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小説『五円風土記』 第一部「花そとば」 第②話

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                      はなそとば 文字 正2
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雁の群れF
             第一章 八瀬童子(やせどうじ)   


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       二  御所谷の五郎 (ごしょたにのごろう)



 雨田家別荘は比叡山西崖の裏陰にある。朝陽は、まずその山荘から西に望む鞍馬山の高みを射るように当たり、山荘の朝はその西からの逆しのゝめの余光に仄かに映えながら、高野川を越えてしだいに水紋が広がるように明け初めてくる。
「なんや、またバスどすかいな。老先生の顔に、そう書いたるわ」
 そういうと、旅支度をすっかり整えた香織は、手に握らされた虎彦のステッキをかるく揺らしながら、悪ぶれた様子でもなく朗らかにまたつけたした。
「老先生、ちょっとも、病人らしくしはらへん。三日前、あないなひどい発作おこさはったくせに、ち~とも懲りはらん。しゃ~ないお人や。なして遅いバス選らばはるのか、よう分からへんわ。電車ならスーッと速ように着きよるのになぁ~」と、
 ふくよかな白色の顔の糸をひくような眼をつむって笑う。
「きょうは外、寒うおすえ。足ィ、ほんに大事おへんのか・・・」
 と、人形(いちまつ)さんのような香織が気遣うように、室内にいても、しんしんと寒い日である。
 この香織という娘に、加賀あたりの羽二重(はぶたえ)の熨斗目(のしめ)を、あでやかな西陣の羽織と対で着せ、白足袋をはかせ、やはり西陣の角帯をキュッとしめて、髪型を丸く整えると、それはまさに等身大の市松人形ではないか。虎彦は初めて別荘で出逢った日、香織にそんな勝手な仮想を創り、明るく匂うように歩かせてみた。萌え出したばかりの美しい緑の、そんな命をもつ香織と出逢えてから雨田家は、それまで忘れていた呼吸を、いつしか取り戻すことができていた。


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 その香織がほそい指先でそっと虎彦の乱れたマフラーのバランスを整えていると、
「どうしても、今日じゃないといけないの・・・」
 一人娘である車椅子の君子が、弁(わきま)えのある細い口で念を押した。
「ああ、お互いが待ち望んだことだ。おまえも承知の通り、わたしも承知の上のことだ」
 尠(すく)なくしたいから君子をあえて見ずに虎彦は応えた。憐れむと君子の心を鋭く刺すように思えるからだ。十年前、バリアフリーで設計した別荘の、全てのスペースで君子が一人でも生きられるようにシステム化されている。虎彦はみずからが君子に投げかけたその言葉を噛みしめていた。
「そう、そうですよね。やはり、行くのですよね・・・」
 無茶も甚(はなは)だしいと思う。しかし、承諾してしまう。君子の性格の中に、いつも何かふっ切れない腫物(はれもの)の膿(うみ)のように、そういうダメなものが潜んでいることが、君子には自分でもわかっていた。
「二度も同じことを訊(き)かないでくれ」
 ふりむいてから、ふッと視線を苛々(いらいら)しく君子にとめた。
「そんなん怒らんかて・・・、たゞ君子はん、老先生のこと、心配しとらはるだけや」
 君子に虎彦が眉をひそめたせいもある。だがそれとは別に以前から虎彦に対し、疼(うず)きに似た興味がなかったわけではない。それは小さくてささいな理不尽である。先に玄関を出ようとしていた香織が、今度はすかさずキッと視線を睨(ね)めすえて虎彦にとめた。そうして・・・、
「老いては子ォに従うんや、と、弘法(おだいし)はん、そういいはったわ。たしかそうや思うけど、伝教(でんきょう)はんやったかも知れへん。お大師はん、亡くなりはった前の晩、二十日ァに、うちのお父はんそないなこというて講ォの人らと話してはった。子ォは宝なんや」と、
 香織は、何の罪もない君子に、かわいらしく茶目っ気のウインクを投げかけて笑みた。
「空海さん、そんなこと言ってません。ごめんね香織ちゃん。だけど、もういいのよ・・・」
 それでもう君子は、車椅子の上で、何やら心泛きたつようなものを覚えていた。
 そんなざわめきに耳を傾けている心境でもなさそうな虎彦は、ふッと一つ吐息を漏らすと、
「日東大学の瀬川教授ほか五名が、明日の午後四時に京都駅着ということだ。梨田君が案内してくるから彼をふくむ都合六名で、祇園の佳都子(かつこ)に連絡しておいてくれないか。万事よろしくと・・・な。ああ、それから、これも・・・頼む」
 こう君子にやや昂(たかま)りのある声で言伝(ことづて)し、一枚のメモ紙を手渡すと、虎彦はもう振り向きもせず香織を伴って午前七時前には別荘を出た。
「香織ちゃん、父のこと、くれぐれもお願いね」
 君子のそんな言葉に振り返る、四十路(よそじ)ほど歳のはなれた若々しい香織は、OKとばかりに手を大きく左右に振ってみせながら微笑んだ。紺のデムニに淡い桃色のスニーカー、何よりも背負う若草色のリュックが、新年の風をカラフルに揺らしてじつに可愛らしいのである。
 虎彦は、そんな香織のことを「かさね」と呼んでいた。
「かさね、とは、松尾芭蕉が奥のほそみちにいう〈那須野の、小姫の、かさね〉なのだ・・・」
 父はそうとは語らないのだが、虎彦の本歌取りのようだと、そう君子は車椅子の上で手を振りながら〈ふふふッ〉と思う。父子家庭の長い娘が父の趣癖(しゅへき)に従えばまた、そのかさねとは〈八重撫子(なでしこ)の名なるべし〉かの河合曾良の句に自然に連なり解けてくる。
 その撫子は晩春から初夏に育ち、初秋には可憐で淡い紅色の花を咲かす夏の草である。春の野は厳しい冬の間に創られるもの、が口癖の虎彦ならば、こんな採り重ね方をきっとするに違いないのだ。あえて口に出してそうとは言わない虎彦の、胸の内の香織とは、もうすでに孫娘なのである。その香織が別荘にきてから、まだ二年なのに、もう十年は共に暮らしているようだ。
「両親と死別して、まだ二十歳にも満たないで、どうしてああも明るく振る舞えるのか・・・」
 坂道を下る二人のシルエットを玄関先で見送る君子は、二年ほど前から置屋(おきや)の女将(おかみ)佳都子からの紹介で、別荘に住み込みで働くようになった家事手伝い兼、虎彦の付き添い役、そんな香織の屈託のない様子をじっとみつめながら、
「ええ人や・・・。あの人なら父を任せても安心や。大切にしてくれはる」
 と、爽やかな香織の情緒に呑み込まれながら、君子は何となく、ほのぼのとしたものを覚えた。
「ああ~・・・、いやや、鼻ァつんとする。これ、雪の匂いやわ。せやけど、えろう、バス遅いなぁ・・・」
 三宅八幡前バス停で東のお山をながめながら、香織は何度も首をふる。そんな表情の貌(かお)にある眼は、市松の人形にそっくりといっていいほど似ていた。虎彦の一人娘である君子の持ち合わせていない、女の子でありながら、目尻に生きる力の光りを上手(じょうず)におびさせる男児かとも思えるほど逞しい眼の輝きであった。

「あのな老先生、今夜、お山、雪になりはるわ。何や、そないな匂いするさかいに・・・」
 京都でお山とは、比叡山のことだ。しょんぼりと丸く虎彦のコートに寄り添うまだ17歳の香織は、そう不満げにいってから、左頬に深いえくぼを寄せて、何やら懐かしい親しみでもつかむかのように、虎彦82歳のコートの袖口をあいらしくキュッとひっぱった。
「ほう、雪に!、匂いがあるのかい?・・・」
「ある、のッ・・・」
 虎彦には、雪が匂うという或(あ)る種の儚(はかな)さが面白く思えた。
 以前から虎彦は、一瞬だけの儚さの裏側にある、無限の変化を秘めて湛(たゝ)えた香りというものの性格に惹(ひ)きつけられてきた。その無限の向こうに、自分では見届けることの出来ない、雪の匂いというものがあるとすれば、自分の前にありもしない匂いだが、香織の記憶と共にふう~っと鼻先に戻ってくるような気もした。そんな虎彦は、訓練された鼻が、一瞬で余分な匂いを差し引いて、特定の香りを聞き分けることを十分に知っていた。
 人は香織のそういう特殊な感性を、迷信だといって笑うかもしれない。しかし、虎彦の脚の痛みも時々風のきな臭さを感じたとき、休火山のように爆発し、この匂いが誰にも解らないことのように、降雪と香織の摂理との交感とが、まんざら無関係なこととして、虎彦には思えなく笑えないのであった。


