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ひとひらの書 第10話 『日本橋』 下

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      A 7 gif   第10話・・・『 日本橋    

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      A 15 gif ひとひらの書 第4 日本橋 鏡花




      泉鏡花といえば何といっても小村雪岱(せったい)である。二人のコンビネーションは先ずもって絶妙だ。後世においても尚、二人のコンビは美妙なのである。
      後編はこの雪岱から語り始めたい。
      小村雪岱は明治42年(1909年)に、東京美術学校日本画科を卒業した。
      在学中、下村観山、のち松岡映丘(まつおかえいきゅう)に師事する。
      その師の松岡だが、播磨北部の神東郡田原村辻川という旧家に生まれた。現在の兵庫県神崎郡福崎町辻川である。この旧家・松岡家に、世にいう「松岡五兄弟」がいる。映丘の兄には医師の松岡鼎、医師で歌人・国文学者の井上通泰(松岡泰蔵)、民俗学者の柳田國男、海軍軍人で民族学者または言語学者の松岡静雄がいた。映丘は末子になる。後に大和絵の復興運動を展開した。

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      まつおか 松岡映丘 5兄弟         まつおか 松岡映丘 1
      松岡五兄弟。後列左が若き日の松岡輝夫(映丘)、後列右が柳田國男、前列右から、松岡鼎、松岡冬樹(鼎の長男)、鈴木博。(1897年前後の撮影)

      まつおか 宇治の宮の姫君たち W500H243
      宇治の宮の姫君たち 松岡映丘筆 大正元年(1912年)

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      雪岱はその松岡から古画の模写、風俗考証を学ぶ。東京美術学校日本画科を卒業した同年の夏に福岡医科大学の久保猪之吉(くぼいのきち)が上京してきて、夫人とともに駿河台の宿屋に泊まった。
      日本国内に相当の宿屋があるだろうが、人の出逢いという一期一会の神業をこれほどすんなりと企てた宿屋はそうざらにあるものではない。
      雪岱は駿河台のこの時、歌川豊国(うたがわとよくに)の絵の模写を頼まれていた。雪岱がそれを届けに宿屋へ伺うと、久保猪之吉は外出しており夫人が応じた。
      こうして初めて久保と雪岱をつないだのが松岡映丘であった。

                            くぼ 久保猪之吉 1
                                久保猪之吉

      そこへ宿屋の女中が「泉先生の奥様がお見えになりました」と告げに来たというのだ。
      久保夫人(より江)と泉鏡花夫人(すゞ子)は昵懇(じっこん)であったようで、「明日は鏡花本人もここにお邪魔します」という言葉を聞いて、すでに鏡花の小説を愛読していた雪岱は、再びその宿屋を訪れた。
      鏡花が、たしか「白鷺」を執筆中のころだ。
      このようにして雪岱は、小柄で、ちょっと勝気な美女が男装したような感じのする鏡花と巡りあったのであった。雪岱という雅号を与えたのが鏡花である。
      じつは久保猪之吉は鼻や耳に関して優れている。わが国最初の耳鼻咽喉科講座を開設したこともあるが、ある時、老齢で耳が遠くなった自由党総裁の板垣退助が診療を受けるため来院した。
      旧二本松藩士・久保常保の子として出生するが、その久保の一族には、戊辰戦争で板垣の率いる軍兵に殺傷された者がいたことから、どんな気持ちで迎えたのであろうか。その逸話がある。
      診察を終えた久保は開口一番に「この耳はもうダメだなあ。年が年だから」と言うと板垣は大きな声で「バカを言うな。俺には昨年子供ができた。まだ若い」と反発した。すると、すかさず「それは、最後に老化するところだ」と突っぱねたところ、板垣は「う~む」とうなっただけで引き上げ、周囲からは「さすが、イノ・クボ」と笑いが起こったという。
      その久保の小学校時代は、いつも背中に幼い弟を背負い手には教科書と紙片、そして短くなった鉛筆を持ち勉強に励んだと伝えられる。
      そうした久保の自宅がいわゆる久保サロンで、大正から昭和の初期にかけて、より江夫人と共に、福岡の文化の向上に尽くしている。より江夫人は俳人として著名で、正岡子規(まさおかしき)や夏目漱石、高浜虚子(たかはまきょし)、泉鏡花に可愛がられ、歌人の柳原白蓮(やなぎわらびゃくれん)や、俳人の竹下しづの女たちと親交があり、久保サロンの主であったのだ。
      久保より江がつまり、鏡花と雪岱とを結びつけた。
      こうした最初の橋渡しをしたのが師の松岡映丘ということだ。

                        まつおか 柳沢びゃくれん
                                 柳原白蓮

      柳原白蓮は歌人。本名は燁子(あきこ)。大正三美人の一人である。
      姦通罪のあった男尊女卑のこの頃、道ならぬ恋は命がけだった。その白蓮を語ると長くなる。恋多き女性の道は波乱万丈なのだ。ともかくも彼女は久保サロンの一員であった。
      長くなる、だが鏡花を語るには大正三美人の一人なのだから外せない。少しだけ述べてみる。
      大正三美人とは、九条武子・柳原白蓮・林きむ子、または九条武子・柳原白蓮・江木欣々をいう。
      白蓮の父は柳原前光伯爵。前光の妹は柳原愛子、大正天皇の生母である。
      ゆえに燁子(白蓮)は大正天皇のいとこにあたるのだ。
      前光は屋敷に正妻と妾を同居させた上、外にも芸者おりょうを囲っていた。おりょうが女子を生んだ時、子供のできない妾がこの娘を引き取って正妻に対抗しようとした。そこで正妻はそれを防ぐためにその娘を引き取ることになった。それが燁子である。
      前光の弟は跡継ぎのなかった北小路随光子爵の養子となっていた。
      ところが随光と女中との間に息子資武が生まれたので養子縁組は解消された。
      その代わりとして北小路資武と柳原燁子を結婚させることに決まった。
      燁子は華族女学校の途中で資武に嫁いだが、貧乏公家華族の北小路家は生活に困窮して京都に転居した。長男功光が生まれたが舅姑に取り上げられ、夫も女中に手をつけていた。結局結婚5年で燁子は子供を置いて逃げるように夫と離婚した。
      後に息子功光が語っている。
      「燁子は文学少女でわがままで亭主が気に入らないときている。5歳の私を置いてさっさと実家へ戻ってしまった」と。
      しかし母は妾の子燁子を実家に受け入れる気はなかった。24歳で東洋英和女学校に入学して寄宿舎に入った。ここで燁子は慈善事業に興味を持った。
      兄嫁が九州の炭鉱王伊藤伝右衛門との再婚を提案する。
      鉱夫から百万長者にのし上がった52歳の男だった。27歳だった燁子は慈善事業に協力してもらうという条件をつけた。伝右衛門が無教養の成り上がりで25歳の年齢差のあることを承知で再婚したのである。
      功光が再度語っている。
      「柳原家が大金の結納金に目がくらんで燁子を伝右衛門と結婚させたように言うけど、ありゃ嘘だよ。柳原は豊かだったよ」と。
      筑前の本邸、博多のあかがね御殿、別府の別荘・・・、
      豊かな環境に囲まれて筑紫の女王と呼ばれた。
      しかし、主婦の実権は伝右衛門の妾である女中頭が握っており、屋敷の女中たちも伝右衛門のお手つきであった。伝右衛門は燁子を床の間の飾り物のように扱い、約束した慈善事業の援助もしなかった。そして機嫌が悪いと暴力をふるい、性病も移した。
      燁子は心の鬱屈を歌にぶつけた。
      そんな燁子の前にはいろいろな恋の相手が現れた。医学博士の久保猪之吉、妻子があったので白蓮のその気持ちには応えなかった。陸軍中尉の藤井民助、燁子は彼に恋文を送り続けるが、姦通罪を恐れた藤井は彼女の気持ちに応えなかった。
      そして、東京帝大法学科の学生宮崎龍介28歳がいた。
      父は孫文の辛亥革命を支援した宮崎滔天である。燁子は帝大法科新人会が主宰する雑誌『解放』に戯曲を連載していた。これを担当したのが編集部にいた龍介だった。この戯曲を単行本にするため龍介は別府の燁子を訪ねて打合せをした。
      34歳の燁子は純粋に社会改革に打ち込む龍介に心を動かされる。
      自分をこの境遇から救い出してくれるのは彼しかいないと思った燁子は毎日毎日編集部宛てに手紙を書き、次々と電報で情熱的な和歌を送った。同僚に冷やかされながらも龍介も心が動いた。華族の娘で、資本家の妻で、旧道徳に縛られた女を救わなければと思ったのだ。
      伝右衛門夫妻は毎年2回上京する習慣があった。
      白蓮は上京するたびに龍介と逢瀬を重ねた。2年が過ぎた頃に燁子は妊娠してしまう。伝右衛門と結婚して10年が経っていた。二人は伝右衛門と離婚してから結婚することを演出する。
      龍介と仲間たちは策を練る。いつもの通り上京した燁子は伝右衛門と一緒に帰らず、東京駅で夫を見送った後龍介のもとへ走った。龍介たちは大阪朝日新聞にリークして、白蓮から夫への絶縁状を渡した。
      伝右衛門は事の次第を京都の妾宅で知った。
      遅れをとった毎日新聞が伝右衛門に反論の紙面を提供した。結局、伊藤家からの離縁という形で体面を保った。燁子の兄義光は伝右衛門に両手をついて謝った。右翼からの糾弾も激しかった。そして貴族院議員も辞職した。燁子は華族から除籍され、実家から絶縁された。
      燁子は男子を生み、やっと親子三人の生活が始まった。しかし龍介が結核を発症、白蓮は和歌、童話、小説で生計を立てた。3年後龍介は快癒して弁護士として活躍した。長男が戦死したのをきっかけに熱心な平和運動家にもなった。晩年は龍介に介護されながら歌を詠みつつ暮らした。
      一方、美智子皇后が皇太子妃に決まった時には強硬に反対し、右翼団体にも働きかけて反対運動をした。自分は華族制度に砂をかけるスキャンダルを起こし、社会派の弁護士と結婚しておきながらこの行動だ。小生は、当時、夫の龍介がこれをどう思っていたのか聞いてみたい。
      大雑把に語れば白蓮のエピソードはこんな風になる。

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      さて、『日本橋』に決めてみて、こう言うのも変だけれども、この本を手にするだけで、何だかホッとさせられる。 鏡花の時代の日本橋とはすっかり様変わりはしているが、それでも芳町の気分はまだこの文学の世界で残っているという安らぎだ。一時そこに小生が育ったというのも、何かの縁とも思われる。それになんといっても、『日本橋』こそ、鏡花の芸者がずらりと揃う。芸者が生きている。
      鏡花が『日本橋』を書いたのは42歳のときであった。
      大正3年になる。教科書的な文学史では、ここから後期円熟の鏡花が始まるということになっている。 だが、小生がまずもって肝に命じておきたいのは、この小説が千章館から上梓されたときに、初めて小村雪岱が装幀をしたということだ。掲げた2、3の写真を見てもらえばわかるように、溜息がでるほどに、美しい。とくに見返しが日本橋なのだ。先ず最初の見返しで溜息をつき、鏡花の小説に溜息をつき、最期の見返しで深い溜息を残すことになる。この三度の溜息は文庫本では果たせない。古書ならでの風格というか、人肌が揺れ擦れて動き息づかいに露わな湿り気を感じさせる。
      以来、鏡花といえば雪岱(せったい)なのである。
      新派の舞台の大半も雪岱が手がけた。 雪岱という男は鏡花の機微情緒を切り上げて、それを絶妙な線やら空間に、つまりは「ほか」に移す天才だった。
      この雪岱が筆に執る鏡花感覚がもっぱら『日本橋』に出ていることは、もっと知られておいてよい。否、知らないと鏡花を語れない一面がある。 だから『日本橋』は雪岱の絵のように感想することが、まずは前提なのである。

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                                     表紙は日本橋川の両岸に並ぶ蔵
      雪岱は鏡花のことを次のように語る。
      「先生が生物なまものを食べないということは有名な話ですが、これは若い時に腸を悪くされて、四、五年のあいだ粥かゆばかりで過ごされたことが動機であって、その時の習慣と、節制、用心が生物禁断という厳重な戒律となり、それが神経的な激しい嫌悪にまでなってしまったのだと承りました。
 大体に潔癖な方ですから、生物を食べなくなってからの先生は、如何いかなる例外もなく良く煮た物しか召し上がらなかった。刺身、酢の物などは、もってのほかのことであり、お吸物の中に柚子ゆずの一端、青物の一切が落としてあっても食べられない。大根おろしなども非常にお好きなのだそうですが、生が怖くて茹ゆでて食べるといった風であり、果物なども煮ない限りは一切口にされませんでした。
 先生の熱燗あつかんはこうした生物嫌いの結果ですが、そのお燗の熱いのなんのって、私共が手に持ってお酌が出来るような熱さでは勿論駄目で、煮たぎったようなのをチビリチビリとやられました。
 自分の傍に鉄瓶がチンチンとたぎっていないと不安で気が落着かないという先生の性分も、この生物恐怖性の結果かも知れません。
 生物以外に形の悪いもの、性しょうの知れないものは食べられませんでした。シャコ、エビ、タコ等は虫か魚か分らないような不気味なものだといって、怖気おぞけをふるっておられました。
 ところが一度ある会で大変良い機嫌に酔われまして、といっても先生は酒は好きですが二本くらいですっかり酔払ってしまわれる良い酒でしたが、どう間違われてか、眼の前のタコをむしゃむしゃ食べてしまわれました。それを発見して私は非常に吃驚びっくりしましたが、そのことを翌日私の所へ見えられた折に話しをしましたら、先生はさすがに顔色を変えられて、「そういえば手巾にタコの疣いぼがついていたから変だとは思ったが――」といってられるうちに、腹が痛くなって来たと家へ帰ってしまわれた。まさか昨晩のタコが今になって腹を痛くしたのではないのでしょうが、私はとんだことをいったものだと後悔しました」という。

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      日本橋の見返し

      こうした雪岱の短距離で紡いだ心情が、鏡花の知遇をかたじけなくする動機となった。
      さらに雪岱は「御著書の装幀そうていは、私も相当やらせて頂きました。最初は大正元年ごろでしたが、千章館で『日本橋』を出版される時で、私にとっては最初の装幀でした。その後春陽堂からの物は大抵やらせて頂きましたが、中々に註文の難しい方で、大体濃い色はお嫌いで、茶とか鼠ねずみの色は使えませんでした。
 このように自己というものを常にしっかり持った名人肌の芸術家でしたが、神経質の反面、大変愛嬌のあった方で、その温かさが人間鏡花として掬くめども尽きぬ滋味を持っておられたのでした。
 同じ事柄でも先生の口からいわれると非常に面白く味深く聞かれ、その点は座談の大家でもありました。
 ともかく明治、大正、昭和と三代に亘って文豪としての名声を輝かされた方ですから、すべての生活動作が凡人のわれわれにはうかがい知れない深い思慮と倫理から出た事柄で、たといそれが先生の独断的な理窟であっても、決して出鱈目でたらめではなかったのでした。
 あの香り高い先生の文章とともに、あくまで清澄に、強靱きょうじんに生き抜かれた先生の芸術家としての一生は、まことに天才の名にそむかぬものでありました」と語り結ぶ。
      こうした語り口を思えば、二人は対等でも引き分けたわけでもない。ウイン・ウインの関係であった。どちらだどう捕捉するものではなく、際限もなく男と男が融け合って、やがて二人とも静かに滾るのであるから、不可視に鬩(せめ)ぎ合う二人は共に勝者なのである。

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      詳しいことは星川清司に名著『小村雪岱』(平凡社)があるので、それを読まれるとよいだろう。 だいたい雪岱は幼いときに父を失って、16歳のときに日本橋の安並家に引き取られた境遇で、その安並家というのが歌吉心中のあった家だった。亭主安兵衛が芸者歌吉に惚れたことで、傾いた吉田屋の元女将お孝は二人の娘を芸者として仕立てることにすべてを賭けるが、歌吉と安兵衛の心中は講談として評判になる。
      鏡花が東京のなかで一番好きだった日本橋檜物町あたりは、雪岱にも懐旧のかぎりの界隈だったのだ。
      しかし、いうまでもないことだが、鏡花は雪岱の絵から『日本橋』を書いたわけではない。芸者の日々や花街を書きたかったのだ。紅燈の巷に流される男女がモチーフなのである。 その風情は、吉行淳之介が『原色の街』や『驟雨』を書いた理由とは、まったく違っていた。
      鏡花にとっては、芸者こそは幻想の起源であり、人生の原点であり、憧憬の根拠律動なのである。ハイデガーなのである。 その芸者のことをこそ、書いておかなくてはならない。すでに鏡花ファンにはよく知られていることであろうが、いささか回りまわった消息をのべて、読了の感想としてみたい。

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      桃太郎という。芸者がいた。
      明治32年のこと、尾崎紅葉主宰の新年宴会が神楽坂の座敷で開かれていた。
      硯友社の一同が集まった。その座敷に顔を出したのが18歳の桃太郎だった。
      鏡花は26歳、すでに金沢から上京して、紅葉を訪ねて翌日から玄関脇に住みこみを許されて書生となり、博文館の婿養子の大橋乙羽のもとで日用百科の編集を手伝いがてら、早くも傑作の兆しなのだが、短編『夜行巡査』や『外科室』を書き終えていた。
      このデビュー当時の鏡花は、川上眉山の『書記官』と一緒に“観念小説”と名付けられていた。鏡花は気にいらなかったろう。 が、その前に紅葉との連名で脱稿発表していた『義血侠血』が、明治28年、川上音二郎の一座によって『滝の白糸』という外題として上演されて、それが評判となってからは、周囲の鏡花を見る目がやっと変わってきていた。
      こうして24歳、『化銀杏』と『照葉狂言』を書く。24歳でよくもこんなことが書けるものかと驚くが、ここに鏡花の原点がすべからく出来(しゅったい)した。
      『化銀杏』(ばけいちょう)は、鏡花をあまり読んでいない者が最初に鏡花を知るにはもってこいの作品である。少年を愛したお貞が「一体、操を守れだのなんのと、掟かなんか知らないが、さういつたやうなことを決めたのは、誰だと、まあ、思ひねえ」と言いながら、恋の自由を説くあまり、自分がながらく縛られてきた夫を刺してしまうという筋立てだ。 ラストシーンに金沢の町に覆いかかるお化け銀杏がふたたび出てきて、それがふわっと銀杏返しの黒髪にダブるという、なんとも凄い映像感覚を見せていた。
      もうひとつの『照葉狂言』は、主人公は早くに両親を失った貢という美少年である。北陸の暗い街に生まれて、薄闇の中の歌舞伎女優に憧れた鏡花自身の少年期の日々が、この作品の前半で描かれる。
      中盤、そこへ旅の一座「照葉狂言」がやってきて、舞の師匠が貢を可愛がる。この可愛がりかたが妖しくて、男女の交わりなどではなくて姉弟の戯れなのであるのに、それがかえってエロティックで、小生は最初にこれを読んだときはどうしようかと思った。
      緋色の鹿子の布など胸に温めたり、口紅の濡色などが乱れとび、女師匠は小稲だ重子だ小松だのにかしずかれて、この女と女の妖しさにも目がちらついて困ったものである。
      それが襖ごしの声をともなうから、なお、いけない。「丹よ」「すがはらよ」などの声が洩れ、すべてが露見を怖れるかのように、なんだか大切なことだけが憚られているかのように、読める。 鏡花の、この隠して伏せてはちょっとずつ開く手法は、その後はさらに粋にも、さらに濃艶にもなっていく。
      後半、こうして一座に身を投じた貢に8年の月日が流れて、いまは狂言・仕舞・謡曲の一人前、故郷に錦を飾る日となった。貢はかつての住まいの近くに仮小屋を拵え、興行をする。ここで昔日の人々の因縁ともいうべきが次々にめぐってきて、物語は貢のもとにいっさいが押し寄せる。 そこへ、野良猫が血まみれの鳩を屠って咥え去っていくという鮮烈な場面が入ると、あとは「峰の堂」のラストは霧に包まれた貢の心を描いた名場面――。
      こんなことを語っていてはいっこうに先に話が進まないが、この『照葉狂言』でいったん頂点に達した鏡花が、ついに因縁の回りまわった神楽坂の座敷で芸者の桃太郎に出会ったのが、このあとの鏡花の作品にも人生にも決定的だったのである。

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      桃太郎の本名は伊藤すずという。
      すずは鈴でもいいのだが、これは鏡花が10歳のときに亡くした母の名でもあった。 すでにどこにも書いてあることだから詳しいことは省くけれど、鏡花の亡母への思慕といったら尋常じゃなかった。
      12歳で松任の「成の摩耶祠」に詣でたときに、摩耶婦人に母を重ね、鏡花がその後は死ぬまで摩耶信仰を捨てなかったこともよく知られている。
      その母すずが芸者桃太郎のすずとして、たったいま、神楽坂に舞い降りた。
      しかも紅葉が座敷の中央に端座する硯友社の新年の宴の夜である。
      鏡花は桃太郎にいっさいを感じる4年をおくる。二人は同棲をし、それを紅葉はひどく叱って、鏡花は何よりも尊敬していた紅葉の言葉にさすがに動揺するのだが、その直後に紅葉は死ぬ。 結局そのあと、二人は結婚、鏡花はついに「母なるもの」と「摩耶なるもの」を、つまりは母と菩薩と雛と形代を、芸者桃太郎の裡に発見できた。
      こうして鏡花は、柳暗花明の機微人情の大半を、母であり恋人であり妻である芸者桃太郎から、肌でも言葉でも脂粉でも、微細に知ることになったのである。
      そして、この柳暗花明の芸妓がらみの機微人情のいっさいが、『湯島詣』『婦系図』『白鷺』『歌行燈』をへて、鏡花の42歳に花柳情緒として結晶したのが、『日本橋』だった。
      哀切、水よりも清いという。鏡花はこの哀切を信じて(というより信心して)、作品を書いてきた。 ところが、『歌行燈』を発表した明治43年(1910年)は、学習院の青年たちによる「白樺」の創刊があり、翌年は平塚雷鳥の「青鞜」と堺利彦・大杉栄の「近代思想」の創刊が加わって、明治天皇の崩御以降の時代はそのまま一挙に、自然主義やリアリズムの波に覆われていった。
      そのあとは大正デモクラシーである。 芸者を描いている作家なんて、啄木の言う「時代閉塞の状況」には、あわなくなってきた。鏡花は時代遅れの作家となり、そのような烙印も捺されるようになった。
      ここで鏡花がたじろいでいたら、その後の鏡花はなかった。
      けれども鏡花は主唱を変えなかったのだ。
      むしろあえて、哀切に芸者の「いさみ」を加えていった。
      これには反省もあった。明治末期に書いた『白鷺』では、芸妓小篠が哀切の立ち姿をもちながら日本画家の稲本淳一にあまりに尽くしすぎ、『歌行燈』では桑名の花街を描きながら、お三重をあまりに哀切のままに描いた。つまりは、もっともっと芸者や遊女の本来を書き切ればよかったという反省だ。
      こうして大正3年に発表された『日本橋』は、かつて玉三郎が演じて唸らせたお孝をはじめ、清葉、お千世らをずらりと並べ、芸者尽くしともいうべき反撃に出た。
      その生きざまと気っ風を、濃くも、潔くも、勝ち気にも描いてみせたのだ。
      その「いさみ」はお孝の次の言葉に象徴されている。
      とくに最初の一行と最後の一行は、玉三郎の名セリフともなっている。
      かつてなら喜多村緑郎や花柳章太郎や水谷八重子、だった。
      雛の節句のあくる晩、春で、朧で、御縁日。 同じ栄螺(さざえ)と蛤(はまぐり)を放して、 巡査の帳面に、名を並べて、女房と名告つて、 一所に詣る西河岸の、お地蔵様が縁結び。これで出来なきや、日本は暗夜(やみ)だわ。
      これで出来なきゃ日本は闇だわと、芸者の啖呵に言わせたところが鏡花なのである。
      鏡花は切り込みたかったのだ。
      どこへかといえば、社会を自然主義に捉えるなどという野暮な連中に切り込みたかった。
      実際にも鏡花は書いている、「自然派というのは、弓の作法も妙味も知らぬ野暮天なんじゃありませんか」と。 これを、鏡花が社会から逃げた姿勢などと思ってはいけない。
      鏡花は社会をむしろ逆悪魔に描いてこそ、社会になると考えていた。その悪の入れ方もたえず壮絶で、『日本橋』では赤熊をお孝が好きな葛木の前で刺し殺すという場面にさえなっている。
      これは自然主義リアリズムへの抵抗であり、反逆なのである。
      それも色街からの抵抗である。
      それもデラシネとしての反逆ではない。そこに本来の「母」がひそむという反逆だった。ただし、鏡花一人の反逆ではない。鏡花とともに闘う者があらわれた。永井荷風が『新橋夜話』を明治45年に書いて、鏡花をよろこばせたのであった。
      荷風はフランスから帰って、江戸情緒に耽ることこそ日本文芸の赴くべきところであることを実感していた。そこは鏡花のように、最初から金沢や神楽坂の脂粉に馴染んできたのとは違っていたが、しかしかえって、アメリカやフランスを知る荷風が柳暗花明の機微人情に没頭することは、鏡花にとっては勇気百倍だったのである。
      ちなみに、この鏡花・荷風の花柳界好みは、その後は久保田万太郎や水上滝太郎や川口松太郎らに続いていった。なぜかみんな“太郎”が付いている。これでは、漱太郎も俄に元気づいてくる。
      『日本橋』は、発表の翌年の大正4年、本郷座でお孝を喜多村緑郎が、葛木を伊井蓉峰が、お千世を花柳章太郎が演じて芝居になった。小村雪岱が舞台美術を手がけた。
      これがきっかけとなって、鏡花は新派の通り相場になっていく。小生の母は花柳章太郎・水谷八重子がご贔屓で、ときどき自宅の座敷に招かれていたが、いま思い出しても、章太郎・八重子という人はまさに鏡花の行間を、いま抜け出てきたという風情をもっていた。

      いずみ泉鏡花 日本橋 見返し4 W500H220
      日本橋の見返し

      それにしても、である。
      日本橋は、いまや醜い町になっていて、見る影もない。
      かの日本橋そのものが高速道路に覆い被されて、喘いでいる。お孝と葛木が出会った一石橋は、ビルとビルとのあいだに押しこまれ、死に体になっている。かつて人形町にいまも店を構える辻村ジュサブローさんと、さんざん今の日本橋の悪口を交わしたことだった。
      これはもはや、鏡花のセリフだけでも日本橋を立たせなくてはいけないということなのだろう。 芸能花組の加納幸和座長が、こんなことを言っていた。ぼくの『日本橋』のポイントは、葛木が「やっぱり私は、貴女からも巡礼にならなければならない」と言うと、お孝が「たとい、からけし炭になろうとも、燃え立つ心はこの身一つに引き受けます」にあるんです。 よくぞ、芸能花組。この身一つに引き受けた。
      それなら、そうか、こんなところにハンナ・アレントがいたわけだ。
      その暗渠には今も泉鏡花の「日本橋」が描かれている。そう感じ取れる日本人が増えることを期待したい。
      そしてさて、最期に一つつづり加えたいことがある。
      夏目漱石は明治28年(1895年)6月下旬から翌年4月上旬まで松山市二番町の上野義方邸の二階屋の離れ(愚陀仏庵)に住んでいた。
      その28年8月27日、正岡子規がその離れに入居、子規は階下、漱石は二階を自室として、五十日余、同居生活をおくった。久保より江はその離れの家主上野義方の孫で、当時は11歳の小学生(当時の姓は宮本)、離れと廊下でつながる母屋に祖父母らと暮らしていた。
      漱石、子規はこのより江を妹のようにかわいがった。より江は後年、二人の思い出を語っている。
      つまり鏡花を読み、『日本橋』を読み終えたころ、そんな久保より江のことをふと思い出した。どうも鏡花を読むということは、そういうことにもなるようだ。
      明治29年4月11日、松山を離れ新任地熊本に向かう漱石を久保より江は三津浜港で見送った。
      のちに漱石が書く小説『吾輩は猫である』に登場する「雪江さん」は、このより江がモデルなのである。より江は高等女学校卒業後、医学博士久保猪之吉(九州大学医学部教授)に嫁した。
      子規門下の長塚節はこの久保猪之吉の治療をうけているが、長塚を久保に紹介して診察を依頼したのは漱石であった。若いころより文芸に親しんでいた久保より江はホトトギス派の俳人となり、福岡在住時は社交界の華やかな存在であったという。夫が他界した後は長く病牀生活がつづき、昭和16年5月11日に東京で死去、享年57であった。

      猫の眼に 海の色ある 小春かな  (より江)

      これは日本橋の余段である。                



      いずみ泉鏡花 32 鏡花全集 W500H251

      いずみ泉鏡花 28 日本橋 W500H753
      いずみ泉鏡花 29 日本橋 W500H281


                        読了記  第11話に続く・・・連載

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ひとひらの書 第9話 『日本橋』 上

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      A 7 gif   第9話・・・『 日本橋    

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      A 15 gif ひとひらの書 第4 日本橋 鏡花




      前回は武原はん一代にて花柳界に少し触れた。そこで今回は泉鏡花である。

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      鏡花にはまた多様な著作があるのだが、その中、迷わずに新派でも馴染みの『日本橋』にした。白羽の矢を当てるこれには小生の、ちょっとしたワケが四つほどある。
      その一つは、『日本橋』には芸者の気っ風がずらりと並んでいることだ。
      芸者は、鏡花にとっては母であって、山霊であり、雛であり、他人のものであって二十五菩薩でもあり、妖美でありながら清廉であるような、夜叉であって、かつ形代(かたしろ)であるようなものなのであるからだ。その芸者のことを読み通し、鏡花の芸者を書いておきたかった。
      二つめのワケは、読了前にさる夢をみた。
      個人的なことだが、その夢があったから日本橋を手に取ってみたくなった。
      三つめのワケについては、あとで書く。そこはちょっぴり小生の事情にかかわっている。いや、芸者への思いも、小生の何かの事情にかかわっているのだが‥‥。
      四つめのワケは、そう、いつかハイデガーをもう一度読み、読了として書きたいからだ。ハイデガーは散々読んだつもりだが、歳相応に書き加えたくなっている。

      いずみ泉鏡花 10 日本橋

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      いずみ泉鏡花 18 白糸 W500H258

      さて、夢の話から始めることにする。
      騒音の洪水にまみれ、うんざりしていた小生がある日、深い静けさの空間で一場の夢を見た。東京は日本橋の三越劇場。舞台上の金沢の夜は、夢幻の世界。この地へ行こう。思いが募った。
      劇団新派が10月に上演した「滝の白糸」。水芸の芸人、白糸を歌舞伎役者の市川春猿(しゅんえん)が演じた。その女っぷりに心が奪われた。女形に惑う。放蕩(ほうとう)の極みである。
      白糸が、学問を貧しさゆえに断念した青年に援助を申し出る「卯辰橋(うたつばし)の場」。金沢の浅野川。卯辰橋で白糸は言う。「お前さんだから貢ぎたい」「生涯、親類のようにして暮らして下さいな」。女のいじらしさ、愛情の深み。胸が詰まる。
      夢の後、そうして加賀の浅野川に立っていた。

      いずみ泉鏡花 20 浅野川 W500H375
      左は「滝の白糸」で男女が語り合う「卯辰橋」。本来の名は天神橋。右は鏡花自身が下絵を書いて示したという、小村雪岱による「ゆかりのおんな櫛笥(くしげ)集」の口絵。
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                      いずみ泉鏡花 22 金沢 W200H273

      金沢駅から、カニなどの魚介類が並ぶ近江町市場のある武蔵ヶ辻を経て、商人の街、尾張町の通りを浅野川へ。橋場という交差点近くに「泉鏡花記念館」が立つ 。芝居の原作は、鏡花の小説「義血侠血(ぎけつきょうけつ)」。1894年(明治27年)に読売新聞に連載した。翌年、川上音二郎が初演している。
      「生家は火事で失われましたが、記念館の地で鏡花は生まれ育ちました。明治期は繁華街で、白糸が浅野川沿いの小屋で水芸を見せたという設定も自然です」と 、記念館の穴倉玉日(あなくらたまき)学芸員はいう。
      「中高年の来館者が多かったのですが、最近は鏡花の本を装丁した小村雪岱(せつたい)ファンの若者が目立ちます」と。
      「私も春猿さんの芝居を見ました」という穴倉さん。「今も鏡花作品は、新派や坂東玉三郎さんたちの手で上演されます。芝居があってこそ、鏡花文学は今も愛 されているのでしょう」と、また。
      生家近くの神社を抜け、狭い急な階段を下り、密集した木造の建物の裏手に。浅野川沿いの主計町(かずえまち)の茶屋街。和の文化に浸る喜びがある。
      橋を渡り、山を背負った「ひがし茶屋街」へ。

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      いずみ泉鏡花 21 東茶屋街 W500H250

      左右に木造の茶屋が軒を連ねる光景は壮観。数年前の訪問時は、料亭組合の格子にもたれかかっていたら、三味線の稽古(けいこ)らしく、糸をはじく音が空から降ってきた。外観は同じでも土産物屋や喫茶に衣替えした茶屋が増えた。時は過ぎる。
      茶屋街から再び川に出て上流に向かう。
      木造の梅の橋を過ぎ、鉄橋の天神橋に着く。ここが劇中の卯辰橋だ。
      卯辰山に向かう道が通るから、その名が付いた。芝居のように静かで、空間に落ち着きがある。梅の橋の近くに「滝の白糸」の碑があり、水芸を披露する白糸の像が散歩者を見つめる。明治以来、多くの人々の心を揺さぶった白糸の愛。異性に何かを託して「貢ぐ」行為は、今なお不滅。愛の形は、容易に変わらない。
      兼六園、金沢城公園、長町武家屋敷跡、寺院群、にし茶屋街……金沢の観光資源は豊かで、鏡花の小説に出る土地はたくさんある。
      その回は卯辰橋がお目当て。 苔こけむす緑の護岸堤から橋の下を眺め、心の中で、春猿の白糸をそこに置いてみる。初冬の曇り空の下、遠くの空で雷が鳴る。間もなく雪の季節のことであった。芝居が虚構であっても、一途(いちずな)女の心を思うと、心が締め付けられる。旅愁が涙腺を緩くした。

      いずみ泉鏡花 23 浅野川灯籠流し W500H260
                              浅野川灯籠流し
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      日本橋を読み直し、鏡花について想い噛みしめて書くのは、思えば35年ぶりのことだ。若書きが羞かしいその小文は書斎のファイルに収録してあるが、そのときは、「あたしはね、電車が走る街にお化けを出したいのよ」「お化けは私の感情である、その表現である」と言ってみせた鏡花の、「一に観音力、他に鬼神力」ともいうべきを覗き見た。
      そのころの小生は、何やら泉名月(いずみなつき)さんの回顧談を読んだせいもあって、オキシフルを浸した脱脂綿で指を拭いているとか、お辞儀をするときは畳に手をつけないで手の甲を向けていたとか、ナマモノは嫌なので料亭でも刺身を細い箸で避けていたといった、過度の潔癖美学を全身に張りめぐらせていた鏡花が、そのように“見えないバイキン”を極端に怖れているのに、その対蹠においては、変化(へんげ)しつづける見えない観音や、人を畏怖させる鬼神をあえて想定したことに、関心をもっていた。 そういう鏡花の実在と非在を矛盾させるような「あはせ」と、見えるものと見えないものを交差させるような「きそひ」とが、おもしろかったのだ。

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                    泉鏡花の弟・泉斜汀の娘で、鏡花のめい。(故・2008年7月)
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      当時は鏡花の大変なブームがおこっていた。
      身近な例をひとつ出すのなら、小生の下宿に転がりこんできた久我君という青年が、他にはろくに本をもっていないくせに、新装再刊が始まっていた岩波の鏡花全集だけはせっせと買っているというような、そういうことがよくおこっていた。そこで感心させられたことは、二、三度、質草(しちぐさ)になったものの、だが終いには全集そっくり本棚に戻したことだ。背に腹を返さない久我君に感心した。
      小生のころ未だ質屋と文学は同義の世界である。質屋の蔵は小生の古書が間借りしていた。読みたい本を引き出すには一時的ではあるが質屋の軒下で靴磨きをした。一人、二人かの紳士靴を磨くと蔵の一冊が引き取れたわけだ。久我君はさすがに靴磨きなど無縁な男であったが、しかし今思い出せば、たしか久我君の故郷は金沢ではなかったか。泉鏡花は金沢の浅野川畔に生まれた。鏡花文芸の源泉はその浅野川にある。

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      舞台や映画でも、ジュサブローや玉三郎(なぜか二人とも「三郎」だった)が、しきりに『夜叉ケ池』や『天守物語』や『辰巳巷談』を流行らせていた。
      昭和50年代だけで、玉三郎は15本以上の鏡花原作舞台に出ていたはずだ。
      『日本橋』も入っている。また、これより少し前の三島由紀夫も五木寛之も、鏡花復権を謳っていた。金沢には泉鏡花賞もできて、半村良やら唐十郎やら澁澤龍彦やらが鏡花に擬せられた。 鏡花の幻想世界のアイコンをプルーストやユングやバシュラールふうに読み解くというのも、そこらじゅうに散らばっていた。
      曰く、あの水中幻想の奥には火のイメージがある、曰く、鏡花には「無意識の水」が湧いている、曰く、鏡花の蛇は自分の尾を噛むウロボロスというよりも多頭迷宮なのではないか、曰く、奇矯な破局を描くことが鏡花にとっての救済だったにちがいない、曰く、鏡花の緋色や朱色には処女生贄への願望がある‥‥。ほんまかいなというほどの散らかりようだった。
      たしか、メアリー・ダグラスの『汚穢と禁忌』さえ持ち出して、鏡花の汚辱の美にみずから埋没していった評者もあったかと憶う。よくぞまあ、クリステヴァのアブジェクシオンまで持ち出さなかったものである。
      あれから35年がたった。
      小生の鏡花イメージもずいぶん変成(へんじょう)し、あのころはほとんど知らなかった鏡花の短編を啄むようになっていた。
      そこで感じた印象は、もはや鏡花の潔癖美学から遠く、ましてユングやバシュラールからはすっかり遠い。新たな印象は、そのころさまざまな日本の職人芸に魅せられていたのだが、そういう工芸象嵌の感覚に近かった。しかし、たんなる象嵌(ぞうがん)なのではない。

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      鏡花における象嵌細工は、仕上げは凄いのに、どこか現実とも幻想とも食い違うようなものになっていて、しかもそういう精緻なものがわざと投げやりに、また意想外に、どこかに邪険に放置されているというような、そんな印象なのである。
      というだけでは、わかりにくいだろうから、『歌仙彫』という短い作品を例にする。
      この話は、矢的(やまと)某という、技術は未熟なのは承知していたが矜持はすこぶる高い青年彫刻家がいて、その将来の才能に援助する夫人が遠方にいるという設定になっている。
      ところがいい彫刻はなかなか作れない。これは青年に憧れの夫人を表現したいという羨望が渦巻くせいか、焦燥感のせいか、それとも実は才能がないせいなのか、そこは定かではない。そんなあるとき、久々に夫人が工房を訪れた。
      夫人は、桔梗紫の羽織をその場の材木にふわりと掛けた。
      その羽織のかたちが美しい。
      以来、青年は、その羽織のかかった材木をそのまま展覧会に出したいと思い、ついでは目黒の郊外を連れ立って歩いたときの夫人の声をそのまま彫りたいと思ってしまっていた。
      が、そんなことを思えば思うほどますます作品は手につかない。 夫人は、私、体が弱いので、菖蒲の咲くころには、と言う。青年は苦しんで酒を呑み、金がなくなると小遣いかせぎの六歌仙の小ぶりの人形など作って、一つできれば、出入りの研ぎ屋のじいさんに金にしてもらうようになっていた。
      それが二つ、三つと出来上がるたび、じいさんは必ず代金をもってきてくれる。 礼を言うと、「わしが売ってるのじゃない、別の人じゃから」と言う。誰が買ってくれるのか、じいさんの住処が深川あたりと聞いて、そのへんをぶらついてみるのだが、見つからない。
      そんな深川の昼下がり、近くの冬木の弁天堂で休んでいると、とんとんと若い娘が額堂に入ってきて風呂敷包みを開いた。なんと、そこには自分の人形がいる。業平、小町、喜撰、遍照‥‥。 思わず駆け寄って、「研ぎ屋さんから手に入れたのですか」と尋ねると、「いえ、姉さんに‥‥」。
      青年がその姉さんに是非会いたいと言えば、妹は、ちょうど近くで用足しをしておりますので、では連れて参りますからと行ってしまった。待つうちに日が暮れて、弁天堂の真っ黒な蛇の絵が浮き出して、こちらを睨んだかに見えたとき、堂守から声をかけられた。
      そのお堂にいる所持のない場面を、鏡花はあの独特の文体で、こう書いた、「時に、おのづから、ひとりでに音が出たやうに、からからと鈴が鳴つた」。とたん、「勁(うなじ)の雪のやうなのが、烏羽玉の髪の艶、撫肩のあたりが、低くさした枝は連れに、樹の下闇の石段を、すッと雲を掴むか、音もなく下りるのが見える」。 これでついに一切の事情が明かされるかと思うと、そうではない。鏡花はにべなくも、「かうした光景(ようす)、こうした事は、このお堂には時々あるらしい」、と結ぶばかりなのである。

      いずみ泉鏡花 33 雨談集 6 W500
      この小村雪岱装幀の作品『雨談集』には、歌仙彫、紫障子、時雨の姿、新通夜物語、人魚の祠、柳の横町が収録されている。
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      この不思議な感覚の消息は、ユングやバシュラールでは解けまい。観音力・鬼神力も適わない。鏡花は、何も説明していない。はたして姉が夫人なのやら、その姉の正体が何であるのかも、説明していない。
      それでいて、われわれはここに一匹の夫人の妖しい容姿が君臨していることを知る。また、この青年の彫塑の感覚が並々ならぬものであり、青年はただただ夫人の感覚を想定することによって、世のたいていの力量を凌駕できていることを知る。青年は桔梗紫の羽織すら、きっとふわりとしたまま木彫できるのだ。 けれども、その一匹の夫人をかたどった精緻な細工物ができあがったとしても、それはなぜか現実にも幻想にもそぐわず、どこか別世界に放擲されるのだ。
      小生が新たに近づいていった鏡花とは、このように、精緻でありながらもどこかの「あてど」に放擲されるという印象なのである。
      この感覚は、かつて小生が、「ほか」とか「あてど」とか「べつ」として言及したものとも近い。ハイデガーを論じてもほのめかしたことだ。ここが鏡花の真骨頂なのである。
      この「あてど」は鏡花の「黄昏」をめぐる思想にも裏打ちされている。
      鏡花はあるところで、「たそがれの味を、ほんたうに解してゐる人が幾人あるでせうか」と書いて、「朝でも昼でも夜でもない一種微妙な中間の世界があるとは、私の信仰です」と言っていた。
      さらに、「善と悪とは昼と夜のやうなものですが、その善と悪との間には、そこには、滅すべからず、消すべからざる、一種微妙な所があります。善から悪に移る刹那、悪から善に入る刹那、人間はその間に一種微妙な形象、心状を現じます。私はさういふ黄昏的な世界を主に描きたい」と。
      これが「ほか」「べつ」の、あてどのないところへの「投企」というものなのである。
      しかし、印象はこれだけでは終わらない。鏡花にとってはさらに大事なことになるのだが、この「ほか」「べつ」「あてど」には、異性というものに託した一切本来が、たえず刻々に変成しているということである。 これは最初に言っておいた、鏡花にとっての異性は、芸者であって母であり、夜叉でも菩薩でもある形代なのだということに、つながっている。
      そもそも鏡花はウツリの人だった。ウツリは移りであって、映りであって、写りというものだ。 鏡花は大変な多作に加えて、長編もない。自身、代表作を書きたいとも思っていなかった。まるで川の流れのように、一雙の舟にのって流れていた。
      そんな鏡花から一冊を選ぶのが難しいのも、このせいである。 そこで、こちらの感想も書きたいことも、一作ごとに浮沈し、変化(へんげ)する。目移りする。また、そうさせたいのが鏡花だったのである。

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      小生自身のこれまでの目移りをいくつか例にしても、なるほど、視点はいつも蝶のごとくにひらひらとし、舟のごとくに揺れていた。
      たとえばのこと、『歌行燈』の恩地喜多八が身を侘びて博多節を流すあたりも書きたいし、湊屋の芸妓お三重こそを鏡花の憧れともしてみたい。『高野聖』では、その鏡花アニミズムの朦朧画のような気味もよく、旅の説教僧が参謀本部の地図を広げる冒頭や山の女との出会いについても、言ってみたいことがある。
      いや、もっと目移りは激しくて、『照葉狂言』のフラジャイルな少年貢の感覚や仙冠者の描写、『天守物語』の第5層にひそむ母性原理と軍事力の重合も捨てがたい。加えて、『星の歌舞伎』という小品はずっと以前から映画にしたいと思ってきたし(このことは黒澤明監督にも映画にしませんかと喋ったことがある)、『草迷宮』の霊をめぐる球形幻想や、それにまつわる繭の中のエロスのような雰囲気も書いてみたいことではある。
      そういうこととは一転して、『風流線』の村岡不二夫の「悪」を考えるのもおもしろい。 これは風流組という乞食行にやつした一種のテロリストたちを描いたもので、その悪魔主義に人妻がみずから犠牲を提供するという物語になっている。村岡は哲人めいた悪、いわば“哲悪”だった。
      いつか色悪についても書きたいと思っていたので、これはさしずめ「鶴屋南北から泉鏡花へ」という短絡でも考えてみるべきことである。 あるいは小生の「Dr,Books」では紅葉を『金色夜叉』にしたのだから、鏡花はお蔦主税の『婦系図』も、いい、あの清元「三千歳」が流れてくる場面に触れない手はないなどなど・・・、左見右見(とみこうみ)迷っていたのだった。
      こんなふうだから、ま、何を選んでも、鏡花は止まらない。動いていく。移っていく。本質がウツロヒなのである。それならば、小生は小生で、鏡花という羽織をどこかにふわりと掛けて、これを皆さん方が鏡花の展示だと見てもらえるようにすべきなのである。そう努力したい。
       ところで、日本橋芳町(葭町)には小生も一度住んだことがある。その家の裏が校庭と一緒になっていた。そこで末の妹が生まれた。
      その芳町は、さすがに貞奴をルーツとする芳町芸者、明治の小唄を作詞作曲してみせたあの芳町芸者たちは、戦前のようには復活していないようだったが、それでも三味線の音はときどき流れていた。
      家の隣りは伊香保湯で、いつも裏から入った。その裏が蓬莱屋という佃煮屋で火事になった。近くに寄席の人形町末広亭があって、ほぼ毎週土日のどちらかに母に連れられて笑いに行っていた。そんな芳町から人形町の小学校に通った。そう、そう、小学校は背の高い川瀬先生だった。「ようこそ先輩」は、したがって、この小学校でもよいわけだ。
      そういうことを思い出してみて、そうだ、鏡花はやっぱり『日本橋』にしようと思ったのだ。冒頭に書いたちょっとしたワケとはこのことである。また、この程度のワケがないと、鏡花の日本橋は選べない。
      続き編の(下)にて、日本橋を渡ることにする。


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                        読了記  第10話に続く・・・連載

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                      ひとひらの書 8 H78
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ひとひらの書 第8話 『武原はん一代』 下

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      A 7 gif   第8話・・・『 武原はん一代    

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      A 15 gif ひとひらの書 第2 武原はん一代




      体の使いを考えるという点で、地唄舞の名手・武原はんは師のようにあるという。そう武原はんを話題にした若い武道家がいた。
      有名なプロ野球選手ではあるが、小生にはある種武道家に見える。
      桑田真澄である。
      その武道家が小生に、日本舞踊と武術のどこに接点を見出せばよいのか、を小生に語りかけたのだ。
      武道家は、彼女の踊りをヴィデオにとることができた。見てみるとなるほど流れるような動きだ。
      その武道家は 「見ていて自然で全然苦にならない 不思議だ」と感想を洩らした。
      桑田真澄がふと漏らしたその一言が、じつに今、新鮮である。

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      くわたますみ桑田真澄 8 W500H380

      そして、小生は、何年振りかで武原はんの追悼テレビ番組を見た。
      山川静夫アナを相手に、彼女が自宅の鏡の前で動いて見せるが、その左足前の立ち姿が一歩進んで右足前になる それがため息が出るほど美しい。
      しだいに桑田真澄の言葉が、その姿に重なってきた。
      桑田は、カーブを軸とした「コンビネーションピッチャー」の一人である。140km/h台の速球だが、カーブ、シュート、フォーク(SFFで桑田自身は「サンダーボール」と命名して使っていた)、スライダー、遅いストレート(チェンジアップではない)を打者や調子によって織り混ぜ、173勝を積み上げた。
      そのカーブには主に全盛期時に投げていたカーブと、2002年の最優秀防御率賞奪取に貢献し、メジャー時代(後期)にも投げていた緩めのカーブと二種類あり、前者はキレを中心としたドロップ系の比較的速いカーブ、後者は山なりの軌道を描くスローカーブ(ドロップカーブ)である。後者のカーブは「レインボール」、「レインボーカーブ」、「すしボール」と様々な名称で呼ばれていた。
      彼は、まさしく舞い踊るかのように撓るカーブを華麗に投げた。

      くわたますみ桑田真澄 10 カーブ W500H148

      彼女の終生の芸であった(雪)という舞では、畳二畳分ほどの極端に抑制された動きの中で女性の過去 未来 幼さ 老け 心の動きを様々に演じ分けなければならない。
      舞台では遠くの客は表情はよく見えない。だから全身で表現するにはどうしたらよいか八十年毎日考えてきたと彼女が番組の中で語っていた。
      あらゆる動きに(はずみ)を無くしてみる。
      たとえばボールを投げるのに振りかぶってからパッと手を振り下ろさずにまるで砲丸投げをするような感じで手で押し出してみる。普段の動きならどこか一個所の筋肉をゴム輪を飛ばすように弾けさせて使うのだが、それが無くなると全身の筋肉を使って空気を前に押し出すようにせねばならない。重い荷物の台車を押すような感じで空気の中を動く。弾みの多い動きはアクセルとブレーキを交互に使ってしまう。どんなに精妙に動いてみても頭や体のぶれは出てしまうものだ。またそんな動きはエネルギーのベクトルが生じて速い動きの中で体の向きを変えようとすればぐらつきが必然的に起こる。
      そんな桑田の言葉を視野にして見ると、なるほど、武原はんの動きはどちらへ動こうが宇宙遊泳をしているように等量の圧力を四方に感じながら動いているようだ。

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      武原はん 雁金 W500H171

      舞の中で彼女が考える様々な姿から姿へ移り変わりながら一定の心身のバランスを維持し精妙に動きを進めていくのには、どれほどの細かい身体の使い方をしているか想像もつかないものがあると思われる。その動きの中では一般人のような意味での速い遅いはないし、勢い余ってなどということも絶対にない。途切れなく動くという事一つとっても並大抵のことではない。桑田はそう言ってしきりに唸っていた。
      相手の戦力を上回る能力を保持して戦うという事は、勝利の法則ではあるが、体格筋力、瞬発力などは先天的なものでしかもピークをすぎれば落ちていくばかりのものである。技術としての武術はあらゆる技芸に共通してやはり動きの熟練による技術の(異質化)を目指したものであった。
      そう熱く語る桑田がいた。
      その言葉通り、そしてその異質な動きとは、あらゆる瞬間においても意志的なものであり偶然やはずみで起こる動作など武術として命をかけるに足るものではありえなかった。
      そう考えた時に、左足前の立ち姿が一歩出て右足前になるという一動作においても、どれほどの全身の緻密な働きが要求されるのか、無限に思える追求の成果の武原の一歩に小生には今見える。
      動きを正確にとらえる、感じる多くの(見えている人)の目があることも揺るがぬ事実である。たとえ芸事に無縁の人であっても的確に物事を捉える人は驚く程多くいることを小生もよく知っている。真摯に人生を送る人には毎日が(生の異質化)の連続と言えるかも知れない。今、曲のどの瞬間を切り取っても最高の姿に見えてしまう彼女の舞を見ながら人間にとっての(真)がいかに(美)に密接するか感動を禁じえない。そして我々の普段の些細な積み重ねさえ、その道に連なり、小生の日常を輝かせてくれると確信する。
      武原はんの舞いは、そうなのである。

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      その武原はんに「 白寿まで一陽来福舞ゆかな 」という一句がある。

      すでに現代の日本社会では絶滅した「花柳界」の話ではあるが、この花柳界の時代性が分からなければ、歌舞伎や日本舞踊や斎藤緑雨、永井荷風や久保田万太郎の世界は全く理解などできない。
      とくに平成の芸能界にしか育たない若い人は、花柳界と吉原とがの、全く区別をつかない人もいるでしょうから、これでは到底、世代前の風俗であったはずの、はんの「百寿まで・・・舞ゆかな」の何をか、が見えてこない。芸事に一所懸命に入魂して生涯までを精進しようとする観念の矜持を能(よし)する人のみが挑む世界観がそこにあった。

