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本線夜行列車九段駅  駅長の本音・・・ 『北原白秋』 ⑩

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           夜の列車
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  本線夜行列車九段駅・・・・・・・・・・・     駅長の本音

                   北原白秋 ⑩』 特集

     
あ 牧水 34


                  小鳥F2

            小説 大正蓄音機『赤い鳥

                  副題・・・パンの会青春協奏曲

                  大正期編・・・第32話

                  暮坂峠

                  あかい鳥 18

あ 牧水 35
          鉄道アニメ
             大正蓄音機『赤い鳥』大正期編・第32話「暮坂峠

            あ 牧水 22
  
      SLアニメ


 ) 牧水・車窓の草鞋


 白秋という男、その彼によれば童話の活字は子供らを熱くする情熱の媒体であり、日常の光景は人間を冷めさえる媒体なのである。

 砂山という詩歌は牧水にそのような童話であることを感じさせた。

 よくも悪くも幻想や虚構を壊し、すべてを平らにしてしまう西洋化の影響はもう日本全体に及んでいる。そう考えさせられる時間を白秋は牧水に与えてくれた。

 白秋の『砂山』に眼を遠くさせられていた牧水は、行き成り、汽笛の一声で覚まされた。

 どうやら汽車が国府津駅を発車するようだ。

 じんわりと眼を見開いた牧水は、辺りを見て驚いた。車窓の外を見渡して仰天した。

 ずらりとホームに人々が居並び、その人々が列車に向かって一斉に日の丸の小旗を振っている。

 汽車はその日の丸に見送られながら発車した。
      ひの丸 gif     あ 牧水 33

 「あ~ぁ!・・・そうだ。今日は・・・鉄道記念日・・・!」・・・・、

 沼津駅を出るときは意識していた。御殿場を越え小山駅辺りでは一度また意識している。ホームに掲げた日の丸を見た。しかし酒匂川の流れに足柄平野の広がりを覚えるころ妙にぼんやりとして、そのことがすっかり頭から抜け落ちていたのだ。

 本日は第一回の鉄道記念日である。

 牧水は改めて客車の中を見渡した。

 しかし混雑で後部座席まで見通せない。すでに車内は立ち客で溢れている。改めて驚いた。

 日本に鉄道が開通したのは、明治5年9月12日新橋~横浜間である。実際は品川~横浜間が5月7日に開業しているが、公布ではそうなっている。

 この鉄道開通から50年を迎える大正11年、その節目年に合わせて鉄道省は10月14日を「鉄道記念日」と定めた。

 つまり本日はこの50周年記念の祝賀列車を運行させる第一回目の鉄道記念日であった。

 大正11年の「10月14日」新暦は、旧暦「9月12日」となる。

 それにしても大混雑である。

 突如として目の前に現れた予測を超えた多勢の乗客に、牧水ははうんざりとせずにいられなかった。

 乗客らは祝賀会が開かれる横浜まで乗るという。

 この寿司詰めには・・・・、

 まだ先があるということだ。

 無論、降りることも、引き返すことも出来ない。東京駅では村松道弥と門林兵治の二人が到着を待っている。何よりも上野から経由して夕刻までには長野県北佐久郡の御代田駅に着かなければならない。夜には短歌会が開催される。主賓として招かれていた。

 何度か小さな屈伸をして覚悟を決めると、牧水は再び眼を閉じて、ゆっくりと旅の階段を登り始めた。

 石の表面にはぬめぬめとした苔が付着しており、少し気を抜くと足が滑りそうだ。いたるところに朽ちた茶色の落ち葉が小山のように蓄積し、水の行く手を阻んでいたし、土を留めるために積まれた石垣も至る所が崩れ落ちていて、辛うじて役割を果たしているようにしか見えない。悲鳴を上げる草鞋の足裏に茨の刺が鞭を打ち、どうにか最後まで登りきった牧水の前に、今にも倒れそうな廃屋が姿を現した。

                  あ 牧水 36

 眼を閉じておられず、牧水はまた眼を見開いた。

 その場所が何処であるかは記憶にない。しかし最近、眼を閉じるとよく現れる光景だ。

 だがどうもそこは随分昔、住人に捨てられた民家だったような気がする。

 昨夜も同じ夢に魘(うな)されたが、その夢にはもう少し続きがあった。

 しかしどうにもよく解らないのは、その廃屋が洋館であることだ。

 瓦は飛び、窓ガラスは割れ、壁には血管のように蔦が這い上がっている。玄関に建てつけられた木製の引戸も開いたまま腐っていて、閉じることができなくなっている。足元に転がる朱色の郵便箱と思われる金属の缶は寂れた空間の中では妙に浮いた存在だった。一帯に眼を凝らすが、まったくの過疎だ。数十の廃屋はあるが、人が息絶えた形跡もなく、廃村となった文字通り「棄てられた村」のようだ。

 これは夢か現つか。だがいずれにも似て非ざるもの。眼はしだいに虚ろになる。

 そうした虚ろさが自身で感じられてくると、牧水の喉は無性に酒を欲しがった。

               若山牧水 6  お酒しゃく

 するとしだいに牧水の真ん前に一升の酒が聳え立ってくる。

 その冷酒が冷たく胸に突き刺さる。牧水は伏し目がちにいたらぬ感情を押し殺そうとしていた。

 酒に傾こうとする自身がよく判るのだ。

 じつは前夜、牧水は自宅近くの楊原(やなぎはら)神社で酒断ちの誓いをした。

 この神社は大宮様ともいう。往古は神領五百石を有し、社家三十余家ありと伝えられ明治8年2月郷社に列せられ、楊原村の総鎮守の神として崇敬されている。

 社殿の右手奥に覗いて見える小山が紅葉の名所で知られる香貫山である。

 楊原村に移り住んだころそう知らされて牧水はよくこの社殿から秋の香貫山を眺めた。

 神社は沼津地域で唯一の名神大社であり、昔は、さぞ立派な大社であった事であろう。祭祀対象は牛臥山となり、例大祭を大朝神社と一緒に執り行う事からも、この二社の繋がりは、相当深いと言って良い。おそらくは、大朝神社が「奥宮」、そして楊原神社は「里宮」という位置付けだったのだ。現に、大朝神社は「山宮」とも呼ばれていたし、楊原神社は「大宮」などと呼ばれていた。

 また「三嶋大社」(伊豆一の宮)、「浅間神社」(二の宮)、「楊原神社」(三の宮)ということもあり、三島三社詣でにもよく出掛けるようになった。

 こうなると毎朝夕に富士山を眺め見る心持ちも自然と変わって行く。では何故、牧水が楊原神社にて今まで絶ち難く思えていた酒を断とうと誓ったのかと言えば、新しい自身の歯車を廻そうと決めたからだ。

 これまでの酒に頼った自身の旅は茶番劇さながら、すべてが酒の嘘で塗り固められているようにしか思えなかった。その酒が語った真実とは、歌では無く、自身の名前だけだったんじゃなかったのかな、と思われるようになってきたのだ。酒には牧水をだます天性の資質があり、それが歌を媒体として牧水の体力を只働かせているのではないかとも思われてきた。いつしか酒の血であることが恨めしくなった。

 幾たびの長い旅途を振り向くと、暗い夜道に草鞋の音を擦り響かせて妻や子らが待つ家路につくときの心は修羅そのものではないか。これこそが今牧水が忘れてはならない心得だと思う。

 思えば、日毎夜毎に瓶(びん)を立てている。

 昨日の夕刻まで脇元に立て続けてきた。それを昨夜から止めたのだ。

 一晩は断ち切れた。今朝も断ち切れている。

 しかし・・・・また、

 夜な夜な、朝な朝な、と真ん前に現れていた酒がまた現れる。

 その一升瓶を牧水はジッと見た。溢れ出る生唾をギッと堪え、突き上げる腸をグッと臍で叩いた。
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 だが小骨が喉に障るごとくに、その生唾をよく呑み込めぬのだ。

 喉仏の辺りで、何やら踊る黒い奴がいた。

 「件の仔骨(くだんのこぼね)!」

 と、障り始めると喉元からそう出そうになるこの名こそ、問い直しを迫り、投げかけては訊き返してくる、姿なくいかにも不透明な存在であるから牧水はそう名付けるのだが、酒を辞めたいと思う時に憑いて出てくるのがこの件の仔骨なのであった。

 なだめ、すかし、はげまし、酒は二度ともう呑むまいと思う気を起こすものなら、常に此奴が現れて、牧水は旅への想いを熱くさせられ、牧水に旅の歌を擱(お)かせてはくれない。

