スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

本線夜行列車九段駅  駅長の本音・・・ 『北原白秋』 ⑧

ウエルカム gif
夜の列車
ライン黄色 gif
本線夜行列車九段駅・・・・・・・・・・・駅長の本音

                北原白秋 ⑧』 特集

     
せんぼん浜 2

                     鳥F

            小説 大正蓄音機『赤い鳥

                  副題・・・パンの会青春協奏曲

                  大正期編・・・第32話

                  暮坂峠

                  あかい鳥 18

せんぼん浜 3

富士山の風景 Mt.Fuji



 大正蓄音機『赤い鳥』大正期編・第32話「暮坂峠



 ) 牧水・旅の夜明け

                         回転菱2

 
 人生には遅れても廻る四季の歯車と、乗せては軋ませる風の歯車がある。

 昨日久しぶりに、いわし雲を見た。

 午後の空に舞ういわしの群れは見る間に姿を変えて行く。

 折々に一朶の雲も軋むのである。

 四季が大きな歯車であれば、

 吹く風は小さな歯車である。

 牧水は只じっと、風に乗せられて軋み散るいわしの聲を聴いていた。

                 歯車 4 gif

 「空からいわし雲が姿を消すと、釣瓶落としに冬の訪れは早い」

 「山の眠りは猥(みだ)りがわしく叩くモノではない」

 富嶽は今日もベロ藍の波と舟に揺らされている。

 そう思う牧水はここ数日間、旅に憑かれた男の渾身の眼で富士山の右肩だけを見続けてきた。

 裏富嶽の風に誘われて牧水が目指す彼方は上州の深山である。

                 せんぼん浜 4


 「間もなく銭を食む正月がやがて来る・・・真新しい春はさらに銭を食む」

 と、そう覚悟して意を決すると、冬支度の前に今回の旅を終えたかった。

 そうしてついに10月14日(1922年)、

 若山牧水は数ヵ月前から計画していた信州から上州の各地を回る長期の旅に出た。

 この旅の軌跡を牧水は二年後(1924年9月)に出版する。また出版の翌年2月には千本松原の土地五百坪を購入した。

 牧水はその出版を終えて、ここを旅の終着とした。あるいは結着させる。

 終着駅が『みなかみ紀行』である。出版の目的は『沼津の地に家を建てる』ことであった。

 したがって今までの旅とは牧水の様相が大きく違う。

 またそれは同時に「職業歌人・牧水」の誕生を物語る。

 旅で軋ませて拾う聲を歌に採り、拾い集めた聲を銭にする。これが牧水の新しい歯車であった。
                              歯車 5 gif
 その旅立ちの前日、

 牧水はこっそりと裏木戸を抜けると香貫山(かぬきやま)へと向かった。

 出立の刻限は翌暁を予定していた。

 旅支度はすでにし終えている。長年の旅暮らしで妻喜志子は心得ていた。すでに10年来連れ添っているのだ。喜志子も歌を能(よく)する。歌詠み者の旅立ちの何かは弁えていた。

                  せんぼん浜 12 喜志子


 明暁に備え、妻に任せたその間に、少しゆとりを挟もうと考えていた。

 間のゆとりとは、心の余裕ではない。旅への覚悟を今一度念押しに整えておく時間への気配りであった。

 これから新しい歯車を回すのに、ゆとりなどの余地はない。むしろ無用だ。

 「そうしておいて、さもふらりと旅立ったように見せる」

 そう、今回から旅の意識を変えた。己を一転させる、だからすでに逸る気持ちは遠に鎮めておいた。

 富嶽を望み守る山、牧水はいま香貫山へと歩いている。

 駿河湾には沼津七山というものがあるのだが、この連山を今一度おのれの眼に焼き付け胸に刻み込んでから旅立ちたかった。連山の北斗に富嶽はある。

   せんぼん浜 18

 南から順に大平山、鷲頭山、小鷲頭山、志下山、徳倉山、横山と連なり北山が香貫山となる。これを沼津七山という。牧水は沼津に移り住んだころより毎朝欠かすことなくこの七山を仰いできた。

 皆それぞれに明るい顔の山なのである。

 しかしそれは今だからそう思われる。沼津に移り住んだからだ。

 それ以前は「山を明るい顔」などと思えたことはなかった。

 山の色を心に挿すとなれば、今なら「青」と言う。

 沼津以前ならきっと「藍褐色」だと言っていただろう。

 眼に挿す色が心に挿せる色とは限らない。また心に挿した色が眼に挿す色とは限らない。

 そこには「藍ならぬ青の在り方」がある。

 そう思い索(もと)めながら、牧水は道々に海の色、山の色のことを考えた。

                 せんぼん浜 15 第一歌集「海の聲」

 「われは海の聲を愛す。潮青かるが見ゆるもよし見えざるもまたあしからじ、遠くちかく、断えみ 断えずみ、その無限の聲の不安おほきわが胸にかよふとき、われはげに云ひがたき、悲哀と慰籍とを覚えずんばあらず」。

     われ歌をうたへりけふも故わかぬかなしみどもにうち追はれつつ

 初めての第一歌集『海の聲』を集めたのは、もう15年前のことになる。早稲田大学を卒業したころだ。

     幾山河越えさり行かば寂しさの終(は)てなむ国ぞ今日も旅行く

 岡山県の二本松峠付近でこの「幾山河」の歌を作ったのがその前年であるから16年前の作となる。

 いずれもが二十歳そこそこの若い牧水の作品であった。

     よろこぶわが牧水君の
     今の時は幸なるかな羨むべきかな
     おもほえず昨日われ射しわかき日のひかりを
     君がうへに見むとは
     きみがよぶこゑにおどろきながめやる老てふ
     道のさてもさびしき
     君によりてまたかへりふむわかき道花はきのふの虹にして   柴舟生


せんぼん浜 13      せんぼん浜 14
  尾上柴舟        後列左より, 尾上 柴舟 与謝野 寛 金子 薫園 斉藤 茂吉 佐佐木 信網 久保 猪之吉


 山を登りながら師・柴舟生の面影が見えてきた。この師との出逢いあればこそ一廉の歌人となれた。

 初めて「新声」の選者をつとめる尾上柴舟を訪ねたのは牧水が二十歳のときだ。

 その柴舟から歌集「海の聲」を発表する際に序文を賜った。このとき師32歳であった。

 「君によりてまたかへりふむわかき道花はきのふの虹にして」とは・・・・・、

 いかにも気恥しい限りだ。歌の若き青きを思えば、こうした下支えの拍手を頂き今を永らえている。

 久しくもありて、有り難きかな。

 その師は現在、女子学習院の教授となられ、46歳となられた。

せんぼん浜 5
                香貫山から望む駿河湾の夕暮れ   

 香貫山の頂きに立ち若き日を想うと・・・・、

 駿河湾の西の遥か彼方には生まれ故郷日向の山河と尾鈴山が想われる。

 まず何よりも真っ先に母マキの老いて一人居の姿を起こしみる。父立蔵が他界して10年、心許ないマキの孤独が案じられた。

              せんぼん浜 16 尾鈴山

 北には愛鷹山の頂きを越えて日本一の富士山がある。

 その目出度さに肖りて、昨年4月に誕生した次男には「富士人」と命名した。長男の「旅人」も9歳となり長女「みさき」7歳、次女「真木子」4歳となった。我が子それぞれの名に、自身の歩みが刻まれているではないか。兎に角に、妻喜志子と二男二女の所帯六人の恙無きを一番に願い守らねばならない。裾野を広くした富士の勇姿が天晴れであるから、一家六人ともなればそろそろ借家暮らしを畳み、終の新天地を望むのであるが、ならばそこに大枚の銭がいる。富士に真向かうと牧水は熱くなった。

              せんぼん浜 17

 連なる沼津七山の頂きを一つ一つ押さえながら南に振り返ると、先年天城を越え湯ヶ島に旅をした伊豆の山並みが見える。以来、今年の春にはまた湯ヶ島に旅した。

せんぼん浜 20
                    西伊豆 戸田港

 昨年までに第十三歌集「くろ土」を発表し、この伊豆は第十四歌集に載せる歌を集める旅である。その名も「山桜の歌」と名付けようかとも密かに考えている。

 富士山の四方より良きも悪しきも牧水38歳に至るまでのあらゆる旅の道が偲ばれる。

 園田小枝子と二人で歩いた武蔵野もあれば千葉の海岸もある。

 山梨、長野への長い旅もした。

 喜志子と結婚し酒屋の二階から始めた新婚生活もある。

 宮城、岩手、青森など東北各地へ出かけては初めて馬なるモノにも乗った。

 父危篤の報を受け帰郷した折り、故郷にとどまるか東京に出て行くか、激しく苦悶させた故郷もある。

 比叡山の山寺に篭もり、さらに大阪、奈良、和歌山を経て熊野勝浦を巡る旅もした。

 己の峠に至て今想い起こせばその旅は様々である・・・。

 さすれば・・・・「今が人生の峠なのだ・・・今回の旅は人生を賭して踏む」。


 こうして牧水の新しい歯車は回りはじめた。

歯車 1 gif 

せんぼん浜 23
  千本松原
              せんぼん浜 6
                           駿河湾の夜明け

                   砂時計動く

      掛け時計     若山牧水 6

 旅立ちの夜明け前である。

 牧水は4時に目覚めた。

 起き出てみると、何も語らず、大の字になって眠り続ける子供らの姿があった。

 どうやら今日も恙無しということであろうか。

 喜志子だけが先に起きていた。

      人の世にたのしみ多し然れども酒なしにしてなにのたのしみ

 「男が酒を呑み続けることは、実はそう簡単なことじゃない」

 と、牧水が独り言で威張ると、

 昼の歌は詠う端から、さ~っと消え去っていくのでもあった。

 しかし・・・朝と夜の歌は違うのだ。旅の途上では違うのだ。

 これは歌一つで家禄を鷲掴みながら、日毎朝三四合、夜に一升以上、自腹で体験した男でしか分からない。


 沼津は東京からは遠からずあった。

 牧水がこの地を選んだのは、かって沼津から船で西伊豆の土肥温泉へ向かう途中で眺めた千本松原の偉大さに心惹かれたからだ。

 この時に胸を叩き心を突き揚げる「ベロ藍」という新たな色に目覚めた。

              動く青

 それは駿河の船上から見た富嶽の色だ。北斎の色使いである。あるいは版元永寿堂西村屋与八の色技である。

           せんぼん浜 24
                   二十一景 神奈川沖浪裏

 大正9年、一家を挙げて沼津へ移住してきた。

 転居先は、千本松原から半里ほど離れたところにある香貫山の麓の借家である。

 その疎らで小さな楊原村(やなぎはらむら)は、海岸へと続き、千本松原を持ち、富士山が見えた。

 牧水はこの千本松原を基点に旅をすることになる。

 しかし富嶽の色が次第に変化してきた。

 浮世絵「富嶽三十六景」は、各地から望む富士山の景観を描いている。それらは当初名前の通り、主版の36枚で終結する予定であったが、作品が人気を集めたため追加で10枚が発表され、計46枚になった。追加の10枚を「裏富士」と呼ぶ。

 牧水の眼差しは次第にその「裏富士」へと向かった。

せんぼん浜 25   せんぼん浜 26   せんぼん浜 27   せんぼん浜 28
37. 東海道金谷ノ不二    41. 甲州犬目峠     44. 信州諏訪湖     46. 身延川裏不二


冨嶽三十六景 +裏冨士10景


浮世絵・冨嶽四十六景 葛飾北斎


 「富嶽三十六景」は、葛飾北斎の代表作にして、浮世絵風景画の代表作である。「神奈川沖浪裏」や「凱風快晴」は、余りにも有名だ。この連作は天保初年ごろより、西村永寿堂から出版された。

                 せんぼん浜 30
                    北斎肖像 渓斎英泉画

 初め、題名の通り36図が出版される。しかし非常に好評であったため、後から10図が追加され、最終的に46図の連作となった。当初の36図を「表富士」、追加の10図を「裏富士」と呼ばれることになる。

 牧水はこの経緯を調べ直すことにした。

 そこで青い色彩が「ベロ藍」という青味であること知る。

 全図に富士山が描かれている。それまで浮世絵などに興味をそそられることなど無かったが、ひと度ベロ藍の青味に着眼してみると、46様それぞれの個性的な富士山の姿は、いつまでも見飽きることがなかった。

 またやがてそれらが「藍摺絵」と呼ばれるモノトーンの作品なども含まれ、当時としては様々な趣向を凝らした連作であることが分かった。

 当時から人々の間には、富士山に対する篤い信仰がある。富士山に集団で参拝する「富士講」が盛んに行われていた。そうしたことから富士山に見立てた築山「富士塚」が江戸の各地に作られいた。こうした社会的風潮の中で「富嶽三十六景」は生まれた。

 牧水が暮らし始めた沼津とは、富士一宮へと人々が向かう富士講宿の拠点地であった。

 そう思って香貫山に登る度に雄大な富嶽を眺めると、いつの時代も日本人の心の中にある富士山の姿である。またそれが山岳信仰というものであるが、その心を穿つかの「富嶽三十六景」とは、牧水の眼に、単なる風景画の域を超えて、日本人の心の風景を巧みに描き出してくれた。

 するとそこに十景を加えようとした、青味の描きようがまた美妙ではないか。

 富士を描き出そうとする北斎は、美妙なる地の絶景に座って居た。それが裏富嶽である。

 これは描こうとして北斎の陣取った選択地が絶妙である。

 北斎は裏み返して富士の魅力を引き出したことになる。それは芭蕉が旅にみせた「裏見の滝」と同じだ。

 「二十余丁、山を登って滝有り。岩頭の頂より飛流して百尺(はくせき)、千岩(せんがん)の碧潭(へきたん)に落つ。岩窟に身をひそめ入りて、滝の裏より見れば、うらみの滝と、申し伝え侍るなり」。

         暫時(しばらく)は 滝にこもるや 夏の初

                 せんぼん浜 29
                           奥の細道図

 「そうか・・・裏富嶽の歌・・・」

 身仕度を整えた牧水は、上がり框に腰を落とすと、踏み出そうとする三知土をじっと見据え、裏富嶽の美妙を写し終えると、今一度、草鞋の緒結びをキッと堅く締め上げた。

 「今回、五替え分で足りますでしょうか?」

 草鞋の数である。牧水の真後ろには旅の日数を思い計る喜志子が控えていた。

 「充分、充分。嵩張ると首から下げた草鞋が歩くことになる」

 牧水はエヘンと笑い返した。喜志子もプッと微笑んだ。


 沼津駅までは狩野川を渡って二丁ほどである。

 歌舞伎では幕間に狂言方が拍子木を少し間を置いてちょんちょんと二つ打つ。

 つまりその拍子木二つ分ほどの間で着く1.5Kmほどの距離にある。

 牧水の足なら10分で足りた。

 楊原神社を過ぎて浜道まで出ると、しじまな闇間を熊のように走る黒塗りのダイムラーと行き交う。

 皇室の御料車である。     くるま gif

       せんぼん浜 31

 牧水は走り去る間、ピタリと息と足を止めた。

 「・・・・・・・・・」!。

 日頃は滅多に車など走ることのない砂の上を滑るに等しい鄙びた浜の道である。走る車影があるとすれば、しかも夜も明けきれぬ刻限にとなると、それは九分九厘、御料車なのであった。

 咄嗟で眼もさほど利かぬ暗がりであったが、どうやらその黒塗りの厳つい車は、東宮を乗せた走りの気配ではなさそうにも見受けられた。

 「・・・・・・・・・」?。

 千本松原の南、駿河湾の最奥部に当たる沼津市島郷の海岸に面し、静かな松林に囲まれた一角に大きな邸宅が広がっている。天皇家の沼津御用邸である。

 この御用邸は皇太子嘉仁親王(大正天皇)の静養のため明治26年に造営された。牧水が暮らした当時、天皇ご静養の目的に連なるその御用邸とは、また東宮(後の昭和天皇)のご養育と密接であった。

    せんぼん浜 39         せんぼん浜 38
 (明治25年)皇太子嘉仁親王13歳    大正天皇陛下(大正5年・陸軍特別大演習に於ける大元帥)


 気に止めると、やはり穏やかを欠いた走行は妙に不自然であり、妙な具合を残してあとを曳く。

 常日頃は庶民とは無縁者のごとく香盒芳しくかつ清々粛々と緩やかに御車は進むのであるが、牧水の足元に冷やりと浜風を巻き立てた車は、さも暗闇を突き開くように慌ただしく走り去った。道は行くほどに先細りする。何やら不穏な気配すら感じさせた。

 「御用邸で何事か・・・・!」

 「東宮裕仁様が陛下に御成りあそばす日が近いのやも知れぬ・・・・」

 天皇は生涯の大半、心身衰弱のため政務をみることはほとんどなく、すでに昨年から裕仁様を摂政に立てていた。正式に皇太子となられたのは6年前だ。未だ二十歳の御年齢である。

 天皇は大正6年頃から、公務や心労が病の悪化に輪をかけ、公務を休むことが多くなり、大正8年になると食事をとることも勅語を読むこともできなくなるほど病状は悪化していた。

 そこで大正10年)11月25日、当時20歳だった皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)が摂政に就任することになる。これはすなわち大正天皇は事実上の退位となり、宮内省発表による『天皇陛下御容體書』によって病状は公にされる運びとなった。このため大正天皇は後々にも「病弱な天皇」として一般に認識されることになる。

 大正天皇はその後、日光・沼津・葉山と転地療養を続けていた。

 「やはり・・・・何事かがある!・・・」

 昨日、香貫山の頂きから御用邸の浜に奥まりて閑な佇みを眼に止めたばかりである。

 こういうことを牧水は辟易と跨ぎ通ることの出来ない男であった。

 牧水という名の「水の質」とでもいうのか、眼差せば一連の流れになって古き器へと落ちる。

 その水は流れ始めると、万葉の国にまで注がれるのである。

 牧水の眼は彼方の御用邸をそっと窺うことにより細く澄まされてきた。

 すると東宮、御用邸、東京皇居、京都、奈良と連なり、その奈良は万葉の国と連なってくるのだ。

       せんぼん浜 41
       沼津の御用邸で大正2~3年頃(左端が後の昭和天皇)

       せんぼん浜 22  せんぼん浜 21
         沼津御用邸図               学習院初等科時代の昭和天皇(大正4年)

せんぼん浜 36
               せんぼん浜 35
せんぼん浜 37

 牧水は詠う「 ときめきし古しのぶこの国のふるきうつはのくさぐさを見つ 」と。

 この歌の漢字と句点を補えば、「ときめきし、古(いにしえ)偲ぶ、この国の、古き器の、くさぐさを見つ」となる。
 ときめき、いにしえ、古い器たち、それらを作り育んできたこの国の、その風情を写し出した。これらそれぞれがよく渾然と牧水の前に光を集めて投げ出され、牧水がそれを芒洋として見つめている姿がよく浮かびくる歌となって仕上げられている。

 しかし、牧水はそれを誇りたいわけでもなく、見捨てたいわけでもない。それはただひたすらの「なつかしき国」であり、「落日の国」であり、また「寂しさのはてなむ国」なのである。

 またこれらの国を辿れば「万葉」のまほろばの国と重なりその奈良の都へと引き戻される。

 これらの心象の証として我が子長男の名を「若山旅人」とした。

 万葉の大伴旅人を手本として本歌取りのごとく引き出した命名が「旅人」なのであった。

                   せんぼん浜 32 大伴旅人

 大伴は、万葉集には76首の歌が載っている。その中に「酒を讃(ほ)むるの歌13首」というのがある。ここから牧水は一首引き出した。

 その一首が「 あな醜賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む 」であった。

 あ~あ、何と醜い。賢そうにして酒を飲まない人を、よくよくみたら、猿(さる)に似ているようだ。一見ありふれ酒呑みの歌のようにも思われるが、だが牧水はこれを哲人の歌とみた。

 以来、牧水はこの万葉の歌人に心酔する。そうしてこの男が牧水に切々と深酒を薦めた。

 やがて大酒を喰らい、幾山河を渡る旅の歌人・牧水を指南したその旅人とは・・・・・、

 山上億良が多感な老官人だったとすれば、大伴旅人には風流な大官という趣がある。

                  せんぼん浜 40

 旅人は名門大伴氏の嫡男として生まれ、父親同様大納言にまで上り詰めた。人麻呂や億良とは異なり、古代日本の貴族社会を体現した人物である。そのためか、大伴旅人の歌にはおおらかさと、風雅な情緒が溢れている。

 大伴氏は物部氏と並ぶ武門の名門であった。一時期蘇我氏に圧迫されて振るわなくなったが、壬申の乱での勲功があって、天武以降再び栄えていた。

 この武門の家に、どういうわけか教養のある人物が輩出した。旅人の妹坂上郎女は多情な女流歌人であったし、子の家持はいうまでもなく、万葉を代表する歌人である。旅人も若い頃から詩や和歌を作っていたらしいが、残念ながらそれらは散逸して残されていない。今に伝わる大伴旅人の作品は、大宰府の師であった老年以降のものばかりである。

 大宰府に赴任したとき、大伴旅人は既に60を過ぎていた。これは決して左遷ではなかったが、旅人にとっては意に沿わぬことであったらしい。老年を迎えていた旅人にとって、都を遠く離れた九州で暮らすことは、精神的にも体力的にもつらいことだったのであろう。

 だがここで、大伴旅人は山上億良や僧満誓らと出会う。その出会いは、日本の詩歌にとっては幸福なことであった。彼らは互いに刺激しあい、老年にしてなお文芸への情熱を奮い立たせながら、多くの佳作を作るに至るからである。

 そんな大伴旅人の作の中でもとりわけ名高いのは、酒を讃めた歌である。

 万葉集巻三に、億良、満誓の歌に挟まれたかたちで、十三首が並べられている。

 牧水はこの歌に出逢えた結果、脇に哲学の酒を抱え、山河をさ迷う旅人となった。

 その指南役を果たした歌に次ぎがあり、6つほど採る。

       賢しみと物言はむよは酒飲みて酔哭(ゑひなき)するし勝りたるらし

       言はむすべ為むすべ知らに極りて貴き物は酒にしあらし

       中々に人とあらずは酒壷(さかつぼ)に成りてしかも酒に染みなむ

       夜光る玉といふとも酒飲みて心を遣るに豈及(し)かめやも

       生まるれば遂にも死ぬるものにあれば今生なる間は楽しくを有らな

       黙然(もだ)居りて賢しらするは酒飲みて酔泣するになほ及かずけり


 いづれも佳作というべき、粒ぞろいの酒の群である。

            さる gif

 人麻呂の恋でもなく、赤人の自然でもなく、酒を詠んだこれらの歌は、万葉の世界の中に新しい息吹を持ち込んだ。広い意味では、述懐の歌といえようが、酒に寄せて人生の快楽を謳歌するような作品群は、旅人以前の万葉の歌にはなかったものである。ここに牧水は惚れ込んだ。

 中国には、すでに陶淵明という大詩人が、おおらかに酒を歌っていた。

 しかし教養深いことでは陶にも劣らない旅人であった。当然陶淵明の詩にも接していた。大伴旅人は、同じように酒を歌いながら、さらりとした感性のもたらすすがすがしさと、現世肯定のおおらかな生き方を感じさせた。そこがまた牧水を心酔させた。

 十三首の歌は、旅人自身によって念入りに配されたと思われる。旅人の酒とのかかわりを過不足なく歌い上げている。そう歌う旅人の洒脱な姿が、世紀を超えて牧水の胸によみがえってきた。

 酒は聖であるといい、古の七賢人も欲したといい、また言いようもなく尊いものであって、価なき玉や夜光る玉にも替えがたいものだと歌う。賢者ぶって生きているより、酒を飲んで酔泣きするほうがどれほどすばらしいことかわからない。賢者ぶって酒を飲まぬものをよくみれば、猿にそっくりではないか。さあさあ、酒を飲むべしというわけである。

 この猿のたとえは奇抜なものだ。これを読んで、牧水は明治・大正の反骨漢に成ろうとした。

                   せんぼん浜 33
                          万葉の酔仙 旅人

 今、その若山牧水がまた新たな旅の一歩を踏みだした。

 目指す彼方は独自の裏富嶽である。

 間もなく狩野川に差し掛かる牧水は、旅人の歌をふと思い返した。

       我が命も常にあらぬか昔見し象の小川を行きて見むため

 私の命も、いつまでもあってはくれないか。・・・・昔に見た象(きさ)の小川を見に行くために。

 これは大伴旅人が太宰府の長官として赴任している時に詠んだ歌である。旅人にしてこの歌は新たな赴任地を踏みしめて行く、その誓言であったろう。


万葉「大伴旅人」 わが命も・・・




 若き日のころより旅に明け暮れてきた牧水であるが・・・・、

 その旅が世間とは無縁であるはずがない。旅へのあこがれは、世間の風に吹かれることにより芽生え生まれてくる。またそうあるから詠え、歌が生まれる。よの苦境を知ればこそ牧水の歌は生まれた。

 牧水はことのほか世の趨勢には敏感であった。この敏感が牧水に歌を教えた。

 当世・・・・・、

 政治面においては普通選挙制度を求める普選運動や言論・集会・結社の自由に関しての運動、外交面においては生活に困窮した国民への負担が大きい海外派兵の停止を求めた運動、社会面においては男女平等、部落差別解放運動、団結権、ストライキ権などの獲得運動、文化面においては自由教育の獲得、大学の自治権獲得運動、美術団体の文部省支配からの独立など、様々な方面から様々な自主的集団による運動が展開された。

 5年前1917年(大正6年)のロシア革命に端を発して、寺内正毅内閣により1918年(大正7年)7月にシベリア出兵宣言が出されると、需要拡大を見込んだ商人による米の買占め、売惜しみが発生し米価格が急騰する。

 そのような中、富山県で発生した米問屋と住民の騒動は瞬く間に全国に広がり(米騒動)米問屋の打ち壊しや焼き討ちなどが2ヶ月間に渡り頻発した。

 戦争による格差の拡大、新聞社に対する言論の弾圧などの問題を孕んだこの騒動は9月21日、寺内内閣の総辞職をもって一応の収まりを見せ「平民宰相」と呼ばれた原敬による日本で初めての本格的な政党内閣が9月27日組織されるに至っている。

 こういう趨勢にあって牧水は最近「赤化」という言葉をよく耳にするようになった。

 駅へと向かい歩きながら歌をまた一つ思い起こした。

 一口に呑み込めはせぬが、最近気に止めた曲だ。

 5月の労働祭で大合唱された歌であるという。

 7月時分には日本共産党という政治結社が極秘のうち結成されたという噂も耳にした。

 「赤旗を守れメーデー労働者・・・・」

 この「赤旗」と「メーデー」という耳慣れぬ言葉が、新しい日本語として旗揚げしたことはどうやら事実のようだ。

 自身には手の届きそうにもないその歌詞の響かせ方に、いかなる者の手でこれが作詞され、作詞者はいかなる眼差しをしてこれを成したのか、そのいかなるモノに関心は少なからずあった。

労働祭歌「聞け万国の労働者


日本初の労働歌「聞け万国の労働者」。元は旧制第一高等学校(現:東京大学教養学部)の寮歌の替え歌で、作曲者は当時の在学生である栗林宇一が、寮歌・永井建子作曲「小楠公」を元にして編曲されたものと問題化されたが、後に遺族同士の協議で栗林作曲、ということで決着した。

 しかしこれが軍歌「歩兵の本領」と同じ曲というのも皮肉なものであった。

 赤化の「」はプロレタリア革命の旗色》共産主義思想や機構を認め、受け入れること。また、その思想に染まることをいう。


せんぼん浜 42
                    大正期の沼津概要図


                      月の移り影



 狩野川にかかる御成橋を渡り終えた牧水は、

 沼津駅へと右に曲がろうとして、また足をピタリと止めた。

 背中に絡みつく閑かさに・・・・、

 ひょいと今来た道を振りかえった。

 そうして御成橋を仰ぎみると、その3連アーチ式の鉄橋はいかにも新しく堂々とある。またその向こうにはようやく白々となった夜明けの中に香貫山の頂きが仄かにみえていた。

 手をそっと合わせてみたくもなる。

 「ふ~ッ、早いものだ。今年7つの、みさきは小学生。9つになる旅人はやがて中学に上がる」

 香貫山の頂きから目線を下げると、ぼんやりと沼津中学校の黒い甍が見える。そのおぼろげな甍の上にも、子供らの成長する姿は鮮明に描かれた。

 御成橋は東岸の浜に渡る「一の橋」である。

 歴史的にも明治45年7月に前身は木橋の「港橋」から沼津初の鉄橋となり、御用邸に向かう皇族方が「御成り」になったことで、いつしか「御成橋」と呼ばれるようになっていた。

 近年その御成りの橋の袂にラーメン屋が赤い看板を掲げて店を構えた。支那蕎麦ではなく同類であるにもかかわらず片仮名書きの「ラーメン」とし、その目敏い商いが人出を呼び込んで好評であるやに聞く。これもご時世であろう。

 牧水はふと三行詩を得手とする土岐哀果の顔を想い起こした。

 「T君とも・・・久しく会っていないが・・・」

 「T君」・・・・・!。

 牧水は何か閃き立って杖替わりに携えた傘の先尖りでコンと路面を打った。

 懐からサッと紙を引き出すと閃きの何やらを書き付けた。

 その牧水はもう一度ラーメン屋の看板を見据え直すと、コクりと頷いて微笑んだ。

 「これは・・・思わぬ拾い物をした・・・」

 そう思うと沼津駅は目前であった。


       夜の列車

       せんぼん浜 7 沼津駅前(昭和5年当時)

       せんぼん浜 43

 沼津停車場はよく御料列車の止まる駅逓であった。

 その御料車の気配はなさそうだ。だが駅前の往来はすでに賑わっていた。

 6時発東京行き上りの到着時刻までまだ30分ほどあった。

 待合の窓口は切符を買い求める人で混み合っていた。

 すでに切符を整えていた牧水は、一旦駅の外に出ると駅入口横にある植え込みの石に腰を落とした。

 見上げると朝初めし青空である。

 またその青味高くある空の向こうに今日も富士山が雄大であった。

 そうして腰を据えていると、

 同じ男が牧水の目の前を何度か通り過ぎては、また引き返し往復を繰り返した。

 男はまた、裾の短い黒いズボンをはいて、ゆっくりと通り過ぎる。

 牧水はついに軽く会釈した。

 通り過ぎようととして男がチラリと顔を見て微笑んだからだ。

 すると男は牧水に近寄るとストンと同じように腰を落とした。

 しかし何かを語りかけてくるわけでもない。

 静かに口笛を吹き始めた。只、それだけのことだ。

 何も語らないのだが、しかしその男は正しい音色を聴かせたと思う。

 そうしてその男が去って行く後ろ姿をみて、牧水は男の口笛に耳を澄ませてみることにした。

 最近の流行り歌である。牧水の耳奥に口笛の切なき音色が篭るように響いていた。

 以前にも何度か聞いたことがある。先日も聞いた。


 流浪の旅・・・


  (一)              (二)              (三)

 流れ流れて落ち行く先は       きのうは東今日は西と       思えば哀れ二八の春に
 北はシベリア南はジャバよ      流浪の旅はいつまで続く      親のみ胸を離れ来てより
 いずこの土地を墓所と定め      果てなき海の沖の中なる      過ぎ来し方を思いて我は
 いずこの土地の土と終わらん     島にても良し永住の地欲し     遠き故郷のみ空ぞ恋し



流浪の旅


流浪の旅は大正10~11年に流行。大正8年に作詞:宮島郁芳 作曲:後藤紫雲


流浪の旅(誤編曲


歌:鶴田浩二のカバー

 牧水はこの歌をアジアを股に掛けて放浪する気宇壮大な国士の歌であるなどというトンデモない解釈をしている日本人が居たのには呆れてしまった。

 この歌は「唐ゆきさん」の悲哀を詠った歌である。本来、戦時とは無関係の詩歌なのだ。

 三番の歌詞の「二八」とは二+八で数え十歳のこと。あるいは二と八を掛け合わせて十六歳とするか、いすれにしても10~16歳の年齢で戦場に赴くはずがない。

「お月さんいくつ十三七つ」と同類の表現である。

 つまりこの歌の主人公は僅か数え十歳、小学校三、四年生相当の幼さで海外の売春宿に売られたと告白している。

 もちろん数え十歳で売春が出来る訳は無く、初めは小間使いとして使われたのだろう。

 貧しい家の娘が幼い身で親の家計を助けるために身売りされて行く…そんな悲惨な現実を歌ったこの歌が国士の歌と解釈されていようとは作者も地団駄を踏み激怒することだろう。

 「宮島郁芳・・・・・」

 そう思うと牧水は同業の者として一抹の憂いを覚えた。浅草の地も思い起こされる。

 しかしあの見知らぬ男の口笛により救われし喜びも得た。郁芳の憂いも晴れ晴れと思えた。


            SL gif

 こうして牧水は午前6時、沼津駅から旅立った。

 機関車は難関の箱根峠を大き回避させた北越えのレールを走り、御殿場までの急勾配を上り詰めながら乗客の列車を牽引することになる。

 昭和9年に丹那トンネルを経由する熱海~沼津間が開通する以前の大正期における東海道線は、箱根の北の御殿場駅を経由して東西が結ばれていた。しかしこの経路には25‰(パーミル)という急勾配があった。

 そのためこの勾配を越えられる機関車に沼津駅で付け替えを行い、さらに両数が多い場合は補助機関車を列車後部に追加連結する必要があったため、沼津駅に上り列車は必ず停車した。
 なお東京方面からの下り列車は、国府津駅で補助機関車を連結した後、普通列車を除いて御殿場駅構内を通過する時に機関車を走行解放していたため、停車を必要としなかった。

 ともかくも下土狩駅から裾野駅まで上り10‰勾配、裾野駅から御殿場駅まで上り25‰勾配になる。

 牧水がこの列車に乗った当時、旅客車輌も含め貫通制動が存在しない時代は機関士にとって制動失効に拠る速度超過は時に危険を伴った。

 必ずしも当時の鉄道車輌は貫通型制動が設置されていなかった為に列車全体に制動が行渡る訳ではない。制動失効に拠る暴走事故は絶えなかった。

 特にこの沼津駅~国府津駅間を結ぶ御殿場ルートは、常に事故の危険と隣り合せの区間であった。

 東京駅では村松道弥、門林兵治の二人が牧水の到着を待っている。

 列車はやがて急勾配に差し掛かろうとする、

 牧水はその車窓から左手に望める冠雪の富士山の勇姿をじっと見続けていた。



 ・・・・続きは第⑨話にて・・・

                                白秋の彼岸より・・・By 漱太郎


千本浜と富士山・・・沼津




バスのアニメ
北原白秋・若山牧水・石川啄木に関する書籍をお探しの皆様は
         快適な下記サイト検索がお薦め!!。

窓のぞきF
書籍選びの快適検索サイトなら下記の「新書・文庫本マニア」!!・・・新システム書籍専用サイト!!ライン黄色 gif

クリック・ボタン gif   新書・文庫本マニア   動く本

ライン黄色 gif


スポンサーサイト

本線夜行列車九段駅  駅長の本音・・・ 『北原白秋』 ⑦

ウエルカム gif
夜の列車
ライン黄色 gif
本線夜行列車九段駅・・・・・・・・・・・駅長の本音

                北原白秋 ⑦』 特集

     あかい鳥 1

                    赤い鳥

 1918年(大正7年)7月に鈴木三重吉の提唱により童話童謡雑誌『赤い鳥』が創刊さた。

 これに当時の(現在も)著名な作家が集って始まったのが<赤い鳥運動>である。

 子供達に良質な童話・童謡を提供しようというものだ。

        あかい鳥 2
                      創刊号の表紙

 鈴木三重吉の目から見て低級で愚かな政府が主導する唱歌や説話に対し、子供の純性を育むための話・歌を創作し世に広める一大運動を宣言し『赤い鳥』を発刊する。

 創刊号には芥川龍之介、有島武郎、泉鏡花、北原白秋、高浜虚子、徳田秋声らが賛同の意を表明した。

 表紙絵は清水良雄が描いた。

 その後菊池寛、西條八十、谷崎潤一郎、三木露風らが作品を寄稿する。

あかい鳥 4          あかい鳥 6
       赤い鳥13巻2号                       鈴木三重吉

 これは大正ロマン、大正デモクラシーと呼ばれる頃の鷹揚な時代雰囲気の中で生まれた運動で、小さな子供にも大人の目が向けられ、童謡もその時代を反映した優れたものが数多く生まれた。

あかい鳥 7
「和辻哲郎文庫」資料より・・・・同じ夏目漱石門下の鈴木三重吉が和辻哲郎贈った『赤い鳥』の合本32冊の一部。和辻は東京帝国大学哲学科在学中に谷崎潤一郎らと第二次「新思潮」を創刊するなど文学活動をしている。和辻の文章が文学的味わいのある名文といわれるのはそのためだろう。


 その児童雑誌『赤い鳥』の中心人物として筆を揮ったのが北原白秋であった。

                       あかい鳥 8 白秋

 北原白秋はこの『赤い鳥』において自作の童謡の発表を行いながら、寄せられる投稿作品の選者として重要な役割を果たしている。

 7月の創刊号に多くの雨情の詩が発表され、7月創刊と同時に弘田龍太郎の作曲で「りすりす小栗鼠」8月に同じく弘田龍太郎作曲の「雨」、そして9月に成田為三作曲で「赤い鳥小鳥」が発表された。

 その『赤い鳥小鳥』は・・・・・

 まさに雑誌『赤い鳥』の申し子のような歌である。

あかい鳥 9     あかい鳥 10       あかい鳥 11
    弘田龍太郎             成田為三              野口雨情

 この頃の詩はほとんど弘田龍太郎と成田為三が作曲をしている。「赤い鳥は赤い実を食べたから赤くなった」という実にあどけない子供の夢をそのまま表現していて、赤い鳥運動を象徴する童謡となった。翌1919年(大正8年)には児童雑誌『金の船』が創刊され、その編集長を野口雨情が担当する。

 当初は鈴木三重吉も童謡担当の北原白秋も、童謡に旋律を付けることは考えていなかったが、5月号の楽譜掲載は大きな反響を呼び、音楽運動としての様相を見せるようになった。

 それまでの唱歌と違い、芸術的な香気が高い詩、また音楽的にも従来の唱歌と違い、単純な有節形式でない唱歌と異なる音楽に人々は衝撃を受け大評判となる。

 以後、毎号、歌としての童謡を掲載。この後、多くの童謡雑誌が出版されたことで、大人の作った子供のための芸術的な歌としての童謡普及運動、あるいはこれを含んだ児童文学運動は一大潮流となっていった。

 1984年に日本童謡協会は『赤い鳥』が創刊された7月1日を「童謡の日」と定めた。

        あかい鳥 3
                  小鳥F2
  () あかいとりことり   () しろいとりことり   () あおいとりことり

      なぜなぜあかい        なぜなぜしろい        なぜなぜあおい

      あかいみをたべた       しろいみをたべた       あおいみをたべた

   

赤い鳥小鳥


童謡 赤い鳥小鳥 作詞:北原白秋 作曲:成田為三


あかい鳥 12

 さて・・・9月22日は彼岸の中日

 この中日の前後・・日本列島はお墓参りの七日間となる。

 国民挙げての祝日ではないが、

 ここは身勝手に一つ国旗掲揚としよう。万魂の彼岸その靖きために・・・・・


                  日本の国旗



 それでは・・・『秋彼岸』と題いて回文短歌なるものを一つ。

 まわしぶみ短歌・・・

 とろここう
   あきひがんしが
        はむよわは
           よむはかじんか
                ひきあうこころと


                                     詠み人知らず


 この回文短歌は「吐露孤高 秋彼岸死が 食む夜半は 詠むは歌人か 引き合う心と」回し読む。

 つまりこの短歌は・・・ひと度回し始めると→(とろここう→あきひがんしが→はむよわは→よむはかじんか→ひきあうこころと→)・・・と永遠に読み廻ることになる。季語は秋彼岸である。

 その内容は・・・さる高貴な死にかけの孤独な人が、ついに悟りをひらいて短歌を詠んだシーンなのである。

 死際の歌とは・・つまり辞世ではないか。その辞世を永遠に廻らすとは・・・否、とんでもない。

 されど豪傑・豪快である。参った・・・漱太郎もいずれこんな感じで死にそうか。

     蚊取り線香回転


あかい鳥 13   動く地蔵
          北原白秋の墓碑 多磨霊園

 白秋先生は金持ちの御曹司だったが、貧乏のどん底を味わい、結婚、離婚を繰り返し、仕上げに3度目の正直をやっている。晩年名声を得たが、糖尿病に苦しみながら逝ってしまった。人生は山あり谷ありである。 

 天真院独歩日哲居士

(1885~1942)昭和17年11月2日没 享年57 (本名)北原隆吉


                                    南無讃果森羅万象 合掌

あかい鳥 14  あかい鳥 15
      北原白秋の墓がある多磨霊園(東京都府中市)

             あかい鳥 16

                  北原白秋 「思ひ出」より

  
                       曼珠沙華



                  GONSHAN. GONSHAN. 何処へゆく。
 
                  赤い御墓の曼珠沙華、
 
                  曼珠沙華、
 
                  けふも手折りに来たわいな。

               
                  GONSHAN. GONSHAN. 何本か。
 
                  地には七本、血のやうに、
 
                  血のやうに、
              
                  ちやうど、あの児の年の数。

 
                  GONSHAN. GONSHAN. 気をつけな。
  
                  ひとつ摘んでも、日は真昼、
 
                  日は真昼、
 
                  ひとつあとからまたひらく。

     
                  GONSHAN. GONSHAN. 何故泣くろ。
 
                  何時まで取っても、曼珠沙華、
 
                  曼珠沙華、
 
                  恐や赤しや、まだ七つ。




曼珠沙華 鮫島有美子




 北原白秋の「曼珠沙華(ひがんばな)」という詩の解釈について、詩歌の行間を噛み砕かないと見ようとも見えない白秋が只そこにいるだけとなる。

 そうすると読み手聞き手の想像という身勝手な誤謬のままに白秋の真意は葬られてしまう。

 じつは・・・この点についてオペラ歌手・鮫島有美子とは良く語りあった。

 随分以前のことであるが、少し当時の相互の語らいを述べて、それを一つの解釈としておきたい。

 彼女は下記内容を踏まえて白秋の行間をも創出させようとしているのであるから・・・・・・・。

 まず最初に押さえねばならない白秋の短歌が一つある。

 白秋自身が俊子という人妻と不倫し「語らふ隙もみどり児は声を立てつつ」という詩の断片を遺している。これは断片ではあるが、曼珠沙華の片鱗を最低限形成する要素となる。

 俊子は乳飲子を抱えて密通出来る位大胆な女性だったので、それもありかな(白秋の方は別れた後も乳飲み子の悪夢に悩まされた)、と考えさせられる。この視点が重要となろう。

 すると押さえねばならないことは、歌詞にある「ちやうど、あの児の年の数」という児の年齢だ。

 でも七つ・・・未だ七つ・・・と児の歳を数えなら七つだろうと泣く白秋自身がそこにいる。

 ゴンシャンを「良家の娘」だと普通に解釈したのでは、白秋の悪戯な痛みにはより異常の深堀がある。

 そこは素直なゴンシャンと違い母性も後悔の色もなく逃げた俊子という女の浅ましさを責めた歌であることを白秋は潜ませている。これは彼の密かな告白である。

 そう解釈すると、そうだったのかな、と思わせて読み手は「私も堕落説を取らねばならない」と向き直る。

 白秋の旋律には、そう向き直らせる工夫がある。しかし白秋はそこを裡深く伏せる。

             あかい鳥 28
               歌集『思ひ出』北原白秋 近代文学館 復刻版

 『思ひ出』は白秋の第二詩集として、1911(明治44)年に東雲堂書店より刊行された。装幀を著者自ら手がけた白秋26歳の時の作品である。上記は初版をそのまま再現した復刻版。

 (「わが生ひたち」より)辿れば・・・この作品を刊行した当時は、白秋にとっておそらく人生で最も波乱に満ちた年月だったと推測される。

 九州は福岡・柳河から上京して7年、第一詩集『邪宗門』によって一躍注目を集め、私生活では隣家の人妻・松下俊子との恋愛に苦しみ、裕福だった実家の造り酒屋が破産、没落を味わうことになる。

 そのなかで白秋は、「故郷と幼年時代の自分とに潔く訣別しようと」(「わが生ひたち」)、『思ひ出』というタイトルのもとに詩集を編んだの。この歌集をひもとく文章からも、この作品への白秋の気合いと思い入れの強さがうかがえ知れる。そうして全歌を絡み合わせた中に、曼珠沙華の詩歌に白秋が潜め伏せた赤い糸の核心に触れることができる。

 そうして白秋はよほどに当歌集に深き思い入れで出版に臨んだかが次ぎの肉筆の語られ方から発見することができる。その白秋は「こうしてこの小さな抒情小曲集も、今はただ家を失ったわが肉親にたった一つの贈物をしたい為めに、表紙にも思い出の深い骨牌の女王を用い、絵には全く無経験な癖に、首の赤い蛍や生膽取やJohnやGonshanの漫画まで挿んで見た、こうして心ゆくまで自分の思いを懐かしみたいと思って、拙いながら自分の意匠通りに装幀して、漸くこの五月に上梓することとなった」という。



 当時、鮫島有美子はこの曲を歌うにあたって次ぎの言葉を漱太郎に投げ掛けた。

 ・・・亡くなったのは
 7歳の児なのでしょうか?

 ・・・堕胎してしまい
 7年経つという意味ですか?

