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書籍の森・・・『夏目漱石』・・・本日8月31日は二百十日。

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夏目漱石の著書 18 夏目漱石3

今日は二百十日である。野分である。

夏目16

 立春から数えて二百十日目、昔はこの日は台風が多いとされ、一説には、江戸中期の天文学者安井春海が暦にのせはじめたといわれているが、実際には、それ以前の暦にものっていた。

 ちょうど、このころは稲の開花期にあたり、強い風が吹くと花粉が散り、実りが悪くなることから、二百十日を一つの目安として警戒をうながしていたようだ。

 そのため、風鎮めの儀式や祭事を行って、農業や漁業、生活の安全などを祈る。伝統芸能として注目されている富山県ハ尾町の「風の盆」踊りも、この行事の一つである。

夏目18

 古来、台風を〈正確には台風をともなう暴風〉「野分け」といい、秋の季語にもなってる。

 したがって今日は、その季節の移り変わりの目安となる「季節点」のひとつとなる。

夏目15

 ぶらりと両手を垂げたまま、圭さんがどこからか帰って来る。
「どこへ行ったね」
「ちょっと、町を歩行いて来た」
「何か観るものがあるかい」
「寺が一軒あった」
「それから」
「銀杏の樹が一本、門前にあった」
「それから」
「銀杏の樹から本堂まで、一丁半ばかり、石が敷き詰めてあった。非常に細長い寺だった」
「這入って見たかい」
「やめて来た」
「そのほかに何もないかね」
「別段何もない。いったい、寺と云うものは大概の村にはあるね、君」
「そうさ、人間の死ぬ所には必ずあるはずじゃないか」


・・・・・これは夏目漱石の『二百十日』の冒頭である。

 『二百十日』は、阿蘇の温泉場旅行に来た豆腐屋の圭さんと友人の碌さんの軽妙なやり取りを描く。華族や金持ちが跋扈する世の中に憤慨する圭さんは二言目には「革命を起こさなければいかん」と言い吠えている。
 引きずられるように話を合わせる碌さんだが実のところそこまで強くは思っていない。その温度差が滑稽である。
 雄大な裾野が広がる阿蘇の景色や時間が止まったかのような湯治場の旅館、外の世界を知らないおっとりとした女中、全ての時間がゆったりと流れている。『草枕』と同様に非人情な世界を憂う青年が主人公なのだが、本書の場合はユーモア溢れる、どこか珍道中のような感じの作品となっている。漱石の旧制五高赴任時代を想起させる飄逸な雰囲気がいい。

 他方の『野分』は打って変わってずいぶん烈しい。主な登場人物は、高尚な理念を持つものの売れない文学者の白井道也、学卒後に文学を志すが貧しい生活を送る高柳周作、そして高柳の友人で新進の文学者ともてはやされている富豪の中野輝一などだ。
 明治維新から40年余りが経ち、日本は物質的には徐々に近代社会の仲間入りを果たしつつあったが、精神的な面では相も変わらず金持ち層や権威ある華族が優先される付属物重視の不公正な社会だった。
 そんな人間の上っ面だけを見て人格を重んじようとしない社会的風潮や時勢に流されてばかりの未熟な文壇に対して漱石は烈しい憤りを見せる。

夏目漱石の内坪井旧居・熊本

 明治29年(1896年)、第五高等学校(現・熊本大学)の教師として着任した夏目漱石。熊本滞在期間中に6回も転居した中の5番目に移り住んだのがこの家である。現在は記念館と­して公開されている内部には、貴重な漱石直筆の原稿やレプリカ原稿、五高時代の写真などを展示。和室の一室には漱石や猫のからくり人形もあり、訪れる人を楽しませてくれる。『二百十日』を執る旅も漱石はこの内坪井の住居から出立した。

夜の列車

 近代日本文学の代表的な作家は誰かと日本人に聞いたとしよう。

 個人的な好き嫌いは別として、十人中九人が夏目漱石の名をあげるだろう。

 もし漱石を近代日本文学から切り離して論ずるのが困難だとすれば、彼なしに日本文学史を語ることは不可能と言ってもよいだろう。

夏目漱石

 事実、漱石は近代文学史上最も重要な作家の一人であるばかりでなく、真に「国家的な」作家の一人として広く受け入れられている。しかし、日本では彼の作品は近代の古典としてすぐれた評価を受けているが、海外では彼の作品と名前は一握りの専門家たちにしか知られていない。実際、彼の作品は様々な西洋の言葉に翻訳されてはいるが、批評家たちから賞賛を受けたり、多くの読者を獲得するという状態にはいまだ至っていない。

 とくに漱石より新しい日本の作家たちが、外国で多くの読者を得たり、好意的な批評を受けているこの時代にあって、日本での漱石の揺るぎない地位を考えると、この状況は確かにおかしな現象である。これは、よく指摘されるように、漱石の作品が翻訳によってそのよさが大いに損なわれるといった種類の作品だからだろうか。

 漱太郎は漱石について常常そのことを考えているのであるが、ことさら今日が野分でもあるのだから、とそう思い改めれば、今日ここに漱石の著本をご紹介するのも、近代日本文学の「二百十日」あるいは「野分」としての意義付けとしての、ある種の区切りと仕切りを祈念したく考えたからである。

 そこで漱石の『二百十日』と『野分』について・・・・、

夏目漱石の著書 19

 小説「二百十日」は火山、阿蘇山を測量しようとしている二人の男を主人公としている。一人はある責任感にとらわれていて、もう一人は奔放。一人はつねに戦う姿勢で、もう一人は超然、無関心。小説の終わりの方になってやっと、この小説のテーマが明らかにされる。

 『我々が世の中に生活している第一の目的は、』と、戦う男が語り始める。『こういう文明の怪獣を打ち殺して、金も力もない、平民にいくぶんでも安慰を与えるのにあるだろう。』この点で二人は意見の一致を見る。そして、「二百十日」が訪れる直前、『轟々と百年の不平を限りなき碧空に吐き出している』火山に登っていく。

 漱石は二人の主人公について、現代の若者がたどるべき二つの異なる道を象徴していると言っている。

 「二百十日」の二カ月後に発表された「野分」は、「二百十日」で扱われたテーマを思想的な限界にまで発展させたものだ。

 登場人物の二人の文学青年のうち一人はすでに金を手にして生活を楽しんでいるが、もう一人はいまだ生活に窮々としている。

 この二人のあいだの、あまり確かでない友情が、この短編のわき筋になっていて、真の主人公の登場の先触れをする。

 主人公は以前教師をしていて、今は人間の特質について挑発的なエッセイを書いている。理解のない妻と俗物の弟の二人がその原稿をだめにしようと計る一方で、主人公は「現代の若者に告ぐ」と題されたスピーチをする。

 このスピーチのタイトルは、漱石が最初、この小説の題にしようと考えていたタイトルでもある。

 物語のクライマックスで、主人公は明治時代の若いインテリたちに向かって、権力者と金持ちの腐敗した手から世界を取り戻すために、理想を掲げ、リーダーシップを発揮せよと促す。物語の終わりはあっけなく、貧困にあえぐ若者の方が、成功した友人がくれた金でその原稿を買い、この野心的なエッセイを完成しようと決心するところで終わる。

 この文学青年はかつて級友らとともに主人公たるこの教師を学校から追いだしたことがあり、その昔の愚行を償うつもりでそんなことをするのだ。

 「野分」は苦沙弥の世界と金田の世界との衝突をさらに強調したものだと言える。

 この二つの作品の違いは、「野分」では、インテリのリーダーたちが金持ちの俗物たちと戦う際に力を結集しようとしない点だ。主人公に関して言うなら、「野分」の主人公は「坊っちゃん」に近い。ただし、坊っちゃんのように荒削りの正義を無意識に愛する人物としてではなく、社会的な正義のために戦うことを自分の義務と感じている知識人として表されている。

 この点では、イプセンの描く主人公、とくにドクター・ストックマンに似ている。(漱石は責任への拘束の文学をイプセネスクと命名している。)漱石は、どんどん増加する社会的不正に対する主人公の憤りを真面目にとらえている。

 また、知識人が自らの責任に目覚めることを強調している点でも大真面目だ。この主人公がイプセンの主人公同様ドンキホーテ的に見えたとしても、この話のおもしろさを損なっているのは今指摘したような真面目さのせいでも、漱石が知性のFと呼ぶところの文学の要素(四つのFのうち最も弱いもの)に強調を置きすぎたためでもない。この小説の失敗の原因は、テーマをドラマ化せずに一般化してしまったところにある。

 漱石は以前に、知的な幅を持っている芸術家は人生の両極を同時に包括することができなければならないと言っている。「野分」において、漱石はその一端しかとらえていない。さらに言うなら、この物語は実験のレベルを越えておらず、漱石の作品の中で最も生のままの作品の一つ、従って最も成功しなかった「風潮文学(Tendenz novel)」の一つにとどまっている。

夏目漱石の著書 1

夏目漱石の著書 2 夏目漱石の著書 3

 夏目漱石の遺した作品の数は膨大である。皆さんはそれをよくご存知でもある。

 であるならば、それらの優れた作品が、もし正しく理解されるならば、漱石の作品は世界文学の中に確固たる地位を占めることができるだろう。

 読者の中には、この正しい理解のためには、伝記的な研究が論理的で適切なアプローチだと思う人も多いかもしれない。しかし、漱太郎は現状を考慮した上で、もう少し違うアプローチをとることにした。そう常常考えることにしている。

 日本には漱石に関してすでに多くの、おそらくは多すぎるほどの伝記的研究書がある。内容については賛否両論があるにせよ、漱石研究者にとって必読の、小宮教授による三巻におよぶ権威ある研究書もそのうちの一つだ。

 だから、少なくとも漱太郎にとっては、この研究書の山にもう一冊伝記を積み重ねたところでまったく意味のないことに思えるのだ。漱太郎が伝記的アプローチを避けた理由はこれだけではない。
 もう一つの理由は、漱石が遅咲きの作家で、作品のすべてが彼の生涯の最後の十年間に生み出されたという事実にある。小宮教授の研究書で漱石の作家活動に関する記述が出てくるのは、やっと第二巻の中程になってからだ。三つ目の理由は、漱石はもとより、日本近代文学の複雑な状況に詳しくない西洋の読者には、日本人にあたりまえの知識もないものと考えるのが妥当だということだ。いろいろ考えた末、漱太郎は次のような順序で今日のお話を進め漱石の諸本をご紹介することにした。

 より海外に漱石文学を広げるためには、より日本人の多くに改めて夏目漱石の本質を捉えていただきたいと思う。そこが野分だと考える。

 その野分を前にして・・・、

 まず明治の文学と漱石が小説家としてデビューするまでの経歴を説明する。これらの説明に日本人がまずもって選別をつける。日本人の漱石ファンがより熱心に、そうすれば海外の読者は、漱石が生きていた時代の知的・文化的背景に関してある程度の知識を持つことになる。

 次は、ほぼ年代順に作品を並べて、必要に応じて作品のテーマと構成上の展開に即して作品を分類してみることである。さらに、それぞれの分類の枠内で、まず個々の作品をそれまでに書かれた作品と関連づけてとらえ、その次に内容を要約し、最後にテーマと手法を論じるといい。またそうして、最後の結論のくくりは、漱石の業績の意味を考えながら、彼の芸術活動を彼の人生と関連づけて考察し、日本と世界の文学の中での彼の位置を決定することを試みてみてはいかがだろうか。

 近代日本文学作家の中で漱石ほど多くの研究書の出ている作家はほかにはいない。すでに彼に関する書籍の図書館ができているほどだ。それに加え、毎年新しい本が出る。その理由の一つは、漱石がたくさんの側面を持っていることだ。長編小説家である上に、短編や小品も書き、多くの手紙・日記、そのほか細々した短文を残し、さらに話上手な講演家でもあった。

 さらに、随筆も書き、批評家、俳人、絵描き、そして立派な学者でもあった。(最近発行された岩波版漱石全集は三十六巻からなる。)現在の研究家たちは、漱石をもっぱら小説家としてあつかっているが、その理由の一つは、漱石自身がそう見なされたいと望んだことだ。
 もう一つの理由は、たくさんの才能を持っていた漱石が、個々の才能に引きずられて支離滅裂になることなく、自分のすべての才能を一点に集中させることができたのは小説においてであったことだ。そういうことを前提として、今日の野分の、そのために、本日は漱石の小説に焦点をあてた。

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夏目漱石の著書 6

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 そこには近代日本で最初のプロの小説家として、漱石のデビューが遅かったことの意味を、もう少し深めねばならない。漱石は小説家としてデビューする前、もしかすると全く別の人生を送ることになったかもしれない数々の紆余屈折を経験している。

 つまり、そうしたければ才能あふれる俳人にも、卓越した研究者にも、あるいは偉大な好事家にすらなれたかもしれないのだ。しかし、そのような選択の余地があったにもかかわらず、また彼の個人的な好みから言えば別の道をとりたかったに違いないのに、それらの中で最も厳しい、しかし一番価値のある道、すなわち明治の日本におけるプロの小説家という道を彼は選んだ。

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 この決心が、どうやら日本文学の発展への彼の貢献の意味するところとなろう。日本の小説の芸術としての成長を助け、それに知的下地を与えたのは漱石だった。

 またそこが近代日本と東洋の創造的精神に与えた西洋文学の影響の典型的な例としての漱石の意味するところでもある。あの日本文学史上特別な時代に、小説家という不安定な職業に就くために、将来の約束された大学での学究生活を振り捨てた漱石は、日本で最も偉大な英文学の学生だったと言えるのではないか。漱石の選択を残念に思う向きもあるようだが、彼は学究生活中も奨学金のほとんどすべてを、自分の芸術的才能を豊かにするために使うことができたという事実を、日本人は忘れてはならない。

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 日本(一般的に言うなら東洋)と西洋との豊かな結合のシンボル的な芸術を生み出した漱石は、自分の頭は半分日本人で半分西洋人であると自ら述べている。西洋文学の背景がなければ、漱石の芸術は今あるものとは全く違ったものになっていたことだろう。「夏目の作品はいまだに日本人を楽しませている。それは主に彼の美しい文体に負うところが多いが、西洋の読者は、夏目が生み出す東洋的な静けさが、読者の心を奪うだけの充分な力を持たないと感じるかもしれない」と思うのである。

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 この数年間の増大する東洋と西洋の間の相互理解のバランスは、圧倒的に日本側に傾いている。つまり、日本文化のさまざまな側面を学術的に、あるいは大衆レベルで研究、紹介することが盛んに行われている。これは、社会科学者たちにとって日本が取り尽くせない狩猟の地であることが明確になったためだ。

 しかし、どういう訳か文学の分野に関してはいまだ世界的な注目を浴びるに至っていない。最近になって、現代の日本人作家の翻訳作品が西洋の文学市場に数多く見られるようになったとは言え、誰の目にも明らかな根本的な欠陥が正されるまででさえ、まだかなりの時間がかかるだろう。

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 その欠陥の一つは、文学がごく少数の専門家の手によって生み出されているという現状だ。彼らの手から文学を取り戻さなくてはいけない。いかなる国の文学でも、本質的には全世界の一部に資するのだから、それをまるで異国の珍しい風景のように扱うことは間違っている。

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夏目漱石と「行人」


東京・飯田橋にある東京大神宮は、夏目漱石の『行人』に­登場する。

 文学はなによりもまず、人種的・国家的・文化的境界のない芸術として扱わなければならない。外国の文学がそのような扱いを受けるようになるのはまだずっと先のことだろう。今のところは、幾分かでも漱石の文学を世界の文学の一部とする助けとなればと願うのみだ。晩年近く、漱石は自分の作品をアメリカで出版しようとしていた友人の一人に次のように語っている。「悪いがアメリカ人に読まれたいと思う作品は一つもない」と。