 牧水が寂しく想う国と、酒という侘しく匂う国の、その国境の関に棲んでいる。

 酒匂川という名前が世に現れたのは鎌倉時代初期以降のことであった。それまでは、丸子川とか鞠子川、相沢川などとも呼ばれていた。中流に今もある鞠子橋はその名残であろうか。往古、大和武尊(やまとたけるのこと)の東征のみぎり、この川に神酒を注ぎ龍神に勝利を祈念したところ、その匂いがしばらく消え去らなかったという。これが酒匂川の名の由来とされている。

 その酒の匂いであるが・・・、

 明治後期から量り売りであった酒は、瓶に詰めて売られるようになった。明治34年に灘六郷の白鶴酒造から一升瓶が登場すると、日本酒は瓶詰めで売られることが普及するようになる。

 酒が瓶詰めになったことは、人の酒の飲み方、すなわち消費形態や食生活にも変化をもたらした。

 すなわち日本人の平均的な日本酒の飲み方が、年に数回だけ振る舞い酒を、枡の角に盛った塩を舐めながら飲み、飲んだからにはとことん泥酔するような様式から、酒屋から瓶で買ってきた自分の好みの銘柄を、ほとんど毎晩晩酌や独酌として、食事や肴とともにたしなみへと変わって行った。

 普段ならそうだ。能(よく)すれば嗜みで終わる。

 だがそのことを幸いと「なま酔い」になる日本人がしだいに増加した。

 なま酔いとは、酒を身まるごと浴びて見境もなく酔い浸る者をいう。

 増長して酒にひどく逆上せ(のぼせ)過ぎたた日本人、牧水こそがその節度を失した代表格なのだ。

                あ 牧水 42

 国府津駅を放れた汽車は関西の下り酒を積んでいる。

 関を越え、しだいに富士山から遠のいているその下り酒と共に、牧水もまた下らない酒の地へと運ばれていた。

 牧水がどれほど素知らぬ顔をしようとも、

 下らない酒の酒処、それが牧水が今から向かおうとしている関東なのでもあった。

 「くだらない酒・・・か!」

 「過ぎたるは・・・及ばざるが如し」とでも酒は言いたいのであろう。

 と、苦々しく思える牧水は、それでもやはり遣らずの酒の匂いには、どうにも未練がましくなる。

 だが遣らずと言えば・・・、

 「くれぐれも無理は為さらずに・・・」と、

 旅に病むことの恐れを誰よりも強く抱きつつも、然したる言葉も控えて門口で静かに座り、賢明に送り出してくれた内助喜志子の姿が、牧水の眼には鮮やかに浮かんでくる。

 自身への旅に注ぐ愛情の反面、身近な人々への愛情にはまことに乏しかったと言えよう。一個の人間として言えば欠けるものがあったことには自業自得だとも十二分に自覚している。それだから他者よりは酔う。これこそがこの酔っぱらいが抱えてきた深い孤独と悲しみなのだ。

 居たたまれず牧水はまた遠い眼をして車窓へと逸らした。

 移ろいゆく家族の時間に抗して、ある一瞬を刻みつける恙無き記憶と実像の親近性は言うまでもないが、牧水は、記憶とはとりわけ詩歌の情景がいくつかの瞬間に凝縮された古い写真に似ていると考えている。それらを牧水が、美しく端正で、静かに降り積もる夜の雪のような詩的な文体で寂しく綴れたらいい。三十一文字という、小さい静謐の美を、そこに甦らせ得たいのである。

 そういう自身の末路を自覚しようとする牧水は、すると深い郷愁にとらわれた。

 もう五年も前のことなのだが、 

 母マキはその後の息子牧水の生活が気にかかり上京した。大正6年4月のことである。

 このとき牧水は新橋駅で母を出迎えた。

 姪のはるに手を取られてその母が汽車から降る姿に接し、感極ってしばらくは涙ばかりで、長旅を労わる嫡男としての長けた言葉は掛けることが出来なかった。
 
 貧しいながらも平和な家庭を営んでいることに安堵したのであろう。すっかり安心した様子で、しばらく毎日孫たちと楽しげに遊んでは一ヶ月ばかり滞在して、また宮崎の坪谷へと帰って行った。

                   母マキの上京 大正6年4月
            あ 牧水 43
             左から姪のはる・母マキ・岬子・牧水・旅人・喜志子

 その母マキに対しては、今更ながら心痛む相当な呵責がある。

 一ヶ月ほど滞在して、さも安堵したかのように帰ったのであるが、牧水が工面してそう母を帰らせたことを妻喜志子は知っている。工面とは、親心を都合よく他に逸らし摩り替えて誤魔化し終えたことだ。

 「あ~・・・・」

 と、牧水は眼に「浅草」の光景を情けなく転ばしては、不孝な呵責の深い溜息をついた。

 母マキが安堵を裡にして帰るに能(あた)っては、じつは影働きをしてくれた男がいる。その男は母が上京すると聞くと先ず当面の銭を工面してくれた。しかしその銭は彼の懐から出したモノではない。掻き尽くす限りに方々に頭を下げて借り集めて工面してくれたのだ。

 その加藤東籬(かとうとうり)は牧水の唯一の弟子であり、家族同様に親しくもし、底を突く若山家の米櫃であることも察していた。

 じつに多くの手煩いを掛けた加藤東籬が、さらに「ぜひ、浅草オペラにご案内して差し上げたい」との申し出をし、その費用も彼の工面であって、人知れずこっそりと牧水の手に握らせてくれたのだが、たまさかの親孝行を気どれるとばかりに牧水は、さも先祓いする獅子舞のごとくその弟子を伴って、家族を引き連れ、母マキと姪を連れて、7人は新橋駅から2台の辻待ち自動車に揺らされて浅草へと出かけた。

               あ 牧水 44 辻待ち自動車

 そば一杯4銭、アンパン一個2銭のころ、辻待ち自動車の料金は最初の1マイル(1.6km)が60銭、以後1マイル毎に10銭増しであった。

 そうした6名が浅草の写真館で写されて、牧水の眼にはその一枚の写真が浮かんでくる。

 写真に収まる母マキの穏やかな表情は、杜撰(ずさん)な牧水の偽りを切り取ったものだ。

 姪はるにしても嬉しそうな趣きを曳き、母を携えて振り返り振り返りして帰郷した。写真はその本人らの、望むはずのないポーズで描写され、知れれば我赤恥を晒す冒涜である。牧水はそこから今後想定もしない自業自得の世界が広がって行くような気がした。

 そうして今更ながらと考えては、よくよく思い起こしてみれば、浅草オペラを見終えた母マキのことを喜志子に預け先に帰路に就かせ後、浅草の酒場を加藤と二人呑み歩いたのだが、その路地裏で喋るのも困難なほど苦しそうな息遣いで、真っ黒い痰(たん)をそばの溝(どぶ)に吐いていた青年がいた。

 牧水はその夜の、浅草の青年を眼に引き出してみると、その青年がいる東京へと向かう汽車に今揺らされている自身が妙に憐れなのである。彼と遭遇したことが身の憐れなのであった。

 その青年は半年後、浅草寺参道の雷門前でバイオリンを弾きながら歌っていた。

 それが「浅草の・・・貫一・・・」である。

 本名を鳥取貫一というが、あれから5年後の現在、彼は「春陽」の名で街頭演歌師としての声価を高めている。

 牧水はその春陽の暮らす華やかな浅草の界隈を懐かしく眼差した。

 アメリカ留学から帰ってきた高木徳子が「世界的バラエチー一座」を旗揚げしたのが大正5年のことであった。
 
 同年の5月27日から10日間にわたり浅草公園六区(浅草寺西側の興行街)の活動写真館「キネマ倶楽部」で昼夜連続の公演を行う。

 アメリカ流のミュージカルであったが、この公演の成功が「浅草オペラ」の嚆矢(こうし)となる。

                あ 牧水 45 高木徳子

 高木徳子は内閣印刷局技手であった永井胆一の4女として神田に生まれた。

 1906年、アメリカ移民の高木陳平と結婚し、ニューヨークに渡る。舞踊学校に通い、声楽を学び、さらにトゥ・ダンスとパントマイムを習得し、1913年ヨーロッパに渡り、公演で高い評価を受けた。だが、不運なことにモスクワ公演中、第1次世界大戦が勃発し、帰国を余儀なくされる。

 帰国後、日本では帝劇などにも出演したが、彼女を有名にさせたのが、1917年に浅草・常盤座で上演した戦争風刺のミュージカル・コメディー『女軍出兵』(作・伊庭孝)と『さすらいの娘』(『アルトハイデルベルヒ』の翻案)であろう。そして、いよいよこれから、というとき持病のヒステリー発作を起こし、28歳の若さでこの世を去った。

