転戦したセルバンテスは、28歳になった1575年、ガレーラ船「太陽号」(エル・ソル)に乗りこみ、船団を組んでナポリから出港すると意気揚々の凱旋帰国の途についた。

 ところが運命というものは怪しいもの、この船団がフランス海岸の沖で海賊船に襲われてしまう。セルバンテスらはことごとく捕虜となり、あまつさえセルバンテスの軍鞄にはナポリ総督の推薦状が入っていたため、大物とみなされて巨額の身代金を留守家族に課せられた。

 この海賊の一団はすべて背教者たちである。
 それゆえ、捕虜たちはキリスト教徒として幽閉されるか、ガレーラ船の漕ぎ手として駆り出されるか、つまりは徹底して奴隷扱いされた。すでにアルジェの一画には、そうしたキリスト教徒が2万5千人も収容されていたという。片腕が義手だったセルバンテスは奴隷のほうにまわされた。

 こうして5年にわたる奴隷生活が強いられる。セルバンテスは果敢にも4度にわたる脱走を試みるのだけれど、ことごとく失敗する。
 ここまでが「ドン・キホーテの夢」そのものであったセルバンテスの栄光の前半生である。ここからは身代金を払わざるをえなかったこともあり、33歳以降のセルバンテス一家はかなり悲惨な日々をおくる。 そして今度は、ドン・キホーテの「負の認識」のほうが蓄積されていく。

 祖国スペインのほうは、こうしたセルバンテスの変転する境涯をよそに、さらに大帝国に向かっていた。フェリーペ2世がポルトガルを併合して、首都をリスボンに移していた。中庸になっていた男は焦った。
 セルバンテスはなんとか生活の糧を得るため、スペイン無敵艦隊の食糧を調達する徴発係にもぐりこむ。セビリヤ、コルドバ、ハエン、グラナダの各地を巡っては、小麦・大麦・オリーブを集める仕事に精を出してみた。途中、この当時の食糧徴発は教会や教会領の産物からの徴発が多いため、各地の教会とつねにいざこざがあり、セルバンテスも二度に渡って破門されるという憂き目を負った。

 そのさなかの1588年、スペイン無敵艦隊がイギリス艦隊に撃沈されたのだ。セルバンテス41歳の7月のことだった。絶頂などというものは、決して持続するものではなかったのだ。時代は大英帝国の時代になっていった。
 むろん軍隊での仕事はすっかりなくなった。もはやすべてのことを変更しなければならなかった。やむなくマドリードで俳優になったり、セビリヤで宿屋の雇われ主人などをした。そしてこの時期、ついに自分は劇作をめざす執筆で身をたてることをひそかに決意したようなのだ。ロマンセを書いたり、セビリヤの興行主と6本の戯曲を書く契約などをしたり、48歳のときになるが、サラゴサの詩作コンクールで入賞したりしている。セルバンテスは非実行者になったのだ。

 しかし非実行者になってみると、実行者の存在というものが実に恨めしい。そのような眼鏡でみると思い出された「伊東マンショ」という東洋の実行者がまことに夢のように恨めしくなった。そこで彼はいまさら実行者にはなれずとも虚構の執行者にはなれるという予感めくものを働かせるようになる。

 さて、ここから先は54歳ころに『ドン・キホーテ』前篇を執筆しつづけ、1605年の58歳のときにその前篇が出版され、さらに10年をへた68歳のときに後篇を出版し、その翌年に永眠するという後半生になるのだが、それは「セルバンテスがドン・キホーテになる」という一事にすべて集約されていることなので、あえて事跡を追うこともないだろう。ずっと苦しい生活が続いていたと思ってもらえばいい。

 かくして、今回の渉猟は、いよいよセルバンテスにとっての『ドン・キホーテ』がどういうもので、それがスペインにとっての、そして日本人のわれわれにとっての何であったのかという、その話になってくる。

 かつてドストエフスキーは『ドン・キホーテ』のことを、「これまで天才が創造した書物のなかで最も偉大で、最も憂鬱な書物だ」とも、「これまで人間が発した最高にして最後の言葉である」とも評した。

 べつだんドストエフスキーに従う必要はないけれど、この指摘はかなりイミシンである。つまり、かって放浪の苦悩のなかの街角でみた伊東マンショの堂々たる姿は、まして少年でもあり憂鬱なのである。「偉大で、憂鬱」「最高にして、最後」とは、そこに正と負にまたがる告示があるということだ。

 そこには少なくとも別々の価値をもつ物語が二つ以上あるということ。一つの世界しかあらわさなかったルネサンスを脱却したのがバロックであった。ルネサンスが円の一つの中心をめざしたのに対して、バロックは楕円の二つの焦点のように、複数の中心をもちかかえることを選んだ。
 ドストエフスキーが『ドン・キホーテ』に正と負の両方の価値を見だしたのは、そこだったろう。ドストエフスキーにとって『ドン・キホーテ』はすでにあまりにも激越な二つの対比構造を告げていたのであろうと、漱太郎は思っている。

アンドレ・マルロー W600

 アンドレ・マルローには、心が狭くなったり苦しくなったりするときに読む本が3冊あったらしい。それが『ドン・キホーテ』と『ロビンソン・クルーソー』と『白痴』だった。これもすこぶるイミシンだ。マルローは伊達や酔狂でものごとの価値を口にはしない男だ。そのマルローが伊達や酔狂の文学とも思われてきた『ドン・キホーテ』を、『白痴』と並べたのだ。そこにダニエル・デフォーも入ってくる。これについては『モル・フランダーズ』を読んでもらえばわかるだろう。

 ハインリッヒ・ハイネは生涯にわたっておそらく数度、ウィリアム・フォークナーは毎年必ず『ドン・キホーテ』を読んだという。これもやはりイミシンだ。ハイネの民族の血液と革命の旗印の問題、フォークナーの滾る憎悪と逆上を想像すれば、そのイミシンの意味が伝わってくる。

 日本人でここまで『ドン・キホーテ』に熱意(ZEST)をこめた作家はいないようだけれど、かように『ドン・キホーテ』は世界中の大物たちをゆさぶってきた。

 それくらい、『ドン・キホーテ』は巨怪なのである。しかし、過不足ないところをいえば、ミラン・クンデラの見方が最も妥当なのではないかと思われる。今回は、そのことにも注目してみたい。クンデラは『小説の精神』の「不評を買ったセルバンテスの遺産」というエッセイで、次のようなことを書いている。それを簡素に要約しておく。
 《 フッサールとハイデガーによって、世界に何かが欠如したままになっていることがあきらかになった。それは「存在の忘却」という問題である。これは「認識の熱情」の現代的高揚とともに、それとは裏腹に喪失しつつあるものだった。「認識の情熱」なら、デカルトこのかたいくたびも視点と方途を変えて盛り上げてきた。けれども「存在の忘却」はデカルト的なるものではまったく掬えるものとはなってこなかった。

 これを掬ったのは、おそらくセルバンテスの『ドン・キホーテ』なのである。世界を両義的にものとして捉え、絶対的な一つの真理のかわりに、互いにあい矛盾するかもしれない二つ以上の相対的な真理を掲げ、そこに刃向かうすべての主義主張と幻影に対決していくということを教えたのは、唯一、セルバンテスの『ドン・キホーテ』だったのである 
》と。

 こうしてクンデラは、「私が固執したいことはただひとつ、セルバンテスの不評を買った遺産以外のなにものでもない」と結んだ。『小説の技法』の草稿には、さらにこんな一節がある。

 《 かつて宇宙とその価値の秩序を支配し、善と悪を区別し、個々のものとに意味を付与していた神がその席を立ち、ゆっくりと姿を消していったとき、馬にまたがったドン・キホーテが、もはやはっきりと認識かることができない世界に向かって乗り出した。「至高の審判官」がいなくなったいま、世界はその恐るべき曖昧性(多義性)をあらわにしたのである。こうして、唯一の神の「真理」が解体され、人間によって分担される無数の相対的真理が近代に向かって散らかされたのである。そしてそれとともに、その世界のイメージであってモデルであるような小説が生まれたのである。だが驚異は引き続き小説のモデルに根源を含ませていた。そのモデルが日本の少年とするのだから神の真理は再び解体される。実際にみたそのモデルによって、また分担される無数の相対的真理が近代に向かって散らかされたのである。 》と。
ライン黒 W600
 上の文字で押さえた「そのモデルが日本の少年とするのだから」とする事項をクンデラが何処からこれを引き出したのか、今回の重要な事項となる。その鍵をマドリードで発掘し追跡することになるのだが、少々複雑となる。先ずクンデラという人物の周辺を執り上げる必要もあり、これは次回File6の主要テーマとして紹介することになる。
ライン黒 W600
ミラン・クンデラ 2 W600

 クンデラが『ドン・キホーテ』を、一つの真理をめざしたルネサンスを脱したバロック的な意味におる小説の誕生とみなしていることはあきらかだ。
 その小説の精神とは「複合性」である。クンデラは、その方法にしか「存在の忘却」を描く方法はないのではないかということを、デカルトに対するライプニッツの、またルネサンスに対するヴィーコのバロック精神として継承したいと書いたのだ。

 さて、以上のことを前提として『ドン・キホーテ』を見ると、この物語に650人の人物が登場し(これはトルストイの『戦争と平和』の550人を上回る)、35件にのぼる前後の脈絡をこえたエピソードが乱舞しているなか、ドン・キホーテとサンチョ・パンザが入れ替わり立ち代わりして「説明」をしつづけているこの前代未聞の物語が、実は時代錯誤の主人公の物語ではなく、ましてセルバンテスの悲嘆から来た妄想の物語でもなく、むろんたんなる騎士道精神の謳歌のパロディでもないことが、忽然としてあきらかになってくる。

 よくよく物語の発端とその後の展開を見てみれば、書物が書物を書き替えつづけている「リブロ・エスコルソの書物がもつ遠近法世界」の最初の方法の提示からくるものだったということに気がつくはずなのだ。 では、もう少し手短かに漱太郎の立体言語学で種明しをしてしまうことにする。
 実は『ドン・キホーテ』の主人公はドン・キホーテではない。ラマンチャの片田舎に住む50がらみのアロンソ・キハーノという郷士が主人公なのである。

アロンソ・キハーノ W600


 そのキハーノが昔の騎士道物語をふんだん読みすぎた。
 読みすぎてどうなったかというと、それらの書物に書いてあることのすべてが真実や真理であって(つまり一つの真理で!)、それはすべてキハーノが生きている現在のスペイン(つまり16世紀末から17世紀にかけてのスペインの社会)にことごとく蘇るべきものであると確信してしまうのだ。これはキハーノの妄想である。狂気である。

 けれどもこれが妄想であって狂気であることを示すために、セルバンテスはキハーノをキハーノに終わらせないようにした。そこで、郷士キハーノは鎧兜に身をかため、遍歴の騎士ドン・キホーテと名のり、隣村の農民サンチョ・パンザを従士にして、痩馬ロシナンテにまたがって旅をすることにさせた。

 このキハーノがキホーテになるところが、セルバンテスのインテリジェレなのだ。ここにバロックの「ずれ」を誕生させた。

 このことは、前篇の表題が『機知に富んだ郷土ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』で、後篇が『機知に富んだ騎士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』になっているところにも如実にあらわれている。
 「郷士」が「騎士」に変わっていったのだ。
 ということは、ドン・キホーテとは、キハーノの頭のなかにつめこまれた「物語の言葉」をもって、それを現実のスペイン社会にぶつけていく作中の語り部としての第二の(リアル・バーチャルな)主人公なのである。ここにすでに物語の相対的二重性が用意されていたわけなのだ。

 それならば、『ドン・キホーテ』はプラトン以来の対話篇だったのである。しかも書物の中の言葉だけによって、新たな書物を綴っていくための対話篇なのだ。『ドン・キホーテ』は対話の小説なのだ。キハーノがソクラテスならば、ドン・キホーテがプラトンなのである。

 とはいえセルバンテスは、17世紀のスパニッシュ・プラトンをつくりたかったのではなかった。そこに「スペインという世界そのもの」を現出させ(フォークナーの「ヨクナパトーファ」やマルケス「マコンド」のように)、そこから世界は両義的にしか語たれないことを、その価値はつねに多義的にならざるをえないことを、それは書物が書物を辿るように間テクスト的に編集されていかざるをえないことを、そうしないかぎりは「世界読書」の奥義(複合的な真理)などはあらわれてこないことを、満身創痍で示したのである。

 いまや漱太郎は、この『ドン・キホーテ』はジェネラル・アナロジーの物語だろうと思っている。ラブレーやボッカチオの伝統を踏まえて、ハイパー・ポリフォニーの原理を発見した巧妙な空間からなるテクストだと感じている。
 念のために述べれば、『ドン・キホーテ』はジェネラル・アイロニーの物語ではない。
 それなら戯作として読めばいい。そうではなく、『ドン・キホーテ』にはアナロジーとアブダクションのすべての可能性がつまっている。ミハイル・バフチンが指摘したようなポリフォニーの文学ではなかったのだ。ハイパーポリフォニーなのだ。その多声性は、キハーノとキホーテの両方が一対になって絡みついている。
 簡略だが、これが種明かしだ。およそのところは当たっているだろう。ところが、それでもなお立体言語学的には、実はこの物語がまだまだぴったりこないという憾みが残っている。それは、この物語がまさに「スペインそのもの」であるということにある。

 日本人はスペインが苦手なのではないか。
 日本の中世史にはそんな疑問が残る。平面でながめると、たしかにスペインという国はおもしろい。ダリもガウディも、ガルシア・ロルカもオルテガもとびきりだ。ヴィクトル・エリセの映画は他の国ではつくれまい。カタルーニャやバスクのナショナリズムを覗くのは、ときにどんな民族や部族の今日のありかたよりも深い過激というものを感じることがある。しかしわれわれは、いや日本人は、そうしたおもしろみを語るにあたって、すでにあまりにもスペインを一知半解したままに見すぎてしまったのだ。

 そもそも1492年を「いよ国みつけたコロンブス」と覚えたところで間違えた。
 この年にイスラム教徒からの国土回復戦争が終わったことや、この年にユダヤ人追放令が行使されたことが見えていなければならなかったのである。また、ここからマラーノとしてのスピノザの宿命が始まっていく。
 これは、オクタビオ・パスを読んでメキシコを感じるように、オルテガの『ドン・キホーテをめぐる思索』を読んでスペインを感じるように、そこに感じるものが深ければ深いほど、日本人に「スペインという物語の起源」をわからなくさせていくものなのだ。その起源に『ドン・キホーテ』があるというのだから、これはやっぱりお手上げとなろう。

 ポルトガル語の“barroco”は「歪んだ真珠」のことである。スペイン語の“berrueco”は岩のごつごつした手触りだ。このバロックのもつコノテーションは、これからも世の人間をさまざまところへ誘うだろうが、まだ郷土であって、仮想の騎士であったドン・キホーテの手触りには届いていないのだ。それを綴るには、今度は漱太郎のバロック論を先に開陳しなければなりますまい。が、それはまた別の機会の遊蕩としてみたい。

ドン・キホーテ2

 スペインのマドリードを思い起こしてみると、その道を通過した伊東マンショを眺めみたセルバンテスの印象の中からドン・キホーテの種が生まれ、その妬みのそれがバロックの萌芽と絡み合いながら多重虚構の深層的なスペインの密林世界を構成した。
 裏返せば、それはセルバンテスがそれを成し得るだけの素材が、伊東マンショが往来した当時の道の辺にはあったことになる。それはまた、伊東マンショらが日本人として初めてスペインのバロックを実際に瞳で捉えたということに等しい。これはやはり憂いえる真実である。

                                          
マンショimage 4 W600



                      シリーズ連載・次回No.fileに続く
                         look gif H100
Mancio C W600
           MANCIO
ライン黒 W600


                         My images 割 gif

                  Sotarou 1


ライン黒 W600



スポンサーサイト

伊東マンショの正体を科学する No.0004

Ron.gifSO 50World.gif     地球 gif WH80
波動 gif W300漱太郎 1

Science to elucidate the identity of X 20
X 100伊東満所 文字3 W385
ライン黒 W600
伊東満所 資料5 W300H30マンショ関連の画像 スライドgif

マンショ広告 6 W600

          ゼブラ球 W100      ZERO 連gif辻斬りZ W100H100 gif

ほん1 W45H40 伊東満所 資料1  Dr Donut W40H40
 世界は大航海時代。日本は戦国「下克上」の世。同時期にキリスト教が伝来する。織田信長の比叡山焼き討ちのころに、また室町幕府が終焉しようとするころに、日向国一円に勢力する豪族の伊東家に数奇な運命を宿す一人の男児が誕生した。
 この男児が後に天正遣欧少年使節の正使となる伊東マンショ。
 だがこの人物についての実像を記す資料は今日に乏しい。その背景には当時の混乱と錯覚とが不遇にも交錯する日本史の実情がある。つまり記録として残せない深い闇の淵に置き去られた。
 No.2631ファイル・データはこの歴史人の正体に迫る研究をシリーズ構成でつづる資料コラム。中世の街道を往来した人物との交流を織り重ねながらマンショの足跡の真相を編集する。・・・・伊東満所

伊東満所 文字5
伊東満所 文字4 W600
ドン満所 gif H150   Mancio 100
ライン黒 W600
Mancio C W600

signbot (3)To science Mansho W303H40To science Mancio gif
ボストン W600
Xの正体

ライン黒 W600
四角錘あか  File No.4 マンショの望影と南蛮の道(
ライン黒 W600

     辻斬りZ W50H50 gif  ① 南蛮の道「司馬遼太郎の視点する中世」
     ライン黄色 gif
         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

     伊東満所 文字7  Dr Donut W50H50 gif
南蛮の道街道をゆく 2 H72

     伊東マンショの生涯を透視するにあたり、特異な視点から中世を見る「街道を行く」シリーズの1冊に注目したい。この司馬遼太郎の小説は、地の文章に解説や余談が多くて随筆みたいな風貌だが、内容は多少の演出があってフィクティシャスに感じるスタイルである。ともかく司馬遼太郎とは不思議な小説家だ。

 どう不思議かといえば一つには、幕末の越後長岡藩家老・河井継之助のような本来はマイナーな人物が、一般の人々の間に人気が高いのは、あきらかに司馬の小説の影響であり、他にも、江戸時代の商人・高田屋嘉兵衛や、幕末の軍政家・大村益次郎、幕末明治の政治家・江藤新平、新撰組の創設者・清河八郎等々も、司馬小説以外ではあまり描かれない人物にもかかわらず、司馬小説の影響で知名度の高い人物となったことだ。人々は「歴史的人物としての彼ら」ではなく「司馬作品の登場人物としての彼ら」を愛しているともいえる。

 仮にそんな司馬が伊東マンショを主人公にしようとする場合、どう切り撮ろうとするのかの鍵が「街道を行く」に潜むように思えてくる。今回は、この司馬史観でマンショの事情に触れてみる。

司馬遼太郎 2 W150H295司馬遼太郎をスケッチする gif W450

 今年で17年目の「菜の花忌」が過ぎた。
 司馬遼太郎は1996年(平成8年)2月12日に他界する。
 最後の面影はその1月、「街道をゆく 濃尾参州記」の取材を終え日の夕刻の表情だ。そして「あと半年で、73の老人になるよ」と少しの言葉を交わして、ふッと笑われた。だがその連載中の2月10日深夜に吐血して倒れ、国立大阪病院(現:国立病院機構大阪医療センター)に入院、最期は腹部大動脈瘤破裂のため12日の午後8時50分という。翌朝に訃報を伝えられたが、72歳だった。
 濃尾参州記の旅宿で「今年の秋にはもう一度スペイン北部を訪ねたい」と語られた。これは楽しそうな旅になる、そう予定した矢先の訃報なのである。脳裏に遺された「半年後の73」が名残言葉となっている。

 司馬遼太郎、筆名の由来は「司馬遷に遼(はるか)に及ばざる日本の者(故に太郎)」から来ている。
 こう名付けたが、戦国(中世)・幕末・明治を扱った作品が多く、『街道をゆく』をはじめとする多数のエッセイなどでも活発な文明批評を行った。その司馬の作品、司馬の価値観はさまざまに語られてきた。

 司馬は、物語とは直接関係ないエピソードや司馬自身の経験談(登場人物の子孫とのやりとりや訪れた土地の素描)などを適度に物語内にちりばめていく随筆のような手法も司馬小説の特徴の一つであり、そこに魅了されている読者も多い。と、みると、歴史小説家としてはスコット(スコットランドの詩人、作家。「ランメルモールのルチア」)以来の人物中心主義の流れを汲んでおり、直接には司馬遷における『史記』列伝の形式を範にした作家と評することができる。

 特に後年は、小説から遠ざかり随想や批評を主としたが、抽象的な思索や哲学性よりも具体的な歴史評論や文明批評を主にし、合理的思考を掲げて考証を行ったところに特徴がある。じつは今回、司馬を執り上げるのは、このことに重きがある。「南蛮の道」を語る司馬の中には「小説家」と「歴史評論家」の二人の司馬が合作して取材するからだ。
 第二次世界大戦における日本のありかたに対する不信から小説の筆をとりはじめた、という述懐からもわかるように、司馬の考え方は狂信的なもの、非論理的なもの、非合理なもの、神秘主義、いたずらに形而上学的なもの、前近代的な発想、神がかり主義、左右双方の極端な思想、理論にあわせて現実を解釈して切り取ろうとするなどの帝国陸軍的な発想の対極に位置するものであり、司馬はこれらを否定的に書くか、エッセイなどで否定している。司馬は近代合理主義がこれらに対局するものと考え、その体現者こそが司馬の愛する人物像であった。

 司馬の歴史観を考える上で無視できない問題は、合理主義への信頼である。だから実証性の高い歴史小説という分野での司馬の評価の高さにつながってくる。

司馬遼太郎 1 W600

 この黒縁の眼鏡から司馬遼太郎は南蛮をみた。

 日本人にとって、ながらく日本・唐・天竺の三つしかなかった文明世界に、突然飛び込んできたのが「南蛮」文明だった。しかも、面白いことに、その伝道の中心人物フランシスコ・ザビエルは、フランスでもスペインでもなく、バスクの人だった。司馬遼太郎は、そこで、この旅路の前半は、バスクという国をめざしてパリからフランス南西部を横切って進む。そのバスク文化を理解するための第一の資料として、司馬遼太郎があげるのは、近代日本に宣教師としてやってきた、バスク出身のS・カンドウ神父の著作だ。

 「バスクは風と水と光の国だと形容される」とカンドウ神父は書く。そして、起源未詳のピレネー山脈先住民であるバスク民族の世界を、いとも魅力的に描き出す。騎士道精神と熱烈な信仰に支えられたザビエルは、その光輪の中に定置される。

 バスク人は、見かけはフランス人やスペイン人とさほどちがわない。バスク名物のベレー帽も、フランス人の象徴のように思われている。彼らのアイデンティティを支えるものは、その気質と、バスク語だけである。スペイン語とは、バスク語の音韻の上に乗ったラテン語なのだが、そのスペイン王国からも、国民国家論を信奉するフランス共和国からも、存在を無視され迫害された歴史がある。

 しかし、この司馬遼太郎の旅行記は、そうした剣呑な雰囲気をうまく筆先でさばいて取り払い、ひたすら純朴で美しい「常世の国」バスクを描き出している。これを読んで、バスクに行きたくならない人は少ないだろうと思う。それだけ、これは司馬遼太郎が楽しんで書いた渾身の旅行記といえる。




 Oi ama Euskal Herri. 「ああ、バスクの母よ」 バスク地方の歌謡。
 Benito Lertxundi dituen abesti arrakastatsuen artean, abesti hau lore ederra da.訳は「この歌はベニーLertxundiの曲の中では美しい花のある歌だ」となる。ベニートLertxundiは バスクに生まれたシンガー•ソングライターで、バスク音楽に特別なコミットメントを示し、バスクの文化や伝統を響かせる。これを司馬遼太郎は好んだ。

 住民は歴史的にはいわゆるバスク人であり、スペイン内の他地域とは、文化的には差異が大きい。スペイン国内では経済先進地域であり、他地方からの移民も多く、そのため州公用語のバスク語は少数言語状態にあり、公営テレビの「ETB」はそのチャンネルでスペイン語放送もせざるを得ないのが現状である(カタルーニャ州やガリシア州では公営テレビでは固有語による放送しか行っていない)。

 司馬はこの「バスク語」に注目する。
 この司馬の注目が分からないことには、何故、司馬が南蛮の道を行くのにフランス・パリから南下してスペインとの国境を超えるルートを選定したのかが理解できない。ともかくも司馬遼太郎にとって「国境」の越え方が問題であった。この国境を南のマドリードあたりから北上して近づくと、それは司馬にとって無意味なのである。だがパリからの南下が正解ということではない。司馬は直接バスク地方に真上から飛び降りたかったであろう。街道を行くというテーマ上、司馬はスペインよりフランスに先ず足を踏みおくことを選択した。司馬の視線はあくまでも「南蛮の道」に固執して行く道を定義しようとした。
 それはバスク語(euskara)が孤立した言語で、現在でもバスク人によってしか話されない言葉だからだ。
 司馬はこの「孤立した言語」を先ず旅中に楽しもうとした。

 その「バスク」の名は、英語あるいはフランス語の「basque」の音訳であり、もともとはローマ帝国期に現在のスペインナバラ州やアラゴン州にいたヴァスコン人(Vascones)の名に由来する。ヴァスコン人とバスク語話者は完全には一致していなかったと考えられているが、中世にはVasconesという名称はバスク語を話す人々を指すために使われるようになった。スペイン語における伝統的な呼称「vascuence」も「ヴァスコン人の」を意味するラテン語の vasconice に由来する。