 正式に結婚している母親が
 7歳の子供を失い
 泣き崩れているという説と、

 良家の娘が人知れず妊娠し、
 人知れず我が児を堕胎し、
 発狂し、7年経ってもまださまよっているという
 説があるようです。


 山田耕作がつけた曲の感じからは
 幾度も下向きにヴィヴラートがかかり
 発狂しているような感じを受けますし、

 詩には母親のゴンシャンばかり、
 父親らしき人間の影はありません。

 声楽でこの歌をソロで歌うことになり、
 後者の解釈で読んできたのですが、

 それにしては、7歳って、大きい・・・ここをどう読み解きますか?・・・・と、

 そこで漱太郎は・・・・・・

「私も堕胎の方の説をとります」・・・「私が取るというよりも、むしろそこは白秋の願いにも思える」。

「そもそも曼珠沙華は昔から堕胎の薬とされてきた。根にも茎にも華にも毒がある。こうした取り扱いにはそこそこの地域で違いあるのですが、こと白秋の生まれ故郷・柳川近郊にはある種独特の彼岸花観がある。それをみると長崎のそれではなく、根源は長崎経由にしろ、柳川堀端の伝承は忌みなる花とみなされる。過言すればそれは死の花である。つまり堕落・奈落の花観が根強い地域。これは白秋とより密接でしょうね・・・」。

 これは白秋の「晴(はれ)」と「褻(け)」の分別に通じる。

 白秋の「彼岸花観」を捉えねばならない。白秋ならではの観念で構成されている。

 当然、『晴れ』の日と『褻』の日は、心構えも身なりも異なる準備をする。

 したがって白秋は「曼珠沙華」を詩で紡ぐ上でどう心構えたかが問題となる。

「・・・そこから推察すると・・・女の愚かさと、そういう人間のあさましさとは隔絶して凛と咲く赤い曼珠沙華の存在感とを白秋は対比させた詩ですね。人間が愚かさと欲望の果てに、あさましい目的で近づいて手折っても、曼珠沙華は凛と、ただそこに咲くのだと。そんな真意を白秋は行間に挿して、そしてその姿に人間は泣くのだと。・・・こういう解釈を読者に求めたい、とする白秋を感じる」・・・・。

 しかし白秋はその「褻」は当然伏せることにする。そこが白秋の「心髄」である。


 すると鮫島有美子は・・・・・

 「そうですね、女性を責めながら、己自身を責めているというのは素晴らしい慧眼ですね」

 「自分自身だから、ここに出てくる女性は現実感を感じないと。・・・その解釈には賛成です」

 「歌詞と作曲を重ねると、やけにリアルに感じるのは、そこが白秋の曼珠沙華なんですね。それはきっと白秋自身の罪の象徴なんでしょうね」

 それが白秋の「恐や赤しや、まだ七つ」・・・・・。

 そうして鮫島有美子は深い溜息をついた。

 この溜息が彼女の「曼珠沙華」の原点であろう。

 その鮫島は・・・その後・・・幾度か初秋の柳川へと足を運ばせた。

 そうなのだから・・・彼女の歌声には・・・迫真の白秋が現れて近づいてくる。

 鮫島有美子とは「恐や『赤し』や、まだ七つ」の白秋の血色を能(よく)我が声に篭らせた稀有なる声楽家なのである。

                    あかい鳥 27
                     鮫島有美子 当時


              鮫島は現在も尚この曼珠沙華を歌い続けている。

               彼女のその姿もまた詩歌への旅人であろう。

                   旅人は常に青空を見た。

               晴れであれ、雨であれ、風であれ空をみる。

               いずれの旅人も空に翼が欲しいのである。

                白秋がそうであったように・・・・

             たとえ翼が折れようとも自身の翼が欲しいのである。

               だから旅人へ「翼をください」・・・・・・

            小鳥F1
                         にわとりF
Wings to Fly ~ 翼をください


♪ スーザン・ボイル(Susan Boyle)翼をください・日本版ボーナストラック「Wings to Fly」。
                                       英訳詞 By 漱太郎

                     鳥F




            小説 大正蓄音機『赤い鳥

                  副題・・・パンの会青春協奏曲

                  大正期編・・・第32話

                  暮坂峠

                  あかい鳥 18

  あかい鳥 19

                          あかい鳥 45

 大正蓄音機『赤い鳥』大正期編・第32話「暮坂峠

                    ふくろうF
 ) ミミズクと落葉松



 まもなく夜明け前の白闇となろうか。

 「さて・・・・・」

 と、そう勝手に決め込んで、ふらりとやって来ては玄関を叩こうとする男がいた。

 風来坊の目の前に「みみずくの家」はある。

 ミミズクは表札を掲げないから、目印とするものは榧(かや)の巨木なのである。

 ミミズクにとってこの榧の木が棲家のようなものだ。

 きっとそうミミズクは思っている。

        あかい鳥 42    あかい鳥 43

 榧の実は花の咲いた翌年の秋に紫褐色に熟するのだが、秋の彼岸を過ぎたあたりからこの巨木のその実は赤々となってきた。

 こうした人間には到底成し得ない規則正しく狂いもなく命の種を何の気負いも見せつけず淡々と循環し続ける榧の木の佇まいをミミズクは好んだ。

 星降る夜空にはその赤実の揺らぎが金沙・真砂の風のごとく美しい。また晩秋ともなれば散り落ちて転がる此の実が褐色に朽ち果てる侘しい趣きは殊更であろう。

 その古老の巨樹の実の上を、

 みあげると仄かに白き空の高みには下弦の月が細い反りをみせてポツリとあった。

 密かでそのささやかな貧しい光のせいもあり未だ界隈は深い眠りに包まれていた。

 普通、これを世間では未明という。いままだき暗闇でしかない。

 しかし、どうにもこの風来坊の男は人並みの時計とうものを持ち合わせてなさそうだ。

 いかにもこの風来坊の素行は怪しくも可笑しかった。

                      踊る人


 都内では「泥棒除けには犬を飼いなさい」としきりに警告しているが、ここは小田原である。その小田原ならやはり提灯であろう。昔、小田原では猿の籠掻きですら提灯を持っていた。

お猿のかごや


作詞:山上武夫 作曲:海沼実


 小田原提灯は、大雄山最乗寺の神木を材料に使い、狐狸妖怪に対して魔除けになると宣伝した。

 これを職人・甚左衛門の技が編み出した。・・・・・という提灯のお話しに気を逸らされていると・・・、

 ミミズクの部屋には小さな灯りがあった。

 何と、ミミズクさんは夜更しなのである。

 どやらこの風来坊はこのことを予見していたようだ。

 「やはり・・・そうでしたか。根気ですなぁ~・・・」

 ミミズクは仕事していた。未明のお仕事!・・・だから木菟(みみずく)なのである。

 生憎・・・ミミズクさんの妻と長男は二日ほど実家に所用があって不在だった。

 「そんなことはすでに承知の上のことだ」

 と、風来坊は融通の利かないミミズクを常々そう思う。

 誰かれなく当面「只今、妻子ともに所用にて二日ほど不在」にしてやって仕舞う。

 一々面倒なのは判るが、つまり此処はミミズクの書斎なのだ。

あかい鳥 68
  伝肇寺の境内にあった北原白秋邸。

 関東大震災の被害で母屋の洋館は半壊、傾いたまま。左の建物が「木兎の家」。正面の長椅子に坐るのが白秋一家。白秋の右側が千葉満定住職。撮影1929年(昭和4年)。



 以前、このミミズクは小笠原の孤島から飛来してきた。

 近年までミミズクはこの近郊の「お花畑」に住んでいた。

 そこからひょいと昨年、所帯を新しくした。

 お見合いをして一番(ひとつがい)になったのだ。

 また今年の3月には一羽のひなも生まれていた。         伝肇寺(でんじょうじ)山荘
                                あかい鳥 41
                                『みみずくの家』跡碑

 「何だい・・・差し入れは君の仕事かい。詰まらん」

 ミミズクは空腹の余り不機嫌であったのだ。

 妻子は昨日から不在(ここは表向きの建前)、そこに極まる早朝の来客とあっては不愉快千万であった。

 しかも・・・この無礼極まる客人のたっての所望でミミズクは蓄音機を鳴らすことになる。

 出会い頭、何やらお互いが一抹の騒動を予感した。

                      掛け時計

 そうして一時間ほど過ぎただろうか。

 客人もそうした白秋の不機嫌な間合いにどうやら調整のしずらい嫌な不具合を感じてきた。

 しかしこの客人は穏やかな風体の割りには、なかなかどうして長けた押しの強さがある。

 やや瓜実顔のポ~ッとした普段が和服姿でふらふらとした調子をみせる男なのだ。白秋とはタイプが真逆なのであるから、この男には白秋は日頃より苦手意識があった。

                    あかい鳥 46

 さすがに互いが息詰まる。そこを素知らぬ顔で客人は話題を変えた。

 「ようやく新装開店となりましたよ!」

 と、やや語尾を強く跳ねて言った。そう言い終えて、特段意味を含ませた言葉ではない、そう思う雨情がそこにいた。白秋と同業の野口雨情である。

 こういう会話の切り返し方が薄らチョボ髭の雨情らしくともいえる常套手段なのであった。

 「なにが、かね?・・・」

 「例のバーですよ。ほらあのボロい神谷の・・・電気ブラン・・・」

 浅草松屋デパートの向かいにある神谷バーが、新ビルになったのが大正11年のことであった。

あかい鳥 49 あかい鳥 50 あかい鳥 51
    (明治13年創業)       新ビル完成当時の神谷バー        電気ブラン         


 浅草の神谷バーは日本初のカクテル・バーである。

 この店にに電気ブランと名付けられたカクテルが登場して、およそ43年の歳月が流れてた。その間、電気ブランなるモノは、浅草の移り変わりを、東京の世の中の移り変わりをじっと見続けてきた。

 ある時は店の片隅で、またある時は手のひらのなかで・・・・・。

 電気というものが未だめずらしい明治の頃、目新しいものというと「電気OOO」などと呼ばれ、舶来のハイカラ品と人々の関心を集めてきた。

 電気ブランとはたいそう強い酒だ。アルコール度数45度もあった。

 このグィと呑み込んだ喉越しの痺れがまた電気の漏電とイメージが重なって、その名が大衆の明治観にピタリと収まった。

 電気ブランの「ブラン」とは、カクテルのベースになっているブランデーのブランである。その他にジン、ワインキュラソー、薬草などがブレンドされていた。しかもその分量比率が秘伝という風聞も功を奏して大正デモクラシーを象徴するモダンな一品として大好評を博した。

 あたたかみのある琥珀色、ほんのりとした甘味が当時からたいへんな人気であった。

 大正時代になると、浅草六区(ロック)で活動写真を見終わるとその興奮を胸に一杯八銭の電気ブランを一杯、二杯。それが庶民にとっては最高の楽しみともなった。


 「で君・・・神谷に行ったのかね!」

 「ええ、昨日・・、萩原君と。正確にはもう一人萩原君の連れがいて、まだ若いですが、これが、なかなかの詩才でして、よろしかったら今度一度お会い願いたい」

 「萩原の連れ・・・一体どんな感じだい・・・使えそうかね」

 「勿論・・・使えますとも・・・しかし萩原君に似たのか、やや神経質ではありますがね」

 萩原朔太郎は1913年(大正2年)に北原白秋の雑誌『朱欒』に初めて「みちゆき」ほか五編の詩を発表した。彼が詩人として出発するのはここからであった。そこで室生犀星と知り合っている。室生とは生涯の友となる。白秋はその関係をつないだ。

 「・・・・・・?!・・」・・・

 「・・・それで・・・新しいビルを建てたという神谷バーの方はどうだ」                    

 「結構モダンな雰囲気でした。それはそうでしょうとも、明治初期から一杯売りの酒屋として繁盛してきた店ですからね。調度品も相当な大枚モノでして、女給がピンの絶品ですよ。・・・・・只、例の電気ブランが七銭から一銭値上げされて八銭となりましたがねッ。」

 「ああ、それから、萩原がこんな歌を即興で披露しましたよ」

       一人にて酒をのみ居れる憐(あは)れなる となりの男になにを思ふらん

                              (神谷バァにて) 萩原朔太郎
                    あかい鳥 65
                     朔太郎
 雨情は朔太郎と逢えたことが嬉しそうだ。

 しかしそうだとも言えない。

 どうも朔太郎を出汁にして白秋を出し抜こうかとする気配も感じとれる。

 白秋はそれらを聞いて、感じ取って、少し憮然とした。

 じつは、この年の5月1日に日本最初のメーデーが横浜公園で開催されていた。翌日には上野公園でも開催されたのであるが、主催者側はこれを「労働祭」と伝えていた。

 白秋はこの日、横浜の南京街に用があった。

 その横浜の会場付近を通る折りに、雨情の姿を見かけたのだ。

 そのことが妙に気掛かりであった。           第一回労働祭 
                  あかい鳥 20

 社会主義詩人として出発していた野口雨情である。

 その後、札幌市の新聞社に勤めていたときに、同僚の鈴木志郎やその妻のかよと親交を深め、「かよの娘のきみが宣教師に連れられて渡米した」という話を聞かされ、乳飲み子の長女のぶ(きみには異父妹)を抱えて、鈴木夫妻は開拓生活に挫折していたのだということも聞いている。

 8年も前の話で、その間沈着したかに思っていた。

 それがどうしたことか、つい最近、横浜の労働祭で見かけた。

 見かけたのだから致し方ない。日頃から眼をかけてきたから少々腹が立つ。

 「ふ~っ」・・・と、白秋は訝しくした眼を窓の方に逸らした。
 
 そうして、ふと気づくと蓄音機の音が止まっている。

 盤上では先程まで、雨情の作詞した『赤い靴』の曲がかけてあった。


           赤い靴(くつ) はいてた 女の子

           異人(いじん)さんに つれられて 行っちゃった

           横浜の 埠頭(はとば)から 汽船(ふね)に乗って

           異人さんに つれられて 行っちゃった

           今では 青い目に なっちゃって

           異人さんの お国に いるんだろう

           赤い靴 見るたび 考える

           異人さんに 逢(あ)うたび 考える

                                 長靴赤

 しかしこの雨情が作詞した、小さな女の子が外国人に連れられて行ったというこのミステリアスな童謡は、じっに白秋の胸にピタリと密着した。

 早朝にも関わらず雨情が北原の家を訪ねたのは、白秋にこの曲を試聴して欲しかったからだ。

 
童謡「赤い靴      あかい鳥 21


1922年(大正11年)、野口雨情作詞・本居長世作曲


 この童謡のもともとは雨情の不遇時代、ある北海道開拓民と知り合ったことが作詞の発端とされている。

 雨情が語るには、 それは、以下のようなことだった。

 雨情は童謡作家として名をなす前は北海道にいた。

 同地の北鳴新報に勤めていた時、彼は鈴木志郎なる人物と声をかわすようになる。鈴木は、北海道の開墾地へ働きに来たものの失敗、そののち北鳴新報に職を得た人物だった。
 
 その鈴木には妻がいた。その妻(岩崎かよ)は再婚で、鈴木と結婚する時、彼女は前夫との間に生まれた子ども「岩崎きみ」を、アメリカ人宣教師チャールズ・ヒューエット夫妻の養女にしたという。

 岩崎きみは、明治35年に静岡で生まれている。宣教師にもらわれたのはきみが3歳の時だった。

 それほどに開墾地での生活は苦しかったのである。

 開墾をあきらめた鈴木志郎夫妻が札幌に出たのは明治40年のことだった。

 この時、夫妻の前に現われたのが野口雨情だった(鈴木は明治41年には小樽日報で石川啄木と出会ってもいる)。生きるためとはいえ娘を手放した夫妻の事情は、その出会いの直後、生後7日で娘を失うことになる。

 こうした身につまされる事情は雨情自身の悲しみと絡み合い、そうして「赤い靴」の歌詞が生まれた。

 「悲し過ぎ、切な過ぎ過ぎるほど痛々しい非情な話だが、堪えて雨情はこれをモノにした」

 そう思う白秋は・・・・・・

 さりげなく椅子からふんわりと腰を上げると、

 また蓄音機に針を落とした。

 赤い靴 見るたび 考える ・・・・

 「じつに絶妙のバランスで仕上がっている。曲調が黒子役で詩の起伏を引き立てる」
 
 と、沁み入り思う白秋は、しばし睡るようにして赤い靴音に耳を傾けた。

 そうして眼を閉じていると、次第に自身の年齢が気になって来る。

 妙に込み上げてきた。これはもしや一抹の不安かも知れない。

 時代は早、雨情の時代へと移行しつつある。

 白秋の指先は微かに振るえた。

 白秋37歳である。また雨情は3歳ほど若い。

 歳下ではあるが、互いにもう30を越した。


 この年【婦人之友】という雑誌が女中に変わる言葉を募集して選ばれたのが【お手伝い】という言葉だそうだ。そんなことを新聞で知らされたのは半年前のことであるのに、今ではもうその【お手伝い】という言葉がすっかり浸透しているではないか。

 時代の流れとは速いものだ。これなら女性が働くことも益々増えてきそうだ。

 そして今年はまた【メートル法】なるものが定められた年でもあった。

 「おい・・・雨情君!・・・君、この椅子の高さ・・・いかほどかわかるかい」

 「えっ、椅子の高さ・・は~・・・七、八寸というところでしょうか!」

 ふぃに何事かと雨情は目を丸めて、でもシャキりと細目にして目尺を当てた。

 するとそれを聞いた白秋は途端に手をだらりといて奇妙に微笑んだ。

 確かに尺貫法からメートル法に変わったが、雨情には、まだまだメートル法が流通していないようだ。

 「やはり、此奴も、それぐらいの男か。なるほど・・・」

 白秋はそれでやや気色がほぐれた。

 「雨情君・・・そろそろ伯父さんの古い【ものさし】等は、捨てないと駄目だね」

 と言うと、白秋は雨情を上目に舐めるようにみて、ニヤリと微笑んだ。

 「ふむ~う。今日の白秋さんは、やけに刺々しいぞ」・・・「そろそろ退散するか」

 するとフィを突かれてはやはり退散できない際切れの悪い雨情がいて、素知らぬ顔で仕返しに問うた。

 「ゆりかごの歌、赤い靴、赤とんぼ、てるてるぼうず、七つの子、どんぐりころころ」と歌の題を並べて、

 「これが何だか解りますよね!」と目尻を軽く上げた。

 「それが何かって・・・童謡だろう。あるいは歌だろう・・・よ」
 と言いかけて、自身の歯切れの悪さに白秋はハッとし、ドキリとした。

 浅はかな物言いは微妙な醜態の揺れとなる。

 それを見透かしたようにして雨情は微笑みを返した。

 雨情がいとも簡単に並べて言うた六つの歌は現在人気沸騰の童謡である。

 「ゆりかごの歌」は 作詞:北原白秋 作曲:草川 信、「赤い靴」は作詞:野口雨情・作曲:本居長世、「赤とんぼ」は作詞:三木 露風・作曲:山田耕筰、「てるてる坊主」は作詞:浅原 鏡村・作曲:中山 晋平、「七つの子」は作詞:野口雨情・作曲:本居 長世、「どんぐりころころ」は作詞:青木存義・作曲:梁田貞である。

 つまり白秋の作詞は一つ、露風が一つ、浅原が一つ、青木が一つ、雨情作詞だけ二つなのだ。

 雨情はそれ以上の言及はしなかった。

 雨情には北原家の訪問理由が他にもう一つあったからだ。

 じつは手渡しておきたい一通の手紙を知人から頼まれていた。

 白秋がその手紙をどうするか不安であった。

 しかしその雨情は、直に白秋に手渡しすることもなく侘しい足取りで北原宅を後にした。

 雨情が帰ったのは正午前である。

 そうして帰えられて見ると、蓄音機の傍らにさりげなく白い封筒が一つ空の花瓶に立てられていた。

 侘しい手紙の花挿しである。


 その手紙は離縁した二番目の元妻、章子が牧野律太に宛てた手紙であった。


 白秋の代読として・・・・その章子からの書簡を読もう。


 (封筒表)
 美濃国恵那郡長島町字永田
        牧野律太様

 (裏)
 相州小田原木兔の家町
       北原章子
       九月二十六日

 封筒消印小田原局受付8・9・27
 岐阜・大井局着消印8・9・28



 小田原木兔の家町という地名はない。

 白秋が傳肇寺内に建てた書斎の名前が「木兔の家」で、妻の章子が自分勝手にそう書いて差出したものである。

 本文を読むと、白秋と章子が結婚した大正5年頃から傳肇寺へ転がり込むあたりの様子が書かれている。


 夫はその頃麻布の裏通りのゴチャゴチャした二軒長屋の一棟に、年とつた両親の外に、三人の弟妹と一緒に、貧しいどん底の生活をしてゐました。

その壁一重越の隣は、怪しい肖像画師の看板をかけてゐましたが、後になってそれは恐ろしい、強盗の親分の隠れ家であつたと云ふ事がわかりました。それが三年の間何も知らずにゐたのですからをかしいと思ひます。

夫の着物は其頃もうほんたうに、一枚もありませんでしたさうです。で、よく父親の、目くら縞の着物を着ては、二階の書斎につまらなささうに、坐つてゐるのでた。

 幸に父の着物は丈(たけ)も行(ゆき)も合ひましたが、それがどんなにか寂しかつた事でありませう。雀はその頃からの永いお友達でありました。

私達の葛飾の生活も実にみじめでした。そのカサカサの米櫃の中から、一握りの米を持ち出すのが、夫には何よりのつらい事のやうに見えました。

 それは庭先に遊びに来る、雀達に食べさせる為めでしたから。そんな時夫は私をかへり見て云ひました。

『ほんたうに済まない。あんたにもこれだけの苦労をさせてゐながら、やつぱり雀にもたべさせなければ可愛さうだから』

もうさう云はれて見ると私は何とも彼とも云へないほど、胸がつまつて来ました。さうした悲しい、一握りの米をも、雀の群れは喜んで毎日食べに来るのでした。

私もそれを見て決して、小憎らしいとは思へませんでした。ある時夫に、こんな事も云つた事がありました。(それはもう慰める言葉もなくなつたからでしたが)

『若しもあなたが立ち行く事も出来ず、もう餓死(うえじに)するばかりだと云ふ場合が来ましたら、この雀達が一粒づつでもお米をくはへて来て、きつとあなたをお助けすると思ひますわ』と、夫も笑ひ顔になつて『馬鹿らしい事を考へ出すもんだねえ』と云つて又寂しげに笑つたりしました。

その頃すでに『雀の生活』の一部は書きかけられてゐました。さうして、葛飾の一年は過ぎました。

その後東京に帰りましたものの、今さら救はれやうもない私達の生活はいよいよ苦るしくなるばかりで、夫は、落ちついて創作する事さへ出来ませんでした。それに無理を為過した為めか、私までまた、病気になつてしまひました。それは『このまゝ東京に留る事は、このまゝ死ぬる事です』とさへ主治医に言はれた位でした。

さうしたさしせまつた運命の下に、昨年の春たうとう、小田原の『お花畑』に移りました。

夫はその秋から雀の続稿を書きかけましたが、朝夕の寒さに、冬着一枚の持ち合せさへなかつたので、どう思つても明るい別荘地にゐられなくなりました。

それこれの事情で遂には、逃げるやうにして、この山の荒寺にコソコソと、引越してまゐりました。幸にもここでは私たちの破れ着物も何の不調和も感じないのみか、貧しい者同志の互の憐愍から、寺の家族とも、却つて深い親しみを持ち合ふ事が出来ました。

 末に・・・北原章子


 転居には後ろ暗い何かがつきまとっている場合が多い。

 白秋は転居癖があったとされているのでその通りだろう。

 人は誰でも真底をさらけ出すことなどない。

 章子は傳肇寺への転居について「それこれの事情」としか云わなかった。なにはともあれ大正7年10月には傳肇寺へ引っ越した。

あかい鳥 69
     みみずくの家 白秋と江口章子


 大正7年34才の北原白秋は、小笠原の生活を打切り一度東京に戻る。その白秋は大正7年3月、東京から小田原へと移り住んだ。

 小田原に移った彼は、自然と一体の生活を望んでいて本寺34世云隆和尚を頼り、境内に芭蕉好みの南方的な庵室、みみずくの家を建てる。

 大正15年、東京に移転するまでこの住居で詩歌、論文、小説等を盛んに発表し文壇に華々しい活躍をした。

 特にこの小田原時代には「あわて床屋」「かやの木山」等の童謡を世に送り有名となったが、これは今日でも多くの人々に愛唱されている。

 北原白秋の生地は九州築後の城下町柳川で、当時これに似た町並みを持つ城下町小田原は深く白秋の心をとらえていた。このためか小田原住居中の文学題材はほとんど附近の風物に印象を得ている。白秋にとって小田原は、第二の故郷と言っても過言ではなかろう。


 大正11年10月13日・・・・夕方から裏庭の風はしくしくと啼き秋色を深めていた。

 その夜、白秋は章子の手紙を読み終えると、

 何思うことなく醒めては、自身の歌を想った。

     からまつの林の雨は さびしけどいよよしづけし。
 
           かんこ鳥鳴けるのみなる。からまつの濡るるのみなる。


 「落葉松」の詩の第七節である。

 章子と離婚した白秋はこの前年、大正10年に佐藤菊子と再婚した。三番目の妻として菊子を迎える。この祝言を終えてから後、信州滞在中(星野温泉)に想を得て『落葉松』を発表した。

 そうして歌集『雀の卵』を成し、翻訳『まざあ・ぐうす』を刊行する。また本年は長男・隆太郎も誕生した。文化学院では講師ともなった。さらには山田耕筰と共に『詩と音楽』を創刊した。

 菊子を迎えた後の大正10、11年とは随分活躍もした。

 そんな北原白秋が・・・・・

 山田耕筰と著する『詩と音楽』創刊号、大正11年9月)に、

 「この七章は私から云へば、象徴風の実に幽かな自然と自分との心状を歌つたつもりです。これは此のままの香を香とし響を響とし、気品を気品として心から心へ伝ふべきものです。何故かなら、それはからまつの細かな葉をわたる冷々とした風のそよぎ、さながらその自分の心の幽かなそよぎでありますから」と、記し添えていた。
          
 現在でこそ落葉松の詩は第八節あるが、創刊号に「この七章は」と白秋が書いているのは、この文章が書かれた当時、「落葉松」はまだ全7章(節)なのであった。

 その夜、白秋は自身の歌を「落葉松」を幾たび口にして想ったことか。

     からまつの林の雨は さびしけどいよよしづけし。
 
           かんこ鳥鳴けるのみなる。からまつの濡るるのみなる。


 幾度なく胸に含ませるが、どうしても腑に落ちなかった。

 しかしこの後年、第八節を加えることにし、「落葉松」の詩の結び節とした。

 その第八節・・・・・ 

                  世の中よ、あはれなりけり。

                  常なけどうれしかりけり。

                  山川に山がはの音、

                  からまつにからまつのかぜ。



 何故・・・白秋がこの第八節を加筆して結ぶことにしたのかは、

 翌朝14日に始まる「牧水」の旅と密接となるのだ。

 今宵の白秋は未だ加筆するとは計り知れない牧水の旅で、その旅立ちすら知らないでいた。

 牧水が旅に辿る「暮坂峠」越えとは、また牧水も知らない「落葉松」推敲の道でもあった。


落葉松 北原白秋作詞・作曲者不詳


北原白秋の詩「落葉松」

あかい鳥 22


 そうして夜が更けて行くと・・・

 また白秋は詫びしく帰って行った野口雨情のことを改めて想い起こした。

 「一銭値上げの・・・電気ブラン・・・か」・・・・

 しだいにその味が舌先に触れてくる。触れてはややしんみりとなった。

             あかい鳥 40


 浅草と文学のつながりはひじょうに深く、浅草からは、じつに多くの名作を誕生させている。

 白秋もかってはその浅草へと足しげく通った。

 好みで言えば浅草よりかは「新橋」の方だ。

 だが文学の勢いから言えば「浅草」だ。

 確かに白秋がそう思うように・・・・

 たとえば永井荷風は、小説「すみだ川」で下町情緒あふれる隅田川界隈を舞台に、美しくも哀しい人間模様を描き、その後昭和の初めには、川端康成が、浅草の最も華やかな時代を「浅草紅団」「浅草の姉妹」「浅草の九官鳥」など数編の小説に収めている。

 このほか石川啄木、萩原朔太郎、高見順、谷崎潤一郎、坂口安吾、壇一雄…など、数多くの文学者たちが浅草に心惹かれ、何らかのかたちで浅草にその足跡を残すことになる。

 ここには未だ白秋の知り得ない未来の浅草が含まれるが、

 そのように詩歌や小説のなかに浅草のここかしこが登場するわけである。

 野口雨情がさりげなく話題に採った神谷バーは、あれは奇遇な暗示なのかも知れない。

 しだいにそうも思えてくる白秋がいた。

 新聞や小説のなかにふとその名をみつけることは、自身が常々体験していることではないか。

 おそらく、明治十三年の創業以来、つねに「庶民の社交場」だっただけに、あそこには人々の喜びや悲しみ、つまり庶民の生活そのものがあったのであろう。

 それを証拠に自身もその味わいに惚れて通った。

 だからその場を題にした歌も生まれ、小説にも描かれるのだ。

 そう思い改める白秋は、雨情が語った萩原朔太郎の歌をおぼろげにも思い起こした。
 
         一人にて酒をのみ居れる憐(あは)れなる となりの男になにを思ふらん

 彼の作品なら第一詩集『月に吠える』が良かった。鷗外もこれを絶賛した。

 それに比べると、これはさしたる歌とは思えないが、

 そうして想えばというと、この歌を雨情が推したことがむしろ気がかりだ。

 専業家からみればそう深い心象を形成する歌ではない。

 社交的な儀礼歌だ。

 店内のざわめきをよそに一人静かにグラスを傾ける男、さぞや電気ブランが胸深くしみたのであろう。寸評すればそのような歌である。

 しかし何故・・・雨情がこれを・・・・

 北原白秋は、未解決のまま、白秋らしくもなく、いつしか朦朧となり深い眠りの人となっていた。


 あかい鳥 55
 あかい鳥 56

               あかい鳥 57

あかい鳥 61

あかい鳥 62 あかい鳥 39 
     現在の神谷バー     1930年(昭和5年)後方のビルが神谷バー

あかい鳥 63 あかい鳥 37

 これは現代の神谷バーである。

 明治後期に北原白秋が一杯7銭で呑んだ電気ブランが現在260円となった。

 関東大震災にも耐え遺った大正デモクラシーの賜物と思えばそう気になるほどの値上がりとは思えない。

 日本の古き良き伸びやかな大正モダンを飲み込めるのであるから・・・・

 大正初期に萩原朔太郎が歌を詠んだように、

 この神谷バーは日本文学と密接であった。

 昭和35年芥川賞を得た三浦哲郎作「忍ぶ川」、このなかにも神谷バーとデンキブランが登場する。

 「忍ぶ川」は青春小説として大きな感動を呼び、映画化もされた。

               あかい鳥 66
               『忍ぶ川』三浦哲郎著 新潮文庫

 その「忍ぶ川」で・・・・・

 「でもせっかくの休みだから、栃木へいってきた方がよくはないかな」

 栃木には志乃の父、弟妹たちがいるのである。

 「ええ。…・でも、せっかくの休みだから、ふだんできないことをしたいんです。やっぱし、浅草へいきたいわ」

          ― 中略 ―

 「だけど、神谷バーってのはいまでもあるのかな」

「ええ、あると思いますわ。いつか栃木へ帰るとき、ちらっとみたような気がするんですの。映画見て、神谷バーへいって、あたしはブドー酒、あなたは電気ブランで、きょうのあたしの手柄のために乾杯して下さいな」と・・・・・・・

 これは「忍ぶ川」の一場面。主人公と料亭「忍ぶ川」で働く志乃の会話である。


映画『忍ぶ川


映画「忍ぶ川」1972年製作 原作は三浦哲郎の小説「忍ぶ川」加藤 剛(哲郎) 栗原小巻(志乃)
曲 作詞:吉田 旺 作曲:渡辺岳夫 編曲:松山祐二



 共に不幸を背負う二人が胸をはずませて初めてのデートをするのであるが、この時もし、志乃の頬がバラ色に染まったのだとしたら、それは単に神谷バーの葡萄酒のせいだけであろうか。電気ブランという明治・大正ロマンを戦後昭和35年の舞台へ引き出してきたからこそ成立する淡いバラ色の恋愛であろう。

 またこの恋愛の成立には、往時のロマン派文士らの闊達な青春がよみがる。

 現在、一杯260円で蘇らせて頂けるわけだ。

 ともかくも酒のことなら・・・

 牧水に聞くに限る。


 その牧水だが・・・・・・第(二)章へと続く・・・・

あかい鳥 54


 ) 牧水・旅の夜明け


 大正9年8月、若山牧水は一家を挙げて沼津へ移住した。

 千本松原から半里ほど離れたところにある香貫山(かぬきやま)の麓(楊原村)の借家である。

 そこに落ち着くと、長男旅人を連れてはよく香貫山に登った。

            香貫山いただきに來て吾子とあそび久しく居れば富士晴れにけり

                あかい鳥 23
                  香貫の借家の庭にて牧水


            海見ると登る香貫の低山の小松が原ゆ富士のよく見ゆ

            香貫山いただきに來て吾子とあそび久しく居れば富士晴れにけり

            低山の香貫に登り眞上なるそびゆる富士を見つつ時經ぬ



 借家暮らしだが香貫での家族生活は何とも長閑な日々であることか。

 日向国の山陰に生い立つ牧水は尾鈴山という憧憬がある。この憧憬は母マキの臍緒にも等しく、そうした故郷の山河は異国の地・沼津に立って居ても赤裸々と結ばれていた。

 しかしその故郷に無きものが一つあった。海である。

 沼津・香貫の地には、その海があった。

 牧水は駿河の青い海原をみては歌を詠んだ。駿河湾を望む香貫山に登りては海の歌を詠んだ。

 その香貫山からは富士の聳える頂きまでが見えた。


牧水の山『香貫山』


牧水が登り歩いた山。静岡県沼津市にある香貫山を山頂から中腹まで。


 牧水の海へのあこがれ、富士山へのおもいが、自身の胸を篤く熱く打ち叩くのであった。

            愛鷹の根に湧く雲をあした見つゆふべ見つ夏のをはりと思ふ

 と、などと山を変えて愛鷹山に登るころには、

 壮大な自然に取り囲まれて永らえる沼津の地に いよいよ惹かれていった。

 そんな牧水に一つの転機が訪れたようだ。

 「家族と永久に暮らせる我が家が、己の終の棲家が欲しい・・・」

 香貫での借家暮らしは、一、二年の静養のつもりが、次第に永住の気持に傾いていた。

 そのために牧水は・・・・

 「我が家を建てる、その銭が欲しい」

 と、海への憧れと富士への憧れが強まるほどに、牧水は強いてそれを切望するようになっていた。

 大正11年8月を迎えたが、沼津に移り住んで早二年が過ぎたのだ。

旅に出れば銭になる。旅の歌は銭になる。旅の歌こそが家になる

 その8月が近づこうとする、梅雨の晴れ間をみては香貫山に登り、牧水はその頂きから冨士の高嶺の向こう彼方に眼を注ぎやりながら、二年前に訪れていた草津の旅を密かに温めていた。

 旅立ちを前に・・・・少し余談ではあるが・・・

 牧水の念願は・・・この旅を終えた三年後、

 ついに大正14年には千本松原に隣接した土地を求め、住居を構えることとなる。

            あかい鳥 24
              千本松原に隣接して建てられた牧水の家

 終の棲家を構えた牧水は、千本松原を散策することを日課とするほどに、この松原に心底惚れ込んだ。

 だが丁度その折りに、静岡県による千本松原の松の一部を伐採する計画が起こることになる。牧水はこれに真っ向から反対し、『沼津千本松原』と題する文を新聞に投稿した。

            あかい鳥 25
            松原を背景に千本浜海岸にて・・牧水と次男の富士人

 この千本松原の伐採の件については、また後話にて語ることになる。

            あかい鳥 26
              牧水が肉眼に映した当時の千本浜海岸の風景

 これは三年後の未来の実話なのであるから、

 今の牧水が知る由もなし。

 牧水は只・・・旅に憑かれた男の渾身の眼で・・・

 目指す彼方は上州の深山だけである。銭を食む正月もやがて来る。冬支度の前にその旅を終えたかった。

 そうしてついに・・・・・・

 10月14日、牧水は数ヵ月前から計画していた信州から上州の各地を回る長期の旅に出た。


 以上・・・続きは第⑧話にて

                                白秋の彼岸より・・・By 漱太郎


牧水の望みし山 Mt.FUJI 富士山



バスのアニメ
北原白秋・若山牧水・石川啄木に関する書籍をお探しの皆様は
         快適な下記サイト検索がお薦め!!。

窓のぞきF
書籍選びの快適検索サイトなら下記の「新書・文庫本マニア」!!・・・新システム書籍専用サイト!!ライン黄色 gif

クリック・ボタン gif   新書・文庫本マニア   動く本

ライン黄色 gif


本線夜行列車九段駅  駅長の本音・・・ 『北原白秋』 ⑥

ウエルカム gif
夜の列車
ライン黄色 gif
本線夜行列車九段駅・・・・・・・・・・・駅長の本音

                北原白秋 ⑥』 特集

              ススキ  gif

                  月の満ち欠け gif

               ススキの一穂を花瓶に刺し入れてみた。

                たちまち部屋に小さな秋がきた。

                  一つ月でも欲しくなる。
                  
                     9月16日

                 ああ 今夜は朔で月がない。

         しかし新月の・・・この月が満ちて行くと中秋の名月となる。

         その名月を愛でるころに・・・若山牧水の命日もやってくる。

    牧水『枯野の旅                みなかみ紀行 41
                 上州路の牧水

みなかみ紀行 42
             日本国道最高地点の碑からみた群馬県側の風景。
        手前の平な所が芳ヶ平(群馬県中之条町)。奥の街並みは草津温泉。


みなかみ紀行 43  温泉マーク動く
                  草津温泉

かうづけ
上野の草津に來り誰も聞く湯揉の唄を聞けばかなしも
                                        牧水

                            『みなかみ紀行』草津温泉での一首

 草津温泉は、群馬県吾妻郡草津町(旧国上野国)にある温泉。林羅山の日本三名泉に数えられる。

 江戸時代の温泉番付では当時の最高位である東大関に格付けされた、日本を代表する名泉の一つ。

 その北西部には、草津白根山(白根山〈2,160m、湯釜〉・本白根山〈2,171m〉・逢の峰〈2,110m〉)が聳えている(上信越高原国立公園)。

 大正期には軽井沢から軽便鉄道(草軽電気鉄道)が草津まで開通したほか、後に高崎・渋川などからバスも乗り入れるようになった。長野原線(現・吾妻線)が長野原駅(現・長野原草津口駅)まで開業したのは1946年(昭和21年)である。

           みなかみ紀行 51
               草津温泉の最寄駅・・・長野原草津口駅

         吾妻線「長野原草津口駅」より、草津温泉行き路線バスで約25分。


白根山火口湖・・・草津温泉湯畑



 群馬県草津温泉と白根山・・・・・近郊の白根山火口へは駐車場から徒歩で20分程度。湯釜と呼ばれる火口湖はエメラルドグリーンの幻想的湖。世界屈指の強酸性(PH1付近)で生命とは無縁の世界、湖底から噴き出す火山ガスの塩化水素や二酸化硫黄が水に溶け込み、塩酸や硫酸となるために、釘を入れておくと一週­間ほどで溶けてしまう。草津温泉の中心地にある、温泉の源泉が湧きだしている湯畑。7本の木樋を通すのは、温度を下げるのと湯の花を採集するためとか。最後に滝となって流れ落ちる様は圧巻。

みなかみ紀行 48
    草津温泉の湯畑

 毎分4,400リットルもの湯が湧いている。草津全体だと、毎分3万2,000リットルとなり、日本一。

           みなかみ紀行 49

                  若山牧水 7

 『みなかみ紀行』の中で、

 牧水が「この前一度泊つた事のある一井旅館」であると言うように、

 その二年前にも草津を訪れた牧水は、吾妻川の渓谷や周囲の山並みに心酔し、『上州草津』 などの紀行文、多くの詩歌に自然の美しさを表現した。

 この紀行文「上州草津」の内容の多くは 時間湯の描写に割かれており、「湯もみの板の音がいよいよ激しく、その唄も つぎからつぎへとつづく。(中略)料理屋の三味線のさわぎがきこえ、あんまの笛も まじる」と、夕暮れ時の草津の情景を描いている。

 牧水の紀行文はその他にもある。

 一覧されたい方は次ぎの二冊がよい。

みなかみ紀行 45   みなかみ紀行 47
『牧水紀行文集』高田宏編 弥生書房1996年   『新編みなかみ紀行』池内紀編 岩波書店2007年

自然の息 自然の声・序に代えて
火山の麓 明治43年・牧水26歳の旅
岬の端 大正4年・牧水31歳の旅
津軽野 大正5年・牧水32歳の旅
灯台守 大正2年・牧水29歳の旅
比叡山 大正7年・牧水34歳の旅
山寺 大正7年・牧水34歳の旅

上州草津 大正9年・牧水35歳の旅
草津より渋へ 大正9年・牧水35歳の旅
吾妻の渓より六里が原へ 
大正7年・牧水34歳の旅
〔ほか〕


10月18日、草津温泉

 宿に入ると直ぐ、宿の前に在る時間湯から例の佗しい笛の音が鳴り出した。それに續いて聞えて來る湯揉みの音、湯揉みの唄。
 浴客がすべて裸體になり幅一尺長さ一間ほどの板を持つて大きな湯槽の四方をとり圍みながら調子を合せて一心に湯を揉んでゐるのである。そして例の湯揉みの唄を唄ふ。先づ一人が唄ひ、唄ひ終ればすべて聲を合せて唄ふ。
 唄は多く猥雜なものであるが、しかもうたふ聲は眞劍である。全身汗にまみれ、自分の揉む板の先の湯の泡に見入りながら、聲を絞つてうたひ續けるのである。
 草津にこの時間湯といふのが六箇所に在り、日に四囘の時間をきめて、笛を吹く。それにつれて湯揉みの音が起り、唄が聞えて來る。



 湯を揉むとうたへる唄は病人(やまうど)がいのちをかけしひとすぢの唄   牧水


                      みなかみ紀行 50
草津温泉 湯揉み唄



草津温泉 共同湯巡り



草津温泉には共同湯が18箇所ある。誰でも無料で利用できる。

①白旗の湯・②巽の湯・③翁の湯・④千代の湯・⑤長寿の湯・⑥白嶺の湯・⑦千歳の湯・⑧瑠璃の湯・⑨睦の湯・⑩喜美の湯・⑪関の湯・⑫煮川の湯・⑬地蔵の湯・⑭凪の湯・⑮こぶしの湯・⑯恵の湯・⑰つつじの湯・⑱長栄の湯
   荷馬 gif
      みなかみ紀行 46
            「乗馬入湯客草津温泉場着の光景」と記された一枚。

 草津街道(沢渡温泉~暮坂峠~草津温泉)は、湯治に出かけるメインルートでもあった。

 若山牧水の『枯野の旅』は、大正11年(1922)10月20日。草津から暮坂峠を越えて沢渡温泉へと向かった。

 その当時、鍋釜背負って草津温泉で湯治した人は、草津の強酸性の湯で荒れた肌を沢渡の湯で治した。

 だから仕上げの湯、あるいは直しの湯と呼ばれていたのだ。

 自炊が主体の湯治だから当然、荷物が多く、峠を越えるのは大変だった。そこで活躍したのは馬というわけだ。

 草津温泉の湯畑の西には馬を入湯させるための「馬の湯」もあったという。

                 おんせん極楽 gif


 このように牧水の草津温泉への旅は大正11年と大正9年の二つある。

 歌の旅人、酒の歌人として知られる庶民的歌人であった牧水は、宮崎県延岡の中学校在学中から作歌活動を開始、早大入学直後に定型短歌への 懐疑を表明した尾上柴船門下となり、前田夕暮、正富汪洋らと 『車前草社』を結成する。主に『新声』に作品を発表した。

 そうして『別離』で 一躍歌壇の寵児となり「牧水、夕暮時代」を築いた。

                 みなかみ紀行 52
                       前田夕暮

      夕暮は1904年に尾上柴舟に師事、同時期に若山牧水も入門し、以後、交友が続いた。


      漱太郎の好きな夕暮の作品を一つ採る。

        向日葵は金の油を身にあびてゆらりと高し日のちひささよ (歌集『生くる日に』から)

                    みなかみ紀行 73

      この夕暮は放浪の歌人であった。その放浪は牧水の旅とはまた違う夕暮の異質さである。


 また牧水は雑誌『創作』も 創刊・主宰する。それらの作品は青春の苦悩を悲愁と情憬をこめて感情的に詠い、晩年には旅を中心に自然と酒を詠んじて、人生の疲労と 倦怠を反映させ、優れた紀行文や随筆も発表している。主な作品としては 『海の声』『独り歌へる』『路上』『死か芸術か』などがある。石川啄木とは親交が深かった。

 以上・・・・ここまでの概要は先の第⑤話で少し触れた。

 それではこれより草津を発って『暮坂峠』へと向かう牧水『枯野の旅』の峠越えの眼差しへと差し掛かることにする。

 牧水は・・・・・・

 10月18日草津温泉一井旅館の記述で、

 牧水は「私には二度目の事であつたが、初めて此處へ來たK君はこの前私が驚いたと同じくこの草津の湯に驚いた。宿に入ると直ぐ、宿の前に在る時間湯から例の佗しい笛の音が鳴り出した」と言う。

 この『K君』とは一体誰なのか?!。

 牧水の弟子「門林兵治」のことである。牧水はこの門林と暮坂峠を二人で越えた。「K」は門(KADO)の頭文字だ。

 このローマ字「K」の使用法などを見ると、どうやら土岐哀果の影響とも思える。おそらく土岐のローマ字三行書きの歌集などにみれる影の潜みの響きが牧水の手に及んだのであろう。

 10月17日、嬬恋に泊まりその旅館を発った牧水は、

 その翌18日、乗合自動車で草津温泉に向かった。

 ここで牧水は「初め岩村田の歌會に出て直ぐ汽車で高崎まで引返し、其處で東京から一緒に來た兩人に別れて私だけ沼田の方へ入り込む、それから片品川に沿うて下野の方へ越えて行く、とさういふのであつたが、斯うして久しぶりの友だちと逢つて一緒にのんびりした氣持に浸つてゐて見ると、なんだかそれだけでは濟まされなくなつて來た」のだと言う。

 するとその「久しぶりの友だちと逢つて一緒にのんびりした氣持に浸つてゐて見ると、なんだかそれだけでは濟まされなくなつて來た」というその友とは、やはり文中をどう読み探しても『K君』のことを指している。

 だがそれを門林兵治だとすると、それは妙だ。

 この当時、牧水と門林は頻繁に会っている。その門林に牧水が「久しぶりの友」と言うのは可笑しい。

             動くアニメ
             その「久しぶりの友」とは?