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 そうであれば、漱石は彼の時代を先読みできていたし、深読みをして、その件は次代に送り後世に託したと思われる。そう思うと、現代の人々によってより漱石作品が愛され、そうした漱石の言葉が間違っていなかったことを後世の日本人が証明でき得たらと思う。益々の漱石ファンの日本人が益々増えることを期待したいのである。1916年12月9日没の夏目漱石祥月から今年で約96年が経過した。生誕年からは145年目となる。(合掌)


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夜の列車

夏目漱石の肉声で(草枕)を朗読

大正初期に夏目漱石が遺した演説録音資料から立体言語学工法で編集した肉声再現の漱石による朗読。

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書籍の森・・・『井上陽水の関連本』今日は陽水の誕生日。

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YOSUIを語れば見えてくる昭和時代。
井上陽水 14        井上陽水 5

本日30日は井上陽水の誕生日である。
64歳 シンガー・ソングライター、井上陽水(1948〜)
                     四半世紀に渡り日本の音楽シーンをリードする巨人である。

 15歳でビートルズの音に出逢ったという。

 そこから音楽に傾倒したという井上陽水は、1969年に「アンドレ・カンドレ」の名前でデビューする。

 しかし、その当時は残念ながらヒットには恵まれなかった。

 だが72年、井上陽水の名前で「人生が二度あれば」を発表し再デビューを果たすと、折からのフォークソングブームで一躍注目を集め「傘がない」・「夢の中へ」と次々にヒットを記録することになる。

 さらに1973年12月に発表されたアルバム『氷の世界』は74年から75年の2年に渡って年間売上ベストワンを達成し、日本音楽史上初のミリオンセラーアルバムとなった。
 心に深く響く独特な歌詞、甘く耽美的なメロディ、そして多彩なサウンドが詰まったこのアルバムは、幅広い世代に支持され、陽水の音楽はこの時すでに「フォーク」というジャンルを超えていたと言ってよい。

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 やがて70年代後半以降、フォークソングのブームが去り、多くのフォークシンガーたちが活動シーンの最前線から姿を消していった。
 しかしその中でも、井上陽水は「ジェラシー」、「リバーサイドホテル」などヒットを飛ばし続けた。また他のアーティストへの楽曲提供も積極的に行なっている。たとえば「飾りじゃないのよ涙は」の(中森明菜)、「ワインレッドの心」の(安全地帯:デビュー前に陽水のバックバンドを務めていた)、「アジアの純真」の(PUFFY)など、いずれもを大ヒットさせる。

井上陽水 22 奥田民生 陽水と民生

ありがとう Live 井上陽水・奥田民生



 1997年にリリースされた奥田民生との共作「ありがとう」のヒットも記憶に新しいところだ。目まぐるしく移り変わるミュージックシーンで四半世紀にも渡ってヒット曲を生み出している陽水は、まさに天才的なソングメーカーというべきであろう。

 しかしそんな陽水のテレビ主演は極めて少ない。

 ほとんど出演しないのだが「テレビは大好きです」と言う井上陽水がいる。
 ここが彼の一つの個性だ。
 きっと、彼の音楽が時代を超えて支持される秘密は、ちょっと離れたところから独自の視点で見つめる「観察者」のスタンスにあるのかもしれない。
 以前テレビのCMでクルマの窓から「お元気ですか?」と手を振っていた彼なのであるが、ここも彼が姿を露出させる微妙なポイント。そうであるから、やはり今もギターを片手にひょうひょうとした表情で世の中をのぞくかの、そんな印象を強く抱かせる。

井上陽水 4

 テレビ画面では露出度の低いそんな井上陽水が2009年8月、4夜連続でのテレビ特番に主演した。これはその3年前の「僕らの音楽」以来の出来事であった。
 正確には、単発のライブ映像などはあったかもしれないが、こういう特集、長いインタビュー番組に出演した記憶はあまりない。そのまことが珍しいから表情も鮮明であった。このテレビ放送が『LIFE 井上陽水~40年を語る』という番組である。

井上陽水 2

 その1夜目の冒頭、様々な人がコメントを寄せていて、友人の沢木耕太郎は、旅をしていて胸が痛くなるような感触を思い出す、と語っていた。
 後の番組放送でそれが、ドラマ版「深夜特急」('96~'98)の陽水テーマ曲「積み荷のない船」についてだったのだ、振り返ると判ったのだが、改めて、あの旅のことを「積み荷のない船」というのも、何だか言いえて妙で、面白いやりとりだと感心した記憶がある。
 その「深夜特急」文庫は各巻末に対談が載っていて、最後の6巻目の相手が井上陽水であった。

井上陽水 11

   深夜特急6 沢木耕太郎著 (新潮社)

 この中で小林聡美は「不気味でした、優しいんだか、怖いんだか」とのコメントをしているが、そういえば主演作「かもめ食堂」('05)のテーマ曲が、「クレイジーラブ」であった。陽水のテーマ曲と言えば、「夢の中へ」が「放課後」('73)であったりするのだが、やはり「ニューヨーク恋物語」('88)の「リバーサイドホテル」がいまだに鮮烈にある。小田和正は「同級生みたいな気がして、1人じゃ寂しいし、あいつも頑張ってるから、という気持は強い」というようコメントを披露している。

 折り良く番組を録画していたので、その表情を少し取り上げてみたい。陽水に関連する著書は多々あるのだが、それらと番組トークを重ね合わせると、昭和の時代が興味深く読みとれる。

井上陽水 16 沢木 沢木耕太郎

 手元には陽水の関連本もあったり、経歴も断片的には覚えもあるのだが、その番組はデビュー40周年を飾る特集番組であった。

 陽水は福岡の炭鉱町田川での少年時代、石炭輸出の見返り的に、意外と文化的にも豊かな土地、週替りに西部劇上映もあって、父は歯科医で、母はお洒落なモダンガール、その母は洋画ばかり見ていてゲイリー・クーパーが好きだった、というような背景を語っている。

 自身の音楽のルーツに関しては、美空ひばりや三橋美智也の歌謡曲、中学の頃ラジオを聴くようになって、「オンリー・ユー」、二ール・セダカ、コニー・フランシスなど経て、当時イギリスから彗星のごとく登場したビートルズのインパクトが大きく影響されたようである。
 確かそう聞かされた後年、陽水は山崎まさよしとスタジオで「Here There and Everywhere」を弾き語りで歌いその映像も見たのだが、この曲は、ラジオ番組で知ることになる。そのエミルー・ハリス版は今でも結構気に入っている。曲収録の「エリート・ホテル」('75)というアルバムも買ってみた。それを昨夜久方に、陽水バージョンで聞いてみて、どこか旋律に懐かしいものを感じた。

 その「エリート・ホテル」を薦めてくれたのが友人の脇田くんであった。

 彼は当時、こんなことを語った。

 先日「ぴあ」のはがきで応募しておいた、陽水40周年ツアーチケット2枚の当選通知が来たので、さっそくサンクスで決済してきた。先にあったユーミンと同じ東京国際フォーラム、座席はその時より10列後になっている。奥さんの石川セリのには行ったことがあるが、陽水のコンサートは初めてだ。それが11月半ば先、そう思えば渡米直前だったりして、やや忙しい時期と重なるのだが、今からこれを楽しみの1つにしたい。そう語る脇田くんは眼を輝かせていた。

 井上陽水は3浪の末歯科大進学を断念、高校の時に曲を作り初めていて、海老沢泰久著の「満月 空に満月」('95)にもあるエピソードだったりもするのだが、ラジオ局のディレクター野見山氏が、陽水が直接持ち込んだテープを聞いて、曲の新鮮さ、また何より、人の心に触れる何ともいいようのない哀愁の声、そうであったと感嘆する。

 彼は「アンドレ・カンドレ」としてデビューした。でもこの時代の曲は当時の若者の耳には馴染にならないみたいだった。そこには洋楽ファンも意識し、音楽性の高さが売りだった、とのことで、学生運動が盛んな風潮にはこれが合わず、音楽界の1大イベントだった中津川フォークジャンボリーにも呼ばれずで、という低迷期の中で過ごしている。

 当時の主流シンガーに故高田渡などの名もあるのだが、本人は「アメリカのフォークソングやブルースが好きで音楽を始めた人達が多く、これは皆本物だと思ったし、自分はただビートルズが好きで、そういうものは知らなかったし、自分は浮いていたと思う。レコード会社からもリストラされるかも、と言われた」などと苦笑しながら低迷の期間を回顧している。

 小室等が「そもそもアンドレ・カンドレ、という名からして、自分が面白がる、その程度で受けるだろう、と人を見くびっていたし、小さくまとまっていた」などと語っていたり、当時のマネージャー川瀬氏は「反戦歌・メッセージソング主流の中、陽水のはラブソングが多かったりして、でもそれがポップな感じがした」と言ってたりしたのだが、そうしているうちに、よしだたくろうがブレイクした。

井上陽水 12

『満月の空に満月』海老沢泰久著 (文藝春秋)

 改めてアフロヘアの「井上陽水」として、仕切り直し、というか、見方によっては、自分の才能を当時の風潮に見事に合わせてみせた才、とも思えるのだが、この人にとっては、故郷や親への思いを吐露、というテイストの「人生が二度あれば」など、”直球”を投げ始めたら、たちまちブレイク、という流れだったのだった、と改めてそんな彼を見渡し直すのはじつに面白い。つまり陽水は日本の高度経済成長期の、その渦中を渡るごとく歩いてきた。

 「陽水ライブ もどり道」('73)が初めて買った陽水のアルバムである。
 訥々とした語りなどがどこか懐かしい。
 今思えば「紙飛行機」「夏まつり」「たいくつ」など、ユーミン以前の子供時代のこの郷愁ルーツ、これは何というか「実のある豊穣な音楽」だった、などと改めて感じ入ったりするわけだ。

 シングル「心もよう」はB面「帰れない二人」だったのであるが、「帰れない・・」をA面に、という声が多く、当時陽水を”売ろう”としていたプロデューサー多賀氏だけが、歌謡曲調の「心もよう」を押していた、というのは、やや意外なエピソードでもある。

 その「帰れない・・」は、出演したテレビの2夜目に、故忌野清志郎とステージで歌う映像もあったが、当時の清志郎が「陽水は元々RCの前座で、可愛がっていたのに、あっという間に逆転されてしまった、三鷹のアパートで陽水がカレーを作ってくれたのが青春の思い出」などと笑いながら語っていて、「帰れない・・」は、そういう風に家を訪ねた時に「曲でも作ろうか」という話になって、曲が作られたという裏話となっている。

 1番を陽水が作り、清志郎が自宅に帰ってから2番を作って電話で歌詞を伝え、陽水が「清ちゃん、いいねぇ」などと、スタジオに詰めて、ではなくそういうざっくばらんな交流の内に出来たのだった。「氷の世界」ジャケットで陽水が抱えてるギターは、清志郎が貸したものだった、などという語り口は、これなどは意外に面白い裏エピソードではないか。

 逆に彼は清志郎について「”上質な人間”というか、大体そういう人は寡黙で、口先で適当な事は言わない、余りリップサービスはなく、むしろ何か言った時はドキツい、人間として誠意があるという感じで、年下のようだったけれど、精神的には上にいた人」などと回顧してたのがちょっとラッキーな印象的であった。

井上陽水 21

心もよう・・・陽水



 「心もよう」は、最初の奥さんへの思い絡みの曲、だったような記憶があり、黒いインクや青い便箋、今や携帯等で薄れた遠恋の切なさ、センチメンタル詰まった曲であった。でもこの曲では、スタッフからの詞の書き直し指示に彼は抵抗なく応じた、とのことである。

 「氷の世界」('73)のタイトル曲「氷の世界」では、意味不明だし直すように、と言われても、結局押し通し、親の言う事を突如聞かなくなった子供、と例えたりしていたが、やはり1曲目「あかずの踏切り」~ラスト「おやすみ」まで、何かそういう、才のほとばしる勢い+ナイーブな叙情性で突っ走り弾きつけられる、少し特異なアルバムだった、と思わせたりもする。歌詞カードも自筆だったか、「の」の左部分が大きかったりする独特の文字などは、当時誰も真似たりしない独特なモノであった。

 番組の1夜目ラストのライブ「傘がない」は、風潮的に、学生運動の理想が崩れ行く時代の無力感、のような見方もされるのだけれど、本人は、そういう意識はなく、たまたまその時代にいて作っただけ、というような旨のことを語っていて、これは当時そう好み、好感、という訳ではなかった曲ではあるが、何だか今改めて聞いて、心情の表れ方、というのか、やはり意外に新鮮な感覚である。

 その番組の2,3夜目は、80年代の曲と、様々な人々との交流エピソードで構成され、特に故阿佐田哲也(色川武大)との話が多く、陽水と共に同氏と交流あった、黒鉄ヒロシ、沢木耕太郎、伊集院静、また「青空ふたり旅」対談の五木寛之なども、阿佐田の陽水への影響、に触れていた。

井上陽水 13

『俺の井上陽水』 富澤一誠著(旺文社)                                                                                  
 「氷の世界」で大ブレイク。その多忙の渦でメンタル的混乱もありつつ走っていたのが、'77年大麻事件という形で破綻する。テレビ番組では無論というか、そこには一切触れていないが、富澤一誠が「俺の井上陽水」('83)で、当時、陽水が貝のように口を閉ざしたのは、元々口で弁解するような男じゃないし、言葉の空しさ、を知っていて、「やってなぜ悪い」と開き直ってみても、自分の存在証明にはならないし、いいアルバムを作っていくしかない、と思ったのだろう、などと書いている。  

 思えば当時のネームバリューや、ミュージシャンという立場で、「マリファナが何故悪い」、と開き直る、という振る舞いも有り得て、ある部分では容認される向きもあったかもしれないが(薬物絡みの犯罪の可能性、的にはそういう容認は問題外でも)、あえてその件は、汚点は汚点として弁明なく封印、という所が、清志郎を評して言っていた、誠意、という部分なのか。そう聞けば、陽水とは、この人なりの著名人にしては奥ゆかしさという所かもしれない、と改めて思ったりする不思議さを感じさせたりもする。

 そういう波乱のあった後、30代になって、麻雀を介して阿佐田に接触、同氏の突如眠気に襲われる病気もあって、傍らの寿司をおもむろに牌のように麻雀台に置いたり、というような、まことしやかな逸話も語っていたのだが、実・虚の境目が判らない、そのような独特のモード、というものに感応する所があったようで、漱太郎は同氏の著作は未読で名を知るだけである。

井上陽水 6

 沢木耕太郎は、阿佐田が陽水に、若い内に成功、という事は「世間を知らないままに、という部分もあるかもしれないけれど、もう少し肯定的に捉えて、ヒット1本は打っているのだから、残りの人生が三振でも打率2割5分で、いいじゃないか、でも打席には立たなきゃダメだけれど」というような話をして、そういう感覚が、生きていく上で、陽水にある種の”緩さ”を与えてくれたんじゃないか、というように語っていたりするわけだ。

 伊集院静が、阿佐田と陽水に共通しているのは、西洋人にはない、日本人の、ものを創る、という事に対する「含羞(はじらい)」の感覚で、それは持って生まれたもの、などと語っていたのも、何処か印象的であった。その他、吉行淳之介などからも、大人の男の嗜み、的なものを感じ取ったりもする。