 文章は一般にラテン文字で表記される。音韻論的な特徴としては舌端音と舌尖音の区別があり、文法的な特徴としては能格と絶対格を使用する格の体系であることが挙げられる。語彙にはラテン語・スペイン語起源のものが多く見られる。なおスペインではフランシスコ・フランコ将軍の時代、使用禁止になっていた。こうした背景を踏まえてか、司馬はバスク地方を訪ねる前に、簡単な単語を引き出し何度も繰り返してバスク語のイントネーションを耳奥に焼き付けていた。言語の響きからバスクの風土を押えようとする。そしてパリから南下する折りにヘッドホンをあてたまま「これでは、まるで幼児教材に聞き入る園児レベルだね」と微笑みかけた。

 バスク語は、他の欧米言語との共通点の少なさゆえに印欧系言語話者には習得が難しいとされる。
 司馬遼太郎は、紀行文集『街道をゆく』の中で「ローマの神学生のあいだで創られたバスク語学習にちなむ(神話)」として、神からどんな罰を与えられても全くひるまなかった悪魔でさえ、3年間岩牢にこもってバスク語を勉強する罰を課されると神に許しを乞うた、という話を紹介している。

 これは司馬がフランスのバイヨンヌにあるバスク民族博物館で「かつて悪魔サタンは日本にいた。それがバスクの土地にやってきたのである」と挿絵入りでバスク語の歴史を描いた装飾品を見たからである。またそう書かれて飾られているのは、彼らバスク人が、同じく印欧系言語話者からみて習得の難しい日本語と重ね合わせているからだ。「悪魔、そう感じさせる日本人が今からこの地方を訪ねるのは、なかなか楽しいではないか」と司馬は語りかける。

 だから先ず旅の始めにバイヨンヌの話となるが、この都市を語るにはラブール地方という広域を押さえて歴史性を考える必要にかられる。どう必要で、司馬がどう重要視したかは、追ってご理解いただけるであろう。

 そこで旅の冒頭ながら司馬さんを見習い「少し余談だが」と、ラブール地方に向かう前の起点とするにふさわしいと思える古城の街「トゥール」へ道草する。

バスク地方へ地図 W600

Tours.gif  街道をゆく 2 H72 

 パリからTGVに乗って1時間ちょっとのところに、トゥールという街がある。
 ルイ11世紀時代はフランスの首都もおかれていた由緒あるこの街には、当時の面影が残る旧市街をはじめ、いくつかの歴史的建造物が残っている。街自体は小さく、ほとんどの見所へは徒歩で行ける。

 このトゥール(Tours)は、フランスの中部に位置する都市で、アンドル=エ=ロワール県の県庁所在地である。そして古代ローマ時代、トゥールはトゥロネンシス(Turonensis)として知られていた。3世紀の半ばには聖ガティアヌスがローマからトゥールに派遣されている。また、4世紀の後半には、後に聖人となったトゥールのマルティヌスがこのトゥールの司教であった。さらに第二次世界大戦で、パリ陥落を前に、フランス政府はトゥールに移転したが、間もなくボルドーへ退避した。

 ここに「トゥールの道」がある。古代からある巡礼の道だ。
 フランスからは、巡礼の中心地であった都市を拠点として4つの道がピレネー山脈に向かっている。その一つがトゥールの道で「パリ - オルレアン - トゥール - ポワティエ - サント - ボルドー - オスタバ=アスム」の順路となる。つまりキリスト教の聖地であるスペイン、ガリシア州のサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路。おもにフランス各地からピレネー山脈を経由しスペイン北部を通る道を指す。トゥールはこの巡礼道の重要な通過起点地とされた。


Tours en Touraine

 1000年以上の歴史を持つ聖地への道は、今も年間およそ10万人がフランスからピレネー山脈を越えてゆく。スペインに入ると、巡礼の拠点の街がまた見えてくる。そこには巡礼事務所があり、名前を登録し、巡礼者の証明となる手帳を受け取る。巡礼者の数が増えると共に、道沿いには無料の宿泊所が整備されてきた。11世紀の礼拝堂を修復した宿泊所などもあり、こちらの宿では中世さながらの「洗足の儀式」が行われる。巡礼者の足を水で清め、旅の無事を祈る。食事も用意される。これらは巡礼を支える人々の無償の奉仕で成り立っている。徒歩によるスペイン横断は、イベリア半島内でもおよそ800kmの道程である。長い巡礼を続けることは、人々にとって信仰と向き合う貴重な時間となる。
 司馬はこのトゥールという街で、気の遠くなる巡礼の時間を思いながら一夜を過ごした。


Tours France

 トゥール駅はオルセー駅(今はオルセー美術館)の建設に携わることになる建築家ヴィクトール・ラルーの設計で建てられた。なので、どことなくオルセー美術館のデザインに似ている。駅構内の壁もとてもフランスっぽくて本当に美術館のようだ!。そんなトゥール駅を出て10分ほど歩くとトゥール美術館が見えてくる。

 館内にはイタリアの画家をはじめルーベンス・ドラクロワ他近代美術・陶器作品など数多くのコレクションに出会える。美術館を出るとすぐ横には、3世紀から13世紀に渡って建築され続けたゴシック様式の代表ともいえるサン・ガシアン大聖堂があり、大聖堂前の広場から見上げても観きれないほど大きさは圧巻。この大聖堂内部の様々な美しいステンドグラスは必見で、一つ一つを丁寧に見ていくと数時間はかかってしまいそうなほど!全てに物語があり、それぞれの解説パネルがフランス語で展示されている。

 大聖堂を出て歩いてしばらくするとトウール城が見えてきた。
 しかし現在「城」とは名ばかりで、場内では、芸術家達の特別展示に使われている。そのため「フランスのお城」といった豪華な面影はあまり残っていない。特別展示は有料だが、常設展示は無料なので花の咲く季節は敷地内に咲く花々を眺めながら見学するのもオススメ。
 そして駅から30分ほど歩いたところに旧市街がある。

 そこに残る15世紀頃の町並みは、まるでおとぎ話の世界のようだ。どうやら暖かい季節になると、この旧市街の中心にあるプリュムロ広場ではカフェがテラス席を出し、常に満席なほど賑わっているらしい。そんな話を司馬さんから聞いた。なるほど中華やイタリアン、地元のレストランなどが軒を連ね、日曜日でも営業している店もあり休憩としてのカフェ探しや食事でのレストラン探しはここでするのがオススメ。ドリンクはだいたいどこも2ユーロから、ランチは10ユーロから。バーは夜中まで営業している店がほとんどである。

 じつは一度、慣れない左ハンドルマニュアル車を運転しながら、パリから古城で有名なこのトゥールの街まで来た。司馬さんが宿泊した、そこはシャトーホテルっていう、フランスの古城を改装したホテルだ。フランスの郊外には、こういったシャトーホテルが数多くある。
 中はもちろん城、☆はついてなくとも、5つ星ランクのホテルだと思える。司馬が取材で利用したホテルだが、値段はそう高くもない。一部屋15000円くらいだ。パリの中心部の狭いホテルと同じくらいなので、個人的には断然こっちのがいい!。庭はとても広い。庭師みたいなひとが何人かいたが、他の宿泊者はほとんど見かけなかった。トゥールの街近辺、ロワール地方の古城は世界遺産に登録されている。一応このホテルも古城なわけで、世界遺産の一つなのかと思える仮想気分の宿泊が楽しめた。

 古城に宿泊した司馬遼太郎の眼差しは、ここより南下して始まろうとする。司馬は古城に宿泊して巡礼道を見定めた。南の国境を彼方に少々ワインで脳ミソを浸しておいたと後に語っている。当然、そんな楽屋裏の出来事は書籍では語られることはない。したがってこれは「南蛮の道・外伝」を含む司馬史観ともなる。


Best of Tour de France

Tracé du Tour de France 2013

 ツール・ド・フランスまたは(ル・)トゥール・ド・フランス(仏: Le Tour de France)とは毎年7月にフランスおよび周辺国を舞台にして行われる自転車プロロードレースである。
 1903年から開催されているが、主催は傘下にスポーツ新聞レキップや一般紙ル・パリジャンなどを抱えるフランスの大企業・アモリ・スポル・オルガニザシオン (ASO, Amaury Sport Organisation)。この名称はフランス語で「フランス一周」を意味する。毎年7月に23日間の日程で行われるステージレースで距離にして3300km前後、高低差2000m以上という起伏に富んだコースを走り抜く。山岳コースはそれぞれ3日ほど繰り広げられ、それぞれピレネー山脈とアルプス山脈を使うことが多いため、これをピレネーラウンド、アルプスラウンドと呼ばれる。この区間の平坦基調ステージは、主にこの二つの山脈の間を移動するために設定されているが、この緩急をつけたレイアウトと平坦ステージの多さ、ポイント賞のシステム(後述)などもあり、スプリンターが一番ポイント賞を獲得しやすいグランツールとなっている。そうしてこの区間で最もバスク地方に接近する。


司馬遼太郎の書斎

Dr Donut W100H100 gif南蛮の道・その外伝 W500H100

 ラブール(フランス語:Labourd)またはラプルディ(バスク語:Lapurdi)は、フランス領バスクの地方。ピレネー=アトランティック県のバイヨンヌ小郡に相当する。

Labourd gif  街道をゆく 2 H72

 ラブールは穏やかな海洋性気候である。地形は丘陵で、東と南に向かって標高が高くなっていく。山はそれほど高くない。ラブール最高峰のラ・ルヌ山は標高905mである。アドゥール川、ニーヴ川、ニヴェル川、ビダソア川が流れる。アドゥール川下流域は平坦である。
 バイヨンヌとブコーを含めて面積は858平方kmであり、バスク国全体の約4%である。およそ20万5千人の人口があり、フランス領バスクの3地方中で最も多い。このラブールに(バイヨンヌとブコー)の二都市を含めない場合、人口は15万2千人ほどである。

ラブール地方 地図 W600

 北をアドゥール川と接するラブールは、地理的にも歴史的にも海とつながりが深い。大規模な第四紀の堆積物の蓄積で海から得た土地であり、この地にはヴァスコン人が定住した。
 ローマ帝国の表面的な占領時代の後、彼らは半独立公国ヴァスコニア公国を建国し、ウード公はトゥール・ポワティエ間の戦いでサラセン人と戦っていた。
 海はこの地方の歴史的進化で大きな役割を果たしてきた。
 バイヨンヌはラブールの首都の機能が与えられている。12世紀まで、バイヨンヌが州単位の行政から切り離されていたのは事実である。ラブールの歴史的な中心はユスタリッツになった。

 1152年のアリエノール・ダキテーヌとイングランド王ヘンリー2世の結婚後、ラブールの土地はイングランド王のものとなり、複数の陰謀の舞台となった。主役の1人は、バイヨンヌの貿易と経済を発展させたことで有名なリチャード獅子心王である。
 こうしてイングランドの影響は1450年まで続いた。エィエール城で平和条約に調印した後、ラブールはフランス王国に返還される。そして1609年には国務院顧問ジャン・デスパニェとピエール・ダンクルが魔女裁判を導くことになる。
 こうしたラブールは、フランス国内であるため、公用語はフランス語である。古くから住民が話すバスク語の他、対スペイン国境の街アンダイエなどではスペイン語を話す。アングレットやバイヨンヌではガスコーニュ語を話す住民もいる。
 そして、この地方のバスク語の方言は、ラプルディ方言である。

 バスク語(euskara)は、スペインとフランスにまたがるバスク地方を中心に分布する孤立した言語で、おもにバスク人によって話されている。スペインのバスク自治州全域とナバラ州の一部ではスペイン語とともに公用語とされている。現在、約66万5800人の話者がバスク地方に居住し、すべてスペイン語またはフランス語とのバイリンガルである。
 バスク語の方言は音韻・形態・語彙の地域的な変異が比較的大きく「村ごとに異なる」ともいわれる。伝統的には六つから九つに分類されている。
 主なものは、ビスカヤ方言、ギプスコア方言、高ナファロア方言(北・南)、低ナファロア方言(東・西)、ラプルディ方言、スベロア方言(スベロア方言・エロンカリ方言)が確認される。ラブールのそれがラプルディ方言となる。
 しかしバスク国民党の毎月のスローガンにおいては、「今おそらく最も北バスクでバスク人であることの思い入れがないのは、ラブール住民である」と述べる。つまりこれには長い期間におけるバスク人の生活意識の転換があり変遷がある。まことにこの地方の歴史は複雑なのだ。



Baiona gif  街道をゆく 2 H72

Baiona, Pontevedra


Casco Histórico de Baiona


 バイヨンヌはビスケー湾からアドゥール川をさかのぼった、ニーヴ川との合流点に位置する。ピレネー=アトランティック県ではポーに次ぐ規模で、バイヨンヌ・エ、バイヨンヌ・ウェスト、バイヨンヌ・シュドの3つのカントンの小郡庁所在地でもある。バスク地方においてはピレネー山脈以北の北バスクの1地域、ラブールの主要都市だ。市街中心部はアドゥール川とニーヴ川によって3つの区域(大バイヨンヌ・小バイヨンヌ・サンテスプリ)に分けられ、それぞれの区域は橋で結ばれている。

 大バイヨンヌ(グランド・バイヨンヌ)には、アドゥール川左岸、市庁舎やサント=マリー大聖堂があり、市の中心部で、シャトー・ヴュや市の観光案内所がある。
 小バイヨンヌ(プチ・バイヨンヌ)には、アドゥール川とニーヴ川にはさまれた商業地域。バスク博物館、ボナ美術館、シャトー・ヌフなどがある。
 サンテスプリ(アドゥール川右岸)には、シタデルの南東にサンテスプリ(聖霊)教会やフランス国鉄のバイヨンヌ駅がある。

 現代のバイヨンヌは近郊の都市であるビアリッツ、アングレットとともにコミューン(自治体)連合を形成している。1972年からの交通インフラ整備を皮切りに、1999年からはバイヨンヌ=アングレット=ビアリッツ都市圏共同体(略称はB.A.B)として地域経済の活性化や環境保護、高等教育の分野で地域協力を行なっている。また、バイヨンヌからスペインのサン・セバスティアンまではユーロリージョンとして、国境を超えた自治体同士の連携がはかられている。



 歴史については、紀元前3世紀、ローマ人によって駐屯地(カストルム)が置かれ、ラプルドゥム(Lapurdum)と呼ばれた。この名は北バスク国の1地方名ラプルディ(ラブール)に今日も残っている。
 続いてヴァスコン人(バスク人の祖先)がこの地を支配、彼らによってバイヨンヌと名付けられた。バイヨンヌという地名はバスク語で「川」を意味する語に由来する。

 840年になると、現在のデンマークからヴァイキングがバイヨンヌに到達、その後も、9世紀から10世紀にかけてバイヨンヌはヴァイキングの侵攻を継続的に受けることになる。

 アキテーヌ公領に吸収されていた1152年、女性領主であるアリエノール・ダキテーヌがのちのイングランド王ヘンリー2世と再婚したことにより、バイヨンヌは12世紀から15世紀にかけてイングランドの支配下に置かれた。この結果、スペイン国境に近い軍事的要衝でもあったことから、百年戦争以降、英仏間でバイヨンヌをめぐる争いが繰り返されることになる。そのため、武器生産もさかんとなり、銃剣はその地名にちなんで「バヨネット」と呼ばれた。

 アドゥール川やバイヨンヌ港の整備が進むと、バイヨンヌ経済はタラ漁や捕鯨といった漁業およびその加工業で潤った。16世紀後半にはイベリア半島からユダヤ人たちがサンテスプリに移り住み、彼らがもたらした技術と知識によってバイヨンヌでチョコレートの生産が始まった。20世紀にフランコの独裁政権から庇護を求めてやって来たスペイン・バスクの人々は小バイヨンヌをその拠点とした。

 日本でいうと幕末のころ、1854年にパリと鉄道で結ばれる。こうしてビアリッツで休暇を過ごす人々の観光拠点となった。その後、経済は一時低迷したが、20世紀に近郊のラックに油田が発見され、石油関連産品や周辺地域の農作物などの輸送の要として活況を取り戻しつつある。バイヨンヌ港はラック油田産出のイオウや原油、ランド県やピレネー=アトランティック県産のトウモロコシや肥料、木材などの積み出し港である。年間の貨物取扱量は約400万トンで、フランス国内で第9位の規模である。

バイヨンヌのチョコ W600

 グランバイヨンヌのポンヌフ通り(Rue Pont Neuf)を歩くと両側にはチョコレート屋さんが並んでいる。サンジャンドリュズのパリエス「Paries」はバイヨンヌにもある。パリエスは司馬さんお気に入りの一品であった。
 カカオが新大陸からスペインに持ち込まれ、バスク地方に持ち込まれた。言ってみればフランスの中で最初にチョコレートがもたらされた地域だ。そのせいか、本当にバイヨンヌにはチョコレート屋さんが多い。そして老舗「Daranatz」のショーウインドウが美しい。
 フランス中にある(上写真)のアトリエ・デュ・ショコラ(L'Atelier du Chocolat)はバイヨンヌに工場を持つ。またポンヌフ通りを歩くだけで、たくさんのショコラティエ、パティスリー。その数多いショーウインドを見ているだけでも、チョコの香りがしてきそうだ。





フランス国旗 gif国境を越える W410H74スペイン国旗 gif

バスク地方地図 W300H418司馬遼太郎 街道をゆく gif W300

 『南蛮のみちI』は、司馬遼太郎の紀行文集『街道をゆく』の第22巻。
 本書は1984年3月に朝日新聞社より刊行され、1988年10月に朝日文庫化された。フランシスコ・ザビエルの故郷バスクを中心に司馬が旅をする。バスクがフランスとスペインの境にある事に司馬が深く関心を持ったエピソードがある。しかし、今回は刊行された年度以降、司馬から聞きおよぶ書籍には載らない司馬の口述も織り交ぜてみたい。

 スペイン側にバスク自治州があるが、歴史的な「バスク国」(広義の「バスク地方」)には、スペインのナバーラ州の一部およびフランスのピレネー=アトランティック県の一部(フランス領バスク)が含まれる。
 統一された「バスク国」の概念は近代バスク民族運動の中で展開され、現在も「バスク国」全体の独立を目指す運動がある。四方を海に囲まれて侵し難い日本国の人間には、この領土の成立は複雑すぎる。

 バスク(広義)は伝統的に7つの地域からなっており、Zazpiak Bat(サスピアク・バット、7つが集まって1つとなる)は、バスク人のスローガンである。
 Hegoalde(南部)と呼ばれる4つの地域(Laurak Bat)はスペイン内にあり、Iparralde(北部)と呼ばれる3つの地域はフランス内にある。およそ2万平方キロメートルの広さとなる。
 そして南バスク(スペインバスク)4地域は、いずれもスペインの県に位置づけられている。このうち西部の3地域「アラバ(Arabako Probintzia)、ビスカイア(Bizkaiko Probintzia)、ギプスコア(Gipuzkoako Probintzia)の3県」は、1979年以来バスク自治州(Euskadi)を構成する。「バスク3県」とも呼ばれる、バスク(広義)の中核的な地域である。

バスク 4 W600

 そして東部の1地域は、1県(ナファロア県Nafarroa)で1982年よりナバラ州Navarraを構成している。面積はバスク州3県を合わせたより大きい。このナバラ州の正式名称を「Comunidad Foral de Navarra」とするが、そのforal(名詞形fuero)は、封建時代に遡る用語で、特定の階級や地域に認められた法律のことである。
 かつてナバラ王国がピレネー山脈を挟んでこの一帯を統治していた。ナバラ王国はもともとパンプローナ王国と呼ばれ、824年頃にイニゴ・アリスタがフランク王国に反乱を起こして建国する。1512年、アラゴン王フェルナンド2世によって山脈から南側はスペインに統合された。
 またフランス側に分かれた地方はバス=ナヴァールと呼ばれ、現在はフランスのピレネー=アトランティック県の一部であるフランス領バスクになっている。ナバラ王エンリケ3世が1589年にフランス王アンリ4世として即位した後、歴代のフランス王はナバラ王を兼ね、フランス側のナバラは1791年まで別の王国として存続した。


                                            Euskadi Basque Country by Sotarou

バスク縦断の地図 W600

 ピレネー山脈をはさみ、スペインとフランスの両側ににまたがるバスク地方。そこに住む人々はバスク人と呼ばれ、ヨーロッパの他の地域とは異なる言語を持ち、独特の文化を育んできた。近年では美食とアートの都としても注目を浴びている地域である。先ずそんなバスク地方の中でもスペインバスクの魅力をご紹介する。
 スペインといえば、 強い日差しに荒涼とした大地というイメージが強いが、バスク地方は「緑のスペイン」と呼ばれるほど緑豊かで、美しい山々と清らかな水に恵まれた地域。
 そこにスペイン北部屈指の湾岸都市「ビルバオ」がある。
 ビルバオ(スペイン語:Bilbao、バスク語:Bilbo)は、スペイン北部の都市。バスク州ビスカヤ県の県都である。人口は約35万4千人で、スペイン第10位の都市である。

Bilbao gif  街道をゆく 2 H72

 スペイン北部屈指の港湾都市であるため、現在では、スペイン内外からの移民も多い。約20キロ東には、ナチスの爆撃、パブロ・ピカソの絵画で知られるゲルニカが、約70キロ北西には、サンタンデールが位置する。



ビルバオ 1 W600H350

 スペインの主要都市の1つだが、大都市とは思えないほど緑が多くとても穏やかな街だ。元々は鉄鋼業で栄えた街で、経済的に裕福なため、マドリッドやバルセロナに比べると治安がいい街である。

ビルバオ 3 W301H246 ビルバオ 2 W290

 街の小路に入るとこんなかわいらしい風景に出会うことができる。鮮やかな色の壁なのにとても趣がある。ベランダに飾られた花がスペインらしい。(右)こちらもビルバオのストリート。ちょっとノスタルジックな感じがして素敵だ。

ビルバオ 4 W600

 カラフルな建物が立ち並ぶ道を通りぬけていく真っ赤なバスは、バスク語でビルバオを表す「bilbo」のロゴがトレードマークのビルバオ市民の足、「ビルボバス(bilbo bus)」。こんなちょっとしたところにもバスクらしさを垣間見ることができる。バスの他には、市内をトラムが走っているので、トラムに乗って街を散策するのも楽しい。

ビルバオ 5 W600

 そしてビルバオといえば、建築界の鬼才、フランク・ゲーリーによって設計されたグッゲンハイム美術館。港町として栄えてきたビルバオの地域性を意識してデザインされたものだが、ネルビオン川に浮かぶ一艘の船のようで、グッゲンハイム美術館を真上から見ると、バラの花びらのようにもみえるのだ。

ビルバオ 6 W600

 また色とりどりの花が植え込んであるグッゲンハイム美術館の番犬「Puppy(パピー)」は、子犬と言うには少々大きい12.4m。季節や年によって異なる模様のパピーを見ることができるが、季節の移り変わりの時期には、お着替え中ということもある。どうせなら、めいいっぱいお花で着飾ったパピーを見てみたい。



ビルバオ 7 W600

 こちらは、ビルバオ旧市街の南端に位置するサン・アントン教会。15世紀に建てられた石つくりの歴史のあるロマネスク様式の教会だ。そして、サン・アントン教会のたもとにあるアーチ型の石橋はサン・アントン橋。グッゲンハイム美術館のような超近代建築と、このような歴史的建造物が違和感なく溶け込んでいるというのも、ビルバオという街の魅力の1つである。

ビルバオ 8 W600

 ビルバオを流れるネルビオン川にかかるビスカヤ橋は、世界最古の運搬橋として世界遺産に登録されている。橋から吊るされているゴンドラには、車6台と300人ほどが乗ることができ、24時間営業で、現在でも市民の交通手段として使われている。高さ50mという高さの橋の上部は歩道になっているので、港や湾を眺めながら歩くこともでき、高さが平気な方は海風を感じながらスリルと爽快感を味わえるはずだ。

ビルバオ 9 W600

 なめらかなカーブが美しいズビズリ橋。歩行者専用の橋で、床はガラス張りになっている。夜は下からライトアップされるので、日が落ちてから歩くとロマンティックさは倍増。さらに奥に見えるツインタワーは、日本人建築家磯崎新が設計したイソザキタワー。日本からはるか遠くの地で、日本人の活躍を見るのはなんともうれしい思いにしてくれる。

ビルバオ 10 W600

 そしてビルバオの主要駅のアバンド駅の構内に入ると、素敵なステンドグラスが出迎えてくれる。また一度見たら忘れられないいかつい顔のおじさんの銅像。ステンドグラスとミスマッチのようで不思議とマッチしている。

ビルバオ 11 W600

 バスク地方を訪れて、やはり驚くことの1つに、道路標識や、看板など至る所にバスク語を見つけることができることだ。この案内も、上からバスク語、スペイン語、英語表記となっている。バスク語の起源は未だ謎のままで、世界で最も難解な言語の1つと言われている。悪魔がバスク人を誘惑するためにバスク語を習ったが、7年かかって覚えたのは『はい』と『いいえ』だけだったなんていうジョークもある。文法的には、ヨーロッパの言語よりも日本語の方が近かいとも言われていて、この言語はやはり興味深い。

ビルバオ 12 W600

 サッカーファンなら訪れてみたいアスレティック・ビルバオのホームスタジアムであるエスタディオ・サン・マメス。このアスレティック・ビルバオはバスク人のみしか入ることのできない特殊なクラブであるが、レアル・マドリードとFCバルセロナと並んで、リーガ・エスパニョーラ創設以来1度も2部リーグに降格したことのない名門クラブ。日本のJリーグに置き換えると、大阪人のみを起用したガンバ大阪が100年近くも1部リーグで戦い続けているようなもの。そう考えるといかにバスク人のフットボール技術がすごいのかが分かる。これは一つのバスク文化である。