 文中から拾おうとすると、そんな人物は存在しない。

 牧水はその「久しぶりの友」に会ってみると、片品川に沿って下野に向かおうとする予定であったが、どうやらそれでは済まされなくなってきたのだ。

 文中にこそ登場しないが、牧水の旅の実際には「X」という人物が介在した。

 そうであるから牧水は片品川に沿う予定を変更して吾妻川沿って下野を目指すことにした。

  みなかみ紀行 53

 しかしそれにしても片品川と吾妻川とでは違いが大き過ぎるではないか。

 みなかみを辿ることは同じでも、片品川沿いは北へ、吾妻川(あがつまがわ)沿いは北西を目指すことになる。

 これは旅人として、かなり大幅な予定変更ではないか。

 こうした行動は牧水の質を考えると不自然である。牧水という男は旅に頑固者だ。

 やはり牧水の意識を変えさせるほどの介在があった。

 そもそも群馬県は、県土の約80%を山地丘陵地が占めており、そこを流下していく利根川本支川に沿って河岸段丘や沖積地が形成され、その広がりが大半の人々の生活の場となっている。

 一方、山地は非火山性山地と火山性山地から成り立っている。

 非火山性山地は、南西部の関東山地、北西部の三国・帝釈山地、東部の足尾山地などである。

 火山性山地は、群馬県の地形を特徴付ける重要な要素であり、第四紀に属する比較的新しい赤城、榛名をはじめ、武尊、子持、小野子、草津白根、浅間、鼻曲など多数の火山が、県中央部をほぼ北東から西南に横切って帯状に並んでいる。

 これらの山地の前山として岩井田、岩野田、丹生、小幡などの丘陵地が分布し、背後には日本海側と太平洋側とを分ける脊稜山脈がそそり立っている。

 標高にして100~2,500mと大きい比高を示すこれらの山地は、群馬県の自然景観の美しさを構成し、特に成層火山はその景観的な秀麗さをもって、群馬県の山岳美を代表することになる。

 こうした山岳は確かに美しいが、しかし山岳路は起伏多く困難な道となる。

 当時の山路は細々として尚更であったろう。

 牧水の当初の予定では、こうした山岳部を左手に望みながら片品川沿いを目指そうとした。

 だがその牧水は、それを強いて吾妻川沿いへと変更する。

 そうした吾妻川に沿う山路とは・・・・・下記の地図に示すように、

 左流部……白砂川以東は壮年期地形。白根、横手山をきざむ谷はV字型。

 右流部……浅間山を中心とする山地部と山麓部のゆるい台地。

 みなかみ紀行 54

みなかみ紀行 57みなかみ紀行 55

 吾妻川水系といえば現代で何かと物議・問題事を醸す八ッ場ダムもあり、このダムの位置は長野原草津口駅より少し東となる。

みなかみ紀行 58 群馬県吾妻郡長野原町吾妻川

みなかみ紀行 59 吾妻川支流小雨川 草津嫗仙(おうせん)の滝

嫗仙の滝


2012年09月09日撮影(撮影班:漱太郎クルーズ小村班)
 甌穴の窪んだ独特の岩肌を末広がりに独特のカーブを描いて落ちる美麗な滝。

 入口に「嫗仙の滝の水は飲めません」とあるように、草津温泉の近くにあるだけに温泉の成分がかなり強そうで、岩肌も硫黄分なのか独特の色合いがする。

 なめを滑るさいに白く細かい泡になった流れがとても美しい。近くの観光地「草津温泉」の近郊にあるのだが、あまり人の訪れない人知れずあるこの美麗な光景は一見の価値がある名瀑。


星野の里・・早春 2012.3


星野の里・・2012年3月。星野温泉近郊の春は遅い。ようやく福寿草とセツブンソウが咲き、梅はまだ小さな蕾。牧水は大正11年秋10月16日にこの里を訪れている。


 10月19日、小雨村・・・「對岸の村は生須村、學校のある方は小雨(こさめ)村と云ふのであつた」と。

    おもはぬに村ありて名のやさしかる小雨(こさめ)の里といふにぞありける

 牧水は、草津から草津高原を越えて、小雨村、現在の中之条町旧六合村の小雨に出た。

 ここは現在、草津からの国道292号線が通っているが、草津高原経由の方が距離は短い。牧水は、この小雨から暮坂峠を越える予定であったが、道標を見て気が変わり、花敷温泉へ向かう。

 しかしどうして道標を見て気変わりになったのか?。

 これには牧水の足取りを、小雨村の手前「生須村」まで話を戻さねばならない。

 牧水は、小雨から暮坂峠を越えようとして現在の県道55号線に足を運んだ。

 その生須(なます)村で・・・

 「生須村を過ぎると路はまた單調な雜木林の中に入つた。今までは下りであつたが、今度はとろりとろりと僅かな傾斜を登つてゆくのである。日は朗らかに南から射して、路に堆い落葉はからからに乾いてゐる。音を立てゝ踏んでゆく下からは色美しい栗の實が幾つとなく露はれて來た。多くは今年葉である眞新しい落葉も日ざしの色を湛へ匂を含んでとりどりに美しく散り敷いてゐる。をりをりその中に龍膽(りんだう)の花が咲いてゐた」と。

    もみぢ葉のいま照り匂ふ秋山の澄みぬるすがた寂しとぞ見し

 「帽子に肩にしつとりと匂つてゐる日の光をうら寂しく感じながら野原の中の一本路を歩いてゐると、をり/\鋭い鳥の啼聲を聞いた。久し振りに聞く聲だとは思ひながら定かに思ひあたらずにゐると、やがて木から木へとび移るその姿を見た。啄木鳥である。一羽や二羽でなく、廣い野原のあちこちで啼いてゐる。更にまたそれよりも澄んで暢びやかな聲を聞いた。高々と空に翔(ま)ひすましてゐる鷹の聲である」と。

    下草のすすきほうけて光りたる枯木が原の啄木鳥(きつつき)の聲

    枯るる木にわく蟲けらをついばむと啄木鳥は啼く此處の林に

    立枯の木々しらじらと立つところたまたまにして啄木鳥の飛ぶ

    啄木鳥の聲のさびしさ飛び立つとはしなく啼ける聲のさびしさ

    紅ゐの胸毛を見せてうちつけに啼く啄木鳥の聲のさびしさ

    白木なす枯木が原のうへにまふ鷹ひとつ居りて啄木鳥は啼く

    ましぐらにまひくだり來てものを追ふあらはなり枯木が原に

    耳につく啄木鳥の聲あはれなり啼けるをとほく離(さか)り來りて


                    きつつきF

啄木鳥(アオゲラ)のドラミングと鳴き声


八丁湖・・・パラボラ集音マイク使用。

               たか 2 gif

鷹(オオタカ)の鳴き声


パラボラ集音マイク使用。


 「ずつと一本だけ續いて來た野中の路が不意に二つに分れる處に來た。小さな道標が立てゝある。曰く、右澤渡温泉道、左花敷温泉道」と。

 「枯芒を押し分けてこの古ぼけた道標の消えかゝつた文字を辛うじて讀んでしまふと、私の頭にふらりと一つの追憶が來て浮んだ。そして思はず私は獨りごちた、ほゝオ、斯んな處から行くのか、花敷温泉には」と。

 牧水は、草津から渋峠を越えた時に、「高い崖の眞下の岩のくぼみに湧き、草津と違つて湯が澄み透つて居る故に、その崖に咲く躑躅や其の他の花がみな湯の上に影を落す、まるで底に花を敷いてゐる樣だから花敷温泉といふのだ」という、そのことを誰かから聞いていたのだ。

 こうして暮坂峠で花敷温泉の道標を見た牧水は同行の士を説得して、花敷温泉へ向かう。道標には「二里半」と書かれていて、花敷まで約9kmであった。

 この道標から牧水は進路を変えて花敷温泉へと向かうのであるが、その途中に「引沼村」がある。

 その引沼村・・・

 「今までよりは嶮しい野路の登りとなつてゐた。立枯の楢がつゞき、をりをり栗の木も混つて毬と共に笑みわれたその實を根がたに落してゐた」と。

    夕日さす枯野が原のひとつ路わが急ぐ路に散れる栗の實

    音さやぐ落葉が下に散りてをるこの栗の實の色のよろしさ

    柴栗の柴の枯葉のなかばだに如(し)かぬちひさきの味よさ

    おのづから干て搗栗(かちぐり)となりてをる野の文字色落栗の味のよろしさ

    この枯野猪(しし)も出でぬか猿もゐぬか美しう落ちたまりたり

    かりそめにひとつ拾ひつ二つ三つ拾ひやめられぬにしありけり


                    栗

 「芒の中の嶮しい坂路を登りつくすと一つの峠に出た。一歩其處を越ゆると片側はうす暗い森林となつてゐた。そしてそれが一面の紅葉の渦を卷いてゐるのであつた。北側の、日のさゝぬ其處の紅葉は見るからに寒々として、濡れてもゐるかと思はるゝ色深いものであつた。然し、途中でやゝこの思ひ立ちの後悔せらるゝほど路は遠かつた。一つの溪流に沿うて峽間を降り、やがてまた大きな谷について凹凸烈しい山路を登つて行つた。十戸二十戸の村を二つ過ぎた。引沼村といふのには小學校があり、山蔭のもう日も暮れた地面を踏み鳴らしながら一人の年寄つた先生が二十人ほどの生徒に體操を教へてゐた」と。

    先生の一途なるさまもなみだなれ家十ばかりなる村の學校に

    ひたひたと土踏み鳴らし眞裸足に先生は教ふその體操を

    先生の頭の禿もたふとけれ此處に死なむと教ふるならめ



 現在、花敷温泉の南、引沼の集落に「若山牧水・旅の路」という標識があり、引沼3部作の詩碑がある。

 牧水は花敷温泉に着くとすぐに露天風呂に入り、その夜は関晴館に宿泊した。

 「溪向うもそゝり立つた岩の崖、うしろを仰げば更に膽も冷ゆべき斷崖がのしかゝつてゐる。崖から眞横にいろいろな灌木が枝を張つて生ひ出で、大方散りつくした紅葉がなほ僅かにその小枝に名殘をとゞめてゐる。それが一ひら二ひらと絶え間まなく我等の上に散つて來る。見れば其處に一二羽の樫鳥が遊んでゐるのであつた」と。

    眞裸體になるとはしつつ覺束な此處の温泉(いでゆ)に屋根の無ければ

    折からや風吹きたちてはらはらと紅葉は散り來(く)いで湯のなかに

    樫鳥が踏みこぼす紅葉くれなゐに透きてぞ散り來わが見てあれば

    二羽とのみ思ひしものを三羽四羽樫鳥ゐたりその紅葉の木に



 こうしていよいよ牧水の旅は花敷温泉から暮坂峠へと向かうことになる。

 10月20日、花敷温泉から沢渡温泉経由四万温泉へ・・・・・

 「未明に起き、洋燈の下で朝食をとり、まだ足もとのうす暗いうちに其處を立ち出でた。驚いたのはその、足もとに斑らに雪の落ちてゐることであつた。慌てゝ四邊(あたり)を見廻すと昨夜眠つた宿屋の裏の崖山が斑々として白い。更に遠くを見ると、漸く朝の光のさしそめたをちこちの峰から峰が眞白に輝いてゐる」と。

    ひと夜寢てわが立ち出づる山かげのいで湯の村に雪降りにけり

    起き出でて見るあかつきの裏山の紅葉の山に雪降りにけり

    朝だちの足もと暗しせまりあふ峽間(はざま)の路にはだら雪積み

    上野と越後の國のさかひなる峰の高きに雪降りにけり

    はだらかに雪の見ゆるは檜(ひ)の森の黒木の山に降れる故にぞ

    檜の森の黒木の山にうすらかに降りぬる雪は寒げにし見ゆ


 「昨日の通りに路を急いでやがてひろびろとした枯芒の原、立枯の楢の打續いた暮坂峠の大きな澤に出た。峠を越えて約三里、正午近く澤渡温泉に着き、正榮館といふのゝ三階に上つた。此處は珍しくも双方に窪地を持つた樣な、小高い峠に湯が湧いてゐるのであつた。無色無臭、温泉もよく、いゝ湯であつた」と。

 牧水は「みなかみ紀行」の中では暮坂峠について詳しく触れていないが、「枯野の旅」という詩を残した。
 
 またこれも「みなかみ紀行」には書かれていないが、暮坂峠から沢渡温泉への途中、大岩学校で校庭で遊ぶ子供たちを見て詠んだという歌が2首、歌集「山櫻の歌」に収録されている。その明治12年(1879)の建造の旧大岩学校は、現在中之条町の文化財に指定され牧水会館として保存されている。

    人過ぐと 生徒等はみな 走せ寄りて 垣よりぞ見る 学校の庭の

    われもまた かかりき村の 学校に この子等のこと 通る人見き



 こうして若山牧水は『暮坂峠』を越えた。

         みなかみ紀行 60

          そうしてまた漱太郎もこの暮坂峠へと幾度か足を運んでみた。

                その数は通算すると23回となる。

            何度訪れてみても峠を越える牧水の背は寂し過ぎる。

       その背は・・・・近くなり、また遠くなり、また近くなり、さらに遠くなる。


             たびびと 旅人 gif

           そこには、もう人には語りかけない、牧水の背中だけがある。

                     しかし・・・・

       ようやく漱太郎は・・・牧水がなぜ・・・この峠を越えたのか・・・を捕まえた。


         探し求めていた『久しぶりに会う友』とは・・・『前田夕暮』であった。

                     みなかみ紀行 61
                       前田夕暮

 門林兵治を除き「K」をイニシャルとする牧水周辺に関わる人物のファーストあるいはセカンド・ネームに相当する映像の実在を様々な角度から洗い直してきたが、核心を突く人物がどうしても顕在化しなかった。

 正直、一時は、牧水の創作上の架空の人物なのではなかろうか、と捜索を断念しかけたこともある。

 想定される人物も可能性としては26名は下らない。

 しかしそうした迷走の甲斐なのか、ようやく「前田夕暮」まで辿り着いた。

 割いた時間が誠実であるとは限らない。

 どうやらイニシャル「K」に固執し過ぎていたようだ。

 探索当初から先入観として姓名にKを持つ人物を固定させていた。

 しかし同日に、牧水の宿に同宿した人物が判明する。

 友人の前田夕暮であった。

 そこで・・・・・・

 夕暮と牧水について少し語りたい。


 前田夕暮(まえだゆうぐれ/1883~1951)は明治末から戦後初期にかけて活躍した歌人である。

みなかみ紀行 69

 1883年、神奈川県大住郡南矢名村(現・秦野市)の豪農の家に生まれる。


 牧水より二つ歳上となる。

 生前に著した歌集は12冊あり、未刊の歌を含めて生涯に詠んだ歌の総数は3万5千首にのぼる。

 また、歌論や随筆のほか詩や俳句も残しており、これは角川書店から全五巻で全集が出ている。

 そうした前田夕暮の作歌活動は50年に及ぶが、加齢するにつれてモチーフを深め、円熟味を加えていくというタイプの歌人ではなかった。

 その歌風や活動は、年齢や時代によってめまぐるしい転変をみせている。

 「明星」調の浪漫的な歌を詠んだ習作時代、第1歌集『收穫』(明42)で若山牧水と並び称せられた自然主義の歌風の時代、ゴッホなどの後期印象派絵画のつよい影響で明るい外光派的な歌を詠んだ時代である。

みなかみ紀行 67        みなかみ紀行 68
歌集『収穫』短歌新聞社 2003年         前田夕暮初版本

 さらに、その後は歌集3冊におよぶ自由律短歌、おびただしい戦争短歌、晩年の定型復帰という具合である。

 また、主宰した「詩歌」は歌誌として大正前期に最大規模を誇り、13年に北原白秋と創刊した「日光」でもはなばなしい活躍をした。

 その生涯で前田夕暮は埼玉の奥秩父と2度深い関わりを持っている。

 最初は大正の後半で、2度目は敗戦前後の時期である。

 夕暮の長男で歌誌「詩歌」を継承、主宰した前田透によると、夕暮の父は自由民権運動に奔走した豪農民権家で、運動の挫折後は大根村(現、神奈川県秦野市)の村長や神奈川県会議員などをつとめたという。のち「関東木材合資会社」を設立して山林事業を経営し、村を豊かにするというある種の理想主義的な考えから丹沢山の開発を手がける。

 その父が大正6年に死去したため、夕暮は代表社員として事業を継承、丹沢にあった事業地を8年から奥秩父の小森川の水源地帯に移して伐採、植林、製材などの山林事業に従事した。

 また夕暮は都内の自宅と奥秩父を往復する生活を続けた。

 この時期は「詩歌」を休刊し、歌壇的にも沈黙した時期である。その理由はいくつかあったようであるが、夕暮自身は「……その昔、独歩が北海道にあこがれて、一気に東京をとび出したやうな気持ちで、私は奥秩父に第二の生活原動地を見出さうとしたのであつた」(『素描』)と述べており、かねてから原生林への憧れを抱いていたことがうかがえる。

 両神村の小森川に沿った道を上流へ向かうと、道路は文字通り原生林の山並みを縫うように続く。道の突き当たりは両神山登山口のひとつである白井差だが、その手前四キロほどの地点に丸神の滝がある。

 そこは小森川に流れ込む支流が3段になって落ちる76メートルの滝である。現在はバスもあり、滝の周辺は遊歩道が整備されている。また、周辺には村営のキャンプ場がいつくかある。丸神の滝入口のバス停の反対側もすぐ鬱蒼とした山であるが、このバス停の近くに、

    洪水(でみず)川あから濁りてながれたり地(つち)より虹はわきたちにけり

 という前田夕暮の歌碑が建っている。

みなかみ紀行 70 歌碑「虹はわきたちにけり」


 この歌からは、小森川が梅雨時の大雨で増水して轟々と流れるさまや、雨上がりの山の空に虹のかかった雄大な光景が浮かぶ。

 自然石に刻まれた字は夕暮の直筆を拡大したものだ。碑は両神村が昭和51年に建立した。

 この歌は大正9年の「奥秩父その三」と題された連作の1首で、『原生林』(大正14年)のほか、『虹』(昭3年)の中扉裏に収められている。

 前田透『評伝前田夕暮』の大正9年の記述をみると、「この年秩父の山林経営に没頭。関東木材の事務所は小鹿野にあり、現地事務所は小森川上流の山峡滝前にあった。

   みなかみ紀行 62               みなかみ紀行 63
『評伝前田夕暮』前田透著 桜楓社1979年       『前田夕暮研究』山田吉郎著 風間書房 2001年


 滝前事務所には近くの丸神の滝から水をひいて水車を廻して伐材を運んだ。

 会社の従業員の家族は滝前一帯に住み、人口五、六百の部落ができた。のちに従業員師弟教育のために会社は滝前分教場を建てた」とある。

 この滝前分教場に関しては、従業員も応分に出資し、関東木材も相当額を出資したというのが実際であるが、従業員に配慮した夕暮の一面がうかがえる。現在村の第1キャンプ場になっている場所がそうで、くすんだ分教場記念碑が当時をしのばせる。

    みなかみ紀行 66

             歌集『原生林』(昭和4年版)   

    みなかみ紀行 65


    谷底は夜あかりうすし冬さればいのちいとしく小舎つくり棲む

    日のあたる山仰ぎつつトロ押しはトロ押しにけり谷の底ひを
   (歌集『原生林』)

    誰か一人こらへられずに林道を誰か馳せ行く春が来たのだ

    春されば旗あかあかと屋根にあり始業の鐘のさやかにひびく   
(歌集『虹』)


 そのような前田夕暮は・・・・・

 1909年、文光堂へ就職し『秀才文壇』の編集者となった。

 ここで竹久夢二と知り合う。

 1910年には、若山牧水の歌誌『創作』の創刊に編集同人として参加する。

 そうして栢野繁子と結婚。

 1911年、雑誌『詩歌』を白日社より創刊する。

 しかし1916年、第4歌集『深林』を刊行した際に、島木赤彦が『アララギ』にて夕暮を批判、赤彦と激しく対立した。

 そういう関係もあり1918年、『詩歌』休刊する。

 そこで1919年、前々年に死去した父親の経営していた関東木材合名会社と山林事業を引継ぐ。

 夕暮はこの年、奥秩父の山林事業に専心する。

 1921年には、牧水と互いの歌選集を出した。

 その6月、前田夕暮選『若山牧水選集』、若山牧水選『前田夕暮集』がアルス名歌選第一編、第二編としてアルスより出版される。

 牧水が「みなかみ紀行」の旅をするのは、この歌選集を出した翌年のことだ。

 40歳になった夕暮は、この年も歌壇的な活動はほとんどなく、沈黙を守り続けていた。しかしその夏に『冬夜集』(選集、未刊)を編集する。

 このころ夕暮は、小森川上流滝前に会社従業員家族と共に住み、その村は人口五、六百の集落を成していた。会社は従業員子弟教育のため、滝前分教場を建てた。こうしたことで歌壇的には沈黙であった。

奥秩父 小森川流域の紅葉(埼玉)


旧両神村(現小鹿野町)を流れる小森川上流の紅葉風景。


 そうした前田夕暮が沈黙を破るようにして奥秩父から草津温泉へと向かった。

 無論、夕暮としては偶然の同宿を装っている。

 牧水が旅宿の一井旅館で言う「久しぶりに会った友」とはその前田夕暮のことを指す。

 牧水はこれを奇遇にも同宿したと思ったはずだ。

 これで互いは一年ぶりの再会となった。

 前田の筆名である「夕暮」は、西行(さいぎょう)の「心なき身にもあはれは知られけり鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮」 からとったものだ。

 まさしく牧水の眼には夕暮という友が西行のように映る。

 目前には、奥秩父の山篭りのような遁世の労働者となった絞り削がれた肉体があった。

 久方の再会を喜ぶ牧水は酒など酌み交わして前田の近況でも聞きたいと言う。

 そうして一献、二献と酌み交わすに連れて、夕暮はふと語り始めた。

 ・・・・『啄木の歌は、やるせない叫びなのか、あるいは痛いばかりの祈りや願いなのか、当人ではないからよく解らないところもあるが、少なくとも誰かへの呼びかけであったことには間違いない。届く彼の言葉はやはり届く。その啄木が死んで10年となる。啄木は人間のこころの襞(ひだ)に沁み込んでゆくような言葉を、手を替え品を替え紡ぎ出した。そうして前代未聞のことを歌で誰でも解るように優しく語りかけた。啄木はそのことを自らに課し、泥臭いまでに尽くしに尽くした思う。そういう「生成的な体験」が今僕のなかで起ころうとしている。なるほど、優れた啄木の歌はどうしても、それが詠み、詠まれる社会の関心事やひずみを映し出すものだ。だが、そうした問題が、啄木の歌のそばに確かに感じられつつも、啄木固有の苦悩と喜びを抱えた魂の動き、つまり一人一人の人間に触れることを妨げていないところに啄木の歌の身震いするほどの完成度はある。啄木はそこに、あれやこれや情理を尽くして語ろうとしていた』と・・・・・・。

 じつは・・・そういう事を啄木に話したという後日談がある。

 それは1923年(牧水と夕暮が草津温泉で同宿した翌年)、東海道線小田原付近で北原白秋と再会したときの、白秋が夕暮から聞いた話で、そう聞かされたことを手記に白秋が認めている。

 白秋と夕暮は、そのまま2人で三浦半島へ吟行の旅に出た。

 そうした夕暮は以後、白秋との交友が続くことになる。

 1928年になると夕暮は『詩歌』を復刊させ、口語自由律短歌を提唱する。これはのちに「新短歌」を創刊する宮崎信義が参加することになり、夕暮は1942年に定型歌に復帰する。

 そんな前田夕暮が草津温泉にて牧水に啄木のことを篤く語ったのには「 明治45年(大正元年)「詩歌」六月号に石川啄木追悼を書く。大正2年4月、啄木追悼茶会にて伊藤左千夫にはじめて会う」などの啄木とは友好を深くした背景があったからだ。

 牧水も啄木と親交篤くしたことにおいては夕暮に劣るものではない。

 しかし没後10年を改めて促されてみて、

 奥秩父で技師として培った夕暮の山溪の眼力で、牧水は予定を変えて暮坂峠を越えることにした。

 そこには切実とした夕暮の「今の季節なら吾妻川支流の深山では、啄木鳥は冬支度に忙しい。あの彫刻の響き渡る聲はじつにいい。あれはきっと啄木の寂しさだ。今ならその啄木の声が聞こえる・・・」という何やら後ろ髪を引き繋ぐかの神妙な言葉があった。

 この想いを噛み締めるようにして牧水は「暮坂峠」を越えようとする。

 そう理解し直して、改めて「みなかみ紀行」を読み返してみると、

 峠を越える前日、10月19日の、その生須(なます)村で・・・

 八つの歌を詠んでいるのだが、その内7首が「啄木鳥」の歌である。一首は「」である。

       鳥と地球 gif

                    きつつきF

                 みなかみ紀行 31

                啄木鳥の聲を寂しく借り出して彼を想い

                そこに飛来させた鷹の聲を清廉と重ねて

                若くして命を散らした友の摂理を悲しみ

         若山牧水は石川啄木を偲びながら暮坂峠を越えた。

月の満ち欠け 3 gif

    毎年・・・・10月20日が廻りくる牧水の中秋とは・・・・また牧水の眼に啄木が廻向する。

       拾ふともなく拾ひもちて・・・・とは・・・・啄木の命と己の寂しみではないか。

      それが牧水の『枯野の旅』の詩である。

             みなかみ紀行 71

     みなかみ紀行 72

                旅人は天の摂理をわきまえて山を見た

                山背は高きから低きへと彩りを移ろい

                人はその色を低きから高きへ憂いゆく

                峠に雲湧きて雨滴れば幾山河と育まれ

                水は高きを低きへと流れては大河成る

                その命水を求めてまた山に分け入れば

                天然の和となり山と和する旅人となる

                暮坂峠には、その旅人の寂しさがある。




 以上・・・・この続きは第⑦話にて


      未だ白秋の彼岸遥かなり


                                白秋の彼岸より・・・By 漱太郎


バスのアニメ
北原白秋・若山牧水・石川啄木に関する書籍をお探しの皆様は
         快適な下記サイト検索がお薦め!!。

窓のぞきF
書籍選びの快適検索サイトなら下記の「新書・文庫本マニア」!!・・・新システム書籍専用サイト!!ライン黄色 gif

クリック・ボタン gif   新書・文庫本マニア   動く本

ライン黄色 gif


本線夜行列車九段駅  駅長の本音・・・ 『北原白秋』 ⑤

ウエルカム gif
夜の列車
ライン黄色 gif
本線夜行列車九段駅・・・・・・・・・・・駅長の本音

                北原白秋 ⑤』 特集

みなかみ紀行 9
     暮 坂 峠  地蔵跳ねる  いちょう舞う画面いちょう舞う画面いちょう舞う画面
      くれさかとうげ


     牧水の越えた峠

     「暮坂峠」・・・・・・・・この峠があるから牧水がいる。

           あるいは・・・牧水がいたからこの峠がある。

      大正11年(1922年)10月20日・・・若山牧水は・・・この日暮れ坂を上り峠を越えた。

      昭和56年・・・漱太郎はこの峠に立ち詩歌にもある宿命という永遠を見た。

    みなかみ紀行 2
    暮坂峠への道・・・写真は牧水が没してから32年後の1960年3月12日の光景。

    まず・・・旅の背中を追って・・牧水の「暮坂」という彼が越えた「峠」を越えてみよう。

    みなかみ紀行 10
    現在の暮坂峠への道

    それは・・牧水37歳の向かう峠である。

    この旅を終えた6年後、昭和3年に牧水は他界する。享年43の生涯であった。

    その境涯の断編が暮坂峠を越えた「枯野の旅」である。


 明治後期から大正は「若者の元気は国の元気なり」という時代である。

 それらは教育・訓練の徹­底と自由な考えと自治が理想でもあった。

 この理想を解りやすく想えば、次ぎの歌がある。

 あらゆる学生寮歌の中で最も人口に膾炙した歌の一つである。       さくら降る画面

旧制高校の青春 『嗚呼玉杯に花うけて』 一高寮歌     ひとひら桜回転



 この歌は当時のオリジナルである。キーがFmと高い。最高­音がAbだからクラシックなみ。今日では最高音をFのD­mで歌う。当時は学生以外も多くが愛唱した。

 これは佐藤紅緑が少年誌に連載した『嗚呼玉杯に』などを通して民間にも­膾炙したようだ。

 しかしなによりも覚えやすい。歌いやすい。一高への憧憬、が広ま­った理由の一つだと思われる。

 原曲は長調だったが、どうやら短調化して広まったようだ。

みなかみ紀行 22      みなかみ紀行 25
 佐藤紅緑   斉藤五百枝:画、佐藤紅緑『あゝ玉杯に花うけて』 少年倶楽部文庫 講談社、昭和50年

 佐藤紅緑は昭和初期に圧倒的な支持を受け「少年小説の第一人者」として知られる。作詞家で詩人のサトウハチロー、作家の佐藤愛子、脚本家で劇作家の大垣肇の父。ここは余談だが、3人とも母が異なる。肇は愛人の子供であり、紅緑とは同居はしていない。弟子に詩人の佐藤惣之助と福士幸次郎がいる。何かと雑談・珍説の耐えない家系である。

みなかみ紀行 23      みなかみ紀行 24
   作家・佐藤愛子         「血脈〈上〉」佐藤 愛子 文藝春秋

 当代随一の人気作家、佐藤紅緑(洽六)は、シナこと新進女優(三笠万里子)が 現れるまで、妻ハルと長男の八郎、節、弥、久と長女喜美子の そこそこ幸せな生活だった。洽六が シナに 夢中になって、かわいがっていた長女喜美子が 結核で死ぬと一家の崩壊が始まる。 第四十八回菊池寛賞受賞。


 愛子の「血脈」は上・中・下の三部作。見えてくる佐藤血脈も面白いが、佐藤紅緑とうい男の明治気質からは時代の風俗をも絡められていて大正・昭和初期を語る特異な三部作である。

 これは・・・・・少し余談をした。

 また次ぎのような寮歌もある。

第七高等学校寮歌 『北辰斜めに

     下駄動く

 北辰斜に 第七高等学校造士館 第14回紀年祭歌 作詞:簗田勝三郎 作曲:須川政太郎 (大正4年)

 この旧制第七高校の名作寮歌には、巻頭言が付いたものもある。最も知られているものは映画「北辰斜めにさすところ」の冒頭で叫ばれるように「流星落ちて棲む処 カンランの実熟るる郷・・・」であろうか。これは現代の鹿児島でも未だ歌われている。

 ・・・「理想の空に長駆(ちょうく)せん」・・・と、

 両歌いずれとも当時の学生が志向する理想を描く。

 無論・・・早稲田の牧水と両歌は直接何ら関係はない。

 しかし・・・・・・・これらの歌は牧水の生きた御時世を現している。

 牧水が峠に向かうころは、すでにデカンショを歌う時代は過ぎていた。

 さて・・・・・・・       若山牧水 5 「みなかみ紀行」の牧水

 この牧水の旅姿も当時の感覚では自然体なのだ。

 現代で思うからこそ浪漫漂うのであるが、当時、スタンダードの出立ちであろう。

 牧水の年齢を加味すると、少し若作りか、若く立ち戻ることに工夫した感がある。

みなかみ紀行 17
香川県立丸亀高等女学校運動会 フットボールをする女学生

 この写真は大正初期の女学生が蹴球(サッカー)に興じる姿であるが、この乙女らのハチキレン姿に比べると牧水のマント姿は当時としてはいかにも懐古的な印象にしか過ぎない。

 牧水のマント姿とは、現代視点での浪漫なのである。

 この時代、牧水のような旅姿は有触れた光景であった。


 暮坂峠の道は江戸時代には草津、沢渡そして伊香保各温泉を結ぶ道として賑やかに往来した。

 酸性の強い草津の湯に比べ、湯の柔らかな沢渡は草津の仕上げ湯とも呼ばれる。

 暮坂峠は、草津から沢渡へと向かう、そんな湯治客が辿った道なのである。

 しかし明治に入ると、我妻川沿いに新たな新道が拓かれ、軽井沢・草津間も街道が整備されて、急速に寂れてしまうことになる。

 峠の牧水の詩碑には「上野の草津の湯より沢渡の湯越ゆる路、名も寂しき暮坂峠」と有るから、牧水が訪れたのは、そんな寂れ始めた暮坂峠なのであった。

   幾山河 

   越えさりゆかば寂しさの 

           はてなむ国ぞ今日も旅ゆく


    みなかみ紀行 19

    みなかみ紀行 18

 この若山牧水の短歌からか、漱太郎には彼の旅に孤独なイメージがあった。

 強烈な孤立感を抱くからか、つい深い郷愁に立ち入り、贖罪を悔いるべき昔年の想いへと誘われる。

 しかし同じ彼の紀行集『みなかみ紀行』を読むとそれとは異なる感想を述べたくなる。

 牧水は信州や上州の山深い温泉宿を歩いて訪ね、酒を飲むのを楽しみにしていたことがわかる。

 友人、知人と一緒に酒を楽しく汲み交わしている。

 歌詠みを家業とすれば、現実と実情を伴ってくる。

 旅ではその現実とも向き合った。

 計画的でしかも友人との再会の口実が牧水の旅でもあった。そして、紀行文として出版し、生活の糧にもなっていた。何よりも旅先で詠む短歌が多くの大正人を魅了した。

 そうした現実といえば・・・・

 牧水は、晩年海に近い静岡沼津の海岸近くに居を構えた。

 このころ千本松原という長い年月人々に守られてきた松林が伐採される計画が浮上する。これに真先に反対運動を起こしたのが牧水だった。

 地球温暖化が世界の共通認識になりつつある現代よりも遥か以前の時代に環境保護を訴えたわけである。

 そうした牧水が自然保護の運動家とは思えないが、緑深い山河を愛していたことは、『みなかみ紀行』を読めばよくわかる。

 その「みなかみ」とは、温泉地の「水上」ではなく、水源地の「みなかみ」である。

湧水の流れ・牧水 - Flow of spring water -the BOKUSUI


牧水の「みなかみ紀行」を題とした湧水のイメージ創作曲(立体言語学研究実験例資料より)

 そこには、きれいな水と木々があり、春は緑が芽吹き、夏は深緑が涼しい影を落とし、秋には紅葉して美しい。冬木立もまた良い。

 四季さまざまな鳥の声も聞こえる。そうして牧水が多くの鳥を知っていたことに驚かされる。

 啄木鳥の声のさびしさ 飛び立つとはしなく 啼ける声のさびしさ

 紅ゐの 胸毛を見せてうちつけに 啼く啄木鳥の声のさびしさ


 これは草津からさらに源流に近い花敷温泉に行く途中の短歌だが、さびしい、さびしいと言っている。同行者もあり、牧水が啄木鳥の鳴き声をさびしいというのは、読者を意識しているように思えてならない。いわば常套句に近い。この時代の大衆は、さびしさに対する共感があったようだ。

 当時からそうであるが、現代人は更にその寂しさを増幅させるのであろう。

 牧水のそうした工夫には、現代人であるからこそ感慨も無量となる人情の溢れようを意識させられる。

 他の短歌にもこの傾向は強くある。牧水は「さびしい」をよく口にする人だ。

 みなかみ紀行の牧水には、「枯野の旅」という詩がある。

 その中に・・・

 上野(かみつけ)の草津の湯より
 沢渡(さわたり)の湯に越ゆる路
 名も寂し暮坂(くれさか)峠


 という一節があるが、ここにもさびしさが詠われている。

 牧水のおかげでこの暮坂峠はじつに有名になった。

 これこそ、牧水が「寂しい」詩にしなければ、何もない只のさびしい峠である。

 この牧水の寂しさを懐にして上州路を駆けるSL列車を見るとその哀愁には牧水が重なる。

 SL「みなかみ」の名は牧水の「みなかみ紀行」から名付けられた。

 暮坂峠への最寄り駅は「渋川駅」である。

上州路を走るDL&SL『みなかみ』SL編


群馬・・・八木原、津久田-岩本逆S字、諏訪峡(下り)、水上発車、渋川-八木原(上り)。

 漱太郎は上州路のSLを見る度に思うのだ。

     SLアニメ

 若山牧水という男は、この世の、この地ばかりを踏み歩いた。

 けしてあの世に一歩たりとも踏み込もうとはしなかった。只、ひたすらと「この世」だけを歩いた。

 彼の寂しさは「この世の寂しさ」である。

 比べて北原白秋は・・・・

北原白秋 12 白秋

 時々ふらりとあの世に、一歩踏み出そうとして見せる。

 そのあの世とは、地獄の時もあれば、天国の時もある。

 両者共に「寂しくて、淋しい」のであるが、矜持を強いる感性の発露が相互異質なのである。

 それはまた、泥臭くありたいと願い続ける矜持と、清潔でありたいと願い続ける矜持との違いでもある。

 若山牧水が暮坂峠越えをした1922年(大正11年)、

 その時分の北原白秋は・・・・・

 少し以前に遡っての話となるが、

 8年前の1914年(大正3年)、肺結核に罹患した妻俊子のために小笠原父島に移住した。

 しかし、ほどなく帰京する。

みなかみ紀行 20 俊子(旧姓・松下俊子)

 ともかく父母と俊子との折り合いが悪く、ついに最初の妻・俊子とは離婚するに至る。

北原白秋 76 章子

 1916年(大正5年)に、2番目の江口章子と結婚し、葛飾紫烟草舎に転居した。

 これによって白秋は筆勢いよいよ盛んにして『白秋小品』を刊行する。

 1917年(大正6年)、阿蘭陀書房を手放し、再び弟・鉄雄と出版社アルスを創立した。この前後、北原家の家計はきわめて困窮し、ついに妻の章子は胸を病んだ。

 1918年(大正7年)、小田原に転居する。

 そのころ鈴木三重吉の慫慂(しょうよう、しきりに強く勧める事の意味)により『赤い鳥』の童謡、児童詩欄を担当。優れた童謡作品を次々と発表し、作品に新生面を拓くのみならず、以降の口語的、歌謡的な詩風に強い影響を与えることになる。

 1919年(大正8年)、処女小説『葛飾文章』『金魚』発表した。

 このころになると白秋の生活もようやく落ち着き、歌謡集『白秋小唄集』、童謡集『とんぼの眼玉』刊行。

みなかみ紀行 16 『北原白秋詩集』 神西清編 新潮社 1989年

 さらには1920年(大正9年)、『雀の生活』刊行。また『白秋詩集』刊行も開始する。

 そうして小田原の住居の隣に山荘「木兎の家」を新築した際の祝宴は、小田原の芸者総出という派手なものであった。それに白秋の生活を金銭的に支えて来た弟らが反発し、強く章子を非難した。

 着物ほとんどを質入れしたと言う章子は非難されるいわれもなく反発した。

 章子はその晩行方をくらまし、それを白秋が不貞だと疑い、これが理由で章子とは離婚した。

 すると1921年(大正10年)、佐藤菊子(国柱会会員、田中智學のもとで仕事)と結婚する。

みなかみ紀行 21 菊子

 これ以降、信州滞在中想を得て、『落葉松』を発表。歌集『雀の卵』、翻訳『まざあ・ぐうす』などを刊行。

 1922年(大正11年)には長男・隆太郎が誕生した。

 文化学院で講師となり、また山田耕筰と共に『詩と音楽』を創刊。この山田とのコンビで数々の童謡の傑作を世に送り出す。そうして歌謡集『日本の笛』などを刊行した。

 そういう白秋にとって大正11年とは、まさしく絶頂期なのであった。

 片や牧水はというと、無論、そのことを承知していた。

 だから牧水は・・・また旅を始めたのだ。

 そのことを確かめるためにもう少し牧水の旅に触れる。

             若山牧水 3
                  長靴白    枯野の旅

 みなかみ紀行

 『みなかみ紀行』は若山牧水が53の短歌と「枯野の旅」の詩を書き記した紀行作品。大正11年(1922年)10月中旬から11月上旬までの旅を日記仕立てにした随筆集である。

 10月14日に沼津の自宅を立ち、長野県・群馬県・栃木県を巡って、11月5日に帰着する24日間の旅情を『みなかみ紀行』として大正13年(1924年)に出版した。

 また「枯野の旅」を収めた随筆集『樹木とその葉』は大正14年(1925年)に出版された。

 旅程は、利根川の水源を訪ねて、岩村田、小諸、軽井沢、草津、小雨、花敷、暮坂峠、沢渡、四万、中之条、法師、沼田、金精峠、奥日光などをめぐる旅。

みなかみ紀行 8
大正14年(1925年)2月、改造社から随筆集「樹木とその葉」として出版された初版本の表紙。

     みなかみ紀行 1

 上記の道程は、牧水の足跡である。

 牧水はこの距離の大半を草鞋で歩くが一部では鉄道と自動車を使用している。

 徒歩の部分が赤ライン・・・鉄道を紺ライン・・・自動車は桃ラインとして区分した。

 漱太郎もこの道程を一度歩いてみた。

 昭和56年(1981年)10月のことだ。今から31年前のことになる。

 月は有明にて・・・という。

 そういう芭蕉の旅のようにはいかないが、ともかくも暦上は同じ日付で辿ろうと考えた。


 牧水の書留通りに歩いてみるとよく解る。日程に符合させた牧水の行動距離は、それほど体力を酷使させる旅工程ではない。むしろ長閑な旅で、充分に旅情を味わえる日程である。

 その上州路はやはり牧水がそうしたように秋がいい。晩秋なら更によい。

 枯野の旅・・・そのシンボル的な場所が暮坂峠である。牧水はこの峠を越えた。

            みなかみ紀行 6  
                   暮坂峠への道(1960年当時)
            みなかみ紀行 3
                   暮坂峠への道(1960年当時)
            みなかみ紀行 7

            みなかみ紀行 5
                   牧水の記念碑(1960年当時)
            みなかみ紀行 4

       いずれの掲載写真も、牧水が没してから32年後の1960年3月12日の光景。


       みなかみ紀行 11
                昭和56年(1981年)10月18日 撮影by漱太郎
               暮坂峠の「枯野の旅」の詩碑と旅姿の牧水の銅像。

 [牧水の日程と動向]

 10月14日 沼津から佐久へ
 10月15日 佐久の短歌会に出席
 10月16日 小諸の懐古園に立ち寄ってから星野温泉へ
 10月17日 軽便鉄道で嬬恋へ
 10月18日 乗合自動車で、嬬恋から草津温泉へ
 10月19日 草津温泉を出発し、気が変わって花敷温泉へ
 10月20日 暮坂峠を越えて、沢渡温泉経由四万温泉へ
 10月21日 中之条駅から電車で沼田へ
 10月22日 法師温泉へ
 10月23日 法師温泉から引き返して湯宿温泉へ
 10月24日 沼田
 10月25日 片品川に沿って老神温泉へ
 10月26日 吹割の滝、千明(ちぎら)家に立ち寄って白根温泉へ
 10月27日 丸沼の養鱒場の番小屋に宿泊
 10月28日 金精峠を越えて日光湯元温泉へ


 『 枯野の旅

 乾きたる
 落葉のなかに栗の實を
 濕りたる
 朽葉(くちば)がしたに橡(とち)の實を
 とりどりに
 拾ふともなく拾ひもちて
 今日の山路を越えて來ぬ

 長かりしけふの山路
 樂しかりしけふの山路
 殘りたる紅葉は照りて
 餌に餓うる鷹もぞ啼きし

 上野(かみつけ)の草津の湯より
 澤渡(さわたり)の湯に越ゆる路
 名も寂し暮坂峠


                    栗

 10月14日、沼津を出発し東京でM、K両青年と合流し、信越線で信州へ。御代田駅で降りて、その夜は岩村田の佐久に泊まる。

 10月15日、岩村田での佐久新聞社主催の短歌会に出席し、その夜も同じホテルに泊まる。

 10月16日、軽便鉄道で小諸へ出て、島崎藤村ゆかりの懐古園へ。小諸から汽車で沓掛駅へ、軽井沢の星野温泉に宿泊する。

みなかみ紀行 38 牧水の往時を偲ばせる星野温泉

みなかみ紀行 39
                    現在の星野温泉

 この星野温泉と言えば、牧水がここを訪れる前年、

 大正10年に北原白秋を講師として招き「芸術自由教育講習会」がこの中軽井沢星野温泉で開かれた。この滞在中に朝夕なに落葉松林を散策して生まれたといわれる名作「落葉松」が歌碑に刻まれている。


みなかみ紀行 36

みなかみ紀行 37 懐古園

 白鶴城[しらつるじょう]や酔月城[すいげつじょう]ともよばれた小諸城は、城下町より低い位置に築かれた全国的にも珍しい穴城[あなじろ]で、西側には天然の要塞[ようさい]になる千曲川が流れている。1880年(明治13)、その跡地に造られた懐古園は、藤村記念館をはじめ、小山敬三美術館、動物園、遊園地などが集まった、小諸の代表的な観光スポット。藤村の『千曲川のスケッチ』にも登場する。入口には、「懐古園」の大額が掲げられた寄棟造の城門、三の門(重要文化財)が立つ。


 10月17日、草津軽便鉄道で嬬恋へ。駅前の旅館に宿泊する。

みなかみ紀行 40
               明治後期から大正初期の草津温泉

 10月18日、乗合自動車で草津温泉に向かった。

 「初め岩村田の歌會に出て直ぐ汽車で高崎まで引返し、其處で東京から一緒に來た兩人に別れて私だけ沼田の方へ入り込む、それから片品川に沿うて下野の方へ越えて行く、とさういふのであつたが、斯うして久しぶりの友だちと逢つて一緒にのんびりした氣持に浸つてゐて見ると、なんだかそれだけでは濟まされなくなつて來た」のだと牧水は言う。

 これに従うと、当初は高崎から沼田へ、そして片品川沿いに歩く予定であったが、途中で予定が変更されたことになる。牧水は、旅に出る前に綿密な計画を立てるのが楽しみだったようで、もし岩村田から先の計画が変更されなったら、牧水は暮坂峠を越えることはなく、旅情詩「枯野の旅」は生まれなかった。

 牧水の峠越えは想定外のことであったのだ。

 詩歌というものが生まれるのにも宿命というものがある。

 その『みなかみ紀行』は、大正11年(1922)、牧水37歳の10月14日に沼津の自宅を出発し、長野県、群馬県、栃木県をまわり、11月5日に帰着するまでの24日間の旅のうち「長野県の佐久から栃木県の日光湯元温泉まで」を綴った紀行でその中に歌がちりばめられている。

みなかみ紀行 12
               暮坂峠 若山牧水『枯野の旅』記念詩碑

 牧水が暮坂峠を越えたから、そのシンボル的な場所が暮坂峠となった。

 ここには「寂しさ」を詠めた宿命がある。

 寂しく思うモノを、寂しい峠が受け入れた。

 牧水は寂しい峠を、寂しいと詠う。そうして暮坂峠の寂しさは永遠となった。

 こうして牧水と暮坂峠の、その二つの宿命を手厚く鎮める弔いが生まれた。

 その日は・・・・・10月20日・・・

 手向ける花は・・・その宿命に・・・

牧水祭・・・沢渡温泉


若山牧水ゆかりの暮坂峠で毎年行われている「牧水祭」。

 祭典は沢渡温泉住民によって全面的にバックアップされている。無料のなめこ汁配布や、地元物産品の即売会など、イベントも盛りだくさんで、この日は全国各地から数多く牧水ファンが訪れている。

 現在、この暮坂峠へと向かう道も群馬県道55号(中之条草津線)が通るだけだが、実はかつては草津へと向かう湯治客の多くはこの峠を越えた。

 若山牧水は大正11年10月18日に草津温泉の一井旅館(現・ホテル一井)に一泊し、そこから四万(しま)温泉を目ざすのだが、途中花敷温泉に寄り道をし10月20日に暮坂峠を越えた。

 そこには越えたからこそ見える峠越しの景観があった。

 牧水はその峠からの景観に感動し「上野(かみつけ)の草津の湯より 澤渡(さわたり)の湯に越ゆる路 名も寂し暮坂峠」という『枯野の旅』を記すことになる。

 現在でもその峠周辺には人工物はなく、牧水が越えた当時の雰囲気が残されている。

 また今でこそ草津への抜け道的なルートだが、毎年10月20日の『牧水祭』の頃、暮坂峠は、カラマツや落葉樹の紅葉がちょうど見頃となる。

 暮坂峠を越えた牧水は、四万温泉を目指した。

 峠から林間を走る県道を下ると沢渡温泉である。

みなかみ紀行 15         温泉マーク動く
          沢渡温泉

 じつはこの沢渡の湯は柔らかい湯として評判で、強酸性の草津温泉で湯治した人は、この沢渡を「仕上げの湯」に使っていた。

 つまり、今でこそ走る人の少ない県道となった道も、牧水が歩いた時代には草津湯治の旅人でかなり賑わっていたと推測される。

 牧水は正午近く沢渡温泉に着き、正栄館という旅館でひと休みしている。

 この正栄館は、昭和3年に「龍鳴館」と名前を変え今も健在である。龍鳴館横には昔ながらの共同湯もあるので一風呂浴びていこう。漱太郎もそうした。

みなかみ紀行 14
                平安時代の開湯・・四万温泉

 牧水は四万温泉で田村旅館に泊まっているがこれが老舗旅館の「四万たむら」である。

 四万温泉は四万川の渓流沿いに源泉掛け流しの宿が並ぶとあって、癒しの温泉地として人気を呼んでいる。美しい渓流、共同湯が健在、積善館に代表されるレトロなたたずまいと、牧水時代のロマンが今も残されている。温泉街にある日向見薬師堂、これは国の重要文化財である。


四万温泉「四万たむら

  

五百年の歴史を持つ群馬県四万温泉・四万たむら。
             猪脅し             みなかみ紀行 13

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 じつは牧水の、この暮坂峠には、次ぎの人物の鍵がある。
              あるいは・・・それは錠であるのかも知れない。

        ここには牧水が詩歌で施錠した深い悲しみが秘められている。

        それがまた特別の・・・暮坂峠という山越えの寂しさである。


           みなかみ紀行 26
                  石川啄木(1886-1913)