 そういう、陽水の感性への包容力があった、とも言える無頼派作家陣からの影響、また、歌詞については、やはり意味が通じなくてもいいのじゃないか、と思えるようになった、とのことで、80年代のアダルトテイストな曲は、「ジェラシー」「リバーサイドホテル」「とまどうペリカン」など、改めて、脈絡的には意味不明の歌詞部分も多く感じるが、それでもメロディにのって、ドラマティックに展開しているような印象を受けるのは、彼の言葉の選び方の才、また聞かせてしまう歌唱力、というこの人独特の世界、とも思えるのである。

 若手ミュージシャンとの交流エピソードもあった。そこで流れた陽水曲カバーの中で一番インパクトを示したのは、一青窈の「ジェラシー」、これは高橋真梨子の「ワインレッド・・」に次ぐハマり具合だと感じた。一青窈は陽水を「サングラスをかけた面白いおじさん」と言っていて、当初互いに近付きにくかったけれど、北海道のライブで共演して、食事の時カニをさばいてくれたりして、優しさを感じた、と言っている。

 平原綾香の「心もよう」は特に可も不可も、であったが、陽水とはメル友で、意外というか絵文字が多い、と言う。それと持田香織の「いつのまにか少女は」について、ウェブ検索中カバーアルバム目次で見かけて、本人が選んだとしたら、これはかなり渋い選曲だ、そう思って、これは「放課後」('73)の挿入曲でもあったりするのだが、初期のモノとしては結構好きな曲(「いつのまにか少女は」)だし、何だかどうしても軽味になっていきそうで、余りあえて持田カバーは聞きたくない、そんな気がした。

 それは番組共演の時、持田香織はカバーするなら「少年時代」、と希望したのに対して、陽水が、「少年・・」もいいけれど、これがいいかもしれない、と勧めたのだった、という流れだったのだが、その時の、陽水のギターの傍らで歌っている持田香織の声を映像で聞いて、陽水直々の選曲、という意識もあってか、それなりにピュアな味わいがある、とも感じとれた。ここも陽水の不思議なところである。

井上陽水 19

 「いつのまにか・・」と言えばやはり「放課後」関連で「夢の中へ」を連想、前に一度「放課後」がDVD化、と聞いていたのを思い出し、近隣店に問い合わせてみましたが在庫が切れていた。出演1夜目に、シングル「夢の中へ」がヒット、女性誌のチャートの2位に載っている、と陽水が結構喜んでいた、と安田裕美が回顧していたが、これもノスタルジーな陽水の曲だ。

 「探すのをやめた時、見つかることもよくある話で」なんて、ポップをまとった核心、という感じで、これは斉藤由貴カバーなどもあったりする。そう思うこの機に、収録テープ置き場で陽水のを見てみたら「招待状のないショー」「2色の独楽」「NEGATIVE」「9.5カラット」発見、「陽水ライブ もどり道」「氷の世界」等も録音はあったはずであるが、見当たらない。そこで久方に「招待状・・」をかけてみたりした。

井上陽水 23

『綺麗ごと』井上陽水著 (集英社)

 「9.5カラット」('84)でのセルフカバーの「飾りじゃないのよ涙は」については、前に自身のエッセイ本「綺麗ごと」('85)や「月カド」特集等でも本人が同様なことを書いているのだが、中森明菜は「少女A」での素人っぽくない動き、振り付けが気に入って、そこが気になっていた、とか、当時恋人だった石川セリが家に来た時、曲はすぐに出来るものだ、と威張りたかった、というか驚かせたくて、30分位で「ダンス・・」を創ってプレゼントした、などと回顧したりする。「ワインレッド・・」に詞を提供した、玉置浩二と「夏の終わりのハーモニー」を歌うシーンもあって、これは曲:玉置、詞:陽水曲であった。

 じつは「9.5カラット」には、唯一の陽水・ユーミン共作曲「TRANSIT」があって、これはユーミンが歌った訳ではなかったし、と「月カド」を見直したら、つい忘れてたのかもしれないのだが小林麻美への提供曲であった。

井上陽水 7 陽水とユーミン

 陽水の曲に、後でユーミンが詞をつけたようで、コメントで、それはすごく難しいけれど、彼女の詞を見ると、やっぱり立派だなぁって思ったね、ちゃんと詞になってるっていうか、などと著書には書かれている。陽水とユーミンの接点と言えば、浮かぶのは、この曲だと、やはり、以前「SONGS 石川セリ」で触れて感じた、この夫婦の出会いになった林良雄パックインミュージック、陽水・拓郎・ユーミン・セリ共演で、事件での破綻後の作家陣との交流とは別に、この時の石川セリとの遭遇、というのも後で思えば節目になった、などと思えるではないか。

 なんとも3夜目は広い縁側のセットで、リリー・フランキーと話しながらの映像を交えて、その進行中で、陽水のTV好き、というのは確かに一度聞き覚えあって、「てなもんや三度笠」などの思い出の番組が流れていて、藤田まことの「当たり前田のクラッカー」の決まり文句などを、笑いながら回想していたりした。

 そこでは、世の中で一番尊い仕事は、人を笑わせることだし、自分の曲を聞いて、しみじみ感動される、というより笑ってくれた方が嬉しい、などと語り、思わず、というのか、スタッフの「本当ですか?」という声が入ってきたりしたが、とんねるずの番組に、アフロヘアかつらで出演、「傘がない」の冒頭を歌って、「暗い!」と石橋貴明に頭を叩かれていたり、というような、大御所的には似合わない出演シーンは、やや意外な場面でもあるが、そこのギャップも彼らしい個性表現なのであろう。

 影響受けた映画という話題では、幼い頃親に連れられて行った映画館での、ヒッチコックや小津作品「秋刀魚の味」('62)を挙げていて、「ダイヤルMを廻せ」のシーンが流れ、ヒッチコックは完成度が高く好きな監督で、「秋刀魚・・」は、劇中父親達が娘の嫁入り談義をしているのが、子供の頃は意味不明だったけれど、やはり自身2人娘の父となって、という部分もあってか、後年見ると、素晴らしいねぇ、と語るのである。

 また、伊丹作品「お葬式」('84)に郵便配達人役で出演していた、というのは、どうもその配達シーンが流れても、劇中具体的には思い出せない彼である。「ぐるりのこと。」で評価されたリリー・フランキーに、カメラの前で、はいスタート、と演技が出来る、というのはどういうことか?心構えを教えてほしい位で、自分だとどんな短い科白でも、不自然になる、などと苦笑して、それは謙遜か結構本音なのかは判らないのだが、アンドレ・カンドレ時代に1本出演以外では、その「お葬式」でのチョイ役が、唯一俳優として出演した作品であった。

 陽水は、伊丹十三監督は、伊丹万作監督の息子として注目していて、そのデビュー作で、タイトルからして興味持って、自ら出演を希望したそうであるのだが、そう言えばたしか小田和正も、伊丹作品には心酔、という内容が「クリスマスの約束」のエピソード内でも表していた。

 また、「少年時代」が、原作漫画版の藤子不二雄Aの依頼からであって、同名映画篠田正浩監督の「少年時代」('90)テーマ曲として創った曲だった、というのは初耳で、ややスランプ期、ストレートな題材に苦心して、4週間家に帰らずスタジオに篭って創った、とのことであったが、この曲は今感じ直してみると、ユーミンの「春よ来い」のように、何と言うか、王道的名曲すぎ、という感で、そう引っ掛かってくる訳なのであるのだが、2人の少年の、列車での別れのシーンの背景に流れている場面を抱きながら聞いて、改めて、この曲の持つ、力、瑞々しさが香り立つようである。

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『青空ふたり旅』五木寛之と井上陽水の共書 (角川書店)

 これは井上陽水 27歳、五木寛之 43歳、1976年夏の対談本である。
はじめは遠慮気味だった陽水が、五木寛之のペースに次第に乗せられていく。ここがじつに可笑しみのある、あるいは味がある。

井上陽水 17 五木 五木寛之
 
 当時、井上陽水といえば、彼が「大麻」で逮捕され(1977年)、世間からひどく責められたことがあった。そうしてゴメンナサイをした陽水に対して、心ない人々は、やれ権力に屈したとかなんとか、ひどいことを言った。だが、これについて五木寛之が書いていた。

 井上陽水が幸徳秋水の血筋だということにふれ、陽水が警察という国家権力をまのあたりにしたとき、その怖さを、身をもって感じたはずだ。誰も彼を責めることはできない。 ・・・と。確かに作者がこのように書けた寛容な時代もあった。リアルである。

 陽水の夏の曲というと「Summer」が個人的には好印象なのだが、ギターを抱えて歌っていたセンチメンタルな「夏まつり」などからは、「少年時代」は、歌詞に「夏まつり」は出てきても、ある種安定した大人の懐、という風に曲調も変化する。出演番組中では、スガシカオが歌うシーンがあった。

 3夜目ラストに歌っていた「海へ来なさい」も、聞いたのは久方、元々割と癖なく穏やかテイスト曲、という印象をもつが、マイベスト陽水曲、初期の、寂寥感傷漂う「冷たい部屋の世界地図」など思えば、同じ海を舞台にした作品でも、これは聞いて、開けた包容力、のような新鮮な感触がある。

 このようにして「LIFE 井上陽水~40年を語る」を語り継げば、陽水に関係する多数の書籍らは昭和歌謡の歴史でもある。それらは書籍らが望ますとも、陽水の周辺にいた人々がそう語りかけるのである。たしかにかにその書籍の一つ一つは単品で企画されたのであるが、それらが連続して繋がってくるところが井上陽水という男の存在感なのであろう。これらを合せ読むと、井上陽水が昭和とう時代を、そこで生きた多様な周囲の人々を、引き連れてやってくる。またそこに彼のファンも曲とともに・・・・・。

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井上陽水 10

『あなたがいる場所』沢木耕太郎著(新潮社)

 この本は直接には陽水とは関係が無い。だが陽水の生きた時代への沢木からのメッセージでもある。時代の風俗と重ね合わせることで、また井上陽水も浮き上がる一冊である。

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井上陽水 1     音譜 gif  1

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帰れない二人 / 井上陽水&安全地帯


書籍の森・・・大和青垣の曙を奏でる一冊・・・『飛鳥の木簡』

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ふくろうF


豊かな繁栄の現代であるからこそ

日本国の礎を省みたいものである。

豊穣で便利な現代社会の陰影には

手間暇惜しまない考古学者らの活躍がある。

彼らが日本の辿りし道を解き明かすとき

人々はまた未来を拓くのである。

今日の一冊はその新玉の賜物であろう。

その地道な静けさに祝杯を捧げたくなる。


飛鳥の木簡 古代史の新たな解明 6

 それがこの著書・・・、

飛鳥の木簡 古代史の新たな解明 1

飛鳥の木簡 古代史の新たな解明
市大樹/著  中央公論新社(2012年6月)

 かつて日本古代史は、『日本書紀』『古事記』や中国の史書に頼らざるを得なかった。

 だが一九九〇年代後半以降、三万点以上に及ぶ飛鳥時代の木簡の出土が相次ぎ、新たな解明が進み始める。

 本書は、大化改新、中国・朝鮮半島との関係、藤原京造営、そして律令制の成立時期など、日本最古の木簡から新たに浮かび上がった史実、「郡評論争」など文献史料をめぐる議論の決着など、木簡解読によって書き替えられた歴史を描くのである。

飛鳥の木簡 古代史の新たな解明 3

序章 一三〇〇年の時を超えて

第1章 日本最古の木簡(紀年銘木簡から探る;考古学的見地から探る;日本における木簡使用の始まり)

第2章 大化改新はあったのか(「乙丑年」荷札木簡の衝撃;荷札木簡からみた「国―評―五十戸」制)

第3章 天武天皇と持統天皇の王宮(日本最古の暦;石神遺跡の性格;飛鳥浄御原宮の姿)

第4章 飛鳥の総合工房(富本銭を鋳造した攻防;飛鳥池工房の性格)

第5章 飛鳥寺の多彩な活動―日本最古の寺院の姿(飛鳥寺と道昭;宗教・医療・経済活動)

第6章 藤原京の誕生(長い造営工事藤原京の街並み;都市問題の発生と信仰)

第7章 日本古代国家の転換点―大宝律令制定の波紋(一三〇〇年後の大発見;画期としての七〇一年)終章 「飛鳥の木簡」の意義


飛鳥の木簡 古代史の新たな解明 4

 四万点以上の出土により、浮かび上がった大化改新などの新たな史実、文献上の論争の決着など、解読によって書き替えられた歴史の正体を描いている。

 その副題は「古代史の新たな解明」。

飛<br />鳥の木簡 古代史の新たな解明 5

 592年の推古天皇即位から710年の平城京遷都までの約120年間、日本の首都だった飛鳥地方や藤原京で見つかった木簡に焦点を当て、木簡からどんな歴史が読み取れるのかを探ろうという一冊だ。

 本書によれば、飛鳥の木簡はかつては平城京で出土する木簡に比べて微々たるものだったけれど、1990年代後半から2000年代前半にかけて大量に出土し、2011年末まで飛鳥地域で1万5千点、藤原京で3万点を数えるという。その壮大なロマンは、考古学者でなくても伝わってくる。

飛鳥の木簡 古代史の新たな解明 7

 木簡の出土、研究の意義は、古代史研究の基礎となる「日本書紀」の検証を通じた史実の解明にある。
 書紀では、645年の大化の改新後の詔で、行政区分として「国(クニ)-郡(コホリ)-里(サト)」を採用したことになっているけれど、1966年に藤原京で出土した699年の干支入り木簡により、701年の大宝令施行まで「郡」ではなく「評」という文字が使われていたことが判明した。

 これを機に書紀の改新の詔の信憑性は地に落ち、大化の改新そのものに対する懐疑説も唱えられるようになったという。が、だけれど、飛鳥の石神遺跡から2002年に出土した665年の干支入りの木簡から、天智朝の段階で漢字の表記はともかく、「クニ-コホリ-サト」の行政区分が成立していたことが分かり、昨今では大化の改新が再評価されるようになったという。

 木簡は文字史料に基づくこれまでの説を補強することもあれば、修正を迫ることもある。まだ地中に眠る木簡たちが「新事実」を携えて我々の目の前に現れるのか、はたまた現れないのか、興味は尽きないことを本書は教えてくれる。
 そして、もう一つ。我が国の歴史が、朝鮮半島と切っても切り離せないことが木簡からもわかることを示してくれる。おぼろげであった近隣の国人が芳しく蘇るのである。

 飛鳥池木簡・発見された『天皇』と記載された最古の木簡がある。

 飛鳥浄御原宮の内郭の外側にあり、1916年にこの地から2個の石造物が掘り出された。石造物の表面は溝と窪みによって水を受けて流す仕組みになっており、岡所在の酒船石との関連性が指摘されている。

飛鳥の木簡 古代史の新たな解明 2

 市 大樹 (いち ひろき)著者
  
 1971(昭和46)年愛知県生まれ。2000年大阪大学大学院文学研究科博士後期課程単位修得退学(2001年、文学博士)。
 01年から奈良文化財研究所研究員・主任研究員として発掘調査・木簡整理に従事。09年大阪大学大学院文学研究科准教授。12年第8回日本学術振興会賞・第8回日本学士院学術奨励賞受賞。日本古代史専攻(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものである)