 このビルバオの歴史をみると、1300年6月30日、ビスカヤの領主ディエゴ・ロペス・デ・アロ5世によって、川岸の漁村(現在は旧ビルバオと呼ばれる)の対岸であるネルビオン川左岸に建設された。ビルバオの名前の由来は確かではないが、古スペイン語の「bel vado」(よい浅瀬)やバスク語の「bi albo」(2つの川岸)から来ているという説もある。ビスカヤの領主はビルバオに特権を与え、町は発展した。町はサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の途上にあったため、それにちなんで「サンティアゴ教会」(聖ヤコブの教会)が建設された。さらに15世紀には町を巡る貴族間の戦争が起き、3度の洪水に見舞われてダメージを受けたが、町は再建され市壁を越えて成長を続ける。伊東マンショが生きた16世紀にはメリノ種の羊毛をヨーロッパ北部へ輸出する港となり、スペイン黄金時代には北スペインでの商業・金融の中心地となった。


                                         Bilbao World Design Capital 2014


     辻斬りZ W50H50 gif  ② 司馬で回想する南蛮の道「ザビエルの故国へ」
     ライン黄色 gif
         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

     伊東満所 文字7  Dr Donut W50H50 gif

Navarra gif  街道をゆく 2 H72

ナバラ州Navarra 3 W600


大きな地図で見る

 ナバラ州は、北の山岳地域、中央のパンプローナ盆地、そして南の河岸地域と、大きく三つに分けることができる。そしてそれぞれがさらに細かな地域に分けられている。
 州の北部にはピレネー山脈が横たわり、フランスとの国境を形成する。標高の高い山々が見られるのは東側で、西に行くにしたがって標高が下がり、ビダソア川(Bidasoa)の盆地周辺でバスコス山地とつながっている。州内で最も標高が高いのはメサ・デ・ロス・トレス・レジェス(Mesa de los Tres Reyes 三王の台地)と呼ばれる台地で、最も高いところで標高2,434m。そしてピレネー山脈の山間にはアラゴン川により形成された広大な谷が広がっている。
 ピレネーの手前に横たわる支脈はウエスカ山脈で、ペニャ・デ・イサガ(Peña de Izaga)、イドコーリ(Idokorri)、サリキエタ(Zarikieta)、アルチュスバ(Artxuba)、イスコ(Izko)、サルビル(Sarbil)、サトゥルステギ(Satrustegui)、サン・ミゲル(San Miguel)、ウルバサ(Urbasa)といった山々がこれに含まれる。一方、県の南部には、オリベテ(Olivete)やサン・グレゴリオ(San Gregorio)といった標高の低い山々が点在する。
 またナバラの河川は主に二つの水系に分けられる。一方はエブロ川を中心とする地中海側の水系であり、もう一方はアラシェ川(Araxe)、レイサラン川(Leizaran)、ウルメア川(Urumea)、ビダソア川(Bidasoa)などの河川からなるカンタブリア海側の水系だ。
 エブロ川の支流には、エガ川(Ega)、アメスコア川(Amezkoa)、アラゴン川(Aragon)、エスカ川(Eska)、イラティ川(Irati)、シダコス川(Cidacos)、アルガ川(Arga)、アラマ川(Alhama)、ケイレス川(Queiles)などがある。エブロ川は南部にトゥデラ(Tudela)を中心都市とする大きな盆地を形成する。またその北部にはアラゴン州と隣接する広大な「ラス・バルデナス」(Las Bardenas)と呼ばれる平原がある。さらに州内にはいたるところに美しい谷があり、特にバスタン(Baztán)、ロンカル(Roncal)、サラサール(Salazar)、ビダソア(Bidasoa)、シンコ・ビヤス=マレレーカ(Cinco Villas-Malerreka)、ウルサマ=バサブルア(Ultzama-Basaburua)、ララウン(Larraun)の谷などは特筆に価しそうだ。
 バスク出身のS・カンドウ神父の著作に「バスクは風と水と光の国だと形容される」と神父は書く。まさしくその言葉通りの風光がある。



 通常であれば南蛮の道Ⅰの次に南蛮の道Ⅱを読むのであろうが、三馬漱太郎の場合はポルトガルがきっかけだったので南蛮の道Ⅱをまず読み終えた。

南蛮の道 二冊 W600H200

 司馬遼太郎の南蛮の旅は、パリから入り、バスクを抜け、マドリードを経てリスボンに向かうコースを取っている。この『南蛮のみち』をつまり、伝道師フランシスコ・ザビエルの故郷であるスペイン北部バスク地方をたずね歩く紀行文を書くのに、マドリーなどスペイン国内の都市ではなく、パリを旅程の起点とした。このスタートの仕方が、司馬らしくて面白い。中世の民の巡礼のみちすじを模倣したのだろうし、ザビエルの留学先カルチェ・ラタンから遡行したかったのだろう。
 途上、フランス・バスクの中心都市であり、ロラン・バルトの育ったところとして知られるバイヨンヌで、聖なる固有名詞だと思っていた「ザビエル(Xabier)」という単語が、この地方ではごくありふれた男子の名前であることを知って、司馬は愕然としてしまう。しかし現代日本では、これは子どもでも知っている事柄だ。シャビ(シャビエル)・アロンソや、シャビエル・プリエトといった有名フットボーラーがバスク人であることなど、少年たちにとっては、ごくごく常識の範疇となっているからだ。と、いう余談は置いて、司馬遼太郎の街道をゆくは、それぞれの話しが完結するようにまとめられているのでどこから読んでもいいのだが、街道ごとに司馬自体の主題がたてられているので読み通した方が主題の理解に近づける。

 たとえば、南蛮の語は、タイ・ジャワ・ルソンなどの南洋諸島を指したが、さらにそこを経由して日本に来た西洋人や文物をも意味するようになり、やがてポルトガルやスペインに限定され、ポルトガルによってキリスト教がもたらされたことからキリシタンの意味にも使われるようになった。そのため、南蛮を調べると、ポルトガルから来た文物とか日本でのキリシタンと弾圧などが中心になってしまう。しかし、司馬さんの主題は、日本にキリスト教を布教しようとする背景に何があったのか、日本にキリスト教をもたらしたフランシスコ・ザビエルとはどういう人物で、なぜイエズス会に入ったのか、そもそもイエズス会はどのような背景で生まれたのか、など人間の生きようとするかたちを見つめようとしていて、いつもながら引き込まれてしまう。司馬はザビエルの男性を見出そうとした。歴史にいるザビエルではなく、ザビエルという男が歩いた道を歴史にしようとする。

ザビエルザビエル W337H350

 フランシスコ・ザビエル(1506~1552)は、バスク地方の出身である。ときおり、バスク独立闘争がニュースで流れるから聞いたことがあるかもしれない。バスクという国は存在しないがバスク人の誇りはいまも続いていて、バスクについての話しも考えさせられる。さてザビエルだが、バスク(いまのスペイン・ナバラ州)のザビエル城で育ったが、城主である父はナバラ国の首都パンブロナの宰相で、スペインの攻撃にあって殺されてしまう。パンブロナ城に入ったスペイン軍の守備隊にやはりバスク人であるイグナチウス・ロヨラ(1491~1556)がいて、その後の攻防戦で大けがをする。
 ザビエルは1525年、19歳で名門パリ大学に留学。聖バルブ学院に入り、そこで自由学芸を修め、哲学を学んでいるときに同室になったのがフランス出身の若きピエール・ファーヴルであった。そこに同じバスクから来た37歳の転校生イニゴ(イグナチオ・デ・ロヨラ)も加わる。以後一度もザビエルは故郷バスクには帰ることは無かった。
 1529年、ザビエルの母が死亡。その4年後、ガンディアの女子修道院長だった姉も亡くなる。この時期ザビエルは哲学コースの最後の課程に入っていたが、イグナチオから強い影響を受け、聖職者を志すことになる。


Pamplona gif  街道をゆく 2 H72


パンプローナ(Pamplona) バスク語イルーニャ(Iruña) Navarra


 ローマ帝国期、バスク人の遠祖はいくつかの部族に分かれていたが、ひとつの民族的な集団として広い領域に分布していた。少なくとも、アキテーヌと険しい中央ピレネー山脈からアンドラまでの地域を含んでいた。ローマ人の登場により、いくつかの道路や研究の進んでいない小さな町、使い回された田舎の入植地が残されている。パンプローナは有名なローマの将軍ポンペイウスによって築かれ、セルトリウスに対抗するための遠征の司令部として使われた。
 パンプローナ牛追い祭り(正式名サン・フェルミン祭)が毎年7月6日から14日まで開催されることで有名。またここはアメリカの小説家、アーネスト・ヘミングウェイの長編小説『日はまた昇る』の主な舞台にもなっている。
 そんなパンプローナは、クエンカ・デ・パンプローナで知られる円形の谷の中にあり、ナバラ州の中間に位置する。クエンカ・デ・パンプローナは、エブロ川谷とともに北の山地とつながる。気候とクエンカの風景は、2つの主なナバラ州の地理上を二分する、地方の間にある個性的な変わり目である。フェリペ2世は市南側に星型要塞の建物建設と、全ての城壁の現代化を命じた。16世紀終わりから18世紀にかけて建てられた城壁は現在も残っている。また街の中央にある十字路は、ナバラ州の非常に異なる自然の間をつなぐ重要な通商路となってきた。
 その十字路の、ナバラ州都のパンプローナからザビエル城までは東南に52kmとなる。パンプローナから車で約1時間。住所「Plaza San Francisco Javier S/N ,Javier 31411」。

Javier gif  街道をゆく 2 H72

ザビエル城 2 W600


                                         ザビエル城 EI CASTILLO DE JAVIER



 ザビエルは、没落したとはいえ名門であり、パリの聖バルブ学院に入学する。やがて、軍人を諦めたロヨラが神の騎士になろうとして聖バルブ学院に入学し、1537年にイエズス会を起こす。当時は宗教改革が進んでいるときで、ロヨラはプロテスタントに対抗し、ローマ・カトリックの教義に戻ることを主張し、回心を説いた。その説得でついにザビエルもイエズス会に入ることになる。おりしも、大航海時代全盛のスペイン・ポルトガルは布教という名目でアジアへの進出を目指しており、イエズス会と符合することになる。ということで、日本に初めてイエズス会・ザビエルによってキリスト教がもたらされたのである。

 イグナチオの感化を受けた青年たちが集まり、1534年8月15日、イグナチオ、ザビエル、ファーブルとシモン・ロドリゲス、ディエゴ・ライネス、ニコラス・ボバディリャ、アルフォンソ・サルメロンの7人が、モンマルトルの聖堂において神に生涯を捧げるという誓いを立てた。
 これが「モンマルトルの誓い」である。この時のミサは、唯一司祭の資格を持っていたファーブルが執り行った。一同は教皇パウルス3世の知遇を得て、叙階許可を与えられたので、1537年6月、ヴェネツィアの教会でビンセンテ・ニグサンティ司教によって、ザビエルもイグナチオらと共に司祭に叙階された。彼らはエルサレム巡礼の誓いを立てていたが、これは国際情勢の悪化で果たせなかった。

 この司馬遼太郎の本にはマドリード周辺が描かれており、私も何度か座右の書として持参した。
 実はスペインが初めてのヨーロッパであり、セビリア、コルドバ、グラナダ、トレドなどを回るうちにキリスト教文明とイスラム文明のしのぎを削る相克、あるいは混在に強烈な印象を受け、この本の主題が小さくなってしまった。このときの旅の印象は、私をトルコのイスラム建築、イタリアのキリスト建築、さらに北アフリカのモロッコ・チュニジア・エジプトの建築へと展開させていった。途中、一息して旅の足跡をみるとポルトガルが気になりだした。かつてはスペインとともに大航海時代の幕開けをし、日本にはいち早く鉄砲やキリスト教によってヨーロッパの存在を伝えた国である。以後、幾度もポルトガルを訪れる。そこで2007年の暮れ、15度目のポルトガルを訪ねることにし、マドリードとともにポルトガルを描いているこの本をもう一度読み通した。

 そもそも南蛮とは中国で南方の野蛮人を指す言葉として用いられ、転化して日本では南洋諸島を指す言葉として使われてきた。しかし、大航海時代に南洋諸島を拠点にポルトガル人がキリスト教の布教のため渡来したことから、ポルトガル人あるいはスペイン人を南蛮人と呼び慣わすようになったとされる。わざわざ南蛮と題したこの本を読み終えてみると、司馬遼太郎は、はるか彼方の日本にまでキリスト教を布教しようとした南蛮人の精神と、大航海時代に栄えたにもかかわらずいまや世界の表舞台から一歩退いてしまったそのわけを明かそうとしたように思える。
 前半マドリードでは天正遣欧少年使節団が登場する。伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチーニョ、中浦ジュリアンのいずれも14~15才のまさに少年が、1584年リスボンに到着し、マドリードでスペイン全盛期のフェリペⅡ世に拝謁、さらにローマ法王グレゴリウス13世に謁見して1590年に帰国するのだが、すでにキリスト教は異端視され、彼らの役目は悲劇として終焉する。
 しかしこれを終焉としたのでは今日の史観が許すはずもない。天正少年使節者が何を体験し、どう意識したのかを再認識するとき、司馬としては大きな使命感を覚えた。終焉とする既成観念は時代権力による無体な暴力的忙殺であったはずだ。司馬が鎖国から明治維新における日本治世の動向を考察した場合、より合理的な問題として導くべき視線だけは消さぬようにした。

マンショと天正少年使節 W600H195


 司馬遼太郎は少年たちの壮大なパノラマの真の意味を探ろうとして、当時ゲルニカが展示されていたプラド美術館には目もくれず、4少年がフェリペⅡ世に拝謁したサン・ヘロニモ修道院を探し当て、訪ねるのである。
 4少年にとっては法王との謁見であっても、キリスト教側では日本の王子が全権を持っての拝謁とされた。となれば日本はキリスト教下に入ったことであり、当時、世界はトルデシリャス条約(1494年)によってスペインとポルトガルに二分されていたため、日本はポルトガルの支配下に入ったことになり、スペインもその利権を取りたがっていた、という構図が浮かびあがる。やはり歴史は見たい側からだけ見てはだめなのである。

 後半ポルトガルでは大航海時代が主題になる。スペインに王位を狙われ続けてきたポルトガルは、ジョアン1世の時にイギリスと同盟(1386年)を結び、王妃をめとる。その子どもの一人がエンリケ航海王子で、海を目指し、アフリカへ、さらに喜望峰を回りインドへ、そしてマカオや日本、ブラジルに到達することになる。その栄華がジェロニモス修道院などに表れているのだが、しかし、植民地からの収奪による繁栄であったため産業が育たず、国力を失ってしまった。哀調をおびたファドがその気分を歌い上げているのかも知れない。歴史におぼれてはいけないということでもあろう。
 
 三馬漱太郎がポルトガルを強く意識したのは、ポルトガルがイベリア半島をスペインとで分かち合っているという地理的な知識もあるが、スペインの旅で強烈に感じたのは、イスラムに対するレコンキスタ(国土回復運動)で、その終盤、イスラムに対抗していたカスティリア、アラゴン、ポルトガルのうち、カスティリアのイサベル王女とアラゴンのフェルナンド王子が結婚(1469年)、スペインが誕生し、最後のイスラム王国グラナダを奪還(1492年)したことであった。
 その後、スペインのカルロス一世はハプスブルク家を継ぎ、神聖ローマ皇帝に選ばれる(1519年)など、スペインは黄金時代に入っていく。当然、ポルトガルへの食指が動かないはずはない。スペインの古都トレドを流れるタホtajo川はイベリア半島を西に下り、ポルトガルに入ってからはテージョtejo川と名を変え、リスボンで大西洋に出るのである。スペインの南の古都、コルドバやセビージャはグアダルキビル川沿いに位置し、大西洋への地の利はいいが、いつイスラムが巻き返してくるか分からない。アフリカ進出、そして新大陸発見など、大航海時代を仕切るには、ポルトガル併合は必須であったに違いない。

 もちろん、ポルトガルもスペインの狙いは感じていたはずである。そもそもスペインにしろ、ポルトガルにしろ歴史的な都市はローマ帝国時代の植民都市である。ポルトガルの国名にもなったポルトportoもローマ帝国時代の積出港といわれる。イスラムに支配されていたころこのあたりはポルトカレと呼ばれ、レコンキスタでこの地を奪回したのがフランス貴族であったため、彼がポルトカレ公爵としてここを治めるようになった。彼の息子エンリケスは、領内貴族の支援を受け、イスラムを撃退、カスティリアからも分離独立を勝ち取り、ポルトガル王国が成立した(1143年)。エンリケスは次にコインブラに都を移しながらイスラムを追撃し、リスボンに進出する。その後、リスボンに都が移され(1249年ごろ)、間もなく大航海時代(1415年~)に入っていくが、スペインの脅威を感じるポルトガルはイギリスとの同盟を結び、安定を図ろうとする。

 その一方で、ポルトガルはアフリカへ進出、さらには喜望峰を回り(1487年)、ゴア征服(1510年)、マラッカ征服(1511年)、そしてついに1543年種子島漂着、1549年ザビエル来日、1581年宣教師ヴァリニャーノ、信長と会見、1584年には天正遣欧少年使節団がリスボンに上陸することになる。ポルトガルの歴史によって日本の歴史が動いたと言っても過言ではないのである。にもかかわらず、ポルトガルがアフリカやアジア、ブラジルの富の収奪で国家をなしてきたため、ポルトガル内に産業基盤が成長せず、植民地での原資の消失、列強の植民地への進出、植民地の独立などによって、近代の波に隠れてしまい、明治以降の日本はむしろ近代の列強に目を向け、ポルトガルとの縁が薄れてしまった。

 この本「南蛮のみち」からは、ポルトガルの栄光と苦難、そして日本との結びつきを豊富な写真で理解することができる。また体質的にもポルトガルは日本とウマがあうことが窺える。

 このように司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズのひとつ「南蛮のみち」は、フランスから始まりスペインへと旅してゆく紀行文なのだが、一つの山場として両国の国境にすむバスク人たちが大きなテーマとなっている。

 フランスから日本に渡って、初めてキリスト教を伝えたザビエル神父が最初に紹介されている。そこもザビエルの信仰や当時の修道士の暮らしぶりなど伺えて良いところだが、そのあと、スペインに向かう前、両国間のバスク人に焦点をあてている。
 この本では、バスクの地を訪れて、バスクの人たちとふれあい、その言葉や風俗習慣、考え方を探ってゆくようすが興味深い。タイトルにもある「南蛮」のイメージのルーツをそこにひとつ、見ていこうとするねらいもあるようだ。
 司馬遼太郎の小説は時代劇にしても、本筋を離れて「余談になるが……」とわき道にそれて、その余談が延々と続くのだけど、そこに歴史をわかりやすく縦断してみせる独自の司馬史観があって面白い。「街道をゆく」シリーズはその真骨頂であろう。

 カンドウ神父という方がいる。ザビエル神父とは違い現代の人物だけど、この人もバスク出身ということで取り上げられている。信仰厚く、日本で人々の慈善に勤めてくれた方だという。感動させられる生涯だ。
 1925(大正14)年に来日、日本の人と文化を愛し、日本語も堪能でエッセイも多く残している。そのなかで、故郷のバスクのことを「風と水と光の国」だと愛着を持って描いている。そこに司馬遼太郎は魅かれて興味を持った。

 若い頃のフランシスコ・ザビエルは神学とは無縁で、将来は哲学の研究に捧げようと思っていたのに、カルチェラタンでイグナチウス・ロヨラに出会ったばっかりにイエズス会に入り、ポルトガル王の支援で日本に伝道に来る事になった。司馬は「まことに人の運命って数奇なものだ」と語る。司馬遼太郎一行はザビエルの出身地、スペインのバスク地方を訪れ、実家のお城を見学する。
 そこで、茶道の所作は、キリシタンの司祭のミサの所作に影響を受けているのは?、とか、秀吉以後、港湾部に首都を作るようになったのはリスボンをモデルにしたのでは?、とか、当時のスペイン・ポルトガルが日本に与えた影響について語っている。後年、司馬は「スペイン史観とポルトガル史観は、日本にとって正確な史観を組み立てる最重要とすべき遺産なのだ。私も更に念入りに洗い直さねばならない。どうやらその時がきた」と、南蛮の道にした取材時を回想して、そう語ってくれた。

 日本とポルトガルの接点は1543年である。ポルトガル船が種子島に漂着し鉄砲が伝来した。しかしこれは日本人側による視点、ポルトガル人が日本という国を発見し上陸した年でもある。以後、日本の形成を大きく揺るがそうとする出来事が数多く起きることになる。その一つにキリスト教の伝来が上げれれる。その異国の宗教がもたらした新しい文化の中に伊東マンショは生きた。

 イエズス会(ラテン語:Societas Iesu)は、キリスト教、カトリック教会の男子修道会。宗教改革以来、イエズス会員は「教皇の精鋭部隊」とも呼ばれた。このような軍隊的な呼び名は創立者イグナチオ・デ・ロヨラが修道生活に入る以前に騎士であり、長く軍隊ですごしたことと深い関係がある。古くの日本では「イエス」の漢訳が耶穌であることから耶穌会(やそかい)とも呼ばれていた。

イグナチオ・デ・ロヨラ 3 W600

 1534年8月15日がイエズス会の創立日とされる。
 パリ郊外のモンマルトルの丘の中腹のサン・ドニ聖堂(現在のサクレ・クール聖堂の場所にあったベネディクト女子修道院の一部)にイグナチオ・デ・ロヨラとパリ大学の学友6名の同志が集まり、ミサにあずかって生涯を神にささげる誓いを立てた。1534年8月15日、これをして創立日とする。彼ら7名は清貧・貞潔の誓いとともに「エルサレムへの巡礼と同地での奉仕、それが不可能なら教皇の望むところへどこでもゆく」という誓いを立てた。
 3年後の1537年、一行はイタリアへ赴き、教皇から修道会の認可を得ようとする。当時の教皇パウルス3世は彼らの高い徳と学識を見て、まず彼らの司祭叙階を認めた。
 ファーヴルはすでに司祭叙階されていたため、他の6名が6月24日にヴェネツィアで叙階を受ける。そしてオスマン帝国と神聖ローマ帝国のカール5世の間で行われていた争いのために、地中海を渡ってエルサレムに赴くことができなかったため、彼らはとりあえずイタリア半島にとどまって説教をしながら、奉仕の業に専念した。
 そして翌1538年の10月イグナチオはファーヴルとライネスの二人を連れて再びローマを訪れ、会憲の許可を願った。審査した枢機卿会の面々はほとんどが好意的にこれを評価したため、教皇パウルス3世は1540年9月27日の回勅『レジミニ・ミリタンティス(Regimini Militantis)』でイエズス会に正式な認可を与えた。このとき、与えた唯一の制限は会員数が60名を超えないようにということであったが、この制限は1543年5月14日の回勅『インユンクトゥム・ノビス(Injunctum Nobis)』で取り払われた。こうしてイグナチオは会の初代指導者(総長)に選ばれ、会員たちをヨーロッパ全域に学校や神学校設立のために派遣する。
 司馬遼太郎はこの経緯を念入りに確認した。
 そして司馬は、会が発展するに伴ってイエズス会の活動分野が三つに絞られていったことに注目する。
 第一は「高等教育」であり、ヨーロッパ各地で学校設立の願いを受けてイエズス会員は引く手あまたであったこと。イエズス会員は神学だけでなく古典文学にも精通していることが特徴であった。
 第二の活動分野は「非キリスト教徒を信仰に導く宣教活動」であった。
 第三はプロテスタントの拡大に対するカトリックの「防波堤」になることであった。
 このようなイエズス会員の精力的な活動によって、南ドイツとポーランドのプロテスタンティズムは衰退し、カトリックが再び復興する。
 これらを踏まえた上で司馬遼太郎は、別の機会でパリのモンマルトルに佇んだとき「死人のごとき従順(perinde ac cadaver)」という言葉を強く思い出したという。そう語る司馬さんの眼光は黒眼鏡のレンズに少し振動を与えるほど輝いた。それは70歳ぐらいだったと思う。

 その「死人のごとき従順」とは、イグナチオが1554に改定した会憲での言葉である。
 そこにはイエズス会が総長をトップとする組織であることが明記され、教皇と会の長上への絶対的な従順を会員に求めたとき、イグナチオは「死人のごとき従順(perinde ac cadaver)」という言葉を用いている。そして以後、彼のこの座右の銘はイエズス会の変わらぬモットーとなった。
 またそこには「神のより大いなる栄光のために(Ad Majorem Dei Gloriam)」という趣旨を含む。これは「どんな活動でもよい意志をもって精力的におこなえばかならず神の国のためになる」という精神を表していた。

モンマルトルの誓い 1 W600
 パリ紀行「モンマルトルの誓い」
 Anversの地下鉄駅を出ると正面に白亜のサクレクール寺院が見えてくる。モンマルトルの丘に向かって正面に見える寺院を眺めながらスタンケルク通り(Rue de Steinkerque)の坂を上がる。この通りを登って、途中トロワ・フレール通り(Rue des Trois Freres)から右手に曲がるとイヴォンヌ・ル・タック通り(Rue Yvonne Le Tac)、この通りの11番地にオクシリヤトリス派の礼拝堂がある。
 ここはサン・ドニとその仲間たちがこのあたりで首をはねられたと伝えられている。そしてマルティリオム 「殉教者の記念堂」 として中世に聖堂が建っていた場所だ。その昔、この地下聖堂の中で、1534年8月15日、イグナチオ・ロヨラ、フランシスコ・ザビエルなど7人の同士が、ローマ教会のために宣教師となる事を誓い合った。上写真はその場所である。