 牧水の暮坂峠に啄木が関係する、とは、おそらく読者は初耳であろう。

 第⑤話の最後は、本邦未だ知れざる未公開の、いかにも初耳の話となる。

 啄木の死後10年を経て、牧水は暮坂峠を越えた。

 この「啄木の死後10年」という一区切りとなる節目を、ふと牧水は忍ばせた。

 牧水の「みなかみ紀行」の途上にて、これを牧水は偲んでいる。

 そこには、牧水をそう偲ぶよう差し向けた、と或る人物がいた。

 しかし、その人物は紀行文上では匿名である。

 この真相に迫りたい。

 そこで・・・

 啄木の生きた時代を少し遡ることにする。また啄木の作品にも触れてみたい。


 石川啄木は小石川区久堅町にて肺結核のため死去した。

 1912年(明治45年)4月13日のことだ。

 享年26という若死にであった。

 この最期を若山牧水は、啄木の妻、父と共に看取っている。

 そうして4月15日、

 浅草等光寺で啄木の葬儀が営まれた。ここには夏目漱石も参列した。

 浅草等光寺は、土岐哀果が生まれた寺で、彼が葬儀の世話をした。

 その土岐哀果は土岐善麿(とき ぜんまろ)ともいい、歌人でもあり国語学者でもある。

みなかみ紀行 27     みなかみ紀行 28
     土岐哀果        写真は、銀座カフェ・ヨオロッパにて、大正3年4月。
                 前列右より若山牧水、土岐善麿
                 後列右より古泉千樫、前田夕暮、斎藤茂吉、中村憲吉。


                   みなかみ紀行 29
                    晩年の土岐善麿

 この歌人・土岐に次ぎの歌がある。


    石畳 こぼれてうつる実桜を
    拾ふがごとし!
    思ひ出づるは
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・土岐善麿

         みなかみ紀行 30

 これは土岐善麿のローマ字三行書きの歌集の巻頭の作で、原文はローマ字である。

 明治43年刊『NAKIWARAI』に掲載された。

 またこの短歌三行書きは親友・石川啄木、あるいは「アララギ」派から出た釈迢空らに影響を与える。

 「実桜」はサクランボのことだ。

     さくらんぼ回る

 そこに土岐は「思い出すことの内容は描写せず、ただそれが石畳に散る実桜を拾う感じだと、直截な気分の感触だけ」を記述する。

 そうした、きびきびした語の動きは感傷をも律動感に溶かし込んでいる。

 彼独自の工夫として、2行目の末尾に感嘆符!を打つなど新機軸を打ち出そうとしたことは、明らかだった。

 土岐善麿は新聞記者としての経歴も長く、その幅ひろい視野に立って、戦後になっても国文学者として、漢学者として、またエスペランティストとして活躍した。能の新作も試みた。

 青年時代の号は「哀果」で、この詩を作った頃は哀果だった。そんな土岐も近年昭和55年に没。

 彼の三行書きの詩(歌というべきか)を少し書き抜いてみる。

    指をもて遠く辿れば、水いろの
    ヴォルガの河の
    なつかしきかな。


    おほかたの、わかきむすこのするごとき
    不孝をしつつ、
    父にわかれぬ。


    手の白き労働者こそ哀しけれ。
    国禁の書を
    涙して読めり。


    焼跡の煉瓦のうへに、
    小便をすれば、しみじみ、
    秋の気がする。


    りんてん機今こそ響け。
    うれしくも、
    東京版に雪のふりいづ。


みなかみ紀行 31 啄木

            啄木のペンネームは境内の樹林をたたく啄木鳥(きつつき)から生まれたもの。

 さて啄木に付いての続きに戻すが・・・・

 啄木の弔いを終えた翌6月14日、啄木の妻・節子が次女を出産する。

 その女児は房州(千葉県)で生まれたため房江と名付けられた。

 啄木の死を追悼するための記念集として6月20日、第二歌集『悲しき玩具』出版される。これには土岐がタイトルをつけた。1910年に第一歌集『一握の砂』が東雲堂より出版されているため、この第二歌集は二年間して出版されたことになる。

 そうしてその同年の9月4日、節子は二人の遺児を連れ、函館の実家に帰る。

 若山牧水はその節子、母子3人を只一人駅に来て見送っている。


        みなかみ紀行 32
     『石川啄木という生き方 二十六歳と二ケ月の生涯』 長浜功著 社会評論社 2009年
 
 啄木の歌は日本人の精神的心情をわかりやすく単刀直入に表現している。そして、青春の歌人・啄木の人生は二十六歳で終わった。この壮絶な波乱にみちた啄木の生涯を著者・長浜功が再現する。


みなかみ紀行 33 『復元啄木新歌集 一握の砂以後〈四十三年十一月末より〉仕事の後』

石川啄木/著 近藤典彦/編 桜出版 2012年


            客船

     みなかみ紀行 34
                      津軽海峡

 船に酔ひてやさしくなれる
           いもうとの眼見ゆ
                 津軽の海を思へば


 石川啄木が妻子を盛岡に、老母を渋民に残し、妹の光子と津軽海峡を越えたのは、明治40年5月4日であった。

 その時の心境を啄木は日記に記している。

 「夜九時半頃青森に着き、ただちに陸奥丸に乗り込みぬ。夜は深く、青森市の電燈のみ眠た気に花めきて、海黒し」と。

 新しい運命を切り開くべく、北海道・函館の地を踏んだのは、翌日の5月5日であった。

 啄木の歌の特徴を挙げるとすれば、先ず第一にその庶民性、大衆性であろう。

 歌はいずれも平明であり、その点が広く大衆性を受け入れられ、日本近代文学史上、最も有名な国民詩人といわれるゆえんであろう。

 東海の小島の磯の白砂に
          われ泣きぬれて
               蟹とたわむる


 啄木は北海道に渡って函館、札幌、小樽、釧路と漂白生活を送ったが、明治41年の春、上京して小説家を志すが、その小説が売れないために悩み多い日々を送っていた。


初恋 鮫島有美子


 ドイチェのピアノ伴奏。このドイチェについて、鮫島有美子は「私の­長所短所がわかってくれている人」と語っている。また彼女自身、啄木の詩歌に強く魅せられるいう。


 啄木「東海の歌」は『一握の砂』巻頭の歌で、啄木の作品中最も有名なものである。


 頬につたふ
    なみだにごわず
         一握の砂を示しし人を忘れず



 砂山の砂に腹這ひ
        初恋の
          いたみを遠くおもひ出づる日



 いたく錆びしピストル出でぬ
             砂山の
               砂を指もて堀りてありしに



石川啄木 一握の砂


乃木坂46・・・・日本文学シリーズ『石川啄木』 編集・監修:by 三馬漱太郎


 こうして啄木の歌を並べて見ると、津軽海峡、函館、小樽、釧路など、現代視点からは流行歌の舞台となる所が多い。その同じ舞台には石原裕次郎「錆びたナイフ」(萩原四郎・作詞)などもある。しかしこれは「なども」という白モノではない。作詞に当たり萩原四郎は「啄木の砂山」を起こした。

 砂山の砂を 指で掘ってたら
       まっかに錆びた
       ジャックナイフが出て来たよ
      どこのどいつが 埋めたか 胸にじんとくる 小島の秋だ


 この裕次郎の歌謡曲を聞く一般大衆の胸中に漂白の悲しみが沸き起こるのは、たぶん啄木の愛唱歌を想起するからではないだろうか。萩原四郎はそうなる大衆心理を意識して先読みをし、みごとに大衆をリードした。またそのように萩原四郎を思索させたのは、啄木独自の寂しい詩情性であった。

                    まわるカメラ

石原裕次郎『錆びたナイフ


映画「錆びたナイフ」(1958年)監督: 舛田利雄. 出演: 石原裕次郎, 小林旭, 宍戸錠。 
曲・・・作詞:荻原四朗、作曲:上原賢六


       夜の列車

            みなかみ紀行 35

 ここから・・・・再び

 話は「暮坂峠」を越えることになる牧水の旅に戻る。

 何故(なぜ)・・・牧水は此の峠を越えたのだ?。

 越えることを心定めた牧水の目的とは一体何だ?。

 じつは・・・漱太郎は、このプッンと途切れた牧水の心根の心棒を数十年来探し求めてきた。

 様々な視点から牧水の動向、周辺の関連を洗い直してみた。

 そうすると解ることがある。

 ・・・・・今直、寂しい峠だからこそ、その寂しさに意義があることを・・・


 牧水は10月20に峠を越えた。

 その二日前・・・・・の記述から牧水の紀行随筆の上をしばし歩いてみる。

  10月18日、草津温泉

 草津ではこの前一度泊つた事のある一井旅館といふへ入つた。私には二度目の事であつたが、初めて此處へ來たK―君はこの前私が驚いたと同じくこの草津の湯に驚いた。宿に入ると直ぐ、宿の前に在る時間湯から例の佗しい笛の音が鳴り出した。それに續いて聞えて來る湯揉みの音、湯揉みの唄。

 浴客がすべて裸體になり幅一尺長さ一間ほどの板を持つて大きな湯槽の四方をとり圍みながら調子を合せて一心に湯を揉んでゐるのである。そして例の湯揉みの唄を唄ふ。先づ一人が唄ひ、唄ひ終ればすべて聲を合せて唄ふ。唄は多く猥雜なものであるが、しかもうたふ聲は眞劍である。全身汗にまみれ、自分の揉む板の先の湯の泡に見入りながら、聲を絞つてうたひ續けるのである。

 草津にこの時間湯といふのが六箇所に在り、日に四囘の時間をきめて、笛を吹く。それにつれて湯揉みの音が起り、唄が聞えて來る。


   たぎり沸(わ)くいで湯のたぎりしづめむと病人(やまうど)つどひ揉めりその湯を

   湯を揉むとうたへる唄は病人(やまうど)がいのちをかけしひとすぢの唄

   上野(かうづけ)の草津に來り誰も聞く湯揉の唄を聞けばかなしも


 さらに翌日・・・・の記述

  10月19日、小雨村

 正面に淺間山が方六里に渡るといふ裾野を前にその全體を露はして聳えてゐる。聳ゆるといふよりいかにもおつとりと双方に大きな尾を引いて靜かに鎭座してゐるのである。朝あがりのさやかな空を背景に、その頂上からは純白な煙が微かに立つてやがて湯氣の樣に消えてゐる。空といひ煙といひ、山といひ野原といひ、すべてが濡れた樣に靜かで鮮かであつた。濕つた地(つち)をぴたぴたと踏みながら我等二人は、いま漸く旅の第一歩を踏み出す心躍りを感じたのである。地圖を見ると丁度その地點が一二〇八米突(メートル)の高さだと記してあつた。

 とりどりに紅葉した雜木林の山を一里半ほども降つて來ると急に嶮しい坂に出會つた。見下す坂下には大きな谷が流れ、その對岸に同じ樣に切り立つた崖の中ほどには家の數十戸か二十戸か一握りにしたほどの村が見えてゐた。九十九折(つづらをり)になつたその急坂を小走りに走り降ると、坂の根にも同じ樣な村があり、普通の百姓家と違はない小學校なども建つてゐた。對岸の村は生須村、學校のある方は小雨(こさめ)村と云ふのであつた。


   九十九折(つづらをり)けはしき坂を降り來れば橋ありてかかる峽の深みに

   おもはぬに村ありて名のやさしかる小雨(こさめ)の里といふにぞありける

   蠶飼(こがひ)せし家にかあらむを壁を拔きて學校となしつ物教へをり

   學校にもの讀める聲のなつかしさ身にしみとほる山里過ぎて



 牧水は草津から草津高原を越えて、小雨村、現在の中之条町旧六合村の小雨に出た。

 ここは草津からの国道292号線が通っているが、草津高原経由の方が距離は短い。

 牧水は、小雨から暮坂峠を越える予定であったが、道標を見て気が変わり、花敷温泉へ向かう。

 草津から花識温泉へ直接行くのであれば、国道252号線を行き、荷付場から国道405号線を北上した方が近い。

 現在、その小雨にある六合村第1小学校前に歌碑がある。「おもはぬに」と「学校に」のふたつの歌が並んでいる。

  生須(なます)村

 牧水は、小雨から暮坂峠を越える現在の県道55号線に入った。ここでは、たくさんの歌が詠まれている。

 生須村を過ぎると路はまた單調な雜木林の中に入つた。

 今までは下りであつたが、今度はとろりとろりと僅かな傾斜を登つてゆくのである。日は朗らかに南から射して、路に堆い落葉はからからに乾いてゐる。音を立てゝ踏んでゆく下からは色美しい栗の實が幾つとなく露はれて來た。多くは今年葉である眞新しい落葉も日ざしの色を湛へ匂を含んでとりどりに美しく散り敷いてゐる。をりをりその中に龍膽(りんだう)の花が咲いてゐた。


   枯れし葉とおもふもみぢのふくみたるこの紅ゐをなんと申さむ

   露霜のとくるがごとく天つ日の光をふくみにほふもみぢ葉

   溪川の眞白川原にわれ等ゐてうちたたへたり山の紅葉を

   もみぢ葉のいま照り匂ふ秋山の澄みぬるすがた寂しとぞ見し


 帽子に肩にしつとりと匂つてゐる日の光をうら寂しく感じながら野原の中の一本路を歩いてゐると、をり/\鋭い鳥の啼聲を聞いた。久し振りに聞く聲だとは思ひながら定かに思ひあたらずにゐると、やがて木から木へとび移るその姿を見た。啄木鳥である。一羽や二羽でなく、廣い野原のあちこちで啼いてゐる。更にまたそれよりも澄んで暢びやかな聲を聞いた。高々と空に翔(ま)ひすましてゐる鷹の聲である。

                    きつつきF


   落葉松(からまつ)の苗を植うると神代振り古りぬる楢をみな枯らしたり

   楢の木ぞ何にもならぬ醜(しこ)の木と古りぬる木々をみな枯らしたり

   木々の根の皮剥ぎとりて木々をみな枯木とはしつ枯野とはしつ

   伸びかねし枯野が原の落葉松は枯芒よりいぶせくぞ見ゆ

   下草のすすきほうけて光りたる枯木が原の啄木鳥(きつつき)の聲

   枯るる木にわく蟲けらをついばむと啄木鳥は啼く此處の林に

   立枯の木々しらじらと立つところたまたまにして啄木鳥の飛ぶ

   啄木鳥の聲のさびしさ飛び立つとはしなく啼ける聲のさびしさ

   紅ゐの胸毛を見せてうちつけに啼く啄木鳥の聲のさびしさ

   白木なす枯木が原のうへにまふ鷹ひとつ居りて啄木鳥は啼く

   ましぐらにまひくだり來てものを追ふ鷹あらはなり枯木が原に

   耳につく啄木鳥の聲あはれなり啼けるをとほく離(さか)り來りて
 

 ずつと一本だけ續いて來た野中の路が不意に二つに分れる處に來た。小さな道標が立てゝある。曰く、右澤渡温泉道、左花敷温泉道。

 枯芒を押し分けてこの古ぼけた道標の消えかゝつた文字を辛うじて讀んでしまふと、私の頭にふらりと一つの追憶が來て浮んだ。そして思はず私は獨りごちた、「ほゝオ、斯んな處から行くのか、花敷温泉には
」と。

 牧水は、草津から渋峠を越えた時に、「高い崖の眞下の岩のくぼみに湧き、草津と違つて湯が澄み透つて居る故に、その崖に咲く躑躅や其の他の花がみな湯の上に影を落す、まるで底に花を敷いてゐる樣だから花敷温泉といふのだ」ということを聞いていた。

 暮坂峠で花敷温泉の道標を見た牧水は同行の士を説得して、花敷温泉へ向かう。

 道標には「二里半」と書かれていて、花敷温泉まで約9km。


 さて・・・・・牧水は・・・花敷温泉から翌20日「暮坂峠」を越えることになる。


 この続きは第⑥話にて・・・・

                                白秋の彼岸より・・・By 漱太郎


                バスのアニメ
北原白秋・若山牧水・石川啄木に関する書籍をお探しの皆様は
         快適な下記サイト検索がお薦め!!。

窓のぞきF
書籍選びの快適検索サイトなら下記の「新書・文庫本マニア」!!・・・新システム書籍専用サイト!!ライン黄色 gif

クリック・ボタン gif   新書・文庫本マニア   動く本

ライン黄色 gif


本線夜行列車九段駅  駅長の本音・・・ 『北原白秋』 ④

ウエルカム gif
夜の列車
ライン黄色 gif
本線夜行列車九段駅・・・・・・・・・・・駅長の本音

                北原白秋 ④』 特集

あきの夜長
栗                          コオロギ

    きりはたり はたりちやうちやう血の色の
           棺衣(かけぎ)織るとよ悲しき機(はた)


 白秋から・・・・・秋色の歌を一つ。
 この歌を・・・・・グレン・グールドは好んだ。              グレン・グールド 70
                                      Glenn Gould

 しかもその好みとは「commendation」だという。

 この言葉を聞いて、グレン・グールドは、やはり「漱石」に心底(ぞっこん)だ。

 グルードは白秋の、この歌に拍手を贈り讃えている。

               北原白秋 80 白秋

 しかしその拍手は・・・cheers applause acclamation ovation・・・などではなく

 あくまでも「commendation」なのである。

 拍手というのであれば同属のnoun(名詞)は多様にある。

              cheers 喝采
              applause 拍手, 喝采, 賞賛, 称賛, 拍手してほめること, ほめそやし
              acclamation 喝采, 歓呼, 称賛, 賞賛, 褒辞, 毀誉
              ovation 拍手, 喝采, オヴェイション


 日本語を英訳するとしても用意は多種多様となろう。

            喝采 cheers, applause, acclamation, ovation
            歓呼 acclamation, acclaim, jubilation
            称賛 praise, admiration, acclaim, compliment, applause, acclamation
            賞賛 praise, admiration, compliment, acclaim, applause, acclamation
            褒辞 praise, acclamation, adulation, applause, acclaim, approbation
            毀誉 praise, adulation, acclamation, applause, acclaim, approbation
            礼讃 praise, adulation, acclamation, applause, approbation, acclaim


 これらの同義語が多数ある中で・・・・

 グレン・グールドは「commendation」表彰, 称賛, 賞賛, 礼讃, 毀誉, 褒辞なのだという。

 またその「commendation」は「褒辞(ほうじ)」でなければならなかった。

 そうだとすると、これは「」なのである。漱石の猫なのである。

 つまりグールドの言葉はこれを底本とした。

グレン・グールド 71 『I AM A CAT』
英訳『吾輩は猫である』 柴田勝衛、甲斐元生共訳 研究社、1961(昭和36)年

 下記の文章は夏目漱石が、吾輩は猫であるを上梓するにあたり自序として上篇に書留たものである。

 グルードはその内容に挟まれた「褒辞(ほうじ)」の一言を彼の胸に刻み、その解釈の意に得た眼差しを、そのまま白秋の歌の品質に重ねた。

 グルードにしてその白秋の短歌とは、漱石同等に値する褒辞モノであったのであろう。白秋を相手に、グルードはこのような介錯を可能とした。またそこに彼の奏でる音がある。

   夏目漱石4

                    夏目漱石9
  『文豪・夏目漱石 そのこころとまなざし』 江戸東京博物館・東北大学 共著 朝日新聞社 2007


『吾輩は猫である』上篇自序

 夏目漱石

 「吾輩は猫である」は雑誌ホトトギスに連載した続き物である。

 固もとより纏まとまった話の筋を読ませる普通の小説ではないから、どこで切って一冊としても興味の上に於おいて左さしたる影響のあろう筈はずがない。

 然しかし自分の考ではもう少し書いた上でと思って居たが、書肆しょしが頻しきりに催促をするのと、多忙で意の如ごとく稿を続つぐ余暇がないので、差し当り是丈これだけを出版する事にした。

 自分が既に雑誌へ出したものを再び単行本の体裁として公にする以上は、之これを公にする丈だけの価値があると云う意味に解釈されるかも知れぬ。

 「吾輩は猫である」が果してそれ丈の価値があるかないかは著者の分として言うべき限りでないと思う。

 ただ自分の書いたものが自分の思う様な体裁で世の中へ出るのは、内容の価値如何いかんに関らず、自分丈だけは嬉うれしい感じがする。自分に対しては此事実が出版を促うながすに充分な動機である。

 此書を公けにするに就ついて中村不折氏は数葉の画をかいてくれた。橋口五葉氏は表紙其他の模様を意匠してくれた。両君の御蔭おかげに因よって文章以外に一種の趣味を添え得たるは余の深く徳とする所である。

 自分が今迄「吾輩は猫である」を草しつつあった際、一面識もない人が時々書信又は絵端書抔えはがきなどをわざわざ寄せて意外の褒辞ほうじを賜わった事がある。

 自分が書いたものが斯こんな見ず知らずの人から同情を受けて居ると云う事を発見するのは非常に難有ありがたい。今出版の機を利用して是等これらの諸君に向って一言感謝の意を表する。

 此書は趣向もなく、構造もなく、尾頭の心元なき海鼠なまこの様な文章であるから、たとい此一巻で消えてなくなった所で一向差さし支つかえはない。

 又実際消えてなくなるかも知れん。

 然し将来忙中に閑を偸ぬすんで硯すずりの塵ちりを吹く機会があれば再び稿を続ぐ積つもりである。猫が生きて居る間は――猫が丈夫で居る間は――猫が気が向くときは――余も亦また筆を執とらねばらぬ。

                                  明治三十八年九月

グレン・グールド 72 英訳『吾輩は猫である』Elford Eddy 訳 Japanese American News, USA 1923年

 したがって白秋のこの歌をグレン・グールドは「commendation」に値するという。

 北原白秋 歌集『桐の花』より

       きりはたり はたりちやうちやう 血の色の 
                    棺衣(かけぎ)織るとよ 悲しき機(はた)よ


 この歌を、果たして現代の日本人が真に「褒辞」でき得るか、というと少し怪しい。

 よほど日本文学の体系に造詣を深くして白秋という人間の質を手繰り寄せねばならない。

 そこを異邦人である男がそつなく熟すことが尊い。

 まず「機」を機織の機械かと思ったら、それは違う。

 機織虫(コオロギ)のことだ。

コオロギ2 蟋蟀

 「きりはたりちやう」とは謡曲であり、機織やコオロギの声をあらわしている。

 白秋はそのコオロギの声を謡曲調にリズミカルに描く。定型に彼独自の抑揚を転がしてくる。

 そこは「きり」「はたり」「ちやうちやう」と連ね転がしている。これは今もって斬新で新鮮であろう。

 リズムもいいのだが、非常に悲しい感じの音が鮮明に連なり並ぶことになる。

 ここらは、ソプラノ・テナー・アルトを各種とりそろえた感じでもある。

 前衛の音を響かせる。

 そうしておいて・・・・

血F

 そこで「血の色」を引き出してくる。そうであるから色彩は、文句ナシでしょうか。

 しかしこういう手法は白秋が眼差して肝心とする「棺衣」を引き出そうとする工夫なのだ。

 その「棺衣」は棺を覆う布で、「掛衣(かけぎぬ)」ともいう。

 白秋はこの「棺衣」という言葉をマザー・グースから引き出してきた。

 マザー・グースの「誰がコマドリ殺したの?」の文にある「誰が棺衣を持ちましょう」と問い掛け、あるいは暗示が指し示す異国語の韻を手折り、短歌の中に引き出してきた。

 マザー・グースの原文ではshroud、訳すると「死に装束」となる。棺衣とはならない。

グレン・グールド 73
アメリカにおけるクックロビンの唄の絵本の表紙。(ヘンリー・ルイス・ステファン画、1865年)

                    小鳥F2

WHO KILLED COCK ROBIN? 1935
アニメ映画『誰がコックロビンを殺したの?




誰もがフクロウの足を気づく?彼らは足ではなく、鳥の足のように見えた。
Cock Robin wird von Amors Pfeil getroffen.


 クックロビンあるいはコックロビンとは、イギリスを中心とした英語圏の童謡であるマザー・グースの1篇である。

 原題は「Who Killed Cock Robin」といい、邦訳として「駒鳥のお葬式」や「誰が駒鳥殺したの」などと呼ばれることもある。

コマドリ コマドリ

 駒鳥の死から葬送までを語る内容で、マザー・グースとしては比較的長大な14連で構成される作品である。

 この中に・・・・

     Who'll make the shroud?
     I, said the Beetle,  
     with my thread and needle,  
     I'll make the shroud.
 


     誰が作るか 死装束を作るか
     それは私よ カブトムシがそう言った 
     私の糸で 私の針で
     私が作ろう 死装束を作ろう 
・・・・・・・・とある。

 日本で初めてこのマザー・グースの詩を訳出したのは北原白秋で、1921年、マザー・グースの他の作品と共に『まざあ・ぐうす』として出版されている。

 以来、竹友藻風・平野敬一・谷川俊太郎・寺山修司・藤野紀男など、数多くの詩人・英文学者により邦訳がなされてきた。

北原白秋 82
まざあ・ぐうす(北原白秋訳)左  マザー・グース(谷川俊太郎・訳)右

 この二冊は、まざあ・ぐうす,1997年6月20日25版発行(角川文庫)、マザー・グース1993年9月30日第17刷発行(講談社文庫)。その他、現在はスズキ・コージや和田誠編などがある。

 これらの現在までに再版・新書され続ける「マザーグース コマドリの死」の詩は、

 時代性に応じた翻訳の手法にも編者の工夫と感性が施されて妙味独特の訳詩世界が楽しめる。

 例えば、まずダーク荒巻(小林信彦)のものは、

 だれが駒鳥いてもうた?
 わいや,と雀が吐きよった
 私家(うつとこ)にある弓と矢で
 わいがいてもうた。あの駒鳥(がき)を
・・・・・と、乱暴・隠語の劇画調。

 谷川俊太郎の訳では、

 だれがこまどり ころしたの?
 わたし とすずめがいいました
 わたしの弓矢で
 わたしがころした・
・・・・・・・・・・・・・・と、優しさ溢れる俊太郎節。

 創初期の北原白秋では、

 「だァれがころした,こまどりのおすを」
 「そォれはわたしよ」すずめがいった。
 「わたしの弓で わたしの矢羽で わたしがころした,こまどりのおすを」
・・と、白秋の詩情ポエム。

 CDで歌にもした和田誠のものは,

 誰が殺した? コマドリを
 私,と答えたのはスズメ
 私が人の目をかすめ
 弓矢で殺した コマドリを
・・・・・・・・・・・・と、現代話法のストレート調。

 文学作品への引用の古い例としては、1910年発表の竹久夢二の童話『少年と春』に一部ではあるが訳詩が挿(はさ)まれている。確かにこの一例だけは、北原白秋による本格的な訳詩よりも古い。しかし本格的な訳詩をした日本初の人物はやはり白秋である。

 つまり白秋は「shroud」を「死装束」と訳詩したが、置き換えた日本語の解釈としては「棺衣」とまでに応用しこれを懐の訳詩した。棺衣とするのは日本人特有の漢字訳でもある。

 白秋は、そう会釈した上で、先の歌を詠んだ。

 ああ・・・コオロギは啼いている。

 ああ・・・あの赤い啼き聲は・・・

 何と悲痛で悲恋な啼き声であろうことか。

 そう・・・あれは私の・・・血の色の棺衣を織るがごとくに・・・。
・・・と(解釈/漱太郎)。


 白秋は、こういう感情の揺らぎを三十一文字の定型にして・・・

    きりはたり はたりちやうちやう 血の色の 棺衣織るとよ 悲しき機よ

                                   ・・・と、詠み整えた。


 したがってこれはコオロギを季題にした秋の歌ではあるが、彼自身のレクイエムでもある。

 そう・・・・「Requiem」なのである。感傷のEnergyエナジーではない。

 何故・・・レクイエム・・・であるのかは、

 20代の終わり頃、北原白秋は牢獄に入った。

 罪状は姦通罪。

 明治43年9月、原宿に転居した25歳の白秋は、夫からDVを受けている隣家の人妻の俊子に心を寄せていく。

 再び住まいを京橋越前堀に移した白秋の元に(※注1)、離縁を宣言された俊子が訪ねてきて、二人はそこで結ばれるのだった。

 ところがその後、俊子の夫は、法的には離婚が成立していないことを理由に二人を姦通罪で訴えたのだ。

 ※注1・・・・白秋は原宿から京橋に転居するまでにも、木挽町二葉館、蠣殻町岩佐病院、小田原、飯田河岸金原館、新富座裏、浅草聖天横町と居場所を変えている。 彼は生涯に27回住まいを替えた。

 学生の頃から歌人・詩人として名声があった白秋。 事件はスキャンダラスに報じられ、同業の詩人や歌人らからも「文芸の汚辱者」との痛烈な誹りを受けることになる。

北原白秋 81 北原白秋『桐の花』 短歌新聞社 1994年04月

 『桐の花』は、そんな大事件の直後に編まれた、白秋の第一歌集である。

 そこには事件のただ中で詠まれた歌も数多く並ぶ。

 その内容は・・・・・

 別れのつらさの中で赤々と燃えるように咲くダリアの花、

 囚人馬車の窓の隙間からちらりと見えた廻り灯籠の美しさ、

 外でおしっこすることの叫び出したいほどの開放感、

 番号で呼ばれる悲しさと小動物への親近感、

 心に深くしみるちょっとした人情、

 震えて齧る林檎の美味さ・・・、等、そこには、収監という特殊な状況でしか味わえない実感があふれている。

 これらは日常からの隔離、それは不幸な体験であるには違いない。

 しかし、日常では忘れがちな 「日常の輝き」を、歌人として改めて教えを乞うた自覚の作品でもある。

 出所後、直ちに白秋は過去の己を弔うために歌集「桐の花」を上梓した。

 それは自身に手向けた鎮魂歌なのだ。

 「桐の花とカステラの時季となった。…ウイスキイや黄色い
 カステラの付いた指のさきにも触れる…しみじみと桐の花の
 哀亮をそへカステラの粉っぽい触感を加えてみたいのである。…」・・・この『桐の花』の冒頭は、

 当時、文明開化の象徴とも言われていたカステラの話題から始まる。白秋が少年時代にすごした柳川は、当時物流の最先端にあった。

 カステラも、長崎から舟に乗って、いちはやく故郷・柳川に運ばれていた。

 その当時、まだもの珍しいカステラに自らの詩作の思いを託す白秋のモダンな感覚、流麗なロマンティズムで彩られ、歌壇に多くの影響を与えることになる。

 丁度このころ東京・神田に岩波茂雄が岩波書店を開業。日本の人口が2500万人を突破する。

北原白秋 83

 そこでもう一つ秋色の歌を拾い上げてみる。    柿回る

    ちんちろり 男ばかりの 酒の夜を
        あれちんちろり 鳴きいづるかな


 「ちんちろり」は、松虫の鳴き声、転じて松虫のことをいう。また、徳利の中で残り少なくなった酒が鳴る音も指す。

 この歌は「ちんちろり……ちんちろりと残り少なくなった酒が徳利の中で鳴っている。男ばかりで酒を酌み交わす秋の夜を あれ お聞きよ。ちんちろりと松虫も 鳴き出したよ」とでもなろうか。

マツムシ 松虫

 これは若山牧水の第三歌集『別離』より、同じ秋虫の声を季題とした作品として採った。

 作られた時期も、上記白秋の歌と同年、1910年(明治43年)の作品である。

若山牧水 7 若山牧水

 またその歌集「別離」には・・・


 伏目して君は海見る夕闇のうす青の香に髪のぬれずや


 くちづけは 永かりしかな あめつちに 帰り來てまた 黒髪を見る


 吹き鳴らせ 白銀の笛 春ぐもる 空裂けむまで 君死なむまで


 ぬるき恋の文かな筆もろともいざ火に焼かむ爐のむらむら火・・・・・・などの作品もある。



 「伏目して」……目を伏せてあなたは海を見ている。海の色と夕闇のうす青色の香に染まって、あなたの髪が濡れないだろうか。

 「くちづけは」……あなたとのくちづけは永遠のように永かった。その永遠の夢のような境地から、この天地(現実)に 帰って来て、またあなたの黒髪を見ている

 「吹き鳴らせ」……吹き鳴らせ。 白銀の笛を。 春ぐもりの空が裂けるほど 吹き鳴らせ。 あなたが死ぬほど 吹き鳴らせ。

 「ぬるき恋の」……書いてはみたが、読み返してみると、なまぬるい恋文だなあ。 筆といっしょに さあ 火にくべて焼いてしまおう。爐のむらむら燃える火に。

 それぞれにこのような解釈となろうか。

 この『別離』は若山牧水の第三歌集として1910年4月10日、東雲堂書店より発行。

 装頓は石井柏亭、当時の定価75銭である。

 第一歌集『海の声』、第二歌集『独り歌へる』に新作113首を加えた1004首(二歌集から155首削除)で、上下巻に分かれる。

 この作品には青春の哀歓を謳歌した抒情歌が多く、今日に至る評価としては、この歌集に収められた作品群が自然主義の歌人として牧水の名を広め、ついには歌壇的地位を獲得するまでに至ったとされる。

 この歌集を上梓した後の牧水は、

 翌年の1911年(明治44年)に創作社を興し、詩歌雑誌「創作」を主宰した。

 またこの年、歌人・太田水穂を頼って長野より上京していた後に妻となる太田喜志子と水穂宅にて知り合うことになる。

 しかしその少し前の明治44年(1911年)春、牧水は苦悩の末、園田小枝子との5年間の交際に終止符を打つ。

 そうして、その夏出会ったのが、信州長野から上京してきていた太田喜志子という女性であった。

 彼女もまた歌人で、牧水は、『私を救って欲しい』と彼女に唐突に求婚する。

 翌明治45年に結婚。

 良妻を得た牧水は、心おきなく酒と旅を愉しみつつ、歌を詠み続ける。

 しばし家にいたら旅に出たくなる、旅に出たらまた帰りたくなる。

 酒を浸るほど飲みたのだが、飲んではいけないと思うけど、飲まずにはいられない牧水である。

 そのことを「私は悲しい、寂しい、つらい」のだと募る哀しみのごとく言う。

                    若山牧水 6

 牧水は、それらをありのままに晒し、その堪えかねる心情を歌に詠んだ。そのように弱さを人に見せられる、それが他ならぬ牧水という男の強さでもあろうか。


 白秋と牧水、この両者は、同じ秋色の歌一つ見比べて、奏でるその音色は天地を分つほどの相違を見せる。

若山牧水2 牧水と喜志子

 その後、牧水夫婦は大正14年(1925年)、沼津に新居を構え転居。

 千本松原や富士山を愛し、千本松原保存運動を起こし、富士の歌を多く残した。

 牧水は昭和3年(1928年)9月17日、43歳で永眠する。この祥月命日は毎年秋の彼岸前となる。

 酒が好きで、日常一日一升の酒を飲んだともいわれる。死因は肥大性肝硬変である。その往生際は、死後しばらく経っても死体から腐臭がしなかったために『生きたままアルコール漬けになったのでは』と主事医師を驚嘆させた。という逸話は有名である。

 こういうまことしやかな伝説があると普段の酒も「白玉の酒」となる。

               お酒しゃく  おわん

          時をおき老樹(おいき)の雫(しずく)おつるごと静けき酒は朝にこそあれ

 牧水は酒を単なる酒とは考えていない。

 時を経た老樹から滴り落ちるありがたい天与の恵み、

 これが彼のお酒なのだ。だから、静かにゆっくりと頂く。

 酒はそうであるから、酒は朝酒、朝こそがふさわしいのだと言っている。


 そう言う彼が『酒の賛(さん)と苦笑』の中で次のように書く。

一度口に含んで喉(のど)を通す。その後は口に残る一種の

 余香余韻が酒のありがたさである。単なる味覚のみのうまさではない。

 無論口であぢはふうまさもあるにはあるが、酒は更に心で

 噛みしめる味ひを持つて居る。あの〈酔ふ〉といふのは

 心が次第に酒の味をあぢはつてゆく状態
」なのだと。

 こういうことを言い添えて・・・

          白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒は静かに飲むべかりけれ

               若山牧水 4

 このような歌を詠み遺されみると、

 だからそれらは眼に鮮やかに、であるから、

 明治、大正から昭和にかけて、全国を旅し、旅に明け暮れ、生涯に約 8,700首の短歌を詠み、全国に 259基の歌碑が建てられているといわれる若山牧水は、今なお広く国民的支持を得て親しまれている。

 多摩・百草園内には、生誕百年を記念して昭和60年に建てられた歌碑がある。

 ここには歌集『独り歌へる』から、牧水の長男で歌人である若山旅人が一首選び揮毫した、次の歌が記されている。

          小鳥よりさらに身かろくうつくしくかなしく春の木の間ゆく君
 
 日野市百草の百草園の歴史は古く、享保年間に松連寺の庭園としてつくられ、文化・文政のころから茶会や句会などで賑わっていたそうだ。

 その後、明治初期に廃寺となり、地元出身の生糸商人が所有していた。牧水は武蔵野の自然を愛し、学生のころからしばしば百草園を訪れている。殊に明治41年春、恋人の園田小枝子とここを訪れた折の歌は数多く、歌集『独り歌へる』の中に収められてもいる。園内にはもう一つ別の歌碑もある。 

          山の雨しばしば軒の椎の樹にふり来てながき夜の灯かな                

          摘みてはすて摘みてはすて野のはなの我等があとにとほく続きぬ

          拾ひつるうす赤らみし梅の実に木の間ゆきつつ歯をあてにけり

 このほか、JR中央線立川駅にも歌碑があり、歌集『海の声』から次の一首が刻んである。

          立川の駅の古茶屋さくら樹のもみぢのかげに見送りし子よ

 牧水は宮崎県に生まれ、本名は繁。祖父、父とも医者であった。

 延岡中学時代から短歌をつくり始め、19歳で上京し、早稲田大学高等予科に入学。このころから「牧水」の筆名を用いるようになる。

 また、歌人尾上紫舟の門に入ると共に、大学では窪田空穂・北原白秋・前田夕暮・土岐善麿といった、いずれも近代短歌の源流となる人々とも知り合い、作歌だけでなく、小説を書いたり、雑誌の計画を立てたり、文学ひとすじの日々を過ごした。

 そうして明治40年、牧水23歳の時、1歳年上の女性園田小枝子と知り合い、熱烈な恋愛に陥る。そして翌年には、彼女と共に房州(千葉県)の海岸に滞在し、情熱の赴くままに歌い上げた数多くの歌を中心に、処女作『海の声』を自費出版した。この年、英文科を卒業。またこの歌集には、 

          白鳥は哀しからずや空の青うみのあをにも染まらずただよふ

          幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく

 など牧水の代表歌として知られる作品も含まれている。しかし、当時この歌集はほとんど顧みられることなく、他方、恋愛も膠着状態で、文芸雑誌創刊の計画も挫折するなど、苦悩の中にあって、漂泊の旅を重ねることになる。

白鳥の歌


歌手:鮫島有美子 作詞:若山牧水 作曲:古関裕而

若山牧水 3       若山牧水 5


若山牧水「草鞋の話旅の話」(朗読:大石佳世)



若山牧水 8 若山牧水 青空文庫出版社 2012年

 樹木とその葉『草鞋の話旅の話』若山牧水

 私は草鞋わらぢを愛する、あの、枯れた藁わらで、柔かにまた巧みに、作られた草鞋を。

 あの草鞋を程よく兩足に穿はきしめて大地の上に立つと、急に五軆の締まるのを感ずる。身軆の重みをしつかりと地の上に感じ、其處から發した筋肉の動きがまた實に快く四肢五軆に傳はつてゆくのを覺ゆる。

 呼吸は安らかに、やがて手足は順序よく動き出す。そして自分の身軆のために動かされた四邊あたりの空氣が、いかにも心地よく自分の身軆に觸れて來る。


 この『樹木とその葉』の作品は牧水が大正十年の春から同十三年の秋までに書いた隨筆を輯めてこの一册を編んだものである。

若山牧水 9 『若山牧水・書の世界』 四位英樹著 文芸社 2012年

若山牧水の「書」の魅力に迫る解説書。「牧水 未発表短歌」の軸も掲載。

若山牧水 12

 第④話の最後に・・・・・
 
 白秋と牧水とを結ぶ伝説の天才詩人少女・夭折の悲話をご紹介する。

海達君はもう三度続いて推奨になりましたが、直覚的で簡潔でめずらしい詩才の持主です。その夕日の鋭さを御覧なさい。築港の突堤の先にはいる夕日と全面の潟の反射、これはもうまるで後期印象派の画面のようではありませんか」と、北原白秋は「赤い鳥」の選評で、一人の小さな投稿者の作品に「天才少女」の冠をつけて手放しで称揚し絶賛した。

 「夕日」と題されたこの詩が童話童謡雑誌「赤い鳥」で、北原白秋の「推奨」によって掲載されたのは1924(大正13)年の9月号であった。

 その詩は・・・・

 もうすこしで
 ちっこうの
 さきにはいるお日さん
 がたにひかって
 まばゆい
 まばゆい
・・・・・・という自由律の短詩である。

 夕日を浴びて光る干潟を素直に表現した詩だ。

 この詩が現在、有明海の築港を見渡せる荒尾市の小山にある四山神社の境内に立てられた詩碑に刻まれている。

 海達(かいたつ)公子という少女の作品である。

若山牧水 10 海達公子

 18年に創刊された「赤い鳥」には全国から投稿があった。海達も熱心な投稿少女だった。「夕日」は荒尾北尋常小学校(現荒尾第二小学校)の2年の時の作品である。この時から16歳で死去するまでに少女は5千編の詩と300首の短歌を残した。

 海達公子は8歳だった大正13年「赤い鳥」7月号に「ひし」が推奨作として入選して以来、選者の北原白秋からその才能を注目されるようになる。

 以後、特別に目をかけてもらうようになるが、昭和3年7月に白秋が郷里柳川に帰省した際、初めて対面してからは白秋も公子のことを「私の弟子」と公言するようになった。

 この帰省の折、開局したばかりの熊本放送局に出演した白秋はわざわざ公子を同行させ、放送局に紹介している。

 これによりその2か月後、公子は小学校の同級生たちとともにラジオ出演を果たした。その後も白秋の支援は続くのだが、実は公子は白秋と対面するよりも前に野口雨情や若山牧水らとも会って直接指導を受けている。

 特に若山牧水は、童謡誌「金の星」誌上で、幼年詩の選者であった牧水が、公子が尋常小2年生の頃から彼女の詩を見始めてその素質を認め、特別の期待を寄せていた。

若山牧水 13 公子(中央)

 作品の掲載についてもしばしば破格の待遇をしていたが、その公子に一度会いたいと、大正14年11月25日、九州旅行の途中に妻の喜志子を伴って荒尾の公子の家に立ち寄った。

 牧水が公子の家を訪問した時、たまたま公子は近くの厳島神社へ松葉掻きの奉仕作業に行っていた。

 しばらくして帰って来た公子は、手拭いをかぶり、自分の丈より高い松葉掻きを手に、背中には籠を背負っていた。そのすすけた顔の公子を一見し、牧水は驚いて、この子が想像していた公子だろうかと絶句した。

 才気煥発な子供を予想していた牧水にとって、現実の公子の容貌はあまりにも異なっていた。

 牧水は「今のその茫っとした性質を大切に大きくなってもなくさぬ様に」と優しく声をかけたという。時に牧水41歳、公子9歳であった。

 この3年後に牧水は世を去るが、高等女学校に入ってからの公子は、若山貴志子に短歌の指導を受けることになるのである。

 公子の家を訪問した翌日、大牟田の料亭で行われた牧水夫妻を囲む文士の会に、公子と父の松一(貴文)が招待される。下の写真はその時の記念写真で、前列の牧水夫妻の間に主役然と座るのが公子。前列右端は父の松一。

若山牧水 11


    「ばら」


     まっかい まっかい

     ばらの花

     目にはいってるうちに

     目つぶって

     母ちゃんに

     見せにいこう



 海達公子が短い一生を終えたのは昭和8年(1933年)3月26日、高瀬高等女学校の卒業式直後に虫垂炎で突然倒れ、腹膜炎を併発させて他界した。16歳という若さだった。

すすき】 さら さら すすき お山のすすき おててのばして なにさがす あおいお空に なにさがす


 ・・・・・・・さて次回コラム第⑤話は、石川啄木に触れることにしたい。
        
        また牧水では「みなかみ紀行」の山河を行く。

        さらには「桐の花」以後の白秋を追う。

                                白秋の彼岸より・・・By 漱太郎



窓のぞきF
書籍選びの快適検索サイトなら下記の「新書・文庫本マニア」!!・・・新システム書籍専用サイト!!ライン黄色 gif

クリック・ボタン gif   新書・文庫本マニア   動く本

ライン黄色 gif

本線夜行列車九段駅  駅長の本音・・・ 『北原白秋』 ③

ウエルカム gif
夜の列車
ライン黄色 gif
本線夜行列車九段駅・・・・・・・・・・・駅長の本音

                北原白秋 ③』 特集

グレン・グールド 44

 彼岸の入り(9月19日)は間近にある。

 その彼岸前までには北原白秋の彼岸を思索して渡り了えたい。

 彼岸の期間は、春分の日と、秋分の日を中日として、中日前の三日と、中日後の三日を合わせた合計七日間のことをいう。

 この七日間は、煩悩を解脱した境地のことで、煩悩満ち溢れたこの世(現世)をこちら側の岸、つまり「此岸」(しがん)対して、向う側の岸「彼岸」(解脱・悟りに至った境地)を拝み見ることになる。

 この彼岸に北原白秋もまた立っている。

 本年、彼は69回目の彼岸に立つ。

 その秋分の日は9月22日。

 秋分の日が近年は23日が続き、22日になるのは1896年以来116年ぶりという。

 1896年といえば、北原隆吉(白秋)11歳が柳川の矢留尋常小学校の六年生、卒業を控えた年である。

グレン・グールド 45 白秋の生家

 彼岸の中日が22日になることもある。そうであれば、23日以外になるのは「24日だった1979年以来33年ぶり」ということで、漱太郎が若かった頃に9月24日だったことも、そんな事もあるのですね‥‥。

 このように日付が動くのは、地球が太陽の周りを365日と約6時間かけて1周するためで、4年に1度、うるう年で調整するものの、それでもずれが出てくるためだ。ちなみに、次に「秋分の日」が22日になるのは2016年のようである。

               月の移り影

         ・・・その365日と約6時間・・・

       どうやら人間の生命とは、この自然摂理に規定されているようだ。

    潮が満ちて生命が宿り・・・太陽と月が廻り・・・潮に引かれて生命は閉じる。

              そうして生命は天昇のときを迎える。

   北原白秋は57周年を巡らしてから1942年(昭和17年)11月2日)に地上から離れた。

              しかしこの摂理とは偉大だ。

       白秋の昇天に添えて摂理は新たなる代命を立てようとする。

その白秋の死の、10年前の1932年(昭和7年)9月25日、同じ地上に生まれた一人の異邦人がいた。

              彼はカナダのトロントに生まれた。

           ピアニスト・作曲家のグレン・グールドである。

      この第③話は・・・二人の宿命を中心として語ることにする。

        グレン・グールド 28
                      Glenn Herbert Gould

 グールドは、一般的なクラシックのピアニストとは一風異なるレパートリーの持ち主であった。

 そんな彼が・・・夏目漱石の日本文学と出逢い・・・その漱石に耽る間に・・・やがて北原白秋の詩歌に出逢うことになる。この体験は、彼を一風異なるレパートリーの持ち主にさせた。これはやはり宿命である。