 その市大樹の論文に次ぎのものがある。

 日本律令国家の建設と藤原京,市大樹,2011年03月,会議報告/口頭発表

 興道寺廃寺と周辺社会を舞台とした人々,市大樹,ここまで分かった 興道寺廃寺,pp.63-86,2011年03月,学術論文

 木簡からみた飛鳥・藤原の都,市大樹,古代の都,1巻,pp.274-297,2010年12月,学術論文

 舘野和己編著『古代都城のかたち』,市大樹,古文書研究,70巻,pp.123-125,2010年11月,書評

 大仏開眼への道,市大樹,2010年10月,大学・研究所等の報告

 著者である彼は現在41歳である。

 本書の内容もさることながら、市のような清悦が埃にまみれながら太古を闊歩していてくれるからこそ日本人に希望と夢を垣間見せてくれるのである。内容からも彼の苦心は滲み出ている。彼のような若者がいることがまことに誇り高い。心して拝読させて頂いた。そして飛鳥の里を改めて歩かせようとしてくれる。現代人に考古を近づけてくれる彼の溢れる躍動は人心の哀しさ運んでくれた。そこには茶の間で太古を楽しませてくれる市という男の思索が紡がれている。心嬉しい一冊である。

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飛鳥 彼岸花



VOICE「週末なび」奈良・飛鳥



飛鳥・未来への伝言 川上村の歴史 第1回


飛鳥の南・朱雀の方角 古代からの歴史 世界遺産・吉野大峰 井光 蜻蛉の滝

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書籍の森・・・今秋のアメリカをどう読むか?・・・「その二冊」。

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 皆さんは『銀の裏地』という言葉をご存知であろうか。

 つきましては、とりあえず次ぎを読んで頂きたい。

 現在から4年前の2008年12月・・・・・注目された雇用統計は、非農業部門の雇用者数が前月比53万3000人の減少と、なんとも恐ろしい数字となりました。エコノミストの予想平均が30万人台の減少、直近のISM指数やADP統計発表を受けて修正された予想でも40万人台でしたから、雇用状況が急激に悪化していることが明らかになりました。朝方発表された、この数字をみて、株価はダウ工業株30種が一時は前日比246ドル安まで売られ、欧州株も下げて終わりました。

 ところが、取引終了時間にかけて株価は急反発して終わっています。終値は前日比259ドル高ですから、安値からみると、500ドル幅での急騰です。
Dow 8,635.42 +259.18(3.09%)
Nasdaq 1,509.31 +63.75(4.41%)
S&P 500 876.07 +30.85(3.65%)
 この急反発について、AP電は「市場は銀の裏地(a silver lining)を見つけた」ため、と解説しています。・・・・・・・と、ある。

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 この『銀の裏地』というモノは、どんなに暗い出来事や失敗でも必ずプラスの面がある(どんよりした雲は地上から見ると暗いけれど、その裏側では太陽の光を浴びて輝いている)という意味の喩えなのである。したがって上記の、この衝撃的な、悪いニュースによって、政府は経済再生のための新しい政策を打ち出す必要に、より一層強く迫られるだろう、というポジティブな側面に市場が目を向けた、ということを言いたいのであろう。

 それは朝方は「現実」を売り、午後は「期待」を買った、ということでもある。どちらが正しい行動なのか、景気の先行きいかんでしょうから、断言はできない。が、しかし、少なくとも午後の動きは常に前向きな、ウォール街らしい展開なのである。

 この日のダウの安値8130ドルは月曜日の安値8149ドルに対応する水準。8100ドル台が下値として意識されている。ダウ構成30銘柄のうち、安いのはGM(▲0.73%)とAT&T。値上がり率が最も高かったのはJPモルガン(△7.3%)とバンカメ。メルク、ウォールマートの上昇も目立っていた。シカゴCMEの日経平均先物は8015円(ドル建て)。その週明けの日経平均は8000円を回復できたのであろうか。・・・・こうした『銀の裏地』の行方は常に興味深いものである。

 2008年12月の漱太郎の視点は、それらは分かりきった動きだと承知していた。引け際近くになっての変な動きが…。プラスマイナスいろいろであるが、あの雇用統計値では、以前の米国なら、500ドル安以上であろう、しかし、250安程度でいっぷくし、その後250ドル高へ。彼らは、ある程度、それを知っていてやっているな、と思っていた。

 前半の下げも、空売りで、あまり下げないとわかると、国家的対策懸念もあり、買い戻し。日本も、似たような動きが、最近多いではないか。と。
 まあ、大幅値下げは、大幅戻しののりしろ作りとも言えるので、売り手は、この水準では、目をつぶっての売りも考えものでしょうね。と。しかし、ないとは思うが、役割きめての株価操縦なら、これはじつにふざけたものだけどね…。と。


 ということで・・・・、

 皆さんは、上記のニケ月前、2008年9月の、金融危機の銀の裏地を参照してみたであろうか?。かなり以前のことに思われるであろうが、危機はアメリカ人が彼らの支出の習慣の変更を余儀なくさせられると、個人の貯蓄には、少なくとも一時的にジャンプを生産しているので、アーロン•L•フリードバーグの答えは肯定的であった。

 彼はその理由として、著書『覇権を握るためのコンテスト:中国、アメリカ、闘争をアジアの支配"のため』の中で述べている。

 米国政府は同時に、その効果が末永く残るでしあろう巨額の財政赤字と累積債務を実行することによって「ディス節約」が巨大に従事していること、しかし、Ruing、著者はそれはいくつかの小説を取ることができることを観察する。すると、潜在的に論争の長期財政赤字がダウンしていながら、個人貯蓄がアップしていることを保証するために長期的な措置(例えば、国内消費税やエネルギー使用に係る税の導入など)が採られるだ、と。

アーロン・フリードバーグ 2  アーロン•L•フリードバーグ

 そのFriedberg氏は貯蓄と消費のアメリカのパターンの変化は、独自のマッチング調整を行うために中国を誘導助けることができると予測している。"多くの国有企業の解散により、ほとんどの中国人労働者はもはや保証されたジョブまたは年金を持たない。これらの不確実性に直面して合理的に行動し、彼らが扱うには古すぎるか、病気になったとき、多くの場合その日に用心するためにできるだけ多くの彼らの収入の20%などを保存して、格段に質素になってきたという。

 著者は、米国の衰退への輸出としての成長を維持するためには、との見解であり、中国が消費にこれらの貯蓄の一部を流用して国内需要を刺激するための方法を見つけなければならないであろう。そして、それを行うには、最も明白な方法は、彼によれば、古い時代に極貧になってからの保護を提供する公共および民間寄付のミックスで資金を提供し、社会的セーフティネットのいくつかの種類を作成することだそうだ。

 アメリカのブランド名を買収中国企業と切望されたランドマークについての現在の懸念を参照すると、Friedberg氏は不安の多くは誤っていると明確に感じている。「メイタグまたはIBMのコンピュータ製造部門の中国人投資家による購入、米国の大手石油懸念の試み引き継ぎ、2000年代半ばのすべて攪拌論争が、どれも国家安全保障への現実的な危険を提起しない」とが彼の理由だ。

 また「長い目で見れば、技術面での優位性を維持する唯一の方法は、バック他人を保持するのではなく、前方aversフリードを移動し続けることではありません」と、さらに 彼は、これを行うための青写真は秘密ではありません、そして、それは第二次世界大戦を契機に策定されたので、それが大幅に変更されたことを説明している。

 基礎は一流の教育システム、才能と野心的な移民に開放され、魅力的な社会、および基本的な科学研究のために寛大な公共および民間の支援によって形成され、その青写真の説明が始まるのだ。"資本への迅速なアクセスを持つ鮮やかな民間の産業、報酬の革新が足場を提供している税金や法的なコード。十分な資金と前向きな防衛体制を提供する、柔軟性のある多様な、防衛メーカーの競争力のある配列は、構造を完成させる、のであると。

 Friedberg氏によると、中国は現在、独自の目的には、このスキームの重要な要素を適応しようとしている。彼は、米国は依然として独自のデザインに従う能力と目的の重大さを持っているかどうか、しかし、そこは少し疑問に思っているようだ。

 この著書を改めて読み通した漱太郎は、日本の皆様の職場や家庭での力のグローバルな視点のための研究を少しご提案してみたい。今秋にはアメリカ大統領選挙が行われるが、その動向と日本との関係はまことに密接であるのだから、今注目すべきキーワードこそ、アーロン•L•フリードバーグ、 覇権コンテスト、中国なのである。

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A Contest for Supremacy

 イラク戦争の終結とアフガニスタンからの撤退を受けて、アメリカの安全保証戦略の焦点は中国に移った。『A Contest for Supremacy』の著者アーロン・フリードバーグは今秋米大統領選の共和党ロムニー陣営でアジア太平洋政策の責任者を務める。その著書で、アメリカの、関係の深化から力の均衝重視へと対中戦略の転換を主張する。著書の中では「中国と国交を樹立したニクソン・キッシンジャー時代以来、アメリカの政治指導者や外交官、中国専門家は、対中関係のプラス面を強調し、問題点をあまり語ることなく先送りしてきた」と批判する。

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オバマを読む

オバマを読む 2 ジェイムズ・クロッペンバーグ

 そうであるならば先日ご紹介した著書『オバマを読む』ジェイムズ・クロッペンバーグ著を再びひきだして読み比べする意義は大きい。どちらのプロパガンダ本が未来を見透かしているのか、を比較検証する必要もあろう。今秋アメリカの行方は、誰に託されるのか?、結論は間もなくである。いずれかのスピーカーが良質なのか、を。「アメリカが積極的に関与しないアジア」が多極化していくことはあり得ないと思うが、馬肥える日本の秋にふさわしい二冊である。

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A.フリードバーグ氏講演会「アメリカと中国:アジアの支配をめぐる競合


米国プリンストン大学教授のアーロン・フリードバーグ氏を迎えた講演会「アメリカと中国:アジアの支配をめぐる競合 A Contest for Supremacy: China, America and the Struggle for Mastery in Asia」が開催された。著名な国際政治学者であるフリードバーク教授は、ジョージ・W・ブッシュ政権においてチェイニー副大統領の国家安全保障担当副補佐官を務め、現在は共和党大統領候補の指名­争いをしているミット・ロムニー氏のアジア太平洋政策作業チームの共同座長に就任している。本講演会では米中関係とアジアの将来について日本への影響も含め、フリードバーグ教授は率直に語る。(2012年3月5日開催)


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書籍の森・・・ドリス・レッシングの『黄金のノート』と『老首長の国』

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『黄金のノート』ドリス・メイ・レッシング著

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Doris May Lessing
 ノーベル文学賞は例年10月上旬に日本時間で午後の夕刻8時に発表される。また日程の詳細はその年の4月に好評されている。その半年間、毎年、有力候補が取り沙汰されるのであるのだから、予想される候補者らはあらかじめ自宅か所定の場でその日の沙汰を身構えるものだ。

 しかし2007年はいつもと状況が違う。受賞者ドリス・メイ・レッシングは、その時間帯に買い物に出掛けていた。したがってこの受賞情報は直に伝わってはいない。ドリス・レッシングがそのことを知ったのは、買い物から帰宅した際に待ち受けていた取材人のインタビューから飛び出した一言であった。

 その2007年、スウェーデン・アカデミーは10月11日、ノーベル文学賞を英国在住のドリス・レッシング氏(87歳)に授与すると発表した。

 史上最年長での受賞者となった。

 この受賞を知らされる87歳の彼女の、買い物帰りに帰宅したその場面の映像はまことに保存版に値する。じつにほのぼのとした表情と対応コメントとが普段なのである。「きっと他の受賞されるべき人が、すでに他界されていたのでしょうね」と、あっさりと、きっぱりとした、そして一市民的なのどかで爽やかなスタイルの印象に残る軽妙な受賞スタンスであった。

 アカデミーによると「女性の抒情詩人として、懐疑、情熱、先見性をもって分断された現代社会を洞察し描いた」というのが受賞の理由である。これによってドリス氏は女性として史上11人目、また史上最高齢での文学賞受賞となった。賞金は1,000万スウェーデン・クローナ(約1億8,000万円)で、授賞式はノーベルの命日である12月10日にストックホルムにて行われた。

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 レッシング氏は1919年にペルシャ(現イラン)生まれ。5歳のときから25年間南ローデシア(現ジンバブエ)に在住し、その後英国に渡ってから「草は歌っている」(1950年)をはじめとする数多くの作品を発表し評価されてきた。また、代表作である「黄金のノート」(1962年)は20世紀のフェミニズム運動に大きな影響を与えている。おおむね評すれば、これらを評価されての受賞となった。

 そんな彼女の代表作『黄金のノート』初版は1962年。 著者40代の作品である。 ドリス・レッシングは1980年代にもノーベル賞候補になったが、以後、候補からはずれていたかのように見えていた時期が長い。欧米では2007年の受賞は遅すぎるとのコメントも出た。

 だが、代表作『黄金のノート』は今日読んでも遅すぎることはない。作品には、執筆当時の社会背景が描かれ、その多くはすでに大きな変貌をとげてしまっている。だがそこから逆に、レッシングの視点は、その時代だけに通用する一時的なものに動かされてはいないということが分るのである。2012年の現在、執筆から50年後の今だからこそ彼女の時をも超える眼力がいっそう鮮明になる。

 漱太郎が最初にこの『黄金のノート』に出逢ったのは1983年の神保町。その日は確か数軒の古書店を歩き回った記憶があるが、その内一件の古本のなかに紛れこんでいた。

 その日から三日後の誕生日に『黄金のノート』を読了する。

 今から約30年前の話である。

 思えば20回目の誕生日。当時学生であったから、講義2つと友人のトラブル処理でぱっとしない1日を過ごす。お昼に小さなお握り弁当を買って、一人早稲田の杜でひっそりと食す。アルバイトを怠けていたので、小銭しかない。誕生日だからとお気に入りの「デラックス弁当スペシャル」という弁当を自分にプレゼント。そんな叶わぬ気分を抱きつつ、弁当を手渡してくれたお姉さんに、「今日は誕生日なのです」と言いたかったけれど、それはフッと思い出したこともあり言い止めた。

 三日前に買った古本の『黄金のノート』の序文に―――そもそも本というものはその構成、形式、意図が理解されなかったときにのみ生命を持つ。―――とあり、なぜかここを思い出したのだ。

 弁当も同じなのではないのか。弁当というものの構成、形式、意図が理解されなかったときにのみ生命を持つ。人生、後にも先にも、自身で選んで買った弁当に、哲学的な目線を送ったのはこの日の小さなお握り弁当の他はない。これは特筆すべきことであった。

 したがって小さなお握り二個を細々とかじりながら、残された後30ページほどを早稲田の杜陰でひっそりとレッシングの『黄金のノート』読了!。そんな思い入れもある『黄金のノート』は、もしかしたら生涯のベスト10に入るんじゃないかと思う。

 当時、確かに、かなりいれこんで読んだ。
 3回くらい読み返す価値はあると思った。今思い返せば、初読は単純にストーリーを楽しんで読んだけれども、2回目読めば作者の「仕掛け」のようなものにもっと敏感になれるだろうし、3回目では批評っぽい読み方もできるかもしれない。そう思えるほど、とにかく内容がつまっていて、息苦しくなるような本だった。

 正直、最後の100ページほどは、主人公の狂気が自分に伝染してくるような感じがして、かなり読みきるのがつらかった。その時すでにお握りの味はない。

 しかしこの初読からもう幾度繰り返し読み終えたことか。そのそれぞれの場面の、読み終えてからすこし時間がたっているけれども、いつも感想は変わっていない。そして、読み直したときはあまり意識していなかったけれども、漱太郎なりの言葉で、ここのところ仕事柄ずうっと考え続けている、「なぜ文学(小説)を読むのか」という問いに対するこたえを心の中で記していたようにも思われる。

 ところがレッシングに関しては次ぎの意見を耳にした。
 ここのところレッシング関連の論文を読みまくっている友人の話によれば、レッシング自身は読者の多くが「わかる、わかる」「わたしのことのようだ」というような、共感的な読み方をすることに対しては、やや批判的であるらしい。