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                          地唄「翁」               ホトトギス同人、はん女。(昭和55年頃)
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      大正5年 乗合船(左、はん 右、ゆき)   大正4年 大和屋芸妓学校二期生代表(左より武原はん、阪口ゆき、岡久栄)

      それでは一、二世代前の若い人に「武原はんの舞い」を理解するための豆知識を少々ご伝授したい。これは俗界において芸能を生業として精進を試みる修羅場の花を演じる人の話ともなろうか。
      芸者になるには、まず「仕込」(しこみ)という修業時代を経て、15歳で「半玉」(お酌=おしゃく)となり、7年間勤め、21歳でやっと一人前になれる。お酌は、御座敷でものを運ぶだけが仕事だった。芸者(いっぽん)になる時には試験があり、その中に三味線を弾いて唄をうたう試験がある。清元や常盤津よりも長唄で試験を受ける人が多かった。これらを経た後の身の処し方を、はんは「白寿まで一陽来福舞ゆかな」というのである。

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              芦辺をどり              大正5年 大和屋芸妓学校生徒(前列左端が はん)
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        大和屋子供連と、芸妓姿のはん(中央)            大和屋分家の人々(真ん中がはん)
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      大阪に阿波座駅(あわざえき)がある。大阪市西区西本町三丁目にある大阪市営地下鉄の駅だ。中央大通(大阪市道築港深江線)と新なにわ筋の交差点に位置する。その駅名の由来は、かつて当駅付近に存在した遊郭、並びにさらに古代に所在した四国方面との海上貿易拠点「阿波座」との関係である。

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                              阿波座ジャンクション

      その阿波座が物語るように、大阪と徳島の関係は地理的にも経済的にも浅からず、金回りの良い阿波の藍玉商人は大阪の花街で歓迎さた。そして芸能を大切にした阿波細川家の伝統は蜂須賀氏にも受け継がれ、自国の富田町に阿波商人御用達の立派な花街をもたらした。この伝統ゆえ、明治になっても徳島の芸妓は遊芸に秀でており、浪花の芸妓にも引けを取らなかったと言われている。
      徳島生まれの芸妓として、其の嬌名を大阪の南地で謳われ、のち小村翆雲の夫人になった伊丹幸の小奴もその一人であるように、そして徳島で産湯を使い、道頓堀が青い灯赤い灯を川面に映す前に南地で舞妓になり、不世出の舞踏家となった武原はんもその一人であった。

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                                徳島市富田町

      武原はんが徳島で生まれた宿命はそこにある。たしかに糸は結ばれている。
      はんは、その糸の方へ顔を向けた。
      明治36年、夜な夜な三味や太鼓の音がさざめく徳島の富田町のすぐ近く籠屋町で、仕事一筋のブリキ職人の長女として生を受けたはん(本名武原ちか子)は、11歳のとき両親と大阪に引越し、宗右衛門町は大和屋芸妓学校に二期生として入学、礼儀作法から舞踏、三味線、唄までもみっちり仕込まれた。
      はん本人の回顧によると、13の歳に山村流の手ほどきを受けたものの、いかり肩が災いして踊妓には向かぬといわれ、当初は三味線を仕込まれたという。
      しかし本人は踊りが好きで、お師匠さん(山村千代)が暇をみて教えてくれたので踊り方になれたそうだ。さらに彼女には踊っている内に首を前に出す癖があったのを、大和屋の主人祐三郎は、着物の衿に縫い針を逆にさすという荒療治でこれを克服させた。

                     武原はん 縫い針 W250H116

      これが身をもって型を仕立て鍛える修行というものである。無意識に舞いの型となるようでなくては所詮半人前で終わるしかない世界なのだ。そうして、はんは大村流の型に入れられた。
      このころの大阪の踊りの主流は若柳、花柳といった華やかな流儀ばかりで、身体をためて深く腰をおろして舞い、稽古が終わった後は歩くのも辛い山村流は、たまに老妓が舞うぐらいで、宴会なんかでもあまり踊られる事はなかったようだ。
      しかし、山村流を懐かしむ老妓の一人が、19、20歳のはんにいつも山村の地唄舞でも珍しいものを舞わせ、これを受けたはんは自然と山村流が身体の中に溶け込んで行った。
      ここに流行りを追わない独自を歩く武原はんがすでに誕生する。
      さて、大正6年、14歳で大和屋芸妓学校を卒業すると、その歳で芸妓になったはんは南地の中でめきめき頭角を現し、19の時に、当時日本一の名人といわれた七世三津五郎の所望で地唄「寿」を舞い、是を褒められるとそれを糧にさらに舞に磨きをかけ、大正12年、20歳で大和屋から独立して自前芸妓になった。
      文楽好きのはんは大阪時代、よく劇場に足を運び、後年、名人吉田文五郎の中腰や後姿がなんともいえぬ魅力だったと語っており、文楽からの影響を仄めかしている。

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      東京での暮らしを、簡単にざっくり語ると、昭和5年に結婚のため東京に住んだはんは、わずか数年で結婚生活に終止符を打ったのだが、東京進出のきっかけとなり、藤間勘十郎から 「地唄舞は関西のものだが、東京で東京の地唄舞を普及させなさい」 と激励され、昭和15年「はん弥」の名で新橋芸者となり、お披露目は新橋始まって以来の花代を売り上げた。
      昭和19年戦禍が激しくなり芸妓を廃業、戦後は「なだ万」の女将を経て昭和28年、俳句の師匠であった高浜虚子の命名で赤坂新町に料亭「はん居」を開業した。
      以後も踊り手としてはんの実績と名声は増すばかり、昭和31年には代表作である地唄「雪」で文部省芸術祭賞を得ると、昭和44年に紫綬褒章、そして昭和50年には勲四等宝冠賞を授与された。

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      銀座の松坂屋の裏、銀座消防署がある辺りに「三十間堀」(さんじゅっけんぼり)という川が流れていた。戦後の風営法で、すべて「料亭」という呼び方になったが、戦前は、「料理屋」と「待合」と区別していた。待合には板前がいないので、「仕出し屋」から料理を取っていた。
      新橋の仕出し屋には、「貴船」「三喜美」「田村」などがあった。「田村」は今の「つきぢ田村」。「山形屋」という洋食屋もあった。
      待合で大きかったのは「田中家」、そこから分家したのが、「金田中」(女将は金子とら)、「米田中」があり、「雪村」「山口」などがあった。「山口」は外務省と三井家が贔屓(ひいき)にしていた。
     「御料理屋」(おちゃや)の代表的なのが、「新喜楽」「錦水」「花月」。特に格式の高いのは「新喜楽」で明治8年に日本橋で創業、その30年後に、当時「海軍原」(かいぐんはら)と呼ばれていた現在地に移転して築地周辺が開けるきっかけをつくった。
      新喜楽は、伊藤博文、山縣有朋が初代の女将伊藤きんを贔屓にしていた。その「新喜楽」は今では、芥川・直木賞選考会場として使われている。

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      このような変遷をたどると、江戸時代には「料理茶屋」「貸席」「船宿」の三カ所で、芸者が呼ばれ酌を取り、三味線で唄った。維新直後に、新橋の「信楽」という待合茶屋が、「浜の家」と屋号を変え、かつての「出合茶屋」のように宿泊座敷を備えて繁盛したことから、新橋界隈に類似店が開業していった。
      よって、「貸席」は「待合」に発展解消し、「船宿」は衰微し、明治後期から芸者の出先は「料理茶屋」と「待合茶屋」の二カ所となり、ともに「御茶屋」と呼ばれる。格から言うと、板前を置く「料理屋」の方が上で、待合は「小待合」「安待合」などと蔑称されることもあった。
      戦前、今の新橋演舞場裏、癌研の前に関西から進出した料理屋「灘万」があり、ここで武原はん(一時、青山二郎と結婚していた)が働いていた。その灘万には、後に長谷川一夫の妻になる「りん弥」がお座敷に出ていた。
      地歌(ぢうた、地唄)は、江戸時代には上方を中心とした西日本で行われた三味線音楽であり、江戸唄に対する地(地元=上方)の歌であり、当道という視覚障害者の自治組織に属した盲人音楽家が作曲、演奏、教授したことから法師唄ともいう。

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      三味線を用いた音楽としては、初期に上方(京阪地方)で成立していた地唄は、元禄頃までは江戸でも演奏されていた。その後、江戸では歌舞伎舞踊の伴奏音楽としての長唄へと変化、また河東節などの浄瑠璃音楽の普及によって、本来の地唄そのものはしだいに演奏されなくなっていった。
      幕末までには、京阪を中心に東は名古屋、西は中国、九州に至る範囲で行われた。明治以降には生田流系箏曲とともに東京にも再進出、急速に広まった。
      現在は沖縄を除く全国で愛好されている。ただし東京では「地唄舞」の伴奏音楽としてのイメージがあり、地唄舞が持つ「はんなり」とした雰囲気を持つ曲という印象を持たれがちであるが、地唄舞は地歌に舞を付けたものであって、最初から舞のために作曲されたものはない。
      また地唄舞として演奏される曲目は地歌として伝承されている曲の一部であり、地歌の楽曲全体をみれば、音楽的には三味線音楽の中でも技巧的であり、器楽的な特徴を持つ曲が非常に多い。
      一方、三曲界内部においては、明治維新以来の西洋音楽の導入に伴って、その器楽的部分に影響を受け、江戸時代を通じて器楽的に発達していた「手事物」に注目されることも多い。しかしながら「歌いもの」の一つとして発達した地歌は伝統的な声楽としての側面も持っている。
      もともと地歌三味線、箏、胡弓は江戸時代の初めから当道座の盲人音楽家たちが専門とする楽器であり、これを総称して三曲という。これらの楽器によるそれぞれの音楽である地歌、箏曲、胡弓楽が成立、発展して来たが、演奏者は同じでも種目としては別々の音楽として扱われており、初期の段階では異種の楽器同士を合奏させることはなかった。しかし元禄の頃、京都の生田検校によって三弦と箏の合奏が行われるようになり、地歌と箏曲は同時に発展していくことになる。
      現在伝承されている曲の多くは三弦で作曲され、その後に箏の手が付けられているものが多く、三弦音楽として地歌は成立し、ほぼ同時かその後に箏曲が発展してきた。ただし箏曲の「段もの」は後から三絃の手が付けられたものであり、ほかにもしばしば胡弓曲を三弦に取り入れたものもある。
      胡弓との合奏も盛んに行われ、三弦、箏、胡弓の3つの楽器、つまり三曲で合奏する三曲合奏が行われるようになった。このような環境の中で地歌は、三弦音楽として発展する。

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      武原はん 写経 W500H375

      こうした三弦音曲に舞いつけたモノが「地唄舞」(上方舞)である。
      その上方舞(かみがたまい)とは、江戸時代中期(1800年頃)から末期にかけて上方で発生した日本舞踊の一種で、着流しに、屏風を立てた座敷で舞う素踊りを基本とする。源流となった御殿舞と、能を基本にした静的な舞に、人形浄瑠璃や歌舞伎の要素を加味しており、しっとりとした内面的な舞い方をする。歌舞伎舞踊より抽象的で単純化された動きである。伴奏に地唄が用いられることから、地唄舞とも呼ばれる。
      上方舞の流派のうち山村流、楳茂都流、井上流、吉村流を特に「上方四流」と呼ぶ。また、この上方舞が、京都で発展した流派の、井上流、篠塚流を京舞(きょうまい)と呼ぶ。
      武原はんは1915年、 大阪の大和屋芸妓学校に入学すると、山村流の上方舞を修行した。その山村流とは、文化3年(1806年) 、三代目中村歌右衛門と共に活躍し、当時の上方舞踊界を席巻した上方歌舞伎の振付師・山村友五郎が創始し、舞の品の良さから商家の子女の習い事として隆盛を極めた。

      地唄「雪」

      花も雪も 払へば清き袂かな
      ほんに昔のむかしのことよ
      わが待つ人も我を待ちけん
     (合)鴛鴦(おし)の雄鳥(おとり)にもの思ひ
      羽(ば)の凍る衾(ふすま)に鳴く音(ね)もさぞな
      さなきだに心も遠き夜半(よわ)の鐘(合の手)
      聞くも淋しきひとり寝の
      枕に響く霰(あられ)の音(おと)も
      もしやといつそせきかねて
     (合)落つる涙のつららより
     (合)つらき命は惜しからねども
      恋しき人は罪深く
      思はぬ(合)ことのかなしさに
     (合)捨てた憂き 捨てた憂き世の山葛(やまかづら)


      【 地歌「雪」。流石庵羽積作詞、峰崎勾当作曲。寛政元年(1789年)ごろ成立。大坂南地の芸妓ソセキが、来ぬ人を待って夜を明かすこともあった自らの過去を回想しつつ、仏門に入った現在の心境を述べたもの。名前が読みこまれているという。合の手は本来鐘の音なのだが、邦楽各流では雪を象徴する音として使われている。】

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      能を習った者は誰もが「舞」と「踊」の差を知っている。
      舞は跳ねないが、踊は跳ねる差があるのだと。
      だが明治ご維新の頃「Dance」という外来語が入って来てから、舞と踊の違いがなくなって、どれもダンスでひと括りにされてしまって、その相違がなくなったのである。現在でいうなら、合併した都市が平仮名や由緒がなくなった地名を名乗るようなものだ。
      そもそも舞は幸若舞とか能舞とか延年の舞とか、能を含めた古い芸能を指す時が多く、踊は踊り念仏や盆踊りで代表されるように中世の仏教芸能から端を発し、歌舞伎や日本舞踊で集約された永い伝統の歴史がある。 ただ、能にだって飛んだり跳ねたりする曲がある。
      代表格は「石橋連獅子(しゃっきょうれんじし)」であろう。舞踊にだって、全く跳ねない舞のような踊が連綿としてある。京舞の先代四世・井上八千代の老女物や写真に掲げた武原はん「雪」という上方舞などである。ただしその区別は能には一定の型があって、踊には型がないように思われるのは早計だろう。
      多くの踊は魂振(たまふり)であり、舞には鎮魂(ちんこん 或いは たましずめ)の役割が多いのは確かに事実だ。能の型が彼女たちの舞踊に多大な影響を与えたこともある。したがって現在の舞と踊の区別をするのは甚だ得策ではないが、爾来それぞれに伝統があったことだけは厳密に申し上げておきたい。
      小生は何かと親には無粋であったから、今回この著書を執りあげる前に、亡き母の墓参に行って、紅いカーネーションを届けた。粉糠雨(こぬかあめ)がそぼ降り止まず、お墓の真後ろに植えた江戸彼岸の樹が堂々と大きくなり、青々とした櫻若葉で覆われていた。多分母は、亡くなった後初めての真紅のカーネーションを貰って歓んでいたのだと思う。都内に帰って、小生がいそいそと書斎の整えをするほんの束の間、ちょうど書棚の隅にあった母が大好きであった武原はんの録画映像を観た。
      第二巻の「雪」だ。静かに流れるような舞姿。じつに凛としている。
      動く日本人形と謳われたはんの舞にしばしうっとりとして観とれていた。
      12歳の若さで徳島から大阪へ来て、上方舞の山村流で舞踊を習いつつ、芸妓として座敷に出ていた。28歳にして、青山二郎と結婚し上京。しかし一芸を貫こうと武原はんは間もなく離婚し、「なだ万」などの女将を経て、芸道をへと一直線。
      はんという女性は生涯自分の芸を磨き続けた人だった。
      西川鯉三郎や藤間勘十郎などにも師事。そのはんは独自の芸風を確立し、全面ガラス張りの稽古場で、自分の師匠はガラスの中の自分であるとの信念を貫いた人であった。
      60歳には60歳の芸があり、80歳には80歳の芸があると言っていた。
      これは世阿弥の「時分の花」ということであろう。画家の小倉遊亀や野島青茲など多くの日本画家が、そうしたはんの瞬間の美を写し取っている。小生もその稽古場には何度かおじゃました。
      平成13年95歳で亡くなるまで現役を続行、この世のものではないとまで言わしめた至極の芸を披露し続けた。お座敷芸を芸術の最高到達点まで高めた人であり、文化功労賞にも輝いている。その、はんの「雪」こそ、舞と踊の融合を見事に果たし得たのではないだろうか。 地唄の、その記憶と歴史を一身に継ぐ、この振る舞いにこそ、忘却されようもない完成というべき存在感がある。

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      武原はん あとがき W500H311

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      武原はんさんが他界されてから10年後のこと、六本木に出向いた。
      たまたまのことながら、向かったビルの道をはさんですぐ向かい側に7~8階建てのビルが今もあるのを見て、はんさんを懐かしく思い出した。
      そのビルは、かつて“生きた博多人形”とも例えられた上方舞の武原はんさんがお住まいになっていた場所である。そのビルを見て、武原はんさんが六本木のこのご自宅で亡くなられてからもう十数年が経つという深い感慨をいだいた。
      無機質な外観からは想像もつかないが、このビルの上階には、小体ながらも本格的な能舞台が設えられていて、この密やかな美しい舞台で、晩年の武原はんさんや、薫陶を受けた藤村志保さんらが舞を披露なさっていた。そう思うと小生は、ある年のことをまた思い出した。
      京都の知人に「ええ勉強になると思うし」と、言われて、祇園の某有名呉服店の東京での展示会に小生呼んでいただいたことがあった。「その会場、武原はんさんのお宅の上にあんにゃて。そらもうスゴイとこらしいで」とは聞かされていた。初めて武原はんという人の稽古場に伺ったときのことだ。
      思いもしない立派な能舞台が、六本木のド真ん中の、何でもないビル中にあるのを呆然と眺めて、世の中にこんな世界があるものなのか・・・と、驚いた。未だいろんなコトに無知蒙昧だった20代の小生には、その美しい空間はもう完全なカルチャーショックだった。
      しかし今から思えば、その20代で多少の古典芸能にふれたおかげで、明治、大正、昭和を生きてきた珠玉のような人たちの舞台を、かろうじて間に合って拝見できたように思うが、中でも記憶の宝物のように思える舞台のひとつが、92年に古典芸能鑑賞会で観た『松 竹 梅』という舞踊だ。
      それは、武原はんさんの「松」、藤間藤子さんの「竹」、吾妻徳穂さん(故中村富十郎丈のお母さん)の「梅」という、まるで芸風の異なるお三方による初共演という最初で最後の舞台だった。(ちなみにこのお三方はみな実にご長命でいらした)。
      観たのはNHKホールというおよそ風情のない場所ではあったけれど、何かとてつもなく崇高で美しいものを見た・・・という感動があった。20年近くたった今でもまぶたに鮮明に浮かぶ舞台のひとつである。
      そうしてその古典芸能鑑賞会の翌年だったろうか、『東をどり』の切符をいただき新橋演舞場へ出かけた。そのときのこと、幕間に化粧室へいこうとしたロビーで、ふと視線が吸い寄せられていく気がして、ついとその先を見ると、お供の方に付き添われて武原はんさんが化粧室にいらしたのだった。
      綺麗に結われた銀色のお髪に、銀鼠色のあれは江戸小紋だったのだろうか。まことに品のよい着物をゆったりとお召しで、その匂いたつような麗しい「何か」に痺れてしまい、人気のないのをさいわいに、場所もわきまえず小生は思わずその場でポ〜ッと見とれてしまった。
      ロビーにもどると、同行していたアメリカで日本画を描く知人女性が「いますごい素敵なお婆さんを見たのよ〜!。ひさし髪で着物の着こなし方もまるで違うし、すごい綺麗なの〜」と言った。
     「あ〜それ、武原はんさんだよ」と教えると、
     「え〜?!あの人がそうなの!どうりで〜!オーラがすごかったもの」と、しばらく興奮気味に言っていたのを思い出す。
      そんな武原はんさんのオーラからは、なんとも良い香りが漂ってきそうで、それはたぶんどんなにお歳を召されても、決して枯れることのない香気というのか、おなごはんの色香のようなものではなかったかと今でも思うのである。
      近年亡くなられた稲越功一氏の撮った写真の中に、最晩年の武原はんさんが、六本木にあるあのご自宅でお気に入りのイスに腰掛けて写っておられる一枚がある。
      そのつま先は一代の舞踊家らしく本当に真っ白で、キッチリとシワひとつない美しいつま先だった。
      うろ覚えで定かではないけれど、最期のときは、たしかそのお気に入りのイスで静かに息を引き取られたと聞いたように思う。きっとその最期のときも、つま先は白く美しかったに違いない。満95歳を迎えられたその翌日のことだった。

                                  


      武原はん 山姥 W500T189
      武原はん 素材「鐘が岬」 W500H420


                        読了記  第9話に続く・・・連載

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ひとひらの書 第7話 『武原はん一代』 上

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      A 7 gif   第7話・・・『 武原はん一代    

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      A 15 gif ひとひらの書 第2 武原はん一代




      去年今年貫く棒の如きもの
      この句は高浜虚子(下写真右)である。虚子は、明治7年(1874年)に愛媛県に生まれた。本名高濱清という。伊予尋常中学時代、河東碧梧桐を介して正岡子規に俳句を教わる。碧梧桐とともに、第三高等学校、第二高等学校を経て、東京の台東区根岸の子規庵に起居した。
 俳誌「ホトトギス」を引き継ぐが、子規歿後、俳句の創作から離れた。しかし、大正元年(1912年)、五七五調にとらわれない新しい俳句を提唱した碧梧桐に対抗して俳壇に復帰する。
 虚子は、五七五調と季語の伝統を重んじ、「花鳥諷詠」「客観写生」の理念を掲げた。「ホトトギス」からは、飯田蛇笏、水原秋桜子、山口誓子、中村草田男らが輩出する。昭和34年(1959年)に没した。
      この高浜虚子から俳句と文章を学んだのが、舞踏家の武原はんである。
      明治36年、徳島市に生まれる。大阪で上方舞を修行した後、昭和5年(1930年)、東京の大地主の次男、青山二郎に嫁ぐ。ここで小林秀雄、永井龍男、中原中也、宇野千代らの知己を得る。踊りは藤間勘十郎、西川鯉三郎に師事し、上方舞の普及に努めた。
 「ホトトギス」の同人となり、俳号はん女。戦後、さらに昭和21年、かつて文豪に親しまれた料亭「なだ万」の女将もつとめ、その後、虚子が名づけた六本木の料亭「はん居」を経営した。昭和27年から、「舞の会」を開催、平成6年(1994年)まで続いた。豪華な衣装と気品に満ちた舞姿は、「動く錦絵」と評価されたが、平成10年に没した。
      冒頭の句「去年今年貫く棒の如きもの」に、二人それぞれの人生が重なる。

      武原はんと高浜虚子 2 W500H328
                          写真は昭和31に撮影(虚子と武原)
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      さらにもう一人、はんと縁の深い男がいる。
      大佛次郎(おさらぎ じろう)である。
      その大佛次郎が、京北の浄照光寺の桜を連れ立って見に行ったとき、みんなが引き上げてもまだ一人花の下に佇んでいる婦人がいた。
      連れ立ちの亭主役である大佛が近づいてみると、武原はんが涙を流している。
 「あんまりきれいなもので‥」ときまりわるそうにして、さっと連れ立ちのほうへ戻っていったという。大佛は、はんが「なだ万」の別荘を借りて鎌倉雪の下に両親を住まわせたときのお向かいさんだった。そんな大佛は挨拶文などを何度も代筆していた武原はんが一番大事にしていた後見人にあたる。

      おさらぎじろう大佛次郎 5 W500H333

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      おさらぎじろう大佛次郎 9 W500H344      

      「鞍馬天狗」の作者として知られる大佛次郎(1897~1973)は、現代小説、歴史小説、ノンフィクション、さらには新歌舞伎や童話などまで手がけた岩田藤七と同世代の小説家である。1964年に文化勲章を受章した。藤七とは大変懇意で、美術・文学はもちろん、歌舞伎や舞踊など広い世界を共に楽しむ、猫と鎌倉を愛する長身の紳士であった。
      下記文章の掲載されている、作品集の刊行世話人代表でもある。
      少し余段だが引き出してみた。
      「日本的な独創」大佛次郎 1967年毎日新聞社発行「岩田藤七ガラス作品集」より。

      つい昨日までの日本の生活では、ガラスの器は夏の季節につながっていたようである。
      梅雨が明け、青すだれで外の日射を防ぐ頃になって、土蔵や戸棚の奥から持ち出され、箱をひらき被布を除かれて、透明で涼しい、それこそ夏の姿をあらわした。欧米生活の四季の感覚が薄く、厚い壁の中で営まれていた日常とは、自から扱い方が違っていた。
 日本でも、冷暖房が発達した現代とは感じ方も異なる。それに、何としてもギヤマンには、日本で作られても、いつまでも舶来のよそよそしさが付きまとっていたものだろうか?。正直に言って私は、ガラスには冷淡であった。古い日本の切り子ガラスは、美しいがどこか不粋な重々しさがあるようであまり好まなかったし、バロック風の装飾の手がこんだ西洋のものも好ましいとは思わなかった。
      つまりは、物をみていなかったので、ヴェネチアへ行っても、サン・マルコの広場を囲む店の飾窓に、葡萄酒色の美しいガラス器が飾ってあるのを見ても、特別に入って見ようとも欲しいとも思わなかった。ただ日本にいて偶然に手に入れた中国の乾隆硝子の卵黄色の小さい壷には、珍らしく愛着を覚えた。器械的でない輪郭の、目に暖かい円味と、美人の肌に触れるような手ざわりの柔媚さに、西洋のガラスにはないものがあるようで、ガラスを夏だけのものと考えるのは偏見らしいと知ることができた。
      これも同じ料子でも、技巧を凝らし、梅や水仙の花など、精巧に彫刻したものなどよりも、飾りなく、すぽっとして、肌のなめらかなものが好ましい。聞けば、ガラスの面に人間の手を加えて磨き出すものなので、整然とし過ぎた冷やかさから免れ得たものらしい。

      武原はん 岩田藤七作 硝子「花器 焔」 W500H373

      私がガラスに興味を抱くように成ったのは、言うまでもなく、岩田藤七氏を知り、この優れた作家の年々のお仕事を親しく見まもる幸運を得てからである。ガラスと言うものが次第に、これまで見てきた性格のものではなくなって来た。傍にいて、その変化や進展の様子を見ていることが、どれだけ私にとって勉強になったろう。岩田さんの創作は、年々変わって、新鮮なものを生み続けた。古い能衣裳を見るように、絢爛とした色を見せていたかと思うと、深海の水を凍らせたように透明な、エメロードの色の塊となり、光と湿気に因って色調を変える敏感で濃い鮮苔の色を見るようなものさえ現れた。
      色は次第にマチエールに深く滲透して、ガラスの本来の性質まで変わったように見えることすらある。吹きガラスの成形も自在で、これまでの冷やかに整然とした形から離れ、彫刻されたオブジェの趣きを示した。十八世紀のイギリスあたりの精緻を極めてエレガントな性質よりも、重量感ある姿は、やはり日本の切り子のガラス伝統を、無器用からでなく、現代化したものとして、自然に現れたのではないか? 色調の、時に渋い古典的な趣きも、明らかに日本人のもので、西欧のガラスの作家に、想像がつかぬものではないか?。 
      ガラスの触感さえも、岩田さんは変更させた。前に言った乾隆硝子び自から近付いている。これも他所ならぬ東洋の味を生み出したものと言えないだろうか?。
      その岩田さんが近頃、ある雑誌に次のような若々しさに溢れた、おしゃれな感想を述べていられるのを読んだ。
      「真夜中の一時か二時、一人ぼっちになって、二、三のガラス器を並べる。ある時は戸のすき間から水銀灯を通し、ある時はスリム・ライト、サークリングライトと、光線を変えて、乱射し、反射して、ガラスの影と光りを、バリエーションの内で楽しむ。そうしたことによって、やっと昼間の粗雑、粗暴、ゴーゴー的な野卑から解放されて、さわやかな時をもつ。すると、飾ったガラスたちは、青や、茶や、緑の眼をパチパチさせて、話しかけてくる。ほんとに、夜中のガラスは、ささやく。秘事を皮膚から伝えてくる。いきものである。生きものというより魔女でさえあると思う。この赤い敷物の上で、いやベッドで映された燭台は、最近のヴェネチアのものだが、桃色と青と金色、よなよなした、もつれた腕のもろさは、私のだいすきなガラスの一つであり、茶やオレンジの敷物にすると、また変わる。周囲と置き所で変化し、感情をかえる細かい神経は、人間以上である。私は静かに、そおっと、なんでも、いうことを聞いてやる。ほんとに、扱いにくい、わがまま者、時には、しらん顔を見せる。こんなガラスの花の、燭台を作った職人に逢いたく思う。名器とは、博物館や個人の収蔵館や、お茶席の内のみにあるのではない。自分の周辺から自らに合うものを発見すればよい。私には、この二つが名器なのだ。私の欲している『エレガント』というものを語ってくれるから。すなわち、一方通行の交わりで、中年の女性の美しさを充分に楽しめる。ガラスは魔ものである。魔女で ある。」と。
      これは、私の制作はまた近く変わりますよ、と言う岩田さんの宣言のようである。この次の魔女は、どんななめらかで、体温のある肌をしていることであろうか?。 私は、今日この集にあるものだけを楽しんでいる。深夜を待たず、また光の戯れに待つこともしない。そのもの自らが美しく、また力をこもらせているからである。
      岩田とも親しい武原はんは、この文章を好んで繰り返し読んだという。

      おさらぎじろう大佛次郎 8 W500H352
      1967年当時の写真。武原はんの料亭、六本木「はん居」での、初午の会にて。真中和服女性が武原はん、その左が大佛次郎、右が藤七。左側後姿左が岩田マリ(藤七孫)、右が岩田邦子(藤七妻である。  
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      昭和57年は、武原はんは、数えの80歳。国立劇場で長唄の「傘寿」を西川鯉三郎の振付で初演した。鯉三郎の振付はその前の浄瑠璃舞踊「雪の角田川」に次いだ。
      「傘寿」の丸髷に黒紋付模様の舞は、典雅といったらこれほどの典雅はなかった。小生は板の上で一切を省かれた緻密を舞う「はん」の所作を、ただ冷静に見つめていた。
 そのあとに景色が変わって絶「雪」を舞ったとき、このときが絶品、小生はこの浄照光寺の桜の涙の話をふと思い出していた。 これはのちに句集のなかで知ったのだが、はんさん自身に「雪を舞ふ傘にかくるるとき涙」という句もあった。花と雪とは日本舞踊では同じものなのだ。

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      武原はん20 W500H613
                        寺島紫明の作・武原はんモデルの「愚痴」
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      毎年、5月になると国立劇場で「武原はん舞の会」が開かれた。
      二番か三番だけ地唄舞を披露するのを全員が固唾をのんで見守るという催しで、かれこれ40回以上も続いた、初期は春秋2回のときもあったが、晩年はずっと年に一度の畢生の舞台に賭けた。
 その会場で小生は、しばしば武満徹・勝新太郎・藤村志保・芝木好子・閑崎ひで女・高橋睦郎・多田美波の面々に会った。こうした出逢いも、武原はんが、小生に引き込んでくれた。随分と賑わいの濃い顔ぶれであった。
      舞台が国立劇場になる前のホールはいろいろで、日生劇場で舞ったことがあった。
      それは昭和41年のこと、小生は母とこの日生劇場の舞台を見た。小生13歳、これが初めて生の武原はんを見たときだった。それは「武原はん一代おさらいの会」と銘打たれた。
 小生が行ったのは調べてみると1日目だったようで、清元「山姥」のあと、「巴」を松本幸四郎と颯爽と踊り、荻江節の「深川八景」で粋にしめくくった。いまおもえば少年がみても溜息が出るほどの舞台で、地方が荻江露友・芳村伊十郎、都一中、富山清琴・清元延寿太夫・藤舎呂船と揃っていた。学童の小生はいかにも無粋な観客であったと思うが、母はたいそうご満悦であった。母が嬉しいと、小生も何となく嬉しいもので、鑑賞後は母の財布が弛むせいもあり、退席どきともなれば胸がトキメキ立てるのである。

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                      西頭哲三郎の博多人形 上方舞・武原はん「雪」
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      いま、武原はんの地唄舞はビデオでも見られる。
      米寿(88歳)のときにNHKが『舞ひとすじ』全6巻で制作した。それでもむろん存分に堪能できるけれど、はんの舞で溜息が出るのはやはり実際の舞台を見ていないと、おこらない。こういう体験をできずに日本に育った諸君には申し訳ないが、「武原はん」は、生きた舞台が奇蹟だったのである。

                            武原はん5「山姥」
                               清元「山姥」はん
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      さて、この本が出版されたとき、武原はんは93歳だった。
      この年齢ですぐに生まれた時代がピンとくる人はよほど歴史に詳しいか、クロニクル派だ。日露戦争の前なのである。
      はんは、徳島の花街の裏のブリキ職人の家に育った。 けれども、時代がわかったからといって、武原はんの一代記が、おおざっぱに目に浮かぶ人はいまやそんなにはいないだろう。
 小生はそのへんの事情を母の言葉で扶けられてきた。母はクロニクルな話になると、それは花柳章太郎さんが明治座で初めて鶴八鶴次郎をやった頃やな、そうやそうや、あのとき市川寿海さんが瀬戸内海に飛びこみ、あれは三浦布美子が最初に三越名人会に出たときだったなというぐあいに、時代を芸能の出来事で語ることが多かったのだ。その手の話にときどき武原はんの名が出てきた。女が女を語る光景とは、これもじつに艶があるのだ。
      あれは、はんさんが「はん弥」の名前で新橋の芸者をしてたときやったな、ヘップバーンの『ローマの休日』見たあとに、赤坂の「はん居」(赤坂新町に武原はんが出した料亭)に行ったんや、その夜はヒラリーがエベレストのてっぺんまで行ったこともあり、えらい大騒ぎやった、といったふうに。
 これを最近の四方山話でいうなら、あれは藤田が投げて長島が2本のホームランを打ったときだとか、ユーミンが「中央ハイウェイ」を歌っていたとか、まだビートたけしがツービートにいたとき、テレビドラマの『不揃いの林檎たち』で泣いたころというようなことになるのだが、どうもこの手の話が野球は野球の話、漫才は漫才だけの話、テレビはテレビの話になりがちになっている。
 それでも当座のお喋りは盛り上がるだろうが、むしろ重要なのは一人の芸人や一人の舞い手がどんな時代をかいくぐって舞台に立っていたのか、球場にいたのか、ピッチに立っていたのか、レコードを出したかということなのである。

                            武原はん6「雪折竹」
                              大和楽「雪折竹」はん
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      武原はんは、徳島で生まれ、11歳のときに両親とともに大阪に引っ越した。
      大正3年である。それだけならなんでもないが、すぐに宗右衛門町の大和屋の芸妓学校に通わされた。 そのころの大和屋や富田屋は大きかった。
      今回の「武原はん一代」の本書にも出てくるが、20歳までの芸妓がそれぞれざっと30人ほどいて、修行中の女の子なら40人、50人がいた。稽古場には三味線が何十挺もずらりとかけてあったという。
      その大和屋が芸妓学校をやっていて、生徒が5、6人ごとにお稽古をしていた。はんは、長唄は安田フサに、清元は清元梅之助に、舞は山村千代に習った。山村千代はそのころは大和屋のご隠居さんの立場にあった。いまはなくなってしまった大阪ミナミの名物「芦辺踊り」の雪洞(ぼんぼり)が宗右衛門町や戎橋に華やぎを灯していたころのことである。
 それでどうなったかというと、14歳で芸者になり、20歳で大和屋から離れた。商家のぼんぼんに夢中になって自前の芸者になろうとしたからである。それが関東大震災の年で、大杉栄が虐殺され、朔太郎が『青猫』を問うた。そんな時代のことだ。
      昭和5年の27歳のときに、はんは、東京の大地主の次男の後添えとして嫁入りした。前年にニューヨークの株が大暴落して、世界恐慌が始まった年、日本はここから軍靴の音が大きくなっていって、翌年には満州事変に突入する。そういうときに、はんは東京で嫁になった。

                            武原はん7浄瑠璃「雪」
                               浄瑠璃「雪」はん
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      この大地主の次男というのが青山二郎である。
      ちょうど柳宗悦の民芸への関心が高まってきたころだ。たちまちはんの周囲は青山の広い交友たちに囲まれ、小林秀雄、永井龍男、中原中也、宇野千代らとの談笑が賑やかになる。
 が、それは一刻一刻が美の真剣勝負のようなものでもあった。ともかくも、この青山二郎との出会いがなかったら、はんは、武原はんにはならなかった。また、その青山二郎との「生活の日々」を、結局は拒否したことが武原はんを作った。3年で離婚してしまったのだ。
      べつだん喧嘩して別れたのではない。みんながはんを応援してのことだ。 31歳でふたたび独り身になると、はんは一方で写経を始め(これは死ぬまで続いた)、一方で「なだ万」の女将の妹分として働き、一方で踊りに打ちこもうとし、一方で俳句を始めた。
      写経は高野山の柴田全乗の指導、俳句は高浜虚子に師事した。俳号は「はん女」。
      けれども、独り身でなにもかもに挑もうというのはさすがに難しい。時代も風雲急を告げていた。はんは「はん弥」を名のって新橋芸者となった。 そこではんは、片手間なんぞで芸者はできないとみて、かえって気合を入れた。そこがこの人の真骨頂だった。

                            武原はん8「翁」
                               地唄「翁」はん
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      新橋芸者40人を率きつれて御嶽山に登り、滝行をやってのけている。
      キャーキャー騒ぐ芸者一行の先頭に立って、高らかに「六根清浄」を唱えつづけたのは、はんさんなのだ。それが昭和15年の日独伊三国同盟を結んだ紀元2600年の年で、日本が翌年にはアメリカに先制攻撃を仕掛けようとしていた時期であることを知ってみれば、はんの覚悟が知れる。
 そのころ学習院の大学学長だった安倍能成がその凜とした覚悟に舌を巻いて唸ったという話がのこっている。そういうはんだから、座敷では平気に飲み尽くしては、座が盛り上がるなら阿波踊りを1時間以上も踊ってみせた。これらには吉井勇がシャッポを脱いだ。

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      武原はん 御嶽山滝行 W500H374
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                       武原はん 素材 吉井勇 W170H217
                              吉井 勇

      日本は敗けた。東京は焼けた。
      昭和21年、はんは木挽町に再建された「なだ万」を引き受けて女将となり、両親を徳島から呼ぶと築地会館の4階で糊口をしのぐ。 弟子をとったらという勧めでそういうこともするのだが、これはあまりに稽古が厳しすぎて弟子が近寄れない。
      大和屋のころのオッショサン(お師匠さん)はえらかったと、そこは自分で謙虚に回顧している。が、このとき(昭和25年)に三越名人会で舞った「雪」がすでに評判になっていた。
      はんの「雪」はまさしく「もののあはれ」なのである。
      やがて鎌倉に「なだ万」別荘に両親を移し、そこで昵懇となった大佛次郎を頼り、両親があいついで亡くなると、はんはついに第1回のリサイタルに向かっていく。これがその後もずっと続いた「武原はん舞の会」のスタートである。
      昭和27年師走に新橋演舞場で開かれたもので、鯉三郎、藤間勘十郎、尾上菊之丞がお祝いに踊って、はんは大和楽「師宣」と長唄「巴」を舞った。扇を横山大観と小林古渓が描いた。たちまち文部省芸術祭奨励賞を受けた。それが49歳のとき、美空ひばりが「りんご追分」を唄い、白井義男がダド・マリノを殴打して日本人が初めてボクシング世界チャンピオンになった年になる。
      ここから先、はんさんが亡くなるまでのことは省略する。本書巻末の詳しい年表を見られるとよい。モノクロだが写真も多い。 まさに地唄舞一筋であるけれど、生涯、写経や俳句や御嶽山参りはやめなかった。俳句は決して上手というものではないけれど、その五七五の舞台に、素面ですっと立つというような素直な風情を詠んでいる。

      行く年の扇ひとつをたよりなる

      はんさんは大阪に育った上方舞を東京に移して、美の極北にまで仕上げた。いま、上方舞は見る影もない。そこをどうしていくか、である。このためには改めて、本書をお読み直されるのもよろしかろう。
      ともかくもはんさんは、自ら工夫した豪華な衣装も話題にしたし、その美しく気品に満ちた舞姿は「動く錦絵」と言われた。特に男に捨てられた寂しい女心を舞う地唄『雪』ははんの代表作となった。小生はその雪よりも「鐘が岬」に静かさが胸に迫る。
      流派に属さず、また自ら流派を立て弟子を取ることもなく個人舞踊家としての身を貫いた。晩年には花柳寿々紫、藤村志保、神崎えんらを膝下に置き、薫陶を与えた。 俳句と文章を高浜虚子に学び、俳号はん女。虚子が名付けた六本木の料亭「はん居」を1982年まで30年間経営した。
      そこらの開眼というか真髄の妙については後編(下)のことにする。

      武原はん 山姥 W500T189
      武原はん 素材「鐘が岬」 W500H420


                        読了記  第8話に続く・・・連載

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ひとひらの書 第6話 『真珠夫人』 下

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      A 7 gif   第6話・・・『 真珠夫人    

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      『真珠夫人』については、2002年にフジテレビ系列が昼ドラで全65回にわたる放映をして、話題になったので、すでに読者以外にも知られているのではないかと思う。
 じつは、それ以前に何度か映画にもテレビドラマにもなっている。1927年に松竹キネマの池田善信監督・栗島すみ子主演で、1950年には大映が山本嘉次郎監督・高峰三枝子・池部良主演で、1974年にはTBSが「花王・愛の劇場」で光本幸子主演の全40回が、それぞれ作っていた。
 2002年のフジの昼ドラでは、舞台を大正期から昭和20・30年代におきかえている。小生は、2度か3度かボストンへの出国間際にちらっと見たが、それだけでも、ああ、これはかなり当たるのかな、と思えたものだ。そのくらい連ドラものにふさわしく、毒々しくもテレビ向けに演出されていた。たしかに手応えを覚えた。
      「真珠夫人」大正9年、東京日日新聞 毒々しくというのは、ひとつの演出的解釈である。必ずしも菊池がそのような連載小説を書いたわけではなく、菊池は『忠直卿行状記』や『入れ札』同様に「自我」と「幻想の崩壊」と「小さな社会」との極限的な展開に集中した。
 ただこの作品では、復讐がテーマで(『恩讐の彼方へ』もそうだったが)、かつその復讐をはたす主人公が瑠璃子という元華族のヒロインであったため、当時から読者もセンセーショナルな熱狂をもって迎えられた。
  物語は謎に満ちた異様な場面から始まる。筋書きだけ書けば、まさに通俗小説の典型である。が、それこそ菊池寛の狙いであった。
 そう考えると近年のテレビ化には不純物が混入されている。したがって混同することは大きな問題点を孕ませることになろう。近年の昼ドラブームの牽引役として、その役目を果たしたとは思われるが、物語展開や役柄設定が原作とは違っており、特に後半は大幅な脚色がみられた。登美子が出す「たわしコロッケ」シーンが当時話題になり、流行語になったが、これは原作と関係がない。また、小説の肝である高利貸しが登場しないことで、TV局がサラ金から巨額の広告料をもらっているための配慮ではないかと物議を醸した。純粋な読了感からはこれらの不純物を濾過する必要があるのだ。
 原作の紙をめくり手の感触から伝わる原作観を論じたい。この空間において芸能演出は不純であり不要である。

      きくちかん菊池寛 原稿 1 W500H340

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      原作は、大正時代。男爵令嬢、唐澤瑠璃子は敵の罠にはめられた父を救う為、泣く泣く卑しい高利貸しの荘田勝平の妻となるが、同じ貴族で恋人の直也の為に処女を貫きながら生きていく女の愛憎劇。
      渥美信一郎が新妻の保養先の湯河原に行くために、国府津(こうず)駅から相客の青年と一緒にタクシーに乗る。途中、横転事故になり相客の青木淳が、「時計を返してくれ」「ノート」「瑠璃子」という今際(いまわ)の言葉をのこして死んだ。
      青年の遺品をあずかった信一郎は東京で青木家の葬儀に出る。父親は貴族議員だった。そこに、若い貴婦人がエンジンの唸り声をあげたイタリー製の自動車で乗り付けてきた。白孔雀のように美しい。もと唐沢男爵の令嬢らしく、いまは荘田瑠璃子になっているのだが、すでに未亡人でもあるらしい。
      しかし若すぎる。信一郎は「時計を返してくれ」「瑠璃子」の言葉から、時計を返す相手は瑠璃子だろうと定めて、後日、荘田家を訪れるのだが、そこで瑠璃子に婉然と翻弄され、さらに音楽会や観劇に行くようになってしまった。
      しかしやがて「ノート」を見いだし、そこに青木が瑠璃子に弄ばれて心を痛め、ひそかに自殺をしようとしていたことを知る。湯河原に向かっていたのはその自殺行のためだったらしい。
      それにしてもなぜ瑠璃子は男たちを翻弄するのか。 瑠璃子の父親の唐沢男爵は清廉な政治家であるのだが、大成金の荘田勝平の謀略にはまった。そこで窮地に陥った唐沢は、荘田が瑠璃子を自分の後妻にすることを条件として呑めば和解すると迫られる。
      瑠璃子には杉野直也という恋人がいた。唐沢はむろん拒絶をするものの、瑠璃子は父親のためにこの条件を受けると言い出した。瑠璃子は心では、貞操を賭けて敵将を刺し殺し、父なる都ベトウリヤ(ベトゥーリェン)を敵の侵略から救った勇敢な女性ユーディットに我が身を準(なぞら)えて、親ほども歳のちがう荘田の妻になる。
      瑠璃子の誓いは深かった。荘田を自分の寝室に入れることを決して許さず、しかもふだんは婉然たる媚びを絶やさず、荘田を徹底して愚弄する。
      一方、荘田は荘田で、以前に園遊会で瑠璃子が見せた傍若無人な態度や成金を蔑む言動に腹をたてていて、瑠璃子を貶めることこそが復讐なのである。
      のちにわかることなのだが、荘田はずっと若いころに唐沢男爵家の別荘番をしていた。 他方、荘田家には前妻がのこした美奈子と、白痴の勝彦という二人の子がいた。この二人は瑠璃子を慕った。瑠璃子も二人を可愛いがる。 こうしてある嵐の夜、葉山の別荘で荘田と瑠璃子がくつろいでいるとき、荘田はついに瑠璃子を自分のものにする挙に出た。
      襲う荘田と抗う瑠璃子。二人は格闘を演じるのだが、そのとき、何者かが暗闇からあらわれて荘田に襲いかかった。荘田は打倒され、心臓麻痺で死ぬ。 荘田を襲ったのは白痴の勝彦だった。瑠璃子はこれではからずも自由の身になったはずだが、未亡人のまま荘田家を離れようとしない。ひとつには二人の子を養育保護する責任からだろうけれど、もうひとつ、何かがある。男たち全般への復讐心のような炎が燃えているのだ。
      これが瑠璃子の過去である。信一郎はその秘密に惹かれていく。話はそこからかなり推理じみていくのだが、物語の主軸は崩壊に向かっていく。 荘田家のサロンに出入りする男たちのなかに、死んだ青木淳の弟の稔がいた。稔が瑠璃子の美の虜になりつつあるのは傍目にも歴然としていた。
      信一郎は第二の犠牲者を出さないためにも瑠璃子を咎めるのだが、瑠璃子は聞こうとしない。かえって、男性の得手勝手を激しく糾弾し、青木が自殺したくなったのは性格が歪んでいるからだと非難した。
      それでも稔には手を出さないようにと忠告する信一郎を尻目に、瑠璃子は娘の美奈子と稔を連れて箱根に出掛ける。箱根の夜、稔が瑠璃子に激しく求愛をしているのを目撃した美奈子は強いショックを受けた。何かの裏切りを見た。そのことを知った瑠璃子も動揺した。
      稔のほうは、瑠璃子に色よい返事がもらえると思っていたところ、瑠璃子があまりに決然と自分を見下したのを見て、煩悶する。そこへこれらの事態の進展を気遣った信一郎が東京から駆けつけてくるのだが、すでに逆上していた稔は、ついに瑠璃子を刺し、自分は芦ノ湖に身を投じてしまう。 重症の瑠璃子は、いよいよ自分の最後を覚悟する。もとの恋人であった杉野直也に電報で「会いたい」と打ち明ける。こうして瀕死のまま直也と顔を合わせると、すべての余韻をのこして絶命した。
      翌日の新聞は瑠璃子が「美しい吸血魔」であったこと、妖婦カルメンに匹敵する死に様であっことを報じた。 それからしばらくたって、二科会に『真珠夫人』と題された瑠璃子そっくりの肖像画が出品された。

      きくちかん菊池寛 原稿 2 W500H330
                         「真珠夫人」大正9年、東京日日新聞
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      筋運びはこんなふうなのだが、まあアレクサンドル・デュマまがいというか、事件や伏線によるサスペンスはたっぷりで、さすがに小生もこの小説を読んでいたときは興奮させられた。
 詳しくは書かないけれど、テレビ演出ではこの色合いを強く描いたつもりだろうが、ヒロインを含めて4人が次々に変死するのだ。そこを割り引いて無視せねばならぬ。
 そういう『真珠夫人』が大向こうに迎えられたのは当然である。通俗小説の代表格ともなった。紅葉の『金色夜叉』、蘆花の『不如帰』を継ぐとも言われた。それを川端康成は頻りに「通俗小説、通俗小説」と連発しながら、評価する。
      これは、近代の自然主義文学が「心境小説」として登場してきたのに対して、そしてそれが「純文学」と名付けられていったのに対して、あえて反旗を翻したことを、川端なりに告げようとしたものだった。
      直木三十五は、日本の近代小説は「鏡に写った自分の顔」を書いた。顔でなければ、「自分がいる部屋」のことを書いた。それが近代心境小説だった。大衆文学はそうではなくて、「窓の外」を書いたのだと言った。直木らしい指摘だろう。
      しかし、これらの評価はその通りのところもあるが、そうでないところもある。 そうでないところの第1点は、『真珠夫人』以前には、こんな小説はまったくなかったということだ。『金色夜叉』や『不如帰』もここには及ばない。
      第2点は、ひょっとするとこれは通俗小説ではないかもしれないということだ。だいたい通俗小説と言い方がつまらない。少なくとも菊池寛にあっては、もっと踏み込んでいる。それは小生の見方でいうのなら、「負の状況」という領域への正確な踏み込みだったと思われる。
      そして第3点、菊池寛こそは「意味の市場」に最初に挑戦した作家であり、編集者であり、プロデューサーだったということだ。
      大正9年、『真珠夫人』の連載を始めた年に、菊池は山本有三や長田幹彦らと劇作家協会を組織した。翌年は『入れ札』の年であるが、徳田秋声・加能作次郎らと小説家協会の組織づくりにとりくんでいる。そして大正12年が、35歳での「文芸春秋」の創刊で、38歳のときには文芸家協会を結成して、自身で幹事となって事務のいっさいを仕切っている。これが昭和1年のことだ。
      文芸春秋社が株式会社になったのは、昭和3年である。菊池は40歳になっていた。
      その前に菊池は、日本初の普通選挙に立候補して次点で破れている。小生はそのへんの菊池には点を辛くしたいけれど、少なくともこのような文芸や演劇のヨコの連携に尽力しているところは、菊池がたんなる作家ではないこと、ましてや流行作家や通俗作家をめざしただけではないことを示している。
      じつは菊池は、昭和5年には文化学院の文学部長も引き受けている。
      こういうことを何と見ればいいかというと、菊池以前にこんなことをした者はいないのだから、なかなか適切な言葉が見つからないのだが、小生は「エディトリアル・コモンズ」ないしは「意味の市場」を見いだしたと言えばいいのではないかと思うのだ。
      菊池が文芸春秋社で初めて社員数人を公募したのは昭和8年のことだった。このとき応募してきたのは700名をこえた。僅かに告示をしただけだったのに、たいへんな応募者数だ。こんな出版社はかつてなかったのだ。
      さらに興味深いのは、このとき菊池は自分で入社試験の問題を作った。「東京の地名の由来を答えよ」というもので、麹町・春日町・雑司ケ谷・八重洲河岸の4題になっている。これを答えれば社員にするという魂胆がいい。この試験で、のちに文春の社長になる池島信平が新入社員になった。
      まさに「意味の市場」づくりを着々と実現している。ライバルだった中央公論社の嶋中雄作は、こういう菊池のことを「生(しょう)のまま飛び出している」と言った。なるほど「生」(しょう)である。意味を生きたまま使おうとしている。逆にいえば、「掛け値」は問題なのである。
      いま、このような菊池寛の文芸感覚と事業感覚に匹敵するものは見当たらない。
      かつての角川時代をべつとすると、出版界はずたずたであるし、ITメディア業界は右から左へ情報を並べ変えているだけで、何も「意味」を生成形成していない。「生」がない。まさに「掛け値」だけである。
      そもそも菊池は、自身で新たな価値生成のための創作や戯曲化にとりくんで、それが成就できたら、その場を後進に委ね、譲っていった。誰もが取り組まなかった価値観をめざして作品を書き、そのうえでそのジャンルそのものを後進に譲っていく。そこが異能だったのである。そこが「意味の市場」への挑戦だったのだ。