                    雪ふり動く雪ふり動く

「そうや。これ、ほんに雪の臭いや。せや、今夜、雪ふるわ」
 こう強く香織がいい切ると、空から冷たさに凍えて溺れそうな風が、またしんしんとバスを待つ二人の袖口に差しこんできた。
 指先や頬の赤さが、辛うじて老いた虎彦の顔色を人間らしきものに染めていた。山端(やまはな)で育った香織にはこの土地の雪の匂いがわかるのだ。雪が降り出しそうな、そんなとき、何となく周辺がきな臭くなるという。
「それは私が感じた、或る朝の臭いと、同質のものかも知れない」
 と、虎彦はふと、そう思うと、微かに高揚するものを覚えた。
 朝の香りは、立ちならぶ木立に射しこんでくる斜光にともなって、特有の香りへと発展し、五感では聞き獲(と)れるが、眼では不可視の風土なのだ。そう思う虎彦は、その木を杉とすれば京都北山、山毛欅(ぶな)なら白神、扁柏(ひば)なら津軽、紅葉ならば嵐山、桜なら吉野、桧(ひのき)なら木曾など、このそれぞれが無双の朝の香りを持っていたことを覚えると、耳朶(みみたぶ)が記憶するその香音を聞いていた。
 かって虎彦は吸い寄せられるようにして、それらの場所へ朝の香りを求める旅をしたことがある。比叡で育ち、その風土と共にある香織をかたわらにして虎彦は今、日本各地の朝の香を訪ね続けた日々を思い返していた。
「老先生ッ、雪ふると、また脚ィ痛うなりはるわ」
「・・・・」・・虎彦は、ぼんやりと四明ヶ嶽を見上げて無言であった。
 奈良まで行けるのか、と香織は心細くなっていた。雪が降り始めると、信彦の、決まって患っている脚が痛くなる。しだいに痛みは背中まで走り、やがて膝が疼くようになると、もう全く歩けなくなって支えきれない香織が困るのだ。その体験を虎彦から度々させられていた。
「しゃないなぁ~・・・」
 香織は、微かに心に重荷を感じ、深山(みやま)をみてまどろむような、小さな声でいうのである。
 聞こえてはいたが、虎彦は口を噤(つぐ)んで何もいわなかった。冷たさに焦(じ)らされる時間が嫌だからと舌打ちして、この颪(おろし)が止むものではない。虎彦は、たゞ眼だけを、いとおしく香織の方へ向けた。
 たしかに香織にしか聞き分けのできぬ比叡の朝に雪を孕(はら)ませた匂いがあるのであろう。二人の眼と眼が合って、香織の純真な眼の輝きにふれたとき、虎彦は一層いとしさが増した。
 この娘には、この世の中を〈どうか幸せに生き抜いて欲しい〉と願いたくなる。
 ともかくも、過去も、現在も、視界に汚いものがあり過ぎる。辛いもの、苦しいもの、嫌なものを見ないでは生きてゆけない毎日ではないか。不幸とは、そんな視界の貧しさから生まれ出るものだ。眼の前には未来を見つめられる香織がいる。そう思う虎彦は昨夜、寝る前に書斎の窓を開けたことを思い出し、こじ開けた過去の時間が訝(いぶか)しく想い起こされた。
 今を生き、未来を生きようとする香織に〈人間とは、好物である矛盾を食べるのさ〉とは、伝えたくもない。六十年も前のことだ。虎彦は、ふと汽車の旅中で眼を醒ましたことがあった。
 上海(シャンハイ)から乗り継いできた汽車は炎々とした血の海を走つている。
 だがしだいに、そこが海ではないことが判った。汽車は少しも曲がることもなく真っ直ぐな軌道の上を遥かなる地平線を目指して走っていた。見渡す限り茫漠(ぼうばく)として広大な満洲の荒野である。その広々とある地平の果てまでが真っ赤な罌粟(けし)の花で燃え立っていた。それは、じつに感動的な光景だった。