 それはそれで本当にそうなのであろう。『黄金のノート』を読むと、2回目・3回目のような読み方、つまり、作者の「仕掛け」=物語の構造、に注目して読む、とか、フェミニズムやポストコロニアリズム、マルキシズム等々、既存の「イズム」で括って読む、とか、つまり素人だってちょっとやってみたくなるくらい、おいしそうな素材が満載なのだ。だからこそ、ノーベル賞なんて授与されちゃったりするのだろう、と思う。そう考えるのが普通である。

 しかし・・・・・、読者に普通もプロもない。
 読者としては、やはり初回の「わかる、わかる」「わたしのことのようだ」という読み方に、どうしてもこだわりたいものだ。

 作者や登場人物に共感したり、自分を投影したり、読み終わってから自分の人生のことをつらつら考えたり、それこそが小説を読むことの醍醐味なのであって、自分に対して何の影響も及ぼさない読書は、それは「お勉強」や「お仕事」であって、「楽しみ」ではないんだなあ、と思う。しかし、よくよく考えると、そう思い込ませるところにレッシングのみごとな仕掛けが用意されている。

 この小説にはたくさんの女性が登場する。主人公のアンナ、親友のモリー、アンナが書く小説の登場人物であるエラ、モリーの元夫の妻マリオンなど。

 その多くが知的な職業人で、「自由な女たち」なのだけれども、読んでいくにつれて、彼女たちがなんとも愚かで、傷つきやすく、「こうありたい」「こうあるべき」という気持ちと現実との間で迷い、揺れ、失敗していることに気づく。

 男性との関係、仕事への取り組み方、社会・政治運動へのかかわり。
 そのひとつひとつの具体は、普段の人のそれとはまるでかけ離れているのだけれど、その迷い方、揺れ方、失敗の仕方が、「わかる、わかる」「わたしのことのよう」なのだ。

 かくしてこの本を読み始めた初読の数分後には、読者はアンナやモリーの友人になり、小説の中に入って彼らと会話を交わすことになる。

「それはひどい男だよね」「それは無理もないよ」「もっと自分の思うとおりに行動しなくちゃ」「わたしの場合はね……」と。

 そんな読者の言葉やつぶやきはアンナやモリーにはもちろん、作者レッシングにも届かないけれど、読者自身の中ではこの本を読んだことで、小さいことかもしれないけれども何かが変わっている。

 彼らと架空の時間を共有し、「感情・情緒」を表現する言葉を交わしたことは、だれに何といわれようと読者にとってはかけがえのない体験で、文学を読むことの価値のいちばんの根っこは、やっぱりここにあるんじゃないだろうか。

 英雄社刊行の『黄金のノート』は、今は古書店でもなかなか手に入らないと聞いたので、どこか少しでも内容の引用を、と思ったのだが、なかなか単独の引用の難しい作品で、決まらない。全体が山場なのだ。切るとボヤける。
 したがって、
 ここが作品の「ヤマ場」と思う箇所などとても見つけられないのだけれど、レッシングの作風を「時代精神と事実報告と自伝のまぜこぜ」(「訳者あとがき」654ページ)と要約した場合、それがよくあらわれていて、読者が「わかる、わかる」とアンナに話しかけたくなる場面を、少し引用する。

・・・・質問を受けた。なぜわたしがローゼンバーグ夫妻の助命嘆願をするのか、プラハのでっちあげ事件でつかまった人は放っておくのか、というのだった。
 筋の通った返答ができない。ただだれかがローゼンバーグ夫妻の救出運動やらねばならないと答えるだけ、いやになる・・・・わたし自身に対して。
 またローゼンバーグ夫妻急救出の署名を拒む人に対して。わたしは疑念だらけ、嫌悪だらけの空気を吸って生きている。
 今日の夜、モリーが泣き出した。まったく突然だった。わたしのベッドに坐って今日起こったことを話しているうち、ふいに泣き出したのだ。
 声をたてず、とめどなく涙をこぼしていた。なにかを思い出す、なんだろうと考える。
 そう、メアリローズだ。「なにもかもすばらしくなると信じていたのに、そうもいかないとわかってしまった」と言って、ふいに顔に涙の流れ落ちるのをかまわず、マショピ・ホテルのあの大ホールで坐っていた彼女。
 モリーはメアリローズと同じ泣き方をしていた。新聞がわたしのいる床の上一面に散らばっている。
 ローゼンバーグ夫妻の記事と、東ヨーロッパのできごとを報じている。(161ページ、「赤いノート」の記述部分より)

ドリス・メイ・レッシング 2

―――私が言いたいのは…「物事を分別してはいけない。区別してはいけない」―――(『黄金のノート』「序文」より)

 『黄金のノート』で扱われている素材は、男女、親子、人種、差別、偏見、イデオロギー、組織と人間、と多岐にわたる。登場人物は、作家、女優、主婦、大企業家、活動家、寄宿学校に入りたがる少女、自殺を試みるニート、アフリカへ入植した貧しい白人たち、などなど。

 女性解放運動の一翼を担ったかのように言われているこの作品ではあるが、レッシングは、その意図で書いたわけではない、と序文で述べている。ただ、主人公の「女」とその化身と思われる「女」たちは、いわゆる経済的自立を果たしているように見える。それらは目次だけにたびたび現れる「自由な女たち」である。

 当初、主人公「女」に見えるのはハムレットが言うような「たががはずれてしまった」世界。「女」はただただ「見」ようとする。まっすぐな視線の先には自分自身を映すひび割れた鏡。「黒」「赤」「黄色」「青」のノートは、鏡に結ぶ像と見る自分との間にある背景が透明なレイヤーのようなものだ。レイヤーには、時代背景、偏見と差別、男女、の断片が貼り付けられている。ノートごとに役割があるかというとそうでもない。「女」は、それぞれに整然としたテーマをあたえるわけでもなく、あえて混沌を避けず書き込んでいく。終局に向かって、ノートに書き込まれる量は次第に減っていく。

 最終章「黄金のノート」は「これをのぞき見するやつは全員呪われるべし」から始まる。「女」は思わず笑う。これはアメリカ人ソール・グリーンがかきなぐった呪文だ。

 レッシングは、フィクションの構築によって「それ」を描くことを避け、「女」と鏡との間のレイヤーだけを読者に提供している。

 その断片たちが、「女」の視線の先で「黄金のノート」になったとき、読み手には「真実」という衝撃が伝わる。「女」同様、鏡の像の向こうに「それ」が見えたならば。
しかし、レッシングは言う。

―――そもそも本というものはその構成、形式、意図が理解されなかったときにのみ生命を持つ。―――(『黄金のノート』「序文」より)

 ドリス・メイ・レッシングは1919年10月22日、ペルシャ(現・イラン)で、父アルフレッドと母エミリーの娘として生まれる。

 両者ともにイギリス人(イングランド)である。この時の名前はドリス・メイ・テイラー。

 ドリスが生まれる前に、父アルフレッドは第1次世界大戦に従軍中に片足を失ったが、入院中にロイヤルフリー病院で後に結婚することになるエミリー看護師と出会った。

 その後、職を求めてペルシャに移住し、ペルシャ帝国銀行に勤めた。その後、1000エーカーの土地を購入すると、トウモロコシの栽培をするために、1925年に南ローデシア(現ジンバブエ)に移住した。しかし、農業は上手くいかなかった。

 ドリスは、ソールズベリー(現ハラレ)カトリック系の女学校であるドミニカ女子高等学校に入学するが、13歳で学校を離れ、以後独学を続けた。15歳で家も離れると、メイドとして働き始めた。この時、雇い主からもらった政治や社会学の本を読み始め、作家活動を開始した。電話技師に転職すると、すぐにフランク・ウィスドムと結婚。1943年に離婚するまでに2人の子供をもうけた。1945年にドイツ人移民ゴットフリート・レッシングと再婚し一男をもうけるが、1949年に離婚した。現在の「レッシング」という姓はこの夫のものである。

ドリス・メイ・レッシング 13

 1949年にイギリスに息子と共に渡り、翌1950年にローデシアを舞台とした自身初の著書『草は歌っている』(The Grass is Singing)を出版。1962年に『黄金のノート』(The Golden Notebook)を出版した。

 その彼女の長篇小説 としては・・・・

The Grass is Singing(1950) 日本語訳『草は歌っている』 山崎勉・酒井格訳、晶文社、2007年。

The Golden Notebook(1962) 日本語訳『黄金のノート』石村崇史・市川博彬訳、エディ・フォア、2008年。
Briefing for a Descent into Hell(1971)

The Summer Before the Dark(1973) 日本語訳『暮れなずむ女』 山崎勉訳、水声社、2007年。

Memoirs of a Survivor(1974) 日本語訳『生存者の回想』 大社淑子訳、水声社、2007年。

ドリス・メイ・レッシング 14

The Diary of a Good Neighbour(1983) 日本語訳『夕映えの道―よき隣人の日記』 篠田綾子訳、集英社、2003年。

If the Old Could...(1984)

The Good Terrorist (1985)

The Fifth Child(1988) 日本語訳『破壊者ベンの誕生』 上田和夫訳、新潮社〈新潮文庫〉、1994年。

Playing the Game(1995)

Love, Again(1996) 日本語訳『ラブ・アゲイン』 山本章子訳、アストラル、2004年。

Mara and Dann(1999)
Ben, in the World(2000) – sequel to The Fifth Child
The Sweetest Dream(2001)
The Story of General Dann and Mara's Daughter, Griot and the Snow Dog(2005) – sequel to Mara and Dann
The Cleft(2007)
Alfred and Emily(2008)

The Children of Violence 『暴力の子供たち』シリーズ(1952年-1969年)
• Martha Quest(1952)
• A Proper Marriage(1954)
• A Ripple from the Storm(1958)
• Landlocked(1965)
• The Four-Gated City(1969)

The Canopus in Argos: Archives|Canopus in Argos|Canopus in Argos: Archives 『アルゴ座のカノープスシリーズ(1979年-1983年)

Shikasta(1979) 日本語訳『シカスタ―アルゴ座のカノープス』 大社淑子訳、水声社、2007年。

The Marriages Between Zones Three, Four and Five(1980)
The Sirian Experiments(1980)
The Making of the Representative for Planet 8(1982)
The Sentimental Agents in the Volyen Empire(1983)

短篇小説としては・・・

This Was the Old Chief's Country: Collected African Stories, Vol. 1(1973) 日本語訳『老首長の国―ドリス・レッシング アフリカ小説集』 青柳伸子訳、作品社、2008年。

o 「老首長ムシュランガ」
o 「草原の日の出」
o 「呪術はお売りいたしません」
o 「二つ目の小屋」
o 「厄介もの」
o 「デ・ヴェット夫妻がクルーフ農場にやってくる」
o 「リトル・テンビ」
o 「ジョン爺さんの屋敷」
o 「レパード・ジョージ」
o 「七月の冬」
o 「ハイランド牛の棲む家」
o 「エルドラド」
o 「アリ塚」
o 「空の出来事」


エッセイとして
Particularly Cats(1967) 日本語訳『なんといったって猫』 深町眞理子訳、晶文社、1987年。

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ノンフィクション として
The Wind Blows Away Our Words(1987)『アフガニスタンの風』加地永都子訳、晶文社、2001年。

ドリス・メイ・レッシング 12

 以上、ドリス・レッシングには様々な作品があり、未だに和訳されていないモノも相当ある。

 それらの作品群と、中でも代表作である『黄金のノート』を読み解くためには、次の点を改めて飲み込みながら、一つ試し読みにお薦めしたい彼女の本がある。

 そこで繰り返すのだが、彼女は10月22日、ペルシャ(現イラン)生まれ。両親ともイギリス人。6歳の時、当時英領だった南ローデシア(現ジンバブエ)に移住したが、あまり幸せな少女時代ではなかった。15歳の時、逃げ出すように親元を離れ、自立する。結婚・離婚が2回、3人の子どもをもうけた。2度目の離婚後、30歳で幼い息子を連れてイギリスに渡る(再び南アフリカを訪れるのは76年後)。この76年という年月がドリス・レッシングを読む場合、一つの重要なキーワードとなろう。

 じつは彼女、1980年代、実験的に別名Jane Somers名義で小説を投稿したところ、出版されなかった(後に出版される)。こうした自身の格闘するかの体験行動と、2007年にノーベル文学賞を受賞しことは無関係ではない。そのとても長い期間の末に、ノーベル文学賞受賞者としては歴代最高齢(87歳)だったからだ。しかしそのことで2008年には、タイムズ誌の「戦後の偉大なイギリス人作家50人」で5番目にランクインした。このとき世界の誰もが彼女の代表作を『黄金のノート』だと思うようになった。

 たしかに『黄金のノート』にはそれだけの内容はある。だがこの内容を彼女が描ききれた源泉は76年も遠ざかっていた童顔の中にあるアフリカなのである。
 ノーベル賞受賞後のドリス・レッシングの作品は翌年の2008年、This Was the Old Chief's Country: Collected African Stories, Vol. 1(1973)が日本語訳『老首長の国―ドリス・レッシング アフリカ小説集』青柳伸子訳として出版された。もし彼女が受賞してなかったらこの作品は邦訳されなかったであろう。

Zimbabwe: A World of Wonders

ジンバブエ

 『黄金のノート』の源泉を形づくるドリス・レッシングの源泉が彼女自身が宝物のように懐で温めていた童心の光景・アフリカであるのなら、『老首長の国』は必見の書であり、『黄金のノート』の意味合いを深め噛み締めるためには意義のある一冊である。

ドリス・メイ・レッシング 4  ドリス・メイ・レッシング 8

老首長の国――ドリス・レッシング アフリカ小説集  訳・青柳伸子

 本書は作者が3歳から30歳までを過ごしたアフリカを舞台にした短篇集であり、作者のお気に入りの短編を集めた傑作集でもある。どの短編も面白く濃密。この中に読者が例えば夜遅くなってもきっと読むのをやめられない作品のいくつかがある。

ドリス・メイ・レッシング 10

 レッシングは銀行員の娘として生まれ、各国を転々とした。3歳のころ南ローデシア(現ジンバブエ)に移り住み、幼少期から成人期までをアフリカで過ごした。当時はまだ人種差別が激しいころで、白人が黒人を支配するのは当然とされていた時代である。この短篇集で描かれるアフリカも白人がヨーロッパなどからアフリカに移住し、そこで繰り広げられる白人と黒人の壁、男女の壁、古い入植者と新しい入植者のすれ違い、さまざまな越えがたい壁を持つ人々を時に冷静に、かつ暖かく描写している。特に丁寧に描写されるアフリカの風景は日本の小説では味わえない部分でもある。

ドリス・メイ・レッシング 9

 「老首長ムシュランガ」は、白人の少女が住む土地に現れるムシュランガという首長の話。首長は広い土地を支配していたのだが、今は白人に取って代わられており、跡継ぎも白人の家で召使いとして働いている。しかし首長には不思議な威厳があり、白人の少女は彼に興味を持つのだが。人間の尊厳について考えさせられていく。

ドリス・メイ・レッシング 7

 「リトル・テンビ」は、黒人の面倒を積極的に見る女性が、テンビという黒人の子供を特にかわいがっていたのであるが、成長するにつれ図々しい態度を見せるテンビに距離を置くようになる。これはレッシングの「破壊者ベンの誕生」を思い出させる、大人と子供のディスコミュニケーションを描いた作品でもあるようだ。