      きくちかん菊池寛 原稿 3 W500
      昭和14年、著作権協会結成の折の会合。(右より菊池、1人おいて大下宇陀児、1人おいて今日出海)
                                                菊池が作った文芸春秋社の入社試験のお題と解答

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      さて、それにしても、なぜ「文芸春秋」はあんなにもすばらしいエディトリアル・フォーマットをつくれたのだろうか。さきに紹介した『形影』の松本清張は、「文芸春秋」が当たったのは巻頭に芥川の『侏儒の言葉』を連載させたからだと言っている。
      たしかに、今日なお「文芸春秋」が巻頭随筆を4段組にしているのはその踏襲であるのだが、どうもそれだけだとは思えない。小生は、ここには「意味の市場」の雛壇がすべてページの中に配当され、配置されているからなのではないかと思っている。
      そうであるから2010年に、ボストン大学の演劇愛好会なるものを小生が主宰し、留学生を含む26ヶ国の学生らで上演する「真珠夫人」を企画した。もちろん、筋書きは多分に菊池寛にはさぞ不満悦ではあろうが、現代のボストンをロケーションとした。ここに小生の「意味の市場」というものがある。その学生らや市民には大好評であったが、日本人の小生にはどうにも、やはり奇抜過ぎたか、異邦では菊池寛の感性なるものが、真剣に演技されるほど映り難き、とんでもないほど滑稽なモノとなった。不本意を承知での企画であったが、一応のアメリカ受けはしたようだ。
 しかしそれが異邦人に正当化されない「意味の市場」というものでもあろう。やはり日本の文学性とは、日本人の誇れる、日本人が正当化するしかない領域の「意味の市場」をはらませている。この日本人感性、その意味において「真珠夫人」は、やはり傑作なのだ。悪戯に演出を凝らすと原作から遠のくようだ。
 こう大真面目で日本人の小生が述べるのであるから、アメリカ国民らよ、もっと真剣に日本を見つめないと、フレンドとして成立しないではないか。楊陽たる旅人・菊池寛を幻滅させ、嫌になって日本へ立ち去らせないないで、いただきたい。ボストンにてそんなことを感じた。帰国後に猛省した。
      泣く泣く卑しい高利貸しの荘田勝平の妻となる唐澤瑠璃子が、敵の罠にはめられた父を救う為の所業を確かめたくて、1927年、松竹キネマ制作の映画(監督 ・池田義信)をみた。これは無声映画である。しかしこれなども所詮演出を加えたものであった。菊池モノといえば、即座に舞台演出を試みたくなるが、紙面の筋は紙面上のみで交感することが正当な行為なのだ。

      きくちかん菊池寛 原稿 4 W500H285
                   昭和9年、文芸春秋社の社員と関係諸兄諸姉による記念写真
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                菊池寛15
                             菊池自筆の簡素な履歴書
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      汽車が大船を離れた頃から、信一郎の心は、段々烈しくなつて行く焦燥もどかしさで、満たされてゐた。国府津迄の、まだ五つも六つもある駅毎に、汽車が小刻みに、停車せねばならぬことが、彼の心持を可なり、いら立たせてゐるのであつた。
 彼は、一刻も早く静子に、会ひたかつた。そして彼の愛撫に、渇かつゑてゐる彼女を、思ふさま、いたはつてやりたかつた。
 時は六月の初はじめであつた。汽車の線路に添うて、潮のやうに起伏してゐる山や森の緑は、少年のやうな若々しさを失つて、むつとするやうなあくどさで車窓に迫つて来てゐた。たゞ、所々植付けられたばかりの早苗が、軽いほのぼのとした緑を、初夏の風の下に、漂はせてゐるのであつた。
 常ならば、箱根から伊豆半島の温泉へ、志ざす人々で、一杯になつてゐる筈の二等室も、春と夏との間の、湯治には半端な時節であるのと、一週間ばかり雨が、降り続いた揚句である為とで、それらしい乗客の影さへ見えなかつた。
 たゞ仏蘭西フランス人らしい老年の夫婦が、一人息子らしい十五六の少年を連れて、車室の一隅を占めてゐるのが、信一郎の注意を、最初から惹いてゐるだけである。彼は、若い男鹿の四肢のやうに、スラリと娜しなやかな少年の姿を、飽かず眺めたり、父と母とに迭かたみに話しかける簡単な会話に、耳を傾けたりしてゐた。此の一行の外には、洋服を着た会社員らしい二人連と、田舎娘とその母親らしい女連が、乗り合はしてゐるだけである。

      そう冒頭からもう一度、読み返してみたいと感じる菊池寛の一冊であった。


                                  


      きくちかん菊池寛 5 忠直卿行状記 W180H240                きくちかん菊池寛 9 真珠夫人 W170H240
                                              丹精社 2002年8月

      きくちかん菊池寛 10 真珠夫人 W500


                        読了記  第7話に続く・・・連載

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ひとひらの書 第5話 『真珠夫人』 中

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      A 7 gif   第5話・・・『 真珠夫人    

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      菊池寛は『入れ札』をどう描き、どう帰結させようとしたのか。この結着の作品を視野に菊池の『真珠夫人』を論じたいのだ。そうした伏線として、入れ札の、その先を少し語る。

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      きくちかん菊池寛 18入れ札 W500H270

      赤城山に籠もった忠治は、残った子分10人あまりとさらに信州路に落ちていくことを決める。忠治はできれば手頃な子分2、3人と落ちのびたいのだが、その人選に腐心する。大間間(おおまま)の浅太郎、松井田の喜蔵、嘉助あたりを指名したいのはやまやまだが、最後まで残って忠誠を尽くしてくれた者たちのことを思うと、容易に甲乙をつけがたい。
 浅太郎たちは「遠慮せずに名指ししてもらいたい」と言うのだが、そう言われるとますます指名しにくい。そこへ釈迦の十蔵が「籤引きをしたらどうか」という案を出した。が、この案は親分の信任を得ていることに絶対の自信をもつ喜蔵や嘉助に一言のもとに退けられた。
 籖なんぞで十蔵のごとき青二才に運が当たったのでは、かえって親分の足手まといになってしまう。 むろん誰にも何かを言うべき理屈はある。けれどもそんなことをしているうちに、時はどんどん過ぎていく。忠治は子分たちのあれこれの議論を聞いているうちに、ここは「入れ札」しかあるまいと思った。
 相互に投票をさせようというものだ。ただこの方法には九郎助だけが不満を示した。第一の兄貴格ではあったのに大前田一家との出入りに不覚をとってからというもの、めっきり声望を落としていて、仲間からは「兄い、兄い」と立てられていながら、誰もが自分を軽く見ていることが痛いほどわかっていたからだ。

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      きくちかん菊池寛 20短編「入れ札」 W500H375

      やがて矢立が11人の子分にまわされるなか、九郎助は自分の名前を書いてくれそうな者は誰なのかを計算してみた。浅太郎に4枚、喜蔵に3枚が入りそうなのは予想がついた。 自分の票をのぞけばあとは3枚。このうち2枚が自分に入れば、自分も選ばれる可能性がある。
 弥助が自分に票を入れるかもしれないものの、ほかには思い当たらない。九郎助はついに自分の名前を書いて入れ札をした。 全員の入れ札がおわり、喜蔵が結果を読み上げることになった。
 予想通り、浅太郎と喜蔵が4枚を取った。嘉助と九郎助にも一枚ずつ入っていた。最後の一枚まで事態はわからない。ぞくぞくしながら九郎助が成り行きを見守っていると、おしまいの札は嘉蔵であった。
 忠治は思惑どおりの人選になったことにホッとして、別れていく者に路銀を分配すると足早に信州に落ちていく。見送る九郎助の心は惨めである。それは落選に対する失望ではなく、自身の卑しい行為に対する惨めさだ。呆然としながら秩父に向かって歩きだした九郎助のそばに、弥助が追ってきた。同道したいというのだ。そして、こんなことを言いだした。
 「俺は、はなから入れ札が嫌だった。浅や喜蔵はいくら腕っぷしがあっても、お前にくらべりゃ小僧っ子だ。たとい入れ札にするにしたって、野郎たちがお前に入れるなんてことはありゃしねえ。11人のなかでお前の名を書いたのは、この弥助一人だと思うと、俺は奴らの心根がまったくわからねえ」。
 九郎助は弥助に怒りがこみあげても、このことを制裁するすべがないことを知る。菊池はそこをたくみに描いて、この物語をおえている。
 『入れ札』については、これを“日本流の民主主義”の例にひく批評家がいるほど、まことにドラスティックな場面を描いたのだ。 が、そういうことはともかくとして、菊池はここでも「自我」と「幻想の崩壊」と「小さな社会」との極限を取り出してみせたのである。「掛け値」を問うたのだ。なぜ菊池はこういうことが面妖なほどにうまいのか。

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      きくちかん菊池寛 13 W500H300

      菊池寛はかなり貧しい幼少年時代をおくっている。
      明治21年の暮に香川の高松に生まれたのだが、父親は小学校の庶務係で、菊池をまったく大事にしなかったらしい。「私は父の愛を知らなかった」と回顧している。そんな余裕もなかったのだろう。
 母親は金毘羅歌舞伎が大好きな芝居好きで、菊池はそうとうに数々の芝居話を刷り込まれたようだ。のちの舞台感覚につながる。 が、ここまでのことなら、この程度の少年時代はよくあるだろう。
 ところが『半自叙伝』には、「私は14、5歳になり、身体が発達するにしたがって醜くなった」と書いていて、ここが気になる。父親も「お前くらいおとなびた変な顔をしている奴はいない」と言ったようで、このトラウマとは生涯闘わざるをえなかったとおぼしい。
 菊池寛はのちのちにいたるまでトルストイ好きだったことでも有名なのだが、そのきっかけはトルストイが母親から「お前は顔が醜いから、いい子でいなければ誰からも可愛がられないよ」と言われたことによっていた。 こうして菊池はもっぱら読書とスポーツに耽る青少年期をおくることになるのだが、尋常小学校4年のころには紅葉・露伴・水蔭・柳浪らを読みまくっている。これではかなりなマセになる。
 しかし、修学旅行にも行かせてもらえなかったのである。だから万引きもした。高松の学校では万引きのことを「マイナス」と言っていたらしく、菊池はこの「マイナスの記憶」をずっと持ちつづけたようだ。のちに小説『盗み』にもなった。 高松中学でもいろいろ「わいた」をした。悪戯である。
 勉強はよくできたのだが、教室の授業は気にいらない。香川県教育委員会が開設した図書館に入りびたりになるほうが、ずっとおもしろかったようだ。「私は学校に通うよりも半分以上は図書館に通った。いや、作家としての学問も八分までは図書館でした」と『半自叙伝』にもある。高等師範に入るために上京しても、まっさきに通うのは上野の図書館なのである。
 そこにもうひとつ、菊池の境涯を形成した趣向があらわれた。井原西鶴の文芸に溺れたことと、その西鶴でも『男色大鑑』に随喜したことだ。詳しいことは暴かれていないのだが、菊池には少年愛や男色感覚があったようなのだ。むろんお嬢役ではない。だいたい菊池は風呂嫌いだし、体臭があったらしい。つまりはバンカラで、下宿などでも帯はいつもほどけていた。
 菊池の男色感覚がその後にどのようになったのか、捩れたのか、それとも抑制されたのか、実はたいした趣味ではなかったのか、そこはよくわからない。ただ、大学を転じながらしだいに異能を発揮していったことだけが、語られている。

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      最初に入ったのは明治大学の法科。任井田益太郎・小林丑三郎・牧野英一の講義には感心したが、法律そのものはおもしろくない。22歳で一高に入ろうと決意する。明治43年だった。 ところが正則英語学校で受験勉強にとりかかると、養父から仕送りの中止が申し渡された。ともかく菊池は貧乏だったのである。
 そこで早稲田の授業にもぐりこんで入試にそなえた。
 実は西鶴に惑溺したのがこのときの早稲田の図書館でのことだった。
 一高には合格した。文科である。高等小学校が2年よけいで、中学卒業後も2年を費やしたから、合計4年ほどの年上の入学生だった。芥川、久米正雄、佐野文夫、松岡譲、成瀬正一、土屋文明、山本有三らが同級生にいた。菊池は久米ととともに野球部に入り、やっとバンカラと文芸ボヘミアンな気分を満喫するようになる。
 けれどもそれも束の間、菊池はマント事件にまきこまれ、退学してしまう。 親友の佐野文夫が先輩からマントを質屋に出して生活費のタシにしようと言い出し、これを菊池が引き受けて質入れしたのだが、そのころマント盗難届けが出ていたため、菊池にいっさいの嫌疑がかかったというものだ。
 佐野文夫とは、のちに日本共産党で活躍し、そして“転向”をした、あの佐野のことである。時の校長の新渡戸稲造は菊池に同情していたらしいが、面倒なことを嫌う菊池はあっさり退学処分を受けるほうを選んでしまう。

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      きくちかん菊池寛 12 W500H345
               大正5年、第4次「新思潮」同人。(左から久米正雄、松岡譲、芥川龍之介、成瀬正一)

      こうして大正2年のこと、25歳になっていた菊池は、京都帝国大学の英文科に行く。
      周囲にまったく知り合いのいない菊池は、生活はズボラのまま(フロにも入らず)、ここで創作にめざめていった。第3次「新思潮」にも参加した。卒業後は東京に戻って時事新報社に取材記者として入社する。28歳だ。芥川・久米・成瀬・松岡らと第4次「新思潮」を発刊することにも力を入れた。そこに『屋上の狂人』も発表した。そして翌年は『父帰る』を書いた。

      きくちかん菊池寛 24 芥川・菊池 W500

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      この時期前後から、文芸作家菊池寛の真骨頂がいちじるしく開花した。『恩讐の彼方に』『藤十郎の恋』『真珠夫人』『蘭学事始』『入れ札』『俊寛』をたてつづけに書いた。33歳くらいまでのことだ。
 そして、35歳の大正12年には「文芸春秋」を創刊してしまうのである。 では、ここで今回とりあげる『真珠夫人』をちょっとばかり覗いておくことにする。大正9年6月から12月まで「大阪毎日新聞」と「東京日日新聞」に連載されてセンセーショナルな話題となった作品だ。
 これについては後編(下)にて論じたい。




      きくちかん菊池寛 5 忠直卿行状記 W180H240                きくちかん菊池寛 9 真珠夫人 W170H240
                                              丹精社 2002年8月

      きくちかん菊池寛 10 真珠夫人 W500


                        読了記  第6話に続く・・・連載

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ひとひらの書 第4話 『真珠夫人』 上

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     ひとひらの書 6文字 W180H149  Book 開く gif
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      A 7 gif   第4話・・・『 真珠夫人    

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      A 15 gif きくちかん菊池寛 2 W370H200



      江戸時代なら高松藩の儒学者の家柄に生まれたはずの明治男が日本の二大文学賞を創設することになる。芥川賞と直木賞である。真珠夫人を読了する前に、その男について考えていた。
      本を手にするということには、偶然と必然との二つがあろう。今回の真珠夫人は、過去に数度読み返しているので必然となった。特段に構えて読まずとも、芥川と直木の二賞は前期・後期において年二回の選考があるたびに思いを深くさせられるわけで、必然の一つはそこにあった。
 芥川賞であるが、2012年上半期からの選考委員は小川洋子、奥泉光、川上弘美、島田雅彦、高樹のぶ子、堀江敏幸、宮本輝、村上龍、山田詠美らの9名。選考会は、料亭『新喜楽』の2階で行われる(直木賞選考会は2階)。受賞者の記者会見と、その1ヵ月後の授賞式はともに東京會舘で行なわれる。
 賞のジャーナリスティックな性格はしばしば批判の的となるが、設立者自身は「むろん芥川賞・直木賞などは、半分は雑誌の宣伝にやっているのだ。そのことは最初から明言してある」(「話の屑籠」『文藝春秋』1935年10月号)とはっきりとその商業的な性格を認めている。小生はこの創設者の所信を胸に刻んで各年の選考を楽しんできたわけであるから、クリスマスケーキの品定めなどするに似た風物詩となっている。

      あくたがわ芥川・直木 W500H280
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      本年1月16日、第148回芥川賞・直木賞(日本文学振興会主催)の選考結果が発表され、黒田夏子の『abさんご』(「早稲田文学」5号掲載)が芥川賞、朝井リョウの『何者』(新潮社)が直木賞を受賞した。
 黒田夏子(75歳)は早大教育学部卒業。在学中に友人たちと同人誌を立ち上げ、卒業後は教員、事務員、校正者などをしながら書き続けてきた。『abさんご』は第24回早稲田文学新人賞に選ばれ、今回の受賞へとつながった。一方、朝井リョウは2012年3月文化構想学部卒業、現在は会社員として勤務しながら執筆活動を続けている。在学中の2009年に『桐島、部活やめるってよ』で第22回小説すばる新人賞を受賞。『もういちど生まれる』で第147回直木賞候補に名を連ね、今回、戦後最年少・平成生まれ初の受賞者となった。
      どうやら指名手配者であったらしい。史上最年長で芥川賞に決まった黒田夏子は「生きているうちに見つけてくださいまして、本当にありがとうございました」・・・と、東京都内で開かれた受賞会見でこう喜びを語る。本年は、この夏子の爽やかな言葉が新春の雪解けとなった。そして、ともに早大卒のOGとOBという奇縁が新春風物詩の各紙面を賑やかにした。
      まず、お二人の更なるご活躍をお祈りする。

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      男はその風物詩を創り、日本の風土に根付かせた。
      明治21年に生まれたその男は、高松中学校を首席で卒業した後、家庭の経済的事情により、学費免除の東京高等師範学校に進んだものの、授業をサボっていたのが原因で除籍処分を受ける。
 しかし地元の素封家から明晰(めいせき)な頭脳を見込まれて経済支援を受け、明治大学法学部に入学。法律を学んで一時は法律家を目指したこともあったが、一高入学を志して中退する。さらに徴兵逃れを目的として早稲田大学政治経済学部に籍のみ置き、受験勉強の傍ら、大学図書館で井原西鶴を耽読した。
 そんな風聞から小生も井原西鶴を読み返したのだが、西鶴がどこでどう芥川賞や直木賞と通じ合うのかは今もって判らず不明なのである。男のいう「半分は雑誌の宣伝にやっているのだ」を、そのまま引き取ると、そこは不明なのでよかろう。さもあろうか、この男の人生がじつにユニークなのであるから、どう不明であろうともそこは問題外でよかろうか。二大賞の選考は不問にさせるほどの大風物詩となった。

      独楽つな渡り     だるま落とし
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      1910年、早稲田大学を中退して第一高等学校第一部乙類入学。同期入学には後に親友となり彼が創設する文学賞に名を冠する芥川龍之介らと出会う。しかし卒業直前に友人・佐野文夫(後年の日本共産党幹部)の窃盗の罪を着て退学。その後、友人・成瀬正一の実家から援助を受けて京都帝国大学文学部英文学科に入学したものの、旧制高校卒業の資格がなかったため、当初は本科に学ぶことができず、選科に学ぶことを余儀なくされた(後に本科への転学に成功する)。京大では文科大学(文学部)教授となっていた上田敏に師事した。当時の失意の日々については(若干のフィクションを交えているが)「無名作家の日記」に詳しい。

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                        写真は一高時代の芥川賞創設者(前列中央)
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      きくちかん菊池寛 4 W500H336

      男の名は、菊池寛(きくちかん)だ。本名hを寛(ひろし)という。
      たんなる通俗作家、菊池寛とは、そう受け止める人々が結構多い。しかし「父帰る」や「恩讐の彼方に」や「入れ札」は、菊池自身が創設した直木賞の今日の水準を、ひょっとしたら、はるかに超えているのではないか。読み返す度にそう思えてっくる。年年歳歳、そんな感慨が小生を深くさせる。
 そこには作家業の一方「文芸春秋」や「オール読物」を作り、大映の社長を引き受けた菊池寛から、今日の出版メディア界が疑視してみるべきことも次々に見いだせるのではないか。毀誉褒貶(きよほうへん)かまびすしい菊池寛に対しての、これは小生が冒頭におく、ほんの少々の菊池寛へのエールである。
      言語の編集を仕事とする者にとって、菊池寛は大きい。また面妖でもある。どのくらい大きいかというと、作家や戯曲家として、「文芸春秋」の創刊者や文芸春秋社の起業家として、新聞小説の変革や芥川賞・直木賞の創設などを通して、文芸的なるものを「経国の大事」としたことがいかにも第一に大きい。これなどは資本主義国家の申し子だ。風雲児でもあろう。
 しかしもっと端的には、編集と市場の関係をきわめて「柔らかいしくみ」ととらえ、これを直截自在に表現メディアや出版組織や舞台プロデュースにしていったことにおいて、その後の編集事業的昭和史に、はかりしれないほどの影響力をもったことが、やっぱり大きかった。やはりこれが一等ではなかろうか。 とくに「文芸春秋」である。これは創刊者菊池だけの功績ではなく、佐佐木茂索や池島信平らの後続者の努力もめざましいのだが、小生はいまもって「文芸春秋」こそが、日本の雑誌のエディトリアル・フォーマットに永遠の金字塔をたてた成果だと見ている。この成果は世界に同資質の類をみない。少し『情報の歴史』を見てもらうとすぐわかるだろうが、「タイム」とほぼ同時期の創刊だった。
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      この日本的エディトリアル・フォーマットを破るものはなかなかあらわれない。
      小生の母は「文芸春秋」「東洋経済」「俳句」をずっと購入して揃えていたが、その母が「週刊新潮」が登場してきたのを見て「これはひょっとしたら第2の文春になるやもしれないね」と言っていたのを引き継いでいえば、「文芸春秋」に匹敵できるのはせいぜい「週刊新潮」か、さもなくば花森安治の「暮らしの手帖」くらいであろう。
 現代でこそユニークな雑誌ならいくらもあるが、フォーマットを変えない魅力をもっている雑誌は稀有なのだ。 もっとも菊池の雑誌は「文芸春秋」だけではない。「映画時代」「創作月刊」「婦人サロン」「モダン日本」「オール読物」「文芸通信」「文学界」を創刊あるいは継承再刊し、昭和14年には海軍省の依頼で戦意高揚雑誌「大洋」なども作った。
 映画の企画や経営も引き受けている。昭和4年の溝口健二が監督した『東京行進曲』は、原作が菊池で、主題歌が西条八十作詞・中山晋平作曲・歌手佐藤千夜子という“黄金”の組み合わせで、小説・映画・歌謡曲の“三位一体方式”が初めて飛ばした大ヒットになった。

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                菊池寛3
                        映画『東京行進曲』(左)と主題歌楽譜(右)

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              映画「かくて新風は吹く」 阪東妻三郎(右)と嵐寛寿郎(左)による武士の“握手”シーン。
                     大日本映画制作株式会社の社長に菊池が就任した翌年(昭和19年)の公開。


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                                 「父帰る」舞台大正9年上演、新富座


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      昭和の大衆消費文化の幕開けはここにあったといっていいくらいだった。さらに昭和18年からは大映(大日本映画製作株式会社)の社長にも就任した。 どうにも何かが人より抜きん出て、すぐれて異能なのだ。何かというのは、人をメディア的に惹きつける異能性というものである。
 正直にいうと、小生は必ずしも菊池寛の熱心な読者ではない。作品も二分の一ほどしか、目を通していない。それでも、小学校の学芸会で見た『青の洞門』や中学校の学芸会で見た『父帰る』が忘れられず(当時は菊池寛の芝居を学芸会でやるのが流行していたのだろか)、それが菊池寛の戯曲であることを知ってからは、妙に放置してはおけない畏怖のようなものをおぼえるようになった。
 いうまでもないだろうが、『青の洞門』というのは大正8年の小説『恩讐の彼方』が原作で、のちに菊池自身の手によって3幕の芝居になったものである。
 とはいえ、それからも菊池寛を読むということにはあまり関心が募らなかったのだが、あるとき『忠直卿行状記』と『引き札』とをたてつづけに読む機会があって、これは編集異能小説だという感慨を深くした。

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 『忠直卿行状記』は大正7年の作品で、歴史に名高い暴君として知られた松平三河守忠直を主人公にした。僅か13歳で越前67万石の大封を継いだ殿様で、とくに大坂夏の陣において真田幸村の軍勢を蹴散らして大坂城一番乗りをはたしてからは、我儘、奔放、強情、身勝手をほしいままにした。癇癖が強くて、しかもどんな者にも負けたくないという自負でかたまっていた人物である。
 これは、新井白石の『藩翰譜』にも、ぼろくそに書いてある。 この忠直におこった境涯の一点を、菊池寛はみごとに描いた。夏の陣の後の日々、城内で連日のように武芸の立ち会いをしてこれを次々に打ち負かすことを好んだ忠直は、ある日、二人の家臣の会話を立ち聞きをする。
 二人とも今日の槍術試合で打ち負かされた相手である。二人は「殿の腕前もずいぶん上がったものだ」と感心している。初めて臣下の偽らざる称賛を聞いた忠直はたいそう満足をするのだが、その直後、「以前ほど勝ちをお譲り致すのに、骨が折れなくなったわい」と言うのを聞いて、逆上した。なんとかその場の怒りを抑え、そのかわり翌日の立ち会いを真槍(しんそう)にした。
 家中の者は驚き、殿の乱心かと疑い、国老は懸命に諌めるのだが、聞きはしない。家臣たちが次々に恐れをなして引き下がるなか、昨日の一人が潔く真槍をひっつかんで主君に刃向かうのだが、三合ほど合わせると槍を左に受けて倒れ、もう一人のほうもしばらく槍を交えたのち右の肩に槍を受けて倒れた。二人の見えすいた負けっぷりに忠直の心は楽しまない。おまけにその夜のうちに二人が相前後して割腹したことを知らされた。
 これで忠直は、いったい自分の力というものが確信できなくなっていく。すべては砂上の楼閣に築いた栄誉だったのかもしれない。 焦燥のうちに武芸から遠ざかっていたところ、生意気な小姓が「殿はなぜ近ごろは兵法座敷に入りませんのか」と問い、「いっときのお手柄にちと慢心あそばしたのではありませぬか」と余計なことを言った。たちまち忠直は杯を小姓の額に投げつけた。小姓はその夜に自害した。
 それから十日ほどたって、忠直は家老と囲碁を遊んでいた。このとき家老がうっかり「殿は近ごろ、ご上達じゃ」と言ってしまった。すると忠直はいきなり立ち上がり碁盤を足蹴にした。
 案の定、家老はその夜に切腹して果てた。もはや忠直の乱行はとめどを知らなくなって、ついには愛妾たちが人形のようにしか自分に接していないのに腹をたて、家臣の女房を城中に呼んで手籠めにしようとした。これなら本当の異性の溌剌とした抵抗に出会えるかと思ったのである。
 妻を取り上げられた3人の家臣のうち、二人は切腹をもって抗議したが、もう一人の与四郎は城中に乗り込み、勇敢にも匕首(あいくち)をもって主君に飛びかかった。忠直は必死でこれをとりおさえ、そしてその瞬間になぜか心が晴れた。「お前はまことの武士じゃ」と褒めて妻とともに退出させ、自分は自分で掛け値のない技量を発揮できたことに満足した。

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       ふつうの小説なら、ここでおわるはずである。
       しかし、菊池はもう一歩踏み込んだ。忠直のこの満足も束の間だったのである。
 その夜、与四郎夫婦は枕を並べて、心中自殺を遂げた。忠直の残虐はこれでまたまた燃え上がる。その被害が城中から城下にまで及ぶようになると、さすがに幕府公儀もこの事態をほっておけず、改易の沙汰となった。
 これだけの文字数では、ざっとこんな話だが、菊池寛が忠直を歴史物語ふうに描いていないのは一目瞭然だ。まさに近代的に描いている。上に立った者の傀儡性と、自身が自身に問うべき価値の喪失が描かれている。
 つまりここには、世の中における「掛け値」というものがもたらす「幻想の崩壊」が巧みに炙り出されていたのである。なるほど、うまい描き方があったものだと思った。

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       当時、しばしば菊池に比較された芥川龍之介は、「僕なぞは芸術にかくれるという方だが、菊池は芸術に顕われる」と言った。そこが指摘できる芥川もさすがであるが、芥川はまた「菊池には信念が合理になっているところがあって、それが人間に多量の人間味をふくませている」のだと見抜いた。
      『忠直卿行状記』はそこを描いたわけである。

      菊池寛6             松本清張
      『形影』松本清張 著 文春文庫 1987

       松本清張に『形影』がある。「菊池寛と佐佐木茂索」というサブタイトルがついている。そのなかで清張は、菊池の文学はゾラや花袋らの自然主義小説がとりあげていた「自我」を極限化して、うんとリアルにしたのではないかと指摘している。
 これは小生も、だいたい当たっているのではないかと思う。小生にはそれが『入れ札』ではさらに研ぎ澄まされ、そのためかなり明快になっていると感じた。 これは国定忠治一家の赤城落ちを背景に、親分からも兄弟分からものけ者にされた子分の稲荷の九郎助をフィーチャーしたもので、ジャンルからいえば歴史小説ではあるのだが、やはり歴史に阿(おもね)ない。
 九郎助という男を当時の社会に通じる人間として切り出している。
 その後の文芸なら、たとえば山本周五郎だって藤沢周平だって、誰もがこのような描き方ができるのだが、当時はこういう小説はなかったのである。これも『忠直卿行状記』の忠直と同様に、九郎助を歴史物語ふうに描いていない。そのあたりの『入れ札』を引き続き次回は語ることにする。
 菊池寛の『真珠夫人』を語るには、この『卿行状記』や『入れ札』の作品は重要な伏線となる。




      きくちかん菊池寛 5 忠直卿行状記 W180H240                きくちかん菊池寛 9 真珠夫人 W170H240
                                              丹精社 2002年8月

      きくちかん菊池寛 10 真珠夫人 W500


                        読了記  第5話に続く・・・連載

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ひとひらの書 第3話 『中世歌論集』 下

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      A 7 gif   第3話・・・『 中世歌論集    

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      A 15 gif ひとひらの書 第1話 中世歌論集(心敬)正


      寛正4年(1463)、心敬は故郷の紀州に帰った。
      ところが戻ってみた紀州にも、畠山の家督争いが及んでいて、心敬は「紀州十余年のみだれ」に身を乱される。「月のみぞ形見にうかぶ紀の川やしづみし人のあとのしらなみ」。ここにおいて述作することになったのが『ささめごと』だった。まさに無常の極点において綴ったのであろう。
 そして綴りおわると、都に帰京した。59歳になっていた。
 しばらく都をあけた心敬は、細川勝元の重臣の安富盛長が張行した「熊野千句」の宗匠として迎えられた。
 つづいて、践祚した後土御門天皇の連歌会にも招かれた。一日二座の観桜連歌もあった。心敬はしだいに多忙をきわめるのだが、そうなればなるほどその風韻は冴えわたっていった。
 このころの発句に、小生が好きな「梅おくる風は匂ひのあるじかな」があった。 しかし時代のほうはついに応仁天明の大乱に突入していくのである。そして連歌史上からいうと、このときこそ世間が心敬の凍えるような感覚の軍門にくだるのである。「心あらば今をながめよ冬の山」。この山を面影とみなした歌はまさに道元に匹敵していよう。 こうして64歳がやってきた。

      しんけい心敬 3句 W500H306

      心敬は『ひとりごと』を述作し、『心玉集』を精選し、「雲はなほさだめある世の時雨かな」と詠んだ。そしてどうしたか。伊勢に向かい、大神宮に参籠すると、そのまま東国に下っていったのだ。
 ここから先、心敬はただ旅ばかりの歌詠みになっていく。伊豆にも富士にも品川にも、川越にも日光にも会津にも、ついには白河の関にまで脚を伸ばした。それはもはや芭蕉の一歩手前なのである。
 きっと小生はこうはいかないだろう。能登に行ったり京都の北に行ったりはするかもしれないが、そのまま旅先で枯れ野をかけめぐるようにはならないだろう。雪の枯れ野といえば、ま、小生はボストンの寒冷地までは来てみたが、これは苦笑しかない。やはり生身には限界がある。
       かくて文明7年(1475)、心敬は太田道灌に請われて「法華二十八品和歌」と「武州江戸歌合」の判者を勤めると、そのまま一人で相模大山に入り、そこで静かに示寂してしまうのだ。
      70歳だった。そのときまで、小生にはもう少しあるようだ。

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                 心敬が晩年を過ごしたという石蔵山浄業寺の跡地 (神奈川県伊勢原市)

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      さて、では、『ささめごと』『ひとりごと』、そして連歌や発句の心敬である。さまようのはいくらでも果てしなくなりそうなので、何かのレンズをつけて焦点を動かすことにする。
 まず、以前から気になっていたのだが、心敬には「打ち消し」が効いているということである。こういうぐあいに。 なるほど、打ち消せる眼が枯れた眼力だ。この打ち消しの眼が後世の歌を飛躍させた。

          古寺は松の戸たたく人もなし
          散る花にあすはうらみむ風もなし

          朝霧に萩の葉ぬれて風もなし
          日をいたむ一葉はおとす風もなし

          あさ鳥の霞になきて花もなし
          世は春とかすめばおもふ花もなし

          朝ぼらけ霞やちらす花もなし
          散るを見てこぬ人かこつ花もなし

          夏の夜は草葉を夜の露もなし
          神な月山里ならぬ宿もなし
          雪はれて鏡をかけぬ山もなし

      しんけい心敬 5塚 W500H332

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      心敬ばかりがこういう打ち消しを詠んでいるのではないが、心敬にはこの意図がいっそう強い。小生はボストン大学大学院の講義の稽古に、「そこにないものをあげなさい」という独特のエクササイズを組みこんでみたのだが、このように何かを歌い出したり、何かに向かうにあたって、当初に「ないもの」から始めるというのは、たいそう好きな方法の端緒なのである。
 最後にあげた「雪はれて鏡をかけぬ山もなし」は特段にそのことを感じる。 はたして初期の心敬にそういう意図があったかどうかは知らない。あったとすればブレヒトの“異化”に匹敵する方法だ。
 そこはどうなっていたかは予想がつかないけれど、これがいずれ「こほり」や「寒さ」や「枯れ木」の独壇場になっていくのを知ってみると、存外、このころから心敬には「欠如や欠損をめぐる美意識」が芽生えていたかとも思われる。

                        心敬15
                              心敬直筆の和歌
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      これはつまり「負の芽生え」というものだ。「負をもって面影をのこす」という方法だ。
      結局、小生が心敬に惚れるのは「負を詠む」という方法に惹かれてのことだったのであるが、それはいろいろ読んでいくと、けっこう早期の心敬にも萌芽していたようなのである。
 その「負」や「打ち消し」にも多少つながるのは、心敬が中期からしきりに「青し」や「にほひ」を通して、色があるのかないのかわからない境い目のようなところに歌を投じていっていることだろう。
 ふつうは、敷島の道においては、「にほひ」や「色」は匂ひ立つものであり、立ち上がってくるものである。ところが心敬のは、そうではない。消え残るのだ。これらは「負の手前」のものなのだ。

          水青し消えていくかの春の雪
          風おろす山松あおし雪の庭

          露青き草葉はかべに枯れやらで
          月に見ぬおぼろは花のにほひかな
          みる人を色なる月のひかりかな

 これで見当がつくように、心敬の「にほひ」は「水青し消えていくかの春の雪」や「月に見ぬおぼろは花のにほひかな」をへて、「みる人を色なる月のひかりかな」に至るのだ。
 そして、こうなる。

          松の葉に冬野の色は残りけり

 小生には小学校4年生くらいに「木の壷にいちごの色や残したる」と、中学生になったばかりに「赤き水のこして泳ぐ金魚かな」と詠んだ句があったものだが、これはたんに色めいただけのこと、「冬野に色」というふうにはならなかった。
 心敬においては、松の葉と冬野は僅少きわまりない色だけで響きあっている。それを理解するには、「みる人を色なる月のひかりかな」の感覚のまま、「松の葉に冬野の色は残りけり」に入っていくといいだろう。
 心敬はこのように、二つに離れた現象内感覚を最小の共鳴で結ぶのが得意なのである。むろん、それは引き算による残部僅少というものだ。
 そこで、連歌独吟ということになる。引き算がきわどい一人連歌だ。「山何百韻」や「何路百韻」から少々あげておく。

          心あらば今を眺め世冬の山
          紅葉もすこし散りのこる枝

          木枯のときしもあらく吹きいでて
          こほるばかりの水ぞすみぬる

          打ちしほれ朝川わたる旅の袖
          棹のしづくもかかる舟みち

          世の中や風の上なる野辺の露
          迷ひうかるる雲きりの山

          啼く鳥の梢うしなふ日は暮れて
          月にも恥ぢずのこる老が身

          吹く風の音はつれなき秋の空
          むかへばやがて消ゆる浮き霧

                        心敬16
                          心敬が書いた古今和歌集の奥書
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      これらはまさしく「うしなふものの寸前」を詠んでいる。その寸前だけを詠みたくて詠んでいる。あるいは「消へるものの直前」の、それでもなお消え残って残響している「にほひ」や「ひかり」を詠んでいる。 ナッシングなのではない。ナッシング・ビーイングなのである。
 それが「向かへばやがて消ゆる浮き霧」なのだ。が、ここまではまだしも古今・新古今の和歌の風雅や余情の延長でも語れるものがあった。まだ余人を許さないというほどではない。
 それがこのあとの心敬においてはさらに冷えてくる。痩せてくる。枯れてくる。
 こうなると、もはや心敬を誰かと比較することすら不可能になる。唐木順三はそこをよくも心敬以外の者と比較しながら分け入ったものだった。
 では、『ささめごと』とその後における冷え寂びていく口調を、小生なりの順でつかまえておく。
 こんなふうなら、どうか。
 まずは、この一節。「心詞すくなく痩せたる句のうちに秀逸はあるべし」からである。これは草稿なのだが、それがのちの決定稿では「心詞すくなく冷えたる句のうちに秀逸はあるべしとなり」というふうになる。「痩せたる」が「冷えたる」に移っていくのだ。
 ついで心敬は、このことを言い換えて、「有心躰とて心こもりたる躰、たけたかき躰とてやせさむき躰をまなび」とのべて、「たけたかき躰」と「やせさむき躰」とを重ねてみせていく。
 こうなると、余人には手が出ない。「たけたかき」と「やせさむき」は重ならない。のみならず、『老のくりこと』では「たけたかく、ひえほこり侍る」というふうに出していく。これらの微妙な変化さえ、集約すれば、すべからく「冷え」なのだというふうに断言していくのだった。
 痩せるも有心(うしん)、冷えるも有心。寒きも有心なのである。無心ではない。有心なのである。いったい心敬は「冷える」ということをどんな意味でつかまえたかったのだろうか。やはり次の歌を知らなくてはならない。

          秋たてば氷をむすぶ清水かな
          山深し心に落つる秋の水

          日やうつる木下水のむらこほり
          日を寒み水も衣きる氷かな

          とちそひて月は入るまの氷かな
          下葉行くささ水寒き岩ねかな
          氷りけり瀬々を千鳥のはしり水

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      この絶品の連打は、まさに凍てつく艶(えん)である。零下の歌謡というものだ。
      あえて写生的にとらえれば、これらは、だいたいは「薄氷」の表象だということになるかもしれないが(そう主張する研究者も多い)、小生はそのように限定しなくともいいと思っている。 そのように限定しないほうがいいと思える証拠の端的な一節が、やはり『ささめごと』にあった。「道に心さし深くしみこほりたる人は、玉のほかに光をたづね、花のほかに匂ひをもとむるまことの道なるべし」というものだ。

      つらら 3 W500H344

 「深くしみこほりたる人」というのは「凍み氷る人」ということだが、心敬はそれこそが「道心」をもつ人だというのだ。ついに人倫さえ冷え寂びたのである。それはまた、光といえば「玉」を、匂いといえば「花」を詠むようなクリシェな連中からは生まれまいとも言っている。
 このことについては『芝草』の自注において、さらに決定的になっていく。こういうものだ。

 氷は水より出でて水より寒し。藍はあゐより出でてあゐより青し。にほひは色より艶ふかし。藍よりもあゐは出でて藍よりも青しといへるごとく、花よりも匂いは艶ふかし。

      そろそろこのへんが絶顛である。まことに冷えきっている。
      あしたは雪かと思うばかりだ。 同じく『芝草』の自句自注では、さらにこのように絞りあげている。「木枯らしはさしもさえこほり侍れば、わが哥道のあたたかなる方をさそひうしなひ侍れかしと也」。こう綴ることによって、自分の温かなところもいっさい払拭してみようと決断をしているのだ。
 勘違いをしてもらっては困るのだが、これは非情を決断したというのではない。今回は解説しなかったけれど、心敬は横川に学び、歌道よりも仏道に時を費やした歌僧なのである。さまざまに仏教の蘊蓄も傾けている。とくに三体止観を中核にすえた天台教学への深まりには尋常でないものがある。
 仏道が慈悲に支えられていることなど、よくよく弁えていた。 それでも心敬は、自身の温もりを断とうとしたのである。生活の日々でそうしたいというのではなく、歌において断ち切ったのだ。
 こんなこと、小生にはとうていできそうもないことである。
 こんな歌がある。とんでもない歌だと見ていいだろう。こういう歌を中世に他の歌人や連歌師は詠んでいたのだろうか。小生には思い当たらない。「心を殺す春」という歌だ。
 「春は遠くからけぶって来る」と書いた朔太郎も、これにはとうてい及ばない。
  人の世は花もつるぎのうゑ木にて人の心をころす春かな ああ、今回も残り少なくなってきた。もう、やめよう。今朝という、誕生日はやっぱり不吉だったのだ。誰かと一緒に無常をしようとおもっていたけれど、その時間さえなくなってきた。心敬の、冷え寂びは、やはり格別すぎている。

                                 


      心敬4      心敬8      心敬7

      心敬1      心敬2      心敬3

 久松潜一編『中世歌論集』(岩波文庫1934)・伊地知鐡男校注訳『連歌論集・能楽論集・俳論集』(日本古典文学全集51・岩波書店1973)・湯浅清『心敬の研究・校文篇』(風間書房1986)・横山重編「心敬作品集」(角川書店1972)より

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                        読了記  第4話に続く・・・連載

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ひとひらの書 第2話 『中世歌論集』 中

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      A 7 gif   第2話・・・『 中世歌論集    

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      A 15 gif ひとひらの書 第1話 中世歌論集(心敬)正


      先日の連休はカレーを作りながらグラミー賞をTV観戦というリラックスした休日となった。カレーは(念願の)市販のカレー粉を使わないスパイスだけのものにチャレンジ。クミン、ターメリック、そしてコリアンダーを押さえておけばすっかり本格派カレーじゃないですか!。自己満足の域にしろ、初めての割には、意外と簡単だったのと小麦粉が入っていないのでヘルシー、何よりスパイシーさが際立っていて自分好みだった。これなら「店だと700円ぐらいとれるんじゃないか?」と、やはり過大評価で自己満足の世界に浸っていた。
 そんな小生のカレー作りの休日とは対照的に、華やかな世界を繰り広げていたのがグラミー賞である。最近の音楽シーンに疎いので正直興味はあまりなかったのであるが、プリンスやエルトン・ジョンが登場したり、ショーも凝っているので結構面白い。やはりエンターテイメントに関してはアメリカ流石だなと、感心もする。また、ダンスで魅せる訳でもなく、インテリっぽい雰囲気のゴティエが最優秀レコード賞をとっちゃう所も凄いですねと思わせた。
 そのゴティエが、インタビューの際に日本語を喋っていた。抑揚がどうにも耳触りよく聞ける。何故だろう?と思って調べてみると、地元オーストラリアの高校と大学で日本語を勉強していたらしく、三重県でのホームステイ経験もあるとか。どうりで隔たりを感じさせない。一気に親近感が湧いてきた。ジャズ部門では、話題となったチック・コリア&ゲイリー・バートンやエスペランサらが受賞。さてそんな現代の歌謡から日本の中世歌論に話を戻すことにする。
      カレーとはインド風の時雨煮のようだ。
      さてさて・・・、そのしぐれ哉、心敬の歌の抑揚に迫ることにする。

      心敬7                          心敬5
      『日本人の心の歴史』(上下) 唐木順三 著 1976 筑摩叢書               『無常』 唐木順三 著 1965 筑摩叢書

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      昔の歌仙のある人の、歌をばいかやうに詠むべきものぞと尋ねる侍れば、枯野のすすき、有明の月と答へ侍り。これは云はぬ所に心をかけ、冷え寂びたるかたを悟り知れとなり。さかひに入りはてたる人の句は、此の風情のみなるべし。
 有名になりすぎた一節だが、その意図を汲みきるのは必ずしも容易ではない。だから、このくだりはよくよく読みこんでもらいたい。小生も可能な限り深堀に構えた。
 その小生も、よろしいか。心敬は「これは云はぬ所に心をかけ、冷え寂びたるかたを悟り知れとなり」と言うのである。「冷え寂びたるかた」を心せよというのだ。それが「さかひに入りはてたる人」の風情というものだというのだ。 西行を飛び越えた。突き抜けた。
 ここまで言っていいのか、というリミナルな幽境である。さらにはこのあと、「水精(すいしょう)の物に瑠璃をもりたるやうにと云へり。これは寒く清かれとなり」とも言っている。 寒いけれど、清いのである。それもガラスのコップに一杯の水が入っているだけの、そこに光が当たっているというだけの、ただそれだけの清冽だ。しかし、それ以上の何があるかという問いなのである。こうして唐木はさらにつづいて、『ひとりごと』から次の一節を引いていた。事態はついに、水から氷にまですすんでいく。
 小生はここらではもう冷凍されている。カチンと痺れて金縛りなのだ。

      ささめごと 1 W500
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      氷ばかり艶なるはなし。苅田の原などの朝のうすこほり。ふりたるひはだの軒のつらら。枯野の草木など、露霜のとぢたる風情、おもしろく、艶にも侍らずや。
 参った。もはや言うことがない。「氷ばかり艶なるはなし」まで行ってしまっている! 小生は痺れまくった。 少々ながら、当時の読書時のことをふりかえって解説をしておこう。唐木は『日本人の心の歴史』を、まず(1)「見れど飽かぬ」で始めたのだった。
 ついで、(2)万葉の「思ふ」が(3)古今の「見る」になって心で見るになっていったこと、そのため(4)「春秋がいづれまさる」を競い合わせ、(5)季節の呼び寄せが明示化され、(6)四季の彩りの配列と、(7)その部立(ぶだて)化が進捗したと説明して、そこでいったんは定家の「見渡せば」などの牽引によって(8)「秋の夕暮」への傾斜が深まったのだが、そこから一気に転じて、(9)「冬の美」の発見に向かったのだ、と説いたのである(数字は『日本人の心の歴史』の章立て)。
 小生はそのあたりでぜいぜい喘いでいたのだと想う。「氷ばかり艶なるはなし」の面影がついに近くなってきたという、ぜいぜいだ。完全に息切れる。
 ところが、唐木はここで明恵、道元、世阿弥と連打した。これには意表をつかれた。
 明恵は「雲を出でて我にともなふ冬の月 風や身にしむ雪やつめたき」、道元は「冬草も見えぬ雪野のしらさぎは おのがすがたに身をかくしけり」だった。 二首ともに、なんだか凄いものを詠んでいる。
 明恵は「風や身にしむ雪やつめたき」と言っているのに(これは当たり前だ)、それは「我にともなふ冬の月」の心だというふうにした。道元は雪野の白鷺をまるでマレーヴィッチのシュプレマティスムか、あるいは北園克衛の「白の中の白」のように見るのだが(これも当たり前だ、でもしかし)、それは我でもあって、それゆえの「おのがすがたに身をかくしけり」というのだ。
 そうなのだ、ここでは「すがた」が「身」を隠してしまっている。
 さあ、とんでもないところへ来たぞと思うまもなく、唐木は第9章を「冬の美」とタイトリングして、世阿弥から話を一気に心敬に飛ばしていったものだった。
 世阿弥の話は、むろん幽玄や「時分の花」などのことである。その当時のぼくにとってもおなじみのものである。が、とはいえ唐木はそういう話をしながら、突然に『花鏡』の次の一節を提示した。こういう介入は、当時の小生にはまだ新鮮だった。 心(しん)より出でくる能とは、無上の上手の、申楽に物数ののち、二曲も物まねも儀理(=筋のこと)もさしてなき能の、さびさびとしたる中に、何とやらん感心のある所なり。是を、冷えたる曲と申す。
 心(しん)なる能の無上の上手とは、「冷えたる曲」というものである。「さびさびとしたる」で、「冷えたる」ということが世阿弥の幽玄だったのである。 そのころは『花伝書』(風姿花伝)だけで、まだ『花鏡』を読んでいなかった小生は、このあたりでかなり浮足立っていたのではないかと憶う。しかしすぐに、ぜいぜいはどぎまぎに変じていった。世阿弥はつづいて「凍み氷りて、静かに美しく出でくるままに能をすれば、番数重なるとき、能の気色沈む相あり」と加えていたからだ。
 おお、おお。これはまさしく「花」から「氷」への転換だ。花に氷などではない。
 花がなくなって、氷だけがある。そういう花から氷への転換である。 このとき小生は、この「花から氷への転換」をのちのち誰かに説明するのは控えようと思ったものだった。事実、小生は、このことをとくとくと話すことを、あえてしてこなかった。
 こういうことは、めずらしい。小生はめったに入手したトピックを隠さない。なのに、この世阿弥と心敬については保留した。その理由のようなものは、この「ひとひらの書」の後編章に大仏次郎の『冬の紳士』をあげ、ヘミングウェイの『キリマンジャロの雪』をとりあげる理由と近いものがあるのだが、そのあたりの事情、まことに輻湊するので、今回は書かないでおく。
      それにしても唐木が心敬からの出発を解くにあたって、明恵・道元・世阿弥と連打したのは痛烈だった。当時の小生は、「さびさび」「凍み氷る」「冷えたる」「沈みたる」にひたすら右往左往するばかりだったろう。しかしながら唐木は平然と、これをさしずめ「寂寥相」というべきかなどと書いていた。 こうして、小生のなかにも、いよいよ心敬の本来が登場したのである。
 「艶」はまっしぐらに「冷え寂び」になっていったのだ。
 さて、ここからは心敬の著作『ささめごと』や『ひとりごと』などの著作のなかの彷徨と、和歌や連歌の心敬風雅のたゆたいに入りたいのだが、その前に心敬の生い立ちをかんたんに紹介しておきつつ、連歌師として作風をスケッチしておくことにする。

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                           心敬直筆の「連歌百句付」

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      心敬の70年ほどの生涯には仏道と歌道の両面が交差していた。
      それは西行と同じだ。
      ただし、連歌師心敬を知る者にはその仏道があまり見えてはこないのだけれど、心敬自身には仏道に励んで、むしろ歌道に精進しきれなかったという晩年の回顧があった。最晩年の『老いのくりごと』には「むねの内、さながら、かたみに入る水のごとく、一の露もとどまらず」とあって、仏道のために多くの暇を費やしていたことをふりかえっている。
      心敬が生まれたのは応永13年(1406)の紀州名草の田井庄である。3歳で都に上ってからの詳細はないが、15歳で清水坂の南にあった十住心院に預けられ、そこから比叡山の横川(よかわ)に入って仏道修行をした。
 この時代は後小松天皇時代、足利義持の4代将軍時代にあたる。応永は35年間もあるのだが、この時期はまだ政情は安定していた。
 十住心院はしばらく心敬のホームグラウンドになった。横川の修行がおわるとここに落ち着いた。そこは管領畠山家の氏寺でもあった。そのため応仁の乱では心敬の立場は微妙なものとなるのだが、そのような政治とのかかわりばかりでなく、のちのち長きにわたって師と仰いだ正徹(しょうてつ)が初めて訪れたのも、この十住心院だった。それが24歳ころからのことだ。
 以来というもの、心敬は「清岩和尚(正徹)に三十年師事」(『ひとりごと』)という立場を貫いた。
 永享3年(1431)、心敬26歳のときには将軍義教が十住心院に渡御して毘沙門講をひらいた。それから2年後、北野社の社頭で将軍主催の1日1万句の連歌会が催され、ようやく心敬も召し抱えられている。将軍義教と管領細川持之のもと、会衆には一条兼良や九条教満や二条持基が並び、連歌師にも北野連歌会所の奉行の承祐を筆頭に、忍誓・能阿・宗砌・親当らの当代一流が加わった。
 心敬は連海法師の名で日野中納言重松義松の席に連なって、第三を勤めた。連海は法名であろう。お題は「梅」だったようで、山何百韻の第三までの記録がのこっている。

          万代をしらゆふけよ八重ざくら(日野中納言)
          みどり春めく神の御さかき(藤原宗有)
          朝日寺さす宮井はのどかにて(連梅法師=心敬)

 ま、寺と照らすを掛けたり、固有名詞を入れこんだりの、やや技巧に走ったもので、のちの技巧を捨てた心敬の詠みとはずいぶんちがっている。しかしこれをきっかけに心敬は十住心院の住持として、いわゆる歌僧時代の20年をおくることになった。
 歌僧心敬を指導しつづけたのは正徹である。今川了俊の筋にいた。小生はいっとき正徹にも目がなかったのだが(とくに『正徹物語』)、ここではその歌業については省く。
 その正徹が何を心敬にもたらしたかは、しかしあきらかだ。ひたすら無常を伝えた。正徹自身が無常をかこっていた。心敬が31歳になったころの歌に、「三十(みそぢ)よりこの世の夢は破れけり松吹く風やよその夕暮」(百首和歌)があるのだが、これは、正徹の歌が最後の勅撰和歌集となった『新続古今和歌集』(飛鳥井雅世の撰)に一首しか採用されなかったことを含めて、そのころの正徹に「はかなさ」や「無常」が忍び寄りつつあったことを継承しているかのようなのだ。心敬は同じころ、次のような歌ものこしていた。