 グレン・グルードの遺品にこの作品集がある。

       グレン・グールド 47
               墨水書房、昭和18年

 これはグレン・グルードが生まれたころの白秋の作品集である。

 古本屋で異常に遭遇回数の多いエッセイ集『随筆たぬき汁』を出していた墨水書房が、北原白秋の作品集を出していた。
 写真にあるように、『白秋I』とあるが、続刊は出なかったようだ。
 この作品集は、昭和8年から「北秋全集」構想の一環としてまとめられていた年纂全集『全貌』が昭和14年の巻で途絶えてしまったため、その続き(昭和15年)を墨水書房がひきうけて出したものである。ところがすでに敗色濃い戦局の下、続刊を出すことはできなかった模様の、極めて珍しい古書に部類する。

 本巻は紀元二六〇〇年祭前後の白秋作品を集めたもので、当時の『大東亜戦争 少国民詩集』(朝日新聞社、昭和17年)に比べて、かの式典がらみの奉頌歌をはじめ、その頃の詩、短歌、童謡、歌謡を集めた一冊で、漱太郎も今回改めて見直してみたが、趣味者としては激しいおトク感がある。

 もちろん、白秋全集をひもとけばいくらでも拾えるのではあるが、同時代的にこんなかたちでコンパクトに戦時「やっちまった」作品集がまとめられていたことがわかると、それはそれで興味深い一冊である。

 白秋による紀元二六〇〇年関係の作品は膨大である。

 またその多くが放送局や団体、また各地方の奉祝会などからの委嘱作品であったことから、「わぁ!白秋先生のほとばしる愛国精神すげえ」と単純に感心するわけにもいかない。

 そこには、やはりそれぞれの作品内容の何パーセントかは商売で成り立っているはずで、ちょいとそのへんは割り引いて見る必要があることは、あえて言うまでもない作品ではある。

 それにしても膨大にあるので、タイトルをつまびらきにして一切を抜書きするだけでも億劫である。これはしかし、いずれ委嘱元との関係を整理して一覧表にでもまとめようと思う。白秋と紀元二六〇〇年祭との関係については先行研究があるはずなのだが、これもまた漱太郎の今後の課題としよう。

 グレン・グルードがいかなるルートでこの作品集を入手したかについては不詳である。

グレン・グールド 29
 

 そのグールドはピアノという楽器の中で完結するようなピアニズムを嫌悪し、「ピアニストではなく音楽家かピアノで表現する作曲家だ」と主張した。

 グールドは、ピアノはホモフォニーの楽器ではなく対位法的楽器であるという持論を持っており、ピアノ演奏においては対位法を重視した。

 事実、グールドのピアノ演奏は、各声部が明瞭で、一つ一つの音は明晰であり、多くはペダルをほとんど踏まない特徴的なノン・レガート奏法であった。

 また、多くのピアニストと異なり和声よりも対位法を重視し、音色の興味に訴えるよりも音楽の構造から生み出される美を問うたことから、ショパンではなくバッハを愛好し、その興味はカノンやフーガにあって、その演奏の音色はほぼ単色でリズムを重視、その奏法は左手を伴奏として使う他の多くのピアニストと異なり、左手のみならず全ての指に独立性を持たせていた。

 この個性的な演奏法について、グールド自身は、オルガン奏法のリズムによる呼吸法やロザリン・テューレック の演奏の影響を受けていると語っており、その優れた指の独立については、グールドが左利きであったこととの関連性も指摘されている。

 知的な音楽家といわれるグールドであるが、この対位法に対するこだわりについては頑迷であり、どのような音楽に対しても対位法を通してしかアプローチを行おうとしなかった。

 晩年にいたるほど、対位法信仰は深くなり、レパートリーの選択、楽曲の解釈、演奏時のテンポ、リズム、タッチ、装飾、ペダリング、録音方法にいたるまで、より対位法を際立たせる手法が用いられていった。

 また、グールドは、こういった自身の指向に合う音楽を作り出すために自身のスタインウェイ製のピアノに対してそのタッチを軽くするなどの改造をしていたこともあり、晩年にはヤマハのピアノも使用していた。

 そのヤマハのピアノも彼の大きな遺産である。

 しかしそれらの大きな遺影とは別に、彼の愛した小さな遺産があった。

グレン・グールド 48
『からたちの花』の挿絵(グールドの遺品)

 山田耕筰と北原白秋は1922年(大正11年)に雑誌『詩と音楽』を創刊するなど親交があり、多くの歌曲を共作している。そのような関係の中から、1925年(大正14年)に雑誌『女性』に発表された。

 遺品の挿絵はこの雑誌に使用されたものである。その歌『からたちの花』は、北原白秋作詞、山田耕筰作曲の日本の童謡である。

 グルードの遺した手記は一冊のパスポートを栞るように閉じられていた。

グレン・グールド 39

 その栞られた箇所に、白秋がいる。

 そこには・・・白秋の故郷・柳川

        『あわて床屋』と『砂山』

        『からたちの花』・・・が記されていた。


白秋の故郷・柳川




蟹F
       柿回る


あわて床屋


歌手:美空ひばり 作詞:北原白秋 作曲:山田耕筰


砂山 


新潟(小針浜) 歌手:富田千種 作詞:北原白秋 作曲:山田耕筰


からたちの花


からたちの花(karatachi no hana) 歌手:森 麻季(Maki Mori)


                    ピアノ小僧
     ライン黄色 gif

    グレン・グールド 32

        漱石に耽る異邦のピアニスト

グレン・グールド 46    グレン・グールド 49
     夏目漱石                          岩波書店版


 小説『草枕』の第12章にこんなくだりがある。

 「余のこの度の旅行は俗情を離れて、あくまでも画工になりきるのが主意であるから~」と。

 つまり、この物語の主人公「余」は本当の画工である必要もないわけである。

 ここは、ただ普通にサラリーマンとして働いている人が2週間の休暇をもらい、その間だけ画工に「なりきって」生活してみる、というふうにも解釈が出来る。

 「あくまでも画工になりきるのが主意」なのであるから。

 グレン・グールドはすっかりこの物語に流れるこの妙なユーモア感と美しさにハマってしまった。

 そもそもこれは作者自身「世間普通にいう小説とは全く反対の意味で書いたのである。唯一種の感じ、美しい感じが読者の頭に残りさえすればよい」(明治39年『余が「草枕」』)と語っているように、ちょっと、いやいや相当に変わった小説なのである。

 漱石自身はこれを「俳句的小説」と呼んでいる。

 小説の中でも1章と6章は、その神髄ともいうべき素晴らしい箇所である。

 「草枕」の面白いところの一つに、主人公の行動の動機が「独自のルール」によって物語性を成立させようとする漱石の工夫というものがある。

 情緒に左右されずに、自分の作り出した非人情の論理によって行動を起こす。

 とはいえこれは無理矢理ひねりだした(小説)ルールなので、当然そこに微妙なズレが出て来て、そのズレこそが、なんとも言えぬ面白味に繋がっている。

 すると、これはほんの一つの断面であるが、読者がどのような切り口で読んでもそれなりに面白いのである。それがまた「草枕」でもある。

 この小説を読んだ読後には「この不思議な面白さと美しさは一体どんな所からやってきているのか」と、きっと次ぎは作者・漱石の性分にまで立ち入ろうと試みる。

 ともかくも漱石自身が語るように、この作品は風変わりなのである。

 この小説をグレン・グールドは章ごとに(全部で13章)耽り、最後に全体の偏屈を見通した。

 その「草枕」の有名な冒頭・・・

 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。

 グレン・グールドが耽り、そうして惹かれた草枕文学。

 そこらを漱石の肉声朗読でご紹介する。

夏目漱石の肉声(草枕)朗読



大正初期に収録された漱石の演説上の言語を編集・加工して小説「草枕」の朗読。この立体言語学研究実験における動画資料は、夏目漱石の肉声を再現。


グレン・グールド 41

 深夜から書斎の奥にある小部屋の棚を掻き回していた。

 混沌と乱暴に積み上げたままの漱太郎の古書蔵は数十年の回廊である。

 ようやく抜き出したのは・・・・
 
 グレン・グールドの写真集「ア・ライフ・イン・ピクチャーズ」(ソニー・マガジンズ出版)。

 バッハファンなら十中八九は知っているピアニスト、グレン・グールドの写真集だ。

グレン・グールド 42

 そこには、幼い頃に家族の愛を一身に受けたグールドの姿や、バーンスタインとのオケ競演でのショットや、
ダンサーとはしゃぐ無邪気なグールドの姿なども収められている。

 また、写真だけでなく、グールドと親交のあった音楽家の言葉や、グールド自身の言葉が紹介されている。

グレン・グールド 40

 じつはこの中に興味ある内容があったことを記憶していた。

 北原白秋の詩歌についてのリズムを考えているときに、ふとこの写真集が過ぎった。

 そのなかで、漱太郎が特に興味を覚えたのは、グールドがA.ルービンシュタインとの会話での逸話である。

               グレン・グールド 50
                 アルトゥール・ルービンシュタイン

 ルービンシュタインが・・・

 「観衆が会場に到着して、演奏会が始まるとき、男も女もそれまでは、てんでそれぞれの考えごとをしている。
そうしたそんなみんなの雑念が、いつしか一斉に自分の音に全員が耳を傾けている。歓喜する、そういう聴衆が発する特別な雰囲気を、君は一度も感じたことがないのかね。人々の魂をつかんだと思ったことは?」と聴いた。

 するとグールドは・・・・・

 「彼らの魂なんて欲しくなかった。言葉にすると愚かに聴こえるかもしれないけど、もちろん影響は与えたいと思いましたよ。なんらかの方法で、人々の生き方を方向づけるような、昔風の言い方をするのなら、『役に立つ』といったことでしょうか。でも力をふるうようなことはしたくなかったし、聴衆の存在に刺激を受けたいということもなかった。実際のところ、聴衆がいるとかえって上手く弾けなかったんです。」と答えた。

 これに対しルービンシュタインは・・・

 「なるほど、私たちは正反対だね。まったく正反対だ!」と言った。


 そうして演奏会という形式から、やがてレコーディングに光をみて、大衆の前から姿を消したグールド。

 完全なオリジナリティ溢れる演奏は、バッハに限らず、モーツアルトのピアノソナタの録音からも明らかだ。

 近年の日本人音楽生のコンクールを観て考えた場合に、

 課題曲であるバッハのシンフォニアを弾く出演者の5人中、少なくとも2人は、ほぼ、グールドの演奏の模倣だった。それは、それほど演奏解釈の難しいバッハのインベンションやシンフォニアを、グールド独自の演奏解釈は際立っていたからだ。

 この写真集には映画『グレン・グールドをめぐる32章』に描かれることのなかった茶目っ気とユーモアに満ちたグールドがいる。天才にありがちと言われるアスベルガー症候群の症状を呈していたとも言われたグールドがここにいる。

 そんなグレン・グールドを映し描いた写真集には、彼を讃えたじつに味わい深い多くの言葉が載せられている。


 「グールドは数多くの才能に恵まれていたが、長生きの才能はなかった。だが、…彼ならではの深遠なやり方で時間を超越した。その証拠に、グールドはその後もずっと重要な -いや、不可欠な -音楽的存在であり続けており、ある意味では彼が生きていたとき以上に、私達の経験の中核を占めている」と。ティム・ペイジ

 「グレン・グールドは、きわめて優れた人物であり、気さくで思いやりにあふれている。風変わりでも、利己的でもない。自分が望む生き方をはっきりとつかみ、それを寸分の違いもなく実践している人間なのだ」と。ジェフリー・ペイザント

 「グレンの才能はひとつにおさまらなかった、彼は研究し、思索した。音楽学への造詣も深く、演奏会のステージで演奏するとき、他のどんなピアニストよりも、自分が弾いている作品をよく理解していた」と。ロバート・シルヴァーマン

 そうして本人自身の言葉としては・・・・・

 「セバスチャン・バッハの音楽が偉大なのは…芸術につきまとうあらゆる教条的なもの…美意識にありがちな軽薄で退廃的な先入観を超越していることだ。それは時代に従属しないことで、時代を豊かにできる人間の姿を示している…時代に合わせることを迫られても、それは縛られることなく、独自のやり方で時を組み立てることは可能なのだと教えてくれる」と。グレン・グールド

 「最近はあまり教会に行かない……でも、地上ではもたらされない平和とかいう聖句を思い出しては、心の安らぎを覚えている」と。グレン・グールド

 「ほかの人間と1時間いると、それをX倍した時間だけひとりになる必要がある……孤独は人間の幸福に欠かせない要素だ」と。グレン・グールド

グレン・グールド 43

               Glenn Gould

グレン・グールド 35    グレン・グールド 24 
                  「草枕」変奏曲―夏目漱石とグレン・グールド」 横田庄一郎著

 彼と日本人の出会いは「草枕」のなかにあった。

 カナダの天才ピアニスト、グレン・グールドが15年にわたって愛読していた夏目漱石の小説「草枕」。そのグールドが共鳴したものは夏目漱石の人生観、芸術観であった。

 グレン・グールド 彼の死後、枕もとにあった二冊の本――「聖書」と「草枕」。この書籍は日本の国民的作家夏目漱石の「草枕」を、グレン・グールドが愛読していたという意外な事実を解き明かした。朝日新聞記者である著者の綿密な取材と大胆な推理によって奏でられるヴァリエーション(変奏曲)!である。

 グールドは1982年10月4日午前11時30分、50歳で亡くなった。

 自然死ではなかった。

 彼は9月25日に満50歳の誕生日を迎えた二日後の27日午後2時ごろ目覚め、体の異常に気がついた。

 半身が麻痺して脳卒中の発作を起こしていた。

 秘書のような役割をしていた友人のレイ・ロバーツを電話で呼び、彼によってとろんと総合病院に運び込まれた。意識はあり、口をきいていた。

 この『草枕』変奏曲は、そんなグレン・グールドと漱石と、この二者を結びつけて論じた本である。

                       グレン・グールド 51
                 関連本として・・・・・『漱石とグールド』横田庄一郎著

グレン・グールド 33  音譜 gif  2

映画『グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独』予告編


映画『グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独』は2011年10月29日(土)に全国順次公開された。

 グレン・グールド Glenn Herbert Gould

 彼はピアニスト、作曲家。

 1932年9月25日、カナダのトロントに生まれる。

 旧姓名は、グレン・ゴールド(Glenn Gold)。

 プロテスタントの家系だが、ゴールドという苗字がユダヤ人に多く、当時高まっていた反ユダヤ主義に巻き込まれることを恐れて、グレンの生後まもなく一家はグールドと改姓した。

 母方を通じてノルウェーの作曲家グリーグの親類にあたるといわれている(ただし、その証拠となるようなものはないらしい)。ともかく風聞としてそうなっている。

 母親は声楽の教師でピアノも弾き、父親は声楽同様ヴァイオリンの演奏ができた。

 その母親からピアノの手ほどきを3歳から受けたのち、1940年に7歳にしてトロント王立音楽院に合格。

 同院で、レオ・スミスより音楽理論を、フレデリック・シルヴェスターよりオルガンを、アルベルト・ゲレロよりピアノを習う。

 1944年、地元トロントでのピアノ演奏のコンペティションで優勝。

 1945年にオルガン奏者としてデビューする。

 同年には、カナダ放送協会によりグールドのピアノ演奏が初のオンエアとなる。

 1946年5月トロント交響楽団と共演しピアニストとしてベートーヴェン「ピアノ協奏曲第4番」で正式デビューし、同年10月、トロント王立音楽院を最年少で最優秀の成績で卒業する。

 その後、1947年に初リサイタルを行って国内での高い評価を得た。


グレン・グールド 52 東京の窓辺(赤坂見附)


 何かモノを書く場合、やはり自身なりのコンデションがいる。

 このままでは書けない、落ち着きすぎる。

 文章を書くとは、何かの欠如が必要なのだ。

 それで先程、久々にブラームスの『インテルメッツォ』を聴いた。

 今、その「先程」である「半年ほど前の5月」の当時を思い起こしている。

 そこは赤坂見附の外れた一郭、木立のみえる書斎の高みからの光景は、すっかり暮れなずんだ都心の空気の中、朝からの五月雨が一日降りしきっていて、公園の木々の葉脈に沿って次から次へと流れ落ちていた。近年都心の雨は節度を無くし人の上に容赦なく鮮やかに降る。

               日本四季1 雨11

 しかしなぜブラームスの『インテルメッツォ』なのか。

 その前に、

 空虚を配分する。決して高まらないで、意識を存分に低迷させて分散させる。どんなスコアにも、もうひとつのスコアがありうると確信した。

 こんなことがグレン・グールドにできていたなんて、と、少し信じられないトキメキがあったからだ。

グレン・グールド 1     グレン・グールド 2
『グレン・グールド著作集』(1・2)Glenn Gould : Glenn Gould Reader 1984
野水瑞穂 訳1990 みすず書房


 それでだが、先程、久々にブラームスの『インテルメッツォ』を聴き直した。

 グレン・グールドの「躊」「躇」と「序」「破」「急」をまん然と追いながら窓外のほうに耳をむけてみると、どうもそこでは雨垂れの不確かなリズムがうっすら混じってくる。

 その妙な雨垂れが重なると、えっ、宮城道雄だっけ?「さみだれのあまだればかり浮御堂」。ああ、これは阿波野青畝。おや、おや、例の胸騒ぎが始まった。

 ああ、やはりブラームスの『インテルメッツォ』では妙に満たされる。

 だから、このままでは書けない。落ち着きすぎる。文章を書くとは、そう、やはり何かの欠如が必要なのだ。そこでふとバッハの『ゴルドベルク変奏曲』を聴くことにした。

 余計な雨垂れを遮ろうとして、小さなヘッドフォンをつけた。

 あれ、耳が痛い。窮屈だ。ひどく音も割れるので、これはすぐに剥ぎ取った。

 そのとたん、仕方なくと思いきや、だがゆっくりと雨の中にバッハが染まりながら広がっていった。

 うーん、そこ、そこ、グールドの手が遊んでいる。聴きながら、著作集のページをめくる速度を速めていった。

 この変奏には、小気味よい欠如がある。

グレン·グールド 『バッハのゴルトベルク変奏曲』
Glenn Gould - Bach Goldberg Variations



ピアニスト:グレン·グールド(1932 - 1982)Pianist: Glenn Gould

 ピアニストにとってピアノが道具や武器であるうちは、そのピアノはスコアの裡にある。

 けれどもスコアが見える演奏はピアノにはなってはいない。

 ピアノとは身体そのものになっていて欲しいのだ。

 グレン・グールドにとって、ピアノは身体機械あるいは知覚機構そのものだった。

 身体機械? 知覚機構? いやいや、こんな現代思想めいた言葉でグールドを書いていたのでは、さきほどのバッハの演奏には程遠かった。グールドにあってはピアノを身体のように扱っているのではなかったのだ。

 これは、言い換えておかねばならない。

 まず、「身体」なんて言葉がいやらしい(どうして現代思想たちは「身体」と言いたがるのだろうか)。
  
 だからこの表現は、やめ、だ。

 身体ではない、体、カラダ、空だ、なのだ。

 グールドでは、その体そのものがピアノなのである。体というピアノ。ピアノになる体。

 ピアノを自由に操っているのではなくて、体のどこからがピアノになるかということ。それがグレン・グールドの演奏だった。

グレン・グールド 4   グレン・グールド 3
      バハマ諸島ナッソーで練習に打ち込むグールド

 1955年6月、グールドはのちに最も有名になった『ゴルドベルク変奏曲』の最初の録音を、ニューヨークのCBSスタジオで収録した。

グレン・グールド 5 「ゴールドベルク変奏曲」(55年モノラル盤)

 この年は、それまでカナダでしか知られていなかったグールドが、バッハ『パルティータ第5番』とベートーヴェン『ソナタ第30番』をもって、鮮烈なアメリカ・デビューをした年でもあった。

グレン・グールド 6 「パルティータ第5・6番」(1957年発表)

 その1月の鮮烈な演奏を聴いて腰を抜かしたコロンビア・レコードのプロデューサーは、数日後に電撃契約を結ぶ。抜け駆けだった。ところがレコーディングの曲目を打ち合わせてみて、コロンビア側の全員が呆れた。

 なんと、グールドは、山場なんてひとつもない、ただややこしいだけの『ゴルトベルク変奏曲』をレコードにしたいと言い出したのだ。

 ゴルトベルクなら、あの恐ろしいワンダ・ランドフスカが、彼女のもっと恐ろしいハープシコードによって弾いている。それが相場だとも決まっていた。それを何を好んでのゴルトベルクなのか。

グレン・グールド 7 「ベートヴェン:ピアノ・ソナタ」

 しかしグールドは押し切った。いま聴けば、ゴルトベルクが魔法のように壮麗な曲であることは誰にでもわかるようになったのだけれど、その当時は誰も演奏すらしていなかった。

 会社は渋々応じることにした。これでは売上げも見えていた。

 けれども、驚くのは曲名だけではなかったのだ。

 グールドは6月なのにオーバーを着込んでマフラーで首を覆い、帽子をかぶって手袋をしてスタジオにやってきた。さらに数枚のセーターが鞄につめてある。おまけに何枚ものタオルと大瓶のミネラルウォーター2本と錠剤入りの小瓶5本を持参した。

 ピアノに向かう前にグールドがしたことはもっと異様だった。

 まず洗面所にこもって両手をお湯に20分にわたって浸けた。

 その手を何度もタオルで拭きしだく。それから何やら声を出す。

 ピアノの前にはすでに、グールド持参の指定の椅子が用意されていた。

 それは、あの有名な低すぎる椅子である。

 床上35.6センチ。父親がわが子のために作った椅子だ。

 グールドはそこに坐り、それから声を出し、そうかとおもうと歩きまわり、そのまま録音室から外に出ていって、スタッフがやきもきしているなかを、首を激しく振りながら戻ってきた。

 そしてまったく何の前触れも合図もなく、突然に体がピアノになっていったのだ。

グレン・グールド 8 バハマでの休日、放置された葬儀馬車の前で

グレン・グールド 9 マネージャーのウォルター・ホンバーガーの事務所にて。厚手の格好をするグールド

 録音室の全員が、グールドの手首が鍵盤より下にありながら、まるで飛魚のように鍵盤を動かしていくのを見て、茫然とした。

 もはや誰もが何も信じられなくなったのだが、レコードは爆発的に売れた。持参したミネラルウォーターはグールドがニューヨークの水を信用していなかったせいだった。

 2年後、レナード・バーンスタインがニューヨーク・フィルのベートーヴェン『ピアノ協奏曲第2番』にグールドをピアニストとして招いたときも、まったく同じことが再現された。

 カーネギーホールにグールドが到着したのは、出番の2分前。

グレン・グールド 10 椅子を調整するグールド

 やはり毛皮のコートの下に服を二重に着込んで、その下にセーターを着ていた。

 バーンスタインはさすがに驚いた。

 グールドはセーターのまま舞台に出るつもりだったので、バーンスタインはなんとかそれだけをやめさせた。

 バーンスタインがもっと驚いたのは、グールドが体を斜めにしたまま第1楽章を弾きはじめたことだ。聴衆は誰もグールドの顔を確認できないまま息を呑んでいた。

グレン・グールド 11 愛用の椅子とともに

 第2楽章、今度はグールドは口をいっぱいにあけ、目を天井に向けた。最終楽章ではついにふんぞりかえり、椅子から落ちそうになって弾きまくった。その恰好では絶対に鍵盤が見えるはずがない。

 この演奏は、ニューヨーク・フィルのメンバー全員を絶賛させたが、聴衆にはピアニストがピアノになるにはどんなことも許されていいのかという疑問をもたらした。けれどもグールドは、このあともこの姿勢を一度も変更しなかった。

 のちにバーンスタインが語っている。「グールドには、彼がピアノになるための環境をつくることが演奏の開始だったんです」と。

グレン・グールド 13
         演奏中の恍惚

 グールドの演奏ぶりはフィルムとビデオに残っている。これが見られるのは、至福に近いものがある。漱太郎も何度も何度もグールドのピアノ演奏のフィルムや白黒時代のドキュメンタリーを見てきた。

グレン・グールド 12 『グレン・グールド大研究』1991 春秋社

 1966年にユーディ・メニューインと競演している映像はとくに忘れられないものとなった。

 そこではグールドは顎を使って自分の手や指に合図を出し、喉をたえず動かして唇を鼓舞し、空いたほうの手を空中に文字を綴るように動かしていた。

 いや、ありとあらゆる体の部分が動いていたといったほうがいいのだろう。

グレン・グールド 14 
『グレン・グールド演奏術』ケヴィン・バザーナ著 サダコ・グエン訳 2000白水社

 全身を動かしているのではない。体の個別の部位がそれぞれアーティキュレーションを担当して、演奏音楽そのものになっていくわけなのだ。

 一方、ブリュノ・モンサンジョンによるグールドのフィルムには、バッハの『フーガの技法』の演奏が収録されている。

グレン・グールド 15 
バッハ「フーガの技法」を演奏眉の動き(上:眉の上がった状態 下:眉が寄せられる)

 そのコントラプンクトゥス第1番の演奏部分を詳細に分析したフランソワ・ドゥラランドによると、グールドがあいた左手で「想像上のオーケストラ」を“指揮”しているのは、楽譜の線的な動きを追っているのではなく、シンコペーションを補っていることが多いのだという。

 そうだとすると、グールドは左手で楽譜を空中に解放し、それを右手で受けて弾いていることになる。

 こういう演奏家を見たことがない。

グレン・グールド 16 「フーガの技法」インヴェンションとシンフォニア

 インプロヴィゼーションならばぜひともミルフォード・グレイヴスをあげたいが(パーカッションであるが)、楽譜に挑んでその楽譜を作曲家の発想にまで戻し、さらにその向こうの独自の「鳴りやまぬもの」にもちこむなんて、そんな演奏があるとは驚愕だ。グールドは、どこかに「向こう」を飼っているとしか思えない。

グレン・グールド 34
      バハマ諸島ナッソーにて

 音楽ファンにはあまり知られていないことかもしれないが、グールドはラジオ・ドキュメンタリー番組を何本か手掛けている。かなり意欲的だった。

 最初はシェーンベルクをめぐるドキュメンタリーだった。これはドキュメンタリー手法をマスターするためで、小手しらべ。ところが次の制作からは、ずっと「北」をのみ主題にするようになった。

 グールドには、緯度が北上するにしたがってそこに住む人間の思考や体験が特異なものになるのだという“妄想”があったようで、ドキュメンタリーではそうした北の住人を何人かとりあげて詳細なインタビューをし、これをもとに一種の音楽番組を作ろうという計画になっていた。

 トロントに生まれ育ったグールドならではの計画だ。

グレン・グールド 18 
『グレン・グールドの生涯』オットー・フリードリック著 宮澤淳一訳 2002青土社

 この一連の番組は「北の理念」とよばれ、のちに「孤独三部作」として知られるようになるのだが、それが実は音楽番組だったということは、グールド以外の誰も感じていない。

 けれどもよくよく聴いてみると、ここにはインタビューに答える者たちの声がざわめき、重なりあい、離れあって、また寄せては返すようになっていた。

 この例に見られるように、グールドは「向こう」に何かを感じる性癖の持ち主だったのだ。

 そういうグールドが作曲家たちの「向こう」を演奏するのは、当然だったのである。この「グールドの北方憧憬」については、鈴木康央の『北の人 グレン・グールド』(鳥影社)が面白い。

グレン・グールド 20      グレン・グールド 19
   「北の理念」プロローグの楽譜    『北人 グレン・グールド』鈴木康央著 1999鳥影社

 グールドは言葉を尽くそうとしていた人でもある。

 著作集にはその証拠が随所に見えている。1956年に書いた『十二音主義のジレンマ』など、自分が書いたシェーンベルクについての過去の文章をスコアにして、それを別の演奏で綴っているようで、なかなか興味深いものがある。

 その言葉はまた変わってもいたし、饒舌でもあった。音楽家でこんなに喋った男はいないのではあるまいか。書簡も多い。

 死後に集積されたオタワの国立図書館にあるグレン・グールド・コレクションは2万点にのぼる。20世紀でこれほど言葉を費やした音楽家を見つけるとすれば、たぶんピエール・ブレーズかレナード・バーンスタインくらいだろうが、そのバーンスタインが「グレン・グールドの言葉は彼の弾く音符のように新鮮でまちがいがない」と言っているのだから、これは始末が悪い。

グレン・グールド 21 
『グレン・グールド 書簡集』ジョン・P.L.ロバーツ ギレーヌ・ゲルタン編 1999みすず書房

 言葉が多いだけでなく、辛辣だった。

 とくにモーツァルト嫌いは有名だった。「モーツァルトの作品が嫌いだというのではない。もっと否定的だ。つまり許し難いのだ」「モーツァルトは早く死にすぎたというより、死ぬのが遅すぎた」とまで書いた。

 35歳で夭折したモーツァルトになんてことを言うのかというほどの毒舌だが、グールドによれば、モーツァルトは長じるにつれ、気質のままに図に乗って二流の作曲家になってしまった。だから死ぬのが遅すぎたというのだ。

 モーツァルトを弾かないでそう言っているのではない。ピアノソナタ全曲を録音しているし、モーツァルトで好きなのは「ハ長調のフーガ」K394だけという言明もくだしている。

グレン・グールド 22 
『グレン・グールド 孤独のアリア』ミシェル・シュネデール著 千葉文夫訳 1995ちくま学芸文庫

 グールドの言葉が多くて、辛辣だというだけであれば、これまでのようにグールドを奇人変人扱いにすればいい。

 しかし、そんなふうにグールドを“奇矯に煌めく匣“にしまっておけないのは、グールドが芸術の価値や芸術家が対面している価値の判定に異常なほどに厳密で、その厳密が今日のすべての芸術がほとんど失いつつあるものであるからだ。これをヴンターキント(神童)に特有の鼻持ちならない性癖だなどと見ては、いけない。

グレン・グールド 23
      レコーディングの様子

 たとえばグールドは、ベートーヴェンの『協奏曲第4』の冒頭を呆然とさせるほど美しく演奏してみせた。

 なぜなのか。この唐突な導入には、芸術作品をプレゼンテーションする者すべてが考えこんでいい問題がひそんでいる。

 またグールドは、ハープシコードではピアノのようなソステヌートやレガートを作りだし、ピアノにおいてはハープシコードに特徴的なアタックを鮮明にし、オルガンではハープシコードやピアノに特有の軽さに挑んでみせた。なぜそんなことをしたのだろうか。

 この、グールドが見せた個別のツール(ハードウェア)を扱うときに見せる「互い違い」は重大だ。

 あるいはまたグールドは、これこそがグールド最大の謎とされていることであるけれど、31歳をかぎりに、いっさいの演奏会での演奏を拒否してしまった。

 わずか7年のコンサート活動だった。それも絶頂期でのリジェクトである。あとはすべて録音活動ばかり。なぜ人前での演奏をしなくなったのか。

 誰もがこの謎に回答を試みているが、あまり満足な説明はない。グールドもとくに“正解”を言わずにおいた。

 完璧な演奏を保証できないと判断したからではない。肩が痛くなったからでもない。会場の咳ばらいやカーテンコールが苦痛だったからでもない。

 ひとつには、演奏の自由をコンサート形式の聴衆などに聴かせたくなくなったということ、もうひとつにはナマでは「テイク2」ができないからだ。

 グールドがやってみせたことは、漱太郎が感じることでいえば、きっと次の3つのことだった。

 ひとつ、様式は一挙に混淆する(そのほうがいい)。

 ひとつ、技術は内容を超えるときがある(技術が未熟ならば、かえって内容を殺すこともある)。

 ひとつ、構造は自由の邪魔をする(だからスコアの指示を読み替えなさい)。

 ここには、何があるかといえば、「比類のない芸術精度は、よく練られた逸脱をもってしか表現できない」ということが提示されている。

 この「精度と逸脱の関係」のメトリック(韻律法)を感じることこそは、今日のアートシーンがこっそり引き継ぐべきことだ。とくに現代美術家と技術思想屋たちは(この二つが結託しているのが、今日の最大の不幸であるが)、このことを肝に銘ずるとよい。


グレン・グールド 演奏年代の異なる2曲のゴールドベルク変奏曲 試聴比較



 最初('55)の《ゴールドベルク》の録音と、次ぎ('81)の録音との違いは、第15変奏のような、長い、ゆっくりとした変奏なのででよくわかる。五度の反行カノンによ­る変奏である。グレン・グールードは「26年前、私はあれをショパンの夜想曲のように弾いてしまいました。あの演奏をした人物をもはや認識できないのです。今の私にはわかるのですが、あの変奏に­はある種の強度があって、虚飾を施す必要がまったくない。ピアニスティックな、器楽的な強度ではなく、精神的な強度です」というコメントを遺している。

 では、グールドがどうしてこのような考え方をもっていたかといえば、それはグールドが天才だったから気がついたことではない。天才のほうが気がつきやすいかもしれないが、そうでなくたって、よくよく芸術と付き合えばすぐわかることである(たとえばジョン・ラスキンのように)。

 この考え方が生まれたのは、そこに「美はおもいがけなく傷つくものである」という本来の告示が秘められていたからなのだ。

 じつはグルードがここらの境地を開発するに当たり、夏目漱石からはその思索法を、北原白秋からは郷愁の象(かたち)を斬新に誘う彩色的詩歌として構成させる描写法を、計り汲み取っている。

 単に漱石の文学に耽っていたのではない。

 端に白秋の詩歌を異国土産のごとく転がしておいたのではない。

 グールドは漱石と白秋を糧にして、より「向こう」に何かを感じる性癖の持ち主であることを強靭にした。

 芸術家たちは美を表現するのではない。

 芸術家が引き受けるべきことは、美がおもいがけなく傷つくこと、そのこと自体をどう表現するかということなのだ。

 したがってグルードの眼は漱石に漱がれ、指先の指揮は白秋の眼差しに触れたことになる。

 以上、雨の赤坂見附でブラームスとバッハを聴きながら付け足した感想である。『著作集』からは次の一文を引用しておきたい。

 「演奏者が編集者の役割を帯びることは、どんなときでも矛盾しないことである」。


                コーヒー動く


グレン·グールド:バッハゴルトベルク変奏曲1981 Studioビデオ(完全)47分20秒
Glenn Gould: Bach Goldberg Variations 1981 Studio Video (complete)



これはグールドのCDがリリースされた1981年のバッハのゴルトベルク変奏曲を録音した時のスタジオでの演奏。
This is the original studio video during which Gould recorded Bach's Goldberg Variations in 1981 which was released on CD.



 さて、ここからが、漱太郎が本日③のためにとっておいた話になる。それはグールドがどんな本を好んで読んでいたかということだ。

 とはいえ、シェイクスピア、トーマス・マンの『魔の山』、ソローの『森の生活』、オースティンの『高慢と偏見』、ヘッセの小説、ストリンドベリの戯曲集、ゴンチャロフの『オブローモフ』(これはやや暗示的かもしれない)、ジッドの手法、イヴリン・ウォーのアメリカ、ニーチェの哲学(それはそうだろう)、それにユーディ・メニューインの『人と音楽』やアップダイクの『走れウサギ』などが愛読書だったからといって、とくにそれだけでは面白くはない。

 それならむしろマクルーハンの著作のほとんどを読み、ロバート・ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』のペーパーバックを持ち歩いていたというほうが、ちょっと面白い。グールドには本質的にアナキストの資質があるからだ。

 だが、漱太郎がここで再度持ち出したいのは、やはりもっと痛快なことである。前もつてこの重要が気掛かりであったから、中盤でも少し触れたが、グールドが夏目漱石の『草枕』にぞっこんだったということだ。

 そうしてそこに北原白秋が連なってくる。またそうすることで未だ知られざる白秋を浮き彫りにしたい。

               グレン・グールド 24


 グールドが『草枕』を読んでいたことは、日本のグールド・ファンはうすうす知っていたはずである。ライナーノーツや雑誌のグールド特集には(雑誌特集では今野裕一君がやった「WAVE」が出色だった)、そのことがいつも「日本茶に和菓子」のように添えられてきたからだ。

 しかし、グールドがどれくらい『草枕』に傾倒していたかは、横田庄一郎の研究エッセイが発表されるまでは、ほとんど知られてはいなかった。

 のみならず、漱太郎は横田の『「草枕」変奏曲』(朔北社)を読んで、たいへんに気持ちがよかったのである。そうか、グールドをこういうふうに聴く手があったかと思ったのだ。

 グールドについての評伝や評論は数かぎりなくあるけれど、横田の「夏目漱石とグレン・グールド」をめぐった一冊が、いちばん、面白く、痛快なのだ。

 またこの著作の好評さもあって2011年の映画「天才ピアニストの愛と孤独」は成功裏に終えた。

 天才ピアニストの背景に漱石・・・となればこそ日本人の興味を倍増させた。

 そのグレン・グールドが『草枕』に出会ったのは35歳のときだった。

 1967年のことである。カナダ東部のノバスコシア地方を旅行したときに、列車のクラブカーのなかでウィリアム・フォーリーと知りあった。

 フォーリーはフランシスコ・ザビエル大学で化学を教えていた教授で、カナダ人。

 このフォーリーが『草枕』の話をした。

 グールドはそれが気にいって自分の鞄からストコフスキーと共演したベートーヴェンの『ピアノ協奏曲第5番』のレコードを進呈した。

 その返礼に英訳『草枕』があとから送られてきた。

 アラン・ターニーの翻訳で、“The Three-Cornered World”(三角の世界)というタイトルになっていた。

 例の、「四角な世界から常識と名のつく一角を摩滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう」から採ったタイトルだ。

 ターニーさんは清泉女子大学で比較文学を教えているイギリス人である。

グレン・グールド 55 The Three-Cornered World
ISBN 0 7206 1156 3 フィクション文庫本

 フォーリーから送られてきた『草枕』にグールドは埋没してしまった。

 以降、グールドの漱石への徹底した傾倒が始まっていく。オタワのコレクションには『吾輩は猫である』『三四郎』『こころ』『それから』『道草』『行人』が残っている。けれどもやはり『草枕』が最も好きだった。『草枕』だけには書きこみもある。

 グールドは一人っ子である。親しい従姉にジェシー・グレイグがいた。

 このジェシーに、グールドは『草枕』の全部を2晩にわたって朗読して聞かせた。これはよっぽどだ。漱太郎はこれを知って、そうか、好きな誰かに自分なりの『草枕』を読んであげるべきだったと思ったほどだ。

 1981年のカナダ・ラジオでも、グールドは『草枕』第1章を朗読した。英訳そのままではなく、自分で要約編集までしていた。ギレーヌ・ゲルタンの『グレン・グールド 複数の肖像』(立風書房)に収録された論文によると、この朗読はよく練られたリズム感や推進感に富んでいて、自分の声と漱石の声をひとつにしているように聞こえたという。

 また、そのときの解説では、マンの『魔の山』との共通性にふれ、「『草枕』はさまざまな要素を含んでいますが、とくに思索と行動、無関心と義理、西洋と東洋の価値観の対立、モダニズムの孕む危険を扱っています。これは二十世紀の小説の最高傑作のひとつだと、私は思います」と語ったという。

 ともかく、漱石にぞっこんである。

 何を気にいったのか。漱石が散りばめた東洋哲学や俳諧趣味なのか。それとも、そういうことをしてみせる漱石の思索そのものが気にいったのか。

 おそらくは両方だろう。著者の横田庄一郎は、50年間のグールドの前半生は『魔の山』に擬せられ、後半生は『草枕』に擬せられるのではないかと書いている。これは当たっているかもしれない。

 きっと漱石の文体(英訳ではあるが)も気にいったのだろうと思われる。

 またそうでないと、漱石から連ねて白秋を引き出してくる展開思索は芽生えない。

 それも芭蕉の俳句に代表されるアーティキュレーションと、そのパッセージが了解できたにちがいない。そして、そのモノクロームで、意味とリズムと表現が一瞬にして凝縮しながら提示できているその感覚に、敬意と共感をもったのだ。そう捉えない限り白秋までの興味の展開は不可能である。

 もし、グールドが芭蕉の「あけぼのや白魚白きこと一寸」の俳句を日本語の意味と文字で知ったなら、これを作曲したくすらなったであろう。

グレン・グールド 25 『グレン・グールド 複数の肖像』
ギレーヌ・ゲルタン編 浅井香織 宮澤淳一 共訳 1991立風書房


 グールドが日本の芸術作品に傾倒したもうひとつの例に、安部公房の『砂の女』がある。これは勅使河原宏さんによる映画のほうで、グールドはこの映画を100回以上も見たと語っている。

 水増ししているだろうものの、100回以上というのは異常だ。なぜこんなにも『砂の女』に没入したのだろうか。グールドは言葉を残していない。しかし、この話はその後はいろいろ広まって、ドナルド・キーン、安部公房、勅使河原宏がグールドの音楽を語るきっかけになった。

 ジョナサン・コットの『グレン・グールドとの対話』(晶文社)には、「カラー映画はモノクロ映画の強烈版ともいえるけれど、必ずしも色彩が必要とは思わない。白と黒のほうがいいものは、たくさんある。『砂の女』をカラーでは見たくない」と言っていたグールドの話が紹介されている。

 説明はなくとも、グールドが『草枕』と『砂の女』を偏愛していたことは、これからのグールドを語るうえでは欠かせないものとなるだろう。その『砂の女』の音楽が武満徹で、その武満さんがグレン・グールド賞を受賞していたということを、べつにしても――。

 ところで、これも横田庄一郎の本で知ったのだが、1977年に打ち上げられたボイジャー1号・2号にはグールドの演奏曲が搭載されていた。何が搭載されていると思われるだろうか。バッハの『平均律クラヴィーア』第2巻、プレリュードとフーガ第1番だ。

 ちなみに他のクラシックでは、バッハ『ブランデンブルク協奏曲第2番』(リヒター指揮)、バッハ『無伴奏バイオリン・パルティータ第3番』(グリュミオーのバイオリン)、モーツァルト『魔笛』(エッダ・モーザーのソプラノ)、ベートーヴェン『交響曲第5番』第1楽章(クレンペラー指揮)、ベートーヴェン『弦楽四重奏曲第13番』(ブタベスト弦楽四重奏団)、ストラヴィンスキー『春の祭典』(ストラヴィンスキー指揮)などとなっている。

 中村明一さんが知っているかどうか、日本からは尺八古曲の『鶴の巣籠り』が選ばれて、宇宙に飛んでいった。
 もうひとつ、書いておく。グールドはいずれ指揮者になるつもりもあったのだが、そのときの「夢のプログラム」として、こんな構成をノートに記していた。三つある。

 プログラムA
   ジークフリートの牧歌
   シェーンベルクの室内交響曲
   リヒャルト・シュトラウスの『メタモルフォーゼン』

 プログラムB
   シューベルトの『交響曲第5番』
   リヒャルト・シュトラウスのオーボエ協奏曲
   シェーンベルクの『浄夜』

 プログラムC
   バッハの『ブランデンブルク協奏曲第3番』
   バッハの『ピアノ協奏曲ニ短調』


グレン・グールド 26           グレン・グールド 27  
「シルヴァー・ジュビリー」      「グールド作曲 弦樂四重奏曲Op1」(1960年発表)


鉛筆回転青


 ・・・これより第③話も終盤となる。

 さてここで・・・問題である。この写真の女性二人は一体誰であろうか?。

グレン・グールド 53 グールドの遺品より

 じつは漱太郎は、この女性を特定することに数年を費やした。

 グールドの遺品であるから、漱石の関連か、あるいは白秋に関わるモノとは推測されるのであるが、記名なき写真のみで解明するとなると、相当な比較検証の手数を要する。

 右側の女性が意外に早く判明する。

 神保町の古書店主から情報をえた。

 小説家で代表作は『にごりえ』『たけくらべ』であると言えば、大方の人はお気づきになろうか。右は樋口一葉なのである。しかし、そうして右を得ても、片方の左側の女性は判然としなかった。

 しばらく一葉の周辺を探るも、

 そうして、或日・・・・・伊豆の伊東市に所用ができた。

 これは写真の女性探しとは無関係な用向きであった。

 しかし奇縁も拾えば、なるほど実縁となるものだ。

 伊東市湯川には、住宅街の一角にひっそりと佇む「木下杢太郎記念館」がある。

グレン・グールド 57 木下杢太郎記念館

 ここは伊東市民ならずとも伊東市を訪れる客人ならば一度は訪れたことがある観光名所の一つではなかろうか。

 駅から歩いて5分、歴史の香り漂うなまこ壁を配した黒い外観は、明治40年のもの。

 木下杢太郎の生家跡である。

 その戸を、ガラガラっと引き開けると、木造建築のしっとりと落ち着く空間の中に、3つのブースに分かれた展示室があり、奥には天保6年(1835)築になる伊東最古の古民家、木下杢太郎の生家が保存されている。

 すでに所用も終えていたので、仔細に眼を凝らして見学した。

 そこでようやく左側の女性が判明する。同等の写真が展示資料として並んでいるではないか。

 この時、ふと微笑むグレン・グールド の横顔が見えた。

 彼の遺品として、この一枚の写真だけが未解明のままにされていた。

 写真の左は「木下杢太郎の姉たけ」なのである。

グレン・グールド 56 木下杢太郎

 館内に入って左が杢太郎の家族と文化人杢太郎ブースになっている。

 そこには杢太郎が参加した雑誌や著書、絵画、友人たちの作品などが並んでいる。

 明治40年(1907)与謝野寛が主催する新詩社に加わった木下杢太郎は、新詩社の代表雑誌『明星』に詩などを発表した。

 彼が最も尊敬した人物、森鴎外に出会ったのも、この新詩社に加わってからだ。

グレン・グールド 61 森鴎外

 この時期に、与謝野寛、北原白秋、吉井勇、平野万里、杢太郎の5人で九州に旅行をした。

 5人はこの折りの旅を紀行文として発表する。

 それが『五足の靴』である。

グレン・グールド 62     グレン・グールド 64  
       与謝野寛              吉井勇    

グレン・グールド 65     北原白秋 10
       平野万里              北原白秋

 キリシタンに興味のあった杢太郎は、彼らと島原、天草などキリシタンゆかりの地へ訪れる。

 つまり九州北部の南蛮遺跡を探訪した。

 そうして杢太郎は、南蛮情緒の濃い、切支丹趣味の耽美享楽的な詩を詠んだ。

グレン・グールド 58
        五足の旅の道程

グレン・グールド 59 岩波文庫『五足の靴』2007岩波書店

グレン・グールド 60
五足の靴:矢印が杢太郎、左に吉井勇、平野万里、与謝野鉄幹、杢太郎後ろの学生服姿が北原白秋

 この1ヵ月の旅行で、予算は1人50円(現在の価値に換算すると50万円程度 )。太田家の家計簿によると、この時期杢太郎に送金したのは60円。家族が杢太郎のために多めに送金したと推測される。

 『五足の靴』によって、白秋の処女作『邪宗門』や、杢太郎の『南蛮寺門前』などの名作が生まれた。また芥川龍之介のキリシタン文学へと繋がって行く。

グレン・グールド 66    グレン・グールド 67
                五足の靴が掲載された東京二六新聞。明治40年8月20日掲載。
 五足の靴をもう少し詳しく・・・

 「五足の靴が五個の人間を運んで東京を出た。五個の人間は皆ふわふわとして落ち着かぬ仲間だ。彼らは面の皮も厚く無い、大胆でも無い。而も彼らをして少しく重味あり大量有るが如くに見せしむるものは、その厚皮な、形の大きい五足の靴の御陰だ」 の書き出しではじまる「五足の靴」。