ドリス・メイ・レッシング 6

 他にも、移住してきた白人同士のいさかいを書いた「デ・ヴェット夫妻がクルーフ農場にやってくる」「ハイランド牛の棲む家」や、白人男性と現地人女性の関係を書いた「レパート・ジョージ」「アリ塚」などもじつに面白い。
 アフリカを舞台にした短編集なので、まとめて読むと同じ背景や風景に多少疲れはするが、いずれもが粒ぞろいの短篇集で、読後感を思うとき、読者はきっと読んでよかったと思うであろう。

ドリス・メイ・レッシング 5

2007年のノーベル文学賞、ドリス·レッシング

ロンドンの自宅でドリス·レッシング。2007年ノーベル文学賞受賞者のインタビュー。面接官は教授ジョン·ミュラン。


これはABCのオーストラリアウェブサイト版のドリス・レッシングのインタビュー。


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書籍の森・・・『オバマを読む』Reading Obama

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アメリカ4

アメリカには哲学せしめるほどの政治家がいるという。
そのアメリカをどう読むかは今日の日本の立場では極めて重要なことだ。


そこで・・・・・

オバマを読む 3
オバマを読む―アメリカ政治思想の文脈 
[著]ジェイムズ・クロッペンバーグ 古矢旬・中野勝郎訳、岩波書店
James T. Kloppenberg 1951年生まれ。ハーバード大学教授。

 今秋、アメリカで大統領選挙が行われる。オバマ大統領が再選されるかどうか、全世界の耳目が集まっている。
 オバマ大統領はこれまでのほとんどの大統領と違い、アカデミズムの環境で成長してきた。そのオバマ大統領を深く理解するには、彼の思想がどこから来たかを知るのがベストである。

 そこで彼の著作や演説を丹念に読み込み、『Reading Obama(『オバマを読む』)』をものしたクロッペンバーグ教授のこの著書を何度か読み返してみた。
 オバマ大統領の政治観、今後の進路について自身に直接聞くまでもなく見えてくるものがある。

オバマを読む 2
ジェイムズ・クロッペンバーグ・・・・・・ハーバード大学歴史学教授、専門はアメリカとヨーロッパの思想史、コロラド州デンバー生まれ。ダートマス大学卒。スタンフォード大学で修士号取得。

著書の構成・・・・
第1章 バラク・オバマの教育
第2章 普遍主義から個別主義へ
第3章 オバマのアメリカ史
終章 夢、希望、そして、アメリカの政治的伝統


 まず要旨から述べると、オバマの思想とは何であり、それはどこからやって来たのか。オバマの思想史的文脈に迫った本格研究が施されている。

 読み進めていると、意外な感覚にハッとさせられた。

 今の日本人には、オバマをこうは語れないないだろうなと思うからだ。それはジェイムズ・クロッペンバーグ教授が独自で卓越して論じているからではない。教授は自然体で論じている。鼻っから日本人とは観察視点が違うのであるから、誇張された逆説めくモノじゃない。教授はアメリカの思想史学と真向かってオバマの正体を論じている。

 弱腰で優柔不断・・・・米国内でオバマ大統領をそう批判するのは保守派に限らない。議会多数派を擁しながら野党に妥協を重ねる姿はリベラル派をも失望させた。議会がねじれ、大統領選を今秋に控えた現在でさえ、オバマ氏は党派的な中傷攻撃には抑制的だ。

 それは一体なぜか・・・・・・、

 むろん、したたかな政治的な思惑や打算はあろう。しかし著者は、この問いを手軽な政治解説に落とし込むことなく、より広い米国の思想史的文脈のなかで再考する。

 例えば、挑発や対立よりも和解や調停を重んじるオバマ氏の政治手法には、米国的なプラグマティズムの伝統が見て取れるという。

 実用性や効率性を重んじる即物的思想と矮小(わいしょう)化されがちなプラグマティズムだが、その根底には、原理の絶対性や真正性への懐疑がある。つまり、ある原理が正しいか否かを競い合うことよりも、原理の対立をいかに回避するかが重要だとする視点だ。

 もっとも、中庸や熟議を重んじる姿勢や、プラグマティックな手法がつねに“正しい”判断を導くかは微妙だ。民主主義に伴うこうした不安や危うさにオバマ氏はどう折り合いをつけるのか。中庸や熟議を拒む原理主義的な立場に対してどう向き合うのか。

オバマを読む 5

 著者ジェイムズ・クロッペンバーグは、オバマ氏の著書や演説はもちろん、親近者らの証言を豊富に交えながら、同氏の思考が紡ぎ出された背景や文脈を鮮やかに照射してゆく。とりわけロールズやニーバー、ギアーツらを引きながら、1980年代以降の知的変動が同氏に与えた影響を論じた第2章は秀逸で、巷(ちまた)にあふれるオバマ論とは明らかな一線を画している。ここがこの本の佳境だ。

 より保守的な思想史解釈に立てば、オバマ氏の位置づけもまた異なったものになり得よう。しかし、少なくとも、著者のような米思想史研究の第一人者をして哲学せしめるほどの政治家が彼の地にいることを羨(うらや)ましく思う。これはアメリカにいてオバマに限らず常々感じることだが、日本の政治家と比較してアメリカの政治家は骨太である。その骨太は、どうやら哲学カルシウム成分で構成されている。またこの成分には「異なる意見をまとめる力」の効能がある

 劣勢が評されるオバマ情報ばかりを鵜呑みしたのではアメリカは見えてこない。本著書はそのようなことを教えてくれる。日本人はジェイムズ・クロッペンバーグ教授に感謝することにしよう。同時に、オバマ大統領の自伝『The Audacity of Hope(邦題:『合衆国再生-大いなる希望を抱いて』)』を改めて読み返すのも有意義であろう。

オバマを読む 4

 関連するその他の書籍

理性の奪還―もうひとつの「不都合な真実」 [著]アル・ゴア
ブッシュからオバマへ-アメリカ変革のゆくえ [著]古矢旬
変貌する民主主義 [著]森政稔
人間と国家 上・下―ある政治学徒の回想 [著]坂本義和
政治診断学への招待 [著]将基面貴巳 
追跡・アメリカの思想家たち [著]会田弘継
日本政治思想 米原謙著 理想と現実の落差を踏まえて解明
ネオコンの陰謀 [著]デイヴィッド・ブロック
見えないアメリカ―保守とリベラルのあいだ [著]渡辺将人


Watch President Obama's Commencement Speech at Barnard College
バーナード·カレッジでのバマ大統領の卒業式スピーチ 2012


2012年5月


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書籍の森・・・『鉄子の旅』 近年 鉄子なる旅人が増えている。

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近年、にわかに鉄子の旅なる者が増えてきた。
そのいずれもが鉄道の旅人である。どうやらブームにまでなっている。
その源泉がどうやらノンフィクション漫画本シリーズにあるらしい。
つまりこれは旅情報を実録として漫画で描かれている。旅の雑誌なのだ。
あるいは旅の現状を活写し激写した
ナビゲーター的存在のヒーローでもあるようだ。
それが「鉄子」なのである。
現在、この鉄子現象が広がりをみせている。


鉄道アニメ
鉄橋を渡るアニメ

鉄子の旅 2  鉄子の旅

『鉄子の旅』(てつこのたび)は、菊池直恵によるノンフィクション漫画作品。
全48旅(話)、単行本は全6巻。

 2002年から2006年まで小学館の『週刊ビッグコミックスピリッツ増刊IKKI』『月刊IKKI』に連載された。2009年から作者を「ほあしかのこ」に代えて連載が始まった、『新・鉄子の旅』についても稿で併せて記載する。
 以下菊池版を旧鉄子、ほあし版を新鉄子と称する。

 これらは旅の案内人として横見浩彦が同行する鉄道紀行漫画である。

 コンセプトは、鉄道にまったく興味のない作者が鉄道好きのトラベルライターの横見に“嫌々”日本全国の鉄道に連れ回されるというもの。通常、旅をするメンバーはキクチ、横見、編集者で、時折ゲストが随行する場合もある。
 略称は鉄子(てつこ)。その他、主要な登場人物達も多数使用している。

鉄子の旅 9

 足掛け5年にわたり連載が続いていたが、菊池の体力の限界を理由に2006年12月号の第48旅をもって終了、全6巻。連載そのものは終わったが、2008年3月号までコラムが掲載された。

 2007年6月よりアニメ化され、ファミリー劇場にて放送。アニメ終了後もカラー特別版や日本縦断弁当が販売されるなど新企画が続いている。アニメの宣伝も兼ねて、2007年4月号、7月号、8月号限定で再開された。番外編として、小学館の月刊誌『ラピタ』2005年3月号に掲載されたものもあり、「旅の案内人」は矢野直美、舞台は明知鉄道、矢野の『おんなひとりの鉄道旅』文庫版西日本編に収録されている。

駅通過アニメ

 2006年に在阪局の毎日放送(MBS)の夕方ローカルニュース番組『VOICE』の特集コーナー『金曜シリーズイマ解き!』にて、当作品を含めて女性の鉄道ファンを取り上げ、横見もVTR出演していた。『鉄道ピクトリアル』2007年1月号に、「鉄子の旅 幕間散歩」と題して本作の裏話ともいうべき記事が掲載されており、対談形式でキクチ、カミムラ、編集長が参加している。

鉄子の旅 6 新

 新・鉄子の旅は、月刊IKKI2009年7月号より連載がスタート。本作からは漫画家が菊池直恵から連載開始当時19歳で福岡在住の「ほあしかのこ」へ引き継がれた。ほあしにとってのデビュー作ともなった。また、同行するメンバーが前作に引き続きカミムラ、そして月刊IKKI編集長と女優の村井美樹が新たにメンバーとなった。これにはレール・ガール・アゲインというサブタイトルが付いている。

 2000年頃、編集長が書泉グランデで横見著の『乗った降りたJR四六〇〇駅』を読み、イシカワに話すと偶然にもイシカワも知っており、2人で盛り上がる。そして、横見と組んでコラムやエッセイ等、何かしてみたいということになった。

 編集長とイシカワで横見に会った際、その場で横見が「横見と編集と女性漫画家で鉄道を旅するルポマンガというのはどうだ」と提案した。更に「編集も女性というのはどうか」と言ったが、却下された。さらに第3巻収録の第23旅での編集長の証言によれば、編集長がずっと鉄道漫画をやりたいと思っていたらしく、その影響も大きいとされる。横見本人は「これってもう完全にギャグマンガじゃない」と作品中でも言っている。

鉄子の旅 1

作者について・・・・・

菊池直恵(きくち なおえ)

 旧鉄子作者。「コラム 実録鉄ヲタブランド化計画」を含む全旅に登場。作中では「キクチ」と表記される。「昼食は駅弁にする」ことを条件に(だが、よくすっぽかされる)、この漫画の執筆を引き受ける。イシカワ曰く「安上がりな女」。鉄道は「移動手段」としか思っていない普通の非「鉄」だったが、連載開始以来、無意識のうちにじわじわと鉄道知識が刷り込まれ、第31旅ではタブレット閉塞の説明が出来るまでになってしまった自分に愕然としている。連載初期は観光や美味しい物の堪能ができないことに文句を言い、自分にとって都合の良く逆に横見にとって都合の悪い事になるとやたらと喜ぶなど、鉄道旅に対し反抗的だった。しかし後期では旅に慣れてしまった為か、そのようなことは無くなった。むしろ楽しんでいたり、横見が観光を入れようとする、鉄道を嫌がる等のキクチ寄りの意見を言うと不審に思ったりに突っ込むようになる。新鉄子ではほあしに鉄子を引き継がせる為に第1旅に登場した。

ほあしかのこ

 新鉄子作者。福岡在住の専門学校生。IKKI 編集部に持ち込んだ原稿がカミムラの目にとまり、この作品でデビューした。以前から鉄子の存在は知っていたが実際に旅をするようになってその実態に驚愕、混乱することになる。鉄道に関する知識はほぼ0で鉄道用語が登場すると大抵全く関係ないものを思い浮かべる。デビュー当初は未成年だったが、新鉄子第2旅の前に20歳になっている。

横見浩彦(よこみ ひろひこ)

 全旅に登場。JR・私鉄9843駅全てを乗下車したほどのテツ(鉄道好き)で、大抵の旅行の立案者(旅の案内人)。レールクイーンやデートコースなど、女性に相当興味がある40代独身。ほぼ常時ハイテンションで、非「鉄」一般人の理解をはるかに超える価値観に基づく行動や言動でキクチ達を毎回驚愕の渦中に叩き込む。物語が進むにつれ行動、言動はキクチの突っ込みとともに過激になっているが、本人にその自覚はほとんど(あるいは全く)ない。食欲はキクチ以上に旺盛で、旅先でよく大食いをしているが、旅において食事や駅弁のことは全く考慮しない。「タダ」であることを強調したり、僅かな損も嫌う極度のケチで、ケチな方法をキクチ達にも強制する。新鉄子では旅を重ねるに従って村井に好意を寄せるようになるが、肝心の村井はマイペースな横見に対し、壊れたり不満を爆発させたりしており、前途多難のようである.

鉄子の旅 12  
どうやら菊池直恵と、ほあしかのこの顔出しはNG!!。

 「鉄子」とは、女性の鉄道ファンを示す用語である。
 この作品の影響もあって一般化しつつあるともいわれ、2007年の新語・流行語大賞の候補にノミネートされた。

鉄子の旅 14

 『鉄道ダイヤ情報』の読者ページには、女性投稿者限定の「鉄子の部屋」というコーナーがある。一部マスコミでは鉄子中の鉄子として、本作にも登場した矢野直美が取り上げられることがある。なお、山口よしのぶの漫画『名物!たびてつ友の会』単行本の、読者からの手紙を紹介するページに、女性の鉄道ファンを「鉄子」と称する慣習がうかがえ、この言葉は1990年代にすでに使われていたことが確認できる。

鉄子の旅 3 新

 実は『鉄子の旅』は、当初すぐに連載が終わる予定であった。それが、3回まで、5回まで、10回まで……と引きのばされ、あれよあれよのうちに現在に至る。突然、眞鍋かをりやフジテレビの笠井信輔アナがゲストで現れたり、レールクイーンになりたい女性が続々現れたり、鉄ヲタブランド化計画が進み始めたり……。はっきりいって、こんなに続いていることに一番驚いているのは菊池さん横見さん達本人ではないかと。実際、そう言っていた(笑)・・・・(編集部)にはそのな笑いの裏話も残されている。

鉄子の旅 4 新

汽車

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書籍の森・・・「リスボンへの夜行列車」・・2013年映画化の話題作

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リスボンへの夜行列車
夜の列車

リスボンへの夜行列車 1
パスカル・メルシエ/著 浅井晶子/訳ほか

 古典学の教師ライムント・グレゴリウスは、学校へと向かう道で橋から飛び降りようとする謎めいた女性と出会った。
 ポルトガル人の女である。
 そして古書店ではポルトガル語で書かれたプラドという作家の本に出会うことになる。
 このことがきっかけで教師グレゴリウスは、職を捨て、それまでの人生の全てを捨ててリスボンへの夜行列車に飛び乗る。プラドの人生をたどりながらプラドと関わった人に出会い、自分の人生と向き合っていく。・・・・・「我々は、会話の対象を得るために、魂を発明したんだよ。人間どうしが互いに出会ったときに、話し合うテーマを得るためにね」・・・・そんな言葉との真剣な格闘技を要するような読後感が果てしなく残るせいか、読むのには少しの体力を使わせる一冊である。

リスボン1 リスボン

 さすがにこの本は哲学者パスカル・メルシエの書いた小説であるから、一般の小説に比べるとやや表現が難解となる。またそこが魅力なのだ。
 したがってツラツラと読み通すことを許さない。そこには哲学者らしき仕掛けが多数用意されている。じっくり解読しようとすると、結局、他の本と併読しつつ読了に1ケ月を要することにでもなろうか。
 しかし読者がするその努力の代価をこの本は十二分に支払ってくれる。つまり読む価値は大きい。

リスボン5

 教師グレゴリウスのリスボンでの、そこでかつてポルトガルの圧制に抗して戦った医師・プラドの足跡を訪ね歩く姿がじつに印象的だ。「人生とは我々の現に生きているものではなく、生きていると想像しているものだ」と、リスボンの各所を訪ね歩く不安な毎日が主人公の実人生を再度問い直す深い思索へと繋がっていく。
 その思索をつづるという「哲学性」がこの小説の骨格である。この本を読んでいる間の、静かに通り過ぎる時間こそが人間にとって貴重なのである。

 例えば「銀河鉄道の夜」だったり、「銀河鉄道999」だったり。列車というモノにはたんなる移動手段としてだけではない、時間や空間を遥かに越えたどこかへと人を連れ去ってくれるモノでもある。そして見知らぬ駅へ降りたったとき、そこには新しい世界がある。謎のポルトガル人女性と出会い、これまでの「退屈」だった人生を捨て去って、衝動的にリスボンへと旅立った主人公グレゴリウスの、外的内的な旅の中には、新たな土地での新たな出会いが待っていた。そこで起こる自身の変化、あるいは言葉と人生の関わりとを、じつにしみじみと深く噛み締めさせられる、まことに思索的に設計された小説である。

リスボンへの夜行列車 4 メラニー・ロラン メラニー・ロラン

 メラニー・ロランがまたもや国際的なキャストの作品に出演!ビル・アウグスト監督の新作”Night train to Lisbon”で、ジュレミー・アイアンズ、ヴァネッサ・レッドグレーヴ、ブルーノ・ガンツ、クリストファー・リー、そしてレナ・オリンと共演!