          はかなくもこの世の夢に入(い)る人の
                     玉の緒とめぬみじかよの空

 しかし「はかなさ」を内に入れるようになった心敬は、かえって次の時代の連歌師としての発露をすさまじくも、また端正にも、さらにその面影を寒くもしていった。それが40代から50代にかけてのこと、百韻連歌のいくつかから、その展開の妙をとりだしてならべてみれば、その心敬の職能力も伝わってくる。心敬の変化も見える。たとえば――。

          うちしほれわくる裳裾に鴫ぞ立つ 山田のはらの霧のゆふ暮(心敬)
          人もなき苅田のはらに立つ鴫や をのがあはれを寝にもなくらん(師阿)

          時雨ゆく遠山もとのははそ原 くれなゐまではえやは染ぬる(毘親)
          染めのこす峯のもみぢ葉ひさかたの 山より北の色なしぐれそ(心敬)

          泊瀬女が秋の手染のかた糸を こよひあはせにむすぶ露かな(心敬)
          かけうへし井垣のみしめ末終に 契りありてやなびきあふらん(青阿)

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                                 応仁の乱
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      正徹は77歳で往生した。長禄3年(1459)、心敬が54歳のときである。「ことの葉はつゐに色なきわが身かな むかしはまま子いまはみなし子」というドキッとするような歌を送っている。
 何という歌だろう。小生は「昔は継子、今は孤し児」などとはとうてい歌えない。あえていうのなら、かつて『日本流』や『日本という方法』で内村鑑三と野口雨情とを“棄民論”でつなげたときに、やっとのこと、この凍てついた意味を指先でたどれた程度であった。
 だから、小生にとってはここからが本気の心敬なのである。小生は居住まいをただして、そう思った。
 実際の心敬がどういうふうになっていったかといえば、一方で『ささめごと』を綴って連歌をゆさぶり、『ひとりごと』を綴って正徹門下を動かし、そして自身は発句に冷えていったのだ。その跡のよすがを知る『心玉集』に、こんなふうにある。
 毘親が「霜の色そふかみのあはれさ」と詠むと、心敬は「櫛の歯に風も音する冬の空」とやったのだ。正頼が「露もりあかす草のかり庵」とつなげたら、心敬は「いにしへを忘れぬ山の夜の雨」と切ったのだ。いや、有名な『芝草』では、それを自分一人でやってもみせた。その一方で『ささめごと』や『ひとりごと』にどんなことを綴っていたのかは、あとでふれる。
 寛正4年(1463)、心敬は故郷の紀州に帰った。帰って氏神である田井庄のお宮に参籠し、法楽の『百首和歌』を詠進した。なぜ故郷に帰ったかといえば、都が吹き荒れたからである。応仁の乱の激突まではあと3、4年のことなのだ。


      心敬1      心敬2      心敬3

 久松潜一編『中世歌論集』(岩波文庫1934)・伊地知鐡男校注訳『連歌論集・能楽論集・俳論集』(日本古典文学全集51・岩波書店1973)・湯浅清『心敬の研究・校文篇』(風間書房1986)・横山重編「心敬作品集」(角川書店1972)より

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                        読了記  第3話に続く・・・連載

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ひとひらの書 第1話 『中世歌論集』 上

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      A 7 gif   第1話・・・『 中世歌論集    

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      A 15 gif ひとひらの書 第1話 中世歌論集(心敬)正


      人間は枯れるほどに肌の湿りを求める。これは一樹と同じだ。ココロの湧水が枯渇しないよう努力する。紙には、枯れた指先で感じる適度な保湿がある。これこそが読書の効能ではないか。枯れるほどに紙による活字セラピーが欠かせなくなる。
      第1話は、ひそひそと語り始めたい。そんな御題「ささめごと」を選んでみた。

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                      雲もなほ さだめある世の しぐれ哉

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      これは心敬の雲だ!。なるほど前衛である。
      中世歌論集の一冊からこの歌を拾った。
      これほど人は枯れるものかと感動した。
      この歌一つで、心敬という男の生涯が映えている。時空を超えて心敬は現在を生きている。

      小生は京都一乗寺の水間病院で暁方に生まれたらしい。つまり小生は両親が旅の途中で生まれた。だいたい身重で旅などするか。母とは万事そうした暢気なお人柄だった。無論、出生地は別にある。そこで育つのであるのだから、戸籍上の問題はない。しかし届け出が本来より20日遅れた。
 届け出日が正式な生年月日となった。
 さだめある世のしぐれ哉、こうした地に足のつけどころのない誕生日というものはだいたい不吉なものだ。歳をとるたびに、小生自身がそう節目ごとに感じてきた。小生は産まれながらに小さな放浪の旅をしている。
 それゆえ、その日の朝がきて陽が暮れるたびに何か後ろめたいものを受け取っていたのだが、それが60歳(還暦)ともなると、ただうろたえるばかりとなった。普通なら今日は00の誕生日か、と思えるのであろうが、小生の場合はどうしても「本当は20日前」となってしまう。産まれながらに出遅れている。今日という一日は虚構、初めから既に本来が通じないのである。

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      だが通じ合わないものであれば、そこに少しの芸当が必要となる。
 余人には真似のできない含み幅20日ほどの離れ業を常に心得るのだ。
 すると、しぐれ哉の、一方では、やっと「どうにでもなるところへ来たか」という感慨も生まれた。いつのころからか、小生は一番やりたいことを後回しにするようにあえて自身の仕事の余韻を設(しつら)えてきた。むろん一番やりたいことも少しずつ変化しているのだが、歳をとるうちにそれが感興調査の残務のごとく、近世から中世へ、いったん近代が蟠って、またふたたび中世から古代へ向かっていることについては、実は体の内側で存分に感じていた。よしよし、一番やりたいことに近づいている。そんな実感も充実するようになってきた。
 いつしか心敬の枯れようというものが魅せてくれたようだ。
 人の生命の揺れよう、揺らぎようを交感させられている。
 そのように、誕生日への感慨が変化した。
 とくに愈々の本番は老荘や万葉だろうという気分になってきていることに、不吉な我が身の行方とはうらはらな、陽光のなかにふりしきる淡雪の降り注ぎめいたものを感じている。ただ、こうした予感をすべて古代回帰させるにはまだ早い。まだ喜寿もあれば、当面枯れる領域が残されている。そう感じると、ここはもう少し「わが中世」(これは寺田透の言葉)にとどまりたいとも感じている。
      約30年前のことだった。唐木順三(からき じゅんぞう)の筑摩叢書の名著『無常』で、初めて心敬(しんけい)という人に出会った。そして、読みすすむうちに名状しがたい衝撃をうけた。以来、小生は誕生日にはお百度をを踏むように、心敬に関する書物を読んできた。
      その心敬には基本となる『1対√2』というリズム数式がある。
      そして万葉からの歌を、心敬は、人間の思想の歌として昇華させた。
      
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      心敬5 『無常』 唐木順三 著 1965 筑摩叢書   唐木順三
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      唐木はこの本の前半を「はかなし」の分析にあて、後半を「無常」の解明にあてていた。その後半は、法然の発心から恵心・親鸞の浄土観、一遍の彼岸死の往生観、ついで『徒然草』の無常論ときて、最後に「飛花落葉」の心性を宗祇と芭蕉まで追うにあたって、心敬をその出発にしていた。
 長野県上伊那郡宮田村に生まれた唐木は、旧制松本高等学校(現信州大学)を卒業後、1927年(昭和2年)に京都大学哲学科を卒業。西田幾太郎や田辺元の指導の影響を大きく受けた。
 なぜ唐木が心敬を出発にしたかといえば、心敬にあっては、飛花落葉は草木の露のように「此世の夢まぼろしの心」のよすが(!)だったからである。小生のつたない場合でいえば「陽光のなかの淡雪の降り注ぎ」がよすがであるが、心敬はそのよすがのために、あえて「ふるまひをやさしく、幽玄を心にとめよ」と言った。小生のほうはそのあたりがまだおぼつかない状態だったが、唐木はそこに注目した。思い返せば、その唐木の注目が小生の心敬との最初の出会いとなった。 そして、そこに1対√2との出会いも生まれた。
 そこに含み幅20日という空白か余白に右往左往した時間への苛立ちが帳消しされる。
 これは僥倖だった。たとえばのちに篠田一士(しのだ はじめ)の『心敬』(筑摩書房)を読んだけれど、中原中也の評価をめぐって大岡昇平と論争したこともあった言葉の重みに比べると、これなどはまったくつまらぬもので、あの篠田にしてなんたる為体(ていたらく)かと思った。もしこんなものを最初に読んだのが心敬との最初の出会いになっていたら、小生の心敬は十年か二十年か遅れていたことになったろう。いや、一生出逢うことは無かったのかも知れぬ。
      唐木は長野県諏訪青年学校、満州教育専門学校、法政大学予科で教鞭をとる。教職のかたわら、中正の態度を保持しながら近代文学研究から中世へと視野を広げ、多くの評論を発表した。特に中世日本仏教の研究が有名である。戦後は臼井と共に同社の雑誌『展望』の編集を行い、明治大学文学部の教授も長年務めた。
 その展望(てんぼう)は、日本の総合雑誌。筑摩書房刊。第一次は1946年1月から1951年9月で69冊。第二次は1964年10月から1978年8月で167冊。それら掲載作に、太宰治『ヴィヨンの妻』『人間失格』、大岡昇平『野火』、中野重治『五勺の酒』、平林たい子『かういふ女』、宮本百合子『道標』など。臼井吉見が編集長をしていた時期があった。
 そういうことで、ひどく保存状態がよろしくないのだが、小生のところにも数冊の「展望」があったはずと、台所の地下にある室の段ボールをあさってみた。
 とりあえず、二冊見つかる。もっと古いものもあったはずであるが、それはどうもカミさんが処分したようだ。台所の貯蔵室という場所がどうも不味(まず)かった。
 学生の時に、この「展望」で宮尾登美子の出世作(?)となった「櫂」を眼にした時に、同じ下宿に住む北海道出身の先輩男性に、この作品は如何と勧めたことがある。72年当時のものだが、彼は、そこに描かれている土佐の風物がよろしといっていた。何がよろしいのかと思えば、当時は、ほとんど知られていなかったヤマモモがよく登場して、それが、当方の彼には旨そうな果物に思えた印象だということだ。人間には、こんな時雨方もある。しぐれとは無縁の男のようだ。
 地下貯蔵室から見つかった一冊は、75年8月号である。

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                          心敬6 『心敬』 篠田一士 著 1987 筑摩書房

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      心敬は無常に気づくのに、自身が何をよすがにしたかということを出発にした。小生の無常は小学生のころからちょっと出入りを始めて、高校時代にいったん激しくなり、その後はゆっくりと寄せては返す汀渚の波濤のように去来していた。これは小生が早熟であるわけではない。最近、幼稚園児と会話したことがあるのだが、昼食の目玉焼きをみつめながら3歳の男子が「今日も無精卵だ!あいがとう」と微笑んだ。ヒヨコの生まれる卵では困るのだという。驚いた。すでに命が生まれ出ることが無常だと悟っている。
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 最近は1カ月に一度とか二度といった寄せ返しで、死と隣り合わせの無常も顔を出すようになった。もっとも40代の前半ではこの寄せ返しがもう少し頻繁だった。べつだん困りはしないが、この寂寞は考えるものなのか、あらわすものなのか、当初はそこを迷った。
 しかし、もともと小生は自分の感情や気分を、もう少しおおげさにいえば自分の意識の表象というものを、あけすけに表現したり、何かに託すために文句にしたり、映像や書画にしたりするというやりかたは好きになれなかった。まして意識や無意識を生死に絡んだ研究のテーマにするなんてことは野暮の骨頂だと思ってきた。つまりは、自分一人ぶんで事を処置するのが大嫌いだったのだ。それはモンテーニュの言う「自分を質に入れない」ということにあたる。
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      では、どうするかというと、誰かと一緒に無常する。その誰かは小生が好きな者ならばよい。かなり好きな者ならば――。もしもそのかなり好きな者の調子がそのとき悪ければ、相手は故人でも古人でもよかった。そこで、話が戻るのだけれど、心敬と出会ったころには唐木の探索の手続きのまま、小生は心敬とともに無常に入りこんでいくことを選んだのである。
 この選択に読書量がまことに有効であった。一緒に無常したくなる相手が無尽蔵に湧いてくる。
 しかしここまででは、心敬の凄みはまだ何もわからなかった。ちょっとだけ得心はしたものの、それほど驚きもなかった。ただとてもいい気持ちにはなっていた。もともと幽玄とはそういうものだ。「ふるまひをやさしく」するものだ。 ただし、唐木はそこにとどまっていなかった。心敬が『ささめごと』に、幽玄というものは「心の艶(えん)」なることだと書いていたと指摘する。かくて、この「心の艶」から小生の冒険が始まった。
 すでに日本の文芸は、紫式部の前後から「艶」(えん)に注目していた。優美であって数寄なるもの、それがそもそも艶なのである。だから心敬は、『源氏物語』に綴られているものたちの「ふるまい」こそが艶だとみなしたのだった。そして、感情(かんせい)、面影、余情(よせい)を旨として、「幽玄」と「あはれ」を心していけば、それが「いみじき至極の艶」になると見た。
 とくに面影だ。これは第2話でも言うが、心敬が最も尊いものと思っていたのは、面影なのである。 というわけで、ここまででも、充分、どぎまぎするほどの指摘だが、心敬はその先にさらにきわどい身を投じていった。
 それは、なんと「心の艶」は「寒くやせたる」のがいいというものだ。
 これにはさすがに驚いた。「寒くやせたる」とは何事か。寒い? 痩せている? 艶(えん)を寒くしろというのだろうか? これでは引き算を一気にしてしまっているではないか。感情、幽玄、あはれ、面影、余情と追ってきて、最後の最後になって艶は「寒くやせたる」になるのか。小生はここにおいて、おおいに溜息をつくことになった。こんな連歌師がいたのかと驚いた。
 唐木は唐木で、『無常』を書いた段階では心敬の「寒くやせたる」には突っ込んではいなかった。それ以上のことを言及していなかった。しかし唐木は放置したのではなかった。この人はそういう人ではない。必ず起点に戻ってくる。 1976年か、翌年のことだったろうか、『日本人の心の歴史』上下巻では、心敬の『ささめごと』を引いてついに「冷え寂び」に分け入った。唐木が引いた『ささめごと』の一節は、いまや知らぬ者がない箇所になっている。

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      その唐木と言えば、岡潔(おかきよし)を引き出してみる。
 つい数日前、原田君の娘が居間でパソコンに向かいながら、ふとテレビの画面に映った何かのシーンを見て、あ、ウチこの場面見たことある、パソコン打ってるとこも同じだ!と声を上げた。デジャブ(deja vu=already seen=もう見た)だ。まったく同じシーンを経験したと言い張る。まあデジャブは誰にでもある。小生はこの時期、別の意味でそういうことが増えるだろうと思っているのだが、原田君のカミさんは、ただのデジャブよ、とすましていた。
 小生にはあまりデジャブの記憶はないが、いや、いくつかあったようにも思うが思い出せないくらいのものだ。でもひとつだけ、今でも強烈に覚えているのがある。横須賀の港に面したレストランで打ち合せをしていたのだが、暑かったから夏だろう、海に張り出したテラスのテーブルで皆で椅子に座っていて、ちょっと会話が途切れた瞬間、ものすごい感覚で懐かしさが襲ってきた。強烈なデジャブだった。これと同じことを前に体験しているという確信もある。一緒に行った芸能プロダクションの人間以外は初対面だ。その芸能プロの担当にしても1、2回会っただけの人。そのときは自分でもウロたえた。何だこれは!という感じである。
 デジャブの理屈としては、疲れてたり、ぼーっとしてたりして、目の前の現実に対する脳の認識が一瞬途切れ、その一瞬途切れた間、脳は認識していないにしても五感は働いているわけだから、再度認識が繋がったとき、ちょっと前の現実がどこか遠い昔の体験のような感覚として現われる、といったものだったと思う。私もデジャブはそういうことだろうと思っていたが、そのときの実体験としては、とてもそんなものじゃなく、絶対に昔体験していると感じた。本当はどうなってるのかわからないが、やはり脳のちょっとしたエラーということなのだろうか。

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      そのデジャブで思い出すのは、岡潔(おかきよし)だ。
 岡博士は京大出身で、もう故人だが、多変数複素函数論の三大問題とかいうなんだか小生にはわからない難問を解決してしまった日本が誇る世界的数学者だ。
 芭蕉とか漱石とか道元などに関するエッセイを多く残しているが、博士はことあるごとに過去世が懐かしいと書いている。懐かしくてしょうがないのだと。そしてシンガポールだったかな、砂浜を歩いていたときに強烈な懐かしさに襲われる。大昔にここを通ったことがあると。それから何万年か前の日本人の大陸移動の話になるのだが、詳細は忘れた。また道元の『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』は座右の書として肌身離さず持っていたらしいが、ある日「生死去来」の四字を凝視していると、突然僧たちにかつぎ込まれる。
 見ると禅寺の一室で、中央に禅師が立ち、左右に僧が並んでいる。岡博士はその人が道元だと直観したという。畳を踏んで禅師に近づくと、打たれるような威厳で顔を上げられなかった。そして道元の無言の説法を受ける。やがてまた僧たちにかつぎ出され、気がつくと自分の部屋にいたが、足裏には寺の畳を踏んだ感触がありありと残っている。
 これはどう考えればいいのか。ただの博士の幻覚なのか。その後、岡博士は『正法眼蔵』のどこを開いても手に取るようにわかったという。うーむ。少し難解だが、味がある。
 大体、岡博士は日本民族をこよなく熱愛していて、日本民族は30万年ほど前に他の星からやって来たと言ってるくらいの人だ。当時のマットウな人たちは、この世界的権威の博士の発言をどうとらえていたのだろう。興味深い。また博士は、「時」とは情緒だともいう。「過去」は懐かしさだ。「現在」はいっさいが明らかで動かしがたい。「未来」は期待もあるが不安もある。人間は赤ん坊から成長して、過去、現在、未来と順番に情緒がわかって「時」がわかるものだという。だから赤ん坊はときどき懐かしそうな目をして笑うのだ。4歳くらいで現在がわかり、小学校2年で未来がわかる。3歳くらいまでは過去現在未来がチャンポンになっている。時間の概念うんぬんといった難しい話はやっぱり大人になって創り出されものなのか。

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      小生は以前から岡博士の考え方がなんとなく好きだった。数学者だからもっと論理的な思考をするものだろうと思うのだが、どうも博士は違う。直観というのも違う気がする。わかってることを思い出してるというか…。まあ数学上の論理とか直観とか、自分でもよくわかってないことがらなのであまり深入りしないほうがいい。多変数なんとかなんてのも全然わからないし、大体、幾何学と数学の違いもよくわかっていない。あれ、同じだっけ?。 
 でもいくら左脳偏重気味の小生でも、論理の怪しさについては前から気づいていた。文法的に整合性がとれていれば、黒は白い、といったことでも正しくなっちゃう。同じテーマでも、結論を正反対に持っていくことができるのが論理だ。理屈だ。だとすれば、目的が違う者同士でいくら話し合ってもラチがあかないのは当たり前だ。せめてどこかで妥協し合って着地点を探る。
 それが民主主義だという話もあるが、東浩紀の『一般意志2.0』ではそういった民主主主義ではなく、SNSを駆使して大衆の集合無意識を抽出し、代表者による討議の果ての結論にある種の制約をつけるという新しい視点というかシステムを提案しているが、これはこれで大変興味深い内容だった。小生ごときが思い描いている今後の社会や共同体像にも貴重なヒントを与えてくれる。ってまた話がズレる。
 でも、東氏はクリフ・ハイの『WEB BOT』やゼランドのトランサーフィンなんかについてはどう思ってんのかな。やっぱり対象外か。そんなことも考えさせる。
 いずれにしろ「論理」はなんとなく怪しい。ときもある。先の岡博士のエッセイにもあったが、寺田寅彦が師匠の夏目漱石に、先生、俳句とはどういったものですか?と質問したとき、漱石は言下に、俳句とは「時雨るるや黒木積む家の窓明かり(しぐるるや くろきつむやの まどあかり)」というようなものだといった。
 さすがは漱石と博士はほめているが、小生もそう思う。こーだあーだといわず、さっと凡兆の句を引く。夕方かなんかで雨がしとしと降っていて、露地の奥の家に薪かなんかが積んであって、窓からぼっと明かりがもれている…家の中の団らんまで伝わってくるようではないか。俳句とはこういうものだと確かに思う。漱石はほとんど読んでいるが、また読み直してみようかと思う。芭蕉とかも。
 その芭蕉といえば、やはり唐木順三(からきじゅんぞう)が岡博士と似たようなことをどこかに書いていた。唐木順三も芭蕉や漱石を研究した哲学者だが、ある日机に向かっていると、芭蕉が越後あたりの日本海沿いを弟子の曽良と歩いている光景がありありと眼前に広がった。
 芭蕉は体調が悪いせいもあり、また精神的なものか思想的なことか、何か鬱屈しているものもあり、機嫌が悪く、冷たい雨の中をさっさと前を歩いていく。曽良は、どうして師匠が機嫌が悪いのかわからないが、機嫌が悪いことだけは確かにわかる、といった状態で、黙ってあとをついていくしかない。そんなふたりの光景がはっきりと見えたそうだ。岡博士と同じだ。深く深く研究する学者のような人は、そのような幻覚を見るものなのだろうか。それとも…。
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 そういえば岡潔も唐木順三も3つ違いの同世代、ふたりとも京大だし、なんとも宇宙人のような顔をしてる。とくに岡博士は・・・。

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      それが岡潔。
 ほかにジャンプして宙に浮かんでいるような有名な写真もある。とにかくなんだかすごいオッサンだ。まことに余談になるが、おとといの晩、寝ていたら久しぶりに体が抜けた。幽体離脱? カミさんが前回のブログにそんなことを書いたからまた夢でも見たのだろう。飛んでる間は気持ちがいいが、今回は覚えのない場所だった。
 どこか田舎の駅の近くのようで、線路があり、草の繁った空き地があり、土木機械の重機が放置されている。その黄色い機体に会社だかなんかの文字が書いてある。
 これはあとでなにか検証できるかもしれないと思って暗記しようとしたが、忘れてしまった。そのうち頭の後ろの左側がなにかチクチクする。痛いというほどではない。それから右側。今度は鼻の穴からなにか突っ込まれるような感覚で、ちょっと恐怖心も芽生え、フガフガ抵抗してたら、両耳にもなにか突っ込まれたところで目が覚めた。おいおい、アブダクションじゃないだろうなと思いながら、いろいろまさぐったが異常はないから大丈夫だろう。前の日に知り合いの事務所のワインパーティーでガイキチ系の話をしていたからそんな夢を見たのだろう、これって小生は子供か!。
 誕生日に20日の余幅を与えられたから、心敬の読了感は悲喜こもごもとなる。第2話にて、その悲喜の本質に一歩踏み込んでみたい。


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 久松潜一編『中世歌論集』(岩波文庫1934)・伊地知鐡男校注訳『連歌論集・能楽論集・俳論集』(日本古典文学全集51・岩波書店1973)・湯浅清『心敬の研究・校文篇』(風間書房1986)・横山重編「心敬作品集」(角川書店1972)より

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                        読了記  第2話に続く・・・連載

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小説『羅淵庵』 第3話

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              第一章 八瀬童子(やせどうじ)   

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      ニ  御所谷の五郎 (ごしょだにのごろう)   



 雨田家別荘は比叡山西崖の裏陰にある。
 東の山際にある場所の朝とは随分と遅い。比叡山を越えた朝陽は、まず山荘から西に望む鞍馬山の高みを射るように当たり、山荘の朝はその西からの逆しのゝめの余光に仄かに映えながら、高野川を越えてしだいに水紋が広がるように明け初めてくる。これが東山の夜明けである。

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「なんや、またバスどすかいな。老先生の顔に、そう書いたるわ」
 そういうと、旅支度をすっかり整えた香織は、手に握らされた虎彦のステッキをかるく揺らしながら、悪ぶれた様子でもなく朗らかにまたつけたした。
「老先生、ちょっとも、病人らしくしはらへん・・・!」
「三日前、あないなひどい発作おこさはったくせに、ち~とも懲りはらん。しゃ~ないお人や。なして遅いバス選らばはるのか、よう分からへんわ。電車ならスーッと、速ように着きよるのになぁ~」と、
 何ともふくよかな白色の顔の糸をひくような眼をつむって笑う。
「きょうは外、寒うおすえ。足ィ、ほんに大事おへんのか・・・」
 と、人形(いちまつ)さんのような香織が気遣うように、室内にいても、しんしんと寒い日である。
 この香織という娘に、加賀あたりの羽二重(はぶたえ)の熨斗目(のしめ)を、あでやかな西陣の羽織と対で着せ、白足袋をはかせ、やはり西陣の角帯をキュッとしめて、髪型を丸く整えると、それはまさに等身大の市松人形ではないか。虎彦は初めて別荘で出逢った日、香織にそんな勝手な仮想を創り、明るく匂うように歩かせてみた。萌え出したばかりの美しい緑の、そんな命をもつ香織と出逢えてから雨田家は、それまで忘れていた呼吸を、いつしか取り戻すことができていた。
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 その香織がほそい指先でそっと虎彦の乱れたマフラーのバランスを整えていると、
「どうしても、今日じゃないといけないの・・・」
 一人娘である車椅子の君子が、弁(わきま)えのある細い口で念を押した。
「ああ、お互いが待ち望んだことだ。おまえも承知の通り、わたしも承知の上のことだ」
 尠(すく)なくしたいから君子をあえて見ずに虎彦は応えた。憐れむと君子の心を鋭く刺すように思えるからだ。十年前、バリアフリーで設計した別荘の、全てのスペースで君子が一人でも生きられるようにシステム化されている。虎彦はみずからが君子に投げかけたその言葉を噛みしめていた。
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「そう、そうですよね。やはり、行くのですよね・・・」
 無茶も甚(はなは)だしいと思う。しかし、承諾してしまう。君子の性格の中に、いつも何かふっ切れない腫物(はれもの)の膿(うみ)のように、そういうダメなものが潜んでいることが、君子には自分でもわかっていた。
「二度も同じことを訊(き)かないでくれ」
 ふりむいてから、ふッと視線を苛々(いらいら)しく君子にとめた。
「そんなん怒らんかて・・・、たゞ君子はん、老先生のこと、心配しとらはるだけや」
 君子に虎彦が眉をひそめたせいもある。だがそれとは別に以前から虎彦に対し、疼(うず)きに似た興味がなかったわけではない。それは小さくてささいな理不尽である。先に玄関を出ようとしていた香織が、今度はすかさずキッと視線を睨(ね)めすえて虎彦にとめた。そうして・・・、
「老いては子ォに従うんや、と、弘法(おだいし)はん、そういいはったわ。たしかそうや思うけど、伝教(でんきょう)はんやったかも知れへん。お大師はん、亡くなりはった前の晩、二十日ァに、うちのお父はんそないなこというて講ォの人らと話してはった。子ォは宝なんや」と、
 香織は、何の罪もない君子に、かわいらしく茶目っ気のウインクを投げかけて笑みた。

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「空海さん、そんなこと言ってません。ごめんね香織ちゃん。だけど、もういいのよ・・・」
 それでもう君子は、車椅子の上で、何やら心泛きたつようなものを覚えていた。
 そんなざわめきに耳を傾けている心境でもなさそうな虎彦は、ふッと一つ吐息を漏らすと、
「日東大学の瀬川教授ほか五名が、明日の午後四時に京都駅着ということだ。梨田君が案内してくるから彼をふくむ都合六名で、祇園の佳都子(かつこ)に連絡しておいてくれないか。万事よろしくと・・・な。ああ、それから、これも・・・頼む」
 こう君子にやや昂(たかま)りのある声で言伝(ことづて)し、一枚のメモ紙を手渡すと、虎彦はもう振り向きもせず香織を伴って午前七時前には別荘を出た。
「香織ちゃん、父のこと、くれぐれもお願いね」
 君子のそんな言葉に振り返る、四十路(よそじ)ほど歳のはなれた若々しい香織は、OKとばかりに手を大きく左右に振ってみせながら微笑んだ。紺のデムニに淡い桃色のスニーカー、何よりも背負う若草色のリュックが、新年の風をカラフルに揺らしてじつに可愛らしいのである。
 虎彦は、そんな香織のことを「かさね」と呼んでいた。
「かさね、とは、松尾芭蕉が奥のほそみちにいう〈那須野の、小姫の、かさね〉なのだ・・・」
 父はそうとは語らないのだが、虎彦の本歌取りのようだと、そう君子は車椅子の上で手を振りながら〈ふふふッ〉と思う。父子家庭の長い娘が父の趣癖(しゅへき)に従えばまた、そのかさねとは〈八重撫子(なでしこ)の名なるべし〉かの河合曾良の句に自然に連なり解けてくる。

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 その撫子は晩春から初夏に育ち、初秋には可憐で淡い紅色の花を咲かす夏の草である。春の野は厳しい冬の間に創られるもの、が口癖の虎彦ならば、こんな採り重ね方をきっとするに違いないのだ。あえて口に出してそうとは言わない虎彦の、胸の内の香織とは、もうすでに孫娘なのである。その香織が別荘にきてから、まだ二年なのに、もう十年は共に暮らしているようだ。
「両親と死別して、まだ二十歳にも満たないで、どうしてああも明るく振る舞えるのか・・・」
 坂道を下る二人のシルエットを玄関先で見送る君子は、二年ほど前から置屋(おきや)の女将(おかみ)佳都子からの紹介で、別荘に住み込みで働くようになった家事手伝い兼、虎彦の付き添い役、そんな香織の屈託のない様子をじっとみつめながら、
「ええ人や・・・。あの人なら父を任せても安心や。大切にしてくれはる」
 と、爽やかな香織の情緒に呑み込まれながら、君子は何となく、ほのぼのとしたものを覚えた。

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「ああ~・・・、いやや、鼻ァつんとする。これ、雪の匂いやわ。せやけど、えろう、バス遅いなぁ・・・」
 三宅八幡前バス停で東のお山をながめながら、香織は何度も首をふる。そんな表情の貌(かお)にある眼は、市松の人形にそっくりといっていいほど似ていた。虎彦の一人娘である君子の持ち合わせていない、女の子でありながら、目尻に生きる力の光りを上手(じょうず)におびさせる男児かとも思えるほど逞しい眼の輝きであった。
「あのな老先生、今夜、お山、雪になりはるわ。何や、そないな匂いするさかいに・・・」
 京都でお山とは、比叡山のことだ。しょんぼりと丸く虎彦のコートに寄り添うまだ17歳の香織は、そう不満げにいってから、左頬に深いえくぼを寄せて、何やら懐かしい親しみでもつかむかのように、虎彦82歳のコートの袖口をあいらしくキュッとひっぱった。
「ほう、雪に!、匂いがあるのかい?・・・」
「ある、のッ・・・」
 虎彦には、雪が匂うという或(あ)る種の儚(はかな)さが面白く思えた。
 以前から虎彦は、一瞬だけの儚さの裏側にある、無限の変化を秘めて湛(たゝ)えた香りというものの性格に惹(ひ)きつけられてきた。その無限の向こうに、自分では見届けることの出来ない、雪の匂いというものがあるとすれば、自分の前にありもしない匂いだが、香織の記憶と共にふう~っと鼻先に戻ってくるような気もした。そんな虎彦は、訓練された鼻が、一瞬で余分な匂いを差し引いて、特定の香りを聞き分けることを十分に知っていた。
 人は香織のそういう特殊な感性を、迷信だといって笑うかもしれない。しかし、虎彦の脚の痛みも時々風のきな臭さを感じたとき、休火山のように爆発し、この匂いが誰にも解らないことのように、降雪と香織の摂理との交感とが、まんざら無関係なこととして、虎彦には思えなく笑えないのであった。

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「そうや。これ、ほんに雪の臭いや。せや、今夜、雪ふるわ」
 こう強く香織がいい切ると、空から冷たさに凍えて溺れそうな風が、またしんしんとバスを待つ二人の袖口に差しこんできた。
 指先や頬の赤さが、辛うじて老いた虎彦の顔色を人間らしきものに染めていた。山端(やまはな)で育った香織にはこの土地の雪の匂いがわかるのだ。雪が降り出しそうな、そんなとき、何となく周辺がきな臭くなるという。
「それは私が感じた、或る朝の臭いと、同質のものかも知れない」
 と、虎彦はふと、そう思うと、微かに高揚するものを覚えた。
 朝の香りは、立ちならぶ木立に射しこんでくる斜光にともなって、特有の香りへと発展し、五感では聞き獲(と)れるが、眼では不可視の風土なのだ。そう思う虎彦は、その木を杉とすれば京都北山、山毛欅(ぶな)なら白神、扁柏(ひば)なら津軽、紅葉ならば嵐山、桜なら吉野、桧(ひのき)なら木曾など、このそれぞれが無双の朝の香りを持っていたことを覚えると、耳朶(みみたぶ)が記憶するその香音を聞いていた。
 かって虎彦は吸い寄せられるようにして、それらの場所へ朝の香りを求める旅をしたことがある。比叡で育ち、その風土と共にある香織をかたわらにして虎彦は今、日本各地の朝の香を訪ね続けた日々を思い返していた。
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「吾輩は・・・、湯葉の香りから名残り雪の気配を抱くことがある。京都に暮らすとは、そんなことではあるまいか。香織の感じる雪の匂いも、やはり京都の季節に順応した節分の匂いなのであろう・・・」
 と、推測してみると間もなく節分なのである。
 その節分の日には、縁起のいい方角を向いて太巻きの恵方巻を食べるが、京都の禅寺における太巻きの具材には卵焼きの代用に生湯葉を使う。つまりこの湯葉が吾輩の節分の香りだ。
 その節分は、冬季ではあるが、しかし、翌日が立春であるから、すでに春の匂いの濃い冬季だとなる。香織がいう雪の匂いとは、この春の香り濃い節分の空気感なのであろう。本来、この節分は文字通り季節の分かれ目のことで、立春、立夏、立秋、立冬の前日をさし、したがって一年に四回あった。

         月も朧(おぼろ)に白魚の
         篝(かがり)も霞む春の空
         つめてぇ風もほろ酔に
         心持好く浮か浮かと
         浮かれ烏の只一羽
         塒(ねぐら)へ帰る川端で
         棹(さお)の雫か濡れ手で粟
         思いがけなく手に入る百両
         ほんに今夜は節分か
         西の海より川の中
         落ちた夜鷹は厄落とし
         豆だくさんに一文の
         銭と違って金包み
         こいつぁ春からぁ延喜(縁起)がいいわぇ

  さんにん三人吉三廓初買 動1 gif

 吾輩はふと、歌舞伎狂言「三人吉三廓初買(さんにんきちさ くるわの はつがい)」の序幕、お嬢吉三の名科白(めいセリフ)を思い出した。このセリフは、冬が春に変身することの風情を縁起づけた。吾輩は主人・阿部秋一郎が河竹黙阿弥の作風を自慢する話を何度となく聞かされた。清原香織に限らず、阿部家では節分前後の降雪は縁起佳きモノの例えとなっている。
「つまり・・・、香織のいう雪の匂いとは、冬が終わる匂いなのだ。最期に雪は春濃く匂うのである・・・」
 と、思い、吾輩も香織の陰にあって雪の気配にそっと鼻先を向けた。
 たしかにそのとき、乾いた空気が、妙に鼻の奥と喉のあたりで濃厚に混ざった。そして吾輩の眼の中に、白いまるい浮遊物が現れた。それは、やがて、睫毛のうえで起きた小さな風に吹かれて、吾輩の唇に落ちては、そしてトロリと溶けたのであった。

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「老先生ッ、雪ふると、また脚ィ痛うなりはるわ」
「・・・・」・・虎彦は、ぼんやりと四明ヶ嶽を見上げて無言であった。
 奈良まで行けるのか、と香織は心細くなっていた。雪が降り始めると、信彦の、決まって患っている脚が痛くなる。しだいに痛みは背中まで走り、やがて膝が疼くようになると、もう全く歩けなくなって支えきれない香織が困るのだ。その体験を虎彦から度々させられていた。
「しゃないなぁ~・・・」
 香織は、微かに心に重荷を感じ、深山(みやま)をみてまどろむような、小さな声でいうのである。
 聞こえてはいたが、虎彦は口を噤(つぐ)んで何もいわなかった。冷たさに焦(じ)らされる時間が嫌だからと舌打ちして、この颪(おろし)が止むものではない。虎彦は、たゞ眼だけを、いとおしく香織の方へ向けた。
 たしかに香織にしか聞き分けのできぬ比叡の朝に雪を孕(はら)ませた匂いがあるのであろう。二人の眼と眼が合って、香織の純真な眼の輝きにふれたとき、虎彦は一層いとしさが増した。
 この娘には、この世の中を〈どうか幸せに生き抜いて欲しい〉と願いたくなる。
 ともかくも、過去も、現在も、視界に汚いものがあり過ぎる。辛いもの、苦しいもの、嫌なものを見ないでは生きてゆけない毎日ではないか。不幸とは、そんな視界の貧しさから生まれ出るものだ。眼の前には未来を見つめられる香織がいる。そう思う虎彦は昨夜、寝る前に書斎の窓を開けたことを思い出し、こじ開けた過去の時間が訝(いぶか)しく想い起こされた。
   ねこと老人 1
「そうだ・・・、そうなんだ・・・!。虎彦先生・・・、もっと過去の時間をこじ開けてくれ・・・!」
「そのために吾輩は、こうしてやって来たのだ・・・!。そのために・・・」
 と、この二人の気配を吾輩は何よりも今敏感に感じている。
 吾輩はそろそろ冬の雪が解ける季節が近づくと妙に疼くものを覚えるのだ。そのことと雨田虎彦が奈良で生まれたことは決して無縁ではない。おそらく虎彦先生も承知している筈だ。
「猫に限定してその保護を論じると、それが動物愛護保護法に抵触するだと、まったく冗談じゃないぜッ・・・!」
 たしかにこれは、他の動物に対する偏見に成るのかも知れぬ。牛や豚だって当然動物である。鰐皮やダチョウ皮など、他の動物の皮も常に人間社会では利用されてきた。ミンクなどは、毛皮を取るだけに飼育されている。可愛いモルモットも、医薬品開発のために命を投げ出してくれている。人間はそう考えているようだ。
 だが昔は、鯨の頭の中にある油を取るだけのために、アメリカなどは鯨を絶滅に追い込むほど乱獲し、その肉や骨などは海に放置していた。アホウドリだって、羽布団の中身にするために沢山命を落とし絶滅の危機に至っているではないか。その不幸な経験を生かして、動物の保護や命を無駄にしないための「動物愛護保護法」が制定された経緯がある。しかし、それはあくまでも動物を虐待したり無駄に命を奪うことを禁止する物であって、人間のために利用することを禁止する物ではない。

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 人間が快適に生活し、健康に生きて行く上で生物の命の恩恵を受けないわけには行かないであろう。そこは吾輩にも理解できる。吾輩らがネズミを捕獲して食用に用いるのと同じだ。だからこそ、すべての食料品や生活用品は、必ず他の生き物の恩恵を受けていることを理解し、その生き物に報いるために無駄な消費をしないように心がけ、常に感謝する気持ちを忘れないようにしたい物である。
 三味線の話になるが、最近は猫の減少など様々な理由から、だいたいは犬の皮で作られている。人口皮や代用皮も色々出てきてはいる。
 猫皮や犬皮の調達は専門の猟師が、野良猫や野良犬を捕獲してくるようで、これに関しては「伝統芸能に関する生業(許可制)」として、動物保護法からは今のところ免れている。ただし実際には愛護団体からの反発は強く、また団体が国会議員に「法で禁止するよう」陳情をし現在上げているという話もあるから、この捕獲も近いうちには禁止となるかも知れないという。
 ちなみに現在、猫の皮で三味線を作る職人(会社)は1件だけとなった。この職人は伝統芸能の表彰(勲章)が与えられている。この職人芸は、どにも凄いようだ。廉価版一棹でも60万円もする。吾輩はこの会社を幾度となく偵察しているが、張られている側が同僚の猫なので、その捕獲や養殖に値が張るのかとふと思って、そっと窺ってみたのだが、あれだけ手間と職人芸が詰まっていれば当然安物でもかなり高値になる。
「飼い猫を失敬する。それは野良猫を捕獲するより簡単で、きちんと飼われているので栄養も充分で皮の状態も良さそうだ。なるほど・・・、だがまったく冗談じぁない・・・!」
 と、妙なざわめきを過ぎらせた吾輩は、これから二人が向かおうとする奈良の方角をじっと見据えた。そこには世に祭ろわぬ人々が蠢いた歴史の邂逅がある。


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                              第4話に続く

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                     みうまそうたろう 文字 かな 正

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       京都 大原 三千院 冬景色。



      
       京都 冬景色。



      
       京都・西区 洛西竹林公園近くの道。



      そうごリンク
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      きょうと 2はなそとば 2

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      京都 花そとば



      つきの暦  2013年2月

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小説『羅淵庵』 第2話

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      ごえん五圓札 動2 300 gif     らしんあん三部作

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              第一章 八瀬童子(やせどうじ)   

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      一  月の跫 (つきのおと)   



 明日は月あかりのない、朔(さく)の日である。
 そうした無明な下弦の終わり日ともなれば、しじまな崖下へと降りる階段あたりから、しだいにその底に凍てついて沈むような侘しい茶室までの間は、まったくの暗闇であった。灯り一つ無ければ、香織の若い肉眼でさえも、もう何の影さえも追えぬ怖い暗がりの淵を厚く重ねていた。
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「動物愛護保護法に抵触するのではないか、と気遣ってくれた・・・!」
 芹生の里から八瀬の別荘まで吾輩の足なら20分ほどである。久しく香織とも逢ってなかったが、元気そうな気配に以前香織が吾輩らを弁護してくれた言葉を嬉しく思い出した。
 吾輩ら猫族の生皮をなめして三味線の革に使用する。
 香織はこの件でラジオの深夜放送に素朴な疑問を投稿してくれた。
「三味線は猫の皮を使うと聞いていますが、では、この猫はどこで調達するのでしょうか?その辺にいる野良猫でも捕獲するのでしょうか。それとも猫のブリーダーのような人がいて皮の状態の良い猫を使うのでしょうか? 動物愛護保護法に抵触することは無いのでしょうか?・・・」
 と、いうリスナー香織からの葉書だった。そしてパーソナリティーの女性は次のように答えた。

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「現在は,猫皮の大半は中国あたりからの輸入だそうです。食用に飼われているものから,皮を取るようです。国内では非合法の猫狩りは今でもいるようですが、野良猫は皮の質に問題があることが多く(傷があると強度に問題が出るので売れない)、飼い猫を狙う例が後を絶たないらしいです。この場合は動物愛護法以前に,窃盗や器物損壊に該当するので話になりませんね。さすがに最近は合成皮などが多くなっているでしょうが、高級品は現在でも猫の皮を使います。しかも、若くて妊娠経験のない雌猫が最高級品だとされています。やはり野生の猫では品質に問題が有りそうですね・・・」
 吾輩らに現在もなお深刻な問題を突き付け続けている人間の歴史がある。この点において京都の市井は危険地帯なのだ。吾輩は、祇園、先斗町(ポントチョウ)、上七軒などの花街はなるべく歩くのを控えている。三味線の音色を聞くと鳥肌が立つ。

       しゃみせん三味線 1 W500

「老先生、あし悪いし、お歳やし。もうそろそろ、この階段おりれへん思うわ。階段、えろう凍りついとるし、きっと足ィ滑らせはる。うちかて危ない階段やさかいに、ほんに心配なことやわ」
 と、手燭を点した香織は、階段の降り口の杭にくゝりつけられた温度計の摂氏3℃をたしかめてからそう一心に気遣うと、そろりそろりと滑りそうな階段を一歩ごと慎重に踏みしめておりた。
 さきほど準備を終えた炭点前の用具一式を抱えて、その三十段はあろう階段はいかにも長い。両手をふさがれたまゝ、それでも息を詰めてようやく転ばぬように降りた香織は、そこから先、小さな手燭などでは眼の利かぬほど暗い茶室までの飛び石を足さぐりに渡りつゝ、きたる一日の安寧(あんねい)をていねいに畏(おそ)れて七つある石燈籠の燭火を順番に点しながら、ようやく茶室のにじり口まできた。


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「たぶん、昨日と同じなら、後ちょっとや。もう少し待たなあかん・・・」
 そういって茶室の裏側へと回った香織が、腰掛石から、虎彦の寝室に灯る小さな明かりだけを頼りにながめ仰ごうとする山茶花の大樹は、天空の高みでも垂直に仰ぎみるような柱状凹凸の崖の上にある。
 虎彦の寝室はその大樹と隣り合せだが、寝室の窓を開いて茶室をみようとすると、古風な青銅葺(からかねぶ)きのその屋根は、谷間でものぞきこむような高さの距離を感じさせる視線の先の、その奥底にようやく感じさせるほど小さかった。この深い谷底は、昼間でも太陽とは無縁の昏(くら)い暗がりなのである。
 しかし、晴天時に限り、一日に一度だけ光りの降りそゝぐ瞬間があった。
 眼をつむると、すでに香織の頭の中では、うす紫の仄かな渦が巻き起こっていた。
 腰掛け石にすわる香織は、その時をじっと心待ちにした。それは朝まだきから黎明の生まれようとする間に起こるのだ。比叡山を越えて生まれ出ようとした朝陽が崖の岩面を射し、その凹凸で屈折した反射光が垂直に谷間を抜いてふるように染める。そのときのみ、茶室が青白く照らされながら谷底に映える一瞬であった。
 香織はその瞬間をじっと待っていた。
 茶室の裏の庭前は、きれいに箒(ほうき)の目をつけて掃(は)き清められている。
 これは昨日の夕刻に香織の手で丁寧に掃かれたもので、雨の日を除けば、香織が毎夕している仕事なのであった。この掃き清めた庭土に、いちめんの白い散りさゞんか遺されてある。
 それは皆、夜の間に散らされた花なのだ。

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 香織はまだ真っ暗い庭に、眼を凝らしてその花々の散華をみた。
 あまりの暗さに、マッチを擦って、指でかざしては揺らして、庭土の奥をじっとみた。
 厚く深い白なので、あざやかに泛き残されている。それは清らかな純白ぶりだから、闇のなかに消え惜しむかに泛き残っていた。暗闇だから一層そうさせるのか、遠目からもあざやかに白い。見開いた眼でその白を確かめ、また眼を閉じてみてはその白を想い泛かべた。
 繰り返しそうして、また眼を閉じた香織は、崖の上に咲いている、暗闇にみることのできぬ白いさゞんかの花を、そっと瞼に描きながら光りに照らされる谷間の一瞬を待った。


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「ああ~、これやわ。きっと、これが聞香(もんこう)なんや。香りは嗅ぐもんや無い、聞くもんやと、老先生はそういゝはった。聞くとは、ああ、ほんにこれなんや」
 崖の高みの上から白いさゞんかの、ほのかな甘い香りがふり落ちてくる。そう感じとれて、ふと眼を見ひらいた途端、香織はかすかな音をたてて土に着く、白い花びらをみた。
 みあげるうちに、ひらひらひらり、ひらり、はたりと、白い花びらが不規則な時間差で舞い落ちてくる。それは決して桜のようなふわりとした散り様ではない。さゞんかの白は、ほのかな青白いむらさきの光りを身に纏い、その光と一緒にしつかりと重く舞い降りてきた。
 そうして、その散りじりの庭土を見渡すと、散り終えた白い花びらが、仄かに淡いむらさきに染め上げられて、いつしかぐるりと廻る散華の紋様が描かれている。小さな黒い築山の岩上にも点々と降り落ちていた。


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 しばらく香織は立ち竦み、手にとれないでいつ散り落ちるか判らない花びらをひたすたに待ちながら、肩に背に、あるいはコッンと黒髪の上に、大樹を離れて遠く庭土に着くまでの清浄な白い花びらを、じっと眼や肌に感じては、香織はたゞ一心にその白を身にとまらせたいと願った。
「ああ~、えゝ匂いや。ほんに、しィ~んと、真っ白な声ださらはッて、きっとこれ、散りはッたんやないわ。もう、お花やのうて、お山の仏はんに、変わらはッたんや。何やうす~い、むらさきィの天衣(てんね)ェ着はって、舞いはったんや。そんなん、じ~っと見とったような、うち、何やそんな気ィするわ。ほんに、えゝ匂いやった」
 十数分間のつかのまの、散り落ちる花びらのを待つ時間の何と厳粛(おごそか)なことか。たしかに開いた花は、咲けば散る。しかもその花は、たゞの白である。そして花の名は、さゞんかに過ぎないのだ。そのたゞの、さゞんかは、やがて形跡もなくなり土に還るたゞの花びらである。


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「たしかに、そうかもしれへん。しれへんのやが・・・、せやけど、あの鐘の音ェは一体何んやろうか?。どこぞの寺ァの鐘の響きやない。六時の鐘、鳴りよる時刻やあらへんし・・・・・」
 梵鐘が響くように、そんな音をさゞんかの口が、そっと洩らしたような気がしたのだ。
 あれは、やはり空耳などではない。そう感じた香織は、もう一度ざっとあたりに眼を通してから、眼を閉じてみると、その鐘の音は澄まされた耳奥で、まだはっきりと感じとれた。眼に眠る花びらの中で鐘の音が鳴っていた。

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 香織は黎明の刻限に合わせてその落ちる間を逍遙(しょうよう)としたとき、見える者には感じとれない花の声や、見えぬ者こそが感じとれる声の匂いを、たしかに聞きとれたのだ。そして香織にどっしりとした比叡山の土の香をじ~んと感じさせてくれた。
「ハッ、せやッた。お花や、茶室のお花や。せやッたわ。老先生、待ってはるんや・・・」
 はっと、そう思い気づいて、それでも数分間、散らされた花を踏まないように、庭前の小さな余白をうろうろと歩いた香織は、もう午前五時過ぎには茶室にいて、茶の湯の席を整え、間もなくやってくるであろう虎彦の杖音を聞き逃すまいと、ことさら耳を澄まして待っていた。


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「あ、来はッた。ふう~っ・・・滑りはらんと来ィはったんや」
 三つ脚のような老人の足音は、片足をかばうために、どことなしかぎこちなく定まりの悪いステッキを撞(つ)きながら凍てつく石道を危なげにやってくる。谷底は風のない静寂の中にある。虎彦の杖の音だとわかった。その音を聞き取ると、急(せ)くように香織は、戸口から身をにじり茶室の外にでた。
 そうして四つ目の燈籠の灯の中に虎彦の影がゆれて露(あら)われたとき、小さな波立ちを胸に抱えながら、香織はその影に向かって歩きはじめた。

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 虎彦は茶室へと向かいながら、この二、三日、深閑として凍りつく谷底がひっそりと暗い美を湛えていることに神秘さを抱いてはいたが、燈籠の灯を過ぎりながら白々と揺らぐ香織の影がその神秘さの上に重なり合うと、それは比叡の山にこめられた永遠の祈りを凝縮したような透明な時間の過ぎりではないかと感じられた。
 そうして二つの影が並び合おうとするとき、
「かさね、七時には発つ。その心づもりでな」と、
 いう重たげな虎彦の一声に、香織は別に驚きもせず、無言(しじま)のまゝ軽くうなずいた。
 香織は、二人の会話や立ち振る舞いにも、一日のうちで一番うつくしい旬があるということを、香道や茶道に親しむ虎彦から教わっていた。それは、さまざまな草木が季節ごとに花をつけるのと同じ、確実にその日がめぐってくる自然の循環と等しいのである。そういう虎彦の和服からはほんのりと、昨夜、香織が焚きこめた伽羅(きゃら)が香りたち、虎彦はすでに茶道に篭る人となっていた。スレ違う二人の影は、いつものようにここで別れ、それぞれが二つの闇の中へ消えた。

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「鐘の音といえば、吾輩も時々聞こえてくる・・・!。これは、どうやら血筋のようだ・・・」
 と、吾輩には香織に聞こえた鐘の音が、決して空耳ではないことが判る。
 そもそも珍野家で飼われていた吾輩の祖は雄猫である。その祖は、漱石先生の綴り遺した本編の語り手で、名前はなく、「吾輩」と1人称で名乗りを上げた。人間の生態を鋭く観察し、猫ながらも古今東西の文芸に通じており哲学的な思索にふけったりする。そして人間の内心を読むこともできた。
 三毛子に恋心を抱いたりもする。だが最期は、ビールに酔い、甕(かめ)に落ちて出られぬまま死ぬ。これが吾輩の祖の顛末だ。その祖は、年齢「去年生れたばかりで、当年とつて一歳だ」として東京に生まれ、「猫と生れて人の世に住む事もはや二年越し」と生きた。