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 虎彦は予定通り哈尔滨(ハルビン)で降りた。
 そこでしばらく滞在することになっていたが、或る日、東亜同文書院を卒業した者として公営の工場に招かれ、見学後にお土産として一袋の阿片(あへん)をもらって帰った。日本円にして千円相当の代物であった。当時、満鉄職員の月給が約百五十円である。しかも〈支那人(しなじん)に売りなさい。五倍の価値になる〉と言い添えられて手渡されたのであるが、卒業祝いの土産に阿片とは、馬鹿げておおらかな時代であった。
 しかし、それが満洲では阿片禁止令を施行しながら、同時に、支那人にはその満洲で育てて精製した阿片を、平然と狡猾(こうかつ)に売り捌(さば)いていた。その一袋であることに気づいたのだ。
 そのことを醜く思い知らされた虎彦は、無性にプライドを破壊された手で、お国のためにと戴いたその阿片をハルビン郊外の溝(どぶ)の汚れに流した。これらは満洲国、つまり日本人が為す政策であったのだ。
 わずか地上より、百六十センチメートル内外の眼の高さから、転じて八十二年間、世の中には醜悪で酷(ひど)い矛盾がたくさんあった。現在でもその眼の高さから転じて、大きく空を仰ぐことさえじつに少ない毎日である。その限られた眼のゆくところに、安心して受け止めることのできる真実がどんなに少ないことか、と虎彦は訝(いぶか)しく溜息を洩らした、・・・そのとき、
 黒い人影が近づいてくるのを感じた。
 とっさにステッキを左脇に抱えた虎彦は、黒いフェルト帽のつばを指でつまんでキュッと引き下げた。帽子が風に煽られるとでも思わせればそれでいい。さりげなくそう見せかけたい虎彦は帽子の陰でうつむいていた。迫る人影が妙に周囲の山と溶け合って、しかもひたひたと迫る静かな影を揺曳(ようえい)させていたからである。
「老先生ッ、あれ、隠れ道の、五郎はんや」
 眼ざといものだ・・・〈この娘には、この距離から人物の特定ができるのか・・・〉と虎彦は驚いた。
「ほ~ら、やはりそうやぁ~」
 と、香織は嬉しさにむせるかのような甲高(かんだか)い声を北風のなかに響かせた。
「こないだ、五郎はん別荘にきはッてん。お菓子やら、お花やら、お魚やら、ぎょうさん買うて来てくれはりましやんや。あれ、たしか晦日(みそか)やったわ。老先生、まだ東京から戻りはらん日ィや。せやけど、どないかしたんやろか。御所谷から、こない早うに・・・」
 香織のいう「隠れ道の」とは、一般にはほとんど知られていない、比叡山の僧でさえあまり知らない道である。
 比叡山の西塔の中心となるのは釈迦堂であるが、その裏脇から黒谷に下り入ると、北尾谷に抜ける急斜面の細い坂道がある。それは修行道より悪路の、もう獣道(けものみち)にも等しき細く険しい山道なのだ。ここを下ると八丁谷に、そこから御所谷へと、抜けてさらにそこから麓の八瀬へ向かうと、八瀬天満宮の祠(ほこら)のところに出る。これが、隠れ道である。五郎は御所谷に住んでいた。
「おお、香織やないか。こない早う、どないした?・・・」
 先に訊こうとしたセリフを五郎にとられると、妙に嬉しく、香織はみるみる顔をゆるめた。
「老先生、奈良、いきはるんや。うちも一緒、カバン持ちや」
 にっこりして香織は弾むような言葉を返しつつ、さも楽しそうに虎彦の顔をみた。
 竹原五郎はその声を聞きつつ、虎彦をみてペコんと丁寧に会釈した。
 虎彦は、この比叡の猿山の谷に暮らす男とは、別荘で一度会っている。以来、五度は別荘の敷地内や裏山で見かけている。杳(よう)として暮らし方が知れなかったこの男の、その面(つら)をまともに見るのはこれが二度目なのだが、二人の様子の自然さに接していると、虎彦は妙に爽やかな風が吹いてくるのを頬に感じた。
 血のつながらぬ二人がまるで父と子のように溶け合っていた。そこには微塵の逡巡(しゅんじゅん)もなかったかのようにみえる。ふと、見送ってくれた君子の影が侘しく泛かんだ。これでは虎彦も凍える顔をさせて、バス停の一隅に形よく立ったままではいられなかった。
 この竹原五郎という男が、香織の亡き父と刎頸(ふんけい)の友で、祇園の佳都子から五郎が八瀬童子(やせどうじ)の末裔なのだとも聴かされていた。またその八瀬童子とは、何やら十津川の竹原家とも深い関係を匂わせるのだとも、アニミズム歴史学の川瀬教授が以前、そう論文に書いていた。奇遇にも、その川瀬教授が明日の夕刻には京都駅に到着する予定である。虎彦は、そんな五郎から先に挨拶されたせいもあるが、おもむろに黒いフェルト帽をとると、五郎よりも深々と頭を下げていた。
「あれ、老先生っ、それお商売どすのんか!」
 このまま目礼だけで済ましてスレ違おうと考えたその間に、香織がフィとまた妙な言葉を挿(さ)しいれた。
 五郎も同じ思いであったろう。立ち去ろうとした流れに、香織がパッと明るさを灯すような含みのある言葉を投げかけたのだから、迂闊(うかつ)にも五郎の足を止めさせてしまう羽目となった。
「なんや香織、悪戯(てんご)いうたらあかん。旦那はん、困らはるやないか」
 親代わりだという心根をもつ五郎は、やはりそれらしく厳しさも感じさせてそう叱ると、やゝ気まずそうに虎彦をみて貌を赤らめた。
「てんごなんかいうてへん。これ、うちの仕事なんや」
 香織のそうした言葉には〈先生いうんは、頭下げはらんもんや。ただ学問さけ、しとかはればそれでよろしいんや。せやけど今朝は、頭ァ起こさはるのに、えろうご苦労なことやなぁ~〉と皮肉めかした妙な含みを持たせてはいたが、どうもそうではなさそうだ。
「せやなかったら何か、旦那はんに〈わいの頭ァ、10トントラックなんや。重とうて、あがらしまへん〉などと、香織のツッ込みィに、ボケて返しなはれとでもいうんかいな。そんなんアホなこと、それ、仕事とちゃうやないか。ほんに、しゃ~ない娘や」
 と、五郎は真面目に真っ赤になって怒った。
「五郎はん、えらいじょうずに返しはるなぁ~。せやけど、そんなんじゃあらへん。うち、老先生のこと、お師匠はんや思うとる。せやさかいに、五郎はんのアホ・・・」
「わいが・・・阿呆・・・!」
 香織はもう眼に一筋の涙さえ泛かべている。・・・〈ああ、これじゃ埒(らち)あれへん〉しかも〈五郎に向って、阿呆などと〉・・・こうなると五郎の手前、いつものことであるから刺した釘も用をなさないことがわかる虎彦は、一応、見咎める眼できつく香織をみた。
 皮肉やあてこすりの調子などいささかも含ませてないと思う香織は、やはりそれを他人事のように剽軽(ひょうきん)に笑みた眼の、目玉を上下左右に廻してヤンチャに動かした。こうして香織が笑うと、唇のめくれかたが独特である。つい虎彦も五郎もプッと笑ってしまった。
「こないな娘ォで、ほんに、こっちゃが困ってしまうがな」
 足を止められた五郎は、真実困った声をだした。
 かすれて低い濁声(だみごえ)である。冷たそうに聞こえるが、しかし節々に香織をそっと庇(かば)い包むやさしい人柄のでた言い回しで、しかも弁(わきま)えていた。一見その五郎とは、尻あての鹿皮(ししがわ)を腰にまきつけた野生の風体で、赤鼻の小柄な山男だが、脚を患う虎彦だと承知でも、あえて凍えるや冷えるを挨拶の言葉に引き出して、そうした愚かな会釈など一切しやしない。それがまた虎彦に、毅然(きぜん)とした強さを感じさせた。
「二人とも、けったいなお辞儀だけしはって、済まそうとしはるさかいやわ」
 どうにも懲りない香織がまた眼を細めて笑いかけた。いつもがこんなお茶目な娘なのである。
 虎彦はその辺りのことを詰めていくのが嫌で、二年間、何もいわなかった。妙に上品さだけをものほしげに見られるのは、六十五歳も違う香織が相手であるだけに我慢ならなかった。むしろこの娘といると老いゆく一日が、本来ならひどく短く感じられるものであろうが、何とも長々と感じられるのである。老船の帰り着く港が見えないのもじつに淋しいものだ。それだけに帰り着ける港のあることを感じさせてくれる、いつしか香織とはそんな存在となっていた。
 そんなヤンチャな非凡さの思春期を生きる香織からいい遊ばれて軽くいなされることに、平凡な老人の日々を重ねられるようで、いつしかそれが嬉しい快感ともなっていた。老人の思い通りにならないのが若者の行動であり言動であるのであれば、それを自分の崩れ去る心の張りにしたかった。
「いつものことですから、特段、気にもなりませんよ」
 五郎は意外そうな顔をして、そういう虎彦のをみた。しばらく黙っていたあとで、虎彦は平静な声でいった。
「竹原さんこそ、こんな朝早くに、どこかご商売にでも?・・・」
「へぇ、それが・・・」
 五郎が応え返そうとする、その脇で香織は、五郎が手に固くにぎる赤いリボンのついた手提げ袋の中身に気がそそれれるようで、それを指でおさえては、ピンと弾いて音の何かを確かめていた。
「何するんや。そないにしたらあかんやないか。やめなはれ・・・あかん、あかん」
「隠さんかてええやんか。リボンついとるし、これ一体何やねん?」
 五郎に慣れっこの香織は、まるで仔犬が尾をふり甘えるような甲高さで袋の中身を問いつめた。
 赤いリボンは誰かへの贈り物に違いない。そのリボンと、指の感触から中身のおおよそを察した香織は、もうそれ以上は自分の口からいいだすまいとしていた。
 良質の作曲家の内面にさかしらな理性の入りこむ必要はない。慧眼(けいがん)な作家の音楽を聴いていると老いた虎彦でさえ、どんな自分の姿も可能なような気がしてくる。この躍動性と同じように香織が傍にいると、ふんわりとしていつも現実が希薄になる。虎彦は、むしろその内面の飛躍をうらやましく感じるのだ。
「しゃないなぁ~。これか、これわやなぁ・・・」
 五郎は白い息を一度はずませて応え返そうとしたが、どうやら虎彦の存在がそんな気にさせるようであるが、先ほど、無意識に力んで斜めに踏み出した右足をス~ッと揃え直すと、弱ったように小さくなって神妙となった。
「なぁ~教えてェ~な。そない、もったいぶらんと、何していえへんのやろか」
 香織はことさら謎めかした笑みを泛かべ問いつめる。そのためか気恥かしさが滝のように五郎の顔面に滲み出ているのが虎彦にもわかった。みかねる虎彦はそれとなく眼を笑みて促してみた。
「しゃ~ない娘やなぁ~。これ、毛布のシャレたやつや。ブランケットいうて、舶来の膝掛けや」
 ようやく弾みをえた五郎は、もう満面の笑みで中身を披露すると、二人をみて得意そうであった。
「寒い日ィ続きよるし、これやしたら元気取り戻さはるんやないか、と、そない思うてな」
「誰が、元気取り戻さはるんや?」
 それまで瞼の上を桃色にしてうつむきがちに聞いていた香織であるが、フィっと虎彦の前を横切ると、その身を二人の間に割り入れるようにして、五郎から眼を逸らさずに訊(き)き質(ただ)した。
「そんな怒った顔せんかて、これ、決まっとろうが、君子はんのや」
 こう聞かされて五郎と真向うと、しかしどこか自分らしくない。香織は何かそぐわないものを感じた。君子がまじまじとこちらを見返しているようにもある。父のものを貰った黒目が勝った香織の透き通る丸い眼は、五郎の目線から、こころもち下がっていた。
「わい、こないだ道具屋寄った難波の帰りにな、船場にいったんや。ほなら、着物きた店の人がやな、これがええ、これがええ、いいよるんや。フランス製やいいよるし、ほれで、わい、買(こ)うてしもた。そんなんでコレ、君子はんに、今朝届けとこ思て・・・。その後、蓮華寺に用事あるさかいに・・・」
 虎彦の前だから、もじもじと、なかなかいえそうになく困っているのが虎彦にはわかっていたが、五郎はさもうまそうに北風を大きく呑み込んでから、二人に語りはじめると、眼をしばたいて瞳を炯(ひか)らして、じつに嬉しそうに話した。その眼の炯(ひかり)、初めて会ったときにも感じたと虎彦は思った。
「えらい早口やったなぁ~。うちのォは、次、船場行きはったときでええわ」
 そう口をつく怪訝(けげん)な言葉も、頬から顎にかけての弛(ゆる)やかな丸の線がそれを救ってくれる香織なのだ。
「ああ、買うてくるさかいにな。そんなもん嘘いうもんかいな」
 もう香織は微笑んでいた。若いということは、何をみても聞いても老いとは違う意味を感じさせるものだ。
 香織は五郎が話をする途中から、薔薇の花の刺繍(ししゅう)をあしらったブランケットをながめ返しながら〈いつか、うちの子ォ生まれたら、こんなんで巻いて抱きたいな〉などと連想をふくらかし、あこがれの中の、すでに赤ん坊ができたという確信が、勝手にあつらえた慶事に寄り添って、仄々とした喜びに浸っていたのだ。
 そのような香織は、ブランケットを膝の上にのせて児を包み、ためつすがめつ見つめ直しても、まだどこにも仕舞いこむことができなかったのかも知れない。そしてようやくブランケットをたたみ始めた、その手がまたふと止まると、両瞼からぽろりと涙をこぼした。
「急にうち、何やしらん、おかしいんやわ・・・」
 そういいながら香織はそんな自分の感情に驚いていた。母親の顔も知らずに育った、その事情の端々から、五郎が香織に明確には答えてくれなかった内容を、漠然と感じとることはあった。自分でそれらを訊き質そうとしなかったせいもあるが、聞けば何かが壊れる恐れを抱き続けてきたようにも思える。父親を亡くしてからは一人いきようとすることが精一杯で、そんなことには一切眼が向かなかったような気もする。しかし気づかぬうちに、母恋しさに染まっていたのかも知れなかった。そんな香織の眼は、視界全部に立ちふさがると思えるブランケットに向けられていた。
「香織ッ、どないかしたんか?。次、きっと買うてくるさかいに、かんにんや」
「そんなん、何も気にしはらんでもよろしがな。うち今、夢ェみて遊んでたんやさかいに」
「せやけど、香織・・・」
「えろう~、すんまへん。早よォ行きはって、大事ィな君子はん、味善(あんじょう)みたげとくれやす」
 と、さも悲し声でこうつけ加えた。
 はっと我に返った香織は、思いなしか君子を見守る五郎の眼も以前とは変わってきたように感じられる。以前の五郎なら、君子の優雅な言葉遣いや隙のない身じまい行儀のよさに近づけぬ思いをしたに違いない。香織もそうであったから判るのだ。
「そんなん、嬢(いとう)はんにィ、えらい冷たいものいいやないか。失礼や。せやろ、わい変な気持や」
 五郎は、気づかぬ素振りで通りすぎたい型の男とは、あらゆる点で違っていた。
 子を産めぬと若いうちに決まっていた女の、どれほど淋しい人生なのかは、かって子を産んだ女でもわからぬもの。まして男には、もちろん父親の虎彦にもわからぬものだ。そんな君子が十年を重ね経てようやく、おのずから賤しい身の上だと自覚している五郎になぜか警戒を緩めて親しんでくれている。五郎いはそんな思いの他は何もない。晦日に庭の手入れでもと別荘に顔をだした折〈体のそこらじゅうが怠(だる)いし、冷えると痛いいうて膝頭さすってはったんや。正月の挨拶もまだしとらへんし〉だから今朝、届けたい一心でやってきたのだ。
 別荘を建ててから十年になる。当時から君子はこの八瀬の集落で暮らしてきた。
 虎彦は東京都内の松濤の自宅と、京都八瀬の別荘とを相互に暮らし分けたニ重生活で、折よく別荘にいてもその大半は外出がちになる。したがって、考(もの)いうまでもなく五郎との付き合いは君子の方が長い。虎彦の不在中、五郎は不自由な君子のために面倒見もよく、香織や他の手に頼みづらい用件や、厄介な世話を幾度となくかけているという話は君子から聞いていた。君子のためにと、凍える寒さの中を御所谷からわざわざ歩いてきた五郎の言葉は、虎彦にとっても誠実で温かみのあることであった。
「一生涯、病人ともいえる不憫者の君子というものは、親の眼からして、いつまでも子供のようなもの。私がそう努めねばならぬように、私がしでかした過失である。嫁ぐこともできずに遠に五十路(いそじ)を過ぎた女でも、いやむしろ、五十歳を過ぎ、まもなく六十歳にさしかかる女だからこそ、歳の差のさほど違わない、五郎のような逞(たくま)しい男性が身近にいて欲しいのであろう」
 そう思う虎彦は、そんな五郎の一途な温もりで、急にいたらぬ我が身のひきしまるのを覚えた。
「せやッたわ。五郎はんの渾名(あだな)ァ、蛸薬師(たこやくし)いうんや。せやろ。死んだお父ちゃん、五郎は、蛸薬師ィやいうてはッたわ」
 さる寺の僧侶が病に苦しむ母のために、好物のタコを買ったのだが、仏門の身でそれは何事かと問われ、咄嗟にその僧侶が薬師如来を拝んだところ、タコが薬師経と変化(へんげ)して、以来、母の病も癒(い)えたのだという。その蛸薬師のことか?・・・当の五郎はたゞ笑っていた。