 じつはこの高木の初演と前後して、明治44年に始まる麹町区丸の内の帝国劇場(帝劇、現在の千代田区丸の内)を舞台にしたオペラが、帝劇洋劇部の解散により行き場を失くすことになった。

 幾つかの公演を成功させた高木徳子はそこで一座を解散し、伊庭孝と組み、弟子たちおよび帝劇洋楽部のメンバーの一部とともに新劇団「歌舞劇協会」を結成する。

 川上貞奴の一座との合同公演を甲府、あるいは赤坂区溜池(現在の港区赤坂1-2丁目あたり)で行い、大正6年になると浅草六区の根岸興行部「常磐座」でオペラ『女軍出征』を上演し、大ヒットさせた。

 ここから「浅草オペラ時代」の幕が切って落とされる。

 高木徳子こそ、トウシューズで踊った日本初のダンサーであった。

       バレニーナ gif   あ 牧水 46


   浅草オペラ・・「ベアトリ姉ちゃん

       踊る人
 ベアトリ姉ちゃん(浅草オペラ)・・・林アキラ・岡幸二郎・堀内敬子・ベアトリ姉ちゃん(伊東恵里)

   あ 牧水 40

   東京節(パイノパイノパイ

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   作詞:添田知道(添田さつき) 曲『ジョージア・マーチ』



   あ 牧水 47  


 母マキを写した浅草の写真とは呵責の塊だ。しかしそこから思い起こさせる、賑やかな浅草を記憶させた写真の一枚一枚が、、牧水にさらなる記憶の奥底から小さな暗がりの物語を引き出させていた。

 気づくと牧水は有機体のように触手を伸ばしながらその暗がりの響きと繋がろうとしている。

 牧水はその響きにそっと耳を澄ました。

 夜の浅草はじつに華やかであった。そこから甦るバイオリンの一曲がある。

 そう思うと牧水の喉仏で件の仔骨がまた踊り始めた。
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 浅草の路地は芸と酒の町である。

 明治後期、この酒楽の界隈に街頭演歌師なる芸人が辻辻に立つようになった。

 街頭演歌師とは洋楽の手法をもって民衆歌謡を創作し、バイオリンでその曲を弾きながら自らが歌い、歌いながら歌本を売っては暮らしの糧を得る。弾けない、歌えない駆出しの身は、演歌師の傍に添いつつ芸を学び歌本売りを手伝いながらして日々をしのいだ。

 牧水が出逢ったころの鳥取貫一も未だ半人前の歌本を売るだけの少年であった。

 俗謡は各地で市井の人々が通俗的に歌われる歌である。

 民謡がその土地に密着し同じ歌詞で伝えられるのに対し、俗謡は歌詞を変え地域を越え、時には専門の歌い手や芸者などにより技巧化され流行する。

 俗謡にはもともと風刺や猥雑なコミカルなものも多かった。民謡であっても、本歌は変えないまでも、歌詞その物はどんどん新しいものが作られる例も多い。

 明治時代には軍隊、工場の労働者や学生の寮など地方からひとが集まる場所で唄われ替え歌が作られるようになりやがて全国的に広まるようになった。例えると『デカンショ節』『炭坑節』『ズンドコ節』『ダンチョネ節』などがそれで、俗謡を起源とする歌である。

 明治時代に流行したものに壮士演歌(そうしえんか)がある。壮士節ともいう。壮士演歌は政治や世相を鋭く風刺した歌であった。もとは自由民権運動を啓蒙するという大真面目なものであったが、面白おかしく歌う者が出て流行するようになる。

 中でも有名なのは川上音二郎の「オッペケペー節」である。他に『ひとつとせ節』『やれ節』などがある。明治の中頃から大正になると地方から都市へ出てきた学生が学費の足しで演歌を歌うことが多くなり、これらは書生節と呼ばれた。

 このようにして浅草にも数多くの辻立ちの演歌師が現れる。

 街頭で演歌を歌う姿は昭和初期までは見られ、やがてレコード盤が普及するにつれ姿を消すことになる。

 その間、学校音楽が「欠伸を催す」存在であった反面、浅草で弾き流される街頭演歌師によるバイオリンの音楽は当時の世相とも相まみれ合って大衆の高評を得た。

 詩歌を創ろうとする手もまた、こうした浅草の大衆芸能と繋がろうとして、民衆に好まれる数々の作詞を誕生させた。

 牧水が一度垣間見た浅草とは、そういう風刺を利かせた「未来」というものがあった。


船頭小唄


「船頭小唄」1921年。作詞:野口雨情、作曲:中山晋平。歌手:鳥取春陽、森繁久弥など他。

 こうした作詞は浅草と共に暮らしながら紡がれている。あるいは東京の下町と合い通じ結ばれながら生まれ出ている。詩歌のそれまでの仕方ではなく、民衆を観察することによって、大衆を理解しようとした。

 浅草で育った詩歌は、推敲する間もないほど民衆の内奥からあふれ、人間味豊かな諧謔と哀感に満ちているではないか。

 牧水はそう思うと、鳥取春陽が街頭で歌い巷(ちまた)に流行らせている『馬賊の唄』を思い起こした。

 5年前に知り合ったとき春陽は岩手県新里村(現在の宮古市刈屋)の出身だと語った。その時分にはすでに石川啄木は他界していたが、岩手だと聞かされて、ふと春陽の顔に啄木が重なった。それほど風体が似通っていた。

 13歳で高等小学校に進学したが、14歳のとき学業半ばで東京へ出奔し、上京後演歌師となり添田唖蝉坊(そえだあぜんぼう)に弟子入りする。

 彼が刈屋尋常小学校へ入学し、片道1時間余りの道をハーモニカを吹きながら通学していたことも、11歳のときに家業の製糸工場が倒産してしまったことを、彼自身の口から聞き及んでいる。

 「そう確か・・・もう22歳のはずだが・・・」

 15歳下である。そう思うと彼と知り合った当時のうら若く弱々しい風貌が偲ばれた。

 それは特定の誰かの死体のようである。

                   あ 牧水 37
                        鳥取春陽

 牧水が春陽に重ねる「その人」は人格を持ち、牧水と深く関係してきた具体的な存在だ。

 啄木の黄泉返りではないかと思われると、その境界を見定めようとする牧水の眼差しは、必然的に死者と生者の問い直しに繋がってきた。

 春陽の響かす音は邯鄲(かんたん)である。

 興梠(こおろぎ)でもなければ蟋蟀(きりぎりす)でもない。轡虫(くつわむし)とも違う、何ともうら寂しい秋色を響かす独特な音色なのであった。

 牧水は昨夜、この邯鄲の音色を裏庭で聞いた。 

 邯鄲は淡い黄緑色の、姿も声もはかなげな虫である。鳴き声は単調だが何とも言えない趣きがあり、牧水はこの虫が一番好きである。少しの騒音にもかき消されてその鳴き声に気付きにくいが、秋の夜、クズやヨモギなどの葉に止まり、透明なはねを立てて鳴くその儚き姿は秋の深まりを感じさせる。

 春陽の名とは裏腹に、彼の曲は秋き深く細々と寂しい邯鄲であった。 きりぎりす 小 gif


        馬賊の唄

  俺も行くから君も行け 狭い日本にゃ住み飽いた 海の彼方にゃ支那がある 支那にゃ四億の民が待つ


  俺には父も母もなく 生まれ故郷にゃ家もなし 慣れに慣れたる山あれど 別れを惜しむ者もなし


  嗚呼いたわしの恋人や 幼き頃の友人よ いずこに住めるや今はただ 夢路に姿辿るのみ


  昨日は東今日は西 流れ流れし浮草の 果てしなき野に唯独り 月を仰いだ草枕


  国を出るときゃ玉の肌 今じゃ槍傷刀傷 これぞ誠の男児じゃと 微笑む顔に針の髭


  長白山の朝風に 剣をかざして附し見れば 北満州の大平野 俺の住処にゃまだ狭い


  御国を出てから十余年 今じゃ満州の大馬賊 亜細亜高嶺の間から 繰り出す手下五千人


  今日の吉林の城外に 木だまに響く嘶きも 駒の蹄を忍ばせて 明日は襲わん奉天府


  長髪清くなびかせば 風は荒野に砂を捲き パット閃く電光に 今日得し獲物幾万ぞ


  繰り出す槍の穂先より 竜が血を吐く黒竜江 月は雲間を抜出でて ゴビの砂漠を照らすなり



馬賊の唄


馬賊の唄 歌:金子潔 作詞:宮島郁芳 作曲:鳥取春陽
                            きりぎりすバイオリン gif


 日本の流行歌は明治元年、朝廷の命により江戸へ向かう薩長連合軍の士気を鼓舞するための進軍歌「宮さん宮さん」に始まる。明治時代の流行歌は「宮さん宮さん」「抜刀隊の唄」などの軍歌に代表される洋楽調、「お江戸日本橋」「ぎっちょんちょん」などの日本調、そして、自由民権運動に携わる「壮士」と呼ばれる人々による演歌の三つに分類される。壮士による演歌は「壮士節」と呼ばれ、街頭でさかんに歌われた。明治の中頃になると、学問を志して上京する苦学生が増える。彼らは学費を稼ぐために演歌を歌い、それらは「書生節」と呼ばれ、演歌の主流となっていった。大正時代に入ると演歌師は、「浅草オペラ」で歌われるアリアの替え歌などで世相の風刺を行っていた。街頭で流行歌を歌う演歌師は大正時代まで数多く存在したが、昭和の時代に入り、レコードの普及とともに姿を消していった。