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「そんな吾輩の祖は、どいやら鐘の音を甕の中で聞いたようだ・・・!。その血が吾輩の体内にある!」
 吾輩の祖の飼い主は、文明中学校の英語教師であったが、その父は場末の名主で、またその一家は真宗であったようだ。吾輩の祖が、顛末で鐘の音を聞いたことは、その真宗と無縁ではない。
 しかも苦沙弥先生を吾輩の祖は、際限なく観察し過ぎたようだ。頭髪は長さ2寸くらい、左で分け、右端をちょっとはね返らせる。吸うタバコは朝日。酒は、元来飲めず、平生なら猪口で2杯ほど。わからぬもの、役人や警察をありがたがる癖があった。はからずもそんな洞察力に吾輩の祖は秀でていた。
「たしかに過ぎたるは及ばざるが如し・・・。あまりにも膨大な珍野家に関わるパロディを見過ぎた・・・!」
 窃盗犯に入れられた次の朝、苦沙弥夫婦が警官に盗まれた物を聞かれる件があるではないか。あるいは『花色木綿(出来心)』の、水島寒月がバイオリンを買いに行く道筋を言いたてるのは『黄金餅』の、パロディである。迷亭が洋食屋を困らせる話にはちゃんと「落ち」までついている。綴り遺した漱石先生は、三代目柳家小さんなどの落語を愛好したが、吾輩の祖の人生は、落語の影響(パロディ)が最も強くして縛られてしまった。
「黄金餅・・・か・・・!」
 寒月は苦沙弥の元教え子の理学士で、苦沙弥を「先生」とよぶ。なかなかの好男子だが、戸惑いしたヘチマのような顔である。富子に演奏会で一目惚れした。高校生時代からバイオリンをたしなむ。吸うタバコは朝日と敷島。そんな祖先話を思い出した吾輩は、香織のこしらえた椿餅(つばもち)をじっと見つめていた。


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 茶の間の円卓の上に京焼、三代道八(どうはち)の青磁があり、その雲鶴模様の大皿には椿餅がつんであった。
「香織、おはよう。何かお祝い事でもあるの」
 というのは、ようやく目覚めて、かんたんな化粧をすませた虎彦の一人娘の雨田君子である。仁阿弥道八といえば京焼を代表する窯元であり、明治の三代道八は青花、白磁の製作にも成功し、刷毛目を得意とさせながら煎茶器の名品など多数製作した。その手からなる雲鶴大皿は狸谷の駒丸家より譲り受けた逸品であるが、普段はめったに人目に曝(さら)されることのない父虎彦の寵愛する蔵品なのである。そうした由緒ある雲鶴の有無を言わさず白い餅が平然と陣取っている。朝の空が白む時刻でもあるから、かぶいた餅の、その胸のすく思いをさせてくれる格好が、君子の眼にはじつに豊潤であった。

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「あ、君子はん。小正月くるし、通し矢やさかい、お祝いしょ思いましたんや。この日ィは女将はん、うちらもお祝いやいうて、よう作らはったんやわ。女将はんみたいにはじょうずにできへんけど、今日、奈良行きますやろ。せやから、君子はんに、食べさしてやろ、そう思たんや。祇園には電話したさかい、午後に初音姉さん来るいうてましたから、半分は女将さんとこの分やさけ、姉さん勝手に持っていかはる思う。君子はんは何も構うことあらへん。気ィ使わんと部屋にいらしたらよろしおすえ。念押しときましたさけ・・・」
 通し矢とは、三十三間堂のことである。香織がそういうのを聞きながら、君子は食卓の上をながめ、母もなく誰も節目を祝ってくれた覚えもない少女時代を思い返した。
 これまでは、父と娘の二人っきりの味気なく侘しい生活に慣れて見過ごしてきたが、白あんの餅に紅をひき、窪みのところに黄色い花粉をあしらう橙皮(とうひ)の粒が色目を立てて散らしてある。それを見ているうちに、無垢(むく)だったはずの少女時代がよみがえって、君子は淡い感傷にさそわれた。

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「お父さま、まだ茶室かしら・・・」
「もう、お上がりにならはッてもよろし時間やけどなぁ。そろそろお食事、しはらんと・・・」
 その虎彦であるが、眼を見開いたまゝ、やゝ神妙なおももちでまだ茶室にいた。
 客座に散らさてた白い花びらは、香織が拾い摘んださゞんかである。花は、それだけしかない。一見、素人の娘が無造作に散らしたようにみえるが、その自然なせいか黎明の迫る暗い茶室の中に白い小さな宇宙でも区切るかのようにみえた。それを客人に見立て、一通りの茶道の形を終えた虎彦は、
「かさねの奴、花びらを相手に茶など点てさせて・・・」と、
 花びらとの独り点前に、たゞしずかに茶碗を差し出すと、幽かな影に揺らされ息を吸い込むような動きをみせながら、逆に、吐息に似たものを洩らした。

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 茶道をたしなむと、侘びた可憐な花にたたみこまれた奥行が、虎彦にふと、自分をみつめることを促したりする。そう気づいたのは、いつのころであったか明確な記憶はない。もう四十年近く茶の湯に親しんでいるが、有りそうであって、そうそうには無いような気もするのだ。
 花の蕾(つぼみ)とは、いつとはなく襞(ひだ)のほどけて、咲ききってしまうまでの間に、頑(かたく)ななものを綻(ほころ)びさせてゆく時間があろう。白さゞんかの、その時間の長さと深さとが虎彦の胸に強くしみた。
 八十二歳になる現在、
 年に一度、年齢が避けようもなく加算される日が、このように繰り返し来ることなど、信じがたい事実のように、それも花の綻ぶ襞のふかさに例えられることなのであろうかと考える虎彦は、六時半にはもう朝食を終え、ひとり書斎の窓辺にいた。
 そうして深くソファーに腰を沈めると、全くあてどない思いが去来した。
「あれはM・モンテネグロと見た、あの空の色なのか?。いや・・・そうじゃないな」
 虎彦はどこで見たのかも思い出せない青い空のことを考えていた。脳裡に残り消えないでいるから、それも人生の真実には違いない。何かのきっかけを待っていた自分に、今回の奈良行きが、何か思いがけない変化を訪れさせるのではないか。それが何かはまだ分からないが、七十年も忘れようとして拒みつゞけた奈良である。もう二度と近づくまいとした、ひからびた奈良の裏面に、何か大切なものが沈めこまれているような気がした。
「かさね、そろそろ発とうか。君子は・・・、その大きな荷物を宅配で奈良ホテルまで送っといてくれ。途中、寄り道のため少し歩かねばならない用事があるのでね。頼むよ」
 と、そういって黒いステッキを香織に持たせた虎彦が、コートの袖に手を通しながら居間の窓をうかがうと、ようやく外の敷地が仄かに白みはじめていた。



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                              第3話に続く

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       京都 大原 三千院 冬景色。



      
       京都 冬景色。



      
       京都・西区 洛西竹林公園近くの道。



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      京都 花そとば



      つきの暦  2013年2月

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小説『羅淵庵』 第1話 序

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              第一章 八瀬童子(やせどうじ)   

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      一  月の跫 (つきのおと)   1   序



 夜半の虫養いにと、にぬきを食べた。好物のけんずい(おやつ)である。
 しかし吾輩は鰻だけは食べないモノと固く心に決めている。
「人間社会の渋滞に巻き込まれると何もかも台無しになるからだ・・・!」
 冬のシラスは、八月になると蒲焼になる。八月は盂蘭盆会、人の精進月ではないか。近代から現代、この季節になるとウナギは月を見上げて拝むことになった。「土用の丑(うし)」とは、何んと殺生なことよ!。商売がうまく行かない鰻屋が、夏に売れない鰻を何とか売るために出した悪知恵だ。前途多難な生命としてシラスウナギは回向するようになる。
「ウナ重は棺桶(かんおけ)に見えて、丑の日の旗がなびくと何とも憂鬱になる・・・!」
 蒲焼の匂いと煙は荼毘される鰻の悲しみではないか。霊長類を気どるも最も卑劣な人間の所業というものである。それでもって天国や極楽を所望するのであるから、何とも稚拙な行動規範といえる。困った動物である。

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「そもそも・・・、大伴家持の歌がいけなかった。この歌に鰻の災難が始まるのだ・・・」
 759年(天平宝字3年)の『万葉集』の中に、大伴家持(おおとものやかもち)による和歌が収められている。

        石麻呂尓吾物申夏痩尓吉跡云物曽武奈伎取喫

 これを現代の言葉に翻(ひるがえ)すと「石麻呂に私はこう言った。夏痩せにはウナギがいいらしいから、獲ってきて食べたらよい」とでもなろうか。万葉の当時から夏痩せ対策にウナギを食していた事を示すのである。
 さらに家持は、太平洋戦争中に玉砕を報せる大本営発表の前奏曲として流れた「海ゆかば」の作詞者でもある。大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父・安麻呂、父・旅人と同じく律令制下の高級官吏として歴史に名を残す。三十六歌仙の一人として彼は、天平の政争を粛々と生き延び、延暦年間には中納言まで昇った。そうした高名からか、どうにもプロパガンダに悪用されて後世を汚す宿命でもあるようだ。
 それにしても吾輩が思うには「この家持という男に顕(あらわ)れた本朝文人の悲願の志は、悠久な日本そのものの初心であろう。日本の文人としての志を最も激しくし、最も雅に体現した」といえる。家持は14歳にして佐保大伴家を背負って立つこととなり、天平期から度重なる遷都を繰り返す動乱の道を踏んで激動の人生を歩んだ。

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 日本人の食文化にウナギが登場したのは新石器時代である。その時代の遺跡から発見された魚の骨の中にウナギのものも含まれており、先史時代からウナギが食べられていたことになる。鰻の蒲焼が登場する以前のうなぎの食べ方は、ぶつ切りにしたウナギ、あるいは小さめのウナギを丸々1匹串に刺し、焼いて味噌や酢をつけるというものであった。江戸初期の1661年(万治4年・寛文元年)ごろに、浅井了意(あさいりょうい)により書かれた『東海道名所記』の中には、鰻島が原(現在の静岡県沼津市原)付近を描いた挿絵に、大皿に盛られたウナギの串刺しが描かれている。
「この浅井了意が僧侶であったこと、神道に通じていたことが、鰻としては酷く迷惑な人物の出現となったようだ・・・!」
 京都出身の江戸時代前期の浄土真宗の僧で仮名草子作家である。父は東本願寺の末寺本照寺の住職であった。父が本照寺の住職を追われ浪人したが、了意は儒学・仏道・神道の三教に通じ、その後京都二条本性寺(真宗大谷派)の昭儀坊に住した。
 徳川家康の時代に、江戸湾の干拓が行われる事によって多くの湿地が出来て、鰻が棲み着き労働者の食事(雑魚)として串に刺して食べられた。その後、しだいに庶民に広がって、江戸の料理となり、「鰻屋でせかすのは野暮」、「蒲焼が出てくるまでは新香で酒を飲む」などと言われるほどになった。こうしてウナギの災難は、やがて「土用の丑」の専売と宣伝されるようになって始まることになる。以来、ウナギを開いてタレを付けて焼き上げたものを「ウナギの蒲焼」と呼ぶ。江戸幕府による四書五経(ししょごきょう)の奨励は鰻屋に妙な悪知恵をつけた。

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                     うなぎ 蒲焼

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「この悪知恵はサグで陥る醜態だ・・・!。人間はこのサグに盲目である・・・!」
 サグ(SUG)とは・・・、下り坂から上り坂に変わる区間。この区間において人間社会は約60%の時間を渋滞させている。迷惑甚(はなは)だしい限りだ。サグ・・・、いつもこの同じ場所で渋滞する。峠しか見ておらぬ。人生とはそう甘いモノではない。大抵、下り坂から上り坂の谷底で人は生きている。どうやら人間はこのサグを理解していない。じつは、珍野 苦沙弥(ちんの くしゃみ)先生も偏屈な性格で、胃が弱く、ノイローゼ気味であったが、その顔の今戸焼のタヌキとも評される明治男が、このサグで悩んでいたようだ。

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 サグは科学工学技術用語で、直線波形のひずみの一つ。出力パルスの頂点の傾斜を示す。「たるみ」「たわみ」を意味し、道路における下り坂から上り坂への変化点となる。この地点において、渋滞が多く発生する。発見したのは人類であるが、しかし自らの人生に応用できないところが、人間とはじつに滑稽である。比べて吾輩も、鰻も、蝉までもが能(よく)心得ている。
「だから・・・、蝉はカナカナと鳴く。しかも男ばかりが・・・」
 滅法な話ではないかと、深い眠りに入れない夜がいた。人が寝静まるとも夜は起きている。そんな夜の気配を感じながら、それでも乏しい未明のひかりが、下弦の底の暗闇を眠らせようとする午前四時、朝まだき芹生(せりょう)の里には人知れず遠い閑(しず)かさがあった。
「吾輩は・・・、祖である!。・・・」
 その名無しの祖の、血筋通り、吾輩もまた居候である。
 貴船の奥の峠を越えて、つまり都から鞍馬に向かう手前の追分を左上がりに北山へと分けいると、山迫る谷間の小さな里にでるが、ここが芹生である。

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 灰屋川の上流になる清らかな流れがあるが、山迫る谷に吾輩が間借りする阿部家の廃屋はある。都の市井からはさほど遠隔なところでもないが、一山越えると酷い豪雪地帯だ。近年では冬場の芹生に人の気配を感じさせない。ここは夏場だけの避暑地なのである。
 標高700m近い。 冬は雪が深く、無人の村となる。夏でも三軒ほど住んでいるだけの村内に、阿部家の隆盛も寂れ廃屋だけが花背峠へと向かう山裾にポツリと残されていた。

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 そんな淋しい芹生の里の水温むころに、ふと、聞きなしにカナカナという、甲高い鳴き声が聞えてきた。訪うその声は何年も暗い土の中で過ごして、ようやく地上に這い出した小さな山守(やまもり)の遠吠えであった。たゞひたぶるに恋う心だけがある。
「何と切ない遠吠えであろうか・・・!」
「潰(つい)えても愛だけは希(こいねが)う・・・!」
 この恋唄を聴く季節になると吾輩は、この地球上のどこかには、まだ自分が身を浸(ひた)したことのない美しい海が残っているのではないか、と、年齢がもたらしたずっしりと重い理解で、我慢し難いほどに自身が古びて見えてくるのである。だがそれは吾輩が、鄙びた暮らしにいつしか愛着を持ったからであろう。
 まだき闇の中にあって凛々と身を焦がすかのような声であるだけに、それが、ひと夏の小さな命だということには、不思議に注意が向かなかった。それは風騒の人曰く、岩にしみて、おし黙らせた声であるからだ。
 そしてしばし吾輩もまた一夜の乞食となる。すると、束の間の朝と夜のあわいに廃屋のすぐ裏には梅雨明けの杉山が広がっていて、小さな山守の遠吠えを聞いた。

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 毎年、杉雨(さんう)の風情を序に従いて、このヒグラシの薄暗い声が夏の到来を告げてくれた。このようにして阿部家の住人は代々、未明に起きて暦を春から夏へとめくり替えてきたのだが、昨年の八月に吾輩は、灰屋川の水面に映る流れの中の老人を見て、何かそぐはないものを感じ、すこし眉を寄せた。
 50年前に主人の阿部秋一郎が井戸の上に置き忘れたもので、吾輩にプレゼントしてくれたものではないが、その太い丸黒縁の眼鏡をかけてみると、どうも自分らしくない。吾輩の、祖父のものを貰った黒眼が勝った丸い眼は、いく分怪訝(けげん)な表情になっていた。
 元来、吾輩は眼鏡などして顔の形を整えるなど好まない質(たち)である。ひざまずく吾輩はもう一度、川の流れの上に眼を走らせた。自然、他人の顔じみてくる。今年だけはそれが無性に嫌であった。主人秋一郎はカナカナの声を聴きながら、一涙を遺して他界したのだ。桜が終わるとその祥月命日なのである。その秋一郎だが、加齢に従い弱る視力を養生することを洛北の村衆に常々切々と気遣いされながらも、それでも眼鏡にだけは抵抗があった。
 吾輩はその丸眼鏡をかけてみた。
 煮抜き卵が好物の、どうやらその吾輩は、六道の辻から生まれ出たようである。

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 京都には日本人が古くから美しいとした風雪の揺らぎがある。
 老人はそんな京都の感動を定義するために京都へと来た。そして洛北山端(やまはな)の八瀬(やせ)に別荘を建てた。あえて洛外を選び、終の棲家に瞑(ねむ)りたいと希望した。秋子にはそう思われる。

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 永訣の朝、雨田老人の枕の下には、五円風土記『1対√2』という手記が狸谷の秋子宛に遺されていた。香織の整えた羅国(らこく)の香りを聞きながら眠りについた老人が、この世の夢の途中で鼓動を止めたのは、しぐれ雪の降る午前5時であったという。
 このとき秋子は、朝を迎えようとする比叡山へ名乗りの篠笛を吹いていた。
「さて・・・、出かけるとするか・・・!」
 1月29日、今日は老人の五円忌である。吾輩は鞍馬山の暗闇を越えて一乗寺下り松へと向かった。

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 古都は、まだ冬のつゞきである。
 昼のあいだ吹き荒(すさ)んでいた北風は、昏(くれ)から夜半になると急にとだえて、それまで空をうずめていた幽(くら)い雲の群れが、不思議なほど、あっさりと姿を消していた。
 こんな夜にかぎって、奈良の空は高く澄み、星がいっそう輝いてみえるのだ。
 大声をあげたいような歓びが湧き上がったわけではない。70年も以前の老人の遥かな追憶であるのだから。けれども、胸の奥が凛(りん)とひきしまり涼しくなるような、この清々しさときたらどうだろうか。たしかに当時、佐保山(さほやま)からながめ仰ぐ宙(いえ)の中は、さわやかな星々でいっぱいだった。どうやら天の配剤はそこで完結されたごとく、あれ以来そのまゝのようだ。
 そうした今も眼の奥に遺る星々の綺麗なつぶやきが、果たして佳(よ)き花信となってくれるのであろうか。京都八瀬の別荘でそんな夢をみせられた雨田虎彦が、七年ぶりに来日したM・モンテネグロの泊まる奈良ホテルを訪ねたのは、2002年が明けた仲冬の土曜日、ぼたん雪の降る乙夜(いつや)のことであった。

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 奈良へと向かうその朝の、比叡山四明ヶ嶽(しめいがだけ)の西麓は地の底まで冷えこんでいた。しかし、そうであるからこそ例年通りの京都なのである。京都山端(やまはな)の人々は、この比叡颪(ひえおろし)を安寧な循環の兆しとして知りつくしているから、虎彦の山荘も真冬の中に、たゞ安らかに寂(しず)まっている。
 そのような京の冬は紅葉の後にきっぱりとやってくるのだ。
 鉛色の空から降る冷たい雨に雪がまじるようになると京都で暮らす人の腹はきちんと据わるようになる。新春の山野はすがれてはいるが、しかしよく見ると、裸になった辛夷(こぶし)など、ビロードに包まれた花芽をおびただしく光らせている。山が眠る、などということは無いのだ。冬山は不眠で生きている。

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 ことさら洛北山端の冬は、枯れて黙したような身の内に、木々は深く春を抱くのである。虎彦に、遠い奈良の星々が甦(よみがえ)るように見えたのは、そんな朝まだき午前四時であった。
「ああ、胸奥に沈むようにチクリと隠されて、かるく痺(しび)れる、この香りは、白檀(びゃくだん)と、たしかこれは丁字(ちょうじ)だ。静かに小さな春でも爆(は)ぜるような快さではないか」
 ほんのりと寝顔をまきつゝむ快哉な香りを聞かされながら、血流をしずかに溶かされた虎彦はゆっくりと目覚めさせられていた。
「沈香(じんこう)の他に、これを加えてくれるとは、かさねの奴も、ようやく香道を手馴れてきたようだ。しっとりと肌に馴染まさせてくれている。天性のものであろうが、能(よく)したものだ」
 今朝の香りには、しずかなやさしさがあった。虎彦は人間としてのふくらみを感じた。

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 暗い眼では香木の形はとらえられてはいないが、焚(た)かないでも香る香木を取り合わせた、なるほどあの娘の手にかゝるとこうなるのかと、いかにも清原香織らしくあるその香りは、虎彦のこゝろの襞(ひだ)の上に、着なれた衿合せでもさせてくれたかのごとく、普段通りの躰できちんと納まっている。
 大きな山茶花(さゞんか)の一樹に隣り合わせた虎彦の寝室は、こんもりとした茂みが庇(ひさし)のような影を障子戸に映して一段と暗い。そうなるように天然の配剤で闇夜をつくりだす寝室の設計がなされていた。
「君かへす 朝の舗石(しきいし)さくさくと 雪よ林檎(りんご)の香のごとくふれ」
 白秋の「君かへす」がまず新鮮である。虎彦はていねいに、この歌の匂いを聞いた。
「サクサクと噛む、リンゴの歯触りがいいのである・・・!」
 香木の香りからこの歌が連想された日には、かならず虎彦の躰が若返るようだし、さくさくとその雪を踏んで帰る不倫の恋人は、青春の熱く清々しいヒロインのように老いた眼にはふさわしい。もっとも香りから或(あ)る種の映像が好ましく回想されることが、今の煩わしさを忘れつゝ眠る虎彦の夢の枕にはふさわしいのである。虎彦の嗜好にかなう冬歌の、白秋のこれはその一つであった。

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「何よりも白秋のこの歌には、みやびな歴史の中にあって今は忘れさられた大切な種の、モノの香を人の袖の香とするような、危うい恋を恐れない実際を背景にした人の香りと歌で向き合う交感がある。白秋は西洋の印象派詩人の薫陶をえた。この歌は、その印象のたしかな交感だ。歌声に人間が生きた真実の印象がある」
 虎彦にはこの歌にある、白秋の暮らす門や舗石がみえるところまできて「ああ、あの女(ひと)が」と、ひとあし、自分から近づいてゆくのが心うれしいのだ。
 毎年、冬にさしかかる時期はどこか、太陽が遠くなる心細さがあるが、すっかり真冬になってしまえばそこに寂しさが勝るようになるものだ。加齢するにしたがい、脚の痛みはその木枯らしに急(せ)かされるように増してくる。いつの間にか、そんな虎彦にとって眠りは厳(おごそ)かな真剣勝負のようになっている。日常の、脚(あし)の痛み止めの薬を一錠でも少なく控(ひか)えて痛みを抑えるために、虎彦の睡眠には墓の中のような暗闇と、無音の状態が必要だった。また以前には常用であった睡眠薬を控えるために、就寝時には鎮静作用のある香物を焚きしめた芳香が、今の寝室には欠かせないものとなっていた。

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 そんな漆黒(しっこく)の未明から目覚めた虎彦の、あたりのすべてが虚空(こくう)である。虚空蔵菩薩は虚空すなわち全宇宙に無限の智慧と功徳を持つ、京都において十三参りが行われ子供が十三歳になると虚空蔵菩薩を本尊とする西京区東山虚空蔵山町の法輪寺に参拝する習慣がある。明星が口から入り記憶力が増幅したと言うが、虎彦はその虚空蔵にでも抱かれているようであった。
 暗闇と芳香とで、繰り返したしかめる日常の、そんな虎彦にはあたりまえの話だが、虎彦はこの虚空がいちばん親しいのだ。時がまき戻るような、まき返せるような何事をも空暗記(そらんじる)ごとくの安らぎだ。今朝も寝室の四方八方、虎彦の親しい虚空がみしみしと満ちていた。

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「かの天竺(てんじく)のガンジャというものも、もしか、このようなモノであったのではあるまいか・・・。たしか空海は〈乾坤は経籍の箱なり(宇宙はお経の本箱)〉と言った。私はその乾坤(けんこん)で眠りながら虚空の音を聞いていたのであろうか・・・」
 芳香につゝまれて目覚め、虚空の層の厚さを感じると、肉や骨の重みがどこからどこまでがどうと、よく判らないけれど実に軽いのである。それは血が鎮められた重さか、気が冷まされた重さか、暗さと芳香とがもたらしてくれる芳醇な安眠が、適当に与えてくれる虎彦の寝室にいる身の重さとは、能(よく)した傀儡師(くゞつし)により計算し尽くされたように、なかなか、よくできていた。
 そうしてうっとりと眼をみひらき、暗闇に何をみるともなく辺りをながめる。やがて次にその眼の持ち主が何者であるかを自覚できると、ようやく虎彦の一日が始まるのであった。

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「旅立ちに、〈月は有明にて〉という。白河の関越えんと、しかし、こゝろ定まらず〈田一枚植えて〉立ち去る。そうして風騒(ふうそう)の人は関を越えた。だが、そう詩のようにはうまくゆくまい。この俳諧は、後の時間の中で推敲が加えられている。生々しい人間の声では無い。しかし、ああ、今日の覚悟とは・・・、何やらその田植えにも等しい、どこかへの手向けの花でも必要であろうか」
 田一枚植える間が、どうにも無性に気にかゝる。そんな虎彦は、虚空の時間からふと一呼吸はずして、ムートンの上に横たわる老体をおもむろに反転させると、うつ伏せのまゝベットの脇に手をのばし、居間の呼び鈴(リン)に通じるコールボタンを軽やかになった指先でそっとプッシュした。

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「老先生・・・起きはッたんやな・・・」
 そのころ居間で炭点前(すみてまえ)の準備をしていた清原香織は、床下の炉に用いる練香を入れた陶磁器の小さな蓋(ふた)を重ねて棚の上にしまい終えると、これが朝餉(あさげ)の仕度の次ぎにする日課なのだが、居間のカーテンを全開にして虎彦の寝室へと向かった。
 茶の湯では炭点前が終わると香を焚く決まりがある。その炭点前とは、茶を点てる前に、湯を沸かす炉や風炉に炭をつぐことであるが、風炉は夏季、冬季は床下の炉で、種々の香料を蜜で練りあわせた練香を焚くことに決まっている。冬の炉は何かと手間暇を喰う。虎彦は毎朝、ひとり点前を行っていた。

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「あとは・・・?、そうや、お花や。奈良のォ荷物、大きいのォは、もう準備すんどるし。せやさかい後は、小さいのだけや。ああ、今日は何や、てんてこ舞いやわ」
 と、もろもろの仕度に追われる香織は、昨夜のうちに朝餉の下ごしらえは済ませていた。毎日がこういう具合に、香織はいつも午前二時半には起きている。
 そうして虎彦の寝室のドア前に立つと、ノブ下に備えられた、琴の音が室内に小さくゆるやかに流れる音響装置の、手動スイッチをONにキッと押し上げた。
 この寝室に入るとき、
 虎彦は、ドアをノックすること、ドア越しに声をかけないこと、の二つを禁じていた。もしそうされたとしても不機嫌さを残さないために、外部との遮音壁が分厚く周到に施されて、多少の音も虎彦の耳には届かないのだが、それほど安眠を損なわぬ厳重な施工がなされていた。
「奈良から戻ったら、二月の曲えらばなあかんなぁ~。今のォ、もうあかんわ・・・」
 一月の琴の音は「春の海」が選曲されて、幕の内を過ぎた今でも、まだ新年を寿(ことほ)ぐかのような調べである。和楽を好む虎彦のため、この月毎(つきごと)の収録も香織の大切な務めの一つであった。
 しんしんと身を刺すような廊下に、京都の女なら「冬は、早朝(つとめて)、という」少しお説教めいた虎彦の習い事通りの張りつめた気構えで、香織はピンと背筋を伸ばし、しばし間合いをうかがうように立ち尽くしながら、虎彦がカチリとさせてくれるまで、たゞしずかに電子ロックの解除音を待つのである。
「老先生、おはようさん。・・・お目覚めいかがどすか?・・・」
 静かに部屋に押し入りつゝ、笑みて香織はさわやかな声をかけた。まだまだ修業中の身ではあるが、爽やかな笑顔だけは、苦にせずともいとも簡単にできる香織なのである。
「ああ、おはよう。おかげでぐっすり眠れたよ。ありがとう」
 虎彦はそう満足気にうなずくと、ステッキで躰を支えながらも椅子から軽やかに立ち上がった。その軽やかな姿を確かめるために、香織は毎日未明には起きて見守っている。虎彦は今朝も軽やかに立ち上がってくれた。
「そうどすか、よろしおした」
 たしかめた虎彦の言葉は、香織が毎朝ホッとして息を下げる安堵の瞬間である。厚い遮音壁に内部の物音がすっかり遮られるために、深夜にさせる虎彦の息遣いがいつも心配いになる。老いた主人への、万全なその配慮と気の配りが常に香織には課せられてあった。そう用心することが最も大切な奉公人としての心棒なのである。深夜から未明にはいつも気と眼を寝室に向けて研ぎ澄ませていた。そんな香織は、のっぴきならぬ用事が今朝も起きなかったとばかりに、ふう~っと肩から一息を軽く洩らした。
「せやッたら、もう窓ォあけて、空気入れ替えても構いませんやろか?」
「ああ、そうしておくれ。最近あまり使わなかったが、丁字もなかなかのものだね」
 虎彦がそういう丁字とは、南洋諸島で生育するチョウジの木の花のつぼみを乾燥させたもので、強烈で刺激的な香りをもつことから、世界中で調理のスパイスとしても重宝されている。クローブともいう。

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 多くはインドネシア原産であるが、古くから中国商人の手でヨーロッパに持ち込まれ、強力な殺菌・消臭作用で注目されてきた。 大航海時代にはスパイス貿易の中心的な商品の一つ。この甘く刺激的な香りは、当時、さぞや異国情緒をかきたてたのであろう。 日本人にも案外なじみ深く、江戸時代からビンツケ油や匂い袋の香料として使われている。ウスターソースのソースらしい香りもこのクローブのおかげである。
 名前の「Clove」はクギを意味するラテン語の「Clavus」、和名の丁字(ちょうじ)もクギを表す釘の字から来ている。「釘の形」と言われるだけあって、素材に刺して使うのに便利だ。玉ねぎや豚肉に刺してポトフやロースト・ポーク、その他肉を使った煮込みに使われている。その香りの主成分はオイゲノール。香りが最も効率的に抽出されるのは45度前後なのだが、香織はいつしかそんな知識も身につけるようになっていた。
「うちも丁字ィすう~として、ええ匂いや思う。せやけど・・・、うち、あの香り聞くの辛うて、たまらへん。なんやえろう悲しい花やしてなぁ~・・・。それ知ると、ウスタぁソース好きになれへん。店で見かけてもな、手ェ伸びまへんのやわ。そないしてると、いつも醤油買うとる。洋食の献立、つい和食に変えとうなるんやわ」
 ずしりと胸にきたのか、泣くような小声で香織はそうしょんぼりといった。

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 丁字は、つぼみのときが最も香りが強いため、深紅色の花が開化する前に摘み採られてしまう。このため虎彦もまだ花の色目はみたことがない。香織はその花が、香りのために、花開くことを奪われてしまった悲しい運命の花木なのだ、といいたかった。
「ああ、たしかに花は悲しい。だけど、その短い命は、やがて人の命へと循環する。だから儂(わし)のような老いた者にもめぐり廻って悦びを与えてくれるのさ・・・・・」
 と、いいかけた虎彦だが、それ以上いい足せば、やや小賢しくもある。香織の澄みやかな感性の口調を前に、さり気なく視線をそらすと、虎彦は語尾のトーンをすう~っとぼやかした。
「この娘に、私の表情の裏をみせてはなるまい。老人の内面の汚い剥(は)がれなど、、無用の長物じゃないか。無邪気の若さを、私の口の、その糞でまぶすのはよしておこう。虚空とは清の領域、かさねは、その位に私を濯ぎ清めてくれたのだ。私の青春期とは、そんな清らかな時代ではなかったではないか」
 丁字はアルコールと混ざりやすく整髪剤や石鹸につかわれ、殺菌作用と軽い麻薬作用をもつので歯科院の歯茎にぬる痛み止めチンキにも活かされている。人間の視線に立てばそれでいい。しかし花の視線でそれを裏返せば、それは人間本位の身勝手なことで、香織のように感じ、無慈悲と思えば、摘まれたその花へと思いやる眼に、あふれる涙さえ覚えるであろう。
 利口に生きたいがために小理屈を身に滲みさせて歳老えば、その花の涙のみえぬ人とは、また何と悲しいものであろうか。しかし、もはやその情緒を震わす心には立ち返れそうもない老人は、若く生き生きとある香織の輝きが、愛らしく嬉しくもあった。思いをそこに馳せてやらねば、いたらぬ苦言は老人の嫉妬なのであろう。
「老先生、お茶室の準備もう少しやさかいに、ちょっと待っておくれやすか。今朝のお花やけど、まだ決めてまへんのやわ。そろそろ正月のォもけったいやし、どんなん、よろしィんやろか?」と、
 香織はガラス窓を開けながら訊(き)いた。しかし、そう虎彦に問いかけていながら、ふと、「ああ~、あの青白い不思議なひかり・・・」と、一瞬、脳裡をかすめてツーンと胸に通るものがあった。香織に、或(あ)る美しい光景が過(よ)ぎったのだ。

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「せや、あれやわ。あれ、見んとあかん。老先生、待ってておくれやす、えろう済んまへん」
 呟(つぶや)くようにそういうと、何か急(せ)かされた忘れ物でもあるかのように、慌てゝ言葉の尻をプツリとへし折って、虎彦にはそう受けとれたのだが、要領をえさせないまゝに弁解だけを残した香織は、小走りにまた居間の方へと引き返して行った。
 香織は未明に起きたとき、凍りつきそうな井戸水を一杯のみ終えると、ぱっちりと眼が冴えた。そのとき、昨日の黎明前に体験した、不思議な光景が想い返されていた。
 あれはたしか、裏山の山茶花(さざんか)の大樹が、ひらりぽたりと白い花びらを庭に散らし落すころであった。間もなく昨日と同じその幽(くら)い刻限が近づいていたのだ。
「去年の冬、ちィ~っとも気づかへんやった。せやけど、あんなん・・・あるんやわなぁ~」
 裏山が見渡せる茶室へと向かう香織の脳裡には、朝まだき昨朝の黎明前の淡いひろがりのなかで感じとれた絵模様がぼんやりと描かれていた。しかし、あの無限の哀しさに包まれていると感じられた、あのときめきは、一体何だったのであろうか。もう一度よく確かめてみたいと思ったのだ。


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      げんそう青 W500H285


                              第2話に続く

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       京都 大原 三千院 冬景色。



      
       京都 冬景色。



      
       京都・西区 洛西竹林公園近くの道。



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      きょうと 2はなそとば 2

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      京都 花そとば



      つきの暦  2013年2月

      つきの暦 2013年 2月 W500



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洛北小説『花そとば』 第7話

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              第一部 八瀬童子(やせどうじ)   

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   くろい影 W550 gif

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      四  誰が袖 (たがそで)   



 ときとして虎彦の言葉づかいは地口や冗句に富んでいて、若い香織を翻弄させることがある。それが、ちよっとした自意識過剰であることは虎彦自身も分かっている。長女の君子にもずいぶん嫌な顔をされてきた。
 それは、どこか偽善的な意識であり、しかし自分を「まともには見せたくない」という、そんな矛盾もを交錯させる偽悪的でもあるのだからそうとうにひねくれているのだが、それでいて、つねに影響力を計算しつづけているような、どこか悲しい自意識なのである。そうした妙な自意識を牽引したと自身でも思われる泉涌寺という寺院は、虎彦の青春の「傷のつくりかた」を決定づけるほど衝撃的な世界であった。
 そう思う虎彦がふと気づくと、ふいに不安を呷(あお)られた香織はしょんぼりとしている。
 虎彦は俯(うつむ)く香織のその顔色を感じながら、おもむろに笑みを泛かべて首を振った。
「案外かさねも、阿呆やなぁ~・・・」
「実際だれが、かさねを尼にさせる。そんなことあるか。いや何、尼になろうとする女性の心情を推しはかることも大切だと思ってな。この寺は古くから、そういう女が通い合う道なんだ」
 虎彦はそう言いながら改めて腕時計をみた。駒丸扇太郎と会う約束の時間にはまだ少し間があった。泉涌寺の、この界隈はやはり秋がいい。ここらはまだ京都の田舎といった淡い光が残っている。
 しかし人目も草も、みな枯れたものの間にあって、この冬を越そうとしてしがみつくように残る常緑樹が黒ずんだ葉の色をさせて寒さに耐えて立っているのは、かえって生身の血が通うものの本性をみるようで、これが泉涌寺には好ましい本来の季節ではないかという気にもなる。虎彦は少し遠い眼をした。

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 虎彦が泉涌寺の参道をみて、そうした遠い眼をするのには、香織に係わることで少々気にかかる仔細があった。
 花雪という芸子が、九州長崎の造船界の有力者、陣内富蔵に身請(みう)けされて、ここ泉涌寺付近の別宅に囲われ暮らし始めたのは六十年も前のことだ。
 虎彦の養母であったお琴は、京にくるたびに、同郷の富蔵に呼ばれちょいちょい別宅に遊びに行っていたという。その花雪はやがて、妊娠(みごも)って戦争直前に京北の花背(はなせ)辺りに移り住み暮らすようになる。同じころお琴も疎開騒ぎに紛れて自然と別宅から足が遠のいた。
 戦争が終わってお琴が奈良吉野の疎開先から京都へ行ってみたときは、花雪はすでに労咳(ろうがい)で死んでいた。女児を産んで二年目に死んだという。さらにその三年後に花雪の産んだ児が、当時、泉涌寺近くの別宅に出入りしていた、清原増二郎という、これもお琴とは遠縁の男に養われていたと聞いた。お琴はこれを探したが所在は不明だったという。虎彦は確かにそう聞かされていたのだが、これは戦後、四年してお琴が知り得た話なのだ。
 養母お琴がそう言い遺したことが事実であるのならば、その児の生まれ年から存命であるとして逆算すると、花雪という女性は六十歳前後のはずである。増二郎の子と名乗る香織は十七歳であるから、増二郎が養っていたという赤児とは、さらに香織との関係とは、いずれも亡きお琴からの聞伝でしかなく、いまさら確かめ難きことであるのだが、虎彦は泉涌寺の山ふところとなる月輪山(つきのわやま)や泉涌山の空をあおぎみながら、遠い眼をしてその消息の彼方を泛かばせていた。

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「尼にするいうて驚かさはるさかい、うち、何や気色わるいわ」
「尼さんは・・・、そんなに薄気味悪いものなのかい・・・?」
「そうやおへん。せやけど・・・、うち、罪ほろぼしせなあかんこと、何ィ一つしてへん思うんや」
 香織は暈(かさ)をかぶった太陽がようやく雲の切れ間から顔をのぞかせるように、まだ戸惑いを口に籠らせた声でそういうと、かすかに睫毛(まつげ)がうるむ顔をさせて虎彦をみた。
「・・・、この娘の眼には、尼の修行が、罪ほろぼしの生活として映っているのか!、出家とは、そう映るのであろうか。しかし、それはそれでいい。香織がどう思おうが、そんなことは人それぞれの自由だ。さて・・・私はどう応え返せばいい・・・。ああ、たしかに本当だね、かさねは、罪ほろぼしなどする必要はないからね・・・」
 と、素直に肯定してやろうとするそんな優しい言葉が、虎彦の喉もとまで出かかった。だが虎彦は、それをじっと堪(こら)えた。
 以前の虎彦の気性なら、忍し殺して黙っていられる筈はなかった。そこは肯定してその場を適当に済ませ終えるか、あるいは少しの反論などしただろう。だがそれは気勢にも柔軟であった昔のことで、今は老いの疲れがそうさせるのか、はからずとも虎彦は、すでに円満に済ませることすら面倒で、投げやりたいような妥協癖にちかいものを心の中に抱くのであった。
 しかし・・・、泉涌寺の坂に至る道は人生のそれと等しく、山あり谷ありであるらしい。
 この坂に、世のくびきから離れ、煩悩と対峙して、いくばくかの悟りを求めようとする、そんな覚悟の女僧らが歩いた影がある。その尼を罪ほろぼしと存外にあしらわれると、それはやはり穏やかではない。「比丘尼(びくに)とは仏門の闇夜にゆっくりと炸裂してのぼり行く、この世からはそう見せる、あの世の花火なのだ」と、胸の内でそう想う虎彦は、香織の言葉を聞いた耳朶(みみたぶ)に、かすかな冷や汗を感じた。

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「東福寺駅前から泉涌寺の仏殿までは、往復でおそらく3キロほどあるだろう。この膝は・・・、もう自力でそれだけの距離をあるくことに耐えきれやしない」
 そう往(ゆ)きあぐねると、虎彦はやはり口を堪え、何か妙にも哀しく、細い一本の老木のように立ちつくしていた。
「冷やっこいなぁ~。そないじィ~ッとツッ立つてはって、奈良ァ、いつ着きますねんかいなァ」
 北風の中でそうしてぼ~っと立っていられたら居たたまれない。香織にはそんな虎彦の姿が、朝起きようとしてまだ寒いからと、蒲団(ふとん)から首だけ出している老亀のように思われた。
「一体、どないしはるンや・・・」
 そう急かされた虎彦は「この場で私が一歩踏み込めば、結果、香織は苦しむことになるのかも知れない」と、考えるのだが、しかし「その少しの苦痛が、やがてはこの娘の歓びとなることもありえるだろう。もし・・・、その苦しみが、香織の幸福へと繋がっているのなら、苦しんでみるのもよいが、さて・・・どうする・・・」
 虎彦はその判断に迷っていた。漠然としてはいられない。駒丸扇一郎と落ち合う約束はしたものの、やはり厄介なところでバスを降りてしまったと思った。
「かさね・・・、東福寺駅の、西へ出て、みることにしよう」
 約束の時間までにはもう少しある。虎彦は少し思案する時間が欲しかった。
 泉涌寺道の少し北に鳥辺野という陵地がある。そこは一条天皇皇后定子(ていし)以下六つの火葬塚で藤原氏時代の貴族らの埋葬地だった。この鳥辺野と泉涌寺は細い山路で結ばれて密接である。泉涌寺は古くから皇族の香華院(こうげいん)、つまり菩提所とされ御寺(みでら)とも呼ばれた。
「詮子(せんし)と・・・、定子とが・・・、同じ軒下で眠れる。あの世とは、そうしたところなのか!」
 一度、じっと北へ目配せした虎彦は、すっとステッキを西に返した。

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 一条天皇の母上で円融天皇の皇后が詮子である。定子には叔母にあたる。その詮子は、定子の兄の藤原伊周(これちか)を関白にさせなかった「大鏡」ではそういう意地悪の人で、定子には姑(しゅうと)でもあるが、詮子はその定子まで憎み終えた。亡くなってみると、その二人が今、一つ墓所に葬られて眠る。いや、眠らされているのだ。
「近くて遠きもの・・・、思わぬ親族はらからの仲・・・か」と、
 虎彦は泉涌寺、鳥辺野、さらにその北にある清水寺までの、その長々とした音羽山へといたる細い山路を想い浮かべてては、いかにも「おかし」かった。
 泉涌寺や鳥辺野は、敗者によって埋められた場所である。
 清少納言(せいしょうなごん)は定子の御陵近くに住んでいたらしいから、この道を通って清水寺に詣ったのだと思う。虎彦がそうした清少納言の影を追いかけてみると、当時の視線で描かれたはずの枕草子(まくらのそうし)には定子の没落の背景が触れられていない。これは、むしろ触れようとはしなかったから、第段のはしばしに筆を曲げたとみとめられる辻褄の悪い痕跡がある。
 この時代、藤原氏は同族相はむ暗闘を演じ、陰険でしかも徹底した抗争が、王朝のきらびやかな表面とはうらはらに、裏面では強かに渦巻いていた。追いやられる定子に宮仕えする清少納言は、藤原道長が存命であったがゆえに、世相には無関心を装うかに意を忍殺し、眼を伏せ、口をつぐみ、筆を曲げている。それで真の「ものの哀れ」
ではない。虎彦はそんな敗者の場所を背に感じながら、また寒々とした参道口を西へと歩いた。
「老先生、歩かはるんやしたら、お薬のみはらんと・・・」
 右足の関節が伸びたまま、歩き辛そうに虎彦は踵(かかと)を地に引ひて歩く。それもよく見れば下半身はかすかな震えをともなわしていた。後ろから支えようとした香織は、居たたまれなく、サッと滑るようにして虎彦の脇に肩口を差し入れて下支えすると、それでもステッキを突こうとする虎彦に労わる眼差しでいった。
 このまま放置するとその震えはしだいに痙攣(けいれん)することを香織は知っていた。
「ぶぶな、ちょっと熱いさかい、そろそろと飲んでおくれやし。赤いの一錠、白いの二錠やわ」
 香織はそういいながら虎彦のステッキを小脇に挟み、ポシェットから三粒の錠剤をとり出し、それを手渡しつつ左手にカップを持たせると、常備した保温ボトルから白湯を手際よく注いだ。



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                              第8話に続く
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   京都 立春。




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  つきの暦  2013年2月

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洛北小説『花そとば』 第6話

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              第一部 八瀬童子(やせどうじ)   

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      四  誰が袖 (たがそで)   



 万葉といえば、桜ではあるが、愛しきその最たるものは、冬のサクラである。
 桜木が最初に兆す花芽の、貧しくとも命弾けるその産声を聞くと、来る春を知り冬の過酷さを怨んだりはしない。
 西行は「たぐひなき花をし枝に咲かすれば桜に並ぶ木ぞなかりける」と詠んで、素直に桜を筆頭にあげた。奈良に生まれた雨田虎彦も桜への傾倒は断然であった。さらに西行は「散る花を惜しむ心やとどまりて 又来む春の誰になるべき」と詠むが、しかし虎彦の桜は、冬枯れて立つ葉のなき一樹が最も好ましく思われた。一つ、二つ、三つと、しだいに満ちる花芽つく趣にこそ、やがて豊かな満開に人が近づける夢がある。
 西行は、咲き初めてから花が散り、ついに葉桜にいたって若葉で覆われるまで、ほとんどどんな姿の桜も詠んでいるのだが、そのなかで虎彦がどんな歌の花に心を動かされるかというと、これは毎年、決まっていた。それは花を想って花から離れられずにいるのに、花のほうは今年も容赦なく去っていくという消息を詠んだ歌こそが、やはり極上の西行なのだ。奈良に生まれたからそう思うのか。虎彦はいつも、そういう歌に名状しがたい感情を揺さぶられ、突き上げられ、そこにのみ行方知らずの消息をおぼえてきた。虎彦のその行方なき消息は、決まって花芽なき冬の桜木から始まるのであった。

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 毎年、一雨、また二雨が来て、あゝもう花冷えか、もう落花狼藉なのかと思っていると、なんだか急に落ち着けない気分になってくる。寂しいというほどではなく、何か虎彦に「欠けるもの」が感じられて、とたんに所在がなくなるのである。どうして貧しいのか。何が欠けたのか。そしてそういう欠けた気分になると、決まって西行の歌を思い出すのであった。「梢うつ雨にしをれて散る花の 惜しき心を何にたとへむ」と。
 バスが一乗寺へと向かうと、あちこちの葉のない桜木が北風のなかで明るく悄然としていた。静かに花芽だけを萌やそうとしてる、その姿が次々に車窓の向こうを走るようになってくると、虎彦は「ああ、今年もまた奈良の桜も、ここから始まるのだな」と思う。すると雨田虎彦の眼には鮮やかに泛かんでくるものがあった。
「ああ、在所の山に桜がみえる。そして・・・あの、人形の姿が・・・」
 それは、かさねの姿に似ているからだけではない。やはり何か欠けたものを感じる虎彦にとって、雨の日の自動車がアスファルトに散った桜の花びらを轢きしめていくのが、なんともいえぬ「哀切」であるように、遠い日を引き戻すそれは忘れ難き人形であった。想い泛かべるほどに、静かに深い悲しみがふき上げてきた。
「話しても、かめしまへんやろか・・・」
 そういう香織は、青白くある虎彦の頬が気になり、やはりバスの揺れは障るのか、思いなしか虎彦が急にやつれたようにみえる。だから静かに覗くように声をかけた。
 無言のまま虎彦が振り向くと、口はしの笑窪をみせた顔がある。屈託のないそんな香織の顔を見せられると、さらに心残りの弾みがついて、虎彦はふと香織の笑みに、過ぎるかの一筋の翳(かげ)をみた。しだいにその翳は虎彦のなかにじんわりと沁みてくる。すると雨田家に嫁ぐ日の、今は亡き妻香代の花嫁姿がその翳のうしろに重なり合うように立っていた。
 そうしてバスが百万遍の交差点にさしかかると、さらにその翳は色濃くなってくる。百万遍から銀閣寺までは香代と一度だけ歩いた道なのだ。二人して歩いた道は、虎彦の中にその記憶しかない。虎彦は香織の背後でかげろうその翳の揺らぎに、亡き香代が影となって還って来ていることを覚(さと)った。
「何やな・・・だんだんに青うなりはッて、老先生、脚ィ痛いんやないか・・・」
 やはりどうしても顔色が気がかりになる。そんな香織は、不安気に虎彦をみてそっと訊いてみた。
 京の市井には、新婦が男児の人形を抱いて嫁入りするという慣習があった。それは嫁(か)しては男児を儲けて一家の繁栄をはかるという女の心得を訓ずるものである。家同士が定めた縁組により、お互いは一度も会ったことのない婚儀が当時の常であった。虎彦の場合も例外ではない。香代は祖父が見込んだ婿を、素直に一途に信じて嫁にきた。婚儀の席で初めてみた白無垢の香代は、まだ十七歳、初々しくも婚礼の膝に固く市松人形を抱きしめていた。そんな香代がようやく雨田家に嫁いだことを実感したのは、よいやく嫡男光太郎を授かり、その産後の枕元に置かれた人形(いちまつさん)をみつめて嬉しそうに笑みたときであろう。しかし、それから香代が享(う)けた歳月はわずか五年でしかなかった。

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 その香代は京都の知恩院の近くに生まれた。式台の玄関、使者の間、内玄関、供待などの部屋がある武家屋敷の構えの家だった。お手玉やおはじきが好きな少女は、行儀見習いの二人の女中さんから「ことうさん」と呼ばれ、ことうさんとは「小嬢さん、末のお嬢さんのことで大阪では(こいさん)」というが、そこで何の苦労も心配もなく育ったようだ。京都でも有名な美しい四姉妹であったらしい。
 そうした小譲さんの婚礼がさすがである。色振袖が錆朱の地に松竹梅模様、帯が黒に金銀の市松、黒留袖は「誰が袖百選」の中の沢瀉(おもだか)文様、黒振袖は土田麦僊の扇面散しに光琳松の帯をつけた。婚礼調度はすべて京都の「初瀬川」で揃えたというのだから、いまでは考えられない“姫の豪勢”ぶりであった。虎彦がそんな香代の生い立ちを想えば、木の葉がそよぐように雅な京の暮らしが静かに始まっていくのである。
 しごく短い結婚生活のため、香代の死は虎彦にとってどうしても夭折なのだ。想えば想うほど若い面影に不憫さが倍増し、どうにも嫁ぐ前の京都での人生が長い香代の姿を追えば、香代から聞いた少女時代の彼女への興味ばかりが長くなる。その理由は、おそらく虎彦が香代のことを日記にして長女君子へ綴り遺そうと考えたのが20世紀の最後の年末だというためだろう。
 虎彦がそうしようとしたのは、20世紀を不満をもって終えようとしていたことが一つにはある。とくに日本の20世紀について、誰も何にも議論しないで取り澄まそうとしていることに、虎彦はひどく疑問をもっていた。我々こそ、真の「戦中戦後」にいたのではないか。もはや戦後は終わったと語られるが、しかし日本の戦後の本質は一向に終わろうとしない。そうであっては、到底成り澄ませない当事者の面々も多かろう。省みることもなく突かれ続ける除夜の鐘を聞きながら虎彦は、そんな怒りのようなものがこみあげていたのだ。そのとき、桜が人の心を乱すものとは世の常のこと、いまさら言うべきこともないはずなのに、ちょっと待て、いま何かを感じたのでちょっと待て、と言いたくなるのは虎彦にとってじつに可笑しなことであった。
 東山三条で乗り継いだバスの席に香織と虎彦の二人はいた。
「三条駅からやしたら、近鉄の特急やと奈良まで四十分たらずで行けることやし、老先生、一体どこに行かはるつもりなんやろか。ほんに、けったいやなぁ~・・・」
 無口のまま何かに憑かれたような虎彦の気配に、香織はふと「お父ちゃん・・・」と呼びそうになる自身がいることにハッとした。笛にこり、笛に呆(ほう)けた父増二郎の不可解な気随さが、いまこの老人の肩越しを這っているようであったからだ。香織の頭の中では、でっぷり肥ったその増二郎の赤ら顔が、くるりと一回転して、思いもよらぬほど大写しになっていた。しかし虎彦があの父と同じであるのなら、詮(せん)ないと思う。増二郎は呆れるほど頑固者だった。これは「なるようにしかならへんのだ」と、そう香織はわが心にそっといいきかせることにした。
 バスの車窓から祇園界隈をながめみることなど、香織には初めての感触である。表の路線から花街の路地奥はみえないのだが、それでも香織には思い出深く刻まれた裏町の華やぎであった。そもそも祇園とは、インドのさる長者が釈迦のためにつくった寺「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)」からきている、と置屋の女将佳都子からそう教えられた。香織は虎彦の別荘に住み込むようになる二年前、二年間この界隈で暮らしている。その祇園四条から南の京都は香織には久しぶりにみる街並みであった。東山の終わりの裾野は長くゆるやかに流れていた。
 そうした八坂や祇園などは全く眼中にない虎彦は、半ば無意識でメモ用紙に書きつけた「つゆじも」という古びた筆文字を見つめながら、養母お琴が遺した言葉を温かく反芻(はんすう)したり、鞄から何やら海外の雑誌を引き出しては読んでいた。香織は「こんなン、ほかっとこ」と思った。
 東山七条の智積院(ちしゃくいん)を過ぎたあたりで虎彦は「少し早目にきすぎたのではなか」と腕時計をみた。つられて香織も携帯電話の液晶時計をみたのだが、まだ八時過ぎであった。花は、哀しくて惜しむのではなく、惜しむことが哀しむことである。そう反芻してつぶやくと、虎彦は唐突に席を立った。
「あれ・・・、次で、降りはるつもりなんやわ」
 香織が慌ててそれに従って連れ立つと、祖父と孫娘にも映る二人は泉涌寺(せんにゅうじ)道でバスを降りた。
 鳥辺野(とりべの)の南、泉涌寺への道はしずかで長いゆるやかな坂である。
 虎彦は少し足を止め、参道をながめながら遠い眼をした。
「かさね・・・、300メートルほどこの坂を上ると総門がある。入ると左手が即成院(そくじょういん)というお寺さんだ。その本堂に二十五体の菩薩座像があるのだ・・・が・・・」
 と、そこまでいい掛けると虎彦は、プツンと言葉の尻を切った。
 坂をのぼりつめて総門、その先に大門、さらに奥の泉湧寺仏殿までの約1キロの間にある光景を、眼に積み重ねながら想い泛かべるだけで、すでに虎彦には遠く息切れる思いがした。
 自身で歩いたというより、幾度となく歩かされたこの坂道である。いつもこの坂を想いながら見えるものは、何者かに毀(こわ)された後の荒寥(こうりょう)とした風景でしかなかった。あるいは瞞着(まんちゃく)されたような奇妙な脅(おび)えに身震いするほどの光景であった。そんな憧憬を曳き遺しているために、却(かえ)って泉涌寺に出向くことはどうにも気が重く、虎彦はこの界隈にしばらく足を遠ざけていた。

