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小説『五円風土記』 第一部「花そとば」 第⑲話

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              ごえん風土記 かな上 
      ごえん風土記 スライドB gif


     第一部
          はなそとば 小 生  ひとひら桜回転

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     第一章 八瀬童子(やせどうじ)   


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      十一  伍円笛 (ごえんぶえ)   



 先生のこの沈黙は、時間にして四~五分であろうか。モロー先生はたゞ沈黙のまま、聞き手に非常に長く感じさせながら、指先を震わしていた。そうして受講生の誰もがまったく気づかない素振りをしてそっと右のてのひらを胸に置くと、おもむろに眼差しを上げて講堂の天井に巍然(ぎぜん)と眺め入った。
「3,000 dead or more・・・」〈死者三千人以上〉
 みつめたまま声にはならず、先生はすすり泣くような弱ゝしい小さなつぶやきを残した。

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 誰の目にも追悼とうつる、そんなモロー先生のポーズに、賛意をあらわし、何よりも先生の鎮痛な胸の裡(うち)を察しようとしたのは学生達であった。秋子がうしろを振り向くと、たしかに学生の多くが、モロー先生の表情と同化しようとしていた。起立して同じ表情を示す学生も多くいた。
 だがこのときモロー先生は、応手である学生達が、この後どのような反応をもたらすか、ということに密やかな興味を抱いていた。最前列席に陣取っていた秋子は、席から伸び上がるようにして、このときモロー先生がみせた微妙なまばたきと唇の動きの中に、そんな気配を感じとったことを覚えている。
 航空機を使ったこの四つの同時テロ事件は、航空機によるテロとしては未曽有の規模であり、全世界に衝撃を与えたし、この渦中にあったのはアメリカ国民であるのだから、モロー先生の投げかけに対してそんな反応をしめしたことは至極当然の市民感情の現れであった。
 その後、アメリカはアフガニスタン紛争、イラク戦争を行うことになる。
 ウサーマ・ビン・ラーディンとアルカーイダに首謀者の嫌疑をかけた米政府は、引渡しを要求したが、これを拒否し続けられ、対テロ戦争の「不朽の自由作戦 (OEF: Operation Enduring Freedom)」を高ゞと掲げたアメリカ軍は、ターリバーン勢力を攻撃するためにアフガニスタンへと侵攻した。

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 しかし正義の逆説として、アフガン報復戦争開始時に、某新聞は「言語学者のチョムスキー氏、アフガンを語る」という記事を載せている。
 この勇気のペンのことは、日本人の秋子にも意義深く感じられた。
 言語学者チョムスキーは「アメリカは、イスラム地域の多くの人々も納得するような国際社会への手順を踏み、理性的なアプローチを最大限にとり、最終的にはテロリストのみに絞って力の行使に踏み切る方法もありうるという道を追求すべきだった。アメリカはナショナリズムが燃えたために理性を失ってしまった。無実の人々が死ぬような武力行使はノー」だと述べている。
 NATOは攻撃によってターリバーン政権を転覆させる必要を認め、2001年10月にアフガニスタンの北部同盟と協調して攻撃を行い、12月にはターリバーン政府を崩壊させた。
 この攻撃はアメリカ合衆国政府によって「対テロ戦争」の一環と位置づけられ、国際的なテロの危機を防ぐための防衛戦として行われた。イギリスを始め多くの国がこのアメリカ政府の攻撃に賛同し正義を掲げたのだが、戦争の主体者は疑うべきもなくアメリカであった。
 モロー教授の講義はこの翌年1月のことであるから、この戦争で、実際に無実の人々も殺されつゞけてきたこと知る学生も多くいた。中にはチョムスキーの観点に納得し、同氏のメッセージにアメリカの良心をみて、目頭を熱くした学生も数多くいたはずだ。リベラル・アーツならなおさらである。
 このように同時テロ後のアメリカには、二つの正義があり、対戦争に両論があった。
 モロー先生は、この大きな二つの海に一石を投げ入れたことになる。すると途端に喝采の渦が起こり、講堂に集う学生達が大きく揺れた。
 モロー先生はそんな学生達から贈られる拍手の渦を目に認(したた)めると、みずからも、おうむ返しに拍手を学生達へ贈り返しながら、さも満足げに何度もうなずいて見せた。
 講堂の響音が遠ざかるのを待つと、学生達の胸にゆだねられてモロー先生と同化したかのように思われた学生達の昂ぶりが、モロー先生の次の言葉で、また寸断された。

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「Please raise your hand if there is a person who changed the Stars and Stripes in eyes in you now.」・・(君たちの中で、今、目の中で星条旗をひるがえした人がいれば、手を挙げてください)
 この一言で、しきりと前後左右の学生達と連絡をとりはじめたことを、モロー先生は発見したのである。
「Now?Is the consultation left it at that, and is not your courage shown?Please raise your hand.」〈さあ~相談はそのくらいにして、君たちの勇気を示してはくれないかね。手を挙げてください〉
 どよめきが収まるのを待って、今度は嘲笑し返すかのように訊(たず)ねかけられた。
 これはリベラル・アーツならではの反動なのか。学生達はモロー先生にそう促されても慎重かつ冷静さを装いつゝ、まず一人手を挙げ、次に二人目が、そうして三人目が手を挙げ終えると、残りの学生達は至極当然とばかりに次ゝと手を高らかに誇らしげに掲げてみせた。留学生を除くアメリカ籍の学生の多くが、きらりとした貌(かお)の目の中に、確かに星条旗を誇らしく掲げていた。

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 しかしモロー先生にすれば、これはまったくとるに足りない一つの描写にしかすぎなかった。
「It is so. This is a dance of the catharsis. You saw the catharsis dance now.」
〈そうです。これがカタルシスの踊りです。皆さんは、今、カタルシスが踊るのを見たのです〉
 たゞこう言うと、モロー先生は何くわぬ顔をして、またこの講義の冒頭でみせた哲学紳士の、やわらかで貴公な表情を泛かべた先生へと帰っていった。
 学生達は、ねじるように振って回されたかと思うと、これを地面に叩きつけられたような心境で、そんなモロー先生をただ唖然とながめていた。
「カタルシスはカルパ国(kalpa कल्प)に生まれました」
 こう語られると、首をひねりたくて、言葉の焦げる匂いすら感じさせる。もしも、これが真なる認識だとすると、この後、モロー先生はどの様にして保証されようとなさるのか、見当がつかなかった。
 哲学は、言葉の文脈に、論理的な破綻が無い事で、その理論の正当性を求めますから、この地上には無い、誰の眼にも確かめようもないカルパ国という存在を語りかける哲学者が、目の前にいるということがそもそも不思議なのである。なぜモロー先生は、個別現象を超えた、核心的な問いから離れようとなさるのか、それが何を意味するのかが解らなかった。

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 そんな受講生の戸惑いを察したのであろう。淡い日差しのような眼をされてモロー先生は言った。
「哲学とは解っていない事を考え抜いて明らかにする事ですから、まことに非常識な学問といえる。皆さんはまず私が語ろうとする非常識な内容と向かい合いながら(カタルシスはなぜ存在するのだろう?)(カルパ国はなぜ存在するのだろう?)と、考えるところから、解っていない非常識な事を考え抜くように考えてみて下さい。これは哲学のパソコンに例えるならば、非常識なOSですね。つまり哲学問のもっと非常識な基本ソフトでもありますから・・・・」
 と、語りかけながら、また非常識に、
「カタルシスはカルパ国で生まれたことを、ギリシャの哲人アリストテレスは理解していた」
 と展開させては、通じなければならぬ脈絡がふっと切れるもどかしさを受講生に感じさせながら、淡ゝと非常識な話しをなさるのであった。
「つまりアリストテレスは、このことを承知した上で、師プラトンのイデア論を批判し、最高の善は幸福だと説いたのだ」 などと、講義が佳境となるに連れ、じつにテンポよく先生は、独自のモロー理論を語りかけられたのである。いかにも非常識ではあるが、ただし、先生は常識そうな顔をして語られていた。

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 モロー先生の講義が、他と違うのは、日常生活で直面するジレンマを「弥勒(みろく)」を題材にして未来とは何かを考えさせるのが主眼なのだが、モロー先生が京都の同志社大学といかに交流ふかき仲だとはいえ、また数年間かを日本で暮らされたとはいえ、日本人にはこうは語れないと思える弥勒観と、見えざる手について口にすることをタブーとするユダヤ人らしからぬ弥勒観だけに、秋子はたゞたゞ驚きを隠せえぬままに圧倒されていた。
「カルパ国と、この地球とは五劫(ごこう)の距離で結ばれている」
 あの八の字髭を消したからの、この仕業の所以(ゆえん)なのであろうか、肥った姿態、髭の生えたいかつい相貌とはうらはらに、なかなか優しい声である。しかし同時に、面映(おもは)ゆい脅(おそ)れを感じさせた。
 輪廻や 永遠など、むしろ忘れて生きる中にこそ、 ほんとうは 輪廻や永遠の世界が垣間見えてくる、あるいは自然なことと感じられるようになってゆくのではないでしょうか、とスピリチュアルに語られた後に それとは反対に死を非常識に直視した弥勒観なるものを展開されるのであるから、受講生の多くが、その複雑な思索におぼれてしまっている印象を秋子は強く感じ、仏教に親しむ習慣のない異邦人の眼差しに脅れのゆらぎが現れているかのようであるから、秋子にはそこが面映ゆいのであった。しかしモロー先生は、素知らぬ顔で平然と進められた。
「劫とは極めて長い宇宙論的な時間の単位で、一劫を四十三億二千万年と換算し、五劫とは二百十六億万年の距離となる」
 こうなるともう仏法そのものである。受講生は樺色にくすんだ顔を無表情に据えて、親昵(しんじつ)そうな態度で語られるモロー先生とたゞ黙って向き合っていた。しかしそれは、哲学に係わる者は盲目的に権威に服従することをタブー視するのであるから、ここを弁えようとする自然な眼差しではあった。

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「弥勒さまもまたこの遥かなるkalpaの国で生まれた」
「弥勒さまはシッダッタの入滅後五十六億七千万年後の未来に姿を現わして人類を救済するという。こう約束して地球へと向かい来る弥勒さまは、すでに百六十億万年を歩き越えて五十六億万年先の地球が見下せる夜の頂きに立っている」
「この地球からみると、弥勒さまの立つ頂きへは、未だ人類の悲劇のような長い夜がつづいてみえる」
「そんな夜とは、カタルシスの踊る舞台なのである」
 ここまでを話し終えると、モロー先生はまた、おもむろに話しの矛先を切り換えした。
「It will touch the origin of the philosophy a little here.」
〈ここらで少し、哲学の起源に触れることにしよう〉
 こう言葉を切りだすと、慨(なげ)くような眼をふたたび天井へと向けた。
「哲学とは、近代における諸科学の分化独立によって、現代では専ら、特定の学問分野を指すのであるが、そこには神のこともあれば、死のことも、数のこともある。しかしながら、学術は細分化され、対象は限定されているから、学者や研究者が問えるのは、そのように限定された領域に支配するかぎりでの前提、つまり、浅いレベルの前提でしかない。例えば、生物学者はDNAのある部分の解読にいそしんでいて、生命とは何かという根本的な問題をなおざりにしている。こうなるとラッセルのように、哲学の消失を予想する哲学者も現れてくる」
「そこで諸君らは本校を離れ去る前に、今一度、確認しておくべきことがある。それは哲学の起源である。古希のφιλοσοφία、英語のphilosophy、独語のPhilosophieとは、古代ギリシャでは学問一般を意味し、知の営みの全体を表していた。またこのピロソピア、フィロソフィアという語は、愛智という意味なのである。これはそもそもphilos(愛)とsophia(智)が結び合わさったものであるから、元来philosophiaには〈智を愛する〉という意味が込められている。この意味を込めた者は、アリストテレス以前の人々であった。確認すべきことは、この起源の本質である」
「あるいは〈愛を智する〉ことであった」
「An important person of you who came to see off when you board the train without important
";Person";'s being said is floating tears. And, it runs to chase the train that began to
run. However, the distance between two people opens in a moment. The shaking night is a stage
in the window of the night train that will be seen before long that the catharsis still dances.
the you」
〈大切な「ひとこと」を口にできないまま、あなたが汽車に乗り込むと、見送りに来たあなたの大切な人が涙を浮かべている。そうして、走り出した汽車を追うように走ってくる。しかし、二人の間の距離はみるみる開いていく・・・。そのあなたが、やがて見るであろう夜汽車の窓にゆれる夜とは、やはりカタルシスの踊る舞台なのである〉
 省みる交感に、新しい交感を注ぎたくなった秋子は、講義を終えた夜に、ミセス・リーンを伴って夜行列車に揺られた。リーンは新しい創作デザートを眼のオーブンで焼き菓子をこさえたいという。二人は暗い坩堝(るつぼ)のニューヨークへと向かった。
 世界には多様な物差しがある。衝撃の渦中、希望を求めながらもアメリカの多くの人々は伍劫の距離感を掴めないであろう。自由の女神は、真冬の未明に慟哭の眼を見開いたまま眠れないでいた。
 その自由の女神を眼差しながら未明の闇に秋子の吹く笛の音が流れた。その眼には比叡山に鎮められた西方浄土の穏やかな早朝の森を泛かべていた。


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                             第⑳話に続く
                     みうまそうたろう 文字 かな 正


  きょうの細道    C 11 gif



  
   京都 鞍馬寺。


  
   退蔵院 。


  
   知恩院 除夜の鐘。

 

   そうごリンク
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   きょうと 2はなそとば 2

   クリック・ボタン gifA 5 gif   ひめくり古都の道
   京都 花そとば



  つきの暦  2012年12月

  つきの暦 2012 12



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小説『五円風土記』 第一部「花そとば」 第⑱話

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     第一章 八瀬童子(やせどうじ)   


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      十一  伍円笛 (ごえんぶえ)   



 翌日の夕食後に薦めてくれたミセス・リーンのユーモアたっぷりの献立も刺激的で素晴らしいデザートなのであった。それは新作のヒロインと言ってよい。
 デザートは秋子の淋しさを翻弄して憂鬱は宵闇へと消えた。
 まったくユーモラスな考古学者で、エミリーの助手を務めていた。スーツ姿の似合う知的美女だが、蒼ネズミの仲間達がひしめく下水道に躊躇なく入るなど、肝が据わっている。
 しかしミセス・リーンが、ただ無償の愛を注ぐはずもない。新作を閉じ終えると、いつしか彼女は密かな楽しみを蓄えたかのように微笑むと、おもむろに窓側へと移動した。
 そして秋子はそのミセス・リーンの後影にでも語りかけるように篠笛を吹いた。

   

 そんなミセス・リーンの助言から旅は始まった。
「It is the one that it visits New York and it doesn't visit ";Statue of Liberty"; that Arches National Park in Utah state is visited and doesn't see ";Delicacyarch";.」
 ユタ州のアーチズ国立公園を訪れて「デリケート・アーチ」を見ないのは、ニューヨークを訪れて「自由の女神」を見学しないようなものですからね。と、
 新しい旅に誘われて、二週間ほど前にフィールドトリップしたユタ州の風景を、そして篠笛を奏でながら広大な赤い大地から得た交感を秋子は忘れないでいる。
 そこで野生のバファローにネイティブアメリカンによる不思議なスピリチャル体験をした。秋子は初めてアマースト、ワシントン、NYCとはまったく違う雰囲気の、アメリカのDiversity(多様性)を実感した。
 留学後三年目にしてようやく果たせたという感慨もあるのだが、アマースト大学の緑の芝生に囲まれたニューポート・ドームの窓辺からは、そんなユタ州のアメリカンサイズに魅せられた瞬間の空気が「いま、ここ」に直結され、ありありと秋子の目の前にあらわれていた。
 豊かさと交換するように人と自然との絆は細くなるばかりではないか。すでに日本にはないが、しかし異国には未だ神の手で天然の原型が遺されている。これは敬けんで穏やかな人々が培ってきた風土でもある。アーチズの赤いその遥かさは、秋子に人としてのありようを深く問いかけてきた。
 省みることの豊かさを知らされたそんな秋子は「アメリカも捨てたもんやおへん」と、寝室の壁に向かってつぶやいた。朝になると空や草花をみてつぶやいた。

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                         あきこ 瞳 gif

「それって、無作法な授業形態にようやく慣れてきたせいもあるんじゃないの・・?」
 と、ふいに背後から声をかけられて秋子が振り向くと天野伸一が笑顔で立っていた。彼はハーバード大学からどして引っ越してきたのかも解らない未だ不可解ではあるが有能な新参者であるから、鵜呑みにできることと、鵜呑みにはできぬことがある。その手には迂闊には乗れないとなると、いや、慣れたというおざなりの言葉使いでは、アメリカの学生に対して失礼なことで、正しくは三年目にしてようやく、少しだけ理解できるようになってきた。
 授業がはじまり辺りを見わたすと、部屋のなかで帽子をかぶったままの学生、お菓子を食べている学生、机の上に足を乗せている学生、ローラーブレードを履いたまま座っている学生、日本の大学ではとても考えられないような状態である。
 また、教授の名前をファーストネームで呼ぶ学生さえ多くみられた。入学当時の秋子は、「アメリカの学生は、なんて失礼で行儀が悪いんだ」と強く感じていた。
 明日は「Martin Luther King, Jr. Day」である。
 マーチンルーサーキング・ジュニアの生誕したこの1月15日は、アメリカの祝日とされている。それはマサチューセッツ州でも同様であった。講堂は五百人をこえる学生達で満席となっていた。
 悠々閑々と生きている、それがハロルド・モロー先生の平生であるらしい。黒いビーバーのファーフェルト帽をかぶられて平生は思慮深く、粛然とした風姿を崩さないで、先生はしばしばくったくもない一面を覗かせてくれたのである。講義の日、あのときも普段と同じように、ご自慢の黒スネークのステッキを軽く左右にゆらしながら粛然とした足どりで教壇へと上がられた。
 しかし教壇に立たれ、いつものやさしい視線を受講生へと向けられたとき、一堂ゆれるようにどよめいた。にわかに明るくされた、そんな先生の風貌が秋子の眼には今も懐かしく泛かぶのである。
 あの、いかめしい八の字髭が、さっぱりと切りおとされていた。
 しかも、よく気がつけば、まゆ毛も剪(そろ)い美しく整えられていた。
 こうなると、まったく不思議な人物というほかはない。飄(ひょう)ゝと、薄らとぼけられて多少の距(へだた)りをもつ、いつもとは違うそんなモロー先生の形相に、たゞ秋子はぽかんと口をあけて見守っていた。
 一堂がざわめいたとき先生は、背筋を伸ばし、青々とした口元をいくぶん下げ、じっと学生達に眼を注いで、身動き一つ、されなかった。
 すると、モロー先生はかねて定めてあったかのように、
「In the talk, there is order, and are a machine.」
 話というものには、順序があり、間や機というものがある。
 と、こういって、影と化した八の字髭のあたりを、いかにも意味ありげに指でなぞり終えると、くしゅんと鼻をこすりあげた。ということは、その本旨はどこにあるにせよ、受講生に何か未知への憧れを充たしてくれそうな感じを抱かせた。こうしてテーマ「A subject MIROKU」と名づけられたモロー先生の特別講義がはじめられたのである。
 この講義の後日、秋子には講義らしい講義を受けた、という満足感があった。
 もちろん講義らしい講義というとき、それがどのような内容を指すかは人によって違いがあるはずだ。ここで秋子が講義らしい講義というとき、素朴に「次はどのように展開するのだろう」という興味で秋子を先へ先へと引っ張っていってくれるもの、という意味がこめられている。
 モロー先生から授かる「A subject MIROKU」には、アリストテレスの哲学的ミステリー〈Aristotelian philosophy mystery〉と宗教哲学的ラブロマンス〈Philosophy of religion love romance〉の要素がないまぜになっていた。哲学ミステリーとしての「その事件はどう展開していったのか」と、宗教哲学ラブロマンスとしての「その恋愛はどんな結末を迎えたのか」という二つの哲学サスペンスが、受講生である秋子を強い力で引っ張っていってくれた。
 先生は「人間がいかに自らの自由により自らの生き方を決断してゆくか」ということを語られた。
 そのプロローグにて、モロー先生はまず咳払いを一つなされた後、
「アリストテレスの夜は、カタルシスを踊らせる舞台なのである」
 と、鳶色(とびいろ)の瞳をすこし輝かして、深遠玄妙に言葉をつむがれた。受講生にはおなじみの口ぶりだ。
こうして受講生を唖然と曳きつける、斬新な前置きの言葉を述べられて、じっと一堂を見渡されてから、達した孔明のような方の趣をみせて静かに語り始められたのである。この序章だけでも秋子には何か泛き立つような楽しさがうかがえた。
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 大学への入学には大学で学問を修める適性があるかどうかをチェックするSAT(Scholastic Achievement Test)のスコアが必要である。秋子にはこの大学進学適性試験のリスニングに苦々しい時間を費やして堪(こら)えた苦境への思いがあった。しかしこの講義のときは違った。 
 秋子は何事もなかったように、モロー先生の一言一句が自然と理解されて、これが果たして、神がかりといえるのかどうかわからないが、ノートに和訳でつらつらと書きつづることができた。はじめての味わいだが、豊かな気分にひたりつつモロー先生の言葉の一つひとつに耳をかたむけた。
「When the mechanism of this world is very understood, the doubt also seems to start at daybreak
however ..it is likely not to hold.. in the starting existence during a day during a day
because of the sunset you. In the etiquette of the evening sun, there was an important working
in the height degree in which the reproduction of moonlight was pressed.」
 一日が、夜明けに始まることに、皆さんは、なんの疑問も抱かないかもしれないが、しかしこの世の仕組みをよくよく理解すると、日没で始まる一日の存在がみえてくる。夕陽の儀礼には、月光の再生を促す最高度に重要な働きがありました。
 モロー先生は「Etiquette of evening sun」(夕陽の儀礼)と、三度くりかえされてから、受講生をじっとみつめられて「Pulau Bali」をご存じですかと訊ねられた。
「本日はまず諸君らの眼に、バリ島の美しい夕陽を想い映して頂きたい」
「私はこの夕陽の儀礼を、バリ島において何度も見たことがある」
「夕陽の名所バドゥン半島、そのインド洋を望む70メートルの断崖絶壁の上に、バリの最高神サンヤン・ウィディを祀った三層のメルが建つウルワトゥ寺院がある。プルメリアの花咲く境内は遊歩道が完備され、伝統舞踊ケチャダンスの会場にもなっている」
「バリの寺院は、全体を壁で囲まれた敷地の中にいくつかの塔や小さな社が建てられ、あちらこちらにチャナンと呼ばれる可愛らしい供え物が置かれていた」
「熱帯雨林と丘陵、火山帯といった地形が島の肥沃な土壌を助け、豊かな作物が収穫できる傍らで、人々は最高神であり唯一神であるサンヤン・ウィディだけでなく神的霊的な諸々の存在に対し、朝な夕なに供えと祈りを捧げた」
「そうして音楽や舞踊、絵画や彫刻といった美術芸術活動に勤しみ、至宝ともいえるバリ文化を築いたのだ。美しい王宮や大小の寺院を訪ね歩き、エキゾチックな伝統舞踊とガムラン楽器の音色に浸っていると、エンターテイメントに満ちたこの島のすべてが、じつは祭礼と儀礼に基づいたひとつの壮大な舞台となっていることを強く感じずにはいられない」
「人類学者のクリフォード・ギアツは、演劇こそがバリ国家の本質であるとし『劇場国家』と呼ばれる国家像を説いた。そして今なお、世界の人類学者達がバリ研究に魅了され続けている。気ままな旅人でさえも、この島の新
たな風景の中へ入り込むその都度、いたく激しく心揺さぶられ、ギアツの説いた『劇場』の幕開きを心待ちにするほどなのだから」
「バリ島には、バリ・ヒンドゥーという特有の信仰がある。そしてバリの祭礼や儀礼には、必ず舞踏が伴う。それらは神々に感謝を捧げる宗教的要素の強い奉納舞に始まり、鑑賞用、娯楽用として発展を遂げたものまで様々だが、バロン・ダンスやサンヒャン・ダリ(憑依舞踏)といったものが盛んになることで、呪術的な儀礼と演劇活動は、バリ全土で活性化した。さらに近年の舞踏芸術は宗教的立場から切り離されて、観光用として整えられ、そのぶん演じる要素もまた増大したと言える」
「文化人類学者クリフォード・ギアツは、著書『ヌガラ…19世紀バリの劇場国家』の中で次のように分析する」「バリの国家が常に目指したのは演出(スペクタクル)であり儀式であり、バリ文化の執着する社会的不平等と地位の誇りを公に演劇化することであった。バリの国家は、王と君主が興行主、僧侶が監督、農民が脇役と舞台装置係と観客であるような、劇場国家であった」
「ギアツは、王や王宮を中心にすべての儀礼を演劇的に行うことが国家の本質であるという。ならばと現代の劇場国家に触れるべく、バリ鑑賞のひとときへ旅立った」
「MIROKU SAMA is・・・」と、
 モロー先生は、幾度となく弥勒(みろく)を引き出しては意図あからさまに「さま」付けを試みたのである。
 その「さま」付けの抑揚は、日本人の秋子には「Summer」としか聴き取れない。弥勒SUMMERなる敬意のあらわれようが斬新であった。一瞬、落語かと想わせるそんな異邦人の〽(トーン)の外しようがモロー先生の巧みなユーモラスさにも感じとれて、みずからの言葉へと曳きつけようとされる工夫のされた痕跡は、とくに日本人の秋子を妙に嬉しくさせた。

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 しかしそれは単に日本人だからということだけではない。弥勒と聞かされれば秋子には何より親しみがある。普段ならば幼い女子の遊び相手は人形なのであろうが、秋子は少し違った。幼くして手に握らされたのが弥勒仏の彫物であった。それを投げたり転がしたりして遊んでいた。そしてその弥勒によく語りかけた。
 哲学史の講義なら、プラトンから順にカントあたりまで教えれば教授の役割は充分に果たせるのであるが、Amherst College〈米アマースト大学〉のハロルド・モロー教授のそのときの講義は、大切な未来の問題を、みずからの頭で深く考察する機会を学生に与えようとしていた。
 この講義を秋子が受講したのは新世紀を越年した2002年1月、セメスターの明けた雪の降る午後のことであった。夜は、カタルシスを踊らせる舞台なのである、と先生が諭(さと)すのであるから、受講生は見る見る夕闇の中へ、しだいに恐る恐る暗い夜の中へ溶けこんでしまっていた。
 ところが講義の中盤にさしかかると、
「すでに君達は、昨年、カタルシスが踊る現場を目撃したではないか」
 と唐突に鋭く、指先で受講生の頭上をさし示して、問いかけてきた。
 モロー先生はそれまで接続してきた哲学めいた話を、こう問いかけることで、講堂内の雰囲気を生々しく、どんとスライドさせようと考えたのであった。この突拍子無い展開に、受講生の大半からどよめきが起きた。
 ここから先、学生達は、モロー先生が企てた、川に落ち、かなり早い流れに押し流された。
「September 11. You are to keep memorizing the nightmare in that stone stage through all
eternity.」・・(9月11日。あの石舞台での悪夢を、君たちは永遠に記憶し続けることだろう)
 一度辺りをじっと見渡し、目をうるませる先生は「September 11」を強調しこう述べてから、よどみなく悲しさのあふれる語りかけで、昨年の9月に起きた同時多発テロの惨状を、目撃者の悲劇と旅客機に乗り合わせていた乗客の恐怖とを、さも当事者の体験のごとく描き映して、学生達の目に鮮やかに回想させてみせた。
 受講生の脳裏には、モロー先生の言葉通りの、高層ビルの壁を叩き破るジェット音が叫び声にまざり合い、おめき声や悲鳴さえもありありと聴こえ取れて泛きあがる。それにつられ講堂の中ほどのあたりでは、けたたましい叫び声が起こった。
「Ladies and gentlemen, quietness please.」(皆さん、どうぞ静粛に)
「The newspaper on the evening of that day is here.」(ここに当日夕刻の新聞がある)
 さらに、某新聞を両手に開きかかげた先生は、その記事を淡々と読みすすめた。
「11 American Airlines of going in departure Los Angeles of -200 Boeing 767 Boston (Logan
International Airport)(Los Angeles International Airport) flights of American Airlines
(-200-Boeing 767 type machine and airframe number N334AA) took 81 passengers and 11 crew,
and did the delay departure at 7:54AM. It was hijacked around 8:14AM, and the cockpit seems
to have been taken over. The course is suddenly changed for the south at 8:23AM, it rushes
into the twin towers north building (110 stories) that is the skyscraper of New York The
World Trade Center of Japan at 8:46AM, and the explosion blazes up. Remains of the airframe
hardly stopped the prototype unlike the accident when taking off and landing because of the
horizontal, high-speed collision to the building.」
「アメリカン航空のボーイング767-2007ボストン(ローガン国際空港)発ロサンゼルス(ロサンゼルス国際空港)行きアメリカン航空11便(ボーイング767-200型機・機体番号N334AA)は、乗客81名と乗員11名を乗せて、午前7時54分に遅延出発した。午前8時14分頃にハイジャックされ、コックピットを乗っ取られたらしい。午前8時23分に進路を急に南向きに変え、午前8時46分にニューヨーク世界貿易センターの超高層ビルであるツインタワー北棟(110階建)に突入し爆発炎上。水平かつ高速で建造物に衝突したため、離着陸時の事故と違い機体の残骸はほとんど原形をとどめなかった」
 こうして『Events of 11 September』(9月11日事件)の悲劇が、あきらかな非情として呼び戻された。講堂は凄まじい響(どよ)みであふれ、涙するもの体を震わすものが多くいた。
「・・・・・・・・」
 この後、講堂に束の間の空白ができた。
 ふと何故(なぜ)か、モロー先生は次足そうとした言葉を、ここにきてピタリと止めたのである。

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                             第⑲話に続く
                     みうまそうたろう 文字 かな 正


  きょうの細道    C 11 gif



  
   京都 嵯峨鳥居本。

 愛宕念仏寺から鳥居本。重要伝統的建造物群保存地区に指定されているこの辺りは、昔は化野(あだしの)と呼ばれていた。石仏で有名な化野念仏寺も愛宕街道沿いのここに在る。要注意は、京都市内には念仏寺が二ヶ寺あるため参拝の間違い多し。


  
   癒しの京都紅葉2012 〜総集編 。

 順に、永観堂 天授庵 南禅寺 高桐院 真如堂 安楽寺 法然院 曼殊院 圓光寺 詩仙堂 蓮華寺 瑠璃光院 実光院 宝泉院 三千院 宝筐院 厭離庵 祇王寺 二尊院 常寂光寺 落柿舎 野宮神社 竹林の小径 天龍寺 宝厳院 鹿王院 円通寺。


  
   京都の庭園。

 

   そうごリンク
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   きょうと 2はなそとば 2

   クリック・ボタン gifA 5 gif   ひめくり古都の道
   京都 花そとば



  つきの暦  2012年12月

  つきの暦 2012 12



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小説『五円風土記』 第一部「花そとば」 第⑰話

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              ごえん風土記 かな上 
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     第一部
          はなそとば 小 生  ひとひら桜回転

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     第一章 八瀬童子(やせどうじ)   


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      十一  伍円笛 (ごえんぶえ)   



 言葉が途切れると万寿寺はさらに閑寂を深くした。
 寺の奥は不在なのか一声すら洩れとどくことはない。人気を感じさせない、そんな閑寂の中にあって座敷の欄間に吊るし止められた干からびて小粒な赤が色と思えば色で、秋子が吊るしたという唐辛子の小さな束の赤だけが悠悠閑閑としていた。
「何を拒絶している・・?。遠ざけるには、何かある・・・!」 
 拝観者の訪れない万寿寺の一室はやはり森閑としている。しかも普段の閑寂さではない。出払って僧一人として奥には居ないのであろうが、だが単に人気がないだけの類の閑寂ではなかろう。雨田虎彦は、何事かの内情を秘めた寺院であることを感じた。その虎彦は、もうニ時間も片足を伸ばしたまま固く座りこんでいる。
「その秋子さん・・・は、今はどされてますか?」
 膝頭に苦痛を感じながらも、異界話は麻酔に似た快さが伴う。さらに虎彦は訊いた。
「たしか・・・、アメリカの大学に留学されているはずですが。そう聞いてますが・・・?」
 と、そうとだけ答えると、駒丸扇太郎は継ぎの言葉を足そうとはしない。秋子に関する消息はあまり詳しくは知らなそうであった。留学だと聞かされ、虎彦はたゞ、女学生に似合う年齢、香織よりか少し大人の女性を思い泛かべた。
「アメリカ・・・!、何んや変やなァ~・・・」
 香織には、昨年末に聞いた秋子の笛の音が耳に鮮やかに残されている。姿こそ見なかったが、あれはたしかに耳に馴染んだ秋子の笛なのであった。
「かさね・・・、何が変なのだ・・・?」
 小さく何かを否定する香織の小さな囁きがいつもとは違い妙に不自然である。普段、やたらヤンチャな娘ではあるが、奥歯に物を挟んだよう言い回しはしない。虎彦は訊いた。
「暮れにィ、秋子はん笛ェ吹いてはッたんや。あれェ、何んやったんやろか・・・」
 香織にそう言われると、虎彦も笛の音なら聞いたように思える。誰が吹いているのだろうと感じたときがあった。そんな会話の中で、扇太郎は眼をしばたいていた。
 そして三人は、そんな秋子のぼんやりとした行方を抱えながら万寿寺の部屋を出た。
「やっとこさ、大黒ラーメン・・・や!・・・」
 鐘楼をくぐると、香織はにんまりと笑みた。

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 門前は、東寺と東福寺を結ぶ九条通、平安京の南端の九条大路にあたる。
 門前に出た虎彦はそう思って左右を見た。
「昔なら・・・東大路通に突き当たる・・・」
 東は、平安京の東の端にあって南北を結ぶ大路であった。反対に西の彼方には羅城門(らじょうもん)があった。その羅城門なら、門に棲みついた鬼(茨木童子)と戦った渡辺綱の武勇伝がある。しかし現在は鴨川を渡り上がる九条跨線橋になってその先はすでに東寺の甍すら望めない。現存はないとしても偲べる光景を遮られるのは味気ないものだ。そう思うと虎彦は、少し訝しくした眼で空を見て、てのひらを向けた。
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「?・・・・、雪か・・・!」
 ふと、早朝出逢った竹原五郎の顔が浮かんだ。なるほど香織と五郎の差配が的中したことになる。そうか彼は陰陽師あるいは八瀬童子の血流であったのかと思うと、八瀬贔屓(ひいき)ではないが、やはり五郎という男の風貌が妙なものでさらに懐かしさが増してきた。その五郎の影を、阿部富造という男影がさらに曳き出してくる。そしてぼにやりと佇むと、ちらつく風花(かざはな)となっていた。
 万寿寺の門前から東福寺駅前への道は九条通の細い路側帯である。九条跨線橋の上り坂にともない右の高い植栽と、左の高い遮音壁に挟まれたその細道は、真っ直ぐに敷かれた水路の中を歩く感じで、三人は向かえ風に煽られるおうに歩いた。
 とき折りその風に虎彦は足止めとなる。50メートル先の角を右に曲がれば直ぐ右手に大黒ラーメンがあるのだと香織は急かすようにいう。
「たしか・・・、この香織とも関わる話だからとも扇太郎は言っていたが・・・?」
 急かされてみる香織の顔に、ふと、虎彦はその言葉を思い出した。扇太郎はその先の話を、後でまた含めるのであろう。コートの袖を香織にツンツンと引かれた虎彦は、止めた足をステッキで起こして、また頼りなく歩きはじめた。


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 一乗寺駅へと向かうその途中にあるお宅には、道路にまでしだれ咲く萩がある。そろそろ紫の花がつき始める季節であることが懐かしく想い泛(うか)んでいた。
 もう夏のものとは思わないそんな気配に、ふと気づかされる朝が日本にはあった。それは身を潜めていた秋が急に姿をみせたような快い空気を感じるときである。
 九月中旬、このころ日本では朱夏を過ぎて、秋は色なき風の白い装いとなるのだ。これが日本の季語でいう「けさの秋」である。そうした日本の仕草を養母和歌子は秋子にせっせと教えてくれていた。
「京都ォの夏もかなわへんけど、秋ィ・・・、こない暑うあらへん・・・」
 朝の天気予報で、予想最高気温38度、と聞いただけで阿部秋子はめまいがした。
 アメリカ暮らしが早三年目となる秋子の瞳には、在所から一乗寺駅への途中にあるお宅の、道路にまでしだれている萩に、そろそろ紫の花がつき始める季節であることが懐かしく想い泛んでいた。
 秋子の暮らすニューイングランド地方にも日本と同じような四季があるのだが、しかし夏の湿気が払われて、透き通って寂びていく景色という風情などはない。秋子は初めて訪れた日のアメリカを思い起こした。

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 初夏の朝陽を浴びて一隻の帆船がある。メイフラワー号ともいうが、別称はポリティカル「political」である。そう言われると、裏返された名の帆船となる。
 この名から連想されるpolitical correctnessとは、世の中にある差別や偏見に基づく言語表現でマイノリティ(少数派、少数民族)に不快感を与えるような表現を制限しようとする、文字どおり「政治的な訂正」ポリティカル・コレクトネスのことである。もっと簡単に言えば、差別用語を、あるいはそれどころか、ピルグリムと呼ばれるこの聖者たちは、プリマスに上陸すると、すぐにさまざまな暴力をふるいはじめるのだ。どちら側の意識からこの帆船の名が生まれたかは明白で、北アメリカにおけるイギリス植民地の魁けである。その最盛期には現在のマサチューセッツ州南東部の大半を領有していた。
 しかし、プリマスの太陽は向日葵の咲き誇る花畑を越えて向かってくるかのように見えた。時計の針は奇しくも広島の上空に原爆が炸裂したときと同一の時刻を指している。八時十五分である。おそらくこの時刻に限定された特別の感情を抱くの世界広しとはいえ日本人だけであろう。幼少を祖父富造に構われて育ったせいか、黙祷と対にしたくなる時間としてどうしても意識される。やはり秋子は日本人なのだ。
「ほんに、人間いうんは、しょうないなぁ~・・・」
 ピルグリムの上陸を忍ぶ象徴の一つがプリマス・ロックである。それはプリマスの上陸地点近くにあった花崗閃緑岩の大きな岩の露出部であるという。プリマスは1620年にできた村として記念石にその年号が刻まれている。
 しかし、この岩が上陸地点にあったということに言及している当時の証言は無いのだともいう。つまり、でっち上げられたモノとする意見がある。実際そこは、ピルグリムが上陸地点に選んだのは岩場ではなく、清水を確保し魚が取れた小川だった。
 しかも石に刻む「1620」の年号に見当たる日本史の、その回想に秋子は良き思い出はない。その一つ元和の大殉教が重なってくる。

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 元和の大殉教(げんなのだいじゅんきょう)とは、江戸時代初期の元和8年8月5日(1622年9月10日)、長崎の西坂でカトリックのキリスト教徒55名が火刑と斬首によって処刑された事件である。日本のキリシタン迫害の歴史の中でも最も多くの信徒が同時に処刑された。この事件後、幕府による弾圧はさらに強化されていく。また、オランダ商館員やイエズス会宣教師によって詳細が海外に伝えられたため、26聖人の殉教と並んで日本の歴史の中で最もよく知られた殉教事件の一つとなっている。