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「旦那はん。今日、雪ィになりまっせ。お山がそないな匂いさしてはる。ほな、気ィつけて・・・」
 そういいながら五郎は指先で、香織の額をチョンと押した。
「五郎といい香織といい、この二人は、何と同じような体臭を私に聞かせる者たちか!」
 虎彦はたゞ不思議さに戸惑い、この隠せようもない確かなモノを、どう抑えようか、しかたなく苦笑して終わらせることしか手はないと思ったが、その間に五郎は別荘の方へ歩き、向かい風にも平然とゆく逞しい後ろ姿となっていた。
 小さくなるその五郎の影に虎彦は、〈私と君子との関係が硬化しそうなときに、この五郎が現れたのだが、もしあの時期に別の男が現れても、おそらくこうはならなかったであろう〉と思うと、どことなく安らかな余光を弾いて五郎の影は消えた。それは親という他人の加わる余地のない純真な影であった。それだけに虎彦は、蛸薬師という渾名に、もし縁あれば君子もきっと癒されるのでは、と思うと妙にその影の余韻に惹かれた。
 比叡の西谷に隠(こも)るように暮らし、山岳の情緒豊かな雰囲気を漂わす五郎に、東京の都会育ちの君子が好意を寄せている。五歳で儚くも夭逝した兄を話にしか知らずして他に兄弟もなく育った君子だから、五郎を兄と感じて慕うのか。何よりも患うその君子に蛸薬師の五郎が親しみを抱いてくれている。虎彦は比叡の山というものがもつ神秘さをそこに感じていた。
「ええもん贈らはるわ。ほんま、よう考えはったなぁ~。きっと君子はんのことや、喜ぶ姿ァ、五郎はんに見せてくれはる。なあァ、老先生・・・」
 ほっとして肩を落とした香織はそういうと、深い二重のまぶたを心もち伏せ加減にした。
 このとき、朝陽の奥に白々と融けこんでいった五郎の影が、虎彦と香織の心を占領し、バス停に残された二人は、比叡の山の向こうから昇る陽の静けさの中に、たゞシーンと包まれていた。
 香織は、梅の季節に五郎とこの辺りを幾度か通った春を思い返している。虎彦は、正常な感覚が麻痺(まひ)した君子の車椅子を押し続けた日々を思った。
     坊さん頭は丸太町 つるっとすべって竹屋町 水の流れは夷川(えびすがわ)
     二条で買うた生薬を たゞでやるのは押小路 御池で出会うた姉三に
     六銭もろうて蛸買うて 錦で落として四かられて 綾まったけど仏々と
     高がしれとる松どうしたろう・・・
 と、香織が何気なく呟く京のわらべ唄が、ひとり北風に吹かれて揺れていた。
「あッ、老先生ッ、これ違うとるわ。今日、土曜日なんやして、あと十分待たんとあかんわ」
 待ちくたびれた香織がバスの時刻表を確かめると、通常日の運行時間と、土、日曜の運行時間とは違うことに気づいたのだ。
「えらいもんアテにしてた。うち、何てことや。老先生、ほんに、堪忍やえ~・・・」
「何ぁ~んか、うちら二人して、君子はん訪ねはる、そんな五郎はん、待っていたのか知れまへんなぁ・・・。」
 風穴でもポカリと開いたような、そんな呟きが香織の唇から洩れたとき、その言葉は、しかるべき余韻を虎彦にしみじみと残して、しばらく北風の中に舞っていた。