 鳥取春陽(1900-1932)は岩手県に生まれる。大正11年に「ピエロの唄」「馬賊の唄」を作曲し、自らも歌い、レコードにも吹き込んだ。12年には「篭の鳥」を作曲し大ヒットさせる。13年には野口雨情作詞の「すたれもの」「赤いばら」を作曲した。
 
          鉄道アニメ

 たしかに春陽の曲には大衆をほいやりとさせる哀愁がある。

 そうだからと言って作詞の内容は、そうたやすく、うちいらえて終えるようなモノではない。だが、そうであるから世相の方が後押しをする。

 あの当時、未だ16歳であった春陽が牧水の注いだ酒に、顔を紅潮させもせず何杯も呑んだのには驚いた。岩手から家出してきたばかりの子がだ。童顔でどこか人をほいやりとさせる少年ではあったが、その貫一が22歳の春陽となった今日、東京での高評は何とも天晴れで、久しく会わぬ間に余程世に揉まれたのであろう。

 そう思う牧水は春陽の曲に、耳にたこができるほど何度も聞かされた世間からの悲哀を、引き受けて再び世間にぶつけては大衆の本音に迫り、そこから大衆の悲哀を誘う作曲を成そうとする手技があり、成し得ていることにしんみりとさせられた。


       石をもて 追はるがごとく ふるさとを 出でしかなしみ 消ゆる時なし


 牧水はそっと啄木の声、啄木享年26の顔を浮かべた。

 啄木は小石川区久堅町にて肺結核のため死去。その死際を妻節子、父一禎、牧水と3人で看取った。

              あ 牧水 48
                     啄木と妻節子

ふるさとの山に向ひて・・・啄木


ふるさとの山に向ひて 作詞:石川啄木 作曲:新井満

 石川啄木の望郷を歌った短歌に新井満が曲を付けた。この合唱は、啄木が教員時代に実際に弾いていたオルガン(石川啄木記念館に保存)を使い、啄­木ゆかりの渋民小学校の土橋理佳先生が伴奏し生徒達が斉唱した。「石をもて追はるるごとく」ふるさとを後にした啄木であるが、彼は常に深く望郷の念を懐きながらも帰郷を果たせずに客死する。その百年後に、郷里の母校渋民の子供たちによって彼の詩が­歌われた。これは同時に牧水の悲しみである。


 通り過ぎた歌がある。今、生まれ出た歌がある。

 それらの歌を読みて、聴きて、牧水まで懐かしさを覚えるのは、それが、時代も場所も違えど、牧水もが自分だけの色と形で感じ取れる集合的あるいは個的な記憶だからだ。

 その記憶とは意識して手繰り寄せるまでもなく、失われた故郷の風景や人々を、自然とそこに繋ぎ止めている。そうであるから牧水の感じた風は、届けられるべくして牧水のもとに届いたのである。

 「それらは、徒労に似た、無形の蓄積ではない・・・」
 と、牧水が感じ取ったとき・・・、

 「おィ、席を詰めろ!。この荷物、邪魔だ!」

 突如、悪相の若僧が乱暴な横槍を入れ、牧水の肩先を突いた。

 眼光は虎のごとくだ。

 牧水は憮然とし、もう暫くは繋ぎ止めておきたかった、その稀有な時間を止めてしまった。

 さすがご時世か、とそうでも思わないと腑にも落ちない。

 ふと気づくと汽車は茅ケ崎駅で停止していた。

 以後、業を煮やしながら、牧水はごまめの歯ぎしりのように顔を顰(しか)めて東京まで揺れるこになる。



 ・・・この続きは第⑪話にて・・・


                                白秋の彼岸より・・・By 漱太郎


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本線夜行列車九段駅  駅長の本音・・・ 『北原白秋』 ⑨

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夜の列車
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本線夜行列車九段駅・・・・・・・・・・・駅長の本音

                北原白秋 ⑨』 特集

     
あ 牧水 2


                     鳥F

            小説 大正蓄音機『赤い鳥

                  副題・・・パンの会青春協奏曲

                  大正期編・・・第32話

                  暮坂峠

                  あかい鳥 18

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      大正蓄音機『赤い鳥』大正期編・第32話「暮坂峠


 ) 牧水・車窓の草鞋  あ 牧水 6

                  鉄道アニメ

 沼津駅で一輛の機関車が列車の後尾に補充された。

 汽笛、一鳴!。

 前方に鋭く指令される。

 機関の鼓動がにわかに高められた。

 しだいにホームは蒸気の白川となっ行く。

 若山牧水は静かに眼を閉じていた。

 汽笛、一啼!。

 発車である。沼津駅午前6時、定刻であった。

 「御殿場まで左席に座る。御殿場から右席に替わる」

 富士をみて箱根の奥をみる、着座前にそうするのだと決めて、牧水は一路東京へと向かった。

 国府津駅(こうづ)を通過するまでの途上で確かめてみたいことを胸に潜ませていた。

 あ 牧水 15

 車輪を軋ませて機関熱がやや定まると、また汽笛一鳴!。

 先は・・・鈍行となり・・・さらに汽笛を一哭!して、機力を切り替えて走る難所なのだ。

 先頭の機関車で引き、最後尾の機関車で押し続けて上がる分水嶺の御殿場である。

 本線はその御殿場の峠を越えることになる。

 しだいに鉄路は25‰(パーミル)という急勾配を上り、機関車はピストンの歯車を剛力で回し、鉄輪を軋ませては連結の客車を強引し続けながら、危なげにレールを掴みつつ這うようにして頂きまでを登り詰める。

 牧水もまた危ういその車窓に新しい歯車を回すことになる。

 この沼津から御殿場へのルートは、明治から昭和初期にかけては東海道本線の一区間であり、複線化も行われていた。したがって歩行の箱根関は鬱蒼たる幾つか山並みを越えて幽さだけを南に望むことになる。

 足柄の北を大回りする、その箱根の関は幻(まぼろし)のようであった。

あ 牧水 3    あ 牧水 7
赤ライン東海道御殿場線    富士岡~御殿場間を行く複式マレー9750形牽引の上り旅客列車 大正4年

 しかし昭和9年12月の丹那トンネル開通に伴い、東海道本線は熱海駅経由に変更される。

 このため沼津駅~国府津駅間は支線の御殿場線となり、太平洋戦争中の昭和19年には不要不急線に指定され単線化された。しかし現在もなおトンネルや橋脚などに複線時代の面影を残している。