 イグナチオが「死人のごとき従順」という言葉を遺した1554年から26年後の1580年(天正8)、11歳になった伊東マンショは有馬のセミナリオに入校する。
 このとき伊東マンショはイグナチオの信仰精神を宿したといえる。
 その1580年とは、石川本願寺が織田信長に降伏し、6月イギリス商船が平戸に来航した。そしてスペイン王フェリペ2世がポルトガルを併合。翌年にはオランダがスペインから独立した。天回するこの状況が天正遣欧少年使節の長崎出航の夜明け前である。

 いわゆる大航海時代というものは、アジア及び新大陸に対し「富とキリスト教徒」を要求した。このためイエズス会の東洋に対する布教活動も、ポルトガル本国の政治的・経済的進出から切離しては考えることのできない性質を有している。イエズス会の布教活動は、ある場合には軍事侵略の良きパートナトーであり、またある場合には貿易活動の良きアドバイザーとさえなった。特に日本においては、イエズス会士の貿易活動がその顕著な傾向として特長づけられる。
 ザビエルによって拓かれた日本布教の道は、その後継者達によって踏み固められていくこととなる。


南蛮屏風に描かれたイエズス会士とフランシスコ会士 W600


                      シリーズ連載・次回No.fileに続く
                         look gif H100
Mancio C W600
           MANCIO
ライン黒 W600


                         My images 割 gif

                  Sotarou 1


ライン黒 W600



伊東マンショの正体を科学する No.0003

Ron.gifSO 50World.gif     地球 gif WH80
波動 gif W300漱太郎 1

Science to elucidate the identity of X 20
X 100伊東満所 文字3 W385
ライン黒 W600
伊東満所 資料5 W300H30マンショ関連の画像 スライドgif

マンショ広告 3 W600

          ゼブラ球 W100      ZERO 連gif辻斬りZ W100H100 gif

ほん1 W45H40 伊東満所 資料1  Dr Donut W40H40
 世界は大航海時代。日本は戦国「下克上」の世。同時期にキリスト教が伝来する。織田信長の比叡山焼き討ちのころに、また室町幕府が終焉しようとするころに、日向国一円に勢力する豪族の伊東家に数奇な運命を宿す一人の男児が誕生した。
 この男児が後に天正遣欧少年使節の正使となる伊東マンショ。
 だがこの人物についての実像を記す資料は今日に乏しい。その背景には当時の混乱と錯覚とが不遇にも交錯する日本史の実情がある。つまり記録として残せない深い闇の淵に置き去られた。
 No.2631ファイル・データはこの歴史人の正体に迫る研究をシリーズ構成でつづる資料コラム。中世の街道を往来した人物との交流を織り重ねながらマンショの足跡の真相を編集する。・・・・伊東満所

伊東満所 文字5
伊東満所 文字4 W600
ドン満所 gif H150   Mancio 100
ライン黒 W600

Mancio C W600

signbot (2)To science Mansho W303H40To science Mancio gif
ボストン W600
Xの正体

ライン黒 W600
四角錘あか  File No.3 南蛮の道とマンショの肖像(
ライン黒 W600

     辻斬りZ W50H50 gif  ① 中世を生きた少年の真相を映像で迫る
     ライン黄色 gif
         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

     伊東満所 文字6  Dr Donut W50H50 gif

     巡察師として日本を訪れたイエズス会のアレッサンドロ・ヴァリニャーノは、キリシタン大名・大村純忠と知り合い、財政難に陥っていた日本の布教事業を立て直しと、次代を担う邦人司祭育成のため、キリシタン大名の名代となる使節をローマに派遣しようと考えた。
 そこで使節に選ばれたのがセミナリヨで学んでいた伊東マンショを含む4人の少年たちである。こうして天正遣欧少年使節は長崎から出航した。
 その主席正使を果たした伊東マンショは永禄12年(1569年)に、日向国都於郡(今の宮崎県西都市)にて、伊東祐青と母である伊東義祐の娘(通称「町の上」)の間に生まれる。そして慶長17年(1612年)11月13日に長崎で病死する。
 マンショ没後400年、2012年は一つの記念すべき節目となった。次の節目を迎えるとすれば2019年となろう。生誕450年を迎える。この2019年を目指して進行する伊東マンショのプロジェクトがある。

マンショ肖像 C gif W200H146伊東マンショ 001

 前回のfile-No.2にて、新しい伊東マンショの肖像画発見の話題に触れたが、その鑑定の確証を2019年をメドに完了する。そして現在、残された課題をクリアーすべく慎重な精査が続けられている。
 また同時進行として、現在までに発掘した肖像画や足跡実態検証文献等をひもとき、各パーツを統合し整合させる手法から導かれる伊東マンショの実像に近づこうとする表現計画の具体化がある。

オバマ大統領とマンショ肖像 W600

マンショ文字 1 W400H133マノエル・ド・オリヴェイラ W200

 マノエル・ド・オリヴェイラ(Manoel de Oliveira)監督は2007年『コロンブス 永遠の海』で新大陸アメリカの発見を題材にした。本プロジェクトが提起される過程にこの映画が伏線にある。映画はアメリカで大きく話題化された。
 そして構想として伊東マンショの肖像画を所有するマノエル・ド・オリヴェイラは「中世・東洋の少年の旅」をテーマとする伊東マンショの実像に迫ろうとして描く映画化がある。

 現在、グルベアンキン美術館とボストン美術館が連帯する共同学芸技術チームが2019年公開を予定する映画化構想を底辺で助成する研究活動も活発化した。
 コンベルソの家系(ポルトガルから来た父方の祖父がコンベルソ)の末裔であるマノエル・ド・オリヴェイラが描く中世の東洋と西欧空間とは、そして伊東マンショの正体とは、果たしていかなる映像として世界を駆け巡るのか。大きな楽しみである。

J・K・ローリング 7 W200H215マンショ文字 2 W400H215

 さらにこの映画の脚本をJ・K・ローリングが提供する。

 世界的ベストセラー小説「ハリー・ポッター」シリーズの作者、J・K・ローリングは先年、ロンドンで開催された映画「ハリー・ポッターと死の秘宝 PART1」のワールドプレミアで、マノエル・ド・オリヴェイラ監督による映画化構想を明らかにした。制作準備事務局内の極秘事項はポロリと露見した。
 このときローリングは、再びレッドカーペットで「立てる日を楽しみにしているが、完成前にストーリーは話したい」と話している。
 また、ハリー・ポッターは、かなり前に書き終えたため、映画に出演した俳優よりも、シリーズ完結について消化する時間があったと語り、「小説を書き終えたときの喪失感をもう乗り越えたので、今自分は楽しい気分だが、マノエル・ド・オリヴェイラ監督は歴史の実像に迫る。きっと撮影現場は過酷、だから(俳優たちは)辛いと思う」と述べた。
 一方、そのことを聞いたマノエル・ド・オリヴェイラ監督は、ローリングの心配をよそに、既に主演の伊東マンショは、中世時代の真相に目を向けている。そのマンショ役を担う(日本人俳優の予定)人物は、伊東マンショと同じ胸中を演じることになるだろうとの考えを示し、「世界中で、伊東マンショの役を演じるのは400年間で一人なのだから、脚本は過酷過ぎるほど配役には栄光が待ち受けているし、撮影現場は過酷過ぎるほど私も俳優も気合十分。だから世界一過酷な撮影になるね」と話した。
伊東マンショ肖像 gifスライド W150   伊東マンショ頭蓋骨 1 W300 骨相 gif 200

 伊東氏が島津氏の攻撃を受け、伊東氏の支城の綾城が落城した際、当時8歳だったマンショは家臣の田中國廣に背負われ豊後国に落ち延びる。同地でキリスト教と出会い、その縁で司祭を志して有馬のセミナリヨに入った。マンショの生涯は幼少期から波乱とミステリアスに満ちている。少年期にローマへ、帰国後の青年期から病死までの半世紀にも満たない人生の中で、全ての時間が波乱尽くし。そして瞬時が世界の時事と連動して駆け巡る。また伊東一族の豊後落ちの後、放浪の田中國廣は京都に定着し、高名な刀鍛冶となるが、そこには宮本武蔵との出逢いがある。そしてその武蔵が小倉城下でローマより帰国したマンショと出逢うことになる。
 こうした場面展開をどう映像で切り取るのか。その時代考証を三馬漱太郎が担当するのだが、是非、日本人の視線でも正確な考証を果たしたい。
 マノエル・ド・オリヴェイラ監督の要請により、肖像画から描き出して復元する伊東マンショの3Dグラフィックス像も完成間も無くの仕上がりとなってきた。
 後数年でマンショの顔が復元できる。これらも実に長い長い工程(30年間)であった。

マンショ広告 4 W600

 現在までの日本史をひもとくと、マンショは大友宗麟の名代として使節に選ばれた。これはマンショが宗麟の姪(一条房基子女)の夫である伊東義益の妹の子という遠縁の関係にあったためで、本来は義益の子で宗麟と血縁関係にある伊東祐勝が派遣される予定であった。だが、当時祐勝は安土(現・近江八幡市安土町)にいて出発に間にあわず、マンショが代役となったという経緯がある。
 そして天正18年(1590年)、日本に帰国したマンショらは翌天正19年(1591年)、聚楽第で豊臣秀吉と謁見する。秀吉は彼らを気に入り、マンショには特に強く仕官を勧めたが、司祭になることを決めていたためそれを断った。その後、司祭になる勉強を続けるべく天草にあった修練院に入り、コレジオに進んで勉学を続ける。そして、文禄2年(1593年)7月25日にイエズス会に入会した。しかし、こうした日本人による史観と、中世当時の各国における史観とに整合性を求めたとき、実態に符合しない光と闇との部分が浮き彫りとなる。伊東マンショの真相と正体に迫る当プロジェクトは2019年を目指して未だ精査中である。

 映画化はワーナー・ブラザース映画によって、撮影はリーブスデン・スタジオで行われる。配役による撮影は2015年から開始予定だが、すでに2010年から時代背景に挿入するロケーション撮影は進められている。

マンショimage 6 W600

マンショ広告 5 W600


     辻斬りZ W50H50 gif  ② 中世・南蛮の道からもたらされた文化
     ライン黄色 gif
         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

     マンショ案内 2  Dr Donut W50H50 gif

     西洋の動向は大航海の趨勢に伴い拡張されて西洋文明はついに日本をも席捲するようになる。西洋の列強帝国は航海技術を進化させて植民地支配で国領土を拡大しようと遠征し、東洋地帯へと動向を活発化させた。これが西洋文明のグローバル化であり国際化が萌芽する中世時代である。

 そんな中世の日本から想起される言葉の一つに「南蛮」という呼称がある。
 この言葉は日本の中世を考察する上で重要なウエイトを占めている。つまり日本人が初めてこの言葉を西洋列強に向けたとき、日本へと渡来したシルクロード文化が西洋文化とクロスし、新しい文明として意識され融合されようとする瞬間であった。このころ日本は室町から安土桃山期、下克上で台頭する戦国武将が内乱を繰り返している。西洋文明は、その戦国絵図の間隙に先ず鉄砲という文化技術で侵入した。

大砲  gif 火縄銃 gif



 エピソード小話火縄銃の実戦活用は戊辰戦争の終盤まで・・・
 以下は、北海道南部松前での話。火縄銃ではもはや勝てない時代。「松前史、懐古談より」

 脱走兵(榎本軍)が来るというので、出陣ということになって、士族たちは城中に召集された。小具足に陣羽織の者、烏帽子をかぶった者、または金筋入りの白はちまきをした者、兵卒は火縄銃に切袴で草鞋がけという扮装で御城から御出陣という時は、法螺の貝をブウーと吹いて太鼓をドンドン叩き、士大将の進めの号令で、しづしづと繰り出した。ところが戦争になってからは、この方が強くないのか、脱走の方が強すぎたのか、何時も負けてばかりいた。なにしろ火縄銃では鉄砲を掃除して、玉をこめてフウッと縄を吹いたりしてドンと一発撃つ間に、敵は新式の銃で五、六発も撃ってくる。こちらは具足をつけているのに、あちらは股引き、脚半という身軽な扮装で、動作も敏捷であった。(鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗北すると、榎本武揚は、大坂城内にあった18万両という大金を富士丸に積み、残された旧幕府軍側の兵士達と共に江戸品川沖へ撤退した。 江戸へ撤退後、榎本は小栗忠順と共には主戦論を主張したが、すでに恭順の意思を固めつつあった徳川慶喜の容れるところとならなかった。新政府軍は江戸城を無血開城すると、幕府海軍艦隊を引渡すことを要求するが、榎本は拒否し、悪天候を理由に7隻を連れて品川沖から安房国館山に退去する。 勝海舟の説得により4隻(富士・朝陽・翔鶴・観光)だけを新政府軍に引渡したが、開陽等主力艦の温存に成功した。 5月、徳川家は駿河、遠江70万石に減封になり、艦隊は徳川家臣団の駿府移封の作業に従事する。 徳川家が約8万人の幕臣を養うことは困難となり、多くの幕臣が路頭に迷うことを憂いた榎本は、蝦夷地に旧幕臣を移住させ、北方の防備と開拓にあたらせようと画策し、朝廷に対して「蝦夷地殖民認可の嘆願書」を提出した。しかし、蝦夷地殖民は拒否され、徳川家臣団の駿府移封が完了すると、再び幕府艦隊の引渡しを要求されたため、榎本は抗戦派の旧幕臣とともに開陽、回天、蟠竜、千代田形、神速丸、美賀保丸、咸臨丸、長鯨丸の8艦から成る旧幕府艦隊を率いて江戸を脱出し、東征軍に抵抗する奥羽越列藩同盟の支援に向かった。 この榎本艦隊には、若年寄・永井尚志、陸軍奉行並・松平太郎などの重役の他、大塚霍之丞や丸毛利恒など彰義隊の生き残りと人見勝太郎や伊庭八郎などの遊撃隊、そして、旧幕府軍事顧問団の一員だったジュール・ブリュネとアンドレ・カズヌーヴらフランス軍人など、総勢2,000余名が乗船していた。 江戸脱出にあたって榎本は「徳川家臣大挙告文」という趣意書を発表している)
 上のエピソードはこの榎本軍と戦った松前藩の体験記である。当時の松前藩で使用していた銃は、300年前に渡来した火縄銃とほぼ同型式の銃で戦った。これに対し榎本は、オランダで国際法や軍事知識、造船や船舶に関する知識を学んでいる。北へ逃れる敗走軍とはいえ最新の兵器を装備していた。

 鉄砲伝来以降、16世紀後半から17世紀初頭の間、この約50年間の日本は、世界最大の銃保有国であった。つまり日本は世界のどの国よりも人間を合理的に効率的に殺傷する文明国として邁進した。これにより世界舞台では莫大な経済が動くことになる。西洋の視線には、やはり日本とは黄金の国と映る。

 ヨーロッパでは、マルコ・ポーロが『東方見聞録』で「黄金の国ジパング」という名で日本国の存在を伝えて以降、その未知の島は旧来のヨーロッパに伝わる宝島伝説と結び付けられ、多くの人の関心を惹きつけた。しかし、この東洋の未知の島はその後約250年に渡って未知の島であり続け、天文年間にポルトガル人によってその発見が成されるまで、ヨーロッパで発行される世界地図や地球儀の太平洋上をあちらこちらへと浮動しながら描かれた。
 日本史上においては、鉄砲伝来は日本列島の発見とともに1543年という説が採られており、有力であるが決定的な史料が見つかっておらず、特定できていない。

火縄銃 gif W600

 ホイールロック式(Wheellock)とは、鋼輪の回転による、銃の点火方式。鋼輪式または歯輪式ともいう。バネ動力などを使って鋼輪(ホイール)を回転させ、これにハンマーに装着した火打ち石(燧石=フリントや黄鉄鉱など)を打ち付け擦り付けることで火花を得て火薬に点火する方式。1510年ころにはそれに類する銃があったと推測される文献が存在する。またレオナルド・ダ・ヴィンチのメモの中にもこの構造図の着想が残されている。
                  回転人体図
 この銃の点火方式としては火縄銃(マッチロック式)の次世代として登場した歴史を持つ。マスケット銃や特に騎兵用短銃に実装されたが、構造が複雑であることから高価で、多くは上層階級の戦闘員が騎馬戦闘に用いるにとどまった。火縄銃の火種に関する欠点(火種の保存管理・光や匂いなどの対敵露見性)を克服するものとして一歩進んだものではあったが、高価のみならず構造上故障が多く信頼性が低い等の理由で、すぐにその次の世代のフリントロック式(打撃式)にとってかわられた。

 ホイールロック次世代の燧石式はミュクレット式とスナップハンス式の二つの流れがあるが、基本的に大差はない。やがてフリントロック式として同じ形態のものなって行き、その形式は雷管の登場(1800年代初頭)まで主流として続くことになる。日本においても幕末期に至りこの形式の銃を模造した例が残されている。
 日本においては久米(栄左衛門)通賢(くめみちたか・讃岐国坂出の人)が鋼輪式点火法を考案しているが、中国兵書『武備志』に載る地雷火の点火法から着想を得たとしている。外観の一部こそ洋式に似ているが、構造上から通賢独自の発明とみられる(四国には通賢弟子作の鋼輪式銃がいくつか見られる)。

 このような日本に伝来された火縄銃が技術進化する過程において、天正遣欧少年使節の正使者を果たした伊東マンショ等一行はポルトガルのリスボンに上陸した際にホイールロック式銃の祝砲により歓迎された。下記写真はマンショが当時垣間見たホイールロック式銃である。

ホイールロック式銃

 種子島に伝来したマッチロック式銃(火縄銃)は、火種がなければ発射出来ず、湿気に弱いという欠点があった。この欠点を解消するため、歯車と黄鉄鉱を用いた点火方式を採用したものがホイールロック式銃である。
 引き金を引くと歯車が回転し、黄鉄鉱とぶつかって火花を散らす(いわゆるライターの原理)。
 この火花を火種にして、火皿の中の火薬に点火するのである。ただし、この銃は構造が複雑であり、それゆえに高額となり、さらに暴発も多かった事から あまり普及はされず、後のフリントロック式に取って代わられる事となった。
 しかし当時マンショがリスボンで見たホイールロック式銃は、豊臣秀吉軍や徳川家康軍が使用した火縄銃より数段進化したタイプであり、この銃を見た日本人はマンショ等の他に前例者の記録はない。

 遣欧少年使節は1584年8月10日 (天正12年旧暦7月5日)ポルトガルの首都リスボンに到着。船が港に着岸したのは未明の暗がり、夜明けに上陸しサン・ロッケ教会が宿舎とされた。そしてリスボン近郊シントラのアルベルト・アウストリア枢機卿(フェリペ2世の妹マリアと神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の男子)の王宮に招かれる。少年使節の一行は宿舎から出発する際に祝砲により歓迎された。
          5月10日:喜望峰を通過。
          8月10日:リスボンに上陸、イエズス会修道院にはいる。
          8月13日:枢機卿アルベルト・アウストリアに謁す。
          8月20日~25日:シントラの王宮に招かる。
          9月5日:リスボンを出発。
          9月8日:エーヴォラに到着。


アルベルト・アウストリア枢機卿 W600
                    アルベルト・アウストリア枢機卿(アルブレヒト7世)

 アルブレヒト・フォン・エスターライヒまたはアルブレヒト7世・フォン・エスターライヒ(Albrecht VII. von Österreich, 1559年11月13日~1621年7月15日)は、スペイン領ネーデルラント君主。妃イサベル・クララ・エウヘニアと共に共同統治を行った。

 神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世とスペイン王女マリアの五男として、ヴィーナー・ノイシュタットで誕生する。幼いうちにスペイン宮廷へ送られて、11歳まで叔父フェリペ2世に教育され、事実上聖職者になるべく定められていた。
 18歳でローマにあるサンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ聖堂の枢機卿に任命された。フェリペは甥をトレド大司教にしようともくろんでいたが、現職が長寿のためその機会はなかなかやってこなかった。アルブレヒトは教会内で責任ある地位につくことができず、ポルトガル併合後の初代副王となった。1588年にはアルマダを組織してリスボンの戦いでイングランド軍を撃破する。1593年にマドリードへ呼び戻され、スペイン絶対王政の指導者となっていった。
 1595年、三兄エルンストが死去したため、ネーデルラント総督の後継者としてブリュッセルへ入城する。アルブレヒトの最初の課題は、低地諸国でのスペインの軍事的優位性を建て直すことにあった。当時、低地諸国ではオランダ共和国、イングランド、フランスが入り乱れた状態であった。1599年、既に還俗していたアルブレヒトは従妹にあたるイサベルと結婚した。フェリペ2世はイサベルがアルブレヒトと共同君主であることを宣言する。1604年にイングランドとロンドン条約を締結後、スペイン領ネーデルラントは情勢が安定し、アルブレヒト夫妻は芸術の後援者として著名となった。ピーテル・パウル・ルーベンスはブリュッセルにある彼らの宮廷の専属画家であった。

ポルトガル国旗 gif 1                       ピーテル・パウル・ルーベンス W188H150
                                               ピーテル・パウル・ルーベンス



Sintra gif

シントラ 2
シントラ 3



 ファド(Fado)は、ポルトガルに生まれた民族歌謡。ファドとは運命、または宿命を意味し、このような意味の言葉で自分たちの民族歌謡を表すのは珍しい。1820年代に生まれ、19世紀中ごろにリスボンのマリア・セヴェーラの歌によって現在の地位を得た。したがって伊東マンショがリスボンを訪れた当時この歌謡は未だなかった。

 イタリアにカンツォーネ、フランスにシャンソン、アルゼンチンにタンゴ、ブラジルにサンバがあるように、ポルトガルにはファドがある。主に「Casa de Fado」と呼ばれる(または「Casa do Fado」)レストランなどで歌われる大衆歌謡で、主にポルトガルギター(ギターラ)と現地ではヴィオラと呼ばれるクラシック・ギター(スチール弦使用)、(時には低音ギター(ヴィオラ・バイショ)が加わる場合もある)で伴奏される。
 日本では、ファドは女性が歌うものとの認識が強いようだが、実際には性別に関係なく歌われる。また、ファドは暗く悲しいものだという誤解をもって紹介されることも多いが、我が町を賛美したり、街のうわさ話などを題材とした陽気なファドも数多くある。
 因みに、「大航海時代に帰らぬ船乗りたちを待つ女たちの歌」という起源説は、1974年まで続いた独裁政権(エスタード・ノーヴォ)の文化政策の中で作られたでっちあげである。アマリア・ロドリゲス(1920~1999)が国民的歌手として国内外で知られ、その人気は死後も衰える兆しを見せない。
 首都リスボンと中北部の中心都市コインブラでそれぞれ独特のファドが育まれ、コインブラのそれはコインブラ大学の学生たちのセレナーデとして存在している。日本でよく語られる「リスボンのファドは暗く、コインブラのファドは明るい」という風説も、これは大きな誤解である。

 もう少し深く述べると、その起源については諸説があり、同様にイスラム色の強いお隣スペインの「フラメンコ」との類似点をとらえてか、かつてここを占領していたムーア人(イスラム教徒)達の11世紀頃の音楽、歌謡に源を発しているという説まである。
 わりあい広く認められている説は、大航海時代にポルトガル人達が植民地ブラジルへ連れて行ったアフリカ人奴隷達の踊り「悲しげな舞曲 Fado 」が、植民地から収奪した金やその他の産物とともに、港町リスボアに逆輸入されたというものだ。
 多様な人種と文化の混合する植民地ブラジルから渡ってきた踊り Fado は、 アフリカ色の強い様々な踊りがミックスされ、当時同様に南アメリカ大陸に広く進出していたスペイン支配下のアルゼンチンの「ファンダンゴ」にも影響された、きわめて官能的な踊りだったとのことである。
 リスボアに上陸したこの官能的な踊り Fado は、奴隷としてポルトガルに連れてこられた黒人達や、混血達が多く集まり住んだ古い市街地アルファーマやモウラリアを中心に、リスボアの黒人の間にブームを巻き起こした。
 古びたリスボアの下町で大いに歌いながら踊られた奴隷達の Fado は、やがて舞台音楽や他階級文化の影響を受けるうちにアフリカ的な打楽器の伴奏が次第に失われ、歌の部分のみが強調されて伸び縮みの多い叙情的な歌謡に変化してくる。19世紀に入ると植民地支配の栄光の時代は終わりを告げ、ブラジルやアフリカの植民地を次々と手放したポルトガルは暗い困窮した黄昏の時代に入る。その暗い世相の中で、現在歌われるスタイルの Fado は、貧しい人々が集まる下町の石畳に響くように、裏町の安酒場や売春宿から歌い出された。歌を創るのも歌うのも最下層の人々だった。荒んだ生活や辛い暮らしのうさを振り捨てるかのように、想いのたけを歌に託してほとばしらせたのである。