                             第③話に続く
                     みうまそうたろう 文字 かな 正


  らくほくふぜい

  
   貴船・蓮華寺・直指庵

 蓮華寺(れんげじ)は京都市左京区にある天台宗の寺院。山号は帰命山(きみょうざん)。近世初期に造営された池泉鑑賞式庭園によって知られる。寺は鴨川源流のひとつの高野川のほとり、かつての鯖街道(現・国道367号線)の京都口の傍ら、上高野の地にある。もとは七条塩小路(現在の京都駅付近)にあった西来院という時宗寺院であり、応仁の乱に際して焼失したものを江戸時代初期の寛文2年(1662年)に、加賀前田藩の家臣、今枝近義が再建した。上高野は、かつて近義の祖父、重直の庵があった土地であり、重直は、美濃国出身の武士で、豊臣秀次に仕えた後、加賀前田家に招かれた。晩年に至って得度し、宗二(そうじ)居士と号して、詩書や絵画、茶道に通じた文人として草庵を結んだ。また、仏道への帰依の念も深く、上高野の地に寺院を建立することを願っていたが、果たせずして寛永4年(1627年)に死去した。近義が蓮華寺を造営したのは、祖父の願いに応え、菩提を弔うためと考えられている。
 創建当時の山門が今日も残されているが、山門を入ると庫裏まで延びる石畳の参道が目に入ってくる。本寺は天台宗の寺院であるが、造営に黄檗宗僧が関わったこともあり、本堂の様式は全く黄檗宗のそれである。本堂入り口には石川丈山の筆による寺額が掲げられていて、堂内中央の須弥壇には螺鈿厨子に収められた本尊、釈迦如来像が安置されている。螺鈿厨子の来歴は寺よりも古く、明朝初期の中国製のものであり、加賀藩が輸入したものであると推定される。本尊左側には上品下生印の阿弥陀如来像が安置されている。像本体は鎌倉時代の作であるが、台座と光背は江戸時代に作られたものである。本尊右側にも螺鈿厨子が置かれ、秘仏として不動明王が安置されている。天井には、かつて狩野探幽が描いたとされる龍の図があったが、明治期に失われ、1978年(昭和53年)に仏師の西村公朝によって復元された。




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   京都 花そとば


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小説『五円風土記』 第一部「花そとば」 第①話

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                   第二部
                  ほのほのほ 文字 正
                   第三部
                  たいしょうちくおんき 文字 正
                   第四部
                  ななつしか 文字 正


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      第一部
     はなそとば 文字 正

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               第一章 八瀬童子(やせどうじ)   

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  一  月の跫 (つきのおと)



 古都は、まだ冬のつゞきである。
 昼のあいだ吹き荒(すさ)んでいた北風は、昏(くれ)から夜半になると急にとだえて、それまで空をうずめていた幽(くら)い雲の群れが、不思議なほど、あっさりと姿を消していた。
 こんな夜にかぎって、奈良の空は高く澄み、星がいっそう輝いてみえるのだ。
 大声をあげたいような歓びが湧き上がったわけではない。70年も以前の老人の遥かな追憶であるのだから。けれども、胸の奥が凛(りん)とひきしまり涼しくなるような、この清々しさときたらどうだろうか。たしかに当時、佐保山(さほやま)からながめ仰ぐ宙(いえ)の中は、さわやかな星々でいっぱいだった。どうやら天の配剤はそこで完結されたごとく、あれ以来そのまゝのようだ。
 そうした今も眼の奥に遺る星々の綺麗なつぶやきが、果たして佳(よ)き花信となってくれるのであろうか。京都八瀬の別荘でそんな夢をみせられた雨田虎彦が、七年ぶりに来日したM・モンテネグロの泊まる奈良ホテルを訪ねたのは、2002年が明けた仲冬の土曜日、ぼたん雪の降る乙夜(いつや)のことであった。


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 奈良へと向かうその朝の、比叡山四明ヶ嶽(しめいがだけ)の西麓は地の底まで冷えこんでいた。しかし、そうであるからこそ例年通りの京都なのである。京都山端(やまはな)の人々は、この比叡颪(ひえおろし)を安寧な循環の兆しとして知りつくしているから、虎彦の山荘も真冬の中に、たゞ安らかに寂(しず)まっている。
 そのような京の冬は紅葉の後にきっぱりとやってくるのだ。鉛色の空から降る冷たい雨に雪がまじるようになると京都で暮らす人の腹はきちんと据わるようになる。新春の山野はすがれてはいるが、しかしよく見ると、裸になった辛夷(こぶし)など、ビロードに包まれた花芽をおびただしく光らせている。山が眠る、などということは無いのだ。ことさら洛北山端の冬は、枯れて黙したような身の内に、木々は深く春を抱くのである。虎彦に、遠い奈良の星々が甦(よみがえ)るように見えたのは、そんな朝まだき午前四時であった。
「ああ、胸奥に沈むようにチクリと隠されて、かるく痺(しび)れる、この香りは、白檀(びゃくだん)と、たしかこれは丁字(ちょうじ)だ。静かに小さな春でも爆ぜるような快さではないか」
 ほんのりと寝顔をまきつゝむ快哉な香りを聞かされながら、血流をしずかに溶かされた虎彦はゆっくりと目覚めさせられていた。
「沈香(じんこう)の他に、これを加えてくれるとは、かさねの奴も、ようやく香道を手馴れてきたようだ。しっとりと肌に馴染まさせてくれている。天性のものであろうが、能(よく)したものだ」
 今朝の香りには、しずかなやさしさがあった。虎彦は人間としてのふくらみを感じた。
 暗い眼では香木の形はとらえられてはいないが、焚(た)かないでも香る香木を取り合わせた、なるほどあの娘の手にかゝるとこうなるのかと、いかにも清原香織らしくあるその香りは、虎彦のこゝろの襞(ひだ)の上に、着なれた衿合せでもさせてくれたかのごとく、普段通りの躰できちんと納まっている。
 大きな山茶花(さゞんか)の一樹に隣り合わせた虎彦の寝室は、こんもりとした茂みが庇(ひさし)のような影を障子戸に映して一段と暗い。そうなるように天然の配剤で闇夜をつくりだす寝室の設計がなされていた。
「君かへす 朝の舗石(しきいし)さくさくと 雪よ林檎(りんご)の香のごとくふれ」
 白秋の「君かへす」がまず新鮮である。虎彦はていねいに、この歌の匂いを聞いた。
 香木の香りからこの歌が連想された日には、かならず虎彦の躰が若返るようだし、さくさくとその雪を踏んで帰る不倫の恋人は、青春の熱く清々しいヒロインのように老いた眼にはふさわしい。もっとも香りから或(あ)る種の映像が好ましく回想されることが、今の煩わしさを忘れつゝ眠る虎彦の夢の枕にはふさわしいのである。虎彦の嗜好にかなう冬歌の、白秋のこれはその一つであった。
「何よりも白秋のこの歌には、みやびな歴史の中にあって今は忘れさられた大切な種の、モノの香を人の袖の香とするような、危うい恋を恐れない実際を背景にした人の香りと歌で向き合う交感がある。白秋は西洋の印象派詩人の薫陶をえた。この歌は、その印象のたしかな交感だ。歌声に人間が生きた真実の印象がある」
 虎彦にはこの歌にある、白秋の暮らす門や舗石がみえるところまできて「ああ、あの女(ひと)が」と、ひとあし、自分から近づいてゆくのが心うれしいのだ。
 毎年、冬にさしかかる時期はどこか、太陽が遠くなる心細さがあるが、すっかり真冬になってしまえばそこに寂しさが勝るようになるものだ。加齢するにしたがい、脚の痛みはその木枯らしに急(せ)かされるように増してくる。いつの間にか、そんな虎彦にとって眠りは厳(おごそ)かな真剣勝負のようになっている。日常の、脚(あし)の痛み止めの薬を一錠でも少なく控(ひか)えて痛みを抑えるために、虎彦の睡眠には墓の中のような暗闇と、無音の状態が必要だった。また以前には常用であった睡眠薬を控えるために、就寝時には鎮静作用のある香物を焚きしめた芳香が、今の寝室には欠かせないものとなっていた。