                あ 牧水 19

 日本国民に長く愛唱されてきた鉄道唱歌の歌詞は、丹那トンネル開通前に発表されたため、国府津駅~沼津駅間が現在の御殿場線経由となっている。

 その駅の、名残りの歌詞は、牧水が鉄路で御殿場を越えた旅の当時を偲ばせる。

 15番駅「御殿場」・・・・・ ここぞ御殿場夏ならば われも登山をこころみん

                高さは一万数千尺 十三州もただ一目


                あ 牧水 4

                あ 牧水 8
                       新橋駅を出る汽車

鉄道唱歌 東海道本線編 Part1
          夜の列車

鉄道唱歌~東海道本線編~Part1 明治32年作(1新橋から22焼津間)作詞:大和田建樹 作曲:多梅稚


足柄平野上空からの展望『牧水の越えた峠
北/高松山 北西/山北から小山 西/大雄山 南西/箱根・明神ケ岳 南/国府津駅方面 東/平塚方面

足柄平野東名高速道路沿いに大井松田―山北バス停間「フジフライトクラブ、小田原スカイクラブ」

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 富士山はすでに初冠雪を頂いていた。

 臨海の沼津ではようやく秋の彩りをみせるころ、標高700mの御殿場はすでに晩秋であった。

 その御殿場は、西の富士山、東の箱根山、北の丹沢山地、南西の愛鷹山に囲まれている。

 「たしかこの辺りだ」・・・「横走の関・・・か」・・・・・、

 と、牧水はふと眼を平安の菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)まで遠くした。

 あらかじめ昨夜、書き付けておいた。

 車窓にグッと身を寄せると、牧水はそれを懐から取り出した。

     あ 牧水 9       あ 牧水 10
        定家本「更級日記」

 更級日記によればこの辺りが横走の関である。

 傍らに岩壺という名泉があったという。

 菅原孝標女とは平安中期の女流、孝標女は日記で自身の10歳から50歳ぐらいまでの人生を回想した。彼女の約40年間が綴られている。

 菅原道真の5世孫にあたる菅原孝標の次女である。母の異母姉は『蜻蛉日記』の作者で藤原道綱母である。

                  あ 牧水 11

 孝標女は、東国・上総の国府に任官していた父・菅原孝標の任期が終了したので寛仁4年9月京の都(現在の京都市)へ帰国(上京)するところからこの日記を起筆した。

 彼女は幼いころから源氏物語を読みふけり、その物語世界に憧憬しながら少女時代を過ごし、度重なる身内の死去によって見た厳しい現実、祐子内親王家への出仕、30代での橘俊通との結婚と仲俊らの出産、夫の単身赴任そして康平元年秋の夫の病死などを経て、子供たちが巣立った後の孤独の中で次第に深まった仏教傾倒までの内容を、平明な文体で描いている。

 この日記、江戸時代には広く流通して読まれた。

 その中には作者孝標女が上総の国府(千葉県市原市)から京に上る東海道の旅がある。したがって日記は平安の日本を紹介した歴史紀行でもあった。

 牧水は初めてこの日記と向き合ったとき、とんでもない昔話のように思えたが、しかしどれほど千年の昔でも日本はやはり日本なのである。

 そこに生きた人々の苦労や悩み、喜びや悲しみは明治・大正の我々の話ではないかと思われた。

 その反面とてつもなく変ってしまったものがあることに気付かされた。

 ひとつは自然の変わりようである。

 つい50年ほど前の御維新以前、日本は緑なす国と言われていた。だが千年前にはさらに深い深い緑に覆われた国であったようだ。日記はそのことを牧水に明らかに語った。

 そこでは人間の営みなど大自然の前のほんの小さな点景に過ぎなかったのである。

 ところがどうだろう、今の日本はどうなのであろうか。

 ありのままの自然を見い出すことは、この先ほとんど不可能にも思われる。

 また一つ大きく変わったものがあるとすれば、それは死生観であった。御維新以降、西洋文明に学んだ我が国は医学を富ませ、経済を富ませて国民はしだいに死の恐怖から解放されたかにある。しかし千年前には明日何が起こるかわからない「無常」の闇が広がっていた。

 それは天皇、貴族といえども、病気にかかったり大怪我をすれば即、そこに死が待っていた。庶民であれば常に餓死の危険にもさらされていた。事実、更級日記の作者である孝標女もじつに多くの悲しい別れをしているではないか。

 分水嶺を通過しようとする牧水の眼には、そんな更級日記を綴る孝標女の影が、そうして彼女が旅をした古代東海道の鼓動とが、今この場に息継がれて在るように見えた。

 日記に足柄関本の章がある。

 その日付は10月18日(和暦9月29日)。

 『足柄山』・・・・・『足柄山といふは、四五日かねて、おそろしげに暗がりわたれり。やうやう入りたつ麓のほどだに、空のけしき、はかばかしくも見えず。えもいはず茂りわたりて、いと恐しげなり。
 麓に宿りたるに、月もなく暗き夜の、闇に惑ふやうなるに、遊女三人、いづくよりともなく出で夾たり。五十ばかりなる一人、二十ばかりなる、十四五なるとあり。
 庵のまへにからかさをささせてすゑたり。男ども、火をともして見れば、昔、こはたといひけむが孫といふ。髪いと長く、額いとよくかゝりて、色しろくきたなげなくて、さてもありぬべき下仕へなどにてもありぬべしなど、人々あはれがるに、聲すべて似るものなく、空に澄みのぼりてめでたくうたを歌ふ。
 人々いみじうあはれがりて、け近くて、人々もて興ずるに、「西國の遊女はえかゝらじ」などいふを聞きて、「難波わたりにくらぶれば」とめでたく歌ひたり。
 見る目のいときたなげなきに、聲さへ似る物なく歌ひて、さばかり恐しげなる山中にたちて行くを、人々あかず思ひて皆泣くを、をさなき心地には、ましてこのやどりを立たむことさへあかずおぼゆ。

 まだ曉より足柄を越ゆ。まいて山の中の恐しげなる事いはむ方なし。雲は足の下に踏まる。山の中らばかりの、木の下のわづかなるに、葵のたゞ三筋ばかりあるを、世はなれてかゝる山中にしも生ひけむよ、と人々あはれがる。水はその山に三所ぞ流れたる。


 からうじて、越えいでて、關山にとゞまりぬ。これよりは駿河なり。横走の關の傍に、岩壺といふ所あり。えもいはず大きなる石の四方なる中に、穴のあきたる中より出づる水の、清く冷たきことかぎりなし。

 富士の山はこの國なり。わが生ひ出でし國にては、西おもてに見えし山なり。その山のさま、いと世に見えぬさまなり。さまことなる山のすがたの、紺青を塗りたるやうなるに、雪の消ゆる世もなく積りたれば、色濃き衣に、白き袙(あこめ)着たらむやうに見えて、山の頂のすこし平ぎたるより、煙は立ちのぼる。夕暮れは火の燃え立つも見ゆ。

 清見が關は、片つ方は海なるに、關屋どもあまたありて、海までくぎぬきしたり。煙あふにやあらむ、清見が關の浪も高くなりぬべし。おもしろきことかぎりなし。

 田子浦は浪たかくて、舟にて漕ぎめぐる。大井川といふ渡あり。水の、世の常ならず、すり粉などを、濃くて流したらむやうに、白き水、早く流れたり
』・・・・・・・・・。


 奈良時代、東海道足柄路の横走(よこばしり)駅が御殿場市から小山町竹之下のあたりにあった。

              あ 牧水 16
           通説で「岩壷」とは、現在の「駒門風穴」であるとされる。

 更級日記ばかりではなくこの関は、清少納言の枕草子第52段『関は』の項には『相坂の関(近江)・須磨の関(摂津)・くきたの関(伊勢)・白河の関(陸奥)・衣の関・ただごへの関(未詳)・憚りの関(陸奥)とたとしへなくお覚ゆれ。横走の関(駿河)・清見が関(駿河)・見るめが関(近江)・よしなよしなの関(陸奥勿来の関)こそいかに思ひ返したるならんと、いとしらまほしけれ』とある。

 また平安時代後期、伊勢神宮の荘園「大沼鮎沢御厨」があった。これ以降、御殿場や小山あたりを御厨(みくりや)と呼ばれた。

 8年前の大正3年に、その往時を物語る御厨町は御殿場町と改称されている。

 消されたものは、長い歳月の風雪をくぐりながらも息絶えもさせずにきた由緒である。

 8年前に見えていたそれは、長い歳月を経て守られてきた由緒の時空間でもある。

 その時空間にあるからこそ古風なのだ。

 性急な維新の風が煽り巻いて洋風を吹かす果てに、一つまた古を刻む風流が打ち消された。

 見えるもの聞こえるものは風流の屍(しかばね)である。

「千年の沓音(くつおと)は、また千年を通う旅人の聲(こえ)ではないか・・・」

 目の当たりにこの事実を突き付けると、旅人である牧水は只しんみりとなった。

 不易流行とは酷いものだ。

 更級日記の手にも執られ、清少納言に『たとしへなくこそおぼゆれこそ・・・いかに思ひ返したるならん』と言わせしめた関も、もはや世間の覚ゆる知識の外にあることはまことに寂しい事なのである。

 たしかに時代の流れを考えてみると、亡くなった徳川家康の遺体を久能山東照宮から日光東照宮へ移送する際に仮の御殿を建てて、遺体を安置したところから「御殿場」という地名は生まれた。

 その御殿の位置は吾妻神社付近だったとされている。

 しかしそれにしても、御殿場と一括りにされて呼ばれるのであれば、奈良の往時のあるいは孝標女が旅した時の刻みは全くの壊滅ではないか。さらには藤原定家の手の声も途絶える。以前から牧水は「みくりや」の響きにこそ古風さや郷愁を感じていたのだ。こうした風の証言は、箱根の関よりも古い風の足音なのである。