 このスイスの作家パスカル・メルシエの小説を映画化した今作は、自殺を計ろうとしたポルトガル人の若い女性を助けたスイス人の教授が、ポルトガルの詩人を発見し、突然全てを捨ててリスボンに旅立ち、人生を変えて行く著作と同様の物語。
 撮影は来年3月スタート、完成は2013年末の予定となっている。

リスボンへの夜行列車 2

 まだまだ先のことだが、とりあえず読書から備える計画的で緻密なシネマ観賞スタイルも、この作品には欠かせない醍醐味であろう。深い思索の軌跡をどう映像で切り取るのか、これもじつに楽しみである。そこではまた新しいメラニー・ロランがきっと待っていてくれる。


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バイオリン動く

映画『オーケストラ!』Le Concert



 この映画は、かつては一流オーケストラの天才指揮者だった中年清掃員が、急きょ出演できなくなった楽団の代わりに、昔の楽団仲間を集めてコンサートに出場しようと奮闘する感動作。
 寄せ­集めオーケストラが巻き起こす奇跡を、『約束の旅路』のラデュ・ミヘイレアニュ監督が笑いと涙とともに描き出した。『イングロリアス・バスターズ』のメラニー・ロラン、『ト­ランスポーター』シリーズのフランソワ・ベルレアンらが出演。逆境にめげず、コンサート出場を目指す元楽団員たちの姿に勇気づけられるストーリーである。



書籍の森・・村上春樹の『「そうだ、村上さんに聞いてみよう」。

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村上春樹の『「そうだ、村上さんに聞いてみよう」

 聞いてみよう、と世間の人々が村上春樹にぶっつける282の大疑問に果たして村上はちゃんと答えられるのか?』がこの著作の筋書きである。村上が題材を世間から拾っては、村上春樹に聞く人生の悩み、くだらない相談事を1冊にまとめた。世間にはこんな本もあるのだ。

『「そうだ、村上さんに聞いてみよう」 1

 おすすめの理由としては、ゆるさがいい! 悩みがなくなってくるかのようだ。年齢層も問題はない。老若男女にあてはまる。人生それぞれであるから、きっと読後の感じはそれぞれであろうが、きっと何かを解決させてくれる。そこらは羅針盤としての村上の念力にまかせ、読者はただひたすらと読み続けるといい。何かを解放してくれる、そんな本である。

村上春樹

 村上春樹作品は、『ノルウェイの森』をはじめ『ダンス・ダンス・ダンス』、『神の子どもたちはみな踊る』『海辺のカフカ』など、小説だと様々あるのだが、直球で心にストレートする点で、漱太郎がお薦めしたい一番の書物はこのシリーズかなと思う。

 これはエッセイであるが、読者が村上朝日堂というサイト(今は閉鎖中)で村上春樹に質問をし、彼がそれに「ゆるく」答えてくれる「よろず人生相談エッセイ」であるから、どうしてこんな本を、などと力んで読んでしまっては、読後の効果は台無しであろう。ひたすらと読むことが肝心である。

 村上は、「カラマーゾフの兄弟は実写版だと誰がいいか?」、「ニコラスケイジの魅力は?」、「オープンツーシーターの良さは?」、「不倫はどう思う?」、「隣のマンションで女性が裸でいるところを見てしまった!」といったことから「働く意義は?」といった深い質問まで答えてくれている。

『「そうだ、村上さんに聞いてみよう」 2

 この本で村上春樹という人間が、とても自然体でムリをせずに生きていることが分ることにもなる。つまり村上の人なりが分る。そして、嫌なことがあっても「やれやれ」と言いながらやりすごすことができる、じつに便利な性格だとも思われる。またそして、知識があって常識もある人だということも! 質問に対する答え方もスマートで、思わず笑ってしまう答えもあれば、なるほどと思うし、答えも答え方も大発見してしまうストーリー仕立てとなっている。

 小説だと見えてこない作家の性格や本性が、この本で知り、その柔軟さに村上春樹のファン改めてなりたいと思わせる、そんな内容となっているのだから、そこのところも村上の多大なる能力なのである。

 さらには続編で、ブルーの表紙の『これだけは、村上さんに言っておこう』、CD-ROMで質問内容を余すところなく閲覧できる『CD-ROM版村上朝日堂 スメルジャコフ対織田信長家臣団』もあり、こちらも結構に楽しめて学べる好印象の作品となっている。
 村上さん「それにしても、世の中いろんな質問があるもんなんですね」、そうですよね村上春樹さん。

『「そうだ、村上さんに聞いてみよう」 3

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村上春樹『パン屋再襲撃』
Haruki Murakami"The Second Bakery Attack"




書籍の森「伝記 クロード・ドビュッシー 」生誕150周年記念の一冊

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今日は近代音楽への道を切り開いたフランスの作曲家、クロード・ドビュッシー(1862〜1918)の誕生日である。

しかも150回目の記念すべき誕生日 8月20日

                     Claude Achille Debussy

           クロード・ドビュッシー 8

                彼はお金のためには作曲しなかった誇り高き音楽家なのであった。

 19世紀末、フランスの芸術界に起こった新しい波、“印象主義(=事物の外形にとらわれず、自然の与える瞬間的印象をそのまま表現しようとする主義)”は、画家のモネ、作家のマラルメ、詩人のヴェルレーヌをはじめ、さまざまな分野の芸術家に影響を及ぼしました。作曲家のクロード・ドビュッシーもそのひとりである。

 ドビュッシーは幼い頃から音楽に驚くべき才能を発揮したが、家が非常に貧乏だったため、父親の友人に借金して音楽学校に入学した。にもかかわらず彼は常に貴族的でぜいたくな趣味の持ち主であった。

 たとえば、カフェで友人たちが安くてお腹いっぱいになるものを食べているときでも、ドビュッシーだけは高価で小さくても、きれいなお菓子を注文したと言われている。

 また彼は、金銭を得るために作品を作ったり演奏したりすることをほとんどしなかった。

 青年時代に3年ほど後見人(チャイコフスキーの支援者でもあったフォン・メック夫人)の世話になったこともあったが、それとて彼女が、自分の音楽の価値を真に理解しているという確信があったからに他ならない。収入源と言えば、時折音楽批評を書くことぐらいで(この音楽批評も歯に衣着せぬ鋭いもの)、経済状態は慢性的に苦しいものであった。

 しかしドビュッシーはそのことを、まったく気にしない。彼にとっては金銭よりも、自分の芸術を誠実に追求することのほうがずっと大切だったのである。「牧神の午後への前奏曲」「夜想曲」「前奏曲集」「管弦楽のための映像」「ベルガマスク組曲」など、彼の作品に例外なく高貴な香りが漂っているのは、きっとそのせいなのであろう。

 そんなクロード・ドビュッシーを知るためのこの本書は、ドビュッシー評伝の決定版。あらゆる面で今後長らくドビュッシー研究の定本となるものであろう。書簡、日記、評論などを検証しながら、生涯を追った内容となっている。ドビュッシー関連の本はかなり翻訳モノが出版されているが、いずれも作品研究であったり、歴史的記述にそれほど注意深くないこともあり、評点としての価値には様々な疑問があった。
 しかしここで取り上げた著書は、評伝と既刊の『ドビュッシー書簡集 1884~1918』とは補完関係にある。同じ著者、訳者の師弟コンビによるこれらの2冊の刊行で、ドビュッシー研究の一次資料が日本でもようやく揃ったことになる。

クロード・ドビュッシー 6

伝記 クロード・ドビュッシー 原書名:CLAUDE DEBUSSY(Lesure,Francois)
ルシュール,フランソワ【著】(Lesure,Francois)  
笠羽 映子【訳】 音楽之友社 A5判 508頁 2003年

訳者・笠羽映子[カサバエイコ]
1976年、東京芸術大学大学院修了。1981年、パリ第四大学博士課程修了。現在、早稲田大学社会科学部教授

その内容は・・・・・・・

[目次]


波乱に富んだ幼年期

1872~1879年 ピアニストの挫折
1880~1882年 作曲家の誕生
1882~1884年 ローマ大賞への道
1885~1887年 ラ・ヴィラ・メディチ
1887~1889年 ボヘミアン時代の始まり
1890~1891年 ボードレールからマラルメへ
1892年 秘密主義と象徴主義
1893年 ショーソンの年
1894年 うまく行かない「おとぎ話」
1895~1896年 ピエール・ルイス―空疎な年月
1897~1898年 「陰気な悲しみ……」/『ペレアス』長い待機
1899~1900年 リリー=リロ
        ムッシュー・クロシュと『芸術における盟友たち』
        舞台裏から見た『ペレアス』/『ペレアス』の結果
1903年 『雅やかな宴』から『海』へ
1904年 ドビュッシー主義、新しい生活
1905年 『海』
1906~1907年 計画と小競り合い
1908年 オーケストラ指揮者
1909年 「遅延の病」
1910年 『映像』と『前奏曲』集
1911年 聖セバスティアン
1912年 バレエの年
1913年 『遊戯』ロシア旅行
1914年 最後の旅行
1914~1915年 戦争 プルヴィル
1916~1918年 虚無の工場

人間と時代 人物像/象徴主義とその遺産/音楽展望/結び

付録 幾つかのドビュッシー伝説をめぐって

訳者あとがき/主要参考文献/クロード・ドビュッシー作品目録/索引


クロード・ドビュッシー 5

 アシル=クロード・ドビュッシーが、マニュエル=アシル、ヴィクトリーヌ夫妻の長男として、パリの西、約20キロのところにあるサン・ジェルマン・アン・レイで生まれたのは、1862年8月23日の早朝の事だった。

クロード・ドビュッシー 1
サン・ジェルマン・アン・レイにあるドビュッシーの生家

 生まれた子は額が異常に大きく、ドビュッシー夫妻の長男誕生を祝福しに訪れた者を皆驚かせたという。父マニュエルは、18歳で海兵隊に入隊し、7年間をそこで過ごした後、母ヴィクトリーヌと結婚し、ドビュッシーが生まれた頃は陶器店を営んでいた。多くの大作曲家と違い、父母の家系ともに、音楽家はいなかったようである。

クロード・ドビュッシー 7

 幼い頃のドビュッシーは、音楽とは無縁の生活を送っていたようだが、1870年に入り、陶器店をたたんだ父マニュエルが印刷会社に職を得たため、パリに移り住んでいた一家は、普仏戦争とパリ・コミューンの騒乱を避けるため、パリからマニュエルの姉クレマンティーヌが住んでいた南仏のカンヌに疎開をする事になり、そこで初めて音楽に触れる機会を得る。

 ここで、彼はジャン・チェルッティというイタリア人のヴァイオリニストにピアノの手ほどきを受けるようになった。このカンヌでの滞在は、初めて音楽に触れる機会を得ただけでなく、南仏の青い空と海の強烈な印象をドビュッシーに植え付けて、後の彼の作品のインスピレーションの源泉ともなったのだった。

クロード・ドビュッシー 2
海から見たカンヌの街並み

 子供の頃のドビュッシーに強烈な印象を残したカンヌ滞在からパリに戻った一家だったが、パリ・コミューンに加わっていた父マニュエルが逮捕されて投獄されるという出来事が発生する。

 9歳になっていたアシル=クロードを筆頭に4人の子供を抱えていたヴィクトリーヌは悲劇のどん底に突き落とされるが、運命はどこで幸いに転じるか分からない。ドビュッシーは、父マニュエルが獄中で知り合ったシャルル・ド・シヴリという青年ピアニストの母親、アントワネット=フロール・モテ夫人にピアノを習う事になる。

 ショパンの弟子だったという噂もあった夫人の手ほどきを受けるようになってから、ドビュッシーのピアノの腕はみるみるうちに上達し、何と1年足らずのうちに、国立パリ高等音楽院の入学試験を受けるまでになった。

クロード・ドビュッシー 3
現在はフランス国立高等演劇学校となっている、当時のパリ高等音楽院校舎

 ドビュッシーは、約5倍の難関だった入学試験を突破して、1872年10月に音楽院に入学した。当時まだ10歳。これが、作曲家ドビュッシー誕生への第1歩であった。

 今年は近代音楽への道を切り開いたフランスの作曲家、クロード・ドビュッシーの生誕150周年にあたる。という事で、ドビュッシーの生涯をたどるには意義ある2012年であると思う。

 ドビュッシーの作曲家としての最初の作品群は、パリ高等音楽院に入学してから作り始めるようになった歌曲だった。1879年に作曲された2曲は残念ながら現存していないため、1880年に作曲された“Nuits d’Etoiles”(「星の夜」)が現存する作品の中では最初のものとなる。初期の頃は、「芸術のための芸術」を唱えたフランスの詩人、テオフィル・ゴティエの詩に作曲したものが多い。

クロード・ドビュッシー 4
ゴティエ(1811~1872年)

 彼はフランスのソプラノ歌手、サンドリーヌ・ピオーによるこのCDは、ドビュッシーがそのゴティエの詩に作曲した1881年の“Les Papillons”(「蝶々」)をはじめ、1913年の「ステファヌ・マラルメの三つの詩」まで18曲の歌曲が収められているが、いずれもフランスの香りに満ち溢れた歌唱で、インマゼールによる、これらの歌曲とほぼ同時代、1897年製の仏・エラール社のピアノによる伴奏もこれらの曲にふさわしい響きで花を添えている。

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音譜 gif  1

Clair de lune / Debbusy "月の光" ドビュッシー



La Merussy




書籍の森・・・「カルメン」プロスペル・メリメ著。Carmen Logic

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カルメン 8
                            CARMEN