 Fadoの歌い手をFadista(ファディスタ)と呼ぶが、Fado が最下層の人々の歌であったため、Fadistaという言葉は元々は「やくざ、ならず者、売春婦」の含みを持っていた。そのFadistaの元の意味通り、伝説的なファディスタ「マリア・セヴェーラ(1820~1846)」もモウラリアの売春婦だった。
 リスボアの裏町の石畳に響いていたFadoはやがて、下町の酒場や民衆サロンの狭い場所から出て、貴族達のお気に入りとしてお屋敷内で歌われたり、劇場でも公演されるようになり、たくさんの素晴らしい歌い手たちが誕生し、優れた作詞・作曲家が参加して、より洗練された魅力的な歌が歌われるようになった。
 そして、あまりにも有名なファディスタ「アマリア・ロドリゲス」が出現してFadoはその頂点を迎える。フランス映画「過去のある愛情」の挿入歌として歌われた彼女の「暗いはしけ」(この歌は正確にはブラジルの曲で、Fadoではないのだが・・・)が世界的に注目されて、小国ポルトガルの首都の片隅で生まれた民族歌謡が世界中に知られ多くの人々に愛好される時代を迎えたのである。

ファド W600

 「アマリア・ロドリゲス」の偉大さについては、あらためて語るまでもないであろう。貧しい家庭に生まれ、一生涯心の歌を歌い続けた彼女は「ポルトガルの大いなる宝」として皆から愛され、1999年の没時には全国民が3日間の喪に服したのである。日本でも公演を行っており、発売されているCDも多く全国に沢山のファンがいるが、あまりにもその存在が大きかったため「Fado = Amalia = Fado」の固定観念が一般化している傾向がある。
 確かに、「アマリア」のFadoは素晴らしい。今なお多くのファディスタ達に影響を与え続けていることも事実ではあるが、他にも個性的な素晴らしいFadoを歌うファディスタも数多く存在しており、「アマリア」のFadoがFadoのすべてではないことを知らねばならない。

 ついでに蛇足ではあるが、多くの日本のFadoファンが、多分「暗いはしけ」に次ぐ有名曲と考えている「難船」は、ポルトガルでは殆ど歌われることはない。(カバーしている歌手がまれで、現地のCasa do Fadoでも聴くチャンスは無く、たくさん出ているアマリアのアルバムの中でもこの歌が入っているものは極めて少ない)
 尚、 Fadoの起源について、「大航海時代の男達の帰りを健気に待つ女達の歌がルーツである」という説がまことしやかに語られることがあるが、これは20世紀半ばに、当時の独裁政権が様々な思惑を理由に作り上げたデマで、政治的にFadoが利用された結果である。
 その時期、国策として Fado が恣意的に使われたことは、戦時中の日本に於いて、文学も音楽も、絵画や映画などあらゆる分野の文化や芸術が政治的意図で恣意的にねじ曲げられてしか存在できず、それに関わった人達が心ならずもそれに従い、あるいは積極的にその政策に乗ってきたのと同様に、現在でもポルトガルのFadoの歴史の中に、苦々しい汚点として後を引いている。

 Barco Negro


 伝統的Fadoは通常、歌い手である「ファディスタ」(女性歌手だけでなく男性歌手も多く、どちらも「ファディスタ」と呼ばれる)と、「ポルトガルギター」(ギターラ=Guitarra)という6コース12弦の楽器と「クラシックギター(鉄弦)」(ヴィオラ・クラシカ=viola Classica)の伴奏で構成され、これに低音部を担当する「低音ギター」(バイシャ・ヴィオラ=Baixa Viola)が加わる場合もある。
 この組み合わせが確定するまでには、かなりの変遷と試行錯誤があったのであろうが、「ポルトガルギター」の12本の鉄弦から響く可憐で心にしみる音色と、柔らかな「クラシックギター」の音色が絡み合い、「主張しすぎず、隠れすぎず」の絶妙なバランスで、マイク無しの生音で、伸び縮みの多いリズムに乗って絶妙な節回しと間の取り方で詞を歌いあげるファディスタの歌声を支え、Fadoの世界をつくりあげる。

 「女性歌手は黒いドレスに黒いショールで、男性歌手は片手をポケットに入れて歌う」と言われるが、ドレスが黒とは限らない。但し、ショールを肩にかけて歌うのは原則のようだ。ショールを掛ければ、どんな服装であってもそれが舞台衣装に早変わりする。いかにも下町からおこった民族音楽らしい様式である。
 男性歌手の方は、たまにきちんとネクタイ着用の歌手もいるが、基本的にはノーネクタイでシャツの上のボタンはオープンの人が多いようだ。確かに伝統か?片手をポケットにつっこんで歌う人も多い。
 リスボアにはCasa do Fado(「カーザ・ド・ファド」/ Casa de Fadoという場合もある)というFadoを聴きながら食事や飲酒ができる「レストラン」「ライブハウス」(Fado House)が数多くあり、 バイロ・アルト地区やアルファマ地区に集中していて、夜毎、細い入り組んだ路地のほの暗い灯りに照らされた石畳に、そこここから漏れ聞こえるFadoの音色が響き渡る。(同様のお店は、ポルトガル第二の都市ポルトや、第三の都市コインブラにも若干数ある)

 異国の歴史の実態とは実際に足を踏み入れてみないと解らないものだ。
 繰り返すようだが、Fadoは「悲しく暗い歌」であるという、誤解ともいうべき固定概念が存在する。特に日本に於いて、日本固有の「演歌」と結びつけてか、一部の関係者によるそのような部分を強調した「概念のミスリード」があったような気がする。
 確かに、ポルトガルには固有の感情表現としてSaudade(サウダーデ・・・失われたものを愛おしみ、帰らぬものを悼む切々とした感情)があり、これがFadoの底流に流れているものであるといわれる。事実このSaudadeという言葉はよく使われ、歌詞の中にも頻繁に登場する。
 大航海時代に、遠く海の彼方に漕ぎ出した大切な身内や友人を、想い、心配する気持ちをあらわしたともいわれるが、 複雑な感情の表現で、「懐かしさ」「未練」「懐旧の情」「愛惜」「郷愁」「ノスタルジー」「孤愁」色々な訳語はあるのだが、端的に訳せるものではなく、これらを色々ひっくるめたものがSaudadeということになるのだろう。現地で聞くとSaudadeという感情は決して「絶望」「悲しみのどん底」「希望のない暗闇」だけということではなく、底に流れる「生への希望や執着」「遠い明日へのほのかな希望」といった、「強さ」や「エネルギー」を秘めたものであるように感じられる。
 そんなFadoには叶わぬ愛、宿命の苦しみなど、限りないメランコリーを歌うものから、軽快な波止場の噂話やお祭りの歌など明るい即興歌謡の面影が残るものまで、幅広い多様性があるのである。中でも特に「我が町リスボア」を歌った歌詞は多く、それらは、我らの町、そこに住む人々の誇りと喜び、人々への愛情に満ちている。Casa do Fadoでこれら「リスボア」の歌が歌われるとき、期せずして観客達の大合唱が起こり、いかに彼らが「我が町リスボア」に愛着と誇りを持っているかを思い知らされる。伊東マンショの足跡を尋ねる現地で幾度となく聞いたFadoは「暗く、悲しく、寂しい、絶望的なもの」ではなく、どんなに厳しいときであってもしたたかに生き抜く庶民の、エネルギーに満ちた力強い歌であるということを、日本人として再認識した。

Sintra Portugal


 ホテルを出て地下鉄でポルトガル国鉄(PC)のロシオ駅に向かう。シントラまでは28km、約40分の旅、発車して数分もしないうちに緑の中に新興のマンション群が両側に延々と続く。いずこも同じ近郊の住宅開発の結果だろうが東京あたりの郊外よりはまだまだ自然がたっぷり残っている。シントラまで大した距離でもないのに14駅もあるところをみると、今は朝夕の通勤路線としての役割が主力になっているのだろう。
 シントラはそもそもポルトガル王室の夏の避暑地として知られてきたところで、「シントラの文化的景観」として世界遺産に登録されている「シントラ王宮」、「ペーナ宮殿」そして「ムーアの城跡」などが緑豊かな山ふところに点在している。
 「ペーナ宮殿」下のバス停から山の麓にある「シントラ王宮」(Palacio Nacional de Sintra)へ循環バスで下る。この王宮、フランスやオーストリアなどにあるような豪華絢爛な離宮とは比較出来ないが、ポルトガル王家が夏の別荘として15~19世紀に使った所で、「シントラの文化的景観」として登録されている世界遺産の中心部分だ。ポルトガルは現在共和国制で王家は存在しない。しかし、レコンキスタ(キリスト教徒によるイスラム教徒からの領土回復運動。)が活発になる11世紀頃から王族支配が始まり、20世紀初頭まで続いた。それが1910年のポルトガル共和国成立とともに王政は崩壊し王族は英国に亡命した。
 王宮の見所はポルトガルが最も栄えた16世紀に増築された部分、当時の栄華を反映した室内装飾が施された「アラブの間」「礼拝堂」「中国の間」「紋章の間」「カササギの間」「白鳥の間」などが有名だ。 その中でも壁全面にアズレージョ(Azulejo)の装飾タイルが施され、天井には72個の紋章が描かれた「紋章の間」は見逃せない。アズレージョと言えばポルトガルだが、独特の上薬をかけて焼かれたタイル絵のことで青い色調に特徴がある。これはイスラム起源の技法をムーア人がスペインに持ち込み、その後ポルトガルに伝わって花開いたと伝えられる。絵の構図は寓話やギリシャ神話、聖書の一場面、聖人の生涯や貴族の狩猟風景などが描かれたものが多い。ポルトガルでは教会、宮殿などは勿論、一般の家の内外でも珍しくないし、鉄道や地下鉄の駅構内などの公共の場でも壁画などとしてよく見かける。

 伊東マンショはこうした南蛮文化を実際に体験した最初の日本人だといえる。

 南蛮(なんばん)あるいは蛮(ばん)は、四夷(しい)のひとつであり、中国大陸を制した朝廷が南方の帰順しない異民族に対して用いた蔑称である。日本でも当初は同様の意味で用いられていたが、15世紀にヨーロッパ人との南蛮貿易が始まって以降は、主にヨーロッパや東南アジアの文物を指す語となった。

 四夷あるいは夷狄(いてき)は、古代中国で四方に居住していた異民族に対する総称(蔑称)である。古代中国において、異民族の支配を含め、中国大陸を制した朝廷が自らのことを「中国」「中華」と呼んだ。また、中華の四方に居住し、朝廷に帰順しない周辺民族を「東夷(とうい)」「北狄(ほくてき)」「西戎(せいじゅう)」「南蛮(なんばん」と呼び、「四夷」あるいは「夷狄」と総称した。

南蛮2連 gif

 東夷の「夷」という漢字は「大」な「弓」と書いて、好戦的な民族として、蔑んだ意味合いを込めている。本来は古代中国が東に位置する山東省あたりの人々に対する呼び名であったが、秦以降は朝鮮半島、日本列島などに住む異民族を指すようになった。後に日本でも異民族を意味する「エビス」という語と一体化し、朝廷(京)から見て東国や蝦夷の人々のことを「東夷(あずまえびす・とうい)」「夷(い・えびす)」と呼んだ。

 北狄は、古代中国において北方の中原的都市文化を共有しない遊牧民族を呼んだ呼称である。歴史上、北方の民族は度々中原へ侵入して略奪や殺戮を行ったことから、北方にいた異民族は総じて狄と呼ばれるようになり、北狄は蔑称としての意味合いが強くなった。日本における用法もこの流れをくみ、古代においては日本海側に住む蝦夷を蝦狄と書いたり、単に狄と書いた。この場合、太平洋側の陸奥国の管轄対象が蝦夷または夷、日本海側で出羽国が管轄するのが蝦狄または狄と使い分けた。民族としての実体は同じである。

 西戎あるいは戎は、中国西部に住んでいた牧畜民で、たびたび中国の歴代王朝に侵入して略奪を行ったことから、西戎という言葉に蔑んだ意味合いを込めている。周(しゅう)紀元前1046年頃~紀元前256年の中国古代の王朝と共に商を滅ぼした諸侯国の一つである羌(きょう)、ほかには葷粥(くんいく)や氐(てい)などが含まれ、周代には現在の陝西省・四川省から甘粛省・チベット自治区の付近にいた。周の十二代王幽王は暴政を布いたので諸侯の恨みを買い、諸侯の一人申公の誘いを受けた犬戎(けんじゅう)は紀元前770年に周の首都鎬京を陥落させて西周時代の終わりを告げた。これ以降は春秋時代に入る。周が追われた地に秦が封ぜられた。秦の穆公は度々戎を討って覇者となった。その後も何度か秦と衝突し、最後には秦に吸収され、一部は匈奴に吸収された。民族や種族としては、南北で分かれる傾向があるもののチベット族や彝族(イぞく)とみられている。

 南蛮あるいは蛮は、中国大陸を制した朝廷が南方の帰順しない異民族に対して用いた蔑称である。「蛮」は、本来は中原で都市文明を営んでいた漢民族が、南に住む未開民族に対する呼び名であったが、やがて中華思想における四夷のひとつとなり、中国大陸を制した国が南西方面の帰順しない異民族に対する呼称となった。「蛮」という漢字は、部首に「虫」を用いて、人ではないことを示した悪字である。現在でも、「野蛮」「蛮族」「蛮行」などの熟語が、粗野であるという意味を込めて用いられている。異民族支配の時期でも「南蛮」という蔑称の概念を継続したように、先進文明としての中華に相対する蔑称である。

 13世紀、元が南宋を征服して中国全土を支配すると、モンゴル人は遼や金の遺民である華北の住民を「漢人」、南宋の遺民である江南の住民を「南家」と呼び、キタイ人(遼・金の遺民)は南シナの住民を「蛮子」の蔑称で呼んだ。モンゴル人や色目人と比べて、漢人や南人は公職への登用が限定されていた。マルコ・ポーロの『東方見聞録』では、中国北部のことを「キタイ」、中国南部のことを「チーン」と呼んでいる。
 中華思想は日本にも取り入れられ、「蛮」という語は『日本書紀』の時代には朝鮮半島南部の未開地や薩摩の西の五色島、薩摩七島、琉球を指す語として用いられた。

 16世紀、ポルトガルとスペインのイベリア半島諸国が、インドから東南アジア一帯の港湾都市や島嶼域の貿易拠点の一部に植民地を得て、交易圏を日本にまで伸ばしてきた。これらの諸国と日本との南蛮貿易が始まると、貿易によってもたらされた文物を「南蛮」と称するようになった。やがて、本来は人に対する蔑称であった「南蛮」が、侮蔑語というよりは、異国風で物珍しい文物を指す語(昭和初期までの「舶来」と同義)として使われるようになった。同時に、人に対する呼び名としては南蛮人(なんばんじん)という言葉が生まれた。そして南蛮と同類の言葉に紅毛があり、南ヨーロッパ系の南蛮に対し、北ヨーロッパ系のイギリス人やオランダ人を意味した。

 現代の日本では、長ネギや唐辛子を使用した料理関連の言葉に「南蛮」の語が使われることが多い。「南蛮料理」という表現は、16世紀にポルトガル人が種子島にやってきた時代以降、様々な料理関係の書物や料亭のメニューに現れていた。それらに描かれる料理の意味は、キリスト教宣教師らにより南蛮の国ポルトガルから伝わった料理としての南蛮料理と、後世にオランダの影響を受けた紅毛料理や、中華料理の影響、さらにはヨーロッパ人が船でたどったマカオやマラッカやインドの料理の影響までを含む、幅広い西洋料理の意味で使われてきた場合の両方がある。

 南蛮料理が現れる最も古い記録には、17世紀後期のものと思われる『南蛮料理書』がある。また、主に長崎に伝わる「しっぽく(卓袱)料理」と呼ばれる卓上で食べる家庭での接客料理に、南蛮料理は取り込まれていった。唐辛子は別名を「南蛮辛子」という。「南蛮煮」は肉や魚をネギや唐辛子と煮た料理である。「南蛮漬け」はマリネやエスカベッシュが原型とされている。「カレー南蛮」や「鴨南蛮」の「南蛮」は、前述の「唐辛子」やネギのことを指しており、唐辛子の入ったカレースパイスとタマネギや長ネギが使用されている。

ザビエル W600

 日本にキリスト教を伝えた宣教師の名前は有名だ。
 それはイエズス会のフランシスコ・ザビエル。
 実はこれの名は、スペインやポルトガル人には通じない人名である。ザビエルという読み方はドイツ語からきている。昔、日本のキリスト教研究はドイツ人の研究成果から学んでいたため、ドイツ語発音が使われた。ザビエルはポルトガル語では「シャビエール」、スペイン語では「ハビエル」と発音される。研究者の中には現地語で発音すべきと主張した人もいたが、あまりに「ザビエル」の呼び方が知れ渡っていたため、これを断念した。いまだ日本人が「ザビエル」と呼び続けているのはそのためである。

 ザビエル以外に日本でキリスト教を広めた宣教師には、アレッシャンドロ・ヴァリニャーノ(イタリア人)、ガスパル・ヴィレラ(ポルトガル人)、ルイス・フロイス(ポルトガル人)、オルガンティーノ(イタリア人)の4人が挙げられる。この4人をはじめ、日本にキリスト教を伝えるためにやってきた宣教師達は、数多くの報告書や書翰を同僚に送っている。しかも、多くがヨーロッパなど各地に現存されている。もちろん、写本を含めてであるが、その報告書や書翰などから当時の日本の様子をうかがい知ることができる。
 中でも、日本について一番多く報告書や書翰を書いた宣教師が、ルイス・フロイスというポルトガル人宣教師。彼は書翰や報告書を書くとともに、日本に関する記録「日本史」を書き記した。
 これには日本の歴史史料ではうかがい知ることのできなかった、日本の様子が記されている。そのため、彼の書いた記録は、日本の歴史を知る上でも重要な史料として位置づけられる。
 ただ、フロイスの「日本史」よりも、書翰の方が注目される。当時現場にいたフロイスならではの生々しい記録が、そこには書き記されているからである。しかし、その中で語られる内容は、かつて『耶蘇会士日本通信』や『イエズス会士日本通信』として有名な、エヴォラ版日本書翰集のことではない。イタリアのローマやポルトガルのリスボンなどに現存する書翰(原本・写本)の内容を指す。

 1568年といえば、織田信長が足利義昭を奉じて上洛した重要な年である。フロイスが信長のことを初めて知ったのもこの年であった。
 1560年(永禄3年)にイエズス会司祭ガスパル・ヴィレラが将軍足利義輝から京都滞在を認めた許可状(実際は禁制)を得たことにより、畿内で本格的に宣教活動を開始した。その後、フロイスも畿内布教担当となり、ガスパル・ヴィレラとともに京都で布教活動を行っていた。
 ところが、彼らの後ろ盾となっていた足利義輝や三好長慶が相次いで死去すると、まもなくして正親町天皇によって伴天連追放の女房奉書が出された。そのため、ヴィレラとフロイスは京都退去を余儀なくされたのであった。
 1568年、フロイスは堺に避難していた。
 その堺で14代将軍足利義栄に京都復帰をお願いしようと、篠原長房という武将に依頼していたが、なかなか進展しないでいた。そうした時に、織田信長が足利義昭を奉じて入京してきたという情報を入手したのである。フロイス書翰には「尾張の国王(信長のこと)が、都で殺された公方様(足利義輝)の兄弟(足利義昭)を武力によって(将軍職に)就任させるために、6万の軍勢を率いて都にやってきました」と書かれている(1568.10.4書翰)。この箇所を読んでもわかるように、フロイスはまだ信長自身に注目したわけではなく、京都の情勢を書き記したに過ぎない。フロイスはこの事件によって「大変大きな戦さが起こることは避けられないでしょう」とも書いている。
 伊東マンショが日向国に誕生するのは、このフロイス書簡時事の一年後の1569年。それはフロイスがはじめて信長と対面したのは二条城の普請場であった永禄12年夏(1569)と同年であった。それはつまり、折しも日本において南蛮文化が開化されようとする具体の時節である。


                      シリーズ連載・次回No.fileに続く
                         look gif H100
Mancio C W600
           MANCIO
ライン黒 W600


                         My images 割 gif

                  Sotarou 1


ライン黒 W600



伊東マンショの正体を科学する No.0002

Ron.gifSO 50World.gif     地球 gif WH80
波動 gif W300漱太郎 1

Science to elucidate the identity of X 20
X 100伊東満所 文字3 W385
ライン黒 W600
伊東満所 資料5 W300H30マンショ関連の画像 スライドgif

マンショ広告 W600H360

          ゼブラ球 W100      ZERO 連gif辻斬りZ W100H100 gif

ほん1 W45H40 伊東満所 資料1  Dr Donut W40H40
 世界は大航海時代。日本は戦国「下克上」の世。同時期にキリスト教が伝来する。織田信長の比叡山焼き討ちのころに、また室町幕府が終焉しようとするころに、日向国一円に勢力する豪族の伊東家に数奇な運命を宿す一人の男児が誕生した。
 この男児が後に天正遣欧少年使節の正使となる伊東マンショ。
 だがこの人物についての実像を記す資料は今日に乏しい。その背景には当時の混乱と錯覚とが不遇にも交錯する日本史の実情がある。つまり記録として残せない深い闇の淵に置き去られた。
 No.2631ファイル・データはこの歴史人の正体に迫る研究をシリーズ構成でつづる資料コラム。中世の街道を往来した人物との交流を織り重ねながらマンショの足跡の真相を編集する。・・・・伊東満所

伊東満所 文字5
伊東満所 文字4 W600
ドン満所 gif H150   Mancio 100
ライン黒 W600

Mancio C W600

signbot (1)To science Mansho W303H40To science Mancio gif
ボストン W600
Xの正体

ライン黒 W600
四角錘あか  File No.2 南蛮の道とマンショの肖像(
ライン黒 W600

     辻斬りZ W50H50 gif  ① ハリー・ポッターとマンショの交差空間
     ライン黄色 gif
         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

     マンショ案内 5  Dr Donut W50H50 gif

J・K・ローリング gif W300ハリー・ポッター gif W300

     ジョアン・ローリング(Joanne Rowling)という英国の女性と初めて出逢ったのは1989年の晩秋のことであった。彼女は24歳であったはずだ。
 本人は文学方面に進みたかったが、両親の希望でエクセター大学でフランス語を学び、パリ留学も経験した。在学中も多くの小説を書いたが完成までは進まず、むしろ読む方に時間を費やし、ジェーン・オースティンなどの作品を読んだ。卒業後は、ロンドンのアムネスティ・インターナショナルで秘書として働いたが、仕事にはあまり興味を見出せないでいた。
 漱太郎は当時半年ほどロンドン市内に居住していたが、散歩の途中、テムズ河畔でローリングに声を掛けている。河畔には先に彼女の人影があった。彼女はぼんやりと議事堂の北側の時計塔ビッグ・べンを見ていた。そして背後を通り過ぎようとしたとき何故か彼女は振り向いた。しかし彼女はまたテムズ川の方へ振り向き直した。
 それで素通りにも出来ず「Hello. It is always beautiful scenery. I evaluate this tradition.(こんにちは。いつも美しい風景ですね。私はこの伝統を評価します)」と言った。

 その言葉の想いには「ロンドンに来ると、世界のありとあらゆる民族の人がそれぞれの文化を保ちながらも、何の違和感もなく生活していることに気付くだろう。まさにコスモポリタンという形容がふさわしい街だ。 その一方でこの街には歴史を感じさせる建築物や記念碑のなんと多いことだろう。ロンドンは新しいものと古いもの、あらゆる民族や文化、それらがすべて混ざり合い、独自の魅力を放っている」という日頃の感想がある。特にビック・べンは、粘り強く妥協しない精神を表すように、針が刻む光の微妙な色加減一つにもこだわる英国の職人気質を発揮して見せてくれるからだ。

 すると彼女は「I am glad when it says so to a traveler.(旅人にそう言われると、嬉しい)」と言い再び振り向いた。
 そして日本人だと知ると妙に嬉しそうな顔したのだ。

 伊東マンショのことを想うとき、いつも彼女との、この出逢いを思い出すことになる。
 そのスイッチは、ポルトガルの土を踏んだとき更に「カチっ」という音を立ててオンになる。
 二度目の再会はポルトガルの北部ポルトのポルト大学内であった。
 マンショが口にしたワインの故郷を訪ねる折りに滞在したのであるが、じつに奇遇な再会となる。
 後に彼女は、J・K・ローリング(J.K. Rowling)のペンネームで、子ども向けのファンタジー小説『ハリー・ポッターシリーズ』の作者となった。
 そんなローリングの着想の中には、伊東マンショが原潜して生きている。

 ローリングは「自分の好奇心に素直に従い、自分に誠実であれ」という。そのことを伊東マンショから彼女は教えられたそうだ。

ハリー・ポッターとマンショ 1 W600

ManCio gave me hope and a dream and gave the tale.マンショは、私に希望と夢を与えて、物語を与えてくれた)」・・・・・by J.K.Rowling

ハリーとマンショ 2 W300H320ハリーとマンショ W300H320

 『ハリー・ポッター』(Harry Potter)は、イギリスの作家J・K・ローリングによる児童文学、ファンタジー小説。1990年代のイギリスを舞台に、魔法使いの少年ハリー・ポッターの学校生活や、ハリーの両親を殺害した張本人でもある強大な闇の魔法使いヴォルデモートとの、因縁と戦いを描いた物語。

 その第1巻『ハリー・ポッターと賢者の石』がロンドンのブルームズベリー出版社から1997年に刊行されると、全く無名の新人による初作であるにもかかわらず、瞬く間に世界的ベストセラーになった。子供のみならず多数の大人にも愛読され、児童文学の枠を越えた人気作品として世界的な社会現象となった。2001年から8本のシリーズで公開された映画(2011年完結)も大きなヒットを記録する。当初から全7巻の構想であり、最終巻『ハリー・ポッターと死の秘宝』の原書が2007年7月21日に発売され、そして完結した。