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 やはり幾度ここに来ても虎彦は、ゆるやかなこの坂の、この世の一角に異様なものの出現をみせられて立ちすくむ思いがする。そうして今日もまたここには、どこからともなく匂ってくる暗い懐かしさを思い起こさせる特別の香気が沸き立つようであったのだ。どうしても虎彦の心の裡に流れる体臭とその香気とが混ざり合うのである。
 下りながら仏殿までの間を詰めねばならぬ不可思議さがこの寺にはある。手を引かれながら「虎、足音さしたらあかん。音立てたらあかんえ~」という声を繰り返し聞かされた。大門から仏殿までは下り坂なのだ。そう言われると恐る恐る玉砂利を踏むことになる。ゆるやかな下り坂だが、幼い足は、とほうもなく長い時間に涙眼をして歩いた。
 そんな虎彦が、この長いゆるやかな坂道を、母の手に引かれて初めて歩いたのは、大正という年号が昭和へと移り変わるころであった。

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 今やその母影も眼にはおぼろげである。虎彦がまだ六、七歳のつたない記憶のままでしかない。だが、たゞそこから香り出るものは鼻孔の奥に籠るようにある。そうした母の匂いは八十二歳になろうとも確かで、それは母がいつも着物にに焚きしめていた追風用意(おいかぜようい)の香気なのだ。人気のない山里にもかかわらず、明治生まれの母菊乃という人は、焚きこめた香りを優雅にまとっては風に漂わせている女だった。
 香織がいま首もとに架けている更紗(さらさ)の匂い袋は、昨夜君子が手渡してくれたものだ。それはそもそも虎彦が君子の成人式の折に祖母菊乃の遺品として譲るために身にまとわせた「誰(た)が袖(そで)」である。
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「やはり、九月がいい。今日はやめておこう。なぁ~・・・かさね・・・」
 虎彦はそうポツリというと、香織が首にかける誰が袖をじっとみつめた。
 西行の花は「花みればそのいはれとはなけれども心のうちぞ苦しかりける」というものになっていったのだが、そもそも西行にとっての桜は、この歌の裡にある。桜を見るだけで、べつだん理由(いはれ)などはっきりしているわけではないのに、なんだか心の中が苦しくなってくる。そう詠んだ歌である。その「いはれなき切実」こそが、西行の花の奥にはある。そうであるからまた虎彦にとっても「惜しむ」とは、この「いはれなき切実」を唐突に思いつくことである。虎彦はいま、それが亡き母の匂い袋の花に結びつく。さらに遠い日の月に結びつく。奈良で過ごした花鳥風月と雪月花がここに作動するのだった。そのなかで亡き光太郎と、亡き妻と、亡き母の三つの花こそは、あまりにも陽気で、あまりにも短命で、あまりにも唐突な、人知を見捨てる「いはれなき切実」なのだ。
 しかしそう感じることは、何が「うつつ」で何が「夢」かの境界を失うことを覚悟することでもあった。参道をみつめる虎彦は、香織に投げかける次の言葉を失くしていた。
「えッ、やめはるの。そしたら何や、それだけのために、老先生、ここで降りはったんか・・・」
 虎彦が何かをいいかけたまま、プツリと途中で、妙な間を残して口をつぐむので、寒空に重い鞄を両腕にさげていたせいもあるが、呆れた香織は皮肉たっぷりにいった。
 昨夜遅く書斎の窓を開けた虎彦は、さきほど想ったのと同じように、満州の荒野に咲いていた罌粟(けし)の赤い世界を思い出しては眼に訝しく、そう感じて窓を閉めた後、東京の自宅から持ってきていた聞香炉(もんこうろ)の入る木箱を開けた。

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 白磁の筒型をしたその炉を取り出して机の上に置くと、背筋を伸ばし、あごを引き、体の力を軽く抜いて一呼吸整えた。そうして心を落ち着かせ終えると、一炷聞(いっちゅうもん)の作法で香を聞いた。まず鼻から深く吸い込み、顔をやや右にそらして息を吐く、その繰り返し七息の後、手にする聞香炉を心静かに見改めるように回してはみつめる。その聞香炉も亡き母菊乃が生前使用していた、室町期から雨田家に伝わる遺品であった。すでにその菊乃とは鬼籍の人であるが、まだ虎彦の中では、過去になどなってはいない。混沌として、滓(かす)のようなものが残されていた。
 どうしようもなく、はかなくたって驚かない。はかないのは当たり前なのだ。西行もそういうふうに見定めていた。そこでは夢と浮世は境をなくし、花と雨とは境を越えている。この歌をぜひ憶えるとよい、と諭してくれたのが亡き菊乃なのであった。「世の中を・夢と見る見る・はかなくも・なほ驚かぬ・わが心かな」、よろしいですかという母の声が耳奥にある。そうしてまたその母は、ついでながら、さらに「西行学」を持ち出していえば、とくに「わが心かな」で結ぶ歌は、西行の最も西行らしい覚悟を映し出している歌なのであると継ぎ足してくれた。
「かさね・・・そうじゃない。今日、かさねを、尼さんにさせる気には、なれないのだ・・・」
 しばらくぼんやりとしていた虎彦は、ハッとして我に返り、そう小声で香織に応え返した。
「えッ、うちが尼・・・」
 いきなり辻褄の合わぬ薄情な話ではないか。咄嗟にその声を呑みこんだ香織は、頭の中が透明になった。しばし唖然として固く立ちすくみつつ香織は「うち、頭ァ、剃るんや」と思い強いられると、何やら黒髪の総毛が根元から硬直するようであった。
 不意に意外な釘を頭からカツンと撃たれた香織は、焦点をどこにも合わせられない放心でもしそうな眼を、丸くも細くもさせられずに、たゞツッ立ったまゝポカリと口をあけていた。それまで香織は「老先生の脚ィ、痛うて歩けへんさかいに、うちが支えなあかんのやから」と、一心にそう思っていた。
 ここ二、三日、急に底冷えするような寒波が襲っていたのだ。香織は、こんな急激な気候の変化はきっと虎彦の体に障るのだと、先日、出町柳の主治医のところに立ち寄って、虎彦の脚気には白米による精米されて不足したビタミンB1を補完するなど、温かいしじみ汁などの、なるべく精のつくものを食べさせて、できるだけ安静にして虎彦の気力を養えばいいことを丁寧に聞いてきた。昨夜は寒い夜になそうで、そうだからと虎彦の書斎に予備の炬燵(こたつ)まで納屋奥から引き出してきては、痺れや痛みが増さぬよう備えたりもしていた。
 さらに昨夜はいつもよい少し早目の午後九時には香炉を用意して、虎彦のまだ寝る前の寝室にそっと忍びこみ、虎彦が爽やかな寝ざめをみせるよう君子と二人計らって、百檀や丁字など焚かなくても香る香料を厳選したし、その香気が虎彦の患部を清め、寝室を浄化し邪気を払ってくれることと、憂鬱な気分を爽快にさせる作用があるのだからと、そっとベットの下に香炉を忍ばせたりもしたのだ。
「来月は少しだけ連休もろて、祇園の花江姉さんとパ~ッと城崎にでも遠出したろ思て、約束してたんやないか。もうそれも、わややわ。なしてうち・・・尼やねん。そないなこと、前もっていうてもろたかて、うち承知でけへんことや。罰あたりなこと、何もしてへん・・・」
 もう、とりとめのない香織は、わなわなとふるえる手をそういうてはかろうじて握りしめた。そのゝま眼を伏せた香織は、こんな場合、やり場のない感情をどう表わせばいいのかを、五郎や置屋の女将佳都子の顔を泛かべてはためらっていた。
「老先生ッ、もう高齢や。80歳も過ぎたといえば、だいたいの男はんは、自分の限界がどんよりのしかかっている時期であるさかいに、いまさらきれいごとですませるものなんてないということも、あんた分かっとらなあかんえ。せやけど男はんの美学というものは、存外にどんな時期でもはずせないもんや。そこで美学と辻褄とがソリを競いあうもんなんや。するとなッ、最後ォにひっこんでもらうほうは辻褄のほうで、男はんいうたら美学ひっこめはらんもんなんや。香織にもそんな理不尽なとき、きっとある思う。せやけどな、短気だしたらあかん・・・」
 以前、置屋の佳都子がそんな話を聞かしてくれたことがある。いま噛みしめてみると、なんとなく理解できそうにもあるが、やはり心の始末におぼつかない香織であった。
「・・・せやけど。尼寺で・・・成人式やなんて。やっぱ、うち嫌や」
 香織は君子から貰った胸の誰が袖をキュと握りしめた。



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                              第7話に続く
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   京都 立春。




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   京都 花そとば



  つきの暦  2013年2月

  つきの暦 2013 2



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洛北小説『花そとば』 第5話

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      ごえん風土記 かな 100
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              第一部 八瀬童子(やせどうじ)   

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      三  高野川 (たかのがわ)   



 眼の前にある梅の木の下に、幾輪かの水仙の花がある。
 純白のそれが静かに上の紅梅の蕾を押し上げている。初めゆく朝陽に透かされて、香織の眼は、しだいに冴えいくその可憐な水仙の白さを仄々と追っていた。それは別荘で働くようになった二年前に、車椅子生活の君子に見せてあげたい香織が北山の芹生(せりょう)から移植したものである。
 そもそもこの花の白さは、比叡山西方院の鬼掛石の付近に野生する一株の水仙から五郎が株別れさせて、北山の芹生で香織に育てさせていたものであった。水仙には黄色い花もあるが、それが白であることに御所谷に暮らす竹原五郎の深い思い入れがあったようだ。その五郎の暮らしぶりと密接である香織は、五郎がそうする心情を亡き父から知らされている。虎彦もまたそんな香織から、この水仙は何やら八瀬の地と深く関わる曰くの花なのだという話を薄っすらとだが聞かされていた。

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「この花、神秘・・・、という言葉なんや」
 という、花言葉の話を君子から教えられたという五郎の笑顔を香織は思い出していた。
 花言葉は、植物の花や実などに与えられた、象徴的な意味をもつ言葉である。日本には、明治初期に、西洋文明とともに主にイギリスの花言葉が持ち込まれたそうだ。そんな話を君子が聞かしてくれたのだと言って、そう香織に語る五郎はいかにも嬉しそうであった。
「せやけど、悲しい花やなぁ~・・・」
 ギリシャの青年ナルキッソスは、その美しい容姿から乙女達の心をとりこにした。しかし彼は決して自分から人を愛することはしなかった。ニンフ・エコーは働けなくなるほど彼を愛したが、彼は相変わらず冷たい態度で接し通した。これを見て怒った復讐の女神ネメシスは「人を愛せない者は自分自身を愛するがいい」と呪いをかけたのである。ナルキッソスは水面に映った自分自身に恋をし、食事も出来ずに痩せ細り、白いスイセンになったのだという。
 つまりナルキッソスは、その美しさと高慢がゆえ、復讐の女神ネメシスにより、水鏡に映った自分自身に恋させられた。水面の中の像は、ナルキッソスの想いに応えるわけもなく、彼は憔悴して死ぬ。そして、その体は水辺であたかも自分の姿を覗き込むかの様に咲くスイセンに変わったという。このギリシャ神話の伝承からスイセンのことを欧米ではナルシスと呼び、スイセンの花言葉「うぬぼれ」「自己愛」が生まれたのだ。また、これがナルシスト(ナルシシズム)という語の語源ともなった。
「学名はNarcissusというのよ。原産は地中海沿岸なのだけども、古い時代に日本に渡来し野生化したの。スイセンという名は、中国での呼び名「水仙」を音読みしたものよ。水辺で咲くスイセンの姿を、仙人に喩えたと言われているわ。仙人は、中国の道教において、仙境にて暮らし、仙術をあやつり、不老不死を得た人を指すの。それは不滅の真理である、道(タオ)を体現した人とされる。だから花言葉は(神秘)とも言われてるのよ」
 五郎と同じように、香織もそんな話を君子から聞かされた。

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「密言の花や・・・」
 五郎は以前からスイセンの花をそう呼んでいた。
 仙人は基本的に不老不死だが、自分の死後死体を尸解(しかい)して肉体を消滅させ仙人になる方法がある。これを尸解仙というのだそうだ。一般にその仙人といえば、白髯を生やした老人というイメージがあるが、韓湘子など若々しい容貌で語られる者や、中国では西王母、麻姑仙人(仙女)などの女性の仙人の存在も多く伝えられている。最澄(さいちょう)は、平安時代の僧で、日本の天台宗の開祖であるが、入唐求法(にっとうぐほう)の還学生(げんがくしょう、短期留学生)に選ばれて天台山に登り、天台密教学を日本に持ち帰った。これが日本の天台宗の開宗となる。その天台宗の年分度者は比叡山において大乗戒を受けて菩薩僧となり、12年間山中で修行することを義務づける。そうした天台千日回峰行僧の修行の姿が、仙人と同じなんだと五郎は語っていた。

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「和歌子はん、どないしてはるかなぁ~」
 そういいながら香織はすっかり朝の明けた鞍馬山の方をぼんやりとみた。
「和歌子さん、て、あの芹生のか・・・」
「そうや。今でもまだ、あの牛飼の少年のこと、待ってはるんやろか」
 香織がそういう和歌子とは、今から二年前、虎彦が香織に連れられて初めて芹生の里を訪れたときに出逢った女性である。それは水仙の花がまだ蕾の固い初冬のころで、北山へと分け入って、香織が育てる水仙の丘を確かめた日のことであった。しかしその丘を見るのとは別に、そこには灰屋川の上流になる清らかな流れを、虎彦が一度眼に焼きつけておきたいという願いもあった。
「ああ、あの和歌子さんだったら、きっと待っているだろうね。彼女はそんなお人のようだ・・・」
 あの日、香織と虎彦は貴船(きぶね)の奥の芹生峠を越えて杉林の中をしばらく行き、一つの木橋を渡る途中で鼻先に籠をかぶせて牛をひく少年と行き違った。香織と同じように水仙の白さを見つめる虎彦は、その少年と牛のどうにも長閑だった光景を重ねながら和歌子のことを思い出していた。
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「せやけどバス、えらい遅いなぁ~・・・。電車だと早うに行けたんやわ」
 苛々とした口調で香織は投げやるようにいった。
「いいかい・・・かさね。人生とは・・・待ちわびることだ。あこがれて希望を待ちわびるのが、佳き人生の旅をする極意なのだ。自分で計る風なんか、たかが知れている。何かや、誰かに、計られた配剤の風にこそ、大きく享(うけ)るものがあるからね。人が人として長い人生を生きる間には、時として、動こうとしない時間も人間には必要だ。何もかもが人間の思いどうりにゆく筈もない。だから、たゞひたすらと待ちわびる。そんな委ねる時間というものを心がけることが大切になる。あの芹生の、牛を引いていた少年のようにな・・・」
 こう香織にいい聞かせながら虎彦は、めくり忘れて少し気がかりなことだが、昨年の過失、日めくりの暦(こよみ)を思い出すと新春を迎えた今どうにも苦手なのである。馬齢のせいか、眼に見えて「残り日」が減ることがじつに面白くなかった。人生というものが八十歳も過ぎると、消えていく時が見えにくいのがいいのだ。年末に日めくりを千切ろうとしたとき、どうにも心まで飛ばされるようであった。
「ふ~ん・・・、たゞ待ちわびること・・・えらい面倒な話やなぁ~」
 面倒な話を聞く途中で耳を塞ぎたいのも若さである。香織はやや目先につられ先走りする質の娘で、そんなときにいつも耳朶を指先でなぞり始める癖があるのだが、その様子をながめながら虎彦は、香織がまた悩み始めていると思うと、もう若くもにのに胸が躍る自分がいることが自身でも何だか可笑しかった。

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「儂(わし)のように老けてくると、時計が止まる時間が、どれほど嬉しいものであるかがよく解るようになる。死期が近づく手前で時計が針を止めて欲しいのだ。もしそうであれば本当に嬉しいと日々思うのだよ。これは、かさねには、まだ解らないと思う。だがね、若いかさねには、若いから耕して欲しいと思う時間がたくさんある。だから今の時間をしっかりと享け止めて見つめて欲しい。その時間とはね、真剣に待ちわびることでしか享け止めることはできないよ。だから、自分から進んで時間を止めては駄目なんだ。止めるのと享け止めるのでは大違いだからね。解るかい・・・かさね・・・」
「へえ~・・・そうなんや。せやかて、うち馬鹿やし・・・老先生のいいはること、よう解らへん」
 そそくさと虎彦から視線を逸らした香織は、くるりと元に向き直ると、さすがに主人の説法じみた難解な口どりには疲れるのか、霜柱を踏みつぶしながら妙に寂寞(せきばく)とした小さな背中をみせた。しかしそれをまたのんびりとみる虎彦の眼には、そうする香織の姿が、何やら冬ごもりのような、やわらかい絵になっていた。
 香織はむっつりとはしたものの「君子はん、今ごろ、どないしてはるやろかなぁ~」と、ふとそのことを虎彦に訊こうとして、しかしそれをやめた。
 このとき香織は、雨田家に最初に連れられて伺う折々に、置屋(おきや)の女将佳都子と竹原五郎とが同じようにいって聴かせた「ええか、あの家やしたら、ほんに香織も幸せに暮らせるさかい、一にも二にも、まず辛抱(しんぼう)やで。ええか、身を肥やす勉強や思たら辛うはあらへん。もし、辛い思ても、もう帰る家かてあらへん、そない思いや。何事も、味能(あんじょう)して、務め通さなあかへんえ」という言葉を思い返していた。

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「ただ、待っていれば、それでええんゃな!」
 香織は小さくしょんぼりといった。
「いや、そうじゃない。違う。(ええんやゃな)という、その言葉使いは少し不味(まず)いね。(よろしィんやな)と言う方が、より上品だし適切だろうね」
「へえ~・・・。待てば、よろしィんやな」
「ああ、そうだ。それでいい。だが、バスが来てくれることに感謝する気持ちが込められていないと意味がない。バスがいつも来ることを、当たり前だと思っていたら、その気持ちがすでに駄目ということだ。かさねがいつも使う言葉で(来はる)(来てくれはる)の、あの(はる)の心遣いが大切なんだね。それは、京都で生まれ育った、かさねなら、簡単なことじゃないか。何もそう身構えて考えることもなかろう。生まれたままに、すでに身に染みているのだからね。ごく自然に振る舞えばいい。バスは来るのではなく、いつも(来はる)のだからね・・・」
 こういい終えた虎彦は、吐く息の白さも白いとは感じとれぬ杉木立の陰の薄暗さの中で、今も使われているとは信じがたい、そんな古めいた臭気がふと鼻を衝(つ)いた。
 それは昔、六燭光の小さな電球が、六畳の部屋を薄気味悪く照らしていた光景である。その中央に、凋(しぼ)んだように小さく、五歳の長男、光太郎の遺体が左向きに寝かされていた。死後十日も放置され、顔面が被弾で潰された亡骸(なきがら)には、消毒液が濡れて乾かぬほど、散布されていたのであった。ふとよみがえるように感じた臭気とは、虎彦の両腕で固く抱きしめた後に、鼻先に遺された消毒臭に混ざった息子の死臭なのだ。腐ったわが子の死体を嗅がねばならぬ親の痛恨の苦しみなど、あの戦禍の時代に、誰一人として省みて涙など流してくれる者はなかった。虎彦は、その亡骸を背負って5キロほどの夜道を歩いた。
 その光太郎がまだ三歳であったころのことだ。虎彦は香織に今語ったのと同じ言葉で、幼い光太郎と会話したことを思い出した。
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「お父さん、バス遅いね。来るのかなぁ~・・・」
「光太郎、来るのではなよ。バスは待っていると、向こうの方から来てくれるものですよ」
 そんな光太郎がバスを大好きであったように、いや、亡くした息子が好きであったからこそ、そうなってしまったのかもしれないのだが、虎彦は電車とかいうよりバスに乗ることが好きであった。
「なして、そないバスがよろしやすのか?・・・」
 と、以前、香織がそう問いかけたことがある。今朝もそう問われた。そのバスが間もなくやって来てくれるであろう。虎彦が待つバスは、いつも亡くした光太郎を乗せてやって来てくれるのであった。そう思う虎彦は、そうした思いが果たして香織の場合、回答になるのかどうかさえ分からないが、ともかく応え返してみようと思った。
「私は、近年になって、生活に金をかけ始めたような、そんな生々しい富貴(ふうき)さが、まずもって嫌なんだろうね。戦中、戦後、荒れ果てていた家の中は、それでも、古い天井の下の採光の十分でない暗い家の中に幸せというものが漲(みなぎ)っていた。それにね、今は街や道は明るく、たしかに便利ではあるが、もう昼と夜の区別すらなくなっている。これも富貴な人工照明のせいで、未明などという言葉も現在では使い辛いほど、この世からは暗闇というものがなくなってしまった。やはり生きる人間には、陽と闇の按配(あんばい)がこの上なく大切なものでね。・・・」と、
 応え返そうと思うが、そうするときっと鼻の上に皺(しわ)をよせて、一気に捲くし立てることだろう。したくはないが、きっとそうする自分がいることを虎彦は自覚できていた。だから今更、香織にそんな応え方は止めようと思った。
 バスの、あの人臭さの中に身を沈めていると、バスを好んだ長男光太郎を偲べることは無論、多くの学生達が当時好んで使った言葉で言えば、何かに参加しているという好ましい実感が、乗合バスの中にはある。社会鍋や道普請(みちぶしん)にも進んで参加し、虎彦の若いころは、何より貧しいながらも生活道具を大切にし、使いこむ、磨きこむなどの工夫する痕跡に拘(こだわ)ることで得ることの、尊さや美意識めいた価値観というものが存在したし、評価されたりもした。そんな生活の模様が、当時よくバスの中には溢れていた。
 そんな風に懐かしくバスを想う虎彦は、靴の搖曳(ようえい)がおもしろいのだ。

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 靴をながめていると些細なことにまで感動することがある。バスの中の靴は正直なのであった。しかも雄弁だ。汚れても人目など憚(はばか)らぬ靴、新調だが埃をかぶり光らない靴、何年も磨きこんだ丹精の靴、いずれもが人それなりの味わいをもつものだ。しかも心が萎えて衰えそうになるとき、虎彦が一番欲するのは、群衆に紛れて、ただ一人になることである。そのためには真新しいバスでは駄目なのだ。古びてぼこぼこになった錆だらけの長い缶詰のような、鼻高のバスの中に、身をかがめていることが何よりも安らぎを与えた。
 しかし現代、そんな戦後の最中を走るようなバスはない。だからせめて今日は、わずか五歳で戦火に炙られて夭折した光太郎の遺骨の多すぎる余生を抱くようにして、不便を承知して何度かバスや電車を乗り継ぎしながら、人肌臭い車輌で奈良までを揺られてみたいのだ。
 そう思うと、八瀬遊園の方からバス影が近づくのが見えた。
 二人の待っていたバスが洛中の方へと遠ざかってしまうと、蓮華寺(れんげじ)の辺りにもう人影はない。高野川沿いに点在する人里は、低く冷たい北風の中にまだ眠っていた。

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 遠くからみている限りの比叡山は、王城鎮護の山とされた聖なる山上の天台界という印象は薄い。だが冬山だけはあきらかに違う。四明ヶ嶽の刻々と様相を変える雪景色は、神か仏の手がなしとげた天台宗ゆかりの霊山である中国の天台山を抽象させる白い鬼門の奇蹟なのだ。ともかくも山端に暮らす人々はそう感じ、そう信じて雪の四明ヶ嶽をしずかに畏れあおぐのである。
「老先生、ほら見ィや、高野川や。じきに真っ白うなるんやわ。もう寒うてカワセミもおらへん。死ぬ前ぇに、よう見とかなあかんえ~。五郎はんよく言ってはったわ。死んだら何もならんの人間だけやて。牛や豚は死んだかて丼(どんぶり)やら焼肉になりよるから人より偉いんやて。せやからお山の法師はんも、それ見習わはって精進しはるそうなんや。せやけど、カワセミは小魚漁ってよう殺生しよる。高野川のカワセミぃは人より偉いんや言うてはった。死んだらそれ見れへんようになる・・・」
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 そんな香織のつぶやきは、反対の車窓をみている耳にも届いたのであろう。虎彦はコホンと一つ咳払いをした。わずかに眼をなごめて「死ぬ前ぇに」の言葉の妙な揺らぎに、ポカンと口もとが崩れ、奔放な娘に微笑したようであった。気随な虎彦の横に訝しくチョコンとかたく座る香織は、遠のく生まれ在所あたりの冬枯れる閑(しず)かさを、もう見飽きた風景とばかりに軽く感じ寄せ、その眼だけは朗らかに輝いていた。その香織は「うちは何も頭から反対なんかしとらへん。心配なんは、老先生が死んだお父ちゃんに似てはるさかいや」と、動かざる能面みたいに反応のない虎彦を按じながらそう思うのだ。
 香織は水の流れが川石に砕けて光るのを見憶えると、下る流れがいつしか笛のような鼓動を打ちはじめ「笛の上手なお人やった。その笛にあわせて高野川の風が踊らはる」、そんな父と高野川の光景がキラキラと懐かしくよみがえりくる。そんな香織は口をひきむすんでは「何や知らん、うち変な気持や」と、つれない虎彦を横眼にながめては、しばらく眼を閉じたままにした。
「こうした何の変哲もない茫洋(ぼうよう)とした日常が、いつまで続いてくれるというのか・・・?」
 虎彦の青春期にはいつも戦争という非日常と接しあう日々の中にあった。そんな虎彦もまた香織と同じ山端の光景を眼に映しているのだが、虎彦は頭の中にポッカリと空洞ができていた。その空洞の中に、遠い遠い、故郷の奈良の、干からびた冬の古い土埃がひろがっていく。その里は万葉の、いにしえの国、大和なのである。


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                              第6話に続く
                      みうまそうたろう 文字 かな 正

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   京都 冬。


  
   京都 八瀬(瑠璃光院)。



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   きょうと 2はなそとば 2

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   京都 花そとば



  つきの暦  2013年2月

  つきの暦 2013 2



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洛北小説『花そとば』 第4話

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      ごえん風土記 かな 100
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              第一部 八瀬童子(やせどうじ)   

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      ニ  御所谷の五郎 (ごしょだにのごろう)   



 今を生き、未来を生きようとする香織に「人間とは、好物である矛盾を食べるのさ」とは、伝えたくもない。六十年も前のことだ。虎彦は、ふと汽車の旅中で眼を醒ましたことがあった。
 上海(シャンハイ)から乗り継いできた汽車は炎々とした血の海を走っていた。
 だがそこが海ではないことは判っている。北上する汽車は少しも曲がることもなく真っ直ぐな軌道の上を遥かなる地平線を目指して走っていた。見渡す限り茫漠(ぼうばく)としてじつに広大な満洲の荒野である。その広々とある地平の果てまでが真っ赤な罌粟(けし)の花で燃え立っていた。莫大な赤い波立ちのそれは、まったく感動に揺り動かされて燃え滾(たぎ)る見事な光景だった。

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  まんしゅう阿片栽培 W600 gif

 虎彦は予定通り哈尔滨(ハルビン)で降りた。
 そこでしばらく滞在することになっていたが、或る日、東亜同文書院を卒業した者として公営の工場に招かれ、見学後にお土産として一袋の阿片(あへん)をもらって帰った。日本円にして千円相当の代物であった。当時、満鉄職員の月給が約百五十円である。しかも〈支那人(しなじん)に売りなさい。五倍の価値になる〉と言い添えられて手渡されたのであるが、卒業祝いの土産に阿片とは、馬鹿げておおらかな時代であった。
 しかし、それが満洲では阿片禁止令を施行しながら、同時に、支那人にはその満洲で育てて精製した阿片を、平然と狡猾(こうかつ)に売り捌(さば)いていた。その一袋であることに気づいたのだ。

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 芥子の実からは褐色で固めのチューインガムのような阿片が作られ、さらに精製されてヘロインが作られた。大部分は、満州国からシナをはじめとする亜細亜一帯に輸出されたが、一部は満州国内で消費された。鉱山などの労務者(苦力;クーリー)へのボーナスとして阿片・ヘロイン入のタバコが配られたりする。報酬として現金を渡すとシナの家族に送金されてしまったり、本人が辞めてしまったりするからである。現金ではなく阿片で支払うのは、苦力(クーリー)を逃亡させない手口でもあったわけだ。その結果、彼らは重度の阿片中毒になる。だが労働力の代りはいくらでもいたし、中毒になってくれれば阿片の需要拡大にもなるわけだ。
 そのことを醜く思い知らされた虎彦は、無性にプライドを破壊された手で、お国のためにと戴いたその阿片をハルビン郊外の溝(どぶ)の汚れに流した。これらは満洲国、つまり日本人が為す政策であったのだ。
 わずか地上より、百六十センチメートル内外の眼の高さから、転じて八十二年間、世の中には醜悪で酷(ひど)い矛盾がたくさんあった。現在でもその眼の高さから転じて、大きく空を仰ぐことさえじつに少ない毎日である。その限られた眼のゆくところに、安心して受け止めることのできる真実がどんなに少ないことか、と虎彦は訝(いぶか)しく溜息を洩らした、・・・そのとき、
 黒い人影が近づいてくるのを感じた。

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 とっさにステッキを左脇に抱えた虎彦は、黒いフェルト帽のつばを指でつまんでキュッと引き下げた。帽子が風に煽られるとでも思わせればそれでいい。さりげなくそう見せかけたい虎彦は帽子の陰でうつむいていた。迫る人影が妙に周囲の山と溶け合って、しかもひたひたと迫る静かな影を揺曳(ようえい)させていたからである。
「老先生ッ、あれ、隠れ道の、五郎はんや・・・!」
 眼ざといものだ・・・「この娘には、この距離から人物の特定ができるのか・・・」と虎彦は驚いた。
「ほ~ら、やはりそうやぁ~」
 と、香織は嬉しさにむせるかのような甲高(かんだか)い声を北風のなかに響かせた。
「こないだ、五郎はん別荘にきはッてん。お菓子やら、お花やら、お魚やら、ぎょうさん買うて来てくれはりましやんや。あれ、たしか晦日(みそか)やったわ。老先生、まだ東京から戻りはらん日ィや。せやけど、どないかしたんやろか。御所谷から、こない早うに・・・」
 香織のいう「隠れ道の」とは、一般にはほとんど知られていない、比叡山の僧でさえあまり知らない道である。
 比叡山の西塔の中心となるのは釈迦堂であるが、その裏脇から黒谷に下り入ると、北尾谷に抜ける急斜面の細い坂道がある。それは修行道より悪路の、もう獣道(けものみち)にも等しき細く険しい山道なのだ。ここを下ると八丁谷に、そこから御所谷へと、抜けてさらにそこから麓の八瀬へ向かうと、八瀬天満宮の祠(ほこら)のところに出る。これが、隠れ道である。五郎は御所谷に住んでいた。

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「おお、香織やないか。こない早う、どないした?・・・」
 先に訊こうとしたセリフを五郎にとられると、妙に嬉しく、香織はみるみる顔をゆるめた。
「老先生、奈良、いきはるんや。うちも一緒、カバン持ちや」
 にっこりして香織は弾むような言葉を返しつつ、さも楽しそうに虎彦の顔をみた。
 竹原五郎はその声を聞きつつ、虎彦をみてペコんと丁寧に会釈した。
 虎彦は、この比叡の猿山の谷に暮らす男とは、別荘で一度会っている。以来、五度は別荘の敷地内や裏山で見かけている。杳(よう)として暮らし方が知れなかったこの男の、その面(つら)をまともに見るのはこれが二度目なのだが、二人の様子の自然さに接していると、虎彦は妙に爽やかな風が吹いてくるのを頬に感じた。
 血のつながらぬ二人がまるで父と子のように溶け合っていた。そこには微塵の逡巡(しゅんじゅん)もなかったかのようにみえる。ふと、見送ってくれた君子の影が侘しく泛かんだ。これでは虎彦も凍える顔をさせて、バス停の一隅に形よく立ったままではいられなかった。
 この竹原五郎という男が、香織の亡き父と刎頸(ふんけい)の友で、祇園の佳都子から五郎が八瀬童子(やせどうじ)の末裔なのだとも聴かされていた。またその八瀬童子とは、何やら十津川の竹原家とも深い関係を匂わせるのだとも、アニミズム歴史学の川瀬教授が以前、そう論文に書いていた。奇遇にも、その川瀬教授が明日の夕刻には京都駅に到着する予定である。虎彦は、そんな五郎から先に挨拶されたせいもあるが、おもむろに黒いフェルト帽をとると、五郎よりも深々と頭を下げていた。
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「あれ、老先生っ、それお商売どすのんか!」
 このまま目礼だけで済ましてスレ違おうと考えたその間に、香織がフィとまた妙な言葉を挿(さ)しいれた。
 五郎も同じ思いであったろう。立ち去ろうとした流れに、香織がパッと明るさを灯すような含みのある言葉を投げかけたのだから、迂闊(うかつ)にも五郎の足を止めさせてしまう羽目となった。
「なんや香織、悪戯(てんご)いうたらあかん。旦那はん、困らはるやないか」
 親代わりだという心根をもつ五郎は、やはりそれらしく厳しさも感じさせてそう叱ると、やゝ気まずそうに虎彦をみて貌を赤らめた。
「てんごなんかいうてへん。これ、うちの仕事なんや」
 香織のそうした言葉には〈先生いうんは、頭下げはらんもんや。ただ学問さけ、しとかはればそれでよろしいんや。せやけど今朝は、頭ァ起こさはるのに、えろうご苦労なことやなぁ~〉と皮肉めかした妙な含みを持たせてはいたが、どうもそうではなさそうだ。
「せやなかったら何か、旦那はんに〈わいの頭ァ、10トントラックなんや。重とうて、あがらしまへん〉などと、香織のツッ込みィに、ボケて返しなはれとでもいうんかいな。そんなんアホなこと、それ、仕事とちゃうやないか。ほんに、しゃ~ない娘や」
 と、五郎は真面目に真っ赤になって怒った。
「五郎はん、えらいじょうずに返しはるなぁ~。せやけど、そんなんじゃあらへん。うち、老先生のこと、お師匠はんや思うとる。せやさかいに、五郎はんのアホ・・・」
「わいが・・・阿呆・・・!」
 香織はもう眼に一筋の涙さえ泛かべている。・・・〈ああ、これじゃ埒(らち)あれへん〉しかも〈五郎に向って、阿呆などと〉・・・こうなると五郎の手前、いつものことであるから刺した釘も用をなさないことがわかる虎彦は、一応、見咎める眼できつく香織をみた。
 皮肉やあてこすりの調子などいささかも含ませてないと思う香織は、やはりそれを他人事のように剽軽(ひょうきん)に笑みた眼の、目玉を上下左右に廻してヤンチャに動かした。こうして香織が笑うと、唇のめくれかたが独特である。つい虎彦も五郎もプッと笑ってしまった。
「こないな娘ォで、ほんに、こっちゃが困ってしまうがな」
 足を止められた五郎は、真実困った声をだした。
 かすれて低い濁声(だみごえ)である。冷たそうに聞こえるが、しかし節々に香織をそっと庇(かば)い包むやさしい人柄のでた言い回しで、しかも弁(わきま)えていた。一見その五郎とは、尻あての鹿皮(ししがわ)を腰にまきつけた野生の風体で、赤鼻の小柄な山男だが、脚を患う虎彦だと承知でも、あえて凍えるや冷えるを挨拶の言葉に引き出して、そうした愚かな会釈など一切しやしない。それがまた虎彦に、毅然(きぜん)とした強さを感じさせた。
「二人とも、けったいなお辞儀だけしはって、済まそうとしはるさかいやわ」
 どうにも懲りない香織がまた眼を細めて笑いかけた。いつもがこんなお茶目な娘なのである。
 虎彦はその辺りのことを詰めていくのが嫌で、二年間、何もいわなかった。妙に上品さだけをものほしげに見られるのは、六十五歳も違う香織が相手であるだけに我慢ならなかった。むしろこの娘といると老いゆく一日が、本来ならひどく短く感じられるものであろうが、何とも長々と感じられるのである。老船の帰り着く港が見えないのもじつに淋しいものだ。それだけに帰り着ける港のあることを感じさせてくれる、いつしか香織とはそんな存在となっていた。

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 そんなヤンチャな非凡さの思春期を生きる香織からいい遊ばれて軽くいなされることに、平凡な老人の日々を重ねられるようで、いつしかそれが嬉しい快感ともなっていた。老人の思い通りにならないのが若者の行動であり言動であるのであれば、それを自分の崩れ去る心の張りにしたかった。
「いつものことですから、特段、気にもなりませんよ」
 五郎は意外そうな顔をして、そういう虎彦のをみた。しばらく黙っていたあとで、虎彦は平静な声でいった。
「竹原さんこそ、こんな朝早くに、どこかご商売にでも?・・・」
「へぇ、それが・・・」
 五郎が応え返そうとする、その脇で香織は、五郎が手に固くにぎる赤いリボンのついた手提げ袋の中身に気がそそれれるようで、それを指でおさえては、ピンと弾いて音の何かを確かめていた。
「何するんや。そないにしたらあかんやないか。やめなはれ・・・あかん、あかん」
「隠さんかてええやんか。リボンついとるし、これ一体何やねん?」
 五郎に慣れっこの香織は、まるで仔犬が尾をふり甘えるような甲高さで袋の中身を問いつめた。
 赤いリボンは誰かへの贈り物に違いない。そのリボンと、指の感触から中身のおおよそを察した香織は、もうそれ以上は自分の口からいいだすまいとしていた。
 良質の作曲家の内面にさかしらな理性の入りこむ必要はない。慧眼(けいがん)な作家の音楽を聴いていると老いた虎彦でさえ、どんな自分の姿も可能なような気がしてくる。この躍動性と同じように香織が傍にいると、ふんわりとしていつも現実が希薄になる。虎彦は、むしろその内面の飛躍をうらやましく感じるのだ。
「しゃないなぁ~。これか、これわやなぁ・・・」
 五郎は白い息を一度はずませて応え返そうとしたが、どうやら虎彦の存在がそんな気にさせるようであるが、先ほど、無意識に力んで斜めに踏み出した右足をス~ッと揃え直すと、弱ったように小さくなって神妙となった。
「なぁ~教えてェ~な。そない、もったいぶらんと、何していえへんのやろか」
 香織はことさら謎めかした笑みを泛かべ問いつめる。そのためか気恥かしさが滝のように五郎の顔面に滲み出ているのが虎彦にもわかった。みかねる虎彦はそれとなく眼を笑みて促してみた。
「しゃ~ない娘やなぁ~。これ、毛布のシャレたやつや。ブランケットいうて、舶来の膝掛けや」
 ようやく弾みをえた五郎は、もう満面の笑みで中身を披露すると、二人をみて得意そうであった。
「寒い日ィ続きよるし、これやしたら元気取り戻さはるんやないか、と、そない思うてな」
「誰が、元気取り戻さはるんや?」
 それまで瞼の上を桃色にしてうつむきがちに聞いていた香織であるが、フィっと虎彦の前を横切ると、その身を二人の間に割り入れるようにして、五郎から眼を逸らさずに訊(き)き質(ただ)した。
「そんな怒った顔せんかて、これ、決まっとろうが、君子はんのや」
 こう聞かされて五郎と真向うと、しかしどこか自分らしくない。香織は何かそぐわないものを感じた。君子がまじまじとこちらを見返しているようにもある。父のものを貰った黒目が勝った香織の透き通る丸い眼は、五郎の目線から、こころもち下がっていた。
「わい、こないだ道具屋寄った難波の帰りにな、船場にいったんや。ほなら、着物きた店の人がやな、これがええ、これがええ、いいよるんや。フランス製やいいよるし、ほれで、わい、買(こ)うてしもた。そんなんでコレ、君子はんに、今朝届けとこ思て・・・。その後、蓮華寺に用事あるさかいに・・・」
 虎彦の前だから、もじもじと、なかなかいえそうになく困っているのが虎彦にはわかっていたが、五郎はさもうまそうに北風を大きく呑み込んでから、二人に語りはじめると、眼をしばたいて瞳を炯(ひか)らして、じつに嬉しそうに話した。その眼の炯(ひかり)、初めて会ったときにも感じたと虎彦は思った。

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「えらい早口やったなぁ~。うちのォは、次、船場行きはったときでええわ」
 そう口をつく怪訝(けげん)な言葉も、頬から顎にかけての弛(ゆる)やかな丸の線がそれを救ってくれる香織なのだ。
「ああ、買うてくるさかいにな。そんなもん嘘いうもんかいな」
 もう香織は微笑んでいた。若いということは、何をみても聞いても老いとは違う意味を感じさせるものだ。
 香織は五郎が話をする途中から、薔薇の花の刺繍(ししゅう)をあしらったブランケットをながめ返しながら〈いつか、うちの子ォ生まれたら、こんなんで巻いて抱きたいな〉などと連想をふくらかし、あこがれの中の、すでに赤ん坊ができたという確信が、勝手にあつらえた慶事に寄り添って、仄々とした喜びに浸っていたのだ。
 そのような香織は、ブランケットを膝の上にのせて児を包み、ためつすがめつ見つめ直しても、まだどこにも仕舞いこむことができなかったのかも知れない。そしてようやくブランケットをたたみ始めた、その手がまたふと止まると、両瞼からぽろりと涙をこぼした。
「急にうち、何やしらん、おかしいんやわ・・・」
 そういいながら香織はそんな自分の感情に驚いていた。母親の顔も知らずに育った、その事情の端々から、五郎が香織に明確には答えてくれなかった内容を、漠然と感じとることはあった。自分でそれらを訊き質そうとしなかったせいもあるが、聞けば何かが壊れる恐れを抱き続けてきたようにも思える。父親を亡くしてからは一人いきようとすることが精一杯で、そんなことには一切眼が向かなかったような気もする。しかし気づかぬうちに、母恋しさに染まっていたのかも知れなかった。そんな香織の眼は、視界全部に立ちふさがると思えるブランケットに向けられていた。
「香織ッ、どないかしたんか?。次、きっと買うてくるさかいに、かんにんや」
「そんなん、何も気にしはらんでもよろしがな。うち今、夢ェみて遊んでたんやさかいに」
「せやけど、香織・・・」
「えろう~、すんまへん。早よォ行きはって、大事ィな君子はん、味善(あんじょう)みたげとくれやす」
 と、さも悲し声でこうつけ加えた。
 はっと我に返った香織は、思いなしか君子を見守る五郎の眼も以前とは変わってきたように感じられる。以前の五郎なら、君子の優雅な言葉遣いや隙のない身じまい行儀のよさに近づけぬ思いをしたに違いない。香織もそうであったから判るのだ。
「そんなん、嬢(いとう)はんにィ、えらい冷たいものいいやないか。失礼や。せやろ、わい変な気持や」
 五郎は、気づかぬ素振りで通りすぎたい型の男とは、あらゆる点で違っていた。
 子を産めぬと若いうちに決まっていた女の、どれほど淋しい人生なのかは、かって子を産んだ女でもわからぬもの。まして男には、もちろん父親の虎彦にもわからぬものだ。そんな君子が十年を重ね経てようやく、おのずから賤しい身の上だと自覚している五郎になぜか警戒を緩めて親しんでくれている。五郎いはそんな思いの他は何もない。晦日に庭の手入れでもと別荘に顔をだした折〈体のそこらじゅうが怠(だる)いし、冷えると痛いいうて膝頭さすってはったんや。正月の挨拶もまだしとらへんし〉だから今朝、届けたい一心でやってきたのだ。
 別荘を建ててから十年になる。当時から君子はこの八瀬の集落で暮らしてきた。
 虎彦は東京都内の松濤の自宅と、京都八瀬の別荘とを相互に暮らし分けたニ重生活で、折よく別荘にいてもその大半は外出がちになる。したがって、考(もの)いうまでもなく五郎との付き合いは君子の方が長い。虎彦の不在中、五郎は不自由な君子のために面倒見もよく、香織や他の手に頼みづらい用件や、厄介な世話を幾度となくかけているという話は君子から聞いていた。君子のためにと、凍える寒さの中を御所谷からわざわざ歩いてきた五郎の言葉は、虎彦にとっても誠実で温かみのあることであった。
「一生涯、病人ともいえる不憫者の君子というものは、親の眼からして、いつまでも子供のようなもの。私がそう努めねばならぬように、私がしでかした過失である。嫁ぐこともできずに遠に五十路(いそじ)を過ぎた女でも、いやむしろ、五十歳を過ぎ、まもなく六十歳にさしかかる女だからこそ、歳の差のさほど違わない、五郎のような逞(たくま)しい男性が身近にいて欲しいのであろう」
 そう思う虎彦は、そんな五郎の一途な温もりで、急にいたらぬ我が身のひきしまるのを覚えた。
「せやッたわ。五郎はんの渾名(あだな)ァ、蛸薬師(たこやくし)いうんや。せやろ。死んだお父ちゃん、五郎は、蛸薬師ィやいうてはッたわ」
 さる寺の僧侶が病に苦しむ母のために、好物のタコを買ったのだが、仏門の身でそれは何事かと問われ、咄嗟にその僧侶が薬師如来を拝んだところ、タコが薬師経と変化(へんげ)して、以来、母の病も癒(い)えたのだという。その蛸薬師のことか?・・・当の五郎はたゞ笑っていた。

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「旦那はん。今日、雪ィになりまっせ。お山がそないな匂いさしてはる。ほな、気ィつけて・・・」
 そういいながら五郎は指先で、香織の額をチョンと押した。
「五郎といい香織といい、この二人は、何と同じような体臭を私に聞かせる者たちか!」
 虎彦はたゞ不思議さに戸惑い、この隠せようもない確かなモノを、どう抑えようか、しかたなく苦笑して終わらせることしか手はないと思ったが、その間に五郎は別荘の方へ歩き、向かい風にも平然とゆく逞しい後ろ姿となっていた。
 小さくなるその五郎の影に虎彦は、〈私と君子との関係が硬化しそうなときに、この五郎が現れたのだが、もしあの時期に別の男が現れても、おそらくこうはならなかったであろう〉と思うと、どことなく安らかな余光を弾いて五郎の影は消えた。それは親という他人の加わる余地のない純真な影であった。それだけに虎彦は、蛸薬師という渾名に、もし縁あれば君子もきっと癒されるのでは、と思うと妙にその影の余韻に惹かれた。
 比叡の西谷に隠(こも)るように暮らし、山岳の情緒豊かな雰囲気を漂わす五郎に、東京の都会育ちの君子が好意を寄せている。五歳で儚くも夭逝した兄を話にしか知らずして他に兄弟もなく育った君子だから、五郎を兄と感じて慕うのか。何よりも患うその君子に蛸薬師の五郎が親しみを抱いてくれている。虎彦は比叡の山というものがもつ神秘さをそこに感じていた。
「ええもん贈らはるわ。ほんま、よう考えはったなぁ~。きっと君子はんのことや、喜ぶ姿ァ、五郎はんに見せてくれはる。なあァ、老先生・・・」
 ほっとして肩を落とした香織はそういうと、深い二重のまぶたを心もち伏せ加減にした。
 このとき、朝陽の奥に白々と融けこんでいった五郎の影が、虎彦と香織の心を占領し、バス停に残された二人は、比叡の山の向こうから昇る陽の静けさの中に、たゞシーンと包まれていた。
 香織は、梅の季節に五郎とこの辺りを幾度か通った春を思い返している。虎彦は、正常な感覚が麻痺(まひ)した君子の車椅子を押し続けた日々を思った。
     坊さん頭は丸太町 つるっとすべって竹屋町 水の流れは夷川(えびすがわ)
     二条で買うた生薬を たゞでやるのは押小路 御池で出会うた姉三に
     六銭もろうて蛸買うて 錦で落として四かられて 綾まったけど仏々と
     高がしれとる松どうしたろう・・・
 と、香織が何気なく呟く京のわらべ唄が、ひとり北風に吹かれて揺れていた。
「あッ、老先生ッ、これ違うとるわ。今日、土曜日なんやして、あと十分待たんとあかんわ」
 待ちくたびれた香織がバスの時刻表を確かめると、通常日の運行時間と、土、日曜の運行時間とは違うことに気づいたのだ。
「えらいもんアテにしてた。うち、何てことや。老先生、ほんに、堪忍やえ~・・・」
「何ぁ~んか、うちら二人して、君子はん訪ねはる、そんな五郎はん、待っていたのか知れまへんなぁ・・・。」
 風穴でもポカリと開いたような、そんな呟きが香織の唇から洩れたとき、その言葉は、しかるべき余韻を虎彦にしみじみと残して、しばらく北風の中に舞っていた。


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                              第5話に続く
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  きょうの細道    C 11 gif


  
   京都 蓮華寺。



  
   京都 日本の美。




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   きょうと 2はなそとば 2

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   京都 花そとば



  つきの暦  2013年2月

  つきの暦 2013 2



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洛北小説『花そとば』 第3話

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      ごえん風土記 かな 100
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              第一部 八瀬童子(やせどうじ)   

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      ニ  御所谷の五郎 (ごしょだにのごろう)   



 雨田家別荘は比叡山西崖の裏陰にある。
 東の山際にある場所の朝とは随分と遅い。比叡山を越えた朝陽は、まず山荘から西に望む鞍馬山の高みを射るように当たり、山荘の朝はその西からの逆しのゝめの余光に仄かに映えながら、高野川を越えてしだいに水紋が広がるように明け初めてくる。これが東山の夜明けである。