 この峠を古の旅人は駿河国、相模国、甲斐国への道標とした。

 そうした旅人はこの峠に立って「高さは一万数千尺 十三州もただ一目」の富士の高嶺を仰ぎ見た。

 いずこから来ても旅人は峠でその高嶺に向かい立ち仰ぎ、越えては峠の高嶺に旅人はまた振り向いた。

 人が富士を見たのではない。峠が人を富士に向かい立たせ、峠が人に富士を振り向かせたのである。

 またその峠とは旅人の御斎(おとぎ)場でもあった。

 旅人は禊ぐことで峠から命の糧を得た。しつらえた役場を「みくりや」という。

 その「みくりや」とは「大沼鮎沢御厨」の鮎沢であったはずだ。

 「これが・・・樗木(ちしゃき)であろうはずがない・・・」

 そう思う牧水は、今は厭わしくされた沢を眼に、落ち鮎の瑞々しき影を寂しげに偲び映した。

 以前の時代はゆるやかに動いていたのである。
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鮎沢川の鮎


鮎沢川の鮎 2012年5月撮影 日本河川環境観察資料映像・Japan21Studio漱太郎

 足柄山域の南部は駿河湾へ注ぐ狩野川水系の黄瀬川、北部は相模湾へ注ぐ酒匂川水系の鮎沢川の流域になっている。この二つの川の分水嶺はおおむね御殿場駅付近である。

 鉄路の旅であるが牧水は沼津から黄瀬川の源泉を辿って御殿場へと上がり、これよりは鮎沢川の源泉より足柄平野へと下ろうとしていた。

 そうさせる思いから鮎沢川の流れに牧水が眼を注ぎ落としていると、まことに細く岩肌を洗う流れの上にふと一筋のせせらぎ「坪谷川」の気が満ちてくる。じつに細々とはしているが、えらく侘しく重なってくると、牧水はいつもそうだが、今またそこに多様な生物の生息を懐かしく提供しはじめてきた。

 そうなると骨太の覚悟のごときものが見え隠れして、しだいに生まれ故郷の山河がじんわりと沁みてくる。

 尾鈴山系を源泉とする坪谷川の流れとは、幼いころの牧水が母マキの背で戯れた懐かしの在所を清らかに漱ぎ流れた川である。細い流れはしだいに耳川の流れに落ちては合い揉まれながらして大河を成した。終には美々津という大海原へと注ぎ出る川なのである。

美々津



 その美々津の海は、幼い牧水にとって山里から遥かに遠くある憧れの存在であった。

 よく夢を見ては小舟に乗り、美々津の浜まで漕ぎ出していた。

      あ 牧水 17     あ 牧水 18
          坪谷川                     尾鈴山

 牧水という名は、母マキの名「牧」と、やがて憧れの大海へと注ぎ流れる坪谷川の「水」とで常に強く結ばれている。そう結ぶことで、自身二つの憧れを永遠に止めおきたくて名付けたものであった。10歳代のころよりそう胸に刻みつけてきた。

 水を見て流れに触れるといつも牧水は、いずこの水であれ故郷に生まれ出る水と等しく遊ぶことになる。水が憧れを創り、水が牧水の胸を叩き、旅に遊戯させては水と契ろうとする。

 その水は牧水のぶれない芯を貫いていた。

 鮎沢川に眼を注がされる牧水には、引き継いだ菅原孝標女の詠う受継いで行くべき歌が一つある。

 『更級日記』は菅原孝標の娘が晩年に、みずからの人生をたどり書き記したものだ。

 前半の旅行記と、物語に夢見る少女期、平穏な生活と宮仕での出来事、寺社参りの事、そして夫の死と不幸な晩年へとつづられている。

 最後に作者は「月もいでて闇にくれたる姥捨になにとて今宵たずね来つらむ」と、みずからを姥捨にたとえて日記を綴り終えた。この歌に作者孝標女の人生観が現され、更級日記の主題を成している。歌を認めそうして牧水は想いを遥か信州の「更級」へと返した。

 その孝標女の『更級日記』と言えば、また松尾芭蕉にも「笈(おい)の小文」の旅を終え,京都から尾張に至り,木曽路を経て姨捨(おばすて)山の月をめで,江戸に帰る間の紀行文『更科紀行』がある。

 冒頭に「さらしなの里,姥捨山の月見ん事,しきりにすゝむる秋風の心に吹きさはぎて」とあり,この作品が姥捨月見の記であることを示している。

 古の歌は牧水の標本であった。その歌の上で遊んでは、また新しきを学んだ。

 そうする重なりの上に連なりてこそ命ある破調となる。

 破調には正調を引き出してみる宿命がある。また宿命とはそのことへの苦悶でもある。

 牧水は10年ほど前に詠んだ自作の古い歌を思い出した。

            地にかへる落葉のごとくねむりたるかなしき床に朝の月さす(死か芸術か)


 車窓に揺れながら旅に月を想い重ねる遊戯である・・・・・。


            月も出でで闇に暮れたる姨捨になにとて今宵たづね来つらむ(更級日記)


            わが心なぐさめかねつ坪谷川 尾鈴の山に照る月を見て


            わが心なぐさめかねつ更級や 姨捨山に照る月を見て(万葉集)


            俤(おもかげ)や姥ひとりなく月の友  芭蕉(更科紀行)


 信濃の更科は古来月見の名所だった。これに何故か姨捨の悲しい話が結びついて、姨捨山伝説が出来上がった。大和物語に取り上げられているから、平安時代の前半には、人口に膾炙していたのだろう。今昔物語集も改めて取り上げている。謡曲「姨捨」は、この説話を基にして、老女と月とを情緒豊かに描いたものである。

 松尾芭蕉の句は世阿弥の謡曲『姥捨』を踏まえたものだ。

 曲中の老女が白衣の袂を翻して、月下に舞う幻想的イメージを俤にして描かれている。また句は月天心に至る夜更けの姥捨山の旅情を詠んだ句と芭蕉自らが自注している。
 あ 牧水 20           あ 牧水 21
 この芭蕉の句を牧水は「宵の間は名所の月見に浮かれた観光客でひとしきりにぎわった姥捨山も、月天心に至る深夜には一人として残るものもなく、芭蕉ひとりが、山中に捨てられたという姥の俤をしのびながら、そこに立ち尽くしていたというのである。たしかに、芭蕉のいう通り、姥捨山の本意は、深夜の月の光をただひとりで詠めるところにある」とみた。

                    月の満ち欠け gif

 芭蕉は「姥捨山に月を見ていると、捨てられてひとりで泣いている老婆の面影がうかんでくる。その面影を今宵の友として月をながめよう」という。

 「そうか・・・面影を友にながめる月・・・」

 と、想うと牧水は前年にした信州の旅を思い出していた。

 この牧水の月への思いは、二年後の「樹木とその葉 火山をめぐる温泉」という紀行随筆の中に引き出され焼嶽山の月となって語られることになる。

 火山をめぐる温泉・・・・・・、

 『部屋に歸つて改めて障子を開くと眩ゆい夕日の輝いてゐる眞正面に近々と燒嶽が聳えてゐた。峯から噴きあぐる煙は折柄の西日を背に負うて、さながら暴風雨の後の雲の樣に打ち亂れて立ち昇つてゐるのであつた。その夜は陰暦九月の滿月をその山上の一軒家で心ゆくばかりに仰ぎ眺めた。そして、月を見つ酒を酌みつしながら、私は白骨から連れて來た老爺を口説くどき落して案内させ、終つひにその翌日一時諦めてゐた燒嶽登山を遂行することになつたのであつた』・・・・と。

   あ 牧水 12

 『更級日記』の書名「更級」(更科)は、作中の「月も出でで闇にくれたる姨捨になにとて今宵たづね来つらむ」の歌が、『古今和歌集』の一首「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て(雑歌上、よみ人しらず)」を本歌取りしていることに由来する。作中に「更級」の文言は無い。御物本の外題に「更級日記」とあるが、それ以前に題があったかどうかは不明である。