 明治40年(1907)8月7日から9月10日まで、東京二六新聞に連載された九州旅行記で、作者は五人づれである。その5人とは、詩歌機関誌「明星」を主宰する与謝野鉄幹(本名:寛、35歳)、その同人である北原白秋(早大文科23歳)、吉井勇(早大文科22歳)、木下杢太郎(本名:太田正雄、東大医科23歳)、平野万里(東大工科23歳)であった。

 同年7月28日から8月27日までの1ヶ月にわたる九州西部をめぐる旅は、近代文学を代表する詩人たちの若き日の冒険だった。

 一行は福岡から唐津、長崎とめぐり、8月8日に長崎県茂木港から暴風の荒海を船でわたり、富岡港(現在の天草郡苓北町)へ上陸した。上陸後は、天草西海岸沿いを徒歩で南下している。

 明治40年代の天草島は、言わば未開の孤島だ。百トン前後の蒸気船が唯一の交通手段で、港は自然の入り江がそのまま利用されていた。さらに、島内の道路網も未開発である。

 富岡から大江村(現在の天草町大江)までは、礫石の海岸あり、峻険な山坂ありの悪路が続く。

 約8里、32㎞の道のりを、スーツ姿に学生服、そして革靴というハイカラな出で立ちで、夏の炎天下を歩き続けたのである。これでは相当に体力を消耗したことだろう。
 
 しかし、素朴で自然豊かな天草の情景は、東京から来た青年たちにとって、新鮮な驚きと感動を与えた。

 木下杢太郎は、旅行に出る前は詩を書けなかったそうだが、この旅で4人が詩や短歌を次々に作るのを間近に見て、「自分にもできるのでは…」と、そう思って作ったのが詩作のはじまりだという。

 そこには青い空と海、強い日差し、したたる汗、飛び交う会話があった。そうした青春の5人が体感した全てが「五足の靴」には込められている。

五足の靴・旅の宿 垂玉温泉 山口旅館



 「五足の靴」の一行をはじめ野口雨情など、多くの文人たちに愛された心やすらぐ癒しの宿。南阿蘇の大自然に囲まれ、渓谷を一望に見渡せる開放感溢れる大浴場、「天の湯」をはじめ半露天風呂の「かじかの湯」、滝を眺めながら入る野趣豊かな露天風呂などが名物。南阿蘇温泉郷。

 明治41年(1908)新詩社を抜けてからも杢太郎と与謝野夫妻との交流は続くことになる。

グレン・グールド 63 与謝野夫妻 

 特に与謝野晶子は、杢太郎がとてもお気に入りだったと言う。杢太郎を題材とした歌を作ったり、彼に本の装丁をお願いしたりもした。

 また『五足の靴』で知り合った 、白秋と勇らと後々も行動を共にする。

 吉井勇は「いのちみじかし こいせよおとめ」の歌で知られる歌人。杢太郎が亡くなり、伊東公園に最初の記念碑を建てるときにも参加し、裏に書を刻んでいる。

 そうして彼が興した活動として、新詩社を脱退し、筆頭発起人として起こした「パンの会」も重要である。

 「パンの会」とは、石井柏亭、長田秀雄、白秋らが興した文芸・美術家の懇談会。パリのセーヌ川のカフェで、芸術家たちが芸術談義に華を咲かせていたように、ここ日本でも芸術運動をしていきたいとの思いで発足させた。

 パンは食用のパンではなく、ギリシャの牧羊神のパンの意。そのパンの会は東京の隅田川をセーヌ川に、カフェを隅田川近辺にある西洋料理店に見立て、粛々と催された。

グレン・グールド 68 《パンの会》木村荘八/画
昭和3年(1928) 長野県北野美術館蔵
・・・・・これは木村荘八による回想画。

 月に数回営まれたという会は、やがて名だたる文化人が参加する大きな会に発展する。しかし、この会は次第に酒宴の場と変わり、明治が終わるとともに消滅した。この頃が、木下杢太郎の文学活動のピークだったと言える。

 ・・・ところで同級生の北原白秋、中林蘇水と親交を厚くしたという「早稲田の三水」と呼ばれる若山牧水はどうしたのだ。

グレン・グールド 69 若山牧水

 牧水は1911年(明治44年)創作社を興し、詩歌雑誌「創作」を主宰する。

 この年、歌人・太田水穂を頼って長野より上京していた後に妻となる太田喜志子と水穂宅にて知り合う。

 1912年(明治45年)友人であった石川啄木の臨終に立ち合う。同年、喜志子と結婚する。

 1913年(大正2年)長男・旅人(たびと)誕生。その後、2女1男をもうけた。

 1920年(大正9年)沼津の自然を愛し、特に千本松原の景観に魅せられて、一家をあげて沼津に移住した。

 片や白秋はというと・・・

 1906年(明治39年)新詩社に参加する。与謝野鉄幹、与謝野晶子、木下杢太郎、石川啄木らと知り合う。

 『明星』で発表した詩は、上田敏、蒲原有明、薄田泣菫らの賞賛するところとなり、文壇の交友さらに広がる。

 また、この頃より象徴派に興味を持つ。

 1907年(明治40年)には、鉄幹らと九州に遊び(『五足の靴』参照)、南蛮趣味に目覚める。

 また森鴎外によって観潮楼歌会に招かれ、斎藤茂吉らアララギ派歌人とも面識を得るようになった。

 1908年(明治41年)に『謀叛』を発表し、世評一段と高くなる。またこの年、新詩社を脱退した。

 木下杢太郎を介して、石井柏亭らのパンの会に参加する。

 この会には吉井勇、高村光太郎らも加わり、象徴主義、耽美主義的詩風を志向する文学運動の拠点になった。

 1909年(明治42年)には『スバル』創刊に参加。

 木下らと詩誌『屋上庭園』を創刊する。

 また処女詩集『邪宗門』上梓。官能的、唯美的な象徴詩作品が話題となるも、年末には実家が破産し、一時帰郷を余儀なくされた。


 さて・・・この両者の違いいかなるものか・・・?。

 ここらのことは第④話にて・・・・

窓のぞきF
書籍選びの快適検索サイトなら下記の「新書・文庫本マニア」!!・・・新システム書籍専用サイト!!ライン黄色 gif

クリック・ボタン gif   新書・文庫本マニア   動く本

ライン黄色 gif

本線夜行列車九段駅  駅長の本音・・・ 『北原白秋』 ②

ウエルカム gif
夜の列車
ライン黄色 gif
本線夜行列車九段駅・・・・・・・・・・・駅長の本音

                北原白秋 ②』 特集

ジョリ・カルル・ユイスマンス 26

 白露(7日)を過ぎて・・・未だ届かぬ北原白秋の彼岸を見る。

 その場合、引き出してみたい人物に、

 ジョリス・カルル・ユイスマンス( 1848年2月5日 - 1907年5月12日)がいる。

ジョリ・カルル・ユイスマンス 14 ジョリス・カルル・ユイスマンス

 彼は、フランスの19世紀末の作家。イギリスのオスカー・ワイルドとともに、代表的なデカダン派の作家である。

 二人は同じ時代の軌道上を生きたからだ。

 より正確に言えば、ジョリス・カルル・ユイスマンスの背中を白秋は見た。

 あるいはのぞき見をした。白秋にはそんな気配がある。

 ・・・・その前に・・・次ぎの曲を聴いていただきたい。白秋の『落葉松』である。


『落葉松』 北原白秋作詞・後藤惣一郎作曲



 北原白秋の落葉松の詩に曲を着けた作曲者たちの一人が後藤惣一郎である。一人と、念押すからには他にも作曲者はいる。じつは、この白秋の「落葉松」の詩には25~6名の作曲者たちが曲を書いている。

 ここに北原白秋の詩歌の持つ特性が顕れている。

 よほど惹かれ魅せられない限り、こういう事態にはならない。

ジョリ・カルル・ユイスマンス 28

   一
 
 からまつの林を過ぎて、
 
 からまつをしみじみと見き。
 
 からまつはさびしかりけり。
 
 たびゆくはさびしかりけり。



   二
            
 からまつの林を出でて、
 
 からまつの林に入りぬ。
 
 からまつの林に入りて、
 
 また細く道はつづけり。



   三
 
 からまつの林の奥も
 
 わが通る道はありけり。
 
 霧雨のかかる道なり。
 
 山風のかよふ道なり。



   四
 
 からまつの林の道は、
 
 われのみか、ひともかよひぬ。
 
 ほそぼそと通ふ道なり。
 
 さびさびといそぐ道なり。



   五
 
 からまつの林を過ぎて、
 
 ゆゑしらず歩みひそめつ。
 
 からまつはさびしかりけり、
 
 からまつとささやきにけり。



   六

 からまつの林を出でて、
 
 浅間嶺にけぶり立つ見つ。
 
 浅間嶺にけぶり立つ見つ。
 
 からまつのまたそのうへに。



   七
 
 からまつの林の雨は
 
 さびしけどいよよしづけし。
 
 かんこ鳥鳴けるのみなる。
 
 からまつの濡るるのみなる。



   八
 
 世の中よ、あはれなりけり。
 
 常なれどうれしかりけり。
 
 山川に山がはの音、
 
 からまつにからまつのかぜ。


       「水墨集」より


 この「世の中よ、あはれなりけり」を想うときに、多くの曲が生まれた。


 中には馬鹿な奴も現れる。

 
 同じ落葉松でも、次ぎはそんな曲だ。

落葉松(詩 北原白秋)



 これは北原白秋の「落葉松」に漱太郎が曲をつけて1970年代に歌う。思えば大学のころ白秋の落葉松をよく口ずさんでいた。落葉松がよくは解らないままに・・・・・。


日光の晩秋 落葉松と小田代ケ原湿原



 白秋の落葉松の詩歌を思い出すと日光まで幾たびか足を運んだ。

 そこには落葉松と小田代ケ原湿原がある。

 蒼白い靄の中から徐々に幻想的な風景が浮かび上がって、湿原に朝の光が差しこむ!!。それはもうドラマチックな夜明けだ。そうして靄が流れ出す湿原に、朝の光が差し込み霧氷を纏った貴婦人と落葉松にスポットライトがあたりすべてが黄金色に輝いてくる。作曲は・・・・漱太郎1986年。

ジョリ・カルル・ユイスマンス 27        音譜 gif  2


ジョリ・カルル・ユイスマンス 29 青空文庫


朗読「書斎と星」 北原白秋


 作品名:書斎と星 作:北原白秋 朗読:日高徹郎

出典:青空文庫 底本:「日本の名随筆 別巻6 書斎」作品社1991(平成3)年8月25日第1刷発行。底本の親本:「白秋全集 第一三巻」アルス1930(昭和5)年6月。


『東京にはお星さんがないよ。』

 と、うちの子はよく言ふ。

『ああ、ああ、俺には書斎がない。』

 これはその父であるわたくし自身の嘆息である。

 まつたく小田原の天神山はあらゆる星座の下に恵まれてゐた。山景風光ともにすぐれて明るかつたが、階上のバルコンや寝室から仰ぐ夜空の美しさも格別であつた。これが東京へ来てほとんど見失つて了つた。それでもまだこの谷中の墓地はいい。時とすると晴れわたつた満月の夜などに水水しい木星の瞬きも光る。だが、うちの庭からは菩提樹や椎の木立に遮られて、坊やの瞳には映らない。

 それから、ここの家である。庭は広く、木も立ちこんで、廂の深い、それは古風な幽雅な趣きもあり、豊かな気持もあるが、どの室にも日光が直接には当らない。湿けもする。全然開放的であつた小田原の家とはあまりに違ひ過ぎる。あちらでは震災で半壊はしても、それは子供があるいても揺れてゐた階上の生活ではあつたが、極めて気安く季節の風と光とを受け入れてゐた。さうしてまるで草木や昆虫の世界に間借でもしてゐるやうに楽しまれた。

 書斎にしてからが居間にもなり、寝室にもなり、客間にもなり、食堂にもなり、子供の遊戯室でもあつたが、それにまた工場見たやうではあつたが、その雑然とした中にほんたうのいい統一があつた。来客は稀だし、物音はせず、常住読書と思索と創作とに自分を遊ばせてゐられた。ここへ来るとそれらのすべてが失はれた。

 五月からこの方、わたくしはまだこの家にしつくりとは住みつかないのだ。どの室にも統一はありキチンとはしてゐるが、それだけ却つて圧迫されるやうな気がする。どの室に机を据ゑても落ちつけないで、あつちへ坐つて見たり、こつちへ腰かけて見たりしてゐる。雑然と何もかも放りつぱなしにして置く室が無いのである。寂びがあつていい家うちだとは思ふが、それだけまたうつかりとできないのである。

 それに面会人の多いことは多い日には三十人もある。初めの頃は金せびりまでが随分と来た。面会日は木曜ときめて門の扉に木の札は掛けたが、ほんたうにこちらの仕事の為に考へてくれさうな人はさして有りさうにないのでしみじみ困つて了ふ。そしてかんじんの面会日にはわざわざ時間をあけて待つてゐるのにほんの一人か二人しか来はしない。さうして面会日の札まで誰かが盗んで行つて了つた。

 わたくしはここへ越して来てから一晩と落ちついた自分の時間を持つたことはない。

 こんな事が続いたら、わたくしは滅びるほかはないのだ。仕事ができないくらゐ苦しいことはない。病気になりさうだ。

 つくづく小田原の壊はれた木兎の家に帰りたくなつてゐる。

ジョリ・カルル・ユイスマンス 30     流れ星

                    ふくろうF

          木菟(みみずく)の聲とは?

ライン黄色 gif


ジョリ・カルル・ユイスマンス 20  ユイスマンスの『彼方
ジョリス・カルル・ユイスマンス著
Joris-Karl Huysmans, Là-Bas (1891)
田辺貞之助訳 (創元推理文庫)


 小説の主人公デュルタル君は、三十路を超えたばかりの若き作家である。

 だが、彼はエミール・ゾラのような情熱や不屈の闘志を備えた精神からはほど遠く、世紀末の煤煙を胸一杯に吸っており、むしろ世俗を忌み嫌う隠居老人のようでもある。そうはいうものの、作家としての野望はやはり捨ててはおらず、今はジル・ド・レー元帥の物語を執筆しようと企てている。

ジョリ・カルル・ユイスマンス 21 (画像はレーの肖像画

 ジル・ド・レーはフランス中世(15世紀の頃)に生きた実在の人物であり、前半生においてはジャンヌ・ダルクに協力した救国の英雄であった。

 しかし、ジャンヌの処刑を目の当たりにして精神錯乱に陥ったのかは定かでないが、その後何百何千もの小児を誘拐しては虐待、虐殺を繰り返した天下の蛮人となり果て、最期は火焙りの刑に処された。シャルル・ペローの童話で有名な《青ひげ》のモデルとも言われている。

 『彼方』では、デュルタル君が博学の友人デ・セルミー君や、サン・シュルピス教会の鐘付きという、いまどき中世風の暮らしを続けるカレー君らとともに、中世を回顧しながら現代にも生きる悪魔崇拝の問題について議論を交わし、時折、彼がこれから書こうとしているジル・ド・レーの物語の一端が披瀝される。

 だが、この小説の面白いところは、オカルティズムの造詣よりも(*)、デュルタル君の身に迫る人妻との恋愛模様だ。もちろん、恋の行方は、ジル・ド・レーや悪魔崇拝のテーマとも関わり合いながら、進行するのだが。

 鹿島茂は、この作品が「世紀末フランス耽美派の鬼才が贈るオカルティズム小説」であるよりも、「才能食いのファム・ファタル」の物語として、その魅力を伝えている。詳細は氏の著書『悪女入門 ファム・ファタル恋愛論』を参照 — デュルタル君のけなし具合には、氏のデュルタル君への深い親情を感じる — 。ただし、先に小説自体、ユイスマンスの『彼方』読みおえてから、この新書を手にとる方が賢明だ」という。

 またさらに「勝手な感想だけれども、物語の黒幕、デュルタル君に罠をしかけた張本人は、実は作中の《彼》だったのではないかと邪推する」のだとする。

 だとするのであれば、中世に関するユイスマンスの博学さを存分に堪能するのであれば、『スヒーダムの聖女リドヴィナ』がある。さらに〔参考〕となるのは鹿島茂『悪女入門 ファム・ファタル恋愛論』(講談社現代新書)がある。

 漱太郎は先ずこのことを述べておきたい。いや、ここを述べねば読者が迷うことになる。

 そう前置きして次ぎの書籍を引き出してみる。

ジョリ・カルル・ユイスマンス 23

ジョリ・カルル・ユイスマンス 24

ジョリ・カルル・ユイスマンス 25

          白秋の彼岸へと重なる異国の肖像

ジョリ・カルル・ユイスマンス 1     ジョリ・カルル・ユイスマンス 3     ジョリ・カルル・ユイスマンス 4
 2002 河出文庫        1973 桃源社         1966 桃源社

ジョリス・カルル・ユイスマンス著『さかしま』
Jotis Karl Huysmans : A Rebours 1884
       澁澤龍彦 訳

ジョリ・カルル・ユイスマンス 18

               Jotis Karl Huysmans

前回①で、北原白秋の彼岸について触れた。しかし、それはほんの少し。

 いまだ入口の門を眺めたに過ぎないそれは、

 これよりその門を叩き、開いては、見えるのであろう彼岸なのだ。

 これから綴ることは、ユイスマンスという男についてである。

 その頽廃と信仰とについてである。

 それは同時に、ふだん読者である諸君が感じていることと気が付かないままに過ごしていることの両端でもあるはずだ。そうして、この両端の片端に白秋の彼岸への道が連なっている。

 そうであるから、あえて面倒くさく書いてみた。

 なぜ以下のような書き方をするかということは、ユイスマンスにも原因があるけれど、ユイスマンスを読んできた批評のくだらなさにも起因する。

 またこの批判は、北原白秋を読んできた評論のくだらなさにも起因することになる。

 諸君も数々の読書をしてきたのであろうけれど、たとえば察するにコンラッド・ローレンツとデズモンド・モリスを同じエソロジー(動物行動学)の分野と思って読み、寺山修司と澁澤龍彦をなんとなく近くにして読み、ついついロートレアモンとユイスマンスを一つの包囲のなかで読んでしまってきたのではないかと思う。

 しかし、これはまずいのだ。

 もっと深彫りをして読みたい。

 それには、いままで似ているとか近しいと思いこまされてきたものを切断し、遠いものや縁がないものとあきらめていたものを近寄せたほうがいい。それが「読むことの真行草」を諸君に提供してくれる。

 というわけで、今回はユイスマンスの『さかしま』を中心に、ついでに「北原白秋」の読み方も少しばかり深くして関連を示したい。

 そういうことで見えてくる、白秋が眼の中に置いた風景が見えてくる。

ジョリ・カルル・ユイスマンス 2 ジョリス・カルル・ユイスマンス

 それでは先ず一つ・・・

 バルテュスのカトリック的中世をまっとうに理解しないことによってバルテュス愛玩派の称揚が無意味に広がってきたように、『さかしま』のデ・ゼッサントにひそむ孤立したカトリシズムを長らく誤解してきた読者の傾向というものがある。

 べつだん小説のなかでのこと、誤解しようと何しようとかまわないが、こと「頽廃」をお相手するには、やはりデ・ゼッサントの趣味の奥にひそむ逆理というものを、少しは問題にしておかなければならない。これは唐津や志野を味わう感覚ではとうてい語りえないものなのだ。

 なぜなら、唐津や志野には「悪」や「罪」がない。いってみれば、近松がない。むろん南北もない。つまり説経節がない。事の当初から「実と美と善」の研鑽に向かっている。それがまた陶芸のよさというものだ。

 しかしながら、世の中の「実や美や善」には「悪」や「頽廃」を通過することによってやっと見えてくるものもある。世の価値観のなかにはダンテの地獄篇を通して見えてくるものがあるということだ。

 やや面倒だが、ここまでは、よろしいか。

ジョリ・カルル・ユイスマンス 5 『彼方』ジョリス・カルル・ユイスマンス著 田辺貞之助訳 1966 桃源社

 さて、漱太郎のどこかには、薄明の光条のさしこみのようなものではあるものの、カトリシズムに対するちょっとした共感がある。

 それについてはすでに『イエズス会』や内村鑑三やアウグスティヌスのことへの多少の理解を綴っておいた方がよいことを当然前置きする心づもりで、ここでは繰り返さないけれど、だから、ただしこれはカトリック中世主義に寄せる共感なのである。キリスト教全般や、最近のキリスト教と国家のありかたなどにはいまもってとくに関心はない。ここに白秋も関心はなかった。

 すなわち漱太郎は、華厳禅にタオイズムの香りを見て、ジョン・C・リリーに神を嗅ぎ、アリスター・ハーディにこそ神学をおぼえるというのが好きなのだ。無論、漱太郎の好みの問題ではない。白秋こそそういう志向が大好きだった。つまり、そういうカトリック感覚なのである。

 だんだん話がややこしくなっているけれど、ここまでも、よろしいか。先走りするような感ではあるが、ここらが重要なのである。

ジョリ・カルル・ユイスマンス 6 『黒ミサ異聞』ジョリス・カルル・ユイスマンス著 松戸淳訳 1992北宋社

 そこでユイスマンスの話になるが、この作家は工芸を好んだ作家であった。父親が彫刻師だった。つまりはヨーロッパの唐津や志野を作っていた。

 処女作は散文詩であるが、まるで金属細工のような言葉の填め込みになっている。その後の作品は社会の状況を扱うが、やはりどこかに銀線や大理石を研磨したり溶融したりしているようなところがあった。それがあるときエミール・ゾラの目にとまって、「メダンの夕べ」に列せられることになった。

 やがてユイスマンスはゾラの自然主義を美意識にだけ注入刻印することを思いついた。それが本書『さかしま』である。その勢いはしばらくとまらず、ついでは大作『彼方』となって、幼児虐殺で名高いジル・ド・レエや黒ミサを扱った。

ジョリ・カルル・ユイスマンス 7 『ユイスマンス伝』ロバート・バルディック著 岡谷公二訳 1996学研

 これは見たところは驚くべき悪魔主義の作品であり、それが好きでユイスマンスを読む者もいまなお少なくないのだが、漱太郎はそれよりも中世神秘主義の卓抜な解読書としてそれらを読んだ。そこにユイスマンスの心理が反映しているなどとは読まなかった。

 それゆえこれは、いわばバルトルシャイテスやウンベルト・エーコの『薔薇の名前』と同じ役割を果たした作品なのである。

ジョリ・カルル・ユイスマンス 8 『出発』ジョリス・カルル・ユイスマンス著 田辺貞之助訳 1985光風社出版

 なぜ、かれらが悪や罪や悪魔や怪異を解読したくなるかというと、ヨーロッパには中世このかた家具にも工芸にも悪魔が刻まれてきたからだった。日本の工芸には、めったにそういうことはおこらなかった。

 そのユイスマンスがカトリックに“回心”したのは、『彼方』を書いてのちのことだったというふうに、文学史ではなっている。

 ユイスマンスは『彼方』であまりに「悪」を描いたので各方面から非難を受け、そこでヴェルサイユ郊外イニーのトラピスト派修道院に参籠して、敢然と修練者の道に入っていった。ユイスマンスはこの時期に“別人”になった。頽廃主義と悪魔主義を捨てた。そう、見られている。

 これが伝記上のユイスマンスの有名な“回心”である。もっとも伝記といっても、いまのところはロバート・バルティックの『ユイスマンス伝』くらいしか紹介されていないけれど、他の文学評論も似たり寄ったりだ。
 ともかくも、そこで書かれたのが、『出発』『大伽藍』『献身者』の3部作だった。この3作にこめられた中世カトリック神秘主義は、たしかにまことにラディカルだった。

ジョリ・カルル・ユイスマンス 9 『大伽藍』ジョリス・カルル・ユイスマンス著 出口裕弘訳 1966桃源社

 漱太郎は『大伽藍』から読んだのだが、最初の数十ページで脱帽した。そこに描かれているのはシャルトル大聖堂の詳細きわまりない内部装飾だけだった。その一部始終を主人公のデュルタルが観察しているだけだった。それなのに、そのことに感銘した。

 教会の彫刻を“読む”こと、それはヨーロッパ中世においては「読書」だったのである。けれども、そういう能力自体が近代社会に向うにしたがって廃れてしまっていた。

 こういうことができるのは、かつてならジョン・ラスキンただ一人であったろう。あの『ヴェニスの石』や『建築の七燈』がそれを成し遂げた。その次にこのような描写に徹することができたのは、きっとヴィクトル・ユゴーだったろうけれど、さしもの『ノートル・ダム・ド・パリ』も、その寺院描写の直前で物語のほうにシフトしていった。

 それがユイスマンスにおいては、寺院描写という「読書」に徹底できた。これはなるほど快哉だ。

 以上のこと、よろしいか。

ジョリ・カルル・ユイスマンス 10 『腐爛の華』ジョリス・カルル・ユイスマンス著 田辺貞之助訳  1984国書刊行会

ジョリ・カルル・ユイスマンス 11 『ルルドの群集』ジョリス・カルル・ユイスマンス著 田辺保訳  1994国書刊行会

 では、その快哉のほうのことを書いておく。

 ユイスマンスは3部作につづいて、そのまま『修練者』へ、さらには『腐爛の華』に求心していった。『腐爛の華』は聖女リドヴィナの伝記を背景に、リドヴィナが受苦したいっさいの業病を描写した。

 リドヴィナは血の膿にまみれた聖女である。この描写はさすがに『小栗判官』も『弱法師』もかなわない。これまでの書店に並ぶ諸本にも、この作品に匹敵するものはない。

 しかしユイスマンスはそれにもとどまらない。死の直前のユイスマンスが最後に向かったのは、一種のルポルタージュ・ノベルともいうべき『ルルドの群衆』だったのである。どういうものか、ちょっと知らせたい。この奥深いところに北原白秋はいる。

 先ずマチアス・グリューネヴァルトの『十字架刑図』を見てほしい。この狂暴な一服の絵は何を告示しつづけているか。

ジョリ・カルル・ユイスマンス 12
マチアス・グリューネヴァルト『十字架刑図』

 背景は暗黒である。そこに十字架で血膿を流している断末魔のキリストがいる。その首は落ち、手は捩れ、脚は歪んでいる。左には悲痛に耐えるマリア、右に十字架に近寄ろうとするヨハネ。描写はあくまで架刑の激痛を克明に蘇らせるかのように稠密だ。

 こんな絵はかつて、なかった。

 1903年の秋、ユイスマンスはベルリンからカッセルに向かっている。ユイスマンスに影響を与えたサン・トマ教会の助祭ミュニエ師と連れ立っていた。

 15年前に、ユイスマンスにとって生涯最大の衝撃的な出会いであった恐ろしい絵を、カッセルの小さな堂宇にもう一度見るためだった。ユイスマンスにとって、このキリスト像こそがいっさいのフィクションを払った「貧者のキリスト」であり、生命の腐爛に向かう「真のキリスト」だったからである。

 グリューネヴァルトが描いたのは一個の死骸なのである。そのくらい凄い絵だ。グリューネヴァルトはその死骸の進捗にキリスト教の暗澹たる未来を予告した。そこには「神の死骸」が描かれていた。

 このことに衝撃をうけたユイスマンスは、最後の最後になってこの絵の深刻な意味からの必死の脱出を企てる。

ジョリ・カルル・ユイスマンス 13 フォランがパステルで描いた30歳のユイスマンス

 さて、あまり知られていないことだろうけれど、ユイスマンスは晩年に舌癌に罹っていた。

 すべての歯を抜かれ、視力さえ失いつつあった。そのなかで、ユイスマンスは自身がグリューネヴァルトの腐爛に向かいつつあることを知る。この直観はすさまじい。

 しかし、漱太郎が告げたいのはこの先のことである。その苦痛のさなかの作家を慕って、一人の娘が頻繁に訪れてきていたということだ。

 アンリエット・デュ・フレネルという22歳のユイスマンスの作品の愛読者だった。彼女は作家を心から敬愛し、いかなる邪気もなくこの作家の窮状を救おうとした。

作家のほうも彼女の清純な魂を称えていた。それには、この娘をうけとめるユイスマンス自身が一体の修道院であるべきだった。

 けれどもユイスマンスの実情は、そこにない。もはや体がぼろぼろだった。

ジョリ・カルル・ユイスマンス 14 1901年以後のユイスマンス

 そんなある日、ユイスマンスの視力が奇蹟的に回復をする。

 まったく予想もつかないことだった。

 この瞬間、ユイスマンスはアンリエットの奥にルルドの聖少女を発見するのである。漱太郎が告げたかったのはこのことだ。

 こうしてユイスマンスはルルドを訪れ、全力をふりしぼってその情景を綴る。暗黒のグリューネヴァルトはその質を転換させて、蒼天のルルドに舞い降りていったのだ。

 それが『ルルドの群衆』なのである。

 ルルドの奇蹟については説明するまでもないだろうが、極貧の少女ベルナデット・スービルーが1858年2月11日に川霧の中で白衣の婦人に出会った噂が広まったもので、それ以来、ベルナデットは聖少女とみなされ、最初は数人がその奇蹟に立ち会っていたのが、10回目のときは1000人を越え、15回目のときは8000人にふくれあがっていたという劇的な展開をさす。

 聖少女ベルナデットは、記録によれば、都合17回にわたって奇蹟をおこしたとされている。これはもはや教会の中の彫刻群ではない。それらを「読書」する必要もない。

 すべてはリアルタイムでおこったことだった。それゆえに、ユイスマンスはその奇蹟に立ち会おうとした群衆の心をルポルタージュしたかったのである。

 ざっとこうした事情によって、ユイスマンスは3部作を書いて以降、超絶とも苦悩ともいうべき日々を送ることになったのだ。だいたいのところは分かってもらえただろうか。

 もしお分かりにならない方は関係する諸本から積み上げてみてほしい。

ジョリ・カルル・ユイスマンス 22

 しかし、こういうことはその時点のリアルタイムでは誰もわからない。有島武郎やヴェリエ・ド・リラダンを思い出してもらえばいいだろう。誰も有島やリラダンが孤絶に呻いていたとは思わなかった。

 けれども、有島もリラダンも書きつづけ、有島は心中によって、リラダンは野垂れ死によって、非業の死を遂げた。ユイスマンスもそういう日々のなか、書きつづけて、死んだのである。『ルルドの群衆』からわずか1カ月を過ぎての死であった。ここは北原白秋もまた同じだった。

 ここを考えてほしいのだ。有島やリラダンやユイスマンスが何を書こうとしたのかという、ここ、を。また、ここからか見えてこない白秋の彼岸というものがある。

 文章を書きつづけるということは、それがいかに体験や思索に裏付けられたことであっても、その体験や思索から洩れていったことを綴るということなのである。他のものでは代りができないことを書くことなのだ。ここが分からないと諸君は真の作家とは出会えないし、真の文章とも出会えない。「読書の真行草」はわからない。白秋とも出会えずに終えてしまう。

 いいかえれば、読書においては、世に流布するようなニセの感動の上にいつづけるということのほうが問題だということなのだ。それよりも諸君が気が付いた感動(深彫り)を、どんな小さなことであれ、作者や著者に返すべきである。これは読書において自分自身の虚を突くということにあたっていく。

 ユイスマンスにも、このことを見る必要がある。それは、また白秋にも・・・。

 実はユイスマンスはカトリシズムの奥地に入れば入るほど、キリスト教にはそもそも残虐や惨状を好むものが強烈に交じっていることに気がついた。

 それをジル・ド・レエや黒ミサを書いて知らせようとしたのだが、読者も批評もそっぽを向いた。作家も、心理と趣向を同一視しているうちは、まだまだ未熟なのである。そのへんは多くの作家が読者以上にひどい病気にかかっていることが少なくない。ユイスマンスにもそういうところがあった。

 ユイスマンスは本気で教会に通うことにした。カトリシズムの細部に分け行ってみることにした。それによって何を文章が綴らなければならないかが見えてきた。ユイスマンスが最終的に気がついたのは、そのことなのである。カトリシズムは悪を食べ尽す宗教だということなのだ。

 こうしてユイスマンスは最後の最後にこう書いた。ルルドの地にはかつて悪魔信仰があったからこそ、そこに聖地信仰がおこったのである、と。ルルドそのものが生きた教会だったということ、を。

 いろいろ勝手な話をしてきたが、よろしいか。こういうユイスマンスが作家としての当初に、あの究極の人工楽園としての『さかしま』を書いたのだ。のちに頽廃美学の極致ともいわれた『さかしま』を――。

 が、この作品は読めば読むほど、頽廃を超えている。漱太郎が思うには、ここにはすでにユイスマンスの“別人”がいるはずなのである。当初のルルドがあるはずだ。

 ところが、これを日本語に最初に翻訳した澁澤龍彦にして、そのことを見落とした。おそらくはついついアンドレ・ブルトンの評価に引きずられたのであろう。そのため、『さかしま』にすでに萌芽していた“腐爛の彼方のルルドの光”を見落とした。

 なぜこのようなことを述べるのかと言うと、北原白秋の作品において、近年頻繁に英訳本の出版が海外において見られるのだが、逆にその白秋についても見落としが見られるからだ。これはまさに白秋の危機なのである。

ジョリ・カルル・ユイスマンス 31

 いつしかデカダンスの聖書といわれる、ユイスマンスの「さかしま」、 その主人公デ・ゼッサントは、文学から美術、その他あらゆるものに関してきわめて洗練された趣味の持ち主なわけである。

 これはそう信ずれば、という話しなのだが、

 その第八章では、彼の花に関する趣味と哲学が存分に語られている。これらだけを観ても、彼の愛する花というものは、やはり凄い哲力で顕示させる色彩のラインナップなんである。

 きっと白秋も自然や同じ花を愛する人間として、興味深く読んだのであろう。「いやー 彼は、洗練された趣味の持ち主、というよりは、これは軽い変態、ですな」という具合にでも惹かれたのかも知れない。そのように、まず彼は、パリの市場などで売られているような花は、「俗悪」として、はなっから軽蔑していた。白秋がそう読むここも、さかしまなのである。

 しかし白秋はその「さかしま」を「虚」として、敢えて自身に惹きつけ胸倉に突き刺すことにした。

 このように『さかしま』が頽廃美学書と読まれてきたのは、むろんユイスマンス自身にも責任がある。

 ひとつは、本書のなかでボードレールを絶賛したことである。ボードレールこそトマス・ド・クインシーの人工楽園思想にあこがれた張本人だったから、評者たちは『さかしま』もその人工楽園構想を直接に受け継いだとみなしすぎたのだ。

 けれども、よく読めばわかるように、デ・ゼッサントはボードレールだけを褒めたのではなかった。フローベールならば『聖アントワーヌの誘惑』を、ゴンクールならば『ラ・フォスタン』を、ゾラならば『ムウレ神父の罪』を選びたいとちゃんと書いている。

 とくにユイスマンスが文筆の師と仰いだゾラの作品から、わざわざ『ムウレ神父の罪』を選んでいるのが暗示的なのである。これらは、この作家たちがついに気付いた文体の中の教会だったのだ。

 もうひとつは、ユイスマンスが『彼方』ののちに“回心”したのであれば、それ以前は必ずや頽廃に染まっていたはずだと決めつけすぎたということがある。とりわけ『彼方』が悪魔主義ばかりを謳ったかのように読めるため、それ以前の『さかしま』もその途上にあると思いすぎたのだ。

 そんなことはない。ユイスマンスは早くから心の内にイニーの修道院を幻想していたはずなのだ。ユイスマンスには、早くから、頽廃こそが清浄を生み、惑溺こそが聖化をおこしていくことが見えていたはずなのである。

 おそらく日本人でこれを看取ったのは、白秋だけではなかろうか。

 中上健次を思い出してみよう。ご存知ない方は探してみよう。

 中上が日本の村落とそこに巣くう人間にひそむ「悪」を描いていたというのは“常識”になっている。しかし、そのように中上を読んで、何が中上と交流できるだろうか。

 漱太郎は或日、白秋が「この道」を歩いたように、あえて中上の『枯木灘』に墨子を読んだのだ。それが中上にとってどんな意味と映ったかは知らないけれど、そう読むことが漱太郎の虚を突いたのだ。同じように、北原白秋も数々の作品づくりの上で、自身の虚を突いていた。

 さあ、ここまでくると、『さかしま』にどういうことが書いてあるかは、説明はいらないだろう。この作品は仮説なのである。デ・ゼッサントを借りてユイスマンスの「神聖工芸」を仮説したものだ。

 フロルッサス・デ・ゼッサントの一族は落ちぶれる寸前にも、まだルウルの城館を所有していた。そこに育ったデ・ゼッサントはイエズス会の学校と寄宿舎を出て存分の教養を身につけたのち、しだいに世の中というものに退屈してしまう(教養とはまさに世間から離れることなのである)。

 自然を愛好する者もインチキであったし、贅沢や虚飾に群がる者はもっと胡散くさかった。とくにパリに巣くう連中にはうんざりし、このままでは倦怠を哲学とするしかないとすらおもえた。

 そこでデ・ゼッサントは決断をする。城館を売り払い、フォントネエ・オー・ロオズの高台の一軒の売り家に移り住むことにした。これはまさにヨーロッパ世紀末の「数寄の遁世」というものだ。

 こうしてデ・ゼッサントの家づくりが始まっていく。本書はその経過と、そのような選択をしていった彼方の工芸を仮説した。

ジョリ・カルル・ユイスマンス 15        ジョリ・カルル・ユイスマンス 16        ジョリ・カルル・ユイスマンス 17
ギュスターブ・モロー「サロメ」ギュスターブ・モロー「まぼろし」オディロン・ルドン「夢の中で」より

 だからデ・ゼッサントは最初に職人を探したのだった。

 ついで書斎にラテン文学書をびっしり並べた。

 風呂の浴槽にはセーヌ川を通る汽船の揺れを感じるように水路を用意した。

 これらは衒学的趣向でもあるが、それが辛くも世間から離れることによって、別の価値に転化した。デ・ゼッサントは自身の目の中に仮説を刻印したかった。だから、とんでもないこともする。たとえばパレ・ロワイヤルの店で買った巨大な亀を家にもちこむと、その甲羅にアメジストをはじめとする鉱物を花房のごとく象嵌させた。これはどんなアピールでもない。ただひたすらに、デ・ゼッサントの神聖工芸仮説なのである。

 17世紀ドイツの象牙でつくられた渾天儀を机上に据え、天空を室内にとりいれる工夫を凝らした。これもどんな科学にも寄与しない。しかし、デ・ゼッサントはそれをしたかった。

 絵画は最初はギュスターブ・モローを入手した。『サロメ』の2作である。ついでオディロン・ルドンの版画を飾った。この二人の画家で十分だった。それ以外は邪魔なのだ。

 こうしてしだいに室内が組み上がっていくと、今度はそこで何をするかがデ・ゼッサントの最後の冒険になる。
 それはただひとつのことでなければならなかったにちがいない。そうである!。書斎の本を次々に入れ替えること、そのことだった。

 『さかしま』は1ページ目から最終ページまで、実はさまざまな表題をもつ書物を次々にページの中の棚に入れ替えていたものだったのである。

 そこであらためて、表題の暗示するところをよく見てみると、「さかしま」(A Rebours)とはまさにリバース・モードの提案であったのだ。読者は最後にそのことを存分に受信してほしい。

 諸君の何か(あるいはすべて)を、誰か(あるいは何か)とのあいだでリバース・モードの状態にしっぱなしにしておくこと、これがこの未曾有のカトリック作家の最初からのメッセージであったということを――。

北原白秋 12 白秋

 このメッセージから思われることは、同じ早稲田大学の北原白秋と若山牧水との比較である。

ジョリ・カルル・ユイスマンス 32 牧水

 これにしても既成の今までの批評では、二人が同時期の歌壇を牽引したと吹聴されるが、そうこれは単なる吹聴なのである。その吹聴では白秋に対し牧水を近くに引き出してくる。

 しかしここには何の左証もないのだ。あるとすれば、くしくも大学が同じであったことだけだ。当時、白秋が牧水の宿にたまたま寄宿しただけのことだ。

 漱太郎の視点の中で、白秋と牧水の距離は宇宙の彼方ほどに遠い。これは上記までに述べた「未曾有のカトリック作家の最初からのメッセージ」を、その虚を自身に突いた白秋と、メッセージにすら触れることも無かった牧水との、比較にもならぬ莫大な距離の異差なのである。

 さらに言えば、月とスッポン・・・・・・か。

 次回③では、その愚かな若山牧水にも触れることになろう。


                                白秋の彼岸より・・・By 漱太郎
          音譜 gif  2

さすらいの唄(北原白秋 作詞)


 歌手・田代美代子 作詞:北原白秋 作曲:中山晋平

 これは、トルストイの<贖罪>を戯曲化した<生ける屍>の劇中歌として北原白秋が作詞したものである。

 また中山晋平作曲のいかにも歌謡曲らしい最初のものともいえる。

 同じ劇中歌に「にくいあん畜生」「もう一度生まれたら」などがある。

 それまでは添田唖蝉坊などの<○○節>や<鉄道省歌><人を恋うる歌>などあったが、歌謡曲とよべるものではなく、時代は大正に入り、大正ロマンのなかで中山晋平の「カチューシャの唄」「旅人の唄」「ゴンドラの唄」や前述の<生ける屍>の劇中歌、大正オペラ<カルメン>の劇中歌「別れの唄」「花園の恋」「酒場の唄」あたりから西洋の息吹が感じられる歌謡曲となっていった。

 この『さすらいの唄』は、後の「流浪の旅」「急げ幌馬車」「国境の町」に多大の影響をあたえていった。その中山晋平は、野口雨情とも「波浮の港」や「船頭小唄」などの歌謡曲も作る。しかしそうした最大の牽引力は北原白秋の先見ともいえる光代な詩情世界の求心にこそあった。

                              幌馬車 gif

窓のぞきF
書籍選びの快適検索サイトなら下記の「新書・文庫本マニア」!!・・・新システム書籍専用サイト!!ライン黄色 gif

クリック・ボタン gif   新書・文庫本マニア   動く本

ライン黄色 gif

本線夜行列車九段駅  駅長の本音・・・ 『北原白秋』 ①

ウエルカム gif
夜の列車
ライン黄色 gif
本線夜行列車九段駅・・・・・・・・・・・駅長の本音

                北原白秋 ① 』 特集

北原白秋 4 北原白秋 5

 入道雲が千切れると、にわかに空は高くなる。さて・・・・・秋立ちぬ。

ライン黄色 gif

北原白秋 6 北原白秋 7

 日めくること今日で30日。本年2012の「立秋」は30日前の8月7日火曜日であった。

 そうして暦の上では間近に「白露」の9月7日が迫っている。

 その白露まで後6時間。

 こうして白露時代を引きだしてみれば、本日は『北原白秋』に関しての開本となろうか。

                           北原白秋

 じつは、それには二百十日(今年は8月31日)が過ぎて昨日白い彼岸花を見たから、という何やら物憂く白秋と重ね合わせてみたい思いもあるのだが、北原白秋につては立秋の辺りで、白秋という白さをどう切り撮ってみて、その端々の色をどう連ね重ねたら本当の彼に似つかわしい表情になるのかを、その風を待ち構えながら思索していた。

 そこで、

 ようやく訪れた白露の風を朝夕の頬にとらまえてみると、やはり彼は益々白い秋の詩人なのである。

 千恵子ではないが、ほんとうの空を探してみたい。白秋の空とは・・・

 あるいは、彼が歩いた白い道を『白秋曼荼羅』とでも見立て、日本人ならば居そうな彼岸いうものに眼差してみたい。

 そうであるから本日は「秋立ちぬ彼について」諸本を開き、白秋が生きて歩いた軌跡を訪ねては、その足音に臨みつつ、しかし焦点を絞り、また少し視点を変えて、まず彼の周辺のうごめきについて執りながら、白秋という男が享けた煩悩と歌の連なりに輪廻する詩情の色彩を耕してみる。

 この道は・・・いつかきた道。

 あの丘は・・・いつかみた丘。

北原白秋 1      音譜 gif  1

この道・・・・・Dieser Weg


山田耕筰/作曲 北原白秋/作詞 (歌 富田千種)(挿絵 野嶋さほ子)

 この道といえば昭和53年10月・・・

 重箱の一段ほどに分厚い一冊を旅行カバンに押し込んで、漱太郎は大分県に行くことにした。

 青表紙の上製本、白秋について書かれた重要な書籍である。

 その半年前の4月5日に、大阪府藤井寺市の三ツ塚古墳から古墳時代の修羅が出土する。

 前年からその発掘に携わっていた。

 修羅(しゅら)とは、仏教の八部衆の一人、阿修羅であり、また仏教の六道の1つ、修羅道ともみられるのだが、それが古墳から出土するものではない。古墳発掘の場で、修羅と書けば(ソリ)と読み、巨石運搬用のソリである。これは重機の存在しなかった時代に重いものを運ぶ重要な労働力を軽減させる手段であった。コロなどの上に乗せることで、摩擦抵抗を減らすことができる。

 この発掘は全国的に大きな反響を呼び、同年9月3日には、朝日新聞社や考古学などの専門家によって、市内の大和川河川敷で、復元した修羅に巨石を乗せて牽引する実証実験が行われた。

 実証実験の見学を終えた後、漱太郎はしばらく飛火野を歩きながらホテルへと向かった。

 奈良の場合は常宿は樽井町の「なら天平ホテル」である。

 興福寺・春日原始林はもちろん、猿沢池などを眺望することができた。

北原白秋 39     まわるカバン

鹿F

 ここで一人の万葉の旅人とお会いすることになる。

 西本秋夫という年輩の男性であった。

 正確には、初対面だから、お会いしたというより、同じホテルに偶然宿泊したことになる。

 しかもそれが大浴場の湯船の中であった。

 
 経緯の詳細については長くなるので、端折ることにする。

 
 ようやく実証実験も終わったというので、

 湯船にひたりながら半眼に身をだらりと、しばし湯けむりのやわらかな癒しを楽しんでいた。

 そこに先客が一人いた。何やら仁王のごとく湯船の中央を陣取っている。

 しかもヒソヒソと何事かをつぶやいていた。

 何度も繰り返すから、そうして『いつちんかつちん』というリズムが次第に耳に憑いてきた。

 いつちんかつちん

 樫の実

 眼病の小守が来て拾ふ


 いつちんかつちん

 樫の実

 拾ふはしから又おちる


 いつちんかつちん

 樫の実

 うしろのお山に

 陽がくれた。


 と、何度繰り返されたであろうか。他に聞こえる音もなく、ついに覚えた。

 また少し端折る・・・・

 数日後、その西本秋夫氏からの郵便小包が届いた。

 開くと、一冊の書籍と丁寧な手紙。そこには観賞チケットが添えられていた。

北原白秋 17 近代作家研究叢書 27 北原白秋の研究 西本秋夫著


白秋を恋した女 江口章子・・・
北原白秋と運命的な出会いをし、数奇な運命を生きた情熱の詩人


 これは昭和53年10月、大分県民芸術文化祭で公演された舞台の表題である。

 北原白秋の第二妻・江口章子が舞台化された。

北原白秋 43 演劇「白秋を恋した女」ポスター(昭和53年大分県芸術祭上演・中沢とおる作)

 ここで原田種夫の「さすらいの歌」を知り、章子の数奇な運命に驚愕するきっかけとなった。

 さらには西本秋夫の「北原白秋の研究」「白秋論資料考」という大著に出会った。

 西本氏はすでに北原白秋研究の第一人者として著名であったのだ。

 傍線を随所に引いて汚した数冊は今も漱太郎の座右にある。

 この名著なくして江口章子は語れない。

 53年2月26日には、章子の歌碑建立除幕式が香々地町の長崎鼻であったようだ。

北原白秋 40 長崎鼻

 どうやら西本秋夫先生はその建立に奔走されてこられたみたいで、10月の初演当日は東京から大分まで来県され、長崎鼻での除幕式での話などされ、舞台上から熱い感謝のメッセージを添えられた。