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 秋子はじんわりと、比叡山を賭け下って朝廷に押し迫る荒法師らがあらがう気勢の声を想い浮かべた。京都山端に育つと、自然とあらがう者の声に耳を傾けようとしたくなる。
「せやけど・・・、ここはアメリカやないか・・・!」
 そう思うと、自身の滑稽に秋子はひとり笑えた。
 大群の向日葵はいかにも咲き誇るかに見える。太陽は向日葵の咲き誇る花畑を越えて向かってきた。淡い桃色のトレイリング・アービュータスの花(赤毛のアン)、窓辺にはその朝顔の花がある。
 グローブ紙〈The Boston Globe〉によると、ニューイングランドはすでに夏休みなのだ。
 日本の蒸し暑い梅雨の中を抜け出してきたせいか、初夏のボストンは仄ゝと優しく爽やかな感じがした。ユナイテッド航空ORD経由でボストンに向かった。所要18時間である。ボストン・ローガン国際空港のバゲージクレームへと向かう階段を下りながら、秋子は迷いのないことを自身の胸に問いかけた。
 習慣のように繰り返される毎日が嫌であるから一度、母語の外に出て自身のことを見つめ直してみる機会にと選んだアメリカ留学であった。アムトラックを降りると、なるほど、サウス・ステーションは美しい駅であった。
 ボストンの夕陽の中で・・・・・、  After a hundred years Nobody knows the place,--
一編の詩を想い泛かべていた。   Agony that enacted there, Motionless as peace.
                     Weeds triumphant ranged, Strangers strolled and spelled
                     At the lone orthography  Of the elder dead.  
                     Winds of summer fields Recollect the way,--  
                     Instinct picking up the key  Dropped by memory.
 異邦人の留学生は「100年後には この場所を知る者は誰ひとりいない。ここで体験された大きな苦悩も もはや平和のように安らかだ。千草が庭でわがもの顔にはびこり 見知らぬ人々が散歩にきて。もう遠い遠い死者の面(おもて)の・・さびしい墓碑の綴字を判読する。 たゞ夏の野を通り過ぎる風だけが・・・この道を回想してくれるだけだ。記憶の落としていった鍵を・・本能が拾い上げてくれるかのように・・」と、これを訳した。
After a hundred years  Nobody knows the place,--  Agony that enacted there,  Motionless as peace.  Weeds triumphant ranged,  Strangers strolled and spelled  At the lone  orthography  Of the elder dead.  Winds of summer fields  Recollect the way,--  Instinct picking up the key  Dropped by memory.
 100年後に・・この場所を知る者は誰もいない  ここで体験した大きな苦悩も・・平和のように静かだ   百年あとには・・・・・・この場所を知る人は誰もいない 
 ここで演じられた大きな苦悩も・・・平和のように静かだ
 雑草がわがもの顔にはびこり 見知らぬ人々が散歩にきて
 もう遠い死者の・・・・・さびしい墓碑の綴字を判読する 
 夏の野を通り過ぎる風だけが・・・・・この道を回想する
 記憶の落としていった鍵を・・・本能が拾い上げて・・・
 星の数ほどあるHP(ホームページ)の中からこのアドレスにたどり着いて下さった偶然に感謝している。「1日に1つのありがとう」
 さる一葉の古い絵葉書が、今、乙女の手のひらにある。
 大正10年に日本の京都で投函された絵葉書が、どういう訳か平成元年の秋に、アメリカ中西部の宛先へと配達されていた。68年間、どうして迷子になったのか、なぜ半世紀以上も過ぎて届けられたのかは定かでない。さらに不可思議なことは、この絵葉書だけを同封したAir mailが、アメリカの配達先から平成7年に、再び京都の送り宛てへと投函されたこと、しかもそれが平成8年に、栞(しおり)のように挿(さ)されて一冊の古本の中から発見されたことである。
「From the hometown of Joe」・・・ジョーの故郷から。
 と、たゞ書き添えられている。送り主が匿名(とくめい)であるために、二条城が描かれてセピア色に日焼けしたこの謎に満ちた絵葉書を、阿部秋子は5年もの間、人知れずたゞじっと握りしめてきた。
此(こ)の数奇な運命にある一葉の絵はがきを手に、留学生になった秋子が宛先の地を訪ねてみることにしたのは2001年10月のことであった。
 予定では、30分後にスプリングフィールド駅へと向かうことになっていた。
「Aki(あき)-Sun(さん). ひどい雨ね」
 窓ガラスに叩きつけている遣らずの雨を秋子が恨みがましく眺めていると、はあっさりと笑いながらそう言うと、煎れたてのコーヒーに目を細くした。名の後につけてくれる太陽は、リーンの嬉しい常套句なのである。新しい日本語を見つけたと、本人はそう思ってはいないだろうが、日本人にはそう聞こえる。
 しばらく留守にするからと思い、スプリングフィールド駅へと向かう前に、大学内のポストセンターに立ち寄ると、郵便物の有無を確かめているわずかな間に、先ほどまでの穏やかな秋空が驚くほど早く消えて雨になっていた。
「今の天気が気に入らなければ、数分間待て、という諺がこの地方にはあるわ」
 などとよく会話に挿まれる、ニューイングランド地方は天気と温度の変わりやすい所である。
(今の天気が気に入らなければ、数分間待て)という諺もあるくらいで、真夏でも朝夕が冷え込むこともあるので、長袖のものを必要とすることがあるし、9月にはすでに紅葉がはじまるのだ。
 そんなアマースト南部の穏やかな紅葉の中を抜け出して来たせいか、シカゴの10月は強烈な太陽の中で身も焼かれるような感じがした。この地方特有のインディアンサマーである。
 常に具体的なプランを提案しないと納得しないのがアメリカ人である。交渉ごとの成果を求められるとき悠長に「がんばります」では通じない国だ。そんなことを秋子はこの留学三年間で痛いほど体験してきた。
「カリフォルニア・ゼファー号の右窓の座席が指定できますか?」
 デンバー・ユニオン駅の改札で、そう言って駅員にまず頬笑みを見せる。
「Oh you are lucky. There is only one vacant seat.」
 おお、じつに幸運だ。一個の空席しかありません。
「Ah how wonderful it is! It is power to be born from your smile. Thank you.」
 ああ、それは何と素晴らしいこと。きっとあなたの微笑がそうさせてくれたのね。 ありがとう。
「It is a saving grace of God.」
 それは神のご加護ですよ。
「Yes, of course.」
 と、秋子は改札員へ頬笑みを返した。
 そんな三分間のミュージカルもミセス・リーンから舞台稽古のように何度となく習った。
 このエクソフォ二―の旅は、母語の外に出た秋子が初めて乗車するアメリカ大陸横断鉄道での一人旅である。
「California Zephyr」・・・カリフォルニア・ゼファー号。
 改札で何号車に乗るのかを問われた秋子は、番車を告げて、その行き先を書いた紙をもらう。この紙は荷物棚の下、自分の頭の上に挟む場所があり、車掌さんが行き先を確認できるようになっている。
 デンバーのユニオン駅からそのアムトラックに秋子は乗車した。
 カリフォルニア・ゼファー号はロッキー山脈を越えて、宛先のユタ州ソルトレイクシティへと向かった。
 真っ青な空の下に、赤い塩の砂漠が広がっていた。
 延ゝとある、この永遠らしき果てしない連なりを肉眼に描写してみると、大自然の喜怒哀楽というものが天地の奥深いところから語りかけてきて、本能とつながるかのようである。
 この「Arches National Park」に阿部秋子は訪れた。
 人間の眼にそう感じさせ、心にそう思わせるアーチーズの荒外(こうがい)な塩岩の赤ゝたる峡谷は、じつに赤裸々として地の浸食のありようを具体にみせつけていた。秋子は「Arches National Park」にそんな印象を強く抱いた。
 夕陽の中でみつめていると、今にもうごめき出しかねない巨大な磐紆(ばんう)の赤岩が、途方もない時間の中に身をゆだねながら生きつゞけていることが分かるのだ。数千もあるという妖怪な赤い岩の輪は、その一つひとつが、夕実の眼の中でたしかな聲(こえ)をして動いていた。もはや公園では陋(せま)く、まほろばなのだ。異邦人の眼にはそうみえるのである。

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 デリケート・アーチをくゞり映る紫陽なラ・サール山脈の雪渓を眼に入れてたゝずむと、夕実は記憶の奥底から目醒めるように泛(う)き上がる回想を早めぐりさせては何度も何度もうなずき返した。
 かつてはアナサジと呼ばれる先住民族の祖先が住まいとしていたエリアなのだ。
「ああ、そうや、こゝや。ほんにこゝやわ」
 と、秋子は眼頭を熱くした。
 そんな秋子がこのダブル・アーチを訪れたいと思った動機は、映画「インディージョーンズ最後の聖戦」でスピルバークが切り撮るビギニングの一シーンの追憶に集約されていた。少年時代のインディーを描写してバックドロップされた或(あ)の巨大な赤いドーナツ型の奇岩トンネルに秋子が魅了されたのは、今から13年前の12歳、京都市立修学院第二小学校に通う6年生のときであった。
 そんなダブル・アーチの前に秋子はひとり陣取ると、ひたすらと横笛を吹いた。
 笛の音は、何度も何度もダブル・アーチをくぐり抜けては大空へと舞い昇る。秋子はこのとき赤い大地に重ねるようにして比叡山を泛かべていた。


    
    篠笛「比叡の名乗り笛」巖倉の曲


 ピーターパンに乗るとボストンからアマーストまで3時間ほどかゝる。秋子がそのボストンより真西へ約150㎞のところにある小さくて上品な田舎町にやって来て早3年が過ぎた。
 初秋は「Holyoke Range」の紅葉にくるりと囲まれて、タウン・オブ・5カレッジスとも呼ばれるこの大学の町は、アパラチア山脈の中程に緑のスープ皿をそっと置いたような盆地にある。
 美しい草花に囲まれたアマーストタウンと、木々からは小鳥たちの可愛らしいさえずりが聞こえる長閑なキャンパスとが、その盆地皿に並ゝとそゝがれた緑色のスープの豊かさのごとく、ニューイングランドの美しい往時の風景を偲ばせるゆるやかな起伏の丘に広がっている。
 秋子にはこうした秋の季節が最もこの町に似つかわしく感じさせるのだが、しかし冬は膝もとまで雪のある極寒の町へと一変する。この冬の雪景色もじつに美しいのだが、人口の8割を学生で占めるこの町の学業期には5万の人口があるものゝ、冬季にはその数を1万7千までに減らすのであるから、秋子には、この人影もまばらに震撼とさせる雪里の寮暮らしが恐ろしいほど退屈で、しかも異国人であることを噛みしめる日々の連なりに人恋しさを募らせることが苦痛でもあった。
 そんな秋子は「Boltwood Avenue, Amherst, MA 01002-5000 U.S.A.」のジョンソンチャペルの隣にある赤レンガの寮舎に留学生として暮らしている。
「あんたも、そろそろ外したらんと、あかんのやさかいになぁ・・・」
 9月の窓辺に吊るし残した風鈴が、深まる秋空に涼しい音色を淋しげに奏でていた。
 このビードロの琥珀の風鈴は、京都に暮らす養母和歌子からの拝受品である。そうであるから夏を過ぎ越してもついつい仕舞忘れてしまうのであるが、後1年で卒業という今秋も、昨秋と同じで京都に吊るされたころと少しも変わらずに、はんなりとさせる音色を広ゝとした寮舎の庭に響かせていた。
 昨夜「A word is dead When it is said. Some say. I say it just Begins to live.」という一編の詩を寝付かれぬままに想い泛べては、口籠らせてみたくなるほどの長い夜を味わっている。
 訳すれば「言葉は口にされたら死んでしまうと言う人がある。私は言おう。正にその日言葉は生き始めるのだと」とでもなろうか。南北戦争を経た、この女性の聲(こえ)が秋子の胸ぐらに痛く沁(し)みいるのであった。
 19世紀の前半にこの町に生まれたエミリー・ディッキンソンの、人の眼では仕訳られぬ詩である。
 アマーストコモンからMain St.を右に曲がった木々の中に彼女の生家がThe Dickinson Homesteadとして遺されている。昨日、この生家の前を通り過ぎよとして、秋子はふと足を止めさせられた。
 以前に三度見学に訪れているが、初めて訪れた折に見初(みそ)めた、彼女が16歳の若かりし写真の、その昧ゝ(まいまい)とした撮られようを、そのときふと思い起こしたのである。

           エミリー・ディッキンソン 動2 gif       エミリー・ディッキンソン 動 gif

 まだ若いのにひっつめ髪の地味な面(おもて)に影をさし、真っ黒なドレスを着ていて、質素でひかえめな生活を滲(にじ)ませた彼女らしさがよく窺えるその写真は、彼女の生涯唯一の一枚なのであるが、この死相を纏(まと)うかのような写真と先の詩とが折り重なり合って醸しだそうとする難解なメッセージに、秋子は酷(ひど)く心を揺さぶられた。閉じられようとして、閉じ込められまいとする雁(かり)の聲が目の前にある。
 ほとんど家の外には出ることがなかったという彼女の詩は、現在、1番から1775番までの番号をつけられて遺されている。そのエミリーの詩は、彼女の死から4年後の1890年に妹・ラビニアによって初めて詩集が出版された。正に、その日々の言葉が夕実の心の中で生き始めている。
 どことなく自分らしくない。どことなくそぐわないものがある。朝陽の窓ガラスの中に映る自分の顔をみて、その外れようが気になる秋子は、かすかに眉をよせて窓辺の椅子に背もたれていた。
 百年あとには・・・・・・この場所を知る人は誰もいない 
 ここで演じられた大きな苦悩も・・・平和のように静かだ
 雑草がわがもの顔にはびこり 見知らぬ人々が散歩にきて
 もう遠い死者の・・・・・さびしい墓碑の綴字を判読する 
 夏の野を通り過ぎる風だけが・・・・・この道を回想する
 記憶の落としていった鍵を・・・本能が拾い上げて・・・
「Motionless as peace.」という予言を、エミリーの未来を、ニューヨークの昨朝が詬恥(こうじ)したように感じられた。この詩の詡(ほこ)らかな聲も汚れさせられて、晩夏の季節の去りゆく暑さを惜しむエミリーの印象に、拾い上げてはもらえぬ記憶の鍵のことを、秋子は遠い眼をして探していた。しかしやはりエミリーが書き遺したように「目をさまして 正直な手を叱った 宝石は消えていた」ことになる。
「どうかしたの。ぼんやりとして・・・」
 と、そんな秋子に背後からふと声がかけられた。振り向かずとも、それが誰かは声と時間帯とであきらかである。しかるべき声はミセス・リーンそのものであるのだから、秋子はいさぎよく振り向かねばならなかった。彼女はいつも三日置きの朝8時には、決まって花瓶の花を挿し替えにきてくれるのである。
「Good morning.」
 秋子はいつも通り友情のしるしのようにそういって振り返ると、ミセス・リーンもいつもの彼女らしく頬笑みを泛(うか)べて立っていた。しかしいつもより秋子の語尾がゆっくりとのびた、その分、ミセス・リーンはそれを推し量ろうとして、じっと寝不足の瞳のむくむ秋子の顔をみつめた。
「Homesickness ? Yesterday's terrorism ?」・・・ホームシック?それとも、昨日のテロ事件のこと?。
 と、問われ、すっと笑いながら眼をそらされると、ミセス・リーンはあえて言葉にはしなかったが、少しも案じることはありませんよと語りかけるもが彼女の眼の底にはあった。
 そうして肩をポンとたゝかれてみると、それがいつ会っても心が通じ合っている確認のように思え、秋子の沈みこむほどの重みが、ふっと軽くなった。だから秋子はリーンに問いかけられて返そうとした、昨日の同時多発のテロ事件のことを、いいさしてあえて止めることにした。
「It thought whether there was delicious breakfast that some eyes seemed to wake up.」
 何か目の醒めそうな美味しい朝食はないものかと考えていたのよ。
 すると一瞬、むっと身を包んだその弾みからか裏腹に、思ってもいなかった言葉が口をついた。
 しかし、いってしまった後で、それをさして意外とも感じない自分に、秋子は改めて驚いた。いつからそんな醒めたものが胸の底にひそんでいたのか、これと思い当たる節目もなく無意味なことなのだが、とりあえず底意のない明るさをミセス・リーンへ返そうとしたことだけは確かなことであった。
 それは、決して、自分の中から振り払ってしまいたいような類の思いではない。却(かえ)って、そうであることが、自分で驚くほど爽やかなときめきにつながっている。このミセス・リーンという人とならと、あらゆる空想の中で、その場に臨んだとき、訪れてくると思える知的な華やぎをどこかで許してしまっているところがあった。
「If you hope for it, there is very dangerous dessert called a bomb of Oregon.」
 それだったら、オレゴンの爆弾という物騒なデザートがあるわよ。
 彼女にこう返されると、いつも秋子はテーブルに身をのり出して平らげてみたくなるのだが、この日もミセス・リーンは秋子が期待し予感したように、軽口のそれでいて機転を利かしたユーモアたっぷりの献立を秋子にすばやく直球で投げかけてきた。
「If it is such a wonderful bomb, I want to eat.」
 そんな素晴らしい爆弾ならば、食べたいわ。
 養母和歌子に似ているからか、そのリーンに薦められると何でも食べてみたくなるのだ。その素晴らしい爆弾も食べた。オレゴンの爆弾はエミリー・ディキンソンが食べたデザートであるという。しかしこれは一種のメルヘン。ほとんど引き篭もりの生涯を送ったエミリの部屋に、一匹の蒼いネズミが住みつき、彼女と心を通わせるという物語の中に登場するデザートであった。
 この物語はミセス・リーンの創作である。秋子はその創作を読んで、まっさきにデリダの「引用」概念を思い出した。どんな言葉も、聞き手の一人一人違うコンテクストの中に引き込まれて再生されるのだから、言葉はそのつど新しい意味を担って創造されるというのがデリダの「引用」である。そこにはエミリー・ディッキンソンの詩も効果的に引用された。秋子はリーンの創作に「引用」されているディキンソンの詩をいくつも知っていたが、エミリーと蒼いネズミの交歓の物語の中に置かれたそれぞれの詩は、秋子の知らなかった新しい輝きを帯びていた。ディキンソンの詩はとても短い。だから、四季折々の心の中で変化されて引用されるたびに、言葉のデザートは新たな相貌を見せてくれた。
 オレゴンの爆弾は、淋しいクリスマス迎えるエミリーを楽しく過ごさせて上げたいと考えた蒼いネズミがプレゼントする爆弾デザートである。そしてミセス・リーンは「悲しいときに食べるデザート」という。食べると不思議に悲しさが爆発して消えた。
 秋子はそのデザートのお返しとして、いつも篠笛を吹いた。その笛の音は「比叡の名乗り」という旋律で、京都比叡山へと分け入るときに儀礼として告げる阿部家伝承の笛の音であった。

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                             第⑱話に続く
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   京都 白川の流れ。

 京都・白川の流れを琵琶湖疏水から鴨川までをたどる。白川は比叡山の麓から流れ出し一旦京都市動物園の辺りで琵琶湖疏水へと流れこむ。この動画は平安神宮の大鳥居の近くにある取水口から再び流れ出した白川が、祇園の花街の中を流れ下って鴨川と合流するところまでを撮影。



  
   京都 白川十石船巡り 。


  
   北白川天神宮と紅葉。

 北白川は大文字山(大文字の送り火で有名な如意ヶ岳)と比叡山との間の山裾に位置する。比叡山麓から花崗岩を侵食して流れる清流「白川」(祇園を流れる「白川」の上流)の扇状地として拡がったこの地は、縄文時代にすでに集落が形成され、平安時代には南西に京都盆地を望む台地として洪水に悩む大宮人の理想郷として栄えた。また「白川石」や「白川砂」の産地として、また束ねた花を頭に戴いて宮中へ献上することで有名な「白川女」の里である。さらにこの「北白川」の地の氏神は北白川天神宮であり、足利義政より文明年間、現在の場所に造られた。また、後小松天皇(在位1392~1413年)から黒鉾を賜り、祇園の長刀鉾等と共に白河鉾として祇園会に参加したとも伝えられる。御祭神:本社 少彦名命(すくなひこなのみこと)



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  つきの暦  2012年12月

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小説『五円風土記』 第一部「花そとば」 第⑯話

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     第一部
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     第一章 八瀬童子(やせどうじ)   


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      十  午の骨 (うまのほね)   



 以前から探しあぐねていた敷地がある。
 八方手を尽くした。だが輪郭ほどの消息しか掴めていない。十三参りの帰路、後ろを振り返るようなことはしていないと思う。嵯峨野の法輪寺で授かった智恵を使い尽くすほど働かせたかと問えばそれほどの自信もないのだが、返さなければならないというほどの罰あたりもない。
 富造にはその未探索が心遺しで、半ばその決着を諦める高齢の息切れが何とももどかしくある。
 未だ埋め得ないでいる京都市井図の赤い丸囲いの部分が泛かんでいた。
 惟喬親王(これたかしんのう)が出家される以前に住んでいたのは、大炊御門(おおいみかど)大路の南、烏丸(からすま)小路の西詰まりであったはずだ。そう伝えられてはいる。

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 親王の没後、その広い邸宅は、藤原実頼(さねより)から実頼の孫で養子の藤原実資(さねすけ)へ、そして、実資の娘の千古へと伝領されていく。もとは親王の御所であって「小野の宮」と呼ばれた。しかし、どのような経緯で藤原氏の物になったのかは明らかでない。富造にはそこが、どうにも不可思議なのだ。いくら阿部家の伝承を遡って漁(あさ)るも確たる先の見通しがない。隔世にいつしか欠落したようである。
「ああ・・・、あれは・・・むかしおとこ・・・」
 法起寺(ほうきじ)の三重塔の上に薄暗い雲がのっぺりとある。
 流れようとはしないその雲と、真下にある甍(いらか)との空間が少し揺れるような気がした。どうやら空気だけは動いているのであろう。しかし富造がよくみると、燻銀の甍かが、じんわりと炎立てるように見える。すると雲と甍のそこに挟まれたかのように在原業平(ありわらのなりひら)の姿が泛かんできた。何とも雅なその馬上の男こそ、伊勢物語の「馬頭なりける人の」姿であった。
「忘れては夢かとぞ思う思ひきや 雪ふみわけて君をみんとは」
 と、甍の上の浮雲で、その男が歌を詠んでいる。
 その歌は、親王と縁深い在原業平が、冬の一日訪ねた時のものである。親王は「夢かとも何か思はむ浮世をば そむかざりけむ程ぞくやしき」と返歌された。
 在原業平とは伊勢物語で「むかしおとこ」として語られる主人公である。その在原業平が心からお仕えしていた方こそが惟喬親王であった。

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 在原業平は「薬子の変」を起こした平城天皇の第一皇子・阿保(あぼ)親王の第五子として天長2年(825年)に生まれた。惟喬親王よりは19歳年上であったが、業平の義父(紀有常)と惟喬親王の母(紀静子)が ともに紀名虎(きのなとら)の子供で 兄妹の関係にあったことなどから、藤原氏の圧倒的な勢力のもと、同じく不遇を託っていた業平は、紀有常らとともに 惟喬親王に仕えた。業平はその無聊のサロンで和歌に親しむことにより、親王の無聊さを慰めでもするかのように仕えた。
 主人は28才の時、剃髪して出家し「小野の里」に幽居する。伊勢物語に描かれる時の人々は、そんな親王を「水無瀬の宮」「小野の宮」などと称した。
 その親王は御在世中、小椋庄に金竜寺、雲ケ畑字中畑に高雲寺(惟喬般若)、大森字東河内に安楽寺、長福寺を建立されて、東河内で寛平9年(897年)54歳で薨去される。御陵墓は左京区大原上野町と北区大森東町にある。
「伊勢物語は、それ以後の古典作品に大きな影響を与えた歌物語でもあるね・・・」
 どうにも聞かされる話が感慨深い虎彦は、目尻を指先でつつきながらそう言った。
 源氏物語もその例外ではない。源氏物語には伊勢物語からの引き歌が多くある。内容にも伊勢物語を意識して書かれたと思われる箇所が散見される。
 そう虎彦が口を挿むと、扇太郎はポンと膝を鳴らした。
「大鏡の内容にも、・・・ありますよねッ」
 と、そういう扇太郎が持ち出したのは、裏書きの話だ。
 大鏡の裏書には、文徳天皇が惟喬親王を皇太子にと希望されながらも 周囲の反対をはばかられ、また、右大臣藤原良房に気を遣われて、その娘・明子(あきらけいこ・染殿后)所生の惟仁(これひと)親王(後の清和天皇)を皇太子に立てられたことが伝えられている。
「平家物語だって・・・、しかりだ」と、虎彦はさらにし返した。
 江談抄や平家物語には、立太子を巡って、惟喬親王の母方である紀氏が惟喬親王を立てて真済僧正を、また、藤原氏が惟仁親王を擁して真雅僧正を、それぞれ祈祷僧に起用し、死力が尽くされた・・・という話まで伝えられている。虎彦はそこらを丁寧に解説した。
 こうした伝承が後世に度々発生するほどに、生母「紀名虎(きのなとら)の娘静子」の出自の低さにもかかわらず、惟喬親王への信望が高かったことが覗えるのである。

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「五郎・・・、みくにのまち、をそこに据えてくれないか」
 そう言って、富造は三重塔の角下を指さした。
 そして五郎は指された裏鬼門の角へとすばやく動いた。その角が東大寺に対する裏鬼門であることを、すでに五郎も心得ていた。まずその封印を解き外す必要があった。
 そうせねば新たな封じ手が効かない。そこまでは五郎にも解る。しかし、角にこれをどう据えてよいのかが見当もつかない。木彫りの椀を手に握る五郎は、角隅に立つもたゞ足踏みをした。
「ところで雨田さん・・・、今夜お会いになるM・モンテネグロ氏、日本刀のことですよね!・・・」
 と、流れを絶って挿んだ扇太郎の言葉が、虎彦には突飛だった。
「そろそろ・・・、その御霊太刀のことに触れますが・・・」
 さも神妙な顔をして扇太郎は虎彦を見た。そして香織の顔色もみた。
「ごれいたち・・・?」
「そうです・・・、御霊太刀です。お探しの・・・!」
 ハッと虎彦はしたが、微妙な間合いの意外な外されように、妙にぼんやりともさせられた。

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「椀の底を逆さに、地に伏せるようにして角に据えてくれ。そうして動かぬよう両手で押さえといてくれ!」
 何かに覆い被せるかのようにして五郎は木彫りの椀を角に据えた。
 するとその椀の正面に富造は晴明桔梗の護符を貼った。
 紋様には呪文が記されている。それは、急急如律令の呪文を文字で書きつけた呪符である。その急急如律令とは元来、中国漢代の公文書の末尾に書かれた決り文句で「急いで律令(法律)の如く行え」の意であるが、それを転じて「早々に退散せよ」の意で悪鬼を払う呪文とされた。
 それによってすでに五郎も気づかぬ内に、東大寺の裏鬼門封じは解除されている。
 次に富造は太上神仙鎮宅霊符を加えた。この霊符を司る神を鎮宅霊符神というが、それは玄武を人格神化した北斗北辰信仰の客体である。京都行願寺(革堂)から出されたこの霊符を祭ることで、すでに南北の運気が開かれたことになる。そうして次に「式神(しきがみ)」を呼び出すために、富造は禹歩(うほ)を始めた。
「ヤギハヤノ トツカノツルギ コレホムスビトナリ・・・ヤギハヤノ トツカノツルギ コレホムスビトナリ・・・ヤギハヤノ トツカノツルギ コレホムスビトナリ・・・ヤギハヤノ トツカノツルギ コレホムスビトナリ・・・夜芸速(やぎはや)の 十拳剣(とつかのつるぎ)此れ火産霊(ほむすび)と成り」
 神威の発揮を強く求めるために、富造は禹歩に合わせて呪文を唱えた。しばらくは法起寺の境内をその富造の呪文が地を祓うごとく舞い立っていた。椀を押さえ続ける五郎を巻くように舞い廻っていた。
 足で大地を踏みしめて、呪文を唱えながら、富造は千鳥足様に前進する。その禹歩とは、歩く呪法を指す。阿部家伝承の基本は、北斗七星の柄杓方を象ってジグザグに歩くものであった。魔を祓い地を鎮め福を招くことを狙いとする。この起源は、葛洪『抱朴子』に、薬草を取りに山へ踏み入る際に踏むべき歩みとして記されている。奇門遁甲における方術部門(法奇門)では、その術を成功させるためにこれを行った。

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「五郎・・・。さて・・・その椀を表返しに直してくれ。もう手を放してもよい。手を放したら静かに声を立てずに寺の外で待て。出たら門のところで般若心経を唱えてくれ。俺が後を終えて門を出るまで・・・」
 そう言って五郎の姿が消えるのを待った富造は、また新たな呪文を唱えはじめた。
「イワクスノ フネニナレシモ イカズチノタマフリ・・・イワクスノ フネニナレシモ イカズチノタマフリ・・・イワクスノ フネニナレシモ イカズチノタマフリ・・・イワクスノ フネニナレシモ イカズチノタマフリ・・・石楠(いわくす)の 船に鳴れしも 雷(いかずち)の布都(たまふり)」
 長い呪文であった。唱えながら富造は神威の顕れを静かに待っていた。これを反閇(へんぱい)という。この秘伝だけは人知れず密かに行わねばならない。富造の額は汗を滲ませていた。
 反閇(へんぱい)とは、道中の除災を目的として出立時に門出を祓う呪法である。また自分自身のために行うこともあるが、その多くは天皇や摂関家への奉仕として行われた。
 その反閇では、まず最初に玉女を呼び出して目的を申し述べる。呼び出すときにはやはり禹歩を踏む。最後は6歩を歩いて、そのまま振り返らずに出発する。家伝の掟(おきて)である、その詰めの6歩を踏み終えた富造は、もう何事もなかったかのよに静かに門前へと向かった。
 門前で心経を唱え続けていた五郎は、その富造が門を出て、立ち止まることもなく法起寺へと向かう後ろ姿が消え去るのを待ってピタリと般若心経を止めた。
 陰陽道には「魂清浄」という呪文がある。
 魂清浄を唱えることで御魂の輝きの増やし、魂の正しい位置への鎮まりや、心と精神面の安定を整える。五郎はその呪文を唱えながら富造の後を追った。
「一魂清浄・二魂清浄・三魂清浄・四魂清浄・五魂清浄・六魂清浄・七魂清浄・八魂清浄・九魂清浄・十魂清浄」
 五郎はそう唱えながら、腹の底より息を長く吐いた。
 陰陽道に触れると、不意に霊体に憑依されてしまうことがある。気の流れを変えた。
 奈良も同じなのだが、平安時代は、平安という言葉とは裏腹に、闇と迷信が支配した恐ろしい時代だった。現在の価値観では到底計り知ることの出来ぬ感覚が根づいていた。
 遺体の処理にしても現代とは、だいぶ異なるものであった。人が死ぬとそのまま川に流したり、一か所に集められて放置されるのである。もし、疫病が流行ろうものなら、人がバタバタと死に、たちまち、どこもかしこも死体だらけとなる。それが一つには陰陽道がこの世生まれ出た背景であった。

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 何千何万という死体が方々に山積みにされ、野犬が人間の手足の一部をくわえて、街中を走り回るという身の毛もよだつ光景が展開されるのである。
 鴨川は、遺体を水葬にする場所と変わり、清水寺は遺体の集積所に成り果てた。雨が降って水かさが増すと、半分腐りかけて死蝋化した死体が、プカプカと民家の床下にまで漂って来るのである。
 そして、災害や疫病の大流行などは、恨みを残して死んだ人間の怨霊や悪霊の祟りであり、わけの分からぬ奇怪な自然現象は、物の怪など妖怪変化の起こす仕業であると信じられるようになっていった。こうして、人々は、闇におびえ、ないはずのものに恐怖するようになった。貴賎の区別なく、人々はさまざまな魔よけの儀式を生活に取り入れるようになる。大きな屋敷では、悪霊や物の怪が入り込み、人に取り憑くことがないように、随身(ずいじん、護衛の者)が定期的に弓の弦をはじいて大声を上げるという呪いなどが夜通し繰り返されていた。そういう時代を阿部一族をはじめ八瀬の童子は継ぎ継ぎにくぐり抜けてきた。

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「ああ・・・、秘太刀みくにのまち・・・が空を翔けた・・・!」
 再び法輪寺の境内に立った富造は、そう五郎に呟くと、静かに閉じた眼にその秘太刀を泛かばせた。
 惟喬親王の母方(紀氏)の末裔である星野市正紀茂光が、紀名虎(祖父)の秘蔵していた御剣を、親王が御寵愛されていたことを知り、これを親王の御霊代として奉祀したと伝えられている。
「その御霊太刀の銘を・・・、みくにのまち、という」
 富造はそう聞かされていた。
 惟喬親王には兼覧(かねみ)王と呼ばれた息子があった。神祇伯、宮内卿などを歴任し古今集にも歌を残している。その兼覧王の娘は兼覧(かねみ)王女とも呼ばれて、これもまた和歌をよくし、後撰集に一首が残っている。富造は、この王女あたりから、藤原実頼へと親王の邸が伝領されたのではないかと思っている。だがこれは推測の域を出るものではない。しかし阿部家の家伝によって確かなことは、惟喬親王には「みくにのまち」と呼ばれた娘があったことだ。星野市正紀茂光は御剣を親王の御霊代として祀るに当たり、その秘宝の娘の名を御霊太刀の銘として偲ばせた。それが富造が眼に泛かばせる「秘太刀みくにのまち」であった。
「このとき・・・、富造さんは、馬の骨を拾った、とそう確信したはずです」
 という、扇太郎のその眼は、夢でも叶ったかのようにキラりと輝いている。しかしそう見える虎彦は、未だ狐にでも耳を抓まれて動けぬ悟りの悪い坊主のようだ。
「拾ったことになるのか・・・?」
 ただ空を切るような始末に、眼がくるりとぼんやりとする。
「ええ、拾ったことになりますね。言霊(ことだま)の世界では・・・!」
と、念を押されても、巨漢に伍(ご)して抜くにはおのれの刀が鈍(なまく)らななのか、虎彦は竹光でも握らせられたような心もちであった。しかし、香織は、うんうんと、やはり眼を輝かせて何度も頷いている。いずれも得体の知れぬ連中にだと思われた。どうやら人が伍して掛れる世間話ではなさそうだ。
「しかし、そんなことよりも、惟喬親王についての最大の謎は、なぜ惟喬親王が木地屋(きじや)師の業祖とされるに至ったのかということですよね。八瀬の集落は、そのことを固く語ろうといません。理論立てについては障りとして始末されている。そこを・・・・・・・」
 扇太郎は一つ長い溜息をついた。そうしておもむろに香織の顔をみて微笑んだ。おそらく香織に木地屋師の匂いを感じ取れるのであろう。虎彦も同じ匂い嗅いでいる。それが生地屋師の匂いかどうか分からないが、京都の山端の人々にはたしかに森の匂いを放つ人が多い。あるいはそれは、森深いところの土の匂いではないかと以前から感じていた。
 木地屋は「ろくろ」を用いて木材を削り、鉢や盆などの木製品を作る人たちであり、中世には、山中に原材を求めて、山から山へと渡り歩いた漂泊の山人たちであった。
 彼らは、惟喬親王が藤原氏から差し向けられた刺客を逃れて、滋賀県神崎郡永源寺町の山奥の小椋谷(おぐらたに)に隠れ、ここで里人たちに「ろくろ」の技術を教え、これより木地屋は始まったとしている。もとよりこれは史実ではなかろう。
 しかし今、小椋谷の金龍寺は親王の御所「高松御所」であったとして、親王の木像なるものを伝え、全国の木地屋たちの総名簿である「氏子狩(うじこがり)帳」を蔵し、筒井八幡宮は「筒井公文所(くもんところ)」と称して「木地屋木札」「通行手形」を発行する。
 そして小椋谷よりも更に山奥の君ガ畑にある「皇太器地祖神社」は惟喬親王を祀る。各地の木地屋たちは、しばしば親王の随身従者の末裔と称し、「木地屋文書」と云われる木地屋の由緒書や、親王が与えたとする諸役御免の綸旨を所有し、墓には皇室の紋である菊水紋を用いるのだ。
 これらは、非定住民であるために下賤視された彼らが、定住民たちの軽蔑の目への反発として作り出したものであると共に、原木伐採の自由と、山中通行の自由を得るためのものであることは論ずるまでもない。民俗学的には虎彦はそう考えてきた。
「しかし・・・、なぜここで惟喬親王の名が使われたのか・・・」
 と、考えると、そこは一定の領域を超えた、学識では割れぬ異界の摂理でもあるようだ。
 中世、小野巫女と呼ばれた「歩き巫女」たちがいて、「小野神」という神に対する信仰を全国に流布したことに起因するという見解が、あるといえばある。
 これはすなわち、惟喬親王が隠棲した山城愛宕郡の小野とは、比叡山を隔てて東側、近江国滋賀郡にも小野という所がある。いずれも小野氏と称される人たちの住んだ所である。
 この琵琶湖湖畔の小野に住む小野氏の人たちは、自分たちの祖先である「タガネツキオオミ」(鏨着大使主、または米餅搗大使主)を「小野神」として信仰した。この神は「タガネ」という文字から鍛冶の神と考えられている。その小野氏の女たちが小野巫女として、近江の製鉄地域などに小野神信仰を広めていった。小野小町や小野猿丸の伝説を全国に広めたのも彼女らであるという。そうした鍛冶師も木地師もいずれも山の民である。またその分布地域も重なっている。その木地師たちが、その信仰を受け入れた時、「小野神」と「小野宮」とは習合して、そして、小野宮惟喬親王が木地師たちの業祖とされるに至ったと見立てられている。
「しかし・・・、それにしても何か漠々とした話ではあるがね・・・」
 日本史には虚と実が、じつは混在している。
 古文書の存在のついては、歴史過程を査証する手本となるかも知れないが「不都合な過去を消す為」と言う政治的効用も在り、「必ずしも事実とは受け取れないもの」と心得るべきである。古典もそれと同様な側面がある。そう改め思う虎彦もまた深い溜息の一つもつきたくなる。
「しかし・・・、秋子さんご存じすよね。彼女・・・こそ小野巫女です。そうだよね香織ちゃん」
 そう促されて耳にした香織は、妙にぼんやりとしていた。
 だが、しだいに、うっとりして虎彦に向き直ると、丸い瞳をほんのりと潤ませている。その潤む瞳の湖(うみ)では、秋子の吹く篠笛の音がさざ波のように揺らいでいた。

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                             第⑰話に続く
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   京都 大原。


  
   大原 三千院。


  
   大原 寂光院の紅葉。



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小説『五円風土記』 第一部「花そとば」 第⑮話

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     第一部
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     第一章 八瀬童子(やせどうじ)   


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      十  午の骨 (うまのほね)   



 不動の姿勢で虚空蔵菩薩を、たゞじっと見据えていた。 
 法輪寺を訪ねた阿部富造の目的は、虚空蔵求聞持法を修めることにあった。
 だが・・・これは、そうそうに会得できるものではない。
 修法は、一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱えるというものだ。空海が室戸岬の洞窟「御厨人窟」に籠もって虚空蔵求聞持法を修したという伝説がある。空海のように、これを修した行者は、あらゆる経典を記憶し、理解して忘れる事がなくなるという。 この現世利益を京都八瀬に持ち帰るため法輪寺へときた。
 日蓮もまた12歳の時、仏道を志すにあたって虚空蔵菩薩に21日間の祈願を行っている。
 虚空蔵菩薩 (こくうぞうぼさつ)の像容は、右手に宝剣左手に如意宝珠を持つものと、右手は掌を見せて下げる与願印(よがんいん)の印相とし左手に如意宝珠を持つものとがある。後者の像容が求聞持法の本尊となる。
 明星をもって虚空藏の化身とし、ゆえに虚空藏求聞持法を修するには明星に祈祷する。
 富造はその明星を待たねばならなかった。
 またさらに、眼を巽の方角へ向いて祈祷する場所を富造は探さねばならなかった。
 心得として行者用心というものがある。
 行者は「修行中は他の請待を受けず。酒、鹽(しお)の入りたるものを食はず。惣じて悪い香りのするものは食はず。信心堅固にして、沐浴し、持斎生活し、妄語、疑惑、睡眠を少なくし、厳重には女人の調へたものを食はず。海草等も食はず。寝るに帯を解かず。茸等食ふべからず。但し昆布だけは差し支えなしと云う。要するに婬と、無益な言語と、酒と疑心と睡眠と不浄食、韮大蒜(にらにんにく)等臭きものを厳禁せねばならぬ。浄衣は黄色を可とす。どんな場所が良いのかは、経中に、(空閑寂静の処、或は山頂樹下・・・・・其の像、西或は北へ向かう・・・)とある。見晴らしが良く東。南(西も開けていれば最上)は開けている。修行者は東方又は南方へ向かう」とある。これは明星を虚空蔵菩薩の化身とし拝むためであった。
「このとき・・・、空海には、口中に明星が飛び込む神秘体験が起こったのだ・・・」
 法輪寺の虚空蔵菩薩は飛鳥の古い仏像である。みつめると、しだいにその虚空に空海の姿が泛かぶように映る。富造は虚空の上の空海を現世へと引き出すために、五芒星と九字が描かれた安倍吉祥紋を虚空蔵菩薩の左手に押さえつけた。