 またこうした姥捨山の描かれようは万葉に始まり謡曲や物語に変化しつつ日本の昔話などの題材にも使われて語り継がれるようになる。

うばすて山


昔話「うばすて山」


     あ 牧水 22    駅通過アニメ


 駿河国では鮎沢川(あゆざわがわ)と呼ばれる川も、国境を越えて相模国となれば名も替わり酒匂川(さかわがわ)となる。

 この名替わりに、牧水は仄かな由緒の名残り香を感じた。

 横走の関、たしかにその古蹟のゆかりで、二つの川名は古の往時を物語る風流の証なのである。

 名残りだけが関西と関東の違いだ。今を流れる川の流れがそう牧水に語り掛けた。

 酒匂とは、牧水が気持ちを切り替えるためには、じつにお似合いの名ではないか。

 急勾配に前のめりしつつ汽車はしだいに足利平野へと下り、やがて右手に酒匂川の流れを望むことになる。

 酒匂川がおもむろに川幅を広げると国府津駅はもう間もなくであった。

 足柄平野は酒匂川を背筋にして鶴翼を広げたごとく東西に洋々と伸びていた。

 西は天下の険、箱根山に関られて、この足柄平野より以東、相模平野を連ねて関東となる。

 あしがら平野 gif あ 牧水 23
                               丹沢山地より見た足柄平野

 列車はしばらく国府津駅にて停車した。

 この駅から伊豆方面への支線が南下する。

 国府津駅はその乗降の分岐地でもあった。

 20分ほど停車するという。

 その間、牧水は静かに偲ぶ眼を西にさせて酒匂川の向こうを見続けていた。

 酒匂川の流れが穏やかにあり、川を挟んで対岸から西へと広がる小田原城下は長閑なものである。

              あ 牧水 31
                      酒匂川河口

 「みみずくの家・・・」・・・!、

 新しく女性をかじった瞬間、詩歌がひらめくという経験を繰り返し、たしかに彼の歌は変わっていった。しかしその女性関係で彼はじつに手痛い火傷の傷を残した。

 実際、その彼の痛みの覚悟で決定づけられる別れがある。

 彼が以後三度目の女性と新しく所帯を持った話は耳にしてはいたが、以来別れたと言えば牧水もその一人なのである。彼の覚悟が解らないままに自然と足が遠のいていた。

 しかしそれは彼が人生の破調を好むからだ。

 「あの名は、未だに世間に対する遁辞なのであろうか・・・?」

 関の東西に居て、久しく会わないが、しかし旧知の友である。牧水には小田原が波濤で白く煙るごとくにみえる。逢わないでいることが心苦しい。そうであるから「赤い鳥」だけは毎号欠かすことなく読むことにして小さな消息だけは得ていた。

 その北原白秋は城山界隈の小高い丘にある寺院の裏庭で暮らしていた。

                  あ 牧水 32
                        白秋

 白秋の居住するその城下町は東海道五十三次の品川から第九宿となる「小田原宿」である。

 戦国時代には伊勢平氏流を称する北条早雲が小田原城を奪取し、その子孫である後北条氏は小田原城を中心に関東一円に台頭し、その後北条氏の滅亡と徳川家康の江戸入府によって、小田原は華やかな歴史の表舞台から姿を消すことになる。

 しかし江戸期に入ると城下町小田原は東海道の沿線であり、小田原宿は箱根の山越えを控えた宿場として東海道五十三次中最大の規模を誇る城下宿場町として栄えた。

 あ 牧水 24  あ 牧水 25
          五十三次図           歌川広重 「東海道五十三次の内 小田原・酒匂川」

 今やお互いは、二人が左右両端の窓側席に座り、別々の方向を眺めているようにも思われる。

 「だが・・意外に彼は健吾であるのやも知れない」
 
 「あの歌声は・・・、未だ不始末に対して気後れはあろうが、作詞は健在のようだ!」

 と、そう思いたい牧水は、先月、9月号『小学女生』に載っていた白秋の詩歌を思い返していた。


                        砂山

        海は荒海、
         向うは佐渡よ、
         すずめ啼け啼け、もう日はくれた。
         みんな呼べ呼べ、お星さま出たぞ。

                 暮れりや、砂山、
                  汐鳴りばかり、
                  すずめちりぢり、また風荒れる。
                  みんなちりぢり、もう誰も見えぬ。

                          かへろかへろよ、
                           茱萸(ぐみ)原わけて、
                           すずめさよなら、さよなら、あした。
                           海よさよなら、さよなら、あした。



 白秋は小田原に立て篭ることで若きころの秀でた歌人としての我を捨て、素材の組み合わせと塩とオイルだけで複雑な味を生み出す、いわば素材に限りを尽くす作詞手法に切り替えた。

 その切り替えの間合いが彼の胡座であり、生み出そうとする作詞が精進料理めくものである。

 だから牧水はこう思う。「闇夜をさ迷った彼にしかできない仕事がある。今の白秋は東京をさ迷ったあの頃の啄木と似ている。健吾ならきっと闇を突き抜ける」と。


 牧水は繰り返し、繰り返しては、白秋の描き出そうとした歌の情景を浮かべた。

 9月号『小学女生』で白秋は『砂山』ついて次のように語っていた。

 どうやら白秋が新潟に出向いたのは6月のようだ。

 新潟の師範学校で行われた童謡音楽会に出席した北原白秋は、「新潟の童謡を作って欲しい」と依頼された。そこで、会場近くの寄居浜を散策した白秋はその時の光景を次のように記している。

 内容は・・・・・・・「その夕方、会が済んでから、学校の先生たちと浜の方へ出て見ました。それはさすがに北国の浜だと思はれました。全く小田原あたりと違つてゐます。驚いたのは砂山の茱萸(ぐみ)藪で、見渡す限り茱萸の原つぱでした。そこに雀が沢山啼いたり飛んだりしてゐました。その砂山の下は砂浜で、その砂浜には、藁屋根で壁も蓆(むしろ)張りの、ちやうど私の木菟の家のやうなお茶屋が四つ五つ、ぽつんぽつんと竝(なら)んで、風に吹きさらしになつてゐました。その前は荒海で、向うに佐渡が島が見え、灰色の雲が低く垂れて、今にも雨が降り出しさうになつて、さうして日が暮れかけてゐました。砂浜には子供たちが砂を掘つたり、鬼ごつこをしたりして遊んでゐました。日がとつぷりと暮れてから、私たちは帰りかけましたが、暗い砂山の窪みにはまだ、二三人の子供たちが残つて、赤い火を焚いてゐました。それは淋しいものでした。」・・・・・・・というものであった。

 あ 牧水 27

 白秋の「砂山」にいう「ぐみ原」とはどういう情景だろうか。

 牧水はつい先ごろ、沼津の海岸でグミの木に会ってきたばかりだったからだ。

 それはいつもの早朝散歩の途中に見える1本のグミの木のことで、これはナツグミなのだが、赤く色づきだしたグミの実を、コジュケイが枝に上がって啄ばむという珍しい行動を見たのだった。

 また香貫山の丘陵のなかにはグミといえばツルグミの木がたくさんあるが、ほとんどは若い木ばかりで実のなる株はごく少ない。ほかにグミの木といってもあのあたりは、自然の木はまれのようで、だから松林の中にある1本のナツグミの木は気になる木で、春、芽を出してから5月下旬ころ実が赤熟するまでは注目しているのだった。ほかに見あたらないところをみると、この木とて元はだれか人の手によってもたらされたものかも知れない。

 牧水はこれまでにグミを見てきた経験は旅中の山河で度々あるが、グミの木はどれも単独に生えているもので、2、3本寄っているとしても、原っぱといったような、いわば群生、群落という状態を呈するという木ではない、どうもそういう性質の木ではないと思っていた。

              あ 牧水 28

 そうするとこの「ぐみ原」のグミの種類はなんだろうか。

 牧水は群落をつくる性質を持つグミという存在のことを考えた。

 そこで「砂山」を3番まで改めて口ずさんでみた。

 そうして白秋が印象に残ったというぐみ原は植栽されたグミなのか、そしてその状況はどうなっていたのか、ということを自身の体験や見聞の中で探してみた。

 すると一つには十数年前に旅した千葉の海岸で土地の漁民から「砂丘にはグミ林があった。子どものころ、グミの実を食べた」との話を聞かされている。

 たしかそのグミは「アキグミ」であった。

 そう思い起こしてみると、そこでまた砂防ということばの意味について二通りあることに気づいた。

 一つは飛砂防止、つまり、砂が飛んで内陸に侵入するのを防ぐ。もう一つは砂丘自体を風や波から守るということだ。

 そうであれば白秋がグミ原を見たという地域は、砂浜、しかも汀線の移動の激しいところであったはずだ。

 推察をこう至らしめてみると白秋の詩歌がじつに写実的ではないか。

 そこには白秋が精進の眼を真っ直ぐに見開いてみた真実だけがある。

 素材に手を下そうとしない彼がいた。

                    すずめ動く

 またその写実性をさらに極まらせる「すずめさよなら」という描写が牧水に新たな際立ちをみせた。

 というのは、すでに暮れようとしている砂山になぜスズメがいるのか。それも少なくないらしい数のスズメが「砂山」の詞からは感じられる。

 ふたたび白秋の言葉から引くと、「見渡す限り茱萸の原つぱでした。そこに雀が沢山啼いたり飛んだりしてゐました」と述べている。

 一般に野鳥は夕方早めに活動をやめてしまう傾向がある。そして、早々に塒(ねぐら)の周辺に集まって塒入りの準備にはいる。スズメがたくさん集まって、すでに暮れようとしているのに、鳴いたり飛んだりしているというのは、塒入り直前の様子なのである。