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「なんや、またバスどすかいな。老先生の顔に、そう書いたるわ」
 そういうと、旅支度をすっかり整えた香織は、手に握らされた虎彦のステッキをかるく揺らしながら、悪ぶれた様子でもなく朗らかにまたつけたした。
「老先生、ちょっとも、病人らしくしはらへん・・・!」
「三日前、あないなひどい発作おこさはったくせに、ち~とも懲りはらん。しゃ~ないお人や。なして遅いバス選らばはるのか、よう分からへんわ。電車ならスーッと、速ように着きよるのになぁ~」と、
 何ともふくよかな白色の顔の糸をひくような眼をつむって笑う。
「きょうは外、寒うおすえ。足ィ、ほんに大事おへんのか・・・」
 と、人形(いちまつ)さんのような香織が気遣うように、室内にいても、しんしんと寒い日である。
 この香織という娘に、加賀あたりの羽二重(はぶたえ)の熨斗目(のしめ)を、あでやかな西陣の羽織と対で着せ、白足袋をはかせ、やはり西陣の角帯をキュッとしめて、髪型を丸く整えると、それはまさに等身大の市松人形ではないか。虎彦は初めて別荘で出逢った日、香織にそんな勝手な仮想を創り、明るく匂うように歩かせてみた。萌え出したばかりの美しい緑の、そんな命をもつ香織と出逢えてから雨田家は、それまで忘れていた呼吸を、いつしか取り戻すことができていた。
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 その香織がほそい指先でそっと虎彦の乱れたマフラーのバランスを整えていると、
「どうしても、今日じゃないといけないの・・・」
 一人娘である車椅子の君子が、弁(わきま)えのある細い口で念を押した。
「ああ、お互いが待ち望んだことだ。おまえも承知の通り、わたしも承知の上のことだ」
 尠(すく)なくしたいから君子をあえて見ずに虎彦は応えた。憐れむと君子の心を鋭く刺すように思えるからだ。十年前、バリアフリーで設計した別荘の、全てのスペースで君子が一人でも生きられるようにシステム化されている。虎彦はみずからが君子に投げかけたその言葉を噛みしめていた。
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「そう、そうですよね。やはり、行くのですよね・・・」
 無茶も甚(はなは)だしいと思う。しかし、承諾してしまう。君子の性格の中に、いつも何かふっ切れない腫物(はれもの)の膿(うみ)のように、そういうダメなものが潜んでいることが、君子には自分でもわかっていた。
「二度も同じことを訊(き)かないでくれ」
 ふりむいてから、ふッと視線を苛々(いらいら)しく君子にとめた。
「そんなん怒らんかて・・・、たゞ君子はん、老先生のこと、心配しとらはるだけや」
 君子に虎彦が眉をひそめたせいもある。だがそれとは別に以前から虎彦に対し、疼(うず)きに似た興味がなかったわけではない。それは小さくてささいな理不尽である。先に玄関を出ようとしていた香織が、今度はすかさずキッと視線を睨(ね)めすえて虎彦にとめた。そうして・・・、
「老いては子ォに従うんや、と、弘法(おだいし)はん、そういいはったわ。たしかそうや思うけど、伝教(でんきょう)はんやったかも知れへん。お大師はん、亡くなりはった前の晩、二十日ァに、うちのお父はんそないなこというて講ォの人らと話してはった。子ォは宝なんや」と、
 香織は、何の罪もない君子に、かわいらしく茶目っ気のウインクを投げかけて笑みた。

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   いちまつ人形 1 W550 gif

「空海さん、そんなこと言ってません。ごめんね香織ちゃん。だけど、もういいのよ・・・」
 それでもう君子は、車椅子の上で、何やら心泛きたつようなものを覚えていた。
 そんなざわめきに耳を傾けている心境でもなさそうな虎彦は、ふッと一つ吐息を漏らすと、
「日東大学の瀬川教授ほか五名が、明日の午後四時に京都駅着ということだ。梨田君が案内してくるから彼をふくむ都合六名で、祇園の佳都子(かつこ)に連絡しておいてくれないか。万事よろしくと・・・な。ああ、それから、これも・・・頼む」
 こう君子にやや昂(たかま)りのある声で言伝(ことづて)し、一枚のメモ紙を手渡すと、虎彦はもう振り向きもせず香織を伴って午前七時前には別荘を出た。
「香織ちゃん、父のこと、くれぐれもお願いね」
 君子のそんな言葉に振り返る、四十路(よそじ)ほど歳のはなれた若々しい香織は、OKとばかりに手を大きく左右に振ってみせながら微笑んだ。紺のデムニに淡い桃色のスニーカー、何よりも背負う若草色のリュックが、新年の風をカラフルに揺らしてじつに可愛らしいのである。
 虎彦は、そんな香織のことを「かさね」と呼んでいた。
「かさね、とは、松尾芭蕉が奥のほそみちにいう〈那須野の、小姫の、かさね〉なのだ・・・」
 父はそうとは語らないのだが、虎彦の本歌取りのようだと、そう君子は車椅子の上で手を振りながら〈ふふふッ〉と思う。父子家庭の長い娘が父の趣癖(しゅへき)に従えばまた、そのかさねとは〈八重撫子(なでしこ)の名なるべし〉かの河合曾良の句に自然に連なり解けてくる。

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 その撫子は晩春から初夏に育ち、初秋には可憐で淡い紅色の花を咲かす夏の草である。春の野は厳しい冬の間に創られるもの、が口癖の虎彦ならば、こんな採り重ね方をきっとするに違いないのだ。あえて口に出してそうとは言わない虎彦の、胸の内の香織とは、もうすでに孫娘なのである。その香織が別荘にきてから、まだ二年なのに、もう十年は共に暮らしているようだ。
「両親と死別して、まだ二十歳にも満たないで、どうしてああも明るく振る舞えるのか・・・」
 坂道を下る二人のシルエットを玄関先で見送る君子は、二年ほど前から置屋(おきや)の女将(おかみ)佳都子からの紹介で、別荘に住み込みで働くようになった家事手伝い兼、虎彦の付き添い役、そんな香織の屈託のない様子をじっとみつめながら、
「ええ人や・・・。あの人なら父を任せても安心や。大切にしてくれはる」
 と、爽やかな香織の情緒に呑み込まれながら、君子は何となく、ほのぼのとしたものを覚えた。

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「ああ~・・・、いやや、鼻ァつんとする。これ、雪の匂いやわ。せやけど、えろう、バス遅いなぁ・・・」
 三宅八幡前バス停で東のお山をながめながら、香織は何度も首をふる。そんな表情の貌(かお)にある眼は、市松の人形にそっくりといっていいほど似ていた。虎彦の一人娘である君子の持ち合わせていない、女の子でありながら、目尻に生きる力の光りを上手(じょうず)におびさせる男児かとも思えるほど逞しい眼の輝きであった。
「あのな老先生、今夜、お山、雪になりはるわ。何や、そないな匂いするさかいに・・・」
 京都でお山とは、比叡山のことだ。しょんぼりと丸く虎彦のコートに寄り添うまだ17歳の香織は、そう不満げにいってから、左頬に深いえくぼを寄せて、何やら懐かしい親しみでもつかむかのように、虎彦82歳のコートの袖口をあいらしくキュッとひっぱった。
「ほう、雪に!、匂いがあるのかい?・・・」
「ある、のッ・・・」
 虎彦には、雪が匂うという或(あ)る種の儚(はかな)さが面白く思えた。
 以前から虎彦は、一瞬だけの儚さの裏側にある、無限の変化を秘めて湛(たゝ)えた香りというものの性格に惹(ひ)きつけられてきた。その無限の向こうに、自分では見届けることの出来ない、雪の匂いというものがあるとすれば、自分の前にありもしない匂いだが、香織の記憶と共にふう~っと鼻先に戻ってくるような気もした。そんな虎彦は、訓練された鼻が、一瞬で余分な匂いを差し引いて、特定の香りを聞き分けることを十分に知っていた。
 人は香織のそういう特殊な感性を、迷信だといって笑うかもしれない。しかし、虎彦の脚の痛みも時々風のきな臭さを感じたとき、休火山のように爆発し、この匂いが誰にも解らないことのように、降雪と香織の摂理との交感とが、まんざら無関係なこととして、虎彦には思えなく笑えないのであった。

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「そうや。これ、ほんに雪の臭いや。せや、今夜、雪ふるわ」
 こう強く香織がいい切ると、空から冷たさに凍えて溺れそうな風が、またしんしんとバスを待つ二人の袖口に差しこんできた。
 指先や頬の赤さが、辛うじて老いた虎彦の顔色を人間らしきものに染めていた。山端(やまはな)で育った香織にはこの土地の雪の匂いがわかるのだ。雪が降り出しそうな、そんなとき、何となく周辺がきな臭くなるという。
「それは私が感じた、或る朝の臭いと、同質のものかも知れない」
 と、虎彦はふと、そう思うと、微かに高揚するものを覚えた。
 朝の香りは、立ちならぶ木立に射しこんでくる斜光にともなって、特有の香りへと発展し、五感では聞き獲(と)れるが、眼では不可視の風土なのだ。そう思う虎彦は、その木を杉とすれば京都北山、山毛欅(ぶな)なら白神、扁柏(ひば)なら津軽、紅葉ならば嵐山、桜なら吉野、桧(ひのき)なら木曾など、このそれぞれが無双の朝の香りを持っていたことを覚えると、耳朶(みみたぶ)が記憶するその香音を聞いていた。
 かって虎彦は吸い寄せられるようにして、それらの場所へ朝の香りを求める旅をしたことがある。比叡で育ち、その風土と共にある香織をかたわらにして虎彦は今、日本各地の朝の香を訪ね続けた日々を思い返していた。
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「吾輩は・・・、湯葉の香りから名残り雪の気配を抱くことがある。京都に暮らすとは、そんなことではあるまいか。香織の感じる雪の匂いも、やはり京都の季節に順応した節分の匂いなのであろう・・・」
 と、推測してみると間もなく節分なのである。
 その節分の日には、縁起のいい方角を向いて太巻きの恵方巻を食べるが、京都の禅寺における太巻きの具材には卵焼きの代用に生湯葉を使う。つまりこの湯葉が吾輩の節分の香りだ。
 その節分は、冬季ではあるが、しかし、翌日が立春であるから、すでに春の匂いの濃い冬季だとなる。香織がいう雪の匂いとは、この春の香り濃い節分の空気感なのであろう。本来、この節分は文字通り季節の分かれ目のことで、立春、立夏、立秋、立冬の前日をさし、したがって一年に四回あった。

         月も朧(おぼろ)に白魚の
         篝(かがり)も霞む春の空
         つめてぇ風もほろ酔に
         心持好く浮か浮かと
         浮かれ烏の只一羽
         塒(ねぐら)へ帰る川端で
         棹(さお)の雫か濡れ手で粟
         思いがけなく手に入る百両
         ほんに今夜は節分か
         西の海より川の中
         落ちた夜鷹は厄落とし
         豆だくさんに一文の
         銭と違って金包み
         こいつぁ春からぁ延喜(縁起)がいいわぇ

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 吾輩はふと、歌舞伎狂言「三人吉三廓初買(さんにんきちさ くるわの はつがい)」の序幕、お嬢吉三の名科白(めいセリフ)を思い出した。このセリフは、冬が春に変身することの風情を縁起づけた。吾輩は主人・阿部秋一郎が河竹黙阿弥の作風を自慢する話を何度となく聞かされた。清原香織に限らず、阿部家では節分前後の降雪は縁起佳きモノの例えとなっている。
「つまり・・・、香織のいう雪の匂いとは、冬が終わる匂いなのだ。最期に雪は春濃く匂うのである・・・」
 と、思い、吾輩も香織の陰にあって雪の気配にそっと鼻先を向けた。
 たしかにそのとき、乾いた空気が、妙に鼻の奥と喉のあたりで濃厚に混ざった。そして吾輩の眼の中に、白いまるい浮遊物が現れた。それは、やがて、睫毛のうえで起きた小さな風に吹かれて、吾輩の唇に落ちては、そしてトロリと溶けたのであった。

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「老先生ッ、雪ふると、また脚ィ痛うなりはるわ」
「・・・・」・・虎彦は、ぼんやりと四明ヶ嶽を見上げて無言であった。
 奈良まで行けるのか、と香織は心細くなっていた。雪が降り始めると、信彦の、決まって患っている脚が痛くなる。しだいに痛みは背中まで走り、やがて膝が疼くようになると、もう全く歩けなくなって支えきれない香織が困るのだ。その体験を虎彦から度々させられていた。
「しゃないなぁ~・・・」
 香織は、微かに心に重荷を感じ、深山(みやま)をみてまどろむような、小さな声でいうのである。
 聞こえてはいたが、虎彦は口を噤(つぐ)んで何もいわなかった。冷たさに焦(じ)らされる時間が嫌だからと舌打ちして、この颪(おろし)が止むものではない。虎彦は、たゞ眼だけを、いとおしく香織の方へ向けた。
 たしかに香織にしか聞き分けのできぬ比叡の朝に雪を孕(はら)ませた匂いがあるのであろう。二人の眼と眼が合って、香織の純真な眼の輝きにふれたとき、虎彦は一層いとしさが増した。
 この娘には、この世の中を〈どうか幸せに生き抜いて欲しい〉と願いたくなる。
 ともかくも、過去も、現在も、視界に汚いものがあり過ぎる。辛いもの、苦しいもの、嫌なものを見ないでは生きてゆけない毎日ではないか。不幸とは、そんな視界の貧しさから生まれ出るものだ。眼の前には未来を見つめられる香織がいる。そう思う虎彦は昨夜、寝る前に書斎の窓を開けたことを思い出し、こじ開けた過去の時間が訝(いぶか)しく想い起こされた。
   ねこと老人 1
「そうだ・・・、そうなんだ・・・!。虎彦先生・・・、もっと過去の時間をこじ開けてくれ・・・!」
「そのために吾輩は、こうしてやって来たのだ・・・!。そのために・・・」
 と、この二人の気配を吾輩は何よりも今敏感に感じている。
 吾輩はそろそろ冬の雪が解ける季節が近づくと妙に疼くものを覚えるのだ。そのことと雨田虎彦が奈良で生まれたことは決して無縁ではない。おそらく虎彦先生も承知している筈だ。
「猫に限定してその保護を論じると、それが動物愛護保護法に抵触するだと、まったく冗談じゃないぜッ・・・!」
 たしかにこれは、他の動物に対する偏見に成るのかも知れぬ。牛や豚だって当然動物である。鰐皮やダチョウ皮など、他の動物の皮も常に人間社会では利用されてきた。ミンクなどは、毛皮を取るだけに飼育されている。可愛いモルモットも、医薬品開発のために命を投げ出してくれている。人間はそう考えているようだ。
 だが昔は、鯨の頭の中にある油を取るだけのために、アメリカなどは鯨を絶滅に追い込むほど乱獲し、その肉や骨などは海に放置していた。アホウドリだって、羽布団の中身にするために沢山命を落とし絶滅の危機に至っているではないか。その不幸な経験を生かして、動物の保護や命を無駄にしないための「動物愛護保護法」が制定された経緯がある。しかし、それはあくまでも動物を虐待したり無駄に命を奪うことを禁止する物であって、人間のために利用することを禁止する物ではない。

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 人間が快適に生活し、健康に生きて行く上で生物の命の恩恵を受けないわけには行かないであろう。そこは吾輩にも理解できる。吾輩らがネズミを捕獲して食用に用いるのと同じだ。だからこそ、すべての食料品や生活用品は、必ず他の生き物の恩恵を受けていることを理解し、その生き物に報いるために無駄な消費をしないように心がけ、常に感謝する気持ちを忘れないようにしたい物である。
 三味線の話になるが、最近は猫の減少など様々な理由から、だいたいは犬の皮で作られている。人口皮や代用皮も色々出てきてはいる。
 猫皮や犬皮の調達は専門の猟師が、野良猫や野良犬を捕獲してくるようで、これに関しては「伝統芸能に関する生業(許可制)」として、動物保護法からは今のところ免れている。ただし実際には愛護団体からの反発は強く、また団体が国会議員に「法で禁止するよう」陳情をし現在上げているという話もあるから、この捕獲も近いうちには禁止となるかも知れないという。
 ちなみに現在、猫の皮で三味線を作る職人(会社)は1件だけとなった。この職人は伝統芸能の表彰(勲章)が与えられている。この職人芸は、どにも凄いようだ。廉価版一棹でも60万円もする。吾輩はこの会社を幾度となく偵察しているが、張られている側が同僚の猫なので、その捕獲や養殖に値が張るのかとふと思って、そっと窺ってみたのだが、あれだけ手間と職人芸が詰まっていれば当然安物でもかなり高値になる。
「飼い猫を失敬する。それは野良猫を捕獲するより簡単で、きちんと飼われているので栄養も充分で皮の状態も良さそうだ。なるほど・・・、だがまったく冗談じぁない・・・!」
 と、妙なざわめきを過ぎらせた吾輩は、これから二人が向かおうとする奈良の方角をじっと見据えた。そこには世に祭ろわぬ人々が蠢いた歴史の邂逅がある。



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                              第4話に続く
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   京都 雪景色。



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   きょうと 2はなそとば 2

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   京都 花そとば



  つきの暦  2013年2月

  つきの暦 2013 2



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洛北小説『花そとば』 第2話

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              第一部 八瀬童子(やせどうじ)   

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      一  月の跫 (つきのおと)   



 明日は月あかりのない、朔(さく)の日である。
 そうした無明な下弦の終わり日ともなれば、しじまな崖下へと降りる階段あたりから、しだいにその底に凍てついて沈むような侘しい茶室までの間は、まったくの暗闇であった。灯り一つ無ければ、香織の若い肉眼でさえも、もう何の影さえも追えぬ怖い暗がりの淵を厚く重ねていた。
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「動物愛護保護法に抵触するのではないか、と気遣ってくれた・・・!」
 芹生の里から八瀬の別荘まで吾輩の足なら20分ほどである。久しく香織とも逢ってなかったが、元気そうな気配に以前香織が吾輩らを弁護してくれた言葉を嬉しく思い出した。
 吾輩ら猫族の生皮をなめして三味線の革に使用する。
 香織はこの件でラジオの深夜放送に素朴な疑問を投稿してくれた。
「三味線は猫の皮を使うと聞いていますが、では、この猫はどこで調達するのでしょうか?その辺にいる野良猫でも捕獲するのでしょうか。それとも猫のブリーダーのような人がいて皮の状態の良い猫を使うのでしょうか? 動物愛護保護法に抵触することは無いのでしょうか?・・・」
 と、いうリスナー香織からの葉書だった。そしてパーソナリティーの女性は次のように答えた。

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「現在は,猫皮の大半は中国あたりからの輸入だそうです。食用に飼われているものから,皮を取るようです。国内では非合法の猫狩りは今でもいるようですが、野良猫は皮の質に問題があることが多く(傷があると強度に問題が出るので売れない)、飼い猫を狙う例が後を絶たないらしいです。この場合は動物愛護法以前に,窃盗や器物損壊に該当するので話になりませんね。さすがに最近は合成皮などが多くなっているでしょうが、高級品は現在でも猫の皮を使います。しかも、若くて妊娠経験のない雌猫が最高級品だとされています。やはり野生の猫では品質に問題が有りそうですね・・・」
 吾輩らに現在もなお深刻な問題を突き付け続けている人間の歴史がある。この点において京都の市井は危険地帯なのだ。吾輩は、祇園、先斗町(ポントチョウ)、上七軒などの花街はなるべく歩くのを控えている。三味線の音色を聞くと鳥肌が立つ。

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「老先生、あし悪いし、お歳やし。もうそろそろ、この階段おりれへん思うわ。階段、えろう凍りついとるし、きっと足ィ滑らせはる。うちかて危ない階段やさかいに、ほんに心配なことやわ」
 と、手燭を点した香織は、階段の降り口の杭にくゝりつけられた温度計の摂氏3℃をたしかめてからそう一心に気遣うと、そろりそろりと滑りそうな階段を一歩ごと慎重に踏みしめておりた。
 さきほど準備を終えた炭点前の用具一式を抱えて、その三十段はあろう階段はいかにも長い。両手をふさがれたまゝ、それでも息を詰めてようやく転ばぬように降りた香織は、そこから先、小さな手燭などでは眼の利かぬほど暗い茶室までの飛び石を足さぐりに渡りつゝ、きたる一日の安寧(あんねい)をていねいに畏(おそ)れて七つある石燈籠の燭火を順番に点しながら、ようやく茶室のにじり口まできた。


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「たぶん、昨日と同じなら、後ちょっとや。もう少し待たなあかん・・・」
 そういって茶室の裏側へと回った香織が、腰掛石から、虎彦の寝室に灯る小さな明かりだけを頼りにながめ仰ごうとする山茶花の大樹は、天空の高みでも垂直に仰ぎみるような柱状凹凸の崖の上にある。
 虎彦の寝室はその大樹と隣り合せだが、寝室の窓を開いて茶室をみようとすると、古風な青銅葺(からかねぶ)きのその屋根は、谷間でものぞきこむような高さの距離を感じさせる視線の先の、その奥底にようやく感じさせるほど小さかった。この深い谷底は、昼間でも太陽とは無縁の昏(くら)い暗がりなのである。
 しかし、晴天時に限り、一日に一度だけ光りの降りそゝぐ瞬間があった。
 眼をつむると、すでに香織の頭の中では、うす紫の仄かな渦が巻き起こっていた。
 腰掛け石にすわる香織は、その時をじっと心待ちにした。それは朝まだきから黎明の生まれようとする間に起こるのだ。比叡山を越えて生まれ出ようとした朝陽が崖の岩面を射し、その凹凸で屈折した反射光が垂直に谷間を抜いてふるように染める。そのときのみ、茶室が青白く照らされながら谷底に映える一瞬であった。
 香織はその瞬間をじっと待っていた。
 茶室の裏の庭前は、きれいに箒(ほうき)の目をつけて掃(は)き清められている。
 これは昨日の夕刻に香織の手で丁寧に掃かれたもので、雨の日を除けば、香織が毎夕している仕事なのであった。この掃き清めた庭土に、いちめんの白い散りさゞんか遺されてある。
 それは皆、夜の間に散らされた花なのだ。

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 香織はまだ真っ暗い庭に、眼を凝らしてその花々の散華をみた。
 あまりの暗さに、マッチを擦って、指でかざしては揺らして、庭土の奥をじっとみた。
 厚く深い白なので、あざやかに泛き残されている。それは清らかな純白ぶりだから、闇のなかに消え惜しむかに泛き残っていた。暗闇だから一層そうさせるのか、遠目からもあざやかに白い。見開いた眼でその白を確かめ、また眼を閉じてみてはその白を想い泛かべた。
 繰り返しそうして、また眼を閉じた香織は、崖の上に咲いている、暗闇にみることのできぬ白いさゞんかの花を、そっと瞼に描きながら光りに照らされる谷間の一瞬を待った。


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「ああ~、これやわ。きっと、これが聞香(もんこう)なんや。香りは嗅ぐもんや無い、聞くもんやと、老先生はそういゝはった。聞くとは、ああ、ほんにこれなんや」
 崖の高みの上から白いさゞんかの、ほのかな甘い香りがふり落ちてくる。そう感じとれて、ふと眼を見ひらいた途端、香織はかすかな音をたてて土に着く、白い花びらをみた。
 みあげるうちに、ひらひらひらり、ひらり、はたりと、白い花びらが不規則な時間差で舞い落ちてくる。それは決して桜のようなふわりとした散り様ではない。さゞんかの白は、ほのかな青白いむらさきの光りを身に纏い、その光と一緒にしつかりと重く舞い降りてきた。
 そうして、その散りじりの庭土を見渡すと、散り終えた白い花びらが、仄かに淡いむらさきに染め上げられて、いつしかぐるりと廻る散華の紋様が描かれている。小さな黒い築山の岩上にも点々と降り落ちていた。


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 しばらく香織は立ち竦み、手にとれないでいつ散り落ちるか判らない花びらをひたすたに待ちながら、肩に背に、あるいはコッンと黒髪の上に、大樹を離れて遠く庭土に着くまでの清浄な白い花びらを、じっと眼や肌に感じては、香織はたゞ一心にその白を身にとまらせたいと願った。
「ああ~、えゝ匂いや。ほんに、しィ~んと、真っ白な声ださらはッて、きっとこれ、散りはッたんやないわ。もう、お花やのうて、お山の仏はんに、変わらはッたんや。何やうす~い、むらさきィの天衣(てんね)ェ着はって、舞いはったんや。そんなん、じ~っと見とったような、うち、何やそんな気ィするわ。ほんに、えゝ匂いやった」
 十数分間のつかのまの、散り落ちる花びらのを待つ時間の何と厳粛(おごそか)なことか。たしかに開いた花は、咲けば散る。しかもその花は、たゞの白である。そして花の名は、さゞんかに過ぎないのだ。そのたゞの、さゞんかは、やがて形跡もなくなり土に還るたゞの花びらである。


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「たしかに、そうかもしれへん。しれへんのやが・・・、せやけど、あの鐘の音ェは一体何んやろうか?。どこぞの寺ァの鐘の響きやない。六時の鐘、鳴りよる時刻やあらへんし・・・・・」
 梵鐘が響くように、そんな音をさゞんかの口が、そっと洩らしたような気がしたのだ。
 あれは、やはり空耳などではない。そう感じた香織は、もう一度ざっとあたりに眼を通してから、眼を閉じてみると、その鐘の音は澄まされた耳奥で、まだはっきりと感じとれた。眼に眠る花びらの中で鐘の音が鳴っていた。

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 香織は黎明の刻限に合わせてその落ちる間を逍遙(しょうよう)としたとき、見える者には感じとれない花の声や、見えぬ者こそが感じとれる声の匂いを、たしかに聞きとれたのだ。そして香織にどっしりとした比叡山の土の香をじ~んと感じさせてくれた。
「ハッ、せやッた。お花や、茶室のお花や。せやッたわ。老先生、待ってはるんや・・・」
 はっと、そう思い気づいて、それでも数分間、散らされた花を踏まないように、庭前の小さな余白をうろうろと歩いた香織は、もう午前五時過ぎには茶室にいて、茶の湯の席を整え、間もなくやってくるであろう虎彦の杖音を聞き逃すまいと、ことさら耳を澄まして待っていた。


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「あ、来はッた。ふう~っ・・・滑りはらんと来ィはったんや」
 三つ脚のような老人の足音は、片足をかばうために、どことなしかぎこちなく定まりの悪いステッキを撞(つ)きながら凍てつく石道を危なげにやってくる。谷底は風のない静寂の中にある。虎彦の杖の音だとわかった。その音を聞き取ると、急(せ)くように香織は、戸口から身をにじり茶室の外にでた。
 そうして四つ目の燈籠の灯の中に虎彦の影がゆれて露(あら)われたとき、小さな波立ちを胸に抱えながら、香織はその影に向かって歩きはじめた。

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 虎彦は茶室へと向かいながら、この二、三日、深閑として凍りつく谷底がひっそりと暗い美を湛えていることに神秘さを抱いてはいたが、燈籠の灯を過ぎりながら白々と揺らぐ香織の影がその神秘さの上に重なり合うと、それは比叡の山にこめられた永遠の祈りを凝縮したような透明な時間の過ぎりではないかと感じられた。
 そうして二つの影が並び合おうとするとき、
「かさね、七時には発つ。その心づもりでな」と、
 いう重たげな虎彦の一声に、香織は別に驚きもせず、無言(しじま)のまゝ軽くうなずいた。
 香織は、二人の会話や立ち振る舞いにも、一日のうちで一番うつくしい旬があるということを、香道や茶道に親しむ虎彦から教わっていた。それは、さまざまな草木が季節ごとに花をつけるのと同じ、確実にその日がめぐってくる自然の循環と等しいのである。そういう虎彦の和服からはほんのりと、昨夜、香織が焚きこめた伽羅(きゃら)が香りたち、虎彦はすでに茶道に篭る人となっていた。スレ違う二人の影は、いつものようにここで別れ、それぞれが二つの闇の中へ消えた。

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「鐘の音といえば、吾輩も時々聞こえてくる・・・!。これは、どうやら血筋のようだ・・・」
 と、吾輩には香織に聞こえた鐘の音が、決して空耳ではないことが判る。
 そもそも珍野家で飼われていた吾輩の祖は雄猫である。その祖は、漱石先生の綴り遺した本編の語り手で、名前はなく、「吾輩」と1人称で名乗りを上げた。人間の生態を鋭く観察し、猫ながらも古今東西の文芸に通じており哲学的な思索にふけったりする。そして人間の内心を読むこともできた。
 三毛子に恋心を抱いたりもする。だが最期は、ビールに酔い、甕(かめ)に落ちて出られぬまま死ぬ。これが吾輩の祖の顛末だ。その祖は、年齢「去年生れたばかりで、当年とつて一歳だ」として東京に生まれ、「猫と生れて人の世に住む事もはや二年越し」と生きた。

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「そんな吾輩の祖は、どいやら鐘の音を甕の中で聞いたようだ・・・!。その血が吾輩の体内にある!」
 吾輩の祖の飼い主は、文明中学校の英語教師であったが、その父は場末の名主で、またその一家は真宗であったようだ。吾輩の祖が、顛末で鐘の音を聞いたことは、その真宗と無縁ではない。
 しかも苦沙弥先生を吾輩の祖は、際限なく観察し過ぎたようだ。頭髪は長さ2寸くらい、左で分け、右端をちょっとはね返らせる。吸うタバコは朝日。酒は、元来飲めず、平生なら猪口で2杯ほど。わからぬもの、役人や警察をありがたがる癖があった。はからずもそんな洞察力に吾輩の祖は秀でていた。
「たしかに過ぎたるは及ばざるが如し・・・。あまりにも膨大な珍野家に関わるパロディを見過ぎた・・・!」
 窃盗犯に入れられた次の朝、苦沙弥夫婦が警官に盗まれた物を聞かれる件があるではないか。あるいは『花色木綿(出来心)』の、水島寒月がバイオリンを買いに行く道筋を言いたてるのは『黄金餅』の、パロディである。迷亭が洋食屋を困らせる話にはちゃんと「落ち」までついている。綴り遺した漱石先生は、三代目柳家小さんなどの落語を愛好したが、吾輩の祖の人生は、落語の影響(パロディ)が最も強くして縛られてしまった。
「黄金餅・・・か・・・!」
 寒月は苦沙弥の元教え子の理学士で、苦沙弥を「先生」とよぶ。なかなかの好男子だが、戸惑いしたヘチマのような顔である。富子に演奏会で一目惚れした。高校生時代からバイオリンをたしなむ。吸うタバコは朝日と敷島。そんな祖先話を思い出した吾輩は、香織のこしらえた椿餅(つばもち)をじっと見つめていた。


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 茶の間の円卓の上に京焼、三代道八(どうはち)の青磁があり、その雲鶴模様の大皿には椿餅がつんであった。
「香織、おはよう。何かお祝い事でもあるの」
 というのは、ようやく目覚めて、かんたんな化粧をすませた虎彦の一人娘の雨田君子である。仁阿弥道八といえば京焼を代表する窯元であり、明治の三代道八は青花、白磁の製作にも成功し、刷毛目を得意とさせながら煎茶器の名品など多数製作した。その手からなる雲鶴大皿は狸谷の駒丸家より譲り受けた逸品であるが、普段はめったに人目に曝(さら)されることのない父虎彦の寵愛する蔵品なのである。そうした由緒ある雲鶴の有無を言わさず白い餅が平然と陣取っている。朝の空が白む時刻でもあるから、かぶいた餅の、その胸のすく思いをさせてくれる格好が、君子の眼にはじつに豊潤であった。

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「あ、君子はん。小正月くるし、通し矢やさかい、お祝いしょ思いましたんや。この日ィは女将はん、うちらもお祝いやいうて、よう作らはったんやわ。女将はんみたいにはじょうずにできへんけど、今日、奈良行きますやろ。せやから、君子はんに、食べさしてやろ、そう思たんや。祇園には電話したさかい、午後に初音姉さん来るいうてましたから、半分は女将さんとこの分やさけ、姉さん勝手に持っていかはる思う。君子はんは何も構うことあらへん。気ィ使わんと部屋にいらしたらよろしおすえ。念押しときましたさけ・・・」
 通し矢とは、三十三間堂のことである。香織がそういうのを聞きながら、君子は食卓の上をながめ、母もなく誰も節目を祝ってくれた覚えもない少女時代を思い返した。
 これまでは、父と娘の二人っきりの味気なく侘しい生活に慣れて見過ごしてきたが、白あんの餅に紅をひき、窪みのところに黄色い花粉をあしらう橙皮(とうひ)の粒が色目を立てて散らしてある。それを見ているうちに、無垢(むく)だったはずの少女時代がよみがえって、君子は淡い感傷にさそわれた。

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「お父さま、まだ茶室かしら・・・」
「もう、お上がりにならはッてもよろし時間やけどなぁ。そろそろお食事、しはらんと・・・」
 その虎彦であるが、眼を見開いたまゝ、やゝ神妙なおももちでまだ茶室にいた。
 客座に散らさてた白い花びらは、香織が拾い摘んださゞんかである。花は、それだけしかない。一見、素人の娘が無造作に散らしたようにみえるが、その自然なせいか黎明の迫る暗い茶室の中に白い小さな宇宙でも区切るかのようにみえた。それを客人に見立て、一通りの茶道の形を終えた虎彦は、
「かさねの奴、花びらを相手に茶など点てさせて・・・」と、
 花びらとの独り点前に、たゞしずかに茶碗を差し出すと、幽かな影に揺らされ息を吸い込むような動きをみせながら、逆に、吐息に似たものを洩らした。

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 茶道をたしなむと、侘びた可憐な花にたたみこまれた奥行が、虎彦にふと、自分をみつめることを促したりする。そう気づいたのは、いつのころであったか明確な記憶はない。もう四十年近く茶の湯に親しんでいるが、有りそうであって、そうそうには無いような気もするのだ。
 花の蕾(つぼみ)とは、いつとはなく襞(ひだ)のほどけて、咲ききってしまうまでの間に、頑(かたく)ななものを綻(ほころ)びさせてゆく時間があろう。白さゞんかの、その時間の長さと深さとが虎彦の胸に強くしみた。
 八十二歳になる現在、
 年に一度、年齢が避けようもなく加算される日が、このように繰り返し来ることなど、信じがたい事実のように、それも花の綻ぶ襞のふかさに例えられることなのであろうかと考える虎彦は、六時半にはもう朝食を終え、ひとり書斎の窓辺にいた。
 そうして深くソファーに腰を沈めると、全くあてどない思いが去来した。
「あれはM・モンテネグロと見た、あの空の色なのか?。いや・・・そうじゃないな」
 虎彦はどこで見たのかも思い出せない青い空のことを考えていた。脳裡に残り消えないでいるから、それも人生の真実には違いない。何かのきっかけを待っていた自分に、今回の奈良行きが、何か思いがけない変化を訪れさせるのではないか。それが何かはまだ分からないが、七十年も忘れようとして拒みつゞけた奈良である。もう二度と近づくまいとした、ひからびた奈良の裏面に、何か大切なものが沈めこまれているような気がした。
「かさね、そろそろ発とうか。君子は・・・、その大きな荷物を宅配で奈良ホテルまで送っといてくれ。途中、寄り道のため少し歩かねばならない用事があるのでね。頼むよ」
 と、そういって黒いステッキを香織に持たせた虎彦が、コートの袖に手を通しながら居間の窓をうかがうと、ようやく外の敷地が仄かに白みはじめていた。



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                              第3話に続く
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   京都 高野川 春陽の橋めぐり。
 河合橋 - 御蔭橋 - 蓼倉橋 - 高野橋 - 馬橋 - 松ヶ崎橋 - 山端橋 - 花園橋




  
   京都 高野川上流(カワセミ)。




   そうごリンク
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   きょうと 2はなそとば 2

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   京都 花そとば



  つきの暦  2013年2月

  つきの暦 2013 2



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洛北小説『花そとば』 第1話

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      ごえん風土記 かな 100
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              第一部 八瀬童子(やせどうじ)   

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      一  月の跫 (つきのおと)   



 夜半の虫養いにと、にぬきを食べた。好物のけんずい(おやつ)である。
 しかし吾輩は鰻だけは食べないモノと固く心に決めている。
「人間社会の渋滞に巻き込まれると何もかも台無しになるからだ・・・!」
 冬のシラスは、八月になると蒲焼になる。八月は盂蘭盆会、人の精進月ではないか。近代から現代、この季節になるとウナギは月を見上げて拝むことになった。「土用の丑(うし)」とは、何んと殺生なことよ!。商売がうまく行かない鰻屋が、夏に売れない鰻を何とか売るために出した悪知恵だ。前途多難な生命としてシラスウナギは回向するようになる。
「そもそも・・・、大伴家持の歌がいけなかった。この歌に鰻の災難が始まるのだ・・・」
 759年(天平宝字3年)の『万葉集』の中に、大伴家持(おおとものやかもち)による和歌が収められている。

        石麻呂尓吾物申夏痩尓吉跡云物曽武奈伎取喫

 これを現代の言葉に翻(ひるがえ)すと「石麻呂に私はこう言った。夏痩せにはウナギがいいらしいから、獲ってきて食べたらよい」とでもなろうか。万葉の当時から夏痩せ対策にウナギを食していた事を示すのである。
 さらに家持は、太平洋戦争中に玉砕を報せる大本営発表の前奏曲として流れた「海ゆかば」の作詞者でもある。大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父・安麻呂、父・旅人と同じく律令制下の高級官吏として歴史に名を残す。三十六歌仙の一人として彼は、天平の政争を粛々と生き延び、延暦年間には中納言まで昇った。そうした高名からか、どうにもプロパガンダに悪用されて後世を汚す宿命でもあるようだ。

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 日本人の食文化にウナギが登場したのは新石器時代である。その時代の遺跡から発見された魚の骨の中にウナギのものも含まれており、先史時代からウナギが食べられていたことになる。鰻の蒲焼が登場する以前のうなぎの食べ方は、ぶつ切りにしたウナギ、あるいは小さめのウナギを丸々1匹串に刺し、焼いて味噌や酢をつけるというものであった。江戸初期の1661年(万治4年・寛文元年)ごろに、浅井了意(あさいりょうい)により書かれた『東海道名所記』の中には、鰻島が原(現在の静岡県沼津市原)付近を描いた挿絵に、大皿に盛られたウナギの串刺しが描かれている。
「この浅井了意が僧侶であったこと、神道に通じていたことが、鰻としては酷く迷惑な人物の出現となったようだ・・・!」
 京都出身の江戸時代前期の浄土真宗の僧で仮名草子作家である。父は東本願寺の末寺本照寺の住職であった。父が本照寺の住職を追われ浪人したが、了意は儒学・仏道・神道の三教に通じ、その後京都二条本性寺(真宗大谷派)の昭儀坊に住した。
 徳川家康の時代に、江戸湾の干拓が行われる事によって多くの湿地が出来て、鰻が棲み着き労働者の食事(雑魚)として串に刺して食べられた。その後、しだいに庶民に広がって、江戸の料理となり、「鰻屋でせかすのは野暮」、「蒲焼が出てくるまでは新香で酒を飲む」などと言われるほどになった。こうしてウナギの災難は、やがて「土用の丑」の専売と宣伝されるようになって始まることになる。以来、ウナギを開いてタレを付けて焼き上げたものを「ウナギの蒲焼」と呼ぶ。江戸幕府による四書五経(ししょごきょう)の奨励は鰻屋に妙な悪知恵をつけた。

       ししょごきょう 4

                      うなぎ 蒲焼

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「この悪知恵はサグで陥る醜態だ・・・!。人間はこのサグに盲目である・・・!」
 サグとは・・・、下り坂から上り坂に変わる区間。この区間において人間社会は約60%の時間を渋滞させている。迷惑甚(はなは)だしい限りだ。サグ・・・、いつもこの同じ場所で渋滞する。峠しか見ておらぬ。人生とはそう甘いモノではない。大抵、下り坂から上り坂の谷底で人は生きている。どうやら人間はこのサグを理解していない。じつは、珍野 苦沙弥(ちんの くしゃみ)先生も偏屈な性格で、胃が弱く、ノイローゼ気味であったが、その顔の今戸焼のタヌキとも評される明治男が、このサグで悩んでいたようだ。
「だから・・・、蝉はカナカナと鳴く。しかも男ばかりが・・・」
 滅法な話ではないかと、深い眠りに入れない夜がいた。人が寝静まるとも夜は起きている。そんな夜の気配を感じながら、それでも乏しい未明のひかりが、下弦の底の暗闇を眠らせようとする午前四時、朝まだき芹生(せりょう)の里には人知れず遠い閑(しず)かさがあった。
「吾輩は・・・、祖である!。・・・」
 その名無しの祖の、血筋通り、吾輩もまた居候である。
 貴船の奥の峠を越えて、つまり都から鞍馬に向かう手前の追分を左上がりに北山へと分けいると、山迫る谷間の小さな里にでるが、ここが芹生である。

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 灰屋川の上流になる清らかな流れがあるが、山迫る谷に吾輩が間借りする阿部家の廃屋はある。都の市井からはさほど遠隔なところでもないが、一山越えると酷い豪雪地帯だ。近年では冬場の芹生に人の気配を感じさせない。ここは夏場だけの避暑地なのである。
 標高700m近い。 冬は雪が深く、無人の村となる。夏でも三軒ほど住んでいるだけの村内に、阿部家の隆盛も寂れ廃屋だけが花背峠へと向かう山裾にポツリと残されていた。

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 そんな淋しい芹生の里の水温むころに、ふと、聞きなしにカナカナという、甲高い鳴き声が聞えてきた。訪うその声は何年も暗い土の中で過ごして、ようやく地上に這い出した小さな山守(やまもり)の遠吠えであった。たゞひたぶるに恋う心だけがある。
「何と切ない遠吠えであろうか・・・!」
「潰(つい)えても愛だけは希(こいねが)う・・・!」
 この恋唄を聴く季節になると吾輩は、この地球上のどこかには、まだ自分が身を浸(ひた)したことのない美しい海が残っているのではないか、と、年齢がもたらしたずっしりと重い理解で、我慢し難いほどに自身が古びて見えてくるのである。だがそれは吾輩が、鄙びた暮らしにいつしか愛着を持ったからであろう。
 まだき闇の中にあって凛々と身を焦がすかのような声であるだけに、それが、ひと夏の小さな命だということには、不思議に注意が向かなかった。それは風騒の人曰く、岩にしみて、おし黙らせた声であるからだ。
 そしてしばし吾輩もまた一夜の乞食となる。すると、束の間の朝と夜のあわいに廃屋のすぐ裏には梅雨明けの杉山が広がっていて、小さな山守の遠吠えを聞いた。

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めがね猫 1

 毎年、杉雨(さんう)の風情を序に従いて、このヒグラシの薄暗い声が夏の到来を告げてくれた。このようにして阿部家の住人は代々、未明に起きて暦を春から夏へとめくり替えてきたのだが、昨年の八月に吾輩は、灰屋川の水面に映る流れの中の老人を見て、何かそぐはないものを感じ、すこし眉を寄せた。
 50年前に主人の阿部秋一郎が井戸の上に置き忘れたもので、吾輩にプレゼントしてくれたものではないが、その太い丸黒縁の眼鏡をかけてみると、どうも自分らしくない。吾輩の、祖父のものを貰った黒眼が勝った丸い眼は、いく分怪訝(けげん)な表情になっていた。
 元来、吾輩は眼鏡などして顔の形を整えるなど好まない質(たち)である。ひざまずく吾輩はもう一度、川の流れの上に眼を走らせた。自然、他人の顔じみてくる。今年だけはそれが無性に嫌であった。主人秋一郎はカナカナの声を聴きながら、一涙を遺して他界したのだ。桜が終わるとその祥月命日なのである。その秋一郎だが、加齢に従い弱る視力を養生することを洛北の村衆に常々切々と気遣いされながらも、それでも眼鏡にだけは抵抗があった。
 吾輩はその丸眼鏡をかけてみた。
 煮抜き卵が好物の、どうやらその吾輩は、六道の辻から生まれ出たようである。

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 京都には日本人が古くから美しいとした風雪の揺らぎがある。
 老人はそんな京都の感動を定義するために京都へと来た。そして洛北山端(やまはな)の八瀬(やせ)に別荘を建てた。あえて洛外を選び、終の棲家に瞑(ねむ)りたいと希望した。秋子にはそう思われる。
 永訣の朝、雨田老人の枕の下には、五円風土記『1対√2』という手記が狸谷の秋子宛に遺されていた。香織の整えた羅国(らこく)の香りを聞きながら眠りについた老人が、この世の夢の途中で鼓動を止めたのは、しぐれ雪の降る午前5時であったという。
 このとき秋子は、朝を迎えようとする比叡山へ名乗りの篠笛を吹いていた。
「さて・・・、出かけるとするか・・・!」
 今日は老人の五円忌である。吾輩は鞍馬山の暗闇を越えて一乗寺下り松へと向かった。

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 古都は、まだ冬のつゞきである。
 昼のあいだ吹き荒(すさ)んでいた北風は、昏(くれ)から夜半になると急にとだえて、それまで空をうずめていた幽(くら)い雲の群れが、不思議なほど、あっさりと姿を消していた。
 こんな夜にかぎって、奈良の空は高く澄み、星がいっそう輝いてみえるのだ。
 大声をあげたいような歓びが湧き上がったわけではない。70年も以前の老人の遥かな追憶であるのだから。けれども、胸の奥が凛(りん)とひきしまり涼しくなるような、この清々しさときたらどうだろうか。たしかに当時、佐保山(さほやま)からながめ仰ぐ宙(いえ)の中は、さわやかな星々でいっぱいだった。どうやら天の配剤はそこで完結されたごとく、あれ以来そのまゝのようだ。
 そうした今も眼の奥に遺る星々の綺麗なつぶやきが、果たして佳(よ)き花信となってくれるのであろうか。京都八瀬の別荘でそんな夢をみせられた雨田虎彦が、七年ぶりに来日したM・モンテネグロの泊まる奈良ホテルを訪ねたのは、2002年が明けた仲冬の土曜日、ぼたん雪の降る乙夜(いつや)のことであった。

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 奈良へと向かうその朝の、比叡山四明ヶ嶽(しめいがだけ)の西麓は地の底まで冷えこんでいた。しかし、そうであるからこそ例年通りの京都なのである。京都山端(やまはな)の人々は、この比叡颪(ひえおろし)を安寧な循環の兆しとして知りつくしているから、虎彦の山荘も真冬の中に、たゞ安らかに寂(しず)まっている。
 そのような京の冬は紅葉の後にきっぱりとやってくるのだ。
 鉛色の空から降る冷たい雨に雪がまじるようになると京都で暮らす人の腹はきちんと据わるようになる。新春の山野はすがれてはいるが、しかしよく見ると、裸になった辛夷(こぶし)など、ビロードに包まれた花芽をおびただしく光らせている。山が眠る、などということは無いのだ。冬山は不眠で生きている。

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 ことさら洛北山端の冬は、枯れて黙したような身の内に、木々は深く春を抱くのである。虎彦に、遠い奈良の星々が甦(よみがえ)るように見えたのは、そんな朝まだき午前四時であった。
「ああ、胸奥に沈むようにチクリと隠されて、かるく痺(しび)れる、この香りは、白檀(びゃくだん)と、たしかこれは丁字(ちょうじ)だ。静かに小さな春でも爆(は)ぜるような快さではないか」
 ほんのりと寝顔をまきつゝむ快哉な香りを聞かされながら、血流をしずかに溶かされた虎彦はゆっくりと目覚めさせられていた。
「沈香(じんこう)の他に、これを加えてくれるとは、かさねの奴も、ようやく香道を手馴れてきたようだ。しっとりと肌に馴染まさせてくれている。天性のものであろうが、能(よく)したものだ」
 今朝の香りには、しずかなやさしさがあった。虎彦は人間としてのふくらみを感じた。

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 暗い眼では香木の形はとらえられてはいないが、焚(た)かないでも香る香木を取り合わせた、なるほどあの娘の手にかゝるとこうなるのかと、いかにも清原香織らしくあるその香りは、虎彦のこゝろの襞(ひだ)の上に、着なれた衿合せでもさせてくれたかのごとく、普段通りの躰できちんと納まっている。
 大きな山茶花(さゞんか)の一樹に隣り合わせた虎彦の寝室は、こんもりとした茂みが庇(ひさし)のような影を障子戸に映して一段と暗い。そうなるように天然の配剤で闇夜をつくりだす寝室の設計がなされていた。
「君かへす 朝の舗石(しきいし)さくさくと 雪よ林檎(りんご)の香のごとくふれ」
 白秋の「君かへす」がまず新鮮である。虎彦はていねいに、この歌の匂いを聞いた。
 香木の香りからこの歌が連想された日には、かならず虎彦の躰が若返るようだし、さくさくとその雪を踏んで帰る不倫の恋人は、青春の熱く清々しいヒロインのように老いた眼にはふさわしい。もっとも香りから或(あ)る種の映像が好ましく回想されることが、今の煩わしさを忘れつゝ眠る虎彦の夢の枕にはふさわしいのである。虎彦の嗜好にかなう冬歌の、白秋のこれはその一つであった。

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「何よりも白秋のこの歌には、みやびな歴史の中にあって今は忘れさられた大切な種の、モノの香を人の袖の香とするような、危うい恋を恐れない実際を背景にした人の香りと歌で向き合う交感がある。白秋は西洋の印象派詩人の薫陶をえた。この歌は、その印象のたしかな交感だ。歌声に人間が生きた真実の印象がある」
 虎彦にはこの歌にある、白秋の暮らす門や舗石がみえるところまできて「ああ、あの女(ひと)が」と、ひとあし、自分から近づいてゆくのが心うれしいのだ。
 毎年、冬にさしかかる時期はどこか、太陽が遠くなる心細さがあるが、すっかり真冬になってしまえばそこに寂しさが勝るようになるものだ。加齢するにしたがい、脚の痛みはその木枯らしに急(せ)かされるように増してくる。いつの間にか、そんな虎彦にとって眠りは厳(おごそ)かな真剣勝負のようになっている。日常の、脚(あし)の痛み止めの薬を一錠でも少なく控(ひか)えて痛みを抑えるために、虎彦の睡眠には墓の中のような暗闇と、無音の状態が必要だった。また以前には常用であった睡眠薬を控えるために、就寝時には鎮静作用のある香物を焚きしめた芳香が、今の寝室には欠かせないものとなっていた。

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 そんな漆黒(しっこく)の未明から目覚めた虎彦の、あたりのすべてが虚空(こくう)である。虚空蔵菩薩は虚空すなわち全宇宙に無限の智慧と功徳を持つ、京都において十三参りが行われ子供が十三歳になると虚空蔵菩薩を本尊とする西京区東山虚空蔵山町の法輪寺に参拝する習慣がある。明星が口から入り記憶力が増幅したと言うが、虎彦はその虚空蔵にでも抱かれているようであった。
 暗闇と芳香とで、繰り返したしかめる日常の、そんな虎彦にはあたりまえの話だが、虎彦はこの虚空がいちばん親しいのだ。時がまき戻るような、まき返せるような何事をも空暗記(そらんじる)ごとくの安らぎだ。今朝も寝室の四方八方、虎彦の親しい虚空がみしみしと満ちていた。

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「かの天竺(てんじく)のガンジャというものも、もしか、このようなモノであったのではあるまいか・・・。たしか空海は〈乾坤は経籍の箱なり(宇宙はお経の本箱)〉と言った。私はその乾坤(けんこん)で眠りながら虚空の音を聞いていたのであろうか・・・」
 芳香につゝまれて目覚め、虚空の層の厚さを感じると、肉や骨の重みがどこからどこまでがどうと、よく判らないけれど実に軽いのである。それは血が鎮められた重さか、気が冷まされた重さか、暗さと芳香とがもたらしてくれる芳醇な安眠が、適当に与えてくれる虎彦の寝室にいる身の重さとは、能(よく)した傀儡師(くゞつし)により計算し尽くされたように、なかなか、よくできていた。
 そうしてうっとりと眼をみひらき、暗闇に何をみるともなく辺りをながめる。やがて次にその眼の持ち主が何者であるかを自覚できると、ようやく虎彦の一日が始まるのであった。

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「旅立ちに、〈月は有明にて〉という。白河の関越えんと、しかし、こゝろ定まらず〈田一枚植えて〉立ち去る。そうして風騒(ふうそう)の人は関を越えた。だが、そう詩のようにはうまくゆくまい。この俳諧は、後の時間の中で推敲が加えられている。生々しい人間の声では無い。しかし、ああ、今日の覚悟とは・・・、何やらその田植えにも等しい、どこかへの手向けの花でも必要であろうか」
 田一枚植える間が、どうにも無性に気にかゝる。そんな虎彦は、虚空の時間からふと一呼吸はずして、ムートンの上に横たわる老体をおもむろに反転させると、うつ伏せのまゝベットの脇に手をのばし、居間の呼び鈴(リン)に通じるコールボタンを軽やかになった指先でそっとプッシュした。

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「老先生・・・起きはッたんやな・・・」
 そのころ居間で炭点前(すみてまえ)の準備をしていた清原香織は、床下の炉に用いる練香を入れた陶磁器の小さな蓋(ふた)を重ねて棚の上にしまい終えると、これが朝餉(あさげ)の仕度の次ぎにする日課なのだが、居間のカーテンを全開にして虎彦の寝室へと向かった。
 茶の湯では炭点前が終わると香を焚く決まりがある。その炭点前とは、茶を点てる前に、湯を沸かす炉や風炉に炭をつぐことであるが、風炉は夏季、冬季は床下の炉で、種々の香料を蜜で練りあわせた練香を焚くことに決まっている。冬の炉は何かと手間暇を喰う。虎彦は毎朝、ひとり点前を行っていた。