 さらに2010年6月には、フロリダのユニバーサル・オーランド・リゾートに、映画版のセットを模したテーマパーク:ウィザーディング・ワールド・オブ・ハリー・ポッター(The Wizarding World of Harry Potter)が開園した。

 あらすじを簡略化すると、孤児でいじめられっ子のハリー・ポッター少年は、11歳の誕生日に自分が魔法使いであることを知る。ホグワーツ魔法魔術学校へ入学し、いままで知らなかった魔法界に触れ、亡き両親の知人をはじめとした多くの人々との出会いを通じて成長する。そして、両親を殺害したヴォルデモート卿と自分との不思議な因縁を知り、対決していくこととなる。このような物語だ。

 彼女は1990年の夏に、マンチェスターからロンドンに向かう4時間遅れた列車の中で、魔法学校に通う少年ハリー・ポッター、そしてロンとハーマイオニー3人の着想が湧き、突然ストーリーを誕生させた。
 自宅に帰り、その晩のうちに書き始める。
 それは本人にとって初めての興奮する体験で、漱太郎の質問に対し、あの東洋の少年が前日の夢に現れ、その少年に導かれ、全体のイメージが湧いてきたのだと述べている。そして、その年の12月に母を難病の多発性硬化症で亡くして大きなショックを受け、その影響は執筆中だった本の内容にも及んだという。
 天正遣欧少年使節の話はその母が幼少のローリングに何度も語り聞かせた。
 そうして少年の名が「Mancio」ということも覚えた。

 はるかなる時の流れと天の配剤が創り出した東洋の少年がローマへと向かう旅は、彼女の知的好奇心と冒険心を呼び起こす不思議な空間になっている。



 現在のペンネーム「 J・K・ローリング」は、本のターゲットとなる男の子が女性作家の作品だと知りたくないだろうと心配した出版社が、イニシャルを用いるように求めたためにつけられたものである。
 ローリングはミドルネームを持っていなかったので、祖母のキャスリーン(Kathleen)にちなみ、ペンネームをJ・K・ローリングとした。最近のインタビューによると、ハリー・ポッターシリーズが終わっても作家業を続け、作家名も変えないと発言する。なお、本人がジョアン(Joanne)でなくジョー(Jo)と称するのを好むのは、子どもの時、ジョアンと呼ばれるのは怒られる時だけだったためで、これはペンネームではない。

 彼女は、イギリス南西部ブリストルの北東約15キロ、グロスタシャーにあるイェイトに住むジェームズ・ローリングとアン・ローリング夫妻の長女として生まれた。
 生まれた病院は、隣町のチッピング・ソドベリーにある。
 2年後に妹が生まれ、本人が4歳の時に家族はグロスタシャーのウィンターボーンに移り、さらに9歳の時にタッツヒルへと引っ越し、そこは「チャーチ・コテージ」と呼ばれる19世紀半ばに建てられたゴシック風の建物で、美しい庭に囲まれて成長する。近くには、自然豊かなディーンの森があった。

 そんな森の風景の中で、彼女は母から聞いた不思議な日本の少年を想ったそうだ。

                      マンショ 1 gif 4連W200

 1991年に、ポルトガルの英語教師としての職を得、ポルト在住中の1992年に結婚する。
 翌年一女ジェシカが生まれたが、夫との不和のため離婚し、1993年末にジェシカを連れて一文無しで帰国し、妹が住むエディンバラに落ち着いた。
 高校のフランス語教師になる道もあったが、二度とない機会かもしれないと考え、小説を書くことに集中した。小説が売れる前のエディンバラでの生活は、離婚後の生活苦と貧困でうつ病になり、「自殺も考えた」ことがあると明らかにする。少し過酷な出来事だが、この時の経験が、ハリー・ポッターシリーズに登場するディメンターのもととなった。
 そして何よりもポルトガルでの体験が物語の重要な鍵を創ることになる。漱太郎はその鍵を秘めたころの彼女とポルトの街で何度かお会いした。
 こうして彼女が案内してくれた美しい書店がポルト市街地にある。

 さらに、また奇遇にもこの書店が、未発見の伊東マンショに遭遇させてくれることなった。

ハリー・ポッター 7 W600H474

     辻斬りZ W50H50 gif  ② 世界で三番目に美しい書店
     ライン黄色 gif
         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

     マンショ案内 4  Dr Donut W50H50 gif

     伊東マンショの肖像に関しては現在までに極数点が存在する。

     この極数点とするものは、それなりの裏付が施された肖像となる。現在までに伊東マンショの実態を調査しようとする試みは数多くあった。比較的にその動向は大正期に高い。それはモダニズムの影響による。しかし調査意識の高まりは、やはり戦後になってからであった。だがそれ以前に伊東マンショとおぼしき肖像の発掘が無かったわけではない。当研究所の把握するもので382点の肖像らしきものがある。これらは明治初期から今日までに発掘された。
 その「肖像らしきものがある」とは、真意が否定されるモノではない。大半は物的な存在は確認され相応の鑑定は行われているが、時代性や社会性と適合し、入手経路や保管実態、発掘の動機、制作時の動機・目的、制作主体者の明確、製作者の技法・実績などの鑑定項目に、未だ鑑定時間を要するものである。つまり製作者はマンショを描写したが、モデルがマンショではないというケースもあり、経過した時間外の検証における困難な実情がここにある。おそらく上記382点の内相当数は確証を得るまでに相応の検証時間が必要だ。

 近年に発掘されたものは、2005年の、16世紀に九州のキリシタン大名が送った天正遣欧少年使節の代表伊東マンショらの可能性の高い肖像画2枚を、当時のローマ法王グレゴリウス13世の子孫が所持していることがわかった。バチカンで同法王に謁見(えっけん)し、欧州各地で歓迎された同使節だが、実像を伝える史料は少ない。歴史の真相を研究する上で、これは非常に貴重な発見だといえる。

                       伊東満所 1

 保管していたのはローマ在住のパオロ・フランチェスコ・ボンコンパーニ・ルドビジ公爵。現在の「グレゴリオ暦」の採用で知られるグレゴリウス13世(在位1572~85)が聖職者になる前にもうけた息子の子孫だ。邸宅の古い本にはさまっていたという。公爵は「遠い東洋の国からバチカンを訪れた天正少年使節がグレゴリウス13世に謁見した話は、わが家でも誇りとして代々伝わっている」と話す。つまり、これにしても口伝の域にある類の恣意を含むものでもあり、確証とするには課題解決が残されている。

 肖像画は2枚あり、1枚はえり付きの服の上に和服を着た少年。これは「マンティオ師 ブンゴの王の使節 ローマ法王グレゴリウス13世、1585」などと書かれており、豊後(ぶんご)のキリシタン大名だった大友宗麟の名代だったマンショとみられる。 みられる、であるから断定でない限り確証ではない。
 もう1枚は聖職者の格好で「ディエゴ・メスキート神父 日本からのインド人を引率した人物」などと書かれ、少年使節の教育係役だったイエズス会員メスキータ神父とみられる。ここも同様だ。

 いずれにしろ描かれた時期などの確認に調査が必要だが、少年たちが謁見の際、首や足が出るのは不敬になるとして和服の下にシャツとズボンをはいた、これは史実とも一致する。法王お抱えの画家が油絵用に描いたものの、謁見後20日足らずで法王が急死したため下絵のまま残った可能性があるとも考察できる。しかし、これは示唆させる視点資料に過ぎない。可能性と表現さるのは、やはり課題が残されている。

 翌2006年、長崎県は、昨年ローマで発見された天正遣欧使節の1人、伊東マンショの肖像画(天正13年=1585=制作)と、使節をローマへ引率したメスキータ神父の肖像画(同)=何れもデッサン=など、肖像画4点を購入した。「伊東マンショ肖像画」は、木炭でデッサンした後、チョークで淡い彩色が施されている。これまで知られていた同使節の肖像画と比べ、写実的に描かれているのが特徴だ。
 発見し購入しいたとするが、真作であればそれは正しい。中世とは地球上が流動化する時代。それは一筋の川の流れではない。つまりいずれが川下か川上かも判然としない時代だ。作為や意図は混沌とする。これは今後、残された課題をどうクリアーするかが期待される肖像である。

マンショ肖像 2 W300H200マンショ肖像 3 W300H200

 2006年に長崎県が購入した肖像をマンショだと鑑定されるのに、疑問が全て払拭されるものではない。頭髪の部分を何故短髪に刈り上げたのか。この明確な理由を証明できない問題がある。重要な課題が残された。これは解明されない以上、やはり疑問となる。元結は当時の日本人たらしめる象徴である。日本を代表する象徴を何故断髪して使者とさせ立てたのかは、それなりに然るべき仔細の解説が必要だ。

マンショ(Faxicura)W190H300            マンショ3連 gif
        支倉常長

 慶長遣欧使節は慶長18年(1613年)に仙台藩主伊達政宗がフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを正使、支倉常長を副使として、エスパーニャ帝国(スペイン)の国王フェリペ3世、およびバチカンのローマ教皇パウルス5世のもとに派遣した使節である。この時期はマンショが長崎で病死するころで、時代性は近い。上の写真は、欧州における報告書に描かれた支倉常長の肖像。「Faxicura」との記載がある。そして日本の士族を象徴させる元結は描かれた。

 一方、下記の肖像のように、1997年にポルトガルにて発掘し、今日までに十数年を費やし鑑定をし続けている肖像画がある。このフラスコ画は、画そのものの真贋はもとより、歴史実態の整合性を含め精査中・未発表の肖像画である。史実上の見落としはないか慎重な鑑定を進めている。日本画のように柔らかく繊細に描かれているが、当時のスペイン人画家によるマンショの肖像。これには日本人の実情を踏まえ元結がある。

伊東満所 W600
                      1997年にポルトガルで発見した伊東マンショの肖像画

 さて上の肖像を発掘した経緯を述べるために、引き続きポルトの歴史地区について深層をめぐる。

 ポルトは、ポルトガル北部の港湾都市。人口約263,000人。
 リスボンに次ぐポルトガル第二の都市。同国屈指の世界都市であり、ポルト都市圏では、人口は約160万人を数える。市街地は大西洋に流入するドウロ川北岸の丘陵地帯に築かれ、河口に近い。ドウロ川にはドン・ルイス1世橋など4本の橋が架けれている。リスボンの北300キロに位置し、そしてポルトガル北部の中心地である。

Porto gif

ポルトの景観 1 W600


 ポルトの創設は5世紀より以前にさかのぼり、ローマ帝国時代からの港町ポルトゥス・カレ(ラテン語でPortus Cale、「カレの港」の意)に起源をもつ。だが、ローマ以前のケルト文化の名残であるシタデルも市外の中心にも残存している。ローマ時代の周辺をコンダドゥス・ポルトカレンシスといい、ここに成立した王国が、ポルトガル王国となった。ポルトガルの名はこれに由来する。

 国名自体に(そしてポルト ワインにも)その名前が使われているポルトは、リスボンに次ぐ規模を持つポルトガル第2の都市だ。オポルトとも呼ばれ、古い歴史を持つこの都市には、工業が発展した今でも過去の面影がくっきりと残っている。リベイラを中心とする旧市街はドウロ川を望む丘の上にあり、現在はユネスコの世界遺産に登録されている。主な観光スポットとして、14世紀に建てられたサン フランシスコ教会があるほか、聖グレゴリウス聖堂、大聖堂、ポルサ宮、そしてほとんどがヴィラ ノヴァ デ ガイアの川の対岸にあるポルト ワインのワイン蔵も名所である。


大きな地図で見る

 そのポルトの街の高台へと訪ねる。
 グレリゴス教会の坂を歩きながら行くと一軒の古い屋敷が佇んでいる。
 名をレロ・イ・イルマオン(Livraria Lello e Irmao)という。
 この建物こそ、地元ポルトの人々が、小さいけれどもヨーロッパで一番美しいと自負する書店だ。

レロ・イ・イルマオン書店 W600H403

 ポルト大学の近くにあるこの小さな書店。白く、装飾の美しい外観は通りの中で特に目を引きつける。数多くの観光客が出入りし、店員さんの「No Photo!! NO Photo, please!!!」の声が飛んでいるので、一瞬、何のお店だか分からなくなってしまいそうな書店である。

 この、レロ・イ・イルマオン書店は、世界の美しい書店ランキングの常連として有名。間口の狭い店の中心に、アール・ヌーヴォースタイルの美しい木製の階段があり、2階は天井のステンドグラスから射す光が心優しい。

 レロ・イ・イルマオン(Libraria Lello e Irmão)」は、日本語だと「レロと兄弟書店」となる。ただし、ここはただの古い本屋ではない。建物自体も世界遺産に登録されており、そのネオゴシック・スタイルの建物に足を踏み入れると、レトロなインテリアの数々が出迎えてくれる。二階に続く複雑な曲線を描く階段は「天国への階段」と呼ばれる独特のものだ。そして天井のステンドグラスが、店内を照らしている。

 こうした重厚な雰囲気から、専門書ばかり扱っているのでは?と思いがちだが、新しいガイドブックやレシピ本もそろう現役の書店なのだ。この書店が、2008年にイギリス新聞による「The world’s 10 bset book shops」で第3位に選ばれた。

J・K・ローリング 2

 実はポルトガルのポルトにあるこの「レロ・イ・イルマオン書店」は、映画ハリーポッターのロケ地として有名である。作者のJ・K・ローリング氏は英語教師として2年間この街に滞在していたからだ。一歩店内に入ると、そこはまるで映画『ハリーポッター』の世界観そのものである。

 1869年創業のこのお店は、ポルトガル・北部の港湾都市ポルトにあるが、創業当初の場所から1906年にのカルメリッタス通り沿いに移転して以来、現在も営業を続けている。外観の印象からでは、内部の雰囲気をつかむことはできないが、しかし一歩店内に入ると、そこはまるで映画『ハリーポッター』の世界観そのものなのだ。実際に作品の撮影も行われた。



 1995年、J・K・ローリングから見定めて欲しい肖像画があるという。
 ローリングの連絡では「あれは天正遣欧使節のような気がします」との内容であった。そして案内されたのがレロ・イ・イルマオン書店の二階奥にある壁面である。

 しかし現地で簡易の検分を行ったが、壁面に架けられた肖像画はレプリカであった。だが描かれている人物は、少年使節4名の内いずれかであることは直感した。そのため以後、このレプリカの経緯を調査し、原画の行方を追うことになる。

                      マンショ肖像 額 W224H170

 それでは肖像原画の発見に至る道程を要約する。

 この原画の発掘調査および鑑定研究には、グルベアンキン美術館とボストン美術館の連帯した共同学芸技術チームが構成された。
 グルベンキアン美術館は、リスボンにあるアルメニア人の石油王カルースト・グルベンキアンが世界各国より個人で集めた6,000点ほどの美術品を所有している美術館で、グルベンキアンの死後、1969年に彼の遺言に従いグルベンキアン財団によってオープンした。
 カルースト・グルベンキアンのモットーは「1番いいものだけ」だったと言うだけあり、ルーベンスのヘレナの肖像、ディーリックの受胎告知をはじめ、モネ、レンブラント、ターナー、ルノワールの作品など世界的に有名な美術品がたくさんある。また、エジプトの彫刻などの古代美術から現代美術まで、幅広いコレクション(日本の浮世絵なども展示されている)が楽しめる。
 またボストン美術館 (Museum of Fine Arts, Boston)は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストン市にある、世界有数の規模を誇る美術館である。所蔵品は50万点を数え、「古代」、「ヨーロッパ」、「アジア、オセアニア、アフリカ」、「アメリカ」、「現代」、「版画、素描、写真」、「染織、衣装」および「楽器」の8部門に分かれる。エジプト美術、フランス印象派絵画などが特に充実している。またボストン美術館は、仏画、絵巻物、浮世絵、刀剣など日本美術の優品を多数所蔵し、日本との関係が深いことでも知られる。20世紀の初めには、岡倉天心が在職しており、敷地内には彼の名を冠した小さな日本庭園「天心園」が設けられている。

 このように両美術館は日本美術に精通した歴史ある学芸関連技術を保有する。

グルベアンキン美術館 W300ボストン美術館 W300
           グルベアンキン美術館                     ボストン美術館

 調査の進展におよび、ポルトの老舗ホテル「Grande Hotel do Porto グランデ・ホテル・ドポルト」が原画を一時期展示していた情報を収集した。
 このホテルと原画との関係は極密接であった。

                  Grande Hotel do Porto グランデ・ホテル・ドポルト 1

 ホテルはSão Bento駅から徒歩5分の、ポルト中心部の歩行者ゾーン内に位置する。屋上テラス、ポルトガル料理を提供するアラカルトレストランを併設。ロマンチックな雰囲気のD. Pedro IIは、かつてのダンスホールを改装したレストランだ。地元の食材を用いた本格的なポルトガル料理を提供する。またWindsorバーではドリンクが楽しめる。位置的にバスと地下鉄のBolhão駅に近く、Serra do Pilar修道院へは徒歩10分で、フランシスコ・サカルネイロ空港から15kmほどである。
 ホテルマンの対応や、ホテル内の共同スペースの調度品、シガールーム、バーなどは確かに伝統の雰囲気。そこで、さすが老舗ホテルと感じたのは廊下に飾られた著名人のサインを眺めていた時だ。そこにはサッカーのロベルト・カルロス選手の名前、さらにポルトガルの誇る映画監督マノエル・ド・オリヴェイラ監督の名前が認められた。尚、スイートルームの部屋の名前が「MANOEL OLIVEIRA」とされている。

 GRANDE HOTEL DO PORTO


 オリヴェイラ監督はポルト出身なのだ。
 この映画監督マノエル・ド・オリヴェイラが原画の所有者である。

 鑑定医の精査によると、製作者は「ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez,)」であることが判定された。ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケスはバロック期のスペインの画家である。あのマネが「画家の中の画家」と呼んだベラスケスは、スペイン絵画の黄金時代であった17世紀を代表する巨匠だ。
 しかし制作時期の精査において多くの時間を費やした。

                ディエゴ・ベラスケス 2 W300
                     Diego Rodríguez de Silva y Velázquez,
ディエゴ・ベラスケス W600
         「アラクネの寓話」は1657年頃に描かれた、功成り名遂げたベラスケス、晩年の作。


 ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケスは、1599年6月6日(洗礼日)~1660年8月6日)の画家である。モデルとされる伊東マンショは、1569年~慶長17年10月21日(1612年11月13日)とされる。天正少年使節がリスボンの土を踏むのが、1584年8月10日(天正12年旧暦7月5日)。これは画家ベラスケスが誕生する以前の出来事になる。よって生まれてもいないベラスケスが制作を可能とするはずがない。不可思議なことが起きた。

 しかしベラスケスには肖像画制作に因む自筆の記述が残されている。彼がゴアを経由してマカオまでを描く旅行記である。そのなかで彼は「Conocí al joven de oriente. Apreté el dibujo para su cifra por el método inconsciente. Era un mensajero japonés. España fue visitado una vez y estaba bendecido por el rey. Un nombre es llamado Mansho. Era un joven sabio.私は東洋の青年に会いました。私は無意識の方法で彼の姿を図面に引きました。彼は日本のメッセンジャーでした。スペインは以前に訪れ国王より祝福された。名前はMancioと呼ばれます。彼は賢明な若者でした)」と記している。この記録は4歳のベラスケスが父に連れられて旅したマカオでのものだ。

 伊東マンショはローマから帰国後、慶長6年(1601年)には神学の高等課程を学ぶため、マカオのコレジオに移った(この時点で千々石ミゲルは退会)。慶長13年(1608年)、伊東マンショ、原マルティノ、中浦ジュリアンはそろって司祭に叙階される。ベラスケスの記録と伊東マンショがマカオにいた時期が符合する。

 どうやらディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケスは、4歳で素描写した構図を後に清書した可能性が高い。現在、この精査研究は続行中である。

 修業時代のディエゴ・ベラスケスは、生涯隠していたが、コンベルソの家系(ポルトガルから来た父方の祖父がコンベルソ)であった。スペイン南部の都市セビリアに生まれ、11歳頃に当地の有力な画家であるフランシスコ・パチェーコに弟子入りする。6年後の1617年、18歳のときに独立し、翌1618年には師匠であるパチェーコの娘であるフアナと結婚した。17世紀のスペイン画壇では、厨房画(ボデゴン)と呼ばれる室内情景や静物を描いた絵画が多く制作されたが、宮廷画家になる前のベラスケスもこの厨房画のジャンルに属する作品を描いていた。『卵を料理する老婆と少年』(1618年)などがその代表作である。1622年には首都マドリードへと旅行した。

 どの時期に肖像画が清書されたのかは、ベラスケスの技法・画風の成立過程から判断して17~8歳の彼が画家として独立したころの作、という鑑定結果が現段階で得られている。これに準ずると、制作時期は1616年~1617年、マンショが長崎で病死後4~5年の作品となる。

 コンベルソ(converso)とは、スペイン語でユダヤ教からカトリックへの改宗者を指す。
 ディアスポラによってヨーロッパ各地に散ったユダヤ人のなかでも、最も多くのユダヤ人が向かったのが南フランスからイベリア半島南岸にかけての一帯であった。
 この地域に展開したユダヤ人たちをセファルディムと呼ぶ。イベリア半島のセファルディム政策は西ゴート王国時代から後ウマイヤ朝、レコンキスタ期の間に排撃と受容の間を揺れ動いたが、12世紀以降、カスティーリャ王国ではセファルディムの政治力・経済力をレコンキスタに利用する政策が続いた。
 しかし15世紀後半、レコンキスタの完了が近づくと、カスティーリャ女王イサベル1世とその夫のアラゴン王フェルナンド2世はイスラム教徒に代えてセファルディムを排撃の対象に設定する。
 これはアラゴンとカスティーリャという異質な国家を統合するための政策であった。一方、ユダヤ人共同体内部でも、政権中枢に入り込んでいた有力ユダヤ人たちは次々にキリスト教に改宗してコンベルソとなっていった。この背景には、キリスト教の王権と深く結びついて利権を確保している有力ユダヤ人たちへの、ユダヤ人共同体からの批判的な視線があった。
 こうしてコンベルソとなった家からは、スペイン異端審問所(カトリック教会が設置していた伝統的な異端審問所とは異なる組織)の初代大審問官であるトマス・デ・トルケマーダ、あるいは17世紀前半のスペイン王国宰相オリバーレス伯爵ガスパール・デ・グスマンなども出ている。
 しかし、そうした有力なユダヤ人の家を除けば、キリスト教に改宗しつつもユダヤ教の宗教規範を守り続ける者、あるいはより積極的にユダヤ教を信奉する者(フダイサンテ)など様々であり、スペイン異端審問所の厳しい追及の対象となった。スペインはフダイサンテ狩りにコンベルソを多く利用した。

マノエル・ド・オリヴェイラ W600
                         マノエル・ド・オリヴェイラ


 『ポルトガル、ここに誕生す ~ギマランイス歴史地区』4監督がポルトガルの古都描くオムニバス作品。
 2013年9月からシアター・イメージフォーラムほか全国で順次公開上映作品:
                『バーテンダー』(監督・脚本:アキ・カウリスマキ)
                『スウィート・エクソシスト』(監督・脚本:ペドロ・コスタ)
                『割れたガラス』(監督・脚本:ビクトル・エリセ)
                『征服者、征服さる』(監督・脚本:マノエル・ド・オリヴェイラ
                                     配給:ロングライド



 そして伊東マンショの原画を所有する映画監督マノエル・ド・オリヴェイラ氏もコンベルソの末裔なのだ。
 彼の名は、日本ではかつて「マノエル・デ・オリヴェイラ」と表記されていたが、ポルトガル語では「e」が無音になるため、『クレーヴの奥方』(日本では2001年公開)以後は「ド」に変更されて紹介されている。また、「マヌエル」の表記も用いられてきたが、本人の希望は「マノエル」である。
 若い頃は俳優を志し、スペインやイタリアで学んだ。
 監督デビューは23歳と早かったが、本格的かつ定期的に作品を創り上げるようになったのは60歳を過ぎてからである。その後、幾度かの監督業休眠期間を経て、63歳の時に撮った『過去と現在 昔の恋、今の恋』(1971年)以降、再び映画の演出を開始、1980年代に入り70歳を過ぎてからは1年に1作に近いペースで新作を撮り続けている。
 2006年、97歳の時に『夜顔』を撮り上げた。2007年の第60回カンヌ国際映画祭オムニバス映画『それぞれのシネマ』に参加、3分の短篇を撮る。2007年『コロンブス 永遠の海』を、2009年『ブロンド少女は過激に美しく』を監督。『ブロンド少女は過激に美しく』の撮影中に100歳の誕生日を迎えた。その後2010年の新作『O Estranho Caso de Angélica』を撮り上げ、さらに新作の撮影にとりかかっている。

 マラーノ(Marrano)と称する蔑視用語がある。
 このマラーノとは、スペイン語で豚、もしくは汚らしい人を示す言葉だ。歴史的な用語としては、かつてスペインにおいて、コンベルソと呼ばれたキリスト教に改宗したユダヤ人のことを、侮蔑的にマラーノと呼ぶことがあった。ザビエルが日本にキリスト教を伝えて以来、数多くのイエズス会宣教師やポルトガル商人が日本にやってくるが、その多くの人々がマラーノ(コンベルソ)であった。

 例えば、ルイス・デ・アルメイダ(Luís de Almeida)がそうである。
 彼はポルトガルの商人であったが、医師の免許を持ち、西洋医学を日本に導入して日本初の病院をつくったことで知られる。来日後にイエズス会員となった。
 アルメイダは、1525年ごろリスボンでユダヤ教からカトリックに改宗したコンベルソの家庭に生まれた。1546年ポルトガル王から与えられる医師免許を取得したあとで、世界雄飛を夢見てゴアからマカオに渡った。そして1552年貿易目的で初来日。やがて日本とマカオを行き来して多くの富を手にする。