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 その富造の眼は鋭く輝いている。眼には、阿部晴明がある時、カラスに糞をかけられた蔵人少将を見て、カラスの正体が式神であることを見破り、少将の呪いを解いてやった。また、藤原道長が可愛がっていた犬が、ある時主人の外出を止めようとし、驚いた道長が晴明に占わせると、晴明は式神の呪いがかけられそうになっていたのを犬が察知したのだと告げ、式神を使って呪いをかけた陰陽師を見つけ出して捕らえた。十訓抄の記述から引きだしたその二つの故事を泛かばせていた。
 このとき富造には、陰陽道によって占筮(せんぜい)せねばならぬことが一つあったからだ。
「11月1日・・・。知花 昌一(ちばな しょういち)・・・」
 虚空蔵の文殊は、この男の行為をどうみなすのかを、阿部富造はしずかに考えた。
 11月1日とは、「大化改新」のはじまる2年前の643年、蘇我入鹿(そがのいるか)が、聖徳太子の息子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)を自害させる事件がおきた日である。
 子代(こしろ)を今に継ぐ阿部一族は、代々この日を忌日として畏れてきた。
 昨年の11月1日、その6日前の10月26日に掲揚されていた沖縄国民体育大会会場の日ノ丸を富造は浮かばせている。国体は「きらめく太陽 ひろがる友情」をスローガンに開催された。
 読谷村のソフトボール会場に掲げられた日の丸が引き下ろされて焼き捨てられる。知花昌一は、天皇の戦後初の沖縄訪問により強まる日の丸・君が代の強制に対する抵抗だと主張した。
 学生時代に自治会委員長として復帰闘争に参加した。沖縄戦の集団自決の調査などの平和運動を行っていた。1948年5月の戦後生まれの男である。建造物侵入、器物損壊、威力業務妨害被告事件の扱いとなる。
 国内は地価狂騰のころ、この事件発生に、富造は忌日の前兆としての嫌な危うさを感じた。
 何よりも9月23日には、皆既日食が起きていたからだ。
「太陽が覆われる日食・・・その後に・・・日ノ丸の焼き打ち・・・」
 連続して重なると、富造にとって、それらはじつに暗い兆候であった。

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 聖徳太子が亡くなって約20年後、蘇我入鹿は古人大兄皇子(ふるひとのおうえのおうじ)を独断で次期天皇にしようと企て、その対抗馬とされる山背大兄王を武力で排除しようと、巨勢徳太(こせのとくだ)らに命じて斑鳩宮(いかるがのみや)を急襲した。大兄王と側近たちはよくこれを防ぎ戦い、その間に、大兄王は馬の骨を寝殿に投げ入れ、妃や子弟を連れて生駒山へと逃れた。
 宮殿を焼きはらった巨勢徳太は、その灰の中から骨を見つけて大兄王らは焼け死んだと思ったのだ。囲みを解いてあっさりと引きあげた。大兄王たち一行は生駒の山中に逃れるのだが、十分な食糧を持ち合わせていなかったため、部下のひとりが「いったん東国に逃れて、もう一度軍をととのえて戻ってくれば、必ず勝つことができます」と進言した。すると大兄王は「一つの身の故によりて百姓を傷(やぶ)り残(そこな)はむことを欲りせじ。是を以って、吾が一つの身をば入鹿に賜う」(自分は人民を労役に使うまいと心に決めている。己が身を捨てて国が固まるのなら、わが身を入鹿にくれてやろう)と答え、生駒山を出て、斑鳩寺に入った。大兄王たちが生きているという知らせを受けた入鹿は、再び軍を差し向けたところ、大兄王は、妃や子どもたち20人以上と共に自決して果てていた。
 この事件からおよそ80年後に編纂された『日本書紀』には、悲惨な上宮(かみつみや)王家である聖徳太子の家系の滅亡に同情して、「おりから大空に五色の幡(はた)や絹笠が現れ、さまざまな舞楽と共に空に照り輝き寺の上に垂れかかった」と、昇天の模様を記している。
 入鹿の父である大臣(おおおみ)の蘇我蝦夷(そがのえみし)は、山背大兄王の死を知ると、「ああ、入鹿の大馬鹿者め、お前の命も危ないものだ」と、ののしる。そして、2年後にそれが現実となった。中大兄皇子 (のちの天智天皇)や中臣鎌足らが、入鹿を殺害するクーデター(大化の改新のきっかけとなった事件) により、古墳時代から飛鳥時代を通して巨大勢力を誇っていた蘇我一族が滅亡することになった。
 馬の骨とは、素性の解らない者をあざけっていう言葉である。どこの馬の骨か解らない、などと使われるが、八瀬童子もその馬の骨であった。
「さて・・・、絹笠を掛けるか・・・」
 そう言うと富造は、脇にいる竹原五郎をチラリと見た。
 あらかじめ住職には許しを乞うている。
 おもむろに五郎は、笈の中から白絹の一枚取り出した。
 そして富造はその白絹で、さも虚空蔵菩薩を包み隠すかのように包んだ。
「一時間ほど・・・、この状態を保たねばならない」
 その言葉が合図なのか、二人は法起寺へと向かった。

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 法起寺(ほうきじ)は、法輪寺と同じ聖徳宗の寺院。斑鳩町岡本にある。その岡にあるため、古くは岡本寺、池後寺(いけじりでら)と呼ばれた。
 山号は「岡本山」。ただしこれは、奈良時代以前創建の寺院にはもともと山号はなく、後世付したものである。この寺院は聖徳太子建立七大寺の一つに数えられるが、寺の完成は太子が没して数十年後のことであった。富造にとってはこの寺院の位置が重要であった。
「北緯34度37分22.75秒 東経135度44分16.40秒」
 長年の親しみもあり、富造は「ほっきじ」と読む。この法起寺の位置から北に直線を引くと、京都市北部の桟敷ヶ岳とが結ばれ真南北に向かい合う関係になる。三重塔をみつめる二人はしばらく境内に佇んでいた。
 火中の栗を拾うという例えがある。猫が猿におだてられ、炉で焼けている栗を四苦八苦して拾わされる話だ。これは、お人好しを戒める寓話ともなっている。だがこれは、身を捨てて難儀を背負った話ともなろう。

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「さて、火中の、馬の骨を拾うぞ・・・!」
 見る側の五郎は、興ざめを通りこして呆れた。
 しかし、倒れた古老の大樹の切り株からも、新しい芽が吹くことを富造は知っている。創建当時の建築で現存するものは三重塔のみである。
 その三重塔の建立時期、および寺の建立経緯については、『聖徳太子伝私記』(仁治3年・1242年の顕真著)という中世の記録に引用されて「法起寺三重塔露盤銘」の史料をよりどころとする。それによれば、聖徳太子は推古天皇30年(622年)の臨終に際し、山背大兄王に遺言して、岡本宮を寺院に改められることを命じている。そして富造は広く境内と連なる景観を見渡した。佇む法起寺は、法隆寺東院の北東方の山裾にある。 
 さらに、京都の北山に桟敷ヶ岳(さじきがだけ)という山がある。
 この山は伝説のある山で、王位継承の争いに敗れた惟喬親王(これたかしんのう)がこの山に桟敷を作って京の街を眺めた。山名の由来はそこにある。ここ桟敷ヶ岳は北山の奥地だけあって、今の季節、山頂付近の樹木はやっと芽吹き始めたばかりであろう。惟喬親王が京都北山に隠棲の時、桟敷ヶ岳山頂より京の都を眺め、懐かしみ、小亭いわゆる桟敷を建てさせた。建てたのが阿部家の祖先らであった。

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「惟喬親王は聡明なお方であったようだ・・・」
 父の愛情もことのほか深く、皇太子になる筈のところ、当時、権勢高い藤原良房の娘で藤原明子が、第4皇子惟仁親王を誕生させると、天皇は良房をはばかられて、生後9ケ月の惟仁(これひと)親王を皇太子とされました。「この方がのちの第56代清和天皇となられた・・・」
 さて、惟喬親王は858年(天安2年)、清和天皇の即位に先立って太宰権帥に任命され、その後は太宰帥・弾正尹・常陸太守・上野太守などを歴任され、872年(貞観14年)、病のために出家なさり、比叡山麓の小野の地に隠棲された。
 それ以後、惟喬親王は時勢を観察され、山崎・水無瀬(みなせ)に閑居し、河州交野で紀有常(紀名虎の二男)在原業平(紀有常の娘を妻とする)らと観桜されている。さらに京都雲林院の傍らにしばらく新居を構えて(当社の近辺)住まわれた。さらにその後、江州・小椋庄へ移られ、轆轤(ろくろ)を開発して、緒山の木地屋に使用を教えられた。その間、阿部富造の先祖らが従事し、以後阿部家では、惟喬親王を轆轤の始祖として崇拝をし続けてきた。
 都に戻られてからの親王は、洛北の大原、雲ケ畑、二ノ瀬、小野郷・大森にと隠栖され、貞観14年7月11日(872)疾に寝て、仏に帰依し素覚浄念と号された。
 そのように聞かされてきた祖先の声が『伊勢物語』の中につづられている。
「・・・むかし、惟喬の親王と申す親王おはしましけり。山崎のあなたに、水無瀬といふ所に宮ありけり。年ごとの桜の花ざかりには、その宮へなむおはしましける。その時、右の馬頭なりける人を、常に率ておはしましけり。時世経て久しくなりにければ、その人の名忘れにけり。狩はねむごろにもせで酒をのみ飲みつつ、やまと歌にかかれりけり。いま狩する交野の渚の家、その院の桜ことにおもしろし。その木のもとにおりゐて、枝を折りてかざしにさして、上中下みな歌よみけり。馬頭なりける人のよめる・・・」
 阿部富造は、その「馬頭なりける人の」という祖先の人の影をそっと泛かべた。


                             第⑯話に続く
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   比叡山 延暦寺。


  
   延暦寺 大晦日 鬼追式。


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   京都 花そとば



  つきの暦  2012年12月

  つきの暦 2012 12



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小説『五円風土記』 第一部「花そとば」 第⑭話

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     第一部
          はなそとば 小 生  ひとひら桜回転

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     第一章 八瀬童子(やせどうじ)   


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      十  午の骨 (うまのほね)   



 法隆寺駅は小さく軒下を控えた駅逓(えきてい)である。
 息づかいが絶えたように人影は少なく、さらに法隆寺までを歩く人影の無さはじつに淋しい。しかしそれは人が生臭みを忍し殺すように背を低くして暮らそうとする揺らぎでもある。おそらくそれは太子への畏(おそ)れ。それゆえに斑鳩(いかるが)の里が広大な大地となって輝きを深くする。
「京都の失ったものが、ここにはある・・・」
 そう思うと、曇天の空に胡蝶が白く変化して舞い踊るようなエンドウの花はどことなく愛嬌がある。その花の白さは人とふれあう極意でも気前よく披露してくれているように感じさせる。
 戦闘に不向きな土地は遮りがない。阿部富造はその春泥の道を歩いた。

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「手術をなさったのが、たしか昨年の9月22日・・・、陛下は御歳86・・・」
 病名は「慢性膵臓炎」だと聞かされている。そう聞かされたときから富造は、近づこうとする昭和の終焉を、少なからず胸の内で温めていた。無事に越冬されて87歳となられる春の門出を寿(ことほ)ぎたい。だが天命とは人の不可視、八瀬の集落では密やかな心積もりが必要であった。
 陛下が歴代天皇で初めての開腹手術をされたのは1987年(昭和62年)9月22日。その前夜、子代(こしろ)の富造は八瀬童子50名ほどを家に集結させて万一に備えさせた。
 その年の天皇誕生日の祝宴を陛下は体調不良から中座された。以後、体調不良が顕著となり、特に9月下旬以降、病状は急速に悪化した。9月19日には吐血されるに至る。前代未聞の開腹手術はそうした経過の悪さに決断された。非常の事態、そのため八瀬の集落では、誕生日の祝宴を中座された以降、村人の華やかな振る舞いを自粛することを申し合わせた。度々比叡山に上がっては総出で陛下の平癒祈願を行っていた。
「せやッた・・・。うち、まだ三つやったけど、お山ァ上がったんよう覚えとる」
 香織は、五郎に背負われて何度か比叡山に上がった暗い夜道を思い出した。
 そして年末に向かうころ富造は、12月には公務に復帰され、回復されたかに見えたが、陛下の体重が急速に減少していることを宮内庁より密かに聞かされていた。

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「お健やかそうに手を振られてはいたが・・・」
 年を越して1988年1月2日、その日は曇天に時折しぐれる例年にない肌寒い日であった。穏やかに感じさせた一般参賀の光景を、遠巻きに確かめた富造は、京都に帰る暇もなく、その足で急ぎ奈良へと向かった。
 前年の9月19日に陛下が大量吐血されて後、マスコミ各社が24時間報道体制を敷いていた。そのためにテレビや新聞では、連日、陛下の血圧、脈拍、体温などを詳細に発表する。特にテレビでは「本日、下血がありました」という、いわゆる思わぬ報道がまるで天気予報のごとく流されていた。
「ああ、これでは、過剰報道ではないか」
 と、富造も批判の声の一つも上げたいのだが、各局がこれを改めることはなかった。
 そうした天皇報道が繰り返されるなか、国内には数々の自粛が起こる。商店街の派手な飾り付けは姿を消し、お祭りのようなイベントも次々に中止された。テレビの番組内容も自粛ムードが漂っている。富造には気勢を上げて自粛しようとする妙な意識のうねりが苦々しかった。
「ああ、たしかに、そうだったね・・・」
 虎彦は詰まるような声を扇太郎に向けた。富造という男の内情は、2歳しか違わない虎彦にはよく汲み取れる。
当時、虎彦も富造のように訝しく思えた。
 テレビ番組での有名なエピソードだが、従来から流れていた井上陽水出演の日産自動車セフィーロのCMが、自粛ムードの高まる最中に改変されて話題になった。
 オリジナルでは車に颯爽と乗っている陽水が「皆さん、お元気ですか!」とにこやかに言うのだが、自粛改変バージョンでは、口パクだけで無音になるという処置がとられた。それでは広告情報として体をなさない。さらに無音の口パクは「皆さん」が「宮さん」に聞こえ、不謹慎との意見を逆に国民から引き出した。
「阿部のお家は、八瀬童子なんや!」
 と、香織はポツンと消えそうな小声を足した。
 八瀬童子(やせどうじ)とは、山城国愛宕郡八瀬郷(現在の京都府京都市左京区八瀬)に住み、比叡山延暦寺の雑役や駕輿丁(輿を担ぐ役)を務めた村落共同体の人々を指す。室町時代以降は、天皇の臨時の駕輿丁も務めた。伝説では最澄(伝教大師)が使役した鬼の子孫とも伝える。
 寺役に従事する者は結髪せず、長い髪を垂らしたいわゆる大童であり、履物も草履をはいた子供のような姿であったため八瀬の童子と呼ばれた。
 比叡山諸寺の雑役に従事したほか天台座主の輿を担ぐ役割もあった。また、参詣者から謝礼を取り担いで登山することもあった。比叡山の末寺であった青蓮院を本所として八瀬の駕輿丁や杣伐夫らが結成した八瀬里座の最初の記録は寛治6年(1092年)、それが記録上確認できる最古の座とされている。
 延元元年(1336年)には、京を脱出した後醍醐天皇が比叡山に逃れる際、八瀬郷13戸の戸主が輿を担ぎ、弓矢を取って奉護した。この功績により地租課役の永代免除の綸旨を受け、特に選ばれた八瀬童子が輿丁として朝廷に出仕し天皇や上皇の行幸、葬送の際に輿を担ぐことを主な仕事とした。
「明治天皇が初めて江戸に行幸した際に、八瀬童子約100名が参列してますね」
 明治元年10月13日のことだが、扇太郎は時々そんな言葉をていねいに挿みながら語った。
 あるいは八瀬童子は、比叡山の寺領に入会権を持ち洛中での薪炭、木工品の販売に特権を認められた。永禄12年(1569年)、織田信長は八瀬郷の特権を保護する安堵状を与え、慶長8年(1603年)、江戸幕府の成立に際しても後陽成天皇が八瀬郷の特権は旧来どおりとする綸旨(りんじ)を下している。
 綸旨とは、蔵人が天皇の意を受けて発給する命令文書のことだ。 綸旨とは本来は「綸言の旨」の略であり、天皇の意そのものを指していたが、平安時代中期以後は天皇の口宣を元にして蔵人が作成・発給した公文書の要素を持った奉書を指すようになった。

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 富造は法輪寺への道を辿りながら、大正天皇崩御の報に接し、ただちに葱華輦(そうかれん)を担ぐ練習を始めた八瀬童子らの姿を想い浮かべていた。富造10歳が眼に遺している映像である。
「大正天皇の大喪儀は、霊柩を乗せた牛車を中心として組まれた葬列であったが・・・」
 その眼には、葬列はたいまつやかがり火等が照らす中を進行した残像がある。
 明治天皇の母親である英照皇太后の葬儀の時は、八瀬童子74名が東上、青山御所から青山坂の停留所、汽車に乗り京都駅から大宮御所まで葬送に参加した。さらに明治天皇の葬送にあたり、喪宮から葬礼場まで棺を陸海軍いずれの儀仗兵によって担がせるかをめぐって紛糾したが、その調停案として八瀬童子を葱華輦(天皇の棺を載せた輿)の輿丁とする慣習を復活させた。
 明治天皇の際には東京と京都、大正天皇の際には東京、なお、昭憲皇太后(1914年)の場合は東京と京都で葬儀に参加した。明治維新後には地租免除の特権は失われていたが、毎年地租相当額の恩賜金を支給することで旧例にならった。この恩賜金支給の例は大正天皇の葬送にあたっても踏襲された。
 阿部富造の50メートルほど後方を、とぼとぼとやってくる小柄な男の影がある。
 山法師のごとく笈(おいづる)を背負い、付かず離れずに一定の距離を保ちながら富造についてくる。御所谷の竹原五郎である。背負うその笈の中身は、後醍醐天皇綸旨、後柏原天皇綸旨など、公武の課役免除に関わる文書、明治天皇・昭憲皇太后の大喪、大正天皇の大礼および大喪に関わる記録類であった。
 富造はにわかに責任のある立場に登用されたわけではない。そういう家系に生を得た。子代を継ぐ重責ときちんと向き合うことで、村落の童子らに伝えるべきものを内面に育んでいく立場なのだ。
 予期せぬ「穴」に落ちたときにどうするのか、常に備えねばならなかった。
 京都の南にある伏見稲荷大社の神は、弥生人と共存した縄文の神である。秦氏と称する渡来人が入って来て平地を稲作農業の田畑としたとき、土着の縄文人は山に逃れてその誇りを保ったのだ。そしてそういう縄文人と里の弥生人との妥協の上に稲荷の神が生まれた。
 しかし叡山に逃れた縄文人は再び山を追われる運命を経験した。叡山が最澄という渡来系の天皇の寵僧の仏教の根拠地になった以上、彼らは山を追われなければならなかった。そしてその一部は東へ滋賀県の坂本へ、一部は西へ京都市の八瀬の里へと逃れた。
 八瀬の人たちは、比叡山の山の薪を採り、その薪を宮中へ入れ、また都で行商を行うとともに、叡山や皇室の輿舁きや警護の役をして辛うじて生計を立てていた。そこには八瀬の人たちを山から追い出した叡山と朝廷のせめてもの慈悲があった。
「なるほど・・・、これが鬼の子孫か」
 扇太郎が語るにつれて虎彦には過ぎるものがある。ふつふつと柳田國男の41歳の論文に「鬼の子孫」の下りがあったことを思い出していた。その柳田國男の民俗学は山人の研究から始まっている。
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 斑鳩を歩きながら富造は山並みを飛ぶ一羽の白鳥を眼に映していた。
 古事記の中巻に、倭健命(やまとたけるのみこと)の望郷歌で「倭(やまと)は国のまほろば・・・」とある。この健命の人生こそ悲劇そのもので、この歌は彼の辞世である。
「この歌は大御葬歌だ。天皇の葬儀に歌われる」
 富造はおもむろに東へと向き直り、足を止めて亀山の能褒野(のぼの)の地を泛かばせた。
 久しく足が遠のいていたが、古事記の舞台をはるばる訪ね、あるいは対峙するようにたたなづく青垣を望郷する人の肖像を描き出そうとすると、今はひからびてみえる奈良の盆地が、いかにも瑞々しく見えてくるではないか。ここのところが古事記という作品の中巻を成す富造の要なのだ。源泉は阿部家に息づいている。子代にしか見えぬ風景がある。
 それは現代人に、あたかも直(じか)に創世の絵巻を見せつけているかのようで、まことに迫力に満ち、息継ぎさえ許してくれないほど、不易なる時の筆捌(さば)きが感じられ、異国にて白鳥となって果てるしか手立てのなかった人の哀しみが鮮やかによみがえるのである。八瀬童子はそれと同じく小さな哀しみに生きている。
 これが一つには古事記のもつ底力であり、ひからびた奈良の魅力なのであろう。富造がそうしたことを確かめるための法輪寺とは、法隆寺の夢殿、中宮寺の前から北へ約十分ほどのところにある。
 しかし、斑鳩(いかるが)の里の小道を歩き、法輪寺、法起寺をたずねる人影は、今はあまりないようだ。やはり法隆寺にて見疲れをして、その多くが奥を見過ごし戻るのであろう。
 春の斑鳩は、まず虚空蔵(こくうぞう)をみて、春の芽ぶく法輪寺あたりから、きた春泥の道をみかえれば法隆寺の塔がひときわ輝いてみえるのである。この哀しみには誰もが、この次はきっと、法隆寺を素通りして法輪寺を志した方が、どれほどのびやかであろうかと思うはずだ。
 そうした哀しみは、北に座して朱雀(すじゃく)を守護する天使の哀しさである。

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 虚空蔵は淡々として掴みどころのない表情で立っていた。
 虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)という修法は、頭脳を明快にし、記憶力を増大させる法力をもっているという。大和法輪寺の虚空蔵は、大変すなおな六等身の立ち姿である。だから、他の飛鳥像よりその法力もさらに自由自在なのであろう。
 飛鳥(あすか)の匂いは面ざしに濃いが、相変わらず斑鳩のそれは、まったく素朴な木像であった。このうつし世に立ち、その何気なく上むけてさし出した右のてのひらに、今まで有ることも知らないでいた、虚空とやらが確かにのせられていた。富造はのせられている虚空を確かに見た。
 そんな仏の法力に茫然として、ながめて苦しくなるような御光にくるまれていると、小石をぶつけられたように苦々しくさえ思う怠情さの中で、仏の仕事とは、人の心に石を投げつける仕事なのだ、と、それがわかる。するとその石を抱きながら、正しいことをくりかえし言う、この世にある人の言葉を、噛みきざみながら、石を投げた仏の前に衿を正して座ることになる。
 奈良とはそうした富造を蘇らせてくれる国なのだ。先祖代々そう教わってきた。
 538年(日本書紀によると552年。元興寺縁起などでは538年)、百済の聖明王の使いで訪れた使者が欽明天皇に金銅の釈迦如来像や経典、仏具などを献上したことが仏教伝来の始まりとされている。
 その後、公伝によると、推古天皇の時代に「仏教興隆(こうりゅう)の詔(みことのり)」が出され、各地で寺院建設も始まるようになる。命ある者がこの世で受ける恩の中でも最も大切な親の恩に対して、感謝をし冥福を祈るために仏像を身近に置きたいと考えた。これが日本における仏教信仰の始動であり、その仏教は、まず飛鳥から広まり斑鳩へと継がれた。
 そう語り詰めた扇太郎は、少し間を置くとかるく唇をなめた。
 すると虎彦は、その一瞬、鋭く眼を光らせた。
「そうか・・・、馬の骨か!」
 虎彦はおのれの記憶と向き合うかの声を甲高くあげた。

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「えッ、どうして・・・それが・・・」
 扇太郎にはその声が、横紙破りのように響いた。
 法隆寺を総本山とする斑鳩の里の、法起寺、法輪寺、門跡寺院の中宮寺などの末寺は、聖徳太子を宗祖とする聖徳宗であるが、この宗派創建の基(もとい)には係わる一冊の本があった。日本国内で現存する最古のその本は、
かの聖徳太子の自筆だと伝えられる『法華義疏』(ほっけぎしょ)である。

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 伝承によればこの本は、推古天皇23年(615年)に作られたもので、日本最古の書物だとされている。日本書紀によると推古天皇14年(606年)聖徳太子が勝鬘経・法華経を講じたという記事があることもあり、法華義疏は聖徳太子の著したものと信じられてきた。そうであるならば、この本は、現存する最古のモノであると同時に、残存する日本最古の写本形でもある。
 つまり中国の書が600年ないし607年の隋との交流から日本にもたらされ、これらを聖徳太子が写し著作したことが推察される。また、このようにして太子が写し執った法華義疏とは『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)の一部でもある。
「富造さんは・・・、それらの書と、八瀬に伝承される諸紙を、重ね合わせるために、法起寺あるいは法輪寺を尋ねたたのではないのかい。どうもそんな気がする・・・」
 塗炭に扇太郎を圧倒させた虎彦の喋りは、数多くの臨終に立ち会ってきた医師が説く最期の匙でも投げる宣告ような鋭い響きを伴って扇太郎の耳を叩いた。
 虎彦のそういう三経義疏とは、「法華義疏」(ほっけぎしょ)、「勝鬘経義疏」(しょうまんぎょうぎしょ)、「維摩経義疏」(ゆいまぎょうぎしょ)、この大乗仏教経典三部作の総称であるが、この、それぞれ法華経、勝鬘経、維摩経の三経を写し、注釈書(義疏・注疏)として書き表したモノの一部が法華義疏なのである。現在では法華義疏のみ聖徳太子真筆の草稿とされるものが残存しているが、勝鬘経義疏、維摩経義疏に関しては後の時代の写本のみ伝えられている。
 虎彦はそろそろ確信を得たようだ。こうなると、虎彦は逆説的に語りはじめた。
 厩戸皇子(うまやどのおうじ)である聖徳太子は、このように仏教を厚く信仰した。
 聖徳太子自筆とされている法華義疏の写本(紙本墨書、四巻)は、記録によれば天平勝宝4年(753年)までに僧行信(ぎょうしん)が発見して法隆寺にもたらしたもので、長らく同寺に伝来したが、明治11年(1878年)、皇室に献上され御物となって秘蔵の品されている。
 元来、「本」という漢字は、「物事の基本にあたる」という意味から転じて書物を指すようになった。古くは文(ふみ)、別に書籍、典籍、図書などの語もある。
 そんな虎彦の解き明かしに、逆に扇太郎が身を乗り出してきた。
 英語のbook、ドイツ語のBuchは、古代ゲルマン民族のブナの木を指す言葉から出ており、フランス語のlivre、スペイン語のlibroはもともとラテン語の木の内皮(liber)という言葉から来ている。日本で作られた本、いわゆる和書の歴史は、洋書の歴史とは異なり、いきなり紙の本から始まっている。
 日本書紀によれば610年に朝鮮の僧曇徴が中国の製紙術を日本に伝えたと言われ、現在残っている最古の本は7世紀初めの聖徳太子の自筆といわれる法華義疏であるとされている。また、奈良時代の本の遺品は数千点にのぼり、1000年以上昔の紙の本がこれほど多数残されているのは世界に例が無い。また、日本では製紙法の改良により、楮、三椏などですいた優れた紙の本が生まれている事も特筆すべき点である。

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「さて・・・、そろそろ、山背大兄王(やましろのおおえのおう)だね!」
 と、そう言うと、虎彦はさらに眼をグィと光らせた。
 推古天皇の時代(7世紀前半)、聖徳太子と蘇我馬子の娘・刀自古郎女とのあいだに生まれる。誕生の地は岡本宮(のちの法起寺)で、三井の井戸の水で産湯をつかったと伝えられる。異母妹の舂米女王(上宮大娘姫王)と結婚して7人の子をもうけ、聖徳太子没後は斑鳩宮(法隆寺夢殿の辺り)に居住した。
 太子および推古天皇薨去後、皇位継承をめぐる政争に巻き込まれ、蘇我氏より迫害をうけたのち、皇極2年(643年)に、蘇我入鹿らの軍によって生駒山に追い込まれた。しかし大兄王は、聖徳太子の遺訓「諸悪莫作、諸善奉行(すべての悪いことをするな、善いことをなせ)」を守り、蘇我の軍に戦を挑んで万民に苦を強いることをいさぎよしとせず、斑鳩寺で一族とともに自害した。
 富造の訪れた法輪寺は、推古30年(622年)に聖徳太子の病気平癒を祈って山背大兄王とその子由義(弓削)王が建立を発願したとするほか、聖徳太子が建立を発願し山背大兄王が完成させたという伝承も伝えられている。
「この気魄!、これでは・・・、私が攻め陥落(おと)されるようだ!・・・」
 虎彦の導こうとする結論に、息をつめてその先を聞き急ぐかに居る自分であることにハッとした扇太郎は、それでも古文書の「ぬめり感」を手堅く攻立てる虎彦のそんな口調が、どうにも時代超ぶる風神のようで、逆に圧倒されそうであった。

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                             第⑮話に続く
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   京都、八瀬の奇祭「八瀬赦免地踊」左京区八瀬秋元町で10月。
 「八瀬赦免地踊」は着物姿で女装した地元の男子中学生が高さ約70センチの灯籠をかぶり、八瀬小から八瀬天満宮の秋元神社まで約五百メートルを30分かけて練り歩くこの祭りは別名「灯籠踊」­とも呼ばれ、京都市登録無形民俗文化財指定。秋元神社では踊り子の踊りも奉納されるなど、辺りを幻想的な雰囲気に包む。


  
   八瀬比叡山 ケーブルカーへの道。


  
   比叡山延暦寺(西塔・横川)。



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  つきの暦  2012年12月

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小説『五円風土記』 第一部「花そとば」 幕の内 ゆく年

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     第一部
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     第一章 八瀬童子(やせどうじ)   


                            第⑭話、ただいま執筆中!。


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   つきの暦

   つき齢 12  本日 12月26日の月齢12.8(中潮)


   2012年12月 

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   嵯峨嵐山 ジオラマ京都


  
   龍安寺と嵐山


  
   東福寺の通天橋

  
  
   伏見稲荷のお山


 本年のカウントダウン・・・6日。2012年は・・・想定内、あるいは想定外?。
 クリスマスを過ぎると、毎年、迫る年の瀬を実感!。果たして本年とは何か。その何かの中で人間は揺らぎながら生きている。初詣・・・人はその可視化の未来に挑戦する。果たして本年は・・・?。


  
   初詣 平安神宮から南禅寺



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小説『五円風土記』 第一部「花そとば」 幕の内

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     第一部
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     第一章 八瀬童子(やせどうじ)   


                            第⑭話、ただいま執筆中!。


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   つき齢 13  本日 12月25日の月齢11.8(若潮)


   2012年12月 

 つきの暦 2012 12



  きょうの細道

  
   秋色京都

  2012辰年を振り返る。
  心の都へスペシャル 千年の都 美の旅人「御寺泉涌寺 鳴き龍」
  
   泉涌寺


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小説『五円風土記』 第一部「花そとば」 第⑬話

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     第一章 八瀬童子(やせどうじ)   


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      九  陰陽師 (おんみょうじ)   



 二人の会話に交わらなくぼんやりと中庭をながめていたように思われる香織は、どうやら耳だけは二人の口調に澄ましていた。何かと器用な娘ではある。
「秋子はん・・・結婚してはらん。そんなん聞いたことないわ」
 と、プィと頬を膨らませた口ばしを差し入れた。
「香織ちゃん・・・、これはねッ。以前に、そんな話があった、ということだよ。つまり昔話だ・・・」
 扇太郎は、せっかちな香織を軽くなだめた。
「その秋子とは・・・、たしかあの芹生の里で一度会った、あの和歌子さんの甥子・・・!」
 虎彦は、そんな話を香織から以前に聞いたことがある。 そうふと思い起こすと、虎彦の眼に、黒牛の鼻先に竹籠をかぶせて、手綱を引きつつ通り過ぎた少年の姿が泛かんだ。そうなると、これは香織がそうであるように、虎彦にとってもじつに興味深い気を流行らせる矛先であった。
「少し訊くが・・・、それでは芹生の和歌子さんと、阿部富造の間柄は・・・?」
 香織に目配りをしつつ、虎彦も一つ口数を挿んだ。
「和歌子さんをご存じでしたか。富造さんの妹ですよ。20ほど歳の差がある聞いていますが、一番スソの兄妹ですね。じつは・・・、秋子さんの養母でもありますがね・・・」
 ようやく虎彦にとっても身近な話題になってきた。
「香織ちゃん、丁度よかった。ここから先は、秋子さんの話になる。そして御所谷の五郎さの話にもなる。さらには、香織ちゃん自身にも関わってくるよ。大切な話さ・・・」
 塗炭に香織は黒い瞳を丸くした。
 そんな香織の表情に、扇太郎は微笑むようにして話を先に進めた。
「ここから先は、昭和という時代が終わるころの話になります。したがって13、4年前のこと・・です。東京の件から、しだいに奈良に触れることになります。雨田さん・・・」
 そう言われて、虎彦の眼はさらに輝きを増した。この話は、どこかでМ・モンテネグロと辻褄を合せる一件となるのだ。その目的で、こうして扇太郎と会っている。虎彦はこれまで心の隅に置いていた、終わらない終戦が明日にでも終わることを期待していた。
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 乗って来た黒いセルシオが遠ざかるのを、老人はさも嬉しそうに見届けた。
 その眼差しの裡(うち)には、ふりみふらずみの間の車窓にかげろうた外苑の残像があり、皇居の森の大きな木の下は、こんもりとした茂みの陰を掘面にうつして、いっそう暗く、小雨にけむるうす暗い空には、古閑貞次郎という傷痍(しょうい)者がかって見遺(のこ)した十月の宮城(きゅうじょう)が泛んでいた。
 降りたって、その上を踏むことを許されていないことが、唯一、老人にはこころの救いであり散り惜しむかのようで嬉しいことであった。
 国会議事堂前の都営バス停から、捧げ銃(つつ)で見送られるなど知る由(よし)もない日曜日の観光リムジンである。おそらく新橋方面にでも消え去るであろうセルシオの後姿を老人は陸軍式に確認すると、くるりと霞ヶ関の高層から背を返して、もう振り返ることもなく並木道の左右に広がる議事堂前の洋式庭園へと歩きはじめた。
 東京の秋はいつも埃(ほこり)っぽく霞んでいる。
 阿部富造は、部屋のドアを閉めながら帽子をかぶり、黒い蝶ネクタイのふくらみを革手袋をはめた手でちょっと直した。午後二時、この頃まではまだ雨は降っていなかった。
 そうして空を見上げると、虎彦は、小一時間前のことを思った。
 道玄坂上交番前から首都高速三号の高架下に向かう南平台までは緩(ゆる)やかな坂になっている。その坂道を下る途中で、虎彦は何台かのタクシーを見送ったあとで、来かかったリムジンを手をあげて止めた。
「おたく日の丸ですね。予約していた阿部だが・・・」
「えっ、・・・おたく様が・・・」
 運転手は、さも長い信号待ちの時間に乗客探しなどするような、つき刺した視線で長々と老人の風体を眺めた。長い沈黙があった後に、運転手はようやく降りてきて後部左ドアを開いた。
「たしか三日前のご予約では、この先の東急電鉄渋谷ビル前だと・・・」
「ああ、たしかに昨日まではね。だが・・・・」
 このとき虎彦は、その先の経緯(いきさつ)を説明することが少し億劫(おっくう)であった。
 昨夜遅く、急に宿泊先を変更することにした。少々のトラブルでそうなってしまったが、今、その内容まで運転手に語る気にはなれなかった。

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「とにかく、予定通り、お願いしたコースで頼むよ・・・」
 たゞ、その言葉だけを返した。
 車は玉川通りから東急南口の交差点を過ぎ、渋谷警察署前で左折すると、青山通りをたゞひたすらに直進した。
「まもなく三宅坂ですが、桜田門、半蔵門、どちらからなさいますか?」
「時計回りとは逆に回ってはくれないか」
 遠目からもあざやかに輝く黒いセルシオは、内堀通りを桜田門へと走った。
「申し訳ないが、見終えるまで語りかけないで欲しい。少し考え事をしたいのだ。無愛想で悪いが、それとスピードだが、ゆっくりと。できたら時速十キロ程度がいい。何なら時々止めてくれてもいい。その他はあなたの判断にすべて任せるよ・・・」
 あらかじめポイントの詳細は予約する際に伝え終えていた。二時間ほどの、ガイド無し案内で頼んである。静かに帽子をとって脇に置いたこのとき、老人は自身の髪の上に、肩に、背に、梢をはなれて土に着くまでの清浄で白いサクラの花びらをとまらせたいと願っていた。軍人であった老人にとって、桜とはやはり自身の棺に納めねばならぬ永遠の花なのである。
 そう扇太郎の語る富造という男の話を聞いていると、虎彦は、富造という男の体臭もまた、香織、御所谷の五郎らが感じさせる体臭に何かしら似て、どことなく共通させるものを感じた。
「1988年4月24日」
 阿部富造はこの日の出来事をしっかりと眼に焼きつけていた。
 昭和天皇、生涯最後の誕生日記者会見がおこなわれた日である。
 記者会見というのは「4月29日の朝刊」に掲載するために、実際には誕生日の前におこなわれることに毎年そうなっていた。その年は「4月24日」であった。
 阿部富造は、その記者会見の言葉を一字一句欠かす事なく暗記している。阿部一族は、毎年そうやってきた。それは理屈ではない阿部家に生まれた富造の生理なのだ。富造はその文言を浮かべた。