 この舞台のフィナーレで歌われた短歌が、建立された長崎鼻の歌碑に刻まれている。

北原白秋 23 章子の碑

 ふるさとの
    香々地にかへり 泣かむものか
               生まれし砂に 顔はあてつつ


北原白秋 45 歌碑

 江口章子は、大正5年白秋と同棲し千葉県葛飾に住む。

 6年に上京、7年に小田原お花畑に移転し、北原家に入籍した。

 しかし木菟の家新館建築祝宴の席でのいさかいが理由で別離する。

 5月25日に離婚した。

北原白秋 11 江口章子(あやこ)の肖像

 その後いくつかの遍歴の途次、昭和6年に発病。

 京都帝大病院精神科に入院(病名、早発性痴呆症)するも1ヶ月で退院する。

北原白秋 44 昭和7年当時の章子

 9年から12年にかけ、詩集「追分の心」を出版。

 信州蓼科高原に観音堂建立、托鉢して資金集め、12年8月に入仏式を行う。

北原白秋 21 托鉢姿の章子。観音堂増築のために托鉢して資金集めをする。

北原白秋 22 江口章子が巡礼の際に着ていた着物。

 その蓼科からの帰途、車中にて再び脳溢血で倒れる。

 13年、詩文集「女人山居」を出版。

 先述の歌碑の歌は、信州蓼科観音堂にいた章子から大分県中津市稲堀にいた縁者利光ふみ子あてに送られたハガキ(昭和12年9月20日消印)の文面に書かれた望郷のうたである。

 江口章子は明治21年(1888)大分県西国東郡香々地町(当時岬村)で江口家の三女として誕生した。

 現在は豊後高田市香々地。編入前2005年3月までは香々地町。


 江口家は大阪通いの鉄の貨物船まで持った米屋と酒造業で、豊前第一の大分限であった。

 近所の小学校通学に、使用人が付いたほど。

北原白秋 33 江口家酒蔵の名残

 大分市に県立女学校が設立されると四期生として受験し、首席で合格する。

 母サツキの実家大分市威徳寺に寄宿し通学した。

 その卒業式前、授業参観にきた安藤茂九郎(弁護士)に見染められ結婚する。夫が検事になり柳川に転勤するが酒乱、女遊びの夫に愛想をつかし離婚するも、香々地に帰るがすぐに上京した。

 この東京で、女性解放を叫ぶ平塚らいてうの青踏社に入り野上弥生子、伊藤野枝、原阿佐緒、岡本かの子、尾竹紅吉などと交友を持ち、生田花世の夫生田春月の紹介で白秋に会う。

 その当時、北原家は柳川の大火で大酒造屋の工場、家を全焼し、一族郎党白秋を訪ね上京してきたので、北原家は貧乏のどん底にあった。

 貧しさに耐え歌を求めた白秋と章子は同棲し、千葉県葛飾真間に住み、紫烟草舎の生活を始める。

北原白秋 20 紫烟草舎の白秋と章子。貧しくとも幸せな生活だった。 

 白秋の「雀百首」「雀の卵」は、二人の愛の結晶から生まれた、白秋作品中の最高傑作と言われている。

 大正7年、小田原お花畑に移転したころ、鈴木三重吉が白秋を訪ね、芥川龍之介、江口渙と話し合い、子どもの文芸誌「赤い鳥」を出版するのでと協力を依頼した。

 6月に創刊号を出版し、芥川は「蜘蛛の糸」を書き、白秋は「栗鼠、栗鼠、子栗鼠」と「雉子車」を寄せた。この創刊号に「かたぎの実」という白秋自選の推称童謡が載っており、作詞者は、槇田濱吉となっている。

 この歌を西本秋夫先生は湯船の中で歌っていた。

 いつちんかつちん
 樫の実
 眼病の小守が来て拾ふ
 いつちんかつちん
 樫の実
 拾ふはしから又おちる
 いつちんかつちん
 樫の実
 うしろのお山に
 陽がくれた。


 病ん目(やんめ)は、西国東地方の方言である。

 章子が出版した「追分の心」「女人山居」の中にこの童謡詩が載っている。これを鈴木三重吉は傑作だとほめている。そうしてこの歌は、後世の人々の間でも傑作となった。

 そうなる背景に、西本秋夫の地道な研究の牽引がある。

 このことを西本秋夫は、白秋が「赤い鳥」への投稿詩が少ないため、自作の詩に架空の人名をつけて載せたのではないか、これは章子のかいた詩とみてまちがいない、と語った。後年、瀬戸内寂聴も同じくここを指摘している。

 そうして「赤い鳥」次号に白秋の「」がのった。

 雨がふります。雨がふる。
 遊びにゆきたし、傘はなし。
 紅緒のお下駄の緒が切れた。

    - 中略 -
 雨がふります。 雨がふる。
 けんけん子雉が、いま鳴いた。
 子雉もさむかろ、さみしかろ。

             
    - 以下略 -

日本四季1 雨

童謡・唱歌『



 初めて江口家の庭に立ったとき、遠くの小高い山から鋭い鳥の鳴き声を聞いた。

 案内の地元老人に聞くと、あれは雉の声だと言う。

 そのとき「雨」の歌詞が頭をよぎり、あれはやはり章子の歌だと直感した。

 これについも西本秋夫の「白秋論資料考」にあり、それを踏んだ寂聴の「ここ過ぎて」の中でも、「雨」は共作ではないかと指摘している。

 「赤い鳥」運動に賛同した作家は、小山内薫、野上弥生子、島崎藤村、高浜虚子、谷崎潤一郎、小川未明、江口渙、秋田雨雀、西条八十、佐藤春夫、三木露風、山田耕作、宇野千代、木下杢太郎、林芙美子、広津和郎などが星のように居並んでいた。

 大分の舞台では、「雨」は章子の作だと断定して上演された。

 そうして章子は、多くの観客の涙と共感の拍手をいただいた。

 江口家の家の中に人の気配はなかった。

 隣に立つ白壁の土蔵は、章子が晩年京都の養老院から帰ってきて最後に寝起きしたところだという。

北原白秋 26 江口家・土蔵写真

 原田種夫の「さすらいの歌」の終わりに「1年3ヶ月、江口章子は極端に言えば糞尿にまみれて、座敷牢のなかで生きた。危険なので寒くなっても火の気ははいらなかった」とある。

 昭和21年10月29日の朝、雪の降りしきる中で、章子はひとり息絶えていた。

 59歳であった。

 その枕元には手垢で黒光りした白秋の「雀百首」が残されていたという。


 またその白秋も、太平洋戦争が始まって1年目の17年11月に死んだ。

 枕頭には陸軍省から贈られた将官刀が飾られており、青山斎場には帝国芸術院、日本文学報国会、大東亜文学者大会、日本文学報国会詩部会、日本少国民文化協会、日本音楽協会などなどの弔辞が捧げられ、大木惇夫作詞、山田耕作作曲の「挽歌」が合唱団により場内に流された。

 会葬者は3,000人、勲4等瑞宝章が授与された。

 白秋に捧げた章子の歌がある。

 ひとときの 
    君の友とて生まれきて
            女のいのち まこと捧げん


 江口家の墓所は、長崎鼻の対岸の丘の中腹にある。

北原白秋 30 江口家の墓

 だらだらした坂の小道を上がると、小大名の墓かと思わせる苔むした大小の石の墓が整然と並ぶ空き地に出る。

 そこが江戸時代からの一族の墓所だ。

 探したが章子の墓がない。

 案内役に問うと、墓地の片隅、木陰になった場所に置いてある人頭大の石を指した。

「えっあれが章子の墓ですか」「そう聞いてます」と至極短い言葉を交わした。

 案内はしたがその老人に妙な沈黙がある。「おまえはこの墓所には入れないのだ」という江口家の怒りの焔がその石を包んでいるようにみえた。

北原白秋 27 江口家の跡
 
 江口家の跡は平地になって今は何もない。

 故郷には粒ほどの痕跡もない。

 この後、大分市の章子にゆかりある諸寺を訪ねた。

北原白秋 31 威徳寺

 大分高女に通学していた市内勢家町の威徳寺、母方の実家であるが章子の痕跡は全くなかった。

 大分高女跡に戦後建った県庁の巨大ビルに寄り添って「大分県教育発祥の地」の碑が立っている。

北原白秋 29 浄雲寺

 章子が病気と闘いながら西国巡礼の帰途訪ねた大分市松岡の浄雲寺では、古刹が大切に残され、住職のお母さん相馬さんに、おばあんから伝え聞いたという章子の印象を聞かせてもらった。この口伝も久しく人に語ることもなく走馬灯のごとく薄らいでいた。

北原白秋 25 少林寺

 次に大分市内の木ノ上にある少林寺を訪ねた。

 章子はここで暫く寄宿し、広い寺内の小高い位置から平安開基という古い歴史を持つ霊山と対し、山裾を流れる七瀬川の清流で遊び、22首の歌を遺している。

北原白秋 32 建て替えられた茶寮

 章子が寄宿していたという数寄屋風の茶屋はハイカラな建物に替わり、茶寮という名が刻まれていた。章子の痕跡はここでもなく、禅宗は代替わりになると本山から次の住職が派遣されるそうで、今となっては想い出を語れる人はなかった。

 皮肉にもこの少林寺境内に、白秋が訪れたときに詠んだ歌が碑となって堂々と立っていた。

 山かげの 
   ここのみ寺の かえるては 
             ただあおゝし 松にまじりて


 この碑に真向かい、章子を憶う心情が隠語として隠されてはいないかを問いかけてみたが、それはなかった。

北原白秋 34

 写真は香々地町の国道213号線を少し入った港から見た夕日である。最後にこの小さな漁村から落日の光景をみた。丁度そのとき、これから時間をかけてオレンジ色の太陽が水平線へと沈んでいくのだが、章子の哀しみは既にこの世にはなく、あの海神の彼方に居るように感じられた。

 そうして後方の山並みを振り返ると、江口章子の故郷とは霊山の連なりである。

北原白秋 28  

               北原白秋 41

北原白秋 42

両子寺 (大分県・国東半島)


大分県国東市、国東半島の中心部に位置する天台宗・両子寺。日本古来の山の神(新体山)信仰、修験道、天台密教が混交した歴史­を今に伝える場所。この位置は章子の故郷香々地から分水嶺を南へ約15Kmほど。国東半島のほぼ中心となる。

北原白秋 35    北原白秋 46
       瀬戸内晴美著「ここ過ぎて~白秋と三人の妻」(単行本、文庫本とも新潮社より出版)

北原白秋 36 瀬戸内寂聴

 この「ここ過ぎて~白秋と三人の妻」という瀬戸内の作品は初版が1984年4月である。

 瀬戸内晴美は大正11年5月15日、徳島市塀裏町字巽浜14に、父三谷豊吉、母コハルの次女として生れた。

 昭和18年、見合をいし結婚をする。

 だが昭和22年、4歳年下の男、夫の教え子Oと長女を置き去りに出奔した。

 さらに昭和26年、妻子ある前衛作家・小田仁二郎(1910-1979)と8年余りの半同棲生活をした後、また再び年下の男子との生活を復活させた。

 この間の事情を私小説として「夏の終り」という作品を書き、昭和37年に「新潮」に発表した。ここで作家的地位を築くことになった。

 その晴美が昭和48年に中尊寺で得度し、寂聴となる。

北原白秋 48

 今東光は、「頭はどうする?」「剃ります」「下半身はどうする」「断ちます」と二言三言を質問した。その後、昭和61年に円地文子が亡くなると、瀬戸内は「源氏物語」の執筆にとりかかっている。

 したがって上記の「ここ過ぎて」は得度前の作品となる。著者は晴美である。

 この晴美が作品を書き下ろす前年の10月、演劇「白秋を恋した女」が初演された際に晴美は大分を訪れている。その当時、晴美は白秋の妻三人について執筆中であった。

 章子という女性の生きようが凍みて、晴美にはしごくその身に章子の人生が重ねられた。

 彼女が次女として生まれた徳島県徳島市塀裏町の実家は、仏壇店(瀬戸内商店)である。その晴美は養女に出されて以来、得度するまでの間、異性との遍歴を絶え間なく繰り返した。これはまさしく色情の放浪である。得度の際に師匠から「下半身はどうする」と問答されたのは、知る限りこの人物しかいない。こうして仏壇屋に生まれた女子は、女性であるがために仏門に還ることになった。

 「ここ過ぎて」は悟り切る前の瀬戸内晴美の作品である。その晴美が寂聴となった後年、自らの口で江口章子について答える口調が軽妙でニヒルだ。「私はこの女性がひどく好きで魅かれたのです」と。なるほど読んでみると体験者だから綴れるリアリティがある。

 漱太郎はこの作品を読んで「雷に打たれるようなもの」に身を任せるのも女人の喜びの一つ­であり、「バカだなあ」とあとで思ったとしても、それはそれで尊­いものであろうかと感じた。
 しかしそれはかなり「深い」ところのものだ。仏門に逃げ込めぬ人は、どこかで「狭い」­ものであるという自覚は持っていた方がよさそうである。

北原白秋 50 紆余曲折のころの晴美

瀬戸内寂聴の人生相談「不倫をしてしまいました」


瀬戸内寂聴の人生相談「愛はエゴイズム」去るものは追わず。

北原白秋 38
 章子の故郷・香々地の浜

ライン水色 gif

北原白秋 16 大 北原白秋『北原白秋集』1970 角川書店

 この北原白秋集には白秋の主要作品が大方網羅されている。白秋はこれらの作品群を為すために生涯を成した。したがって白秋という名は、作品が体をなしている。
 
 またこの成りようをどう描くかが後世の作家の問題となる。

北原白秋 15 大      北原白秋 37
『北原白秋』三木卓著 筑摩書房 2005年3月       三木卓(たく)

 みきたく/1935年東京生まれ。小説家・詩人。詩集『東京午前三時』でH氏賞、「鶸」で芥川賞、『馭者の秋』で平林たい子賞、『小噺集』で芸術選奨文部大臣賞、『路地』で谷崎潤一郎賞、『裸足と貝殻』で読売文学賞。

 この『北原白秋』で毎日芸術賞、他に日本芸術院賞恩賜賞を受賞した。

 そんな三木が・・・・・・作品『K(ケイ)』を出した。

 72歳で他界した妻で詩人の福井桂子との47年間の葛藤を記した三木卓の私小説である。

 書名の「K」は桂子の頭文字だ。青森県の商家の大家族の五女で東京女子大卒。歯ブラシ、歯ミガキ、コップ、洗面器だけを風呂敷に包んで、詩の雑誌で知り合った三木を訪れて結ばれた。

 三木は満州からの引き揚げ時に父を亡くし、小児マヒや貧困にもめげず大学を卒業、38歳で芥川賞を受けた。

 当初これは三木がてっきり、夫が文名をあげるまでの「K」の涙ぐましい「内助の功」を記したものと思っていたが、まるっきしその逆だった。

 「K」は、自分のためには、いろいろな要求をしたが、他者のためにつくすことは」、性に合わず、「他人のことは、ほめることよりもけなすことがならいだった」と。そして小説家は孤独でなければというKの意見で、30年近く別居状態が続く。

 心筋梗塞で倒れバイパス手術を受け、なおも仕事を続け、原稿料はKの口座に振り込んでいた三木に、「家へ帰ってきてほしくないの」と電話がくる。そんなKの言動を複雑な生育環境や、創作家としての独特の矜持に基づくと三木は考えていたようである。

 そのKが脳にまで転移した癌にかかる。

 Kの約5年間の闘病と三木の共闘は壮絶の一語に尽きる。

 病床のKは、丁寧に私を看てくれと「命じ」る。

 麻酔による妄想から、夫が死んで一文無しになったと思うなど、思考・言動の支離滅裂が進む。「Kに追い出された自分」だが「Kをほうり出すわけにはいかない」と三木は考える。

 しかし、Kの身心の極度の衰えと苦痛を見るに耐えかねて、「手術はしないで、このまま死なせたい」ともらす。

 が、数ヶ月はもつという医師の言葉で手術は決行される。

 その夜、「Kの惨劇からのがれたくて」一人娘と町に出た三木はビールをぐいぐいと飲む。すると、Kのために「なんで泣いてやらなくてはならないのか」と思いながらも、とめどなく溢れる涙とともに「Kが……いたましい」という言葉がやっと出た。
 
 そして『福井桂子全詩集』も出してやる。

 妻を癌で亡くしたて、死に直面した妻とこうも共闘したという自信は尋常じゃない。普段の人なら、その後悔から「うつ病」を重くし、自殺までこころみることもあろうか。しかし一方、三木は気丈にも、人生の戦友Kにささげる痛切なレクイエムを記した。その強さと優しさに、脱帽するのみである。

 愛しい女をうつす文章の魔術。これを読んで漱太郎は、もし可能ならば、Kが書いた私小説「T」で、Kの「創作」するT(卓)に対する言い分や感謝の思いを読んでみたいものだ、とふと考えた。

北原白秋 51 
 三木卓著『K』講談社

北原白秋 52 『震える舌』 講談社文芸文庫 2010年12月

 さらに三木卓には2010年の『震える舌』がある。

 その予感は娘の発作で始まった。

 これは極限の恐怖に誘われる衝撃の作品だ。

 平和な家庭でのいつもの風景の中に忍び込む、ある予兆。それは幼い娘の、いつもと違う行動だった。やがて、その予感は、激しい発作として表れる。

 <破傷風>に罹った娘の想像を絶する病いと、疲労困憊し感染への恐怖に取りつかれる夫婦――。平穏な日常から不条理な災厄に襲われた崇高な人間ドラマを、見事に描いた衝撃作となった。

 距離が伸びる時には父親として病気に向き合い、距離が縮む時、1人の人間として感染症の恐怖に怯える中で語られる心の葛藤は、医学小説のそれではなく、もちろん恐怖小説のものでもなく、強いて言うなら、極めて純粋な戦記文学を読んでいる印象ですらある。

 確かに、今まで読んだ全ての小説の中で、病棟という「人間の戦場」の真実がここまで正確に描かれた作品は、そうざらにあるものではない。

 話の結末は意外とあっさりしているが、著者の長女が破傷風に罹った実体験をもとに書かれたものだ。

 すでにこの小説 『震える舌』は1980年に野村芳太郎監督によって映画化され、映画系サイトでは「幼少の頃のトラウマ映画」として現在でもしばしば話題になる映画の原作本でもある。かって洋画の『エクソシスト』のような日本版もあったが、その比ではなく、より具体的な現実、この恐ろしさは……凄まじい。

映画『震える舌』


三木卓原作の映画作品 映画short cut 予告版・松竹


三木卓の『北原白秋』・・・・・第9回蓮如賞作品

                   北原白秋 72 

 この作品につては第9回の蓮如賞を受賞したことで作品仕上がりの評価は一つ下されている。これは読者の大きな目安だ。

 『思ひ出』『桐の花』など、白秋が日本の近代文学に残した仕事を、生いたち、実家の破産、人妻との姦通事件などへも踏み込みながら追尋する本格的な評伝である。

 この評伝の中で、最も三木卓らしき仕事を成して編み上げてる点は、白秋の遺した仕事を、彼の手により白秋の仕事が、掛け替えのない仕事を成したと描いてみせたことだ。

 三木は白秋の巨大な軌跡の全貌に迫る。詩集『邪宗門』『思ひ出』歌集『桐の花』童謡集『とんぼの眼玉』・・・白秋が日本の近代文学に残した諸々の仕事を、それが読者に掛け替えのないものであったことを伝えた。読んでみると、そこに何一つの余分な感情移入などない。むしろ前述の「K」でみせた高等な逆視線を白秋に注ぎながら、生い立ち、実家の破産、人妻との姦通事件などへ踏み込み、さらにここからが三木の本骨頂さながらの手法で追尋した渾身の本格的な評伝となった。

 その内容は・・・詩人の前夜・・・上京・修業・自立・・・『邪宗門』という衝撃・・・『思ひ出』―幼年期の恍惚と屈辱・・・『桐の花』―生涯の大事件・・・青春の死―三崎見桃寺での破局・・・“巡礼”から“阿蘭蛇”へ・・・『雲母集』―心のよみがえり・・・『雀の卵』の時代・・・童謡への開眼・・・歌謡の展開・・・『水墨集』より「日光」へ・・・『風穏集』と『白南風』・・・「多磨」という砦・・・後期童謡をめぐって・・・『黒桧』―最後の歌集・・・・で構成される。

 第9回蓮如賞(平成17年)の授賞式・記念公開シンポジウム・・・平成17年12月3日

北原白秋 73

 第9回蓮如賞は三木卓『北原白秋』に授与された。

 主催者の大谷暢順財団理事長は、「この『北原白秋』は、明治末期から昭和初期にかけて、西欧文化の消化吸収と日本伝統文化の育成発展という課題を背負う、我国文壇の指導的役割を演じた白秋の苦悩と栄光に充ちた人生を見事に描き出した、佛教世界観・佛教人生観の発揚と申せるでしょう」とこの受賞を讃えた。

 授賞式に引き続き、公開シンポジウムが開催され、蓮如賞選考委員の4名、受賞者の三木卓が偉大な国民詩人・北原白秋の栄光と苦悩について語り合った。

 その中で・・・・・

 三木は「白秋は偉大な詩人だと言われているけれども、非常に多面的で膨大な量の仕事をしたため、その全体像についてはあまり語られてこなかった」と指摘した。

 これに付けて梅原は、「白秋というルネサンス的巨人の総合的把握が必要。三木さんのこの作品は白秋という巨人を初めて総合的に扱った最初の評論で、末永く残る作品」だと賞賛する。

 柳田も「白秋の特異な言語感覚の根源に切り込んだ」とこの作品の優れた点を指摘した。

 このほか、北原白秋と宮沢賢治、詩人とお金の問題など、受賞作をめぐって多面的なテーマで議論された。

 こうした表題作は読んでみる価値はある。

 さて・・・・・

 次ぎはその白秋の、掛け替えのない仕事について綴ることにしたい。

ライン黄色 gif

北原白秋 9    白秋

 白秋の彼岸を見るためには、対岸に咲く花としての詩歌は山のようにある。

 それはこの世の花として枯れもせず現在に咲いている。現世で咲き続けている。

 またその花は、花々は、あらゆる色の表情をして日本の至るところに根付き咲いている。

                       猫と風船

 戦前から戦後直ぐの生まれ世代の人なら、彼、北原白秋とはまずもって「童謡・唱歌を作った」有名な人物だったはずだ。最初、歌から入る白秋に、そこには偉そうなとか気難しいという白秋はいない。

 彼の歌だけはいつも身近にあった。

 先に載せた写真の紳士に日本人として気づき意識するのは、早くても10歳ぐらいのことだろう。それ以前はきっと歌だけだ。歌あれば、顔は知らねど、ともかく歌詞は知っていた。またそこにはメロディーもあった。

北原白秋 53 『北原白秋歌集』北原白秋著 1997 小沢書店

 漱太郎はどのくらい歌ったことか。聴かされたことか。多過ぎて見当がつかない。

 特に幼児から小学生時代には、歌いもしたし聴かされたりもした。

 しかも、ただ歌うだけではなかった。遊びや日常生活の場で、白秋のリズムがよく活躍としていた。

 たとえば、疲れ果てるまで野遊びをして帰る家路の夕暮れには、「大寒、小寒、山から小僧が飛んできた」などと歌うと、冬枯れの寒い道でも元気よく歩けたものだ。

 歌詞とリズムは一体である。問題とすれば、その一体感でしか白秋が口ずさめないことであろうか。しかし幼子とはそんなものであろう。幼子はリズム感に乗って歌詞を覚える。意味や内容は次第に付いてくる。

 白秋は確かによく歌ったものだ。

 だから今直ちに、それらの歌詞を口ずさむと切りがない。それほど白秋は国民によく溶け込んだ。しかも特に幼心を包んでくれていた。個人差はあろうが、そうである。またそれが童謡・唱歌の効用でもあった。

「待ちぼうけ、待ちぼうけ、ある日せっせと野良かせぎ」

「からたちの花が咲いたよ、白い白い花が咲いたよ」

「土手のすかんぽ、ジャワ更紗」は、と何の迷いなくひょいと飛び出してしまう。

 漱太郎の場合は、その多くを綺麗な母の声に教わった。

「雪のふる夜はたのしいペチカ。ペチカ燃えろよ、お話しましょ」

「赤い鳥、小鳥、なぜなぜ赤い。赤い実をたべた」なども簡単に思いつく。

「この道はいつか来た道、ああそうだよ、あかしやの花が咲いてる」・・・・・・と。

 思い出を語ると際限もないが、

「海は荒海、向こうは佐渡よ」

「揺籃のうたをカナリヤが歌う、ねんねこ、ねんねこ、ねんねこ、よ」は、

 日本人の大概が、これらをすべて聴き、そうして歌って育ったのだ。

 なかでも、涙が溢れ出てくる定番が次ぎ・・・・

 『ちんちん千鳥』

 『里こごろ』

 『雨』などがそうであった。

 その日の天候や時刻に合わせて母の声は機敏に適時にチャンネルを変えた。

 そうして児が育ち、学校に通い、日本語の理解ついてくると、母もまたそのレベルを計り、チャンネルを合せ変えて、歌詞やメロディーの後に次は解説を盛り込むようになる。

 「ちんちん千鳥の啼く夜さは」で始まるのは、

 千鳥が啼くと硝子戸をしめても寒いんだよ、

 千鳥の親はいないんだよ、ちんちん千鳥はだから眠れないんだよ、と間奏の間合いに挟んでくれる。

 もちろんレコードもよく聞かされた。同時に母も傍で聴いていた。

 当時の平均的な母親というものは、子守に、子育てに、親子の交わりに、常の生活の場で白秋の効果を効用し活用もした。その期待に白秋もまたよく応えた。白秋は時代を牽引したことになる。

ちんちん千鳥

 歌手・真理ヨシコ


 いまはあまり知られていないかもしれない「里こごろ」のほうは、こういう歌詞だ。

 これは佐々木すぐるの曲が、またもの哀しい。

   笛や太鼓にさそわれて、
   山の祭に来てみたが、
   日暮はいやいや、里恋し、
   風吹きゃ木の葉の音ばかり
   母さま恋しと泣いたれば、
   どうでもねんねよ、お泊りよ。

   しくしくお背戸に出てみれば
   空には寒い茜雲。
   雁、雁、棹になれ。前(さき)になれ。
   お迎いたのむと言うておくれ。


 この歌は「どうでもねんねよ、お泊まりよ」から「しくしくお背戸に」にさしかかるところで、もうがまんができず、「雁、雁、棹になれ」の「か~り、か~り、さぁおになぁれ」の先まで、母の美しい声を聴けたためしはなかった。歌いながら母が涙声になるからだ。しかしそれでも母は歌ってくれた。

 そして章子のときに採った、「雨が降ります、雨がふる」の『雨』だ。

 作曲は弘田竜太郎。この歌には格別の思い出がある。

 しかも最後のサビの歌詞に・・・・・・、

   雨がふります、雨がふる。
   昼もふるふる、夜もふる。
   雨がふります、雨がふる。


 このことは、いま思うだに重大なことだ。

 近所に三歳上のお姉さんがいた。

 まだ7つか8つの近所に住む少女が、「昼もふるふる、夜もふる」で憂愁の本来というものに泣いたのである。

 しだにポロポロ、ついには嗚咽する。

 漱太郎は、それを見たこと、知ったことを、子供ごころに重大な秘密に立ち会えたと思ったのだ。

 もっともその時のことを、行動の意味合いを、後で知る。

 二十歳を過ぎたころ、親しい数人の音楽の専門家に尋ねてみると、「あら、その通りよ、少女とは、そのころときどき大人になって泣いているのよ」と、異口同音に言われてしまった。

 どうやら女性は思春期が早いのだ。

 ここのところを改めて考えてみると、そのように男の子を泣かせ、女の子を嗚咽させる一人の白秋がいなければ、そんなことはおこらなかったのである。

 北原白秋とは、わが少年期の童謡においてすでに、こういうフラジリティを極め、ヴァルネラヴィリティに差し迫った詩人なのである。

 子供に対しても、決して哀傷を辞さない詩人なのである。

 どんなふうに哀傷を辞さなかったのかを、ちょっと啄みながら、そこを解説してみたい。

 これには少し訳がある。

 すでに江口章子は先で採っている。

 その章子の歌・・・・

 ひとときの 
    君の友とて生まれきて
            女のいのち まこと捧げん


 これは白秋に捧げた江口章子の歌であった。

 この歌の結句「まこと捧げん」とは、何を差し示すのかということである。

 章子は白秋が「哀愁を辞さない詩人」である、その天分を誰よりも理解していたはずだ。

 ここには、白秋が相愛した詩人・章子という女性も、白秋の愛妻にはなれないという問題がある。

 両者の離別はここにあった。だが破綻ではなかった。

 互いが離れて暮らすことが宿命なのだ。「まこと捧げん」とはその宿命もを背負う。

 この宿命を背負って章子は巡礼の旅をした。
                    鈴(背景白)
          北原白秋 74

 この章子の歌に次ぎがある。

 【二月の東京で
  

 二月の雪の中を
 九条武子さまの
 霊柩車がとをる
 しずしずととをる
 猫よ拝みに行かふではないか

 猫よ紅梅が咲いたぞ
 私の詩集はいつ出るのじゃ
 猫よあのぬかるみの街を見よ
 真白い雪もどろどろじゃ

 武子さまの
 最後のおくるまも
 普選のビラも
 どろどろではないか
 偉い人も
 美しい人も
 真白い雪も
 雪のこゝろも
 どろどろの二月の東京の街

 紅梅は咲いても
 さみしい春だ
 猫よ

      『追分の心

 人間が営みの哀しみ、淋しみ、苦しみ、辛み、心痛みを、

 これほど己に、また社会風刺に、的確で真っ直ぐで、しかも綺麗に包封じれる、それを可能としたのが江口章子という女性の天分であった。

 これは白秋には真似得ようもなく持て得ない才高き天性だったのであろう。

 白秋の天分は、この領域に踏み込めないし、立ち入れない。

 おのずと白秋は、これを認めていた。

北原白秋 75        北原白秋 78

 宇治市善法墓地で行われた第七六回山宣(山本宣治)墓前祭に参列した。

 その2005年3月5日の夕方、漱太郎は底冷えのする一休寺境内を歩いていた。名刹とはいえ、大徳寺に比べると地味でひっそりしている。

 するとその侘しさの中に、ふと、華やかさを求めた江口章子が田辺町一休寺で悶々としている姿が浮かんできた。

 その一休寺(酬恩庵)にて・・・

 江口章子の第三の結婚も彼女の心変わりにより数ヶ月で破綻するが、この間一休寺に通った中筋丈夫はどんな思いで章子と接していたのであろうか。

 章子は石川啄木の歌を愛しており、啄木の社会評論を読んでいた中筋丈夫とは話があった。

 かつての夫北原白秋は、東京で石川啄木と飲み明かした仲である。

 章子はやや直情的な性格なので、気むずかしい中筋丈夫にとってうち解けやすかったかもしれない。

 一休寺を去って二年後の大正十四年、章子は中筋丈夫著『飄々の殻』に次のような序を寄せている。

 前年より、章子は郷里香々地で文芸雑誌『郷土文芸』の詩歌選者になっていた。

「中筋氏のような人間味豊かな人が、隅々一官吏の生活をして来なければならなかったと云うことが、全く氏の初めからの不幸であり、何がなし運命の間違いとさえ私には考えられた日もありました。しかし氏はどこまでも現実生活を呪いながら、そうした生活をさえ愛しきって来られた痛ましい闘士でした。氏の芸術も人格もこの苦悩の中でのみ育てられたことを思えば、神に選ばれて多くの人間苦を背負わされた光栄を、氏とともに感謝したくなります。
 氏の自選歌集が市に出るという。……ただの歌よみの歌ではないこの集がいかに、多くの飢えた新人の魂に熱涙をもって迎えられるか、それを私はじっと待ちのぞんでいましょう。
大分県香々地町にて     江口章子」と。

 この文章からは、章子が中筋丈夫とずいぶん親しかった様子がうかがえる。

 一休寺に住む章子のもとには、新井清太郎、林熊三、村田佳久、八木利右衛門、杣田禎治郎、安田光義、平原光親、鷲山締厳などをはじめとする中筋丈夫の知人たちが出入りしていたのではないか。

 宇治田原の西尾久太郎や弟福三郎も一休寺を訪れたかもしれない。

 彼らの江口章子に対する距離感はさまざまであった。

 このうち大工の杣田禎治郎は関東大震災で被災した章子を救援するため東京に駆けつけることになる。

 こうしたところを、瀬戸内寂聴(晴美)は『ここ過ぎて-白秋と三人の妻』のなかで、谷崎潤一郎が章子に会いに一休寺に行ったのではないかと書いている。

 その瀬戸内寂聴には、関東大震災のときの伊藤野枝虐殺をあつかった『美は乱調にあり』や、大逆の汚名を着せられ刑務所で自殺した金子文子の短い人生を描いた『余白の春』、明治末期の大逆事件で刑死した管野スガをモデルにした『遠い声』など、女性革命家を主人公にした一連の作品がある。

 これらの作品の中での寂聴の直感いかにも鋭く適格を得てきた。

 谷崎潤一郎は章子に会いに一休寺に行った、と漱太郎も考えている。これは互いが文学家として・・・・

 そうであるから、寂聴の推察する「深み」の関係ではない。それが現在の仕事の性なのか、尼人は男女の情愛に持ち込もうと法衣で工夫されるのであるが、そうでないことは白秋が身を持って痛々しい体験をしている。

 尼にでも成ろうか、という御人には、この世で直球を投げ続けながら生きながられる苦痛の嬉しさが分からないのかも知れない。章子の歌に、その本質が射抜かれているではないか。

北原白秋 79
 
一休禅師が晩年を過ごした 一休寺こと「酬恩庵」。写真はその境内の「渡ってならぬ」石橋。これは叩いても渡れない石橋か、禅問答に一切の説明はない。

                   動く地蔵


北原白秋 54    北原白秋 55    北原白秋 56    北原白秋 57
『北原白秋の世界』   『日本現代文学全集38』   『北原白秋詩集』     『北原白秋歌集』
 河村政敏 著        北原白秋他 著       北原白秋 著        高野公彦 編
 1997 至文堂        1963 講談社      1999 角川春樹事務所     1999 岩波文庫


 さきほどあげた『里ごころ』でいうのなら、「笛や太鼓にさそわれて、山の祭に来てみたが」の、「」がめっぽう早いのだ。これは最初から逆接の提示なのである。

 これを継いで、「日暮はいやいや、里恋し」に「風吹きゃ木の葉の音ばかり」の「ばかり」がすぐに追い打ちをかけてくる。

 子供に向かって「音ばかり」とは何事か。ほかに、まったく何もない。その上でさらに、「恋しい母」と「お泊まり」の矛盾が突きつけられる。

 これでは、もはや行き場がない。

 だからそれでもやっと一転、「しくしくお背戸に出てみれば」で全景がさあっと広がるのだけれど、しかしそこはもう、もはや取り戻し不可能な、あの「雁、雁、棹になれ。前になれ」になっている。

 こういう具合なのである。

 いやいや童謡についてなら、雨情にも八十にも露風にもこういう芸当はあったけれど、しかし白秋にはその芸当が、のちに「白秋百門」といわれたごとく、徹底して広く、また深かった。

 つまりこの芸当は童謡だけでなく、近代詩にも短歌にも、そして長歌にも歌謡曲にも民謡にも彫琢されていた。

 雨にまつわる詩歌だけをとりあげても、白秋は多彩の表意と多様の意表なのである。

 詩の『雨の日ぐらし』では、「ち、ち、ち、ち、と、ものせはしく刻む音。河岸のそば、黴の香のしめりも暗し」とあって、「かくて、あな、暮れてもゆくか、駅逓の局の長壁」と、言葉が近代都市の一郭を抉(えぐ)っていく。

 短歌では「長雨の蒼くさみしく淫(たは)れしてその日かの日もいまは戀しき」というふうに、青年の淫する日々を雨に回顧する。

 「ほのぼのと人をたづねてゆく朝はあかしやの木にふる雨もがな」といった相対静寂の雨もある。一方、男たちの濫賞に向けては、「雨‥雨‥雨‥雨。雨は銀座に新しく、しみじみとふる、さくさくと、かたい林檎の香のごとく、敷石の上、雪の上」というふうに男バカボンドの歌謡に乗せる。

 白秋の表意と意表は綺語歌語縁語の宗匠というほどに、幅がある。

 だいたいこの時期、近代詩人で長歌に凝った者などいなかった。白秋は折口信夫と「親類つきあひ」をした人であったのだが、その折口が唯一、長歌をものにしたくらいなのである。

 のちに萩原朔太郎は「日本に幾多の詩人はあるが、概ね詩歌俳句等の一局部に偏するのみで、白秋氏の如く日本韻文学の殆んどあらゆる広汎な全野に渡つた、英雄的非凡の大事業を為した人はいない」と評した。

 こういう広範きわまりない白秋を、さて漱太郎はどのように読んだかというと、これは子供のころにオルガン童謡、アカペラ童謡で育ったこととは、まったく異なってくる。

北原白秋 58          北原白秋 59          北原白秋 60
『白秋の童謡』             『北原白秋詩集』           『からたちの花』
佐藤通雅 著1991沖積舎       北原白秋 訳 1976角川文庫        北原白秋 著1993新潮文庫


 最初に活字として読んだのは第二詩集『思ひ出』だった。高校1年くらいのころだったろうか。しかし、これで思いは存分なほどに打擲された。おおげさにいえば、この詩集で漱太郎のフラジリティをめぐる感覚は劇的に発端したといってよい。
                          北原白秋 61
                          『思ひ出』カバー表紙 
                       北原白秋 著 1985 東雲堂書店


  とりわけ「」で比喩の美に凌辱されて、「青いとんぼ」で極微の表現に幽閉された。青年は、子供のころの寂しい日々の印象に戻っていいんだ、そこからしか寂しい本質の何物かに触れうるはずはないんだ。そういう負の確信をもてたのが『思ひ出』だったのだ。

 なかでも「蛍」は、昼の蛍を夏の日なかのヂキタリスに譬え、その小さな形象を五感に刻んでいくようになっていて、それはどぎまぎさせられた。

 とくに「そなたの首は骨牌(トランプ)の赤いヂャックの帽子かな」の2行に、とっくり、まいった。昼の蛍の首筋の赤に目をとめ、幼児の記憶に戻って「赤いヂャックの帽子かな」の換喩に遊んでいるのが、ああ、ひたすらに羨ましいかぎりだった。

              北原白秋 62          北原白秋 63
               『思ひ出』表紙           『思ひ出』裏表紙

 もっと驚いたのが「青いとんぼ」である。「青いとんぼの眼を見れば 緑の、銀の、エメロウド、青いとんぼの薄い翅、燈心草の穂に光る」の出だしはともかく、「青いとんぼの奇麗さは 手に触るすら恐ろしく、青いとんぼの落つきは 眼にねたきまで憎々し」とあって、こういうふうに蜻蛉にでも赤裸々な感情移入ができるものかと思った瞬間、次の2行の結末に、わが15歳の精神幾何学の全身にビリビリッと電気が走っていた。つまりこの言語使いに感電した。

北原白秋 70

 こういう結末の2行だ、「青いとんぼをきりきりと夏の雪駄(せった)で踏みつぶす」。嗚呼!。

 えっ・・・踏み潰すの・・・

 それからは、白秋を読み耽ったというより、その精神の電撃を眼で拾うために、白秋の詩集や歌集のページの中をうろつきまわったというに近い。翻弄放浪した。

北原白秋 71

 これはいま憶えば、白秋が「幼年期の記憶の再生」をもって、新たな感覚のフラジリティの表現を獲得したことを追走したかったのだろうと思う。

 この、「幼年に戻る」ということ、「幼な心にこそ言葉の発見がある」ということが、漱太郎が白秋から最初に学んだことだったのである。

 そのことは『思ひ出』冒頭の「わが生ひたち」の、そのまた冒頭に白秋自身がちゃんと書いている。

 明かしている。

 「時は過ぎた。さうして温かい苅麦のほのめきに、赤い首の蛍に、或は青いとんぼの眼に、黒猫の美くしい経路に、謂れなき不可思議の愛着を寄せた私の幼年時代も何時の間にか慕はしい思ひ出の哀歓となつてゆく‥」と。

 また、こうもはっきり書いている。

 「‥玉蟲もよく捕へて針で殺した、蟻の穴を独楽の心棒でほぢくり回し、時には憎いもののやうに毛蟲を踏みにじつた。女の子の唇に毒々しい蝶の粉をなすりつけた。然しながら私は矢張りひとりぼつちだつた。ひとりぼつちで、静かに蠶室の桑の葉のあひだに坐つて、幽かな音をたてて食み盡す蠶の眼のふちの無智な薄褐色の慄きを凝と眺めながら、子供ごころにも寂しい人生の何ものから触れえたやうな氣がした」と。

 これでフラジリティの国への断呼たる出立がなくてどうするか。白秋にとっては背水の、そういう文章だ。

 おそらく詩集なら、いまでも『思ひ出』がいちばん好きだろう。山本健吉も三島由紀夫も、そんなことを言っていたかとおもう。確かそう言っていた。

北原白秋 64    北原白秋 65
                  詩集『思ひ出』より

 ついで早稲田に入ってしばらくして、第一詩集の『邪宗門』をやっと読んだけれど、これは、言葉の耽美主義の錬磨が果報であったことに目を奪われたくらいなのもので、それほどの衝撃はなかった。

 自身が白秋と同じ早稲田の学生になったこと、しかし白秋は青春に甘んずることなく早稲田を放り捨て、『天地玄黄』で世を震撼とさせた与謝野鉄幹主宰の新詩社の門をくぐり、さらに晶子の放埒がめざましい『明星』に入って、かつ、そこから離脱するにいたったことなど、漱太郎の方も白秋に関する知識も近代詩についての知識も増えていて、そういう経緯に詳しくなったことが邪魔なフィルターにもなり、まともな耽読に向かわなかったのだろうと憶う。今、そこのところは悔やんでいる。

北原白秋 69
  昭和3年9月28日に白秋が柳川に帰省した時の写真。

 白秋の左は友人の松っつあん、右は子供2人、妻、座っている右端の書生は劉寒吉、周りは元作り酒屋の従業員で木屋酒屋の家族、当店の祖父で津村酒店の津村幾次がこの中に写っている。この時代のカメラは写真やさんが担いで運んで黒い切れをかぶって写していた。

「北原白秋」と柳川


郷土・柳川を最期まで愛し続けた北原白秋の歴史物語。


        北原白秋 66                     北原白秋 67
『邪宗門』カバー表紙 北原白秋 著 1909易風社               『邪宗門』表紙

 しかしそれでも、白秋をとりまく詩魂たちの機運に押され、自身の日々が叱咤されているような気になった時期の『邪宗門』なのである。

 白秋を読んでみると、次ぎのように感化する。

 誰が成功しようと、誰が大儲けしようと、まったく関係がない。そんな感覚を拾わされる。

 したがって嫉妬もない。また、挑まれたこともなく(そういう相手がいたとしても気づかない)、誰かを選んで挑んだこともない。そのかわり、ここがなぜだか妙なことなのだが、歴史の中を遊弋した人物にはめっぽう惹かれて、その歴史の活動の奥に分け入っては、まるでその時代の息吹を同時代でうけているかのように、その者たちとともに、当時の熱情や哀愁や、また革命や孤立に駆り立てられてしうまうのである。

 白秋を読むということは、そういう性癖がついてくるということでもある。

                 北原白秋 68
                           詩集『邪宗門』より

 早稲田時代は、いまおもえば、ブルームズベイリー・グループやゲバラや、明恵・大日能忍・道元や、ガンジーやアンベードカルや、またド・ブロイやハイゼンベルクやシュレディンガー、あるいはディアギレフやルドルフ・サリなどとともに、白秋やその周辺が、そういう漱太郎を伴走に駆り立てる群像だったのである。

 白秋がその早稲田に入ってきたのは明治37年の19歳のときである。

 それまではずっと北九州屈指の水都・柳河にいた。海産問屋と酒造りを営んでいた素封家のトンカ・ジョン(大きな家の子)で、病弱で寂しがり屋の、何の苦労もない子供時代と見える。

 むろんそんなことは見かけ上のこと、実際には妹がチフスで亡くなり、明治23年のコレラの流行に脅えたりして、不安きわまりない少年期をすごしている。

 柳河ですら、白秋自身は「廃市」と呼んでいた。

 そういう白秋が傾きつつある家業から逃れて、親や周囲の反対を押し切って早稲田に入ってきた。

 英文予科だった。

 同級に若山牧水がいて、土岐善麿、佐藤緑葉、安成貞雄がいた。白秋はあっさり授業を捨ててこの破格の友人たちと語らい、図書館にこもって鴎外の『即興詩人』を、上田敏の『海潮音』を、さらに『大言海』の単語を片っ端から繰っていく。また牧水と同じ部屋に下宿もした。

 早稲田にはまた、相馬御風、人見東明、野口雨情、三木露風、加糖介春らのいずれ劣らぬ綺羅星がいて早稲田詩社が結成されていた。

 時はまさに鉄幹の「明星」全盛期であった。

 鉄幹はすでに明治25年には正岡子規・大町桂月・落合直文らと浅香社で新派和歌運動をおこし、30年代にはこれに佐佐木信綱・土井晩翠・外山正一・矢田部良吉が加わって新体詩会をかまえて、第一歌集『東西南北』では虎剣調とよばれた男性的謳歌を、第二歌集『天地玄黄』では万葉調の浪漫主義を標榜、その牽引力は絶顛ぎりぎのところまで達していた。

 そこへ晶子が飛びこんで、『明星』は新たな星菫調をもって女だてらのソフィスティケーションをおこしつつあったところだった。

北原白秋 4

 白秋も短歌や詩を寄稿しているうち、この歌壇新撰組組長ともいうべき偉大な大丈夫(ますらお)に目をつけられて、たちまち詩壇歌壇の麒麟児ともくされた。

 それが弱冠22歳のときである。白秋は夜な夜な、鉄幹、晶子、木下杢太郎、吉井勇、まもなく死ぬことになる石川啄木らの、才能ほとばしる詩才たちと語らうことになる。

 漱太郎がそこにこそ参画して伴走したかったと思ったのは、明治40年7月下旬から1カ月をかけて、与謝野鉄幹、平野万里、木下杢太郎、吉井勇と連れ立って、故郷柳河を振り出しに、佐賀・唐津・佐世保・平戸・長崎・天草・島原・熊本・阿蘇を遊歴したという、例の「五足の靴」の旅である。

 このときの「天草雅歌」こそ第一詩集『邪宗門』の頂点を飾っていく。そんな「五足の靴」の経緯を知ったとき、漱太郎は思わず「ちくしょう!」と叫んだはずだ。

 こうして白秋は『邪宗門』を問う。三木露風は『廃園』である。二人によって、鉄幹の時代は遠のいた。

 このあとの白秋については、白秋が鴎外の観潮楼の歌会に招待されたこと、そこで佐佐木信綱・伊藤左千夫・斎藤茂吉と知りあった直後、木下杢太郎・吉井勇・長田秀雄らと「明星」を脱退したこと、そこに石井柏亭・森田恒友・山本鼎らの青年画家が加わって浪漫異風の「パンの会」を結成したこと、翌年の明治42年の「スバル」創刊に『邪宗門新派体』の総題で「天鵝絨のにほひ」ほか七編を発表したこと、そこからは白秋こそが「スバル」を代表する詩人になった。