ルイス・デ・アルメイダ 5 W400H220     ルイス・デ・アルメイダ 2 W160H220
            アルメイダ病院の胸像(大分市内)                  スペインで発見された肖像

 上の写真は左右ともルイス・デ・アルメイダ。左は病院設立の趣旨を記念して日本で造られた胸像であり、右は映画監督マノエル・ド・オリヴェイラ氏がスペイン・マドリードで発見し所有する肖像画である。肖像とは芸術性が加わると自在に変貌することが見てとれる。

 山口でアルメイダはイエズス会宣教師コスメ・デ・トーレス神父に会う。彼はフランシスコ・ザビエルの事業を継承して日本で布教を続けていた。
 アルメイダは宣教師たちとの出会いを通して、思うところがあり、豊後府内(大分県大分市)にとどまり、私財を投じて乳児院を建てた。これは当時の日本で広く行われていた赤子殺しや間引きの現実にショックを受けたからであるとされている。
 さらに豊後府内の領主であった大友宗麟に願って土地をもらいうけ、1557年に外科、内科、ハンセン氏病科を備えた総合病院を建てた。これが日本初の病院であり、西洋医学が初めて導入された場所である。また、大分において「ミゼリコルディア」(ポルトガル語:(Santa Casa de )Misericórdia 「憐れみ(の聖なる家)」)といわれるキリスト教徒の互助組織を発足させた。
 南蛮貿易の中心地であった平戸の領主はキリスト教に不寛容であり、日本初のキリシタン大名となった大村純忠の領地横瀬浦に貿易港が移されたのは1563年である。
 しかし純忠に反抗する勢力によって横瀬浦は焼き払われた。トレス神父は純忠と相談の上アルメイダを長崎に送った。領主の長崎甚左衛門は既に受洗しており、純忠の娘婿であった。
 1567年にアルメイダは長崎に基督の福音を伝道して会堂を開いた。彼は日本の教会の頭となる長崎の教会を始めただけでなく、長崎開港の扉をも開いたのである。
 1571年貿易の為に長崎の町が建設され、ポルトガル船が入港した。1580年長崎はイエズス会領となり、以後キリスト教と南蛮貿易の中心地として繁栄した。
 そのアルメイダは島原、天草で布教し、多くの信者を得た。亡くなる4年前ようやく修道士から司祭に昇格し、天草全島の責任者となった。1583年10月、彼は天草河内浦で逝去する。彼が天草で他界する一年半ほど前、1582年2月20日(天正10年旧暦1月28日)に遣欧少年使節は長崎港を出港した。


 イベリア半島の北部に追いやられたキリスト教徒は、イスラム勢力から領地を奪い返そうとする。それがレコンキスタ(ポルトガル語ではレコンキシュタ)。この運動は9世紀から始まるが、イベリア半島からイスラム勢力が駆逐されるまでには700年程かかった。
 その間、イスラム勢力は宗教には比較的寛容で、税金を納めればキリスト教徒、ユダヤ教徒はイスラム教徒と共存することができた。その間、ユダヤ人は社会の重要な位置を占めるようになり、特に金融の面で才能を発揮する。そしてえ12世紀他のイベリア半島の地域より早くレコンキスタを達成したポルトガルは王国として独立する。15世紀レコンキスタが完了し、スペインは異端審問所を開設し、ユダヤ人達は異端審問所のなかったポルトガルに移住して行った。実にポルトガルの人口の10%の割合に達し、キリスト教徒と摩擦を起し始める。
 16世紀(ブラジル発見と同時期)ジョアン三世は異端審問所を開設、マヌエル一世はユダヤ人を強制的にキリスト教に改宗させた。これが新キリスト教徒であるが、差別が残り「マラーノ(豚)」と呼ばれるようになる。
 すでに海洋帝国になっていたポルトガルにとってはユダヤ人の富が貢献していたのであるが、なんとポルトガルは改宗しないユダヤ人達を追放しようする。
 そして多くは比較的宗教に寛容だったオランダに逃れ、追放されたユダヤ人は財産を没収された。それとともに交易の中心はオランダに移って行く。
 ユダヤ人には大きく分けて、ユダヤ教を国教としたハザール王国の末裔出身のアシュケナージと、北アフリカやスペイン在住のスファラディとに別れる。比率はアシュケナージが9割、スファラディが1割。しかし両者とも様々な差別や圧迫があった。また古くから「ユダヤ陰謀説」流布されていた。そうしてそれを最大限に利用した人物こそアドルフ・ヒトラーなのであった。

マノエル・ド・オリヴェイラは語る
 肖像に関する情報を得るため何度も監督にはお会いした。マノエル・ド・オリヴェイラの脳裏では、マンショの肖像と、アルメイダの肖像とは結び合わされいる。
 彼は「マラーノ(Marrano)を理解しないと、中世はわからない。当時は宗教を軸にして世界が動いた。その表面と裏面でマラーノの動向が影響をあたえる。私が想像する伊東マンショは、東洋から来たアルメイダのようだ。ふたりは何もかも違うが、何もかも同じだ。マンショはアルメイダを鏡写しに見せてくれる」と語る。

Trailer O ESTRANHO CASO DE ANGÉLICA PT   アンジェリカの不思議な事件(2010年)


Cristóvão Colombo - O Enigma コロンブス 永遠の海(2007年)


 マノエル・デ・オリヴェイラ監督が、ポルトガル人のはるか海の­彼方へのあこがれを描いた壮大な歴史探索物語。過去から続くポルトガル人の海へのあこがれと郷愁が心­地良く胸に響く。

マノエル・ド・オリヴェイラ 2 W600
 「コロンブス 永遠の海」の一場面
 ポルトガルが世界の大国へと上りつめた大航海時代、人々は何を想い、何を求めて、果てしない海へ向かったのか。この映画は「新大陸発見」で知られるコロンブスの謎を追い、旅をする夫婦の絆の物語。
監督:マノエル・ド・オリヴェイラ
撮影:サビーヌ・ランスラン
美術:クリスチャン・マルティ
音楽:ジョゼ・ルイス、ボルジェス・コエーリョ
出演:リカルド・トレパ、レオノール・バルダック、マノエル・ド・オリヴェイラ、マリア・イザベル・ド・オリヴェイラ他
2007年/ポルトガル・フランス/ポルトガル語・英語/75分/カラー

 これは巨匠オリヴェイラ監督が、大航海時代の偉人コロンブスの出生の謎をとおして、ポルトガル人の海の彼方への憧れを描いた話題作。

 「新大陸の発見」で知られるクリストファー・コロンブス(1451~1506)は、イタリア人ともスペイン人ともいわれ、その出生は謎とされていた。
 そして没後500年にあたる2006年に「コロンブスはポルトガル人だった」とする新説がマヌエル・ルシアーノ・ダ・シルヴァという歴史研究者によって発表された。

 映画『コロンブス 永遠の海』は、研究者である彼が妻とともに、コロンブス生誕の謎を追った半世紀にわたる旅をとおして、ポルトガル人固有の海の彼方への憧れ、ロマンティシズムを描いている。
 夫婦は、ポルトガルからアメリカ大陸への歴史探求の旅で、コロンブスへの想いを深めてゆく。――エンリケ航海王子やヴァスコ・ダ・ガマが海を渡り、ポルトガルが世界の強国へと上りつめた大航海時代、人々は、何を想い、何を求めて、果てしない海へとむかったのか。そしてあのコロンブスは、本当に、彼らポルトガルの偉大なる旅人たちの一人だったのか。

 100歳を過ぎて、みずみずしい感性を失わないポルトガルの巨匠マノエル・ド・オリヴェイラ監督は、2006年の新説に触発されて、本作の構想をふくらませた。そして彼独特の映画的技法によって、ポルトガル人の精神、サウダーデ(郷愁)の感情を明らかにしていく。

 マノエル・ド・オリヴェイラ監督は、1908年ポルトガル・ポルト市生まれ。
 1931年の短編ドキュメンタリー『ドウロ河』が監督第1作。
 無声映画時代から今日まで、特に80歳になってからは、ほぼ1年に1作という驚異的なペースで新作を発表し続けている。2008年カンヌ国際映画祭では、生涯功労賞が授与された。現在、世界の映画人に最も尊敬されている世界最高齢の映画監督である。(2013年7月現在104歳)

 この『コロンブス 永遠の海』は、オリヴェイラ監督の名人芸ともいえる作品である。またポルトガル人のアイデンティティともいうべき、海に対する思いに、シンプルかつ自在な映像表現によって迫った、オリヴェイラ監督の到達点ともいえる。
 若き頃の主人公夫婦はオリヴェイラ監督の孫であるリカルド・トレパ(『夜顔』『家路』)と、オリヴェイラ作品のミューズであり、アグスティーナ・ベッサ=ルイス(『アブラハム渓谷』『家宝』の原作者)の孫娘レオノール・バルダックが演じている。
 また、老年時代を演じているのは、オリヴェイラ監督自身とマリア・イザベル夫人である。本作は長い旅を続けることで愛情を深めていく作中の夫婦と、結婚70周年を迎えようとしているオリヴェイラ夫妻が重なり合い、織り成された、夫婦の絆の物語でもある。
ころがる丸 gif



     辻斬りZ W50H50 gif  ③ 肖像から蘇る伊東マンショの正体
     ライン黄色 gif
         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

     マンショ案内 6  Dr Donut W50H50 gif   骨相 gif 200

     プロファイリングは万能薬ではない。
     プロファイルによって解決された歴史の真相などひとつもない。だからどれほど優れたプロファイルについても過大な評価をしてはならない。プロファイルとは現実の理論だからだ。非現実の中にこそ歴史の真相は秘められている。そうかんがえると、痕跡をもとに真相の割りだしを行うのが正確である。
 復顔法とは、頭蓋骨をもとに生前の顔を復元するという技法。
 そのためには、頭蓋骨を構成する要素を収集する。似顔絵および肖像がその要素となる。前述したが当研究所の把握するもので382点の肖像らしきものがある。これらは明治初期から今日までに発掘された。その内、信憑性の高い100点を厳選し特性を分析する。この要素で頭蓋骨を復元するのであるが、現在そうした精査研究を行っている。
 
マンショ肖像 B gif H200   マンショ肖像 A gif H200

マンショ肖像 4 W600




                      シリーズ連載・次回No.fileに続く
                         look gif H100
Mancio C W600
           MANCIO
ライン黒 W600


                         My images 割 gif

                  Sotarou 1


ライン黒 W600



伊東マンショの正体を科学する No.0001

Ron.gifSO 50World.gif     地球 gif WH80
波動 gif W300漱太郎 1

Science to elucidate the identity of X 20
X 100伊東満所 文字3 W385
ライン黒 W600
伊東満所 資料5 W300H30マンショ関連の画像 スライドgif

マンショ W600H407

          ゼブラ球 W100      ZERO 連gif辻斬りZ W100H100 gif

ほん1 W45H40 伊東満所 資料1  Dr Donut W40H40
 世界は大航海時代。日本は戦国「下克上」の世。同時期にキリスト教が伝来する。織田信長の比叡山焼き討ちのころに、また室町幕府が終焉しようとするころに、日向国一円に勢力する豪族の伊東家に数奇な運命を宿す一人の男児が誕生した。
 この男児が後に天正遣欧少年使節の正使となる伊東マンショ。
 だがこの人物についての実像を記す資料は今日に乏しい。その背景には当時の混乱と錯覚とが不遇にも交錯する日本史の実情がある。つまり記録として残せない深い闇の淵に置き去られた。
 No.2631ファイル・データはこの歴史人の正体に迫る研究をシリーズ構成でつづる資料コラム。中世の街道を往来した人物との交流を織り重ねながらマンショの足跡の真相を編集する。・・・・伊東満所

伊東満所 文字5
伊東満所 文字4 W600
ドン満所 gif H150   Mancio 100
ライン黒 W600

Mancio C W600

signbot (0)To science Mansho W303H40To science Mancio gif
ボストン W600
Xの正体

ライン黒 W600
四角錘あか  File No.1 南蛮の道とマンショの肖像(
ライン黒 W600

     辻斬りZ W50H50 gif  ① 中世とは絹の道と南蛮の道の交差点
     ライン黄色 gif
         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡


     マンショ案内 1  Dr Donut W50H50 gif

     時代に道はある。その道(load)に文明や文化は交差する。まず日本にはシルクロードより多くの文化が渡来した。仏教が伝わると奈良朝において遣唐使が海を渡り往来する。そして中世には西洋の文明が南の海域から直接して渡来した。西欧の大航海は極東の小島・日本国にまで到達する。
 こうして南蛮の文化がやって来た。
 その最初の交差点が種子島であった。はじめに鉄砲とキリスト教が伝来した。

 これは日本人にとって意外な出来事であった。
 こうした意外な時事を生きて象徴する人物が伊東マンショである。

 新しい文明は常に交差する人々を交錯させる。
 事実、この新しい武器と宗教により日本国は混乱し変貌した。文明は古き意識を打ち砕くかに振動させ、これによって人を殺戮(さつりく)する手段が日本の故実から乖離(かいり)する。武の行動規範が大きく様変わりした。日本の武道に西洋の騎士道が混入すると、それまで仏教で蓄えた和本来の無常感が日本人から遠のいた。

 つまり和の理念に新たな洋の理念が接近し、大きく日本国は動揺する。
 さも仏教伝来の当時のごとく動揺した。新波の、それはキリシタン大名の出現で具体化される。

 新教と武器の合理化、物流の拡張、この波濤の渦中に伊東マンショの生涯がある。
 マンショが交差した新しい文明の道が「南蛮の道」であり「ローマへの道」であった。
 そうした伊東マンショが最初に立った交差点がユーラシア大陸最西端の国ポルトガル(葡萄牙)。
 マンショをたどる道には、何よりも先ずこのポルトガルの風土が浮かんでくる。

ポルトガル国旗 gif 1       ポルトガル 1
ポルトガル gif
ポルトガル地図 W600H409

 ポルトガル共和国(República Portuguesa)。
 通称ポルトガルは、西ヨーロッパのイベリア半島に位置する共和制国家である。
 北と東にスペインと国境を接し、国境線の総延長は1,214kmに及ぶ。西と南は大西洋に面している。ヨーロッパ大陸部以外にも、大西洋上にアソーレス諸島とマデイラ諸島を領有している。
 首都はリスボン。このポルトガルはユーラシア大陸最西端の国家であり、かつてはヨーロッパ主導の大航海時代の先駆者となった。そのためヨーロッパで最初に海路で日本や中国など東アジアとの接触を持った国家である。

マンショ ポルトガル W600H350


                    映像Produce:by Sotarou. テーマ:「LISBOA - Wendy Nazaré & Pep's」

Lisboa 1
 リスボン(Lisboa)。日本で広く用いられる「リスボン」(Lisbon)は英語由来の呼び名で、ポルトガル語では「リジュボア」となる。ポルトガルの首都で同国最大の都市だ。
 天正遣欧少年使節が、なぜ最初にリスボンに上陸するのかはリスボンの歴史性と密接する。
 市域人口は547,631人を擁し、市域面積は84.8㎢を占めているが、リスボンの都市的地域は市域を越えて広がっている。人口は300万人を超え、958㎢を占めており欧州連合域内では11番目に大きな都市圏 を形成している。
 約3,035,000人の人々が、リスボン都市圏に暮らし、ポルトガルの全人口の約27%を占めている。リスボンはヨーロッパでは大都市として最も西にある都市で、同様に最も西側にある首都で唯一、大西洋側に沿っている。そしてリスボンはイベリア半島の西側にあり、テージョ川の河畔に位置している。



 世界的にも古い歴史がある都市の一つで、西ヨーロッパでは最古の都市であり、現代のヨーロッパの他の首都であるロンドンやパリ、ローマなどよりも数百年さかのぼる。
 ガイウス・ユリウス・カエサルは、フェリキタス・ユリア「Felicitas Julia」と呼ばれるムニキピウムを創建し、オリピソ「Olissipo」の名に加えた。5世紀から一連のゲルマン人部族により支配され、8世紀にはムーア人により攻略された。1147年、ポルトガル王国の建国者アフォンソ1世下のレコンキスタでのリスボン攻防戦で、ポルトガルはムーア人からリスボンを奪回する。
 以来、リスボンはポルトガルの主要な政治、経済、文化の中心となっている。また、ほとんどの首都と異なり、リスボンのポルトガルの首都としての地位は法令や書面の形式では公式に認められたり確認されていない。だが首都としての地位は憲法制定会議を通じて事実上の首都としてポルトガルの憲法に定められている。

          Dr Donut W100H100 gif  大航海時代の世界地図 gif 400

 ローマ帝国が衰退すると、イベリア半島にもゲルマン人が侵入を始めた。
 411年にガラエキアに侵入したスエヴィ人はスエヴィ王国を建国し、西ゴート人の西ゴート王国がこれに続いた。西ゴート王国は585年にスエヴィ王国を滅ぼし、624年に東ローマ領を占領、キリスト教の下でイベリア半島を統一したが、内紛の末の711年にウマイヤ朝のイスラーム遠征軍によって国王ロデリックが戦死し、西ゴート王国は滅亡してイベリア半島はイスラーム支配下のアル=アンダルスに再編される。そしてアンダルスには後ウマイヤ朝が建国され、西方イスラーム文化の中心として栄えた。
 
 キリスト教勢力のペラーヨがアストゥリアス王国を建国し、722年のコパドンガの戦いの勝利によってイベリア半島でレコンキスタが始まった後、868年にアストゥリアス王国のアルフォンソ3世はガリシア方面からポルトゥ・カーレを解放し、ヴィマラ・ペレスを最初の伯爵としたポルトゥカーレ伯領が編成される。
 1096年にこのポルトゥカーレ伯領とコインブラ伯領が、アルフォンソ6世からポルトゥカーレ伯領を受領したブルゴーニュ出身の騎士エンリケ・デ・ボルゴーニャの下で統合したことにより、現在のポルトガルに連続する国家の原型が生まれた。

 さらにポルトガルにおけるレコンキスタは、スペインよりも早期に完了した。
 1149年には十字軍の助けを得てリスボンを解放し、1249年には最後のムスリム拠点となっていたシルヴェスとファロが解放される。レコンキスタの完了後、首都が1255年にコインブラからリスボンに遷都された。
 1290年にはポルトガル最古の大学であるコインブラ大学が設立される。また、1297年にはカスティーリャ王国との国境を定めるためにアルカニーゼス条約が結ばれ、この時に定められた両国の境界線は現在までヨーロッパ最古の国境線となっている。また、この時期にポルトガル語が文章語となった。

 ヨーロッパで最も早くに絶対主義を確立したアヴィス朝は海外進出を積極的に進め、1415年にポルトガルはモロッコ北端の要衝セウタを攻略した。この事件は大航海時代の始まりのきっかけとなり、以後、エンリケ航海王子(1394年~1460年)を中心として海外進出が本格化する。
 ポルトガルの探検家はモロッコや西アフリカの沿岸部を攻略しながらアフリカ大陸を西回りに南下し、1482年にはコンゴ王国に到達、1488年にはバルトロメウ・ディアスがアフリカ大陸南端の喜望峰を回り込んだ。1494年にスペインとトルデシリャス条約を結び、ヨーロッパ以外の世界の分割を協定し、条約に基づいてポルトガルの探検家の東進は更に進み、14981年にヴァスコ・ダ・ガマがインドに到達した。
 また、1500年にインドを目指したペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルを「発見」し、ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化が進む。以後ブラジルは1516年にマデイラ諸島からサトウキビが持ち込まれたこともあり、黒人奴隷貿易によってアフリカから多くの人々がブラジルに連行され、奴隷制砂糖プランテーション農業を主産業とする植民地となった。

1600年のヨーロッパ W600

 ブラジルはポルトガルに富をもたらすと同時に、ブラジルそのものの従属と低開発が決定づけられ、ポルトガルにもたらされた富はイギリスやオランダなどヨーロッパの先進国に流出し、イスパノアメリカの金銀と共に資本の本源的蓄積過程の原初を担った。一方、1509年のディウ沖海戦で勝利し、インド洋の制海権を確保してマラッカ、ホルムズと更に東進したポルトガル人は、1541年~1543年には日本へもやってきた。
 このポルトガル人の到達をきっかけに日本では南蛮貿易が始まり、織田信長などの有力大名の保護もあって南蛮文化が栄えた。さらに、1557年には明からマカオの居留権を得た。
 伊東マンショが生まれローマへと向かう時期は、ポルトガル・リスボン港という航海基点は使節一行が西欧をたどる際に最重要な窓口であった。つまりこのリスボンがあるからこそローマへの道が開かれた。

Lisboa gif

 Lisboa, a fantastic city

ポルトガルの領地拡張 W600H275

マンショ 4 W360H180うみと玉 gif

 ポルトガル紀行「Mancio幻影随想記

 崖の上から見下ろす大西洋は、どんよりと曇った重たそうな空を反射して灰色に沈んでいた。海から吹く風は、ユーラシア大陸の西の端の岬に荒波を運んで来る。その様子を、飽きずにいつまでも眺める。冷たい風に負けて立ち去ろうと思うのだけれども、あともう少しだけ、と何度も繰り返し、私は同じ場所に佇んでいた。

 30年前にポルトガルのロカ岬に立ったとき、不思議な感じがした。そして今回が20度目となる。これまではずっと日本から遠く離れた土地を追い求め、マンショの足跡を訪ねる旅をして来た。もっと遠くへ、もっと深く。そう思って来た。ここポルトガルももちろん日本から遠く離れている。でも、岬の突端に着いた時、ここはもう日本へつながる場所なんだ、ということに気がついた。ここからまっすぐどこまでも東に行くと、そこに日本がある。だから常に、ついに帰る時が来た、という実感が込み上げる。日本という国を出て世界へと旅立ち、そしていま日本へ向けて帰る旅が始まろうとしている。マンショの幻想をそう織り上げた。

Cabo da Roca A W600


 かつて大航海時代、コロンブスはこの大西洋を越えた先にインドがあると主張し、帆を上げ風を掴み、幾多の波と苦難を乗り越えていった。辿り着いた先は残念ながらインドではなくアメリカ大陸だったけれども、それはそれまで歴史の陰に隠れていた新たな大陸が表舞台に出て来た瞬間だった。

 その冒険に自分の旅を重ねて、さあ自分も頑張るぞ、なんて語るほどこの旅は大げさではない。コロンブスの時代に比べて、いまの世界は少々狭くなりすぎた。何より私はコロンブスではない。大航海時代のような冒険旅行はできないけれども、自分には自分の旅があり、その自分だけの旅の軌跡を大切に日本まで戻ろうと、砕ける波を眺めながら考えた。伊東マンショもそうだったろう。
 伊東マンショはローマへと向かう往路・復路の二度ポルトガル・リスボンに滞在した。
 道に迷い、自分自身に迷い、旅に迷ったら、とりあえず陽が昇る方角を目指そうと思う。どうやらポルトガルとは人にそう思わせる風土のようだ。マンショの触れた風土にカメラを回しながら、西の果てで、東の果てにある日本のことを考えた一日だった。現在も当時の風土は残像を醸し、そこにマンショの面影が浮かんでくる。


 ゴアから喜望峰を経て伊東マンショはリスボンに到着した。
 宿舎はリスボンに用意される。
 しかし彼が最も長く時間を過ごした場所はリスボン近郊のシントラであった。
 そのシントラは、リスボンのロシオ駅から、列車やバスで約1時間である。
Sintra 2 70P回転三つ丸
 伊東マンショの見た風土「ポルトガル・シントラ」
 Paisagem que Mancio olhou para "Portugal-Sintra"

                               映像監修:by Sotarou 企画:Boston visual art.