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 そんな漆黒(しっこく)の未明から目覚めた虎彦の、あたりのすべてが虚空(こくう)である。虚空蔵菩薩は虚空すなわち全宇宙に無限の智慧と功徳を持つ、京都において十三参りが行われ子供が十三歳になると虚空蔵菩薩を本尊とする西京区東山虚空蔵山町の法輪寺に参拝する習慣がある。明星が口から入り記憶力が増幅したと言うが、虎彦はその虚空蔵にでも抱かれているようであった。
 暗闇と芳香とで、繰り返したしかめる日常の、そんな虎彦にはあたりまえの話だが、虎彦はこの虚空がいちばん親しいのだ。時がまき戻るような、まき返せるような何事をも空暗記(そらんじる)ごとくの安らぎだ。今朝も寝室の四方八方、虎彦の親しい虚空がみしみしと満ちていた。
「かの天竺(てんじく)のガンジャというものも、もしか、このようなモノであったのではあるまいか・・・。たしか空海は〈乾坤は経籍の箱なり(宇宙はお経の本箱)〉と言った。私はその乾坤(けんこん)で眠りながら虚空の音を聞いていたのであろうか・・・」
 芳香につゝまれて目覚め、虚空の層の厚さを感じると、肉や骨の重みがどこからどこまでがどうと、よく判らないけれど実に軽いのである。それは血が鎮められた重さか、気が冷まされた重さか、暗さと芳香とがもたらしてくれる芳醇な安眠が、適当に与えてくれる虎彦の寝室にいる身の重さとは、能(よく)した傀儡師(くゞつし)により計算し尽くされたように、なかなか、よくできていた。
 そうしてうっとりと眼をみひらき、暗闇に何をみるともなく辺りをながめる。やがて次にその眼の持ち主が何者であるかを自覚できると、ようやく虎彦の一日が始まるのであった。


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「旅立ちに、〈月は有明にて〉という。白河の関越えんと、しかし、こゝろ定まらず〈田一枚植えて〉立ち去る。そうして風騒(ふうそう)の人は関を越えた。だが、そう詩のようにはうまくゆくまい。この俳諧は、後の時間の中で推敲が加えられている。生々しい人間の声では無い。しかし、ああ、今日の覚悟とは・・・、何やらその田植えにも等しい、どこかへの手向けの花でも必要であろうか」
 田一枚植える間が、どうにも無性に気にかゝる。そんな虎彦は、虚空の時間からふと一呼吸はずして、ムートンの上に横たわる老体をおもむろに反転させると、うつ伏せのまゝベットの脇に手をのばし、居間の呼び鈴(リン)に通じるコールボタンを軽やかになった指先でそっとプッシュした。
「老先生・・・起きはッたんやな・・・」
 そのころ居間で炭点前(すみてまえ)の準備をしていた清原香織は、床下の炉に用いる練香を入れた陶磁器の小さな蓋(ふた)を重ねて棚の上にしまい終えると、これが朝餉(あさげ)の仕度の次ぎにする日課なのだが、居間のカーテンを全開にして虎彦の寝室へと向かった。
 茶の湯では炭点前が終わると香を焚く決まりがある。その炭点前とは、茶を点てる前に、湯を沸かす炉や風炉に炭をつぐことであるが、風炉は夏季、冬季は床下の炉で、種々の香料を蜜で練りあわせた練香を焚くことに決まっている。冬の炉は何かと手間暇を喰う。虎彦は毎朝、ひとり点前を行っていた。
「あとは・・・?、そうや、お花や。奈良のォ荷物、大きいのォは、もう準備すんどるし。せやさかい後は、小さいのだけや。ああ、今日は何や、てんてこ舞いやわ」
 と、もろもろの仕度に追われる香織は、昨夜のうちに朝餉の下ごしらえは済ませていた。毎日がこういう具合に、香織はいつも午前二時半には起きている。
 そうして虎彦の寝室のドア前に立つと、ノブ下に備えられた、琴の音が室内に小さくゆるやかに流れる音響装置の、手動スイッチをONにキッと押し上げた。
 この寝室に入るとき、
 虎彦は、ドアをノックすること、ドア越しに声をかけないこと、の二つを禁じていた。もしそうされたとしても不機嫌さを残さないために、外部との遮音壁が分厚く周到に施されて、多少の音も虎彦の耳には届かないのだが、それほど安眠を損なわぬ厳重な施工がなされていた。
「奈良から戻ったら、二月の曲えらばなあかんなぁ~。今のォ、もうあかんわ・・・」
 一月の琴の音は「春の海」が選曲されて、幕の内を過ぎた今でも、まだ新年を寿(ことほ)ぐかのような調べである。和楽を好む虎彦のため、この月毎(つきごと)の収録も香織の大切な務めの一つであった。
 しんしんと身を刺すような廊下に、京都の女なら〈冬は、早朝(つとめて)、という〉少しお説教めいた虎彦の習い事通りの張りつめた気構えで、香織はピンと背筋を伸ばし、しばし間合いをうかがうように立ち尽くしながら、虎彦がカチリとさせてくれるまで、たゞしずかに電子ロックの解除音を待つのである。
「老先生、おはようさん。・・・お目覚めいかがどすか?・・・」
 静かに部屋に押し入りつゝ、笑みて香織はさわやかな声をかけた。まだまだ修業中の身ではあるが、爽やかな笑顔だけは、苦にせずともいとも簡単にできる香織なのである。
「ああ、おはよう。おかげでぐっすり眠れたよ。ありがとう」
 虎彦はそう満足気にうなずくと、ステッキで躰を支えながらも椅子から軽やかに立ち上がった。その軽やかな姿を確かめるために、香織は毎日未明には起きて見守っている。虎彦は今朝も軽やかに立ち上がってくれた。
「そうどすか、よろしおした」
 たしかめた虎彦の言葉は、香織が毎朝ホッとして息を下げる安堵の瞬間である。厚い遮音壁に内部の物音がすっかり遮られるために、深夜にさせる虎彦の息遣いがいつも心配いになる。老いた主人への、万全なその配慮と気の配りが常に香織には課せられてあった。そう用心することが最も大切な奉公人としての心棒なのである。深夜から未明にはいつも気と眼を寝室に向けて研ぎ澄ませていた。そんな香織は、のっぴきならぬ用事が今朝も起きなかったとばかりに、ふう~っと肩から一息を軽く洩らした。
「せやッたら、もう窓ォあけて、空気入れ替えても構いませんやろか?」
「ああ、そうしておくれ。最近あまり使わなかったが、丁字もなかなかのものだね」
 虎彦がそういう丁字とは、南洋諸島で生育するチョウジの木の花のつぼみを乾燥させたもので、強烈で刺激的な香りをもつことから、世界中で調理のスパイスとしても重宝されている。クローブともいう。