 旅中で牧水が何度が体験し観察した塒入りの情景にじつによく似ているではないか。

 スズメは人家周辺を生活の場にしているので、ふつう塒も家屋の隙間などを利用している。単独で夜を過ごす定着相のスズメは風雨を避け、保温や危険防止のため、人家など構築物の隙間を利用するのである。

 しかしそれが6月では様相を違える。白秋の描写はその6月であった。

 この『砂山』という詩歌は6月だから生きている。6月に生かされている。

 6月ごろになると、春に生まれた幼鳥たちが親から離れて、若鳥中心の群れを作るようになる。この若鳥中心の集団塒は町なかの樹木、たとえばケヤキ、サクラ、クスノキ、それに竹やぶなどに塒入りするし、河川ではアシ原やオオブタクサの塒も見たことがある。木でなく草であっても、外敵が容易に近づけない場所ならば塒になる。

 ただしこれは夕方の塒入りではなく、早朝の塒立ちの場合だ。

 7月に牧水は千本松浜へ早朝散歩のために、いつものように小さな祠の脇を通ったとき、塒立ちに気づいた。それ以前にも何度もスズメの塒立ちの様子は見たことがあるので、すぐにそれとわかった。

 それはまだ日の出前だが、薄明るいうちから騒々しくなって、塒立ちの直前であることが思い出せた。といっても、その後、群れの全体がいっせいに飛び立つわけではない。塒の位置よりひときわ高いところ、たとえばその場合だと、そばの神社の棟の上に数羽から数10羽の小群を作っては飛び立っていく。塒入りのとき小群で飛び込んでくるのと、その様子は同じのようだ。

 そう発見した7月はケヤキの木で、その後8月までは同じケヤキであることを確認していた。

 通ったときと塒立ちの時間帯とが合わなかったためか、しばらく牧水は観察してはいなくて、8月末に見たときは隣りの棟の別のケヤキに移っており、いっしょに並ぶサクラとクスノキにも集まっていた。

 この場所では9月中旬まで続き、以降にはさらに一間ほど東のクスノキに塒があった。しかしこの集団塒は10月初旬に見たときにはすでに消滅していた。

           あ 牧水 29

 こうした観察を括り直すと、5月から塒の集団化がはじまり、6月7月と次第にスズメの総羽数が増えていき、8月を境にして9月以降10月には激減してしまうことになる。

 あるいはまた沼津駅から港へ向かう大通りのイチョウを塒にしている集団について、牧水は「黄昏時に一直線にこのイチョウの木を目指して飛来し、しばらくチュンチュンと賑やかに鳴き交わし、その後、急に静まりかえって眠りにつく」という塒入りの様子を体験した。これは香貫山中腹の竹林、ケヤキ、クスノキでの塒入りの様子ともよく似ていた。

 白秋がぐみ原で見たスズメの群れ、「砂山」に登場するスズメたちは、ちょうど塒入りのところだったのだと牧水には理解できた。「そのとき白秋は、はからずも、ぐみ原を塒とする若鳥を中心としたスズメの集団塒の場に居合わせたものであろう」と・・・・・。

 何げない感情をざっくり射抜かれて、そうさせる白秋の詩歌はもはや精進の職人技である。

 どうやら白秋は突き抜けたようだ。童話作家として、ただただ専らではないか。

 「先ずは健吾であってくれ・・・」

 そう思う牧水は目頭を熱くさせていた。

 眼を閉じて白秋の歌を抱けばじんわりと涙が鼻筋を伝う。

 ふつふつと嬉しくなってくる。

 その嬉しそうな涙眼には・・・、

 白秋の暮らす「みみずくの家」が砂山のグミ原、そこを塒とする雀に白秋の姿が侘しく重なっていた。

 その歌のここで白秋が示しているものの多くはありふれた北国の何げない日常だが、精妙かつ抒情的な描写により、充実した重みを伴って伝えられてくる。

 無性に伝わってくるそれとは、日常の風景という親しく近しい関係だからこそ生じることのない執着力を伴わない愛情や戸惑い、葛藤などの感情が、詩歌という言葉だけではなく、移ろう風を暗号として投げかける表情や動作、媚びることも偏りなく的確に配置された小道具によって描かれているからだろう。

 白秋は芭蕉と同じに詩人の目でものを見つめながらも、それをみごとに童謡という子どもの世界に描きあげ、 うたいあげたのだ。すでに芭蕉の力を突き抜けている。

 ことに『スズメ』と『グミ』をとりいれ、最後の一節に『さよなら、あした 』とうたったのは、牧水にはさすがと思えてならない。

 惜別で終わらせるのでなく、再会を見つけさせて子供らを帰すこのどんでん返しは、児童でも大人でも容易に予測できる、しかも一向に気にならない心地いい白秋の裏切りなのであった。

 寂りょうの風景だけでは童謡の世界は成り立たないからだ。

 それが白秋の自覚というものであり、その切なさや罪の意識で、つまり自身に痛い思いをさせることで、詩歌を動かし難いものにしようとしている。

 白秋のこうした裏切りに、牧水は叱咤激励された。

 そうして牧水が嬉しさに泣かされたこの日、白秋の作詞にはまだ曲付けはなされていない。

 牧水が童謡としての具体を聴くのは年明けとなる。

 依頼された中山晋平が作曲し、作詞と一対の童謡となるのは、この日より二ヶ月を経た12月のことであった。

 翌大正12年には山田耕筰もまた同じ詩に曲を付けることになる。


雀の宿

  あ 牧水 30
雀の塒入り前。9月:

砂山


童謡・「砂山」歌「FORESTA(フォレスタ)」
作詞:北原白秋、作曲:中山晋平(大正11年) 作曲:山田 耕筰(大正12年)


 白秋は大正11年(1922)6月12日、「新潟市児童音楽研究会」による「白秋童謡音楽会」に招かれて新潟を訪れた。 白秋の童謡のみを歌う音楽会である。師範学校の講堂に集まった2000人もの小学生を前に、北原白秋は 「兎の電報」などを歌って喝采される。この音楽会のあと寄居浜に足をのばした白秋は日本海と砂丘の風景に 強い感銘を受け「砂山」の着想を得たという。

 作詞を発表した9月に「六月のなかごろに、わたしは、越後の新潟にいってまいりました。わたしがいくと、新潟のこどもたちは、ひじょうによろこんで、わたしのために童謡音楽会をひらいてくれました」と語っている。

 白秋はすぐに中山晋平に作曲を依頼した。そうして12月には童謡として仕上げられた。

 また翌年になると山田耕筰も同じ詩に作曲した。

 この二曲には「四七抜き」という共通した作曲法が施されている。

 それは、日本古来の旋律を西洋音階に当てはめてみたところ、四度と七度が欠けているということである。

 山田耕筰の作品は西洋の短調に限りなく近いが、四度と七度を抜いている。陰音階に基いた短調として作曲された。一方、中山晋平の作品も同様に四度と七度が抜かれている。ただし、中山の場合は陽旋法の音階に基いて作曲された。この両者に共通して言えることは、本来陰音階や陽音階で主音となる音ではなく、その三度下を調の基本音にしていることである。

 これによって、山田耕筰の場合は西洋音階に近くなっているし、一方、中山晋平の場合は和音階をやや考慮して西洋音階に近づけている。

 この二曲には、西洋音楽が主流になっていく時代の中で、「日本風」を生かしながら作曲しようとする、作曲家それぞれの工夫の様子が窺える。

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 白秋という男、その彼によれば童話の活字は子供らを熱くする情熱の媒体であり、日常の光景は人間を冷めさえる媒体なのである。

 砂山という詩歌は牧水にそのような童話であることを感じさせた。

 よくも悪くも幻想や虚構を壊し、すべてを平らにしてしまう西洋化の影響はもう日本全体に及んでいる。そう考えさせられる時間を白秋は牧水に与えてくれた。

 白秋の『砂山』に眼を遠くさせられていた牧水は、行き成り、汽笛の一声で覚まされた。

 どうやら汽車が国府津駅を発車するようだ。

 じんわりと眼を見開いた牧水は、辺りを見て驚いた。車窓の外を見渡して仰天した。

 ずらりとホームに人々が居並び、その人々が列車に向かって一斉に日の丸の小旗を振っている。

 汽車はその日の丸に見送られながら発車した。
                         あ 牧水 33
 ・・・・この続きは第⑩話にて・・・・


                                白秋の彼岸より・・・By 漱太郎


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立体言語学博士
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