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 林鳥亭(四月二十五日)
 爽やかな陽春の気候である。気温も20度くらいであろうか。林鳥亭南側の庭に向かって中央に陛下の御席が設けられ、それに向かい合ってやや細長い和室の中に廊下まではみだして二列に15社30人の椅子席が用意されていた。奥の床の間の棚には、明治21年に島津忠義が献上した薩摩焼子など五点の調度品が飾られ、床には清風作の玳白磁花瓶が置かれ、堂本印象画千代田城の画幅が掛けられていた。
 亭の南面に広がる芝生は澄みきった空からの光を浴びて輝いている。芝生の西側にハクショウの成木が一本立っている。その傍らの桐が花を開いている。陛下は昨日の日曜日の午前のご散策で、桜林のクサノオウの花の群落をご覧になった後、竹林でウラシマソウをご覧になり、竹林の脇の門から吹上の外へお出になられて、林鳥亭までいらっしゃってハクショウをご覧になられたらしい。
 午後3時7分前に吹上御所御車寄せをお車でお発ちになって、三時二分前に林鳥亭にお着きになる。お席につかれるとすぐ、3時ちょうどに質問がはじめられた。
 幹事記者・・・・・昨年の手術から半年余りたちましたが、最近のご体調はいかがでしょうか。ご健康についてどのようなことを心がけていらっしゃいますか。ご回復に伴いご公務が増えていますが、ご感想などお聞かせ下さい。
 陛下・・・・・・・体調は良く回復したし、四月に入ってからもほとんど毎日宮殿や生研に出かけていますが一向疲れる様子もなく、大分余裕があると思いますが、侍医の意見を尊重して、無理のないように努めています。
 笠原記者・・・・・産経新聞の笠原と申しますが、陛下はもちろん昨年の手術は初めてのご経験であったのですけれども、手術が決定した時陛下はどうお思いでしたか。
 陛下・・・・・・・えー、医者を信用して、何ともそういうことは感じませんでした。
 朝比奈記者・・・・毎日新聞の朝比奈でございますが、陛下、最近の皇后さまのご体調はいかがでございますか。
 陛下・・・・・・・皇后は腰の痛みは安定したようでありますが、まだ膝の故障があるので、歩くのに不自由でありますから、女官の介添えが必要なのであります。その他のことについては落ち着いたようであります。
 幹事記者・・・・・御生研での研究が再開されましたが、ヒドロゾアの研究や『皇居の植物』の執筆などについてご苦心された点などをお聞かせ下さい。
 陛下・・・・・・・えー、普通の学者は研究に専念することができますが、私の立場では、公務の余暇にしなければならないので、研究がどうしても断続的になりますから、成果をまとめるためには長い年月が必要であります。その長い間には分類の進歩や材料の進歩のために、今までの研究を見直す必要があります。材料の、材料や情報の入手には困難な時もあります。出版については、陛下の出版については、えー、準備中でありますから、ここでは話はできません。なお、私は語学力が少ないために十分の研究ができないのであります。
 植物の場合には、林道等の開発のために植物が消失することもありますが、多くの場合はその位置にあるので観察は便利であります。たとえば、佐藤人事院総裁が城山付近で発見したアズマシライトソウが林道の開発のために消失する危険が非常に大きかったので、人事院総裁は私に寄贈してくれましたので、皇居にその植物を植えたのでありますが、幸いに皇居の庭の様子が現地の林相と非常に良く似ていましたので、生長が非常に良くあります。私が人事院総裁と一緒に散歩した時に人事院総裁が悲しみと共に喜びを私に語ってくれました。
 動物の方は、どうしても動くことが多いので観察はなかなか困難であります。健康のために磯採集や海底の観察ができないこともあります。えー、えー、できないこともあります。
 とつとつと、時々考えこまれるように途切れながらお話をされる。
 幹事記者・・・・・先日、五十年以上にわたって陛下にお仕えした徳川さんが退任され、退任の記者会見で終戦直前の御前会議や録音盤事件の思い出を印象深い思い出として語られましたが、陛下の徳川さんをめぐる思い出をお聞かせ下さい。
 陛下・・・・・・・えー、えー、この徳川侍従長に対しては思い出が深いのでありますが、特に終戦の時に、録音盤をよく守ってくれたこと、戦後全国を巡遊した時に岐阜の付近で歓迎の人波にもまれて、肋骨を折ったことがあります。
 徳川侍従長はよく裏方の勤務に精励してくれたことを私は感謝しています。また、ヨーロッパやアメリカの親善訪問の準備のために、語学力を利用してその準備を良くしてくれたので親善訪問がだいたい成功したように思われます。
 幹事記者・・・・・今年は陛下が即位式をされてから六十年目に当たります。この間、いちばん大きな出来事は先の大戦だったと思います。陛下は大戦について、これまでにも、お考えを示されていますが、今、改めて大戦についてお考えをお聞かせください。
 陛下・・・・・・・えー、前のことですが、なおつけ加えておきたいことは、侍従長の年齢のためにこのたび辞めることになりまして私は非常に残念に思っています。
 今の質問に対しては、何と言っても、大戦のことが一番厭な思い出であります。戦後国民が相協力して平和のために努めてくれたことをうれしく思っています。どうか今後共そのことを国民が良く忘れずに平和を守ってくれることを期待しています。
 朝比奈記者・・・・陛下、先の大戦のことでございますが、昭和の初めから自分の国が戦争に突き進んでしまったわけですが、その時々に陛下は大変にそのことにお心を痛められたと聞いておりますが、今戦後四十数年を経て、日本が戦争に進んでしまった最大の原因は何だったというふうにお考えでいらっしゃいますでしょうか。
 陛下・・・・・・・えー、そのことは、えー、思想の、人物の批判とかそういうものが、えー、加わりますから、今ここで述べることは避けたいと思っています。
 幹事記者・・・・・・陛下は昨年、沖縄県民に、健康が回復したらあらためて訪問したいとのお言葉を示されました。現在大変お元気そうにお見受けしますが、沖縄訪問について、今のお気持ちをお聞かせ下さい。
 陛下・・・・・・・・えー、私が病気のために、沖縄の旅行を中止したことを今も残念に思っていますが、えー、健康が回復したらばなるべく早い時に旅行したい考えを述べましたが、今日(こんにち)もその精神につきましては何(なん)にも変わっていません。
 幹事記者・・・・・・沖縄で一番になさりたいことは何でしょうか。
 陛下・・・・・・・・そういうことは、えー、今後の県の希望もありますから、そういうこと、将来のことについては述べることは躊躇したいと思います。
 記者会からの質問はあらかじめ調整して届けられており、卜部侍従が打ち合わせに上がっておよそのお答えの内容はできていたのだが、幹事の記者の質問に対して漏らされることもなく、少し余分につけ加えられたりして、無難にお答えになる。幹事以外の記者からの突然の質問にも当意即妙にお答えになっておられる。ほぼ予定どおり、3時16分に終了した。3時18分に林鳥亭をお発ちになられた。
 この日は、地主山の辺りでコジュケイの大きな啼き声が聞こえていたという。御所の東玄関の前には白い花が泛かんでいる。二株のシロヤマブキが枝いっぱいに満開の白花を咲かせていた。
 そして、天皇陛下は29日、一般参賀のあと、宮殿・豊明殿で午後0時50分から開かれた宴会の儀で、気分が悪くなられ、途中退席された。体調に異常は認められなかったが、午後4時からの駐日各国大使らとの茶会は大事をとって欠席され、皇太子殿下が代わって祝賀をお受けになった。
 天皇陛下が公式の席で途中退席されたのは、これが初めてで、宮内庁の発表によると、陛下は食事中に少し食べ物を戻されたため、予定より15分早い午後1時15分、歩いて退席された。この発表を聞いたとき、阿部富造は有り得てはならない昭和の最後を予感し、近くその日が来ることを悟ったのである。
 そうした予感から富造は、陛下存命の内に、昭和の時間を巻き戻すために京都から宮城まで出向いてきた。もっとも未だご存命であらせるから平癒平安が第一義ではあるが、この務めは長兄倫一郎の名代を果すことで、子代(こしろ)としての家長が責務を担い継ぐ大義を秘めていた。
 子代とは、后妃の皇子・王子の資養にあてられた部民である。
 大化前代、大和朝廷に服属した地方首長の領有民の一部を割いて、朝廷の経済的基盤として設定した部(べ)の一族は、孫子代々、天皇・后妃・皇子などの王名や宮号を担い、その生活の資養にあたってきた。富造もそうした子代の家に生まれた宿命をもつ。
「これで・・・よかったのでしょうか・・・」
 誕生日記者会見での文言を、文殊の五字呪のように唱えた阿部富造は、至極当然のごとく皇居外堀の空気と融け合うかの影となっている。その富造はおもむろに上を仰いで長兄倫一郎の面影を泛かべた。
 やはりその眼には、倫太郎に連れられて上野山から展望した東京がじつに広大であった14歳当時の思い出があった。そして兄の戒めがあった。
「よ~く見ておけよ富造、これが今の帝府だよ。宮城(きゅうじょう)があれだ」
「維新では、士族から職も誇りも奪ってしまったではないか。この国の計画は、そうした無念の礎(いしずえ)の下にあるが、軍人が国力ではなく、つねに国民が国力である。お前がやがて軍刀を握るとはそういうことだ。その軍人は生あれど死が常だ。もし死のときは・・・・」
「そのときは・・・、国民の力のために、富造は、真っ逆さまに落ちて行け」
 泛かべる兄の面影が、当時と同じ言葉で語りかけてくれる。
 またその兄は「昭和天皇が、最後の最後まで戦争を避けたいと願われたことは有名な話だ。あれは昭和16年の9月だった。いよいよ開戦を決意せざるを得なくなった御前会議の席で天皇は、明治天皇の『 四方の海みなはらからと思ふ世に など波風の立ち騒ぐらむ』という御製を繰り返し奉唱されたではないか」と、涙ながらにいうと肩や両腕を震わせていた。その涙ながらに、また富造も泣けた。
 バス停でセルシオから降りると、姦しき夜行性はさも首都東京の宿命であるかのように振舞っている。
 コスモポリタン種の温床と化した、何事につけても覚えるこの一種の危機意識を、どのように解釈し暮らしたらよいのであろうか。感覚的に同じものを同じ感動で眺めることができても、心の理想は全く食い違うのであるから、それは戦前の青春を知る老人にとって、自分の感覚や生き方に対する疑いでもあった。都会の姦しい最中にあって、永田町二丁目の夜だけは、いつも暗闇のようにひっそりとしている。その日もまた同じ無言の闇間だった。
 富造を乗せてきたセルシオが遠ざかると、日本の闇には、異国からも悪魔が渡来したことが分かる。路傍にはそんな富造が立っていた。
 この悪魔とは、すべからく世にまつらわぬモノらである。それは、西洋の善が輸入されると、同時に、西洋の悪が輸入されるという事は、至極、当然な事だからであり、世にまつらわぬモノはそこに生まれた。そもそも、それらは大化改新前にはじまることだ。阿部の家系もそこに始まる。連綿としてやがて平安京に連なり、現在は京都八瀬集落の山守の家系に連なっている。その原点は奈良にある。
 富造は陛下誕生日記者会見の模様を奈良に居て知った。その一か月ほど前から奈良にいた。
「よほど・・・、あれが・・・、気になるみたいだね。香織ちゃん!」
 と、ふと扇太郎は話を止めた。
「ああやって吊るしているのは、秋子さんなんだ・・・」
 香織は始終、赤いトウガラシの吊るしをみつめては、時々まばたきをさせていた。そして扇太郎の語り口が皇族のことに及んでくると、その眼をしだいに輝かせていたのである。
「何や・・・、やはりそうなにんや。せやけど・・・」
 そう答えながら香織は、言葉尻をぼんやりとさせた。
「せやけど・・・ッて、香織ちゃんは、あれと同じものを、どこかできっと見てるはずだけどね」
 扇太郎にはそう言える確信があった。御所谷の五郎の家にも吊るされていたはずだ。香織ならそれを見ていると思われる。扇太郎は御所谷で同じものを見た。
「五郎さんの家に吊るされていたのではないかい・・・」
 塗炭に香織の黒い眼は、大きく丸くなった。そう言われてみると、五郎が印を切る気配の中に赤いトウガラシの吊るしが浮かんでくる。五郎は朝夕必ず印を切っていた。臨兵闘者皆陣裂在前(リン、ピョウ、トウ、シャ、カイ、ジン、レツ、ザイ、ゼン)と唱えながら、一文字につき一つの印を結んで、最後に刀印を結ぶ。その頭上に同じものが吊るしてあった。その赤い色が香織の脳裏で鮮明になる。その赤はしだいに形まで顕れた。

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「雨田さん・・・、阿部は・・・、あの、平安の阿部清明の家系に列します。その清明は、ご存じのように平安期に始まるものではありません。原子は奈良ということになる。つまり阿部富造の阿部家は子代にして、陰陽師阿部清明の陰陽道を現在に継ぐ唯一の家系です。御所谷の五郎さんはその一脈です。したがって和歌子さんも、秋子さんもその一族として生まれました・・・」
 その阿部富造には最後に訪ねたい場所があった。
 セルシオを降りた富造は、議事堂前の洋式庭園へと歩きはじめた。
 国会前庭庭園は、国会議事堂正門前にある庭園である。面積は約5万平方メートル。 国会議事堂に向かって道路の左側が和式庭園の南地区、 右側が洋式庭園の北地区となっている。     
 和式庭園の南地区は、かって江戸時代は九鬼氏の屋敷で、明治になって有栖川宮邸を経て霞ヶ関離宮であった場所である。 庭園南側の入口から入ると、左側に泉水があり小さな滝から流れ落ちた水が、庭園の北へと流れている。しかし富造が目的とする場所は、北地区の洋式庭園にあった。
 その中心に、三権分立を象徴した三面塔星型の時計塔が建てられている。
「雨田さん・・・、きっと日本水準原点標庫は、ご存じですよね!」
「ええ・・・当然。佐立七次郎の・・・あれでしょう」
「はい・・・、その佐立七次郎の設計した標庫です」
 扇太郎は虎彦の顔をみて、さすがとばかりにニヤリとした。
 日本全国の統一された標高決定のための基準として、水準原点が創設されたのが明治24年(1891年)5月のことだ。標庫はその水準原点標を保護するために建築された。設計者はエ部大学校第一期生の佐立七次郎であった。石造で平屋建の標庫は、面積は約14㎡で、軒高約4mほどである。
 この中に水準原点がある。 
 水準原点の位置は、建物の中心である台石に取り付けた水晶板の目盛の零線の中心で、その標高は24.4140メートルと定められている。この値は明治6年から長期にわたる東京湾の潮位観測による平均海面から求めたものであった。

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 富造は標庫の正面で足を止めると、じっとそれを見据えた。
 これは、軍事的な理由から全国の測量を進めた参謀本部陸地測量部がこの地に置かれていた名残である。その日本水準原点は、全国の標高の基になる。阿部の家系は代々そうした標高算出に深く関わってきた。一族は日本国内の標高を求め続けてくまなく山岳を渡り歩いた。これほど山を知り尽くした一族は他にない。富造はその標準原点に向かって、九字印を唱え、印を結んでは、最後に印刀を結んだ。
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 そうし終えた富造は、またおもむろに、そこから振り返る地へと眼差しを向けた。
 半年前に歩いた奈良の道辺(みちのべ)である。         
 まず法隆寺駅で富造は降りた。その日のことをじっと眼に浮かべていた。
 目当ての、その門がみえるところまできて「ああ、あれが」と、ひと足、近づいてゆくのは心うれしいものである。その日はちょうど雨あがりの曇天日であった。足もとは、べったり泥で、あやうく水溜まりにはまりそうである。ついこの間までは、もっと古びた門や土塀だったはずだが、と回想などして懐かしむ田舎道も、いつの間にやら、きれいに修復されていた。
 法隆寺あたりの畑には、一斉にやわらかな緑のえんどうの芽がのびている。
 えんどうの芽の愛らしさからは、するすると天にまで伸びて、やがては蝶のような花を咲かせる無限の彩りが連想されてくる。法隆寺とはあまりにも見事で、いつもそこだけで時間をとられ、見疲れしてしまうのだが、あの、典麗な伽藍構成と、豊富な古美術群を堪能すれば、もう、余分な出逢いは避けて、そのまま戻りたくなる心境になる。しかし、そうなりつつも、かの門だけは、富造にそっとまた手を差し伸べてくれるのであった。




                             第⑭話に続く
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   八坂 京都。


  
   京都 秋の朝。


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   京都 花そとば



  つきの暦  2012年12月

  つきの暦 2012 12



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小説『五円風土記』 第一部「花そとば」 第⑫話

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     第一部
          はなそとば 小 生  ひとひら桜回転

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     第一章 八瀬童子(やせどうじ)   


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      九  陰陽師 (おんみょうじ)   



 真冬の広い法堂は、たゞ凛としていた。
「これが・・・、印象の蒼龍か・・・!」
 本尊の上を龍が翔けている。しかし、どことなく想定と違う。そう感じた虎彦は、見上げる天井に、きぬかけの路を敷き、そこに夏の雪を浮かばせてみた。金閣寺から龍安寺、仁和寺にいたる、その沿道の立命館大学衣笠キャンパス正門前に彼の美術館があるが、堂本印象は明治24年京都に生まれた。
「たしか彼が逝去したのは、昭和50年9月だった・・・」
 その年の同月には板画家の棟方志功が死去したこともあり、印象の死も鮮やかにある。志功は享年72、印象は享年83、昭和天皇74歳が皇后と史上初めてアメリカ合衆国を公式訪問した月でもあった。それぞれの年齢に自分の年齢を比べ合わせて昭和という時代を省みた記憶がある。

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「その天皇といえば・・・」
 衣笠山に、宇多天皇が真夏に雪見をしたく、白絹を掛けたという。印象の美術館からその山を望むことになる。本名を「堂本三之助」という。京都市立美術工芸学校を卒業後、しばらく西陣織の図案描きをした。またその西陣といえば応仁の乱、しだいに虎彦には、戦後は抽象画も手がけた堂本印象と東福寺本堂の再建とが重なり合ってきた。印象の画風は、戦前と戦後とでは別人のように違う。戦禍をみて印象を変えた。
 東福寺は明治14年(1881年)に仏殿と法堂が焼ける。その後、大正6年(1917年)から再建工事にかかり、昭和9年(1934年)に完成した。入母屋造、裳階(もこし)付きの高さ約25メートル、間口約41メートルの大規模なその堂は、昭和期の木造建築としては最大級のものである。
「阿部家と・・・、この本堂と、どう交わるというのだ・・・?」
 雨田虎彦は、駒丸扇太郎が粛々と語る阿部富造の話に耳を傾けながら、静かに天井の蒼龍を睨んでいた。
 見据えると、逆に虎彦を睨み返すかにあるその鋭い両眼を輝かせた天井の竜の絵は、堂本印象が虎彦を睨むような姿にも見えてくる。印象がそうさせた筆の勢いをたどりながら飛天する蒼龍の全体を眼で追うままに、視線を真下に落とすと、虎彦の眼は本尊の両眼とピタリと合致した。
 妙心寺で見た天井の龍は「八方睨み」で、どこから見ても龍と目が合うのだが、印象の龍は視線の先が一定で正面をただ睨みつけている。蒼龍と眼を合わせるには人の立ち位置が定められていた。

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「かってここに、15メートルの大仏が座っていた。本来ならそうだ・・・」
 焼失した大仏の面影でも抱くように印象の蒼龍が空を翔けている。その龍頭から龍尾までの先を眼で追いかけてみる虎彦には、今では片手しか現存しない大仏であるが、往時の仏殿本尊の釈迦像高さ15メートル、左右の観音・弥勒両菩薩像の約7メートルという巨大仏の御姿が、鮮やかに泛かぶようにある。
 幻の大仏となって、御姿の一切はこの本堂から消えてはいるが、創建当時、これは新大仏寺の名で喧伝され、足利義持・豊臣秀吉・徳川家康らによって保護修理も加えられ、その大仏を保持することで東福寺は永く京都最大の禅苑としての面目を伝えてきた。
「消滅した・・・大仏・・・!」
 この大仏の行方が、京都の変遷をすべて物語っている。そもそも遷都の経緯からして穏やかではなかった。京都の歴史とは、世にまつろわぬ者を集約させは離散させて生きてきた。そう思えた虎彦は堂元印象の美術館の様相が訝しくも滑稽であった。京都人の裏面を垣間見るようだ。
「あれは・・・、反骨なのであろう・・・」
 京都の町屋とは共存しそうもない風景を、虎彦は眼に泛かばせていた。それは、天井の蒼龍を入れるには、どうながめても似つかわしくない容器なのだ。陰陽の不調和は彼が体験した内面の落差なのか。二人影の堂本印象に虎彦はぼんやりとしていた。

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「冷えてきましたね・・・、万寿寺に部屋を用意しています。移りましょうか・・・」
 膝の震えを感知したのであろうか。にわかに扇太郎は、くるりと虎彦と香織の方へ目線を向けた。そうして香織に止めた扇太郎の眼は、やさしげに微笑んでいる。どうやら脚のことではなさそうだ。虎彦もまた香織の顔をみてニヤリと笑った。二人は香織の大欠伸を見過ごしてはいない。しかも香織は始終つまらなそうな顔をして俯いていた。どうやら香織には退屈な長話であった。
「香織ちゃん・・・、昼食は、駅前の大黒ラーメンを食べようかねッ」
 やはり花より団子の乙女なのである。香織はそう扇太郎から促されると、丸い両眼を輝かせてニコリとした。するととたんに、濃厚な豚骨醤油のスープが泛かんでいる。祇園時代に置屋の佳都子に何度か連れられてきて食べた佳都子一押しの大好きな味だ。そんなことなど扇太郎が知るよしもないことであろうが、ストレートの細麺は喉越しもいい。本店が桃山にあることも佳都子から聞いていた。具は太めのもやしと、多めのネギがじつに嬉しい。その眼にラーメンのスープを注がれた香織は朗らかになった。
「せやったら・・・、ラーメンと一緒に、焼きめしと餃子やわ。大黒はんの、チャーシューは少し薄めやし・・」
 何とちゃっかりした質(たち)であろうか。香織は本尊にこっそりと諸手を揉んで密やかに合わせた。何やら賽銭泥棒が礼儀でもするようで可笑しかった。
 香織の拝んだ本尊は大仏の代身として現在の法堂に座る。その本尊釈迦三尊像(中尊は立像、脇侍は阿難と迦葉)は、明治14年の本堂焼失後に同境内の万寿寺から移されたもので、これは鎌倉時代の作である。
 万寿寺はかつて下京区万寿寺通高倉にあった。京都五山の第五位として大いに栄えて、天正年間に現在地に移された寺で、本堂を後にした三人はその万寿寺へと向かうことにした。
「少し歩くことになりますが・・・」
「ああ、構わない。そう気を遣わないでくれ。大丈夫だ・・・」
 と、虎彦はチラリと香織の顔色をみた。気丈夫にみせる物言いに香織がけげんそうな眼をみせる。患う脚に気遣いをされ、それが労わりだと分かるが、施しの眼ほど心苦しいものはない。しかしそこは苦笑して始末するしかない老人であった。肩に手を添えようとする香織に合わせ、虎彦はステッキの柄を固く掴みなおした。
 向かおうとする万寿寺は、昭和10年(1935年)には京都市電と東山通、九条通の開通により境内が分断され、東福寺の飛び地のような位置に置かれている。だが幸いに東福寺駅には近い。このときまで虎彦は、扇太郎がなぜ距離のある東福寺本堂へと先に案内したのかがよく解らないでいた。
「先に・・・、この一樹を見て戴きたいと思いましてね・・・」
 虎彦のそんな内心を射抜くかのように、扇太郎は本堂外の一樹を指している。虎彦はぼんやりとその指先をみた。漠然とながめても、図太い古老の大樹ではないか。寒空の下に毅然と立っていた。

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「どうです見事な大樹でしょう。樹高およそ16メートル幹回り4メートルほど・・・」
 扇太郎がそう説明したが、虎彦も樹木に関してはプロである。しだいに虎彦の眼は鋭くなった。この大樹が1780年の「都名所図会」や1700年前後に書かれた「東福寺境内図」にもすでに大樹として描かれていることを想えば、400~500年の樹令でもおかしくはない。たしかにその一樹だと思われた。
「これが・・・あのイブキか!」
 ビャクシンともいうのだが、目前にある大樹は、そのヒノキ科の常緑高木であることは明白であった。虎彦はおもむろに大樹に近寄ると木肌に触れてからそっと鼻を押しあてた。
「明治の火災のおり損傷を受け、北側の樹皮が失われていますが、未だ健在の古老です」
 みずからの祖父でも讃えるかの口調で、扇太郎はやや自慢気に言った。虎彦はかって山口県西部の「恩徳寺」という寺の境内にある「結びイブキ」と言われる国定の樹齢450年と伝わるイブキは見たとき、少なからぬ驚きを覚えた。これはそれ以上の樹齢だと推察できた。
「この樹は、空に向かって伸びようとするんだよね」
 葉の付いた枝はすべて上に向かって伸び、一樹全体としては炎のような枝振りになる。虎彦はそのことを言った。以前に一度、大徳寺仏殿前にあるイブキを見上げながら感じたことだ。イブキは開山国師が宋国(中国)から携えてきたと伝わる。大徳寺のイブキの方が大ぶりだが、香気は東福寺のイブキが強いように感じた。
「さて・・・この一樹を、誰が植えたのかが、重要なのです。先に見て戴いたのは・・・」
 と、そう言って扇太郎はイブキの高みをじっと見上げた。
「なるほど・・・、どうやら阿部家と関わりがあるようだねッ」
 扇太郎の鋭く見上げた眼光がそう語りかけるように言っていた。駒丸扇太郎も樹木に関しては職業人である。その筋で飯を喰っているわけで、すでにお膳立てはできているのであろう。
「ええ・・・、その詳しくは、万寿寺の方で・・・」
 ここで話を一旦絶って、万寿寺にて語るという。その口調から虎彦の脳裏には、ふと赤星病のことが浮かんだ。
 赤星病とは、垣根等に植えられる「 かいづかいぶき」「 たまいぶき」といったビャクシン 類が寄生植物となり、病原菌が春先の風によって飛ばされ梨の木に感染し、葉を落としてしまう恐ろしい病気で梨の大敵の一つとされている。イブキもそうなのだ。そうしたビャクシン類が梨の果樹園から1.5キロ圏内にあると、必ずといって良いほど病気が発生する。扇太郎はその果樹の専門家だ。その男が、居場所を離れて万寿寺で語り直そうとしてる姿勢に、どこか赤星病から梨を保護でもするかのようで虎彦には少し可笑しみが感じられた。
 境内入口までやってくると、誰もが胸をジ~ンと叩くものを見る。
 虎彦もやはりその鐘楼の佇まいを見た。
 上層に鐘を吊り、下層は門を兼ねている。これを「東福寺鐘楼」といい、なるほど京都五山(きょうとござん)の禅宗(臨済宗)寺格、小ぶりだがその風格はいかにも重い。ちなみにその京都五山とは、南禅寺を別格として天龍寺第一位、相国寺第二位、建仁寺第三位、東福寺第四位、そして万寿寺第五位の寺格となる。今日では京都五山は、京都禅寺の格付と一般に勘違いされやすいが、それは決して正しい解釈ではない。
 京都五山とはあくまで足利氏の政治、政略的な格付けであり、大徳寺は同様の理由から格を下げられ、後に五山制度から脱却している。そのような権力の寺格とは何と愚かなことか。その正体を暴くかに万寿寺の鐘楼をみると静かに覚らせる。 虎彦は潜り抜ける頭上の鐘にそんな重みを感じた。ここは京都でも一般公開されてない寺の一つである。扇太郎のそんな特別の謀り方が妙に密やかであった。

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 昭和初期、たしかに社会は暗い深刻な不安のなかを揺れつづけていた。
 阿部富造が生まれたのは大正七年、第一次世界大戦が終戦した年である。古閑貞次郎が坂道で口にした「1000円」という大金には、雨田虎彦も少なからず心当たりがあった。
 大正中期ごろより「説教強盗」なる犯罪が連続に横行していた。
「あの・・・、松吉のことだな・・・」
 虎彦は阿部富造とは二歳下の年齢だ。ほぼ同年代の直感がある。
 昭和4年2月6日に銀座松屋前で模倣犯である「説教強盗二世」岡崎秀之助が逮捕された。岡崎は三宅やす子宅、下田歌子宅など有名人の家を襲い、7箇所で強盗を働いていたが、この男は警視庁が追う「第一世説教強盗」ではなかった。
 2月16日警視庁は再調査の結果、1926年夏の犯行も説教強盗によるものであることを突き止め、現場に残された指紋から、かつて甲府刑務所に服役した妻木松吉のものであると断定した。捜査員が出所後の松吉の行方を追う中で、ついに2月23日午後6時50分、松吉は自宅にて逮捕された。何の抵抗もなく「お手数かけてすみません」と神妙な態度だったという。逮捕に至るまでに動員された警察官は1万2千名に及んだ。朝日新聞が懸けていた賞金1000円はその警官たちに贈呈されてた。
 妻木松吉は強盗に押し入っては「戸締りは厳重におこないなさい」と親切に説教した。懸賞金1000円のことは当時12歳であった小学生の虎彦でさえ耳にしていた。
 拝観者の訪れない万寿寺の一室はさすがに森閑としている。
 一見の拝観者であれば、ここが東福寺境内の一角に含まれるなどおそらく想像もしないのであろう。こじんまりとした境内の庭も植栽も小奇麗にされてはいるが、その簡素な静けさは廃寺のようであった。
「どうも・・・、普段ではなさそうだ・・・」
 どこが、どうと、要領はえぬのだが、虎彦は妙な尻の座りの悪さを感じた。
 庭に面した8畳の座室である。欄間の角隅に小さな赤い束が括り吊るされていた。それはどう眺めても万願寺や伏見唐辛子ではない。その吊るされ方に、ふと、満州でみた遠い記憶が虎彦に蘇ってくる。
「老先生・・・、あれ、何やろか?・・・」
 と、漏らした。香織も気づいていたみたいだ。やはり京都では見かけない趣なのであろう。そう言って香織は虎彦の袖口をツンツンと引っ張った。
「よしなさい香織・・・、後にしなさい!」
 手を取って、香織へとその手をそっと突き返した。
 香織はつまらなさそうな顔で鼻をツンと揺らしたが、その場はどうしてかそうする方がよさそうな感じにさせられていた。どうやら法衣の手とは無関係なで別の慣習のようである。神仏の教理とは異なるその特殊な用い方に、ひとまず距離を置こうと思った。
 明らかに日本種とは違う辛みが少ない大きめの唐辛子が魔除けのごとく吊るされている。隣国のそれを感じた虎彦は、トウガラシの赤から視線を逸らすようにして腰を泛かし斜(はす)に座りなおした。
 正座にはすでに耐えきれぬ片足である。
 虎彦は座り直しつつ定まらぬ片足に自らがじれったくて苦笑した。すると扇太郎は、おもむろに東福寺本堂での続きを語りはじめた。

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 東京都内に、遅刻坂という山王社へと通じる極細い坂道がある。
 扇太郎がそう語る坂は、かって虎彦も歩いた細い山路であった。
 この坂道は現在、日比谷高校の正門前から外堀通りへと下り通じる一丁ほど(メキシコ大使館がある舗装された八十メートルほどの坂道。大使館の北裏には、衆議院、参議院、両議院長の公邸がある)の極短い切り通しの坂道である。新坂ともいうが、旧制一中に係わる世代には遅刻坂が好ましい。名だたる日本の先輩諸氏が先を闊歩(かっぽ)した急勾配の細道である。
 久しく時を経て、阿部富造はまたこの坂を上がった。
 老人の眼に泛(うか)ぶその坂道には、一中が日比谷から現在の永田町の敷地に移転した1929年(昭和二年)以降の人物として、水野惣平(そうへい・元アラビア石油社長)、嶋中鵬二(ほうじ・元中央公論社社長)、岡義達(よしさと・政治学者)、木原太郎(物理学者)らの青春期の沓音(くつおと)が記されている。これらの同輩らと共に老人もまたこの坂を歩いたのだ。
 老人がこの坂を上がるのは終戦時以来久しぶりである。
 剃髪の仏頂面に肩首から丹(あか)い半袈裟(はんげさ)を吊るした、ちょつとあやしいネクタイ姿の老人である。その夜もまたしっとりと闇間を濡らす雨夜であった。
 そのとき老人には高みから傘をかざして坂を下りる人影がぼんやりと見えていた。白と思えば白、青と思えばほのかに青く動きに不規則な輝きがある。ときおりくるくると傘を回したりするらしく、暗い秋雨の中に老人は眼を凝らしつづけていた。
 人ひとりが通れるほどの細い道であるから、坂下でその人を待つことにしたが、物影が背の高い男だと判(わか)る間合いまで互いに近づくと、青年であるその男は、ふと道中で立ち止まり、ていねいに一礼をするや老人を待ち構えていたかに道を訊(たず)ねかけた。
「私の道はどこでしょうか・・・」
 と、背筋をピンと張った隙のない一声である。なぜか老人には、ぴかぴかと粒の輝く白いごはんが泛(うか)んだ。そんな臨場感も現わして、扇太郎は語り続けた。
「あなたの前にあります。真っ直ぐにお行きなさい・・・」
 老人は直(ただ)ちにこう答え返していた。正覚を求めて修行する法師にでも強引に仕立てたのか、それとも青年は老人の身なりを暗がりに禅僧だと見間違えたのであろうか。夜道に狸の化かしでもなかろうに、富造は得体(えたい)の知れぬ青年と摩訶不思議な問答を交わした。
 しかし互いが、ふしぎにきれいに息をのんで、たまたま出逢うことのできた秋雨の白さをひとつ心に大切にしようとする厳粛なほどの姿勢がそこにあった。小さなトゲにでもチクリと刺されたかの老人が、それでも清(す)まし顔で脇よりに道を譲ると、青年は深々と一礼を残して静かに下り去った。
 たしかに老人は頭陀(ずだ)袋をさげ半袈裟(はんげさ)を肩首から吊るしていた。虚無僧の類に見間違ったとしても何ら不思議ではない。平然と行くその青年の後影が消えるまでの間が、無理問答であれば敗者となっている老人には嬉しかった。そのとき今晩わ、と声掛けなどされるよりも、老いさらばえる身上を爽やかに見透かされたようで青年の影が嬉しさを曳いた。
 小さな茅葺の門はしっとりと濡れていた。
 この門前に「面会謝絶」の立札がある。但し書きに「やむなく門前に面会御猶予の立札をする騒ぎなり」と添えられている。庇(ひさし)からの雨だれが、かすかな光をともなって立札の字面(じづら)をしたたりながら落ちていた。それらは終戦直後から、四半世紀もそのままであった。
 門をくぐるとすぐに手水(ちょうず)がある。薬臼(くすりうす)の刳(く)り貫きを活かした古風なものであるが、左右庵を訪ねる来客は、まず最初にこの手水と向き合うことになる。あるいは問答しなくてはならない。あえて人の道を塞(ふさ)ぐように真正面にそうしつらえてある。
「これも昔のままだね・・・」
 老人は思わず懐かしさを覚えて言った。
 この日は午後から雨であったが、冷たさを感じさせない雨である。ふと見上げると、黒々と暗い欅(けやき)の梢(こずえ)が、さも蛇の目傘をさしかけるように日の消えた雨空を支えてくれていた。初めてみたのは四半世紀ほど前の晩春、たしかあの日は晴天で、満月の夜空を支えていた。
 終戦後三年のとき、土埃(つちぼこり)をかぶった褪(さ)めた茶の、くたびれた軍靴の足で老人は初めてこの庵にやってきた。立札は官弊(かんぺい)大社としての格位が廃止された昭和21年の騒動を記すもので、未だに仮の世の、仮の住いの、仮の札なのである。手水もそのままに在(あ)るのだから、老人はしばらく、諸々が語り掛ける景色の前に佇(たたず)んでいた。
 東京大空襲で焦土となった当時、この界隈はまだ人気もまばらで、白い蛾(が)がひっそりとした道端の街灯に集まっていたことをよく覚えている。焼失した日枝神社の本殿、星ヶ岡茶寮の痕(あと)もそのままに、人家もなくあたりは低く風の中に眠っていた。

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 左右庵という命名は、手水のしつらえ方に現れている。
 それは客人を、この手水の前で不惑(ふわく)へと立ち変えらせる、能(よく)したしつらえである。
 戦禍の爪痕の中に、隠れ棲むように逃れて処世の楽しみを風雅に施した、その先代貞次郎もすでに他界して久しいのだが、同時期から老人の足もこの場所から遠のいていた。
 ここに穢(けが)れを祓う禊(みそぎ)の工夫があることを、鎌倉極楽寺の忍性(にんしょう)に教化されての趣向であることを、先代古閑貞次郎から度々そう聞かされている。以来、好んで老人は足を運ばせていた。敗戦の衝撃にうつ伏せしたくなる老人にとって、じっと日本という国と真対(むか)う場を与えられたことは、心しずまる喜びの一時であった。終戦の時代とは、限られた眼の行方(ゆくえ)しかなく、誰もが俯きながら暮らす毎日であった。
「忍性といえば、奈良信貴山朝護孫子寺で文殊の五字呪を10歳にして唱えたという・・・」
 扇太郎の話が忍性に触れると、虎彦の眼には生まれ在所が泛かんだ。
 忍性は早くから文殊菩薩信仰に目覚めた。日蓮から祈雨法くらべや法論を挑まれる。
 何よりも非人救済に専念した。奈良の北山十八間戸(きたやまじゅうはちけんと)は彼が施設した療養院、在所はその跡に近く虎彦は佐保山に生まれた。当時の奈良坂は、京都と奈良を結ぶ街道沿いにあり、交通の要所であると同時に、賑やかな市中からは少し離れた場所であったため、旅の行き倒れや、はじかれ者、世捨て人など底辺の人々が最後にたどりつくような場所であった。忍性が出会った患者の多くも、もはや体が不自由で、奈良市中へ物乞いに出る事すらできなくなっていて、その事をしきりに嘆いた人々である。
 富造老人が貞次郎のお節介をやわらかき懐紙にくるむように温(たず)ね、でき得れば三途の川の渡し場でよいから、また貞次郎という男と相塗れることを願うまでに、貞次郎の死後ニ十年近くを費やしたことになる。老人は、手水の右脇をすんなりと通り抜けて奥の庵(いおり)へと歩いた。
「四面楚歌(しめんそか)だよ、全く・・・」
 という老人の、冷めたぼやきから十年ぶりの挨拶が始められ、宵越しの晩酌で未明論議にいたる二人だけの長話は、二代目庵主の狭間四郎にとって、ちょっとした混乱であった。水をうけた竹筒がときどき、パタン、カランと音をたてる。その度々に老人は訝(いぶか)しく顔をしかめた。
「造るなとは言わぬが、造るなら添水(そうず)は、もっとうまく造れ」
 起伏の多い庭には、うまく小さな流れをつくったと、そう思う四郎は、訝しがる老人よりも訝しく説教を聴いていた。やれもっと工夫せよ、勉強しろというのである。しかし伯父貞次郎の戦友であるから粗末にはできぬ人物であった。
「お前は、どこの庭にこれを習った・・・」
「いろいろと見て廻りましたが、やはり丈山(じょうざん)の庭でしょうか」
 丈山とは、江戸初期の文人、かっては武士であり煎茶の祖ともいわれた石川丈山である。五郎はこの丈山の作庭をもっと細かく見習えと老人が言うのではなかろうかと、そう予測してこの名を引き出した。
「そうだろう。やはり丈山か。そんな趣きがした・・・」
「そうですか。丈山に・・・似ていますか。それは良かった・・・」
「馬鹿やろう。それだから下品なんだよ!」
「そうですか。それはまことに残念です。もう少し精進してみます」
 一晩中、四郎にとっては傍(かたわ)らの老人を意識して胸苦しい夜であった。
 伯父の戦友だからと聞き役でいようとしたが、老人の話はいっこうに脈絡がない。この老人はやはり老いてきていると思えた。老人が四郎に語り掛ける風景は、まるで消えかけの虹の命のように思われた。しかし四郎は今は屋外が晩秋であることを考えた。秋であれ、風は明るく凪(な)いでいたり、空そのものの貌(かお)は毎日変わるであろう。しかし空は同じ空である。人間には消して話しかけない空である。そうであるなら四郎はその空を眺めながら生かされていることになる。四郎は老人の横で秋風でいようと思った。
 四郎がそんな事を考えているとき、自分が四郎の風景から消え去って行くのはいつだろう、と老人は思った。もう、本来ならば消え去っているかもしれない年齢であった。微かに、細々と続いている命としか思えなかった。
「そうそう、お手紙の中に、話したいことがあるとおっしゃっていましたね・・・」
 と、五郎は少し話題を変えようと雰囲気を外した。
「ああ、そのことだ。孫娘の秋子がようやく結婚することになった・・・」
「えっ・・・・・どなた様と・・・」
「あんたさんが好きな丈山先生の、その末裔とかいう伏見で酒蔵を営む胡散(うさん)臭い家の長男や!」
 この言葉を聞き四郎は愕然と肩を落とした。話題をはぐらかそうとした事が、逆にとんでもない事実を引き出してしまった結末にたじろいだ。
「あの丈山は一度も婚姻することはなく、生涯を孤独に過ごしたと伝わっていますが・・・」
「そう、そこだよ。正解だよ。四郎君。まさにその通りである。どうしたものか・・・」
 老人は、嗚咽(おえつ)にも近い声で、甲(かん)高くしかも震わして言った。
 駒丸扇太郎は、ここまで語るとキュッと拳を握り、庭の方に逸らして眼を遠くした。その様子からして虎彦は、さらにこの一件に、密やかな深みがあることを感じた。


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                             第⑬話に続く
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   東寺 五大明王。


  
   蓮華王院 三十三間堂。


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   京都 花そとば



  つきの暦  2012年12月

  つきの暦 2012 12



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小説『五円風土記』 第一部「花そとば」 第⑪話

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              ごえん風土記 かな上 
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     第一部
          はなそとば 小 生  ひとひら桜回転

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     第一章 八瀬童子(やせどうじ)   


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      八  遅刻坂 (ちこくざか)



 社会は暗い深刻な不安のなかを揺れつづけていた。
 朝刊は「深川職業紹介所には四千五百人、江東紹介所には約千人、他の紹介所にも大勢の、未だ明け遣らぬ凍てつく路上に、仕事は大概、関東大震災の復興の力仕事、賃金は1円60銭から30銭どまり、貯蓄銀行の支払い停止措置に取付る預金者が銀行に殺到・・・」と報じる。

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 しかしどうしてか、当時、何だか新しい生命がどこかに籠もっているような気がした。
 たしかに大正9年の世界恐慌による連鎖反応として引き起こされた昭和2年金融恐慌からの長引く不況は大問題であったのだが、そうした暗い世相に、明るい歌は陽気のトリガーになる。
 阿部富造の記憶にも明るい一曲が思い出されて泛かんでくる。巷(ちまた)では浅草オペラで人気を集めていた歌手・二村定一(ふたむらていいち・通称べ~ちゃん)が歌う「私の青空」が大ヒットし、国内ではジャズ音楽が舶来の雰囲気を漂わせて大衆層に広く支持されていた。当時、浅草が日本で最大の盛り場であった。
 富造はそんな1929年(昭和四年)のことを眼に泛かばせていた。