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 多くはインドネシア原産であるが、古くから中国商人の手でヨーロッパに持ち込まれ、強力な殺菌・消臭作用で注目されてきた。 大航海時代にはスパイス貿易の中心的な商品の一つ。この甘く刺激的な香りは、当時、さぞや異国情緒をかきたてたのであろう。 日本人にも案外なじみ深く、江戸時代からビンツケ油や匂い袋の香料として使われている。ウスターソースのソースらしい香りもこのクローブのおかげである。
 名前の「Clove」はクギを意味するラテン語の「Clavus」、和名の丁字(ちょうじ)もクギを表す釘の字から来ている。「釘の形」と言われるだけあって、素材に刺して使うのに便利だ。玉ねぎや豚肉に刺してポトフやロースト・ポーク、その他肉を使った煮込みに使われている。その香りの主成分はオイゲノール。香りが最も効率的に抽出されるのは45度前後なのだが、香織はいつしかそんな知識も身につけるようになっていた。
「うちも丁字ィすう~として、ええ匂いや思う。せやけど・・・、うち、あの香り聞くの辛うて、たまらへん。なんやえろう悲しい花やしてなぁ~・・・。それ知ると、ウスタぁソース好きになれへん。店で見かけてもな、手ェ伸びまへんのやわ。そないしてると、いつも醤油買うとる。洋食の献立、つい和食に変えとうなるんやわ」
 ずしりと胸にきたのか、泣くような小声で香織はそうしょんぼりといった。
 丁字は、つぼみのときが最も香りが強いため、深紅色の花が開化する前に摘み採られてしまう。このため虎彦もまだ花の色目はみたことがない。香織はその花が、香りのために、花開くことを奪われてしまった悲しい運命の花木なのだ、といいたかった。
「ああ、たしかに花は悲しい。だけど、その短い命は、やがて人の命へと循環する。だから儂(わし)のような老いた者にもめぐり廻って悦びを与えてくれるのさ・・・・・」
 と、いいかけた虎彦だが、それ以上いい足せば、やや小賢しくもある。香織の澄みやかな感性の口調を前に、さり気なく視線をそらすと、虎彦は語尾のトーンをすう~っとぼやかした。
「この娘に、私の表情の裏をみせてはなるまい。老人の内面の汚い剥(は)がれなど、、無用の長物じゃないか。無邪気の若さを、私の口の、その糞でまぶすのはよしておこう。虚空とは清の領域、かさねは、その位に私を濯ぎ清めてくれたのだ。私の青春期とは、そんな清らかな時代ではなかったではないか」
 丁字はアルコールと混ざりやすく整髪剤や石鹸につかわれ、殺菌作用と軽い麻薬作用をもつので歯科院の歯茎にぬる痛み止めチンキにも活かされている。人間の視線に立てばそれでいい。しかし花の視線でそれを裏返せば、それは人間本位の身勝手なことで、香織のように感じ、無慈悲と思えば、摘まれたその花の眼に、あふれる涙さえ覚えるであろう。
 利口に生きたいがために小理屈を身に滲みさせて歳老えば、その花の涙のみえぬ人とは、また何と悲しいものであろうか。しかし、もはやその情緒を震わす心には立ち返れそうもない老人は、若く生き生きとある香織の輝きが、愛らしく嬉しくもあった。思いをそこに馳せてやらねば、いたらぬ苦言は老人の嫉妬なのであろう。
「老先生、お茶室の準備もう少しやさかいに、ちょっと待っておくれやすか。今朝のお花やけど、まだ決めてまへんのやわ。そろそろ正月のォもけったいやし、どんなん、よろしィんやろか?」と、
 香織はガラス窓を開けながら訊(き)いた。しかし、そう虎彦に問いかけていながら、ふと、「ああ~、あの青白い不思議なひかり・・・」と、一瞬、脳裡をかすめてツーンと胸に通るものがあった。香織に、或(あ)る美しい光景が過(よ)ぎったのだ。
「せや、あれやわ。あれ、見んとあかん。老先生、待ってておくれやす、えろう済んまへん」
 呟(つぶや)くようにそういうと、何か急(せ)かされた忘れ物でもあるかのように、慌てゝ言葉の尻をプツリとへし折って、虎彦にはそう受けとれたのだが、要領をえさせないまゝに弁解だけを残した香織は、小走りにまた居間の方へと引き返して行った。
 香織は未明に起きたとき、凍りつきそうな井戸水を一杯のみ終えると、ぱっちりと眼が冴えた。そのとき、昨日の黎明前に体験した、不思議な光景が想い返されていた。
 あれはたしか、裏山の山茶花の大樹が、ひらりぽたりと白い花びらを庭に散らし落すころであった。間もなく昨日と同じその幽(くら)い刻限が近づいていたのだ。
「去年の冬、ちィ~っとも気づかへんやった。せやけど、あんなん・・・あるんやわなぁ~」
 裏山が見渡せる茶室へと向かう香織の脳裡には、朝まだき昨朝の黎明前の淡いひろがりのなかで感じとれた絵模様がぼんやりと描かれていた。しかし、あの無限の哀しさに包まれていると感じられた、あのときめきは、一体何だったのであろうか。もう一度よく確かめてみたいと思ったのだ。
 明日は月あかりのない、朔(さく)の日である。
 そうした無明な下弦の終わり日ともなれば、しじまな崖下へと降りる階段あたりから、しだいにその底に凍てついて沈むような侘しい茶室までの間は、まったくの暗闇であった。灯り一つ無ければ、香織の若い肉眼でさえも、もう何の影さえも追えぬ怖い暗がりの淵を厚く重ねていた。
「老先生、あし悪いし、お歳やし。もうそろそろ、この階段おりれへん思うわ。階段、えろう凍りついとるし、きっと足ィ滑らせはる。うちかて危ない階段やさかいに、ほんに心配なことやわ」
 と、手燭を点した香織は、階段の降り口の杭にくゝりつけられた温度計の摂氏3℃をたしかめてからそう一心に気遣うと、そろりそろりと滑りそうな階段を一歩ごと慎重に踏みしめておりた。
 さきほど準備を終えた炭点前の用具一式を抱えて、その三十段はあろう階段はいかにも長い。両手をふさがれたまゝ、それでも息を詰めてようやく転ばぬように降りた香織は、そこから先、小さな手燭などでは眼の利かぬほど暗い茶室までの飛び石を足さぐりに渡りつゝ、それでも七つある石燈籠の燭火を順番に点しながら、ようやく茶室のにじり口まできた。


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「たぶん、昨日と同じなら、後ちょっとや。もう少し待たなあかん・・・」
 そういって茶室の裏側へと回った香織が、腰掛石から、虎彦の寝室に灯る小さな明かりだけを頼りにながめ仰ごうとする山茶花の大樹は、天空の高みでも垂直に仰ぎみるような柱状凹凸の崖の上にある。
 虎彦の寝室はその大樹と隣り合せだが、寝室の窓を開いて茶室をみようとすると、古風な青銅葺(からかねぶ)きのその屋根は、谷間でものぞきこむような高さの距離を感じさせる視線の先の、その奥底にようやく感じさせるほど小さかった。この深い谷底は、昼間でも太陽とは無縁の昏(くら)い暗がりなのである。
 しかし、晴天時に限り、一日に一度だけ光りの降りそゝぐ瞬間があった。
 眼をつむると、すでに香織の頭の中では、うす紫の仄かな渦が巻き起こっていた。
 腰掛け石にすわる香織は、その時をじっと心待ちにした。それは朝まだきから黎明の生まれようとする間に起こるのだ。比叡山を越えて生まれ出ようとした朝陽が崖の岩面を射し、その凹凸で屈折した反射光が垂直に谷間を抜いてふるように染める。そのときのみ、茶室が青白く照らされながら谷底に映える一瞬であった。香織はその瞬間をじっと待っていた。
 茶室の裏の庭前は、きれいに箒(ほうき)の目をつけて掃(は)き清められている。
 これは昨日の夕刻に香織の手で丁寧に掃かれたもので、雨の日を除けば、香織が毎夕している仕事なのであった。この掃き清めた庭土に、いちめんの白い散りさゞんか遺されてある。それは皆、夜の間に散らされた花なのだ。
 香織はまだ真っ暗い庭に、眼を凝らしてその花々の散華をみた。
 あまりの暗さに、マッチを擦って、指でかざしては揺らして、庭土の奥をじっとみた。
 厚く深い白なので、あざやかに泛き残されている。それは清らかな純白ぶりだから、闇のなかに消え惜しむかに泛き残っていた。暗闇だから一層そうさせるのか、遠目からもあざやかに白い。見開いた眼でその白を確かめ、また眼を閉じてみてはその白を想い泛かべた。
 繰り返しそうして、また眼を閉じた香織は、崖の上に咲いている、暗闇にみることのできぬ白いさゞんかの花を、そっと瞼に描きながら光りに照らされる谷間の一瞬を待った。


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「ああ~、これやわ。きっと、これが聞香(もんこう)なんや。香りは嗅ぐもんや無い、聞くもんやと、老先生はそういゝはった。聞くとは、ああ、ほんにこれなんや」
 崖の高みの上から白いさゞんかの、ほのかな甘い香りがふり落ちてくる。そう感じとれて、ふと眼を見ひらいた途端、香織はかすかな音をたてて土に着く、白い花びらをみた。
 みあげるうちに、ひらひらひらり、ひらり、はたりと、白い花びらが不規則な時間差で舞い落ちてくる。それは決して桜のようなふわりとした散り様ではない。さゞんかの白は、ほのかな青白いむらさきの光りを身に纏い、その光と一緒にしつかりと重く舞い降りてきた。
 そうして、その散りじりの庭土を見渡すと、散り終えた白い花びらが、仄かに淡いむらさきに染め上げられて、いつしかぐるりと廻る散華の紋様が描かれている。小さな黒い築山の岩上にも点々と降り落ちていた。


サクラ降る背景サクラ降る背景サクラ降る背景サクラ降る背景サクラ降る背景

 しばらく香織は立ち竦み、手にとれないでいつ散り落ちるか判らない花びらをひたすたに待ちながら、肩に背に、あるいはコッンと黒髪の上に、大樹を離れて遠く庭土に着くまでの清浄な白い花びらを、じっと眼や肌に感じては、香織はたゞ一心にその白を身にとまらせたいと願った。
「ああ~、えゝ匂いや。ほんに、しィ~んと、真っ白な声ださらはッて、きっとこれ、散りはッたんやないわ。もう、お花やのうて、お山の仏はんに、変わらはッたんや。何やうす~い、むらさきィの天衣(てんね)ェ着はって、舞いはったんや。そんなん、じ~っと見とったような、うち、何やそんな気ィするわ。ほんに、えゝ匂いやった」
 十数分間のつかのまの、散り落ちる花びらのを待つ時間の何と厳粛(おごそか)なことか。たしかに開いた花は、咲けば散る。しかもその花は、たゞの白である。そして花の名は、さゞんかに過ぎないのだ。そのたゞの、さゞんかは、やがて形跡もなくなり土に還るたゞの花びらである。