 このように白秋の作品と人生を読んでいると、

 また、ここで白秋が急に蘇る。湧くように蘇ると、それにしても、またもや“雨”の白秋だった。

 雨はふるふる、城ヶ島の磯に、

 利休鼠の雨がふる。

 雨は真珠か、夜明の霧か、

 それともわたしの忍び泣き。

 舟はゆくゆく通り矢のはなを、

 濡れて帆あげた主の舟。

 ええ、舟は櫓でやる、櫓は唄でやる、

 唄は船頭さんの心意気。

 雨はふるふる、日はうす曇る。

 舟はゆくゆく、帆はかすむ。



 この曲は梁田貞。完璧な歌詞である。一聯ずつのトランジットが抜群にいい。

 最初に城ヶ島に「利休鼠の雨がふる」と、独特の水墨イメージを切り取っておいて、「真珠・霧・忍び泣き」のメタファー3発を並べて見せつつ、ついでは「わたしの忍び泣き」という自他の橋懸かり。その光景に舟を走らせ、そこからは「舟は櫓でやる、櫓は唄でやる」の返しがえし。そのくせ「唄は船頭さんの心意気」という親しみのこもった呼びかけが入って、あとはふたたび遠水幽帆の水墨画なのである。

城ヶ島風景・遊覧の旅



 この歌を聞くと、白秋がどうしてここまでモノクロームな烟語を使いきれるかと思って、どうしても白秋を深く読みたくなってしまう。すると直ぐ本屋に走るという始末である。

 本を沢山売りたい本屋さんは、白秋の「城ヶ島の雨」を店頭で鳴らし聴かせるといい。

 或日、本屋まで走る、このとき、近所の本屋には白秋の詩集はたしか新潮文庫の『からたちの花』しかなく、よく探しはしなかったのだろうけれど、そのほかは講談社「日本現代文学全集」の『北原白秋・三木露風・日夏耿之介集』があっただけだったので、これを買った。

 そこに『邪宗門』『思ひ出』全詩のほか、『真珠抄』『白金ノ独楽』『水墨集』の抄録とともに、『桐の花』全歌が収められていたのである。

 『桐の花』の歌集名は、「わが世は凡て汚されたり、わが夢は凡て滅びむとす。わがわかき日も哀楽も遂には皐月の薄紫の桐の花のごとくに消えはつべき‥云々」にもとづいている。

 白秋は桐の花の薄い咲き方、はかない散り方を三十一文字の歌に託していた。

   いやはてに鬱金(うこん)ざくらのかなしみの
               ちりそめぬれば五月(さつき)はきたる
   廃(すた)れたる園に踏み入りたんぽぽの
               白きを踏めば春たけにける
   桐の花ことにかはゆき半玉(はんぎょく)の
               泣かまほしさにあゆむ雨かな
   君と見て一期の別れする時も
               ダリヤは紅しダリヤは紅し
   男泣きに泣かむとすれば龍膽(りんどう)が
               わが足もとに光りて居たり
   どれどれ春の支度にかかりませう
               紅い椿が咲いたぞなもし


 この中で「ダリヤは紅しダリヤは紅し」だけは、高校時代に誰かが放課後の黒板に書き残していて、白秋の歌と知らずに心の隅にひっかかっていた歌だった。この「桐の花」と「かはゆき半玉」が根本対同した歌にはまったく感服する。

 だが、こういう花の歌もよいのだが、この歌集で漱太郎をふたたび白秋に向かわせるきっかけになったのは、「秋思五章」に歌われた“絲”の音である。きりきり、きりり、こんな音がする短歌だ。

   清元の新しき撥(ばち)君が撥
         あまりに冴えて痛き夜は来ぬ
   手の指のそろへてつよくそりかへす
         薄らあかりのもののつれづれ
   微かにも光る蟲あり三味線の
         弾きすてられしこまのほとりに
   円喬のするりと羽織すべらせる
         かろき手つきにこほろぎの鳴く
   太棹のびんと鳴りたる手元より
         よるのかなしみや眼をあけにけむ
   常磐津の連弾(つれびき)の撥いちやうに
         白く光りて夜のふけにけり


 第2首をのぞいて、とくに仕上がりがよい歌ではない。白秋にしてまだ未成熟のままであるけれど、それをこえて常磐津や清元の絲の音がする。のみならず、歌集全首がその三絃に切り結んで、魂を裸にさせている。

 いったいどうしてこのような『桐の花』になったのか。漱太郎はふたたび白秋の「パンの会」のあとを追う気になった。そして、意外なことを知ったのだ。

 それは明治末年のことである。

 28歳の白秋は前年に原宿に転居したときに隣家の人妻松下俊子と知りあい、その後に熱烈な恋愛に落ちている。ここまでならよくあることだが、運悪くというのか、白秋は俊子の夫に姦通罪で告訴され、市ケ谷の未決監に放りこまれてしまったのだ。

 つい先だっては『思ひ出』が上田敏によって激賞されて栄光に包まれたのだし、高踏文芸誌「朱欒」(ざぼん)を創刊して気勢をあげたのだった。名声まっただなかの事件なのだ。

 事件はさいわい、1カ月後に無罪免訴となったのだが、白秋はそうとうに苦しんだ。一時は発狂寸前まで追いこまれ、憂悶のあまりふらふらと木更津あたりをさまよいもしている。ここで詠んだのが『桐の花』の哀傷短歌群なのである。それを詠んで白秋は三浦海岸に渡り、死を決意する。

 そんなことがあったのだ。

 結局、白秋は死を選べない。そのかわり敗残者の烙印を秘めて、心の巡礼者になることを誓う。そこへ夫に離別され、胸も病んでいた俊子から助けを求められ、白秋は新生を求めて結婚、死にそこなった三浦の三崎町の異人館に転居する。

 ああ、そうだったのか、そういうめぐりあわせかと思ったのは、このとき三浦三崎の臨済宗見桃寺に仮寓していた白秋が、一気に仕上げたのが『城ヶ島の雨』だったということだ。だからこその「舟はゆくゆく通り矢のはなを、濡れて帆あげた主の舟‥‥」。

 詩壇の寵児白秋は、あっというまの無一物なのである。

 それでも白秋はまだ心の巡礼を始めたばかりの日々。そこで、あえて船上の人となり、小笠原の父島にまで渡って俊子の療養にあたる。

 白秋が白秋自身を「寂寥コワレモノ」の極限にまで追いこんだのだ。けれども、俊子は耐えられずに東京に帰ってしまう。一人白秋はそのまま貧窮を厭わず父島に留まった。大正3年のことである。

 そう、白秋にして、そんな絶海の孤島にいたことがあったのだ。

 以上のことは最初から白秋のことを調べていれば、容易にわかったことではあるけれど、ぼくは幸か不幸か、これらを『桐の花』とともに知り、その後は三崎時代に詠んだ歌を収めた『雲母集』や『雀の卵』を見開いて、うーむ、白秋はやっぱりただならないと、そんな溜息をついていた。

 その『雀の卵』には、「南海の離れ小島の荒磯辺に我が痩せ痩せてゐきと傳へよ」などという歌とともに、こんな文章も入っている。

 「我もとより貧しけれど天命を知る。我は醒め、妻は未だ痴情の恋に狂ふ。我は心より畏れ、妻は心より淫る。我未だ絶海の離島小笠原にあり‥」と。

 俊子に文句をつけているところが気にくわないものの(白秋には根本的にフェミニズムが欠けている。白秋の女性は母と少女と人形なのだ)、白秋その人はあまりに切々と痛々しい。それから大正8年の35歳あたりまで、さすがに白秋は窮乏のなかにいた。

 けれども、裸になれば人の世はときに大きく旋回したり寄り戻してくるもので、事態はしだいに変わっていく。まずは、「朱欒」に育った室生犀星・萩原朔太郎・大手拓次が“白秋三羽烏”として頭角をあらわし、次々に白秋に序文を求めて、傑作『月に吠え文字色る』などに結晶していった。

  また、『城ヶ島の雨』は島村抱月によって芸術座の舞台で唄われ、つづいて中山晋平が曲をつけた『さすらひの唄』が大ヒットした。例の、「行こか戻ろか、北極光(オーロラ)の下を、露西亜は北国(きたぐに)、はてしらず。西は夕焼、東は夜明、鐘が鳴ります、中空(なかぞら)に」に始まる、一度口ずさんだら、胸をかきむしって離れぬ歌だ。

城ヶ島の雨


歌手・美空ひばり 城ヶ島の雨 作詞:北原白秋 作曲:梁田貞 (1913年) 

 このあと経済的にも復活し、白秋は平塚雷鳥のもとに身をよせていた大分の江口章子と結婚する。それで、やっと安定を得ると家を建てるのだが、その地鎮祭の夜に章子に逃げられ、ふたたび「心の巡礼」の杜撰であったことを思い知る。が、それも大正10年にはまたまた新たな大分の女性佐藤菊子と、今度こそはと結んで、子供を生むにいたった。

 このあとの白秋がいよいよ童謡に磨きをかけたのである。

 三好達治だったか、白秋の作品では童謡が最もすぐれていると言っていたのは言うまでもなく当然のこと、こうした激越な天罰の果てでの童謡ポイエーシスだったのである。

 さて、ここまでが漱太郎の拙(つたな)い白秋遍歴であって、その後はときおり白秋に対座する夜がつれづれあって、そのつど、白秋百門に唸る、ちょんちょん読む、考えこむ、飽きてくる、また唸る、黙って読みたい、なんだか胸騒ぎがしてくるという、そんな断続にすぎない。一人だけに集中するのはしんどいことだ。

 そうした中、いま述べておきたいとおもうのは、ひとつには、白秋はついに“雅俗”を分離しなかったということ、その言葉の旋律はつねにノスタルジアとフラジリティに接しようとして生まれていたこと、それが歳を食むごとに「無常の観相」や「もののあはれ」にまで結びついたことである。

 「鳴かぬ小鳥のさびしさ、それは私の歌を作るときの唯一無二の気分である」と白秋自身は書いた。白秋は「欠如からの表意」に賭けたのだ。

 が、これらのことはいまさら説明はするまい。

 もうひとつは、そのことを述べて彼岸の白秋と別れたいと思うのだが、白秋には特別のオブジェの感覚に寄せる眼があったということだ。

 オブヂェと綴ったほうがいいだろうか。むろんいっぱしの詩人や歌人や俳人なら、なにかしら事物や物体に注意のカーソルが細かく動くのであるけれど、それが白秋ではやや風変わりだった。けれども、漱太郎が白秋を贔屓にしたいのは、実はこの風変わりなのである。

北原白秋 10

 たとえば、カステラのことだ。

 そもそも『桐の花』には序文があって「桐の花とカステラ」が綴られている。

 そこで白秋は、夏の帽子をかぶるころ、眼で見るカステラの感触がわずかに変化するのが好きなんだと言い、触れぬのに感じるタッチというものの渋みこそ、自分が表現したかったものだと告白する。カステラの端の茶色が筋となって切れるところにも、眼を寄せる。

                        たぬきと地蔵F

 こういう感覚は、舌出し人形の赤い舌、テレビン油のしめり、病いのときに一口だけ飲むシャンペンの味、銀箔の裏の黒、恍惚に達する寸前の発電機、堅い椅子に射す光、いままさに汽車が駅に入ってくるときの匂い、日曜の朝の蕎麦、背後の花火の音、そして、白金浄土のキリギリスというふうに、どんどん滑っていく。

 これはシュルレアリスムのオブジェ感覚なんかではない。おお、ほろろん白秋、ほろろんの白秋オブジェのぢぇぢぇ、なのだ。たとえては、「一匙(ひとさじ)のココアのにほひなつかしく訪(おとな)ふ身とは知らしたまはじ」という、そのココアと一瞬だけ交わった眼の言葉、タッチの渋みなのである。

 この感覚は風の変わりというものだ。風変わりとは、そのことだ。その場を魂が立ち去る直前の風趣の変わりというものだ。いえいえ、それこそが郷愁という風趣、さもなくば風趣というオブヂェたちなのである。

 晩年、白秋は水墨山水の画境や老荘思想や黄表紙の戯れにも、さらにはついに「ほそみ」の趣向にさえ入っていくのだが、その趣向はすでにハッカの味がするオブヂェ感触の、風の去来に発端していたのではあるまいか。

 しかしそれはまた、次の文章に秘められた白秋の風趣の極北を暗示していたともいうべきだった。「つくづく慕はしいのは芭蕉である。光悦である。北斎である。利休である。遠州である。また武芸神宮本玄心である。私もどうかしてあそこまで行きたい」と。

 そうなのだ。白秋は昭和の戦争の渦中、ひたすら日本回帰の人となり、日本語だけがもつ風来ばかりに耳を住ませていたようにも想われる。

 では、白秋の彼岸とは何かを求めようとする日は、こんなふうに良寛と響きあう二つの白秋を贈って、黒の夜を締めたい。

 ひとつはごく僅かな星の歌から一首、もうひとつは『他ト我』という、こんな詩が白秋にあったとはほとんどが気がついてない、こういう詩だ。

   寂しくも永久(とは)に消ゆなと離るなと
      仰ぎ乞ひのむ母父(おもちち)の星

   二人デ居タレド マダ淋シ。
   一人ニナツタラナホ淋シ。
   シンジツ二人ハ 遣瀬(やるせ)ナシ。
   シンジツ一人ハ 堪ヘガタシ。



                                白秋の彼岸より・・・By 漱太郎




北原白秋に関する書籍・資料の主要なものは下記。

参考文献も含め(順不同)


北原白秋著『白秋全集』岩波書店
北原白秋著『白秋抒情詩抄』岩波書店
北原白秋著『おもひで』柳河版
北原隆太郎・木俣修編『白秋歌集』新潮社
藪田義雄著『評伝北原白秋』玉川大学出版部
木俣修著『白秋研究』日本図書センター
野上飛雲著『北原白秋―その三崎時代』慶友社
野上飛雲著『北原白秋―その小田原時代』かまくら春秋社
飯田耕一著『北原白秋ノート』小沢書店
玉城徹著『北原白秋』読売選書
西本秋夫著『北原白秋の研究』日本図書センター
嶋岡晨著『詩人白秋その愛と死』社会思想社
杉山宮子著『女人追想―北原白秋夫人江口章子の生涯』崙書房
上口博・中島国彦編『石川啄木と北原白秋』有精堂
室生犀星著『我が愛する詩人の伝記』中公文庫
『生誕百年記念 近代日本の詩聖北原白秋』北原白秋展専門委員会
財団法人北原白秋生家保存会
西日本新聞社
福島俊子著『思い出の椿は赤し』桜菊書院・婦人の光
佐藤春夫編『与謝野晶子歌集』新潮社
若山喜志子・大悟法利雄編『若山牧水歌集』新潮社
梁取三義編『小説若山牧水』光和堂
大悟法利雄著『若山牧水伝』短歌新聞社
野田宇太郎編『木下杢太郎詩集』新潮社
佐藤春夫著『春夫詩鈔』岩波書店
鮎川信夫著『鮎川信夫全詩集』荒地出版社
村上菊一郎編『フランス詩集』新潮社
山本太郎著『言霊―明治・大正の歌人たち』文化出版局
近松門左衛門著『曾根崎心中・冥途の飛脚』岩波書店
次田真幸編『古事記』講談社
近代作家研究叢書 27 北原白秋の研究・・・・などなど。

 この詳細は下記の特選検索サイトで!!

 書籍専用検索サイト。

書籍選びの快適検索サイトなら下記の「新書・文庫本マニア」!!・・・新システム書籍専用サイト!!ライン黄色 gif

さようならF

クリック・ボタン gif   新書・文庫本マニア   動く本

ライン黄色 gif




開本臨書堂・・・『人形記』日本人の遠い夢

ウエルカム gif
開本臨書堂 
ライン黄色 gif

人形記 32

人形記 4   動く本          人形記 5
人形記日本人の遠い夢          佐々木幹郎
佐々木幹郎著/写真・大西成明 淡交社 2009

 これは読んで名の通り「人形」の本である。

 しかしここでは人形を「ひとがた」と語る。ともかくそう呼ぶことにする。

 つまり、どう呼ぶかでこの本の趣きが変わるからである。

 著者は、そう呼んでくれと言っているし、これはそう定義付けられて、そこにおしなべて意味が含ませてある。

 冒頭でこの本をひとくくりにすれば、読者はきっと、衒いのない名文で人形をみつめ、深い「ひとがた」への想いに運ばれて人形の棲家へと旅をするのであろう。

 読後には、そんな旅路の体験に包まれている。

 またその道をきっと振り返りたくなる、そんな本である。そうして人形といモノの、何ものなのかが、格別にいとおしくもなる。

 その旅路の途上では・・・・、

 青い目のセルロイドの人形・・・林駒夫の桐塑人形・・・伏見人形・・・四谷シモンの人形・・・流し雛・・・ジュサブロー人形・・・土偶・・・浄瑠璃人形・・・フィギュア・・・夢二人形・・・松本喜三郎の生人形・・・霊鑑寺の御所人形・・・ムットーニ人形・・・結城座のあやつり人形

 都合18種18形の人形が往来する。

                    人形記 33

 この人形たちに、詩人・佐々木幹郎が接して語る文章はまことに丁寧で、その人形たちに接することのできない読者を導く先をよくよく心得てもいて、ぞんぶんに読ませてくれる。見せてくれる。そうであるから衒いのない名文となろう。

 「あとがき」には、この連載の仕事を通して「ひとがた」への旅が始まったことが静かに綴られている。しかしこれらをある意味の、日本の形代(かたしろ)と考えて接すると、それはいけない。日本の形代へと、追いこんでいけば、日本の根元に蟠る「稜威」(いつ)にもつながってくるので、そこは要注意なのである。本書にそうした結界を越えようとする意図はない。

 写真を担当した大西成明の眼差しにも注目されたがよかろう。写真家という者には撮る前に思索というものを用意する。どう切り撮るかが眼力となる。大西成明の写真には、人形のそこに、いつしか向こう側へさしかかるような奥行きが出て、生きた素振りに見る側が同化させられる瞬間を持つ。既成の作品を考えても、そのあたりの眼力が、その成果が『象の耳』で日本写真協会の新人賞に、『病院の時代』では講談社出版文化賞になってきた。そうした眼力も溢れている。

 本書の人形の写真は、読者に作家の紹介も兼ねなければいけないので難しい撮影だったろうが、よくよく思索されて撮れている。ライティングの光使いも「ひとがた」を深く想いうまく透かし彫にしたものだ。

ライン黄色 gif

 まず宇野千代の『人形師天狗屋久吉』から始まっているのが、じつにいい。昭和16年に、お千代さんが嶋中雄作の家で出会った阿波の浄瑠璃人形「阿波のお弓」に瞠目し、その作者である吉岡久吉に会いにいったのである。

 名人は天狗久とよばれていた。当時85歳。旅の矢立がこうであるから、読者はきっと幸先も良い旅路の空を仰ぎみることになろうか。こうして穏やかな旅が始まる。

人形記 2     人形記 3
鄙びた手織縞の着物を着た『阿波の鳴門』のお弓          宇野千代の書斎机

 この小説は漱太郎も読んだが、天狗屋久吉の一人語りになっている。「人形をつくってます間が、神さまを拝うでおるような気持ちと言うのでござりましょうぞ。わが技の及ばんところが神さまでござりまする」という口調から醸す作品であった。

宇野千代生家の淡墨桜


宇野千代生家。淡墨桜。2012年4月4日撮影。

 文楽の人形は動かしてナンボというものだ。名人の操りの手にかかれば、これほどものすごく妖しくなるものはない。しかも「かしら」という男の人形は、眉も目も口元も動くようになっているが、女の人形は目だけが動く。そこを人形遣いが反らせたり、伏せさせたり。そう工夫する。

 いや、文楽人形には必ず浄瑠璃の言葉も加わっている。言葉のない人形は少なくとも文楽においては人形ではないのである。文楽人形を見るたび、いつも太夫の絞り出した声も聞こえる。お千代さんも、だからこそ天狗屋久吉の一人語りをもって浄瑠璃に代えたのであろう。きっとそうである。

人形浄瑠璃・阿波鳴門 イメージ資料


徳島の人形座

 同じ「あやつり」でも、これを糸で操れば傀儡子(くぐつ)あるいはマリオネットである。大江匡房の『傀儡子記』では11世紀には街道筋を多くの傀儡師たちが首から下げた箱の上で小さな人形を操っていた。傀儡師の出自は西宮神社の神人(じにん)との縁が深かった。

 いま、このような操り人形を代表しているのは結城座である。これは江戸時代から三百年以上も続いている一座で、8代目や9代目のあたりで「写し絵」と結びついた。当時、隅田川の屋形船に近づいて障子に蝋燭幻燈を映し出してみせる両川亭船遊(りょうせんてい・せんゆう)という男がいて、この「写し絵」が江戸の結城座の舞台にもとりいれられたのである。またこれを「風呂」とも言った

 以来、「操り」と「風呂」は結城座では一体になってきた。いまは12代目の結城孫三郎が率いているのだが、12代目は同時に両川亭船遊3代目にもあたる。本書ではこのあたりが一里塚となる。

人形記 6
12代目結城孫三郎の「糸あやつり」と「写し絵」の融合

                    人形記 7
                            あやつり糸の僅かな動きが表情をつりだす

結城座のあやつり人形の案内


結城座は、江戸時代から続く江戸糸あやつり人形一座。375年もの歴史を培う。

 漱太郎が人形というものに衝撃を受けたのは、ひとつはヴェリエ・ド・リラダンの『未来のイヴ』の中の自動人形アダリーを知ったときで、もうひとつがハンス・ベルメールの関節人形とそのドローイングに出会ったときだった。
 とくにベルメーメの人形は、ここに世の中の内なるエロスとタナトスが息を顰めて組み合わされているのではないかというほどの、まことにおおげさなほどの“秘密の呼吸”を感じた。旅ゆく空には風があるから、誘われて人それぞれの感慨も想い起こさせる。ここで読者はわらじの紐をくくりしめることになる。

人形記 8
    ハンス・ベルメールの間接人形のポスター

 同じころに、やはりハンス・ベルメールに衝撃を受けていたのが四谷シモンだった。
 それまで少年期からぬいぐるみ人形作りをしてきたシモンは、ベルメールの人形写真のたった一枚を見て、転向を決めた。そうさせられた。
 「ベルメールの人形にはテーマがない。人形そのものになっている。それがぎくしゃくと動く」。と、そのろこ感じたそうである。
 しかしベルメール人形を作ればいいのか迷っていた。唐十郎の状況劇場で一番の人気をとっていたシモンはしばらく“女形”をやってみせたのち、1971年秋にそこから風のように去ると、ベルメールに追随することなくシモンの人形を作ることに専念する。
 その1971年と言えば日本の映画館では「小さな恋のメロディ」に多勢の列が並んでいた。

 翌1972年、10人の写真家たちがシモンを撮った『引力のまたたき』展が開かれる。その会場に等身大の人形が展示されていた。それは今は、高橋睦郎宅に収まった『ドイツの少年』だ。ペニスが直立している。
 はたして高橋家で一体どのように展示しているのか納めているのかを考えるのもオモシロそうな作品なのであるが、これは、ベルメールの『道徳小論』にも少女の股間からペニスが突き出ているイメージが語られていたものだ。

人形記 9  人形記 10
     四谷シモン「少年」      「少年」と「少女」の間に横たわる四谷シモン

 その昔、澁澤龍彦に『人形愛序説』(第三文明社)という本があった。
 ベルメールの人形を、レオノール・フィニやジャック・エロルドなどともに「危険な黒いエロティシズム」と書いていた。しかしシモンの人形を見ていると、そういう澁澤哲学をすっかり乗りこえている。あるいは飛び越えて抱えこんでいる。

 それかあらぬか最近のシモンは「ひんやりとした人形」をめざしているのだという。定まった位置にいず、確固としたものもなく、何者でもないものであるような人形。それがシモン人形なである。

 ハンス・ベルメールと四谷シモンに衝撃を受けたあと、順番でいうなら辻村ジュサブローの人形に驚いたのだと憶う。肌が縮緬で作られていて、ともかく衣裳が凝っていた。その人形が出てくるだけで物語が動いた。動きはじめると旅人はふと立ち止まりたくもなる。

 1973年から放映された連続テレビ人形劇『八犬伝』で一般には知られたが、その前から寺山修司とも唐十郎とも組んで「芝居ができる人形的衣裳」といモノを作っていた。じつに面白い発想だ。とくに蜷川幸雄と組んだ仕掛け意匠はものすごく、築地本願寺の境内をつかった『オイディプス王』の夜は妖しい美しい悪夢のごとくに忘れがたいものだった(1986作)。

 ジュサブローとは舞台でときどきしかお目にかからない。以前はよく人形町のジュサブロー館を覗かせてもらっていた。「あたしは満州が原点です。あの国が滅んだときに、あたしが生まれたようなものです」が、とこれがジュサブローの口癖である。もうひとつの口癖は「喋らない、息しない、聞こえない、目が見えない。すべてない世界で嘘をついているのが人形です」というものだ。人形ばかりか、なかなかお喋りも達人でいらっしゃる。

人形記 11  辻村寿三郎
     嘘と幻の女                ジュサブロー

辻村寿三郎 目黒雅叙園


目黒雅叙園百段階段 2012/03「人形師辻村寿三郎×平清盛」展。

 23歳のときに藤浪小道具に入って、歌舞伎の小道具作りを学んだ。このとき縮緬張りの手法を知った。しかしその縮緬だけが素肌なのではない。ジュサブロー人形では縮緬張りと衣裳との両方が素肌なのである。

 それはボキャブラリーでできているのだという。土方巽が、踊りは体と衣と光のボキャブラリーでできていると言ったことに、そこは呼応する。その誤謬の息遣いが読者にも伝わってくると、ここはすでに三つほど一里塚を過ぎたことになろう。

 近代の少年時代の人形といえば、雛人形と五月人形とセルロイド人形である。

 セルロイド人形は、さる御人の妹が人形派ではなかったので、家には小さなフランス人形一体と途中から欠けてしまったキューピー人形くらいしかなかったそうだ。

 しかし、そのかわり野口雨情の『青い目の人形』にはぞっこんだった。  

 その青い目の、そうした経緯は本居長与の作曲にある。

 青い目をしたお人形は アメリカ生まれのセルロイド
 日本の港についたとき いっぱい涙を浮かべてた
 「わたしは言葉がわからない 迷い子になったらなんとしょう」
 やさしい日本の嬢ちゃんよ なかよく遊んでやっとくれ
 なかよく遊んでやっとくれ


人形記 12
青い目の人形(横浜市立西前小学校蔵)

 ところが本書を読んでも知れるのだが、「アメリカ生まれの青い目のセルロイド人形」というのは事実とはちがっている。いや、確証はないので、どうも違うらしい。

 大正末期、アメリカで日本人排斥運動が高まって排日移民法案が通った。これに心を痛めた親日家の宣教師シドニー・ギューリックが、日米親善のために270万人の寄付をもとに12739体の「青い目の人形」を日本に送った。

 そのほとんどがアメリカ製のコンポジション・ドールというもので、セルロイドではなく木屑や混成品を化学糊でまぜてつくった人形だった。これを日本の少女たちが雛祭りを迎えたときの雛壇に飾ってもらおうという趣旨だ。ギューリックは20年ほど日本に住んでいた。

 日本側でこれを受け入れたのは晩年の渋沢栄一である。渋沢はさっそく日本国際児童親善会というものを設立して、全国の幼稚園・小学校、および満州・台湾にこれを贈るように手配する一方、ギューリックに感謝して58体の市松人形をアメリカに贈った。これを「答礼人形」というらしい。

 こういう繊細な歴史語りだから信憑性はあろう。そんな目で、青い目をみつめ返すと、哀しみの味わいはことさらとなる。

人形記 13
青い目の「マリーン」(左)と「ポリーン」(右)

 だから、「青い目の人形」はセルロイド製ではなかったのである。雨情らしい勘ちがいだが、しかし雨情と本居は同じ年にさらに『赤い靴』もつくって、横浜の波止場から異人さんに連れられて船に乗った少女を歌った。その3番には「青い目になっちゃって、異人さんのお国にいるんだろう」とある。少しの勘違いではないか。情愛では包もうとした。

 大正昭和の日本では、「青い目」とはすべからく異人の国の、異人の言葉しか解さない人形のことなのである。旅の途上では、そんな時代をも振り返る。

 本書のなかで最も美しい写真は、林駒夫の桐塑人形「神ノ坐ス森」だ。

 見つめる感性はそれぞれだが、漱太郎にはそう映った。佐々木幹郎もこの人形を見て電撃が走ったと書いている。電撃と聞かされると、そこまでは感じ入れない凡人でしかない私などには、やや抵抗はあるが、そこまで近づかねばならぬような思いに、読者である旅人は、さらに草鞋の紐をかために結いしめるのである。

人形記 14   人形記 15
    桐塑人形「神ノ坐ス森」        桐塑人形「松聲」

 林駒夫は昭和11年に割烹「赤尾屋」の家に生まれた。

 19歳のときに人形師の面屋庄三に入門し、27歳で能面師の北沢如意に学んだ。やがて桐塑(とうそ)の技法を極め、平成14年には人間国宝ともなるのだが、それよりも作り出された人形が神さびている。

 いつだったか、日本橋高島屋のギャラリーで「雅の刻」という林駒夫の展覧会が開かれていた。覗きに行ってみたが、観覧者たちが息を詰めて見ているのが妙に怖いほどだった。

 なかに、お能の『斑女』をモチーフにした『松聲』があって、松を渡る風の音を聞いている。なんともいえない絶佳の風情。しばし立ちすくむ感を覚えた。そんな記憶が今もある。写真をみつめながら蘇ってきた。

 林は「人形は情緒だ」と言い切っている。その情緒が「型」になるのだとも言う。それには京都になりきっていくことが大事だと思っている。「京都でなけりゃ、しょうがないんですよ。ぼくのすべてが京都で、ぼくの京都が人形を作る」と。

 たしかに京都は情緒である。その情緒は岡潔ではないが、「春泥」(しゅんでい)のようなものだ。けれども京都に住んでいるからといって春泥にはなれない。
 たとえば最近の舞妓や有名割烹や繁華街には春泥がない。そこをあえて京都であろうとすれば、「奥」へ行くしかない。

 林駒夫はかなり以前にそこに気がついたのだろう。気づく者しかその淵には近づけぬ。いや、近寄せない。

 そういう京都の「奥」は、よく見ればわかることだが、小さな「細工」と透かれた「好み」で成り立っている。

 本書には霊鑑寺の御所人形も掲載されているが、かつて御所には「お細工どころ」というものがあり、そこでは「お好み布」というものが織られていた。人形用の小さなものたちを作っていたわけである。

人形記 16
「万勢伊さん」(ひだり)と「おたけさん」
手前に小さな這い這い人形


 この小さな細工の好みから、京都の「奥」はあらわれてくる。ちなみに霊鑑寺は後水尾院時代の尼門跡で、「谷の御所」と呼ばれてきたところ。ふつうの観光客は入れないが、ここには芥子粒ほども小さな人形もあった。それは人形の至極なのである。

 京都を長くみつめておいて、ときどき奈良へ行くと、京都とはかなり異なる「遠い古代」や「閉じない中世」に包まれることをひしひしと感じる。
 その奈良をできれば「まほろば」とか「万葉の国」と言わないで語りたいと思ってきたが、それはなかなか難しかった。ある種のあがないを覚えるからだ。その古が奈良なのであるから。

 平城遷都1300年記念事業のひとつとして、そこに創られた様々な物資をながめると分ることだが、名付け方、編集構成に挑んでみて、何とか奈良っぽさを出そうとするが、すばらしい出来になったと思うけれど、それであらためて分ることは、奈良の中世・近世が、日本人の歴史観のなかに入っていないということに思い当たる。
 太古に傾き、中間がスっ飛んでしまっている。その途上のプロセスも重要な奈良なのである。本書の旅の峠では青垣の奈良をながめた。

奈良人形



 佐々木幹郎は奈良の生まれである。子供時代は奈良人形で育ったらしい。

 この人形は、そもそもは興福寺の檜物座(ひものざ)に属する檜物師が春日大社や興福寺に指し物や曲げ物をつくっているうちに派生したもので、江戸時代に入って檜物屋平右衛門が初代の岡野松寿を名のるようになると、「春日有職」としての奈良人形が定着する。

 以来、9代目保伯、10代目保久などの名工を生み、幕末明治になってついに森川杜園という名人を輩出した。

 本書にも『後高砂』という名品が載っている。

 杜園は根付(ねつけ)も多く、日本の工芸のなかで最も繊細で大胆なアートである根付独特の冴えも見せた。杜園は京都の和事ではなく、奈良の荒事とでもいうものをあらわしたのであったろう。

人形記 18   人形記 19
    森川杜園作「後高砂」           森川杜園作『寿老人根付』

 本書は最後になってフィギュアと土偶と埴輪が出てくる。どうやら、ここあたりがこの旅の佳境ということになろうか。

 フィギュアは大阪の海洋堂の宮脇修一がはやらせたもので、たちまちオタクのあいだに広まり、さらに「食玩」としてスーパーやコンビニのスナック菓子の棚を席巻していった。

 そうした矢先、村上隆は本書にも登場するボーメ(海洋堂の原型師)と組んで美少女フィギュア「プロジェクト・ココ」を作り、ヴェネチア・ビエンナーレの話題をさらった。

 その美少女フィギュアは、いまでは「初音ミク」というボーカロイド(ボーカル・アンドロイド)として有名になった音楽ソフトにまで拡張されている。

 パソコンに自分で歌詞と音符を打ち込むと、初音ミクがその歌を唄ってくれる。先日、ケータイ関連で名を挙げているチームラボの猪子寿之君が赤坂にやってきて、そんなテレビ放送の画面の前で、経産省の猛者たちを相手に初音ミクのぶっちぎりのおもしろさを論じていたばかりだったのだが、本日ここに『人形記』の美少女フィギュアを綴ることになるとは思わなかった。

 考えてみると、これもやはり人形なのである。「進化したひとがた」という思いには、また格別な趣きを抱かせる。老いの身と時代とをすれ違いにさせないところも、本書の力である。

人形記 20 人形記 30
            ボーメ作の美少女フィギュア           フィギュア初音ミク
 しかしボーメは、フィギュアはそのうち時代と社会のなかに埋没していくだろうと見ている。フィギュアは「リアルを壊して作ったリアル」なのだから、ユーザーがリアルになっていけば埋没していくしかないというのだ。いや、埋没にも深みがあるのだから、それはそれでいい。

 では、土偶や埴輪はどうだったのか。茅野の尖石(とがりいし)縄文考古館の「縄文のヴィーナス」や「仮面の女神」は死者のための驚くべき造形のフィギュアであったけれど、いまなおいっさいの彫塑的人形を凌駕しつづけているのだから、これは格別なフィギュアということになるのか。

 それとも土偶や埴輪もまた、土中に埋まって1000年、2000年をへて今日に蘇っているのだから、ガンダムやエヴァンゲリオンのフィギュアも、これから幾多の星霜を食んで別格イコンとしていつか蘇えるのか。こういうことは、いまこそ太古と現代を連ねこめて日本人が考えるべきことである。

人形記 21
    土偶『縄文のビーナス』(左)と『仮面の女神』(右)

 かつて土師師(はじし)というものがいた。埴輪などを専門に作る職人集団で、いまは近鉄大阪線の「土師(はじ)の里」という駅の近辺に出自した。これは最初の人形師といっていいだろう。

 佐々木幹郎は少年期をすぎると奈良から大阪の河内に移って暮らしたようだ。それもあってか、埴輪をはじめとする土の人形には言い知れぬ畏怖のようなものをもっているとおぼしい。漱太郎も似たような畏怖はもっている。人形というよりも、人形師たちその人たちに・・・・・。

 それはなかなか他人には説明しにくいので、まったく喋ってこなかった、そんな癖があった。

 それは寝床に入ると粘土細工をしたくなるという変な癖だ。こっそり油粘土やゴム粘土の束を布団の下に隠しておいて、寝付く前までを好きな動物や機械を作って遊ぶのだ。

 だがなぜか、決して机の上では作らなかった。出来上がったものを枕元に並べて、それで眠るためである。それらは寝ているあいだの、安らぎとなる守護神だったのである。

 そのうちふと、ふつつかな女身を作るようになった。ところが作っていくうちに意外にリアルなものになっていく。さすがにこれを枕元に並べてはおけないので布団に入れて寝たのだが、ある夜にぐにゃりと歪んでしまった。

 それからというもの、この奇癖が消えた。以来、ずっと不眠症なのである。人形というもの、みだりに一緒になるものではないのかもしれない。これが結界である。日本人だからなのか、乗り越えて冒してはならない領域もある。

 都合18種18形の人形が往来する、この旅路には、おじなべて「ひとがた」という、そこでしか納まらぬ人心の有様を垣間見せた。

 本書によって、街も、花木も、風さえまでも人の「ひとがた」であり、その存在の意義を問い正しては人を近づかせてくれる。そうして読後、一歩近づけた気になる。そうあれば、これは血の温もりを覚え誘う心嬉しい一冊となる。

人形記 23 『人形愛序説』 澁澤龍彦 著 第三文明社 1974

人形記 24      人形記 25
    四谷シモンの人形パーツ         『冥土の飛脚』の梅川をジュザブローが舞う

人形記 26                 人形記 27 
市川人形と青い目の人形(埼玉県越谷市立大沢小学校)     桐塑人形「神ノ坐ス森」(正面)

人形記 28     人形記 29     人形記 31  
桐塑人形「初音」を制作途中の林駒夫  「水引手這い這い」(霊鑑寺蔵)     海洋堂の原型師ボーメ

布と銀河    人形記 1


書籍選びの快適検索サイトなら下記の「新書・文庫本マニア」!!・・・新システム書籍専用サイト!!ライン黄色 gif

さようならF

クリック・ボタン gif   新書・文庫本マニア   動く本

ライン黄色 gif

書籍の森・・・ビージーズの聞こえる『小さな恋のメロディ』

                     ふくらむハート
本 gif
  書籍の森 ・・・・・・・『小さな恋のメロディ
      キラキラ 1 gif

ビージーズ 1  ビージーズ 2
        小さな恋のメロディ アラン・パーカー/原作
桐山洋一・訳注(早川書房)・・・・・英和対訳映画文庫・・・・・坂雅人・訳注 (南雲堂)1980年


ビージーズ 19

          Tracy Hyde
                                 ビージーズ 21
 本年5月から、一人の女性の行方を探していた。

 トレイシー・ハイドという。(写真)

 その名、トレイシー・ハイド(Tracy Hyde)と聞いてすぐピンとくるのは、おそらく1970年代に映画が好きだった人か、あるいは映画マニアぐらいであろうか。

 そう・・・彼女はかって銀幕の中にいた人である。

 1971年の「小さな恋のメロディ」に出演して、日本で高い人気を得た。

映画 Melody(1971) 小さな恋のメロディ



 日本では大好評であった。しかし彼女はその後、あまり映像としてはパッとせず、現在では「あの人は今」なんて番組にも登場したりしているくらいなのだから、その名を記憶する人は少ない。

 本年の5月20日、ビージーズのロビン・ギブが、癌で亡くなった・・・、

 その死でふと、彼女について調べたいと思い、いくつかのサイトをチェックする。

 日本のwikipediaには、彼女の記事がない。しかし英語の記事は意外と充実していた。

 トレイシー・ハイドは、1959年3月16日にロンドン郊外のフラム(フルハムよりも「フラム」という発音のほうが正しいそうだ)に生まれる。
 4歳からバレエを始めて、少女モデルなどもやっていた。

 そこで、彼女の写真を映画関係者のアンドリュー・バーキンが見て、「小さな恋のメロディ」のオーディションに出ることを彼女の家族にすすめる。
 さらに彼は、制作のデヴィッド・パットナムや監督のワリス・フセイン(彼はインド出身)、脚本のアラン・パーカーに彼女を推薦した。おそらくそのために、彼女は「小さな恋のメロディ」のメロディ役にばってきされことになる。これが1970年の初旬のことであった。

 そのバーキンは、ジェーン・バーキンの兄で、1945年生まれであるから、このとき25歳の若さでしかない。映画ではsecond assistant directer とクレジットされているバーキンであるが、wikipediaの英語版によると、脚本もアラン・パーカーと執筆していたそうである。

 つまり、この映画の基本的なコンセプトや制作実務は、かなりの部分バーキンが担当していたということになる。したがって、この映画での最重要人物は、そのアンドリュー・バーキンなのかもしれない。そうなると裏舞台が非常に気になる物語なのである。

ビージーズ 20  ビージーズ 23

 その映画「小さな恋のメロディ」の出演後、トレイシー・ハイドは何本か英国のテレビドラマに出演したものの、1973年のドラマを最後に出演が途絶える。しかし「小さな恋のメロディ」が日本で大ヒットしたこともあり、彼女は日本に呼ばれて、彼女主演の映画すら企画された。しかしそれが実現することはなかった。

 その後、彼女は秘書になる勉強をして法律事務所などに勤務したりする。すっかり芸能活動からは遠ざかった。しかし再び、日本の映画雑誌「スクリーン」(現在この雑誌は休刊)の1977年5月号での「シネマ大賞」で彼女が1位になったために、わざわざ日本まで足を運んでる。

 そんな彼女が日本を去る際に、「読者の皆さん、私にまた投票してくれるかしら・・・?、そうしたら、貯金しなくてもまた日本に来れるのに・・・」と、いう意味深とする言葉を残して去っている。

 そうした彼女は1980年代になって、また突然と映画界に復帰した。しかしこれは、あまり成功したとは言えない。1988年に彼女はその世界を去っている。30歳を目前にしてそう決めたのであろう。

ビージーズ 25

 90年代はフランスに在住し、3人の子供がいる。94年、99年に日本のテレビの取材を受けて、99年には共演者のマーク・レスターとも顔を合わせていた。

 さて、その後の後方を追ってみると、彼女は現在、英国のロンドン郊外のサリーのペットショップで仕事をしていた。そのサイトには、彼女の写真が写っていたが、黒い髪の女性がそのトレイシーであった。それは80年代の彼女の写真よりも、はるかに今のほうが魅力的なのだ。

                              ビージーズ 21

 その店は、どうやら彼女の実家で経営しているもののようで、トレイシーはTracy(Manager)と紹介されている。銀幕を去れば地味といえば地味なのであるが、彼女にとって、今はとても幸せなのかもしれない。もはや彼女が芸能界の一線で活躍することはないであろうが、マーク・レスターは最近芸能界に復帰したようだ。彼女もまた再び、特別出演くらいはしてもいいのかもしれない。彼女は2012年現在、53歳となった。その表情は、2010年の日本のテレビ番組出演時よりも、さらに若くチャーミングに映る。

ビージーズ 22  ビージーズ 17 ビージーズ 14

小さな恋のメロディ

監督:ワリス・フセイン 
製作総指揮:
製作:デヴィッド・パットナム、デヴィッド・ヘミングス
脚本:アラン・パーカー
主演:マーク・レスター
共演:トレイシー・ハイド、ジャック・ワイルド、シェイラ・スティーフェル
原作:アラン・パーカー
音楽:ビー・ジーズ、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング
イギリス 1971年 103分

ライン水色 gif

ストーリー

 少年軍の帰り、ダニエル・ラティマー(M・レスター)を迎えに来た母親(S・スティーフェル)の車に勝手に乗り込んだのがトム・オーンショー(J・ワイルド)だった。

 二人は同級生。イギリス国教のコチコチ神父が校長(J・カズンス)の学校だが、生徒はのびのびとし、彼らの世界は生き生きとしていた。

 オーンショーは中でもガキ大将である。ダニエルは気の弱い美少年だが、なぜか気の合う二人は学校の帰りバスに乗って繁華街に遊びに行き、街中駈けめぐって楽しい時を通した。二人は互いに心の友を持ち合った気がした。

 夕方、遊びに夢中で遅くなったと気づいた時、ダニエルは料金が高いタクシーを呼び止めトムもやむなく乗った。金持ちの家に育ったダニエルに、トムは嫉妬を感じるが、ダニエルにはよく呑み込めない。

 ある日、学校で女子生徒がバレエの練習をしているのをのぞき見して見つかるが、その中に素敵な女の子を発見し、ダニエルは魅せられてしまう。

 それ以来、ダニエルは勉強も手につかず、おまけに運動会では、彼女の顔を思い浮べ夢中に走って一等になってしまったりの毎日が続いた。

 彼女の名はメロディ(T・ハイド)。
 ダニエルはいつもメロディの後からついて歩いていき、メロディも友達からダニエルの恋心を知らされ、次第にダニエルの優しさに魅かれて・・・。

 これは実に41年前の映画である。

 この映画は日本の中で、恋愛映画という立ち位置を築いた。いや、それ以上のインパクトのある純愛映画としての金字塔を打ち立てた。

ビージーズ 26

In the morning :Bee Gees


 映画は、ビー・ジーズの「イン・ザ・モーニング」を、街の背景に流しながら朝が訪れるシーンから始まる。

 このオープニングの、早朝のロンドンが実にがいい。

ビージーズ 8ビージーズ 18


Melody fair-Bee Gees


ビージーズ 24

 この「小さな恋のメロディ」に限っては、どの年齢になっても、まだまだ感動できるところがまったく不思議な作品である。メロディが金魚を泳がす水飲み場の場面、ここには絶対に行ってみよう!とつい思いたくなる。

 メロディ・フェアの曲もじつにいい。

 そこで一度、アラン・パーカーの著書を片手に、その場所を訪ねてみることにした。

 ビッグベンの前にあるウエストミンスター橋をまっすぐウォータールー駅へ向かって歩く。

ビージーズ 27
 この辺り、道があちこちに分かれていて、やや不安にかられながら歩くことになるが、Kennington Road を真っ直ぐに歩けば、ほどなくLambeth Road と交差する。

 するとその角に、彼のメロディが金魚を泳がせた、たしかロケ当時は家畜の水飲み場みたいな水槽のようなものがあったのだが、現在は、花壇になっていた。

ビージーズ 28

 花壇から・・・もう少し先を歩けば、メロディがお父さんに小遣いをもらいに行ったパブのある界隈なのである。


楽しく快適に書籍を選ぶのなら下記の書籍検索サイト!!・・・新しシステムは必見!!クリックを。
ライン水色 gif

クリック・ボタン gif  新書・文庫本マニア   動く本

ライン水色 gif


ビージーズ 9 ロビン

 2012年5月20日、ビージーズのロビン・ギブが他界。

 ロビン・ギブは癌に冒された上に肺炎を併発、こん睡状態に陥っていたが、一度は奇跡的に意識を取り戻したものの、日曜日(5月20日)に亡くなった。62歳だった。

 そのロビンは1958年、兄バリー、双子の弟モーリスとともにビージーズを結成。「Stayin' Alive」「How Deep Is Your Love」「Night Fever」など数々の大ヒットを生み出してきた。2004年には英王室より勲章(CBE)を授かっている。

 「最高の白人ソウル・シンガーの1人」と称されたロビンの死には、ブライアン・アダムス、フリートウッド・マックのスティビー・ニックス、ジャスティン・ティンバーレイクなど数多くのアーティストから追悼の言葉が上げられた。

 あの、メランコリックな美しい歌声の新譜をもう聴けないと思うと非常に残念である。

Bee Gees - How Deep Is Your Love
愛はきらめきの中に






プロフィール

三馬漱太郎

Author:三馬漱太郎
Welcome to Ron「漱」World
Sotarou Miuma
立体言語学博士
Social Language Academy Adviser
応用社会言語科学研究員

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。