      夕暮れに仰ぎ見る 輝く青空
      日暮れて辿(たど)るは わが家の細道
      せまいながらも 楽しい我家
      愛の灯影(ほかげ)の さすところ
      恋しい家こそ 私の青空
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「富造、早よう来んかい」
 そう言って古閑貞次郎がにっこりと笑っている。それは・・・、坂道で出逢ったあの青春盛る笑顔である。
 彼のそんな笑顔が泛かぶと、富造は胸のつかえがすう~と下りていった。
 百年の間に降り積もった世上での恨み辛(つら)み、みずからの済まなさや蟠(わだか)りがいっぺんに溶けて、若く青々としたころの真(ま)っ新(さら)な男の親しみだけが春陽のように残った。
「貞次郎・・・・」
 富造は小躍りしながら駆け出した。貞次郎はここまでおいでとばかりに先駆けていく。あの岡の向こうには日本の青空がきらめき、その岡の道辺(みちのべ)には二人だけの夢が落ちていた。それは日本国中が国威の発揚に沸き、時代の装いがハイカラからモダンへと移り変わるころのことであった。

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 明治維新を経て開国し、二度の戦勝(日清・日露)による好景気も得て国力も高まり、帝国主義の国として欧米列強と肩を並べ、勢いを得て第一次世界大戦にも参戦、日本はその勝利の側についていた。
 欧米から学んだ会社制度が発達し、やがて熟し輝きを増そうとした時期である。
 私企業が発展、世界に向けて大規模化して、投機の成功で「成金」と呼ばれるような個人も現れ、庶民においても新時代への夢や野望が大いに掻き立てられていた。
 ようやく民本主義が台頭すると、西洋文化の影響を受けた新しい文芸・絵画・音楽・演劇などの芸術が流布して、思想的にも自由と開放・躍動の気分が横溢し、都市を中心とする大衆の文化を花開させようとしていたが、しかしこの裏面では、大戦後の恐慌や関東大震災もあり、経済の激しい浮き沈みや新時代への急激な変化に対応できない不安や不満による歪(ひずみ)も底辺に暗く潜在化させていた。
 第一次世界大戦では、まれに見る好景気で日本経済は大きく急成長を遂げた。
 しかし大戦が終結して諸列強の生産力が回復すると、日本の輸出は減少して早くも戦後恐慌となった。さらに1927年(昭和二年)には、関東大震災の手形の焦げつきが累積し、それをきっかけとする銀行への取りつけ騒動が生じ、昭和金融恐慌となった。

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 若槻内閣は鈴木商店の不良債権を抱えた台湾銀行の救済のために緊急勅令を発しようとしたが、枢密院の反対に会い、総辞職した。
 あとを受けた田中義一内閣は、高橋是清蔵相の下でモラトリアム(支払い停止令)を発して全国の銀行の一斉休業と日銀からの緊急貸し出しによって急場をしのいだ。
 安倍富造と古閑貞次郎の出逢おうとする時期は、こうした文明の開渠(かいきょ)と暗渠(あんきょ)とが混在一体とする中の、帝府を一もみに潰(つぶ)した関東大震災(大正十二年九月一日)を経た7年目(昭和四年)の春のことである。
 隅田川にも前年二月に新しい言問橋(ことといばし)が架け替えられ、七月には有楽町の数寄屋橋が石橋として完成するなど、東京府はようやく痛手の燎原(りょうげん)から立ち直るかの景観を見せ始めていた。
「ふ~ん。これが、昇降機というやつか」
 人を閉じ込めた鉄の箱が上に動き始めると、身と魂がふわ~りと天昇するような脳味噌(のうみそ)の揺れる心地がして、こうして安倍富造12歳の帝府暮らしが始まることになった。
「ご来店まことに有難うございます。まもなく最上階、八階でございます」
 と案内される乙女言葉の使われようが何とも新しく上品で麗(うるわ)しいことか。歳にして十七、八の乙女である。そんな乙女の瞳が富造の眼に初対面でもするように触れると、眩(まぶ)しすぎるほど富造の男根は芽吹きの気恥しさを秘めて動揺した。
 先日の新聞ではこの乙女らのことを「昇降機ガール」と称し日本初の試みだと朝日新聞は報じていたが、その見栄えさわやかな洋装の香りに12歳の富造はうっとりとした。
 大震災後の焼け跡に、上野松坂屋が地上八階、地下一階の白いルネサンス洋式として新装開店したのは昭和4年4月1日である。

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 店内には演劇ホールや動物園まであり開店当日には十三万人もの人々が殺到した。新装と同時に登場したのが「昇降機ガール」である。つまりこれは戦後にいうエレベーターガールである。年齢は、富造とさほど違わぬ乙女らであるが、洋装の凛々しさやすでに芳醇な大人の女性に見える。
 3月の下旬には上京を終えていた富造は、長兄倫一郎に誘われて開店三日目の上野松坂屋へとやってきた。東京市内の六割が焼失し崩壊したというが、上野界隈も後7年にして未だ多くの爪痕を残して、在るもといえば平屋造りの低い建物ばかりで、新装の上野松坂屋ビルは、焦土の中に凸状に現れた巨大な白亜の殿堂のごとく映った。
「よ~く見ておけよ富造、これが今の帝府だよ。宮城(きゅうじょう)があれだ」

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「凄(すご)いな~、これが帝府の広さなんだ・・・」
 富造が眼を見張る、上野山から展望する東京はじつに広大であった。盆地として山に囲まれた京都に育ったせいか、囲いの無い関東平野というものが新鮮であり、自由広々として富造の眼が描く光景のすべてが手に取れるようである。
 富造は、倫一郎が指さす南の宮城にも素直に感動した。
「なんと馬鹿な、そうじゃない。このドン底の帝府を目に焼き付けておけ、ということだ」
「えっ、どん底なのですか・・・」
「そうだ。こんな始末の悪さが他にあるものか」
 春陽はあたたかく、頬(ほお)をなでる東風は雑草にむせるような匂いがした。
 安倍倫一郎は明治三十五年生まれ、16歳上である。
 一中で飛び級し、一高、帝大の法科を出て頭も風采(ふうさい)もよく、健康で人情味もあり、家族が最も信頼を重くする安倍家の嫡男であるが、富造はこの長兄が賢明で堅実であることが自慢だった。
 その倫一郎(23歳)は、帝大を出ると内務省に入り、帝国という日本があり、日本に政治がある限り、帝国の役人として行くべきところまで確実に出世して行きそうなタイプの男だった。
「今、富造の目の前にある光景が、帝府復興計画の実情ということさ」
 そう言うと倫一郎は、一瞬、不快そうに眉をしかめた。
「大震災当初、内務省では三十億円の予算を捻出しても帝府復興計画を実現させようとした。しかし現実には、その予算額が大幅に縮小され、何と六分の一、五億円の規模に抑えられてしまった。これが今の政治力というか、帝国の実情ということだ」
 この報告を聞かされたとき、椅子(いす)を蹴倒(けたお)して職場を出た倫一郎は、駆け出さんばかりの足取りで執務室に向かった。丸七日徹夜の激論の末に・・・(これでは何のために)と、倫一郎の唇は憤懣(ふんまん)やる方ない思いにひくひくと震えた。滅多に怒りなど貌に現わす兄ではない。倫一郎はそう語りながら、それにつれて鼻下に黒々とある大きな黒子(ほくろ)を上下に揺らしていた。
「当初の三十億円計画は、総裁の後藤新平によって提案されたものだ。しかし政党間の対立などという馬鹿げた事があり、結果、議会には縮小案化された五億円規模の予算分しか提出されなかった。だから、この目の前にある市中の復興景観は、金に小癪(こしゃく)な糸目をつけた最低限の野暮(やぼ)な計画なのさ。将来のことを考えると、私はこの計画は大失策だと考えているのだよ」
 倫一郎は、大きな眼をぎろりと剥(む)き、大きな顔を怒りに染めて語った。
「富造いいかい、将来はもっともっと自動車が増える。昨年の四月には新型の蒸気機関車C53型が登場もした。今年の夏には東京と大阪を二時間半で結ぶ定期旅客飛行機が飛ぶことが決まってもいる。これからの時代は、人と物とが、もっともっと速い時間で行き交うことになる。復興が進めば関西方面へ仮移住した府民も数多く帰ってもくるだろう。だがこの計画にはそこらの計算もない。先で必ず後悔することになるはずだ」
「道幅はもっと広く、帝国を象徴させ帝府の活力を表した豊かな公園で帝府たらしめる必要もある。それらを見越した居住地の整理などは今だからできることだ。何せこれは、江戸時代以来の大改革事業だからね。壊れたことは悲しいことだが、壊れたからこそ出来る計画がある。今なら、今しかやれなない大計画ができる。大震災が天命であるとしたら、その天命の下にこそ大計画をいたす重要がある。計画というものは、そうでなくてはならない。そのことを富造にはしっかりと覚えといて欲しい。時代は大きく変わるぞ・・・」
 倫一郎は語り終えると遠い眼をして、ゆっくりと空を仰いだ。

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 関東大震災における帝都被害の規模は、直後に参謀本部が遷都を検討したほどの動揺が物語るように帝都史上最悪の甚大さであった。遷都話は二日で立ち消えたが、とそんな事も富造に語ってくれた。
「もう武士の世は終わったんだ。イギリスやフランスにも昔は騎士(ナイト)というものがあった。しかしそれも終わった。今は同じ市民になっている。軍人もそうせんと本当の四民平等の世はつくれない。軍人は武士の誉れを持てと軍部は教えるが、何が誉れかを未だに履き違えとる。そこが肝心だね」
 胸のざわめきを押さえながら富造は兄の熱い言葉を聞きつづけた。
「あの維新は日本のためだったはずだ。武士のためではなかった。時代を背負い、時代を変えるとはそうゆうことだ。お前は軍人になることを決めたのだから、只、その道を真っ直ぐに堂々と行け。だが、国民を見殺しには出来ん。勝敗は軍人のためのものではない。国民のものなのだ」
「ところで、将来は、陸軍か、海軍か・・・?」
「まだ決めかねていますが、慎重に決めたいと考えています!」
 富造は幼かったころ高熱を発して寝込んだとき、三日も枕元で看病してくれた倫一郎の姿を思い出しながら、切々と語り詰める兄の言葉をありがたく聞いていた。
「それでいい。いずれにしろ、いくらかの捨て扶持(ぶち)を与えられて飼い殺しにされてしまう軍人にだけはなるな。軍人として、堂々と肩を揺らして国民の生きる道を切り拓く男になってくれ」
「維新では、士族から職も誇りも奪ってしまったではないか。この国の計画は、そうした無念の礎(いしずえ)の下にあるが、軍人が国力ではなく、つねに国民が国力である。お前がやがて軍刀を握るとはそういうことだ。その軍人は生あれど死が常だ。もし死のときは・・・・」
「そのときは・・・、国民の力のために、富造は、真っ逆さまに落ちて行け」
 厳しい戒めだが、嬉しかった。明日は府立一中の入学式である。
 その前に倫一郎は上野忍ケ岡からの東京を見せたかったのであろう。そう思う富造は、新たな血を注ぎ込まれた清々しい顔で、大空を仰ぐ兄の伸びやかで広い背中をじっとみつめた。

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「1000円を捕り損ねたぜ。西巣鴨にいたとは、迂闊(うかつ)うかつ、残念無念」
「けッ・・・!」
 我慢がならんと言いたげに吐き捨てた。そもそもこの奇怪な言動が貞次郎との馴初めであった。
 星ノ岡は坂道の多いところである。遅刻坂(ちこくざか)の頂きに府立一中が日比谷から移転完成したのは昭和四年のことであった。その頂きの地とは、明治のたばこ王と称された井村吉兵衛邸跡地のことであるが、一帯は星の美しく輝く高台で古くから星ノ岡と呼ばれていた。
 高嶺の花道とばかりに新調の服で京都から東京へと渋谷道玄坂の長兄倫一郎宅に転居して、府立一中へと進学することになった阿部富造は、本日の福寿暦の運勢に習い事・事始め・種蒔きは吉、結婚・葬儀は凶とあることから、縁起よく六時の鐘のように早立ちをして一中のある星ノ岡をめざした。
 倫一郎から習った道筋通りに青山から乃木坂、赤坂へとのんびりと歩き、復興する東京の空気を旨(うま)そうに食べながら、新築校舎の待つ入学式に出席するために遅刻坂を意気揚々と上がっていた。この坂を上がりきると右手に、あこがれの一中が目前にあるはずだ。富造の心は泛(う)き立っていた。
 その花道で、吐き捨てた男の言葉が富造の眼の前を歩いていた。前にある人影は、丸く愛くるしい肩をした小柄な男だった。地声なのか、その言葉が鮮明にしかも唐突に聞こえたので、いささか富造は苦笑した。1000円という響きが妙になまめかしく後を曳(ひ)くのである。
 昭和四年当時の円の値打とは、現代平成の値打に置き換えると約五百倍ほどの価値となる。これが1000円であれば、額面にして五十万円相当になる。当時、本郷界隈の下宿代(二食付き)が一ヶ月分25円、小学校教員の月給が46円であった。という感覚からして、尋常小学校を卒業したばかりの年少の口が洩らす額面としては尋常ではなく、富造が耳にした金額はいかにも怪しげで破格のものであった。
「一年半分の授業料じゃないかよ。しかも、それを盗(と)り損ねた、とは・・・」
 入学の諸経費が百四十六円十九銭、前納した一ヶ月分の授業料が五十五円であった。これらの一切を長兄倫一郎が工面してくれたのであるから、富造はとくとくと正座しながらも金銭の値打について語る倫一郎から学生の本分まで指南されえいる。その免目を兄に涙して誓ったのであり、金銭の扱いには人一倍の魂を悉皆(しっかい)と胸に叩き込めていた。
 もし1000円あれば学寮生活の費用が丸々一年分楽に賄(まかな)える金額であることへの分別(ふんべつ)は逞(たくま)しいのである。しかし同年齢と思える男のそれが一体何事なのか、それは分からない。どうにも他に聞かれてはならないような秘め事を盗み聞きしたようで、小柄だからと侮(あなど)れない富造は心なし足取りをゆるめ男から少し距離をおいた。
「然(しか)し惜しい、実に惜しいことをした」
 男はまたそう言って立ち止まると、今度は、ふと腕組をして首をかしげた。そんな男の形(なり)振りには、勘(かん)ぐれば恣意(しい)とも感じ取れる妙な間があった。敢(あえ)えて聞こえ届くような発声でもある。否(いや)、地獄耳めいた富造だから聞き分けのできた声なのかも知れない。だが富造には迫る式典の時刻もあり、たかが一見(いちげん)の男などに気遣ってはいられない苛立(いらだ)ちがあった。
 こんなところでつ立ってもらっては邪魔である。そう思う富造は追い抜こうとして男に並びかけると「遅刻するぞ」と大声で道をゆずるよう促した。
 すると男は立ち尽くしたまま、ぽろぽろと涙を流しはじめたではないか。やや怒鳴りはしたが、それほど邪(よこしま)な声ではなかったはずだ。
 富造は足を止めさせられて、すこし腰を泛かせて男の顔を今一度ていねいに見た。背丈が一尺も違うからそうなるのだが、背を折って覗(のぞ)き込むように気配を窺(うかが)うと、その瞬間、
「遅刻・・・この坂で・・・か」と、
 男はそう呟(つぶや)くとどっと笑い声を発(た)て、弾みに体を前に乗り出して富造の股間(こかん)をぐいと掴(つか)み上げた。
「くっ」
 潰(つぶ)さんばかりに男根を掴まれると、下腹の奥に焼けつくような痛みが走った。
 さらに捻(ひね)り挙(あ)げられると、唇だけがひくひくと動き、手も足もぶらりと動かぬのでは、いかんともし難い富造であった。ただ、切れ長の眼が吊り上がり、肉の薄い額に蜘蛛(くも)の巣のように青筋が立っていた。
「さっきの科白(せりふ)、もう一度聞かせてもらおうじゃねえか」
 男は猪首(いのくび)の顔を鋭くどんと富造の鼻先にぴたりとつけると、藁(わら)くずのような勢いで燃え上がるような眼の光りをむき出して言った。それはほとんど常軌を逸した厳しさであった。
 だが富造も一中を足がかりにやがては士官学校にと闘士を篤(あつ)くする男児である。たとえ急所が潰れようとも怯(ひる)むはずもなく、青筋を隈取(くまどり)のようにして、食いつかんばかりの形相で詰め返した。
「手前(てめえ)こそ、どういう了見だ!」
 男は富造の血相を見るなり、ぎょっとして怯(ひる)み、油断したかに手元を弛(ゆる)めた、その一瞬を叫ぶなり富造は男を突きのけ、胸倉を掴んで殴りつけた。
 猪首の上にちょこんとある丸顔は、見るも無惨(むざん)に腫(は)れ上がった。だが男はそれでも富造の脇腹にとりつくと、この天才児は、鼻血をしたたらせながらも、天を睨(にら)んで大見得をきった。
「これ寸善尺魔(すんぜんしゃくま)の障化(しょうけ)仏罰、ああ我(われ)破戒のうえは、生きながら鳴る神となって、かの女、たとえいずくに隠るるとも、天は三十三天、地は金輪奈落(ならく)の底か・・」と、
 さながら市川團十郎(だんじゅうろう)が好んだ凄みで鳴神上人(なるかみしょうにん)を見事に傾(かぶ)いて演(み)せた。これにはさすがの富造も呆然(ぼうぜん)とした。
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 しかし富造は、歯をかみしめ唇を閉ざすと、潰さんばかりに男の鼻をつまんだ。だが男も口を固く閉ざしたまま、逃れようともしなかった。
「うががっ」
 息苦しいのか、男は喉で痰(たん)を切るような音をたてた。
「苦しいのなら、その口を開けろ」
 それでも鼻をつまむ手をゆるめなかった。だが、男の息が次第に細くなるように感じた。顔から血の気が引いていくのもわかる。眼も黄色く濁ってきた男は未だ傾いていた。何と強情な奴だ。
 この一瞬の演(み)せ場を見せられて、即座に歌舞伎十七番の「鳴神」だと判るところが、京都の小憎らしい富造の素養といえるものではあったが、祖父亀太郎の薫陶の中に育った富造には、幼少より幾度となく祖父の手に引かれて観劇した、日本最古の京都四条南座に遊びながらも体験した大向こうをうならす外題(げだい)の大半は体に滲(し)みてあった。その「鳴神」は市川家の十八番(おはこ)であるから、
「無礼構わぬ、よっ、成田屋(たや)ッ」
 鼻をつまんだ手をゆるめると、咄嗟(とっさ)に富造はこう声を掛けていた。これは狂言の幕切れの柝頭で、歌舞伎通なら知れたことであった。ただ、富造のそれは数寄者特有の踏み込みがある。それは京者が大向こうの江戸歌舞伎へと投げかけた儀礼でもあった。
「ふぉ~っ」
 男は水面で息をつく鯉のように大きく口をあけた。
「ほほう、お前(めえ)、大(てえ)した者(もん)やなあ~。負けたよ。決まり手は、うっちゃり、てっとこだね」
 男は息も切れ切れに言うと、声高(こわだか)に大笑いをして、さわやかに笑った。
「無礼構わぬ、に、鎌(かま)輪(わ)ぬ、を掛けやがるとはな~ぁ。しかも(なや)と縮めた。大した奴や」
 鎌輪ぬ、とは成田屋の役者文様である。判じ物(はんじもの)文様(もんよう)の一種で「鎌輪奴(かまわぬ)」とも書く。「鎌」の絵と「〇」(輪の絵)とひらがなの「ぬ」の字で「かまわぬ(構わぬ)」と読む。「ぬ」を〇で囲ったもの、〇と「ぬ」が別になったものなど変種も多くある。江戸時代初期の元禄前後、町奴(町人の侠客)などの間に流行した衣服の文様である。「水火も辞せず(私の命はどうなってもかまわぬ)」という心意気で好んだ。役者文様にも分類され、今でも浴衣や手ぬぐいに用いられる粋な柄である。団十郎のライバルの尾上菊五郎が張り合って、「斧(よき)琴(こと)菊(きく)」という吉祥文様を愛用する。「鎌輪ぬ」は男性が好み、「斧琴菊」は女性に愛用された。
「これは天の声だな」
 富造はぽつりとつぶやいた。そうとしか思えない瞬間が、最近時々おとずれる。すべてが祖父安倍亀太郎からの手習いである。富造は全身の血がふつふつと滾(たぎ)ってくるのを感じた。
 富造は、はち切れんばかりに帆をふくらました船のように胸と背を張った。そうしてこの坂道を海の彼方に消えていくまで走ろうと思った。
「おい、遅刻するぞ。初日に遅れるとまずい、おい走るぞ」
 白い帆をするすると上げるように、富造は両腕を上下させて男の目の前を煽った。
「それそれ、その遅刻するが、野暮だねぇ~。お前知らないのか、ここを遅刻坂というのを。そういうの口でいうのは野暮ってもんだ。見て見ぬ振りが、花ってもんよ。・・・てなこと言ってたら遅刻するか。よ~し走るぞ、それッ」
 その間合い良く、吹きつけた突風に押されて横にすべるような動きを見せて一羽のひばりが目の前を過ぎた。これを合図に、二人揃って飛ぶように坂道を駆け始めた。

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 そのとき富造の眼は、比叡山でいつも共に遊んだムササビを泛かばせていた。
「俺は、古閑貞次郎。お前は・・・」
「安倍富造だ!」
 二人は走りながら名乗りあった。
「ところで・・・おい、1000円って、あれは、何だ!」
「ああ、あれか、聞こえたのか。長くなる、式が終わってからな。この坂の下で待っているよ」
 追い風に帆をふくらました二つの船は、府立一中の校門に、ぐいぐいと近づいている。
 小太りの貞次郎は息が上がるのか両手で何度も頬を叩いた。
 そして踵を蹴って、ホウ、ホウとみみずくのような声をあげた。
 京都山端の山々で聞いていた懐かしい声だ。そんな気がした。だから富造も貞次郎に同じ声を返しながら駆けた。遅刻坂は勾配のきつい坂道である。
 その二人の声の掛け合いは、どこか忍び走りの符合の笛のようでもあって、富造には古閑貞次郎との出逢いをもたらしてくれたこの遅刻坂が、二人で駆け上がりながら、背にいとおしくてならなかった。

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                             第⑫話に続く
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   宇治平等院

 平等院は永承7年(1052)、関白藤原頼通によってつくられ、極楽浄土の宮殿をモデルに中堂、左右の翼廊の他に類がない建物で、堂内には平安時代の浄土教美術の最高傑作が集約されている。


  
   平等院 宇治公園



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  つきの暦  2012年12月

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小説『五円風土記』 第一部「花そとば」 第⑩話

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              ごえん風土記 かな上 
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     第一部
          はなそとば 小 生  ひとひら桜回転

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     第一章 八瀬童子(やせどうじ)   


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      七  高札の聲 (こうさつのこえ)   



 立札がなされてから、すでに60年以上が経っている。
「この高札も、古い日本を信じて今も立っているというのか・・」
 老人の眼には、敗戦直下、許されぬ神の住まいを覗(のぞ)きみるような恐怖で、息をつめて高札のあたりを見まわした古人がうらやましいのである。
 しかし反面、老人は自分が戦中に何をしたかを考えなければならなかった。
 それは胸倉の片隅に直径一尺ばかりの不発弾が、二つ三つ四つ転がっているような燻(くすぶ)りである。
 界隈を草のない世界にしたのは軍人であった。
 当事者であるその軍人の眼でみても、この高札が、敗戦という大事件の中で人間が人間にもたらしたところの、屈折した遺恨の表現であることに変りはない。
 今や無の沈黙としか理解されないが、もはや貞次郎の手を離れても、尚(なお)、堂々と起立し憚(はばか)り続ける高札なのである。
 キリストの血に係る彼(か)の国による試みは日本国の敗北というより、密かに産み落とされて揶揄(やゆ)された仇名(あだな)は「リトルボーイ」という少年の悲劇であった。

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 人間が殺されることに正義などなく、国を比べ較(あわ)せて人が下す勝敗も何もない。あるとすれば唯一、無防備の人民を無差別大量に撃殺すことを可能とした科学の敗北であったろう。彼の国では神は人間に叡智を与えたのであるというが、その科学という聖域をみずからが手で穢(けが)した。
 日本では「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ人ノ下ニ人ヲ造ラズト云ヘリ」という明治維新の一節が有名である。 この「云ヘリ」は、現代における「云われている」ということで、従ってこの言葉は福沢諭吉の言葉ではなく、アメリカ合衆国の独立宣言からの引用である。
 咸臨丸でアメリカに渡った福沢はこれを範として日本国民の行くべき道を指し示した。しかし範とされた彼の国がその宣言で人の平等を説きながら、広島のリトルボーイで輝かしきその伝統の法灯を消した。長崎の不必要さがその思いをさらに固くさせるのである。 
 中でも、「全ての人間は平等に造られている」と不可侵・不可譲の自然権として唱えている。
 このことを憂い思う老人は、戦後の1946年に公布された日本国憲法の第十三条にも、その影響が見られることに、人民の下にあるばずの国家というものが全く危うく思われるのであった。
 福沢諭吉は、江戸時代末期から明治時代初期にかけて、西欧文明が押し寄せてくるのに先立ち、
「天ノ人ヲ生スルハ、億兆皆同一轍ニテ之ニ附與スルニ動カス可カラサルノ通義ヲ以テス。即チ通義トハ人ノ自カラ生命ヲ保シ自由ヲ求メ幸福ヲ祈ルノ類ニテ他ヨリ如何トモス可ラサルモノナリ。人間ニ政府ヲ立ル所以ハ、此通義ヲ固クスルタメノ趣旨ニテ、政府タランモノハ其臣民ニ満足ヲ得セシメ初テ眞ニ権威アルト云フヘシ。政府ノ処置此趣旨ニ戻ルトキハ、則チ之ヲ変革シ、或ハ倒シテ更ニ此大趣旨ニ基キ人ノ安全幸福ヲ保ツヘキ新政府ヲ立ルモ亦人民ノ通義ナリ。是レ余輩ノ弁論ヲ俟タスシテ明了ナルヘシ」と、著書「西洋事情」で、「千七百七十六年第七月四日亜米利加十三州独立ノ檄文」として、アメリカ独立宣言の全文を和訳して紹介した。
 このうち、冒頭の章句および思想は、後の著書「学問のすすめ」初編冒頭、に引用され、日本国民に広く知られるところとなった。

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 日本には「障(さわ)り」という言葉使いがある。その顕(あらわ)れ方は言霊(ことだま)の作用である。古代から日本では言語の裡(うち)に神が顕れた。つまり神の心がある。この真意は日本人の他は解らない。神の意志とは人間の意志では表せぬ日本国において、障りがどこに向かうかは日本人のみが判ることである。
 それはまことに小さく斬新な科学、直径75センチ、長さ3メートル、重さ4トンの未曾有の兵器である。それが広島のリトルボーイ(少年)と、長崎のファットマン(豚男)であった。

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 この原爆で玉砕され、かくして障りを享受した日本国民は、被爆国の理性を芽生えさせて戦後を生きることになったが、老人はこの一点で日本人であることを誇りに思い続けている。
「リトルボーイ・・・・」
 と、確かに俺はこの耳で聞き取った。テニアン島ハゴイ基地からの打信音の中に・・と、語りかける貞次郎の眼光は、人の心の奥底まで見透かすほど鋭かった。
「こんな、こんな、こん畜生があるのかい」
 一瞬気圧(けお)されるのを感じた老人は、気後れしそうになる自分に活を入れながら震えるように聞いていた。何よりもリトルボーイという奇妙なコード番号の新語が耳に斬新であった。
「あの時、参謀本部が広島に敵機襲来の空襲警報を発令してさえいれば、多くの人命が救われた」
 と、こう語りながら烈(はげ)しく詰め寄る貞次郎の終戦直後の無念さが、老人によみがえり脳裏を痛烈にかすめるのだ。体は小柄(こがら)だし、ふっくらとした顔には温和な笑みを普段は泛(うか)ばせていたが、このとき貞次郎は貌(かお)を、十歳ほど老けた鬼の姿に変えていた。この貌に老人は障りを強く抱いた。
 北マリアナ諸島の一つサイパンから南八キロにテニアン島がある。
 その島北部に諸島最大の飛行場を有するハゴイ基地があった。1944年(昭和十九年)7月まで、この基地は約8500名が駐屯する日本軍の重要な軍事基地であった。
 その7月、北部チューロ海岸から米軍が上陸、日本軍を玉砕し、8月には同島を占領した。
 これが戦史に名高いテニアンの戦いである。
 以後、飛行場は拡張され本格的な日本本土空襲を行う前線の基地となった。この戦いは、日本の終戦をすでに決定づけていた一戦ということになる。
 7月16日には既に、米国内でのトリニティ実験(プルトニューム原子爆弾の起爆実験)が行われ、成功した同日、サンフランシスコ港から重巡洋艦インディアナポリスに同型原爆の二種類、リトルボーイとファットマンが積載され、日本本土への爆撃機の基地であるテニアン島へ向け出港している。
 到着後、リトルボーイの組立が完了したのは7月31日であった。

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 昭和20年8月6日、真夜中、日本軍の諜報(ちょうほう)部隊はテニアン島を軍事拠点とする米軍部隊の無線情報を監視し、懸命なコール無線の傍受によってB29エノラ・ゲイという特殊任務を帯びた敵機部隊が広島に接近していることを察知した。しかしその諜報は、防衛に生かされることもなく空襲警報すら発令されなかった。古閑貞次郎26歳は、通信班を率いる中尉としてこの諜報の任務にあたっていた。
「あの時、一翼の紫電改(しでんかい)すら広島の上空に無かった」
 確かに本土決戦に備えた当時、すでに零戦では米英軍の新鋭戦闘機に太刀打ちできなくなっていたし、ようやく完成した雷電は実戦配備が遅れ、空中戦の切り札として紫電改は残されてどこかに待機していたはずだ。
 高度一万メートルの上空で交戦できる戦闘機は紫電改(紫電二一型)しか他はなかった。本機は遠方から見るとグラマン社の米海軍F6Fヘルキャットとよく似ており、誤認させる作戦は夜間の戦闘上有効でもあった。
 一説では当時、日本国の敗戦を予期したソ連軍が北部から南下を開始したことで、参謀本部は混乱を極め適正な判断が疎(おろそ)かにされたというが、そうであれば益々、貞次郎は不本意なわだかまりが消化できずにいた。ドイツが降伏したのは5月7日。その後に、欧州戦線のソ連軍が、満州方面に大挙して移動中との情報が入ったのであるから、その間約三ヶ月、軍議に暇(いとま)なきことが参謀の本分であろうから、と考える忠誠の貞次郎には理解不能なことであった。

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「俺達の懸命な諜報任務は一体何であったのか、あの有様は・・・・」
 貞次郎の吊りあがった細い眼が、らんらんと輝いていた。老人は深くため息をついた。
 これは老人である阿部富造が戦後昭和21年にようやく再会を果たした折りの、古閑貞次郎との会話である。以来、語る復員者と聞く復員者とにできた空白は一度も動こうとはしなかった。
 しかしあの時、小刻みに震える貞次郎の肩を見ているうちに、老人はどうしょうもない無力感にとらわれたが、なぜ気力が萎(な)えていくのかが解らなかった。
 日露戦争から40年後、来日二度目のマッカーサーは、大日本帝国の凋落(ちょうらく)に立ち会うことになる。1945年(昭和ニ十年)、降伏文書の調印に先立つ8月31日に専用機「バターン号」で神奈川県の厚木海軍飛行場に到着した。

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 厚木に降り立った最高司令官マッカーサーは、記者団に対して第一声を次の様に答えた。
「メルボルンから東京までは長い道のりだった。長い長い困難な道だった。しかしこれで万事終わったようだ。各地域における日本軍の降伏は予定通り進捗し、外郭地区においても戦闘はほとんど終熄し、日本軍は続々降伏している。この地区(関東)においては日本兵多数が武装を解かれ、それぞれ復員をみた。日本側は非常に誠意を以てことに当たっているやうで、報復は不必要な流血の惨を見ることなく無事完了するであらうことを期待する」と、コーンパイプを燻(くゆ)らしたのである。
 このような因縁の交わりのもとで織りなす敗北と勝利のさまとは事実としての奇跡であった。
 いにしえより日本の四季は、朝の凛(りん)に夜の幽という。マッカーサーが初めて訪れた日露戦争の当時、日本には楚々(そそ)とした野趣の漂う日本人の長閑(のどか)な凛とした生活があり、表には近代文明へと生き急ぐような変貌ぶりで国勢の絶頂を幽(かそけ)く見せつける滞在期間があった。その絶頂から凋落までが40年、そのすべてが戦争に尽くされた不毛の時間であったわけだ。
 昭和二十年(1945年)9月2日、東京湾の戦艦ミズーリ艦上で日本の降伏文書調印式が行われた際、嘉永七年(1854年)の開国要求を果たした折りの、ペリー艦隊の旗艦「ポーハタン」号に掲げられていた米国旗が本国より持ち込まれ、マッカーサーはその旗の前で調印式を行なった。このセレモニーを演出してみせたマッカーサーの意図が、大戦の一切が不毛であったことを物語っている。
 人間どうしが互いに理解しあうことが困難なのは、しかし、国家と国家とのつながりだけなのであろうか。同じ時代を生きた人間どうしの心にも、語りがたい体験の落差として、孤独の深淵(しんえん)は今もぽっかりと口を開いているではないか。
 マッカーサーやアインシュタインの孤独が不毛なものであるなら、大日本帝国の情熱もまた不毛なものであったかもしれない。にもかかわらず、どんなに徒労に終わった情熱でさえ、やはり人生の固有な一駒をなしているし、人間はどの時代に対しても、それぞれの夢を抱くことに変わりはない。
 現代の日本と自由な交渉を持つアメリカを、戦後の解放の所産と見ることもできなくはないが、かっての戦争が人間に与えた痕跡は、まことに複雑を極めたものであった。特に原爆の、その苦痛は量り知れない。

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 人が末期に見る色がどんなものかは知る由もないが、これに対し、死体とはまったく沈黙の世界である。ひたすら静謐(せいひつ)なのである。そこには人間を限りなく誤解させるほどの静けさがある。
 その人の死とは、冷然と人間界を無視して勝手に動いてゆくものではないであろうか。人間とは卑小であるから、と、済ますのでは悪意に翻弄された人間の心の傷が永遠に癒えることはない。そんなはずはない。老人は、同世代の死者にたいして拘泥(こうでい)せずにはいられないのである。
 たしかに人間は卑小かも知れぬ。だが老人には、百歳になろうとするまでを生き永らえて享けた命のあることの意味として、仏の済度に洩(も)れた衆生(しゅうじょう)を救うために現れる未来の仏も人間にはあるような気もする。そんな老人の、花そとば、とは、あらゆる死者たちに化粧を施し、哀しくも美しく弔うことである。
 古閑貞次郎という男との最初の出逢いを想い起こそうとするのは、今日が彼の祥月(しょうつき)であるからで、高札を眺め終えた老人の安倍富造は、茅葺きの門前で一礼を終えると二人の青春を描き起こした。

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                             第⑪話に続く
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   東福寺にある芬陀院。雪舟による作庭。



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小説『五円風土記』 第一部「花そとば」 第⑨話

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     第一章 八瀬童子(やせどうじ)   


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      七  高札の聲 (こうさつのこえ)   



 東福寺(とうふくじ)は、京都市東山区本町にある臨済宗東福寺派大本山の寺院である。山号を慧日山(えにちさん)と号する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は九条道家(くじょうみちいえ)、開山(初代住職)は円爾(えんに)で、京都五山の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄えた。明治の廃仏毀釈で規模が縮小されたとはいえ、今なお25か寺の塔頭(たっちゅう、山内寺院)を有する大寺院である。
「たしかに・・・、一杯のカルヴァドスには、人を騙して奇跡を起こす力でもあるようだ・・・」
 東福寺駅へと歩きながら雨田虎彦は、駒丸扇太郎から昨年のフランス話を聞かされつつ味わった黒いカルヴァドスの一瓶を想い泛かべた。
 フランス留学をした男だけあって扇太郎は「南フランスでは呑まない北西部フランスの酒である」と言っていたが、醸造されながら完成に至らぬ(存在しないワイン)というものが、葡萄の育たないノルマンディー史には無数に存在した。そうした日陰の存在を扇太郎は「挫折の裏面史」だと物憂い顔で語っていた。
 そう聞かされてみて口に含んだワングラスの味わいには、たしかに挫折の裏面史にあるカルヴァドスならではの哀しい土に醸された慟哭でも嗅ぐような香気がある。人により嗜好は異なるであろうが、それは扇太郎が語るように、しばしば現実に存在するボルドーやブルゴーニュの上質ワインよりもやはり刺激的だ。風土を抜きにしては語れそうもない、その快い刺激は「あらかじめ挫折することで・・・」生まれた。
「奈良や京都の都こそが、あのカルヴァドスの一瓶と同じではないか・・・」
 と、そう思える虎彦には、戦乱絶え間なく継いできた日本の都なのであることが、一瓶のカルヴァドスが醸し出す現実に存在して図太くも繊細な林檎の味わいなのである。

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 カルヴァドスが珠玉の一瓶であるというには、虎彦にとって、この酒がひたすら凝縮されたものだということがなければならない。それは天体を語る長大なものではなく、わずか2000年ほどの土地に織りこまれた一片の布切れのようでありながらも、そこからは尽きぬ物語の真髄が山水絵巻のごとくにいくらも流出してくるということである。虎彦は日本の国が古来からそうであったように、現代もそうあり続けて欲しいのだ。
 そう希望すると、源氏物語、の作品が日本の近代文学史上の最高成果に値する位置に輝いていることを、虎彦は改めて重く思わねばならない。この一作だけをもってしても紫式部の名は永遠であってよい。したがって、光源氏が数多の恋愛遍歴を繰り広げつつ、王朝人として最高の栄誉を極める前半生で始まり、源氏没後の子孫たちの恋と人生で結び終えるここには主題から文体におよぶ文芸作品が孕む本格的な議論のすべてを通過しうる装置が周到に準備されているということではないか。時間を経過させ人が読み砕くほどに、仏教思想を織り交ぜて描くこの源氏没落後の恋物語は未完なのだ。未完ゆえに常に希望を蓄えている。
 すると光源氏が抱えこんだ陰陽の世界というものが、現代の我々の存在がついに落着すべき行方であって、そのことを紫式部がとっくの昔から見据えていたということ、しかもその存在の行方を描くには、いっさいの論争や議論から遠のく視点をもって叙述しなければならないことを知っていたということ、虎彦は今そのことにこそ触れなければならぬように思えた。眼で追えば届きそうな東福寺以南の宇治までの距離にある風景が、橋姫、椎本、総角、早蕨、宿木、東屋、浮舟、蜻蛉、手習、夢浮橋の十帖なのである。

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「紫式部の文体が言霊(ことだま)であるのなら、人はたゞ唱えるだけでいい。人は式部の吐いた平安の言葉を、たゞひたすらに聞くだけでいい。それが言霊の効能であろう・・・」
 東福寺駅で香織と立ちつくしながら扇太郎を待つ雨田虎彦は、さきほど夢の浮橋の暗渠をみた感触を抱きつつ宇治十帖でも覗き見るごとくに眼を細く鋭くさせていた。
「源氏物語が単なる女子供の手慰みという、そんなことはないでしょう」
 と、以前、駒丸扇太郎もそんなことを言っていた。
 その扇太郎という男は、幼い時からそばにいて父を見ていて、扇太郎には父が、学問や芸術に対して、山の頂を極める人のような、きれいな熱情を持っていた人のように、見えたという。扇太郎はそのような父の「きれいな熱情」をひたむきに追う影とでもなるように生きてるようだ。虎彦の眼には、それが彼の一生つづく道のように思われる。不思議だが、狸谷の扇太郎は、どこか懐かしい日本の何かを背負おうとする男なのである。
 そんな扇太郎が東福寺駅に姿をみせたのが午前9時であった。
「香織ちゃん・・・、おはよう」
 と、突然、背後から肩をポンと叩かれた香織は驚いた。
 臨済宗東福寺派の大本山として、また、京都五山の一つとして750年の法灯を連綿として伝える東福寺、そうして三人はその360余ヶ寺の末寺を統括し信仰の中心となっている境内へと向かった。