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「たしかに、そうかもしれへん。しれへんのやが・・・、せやけど、あの鐘の音ェは一体何んやろうか?。どこぞの寺ァの鐘の響きやない。六時の鐘、鳴りよる時刻やあらへんし・・・・・」
 梵鐘が響くように、そんな音をさゞんかの口が、そっと洩らしたような気がしたのだ。
 あれは、やはり空耳などではない。そう感じた香織は、もう一度ざっとあたりに眼を通してから、眼を閉じてみると、その鐘の音は澄まされた耳奥で、まだはっきりと感じとれた。眼に眠る花びらの中で鐘の音が鳴っていた。
 香織は黎明の刻限に合わせてその落ちる間を逍遙(しょうよう)としたとき、見える者には感じとれない花の声や、見えぬ者こそが感じとれる声の匂いを、たしかに聞きとれたのだ。そして香織にどっしりとした比叡山の土の香をじ~んと感じさせてくれた。
「ハッ、せやッた。お花や、茶室のお花や。せやッたわ。老先生、待ってはるんや・・・」
 はっと、そう思い気づいて、それでも数分間、散らされた花を踏まないように、庭前の小さな余白をうろうろと歩いた香織は、もう午前五時過ぎには茶室にいて、茶の湯の席を整え、間もなくやってくるであろう虎彦の杖音を聞き逃すまいと、ことさら耳を澄まして待っていた。


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「あ、来はッた。ふう~っ・・・滑りはらんと来ィはったんや」
 三つ脚のような老人の足音は、片足をかばうために、どことなしかぎこちなく定まりの悪いステッキを撞(つ)きながら凍てつく石道を危なげにやってくる。谷底は風のない静寂の中にある。虎彦の杖の音だとわかった。その音を聞き取ると、急(せ)くように香織は、戸口から身をにじり茶室の外にでた。
 そうして四つ目の燈籠の灯の中に虎彦の影がゆれて露(あら)われたとき、小さな波立ちを胸に抱えながら、香織はその影に向かって歩きはじめた。
 虎彦は茶室へと向かいながら、この二、三日、深閑として凍りつく谷底がひっそりと暗い美を湛えていることに神秘さを抱いてはいたが、燈籠の灯を過ぎりながら白々と揺らぐ香織の影がその神秘さの上に重なり合うと、それは比叡の山にこめられた永遠の祈りを凝縮したような透明な時間の過ぎりではないかと感じられた。
 そうして二つの影が並び合おうとするとき、
「かさね、七時には発つ。その心づもりでな」と、
 いう重たげな虎彦の一声に、香織は別に驚きもせず、無言(しじま)のまゝ軽くうなずいた。
 香織は、二人の会話や立ち振る舞いにも、一日のうちで一番うつくしい旬があるということを、香道や茶道に親しむ虎彦から教わっていた。それは、さまざまな草木が季節ごとに花をつけるのと同じ、確実にその日がめぐってくる自然の循環と等しいのである。そういう虎彦の和服からはほんのりと、昨夜、香織が焚きこめた伽羅(きゃら)が香りたち、虎彦はすでに茶道に篭る人となっていた。スレ違う二人の影は、いつものようにここで別れ、それぞれが二つの闇の中へ消えた。

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 茶の間の円卓の上に京焼、三代道八(どうはち)の青磁があり、その雲鶴模様の大皿には椿餅(つばもち)がつんであった。
「香織、おはよう。何かお祝い事でもあるの」
 というのは、ようやく目覚めて、かんたんな化粧をすませた虎彦の一人娘の雨田君子である。仁阿弥道八といえば京焼を代表する窯元であり、明治の三代道八は青花、白磁の製作にも成功し、刷毛目を得意とさせながら煎茶器の名品など多数製作した。その手からなる雲鶴大皿は狸谷の駒丸家より譲り受けた逸品であるが、普段はめったに人目に曝(さら)されることのない父虎彦の寵愛する蔵品なのである。そうした由緒ある雲鶴の有無を言わさず白い餅が平然と陣取っている。朝の空が白む時刻でもあるから、かぶいた餅の、その胸のすく思いをさせてくれる格好が、君子の眼にはじつに豊潤であった。
「あ、君子はん。小正月くるし、通し矢やさかい、お祝いしょ思いましたんや。この日ィは女将はん、うちらもお祝いやいうて、よう作らはったんやわ。女将はんみたいにはじょうずにできへんけど、今日、奈良行きますやろ。せやから、君子はんに、食べさしてやろ、そう思たんや。祇園には電話したさかい、午後に初音姉さん来るいうてましたから、半分は女将さんとこの分やさけ、姉さん勝手に持っていかはる思う。君子はんは何も構うことあらへん。気ィ使わんと部屋にいらしたらよろしおすえ。念押しときましたさけ・・・」
 通し矢とは、三十三間堂のことである。香織がそういうのを聞きながら、君子は食卓の上をながめ、母もなく誰も節目を祝ってくれた覚えもない少女時代を思い返した。これまでは、父と娘の二人っきりの味気なく侘しい生活に慣れて見過ごしてきたが、白あんの餅に紅をひき、窪みのところに黄色い花粉をあしらう橙皮(とうひ)の粒が色目を立てて散らしてある。それを見ているうちに、無垢(むく)だったはずの少女時代がよみがえって、君子は淡い感傷にさそわれた。
「お父さま、まだ茶室かしら・・・」
「もう、お上がりにならはッてもよろし時間やけどなぁ。そろそろお食事、しはらんと・・・」
 その虎彦であるが、眼を見開いたまゝ、やゝ神妙なおももちでまだ茶室にいた。
 客座に散らさてた白い花びらは、香織が拾い摘んださゞんかである。花は、それだけしかない。一見、素人の娘が無造作に散らしたようにみえるが、その自然なせいか黎明の迫る暗い茶室の中に白い小さな宇宙でも区切るかのようにみえた。それを客人に見立て、一通りの茶道の形を終えた虎彦は、
「かさねの奴、花びらを相手に茶など点てさせて・・・」と、花びらとの点前に、
 たゞしずかに茶碗を差し出すと、息を吸い込むような動きをみせながら、逆に、吐息に似たものを洩らした。
 茶道をたしなむと、侘びた可憐な花にたたみこまれた奥行が、虎彦にふと、自分をみつめることを促したりする。そう気づいたのは、いつのころであったか明確な記憶はない。もう四十年近く茶の湯に親しんでいるが、有りそうであって、そうそうには無いような気もするのだ。
 花の蕾(つぼみ)とは、いつとはなく襞(ひだ)のほどけて、咲ききってしまうまでの間に、頑(かたく)ななものを綻(ほころ)びさせてゆく時間があろう。白さゞんかの、その時間の長さと深さとが虎彦の胸に強くしみた。
 八十二歳になる現在、
 年に一度、年齢が避けようもなく加算される日が、このように繰り返し来ることなど、信じがたい事実のように、それも花の綻ぶ襞のふかさに例えられることなのであろうかと考える虎彦は、六時半にはもう朝食を終え、ひとり書斎の窓辺にいた。
 そうして深くソファーに腰を沈めると、全くあてどない思いが去来した。
「あれはM・モンテネグロと見た、あの空の色なのか?。いや・・・そうじゃないな」
 虎彦はどこで見たのかも思い出せない青い空のことを考えていた。脳裡に残り消えないでいるから、それも人生の真実には違いない。何かのきっかけを待っていた自分に、今回の奈良行きが、何か思いがけない変化を訪れさせるのではないか。それが何かはまだ分からないが、七十年も忘れようとして拒みつゞけた奈良である。もう二度と近づくまいとした、ひからびた奈良の裏面に、何か大切なものが沈めこまれているような気がした。
「かさね、そろそろ発とうか。君子は・・・、その大きな荷物を宅配で奈良ホテルまで送っといてくれ。途中、寄り道のため少し歩かねばならない用事があるのでね。頼むよ」
 と、そういって黒いステッキを香織に持たせた虎彦が、コートの袖に手を通しながら居間の窓をうかがうと、ようやく外の敷地が仄かに白みはじめていた。



きり 4


                            第②話に続く
                     みうまそうたろう 文字 かな 正

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本線夜行列車九段駅  駅長の本音・・・ 『北原白秋』 ⑪

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  本線夜行列車九段駅・・・・・・・・・・・     駅長の本音

                    北原白秋 ⑪』 特集

     
あ 牧水 35


                  小鳥F2

                小説 大正蓄音機『赤い鳥

                  副題・・・パンの会青春協奏曲

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 第⑪話につきましては只今原稿の制作中。しばらくお待ちください。


             ・・・第⑪話をご期待ください・・・


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