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「あとは・・・?、そうや、お花や。奈良のォ荷物、大きいのォは、もう準備すんどるし。せやさかい後は、小さいのだけや。ああ、今日は何や、てんてこ舞いやわ」
 と、もろもろの仕度に追われる香織は、昨夜のうちに朝餉の下ごしらえは済ませていた。毎日がこういう具合に、香織はいつも午前二時半には起きている。
 そうして虎彦の寝室のドア前に立つと、ノブ下に備えられた、琴の音が室内に小さくゆるやかに流れる音響装置の、手動スイッチをONにキッと押し上げた。
 この寝室に入るとき、
 虎彦は、ドアをノックすること、ドア越しに声をかけないこと、の二つを禁じていた。もしそうされたとしても不機嫌さを残さないために、外部との遮音壁が分厚く周到に施されて、多少の音も虎彦の耳には届かないのだが、それほど安眠を損なわぬ厳重な施工がなされていた。
「奈良から戻ったら、二月の曲えらばなあかんなぁ~。今のォ、もうあかんわ・・・」
 一月の琴の音は「春の海」が選曲されて、幕の内を過ぎた今でも、まだ新年を寿(ことほ)ぐかのような調べである。和楽を好む虎彦のため、この月毎(つきごと)の収録も香織の大切な務めの一つであった。
 しんしんと身を刺すような廊下に、京都の女なら「冬は、早朝(つとめて)、という」少しお説教めいた虎彦の習い事通りの張りつめた気構えで、香織はピンと背筋を伸ばし、しばし間合いをうかがうように立ち尽くしながら、虎彦がカチリとさせてくれるまで、たゞしずかに電子ロックの解除音を待つのである。
「老先生、おはようさん。・・・お目覚めいかがどすか?・・・」
 静かに部屋に押し入りつゝ、笑みて香織はさわやかな声をかけた。まだまだ修業中の身ではあるが、爽やかな笑顔だけは、苦にせずともいとも簡単にできる香織なのである。
「ああ、おはよう。おかげでぐっすり眠れたよ。ありがとう」
 虎彦はそう満足気にうなずくと、ステッキで躰を支えながらも椅子から軽やかに立ち上がった。その軽やかな姿を確かめるために、香織は毎日未明には起きて見守っている。虎彦は今朝も軽やかに立ち上がってくれた。
「そうどすか、よろしおした」
 たしかめた虎彦の言葉は、香織が毎朝ホッとして息を下げる安堵の瞬間である。厚い遮音壁に内部の物音がすっかり遮られるために、深夜にさせる虎彦の息遣いがいつも心配いになる。老いた主人への、万全なその配慮と気の配りが常に香織には課せられてあった。そう用心することが最も大切な奉公人としての心棒なのである。深夜から未明にはいつも気と眼を寝室に向けて研ぎ澄ませていた。そんな香織は、のっぴきならぬ用事が今朝も起きなかったとばかりに、ふう~っと肩から一息を軽く洩らした。
「せやッたら、もう窓ォあけて、空気入れ替えても構いませんやろか?」
「ああ、そうしておくれ。最近あまり使わなかったが、丁字もなかなかのものだね」
 虎彦がそういう丁字とは、南洋諸島で生育するチョウジの木の花のつぼみを乾燥させたもので、強烈で刺激的な香りをもつことから、世界中で調理のスパイスとしても重宝されている。クローブともいう。

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 多くはインドネシア原産であるが、古くから中国商人の手でヨーロッパに持ち込まれ、強力な殺菌・消臭作用で注目されてきた。 大航海時代にはスパイス貿易の中心的な商品の一つ。この甘く刺激的な香りは、当時、さぞや異国情緒をかきたてたのであろう。 日本人にも案外なじみ深く、江戸時代からビンツケ油や匂い袋の香料として使われている。ウスターソースのソースらしい香りもこのクローブのおかげである。
 名前の「Clove」はクギを意味するラテン語の「Clavus」、和名の丁字(ちょうじ)もクギを表す釘の字から来ている。「釘の形」と言われるだけあって、素材に刺して使うのに便利だ。玉ねぎや豚肉に刺してポトフやロースト・ポーク、その他肉を使った煮込みに使われている。その香りの主成分はオイゲノール。香りが最も効率的に抽出されるのは45度前後なのだが、香織はいつしかそんな知識も身につけるようになっていた。
「うちも丁字ィすう~として、ええ匂いや思う。せやけど・・・、うち、あの香り聞くの辛うて、たまらへん。なんやえろう悲しい花やしてなぁ~・・・。それ知ると、ウスタぁソース好きになれへん。店で見かけてもな、手ェ伸びまへんのやわ。そないしてると、いつも醤油買うとる。洋食の献立、つい和食に変えとうなるんやわ」
 ずしりと胸にきたのか、泣くような小声で香織はそうしょんぼりといった。

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 丁字は、つぼみのときが最も香りが強いため、深紅色の花が開化する前に摘み採られてしまう。このため虎彦もまだ花の色目はみたことがない。香織はその花が、香りのために、花開くことを奪われてしまった悲しい運命の花木なのだ、といいたかった。
「ああ、たしかに花は悲しい。だけど、その短い命は、やがて人の命へと循環する。だから儂(わし)のような老いた者にもめぐり廻って悦びを与えてくれるのさ・・・・・」
 と、いいかけた虎彦だが、それ以上いい足せば、やや小賢しくもある。香織の澄みやかな感性の口調を前に、さり気なく視線をそらすと、虎彦は語尾のトーンをすう~っとぼやかした。
「この娘に、私の表情の裏をみせてはなるまい。老人の内面の汚い剥(は)がれなど、、無用の長物じゃないか。無邪気の若さを、私の口の、その糞でまぶすのはよしておこう。虚空とは清の領域、かさねは、その位に私を濯ぎ清めてくれたのだ。私の青春期とは、そんな清らかな時代ではなかったではないか」
 丁字はアルコールと混ざりやすく整髪剤や石鹸につかわれ、殺菌作用と軽い麻薬作用をもつので歯科院の歯茎にぬる痛み止めチンキにも活かされている。人間の視線に立てばそれでいい。しかし花の視線でそれを裏返せば、それは人間本位の身勝手なことで、香織のように感じ、無慈悲と思えば、摘まれたその花へと思いやる眼に、あふれる涙さえ覚えるであろう。
 利口に生きたいがために小理屈を身に滲みさせて歳老えば、その花の涙のみえぬ人とは、また何と悲しいものであろうか。しかし、もはやその情緒を震わす心には立ち返れそうもない老人は、若く生き生きとある香織の輝きが、愛らしく嬉しくもあった。思いをそこに馳せてやらねば、いたらぬ苦言は老人の嫉妬なのであろう。
「老先生、お茶室の準備もう少しやさかいに、ちょっと待っておくれやすか。今朝のお花やけど、まだ決めてまへんのやわ。そろそろ正月のォもけったいやし、どんなん、よろしィんやろか?」と、
 香織はガラス窓を開けながら訊(き)いた。しかし、そう虎彦に問いかけていながら、ふと、「ああ~、あの青白い不思議なひかり・・・」と、一瞬、脳裡をかすめてツーンと胸に通るものがあった。香織に、或(あ)る美しい光景が過(よ)ぎったのだ。
「せや、あれやわ。あれ、見んとあかん。老先生、待ってておくれやす、えろう済んまへん」
 呟(つぶや)くようにそういうと、何か急(せ)かされた忘れ物でもあるかのように、慌てゝ言葉の尻をプツリとへし折って、虎彦にはそう受けとれたのだが、要領をえさせないまゝに弁解だけを残した香織は、小走りにまた居間の方へと引き返して行った。
 香織は未明に起きたとき、凍りつきそうな井戸水を一杯のみ終えると、ぱっちりと眼が冴えた。そのとき、昨日の黎明前に体験した、不思議な光景が想い返されていた。
 あれはたしか、裏山の山茶花(さざんか)の大樹が、ひらりぽたりと白い花びらを庭に散らし落すころであった。間もなく昨日と同じその幽(くら)い刻限が近づいていたのだ。
「去年の冬、ちィ~っとも気づかへんやった。せやけど、あんなん・・・あるんやわなぁ~」
 裏山が見渡せる茶室へと向かう香織の脳裡には、朝まだき昨朝の黎明前の淡いひろがりのなかで感じとれた絵模様がぼんやりと描かれていた。しかし、あの無限の哀しさに包まれていると感じられた、あのときめきは、一体何だったのであろうか。もう一度よく確かめてみたいと思ったのだ。


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                              第2話に続く
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   京都 大原 勝林院。
 天台宗延暦寺の別院。本尊阿弥陀如来。文治2年(1186)浄土宗の法然が諸宗の大学者と宗論を闘わせた「大原問答」の舞台になったことは有名。来迎院と同じく声明の根本道場で、 代々の僧は大原流声明音律を継承しており、日本音楽の源流とされる声明の発祥の地である。境内の梵鐘は平安のもので重要文化財。



  
   京都 大原 寂光院。
 天台宗の尼寺。正式には清香山 御閑居御所大原宮寂光院という。聖徳太子の創建と伝えられ、太子作とされる地蔵菩薩立像は重要文化財。平家滅亡後、建礼門院が隠棲し仏門の生涯を送ったことで有名。境内には『平家物語』にちなむ数々の事物がみられる。本堂は平成12年(2000)、放火で焼失したが平成17年に 再建された。紅葉のシーズンは観光客が多く訪れる人気のスポット。




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   京都 花そとば



  つきの暦  2013年2月

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小説『花そとば』 第49話

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  こえんふどき五円風土記タイトル
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   はなそとば タイトル
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               第二部 山端の巫女(やまはなのみこ)   49

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      十一  花卒塔婆 (はなそとば)   



 雨田虎彦は、秋空に向かって眼を閉じている秋子の横顔を静かに窺った。
 雲一つ騒がない長閑な広がりに秋子は眼を向かわせている。何かを祈るかに巫女が眼を閉じてみる、その空が穏やかであるほど、伸びやかであるほど、しだいに虎彦は緊張が増した。
 そして指先は振るえ、老いた鼓動がくつくつと高まる。

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「笹竜胆(ささりんどう)・・・!。この家紋の意味を、この25歳の娘は理解しているのであろうか?・・・」
 いずれ決着せねばならない大きな存在であろう。以前から阿部家の紋を素朴な疑問の存在として感じていた。今改めてそう感じると、他家の事ではあるが、虎彦は溢れ出しそうな泪に、親指を押してそっと堰き止めた。悪戯に巫女の領域には踏み込まないと思っていたが、それでも近づこうとする自分が居ることを虎彦は感じた。
「笹竜胆は・・・、日本最古の家紋ではないか・・・!」
 その笹竜胆が何の気どりもなく一家族の家門にさりげなく存在することが虎彦は以前から気掛りであった。秋子が手にする篠笛がそうである。手に取れない笛ではあるが、たしかに刻印をみた。一度、和歌子から手紙を貰ったが、その封書は笹竜胆の透かしで密封されていた。和歌子の着ていた藍の紬にも認められた。

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 源氏(みなもとうじ)は、「源」を氏・本姓とする氏族である。そして姓(カバネ)は朝臣であること意味する。朝臣は、日本において皇族が臣下の籍に降りる(臣籍降下)際に名乗る氏である。その一つが清和源氏なのであるが、他にも多数の流派がある。そうした姓(かばね)の代表的なものとして、平氏・藤原氏・橘氏とともに、源平藤橘を加えて「四姓」と総称される。
 この四姓の中に源氏(げんじ)がある。
 またその源氏には、嵯峨天皇から分かれた嵯峨源氏や、清和天皇からの清和源氏を含め、二十一の流派(二十一流)がある。中でも家格が最も高いのは村上源氏とされ、室町幕府の成立まで源氏長者を有した。また、平安以降臣籍降下が頻発すると源・平の二姓ばかりになるが、順位は「一世王、二世王が源、三世以降が平」だった。源姓(本姓が源氏)の家系はそれぞれ別の苗字を号しているため、現在「源」を今日的な意味の姓として名乗る例は多くなく、推定人口は4,000人ほどである。

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 嵯峨天皇が生まれた子らに源姓を与えたことに始まる。
 皇室と祖(源流)を同じくするという名誉の意味をこめて与えたものだ。
 嵯峨天皇に皇子皇女が増え、朝廷の財政を逼迫させる基にもなることから、早くに臣籍降下することが皇胤にとって子孫繁栄の道であった。親王ながら皇位を望めない場合や、諸王にあって親王宣下を望めない皇族が自ら降下を求める場合と、朝廷から一方的に降下させる場合とがあり皇別氏族を取り巻く状況は朝廷の財政事情と常に連動する要素が強かった。
 そもそも源氏姓は、嵯峨天皇の後の天皇も度々皇族を源氏として臣籍に下したことから、嵯峨天皇を祖とする源氏を嵯峨源氏と称する様になり、以後、源氏はそれぞれの祖と仰ぐ天皇の号をもって氏族の称とした。仁明源氏、文徳源氏、清和源氏、宇多源氏などがそうである。
 また、朝廷が皇族を臣籍降下させ源氏とした背景としては上級貴族として皇室の藩塀とすることという理由もあった。しかし実際には三代目以降も上級貴族であり続けた例はほとんどなく、大半は受領階級として地方へ赴任しそこで土着して武士化するか、中央で中下級貴族として細々と生き延びた。他に皇族に対して賜った姓としては、在原朝臣・平朝臣などがある。
 こうした経緯の中で、使用された代表的な家紋が「笹竜胆」で、これが日本最古の家紋なのである。

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「そう言えば・・・エンドウの花・・・!」
 駒丸扇太郎が語っていた言葉を虎彦はふと思い出した。
 秋子の祖父富造が東京から奈良に向かったという万寿寺の一件である。あのとき富造は御所谷の五郎を伴わせて斑鳩の里にあった。その法輪寺へと辿る途中でエンドウの花の白さに眼を止めたことを語っていた。その花が虎彦の眼に降って下りるように湧いた。そして酷く強いねじれを感じた。
「かさね・・・!。黒豆は大好きだよね・・・!」
 いかにも唐突に、傍にいる香織に顔を向けるとそう訊いた。香織はキョトンと眼を丸めた。それこそが突然降って湧いたような虎彦の言葉であった。
「へえ~・・・黒豆・・・。おせちの・・・あの黒豆、あれ、うち大好きやけど・・・」
 と、釣られてそう応えはしたが、それがとうしたのかという眼を香織はパチパチさせた。そうは言ったが虎彦は一向に言葉を返そうとはしないのだ。しかし香織もまた何の言葉も足さなかった。
 虎彦は黒豆の育ちを眼に泛かべ、その弦(つる)の捲きようの変化(へんげ)を想っていた。
 黒豆も、枝豆も、豌豆(えんどう)であれ、その正体は大豆である。祖先を辿ればどれも野生のツル豆となる。普通の大豆には弦がないが、中国などの大豆には、茎が弦になって捲きつく品種もある。これらの豆が弦を巻くと左回りに捲き上げる。朝顔の弦も同じである。
 大半の捲き方が左回りとなる。その捲き方は種によって決まっていて、左回りが多い。しかしそうした中にあって藤の花の弦は右回りなのである。虎彦は一度、アサガオの弦が宙をさ迷っていたので、適当に棒に捲きつけてあげたことがあるのだが、、それがどうも右捲きであったらしく、翌朝みると、アサガオは自分でほどいて左回りに捲き直していた。
 そのように「ねじれ」と「捲き」の間には神秘で深い関係で成立する。弦を捲く植物が進化し続けてきた道筋が覗えた気分になった。そう感じたことをふと思い出すと、虎彦は阿部家もまた同じような進化にさえ思われるのであった。阿部家が現在の茎を従来の弦に変えて、もう一度山端の集落に捲きつけば、新たに早く上に伸びて、集落が光をたっぷり浴びられるような気がした。
「だが・・・、強いねじれがある。しかも阿部家の場合、左か右かさえも判らないではないか?・・・」
 と、思う虎彦は、そして眼差しを、琵琶湖の北、湖西の魚津へと切り替えた。
「秋子さん・・・、清水桜(しょうずサクラ)を見に行こう!。一度、見に行こう・・・!」
 そう言う虎彦の眼には、今日までを辿ってきた阿部家の遠い遠い道のりがあった。それは一樹のサクラから眼に浮かばせる洛北山端と阿部家を結ぶ壮大な物語である。
 虎彦はさも鋭い山猫の眼に変えて、海津の春に彩る清水桜をじっと睨んだ。

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 この清水桜と阿部家の繋がりは、虎彦にはどうにも詮索したくなる不思議な深淵を感じさせる物語である。虎彦は、太古の部屋の窓から山猫の眼で、流れ着いた時間の外を眺める場面を再現しながら未だ篠笛を吹き続ける奇矯で偏屈な秋子の姿をそっとサクラの陰に重ねた。


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                              第50話に続く
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   京都 大原 三千院。
 正式には魚山三千院門跡という。最澄による比叡山延暦寺の別院とされる。天台宗。広い境内には国宝阿弥陀三尊のある往生極楽院、御懴法講の行われる宸殿、多数の古文書など文化財も多数。細波の滝がある有清園や聚碧園、紫陽花苑などがあり四季折々の自然の美を堪能できる。特に秋の紅葉はすばらしく大原の秋を堪能できる。



  
   京都 大原 実光院。
 宝泉院と同じく勝林院の子院。大正8年(1919)に、他の子院と併合して現在の地に再建されたという。客殿の南に池泉鑑賞式庭園、客殿西側には、旧理覚院(併合した子院)の池泉回遊式庭園がある。 長い期間花を咲かせる不断桜などさまざまな樹木がある庭園は見応えがある。




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   京都 花そとば



  つきの暦  2013年2月

  つきの暦 2013 2



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小説『花そとば』 第48話

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   はなそとば タイトル
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               第二部 山端の巫女(やまはなのみこ)   48

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      十一  花卒塔婆 (はなそとば)   



 黒馬と一口に言っても、馬の毛色(けいろ)とは様々である。
 毛色とは、馬の個体識別要素の一つで体毛、肌の色、模様のことをいう。しかし識別となるとそう単純なものではない。人の眼に馬の毛色は複雑過ぎて神秘さえ覚える。人は太古から、これら複雑な不思議の中にいくつかのパターンを見出し、鹿毛、栗毛などと呼んできた。
「老人は・・・、目的を果たせたのであろうか・・・」
 満州の荒野で一頭の黒駒を探し続ける懸命な姿が、虎彦の眼では今も生き続けている。虎彦は地平線に大きな夕陽が落ちる時刻にその老人と別れた。三頭の馬の手綱を意気揚々と曳きながら老人は、もう振り向くこともなく細く細く極細い影となって大陸の落日の中に消えた。

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「主な毛色に、鹿毛(かげ)、黒鹿毛(くろかげ)、青鹿毛(あおかげ)、青毛(あおげ)、栗毛(くりげ)、栃栗毛(とちくりげ)、芦毛(あしげ)、佐目毛(さめげ)、河原毛(かわらげ)、月毛(つきげ・パロミノ)、白毛(しろげ)、粕毛(かすげ)、薄墨毛(うすずみげ)、駁毛(ぶちげ)の14種がある!・・・」
 と、あのとき、阿部秋一郎は夕映えを睨(にら)みそう語った。鮮やかに遺る、あの眼光の鋭さは尋常じゃない。瞳孔に血走る一陣の稲妻を感じた。

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 また・・・、駁毛との複合型や、未定義の毛色などを細かく分類すると100種類以上になるという。どの毛色になるかは多くの場合、遺伝子によって決定する。いくつかの主要な毛色については、今ようやくその発現機構が解明されつつあるが、なお細かなところでは不明な点が数多くある。と、前置きして秋一郎は、ポケットから数枚の写真を取り出して、例えばこの馬の黒鹿毛や、この馬の青鹿毛の遺伝型は不明なのだと言った。
「秋子さん・・・、明治から昭和の終戦間際まで、日本各地で生産された各種の馬たちが、陸軍に放出されて軍馬となり馬の力量に応じて軍力に加担させられた。日本にはそんな馬たちの暗黒の時代もある。人が酷使される前に、日本人はまず日本の馬を酷使した。それは全て軍部の強要と言っていい。阿部秋一郎はそうした軍体制に凄まじく抗し、軍部の圧力にも屈するこことなく、ただ勇敢に満州で戦っていた。それが秋一郎という男の戦地だった。またそれが生まれ故郷の金沢を、阿部の在所狸谷を、日本国家から守り抜こうとする秋一郎の哲学であった。日本の戦争史には、馬鹿な軍部の理解不能の戦場がある。戦争史はこれを欠落させている。それを考えると、日本の昭和における敗戦は、すでにあの当時、軍部は一人の小さな老人である無武装の日本人に完敗していたのかも知れない・・・」
 そう言うと虎彦は御堂の方に振り向いて、ステッキを引き上げるとピッと左馬の額を真っ直ぐに指した。

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「あの左馬を奉納されてから、秋一郎老人は、満州へと赴かれたのですよ・・・!」
 毛色は直接的には馬の運動能力、性格その他に何の影響も及ぼさない。ただし、野生状態では天敵から、戦場では敵軍から見つけられる確率は毛色によって変化すると言われている。そこには毛色に関連する疾病も存在する。また馬によっては交配相手に特定の毛色を好む場合もある。日本の伝統馬の個体を確保するために、苦心惨憺した人々の足跡が日本史にはあった。
 湛えていた泪が虎彦の眼頭より一つ二つと落ちた。
「青鹿毛の黒馬・・・!。銘は・・・白山黒駒(はくさんくろこま)!・・・」
 阿部家では代々この黒駒を加賀藩より預かっていた。固有種の保管を任されていた。
 黒鹿毛は、黒みがかった鹿毛。四肢や長毛の黒さに対して胴体がやや褐色を帯びている。方や同じ黒毛でも青鹿毛は、黒鹿毛より黒く全身ほとんど黒色、鼻先や目元、臀部など部分的にわずかに褐色が見られる。素人眼にはその判定は困難だが、阿部家の駒は青鹿毛であった。
「秋一郎老人は・・・、満州で・・・、この白山黒駒をお探しでした・・・!」
 虎彦は、じずかに香織に右手を差し出すと、受け取った鞄より一枚の写真を引き出した。それは虎彦が専門筋に依頼して彩色をより鮮やかに手直しさせてはいるが、当時、秋一郎から預かった黒駒である。
 終戦後、虎彦はこの白山黒駒がもつ青鹿毛の発現機構の精査を専門機関に依頼した。そのために当時の写真に補色を施した経緯がある。
 毛色の特徴を決定づけるのは、多量のエウメラニンによる毛色である。青鹿毛の場合、エウメラニンの量は青毛より少なく、ごく少量のフェオメラニンを含んでいる。ほぼ黒色に見えるが、青毛と比較すると若干明るく、目の周辺、鼻、腋、膁が部分的に褐色を帯びる。しかし黒味の強い黒鹿毛との区別はかなり難しい。
 今もって青鹿毛の発現機構は不明瞭だが、ASIP(アグーチシグナル蛋白)の変異に原因があるとする報告があった。青毛も同様にASIPに変異を持つが、青毛のASIPが完全に機能を失っているのに対し、白山黒駒の青鹿毛はASIPに若干の活性を持つ。このため、青毛ほどは完全に真っ黒にならないと考えられる。また黒鹿毛の遺伝型は現在のところ未だ不明だが、少なくともAt(青鹿毛を発現する変異型染色体コード)は持たないようである。虎彦はこうした精査を十数年積み重ねてきた。
「甲斐の黒駒をご存じではありませんか・・・秋子さん・・・!」
 声を一段沈めた虎彦は左馬を眼差したまま秋子にそう訊いた。たしかに当時、秋一郎がその名を口にした。虎彦の耳奥がそう記憶している。伝説に名高い名馬だ。加賀前田家を白山黒駒の種に執着させた由来がここにある。秋一郎はそう語っていた。
 そして秋子は・・・、何をかを想い浮かべようとするのか、視線を空に上げて静かに眼を閉じた。
 その銘なら祖父富造から聞かされたことがある。たしかにその銘だ。生前、富造は一度、駒ケ岳に行くといって三日ほど留守にしたことがあった。この件であろうか。
「たしか・・・そんな馬の名ァ、祖父いうてはりましたわ。嬉しい顔しはって・・・」
 一言そうポツリと言って瞬くと、秋子はまた眼をそっと閉じた。

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かいの黒駒 動2 gif かいの黒駒 動1 gif

 甲斐の黒駒(かいのくろこま)とは、古代甲斐が良馬の産地であったことから成立したと考えられている伝説の名馬である。甲斐から中央へ貢上された駿馬を指した。聖徳太子が試乗すると馬は天高く飛び上がり、太子と調使麿を連れて東国へ赴き、富士山を越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したという。飛天の神秘さを畏れさせた天下無双の駿馬とされた。
 甲斐黒駒に関する伝承は『日本書紀』の雄略記に記されている。『書記』雄略天皇13年9月条の歌物語によれば、雄略は不実を働いた木工韋那部真根を処刑しようとするが思い直し、韋那部を赦免する際に刑場に使わした駿馬が「甲斐の黒駒」であるという。また『続日本紀』天平3年(731年)12月21日条では、甲斐国司田辺史広足が朝廷に神馬を献上した瑞祥を伝えている。このため田辺史は恩賞を受け甲斐では庸・調が免除され、全国的な大赦が行われたという。田辺史氏は馬飼技術をもった渡来系氏族であると考えられており、天平勝宝2年(750年)には後に御牧が設置される上毛野君に任じられている。また『書記』に記される壬申の乱では大海人皇子(天武天皇)の要請で出兵した甲斐の勇者が騎馬で活躍したという。
 かくして「日本書紀」の伝える「厩戸皇子」は「聖徳太子」となり、太子の乗る「甲斐の黒駒」も天翔る「龍馬」となっていく。 時を経て日本民族の語り継ぐ聖なる太子は、龍馬となった愛する甲斐の黒駒に乗って、富士の高嶺を天翔けていったのであろう。 以来、甲斐は東国の主要な馬産地としてきこえ、平安時代になると毎年一定数の「甲斐の黒駒」が選び出され、朝廷に献上された。この行事を「駒牽き」という。この官牧地帯を根拠地としてやがて、甲斐源氏が勃興することになる。



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                              第49話に続く
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   京都 大原 来迎院(らいごういん)。
 仁寿年間(851~54)円仁が天台声明の道場として始めたという、天仁2年(1109)には良忍が来迎院として再興した。本尊は薬師如来、阿弥陀如来、釈迦如来の三尊仏。モミジのシーズンには木立から見える本堂が印象的。大原では隠れた名所といえる。




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   京都 花そとば



  つきの暦  2013年2月

  つきの暦 2013 2



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小説『花そとば』 第47話

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               第二部 山端の巫女(やまはなのみこ)   47

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      十一  花卒塔婆 (はなそとば)   



 微妙な呼吸のズレを感じた。それは、極、美妙な揺らぎでもあった。
 雨田虎彦は自分の鼓動が何かある種特殊な磁場によって、超微細準位の異なる2つに分離された空白を覚えた。その空白はセシウム原子時計で認知できるほどの磁場の励起かも知れない。感じた空白の励起を虎彦の言葉で現わすのならそれは、セシウム133の蒸気を分離する水晶振動子の誤差である。
 この男は長年、日本を含む世界の森林を廻っては、森や大地の香りを訊いてきた。有機物の、そうした樹木や動植物はそれぞれの磁場に立って棲んでいる。また樹木は山に限らず深海にもある。深海魚にも磁場は判る。誤差の予感はそんな虎彦が引き出した体感であった。

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 山神の座る手前に川がある。川は神と人を仕切る結界である。
 神は山に人を招くために一ノ橋を架けた。鎮守の森を慈しむ山守のための橋である。秋子はその橋姫を祀る巫女であった。橋姫の心身の向う岸、すなわち秋子の背後が聖域なのだ。
 エコノミクスではこの聖域は割り出せない。だか人は山を単なる材木としてエコノミクスで割り切ろうとする。これがエコノミクスの危うさである。山は過疎化の問題ではない。人為に問題がある。
「一瞬、その巫女を・・・、硬直させてしまった・・・のか!」
 言葉を選びながら巫女の領域を穢(けが)すことのないように注意していたのだが、それでもやはり何所(どこ)か気の障りでもあったのであろうか。虎彦は秋子の正面から空の方へと顔を逸らした。
 日本の山には、人の眼では不可視の注連縄(しめなわ)がある。
「ああ~、最高の秋空だ・・・!」
 一呼吸して見上げる高い空は、青い光が羽搏(はばた)く、なるほど「山寺の掃かれてきよき秋日かな」と月二郎のいう、境内をもう一覗きしたくなる秋空である。
 その青い光の青空にも秋は雲が千切れて時を伝える。見つめる眼に、うろこ雲がふと注連縄に思えた。

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 1秒が人間の標準的な心臓拍動の間隔に近いことから、人間は生理的に時間の流れを誤解する時がある。さきほど虎彦もそれを感じた。しかし考えれば、秋子によって誤解させられるところであった。どうやら虎彦と秋子とでは磁場に違いがあるようだ。虎彦は巫女の磁場につ近づこうとした。空白はその畏れか。
 現代人は時間を定時法で認識することにすっかり慣れたかのようにあるが、厳密にはこの世に不定時法で働いている時間がある。現在の時間の定義が定まるまで、人間による定義は幾度となく変遷した。太古のときを含む当初は、日の出から日の入まで(あるいは夜明けから日暮れまで)の12分の1が1時間(日本では、6分の1が1時(とき))とされた。よって、季節によってその長さが大きく変わり、昼の1時間(1とき)は夏は長く冬は短くなる。また、緯度によっても変わることになるが、人の行動範囲が狭い間はこれについては問題にならなかった。この時法を不定時法という。日本を含む東アジアでは、近世までこの不定時法が用いられていた。
 いずれにしても分割は十二進記数法によるものであり、これは月や方角など、広い範囲で見ることができる。1時間は、歴史的には地球における1日(より正確には1平均太陽日)の24分の1の時間として定義される。現在は、秒が時間の基本単位であるので、1時間は「秒の3600倍」と定義される。1時間は60分である。
 だが・・・、鈴掛衣を着たときの結界に立つ秋子はどうもこの磁場には居ないようだ。
 そう感じたから虎彦は少し話題を変えた。
「秋子さん・・・、岐阜県大垣に、圓通寺とうお寺がありましてね。その山門の石碑に・・・」
 と、虎彦はこう言葉を切り替えた。

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「大垣と言えば奥の細道の終着地、そこの石碑に・・・、連句がこう刻まれていましてね」
 秋子の黒い瞳をしずかに見て、その瞳に虎彦は少しの頬笑みを投げた。

                こもり居て木の実草の実拾ははや   芭蕉

                御影たつねん松の戸の月        如水

「元禄2(1689)年9月4日、芭蕉が奥の細道の旅を大垣で終えたとき、大垣藩家老戸田権太夫利胤(としたね)は、その芭蕉を室本町の下屋敷に招きました。利胤の俳号が(如水)です。このとき、弟子の路通も交え,俳諧を楽しみました。連句はその時互いに詠んだものです・・・」
 と、虎彦は口調の運びまでゆるやかに切り替えている。
 脇にいる香織にも分かるよう、二人の間合いに引きいれようとして穏やかに語り始めた。
「芭蕉は(できればここに籠居して木の実や草の実などを拾って暮らしたいものだ)と詠みます。これは如水の邸宅の風格に感じ入っての句だといえます。これを立句として、如水が(月夜、あなたの影がみすぼらしい我が家に写るのを待っていました)と続けたのです。初めて会った2人が、おそらく即興で互いへの思いやりの気持ちをやり取りする様子が浮かびますね・・・」
 適時に行間を頬笑みで区切り、秋子の呼吸を確かめつつ口調を整えた。
「この面会の2日後、芭蕉は伊勢へ旅立ちますが、その時、如水は風邪をひかぬようにと、頭巾、紙子、そして南蛮酒を贈りました。このようなできごとから、大垣を出立するときの様子や心情、当時の2人の表情さえも浮かんでくるようです。また、如水は日記のなかで、芭蕉の印象を次のように記しています・・・」

   心底難計(はかりがた)けれども、浮世を安クみなし、不諂不奢有様也(へつらわずおごらざるありさま)

「解釈すると(心の底を簡単に見通すことはできないが、俗世間の価値観にとらわれておらず、貴人に対してもぺこぺこせず、かといって傲慢な感じでもない様子だ)とでもなりますか。芭蕉が放つ独特の雰囲気が伝わってきますね」
 と、ここまで語ると虎彦は少し長く余白を置いた。圓通寺は戸田氏の菩提寺でもある。その山門をくぐった所に花崗岩でできた石碑がある。虎彦は置いた余白に、この門前で昔出逢った老人の背中を泛かべていた。
 戦時の体制に抗し、軍部のタブーに挑む姿は、烈々と青い火を噴く青龍のごとく見えた。男が口を突いた言葉は凄まじく激しい。虎彦はその男から一つの言葉を貰った。
 以来、胸に畳んできたのだが、門前の光景を思い出すと、その言葉は、男の言葉通りに青々と燃えた。
「その如水のいう(浮世を安クみなし、不諂不奢有様也(へつらわずおごらざるありさま)の文句、どうかその如水を、年寄りの冷や水ぐらいにでも思って、胸に抱えてはくれないだろうか。そして・・・一つ、今日、秋子さんに返さないといけない言葉がある。長いこと私が預かってきましたがね・・・!」
 そう言い終えると、虎彦はまた少し余白を残した。
「秋子さんは・・・、幽霊茸(ゆうれいきのこ)を知っていますよねッ。見憶えがありますよね・・・」
 言いながら虎彦は、その老人である男から貰った幽霊茸を泛かばせていた。
 幽霊茸とは銀竜草(ギンリョウソウ)のことである。
 銀竜草はイチヤクソウ科ギンリョウソウ属の腐生植物で、北方領土を含む北海道から沖縄にかけて分布し、湿り気のある林の中に育つ。海外では、サハリン、朝鮮半島、中国、台湾などにも分布する。虎彦はその幽霊茸を男から満州で貰った。満州で一度、大垣の圓通寺の門前で一度、虎彦は二度その男と出逢った。薄闇に浮かぶ花影ほの白く、銀竜草のシックな姿は、じつに不思議だと老人は語りかけた。
 虎彦はその後、石川の白山に足を運んだときに、闇間にその同じ光景を見つけた。その場所は、老人から聞かされた通り崖下にあった。
 幽霊茸は、葉緑素を持たず、落ち葉などを養分にして育つ。草丈は10センチから20センチくらいである。全体が白く、多肉質である。茎は直立した円柱状である。鱗片葉と呼ばれる葉の退化したものが、鱗のように全体を覆っている。10枚から20枚が互い違いに生える(互生)。開花時期は6月から8月である。茎先に壺状円筒形の花を1個だけ下向きにつける。3枚から5枚の花弁を重ね合わせているが、この花も白い。萼片は1枚から3枚で鱗片状である。花の先に紫色を帯びた雌しべと黄色い雄しべの先が透けて見える。実は卵形の液果(果皮が肉質で液汁が多い実)である。名の由来は、全体の姿を白銀色の竜に見立てたものである。幽霊茸(ユウレイタケ)という別名がある。根を含む全草が生薬の水晶蘭(すいしょうらん)となる。強壮、強精、鎮咳などの薬効がある。属名の Monotropastrum はギリシャ語の「Monotropa(シャクジョウソウ属)+astrom(似る)」からきている。種小名の humile は「低い」という意味である。8月に八幡平で写真に撮ったことがある。・・・これらは全てその男から聞かされたことである。
「この話を聞かされたとき、未だ秋子はこの世には生まれていない・・・!」
 虎彦はそっと眼を閉じた。すると奥深いどこかの深山(みやま)、泛かぶとその森に降り注ぐ青い青い光の息吹きを感じた。それは男が語った比叡山の光景であろうか。

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「じつは・・・、そのご老人と、さきほどの佐羅早松神社(さらはやまつじんじゃ)と、深い関わりがありましてね。秋子さんは・・・、きっともうお気づきのはずだが、そのご老人が誰かは・・・。今日は、どうしてもその事をお伝えしたかった。私の耳奥に遺されている、その肉声をね・・・!」
 言い終えるまでもなく、秋子はすでに頬を紅潮させていた。しだいに二つの瞼(まぶた)、二つの耳朶(みみたぶ)までも紅潮させた。そこには巫女の秋子、曾孫の秋子、二つの影が揺らいだ。青い揺らぎと、赤く揺らぐ二つの顔色を静かに見つめてみると、虎彦は一筋の泪を覚えた。
「よろしいかな、秋子さん・・・。そのご老人はこうおっしゃった。深い森の闇夜に生きる幽霊茸のように、自らが青々と燃えなければ、私を育んだ山河は、何処にも光はない。だから私は熾(おこ)り続けるのだ、と。きっとその山河とは二つあったのでしょう。一つは加賀の金沢、もう一つがここ狸谷・・・。私はこの言葉で満州の戦地を生き残ることができた。そして、いつか貴女に、この言葉を返すことができる日を楽しみにして、10年前に八瀬の方に別荘を建てました。遺言を曾孫に届けるなど・・・まさしく妙なご縁ですね・・・」
 そう言い終えたが、虎彦の眼には未だ尚、阿部秋一郎の面影が消えないでいた。
 またその眼には、満州ハルビン(哈尔滨)の荒野と、満州の地を廻りながら阿部秋一郎が行方を探し求めていた黒毛だという狸谷産の軍馬の影とが、赤々と重なり合って燃えていた。



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                              第48話に続く
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   京都 二十四節気 清明。


  
   京都 二十四節気 穀雨。




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   京都 花そとば



  つきの暦  2013年2月

  つきの暦 2013 2



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小説『花そとば』 第46話

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               第二部 山端の巫女(やまはなのみこ)   46

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      十一  花卒塔婆 (はなそとば)   



 秋子もまた兼六園の霞ケ池を眼に泛かばしては、祖父富造が三度連れて行ってくれた思い出を曳きつけていた。雪の霞ケ池が美しく映える。記憶では、ただ淋しさを堪えながら待つ小さな自分がそこにいる。そんな仕事が終わるまでの間、池の畔で一人見ていた唐崎の松の手入れをする祖父の姿を懐かしく思い出していた。
 富造は可能な限り秋子をよく旅に連れて行ってくれた。それが富造の孫守であった。
「この左馬の額と・・・、あの唐崎の松、との関わり・・・?」
 遠い日の話で、しかも雪景色の辛い天候の兼六園しか浮かばない。かじかむ手を擦りながら赤い傘をさして何時間も池の畔で心細く富造を待ていた記憶だけは鮮明にある。だが三度も富造について行った。
 おぼろげは、少し思い出してはハッとし、しかしまた消えてはシュンと沈む。
 それは秋子が4、5歳ほどのもう20年前になる幼い眼にある光景であった。だが眼に泛かぶ光景がどのようにおぼろげであろうが、祖父に連れられて行った兼六園の記憶は確かなものだ。兼六園に限らず雪の城下町を連れられて歩いた冷たさの記憶は確かにある。
 すると秋子は、曾祖父秋一郎について富造と和歌子が以前語っていた、唐崎の松に関わる言葉の切れ端をようやく胸中に曳き戻していた。

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「そうや・・・、透かし剪定やった・・・」
 兼六園の唐崎の松は、毎年8月上旬から松の剪定が始まる。御用松専任の庭師が総がかりで剪定にとりかかり、約1ヶ月ほどかかる。その方法は「透かし剪定」で鋏をほとんど使わず、手で前年の古葉を1本1本むしりとっていく手法で、雪が降ってもその間から落ちやすいように剪定する。それは雪国ならではの剪定法である。秋子は少しずつ眼にある残像と会話の記憶とを重ね合わせた。
 そして概ね11月上旬からは、木々の枝を雪折れから守るために、主要な樹木には雪吊りを行う。雪吊りには各種の手法があるが、唐崎の松は、姿の美しさで最も優れた「リンゴ吊り」という手法を用いる。曾祖父の秋一郎はそのリンゴ吊りの名手であったようだ。
 秋子はどうにも曾祖父に好感があるように瞳を輝かせた。秋子の素振りが揺れると、その度に羅国の香りが仄かに舞い立って、虎彦は甘酸っぱい梅の香を聞かされた。
 その頻度に応じて秋子の記憶が徐々に蘇るかにあることを虎彦は感じた。

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 秋子の記憶では、唐崎の松の雪吊りは、冬を迎える風物詩として毎年テレビ・新聞等で全国に紹介されるのでるが、祖父富造もそれを自慢げに語っていたことを、養母の和歌子から聞かされている。
「あッ、そうやわ。大津の松ゥいうたら、菰巻(こもまき)する言うて、向かわはったことある・・・」
 菰巻きとは、害虫駆除法で、マツカレハの幼虫(マツケムシ)を除去する方法のひとつ。マツカレハの中齢幼虫は、冬になると地上に降り、枯れ葉の中などで越冬する習性を持つ。このため、1月頃、マツの幹の地上2mほどの高さに、藁でできた「こも(菰)」を巻きつける。春先に、この菰の中で越冬したマツカレハの幼虫を菰ともども焼却し、マツカレハの駆除をするのである。
 秋子はこの作業に狸谷から数人が大津へと向かったことがあるという。そのとき使用する予定の菰が余ったらしく後日比叡山周辺の駆除に用いたようだ。伝聞きの話ではあるが、どうやら富造が奔走して役目を果たした。
 秋子がそう語る連なりを胸に並べながら、しだいに虎彦は大津市を眼差した。

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 それは兼六園に唐崎の松の種を提供した近江八景「唐崎の松」である。
 現在、滋賀大津市1丁目の唐崎神社内に、三代目だと伝わる唐崎の松が、琵琶湖畔に大きく突き出し敷地いっぱいに枝を広げて生きている。
「やはり・・・、そうでしたか。阿部家と唐崎の松とは古くから深く関わるということだ。なるほど・・・。大津のはたしか樹齢150~200年と推定されています。それなら、兼六園の唐崎の松とほぼ同じ樹齢ですので、提供を受けた松は先代のモノであったのかもしれませんね。やはり・・・」
 近江八景の松は、安藤広重の「唐崎の夜雨(やう)」浮世絵や、松尾芭蕉の「辛崎(からさき)の松は花より朧にて」という句で名高く、句碑も残されている。最初の松が、どの時期に植えられたか定かでない。一説での伝承では、天智天皇(在位626年~671年)のころとも、推古天皇(在位592年~628年)のころともつたえられている。
「やはり・・・、と言いはるンは、どないことどすやろか・・・?」
 秋子にそう訊き返されたが、虎彦は遠い眼をして秋空の雲をしばらく見ていた。

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 広重が近江の唐崎に降る夜の雨を表現した「近江八景之内 唐崎夜雨」と題されるこの版画は、一日中降りっぱなしのような強い雨を吸い込んで、大きく膨らんでしまったような松の木の表現が卓越した雨の一絵となっている。
 その広重には雨を描いた傑作がたいへん多いのだが、これはその中でも一番だと、虎彦がそう勝手に思い込んでみたくもなるほど重厚な風情の一枚である。街道の往来を閉ざして、人物が描かれていないことも、より静寂感を増幅させている。
 近江夜景の暗さを、広重ならではの飛躍力を以って、暗さを無視した暗さとして表現した巧みな力が伝わってくる。すでに浮世絵もここまでくると、時を飛び越えて雨を降らす一つの現代アートではないか。すなわちそこには、広重にそうさせた、この松が放つ霊力があるのだろう。虎彦は、人間の極限の想像力・創造力を駆使して辿りつける独創力、松はそれらを引き出せる凄みさえ潜ませていることを感じた。

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 さらに芭蕉の句は、貞享2年(1685年)42歳の作である。その句意は、湖水一面、朧に霞みわたる中、湖岸の辛崎の松は、背後の山の桜よりさらに朧で風情が深いものだ、ともなろうか。
 この句は「かな」などの切字を用いず、湖水朦朧とした実感をだすのに「にて」と和らげて巧みに余情の効果を出している。芭蕉、詩的開眼につながる一句なのだ。
 その「辛崎の松」は辛崎の一つ松で歌枕であり、琵琶湖の西岸、大津の北四キロにあって、芭蕉のころもすでに変わらずにある近江八景の一つであった。
 「花」は具体的には古歌に名高い長良山の山桜である。芭蕉がこの句で問題としているのは、それを「小町の身の朧」としている点にある。唐崎の松自体は、近江八景の一つで、近衛信尹(このえのぶただ・1564年~1614年)の画賛では、唐崎夜雨(からさきのやう)夜の雨に音をゆづりて夕風を よそにぞ立てる唐崎の松 と詠じている。
 「唐崎の松」で、芭蕉が最も気にしたのは、当然「唐崎夜雨」であることは言うまでもない。それを俳諧として芭蕉は、「辛崎の松は小町の身の朧」か、あるいは「辛崎の松や小町が身の朧」の形で詠んだに違いない。それでは、芭蕉が言う『小町の身の朧』とは、一体何なのだろうか。句の情景を噛みしめている虎彦にはそう思えてきた。
「おそらく・・・、芭蕉が詠んだ(小町の身の朧)とは、彼(か)の和歌を、どうやら元にしているものと思われる・・・」

      文集、嘉陵春夜詩、不明不暗朧々月といへることを、よみ侍りける
                                 (文集、嘉陵春夜詩)

      照りもせず曇りもはてぬ春の夜のおぼろ月夜に如くものぞなき
                     (新古今和歌集 巻一:春上:大江千里:55)

 それはまた、「源氏物語」の朧月夜に直結するものでもあろう。
 さらに、芭蕉は、それを「関寺小町」の老女に擬(なぞら)える。花は雨の過ぐるによつて、紅まさに老いたり。柳は風に欺かれて、緑やうやく低れたり。芭蕉は、そうすることによって、「唐崎の松」は、老松から老女へと変貌し、衰老落魄説話(すいろうらくはくせつわ)へと姿を変えることが出来たのではないか。
 ようするに、芭蕉が『辛崎の松』を『小町の身の朧』と詠むのは、嘗て絶世の美女であった小町が年を経て、その名は世に広く知れ渡っているけれども、今となっては、その老醜を春爛漫の風光明媚な琵琶湖畔に朦朧と晒していると見立て、風諭した。その通り、確かに立派な唐崎の松は、年を経た年代物の天然記念物であることには間違いない。この句は、そういう壮大な古典世界に遊ぶ句となっている。しかし、それだけでは、芭蕉は未だ飽き足らずや、さらに、「辛崎の松は花より朧かな」「辛崎の松は花より朧にて」の句へと句形を変容させた。
 芭蕉をそうさせた経緯には、やはり広重の一枚がそうであったように、松はそれらを引き出せる凄みさえ潜ませていることを、虎彦はやはりそう感じるのだ。

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 これらを能楽アンソロジーとして「草子洗小町」を引き出してみると、宝生流では「草紙洗」で、金剛流では「双紙洗」、観世・金春流は「草子洗小町」とし、喜多流では「草紙洗小町」と表記する。
 また小野小町を描いたいわゆる小町物は、現行曲に5曲ある。「草子洗小町」「通小町(かよいこまち)」「鸚鵡小町(おうむこまち)」「関寺小町(せきでらこまち)」「卒都婆小町(そとばこまち)」がそれである。
 さらにこれらは、和歌の名手として小野小町を讃えるもの、深草少将の百夜通いをモチーフにするもの、年老いて乞食となった小野小町に題材をとるものに大別される。
 この後者が能作者らによって徐々に形作られていった「衰老落魄説話」として中世社会に幅広く流布したものだ。「草子洗小町」のみ、若く美しい小野小町を主人公として登場させ、歌人としての面目や人情味などを描いているが、ある曲面となると、同時代人ではない小町と大伴黒主(おおとものくろぬし)を競争相手として対立させたり、貫之、躬恒、忠岑を列座させるなどして、創作されている。それにしても草子洗小町では、大伴黒主を何とも愚かしい役で登場させることか。れっきとした名のある志賀黒主と称する平安前期の歌人である。
 志賀黒主は、六歌仙の一人で、近江の人。歌は古今集・後撰集に収載されている。ただし、六歌仙の中で唯一小倉百人一首に撰ばれていない歌人ではある。しかも生没年未詳とくれば、さすがに創作者はここを突いて奇妙を語り、いつしか謡曲・歌舞伎などの題材となるなど、すっかり化けて伝説的人物化する。
「古都とはこうした幽玄の舞台なのだ。しかし、世に伏せられてはいるが、真相は常に潜在する・・・」
 その真相を、と感じたとき虎彦の鼻は、また秋子の誰が袖のごとく鈴掛けの珠に染みた羅国の移り香をふんわりと聞かされた。すると、ふんわりと百人一首の花の香りを聞かされた。同時に、その眼には京都山科小野の随心院の「はねず梅」が泛かんでいた。

               花の色は 移りにけりな いたずらに 我が身世にふる ながめせしまに


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「それにしても・・・、この和歌と、梅の花とは・・・、また妙な取り合わせではなか・・・!?」
 無意識にしろ自分で描いた二つの採り合わせ方が、なぜ生まれたのかが虎彦には不思議であった。
 この採り合わせを、間違えること事態がまず自分では信じ難い。泛かんだ歌は「花は色褪せてしまったなあ。我が身を徒(いたずら)にこの世に置き、むなしく時を経るばかりの、物思いをしていた間、空からは春の長雨が降り続けていた、つゆ知らずその間に・・・」とでもなろうか、その花は「桜」なのだ。それを知るのに、なぜ「梅」など浮かべて採り合わせ違いの花を連想したのであろうか。
 たしかに秋子の羅国は梅の甘い酸味を匂わせる。だがそれにしてもこの採り違えはないだろう。しかし秋子はなぜ秋空にも関わらず早春の梅香など振り撒くのであろうか。幾つかの不思議さが想われると、虎彦の眼は右往左往して小刻みに騒いだ。
「彩りのせいか・・・。だから採り合わせが狂ったのか・・・!」
 色でいうなら「はねず」というのは、黄味がかった淡紅色。くちなしで下染めをし、紅花で染めた染物からその名がつけられた。漢字では「朱華」とも書くが、京都山科小野の随心院の「はねず梅」は、その名の通りの紅色の花だ。しかも遅咲きの梅で、桃の花かと見間違うほどの紅花である。その深い紅色から、軽い仄かな桜とは明らかに違う。見立てを違え「梅」など連想するはずもない。
「しかし・・・、染めの(はねず)は色落ちしやすいことはある。だから、移ろいやすい心をあらわすともされ無常を誘う趣きは数寄者好みの色ではある。そうした無常があやかす仕業なのであろうか・・・」
 虎彦はかって何度も訪れた、随心院の庫裏まえの小野小町の歌碑をじっと眼差した。その「花の色は・・・」古今集の花であるから、やはりたしかに桜なのだ。

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「そうでなければ、謡曲の小野小町の妖気にでも翻弄されたとでもいうのか・・・」
 たしかに、美女の代名詞として、抜群の知名度の小野小町なのに、その生涯は謎につつまれている。そのことを含め、「百夜通い」のエピソードと、百人一首の「花のいろは・・・」の歌が、小町という女性の恋愛遍歴とその後の容色の衰えとされて、衰老落魄説話が生まれ、まさしく小野小町は「花」そのもののような儚いイメージを決定づけた。
「だがそれは・・・、創作遊戯のそれで、実際の風姿ではなかろう・・・!」
 「小野」という地名に残るように、随心院の建つあたりは、小野氏の一族が栄えたところだ。宮中を退いた後、ここで小野小町は過ごしたと伝わる。
「そうなると・・・、小町へ求愛するあまたの男のひとりに、深草少将がいたが・・・、そのせいなのか・・・」
 これも実際は、彼は余程のぼせあがっていたのであろう。「百夜ここへ通ったなら、あなたの意のままになる」という小町の言葉を真に受けて、毎夜、深草から彼女の住む小野まで通い続けた。しかも、満願直前の九十九夜、吹雪のなかで凍死してしまう。嵩じて、大雪に代人をたてたため小町に愛想を尽かされた、という講釈までが人の口を突いて出る。これでは全く死人に口無しのし放題ではないか。
 雨田虎彦はふと悪い妖気に憑かれたごとく翻弄した。
 奈良もそうであるが、京都とはエコノミクス(Economics)などでは、辻斬りのごとく冒し無残無用の屍(しかばね)を積み上げるようなものだ。都人は、禄でもない話を丁寧に受け継いできた。禄(ろく)にならない営みを懸命にし続けることにより、幽玄な美意識を保有する。
 そんな行動規範で市井の内も外もが囲われている。またそれは禄で無しの結(ゆい)により囲み遺された世界でもある。この禄で無しを、エコノミクスで割り切れるはずはない。人智では割り切れぬその都とは、鄙と呼ばれる集落の民衆が、さも道普請でもするかのごとく市井の裏陰にあって積み上げてきた。禄で無しの下らない話の好きな吹き溜りの集落は、人が犯した血生臭い一切を悉皆(しっかい)と引き請(う)けてきた。

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「この神社の名・・・、誰かに・・・、あるいはどこかで・・・、聞いたことありませんか?・・・。佐羅早松神社(さらはやまつじんじゃ)という名ですがね・・・!。さ・ら・はや・まつ・じんじゃ、ですよ・・・」
 ふと虎彦はポツリと訊いた。それまで長い沈黙が三人にあった。意外にも香織が素早く反応した。
「あッ、その神社ァの名、聞いたことある。五郎はんから、なんぼも聞いた。五郎はん、よう行かはる神社やわ。そやな、この前は6月や思う。何んの用か知らへんけど・・・、たしかにその名やわ!」
 二人から爪弾(つまはじ)きでもされたかのような連れない心もちでいた香織は、干された鯉がさも水をえたかのごとく口をパクパクさせて嬉しそうに、随分昔から御所谷の竹原五郎がその神社に通い続けていることをコロコロと早口にはしゃいで転がした。
「かさね・・・。それでは・・・、五郎さんが、まるで石のお化けみたいではないか・・・!」
 そう言って虎彦が笑うと、秋子もまた微笑んだ。そして秋子はまた香織の髪をなでた。その手をじっと嬉しそうに受け止める香織は、何とも可愛らしい秋子の子分のようである。やはりこの二人は馬が合うらしい。
「じつは、佐羅早松神社・・・、曾祖父が若いころ修行しはった