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 東山月輪山麓、渓谷美を抱く広々とした寺域に、由緒ある大伽藍が勇壮に甍をならべ佇んでいる。
 その東福寺の名は「洪基を東大に亜(つ)ぎ、盛業を興福に取る」と、奈良の二大寺にちなんで名付けられた。摂政九条道家が、奈良における最大の寺院である東大寺に比べ、また奈良で最も盛大を極めた興福寺になぞらえようとの念願で、「東」と「福」の字を取り、京都最大の大伽藍を造営したのが慧日(えにち)山東福寺である。嘉禎二年(1236年)より建長七年(1255年)まで実に19年を費やして完成したという。
 通天橋より眺める洗玉澗の紅葉の美しさには、通天もみじと言われるトウカエデが京都で一味違った紅葉の趣を添えてくれるのであるが、冬枯れた木立に埋もれるようにある天通橋の肌を刺す静けさは、本堂へと渡ろうとする三人の心を引き締めていた。
 方広寺のものとは違う「京の大仏」が東福寺に存在する。それは高さ15メートルほどの坐像で、奈良の大仏を意識して作られた京の大仏である。だが明治14年の火事で焼けてしまう。現存するのは片手のみだ。その巨大な大仏の片手は、本堂に安置されている。
「じつは・・・、焼け遺されたこの大仏の片手と、阿部家とには、不思議な因縁がありましてね・・・」
 と、片腕をじっとみつめる虎彦に、駒丸扇太郎はそう静かな口調で語りはじめた。

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 まことに細々とした弧(こ)を描く小さな列島がある。
 西洋の野心家らの眼にはそのように映っていた。
 極東に隠れるように陰(かげ)り、かたくなに国を鎖(とざ)したこの小さな島の連なりを敷島という。これが幕末に日光権現が弛緩して古きを捨てようとする日本という国の夜明け前の姿である。
 嘉永五年、そんな日本に迫りくる異国からの密かな一団があった。
「あの日本を補給基地として活用すれば、清国は近くなる。東海岸からインド洋経由で134日かかっていたものが、西海岸から太平洋経由でわずか18日で行けることになるのだ。じつに驚異的な時間短縮が見込まれる。ヨーロッパのアジア戦略に対抗するためにも、開国は是が非でも実現したい」と、
 餌を求めて飛び回る鴎(かもめ)の群れをみすえながら、老司令官ぺリー58歳はつぶやいた。

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 大統領の親書を携えたこの艦隊は、1852年11月(嘉永五年)にアメリカ東海岸のバージニア州ノーフォークを出航した。フリゲート艦ミシシッピ号を旗艦とした四隻の艦隊である。カナリア諸島・ケープタウン・シンガポール・香港・上海・琉球・小笠原諸島を経由して浦賀沖へとやって来た。1853年7月8日(嘉永六年六月三日)、ペリー率いる米海軍東インド艦隊の黒船来航がこれである。目的は開国の要求、ペリー代将はこのときフィルモア大統領から、琉球の占領もやむなしと言われていた。この年は、アメリカ国独立宣言から77年の節目となる、じつに記念すべき喜ばしい新たな希望の年でもあった。
 7月4日がその記念日にあたることから数十発の空砲で祝した。蟻(あり)が砂糖の山に群がるように浦賀浜にとりついた江戸の民衆は、突如と現れて空砲と黒煙を吹く、その船団の異様な大きさ、黒さ、怪しさにド肝を抜かれ、我先にと逃げ散った。
 ペリーの日本遠征記によると、二度の来航で百発以上の空砲を祝砲、礼砲、号砲の名目で撃ったという。結果、耳をつんざくような音に、江戸中が大混乱を巻き起こした。アメリカは、このようにして日本の鎖された封建の正門を黒船の大砲を翳(かざ)して強引にこじ開けた。
 翌1854年、ペリーはすでに香港で将軍家慶の死を知り、国政の混乱の隙を突こうと考えていた。二度目の恐喝に屈した江戸幕府はアメリカの開国要求を受け入れる。
 約一ヶ月にわたる協議の末、幕府は返答を出し、二つの不平等条約(長崎、下田、箱館、横浜などの開港や在留外国人の治外法権を認めるなど)を締結されてペリー艦隊は6月1日に下田港を去った。
 この黒船が開国へのトリガーであり、開国が明治維新へのトリガーとなる。
 産業革命期の世界の列強は、大量生産した工業品の輸出拡大の必要性から、インドを中心に東南アジアと中国大陸の清への市場拡大に急いでいた。後にそれは熾烈な植民地獲得競争となるが、競争にはイギリス優勢のもとフランスなどが先んじており、インドや東南アジアに拠点を持たないアメリカ合衆国は、清国を目指すうえで太平洋航路の確立が必要であった。
 また、欧米の国々は日本沿岸を含み世界中の海で「捕鯨」を盛んに行なっていた。これは、夜間も稼動を続ける工場やオフィスのランプの灯火として、主にマッコウクジラの鯨油を使用していたからである。太平洋で盛んに捕鯨を操業していたアメリカは、太平洋での航海・捕鯨の拠点(薪、水、食料の補給点)の必要に駆られていた。

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 永らく閉ざされていたこの敷島から、三本マストの蒸気船「咸臨丸(かんりんまる)」百馬力で米国桑港(サンフランシスコ)へと船出し、初めて太平洋横断を果たしたのが1860年(安政七年)のことであった。出港から到着まで、じつに37日を費やしている。
 洋行の目的は、日米修好通商条約の批准書を交換するためで、遣米使節団一行77名がアメリカ軍艦ポーハタン号(黒船)にて太平洋を横断するに伴い、咸臨丸はポーハタン号の別船として浦賀より出港した。この渡航より八年後の明治、日本はアジアで最初の西洋的国民国家体制を有する近代国家として誕生することになる。
 ご一新の、これが「ミカドの国」という小さな帝国であった。
 だが国名は、いかにも大きく「大日本帝国」と名付けられた。
 この小さな帝国に、ダグラス・マッカーサー は二度訪れている。初めて訪れた1905年(明治三十八年)とは、それまで世界史の中で隠れ隠れしていた小さな島国が、あたかも神風を吹かすがごとく、大国ロシアとの日露戦争に勝利し、ポーツマス条約を締結させて、大日本帝国の名を世界の大国らの前に堂々と知らしめた年である。
 フィリピン植民地総督のアーサー・マッカーサーの来日の目的は、駐日アメリカ大使館付き駐在武官としてこの日露戦争を観戦することであった。この時に「父と共に私も副官として観戦した」と後年に自身でほのめかしてはいるが、正しくはダグラスのみポーツマツ条約の締結後に遅れて来日した。いずれにしろ、ロシア帝国を破ったこの小国の想定外の変貌(へんぼう)が25歳のマッカーサーの眼にはどのように映ったのであろうか。またこの年の6月にはアルベルト・アインシュタイン(当時25歳)が特殊相対性理論を発表し光量子仮説を導入するなど、物理学の奇蹟の年といわれた。

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 日本の近代には二つのエポックがあり、係わる大きな二つのメイド・イン・アメリカがある。一つは開国を強要した「黒船」であり、二つは終戦を決定づけた脅威の「リトルボーイ」である。対象である世界大戦の上に何らかの幻想を織りあげるとすれば、これらは数奇な運命として連なるのだが。
 老人が山王社北にある左右庵を訪ねてきたのは、或(あ)る晩秋の夜であった。
 秋はものうく熟(う)れきっている。
 やわらかな雨打(あまうち)、そんな夜であるから、門前は呆(ほう)けたように閑(しず)かである。20年ぶりにみる、小さな茅葺(かやぶき)の門はしっとりと濡れていた。

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 門前には「面会謝絶」の立札がある。濡れるにまかせて老人は茫然(ぼうぜん)と立ちつくした。
 但し書きに「やむなく門前に面会御猶予の立札をする騒ぎなり」と添えられている。それは誰にともなくつぶやいているのではなく、矛先(ほこさき)をぴたりと老人に向けていた。
「軍人を捨てたら、私に何が残る。もう、疲れたよ」
 慷慨(こうがい)の士が、それらしくなく呻(うめ)きながらこう吐き捨てた。
 初めて聞く弱音であった。老人の遠い記憶の中に、この言葉だけは今も鮮明にある。国事に悲憤して泣いた落胆のそれは、蜘蛛(くも)の巣の糸が心にからみついた後味の悪さのように、どのように時を重ねようとも落ちなかった。
「軍人として、君は卑怯(ひきょう)だよ・・・」
 と、即座に答え返し、老人は彼の不甲斐なさを罵倒(ばとう)して詰(なじ)ったのだ。ただし、腹に据えかねて侮辱したのではない。あふれ出ようとする大粒の涙をはじき飛ばして、敢(あえ)えてそのような促し方をした。死に臨んで潔(いさぎよ)くあるべきだという、軍人としての未練が厭(いと)わしく感じられたからだ。
「なにっ」
 冷静な老人の侮辱に、精気を失いかけてはいても、目鼻をくしゃくしゃと寄せて相変わらずの怒声で仕返してきた。しかしそれは一瞬、腸(はらわた)を噴き出して嘶(いなな)くような只(ただ)の一言でしかなかった。
 敗北を背負った軍人が、最後の力をふりしぼって空をかく声であった。そうしてそのまま、つんのめるように前に倒れたが、その眼はまだうっすらと血走っていた。
 一睡もせずに思い詰めた末の言動であったはずだ。軍事裁判の前に自害する軍人の情報を得るたびに、今日は死ぬか明日は果てるかと気を揉むことに、疲れ過ぎていたのかもしれない。そこには武人として人の上に立ったからには、という自負と自責とがあった。
「気の済むようにさせてくれ」
 と、律儀で強情な性(たち)であるからこそ、老人もまた常軌を逸したかに、冷たくそれを諌(いさ)めようとした。
「だってそうだろう。国民にこれ以上苦労をかけて済まないとは思わないのか。日本軍は敗北した。だが国家には回復の道もあろう。その事後処理という重大な任務を放棄し、屈辱を恐れて自害して果てた軍人と等しく、みずからの面目ばかり立てようとしているのではないか。軍人の性(たち)で置き去りにされた国民は一体どうなるというのか」
 睨(にら)んだ通り、やはり苦(にが)り切った顔で首を振り、呻くような声を切れ切れに漏らした。
「しょせん復員に帰した軍人に、仏の救いなどまやかし事さ。俺も軍人であったが、俺は生きて償いをしたい。確かに一度はお前と同じように自害の道を選ぼうとした。しかしそれは外から閂(かんぬき)をしたよ。どうだろう、惨めで辛い道だが、もう一度、同じ道を二人して歩こうじゃないか」
 終戦後の、あたりをはばかる押し殺した二人の会話には、言いようのない重苦しさがあった。
 詰(なじ)られた親友はしばらく地べたに腰をお落としたままでいた。隔意のない間柄であるからこそ老人はあえて平然と無造作に応えたのであるが、親友はスィと立ち上がると、抉(えぐ)るような凄まじいばかりの号泣になった。老人もまた棹(さお)立ちで水洟(みずばな)をすすり上げながら泣いた。
 高札は人を拒むものではない。しかし何とも皮肉な目をして老人を見下ろしていた。
 庇(ひさし)からの雨だれが、かすかな光をともなって立札に落ちて、しずくがその字面(じづら)を這(は)うように流れると、また雨垂れとなり、地へとしたたりながら老人の足元に落ちていた。

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「このままでは、ただ、古い日本を信じて死んだ、ということになるよ」
 と言い遺(のこ)そうとしたので、肩をぽんと叩いてやったんだが、彼は妙に生臭い匂いがした。しかし初七日の夜に骨壷のある部屋に入ると線香の匂いに混ざって、生臭さもあの世へと紛(まぎ)れたようであるから、恋しい人の清らかな名をそっと呼んであげた。
 彼が生き永らえることの苦しさにはその名への呵責(かしゃく)もあったからだ。許嫁(いいなずけ)の「妙子さん」20歳が無差別の東京大空襲で落命している。右腕をもがれながら身ぐるみ焼け爛(ただ)れて転がるようにもがきながら他界していた。
 生前はその名さえ一言も語ることはなかった。その古閑(こが)貞次郎は20年前に他界したのである。
「古い日本・・・か」
 老人は彼の臨終(いまわ)の言葉を改めて起こすと、ぐっさりと心につき刺さるようで気持ちがめいるのを感じた。それは言葉にも何もならない、大正、昭和、平成と継ぎ、やがて百歳を目前にした老人の心の襞(ひだ)にべっとりと貼り付いた、まだらな感情の沈殿でもあった。
「堪忍(かんにん)や、ほんとうに堪忍や。お前だけではない、私も古い日本の雨垂れなのかも知れない」
 老人はしばらく痛ましげな面持ちで高札を見廻していたが、その高札の中に、野末を吹き渡る風のような、海原(うなばら)に渦巻く潮騒(しおさい)のような音をきいた。否(いや)、訊(き)かされた、すると老人は意外だった。
 生前、貞次郎は、高札が古くなると真新しく立て替えていた。
「読めなくてはこの世に何の役にも立つまい。古臭くては、これが、ここに立つ瀬もあるまい」
 と、剽軽(ひょうきん)にさらりと言って、その、のんびりとした声音(こわね)が老人の耳底に今も棲(す)みついている。
 左右庵はこれまでに幾度となく訪れてきたが、雨の日の夜は数少なく、しずくが垂れながら地を洗っている門前の立札をながめながら、それらが貞次郎の面影を静かに洗い鎮めるようで、確かこれが三度目の雨夜であることを覚えると、老人の心を波のような懐かしさで潤した。
 焼けただれた焦土の上に、やがて緑の草が生えようとするころに立てられた高札である。永遠の沈黙のつもりでいても、これはもはや、無(む)の沈黙としか理解されない立札であった。
「なあ貞次郎、そろそろ、意地もたいがいにして和睦(わぼく)をしようじゃないか」
 何かに抗(あらが)うように老人は吐き捨てた。
 狂うには多くのことを知り過ぎたのだ。只(ただ)やる瀬なくなる、それを堪(こら)えるために、老人は少し角度を変えて高札をながめた。
 立札がいう「騒ぎなり」とは、日本政府が社格制度を廃止させた騒動のことである。
 昭和21年2月2日、神道(しんとう)指令により神社の国家管理が廃止されるのと同時に社格制度も廃止された。神道指令とは昭和20年12月15日にGHQが日本政府に発した覚書の通称である。覚書は信教の自由の確立と軍国主義の排除、国家神道を廃止し政教分離を果たすために出されたものであり、「大東亜戦争」や「八紘一宇」の語の使用禁止や、国家神道、軍国主義、過激なる国家主義を連想するとされる用語の使用もこれによって禁止された。
 この覚書「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」に従って、日本国の神社の性格が解体されたのである。
 それまで山王日枝神社は、神祇官が祀(まつ)る神社の官弊(かんぺい)大社として一等に列格されていた。高札はこれを廃棄させられた側の憤慨の証であった。貞次郎という不器用な男は、高札を立て続けることに固執した。




                             第⑩話に続く
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         東福寺駅・・・京阪本線東福寺駅を通過する8000系


         
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  つきの暦  2012年12月

  つきの暦 2012 12



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小説『五円風土記』 第一部「花そとば」 第⑧話

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     第一部
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     第一章 八瀬童子(やせどうじ)   


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      六  亡国の泡 (ぼうこくのあわ)   



 一杯のカルヴァドスには、人を騙して奇跡を起こす力でもあるようだ。南フランスでは呑まない北西部フランスの酒である。醸造されながら完成に至らぬ(存在しないワイン)というものが、葡萄の育たないノルマンディー史には無数に存在した。この挫折の裏面史にあるカルヴァドスは、しばしば現実に存在するボルドーやブルゴーニュの上質ワインよりも刺激的だ。これは、あらかじめ挫折することで、現実に存在している図太くも繊細な林檎の味わいである。

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 そうして眼を閉じてみる駒丸扇太郎の脳裡には、三十数年前の昨夜、扇太郎がリゾート地「Deauville(ドーヴィル)」にいた眼の記憶が泛かんでいた。
 夏場しか賑(にぎ)わいのない小さな街である。ノルマンディー海岸を見終えてから、競走馬とカジノ場の雰囲気を味わいたく数時間立ち寄った。そのドーヴィルからパリまで車で約二時間、深夜、扇太郎は、A13の高速道路をひたすらと走り終えると、Paris(パリ)7区街にある「Hotel(ホテル) du Cadran(デュ・カドラン)」に着いた。現在のなかに過去が存在している。同じように、未来も現在のなかにある。もうろうと寝て、それでもやはり早朝には、目が覚めて、扇太郎はとりあえず新聞を買いにホテルを出た。
 7区街にあるホテル・デュ・カドランは市のほぼ中央、このホテルからは、エッフェル塔やシャン・ド・マルス公園までほんの数分である。
「ああ~、今朝はカブト虫の夢に、起こされずに済んだ。ようやく・・・・」
 と、歩きながら朝一番の背伸びをする扇太郎は、仰いだパリの青い空に、もうカブト虫が飛んでいない事が何よりもまず爽やかな出来事であった。
 南フランス地方では、収穫期を控えたフランス葡萄(ぶどう)の「カベルネ・フラン種」に大量のカブトム虫が集まり、果汁が吸われてしまう被害が発生していた。
 その防除のために扇太郎はフランスまで出向くことになった。普段は、日本の森林を巡ることが多い扇太郎である。甲虫類学を専門とする、最近の扇太郎の仕事はもっぱらナラ枯れ被害の調査と対策であった。そんな日本での調査実績が、フランス政府に高く評価された。
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 南フランス地方のぶどう畑の収穫は八月には終わる。
 その収穫前に扇太郎は「エクス・アン・プロヴァンス、ボルドー、ブルゴーニュ」のぶどう畑を巡る調査研究を依頼された。約一月の長丁場の仕事を成し終えた扇太郎は、帰国前に、束の間の休暇を取ることに決め、パリ近郊で過ごすことにした。
「休暇ほど早く過ぎ去るものはない。ああ、残り後六日か・・・」
 パリでの休暇滞在は十日間の予定である。扇太郎はすでに四日を使い果たした。せめて後十日欲しいがと未練がましい扇太郎は、欲張りな目配りを左右の建物に触れさせながら、シャン・ド・マルス通りを右に曲がると、足早にセーヌ川に向かうブルネド通りへと出た。
「有美子さんは、今、どの上空辺りか・・・」
 と、ふと仰ぐ朝の上空には、パリの灯りを待ちわびて機上にひとりいる人影が恋しく想われた。昨日、9区オマル通りのホテルから7区街へと変えたのは、ここがセーヌ川の南岸に面しているからで、明日には、有美子が日本から、初めてのパリ観光に到着する予定であった。
 そのセーヌ川に沿った地域のうち、イエナ橋(Pont d'Iéna)より上流の、約8キロの区間は、この都市が辿(たど)ってきた歴史を色濃く表しているが、扇太郎は、特にその中のマレ地区、16世紀から17世紀にかけて王侯貴族の豪華な館が建てられた界隈を、妻と過ごす最後の日にあてたかったからだ。

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 ホテルを出ると、新聞というより、じつは、パリの朝市が見たかった。
「郊外のアントニー、そのマルシェにでも、バスに乗って出かけるのも悪くはないが・・・」
 と、思うも、マルシェによって売っているものも違えば、集まる人も違う、決めかねながら歩いた。
 七月のマルシェなら「pêche plate(ペッシュ・プラット)」を探すのもいい。これは日本人には形が珍しい饅頭(まんじゅう)をパンと手で叩(たた)いて潰(つぶ)したような平らな桃で、酸味を抑えた感じは、甘さを引き立たせてジューシーでもある。
 だが、フランス各地で生産されているチーズの数は、400近くにのぼると言われている。ソーセージ同様、その魅力にはまり込んでしまう食品であるから、今日はチーズの集まるマルシェで、カマンベールとシェーヴルをひとつずつ購入しようと、扇太郎は考えていた。
 シェーヴルは非常に種類が多いのだが、白くてフレッシュなものほど淡白で、かたく乾燥したものほど香も味も強くなる傾向があると聞いていたし、郊外のマルシェならば期待できると、灰をまぶしたタイプを選べるかどうかを楽しみにしていた。
「有美子さんと、シェーヴルで、祝杯だ」
 パリに来たのなら、あちこちのマルシェで専門のスタンドを見つけては、「食の国・フランス」を実感したいものだ。十日間の休暇となると、そうそうに取れるもではない。しかも愛妻と丸三日はパリの休日を過ごすことになる。今回のパリは眼と口の滋養、目的がそうであるから、その前に、フランスの活字も補給したい。とりあえず扇太郎は新聞を買うことにした。

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「えっ、軍隊か?・・・これは、・・・・」と、
 角を曲がり終えた、眼の前の一瞬、扇太郎に、ドキリと鼓動が止まるような感覚が残った。そのまま緊迫した眼で早朝の通りをのぞくように見た。
 すると、凱旋門の周りやシャンゼリゼには、戦車や装甲車いっぱい並んでいた。
 未(いま)だ人通りも少ない、歩く人といえば、まばらな散歩者ぐらいのもので、しかも無言の大軍が通りを占領している、と非常事態を想像してしまうほどの現実である。
 何事かと思ったが、キオスクで買った新聞に「Fete nationale」の文字があるのを読んで事情がようやく飲み込めた。今や日本の市街地などで、一般人がたやすく見られるはずもない光景ではないか。「今日はパリ祭=フランスの建国記念日なんだ」と驚いた。行進は十時からとあった。
 これは、ぜひ観たいと思い、パリ郊外の街ル・ヴェジネのマルシェなら歩いても行ける、明日の予定に加えることにしようと、また、ひたひたとホテルへと引き返した。
「ふむ~う。やはり、日本は不参加か。フランスは参加、しかし入場式には出ないのか」
 扇太郎は朝刊「Le Figaro(レ・フィガロ)」に眼を通しながら、どうやら、日本を含む六十七ヶ国のIOC加盟国がモスクワ五輪に参加しないことを表明しそうだという記事に、予想は抱いていたが、ソ連のアフガニスタン侵攻の影響を強く受け、西側諸国の集団ボイコットという事態に至ろうとする経緯が妙に胸を暗くさせた。その影で小さく、小さく、鈴木善幸 首相内閣誕生の記事がかすむように載せられていた。
「さあ~、ぼちぼち歩いて行くか。パリ祭・・・建国の日・・・フランス革命に・・・」
 この日は、フランス各地で一日中花火が打ちあげられるという。そのこともフィガロ紙で確かめた扇太郎は、革命の発端となったバスチーユ監獄襲撃に関して特集された物語風に組まれた記事が興味深くて、二度も読み返した後に、ジャムとバターを塗ったバゲットにカフェオレで軽く朝食を済ましてから、行進が行われる190年祭を盛り上げようと飾り立てられたシャンゼリゼ通りへと向かった。
「昨日までの暑苦しさ、あれは、一体どうしたというのか。日本の中春ぐらいの陽気じゃないか」
 1980年7月14日のことだ。しかし七月とはいえ、パリの盛夏にしては、めずらしく爽やかな気温で、適度な潤いで街を包む空気は、扇太郎におだやかな日本のやや南風の春を感じさせた。
「たしか、午前中が軍事パレードだと聞いたが・・・」
 パレードは盛大な花火の打ち上げで開始された。エコール・ポリテクニーク、サン・シール陸軍士官学校、フランス海軍兵学校の生徒による行進でまず幕を開け、歩兵部隊、機械化部隊が登場する。シャンゼリゼの両側を埋め尽くす人々、大統領官邸前のひな壇には各国の高官たちが並んでいた。その上空を、フランス空軍のアクロバット飛行チームである、パトルイユ・ド・フランスが華を添えた八機構成の編隊は、まさに「神業」の名にこそ相応しいヨーロピアン演技飛行を鮮やかに行なった。

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「18世紀、フランス王太子妃、かのマリー・アントワネットが、贅を尽くした生活をしていた頃、フランスの国民は、毎日食べるパンすらないほど貧しい生活をしていた・・・確かにそうであるが」
 パリ祭の歓喜は革命者らの歓喜でもあるが、革命の当時、確かなことは、開放によって凋落(ちょうらく)し崩壊した王家のみが「家」と呼ぶにふさわしかったわけで、清寧(せいねい)な世となった今に、革命のみを尊ぶ、これが充溢(じゅういつ)した生命力を得るための祭典になるのか、と戸惑うと、やや扇太郎はしょんぼりとなった。
 祭典をみ終えた扇太郎は、その官邸裏のカフェの道路に面したオープンエアに陣どることにして、マロニエの影を風がさわやかに洗っている席で、デカフェはカフェイン抜きのエスプレッソであるが、その渡仏してはじめてのコーヒーを啜(すす)ろうと、カップを持ち上げた。だが、そのとき・・・、
 帰還しようとする装甲車が、ギーっという爆音をたて、巨大な犀(さい)が襲いかかるように鉄鋼の身体を揺らして、真正面で身構える扇太郎に向かって突進した。
「うおっ、いひぃ~ッ・・・・」
 一瞬のことで、扇太郎に防ぐ手立てなどなく、身を後ろに突(つ)っ張(ぱ)った。到底、大勢を整えるなどの余裕など扇太郎に与えられない。ただ、悲鳴を上げながら、眼だけを見開き、体は硬直してとても逃げる延びる隙(すき)などはなかった。
 装甲車は空(から)の椅子を二つ青空に跳ね飛ばして、扇太郎の席から50センチほどのところでかろうじて止まった。扇太郎はその不運で幸いな現実に、一度あの世へと吹き飛ぼうとした自身の胆(きも)を、ようよう引き戻すことが出来たような青ざめた気分の中で、その胆が未だに凍結した冷たい震えをともなって、さすがに声など出るはずもなく、呆然(ぼうぜん)と周辺を見渡していた。やがて、ハッチが開き、中から兵士が出てきたが、装甲車の上で何やら口論らしく騒ぎ立てる兵士二人の声が聞こえてきた。
「C'est votre défaite・・お前の負けだ」
「Vous avez fait une erreur exprès・・お前はわざとミスした」
「C'est ma victoire・・俺の勝ちだ」
 と、そう言い争って運転士らしき兵士が、大衆の面前で、ペッと車上に生唾(なまつば)をはき捨てた。どうやら運転士と同乗していた兵士とが賭けをしていたらしい。あのスピードで道路の角を曲がれるかどうか、を。扇太郎には、いかにもこれが「常敗フランス軍」らしい行状だと見えた。
 以来、南風を感じると、扇太郎は、春の訪れをパリ祭に感じた。パリの街で起きた「フランス軍が扇太郎を攻めてきた」一見パロディーな光景ではあるが、醜い行状がトラウマとなってしまったらしく、記念日の七月ではなく、春を感じる季節がくるころには、兵士らの口論を思い出すようになった。
「さあ~、今日でこの街での一人暮らしとも最期か。午後には有美子が到着・・・」
 どうやら昨日の微妙に快適な爽やからしき気温は、乾燥し過ぎた翌日にはありがちな気まぐれであるらしい。翌日、朝食を終えた扇太郎は、昨日パレード後の行状によぎる不快さをリフレッシュしようと、予定通りマルシェへと出掛けるため、フロントに立ち寄ると「古い歌の中に、パリはやはり春が一番、たとえ天気が気まぐれでも」という一節があることを聞かされた。そのフロントクラークは余程の旅の達人でもあるらしい。昨日の扇太郎の体験を見通せるはずもないのだが、外出しようとする客人の背に「パリはどの季節の時期でも活き活きとしていますからね」と、さりげないが、さも爽やかな言葉を掛けて送り出してくれた。
「La ville d'amitiés de Paris il comme vigueur qui devient en permanence libre de danger par toutes les saisons.・・・・・・・・・・」
 帰国後にも、そんなフロントクラークの素敵な笑顔と贈られた言葉とが、扇太郎の心に沁みるように、あるいは胸に描き込んでくれたように、パリで過ごした休暇の一切を、素敵な花束の良き出来事として束ねてくれたのであった。
 しかし「Une bulle, une bulle, une bulle.」と、聞こえたような、あの余韻は一体、何だったのであろうか。それがフロントクラークの言葉の余韻であったのかどうかさえ解らないのだが、送られた言葉の後を追うようにして、「泡、泡、泡」と、ささやくような声が聞こえた。気のせいなのだろうか。しかし、扇太郎がそうこだわるのには、ささやいたと思うその声が、かの装甲車が暴走した瞬間にも聞こえたような気がするからだ。扇太郎はあの一瞬、硬直はしたが、突進してきた状況の全てがスローモーション化された映像として眼に焼き付いていたし、ゆるやかに流れる光景の中では、なぜか装甲車の速度に合わせて身を躱(かわ)したのだが、ささやくのはその声か音か、同質のようで不思議なのだ。
「もう、あの日から21年経った・・・」
 ホテル・マルソー・バスティーユ(Hôtel Marceau Bastille)の窓からバスチーユ駅(Bastille)界隈を望みながら駒丸扇太郎は、21年前に感じた「弾けた泡の響き」の幽かな記憶を、ていねいに巻戻しつつ、しずかに耳奥へと曳き篭らせていた。バスチーユ駅のリヨン通り側の出口から徒歩5分程度で、さほど遠くなく、大きな通りから一本中に入っていて静かなホテルである。新世紀となった2001年7月、三度目のノルマンディー海岸を訪れた後、扇太郎は21年振りにまたパリ街にきた。
「あのとき、有美子がパリに到着する時刻までには、まだ時間の余裕があった。僕はそれまでに、もう一つ二つ済ませておきたいことがあった」
 前日歩いたバスチーユ駅界隈を眼に映しながら、扇太郎はその眼を21年前に重ねながら遠くさせた。そこには当時の有美子の微笑みがある。その笑みは同時に、10年前に他界した妻有美子の面影であった。
「君は面影で少し若いが、すっかり僕は老人になっている」
 バスチーユ近くに立つアリーグル市場(Marché d'Aligre)は、月曜を除く毎朝多くのスタンドが出ることから、周辺に住む住民に圧倒的な人気を誇る市場である。特に野菜や果物の安さは目を見張るものがあり、種類も豊富。フランスならではの食材や、季節ものも充実している。このマルシェはアリーグル通り沿いに並ぶのだが、つき当たりの広場には小さな蚤の市も立っていた。一通り雑貨やアンティークの掘り出し物を物色してみた扇太郎は、最後にカルヴァドスを一瓶余分に買い求めた。ここまでは、21年前と同じである。
 マルシェの地下が階段を下りて最寄駅、ライン⑧メトロのルドリュ・ロラン(Ledru Rollin)がある。しかし前日の扇太郎はライン①に直に乗るために、バスチーユ駅へと少し歩いた。バスチーユ広場を見てから、ライン①でモンマルトル方面のメトロ駅ポルト·ドゥ·クリシーへと向かおうと考えていた。しかし、そう考えたのは、1080年当時、旧バスチーユ駅が現存していたからだ。
 華の都パリとは地上の言である。地下は、そのギャップに唖然としてしまう。地上の醜さを、全部地下におしこめてしまったのではないかと思うくらい、日本人の眼には、その地下や地下鉄の薄暗さはまことに異質である。夜の地下は怖い。駅は全体的に古い作りになっている。だが唯一、ライン①番線のバスチーユ駅ホームからは空が見えた。
 ライン①メトロから空が見える駅はバスチーユだけである。セーヌ川にまたがってホームが建設されているために、bd Bourdon側から線路を見下ろすと、両方向の出入りを眼にその人模様を楽しむことができた。ただしこの駅には、もうひとつ忘れてはならないバスティーユ駅ならではの見所がある。それはヴァンセンヌ城Château de Vincennes方面行きホームの壁画だ。端から端まで描かれたフランス革命の絵巻壁画は圧巻であった。21年前はそこに興味を奪われて、前日は雨のためにマルシェで足を止めた。そんな扇太郎には二度も果たしそびれてしまって再び足を運ばせたい場所がある。そうして遠い当時の情景を想い起こすと、扇太郎はおもむろにホテルの部屋を出た。
 5号線のボビニーBobigny方面ホームには、バスティーユ牢獄の城壁の一部があらわになっている。駅出入口の一つはオペラ・バスティーユに連絡しているが、扇太郎は改めてその牢獄の城壁の名残りを確かめると、バスティーユ広場へと下りた。バスティーユ駅は、メトロ1号線、5号線、8号線が乗り入れている。1号線ホームはサン・マルタン運河の入り口であるアルスナル港に面する橋架上の地上駅である。ホームの屋根の上はバスティーユ広場地上部の端にあたる。そのバスティーユ広場にかつて存在したヴァンセンヌ郊外線のターミナル駅が旧バスティーユ駅であった。
 1859年開業。パリ東部ヴァンセンヌ方面への郊外線が走り、近郊への足としてパリ市民に利用された。特にジョアンヴィルなどのマルヌ川沿いにはガンゲットというダンスホール兼安食堂が並び、パリ市民の休日の行楽として愛用された。1960年代になると、この東部ヴァンセンヌ線および西部サンジェルマン線をパリ地下で結ぶパリ高速地下鉄RER A線の建設計画が始まり、その完成により1969年12月14日にバスティーユ駅は廃止された。その後展示会場として利用された後、1984年に解体され、今は現存はしない。跡地にはオペラ・バスティーユが建設され、フランス革命200周年記念日の前日にあたる1989年7月13日に落成した。21年前の扇太郎がパリを訪れた1980年、駅機能は失われていたが、旧バスティーユ駅の全景は遺されていた。
 そのターミナルの旧バスティーユ駅跡地は、革命200周年のシンボルとしてオペラ・バスティーユ(Opera Bastille)として生まれ変わっている。バスティーユ広場は、フランス革命の発端となった場所だ。1789年7月14日、当時牢獄だったバスティーユ要塞を市民が攻撃し、フランス革命が始まった。広場中央の記念柱は、その革命をたたえるものである。その後この広場には、郊外線のターミナル駅ができた。1900年に開通したメトロ1番線が、バスティーユまで東西に走り、ここからGare de Lyonリヨン駅へ大きく曲がるのは、バスティーユが広場として重要な位置にあるだけでなく、この二つの鉄道駅を繋ぐためでもあった。
「これが、新オペラ座か・・・」
 旧バスティーユ駅の跡地であるその残像を、眼に泛かばせて広場に立つ扇太郎は、革命100周年にあたる1889年の記念建造物がエッフェル塔であることを重ねながら、「オペラ」と呼ばれるオペラ・ガルニエの旧劇場とともにパリのオペラシーンを支える、完成当時世界最大のオペラ劇場をしばらく眺めていた。
 そして扇太郎は広場周辺を少し歩いてみた。新オペラ座のある場所のバスティーユ駅から延びた線路は、高架橋を通って郊外のヴァンセンヌ方面へと延びて行った。この高架橋は赤レンガ造りで、現在は整備されてアーチ下がアトリエやカフェになっている。橋の上は緑道となっていて、緑の散歩道として歩くことができる。線路は廃線のため跡形も無く撤去されているが、いくつかの駅は残っている。廃墟として裏寂れているものもあれば、住宅や美術館に生まれ変わっていた。それらを眼に収めた扇太郎は、また足早にライン①番のホームへと向かった。
 パンテオン近くの自宅で、娼婦に看取られて死去したポール・マリー・ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine)は、遠からぬサン・テチエンヌ・デュ・モン教会で葬儀が営まれた。その彼が、パリ市17区のバチニョル墓地(Cimetière des Batignolles)に埋葬されている。多彩に韻を踏んだ約540篇の詩の中に、絶唱とされる作品を含みながら、その人生は破滅的であり享年51であった。扇太郎は彼のその墓前にカルヴァドスを注ごうと考えていた。

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 だがその駅のホームで列車を待っている途中で、扇太郎はふと、「彼の一生には酒・女・神・祈り・反逆・背徳・悔恨が混在した。晩年には文名を高めデカダンスの教祖と仰がれた」ことのクロノロジーが過ぎると、陰湿の漂う墓地は止して、バスチーユ駅を出て、パリ6区のリュクサンブール公園へと向かうことにした。
「Qu’as-tu fait(どうしたのだ)」
 と、いう聞き覚えのある声がホームに立つ扇太郎に泛かんだのだ。するとそこにヴェルレーヌの一篇がすんなりと重なった。
 メトロに乗ることを止めた扇太郎は、駅を出るとセーヌ川を南に渡り、ビストロが建ち並ぶカルチエ・ラタンの小道を足早に歩きながら脳裡にその詩を温めた。

 空は屋根の彼方に
    あまりにも青く、あまりにも静か!
 棕櫚(シュロ)の樹は屋根の上で
    その枝を揺する。

 ああ、あのときの君は、何をしたのだ
    今でも涙が止まらない、
 あのときの君は、何をしたのだ、
    君の青春は何だったのだ?