     辻斬りZ W50H50 gif  ② マンショの五臓に沁みた異邦の別世界
     ライン黄色 gif
         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

     マンショ案内 3  Dr Donut W50H50 gif

げんぞう 1 gif

 日本人の中世時代における食文化とは実に興味深い。そう考えるのは漱太郎だけではないだろう。まず当時は未成年者の飲酒は禁じられていない。記録をひもとくと実に多くの青少年が当時は酒を飲んでいる。未だ清酒という上品な味わいを醸すモノは日本では生産されていないが「どぶろく」の濁り酒が飲まれていた。

 例えばあの風雲児・織田信長も7歳にして酒を飲んだと記録される。信長は母・土田御前が織田信秀の正室であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となる。『信長公記』に拠れば、幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多く、周囲から尾張の大うつけと称されていた。日本へ伝わった種子島銃に関心を持った挿話などが知られる。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた。こうしたまだ世子であったころ、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の「織田大和守家」の支配する清洲城下に数騎で火を放つなど、父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せた。
 このころ信長は酒を飲んだ。放火直後のことであった。信長は天文15年(1546年)、12歳で古渡城にて元服し、上総介信長と称する。したがって元服の5年前にすでに酒を飲んでいた。

 他の記録に豊臣秀吉は10歳、福島正則が9歳とある。どうやら戦国武将は少年期の飲酒は常套として行われていた。その福島正則の8歳下に伊東マンショは日向国で生まれた。
 さて初回No.1の冒頭は、伊東マンショが初めて口にした酒についてご紹介する。

 天正遣欧少年使節一行が長崎港を出港したのは1582年2月20日(天正10年旧暦1月28日)。
 1548年8月10日 (天正12年旧暦7月5日)ポルトガルの首都リスボンに到着した。
 サン・ロッケ教会が宿舎となる。そして伊東マンショは、リスボン近郊シントラのアルベルト・アウストリア枢機卿(フェリペ2世の妹マリアと神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の男子)の王宮に招かれた。この王宮における晩餐会においてマンショは酒という飲物を初めて口にする。
 14歳のマンショはポートワインを飲んだ。記録によると使節の一行はワングラスを飲んだとある。そして正使者の伊東マンショにはアルベルト・アウストリア枢機卿が土産品としてボトル一本を与えた。宿舎となったサン・ロッケ教会に関わる末裔者宅に、この記録が遺されている。
 その晩餐会の夜、宿舎で一夜を明かしたマンショは、「Eu bebi pela primeira vez uma bebida tão saborosa.」(こんな美味しい飲物を初めて飲んだ)「Tive um sonho agradável.」(楽しい夢を見た)と語ったという。

ポート 2
ポート 3
 Turismo Ferroviário「do Douro」観光鉄道(一つのギルド)


Porto gif

ポルト 地図 W600

ポルト 1 W600H269


 さて、伊東マンショは果たしてどのようなワインを飲んだのであろうか。
 晩餐会のメーニューに照らして再現を施してみる。

 ポルトガルの食文化は北部から南下した。
 マンショがリスボンを訪れた当時、市域の食生活はポルト地方の文化が色濃く残されていた。
 それはポルト港を拠点とした航海者らが南部のリスボン港へと移動した影響による。

 リスボンの北300キロに位置するポルト、そしてここはポルトガル北部の中心地である。
 無論、ここにはマンショの足跡はない。実際に訪れる機会はなかった。
 しかし彼がリスボン近郊のシントラで体験した一部にはポルト文化が影響した。
 自身は知らずとも彼の体内にはポルトの風が吹いている。

 ローマ時代から港町として栄えていたポルト。
 隣国スペインと同様、イスラム支配だった時代もあるが、997年、エンリケ伯爵がレコンキスタ(国土回復運動)を始める。そして彼の息子、アフォンソ1世がこれを達成。スペインから分離独立して、ポルトガル王国の初代ポルトガル王となった。
 ところが、14世紀後半にヨーロッパを襲ったペストの流行で、国王の税収が激減し、王家は衰退し始める。そんな時、同盟を結んだのがイギリス。国家衰退に歯止めをかけ、勢力を増大していたスペインへの対抗策であったが、ここから始まるイギリスとの同盟関係が、のちのポートワイン世界進出への伏線といえる。
 そして訪れるのが「大航海時代」。登場する人物は「エンリケ航海王子」。
 彼はポルト出身で、市内には生家跡が残されている。世界史上、大航海時代は、このエンリケ航海王子が主導となった「北アフリカ進出」から始まった。
 ポルト港から大西洋、アフリカ北岸へと乗り出す船隊のために、ポルト市民は町中の肉類を提供し、自分たちは残った臓物を食べたと言われている。そこから、モツ(トリッパ)を食べる人、という意味のポルト市民の愛称「トリペイロ」が生まれた。牛の臓物と豆を白ワインで煮込んだモツ煮「トリッパ・ア・モーダ」がポルトの名物料理となったのも、こういう歴史背景がある。

トリッパ・ア・モーダ W600H311
                           トリッパ・ア・モーダ Tripas à moda do Porto

 歴史的に、肉を毎日食べることは上流階級の特権であり、肉は中世の貴族の食卓の中心的存在であった。ポルトガルのルネッサンス年代史家、ガルシア・デ・レセンデは、王宮の晩餐会で鶏の丸焼きに囲まれた雄牛の丸焼きが、いかにして前菜に供されたかを著述している。
 彼のそうした関連記述に伊東マンショが、リスボン近郊シントラのアルベルト・アウストリア枢機卿の王宮に招かれた折の晩餐会における献立が明記されている。
 主に冬に食べられるポルトガルの一般的な料理にコジード・ア・ポルトゲーサという煮込み料理である。
 これはフランスのポトフ、スペインのコシド、アメリカ合衆国のニューイングランド風ボイルド・ディナーにいくぶん類似している。コジードの具は、食材の購入にかけられる予算と料理人の想像力によって決まり、特に贅沢なものには牛肉、豚肉、ショリッソ、リングィーサ、ファリニェイラ(豚肉ソーセージ)、モルセーラやショリッソ・デ・サングェ(血のソーセージ)、塩漬けにした豚の三枚肉、豚足、プレスント(塩漬けハム)、ジャガイモ、ニンジン、カブ、ヒヨコマメ、キャベツと米が入っていることが多い。これは当初、裕福な農民の大好物であったが、後に都会に住むブルジョワジーや典型的なレストランの食卓に上ることとなった。
 つまり伊東マンショはこの「コジード・ア・ポルトゲーサ」を食べた。
 レシピの詳しくは記されてないが、豚肉は使われている。おそらくマンショは料理としての豚肉を最初に口した日本人であった。

コジード・ア・ポルトゲーサ W600H343
                           コジード・ア・ポルトゲーサ Cozido à Portuguesa


 18世紀になるとポートワインが主要な輸出品として生産拡大されていく。
 マンショとの関係、ここで大事なのが先に述べたイギリスとの関係。シッパーと呼ばれるポートワインの製造・輸出業者には、何世代もポルトに住み着くイギリス人、ユダヤ系の人が多く、特に18世紀はイギリス市場の7割以上を占める程、多くのポートワインがイギリスへ輸出された。と言うのも、両国間の条約により、イギリスはポルトガル産ワインをフランス産よりもはるかに安い関税で輸入出来たからだ。「ポートワイン」とは英語。ポルトガル語ではヴィーニョ・ド・ポルトvinho do Portoとなる。英語読みの方が世界的に流通しているのは、ポルト・イギリス間の盛んな貿易があったからなのである。
 そんなポルトの見どころは何と言っても、町を流れるドウロ川を横切るドン・ルイスⅠ世橋と、ポートワイン工場が並ぶ南側から見た対岸のポルト歴史地区の眺めにつきる。何時間眺めても飽きず、また再び戻って来たいと思わせるような、どこか郷愁漂う風景である。



 ドン・ルイスⅠ世橋は2階建てになっており、パリのエッフェル塔建設で有名なエッフェルの弟子であるベルギー人技師が設計したもの。メトロや車、人が行き交っている。ドウロ川の南岸に沿って並ぶポートワイン工場がある辺りは、長細い芝生が続いており、思わずカメラを向けたくなるような素晴らしい町並みが、正面に広がっている。

 歴史地区は1996年に世界遺産に登録されており、歩いてまわれる距離に点在する。ただし、ポルトは坂の町。だからこそ対岸からの景色は美しい。町のどこからでも目に入るポルトのシンボル、クレリゴス教会の塔(高さ76m)や市内で最も古い建物である大聖堂、バロック式内部装飾が有名なサン・フランシスコ教会、そしてアズレージョ(装飾タイル)の壁画が見事なサン・ベント駅がある。夜はレストランが並ぶカイス・ダ・リベイラ通りでドウロ川と橋を眺めながらポルトガル料理を召し上がると、優雅な景色に癒される。

 独特の強い甘味とコクがあり、食後酒として好まれるポートワインであるが、それは製造法に特徴があるからで、発酵中のワインに、アルコール度77%のブランデーを加え発酵を止めることで、糖分が残され、ブドウ本来の果実味、自然な甘味につながる。この製造法はイギリスへの長い船旅に耐えるための対応策だった。
 ポートワイン用のブドウ栽培はドウロ川上流で行われ、ここで生育したブドウ以外はポートワインと名乗ることは出来ない。原料となるワインは上流で造られるが、熟成と瓶詰は下流のポルトで行われる。だから、出港地であるポルトがワイン名になった。伊東マンショがリスボンに滞在した当時のトラックや鉄道が利用される以前、上流からポルトへの輸送手段は、ラベーロと呼ばれるワインの樽を積んだ帆船であった。これは現在も樽を積んだまま、宣伝用としてドウロ川に浮かんでいる。

Portoの船 W600

 ポートワインとは、ポルトガルの北部ドウロ地方で作られる甘口の酒精強化ワインの事で、酒精強化とは「アルコール度数を強化した」という意味になる。
 伊東マンショが口にした当時のワイン事情に触れてみると、本来、お酒は古今東西神聖なものと考えられており、お酒には精神が宿っていると考えられていた。お酒を蒸留した飲み物を、欧米ではスピリッツ(精神)と呼び、中国でも酒精と呼んでいる。事実、晩餐会においても「赤い聖水」と称して振舞われた。
 したがってマンショが含んだワインは「聖水」であり、「ポートワイン」ではない。マンショの訪れた当時は未だワインは輸出されていない時代。だから正確には後にポートワインと名づけられる原型酒といえる。
 口や体内を漱ぎ清めるために用いられた。

 Rede Vida Visita a Cidade do Porto em Portugal!

ワイン 9 W600

 ポートワインの作り方は、普通のワインを作る過程で、糖分がアルコール発酵をする途中でブランデーを添加し酵母の働きを止める。そうすることにより、糖分が残ったまま発酵が止まり、甘口かつアルコール度数の高いワインが出来上がる。それがポートワインである。

 少しポートワインの歴史についてご説明する。

ワイン 16 W600


 「シャンパーニュ」とボルドーの議会人が産み出した「新しいクラレット」が、裕福で、多少は違いの分かる消費者という、当時増大しつつあった階級を狙って作られたワインであったとしたら、ほとんど時を同じくして誕生したポート・ワインは、まさに正反対のものであったといえる。

 それはイングランドの政治家が、国民に押しつけた、一時しのぎの酒だったからだ。
 彼らの計算には二つの要素が入っていた。つまり、敵国フランスからの輸入禁止と、昔からの同盟国を利用しようとする厚顔無知な意図である。遠慮会釈なく、イングランドは不運なポルトガルに自分の考えを押しつけた。しかしボート・ワインの貿易はかなり不名誉な始まり方をした物語としては幸福な結末を迎えることになるのである。

 15~16世紀のポルトガルは、無謀とも思える勢いで海外の探検や領土拡大に乗リ出し、前例のない航海者の偉業に、国中がのぼせ上がっていた。未来からの視線ではそう見える。
 日本の領土とさほど違わない、この小国の人々が、グリーンランドからインドのゴアまで、中国からブラジルまで世界中に広がっていったのである。
 そうこうするうちに、彼らは故国での商売をほとんど辞めてしまう。その田畑は耕されないままに男達は船出して、新世界からエキゾティックな産品を持ち帰えるようになる。そして、1580年に、ポルトガル王がモロッコのムーア人を支配しようとする、いかにも軽率な遠征における戦闘で命を落としたとき、冷血なスペイン王、フエリペ2世は、ポルトガルの領土を併合した。

 これによりポルトガルの海外領土からの税収入は、マドリードへ流れ込み、1588年5月28日、フエリペ2世はポルトガルの同盟国であるイングランドと戦う、メディニャ・シドニア公率いる無敵艦隊をリスボンから出航させた。対するイングランド艦隊の司令官はカディスへ殴りこみをかけたフランシス・ドレーク提督である。イングランド艦隊は、アルマダの海戦で無敵艦隊を破ることになった。しかし、スペインによるポルトガルの「捕因」は1649年まで60年間に及んだのである。

ワイン 10 W600

 イングランドとオランダの双方がその機会を利用し、ポルトガルの海外の領地で海賊行為を働く口実とした。
オランダ人が手に入れたのは、台湾と中国貿易の大部分、コーチン、ネーガパトナムと、インドにおけるポルトガルの地位、マラッカとマレーシアの植民地で、一方イギリスは、ひたすらインドとブラジルに干渉した。同時にイングランドは自国の産品をポルトガル国内の真空地帯に導入し、その結果1644年のモンティヨの戦いによって、ついにスペインからの自由が訪れたとき、ポルトガルとイングランドとの関係は明らかに一方的なものになっていた。ポルトガルはイングランドの植民地になる危険性にさらされていたのである。

 さらに事態を悪化させたのが、イングランドの内乱において敗北する王党派を支援したことで、勝利者のクロムウェルはその事実を利用して、条約締結に当たってイングランドの優位を固めた。
 イングランドはボルトガルの市場を、国内とブラシルの双方で利用することになるが、鼻薬として、ポルトガルの特定の品物、たとえば織物などが、圧倒的に強いイングランドとの競争から保護されることになった。1654年に承認されたこれらの条件は、1662年にイングランド王チャールズ二世が、ポルトガルのブラガンサのカザリンと結婚したときに再び確認され、それに付け加える持参金として、チャールズは、ボンベイ、タンジール、そしてセイロンのゴール港を受け取ったのである。

 ポルトガルにおいては、イギリス人の地位は確立され、多くの特権があったので、フランスと争うことになったとき、彼らがワインを求めてボルトガルへ来たのは不思議ではない。それは、既に自国から買っているのも同然だったからである。
 1660年代のボルトガルには、イングランドの貿易の本拠地が、三ヶ所に確立されていた。リスボン、オポルト、そして最北の州、ミーニョのヴィアナに商館があった。
 イングランドの会社ルーペは、典型的な三角貿易を管理するために、1654年に創設された。まず、イングランドからニューファンドランド島へ航海して鱈漁をするか、あるいは買い入れる(干し鱈はポルトガル人の主食であった)。そして、ヴィアナに停泊すると、積み荷の鱈をミーニョ「スペイン:Mino、ポルトガル:Minho」の赤ワインと交換し、それをイングランドまで運ぶとイングランド製の織物と交換して帰ってくる。その織物と交換にさらにワインを入手すると、その後、それをニューファンドランド島へ運ぶこともあった。

ワイン 12 W600


 ワイン産地はミーニョである。また、スペインのガリシアとの国境にある「モンサン」のワインも好まれていたため、大都市オポルトでの貿易が増大した。モンサンは質の良い品種、白のアルヴァリーニョ種を栽培していたが、それは丈が高くならないように低く整枝されておリ、通常のミーニョの軽いブドウよリ強くて安定したワインを産み出していた。
 ミーニョは大変肥沃で、人口が集中した耕作率の高い地方なので、ブドウの木はあらゆる種類の農作物との競合にさらされた。その結果普通では見られないほどの高さまで成長し、古代ローマ式に丈の高い木にするか、あるいは最近では高い棚に蔓を這わせている。今日ではそのワインの特徴は、鋭さは言うまでもなくその爽やかさが喜ばれ「ヴィニョ・ヴェルデ:vinhos verdes 緑のワイン」として高く評価されている。そのオポルトで、ドウロ川上流に産するワインを、最初に買い始めたのはオランダ人であった。
 1672年にオランダがフランスと戦争を始めたために、ボルドー・ワインを扱うオランダの船が、はるかな異国、ポルトガルを訪れたのである。彼らは、ヘレスとリスボンで白ワインを買い、オボルトで赤ワインを買い求めた。そして1675年には内陸へと進み、現在のポート・ワインの生産地の西端にあるラメゴまで達した。
 しかし彼らは、その段階では、降雨量の多い沿岸部とあらゆる点で異なる高地が、素晴らしい可能性を秘めた強力な性格のワインを産み出す源になる、と考える者は誰一人いない。
 高度1400メートルのセラ・ド・マラオを過ぎると気候は一変し、大西洋上で発生する雲の広がリもここまでは届かず、川の周リに集まる粘板岩の片岩で出来た裸の丘が挑むような威容を見せている。しかしそれは、猛烈な努カをしなければ有益な物は何一つ育たない世界なのであった。片岩を土に変えるには手荒なやリ方が必要であり、耕すことの出来る土地を、最初は火薬(ダイナマイト)を利用して、一から創造しなければならない荒涼とした地方であったようだ。

ワイン 13 W600

 1679年、インクランドは、関税問題がもめてフランス・ワインの全面輸入禁止を打ち出した。そのため、既に知られていた、ミーニョとリスボン以外のワインを求めて、ワイン商人はボルトガル中を捜し回る。しかし、すぐ手に人る良質なワインはほとんどない。存在していたのは腐った樽とブドウを踏み潰した不衛生な踏み桶から、皮袋に入れて運ばれる、山羊皮の臭いが移ったワインだけであった。外国人がこれなら我慢できるというワインを着実に供給したいと思うなら、自分自身で組織しなければならなかった。そして、実際、イングランド、スコットランド、オランタの仲買人たちはそれに着手したのである。
 イングランドがフランスと戦争を始めた年には、商人はオボルトで何とか約400パイプ(ポルトガルの標準的な液量単位、1パイプは522リットル)のワインを見つけてロンドンへ送る。戦争が長引くに連れ、生産量は目覚ましく上昇したようで、4年後の1683年には1万7千パイプに近いワインが送られた。しかしこれらの大部分は「フランス・ワイン」で、インクランドの税関をごまかすために、素早く組み立てられたボルトガルの樽を利用したことは確かである。
 イングランド初の純正オポルト・ワインは「ポルト・ポート」という名で知られていたが、その味について、ことさらうんちくを傾けようという者はいなかったようだ。そして、1686年にフランスとの平和が訪れると、ボルトガル・ワインの出荷は不振に陥リ、一方クラレットの出荷は中世以来見られなかった量まで跳ね上がった。

ワイン 11 W600

 18世紀の始まリと共にヨーロッバの政権の動向は不安定になる。ポルトガルがフランスのルイ十四世に近づき、続いてスペインとも近づいたために、イングランドとオランダが神経質になった。もし、リスボンが敵の港になれば、両国の大西洋と地中海の海運は深刻な脅威にさらされる。イングランド王ウィリアム2世は経験を積んだ外交家(そして織物商)の、ジョン・メシェンを送リ込み、オランダ人と協力して、ポルトガル人と交渉させたのである。
 メシェンは「もしポルトガルに輸入されるイングランドの織物に対する制限を解除するならば、ポルトガル・ワインを、最高でもフランス・ワインの三分の二の税率でイングランドに輸出できることを保証する」と約束した。

 しかし、1679年以来、ボルトガル・ワインはイングランドに陸揚げされるどのワインよりも低い税率を既に享受していた。大樽一個につき、フランス・ワインは53ポンド、ポルトガル・ワインは22ポンドであった。しかも、その時フランス・ワインの通商は、全面的に停止されていたのである。またその上、全てのワインの税率が上がらない、という保証もなかったのだ。実際、税率は一年も経たないうちに上昇した。それなのに、このメシェン条約は1703年に署名され、ボルトカルは、インクランド、オランダと同盟国となり、同時にフランス、スペインと敵対することになる。同盟国側は、ホルトガルを通ってスペインに侵入するという計画だった。この条約がポート・ワイン貿易の引き金となる。

 イングランドとフランスの間に、さらに問題が起こることは、誰の目にも明らかであった。それまでの間に、ポルトガル北部とスペインに居住する仲買人たちは、次に戦争が起こった時に、目分たちを助けてくれる最良のワインを捜し求めていた。
 1702年、「スペィンの王位継承りを巡る争い」が起こると同時に、多くのイギリス人は「ドウロ川を遡リ、ペソ・ダ・レグアに近い」支流のコーゴ川まで進むことになる。そこでは、ドウロ川上流の急斜面の丘が迫っていた。そのイギリス人の中には多分、ピーター・べアズレーがいたであろう。彼の創立300年の会社は、19回も名を変えた末に、今では、テイラー・フラドゲート&イエットマン「Taylor, Fladgate & Yeatman」社という名で貿易を行なっている。

 初期のポート・ワインはぞんざいに作られ、樹脂で加工されたリしていたため、ィギリス人の好みでは全くなかった。しかし、その後の10年問に大変革が行われた。それは主に衛生上の問題である。皮の使用をやめ、川を使ってワインを運ぶことの出来る樽の生産を新しくした。

ワイン 14 W600

 当時、川の旅自体は、とても危険なものであった。

 ドウロ川の、岩の露出した急流を、定期的に往復するラベロ船(バルコ船)は両端の鋭い、幅広の、甲板のない船で、マストと帆は一つ、船尾の右舷に舵を取るオールが動き、前部に乗組員が漕ぐための大きなオールが五、六本立てられていた。
 1700年代に運ばれていたワインはアルコール強化をしないテーブル・ワインであったが、岩場だらけのブドウ畑で、夏には焼けるように暑い気候の中で生産されるワインは、自然でもアルコール分は極度に高く、14~15度ほどはあった。
 そして間もなく、発酵が終わった後に少量のフランデーを加えることが習慣になりる。風味を良くするためか、あるいは、ぞんざいに作られたワインにあリがちな病気を防ぐ方策だったのか、定かではないが、おそらく両方を兼ねていたのであろう。しかし功を奏し、それがよい結果を産み出し始めた。
 しかし、イギリス人でさえ「フランス・ワイン を自制することは、国を愛するものの努めである」とブロパガンダによって説得されねばならなかった。「時には国に真実を捧けて一応は公益を考慮に入れてみたまえ。勇気をもって宮廷でシャンパーニュを見下し、気楽にポートで食事するほうを選ぶのだ」と、このようにポート・ワインは政治的にイギリス国民におしつけられたのである。
 最初はためらったものの、イギリス人はポート・ワインが大いに気に入る。ポート・ワインは年月によっても改良された。18世紀の最初の30年間に、ドウロ川の上流地方は空前の発展を遂げることになる。メシェン条約はポルトガルの織物業を荒廃させた。羊飼やはた織リたちが職を失い、労働は安価だったので、農民はブドウ園の建設という歴史的な計画に取り掛かったのである。

ドウロ 7 W600

 現代のドウロ川上流を見ると、完全に人間の造リ上げた風景だ。

 段々畑が地平線から地平線まで広がリ、1700年には荒涼とした、みすぼらしい片岩の丘に過ぎなかったと信じることはもはやできそうもない。限リのない苦役が、山腹の畑に土を持ち堪える砦のような壁を築き上げた。今でも土を耕すことや摘んだブドウの全てを肩まである篭に入れて、ラバさえも通れないところを運びだすことは、限リない苦役を必要とする。
 険しい山の中なので機械を入れることが出来ないため.つらい作業となり、昔の日本の田楽の様に、笛や太鼓を鳴らしながら収穫を行っている。車の通れるところまで子供から老人まで村中の人が篭を背負って歩いている。車で村に着いても、休む間もなくすぐにラガールと呼ばれる石作りのブールの様な桶の中で裸足でブドウを潰している。20人くらいで12時問、滑らない様に互いに腰を取リ合って3交代で続けられる。眠くなると、また音楽に合わせて踊リながら、色素を十分に出すため踏み潰し続けられる。この後約二日間寝かせて発酵させ、糖分が半分になったところで、出来たての蒸留酒を入れた樽の中に移し、発酵を止める。

 こうして出来たワインは、木造のバルコ船でドウロ川の急流を8人で舵を取りながらオポルト港の対岸のヴィラ・ノヴァ・デ・ガイアへ運ばれた。今日ではダムが出来たため、鉄道とトラックで運ばれている。ヴィラ・ノヴァ・デ・ガイアでブレンドされたリ、樽熟成させてから瓶詰され、有るものはさらに数年聞瓶熟させたうえ、対岸のオポルト港よリ出荷される。そのため、ポルトまたはポート・ワインと呼ばれるのである。

 イギリス人はやっと、常に渇望してきた強いワインの供給源を手に人れ、ほぼ完全に支配したが、その方法はどう見ても上品と言えるものではなかった。適当な契約を成立させるために、農民はしはしば、その娘を代償にしなければならなかったと伝えられる。
 やがて不謹慎なワイン商人は、ドウロ川を遡るのは、全く面倒極まリない、と思うようになった。それで、間抜けな大衆にボート・ワインとして通用するものをでっち上げようと考え始めた。加え始められたのはブランデーだけではない。深紅の色はニワトコの実で、イギリス人が好んたピリッとする風味は乾燥させたトウガラシを加えて作り出された。
 商人のそうした強欲なやリ方は結局当然の結果を招くことになる。嫉妬探いビール醸造業者や蒸留業者、そして、誠実なワイン商人からも非難され、1730年代にポート・ワインの価格は下落し、1750年代にはひどい値崩れを起こした。オボルトのイギリス人の出荷業者は、その原因は全て供給者のせいだと言い、 誤った場所で下等なワインを醸造し、ブドウを十分に踏み潰さず、あまりにも早く品質の劣るフランデーを大量に加え、そしてニワトコの実を色付けに使用したと非難した。それに対し醸造業者の理事は、同様の非難を、イギリス人に面と向かって役げ帰した。
 ワインを本当に安定させ、強化するとともに甘味を増すためには、ブランデーは発酵の途中で大量に加えなければならないという発見もまだされていなかった。少量のブランデーを加えると単に発酵の完了が遅れ、実質的にどんよりとした不安定なワインになるだけであった。
 出荷業者が「誤った場所で」といったのは正しいことである。ブドウはまだドウロ川の最も高い地方には植えられていなかったのだが、そこに植えられたブドウが、結果的には一番豊かで風味のよいワインになることになるのである。この体験から、ドウロ川上流の高地の荒野は良質なブドウ畑となっていく。以来、そしてこの地域では「もし、ぶどう畑を買うつもりなら月明かリの下で見るのがいい。花岡岩に含まれている石英は月光で光るが、本物の片岩は光を反射しないので真っ黒であり、その土地から生まれるワインを飲めば、その違いが分かるだろう。」という言葉が伝えられる。

ワイン 17 W600



                      シリーズ連載・次回No.fileに続く
                         look gif H100
Mancio C W600
           MANCIO
ライン黒 W600


                         My images 割 gif

                  Sotarou 1


ライン黒 W600



プロフィール

三馬漱太郎

Author:三馬漱太郎
Welcome to Ron「漱」World
Sotarou Miuma
立体言語学博士
Social Language Academy Adviser
応用社会言語科学研究員

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。