「これは、彼が監獄の窓から見上げた空の景色だ」
 狭い独房の中で纏めた無言の恋歌だというが、この詩作は、あわい気配のようなものとしての音楽ではない。そう思えると、『叡智』までの代表作をすでに書き終えて、売文稼業に身を沈めパリの場末を彷徨するヴェルレーヌの後ろ姿が泛かんだ。「君の青春は何だったのだ?」と、扇太郎自身への問いかけに変わった。すると彼のクロノロジーを、ちょうど逆回しにしたくなった。ちょうど、というのは、扇太郎がこの詩作に青年期に触れたからだ。右手首を撃たれたランボーより、銃口を向けたヴェルレーヌが人間として痛々しかった。
 サン・ジェルマン大通りをオデオン広場まで戻り、広場の交差点を右に折れロデオン通り(Rue de l 'odeon)に入りオデオン座へ向かうことになる。広場からオデオン座までの道は店も少なく、先ほど通ったサン・ジェルマン大通りの向こう側のランシエンヌ・コメディ通りよりも寂しい気がした。オデオン座は大きなロータリーのあるオデオン広場をかかえ、ホテルやレストランの入ったビルに囲まれている。一度目にパリを訪れた頃は、このオデオン広場に面したホテルに泊まっていて、角のレストランがいつもお客がいないので不思議に思っていた。だが、オデオン座の公演が終わる深夜にお客が入っていることを知り納得したことがある。そのオデオン座の裏に回るとそこはリュクサンブール公園の森であった。
「青春の、暗い出来事を哀しむのには、やはり明るい場所がいい」
 リュクサンブール公園にはヴェルレーヌを刻んだ立像がある。
 エッフェル塔を望めるその庭園のあちこちに、合計100以上の彫像、記念碑、噴水があるが、扇太郎はヴェルレーヌの前に佇むと、立像の足元を囲むように広がる緑の芝生へそっとカルヴァドスを注いだ。もう枯葉ではない、ランボーの季節とは違う「巷に雨の降るごとく わが心にも涙ふる」七月の若葉に一雨を降らすように落とした。

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                             第⑨話に続く
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         京都の四季と匠の技。


         
         京焼炭山協同組合所有の京式登り窯。



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   京都 花そとば



  つきの暦  2012年12月

  つきの暦 2012 12



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小説『五円風土記』 第一部「花そとば」 第⑦話

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     第一部
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     第一章 八瀬童子(やせどうじ)   


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      六  亡国の泡 (ぼうこくのあわ)   



 フランスには、葡萄のワインやコニャックでは語れない潮騒がある。
 その潮の音が幾重にも重なる駒丸扇太郎には、いつしか綻(ほころ)びの醜聞に耳を塞ぎたくなる惨めな色音の泡立ちとなっていた。とはいえ、潮流のストレートな攻撃衝動はすでになくなっている。このままでは過去の話には戻らないのである。
 戦禍の正体は、勝利者のシンボルで華麗に風化していた。何一つ汚れのない瞳のような海が扇太郎をみつめている。しばしそう見入ってみると、その大罪を訴えてやまない。扇太郎は不可思議な地上の星でも見る心地がした。人間とは、かくもゆゝしいことをする。
「いつでもそうだ。どこでもそうだ。痕(あと)はいつも机上の空論とさせる」
 と、扇太郎は開口一番に怒りに近い気勢をあげた。
 東福寺駅へと向かう香織の肩を借りて片足を曳きながら歩く雨田虎彦は、そう扇太郎がまず気勢をあげて語り始めたフランス滞在時での旅の話と、いかにも空しく語り続けた姿とを眼に鋭く泛かばせていた。

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 眼の前の波にたゞ美しさだけが遺されている。「1944年6月6日」という時間が当たり前ではなくなっていた。これでは、落胆を忘れ、人間は苦しまなくても済んだのではないかと、誤解してしまうではないか。しかし理不尽な埋没を許さない矜恃(きょうじ)さえあれば「腐ったリンゴはひと噛みでわかる」のだ。
「アメリカ軍は中部南太平洋の島々を次々と陥落、6月にはサイパン、テニアン、グアムなどマリアナ諸島への攻撃を開始した。その海は、この海とつながっている」
 すでに半世紀を過ぎた時間、本来なら煮詰まって一連の海は腐りきっているのだが、そうは感じさせない。常に、勝利者は悲しみの手応えを亡くそうとする。扇太郎は、どのように向き合うべきかについては、その「近現代の彫琢」をどう理解するかが、自身は今後どこにどう立ち向かおうとしているのかを、読み解くヒントとなることを密かに期待していたのだ。しかし、不毛な反目を見せるべき海の姿は消えていた。
「闘争の心理を、美しく誤魔化そうとする」
 この世には、誰にも感謝されない非情の泡沫(あぶく)というものがたくさんある。扇太郎にとっては、弾ける泡のその一つが、明治末期に編集された前衛の一冊であるのだ。
 この浜辺では何よりもその手垢に染められた一冊が示唆的であった。
 日本人に西欧の風物文物へのあこがれを『海潮音』が抱かせてくれた。上田敏の象徴派訳詩集の「選ばれし者の不幸」をそう思う者は、永井荷風がそうである。北原白秋がそうであった。あるいは三木露風がいた。カルヴァドス(calvados)の黒いボトルを片手に揺らしながらその「秋の歌(枯葉)」をつぶやくと、棄てられた戦場の淵を濯(あら)う異国の海峡は、神への冒涜さえもダンディーで、たゞ深く静かな淪(さざなみ)を聴かしてくれた。
 エーリッヒ・マリア・レマルク(Erich Maria Remarque)による第二次世界大戦後の逸作(凱旋門)にはたびたびカルヴァドスが登場し、この酒を有名にしたが、ドーバー海峡には、どうやら、この「りんごの酒」が確かに似合うようである。

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 レマルクは、第二次世界大戦中のパリを舞台に、ナチスの影におびえ復讐相手を追い続ける日々を生きる医師ラヴィックと女優ジョアンの鮮烈な恋を中心に、時代に翻弄されながらもひたむきに生き抜く人々を描いた。2000年には宝塚歌劇団によってミュージカル化されている。「おれは復讐をし、恋をした。これで充分だ。すべてというわけではないけれど、人間としてこれ以上は望めないほどだ」という。これは最悪の時代と境遇の中で精いっぱいに生きて、望みを果たし、ついに心の動揺が鎮まったときの主人公ラヴィックの心の底からの感慨であった。
「著者レマルクは、敗者の国を抜け出し、勝者の国を描いた」
 扇太郎がパリにあこがれたのは、まだ高校生の頃読んだこの「凱旋門」からである。ゲシュタポに追われるユダヤ人亡命医師、ラビックと天涯孤独な端役女優、ジョアンが、ナチの暗雲迫り来るパリで繰り広げられる絶望的な恋の物語を読んで、まだ見たこともない異国の町に思いを馳せたものである。

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 小説には凱旋門近くと思われる通りの名前がしばしば登場した。シャンゼリーゼ通りはもちろんだが、マルソー通りとか、エトワール広場、ピエール・プロシェール・ド・セルビエ通りなどといった、いかにもパリらしい通りの名前が次々に出てきて、小説を読んでいるうちに自分が行ったこともないパリの街中をうろついている思いにさせられたのである。だから、いつか海外に行けるようになったら、まず真っ先にパリに行って、ラビックとジョアンが歩いた街を歩きたいとずっと思っていたのであった。
 その望みが扇太郎にかなったのは1973年(昭和48年)である。
 凱旋門を自分の目で見、シャンゼリーゼの裏通りを歩いて、それがレマルクの小説と同じイメージであったことを確認したのだ。しかし、小説の中でどうしても理解出来ないことが一つだけあった。それはラビックとジョアンがパリの裏町をさまよった後に、必ずお酒を飲んでいたことだ。それも水代わりにである。ジョアンが「喉が渇いたわ」というと、「コニャックを飲むかい。それともカルヴァドスにする」とラビックが聞いている。これを読んでフランス人とは、喉が渇くとコニャックのような強いお酒を日常的に飲むのかと、そう思い驚いたのだが、後でレマルクが無類の酒好きから書いた文章と分かった。じつはカルヴァドスという林檎の酒がフランス産であることもこの小説で初めて知った。
「しかし小説でそれを知って、敗戦国の人間が、勝者の国に素直に憧れていいのか」
 という、しだいにそんな思いがつのる。自虐して見えてくる人間の逆(さか)しまがあることに気づいてきた。人間が繰り返す闘争の心理とは意外に単純なものだ。唯物である。父誠一は出征先の中国南方からレイテ島に征く途上で「兵站(へいたん)の補給がまゝならず、常に飢餓の恐怖と隣り合わせであったのだ」という。「戦争は物の不均衡(ふきんこう)から起こる」とも語っていた。日本では飼い犬の強制供出「毛皮は飛行服に、肉は食用に、大3円、小1円」とは、それはもう正気ではないほどに馬鹿げている。
「もう喧嘩はすみましたか。喧嘩をしてこそ初めて仲良くなるものですよ」
 と、毛沢東主席が田中角栄首相と握手した。扇太郎が初めてパリを訪れる前年の出来事だ。日中は戦後30年近く続いた対立関係を終え、国交正常化を果たした。その友好の会談の場であった釣魚台の迎賓館の一室には銀座「木村屋のアンパン」が用意されていたという。その田中首相の好物と引き換えに、翌年の日本には、パンダのぬいぐるみに大はしやぎする日本人の姿があった。そうした風潮に扇太郎の父誠一は「日本人はすぐああなんだから」と渋い顔をした。誠一は中国大陸を転戦して帰還した傷痍軍人であった。中尉として所属する第16師団は支那事変(日中戦争)が勃発すると南京攻略戦に参戦した。さらに大東亜戦争(太平洋戦争)ではフィリピン攻略に参戦し、マニラ陥落後フィリピンに駐屯した。だがレイテ島に移駐すときに機銃掃射にて負傷し傷痍者となった。その父が他界した7年後、ドーバー海峡を見つめながら扇太郎は父誠一の遺品である『海潮音』の序を見開きにして暫く佇んでいた。
 その序文の冒頭を引くと「詩に象徴を用ゐること、必らずしも近代の創意にあらず、これ或は山岳と共に旧きものならむ。然れどもこれを作詩の中心とし本義として故らに標榜する処あるは、蓋し二十年来の仏蘭西新詩を以て嚆矢とす。近代の仏詩は高踏派の名篇に於て発展の極に達し、彫心鏤骨の技巧実に燦爛の美を恣にす、今ここに一転機を生ぜずむばあらざるなり。マラルメ、ヴェルレエヌの名家これに観る処ありて、清新の機運を促成し、終に象徴を唱へ、自由詩形を説けり・・・ 」とある。

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 実際、永井荷風の「ふらんす物語」もこれによって誕生したようなものだ。父誠一は生前、秋深くなると切断された右足の付け根が冷えて痛むのか、義足を支える腰骨の肌を涙眼で擦り撫でながらよくこの詩を口号(くちずさ)んでいた。そうしてまで呟くのは「好き嫌いではなく。日本はまさに世界に正面から向き合わねばならないのだ」と侘しそうに語っていた。蛮行と過酷な戦争体験からくる平和への思いであった。
「誠一のような死闘の辛酸をなめた戦闘経験者世代は台湾に愛着があり、国交正常化と言われても素直には喜べない。しかし最終的には世間が日中友好ムードに流されていく。父が見せたあのときの渋い言葉の表情は、当時の日本人の心理をよく表していた」
 そういう口ぶりの、深いしわを刻んだその父の皮をむいたら、芯にはみずみずしい明治生まれの青年がいるのでは、と思わせたのだ。
 中国は国交回復後、友好の証しとして「カンカン」「ランラン」の二頭のパンダを贈り、日本はしばしそのパンダブームに酔いしれていたのだが、父誠一はそうした真下に他界した。相互の歴史認識、台湾問題など難題だらけの国交正常化交渉がまとまったのは、その交渉の背景に前年の米中接近、中ソの対立があったからだ。1972年9月29日の日中共同声明で、相互が大きな譲歩に踏み出せたのは、つまるところソ連国を会談のテーブルに乗せた軍事問題の取引である。この声明によって日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省することが声明に盛り込まれた。両国間のこれまでの不正常な状態は、この共同声明が発出された日に終了した、とする認識に父誠一はいかにも疑心暗鬼で否定的であった。5年後の1978年8月には日中友好条約が締結され、中国側は賠償金請求を放棄する代わりに、日本側からODA等の巨額な経済援助を引き出した。これがパンダ二頭分の代価であった。こうした決着の行為が不正常なのだ。
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「パンダさんが転んだ・・・か」
 日中友好条約後の9月に長女夕実が生まれた。祖父となった誠一はその3年後に他界するのであるが、生前の面影として、2歳半ほどの孫娘を子守する誠一は、達磨さん遊びを「パンダさん遊び」と揶揄しながらも初孫とする遊戯が、唯一憂さ晴らしらしく、じつに嬉しいそうであった。この義足では二つの小娘にもまゝならないと笑っていた。
 誠一は駒丸家の嫡男として明治38年に生まれた。遺品である「海潮音」は同年に初版されている。嫡男の誕生を祝賀する記念の一冊として祖父誠太郎が所望し買い求めたものだ。扇太郎が誕生したときも誠太郎は上田敏の『うづまき』、これは自伝的小説であるが、その復刻版を命名の下の床の間に飾り立ててくれた。それらは祖父の嗜好品ではあるが、駒丸家では代々上田敏が身近な存在として無意識のうちにあった。
「秋の日の ヴィオロンの ためいきの・・・」
 眼の前に「D-DAY」と同じ波濤(はとう)がある。訳詩は意味を伝えれば用が足りるものではない。英独仏三カ国語の詩の味わいを感得し翻訳するとは、想像を絶する語学力だ。「近代詩壇の母はまさしくこの人である」とは、北原白秋が上田敏について語ったことばであった。一体どんな男かと、感嘆してそう想う扇太郎は、どうしても、青白い兵士らの生気をくみとらねばならなかった。生前、父誠一には自身が軍人であったことが、結果として村の若者を戦場に向かわせたことに、自責に似た思いがあったからだ。
 人を駆り出す役目がそう呵責させた。その誠一は戦後、公職に就かず、ひっそりと暮らした。そして海潮音は祖父誠太郎から父誠一に継がれながら遺された品である。そうした戦時の経緯を自らへと引き取るために扇太郎は覚悟すべき認識を持たねばならない。上陸作戦の暗号とされたこの詩を読み聞く度に、誠一は胸がかきむしられる様な、全体を強く縛られる呵責に打たれたという。今は淡い輪郭しかもたないが、かつては大西洋の壁、その要塞の浜辺であったことを意識しながら、扇太郎はポール・ヴェルレーヌ(Paul Verlaine)の歌をつぶやいて七月にしては暑いとも思えない冷やりとした風のビーチを歩いた。

      Chanson d'automne

      Les sanglots longs
      Des violons
        De l'automne
      Blessent mon coeur
      D'une langueur
        Monotone.

      Tout suffocant
      Et blême, quand
        Sonne l'heure,
      Je me souviens
      Des jours anciens
        Et je pleure

      Et je m'en vais
      Au vent mauvais
        Qui m'emporte
      Deçà, delà,
      Pareil à la
        Feuille morte.

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      落葉

      秋の日の           鐘のおとに        げにわれは
      ヴィオロンの         胸ふたぎ         うらぶれて
      ためいきの          色かへて         こゝかしこ
      身にしみて          涙ぐむ           さだめなく
      ひたぶるに          過ぎし日の        とび散らふ
      うら悲し。           おもひでや。       落葉かな。

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「この暗号を、この海は、今、どのように聴いてくれているのであろうか」
 上田敏は、ヴェルレーヌの詩を日本古来の和歌の手法を使い七五調の変形五五調にして、和音のシャンソンとしてリズム感を出した。だから、日本人の誰にでも、安心して耳に入ってくるのではないか。日本語として詩情を湛えた作品に生まれ変わらせた。「とび散らふ」の「ふ」は反復、継続の助動詞ではないか。したがって「しきりにとび散る」「散りつづける」ということになる。日本人の心に飛び散り続けてきた。
 その落魄の心は永遠のものとして現在も散り続けている。詩作とは、識字する人が人らしく生きる拠(よ)りどころではないか。心打つ詩は尊厳と言っても過言ではない。それを冒した理不尽の世界がここにある。
 血のオハマF地区というビーチに立あおぐと、頭上の高みから、血とも肉ともつかぬ赤色の粒が、ぱらぱらと零(こぼ)れてくるが、しかし、眼の前では眩(まぶ)しいばかりに白く光っている。遠い現実にたたずむ扇太郎は、気温25℃という少し肌寒い夏の盛りの海峡の浜に、たゞ心だけが爛(ただ)れるような傷みを感じ、しばらくとり残されていた。
「上陸は六月だった。その暗号が秋の歌とは・・・どうする・・・ヴェルレーヌ」
 第二次世界大戦の末期、BBC放送がヴェルレーヌの「Chanson d'automne(秋の歌)」を放送した。これは「連合軍の上陸近し。準備して待機せよ」という、ヨーロッパ大陸の対ドイツレジスタンス全グループにあてた暗号放送であった。ドイツ軍の国防軍情報部は事前にキャッチしていたというが、この秋の歌で、ノルマンディー上陸作戦は開始されたのである。Robert Capa(ロバート・キャパ)は第1歩兵師団16連隊E中隊の一員としてこの戦いに従軍した。
「あのピンぼけの惨状の震えこそが、戦場という非常の真相なのであろう」
 キャパの写真を想い起こし、そっと砂浜を手均(なら)した扇太郎は、追悼のカルヴァドスを抜いてそこに注いだ。そのキャパは1938年に中国大陸で日本軍に抗する中国人を撮っている。最後にカメラを向けたのは、ハノイ南方のジープの上であった。ベトコン討伐のフランス軍のジープである。だがドアイタン要塞から1キロの地点で地雷に抵触し、土手を上がろうとしたキャパはカメラをもったまま爆死した。

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 インパール作戦は、当初から補給や制空権の確保を無視した無謀な作戦だった。3月作戦開始、緒戦は目覚ましく、日本軍はインパール後方のコヒマを占領したが、インパールを目前にした食糧と弾薬は底をつき、ついに退却を余儀なくされた。撤退途中、飢えと病気で多くの兵士が倒れ、戦死者3万人、戦傷病死者4万人とする。 そうしてノルマンディー上陸作戦のころ、サイパンが陥落する。
「あの人形も、アホウドリではないか。あのボードレールの・・・」
 サン・メール・エグリーズのサン・コーム・ヂュモン教会の壁に、82空挺師団ジョン・スティール二等兵の人形がある。ドイツ軍がいる町の真ん中に降下してしまったスティール二等兵のパラシュートは教会の塔に引っかかり、彼は捕虜になるまで死んだふりをしていたのだ。

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「1980年・・・・」
 二度目の体験となった。7年振りにまた訪れることができた。丁度、父誠一の七回忌と重なって、巡り合わされた訪仏として思われ、前回よりも奇縁さが増して鎮痛であった。朝目覚めると、父誠一は眠るように死んでいた。自然死のようで病死である。糖尿病患者は人工透析の影響による水分量の変化により、断端形状の収縮・肥大といった変化が問題となる。体脂肪は断端を不安定にする原因となる。また、過剰な肥満に伴う体重変化は断端周径を大きく変化させ、不適合の原因となりやすい。戦後の誠一は、義足と闘って戦死したのだ。その永訣の夜にでも読んでいたのであろう、常備のごとく愛読していた上田敏訳詩の数冊が父の枕許に積まれ、内一冊は見開きのまゝであった。
 それはもう二十年以上も前の一日、再び訪れた駒丸扇太郎はノルマンディーの海と空の青さを翔る白い翼の信天翁(L'Albatros)を想い泛かべていた。
「おきのたゆう・・・」と心の昂りを歌うが、
「僕もまた、世間という甲板に捕まえられた、まるで悪の華のアホウドリと同じだ」
 扇太郎はこのL'Albatrosを泛かべると、自身も人類が生れるずっと以前に、深海に漂っていた無数の原始の生き物、単細胞の生命体、あるいはプランクトンのような、クラゲのような水中生物であったことを想像した。そのたよりない生命は、生れたときから孤独の中に投げ出され、だれと話しあうこともなく、相談することなく、ただひたすら生きるためだけに浮遊しているのである。
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「その生命体のいくつかは餌を取るために周期的に発光する。それは自己完結的な、絶対的な孤立だ。僕は、あの原初のライフスタイルからどのくらい変化し、あれからどれくらいへだたっているのであろうか」とも思う。
 就寝前に、グラスを掌で包んで暖め、立ち昇る芳醇な香りを愛でるのが、いつしか扇太郎には欠かせない日課のようになっていた。
 最初に微量のカルヴァドスをグラスに注ぎ、火を点けて燃やすのである。美しい青白い炎こそが、真の美味しさを引き出してくれる。まずグラス中に香りを充満させて、その酒は捨て、立ち初めし香りのそこに新しいカルヴァドスを注ぐのである。そうすることで、20年以上眠っていた酒を生き返らせる。火を点けることで、元の香りのの10倍以上、香りが引き立ってくる。まずは、ひと口、口に含むと、カルヴァドス特有の風味が、スーッとあたかも音を立てるように、口から鼻へと突き抜けてゆくのだ。この香ばしさこそ、カルヴァドスの醍醐味なのである。

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 20年以上のカルヴァドスは、リンゴパイのように少し甘く、深い香りを持っているが、こうすることで、最高の状態の味と香りを引き出すことができる。凝縮された濃い香りが、喉の奥へとジーンと染み込んでゆく。グラスを傾けながら、過去を思い、未来を想う。ユックリとユッタリと、豊潤な時間が過ぎて行く。そうすることで、扇太郎には、レマルクの小説『凱旋門』に描かれた古きよきパリ街が脳裏に甦るのであった。しかし今は、小説にあるパリ街に憧れる気持ちなどはない。レマルクの見た敗戦国という亡国に耽るのである。その亡国の一連から、やはり亡国である不自由な日本の現在について考えさせられ、亡国の泡が湧き上がるのであった。

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                             第⑧話に続く
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   松原通りを行く。葬送の道

 松原通り(平安京の旧五条大路・豊臣秀吉によって差し替え)は洛中から鳥辺野へ向かう葬送の道である。平安時代以前から東山一帯が葬送の地であった。松原橋の架かる場所が、あの世とこの世の別れの境界を現している。
さらに東へ進むと幽霊が飴を買って子供を育てるという「子育て幽霊」の話や、六道の辻と言われる場所があるが、ここもあの世とこの世の別れ道であった。さらに進むと六道珍皇寺がある。小野篁が夜な夜な冥界へと下り、
地獄の冥官となって閻魔大王に仕えていたという話が残っている。清水寺は法相宗(南都六宗の一)系の寺院で、広隆寺、鞍馬寺とともに、平安京遷都以前からの歴史をもつ、京都では数少ない寺院の1つである。創建は平安京遷都よりも古く延鎮上人により宝亀9年(778年)に開山されたと伝えられている。その清水寺は始め「北観音寺」と呼ばれていましたが、境内にわき出る清水が観音信仰の黄金延命水として神聖化され、一般にも清めの水として「清水」が知られるようになり、後に名称を「清水寺」と改められた。そんな清水寺の由来となった清水が、現在でも「音羽の滝」の名水として、市井の人々に親しまれている。




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  つきの暦  2012年12月

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小説『五円風土記』 第一部「花そとば」 第⑥話

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     第一部
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     第一章 八瀬童子(やせどうじ)   


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      五  夢の浮橋 (ゆめのうきはし)



 自分という小川に清らかな泉がゆっくりと湧き出ていれば、そこへ向こうから濁水が入ってくることはない。香織から薬を飲むよう促された雨田虎彦は、ふとそんな母菊乃の言葉を想い起こした。清泉には緩まぬ湧出があるのだ。人の血流もまた似たようなものである。
 年が明けても去年からの続きのようなもの、何かの「残念」や「無念」というものが、あいかわらず蟠(わだかま)っていた。虎彦はしだいにそんな思いを強めると、もはや崩れかけた塀の背後にでも自身が居るようであり、弛緩して血流の悪い体に焦げ臭い匂いを感じた。
 悩ましい期間が長引くと、自分の才能や境遇を疑い始め、さらには身近な者を疑うようになる。そのうち自分を失う。自分を失えば、人を失う。人を失えば、物を失う。しかし悩んでくよくよ、ぐずぐずしているときは、このことがまるで分からない。どうやら体調も同じなのだ。幼い耳奥について残る、こうした戒めの言葉も、能(よく)した母の抄言であった。厳格であったその母に言わせれば、やはり精進の足りぬ心身の血流が悪いのであろう。最近、ふわふわとした遊仙感覚のような幽かな影に危うさを覚えては不安なのである。
 虎彦は香織から渡された錠剤を、一錠ごとていねいに口にふくむと、しずかに白湯を流し込んだ。
 そうして処方に委ねたそのままの姿勢で、ステッキに両手をかけていると、辛うじて自分の心が保たれているようにある。すると一瞬、どうしたことか自分をみて頷く母の影が泛かんでみえた。虎彦はしずかに黙祷(もくとう)でもするかのごとく眼を閉じていた。
 鳥辺野があり、その南の蛇ヵ谷から深草にかけての光景は、虎彦の原郷にあたる。じゃが谷は大正期後、五条坂界隈が手狭になり、多くの陶工が工房の地を拓くために移り住んだ谷である。何かと気随であった母菊乃はよく蛇ヵ谷を訪ねていた。泉涌寺の帰りにはいつも細く淋しい山路を北に道草でもするようにして、工房をめぐり、鳥辺野の墓地を詣でて奈良へと帰るのである。幼い眼に、それらは薄暗く怖い道草であった。
「かさね・・・、少しは源氏物語を読んでいるのかい?・・・」
 と、脇にいる香織に、虎彦はふとそんなことを訊いてみたくなった。

げんじ 7

 一昨年の夏、香織が別荘に住み込むようになって半年を過ぎたころのことだが、誕生日のプレゼントに神田神保町の古書店から源氏物語を取り寄せて、香織にそれを贈ったということを君子から聞いていた。
 母菊乃が幼い虎彦に語り聞かせた深草とは、記憶の中にしかない「けものみち」のように滲み出してきて、百夜通いの深草少将(ふかくさのしょうしょう)や無名抄のうずら鳴く里などは、それでもう、存分の気分になった古典なのである。小野小町ほど、有名でありながら、謎に包まれている女性はいないのだが、道草のついでに母菊乃が語り聞かせた紫式部も幼き耳にはまことに謎多き女なのだ。
 そんな女が書き遺した「源氏物語」とは、到底、男の興味の外にしか置かれないような物語にしか思えないのだが、しかし女性の嗜好とは存外侮れない人間の本質に眼を輝かせるものらしく、母菊乃が若くしてそうであったことを思うと、はたして香織がどう感じるのかは随分と興味があった。
「へぇ~・・・、読ませてもろてます。君子はん、京都に生まれたんなら、一度は読みィな、そないいいはった。そんなんで貰うた本やさかい、大事ィに読ませてもろてます」
「そうか・・・、で・・・、どれほど読みこんでみた?」
「どれほどや、そういいはッてもなぁ~・・・。貰うたの一昨年の七月やから、もう三、四十回は読んでますやろか。」
「ほう・・・、そんなに読み返したのか!」
「へぇ~・・・。せやかて、うちには、ほんに難しい本やわ。読み始めたら、最初えろう面白い物語やと思いましたんやけど、何度か読み返すうち、そないしてたら、うち、えらいうっかりやした。読むほどに、えろう難しなって、そのうち、うちにはよう分からへんなった。時々、君子はんに習うてみるんやけど、そやけど、よう分からしまへん。せやけど・・・あの本、嫌いやあらへん。分からへんでも、折角、君子はんが呉れはッた本や思うと、何やうちそれだけで嬉しいんや。せやから、うち、大切に読も思てます・・・」
 そう香織は答えたが、虎彦が思うには、香織の年齢がそう言わせる意図が手にとるようにある。それそこが紫式部の比類ない気性というものなのだ。それは彼の平安時代の、持ち前の「気っぷ」というものであるのかもしれない。宮仕えに抑制されてきた創造力の香気が一挙に吹き出した衝撃がある。それは虎彦が読んでも、どこか女世帯の鏡台の匂いをこっそり嗅ぐようなものだった。強いてそれを言えば、式部の目を通して、時代とともにしだいに女の性(さが)がめざめ磨ぎ澄まされてていく物語である。しかしそれを読んだからといって、女性の心身が育まれる物語というわけでもない。虎彦の尋ね方は、香織が強いて答えねばならない何の意義のない愚問だったようだ。だが、源氏物語はしつこく読み砕けば、かならずどこかに気楽な風が通ってくる。虎彦はそう思いながら泉涌寺道の西方、道路と小川のまじわる場所まで二人は歩いた。

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 虎彦は病んだ右足を曳きながらパタリと止まると、借りた香織の肩からそっと手を放し、す~っとステッキを水平に上げ、また静かに下ろすとその尖(さき)で路面の上をかるく叩いた。
「かさね・・・ここだよ。ここが夢の浮き橋だよ・・・」
 唐突に、そう虎彦に促されても香織には、虎彦が意図する状況がよく呑み込めなかった。路面のどこを見回してみても、ただの路上ににしか過ぎない。何一つ落ちてもいない。ここが夢の浮き橋というが、信彦がコツンと叩いたその路面は、どうどこから見つめても単なる路面で、ことさらそれらしきモノは何も見えなかった。香織はわけもわからずたゞポカンと小さな口を開けている。
 しかし虎彦はそこに「源氏物語宇治十帖」に描かれた「夢の浮橋」跡であることを母菊乃から聴かされた記憶がある。何よりも養母お琴から浄瑠璃ごとのように繰り返し聴かされていたし、現に何度か、そのお琴の手に連れられて訪れていた。ともかくここは、紫式部が源氏物語の幕を閉じる最終章で描き現わした橋である。
「かさね・・・、もう眼で確かめることは不可能だよ。千年も前の浮橋だからね。今となっては私の眼でも、かさねの眼でも、他の誰の眼をしてでも、この結界に架けられた橋は、見えるはずもない橋なんだ」
 と、そう言ってはみたが、同じ言葉を幼い虎彦の耳にも同じように聞かされた。母菊乃も養母のお琴も同じ言葉で語ってくれた。その言葉通りに繰り返している虎彦自身がいることが、香織に語りかけている虎彦には不思議であった。あえてそれを語ろうとしたわけではない。語らせられているような妙にふわりとした感覚を覚えた。あのとき母菊乃は、赤い蛇の目傘の尖(さき)で地の底をコツンと軽く叩いたのだ。
 確かにそのはずである。その夢の浮橋という、小野の里の川に架けられていたという橋は、現在、川はコンクリートで覆われてた暗渠(あんきょ)となっている。どう、そこに夢の浮橋が架けられていたのかを求めようとしても、すでに名残の欠片(かけら)さえなく、紫式部の描いた橋の形跡はすべて千年の彼方へと消え去っていた。
「いいかい、かさね。これから話すことを後でレシティーションできるよう、しっかりと頭に刻み、その光景を心の眼の中に、いつでも再現できるよう繰り返し覚えるように・・・」
 虎彦はそういうと、向かい合った香織と、五歳で他界した光太郎と、その母である香代が香織と同じ歳の十七で嫁いだ日の姿とを、見比べられる眼の高さの位置に、いや、光太郎と妻香代と、母菊乃の御霊がみな呼び逢えて還り、香織の眼の高さで落ち合える位置に、曲がろうとはしない膝を虎彦はそっとかばいながら、片足を伸ばしたまま冷え切った地べたにストンと腰を落とした。
 虎彦が一旦こうなると、もう誰もそのテンポを乱そうとするものはない。世の中で一番重要なことは、夢の浮橋以外にはなくなってしまっていた。

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「ああ・・・、またかいな。れしてィ~しョん・・・、暗誦(あんしょう)いうことやったなぁ。老先生、これいい出しはったら、もうアカンわ。きかん人やし・・・。せやけど・・・、これほっといたら、うちがァ、かなわんしなぁ~・・・」
 香織は虎彦のそんな視線をえらい恐ろしく感じるが、途中まで小声でそういって、しかしもう逃れようもなく、ふと間を置いた眼を空に向けると、雪を含んだ灰色の雲が、低く頭をおさえつけるように垂れこめていた。
 新世紀になって八十歳を過ぎたここ数年、虎彦はしだいに過ぎ去っていく恐怖に苛立ちがあった。そうした苛立ちが、残されて流れ去ろうとする時間に対するしびれるような重宝な味わいに拍車をかけていた。そうしてふと気づいたときに、空や海や野が薄暗くみえて、これから拡がろうとする青い光線がその中心にみえた。それが未明から朝の陽が昇る間の、かけがえのない隠国(こもりく)からのサインなのであったのだ。
 やがて丹(に)の色の仄かな光がそこに加わると、逢初める青と丹の光がしだいに落ち合いながら、鮮やかにプリズムで結ばれては、一面を染めるバイオレットの空間が広がってくる。いつしかこれを本物の夜明けなのだと想うようになっていた。かさねに、その隠国の夜明けをみせたかった。
 そう思う虎彦は、おもむろに鞄から古い一通の、昭和十八年当時の電文を引き出すと、少し振るえる手のままに香織の手を引き寄せ、そっとその紙をてのひらの上に置いた。
「イマサラ二 オウベクモナシ ムラサキノ ノノハテ二キエタマエキミ カヨ」
 電信の歌である。当時、養母お琴が打ってよこした妻香代の、享年二十三の辞世のそれは「今更に追うべくもなしむらさきの野の果てに消えたまえ君 香代」という一首であった。
 虎彦はこの電信の経緯(いきさつ)を香織にいい終えてから、またそっと鞄の中に納めようと手を伸ばしたが、瞬時、風に吹き煽られた古い紙切れは、はらはらひらひらと路傍を舞い回りながら、地べたに落ちてカサカサと転がった。
 この電報を受け取った昭和十八年当時、虎彦は上海(シャンハイ)にいた。外套(がいとう)の襟をたて、凍えるようにひっそりとこの歌を涙して読んだ。雨田虎彦は上海の路傍で、酷く落胆し、日本の国というものが、自分の心を揺さぶらなくなっていることに気づいたのである。
 虎彦は転んでいくその電報をみつめながら、そっと香織に微笑した。香織にはそれが、電信を追いかけてしまいたい虎彦がそこに居て、それでも必死に何かを堪え我慢しているかのような二人の虎彦に見えた。
 源氏物語が紫式部によって「いつ頃」、「どのくらいの期間かけて」執筆されたのかについて、いつ起筆されたのか、あるいはいつ完成したのかといった、その全体を直接明らかにするような史料は存在しない。その物語を妻香代は、必ずしも長編の物語であるから長い執筆期間が必要であるとはいえず、数百人にも及ぶ登場人物が織りなす長編物語が矛盾無く描かれているのは、短期間に一気に書き上げられたからであると考えるべきで、若くして確かにそうであるとすら語っていた。
 香代が人より特段感性を高くして生まれたわけではない。京都とは、そんな女性をいともたやすく育てる風土なのだ。そこには人にやわらかで柔軟な日本独自の豊かな風土があった。比べて今、日本国の人民がタイ米を食べることを余儀なくされ、松本サリン事件や霞が関地下鉄サリン事件など、国家未曾有のオウム真理教が関与するテロ犯罪で国内は混沌とされる年次に明け暮れている。虎彦には暴走を始めた日本国が見えるようである。
 しんしんとくる北風に晒されながらそう思う虎彦は、間もなく東福寺駅へと来るであろう駒丸扇太郎のことを気に止めると、昨年、その扇太郎が語っていたフランスで見たという薄暗い海峡の漂いが、腕時計の盤上でめぐる秒針の動きを絡らみ止めるかのようだ。それは亡国の暗い泡立ちである。消え去らないその暗い泡が、とぐろでも巻く黒い蛇ように泛かんでいた。

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                             第⑦話に続く
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  きょうの細道


  源氏物語 序曲
  
   冨田勲作曲の源氏物語をRolandアトリエに編曲した橘ゆりの演奏に、映像を加えた作品。
   全曲はホリヒロシの人形舞と2011,12,13日に上演された。


  源氏物語 終曲
  



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  つきの暦  2012年12月

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小説『五円風土記』 第一部「花そとば」 第⑤話

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     第一章 八瀬童子(やせどうじ)   


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      四  誰が袖 (たがそで)   



 ときとして虎彦の言葉づかいは地口や冗句に富んでいて、若い香織を翻弄させることがある。それが、ちよっとした自意識過剰であることは虎彦自身も分かっている。長女の君子にもずいぶん嫌な顔をされてきた。
 それは、どこか偽善的な意識であり、しかし自分を「まともには見せたくない」という、そんな矛盾もを交錯させる偽悪的でもあるのだからそうとうにひねくれているのだが、それでいて、つねに影響力を計算しつづけているような、どこか悲しい自意識なのである。そうした妙な自意識を牽引したと自身でも思われる泉涌寺という寺院は、虎彦の青春の「傷のつくりかた」を決定づけるほど衝撃的な世界であった。
 そう思う虎彦がふと気づくと、ふいに不安を呷(あお)られた香織はしょんぼりとしている。
 虎彦は俯(うつむ)く香織のその顔色を感じながら、おもむろに笑みを泛かべて首を振った。
「案外かさねも、阿呆やなぁ~・・・」
「実際だれが、かさねを尼にさせる。そんなことあるか。いや何、尼になろうとする女性の心情を推しはかることも大切だと思ってな。この寺は古くから、そういう女が通い合う道なんだ」
 虎彦はそう言いながら改めて腕時計をみた。駒丸扇太郎と会う約束の時間にはまだ少し間があった。泉涌寺の、この界隈はやはり秋がいい。ここらはまだ京都の田舎といった淡い光が残っている。
 しかし人目も草も、みな枯れたものの間にあって、この冬を越そうとしてしがみつくように残る常緑樹が黒ずんだ葉の色をさせて寒さに耐えて立っているのは、かえって生身の血が通うものの本性をみるようで、これが泉涌寺には好ましい本来の季節ではないかという気にもなる。虎彦は少し遠い眼をした。
 虎彦が泉涌寺の参道をみて、そうした遠い眼をするのには、香織に係わることで少々気にかかる仔細があった。
 花雪という芸子が、九州長崎の造船界の有力者、陣内富蔵に身請(みう)けされて、ここ泉涌寺付近の別宅に囲われ暮らし始めたのは六十年も前のことだ。
 虎彦の養母であったお琴は、京にくるたびに、同郷の富蔵に呼ばれちょいちょい別宅に遊びに行っていたという。その花雪はやがて、妊娠(みごも)って戦争直前に京北の花背(はなせ)辺りに移り住み暮らすようになる。同じころお琴も疎開騒ぎに紛れて自然と別宅から足が遠のいた。
 戦争が終わってお琴が奈良吉野の疎開先から京都へ行ってみたときは、花雪はすでに労咳(ろうがい)で死んでいた。女児を産んで二年目に死んだという。さらにその三年後に花雪の産んだ児が、当時、泉涌寺近くの別宅に出入りしていた、清原増二郎という、これもお琴とは遠縁の男に養われていたと聞いた。お琴はこれを探したが所在は不明だったという。虎彦は確かにそう聞かされていたのだが、これは戦後、四年してお琴が知り得た話なのだ。
 養母お琴がそう言い遺したことが事実であるのならば、その児の生まれ年から存命であるとして逆算すると、花雪という女性は六十歳前後のはずである。増二郎の子と名乗る香織は十七歳であるから、増二郎が養っていたという赤児とは、さらに香織との関係とは、いずれも亡きお琴からの聞伝でしかなく、いまさら確かめ難きことであるのだが、虎彦は泉涌寺の山ふところとなる月輪山(つきのわやま)や泉涌山の空をあおぎみながら、遠い眼をしてその消息の彼方を泛かばせていた。

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「尼にするいうて驚かさはるさかい、うち、何や気色わるいわ」
「尼さんは・・・、そんなに薄気味悪いものなのかい・・・?」
「そうやおへん。せやけど・・・、うち、罪ほろぼしせなあかんこと、何ィ一つしてへん思うんや」
 香織は暈(かさ)をかぶった太陽がようやく雲の切れ間から顔をのぞかせるように、まだ戸惑いを口に籠らせた声でそういうと、かすかに睫毛(まつげ)がうるむ顔をさせて虎彦をみた。
「・・・、この娘の眼には、尼の修行が、罪ほろぼしの生活として映っているのか!、出家とは、そう映るのであろうか。しかし、それはそれでいい。香織がどう思おうが、そんなことは人それぞれの自由だ。さて・・・私はどう応え返せばいい・・・。ああ、たしかに本当だね、かさねは、罪ほろぼしなどする必要はないからね・・・」
 と、素直に肯定してやろうとするそんな優しい言葉が、虎彦の喉もとまで出かかった。だが虎彦は、それをじっと堪(こら)えた。
 以前の虎彦の気性なら、忍し殺して黙っていられる筈はなかった。そこは肯定してその場を適当に済ませ終えるか、あるいは少しの反論などしただろう。だがそれは気勢にも柔軟であった昔のことで、今は老いの疲れがそうさせるのか、はからずとも虎彦は、すでに円満に済ませることすら面倒で、投げやりたいような妥協癖にちかいものを心の中に抱くのであった。
 しかし・・・、泉涌寺の坂に至る道は人生のそれと等しく、山あり谷ありであるらしい。
 この坂に、世のくびきから離れ、煩悩と対峙して、いくばくかの悟りを求めようとする、そんな覚悟の女僧らが歩いた影がある。その尼を罪ほろぼしと存外にあしらわれると、それはやはり穏やかではない。「比丘尼(びくに)とは仏門の闇夜にゆっくりと炸裂してのぼり行く、この世からはそう見せる、あの世の花火なのだ」と、胸の内でそう想う虎彦は、香織の言葉を聞いた耳朶(みみたぶ)に、かすかな冷や汗を感じた。
「東福寺駅前から泉涌寺の仏殿までは、往復でおそらく3キロほどあるだろう。この膝は・・・、もう自力でそれだけの距離をあるくことに耐えきれやしない」
 そう往(ゆ)きあぐねると、虎彦はやはり口を堪え、何か妙にも哀しく、細い一本の老木のように立ちつくしていた。
「冷やっこいなぁ~。そないじィ~ッとツッ立つてはって、奈良ァ、いつ着きますねんかいなァ」
 北風の中でそうしてぼ~っと立っていられたら居たたまれない。香織にはそんな虎彦の姿が、朝起きようとしてまだ寒いからと、蒲団(ふとん)から首だけ出している老亀のように思われた。
「一体、どないしはるンや・・・」
 そう急かされた虎彦は「この場で私が一歩踏み込めば、結果、香織は苦しむことになるのかも知れない」と、考えるのだが、しかし「その少しの苦痛が、やがてはこの娘の歓びとなることもありえるだろう。もし・・・、その苦しみが、香織の幸福へと繋がっているのなら、苦しんでみるのもよいが、さて・・・どうする・・・」
 虎彦はその判断に迷っていた。漠然としてはいられない。駒丸扇一郎と落ち合う約束はしたものの、やはり厄介なところでバスを降りてしまったと思った。
「かさね・・・、東福寺駅の、西へ出て、みることにしよう」
 約束の時間までにはもう少しある。虎彦は少し思案する時間が欲しかった。
 泉涌寺道の少し北に鳥辺野という陵地がある。そこは一条天皇皇后定子(ていし)以下六つの火葬塚で藤原氏時代の貴族らの埋葬地だった。この鳥辺野と泉涌寺は細い山路で結ばれて密接である。泉涌寺は古くから皇族の香華院(こうげいん)、つまり菩提所とされ御寺(みでら)とも呼ばれた。
「詮子(せんし)と・・・、定子とが・・・、同じ軒下で眠れる。あの世とは、そうしたところなのか!」
 一度、じっと北へ目配せした虎彦は、すっとステッキを西に返した。
 一条天皇の母上で円融天皇の皇后が詮子である。定子には叔母にあたる。その詮子は、定子の兄の藤原伊周(これちか)を関白にさせなかった「大鏡」ではそういう意地悪の人で、定子には姑(しゅうと)でもあるが、詮子はその定子まで憎み終えた。亡くなってみると、その二人が今、一つ墓所に葬られて眠る。いや、眠らされているのだ。
「近くて遠きもの・・・、思わぬ親族はらからの仲・・・か」と、
 虎彦は泉涌寺、鳥辺野、さらにその北にある清水寺までの、その長々とした音羽山へといたる細い山路を想い浮かべてては、いかにも「おかし」かった。
 泉涌寺や鳥辺野は、敗者によって埋められた場所である。
 清少納言(せいしょうなごん)は定子の御陵近くに住んでいたらしいから、この道を通って清水寺に詣ったのだと思う。虎彦がそうした清少納言の影を追いかけてみると、当時の視線で描かれたはずの枕草子(まくらのそうし)には定子の没落の背景が触れられていない。これは、むしろ触れようとはしなかったから、第段のはしばしに筆を曲げたとみとめられる辻褄の悪い痕跡がある。
 この時代、藤原氏は同族相はむ暗闘を演じ、陰険でしかも徹底した抗争が、王朝のきらびやかな表面とはうらはらに、裏面では強かに渦巻いていた。追いやられる定子に宮仕えする清少納言は、藤原道長が存命であったがゆえに、世相には無関心を装うかに意を忍殺し、眼を伏せ、口をつぐみ、筆を曲げている。それで真の「ものの哀れ」
ではない。虎彦はそんな敗者の場所を背に感じながら、また寒々とした参道口を西へと歩いた。
「老先生、歩かはるんやしたら、お薬のみはらんと・・・」
 右足の関節が伸びたまま、歩き辛そうに虎彦は踵(かかと)を地に引ひて歩く。それもよく見れば下半身はかすかな震えをともなわしていた。後ろから支えようとした香織は、居たたまれなく、サッと滑るようにして虎彦の脇に肩口を差し入れて下支えすると、それでもステッキを突こうとする虎彦に労わる眼差しでいった。
 このまま放置するとその震えはしだいに痙攣(けいれん)することを香織は知っていた。
「ぶぶな、ちょっと熱いさかい、そろそろと飲んでおくれやし。赤いの一錠、白いの二錠やわ」
 香織はそういいながら虎彦のステッキを小脇に挟み、ポシェットから三粒の錠剤をとり出し、それを手渡しつつ左手にカップを持たせると、常備した保温ボトルから白湯を手際よく注いだ。



                             第⑥話に続く
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  きょうの細道

  
   東福寺

 東福寺(とうふくじ)は、京都市東山区本町十五丁目にある臨済宗東福寺派大本山の寺院。山号を慧日山(えにちさん)と号する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は、九条道家、開山(初代住職)は円爾である。京都五山の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄えた。明治の廃仏毀釈で規模が縮小されたとはいえ、今なお25か寺の塔頭(たっちゅう、山内寺院)を有する大寺院である。三門、本堂、方丈、庫裏などからなる主要伽藍を中心に25の塔頭寺院がある。主要伽藍の北には洗玉澗(せんぎょくかん)という渓谷があり、西から東へ臥雲橋、通天橋、偃月橋という3本の橋(東福寺三名橋)が架かる。通天橋は、本堂から通じる廊下がそのまま屋根付きの橋となったもので、この付近は特に紅葉の名所として知られる。橋を渡ると、開山円爾を祀る常楽庵がある。応仁の乱の戦火を免れた貴重な文化財が数多く存在する。


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   京都 花そとば



  つきの暦  2012年12月

  つきの暦 2012 12


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小説『五円風土記』 第一部「花そとば」 第④話

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              ごえん風土記 かな上 
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     第一部
          はなそとば 小 生  ひとひら桜回転

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     第一章 八瀬童子(やせどうじ)   


   ふゆの桜 動 gif  ふゆの桜 連 gif

  

      四  誰が袖 (たがそで)   



 万葉といえば、桜ではあるが、愛しきその最たるものは、冬のサクラである。
 桜木が最初に兆す花芽の、貧しくとも命弾けるその産声を聞くと、来る春を知り冬の過酷さを怨んだりはしない。
 西行は「たぐひなき花をし枝に咲かすれば桜に並ぶ木ぞなかりける」と詠んで、素直に桜を筆頭にあげた。奈良に生まれた雨田虎彦も桜への傾倒は断然であった。さらに西行は「散る花を惜しむ心やとどまりて 又来む春の誰になるべき」と詠むが、しかし虎彦の桜は、冬枯れて立つ葉のなき一樹が最も好ましく思われた。一つ、二つ、三つと、しだいに満ちる花芽つく趣にこそ、やがて豊かな満開に人が近づける夢がある。
 西行は、咲き初めてから花が散り、ついに葉桜にいたって若葉で覆われるまで、ほとんどどんな姿の桜も詠んでいるのだが、そのなかで虎彦がどんな歌の花に心を動かされるかというと、これは毎年、決まっていた。それは花を想って花から離れられずにいるのに、花のほうは今年も容赦なく去っていくという消息を詠んだ歌こそが、やはり極上の西行なのだ。奈良に生まれたからそう思うのか。虎彦はいつも、そういう歌に名状しがたい感情を揺さぶられ、突き上げられ、そこにのみ行方知らずの消息をおぼえてきた。虎彦のその行方なき消息は、決まって花芽なき冬の桜木から始まるのであった。

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 毎年、一雨、また二雨が来て、あゝもう花冷えか、もう落花狼藉なのかと思っていると、なんだか急に落ち着けない気分になってくる。寂しいというほどではなく、何か虎彦に「欠けるもの」が感じられて、とたんに所在がなくなるのである。どうして貧しいのか。何が欠けたのか。そしてそういう欠けた気分になると、決まって西行の歌を思い出すのであった。「梢うつ雨にしをれて散る花の 惜しき心を何にたとへむ」と。
 バスが一乗寺へと向かうと、あちこちの葉のない桜木が北風のなかで明るく悄然としていた。静かに花芽だけを萌やそうとしてる、その姿が次々に車窓の向こうを走るようになってくると、虎彦は「ああ、今年もまた奈良の桜も、ここから始まるのだな」と思う。すると雨田虎彦の眼には鮮やかに泛かんでくるものがあった。
「ああ、在所の山に桜がみえる。そして・・・あの、人形の姿が・・・」
 それは、かさねの姿に似ているからだけではない。やはり何か欠けたものを感じる虎彦にとって、雨の日の自動車がアスファルトに散った桜の花びらを轢きしめていくのが、なんともいえぬ「哀切」であるように、遠い日を引き戻すそれは忘れ難き人形であった。想い泛かべるほどに、静かに深い悲しみがふき上げてきた。
「話しても、かめしまへんやろか・・・」
 そういう香織は、青白くある虎彦の頬が気になり、やはりバスの揺れは障るのか、思いなしか虎彦が急にやつれたようにみえる。だから静かに覗くように声をかけた。
 無言のまま虎彦が振り向くと、口はしの笑窪をみせた顔がある。屈託のないそんな香織の顔を見せられると、さらに心残りの弾みがついて、虎彦はふと香織の笑みに、過ぎるかの一筋の翳(かげ)をみた。しだいにその翳は虎彦のなかにじんわりと沁みてくる。すると雨田家に嫁ぐ日の、今は亡き妻香代の花嫁姿がその翳のうしろに重なり合うように立っていた。
 そうしてバスが百万遍の交差点にさしかかると、さらにその翳は色濃くなってくる。百万遍から銀閣寺までは香代と一度だけ歩いた道なのだ。二人して歩いた道は、虎彦の中にその記憶しかない。虎彦は香織の背後でかげろうその翳の揺らぎに、亡き香代が影となって還って来ていることを覚(さと)った。
「何やな・・・だんだんに青うなりはッて、老先生、脚ィ痛いんやないか・・・」
 やはりどうしても顔色が気がかりになる。そんな香織は、不安気に虎彦をみてそっと訊いてみた。
 京の市井には、新婦が男児の人形を抱いて嫁入りするという慣習があった。それは嫁(か)しては男児を儲けて一家の繁栄をはかるという女の心得を訓ずるものである。家同士が定めた縁組により、お互いは一度も会ったことのない婚儀が当時の常であった。虎彦の場合も例外ではない。香代は祖父が見込んだ婿を、素直に一途に信じて嫁にきた。婚儀の席で初めてみた白無垢の香代は、まだ十七歳、初々しくも婚礼の膝に固く市松人形を抱きしめていた。そんな香代がようやく雨田家に嫁いだことを実感したのは、よいやく嫡男光太郎を授かり、その産後の枕元に置かれた人形(いちまつさん)をみつめて嬉しそうに笑みたときであろう。しかし、それから香代が享(う)けた歳月はわずか五年でしかなかった。

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 その香代は京都の知恩院の近くに生まれた。式台の玄関、使者の間、内玄関、供待などの部屋がある武家屋敷の構えの家だった。お手玉やおはじきが好きな少女は、行儀見習いの二人の女中さんから「ことうさん」と呼ばれ、ことうさんとは「小嬢さん、末のお嬢さんのことで大阪では(こいさん)」というが、そこで何の苦労も心配もなく育ったようだ。京都でも有名な美しい四姉妹であったらしい。
 そうした小譲さんの婚礼がさすがである。色振袖が錆朱の地に松竹梅模様、帯が黒に金銀の市松、黒留袖は「誰が袖百選」の中の沢瀉(おもだか)文様、黒振袖は土田麦僊の扇面散しに光琳松の帯をつけた。婚礼調度はすべて京都の「初瀬川」で揃えたというのだから、いまでは考えられない“姫の豪勢”ぶりであった。虎彦がそんな香代の生い立ちを想えば、木の葉がそよぐように雅な京の暮らしが静かに始まっていくのである。
 しごく短い結婚生活のため、香代の死は虎彦にとってどうしても夭折なのだ。想えば想うほど若い面影に不憫さが倍増し、どうにも嫁ぐ前の京都での人生が長い香代の姿を追えば、香代から聞いた少女時代の彼女への興味ばかりが長くなる。その理由は、おそらく虎彦が香代のことを日記にして長女君子へ綴り遺そうと考えたのが20世紀の最後の年末だというためだろう。
 虎彦がそうしようとしたのは、20世紀を不満をもって終えようとしていたことが一つにはある。とくに日本の20世紀について、誰も何にも議論しないで取り澄まそうとしていることに、虎彦はひどく疑問をもっていた。我々こそ、真の「戦中戦後」にいたのではないか。もはや戦後は終わったと語られるが、しかし日本の戦後の本質は一向に終わろうとしない。そうであっては、到底成り澄ませない当事者の面々も多かろう。省みることもなく突かれ続ける除夜の鐘を聞きながら虎彦は、そんな怒りのようなものがこみあげていたのだ。そのとき、桜が人の心を乱すものとは世の常のこと、いまさら言うべきこともないはずなのに、ちょっと待て、いま何かを感じたのでちょっと待て、と言いたくなるのは虎彦にとってじつに可笑しなことであった。
 東山三条で乗り継いだバスの席に香織と虎彦の二人はいた。
「三条駅からやしたら、近鉄の特急やと奈良まで四十分たらずで行けることやし、老先生、一体どこに行かはるつもりなんやろか。ほんに、けったいやなぁ~・・・」
 無口のまま何かに憑かれたような虎彦の気配に、香織はふと「お父ちゃん・・・」と呼びそうになる自身がいることにハッとした。笛にこり、笛に呆(ほう)けた父増二郎の不可解な気随さが、いまこの老人の肩越しを這っているようであったからだ。香織の頭の中では、でっぷり肥ったその増二郎の赤ら顔が、くるりと一回転して、思いもよらぬほど大写しになっていた。しかし虎彦があの父と同じであるのなら、詮(せん)ないと思う。増二郎は呆れるほど頑固者だった。これは「なるようにしかならへんのだ」と、そう香織はわが心にそっといいきかせることにした。
 バスの車窓から祇園界隈をながめみることなど、香織には初めての感触である。表の路線から花街の路地奥はみえないのだが、それでも香織には思い出深く刻まれた裏町の華やぎであった。そもそも祇園とは、インドのさる長者が釈迦のためにつくった寺「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)」からきている、と置屋の女将佳都子からそう教えられた。香織は虎彦の別荘に住み込むようになる二年前、二年間この界隈で暮らしている。その祇園四条から南の京都は香織には久しぶりにみる街並みであった。東山の終わりの裾野は長くゆるやかに流れていた。
 そうした八坂や祇園などは全く眼中にない虎彦は、半ば無意識でメモ用紙に書きつけた「つゆじも」という古びた筆文字を見つめながら、養母お琴が遺した言葉を温かく反芻(はんすう)したり、鞄から何やら海外の雑誌を引き出しては読んでいた。香織は「こんなン、ほかっとこ」と思った。
 東山七条の智積院(ちしゃくいん)を過ぎたあたりで虎彦は「少し早目にきすぎたのではなか」と腕時計をみた。つられて香織も携帯電話の液晶時計をみたのだが、まだ八時過ぎであった。花は、哀しくて惜しむのではなく、惜しむことが哀しむことである。そう反芻してつぶやくと、虎彦は唐突に席を立った。
「あれ・・・、次で、降りはるつもりなんやわ」
 香織が慌ててそれに従って連れ立つと、祖父と孫娘にも映る二人は泉涌寺(せんにゅうじ)道でバスを降りた。
 鳥辺野(とりべの)の南、泉湧寺への道はしずかで長いゆるやかな坂である。
 虎彦は少し足を止め、参道をながめながら遠い眼をした。
「かさね・・・、300メートルほどこの坂を上ると総門がある。入ると左手が即成院(そくじょういん)というお寺さんだ。その本堂に二十五体の菩薩座像があるのだ・・・が・・・」
 と、そこまでいい掛けると虎彦は、プツンと言葉の尻を切った。
 坂をのぼりつめて総門、その先に大門、さらに奥の泉湧寺仏殿までの約1キロの間にある光景を、眼に積み重ねながら想い泛かべるだけで、すでに虎彦には遠く息切れる思いがした。
 自身で歩いたというより、幾度となく歩かされたこの坂道である。いつもこの坂を想いながら見えるものは、何者かに毀(こわ)された後の荒寥(こうりょう)とした風景でしかなかった。あるいは瞞着(まんちゃく)されたような奇妙な脅(おび)えに身震いするほどの光景であった。そんな憧憬を曳き遺しているために、却(かえ)って泉湧寺に出向くことはどうにも気が重く、虎彦はこの界隈にしばらく足を遠ざけていた。
 やはり幾度ここに来ても虎彦は、ゆるやかなこの坂の、この世の一角に異様なものの出現をみせられて立ちすくむ思いがする。そうして今日もまたここには、どこからともなく匂ってくる暗い懐かしさを思い起こさせる特別の香気が沸き立つようであったのだ。どうしても虎彦の心の裡に流れる体臭とその香気とが混ざり合うのである。
 下りながら仏殿までの間を詰めねばならぬ不可思議さがこの寺にはある。手を引かれながら「虎、足音さしたらあかん。音立てたらあかんえ~」という声を繰り返し聞かされた。大門から仏殿までは下り坂なのだ。そう言われると恐る恐る玉砂利を踏むことになる。ゆるやかな下り坂だが、幼い足は、とほうもなく長い時間に涙眼をして歩いた。
 そんな虎彦が、この長いゆるやかな坂道を、母の手に引かれて初めて歩いたのは、大正という年号が昭和へと移り変わるころであった。

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 今やその母影も眼にはおぼろげである。虎彦がまだ六、七歳のつたない記憶のままでしかない。だが、たゞそこから香り出るものは鼻孔の奥に籠るようにある。そうした母の匂いは八十二歳になろうとも確かで、それは母がいつも着物にに焚きしめていた追風用意(おいかぜようい)の香気なのだ。人気のない山里にもかかわらず、明治生まれの母菊乃という人は、焚きこめた香りを優雅にまとっては風に漂わせている女だった。
 香織がいま首もとに架けている更紗(さらさ)の匂い袋は、昨夜君子が手渡してくれたものだ。それはそもそも虎彦が君子の成人式の折に祖母菊乃の遺品として譲るために身にまとわせた「誰(た)が袖(そで)」である。
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「やはり、九月がいい。今日はやめておこう。なぁ~・・・かさね・・・」
 虎彦はそうポツリというと、香織が首にかける誰が袖をじっとみつめた。
 西行の花は「花みればそのいはれとはなけれども心のうちぞ苦しかりける」というものになっていったのだが、そもそも西行にとっての桜は、この歌の裡にある。桜を見るだけで、べつだん理由(いはれ)などはっきりしているわけではないのに、なんだか心の中が苦しくなってくる。そう詠んだ歌である。その「いはれなき切実」こそが、西行の花の奥にはある。そうであるからまた虎彦にとっても「惜しむ」とは、この「いはれなき切実」を唐突に思いつくことである。虎彦はいま、それが亡き母の匂い袋の花に結びつく。さらに遠い日の月に結びつく。奈良で過ごした花鳥風月と雪月花がここに作動するのだった。そのなかで亡き光太郎と、亡き妻と、亡き母の三つの花こそは、あまりにも陽気で、あまりにも短命で、あまりにも唐突な、人知を見捨てる「いはれなき切実」なのだ。
 しかしそう感じることは、何が「うつつ」で何が「夢」かの境界を失うことを覚悟することでもあった。参道をみつめる虎彦は、香織に投げかける次の言葉を失くしていた。
「えッ、やめはるの。そしたら何や、それだけのために、老先生、ここで降りはったんか・・・」
 虎彦が何かをいいかけたまま、プツリと途中で、妙な間を残して口をつぐむので、寒空に重い鞄を両腕にさげていたせいもあるが、呆れた香織は皮肉たっぷりにいった。
 昨夜遅く書斎の窓を開けた虎彦は、さきほど想ったのと同じように、満州の荒野に咲いていた罌粟(けし)の赤い世界を思い出しては眼に訝しく、そう感じて窓を閉めた後、東京の自宅から持ってきていた聞香炉(もんこうろ)の入る木箱を開けた。

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 白磁の筒型をしたその炉を取り出して机の上に置くと、背筋を伸ばし、あごを引き、体の力を軽く抜いて一呼吸整えた。そうして心を落ち着かせ終えると、一炷聞(いっちゅうもん)の作法で香を聞いた。まず鼻から深く吸い込み、顔をやや右にそらして息を吐く、その繰り返し七息の後、手にする聞香炉を心静かに見改めるように回してはみつめる。その聞香炉も亡き母菊乃が生前使用していた、室町期から雨田家に伝わる遺品であった。すでにその菊乃とは鬼籍の人であるが、まだ虎彦の中では、過去になどなってはいない。混沌として、滓(かす)のようなものが残されていた。
 どうしようもなく、はかなくたって驚かない。はかないのは当たり前なのだ。西行もそういうふうに見定めていた。そこでは夢と浮世は境をなくし、花と雨とは境を越えている。この歌をぜひ憶えるとよい、と諭してくれたのが亡き菊乃なのであった。「世の中を・夢と見る見る・はかなくも・なほ驚かぬ・わが心かな」、よろしいですかという母の声が耳奥にある。そうしてまたその母は、ついでながら、さらに「西行学」を持ち出していえば、とくに「わが心かな」で結ぶ歌は、西行の最も西行らしい覚悟を映し出している歌なのであると継ぎ足してくれた。
「かさね・・・そうじゃない。今日、かさねを、尼さんにさせる気には、なれないのだ・・・」
 しばらくぼんやりとしていた虎彦は、ハッとして我に返り、そう小声で香織に応え返した。
「えッ、うちが尼・・・」
 いきなり辻褄の合わぬ薄情な話ではないか。咄嗟にその声を呑みこんだ香織は、頭の中が透明になった。しばし唖然として固く立ちすくみつつ香織は「うち、頭ァ、剃るんや」と思い強いられると、何やら黒髪の総毛が根元から硬直するようであった。
 不意に意外な釘を頭からカツンと撃たれた香織は、焦点をどこにも合わせられない放心でもしそうな眼を、丸くも細くもさせられずに、たゞツッ立ったまゝポカリと口をあけていた。それまで香織は「老先生の脚ィ、痛うて歩けへんさかいに、うちが支えなあかんのやから」と、一心にそう思っていた。
 ここ二、三日、急に底冷えするような寒波が襲っていたのだ。香織は、こんな急激な気候の変化はきっと虎彦の体に障るのだと、先日、出町柳の主治医のところに立ち寄って、虎彦の脚気には白米による精米されて不足したビタミンB1を補完するなど、温かいしじみ汁などの、なるべく精のつくものを食べさせて、できるだけ安静にして虎彦の気力を養えばいいことを丁寧に聞いてきた。昨夜は寒い夜になそうで、そうだからと虎彦の書斎に予備の炬燵(こたつ)まで納屋奥から引き出してきては、痺れや痛みが増さぬよう備えたりもしていた。
 さらに昨夜はいつもよい少し早目の午後九時には香炉を用意して、虎彦のまだ寝る前の寝室にそっと忍びこみ、虎彦が爽やかな寝ざめをみせるよう君子と二人計らって、百檀や丁字など焚かなくても香る香料を厳選したし、その香気が虎彦の患部を清め、寝室を浄化し邪気を払ってくれることと、憂鬱な気分を爽快にさせる作用があるのだからと、そっとベットの下に香炉を忍ばせたりもしたのだ。
「来月は少しだけ連休もろて、祇園の花江姉さんとパ~ッと城崎にでも遠出したろ思て、約束してたんやないか。もうそれも、わややわ。なしてうち・・・尼やねん。そないなこと、前もっていうてもろたかて、うち承知でけへんことや。罰あたりなこと、何もしてへん・・・」
 もう、とりとめのない香織は、わなわなとふるえる手をそういうてはかろうじて握りしめた。そのゝま眼を伏せた香織は、こんな場合、やり場のない感情をどう表わせばいいのかを、五郎や置屋の女将佳都子の顔を泛かべてはためらっていた。
「老先生ッ、もう高齢や。80歳も過ぎたといえば、だいたいの男はんは、自分の限界がどんよりのしかかっている時期であるさかいに、いまさらきれいごとですませるものなんてないということも、あんた分かっとらなあかんえ。せやけど男はんの美学というものは、存外にどんな時期でもはずせないもんや。そこで美学と辻褄とがソリを競いあうもんなんや。するとなッ、最後ォにひっこんでもらうほうは辻褄のほうで、男はんいうたら美学ひっこめはらんもんなんや。香織にもそんな理不尽なとき、きっとある思う。せやけどな、短気だしたらあかん・・・」
 以前、置屋の佳都子がそんな話を聞かしてくれたことがある。いま噛みしめてみると、なんとなく理解できそうにもあるが、やはり心の始末におぼつかない香織であった。
「・・・せやけど。尼寺で・・・成人式やなんて。やっぱ、うち嫌や」
 香織は君子から貰った胸の誰が袖をキュと握りしめた。



                             第⑤話に続く
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  きょうの細道

  
   御寺・泉涌寺

 泉涌寺 (せんにゅうじ)は、京都市東山区泉涌寺山内(やまのうち)町にある真言宗泉涌寺派総本山の寺院。山号は東山(とうざん)または泉山(せんざん)。本尊は釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来の三世仏。
 平安時代の草創と伝えるが、実質的な開基(創立者)は鎌倉時代の月輪大師俊芿(がちりんだいししゅんじょう)である。東山三十六峰の南端にあたる月輪山の山麓に広がる寺域内には、鎌倉時代の後堀河天皇、四条天皇、江戸時代の後水尾天皇以下幕末に至る歴代天皇の陵墓があり、皇室の菩提寺として「御寺(みてら)泉涌寺」と呼ばれている。


  


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小説『五円風土記』 第一部「花そとば」 第③話

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     第一章 八瀬童子(やせどうじ)   


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      三  高野川 (たかのがわ)



 眼の前にある梅の木の下に、幾輪かの水仙の花がある。
 純白のそれが静かに上の紅梅の蕾を押し上げている。初めゆく朝陽に透かされて、香織の眼は、しだいに冴えいくその可憐な水仙の白さを仄々と追っていた。それは別荘で働くようになった二年前に、車椅子生活の君子に見せてあげたい香織が北山の芹生(せりょう)から移植したものである。
 そもそもこの花の白さは、比叡山西方院の鬼掛石の付近に野生する一株の水仙から五郎が株別れさせて、北山の芹生で香織に育てさせていたものであった。水仙には黄色い花もあるが、それが白であることに御所谷に暮らす竹原五郎の深い思い入れがあったようだ。その五郎の暮らしぶりと密接である香織は、五郎がそうする心情を亡き父から知らされている。虎彦もまたそんな香織から、この水仙は何やら八瀬の地と深く関わる曰くの花なのだという話を薄っすらとだが聞かされていた。

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「この花、神秘・・・、という言葉なんや」
 という、花言葉の話を君子から教えられたという五郎の笑顔を香織は思い出していた。
 花言葉は、植物の花や実などに与えられた、象徴的な意味をもつ言葉である。日本には、明治初期に、西洋文明とともに主にイギリスの花言葉が持ち込まれたそうだ。そんな話を君子が聞かしてくれたのだと言って、そう香織に語る五郎はいかにも嬉しそうであった。
「せやけど、悲しい花やなぁ~・・・」
 ギリシャの青年ナルキッソスは、その美しい容姿から乙女達の心をとりこにした。しかし彼は決して自分から人を愛することはしなかった。ニンフ・エコーは働けなくなるほど彼を愛したが、彼は相変わらず冷たい態度で接し通した。これを見て怒った復讐の女神ネメシスは「人を愛せない者は自分自身を愛するがいい」と呪いをかけたのである。ナルキッソスは水面に映った自分自身に恋をし、食事も出来ずに痩せ細り、白いスイセンになったのだという。
 つまりナルキッソスは、その美しさと高慢がゆえ、復讐の女神ネメシスにより、水鏡に映った自分自身に恋させられた。水面の中の像は、ナルキッソスの想いに応えるわけもなく、彼は憔悴して死ぬ。そして、その体は水辺であたかも自分の姿を覗き込むかの様に咲くスイセンに変わったという。このギリシャ神話の伝承からスイセンのことを欧米ではナルシスと呼び、スイセンの花言葉「うぬぼれ」「自己愛」が生まれたのだ。また、これがナルシスト(ナルシシズム)という語の語源ともなった。
「学名はNarcissusというのよ。原産は地中海沿岸なのだけども、古い時代に日本に渡来し野生化したの。スイセンという名は、中国での呼び名「水仙」を音読みしたものよ。水辺で咲くスイセンの姿を、仙人に喩えたと言われているわ。仙人は、中国の道教において、仙境にて暮らし、仙術をあやつり、不老不死を得た人を指すの。それは不滅の真理である、道(タオ)を体現した人とされる。だから花言葉は(神秘)とも言われてるのよ」
 五郎と同じように、香織もそんな話を君子から聞かされた。

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「密言の花や・・・」
 五郎は以前からスイセンの花をそう呼んでいた。
 仙人は基本的に不老不死だが、自分の死後死体を尸解(しかい)して肉体を消滅させ仙人になる方法がある。これを尸解仙というのだそうだ。一般にその仙人といえば、白髯を生やした老人というイメージがあるが、韓湘子など若々しい容貌で語られる者や、中国では西王母、麻姑仙人(仙女)などの女性の仙人の存在も多く伝えられている。最澄(さいちょう)は、平安時代の僧で、日本の天台宗の開祖であるが、入唐求法(にっとうぐほう)の還学生(げんがくしょう、短期留学生)に選ばれて天台山に登り、天台密教学を日本に持ち帰った。これが日本の天台宗の開宗となる。その天台宗の年分度者は比叡山において大乗戒を受けて菩薩僧となり、12年間山中で修行することを義務づける。そうした天台千日回峰行僧の修行の姿が、仙人と同じなんだと五郎は語っていた。

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「和歌子はん、どないしてはるかなぁ~」
 そういいながら香織はすっかり朝の明けた鞍馬山の方をぼんやりとみた。
「和歌子さん、て、あの芹生のか・・・」
「そうや。今でもまだ、あの牛飼の少年のこと、待ってはるんやろか」
 香織がそういう和歌子とは、今から二年前、虎彦が香織に連れられて初めて芹生の里を訪れたときに出逢った女性である。それは水仙の花がまだ蕾の固い初冬のころで、北山へと分け入って、香織が育てる水仙の丘を確かめた日のことであった。しかしその丘を見るのとは別に、そこには灰屋川の上流になる清らかな流れを、虎彦が一度眼に焼きつけておきたいという願いもあった。
「ああ、あの和歌子さんだったら、きっと待っているだろうね。彼女はそんなお人のようだ・・・」
 あの日、香織と虎彦は貴船(きぶね)の奥の芹生峠を越えて杉林の中をしばらく行き、一つの木橋を渡る途中で鼻先に籠をかぶせて牛をひく少年と行き違った。香織と同じように水仙の白さを見つめる虎彦は、その少年と牛のどうにも長閑だった光景を重ねながら和歌子のことを思い出していた。
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「せやけどバス、えらい遅いなぁ~・・・。電車だと早うに行けたんやわ」
 苛々とした口調で香織は投げやるようにいった。
「いいかい・・・かさね。人生とは・・・待ちわびることだ。あこがれて希望を待ちわびるのが、佳き人生の旅をする極意なのだ。自分で計る風なんか、たかが知れている。何かや、誰かに、計られた配剤の風にこそ、大きく享(うけ)るものがあるからね。人が人として長い人生を生きる間には、時として、動こうとしない時間も人間には必要だ。何もかもが人間の思いどうりにゆく筈もない。だから、たゞひたすらと待ちわびる。そんな委ねる時間というものを心がけることが大切になる。あの芹生の、牛を引いていた少年のようにな・・・」
 こう香織にいい聞かせながら虎彦は、めくり忘れて少し気がかりなことだが、昨年の過失、日めくりの暦(こよみ)を思い出すと新春を迎えた今どうにも苦手なのである。馬齢のせいか、眼に見えて「残り日」が減ることがじつに面白くなかった。人生というものが八十歳も過ぎると、消えていく時が見えにくいのがいいのだ。年末に日めくりを千切ろうとしたとき、どうにも心まで飛ばされるようであった。
「ふ~ん・・・、たゞ待ちわびること・・・えらい面倒な話やなぁ~」
 面倒な話を聞く途中で耳を塞ぎたいのも若さである。香織はやや目先につられ先走りする質の娘で、そんなときにいつも耳朶を指先でなぞり始める癖があるのだが、その様子をながめながら虎彦は、香織がまた悩み始めていると思うと、もう若くもにのに胸が躍る自分がいることが自身でも何だか可笑しかった。

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「儂(わし)のように老けてくると、時計が止まる時間が、どれほど嬉しいものであるかがよく解るようになる。死期が近づく手前で時計が針を止めて欲しいのだ。もしそうであれば本当に嬉しいと日々思うのだよ。これは、かさねには、まだ解らないと思う。だがね、若いかさねには、若いから耕して欲しいと思う時間がたくさんある。だから今の時間をしっかりと享け止めて見つめて欲しい。その時間とはね、真剣に待ちわびることでしか享け止めることはできないよ。だから、自分から進んで時間を止めては駄目なんだ。止めるのと享け止めるのでは大違いだからね。解るかい・・・かさね・・・」
「へえ~・・・そうなんや。せやかて、うち馬鹿やし・・・老先生のいいはること、よう解らへん」
 そそくさと虎彦から視線を逸らした香織は、くるりと元に向き直ると、さすがに主人の説法じみた難解な口どりには疲れるのか、霜柱を踏みつぶしながら妙に寂寞(せきばく)とした小さな背中をみせた。しかしそれをまたのんびりとみる虎彦の眼には、そうする香織の姿が、何やら冬ごもりのような、やわらかい絵になっていた。
 香織はむっつりとはしたものの「君子はん、今ごろ、どないしてはるやろかなぁ~」と、ふとそのことを虎彦に訊こうとして、しかしそれをやめた。
 このとき香織は、雨田家に最初に連れられて伺う折々に、置屋(おきや)の女将佳都子と竹原五郎とが同じようにいって聴かせた「ええか、あの家やしたら、ほんに香織も幸せに暮らせるさかい、一にも二にも、まず辛抱(しんぼう)やで。ええか、身を肥やす勉強や思たら辛うはあらへん。もし、辛い思ても、もう帰る家かてあらへん、そない思いや。何事も、味能(あんじょう)して、務め通さなあかへんえ」という言葉を思い返していた。

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「ただ、待っていれば、それでええんゃな!」
 香織は小さくしょんぼりといった。
「いや、そうじゃない。違う。(ええんやゃな)という、その言葉使いは少し不味(まず)いね。(よろしィんやな)と言う方が、より上品だし適切だろうね」
「へえ~・・・。待てば、よろしィんやな」
「ああ、そうだ。それでいい。だが、バスが来てくれることに感謝する気持ちが込められていないと意味がない。バスがいつも来ることを、当たり前だと思っていたら、その気持ちがすでに駄目ということだ。かさねがいつも使う言葉で(来はる)(来てくれはる)の、あの(はる)の心遣いが大切なんだね。それは、京都で生まれ育った、かさねなら、簡単なことじゃないか。何もそう身構えて考えることもなかろう。生まれたままに、すでに身に染みているのだからね。ごく自然に振る舞えばいい。バスは来るのではなく、いつも(来はる)のだからね・・・」
 こういい終えた虎彦は、吐く息の白さも白いとは感じとれぬ杉木立の陰の薄暗さの中で、今も使われているとは信じがたい、そんな古めいた臭気がふと鼻を衝(つ)いた。
 それは昔、六燭光の小さな電球が、六畳の部屋を薄気味悪く照らしていた光景である。その中央に、凋(しぼ)んだように小さく、五歳の長男、光太郎の遺体が左向きに寝かされていた。死後十日も放置され、顔面が被弾で潰された亡骸(なきがら)には、消毒液が濡れて乾かぬほど、散布されていたのであった。ふとよみがえるように感じた臭気とは、虎彦の両腕で固く抱きしめた後に、鼻先に遺された消毒臭に混ざった息子の死臭なのだ。腐ったわが子の死体を嗅がねばならぬ親の痛恨の苦しみなど、あの戦禍の時代に、誰一人として省みて涙など流してくれる者はなかった。虎彦は、その亡骸を背負って5キロほどの夜道を歩いた。
 その光太郎がまだ三歳であったころのことだ。虎彦は香織に今語ったのと同じ言葉で、幼い光太郎と会話したことを思い出した。
「お父さん、バス遅いね。来るのかなぁ~・・・」
「光太郎、来るのではなよ。バスは待っていると、向こうの方から来てくれるものですよ」
 そんな光太郎がバスを大好きであったように、いや、亡くした息子が好きであったからこそ、そうなってしまったのかもしれないのだが、虎彦は電車とかいうよりバスに乗ることが好きであった。
「なして、そないバスがよろしやすのか?・・・」
 と、以前、香織がそう問いかけたことがある。今朝もそう問われた。そのバスが間もなくやって来てくれるであろう。虎彦が待つバスは、いつも亡くした光太郎を乗せてやって来てくれるのであった。そう思う虎彦は、そうした思いが果たして香織の場合、回答になるのかどうかさえ分からないが、ともかく応え返してみようと思った。
「私は、近年になって、生活に金をかけ始めたような、そんな生々しい富貴(ふうき)さが、まずもって嫌なんだろうね。戦中、戦後、荒れ果てていた家の中は、それでも、古い天井の下の採光の十分でない暗い家の中に幸せというものが漲(みなぎ)っていた。それにね、今は街や道は明るく、たしかに便利ではあるが、もう昼と夜の区別すらなくなっている。これも富貴な人工照明のせいで、未明などという言葉も現在では使い辛いほど、この世からは暗闇というものがなくなってしまった。やはり生きる人間には、陽と闇の按配(あんばい)がこの上なく大切なものでね。・・・」と、
 応え返そうと思うが、そうするときっと鼻の上に皺(しわ)をよせて、一気に捲くし立てることだろう。したくはないが、きっとそうする自分がいることを虎彦は自覚できていた。だから今更、香織にそんな応え方は止めようと思った。
 バスの、あの人臭さの中に身を沈めていると、バスを好んだ長男光太郎を偲べることは無論、多くの学生達が当時好んで使った言葉で言えば、何かに参加しているという好ましい実感が、乗合バスの中にはある。社会鍋や道普請(みちぶしん)にも進んで参加し、虎彦の若いころは、何より貧しいながらも生活道具を大切にし、使いこむ、磨きこむなどの工夫する痕跡に拘(こだわ)ることで得ることの、尊さや美意識めいた価値観というものが存在したし、評価されたりもした。そんな生活の模様が、当時よくバスの中には溢れていた。
 そんな風に懐かしくバスを想う虎彦は、靴の搖曳(ようえい)がおもしろいのだ。

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 靴をながめていると些細なことにまで感動することがある。バスの中の靴は正直なのであった。しかも雄弁だ。汚れても人目など憚(はばか)らぬ靴、新調だが埃をかぶり光らない靴、何年も磨きこんだ丹精の靴、いずれもが人それなりの味わいをもつものだ。しかも心が萎えて衰えそうになるとき、虎彦が一番欲するのは、群衆に紛れて、ただ一人になることである。そのためには真新しいバスでは駄目なのだ。古びてぼこぼこになった錆だらけの長い缶詰のような、鼻高のバスの中に、身をかがめていることが何よりも安らぎを与えた。
 しかし現代、そんな戦後の最中を走るようなバスはない。だからせめて今日は、わずか五歳で戦火に炙られて夭折した光太郎の遺骨の多すぎる余生を抱くようにして、不便を承知して何度かバスや電車を乗り継ぎしながら、人肌臭い車輌で奈良までを揺られてみたいのだ。
 そう思うと、八瀬遊園の方からバス影が近づくのが見えた。
 二人の待っていたバスが洛中の方へと遠ざかってしまうと、蓮華寺(れんげじ)の辺りにもう人影はない。高野川沿いに点在する人里は、低く冷たい北風の中にまだ眠っていた。

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 遠くからみている限りの比叡山は、王城鎮護の山とされた聖なる山上の天台界という印象は薄い。だが冬山だけはあきらかに違う。四明ヶ嶽の刻々と様相を変える雪景色は、神か仏の手がなしとげた天台宗ゆかりの霊山である中国の天台山を抽象させる白い鬼門の奇蹟なのだ。ともかくも山端に暮らす人々はそう感じ、そう信じて雪の四明ヶ嶽をしずかに畏れあおぐのである。
「老先生、ほら見ィや、高野川や。じきに真っ白うなるんやわ。もう寒うてカワセミもおらへん。死ぬ前ぇに、よう見とかなあかんえ~。五郎はんよく言ってはったわ。死んだら何もならんの人間だけやて。牛や豚は死んだかて丼(どんぶり)やら焼肉になりよるから人より偉いんやて。せやからお山の法師はんも、それ見習わはって精進しはるそうなんや。せやけど、カワセミは小魚漁ってよう殺生しよる。高野川のカワセミぃは人より偉いんや言うてはった。死んだらそれ見れへんようになる・・・」
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 そんな香織のつぶやきは、反対の車窓をみている耳にも届いたのであろう。虎彦はコホンと一つ咳払いをした。わずかに眼をなごめて「死ぬ前ぇに」の言葉の妙な揺らぎに、ポカンと口もとが崩れ、奔放な娘に微笑したようであった。気随な虎彦の横に訝しくチョコンとかたく座る香織は、遠のく生まれ在所あたりの冬枯れる閑(しず)かさを、もう見飽きた風景とばかりに軽く感じ寄せ、その眼だけは朗らかに輝いていた。その香織は「うちは何も頭から反対なんかしとらへん。心配なんは、老先生が死んだお父ちゃんに似てはるさかいや」と、動かざる能面みたいに反応のない虎彦を按じながらそう思うのだ。
 香織は水の流れが川石に砕けて光るのを見憶えると、下る流れがいつしか笛のような鼓動を打ちはじめ「笛の上手なお人やった。その笛にあわせて高野川の風が踊らはる」、そんな父と高野川の光景がキラキラと懐かしくよみがえりくる。そんな香織は口をひきむすんでは「何や知らん、うち変な気持や」と、つれない虎彦を横眼にながめては、しばらく眼を閉じたままにした。
「こうした何の変哲もない茫洋(ぼうよう)とした日常が、いつまで続いてくれるというのか・・・?」
 虎彦の青春期にはいつも戦争という非日常と接しあう日々の中にあった。そんな虎彦もまた香織と同じ山端の光景を眼に映しているのだが、虎彦は頭の中にポッカリと空洞ができていた。その空洞の中に、遠い遠い、故郷の奈良の、干からびた冬の古い土埃がひろがっていく。その里は万葉の、いにしえの国、大和なのである。



                             第④話に続く
                     みうまそうたろう 文字 かな 正


  らくほくふぜい

  
   高野川上流(カワセミ)

  
   高野川の橋 河合橋 - 御蔭橋 - 蓼倉橋 - 高野橋 - 馬橋 - 松ヶ崎橋 - 山端橋 - 花園橋



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Sotarou Miuma
立体言語学博士
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