カルメン 7
                    カルメンを演じる エリーナ・ガランチャ

『 カルメン 』プロスペル・メリメ著
          堀口大学訳 新潮文庫 1972

カルメン 1新                動くハート
 どこまで人間は完全に自由な存在として生きていけるのであろうか。

 貴方は自由に振まったおかげで、逆に縛られることもあるだろう。男と女の関係がいい例である。お互い愛し合えば合うほど相手の自由を奪いたくなるものである。

 しかし、愛が自由を奪うことはひじょうに人間的なものだ。だからこそ、それらが古今東西の小説のテーマになってきた。ドストエフスキーの「白痴」、スタンダールの「赤と黒」そしてプロスペル・メリメの「カルメン」では、最後、男が愛する女を殺す。愛の行きつくところが殺すことであったのだ。

 漱太郎はこの名作を幾たびか読んできた。すると日本人が少し不思議なのだ。

 日本人は誰でも“カルメンらしきもの”のことをよく知っている。少なくともそう思っている。黒か赤のドレスを着て一輪の花を口にくわえ、握りこぶしを腰にあて、もう一方の手で激しくスカートをからげて脚を踏み鳴らして踊っている姿こそそうである、と。つまり、タンターカ・タンタン・タカタカタン、タンターカタン・タンターカタン‥と始まる熱情的な曲が、誰でもアタマに浮かぶのである。

 しかし。このように日本ほど、カルメンの衣裳と曲が、コミカルにショーアップされてきた国はめずらしい。そう、この国はまことに珍しのだ。そのためカルメンに扮した芸人は、たいてい薔薇を口にくわえているのだが、実は原作でもオペラでもそんなふうにはなっていない。実際にカルメンがくわえているのはジャスミンの一輪か、あるいはアカシアの枝花なのである。

 したがって日本人は“カルメンらしきもの”をよく知っていることになる。それはカルメンではなく、らしきモノなのだ。したがって、『カルメン』がいったい何を訴えたのかということは、そして、この物語がどうしてこんなに人口に膾炙されのかという背景だけは、ちょっとは気にしたほうがいい。

 ある意味、日本人にとって「カルメン」とは、小説よりオペラの方が有名であるのかもしれない。あのビゼーが作曲したリズミカルな曲は、誰もが一度は聴いたことがあるに違いない。このオペラの原作がメリメの「カルメン」である。

カルメン 6

 メリメはフランスの作家である。漱太郎がメリメの名前を知ったのは太宰治の作品からであった。太宰は自分のことを怠け者みたいにいうが、実際にはたいへんな読書家であり、勉強家であった。太宰はメリメを高く評価していた。
 メリメの「カルメン」は傑作である。傑作の上に大がついてもいいのかもしれない。読んだあとも長い間感動の余韻が残る。奇妙にあとを引く。そこには男と女の究極的な愛の形が見事に描かれている。しかも、「カルメン」は単なる男と女の恋愛を書いたものではない。歴史そして神話がベースになって「カルメン」の世界が写しだされているわけだ。そこに味わいの深みがある。この意味ではメリメはすぐれた考古学者であった。
 カルメンにはその教養の広さが作品の中に遺憾なく発揮されている。メリメは考古学の研究のために何度かスペインを訪れている。そのとき女の友達から聞かされたのが山賊の話である。「カルメン」はその伝え聞いた話がベースになっている。

 さらにそうした背景のほうを先に言っておくと、『カルメン』は、ナポレオンがヨーロッパを席巻し、挫折し、そしてヨーロッパ各国に民族主義の狼煙が上がってきたときの、そういうナポレオン3世時代のフランス人であったプロスペル・メリメが、あえてスペインに取材して書いた物語なのである。

 この作品の読者になろうとする貴方は、

 加えてプロスペル・メリメという作家が、なぜカルメンというキャラクターを作り上げたのかということも、感じておいたほうがいい。

 この物語は非常によく出来ている。このばあいよく出来ているというのは、早くにジャン・ジャック・ルソーが言った「語り手の視点」と「登場人物の視点」の違いが、読者がうける物語世界を膨らますという、その出来ぐあいにまさしく沿っているということだ。

 この出来ぐあいを感じさせるにあたって、カルメンというエジプシャンで、スパニッシュなキャラクターがあまりに突飛であることが効いていると思う。エジプシャンというのはジプシー的という意味でもある。じつは、そこから何を感じるかにあたっては、その多様性がかなり開かれているか、かなり深いか、かなり象徴的であるからで、そのため解釈はそうとう可変的であるということになる。そのことは、その後の『カルメン』のオペラ再演の演出解釈や、映画化にあたっての解釈の変遷を見るだけでも伝わってくる。

 しかし物語が難しいのではない。つまりこのジプシー女カルメンを介在させた男と女の物語は、『心中天網島』や『マノン・レスコー』や『アンナ・カレーニナ』に匹敵するということなのだ。
 『カルメン』は映画化されただけでも、セシル・B・デミルを筆頭におそらく30回をこえているはずである。そして漱太郎はそのうちの数本を観たにすぎないのだが、それでもひとつとして同じものがないのはそのためである。
 たとえばそのひとつ、ジャン・リュック・ゴダールが演出をした『カルメン』なんて、いったい何を訴えているのか、さっぱりわからないという評判だった。しかしそのように、『カルメン』をひとつの解釈にしてしまうことはとても危険なのだ。そのことをゴダールも訴えていた。話も登場人物も現代フランスに移されていて、カルメンとドン・ホセの絡みがあるわけではないし、殺人があるわけではない。しかし、あれはあれでゴダールのカルメンだったのである。

カルメン 4 プロスペル・メリメ

 「カルメン」は、作者(メリメのこと)の語りですすめられる。作者が考古学の研究のためスペインのある地域を旅行中、山の中である男に出会う。その男はやつれていた。作者は男に葉巻をやり、そして食事を与えた。作者と男と作者の旅の案内人がその日は一緒に宿に泊まった。

 男は名うての山賊のドン・ホセであった。ホセは指名手配中の犯罪者で、彼の居所をお上に知らせると多額の報奨金がもらえた。案内人はお金に目がくらんでこっそりとホセのことを近くの槍騎兵の屯営所に知らせに行った。作者はそれに気がつき、ホセにまもなく槍騎兵が押しかけてくることを伝えた。ホセはうまく逃げた。それと同時に作者に対して強い恩義を感じた。

 それから数日してドン・ホセは死刑囚として投獄された。作者は死刑執行の前にホセに会い、そして彼から身の上話を聞いた。

 ドン・ホセは名前が示すように一応貴族の出身であるが、若いとき、喧嘩をして故郷を出なければならなかった。ホセは騎兵として連隊に入隊した。そこで出会ったのがジプシー女のカルメンであった。カルメンは傷害の罪で連隊につかまった。カルメンを監獄に送るのがホセの役目であった。ホセはうまく丸め込まれ、カルメンを逃がしてしまった。ホセは連隊から懲罰を与えられた。

 カルメンはホセに惚れた。ホセもカルメンのことが忘れられなくなった。カルメンは情熱的な美人であった。カスタネットの伴奏で腰を振らせる踊りを踊った。その踊りが男を魅了した。

 ホセは連隊から逃げ出し、カルメンと行動を伴にするようになった。2人は夫婦になった。ジプシーのある者たちは密輸で暮らしていた。カルメンもその1人でホセも密輸をした。それをきっかけに、ホセは奈落の底へ落ちていった。カルメンはホセにとって悪魔のような女であった。ホセは魂まで吸い取られてしまった。気がついてみるとホセは平気で人を殺す極悪人になっていた。ホセはますますカルメンのことを愛した。

 そのようなカルメンはまったく自由な女であった。人から指図されることを極度に嫌った。恋愛感情も同じであった。彼女はある闘牛士が好きになった。ホセは嫉妬に狂い、カルメンを責めた。カルメンはホセのいうことに反発した。そのあげく、ホセはカルメンを小柄で刺して殺してしまった。ホセは自首をした。

 カルメンの踊りはどれほど男を魅了したであろうか。カルメンは人を殺すのに何の躊躇もなかった。まさに悪魔が美人の仮面をかぶっているような女であった。そのような女に惚れて身を持ち崩したドン・ホセを作者のメリメは私の友といっている。このメリメの姿勢が「カルメン」を傑作にしているのは間違いないであろう。

 そもそもオペラの『カルメン』にして、原作とはだいぶん違っていた。ジョルジュ・ビゼーが『カルメン』を本格的オペラにしたのは1875年で、台本はリュドヴィク・アレヴィとアンリ・メイヤックが共同編集したのだが、まずもって登場人物の名前が違っていて、それもあって筋書きにからむ配分も違ってきた。

 カルメンに惚れぬいてカルメンを殺した男は原作ではホセ・ナヴァロで、通称のドン・ホセは数回しか出てこないのだが、オペラではドン・ホセで通していて、いまやこちらの名前のほうが有名になっているし、カルメンがホセを裏切って体を許す闘牛士リュカス(ルカス)は、オペラではこれまたこちらのほうがずっと有名なエスカミーリョになっている。
 それでもそこまでは違いはたいしたことではないが、原作ではホセ・ナヴァロの許婚であるにもかかわらず名前も与えられていない娘は、オペラではミカエラとなって、けっこう大事な役割を振り当てられた。カルメンのかつての情夫であったガルシアなんぞは、オペラではまったく出てこない。舞台も微妙に変わる。とくにカルメンが殺されるラストシーンは、オペラでは闘牛場の近くになる。

 なぜこういうふうに変わったのかといえば、ビゼーのオペラは登場人物たちが「歌い切ること」を求めたので、その「歌い切り」のため、台本ではそれぞれの役回りが立ち上がってくるよう配分されたからだ。だからこそ、カルメンが歌う「ハバネラ」「セギディーリャ」「ジプシーの歌」、ドン・ホセの「花の歌」、エスカミーリョの「闘牛士の歌」などが、原作にない歌詞によっておおいに盛り上がる。

 かくしてオペラ『カルメン』がすでに原作を変更したため、その後の映画も舞台も次々に変容を遂げやすくなったのである。
 しかし漱太郎が考えるには、原作とオペラや映画との最も決定的なちがいは、ホセ・ナヴァロからカルメンとの顛末の話を聞く「私」(一人称)がすっかり省かれたことにある。そこにメリメがいるにもかかわらず、オペラや映画ではほとんど抹消されてきたということだ。

 繰り返すがプロスペル・メリメは考古学者だった。美術史家でもあった。1834年に歴史記念物監督官になっている。デッサンもじつにうまい。
 意外かもしれないが、メリメはまた政治家でもあった。1853年(嘉永6)にナポレオン3世期の上院議員になった。その時期にけっこう歴史研究に熱中し、歴史アカデミーやアカデミー・フランセーズの会員にもなっている。
 メリメはフランス語はむろん、英語にもギリシア語にもスペイン語にもロシア語にも通暁していた。これも意外に思うかもしれないが、フランスにロシア文学を紹介したのはメリメその人なのである。プーシキン、ゴーゴリ、ツルゲーネフをフランス語に翻訳したのはメリメなのだ。そこには帝政ロシアを舞台にした『にせ者ディメトリウス』『昔のコザック』という作品もある。
 これらはメリメが『カルメン』の作家であることについての、見逃しがたい才能を暗示するとともに、『カルメン』が描かれた理由を重要に暗示する。

 さて、こういうメリメにはたくさんのガールフレンドがいた。ところが、ドレーセル夫人との有名な不倫や、オペラ座の踊り子セリーヌ・カイヨとの放蕩三昧もあったのに、あまりスキャンダルにはなっていない。

 多くの女性と昵懇になりながら、何をどう工面したのか知らないが、“妖しい友情”を保ちつづけられたからだ。『アルセーヌ・ギヨ』という小説があるのだが、これはメリメがドレーセル夫人の怒り(メリメに女関係がありすぎることに対する怒り)を鎮めるために書いたようなものだった。

 だからガールフレンドたちと交わした手紙も多く、その『書簡集』は全3巻におよんでいる。よくぞ燃やしてしまわなかったと思うけれど、今となっては第二帝政時代のフランスの社交界を知る貴重な記録にもなっている。
 もっともそれらを覗いてみると、ガールフレンドに対する手紙もコマメに“文学していた”ことがよくわかる。メリメは植物学にも生涯にわたって関心を示したのだが、たとえば「未知の女への手紙」には、「植物学の書物が教えることがらはきわめて興味深いものがあるが、それにしても途方もな「不道徳なのです」などと慇懃に書いている。
 なるほど、こういうふうに書くのかと感心する。“誤謬なき科学”たらんことをめざす植物学にさえ「不道徳」があるのですというような言い分をちらりと挟むあたり、この絶妙な配慮がメリメをメリメたらしめていた。そして、ここにこそ『カルメン』の作者としての独自の才能が見え隠れするのだ。

 カルメンを読む場合、そういうメリメがスペインに3度にわたって、旅行したのだと思ってほしい。27歳のときの1830年(天保1)に半年ほどと、31歳の1834年(天保5)、37歳になった1840年(天保11)の3度である。
 1回目の旅で知り合ったモンチホ伯爵夫人とその後もながく交際をしたのは、その娘がナポレオン3世の花嫁になり、かのウージェニー皇后となったからでもある。皇后となった夫人がヴェルサイユに入ったときは、スタンダールと一緒に会いにも行っている。スタンダールとは何度もこういうふうに行動をともにした。

 メリメがスペインに関心をもったのは、ひとつは歴史遺産への興味、もうひとつはジプシー文化への興味だった。とくにジプシーについては、かれらがボヘミアン、ヒタノス、チゴイネルなどと呼ばれてヨーロッパ中を放浪しながらも、なぜスペインに定住するようになったのかということ、かれらはなぜロマニ語を使っているのかということを、いっぱしの歴史学者らしくも調べたかったからだ。

 こうしてメリメが「両界マガジン」に『カルメン』を発表したのは42歳のときの1844年(弘化2)である。これは3回目の旅行の5年後にあたる。あきらかにジプシー文化に対する好奇心にもとづいていた。このことは、『カルメン』の原作は、とりあげた新潮文庫でいえば100ページほどの、短篇に近い中篇作品なのだが、そのうちの最後の10ページをびっしりジプシー文化論の蘊蓄にさいていることでも、察しがつく。物語の最後にこういう蘊蓄を披露するのもめずらしい。これは、今から見るとかなり不完全なジプシー論となる。

 では、メリメはジプシー女を描きたくてカルメンというキャラクターを作り上げたのかというと、どうもそうではない。むしろ恋愛ナラティヴィティにひそむ激情と悲哀についてのメリメの思いが、カルメンとその背景に託された。

 ちなみに、漱太郎に限らず日本人はずっとジプシーに憧れていた。リストの『ハンガリアン・ラプソディ』、シューマンの『流浪の民』、サラサーテの『ツィゴイネルワイゼン』に誘われ、なんともノーマッドな哀愁を抱えたジプシーへの憧れを長らくもっていた。

 そこで漱太郎は、あるとき集中して、ジュール・プロックの『ジプシー』を皮切りに、ジュディス・オークリーの『旅するジプシーの人類学』、小川悟『ジプシー:抑圧と迫害の轍』、チャールズ・リーランド『ジプシーの魔術と占い』、相沢久『ジプシー』などを読みまくってみた。だから、ジプシーという名称が英語圏の「エジプシャン」が訛ったものであることも、ワールドカップで頭突きを食らわしたジタンの姓がジプシーの意味であることも、いまではちっとも驚かない。馬術団の「ジンガロ」もレストランの「ツィンガロ」もジプシーなのである。


 ところが、ところが、どうしてだかわからないのだが、以前から『カルメン』からはジプシーの憧れがやってこなかった。これは読めばわかるが、カルメンはジプシー女のプロトタイプではなく、むしろ逸脱的なのである。まったくステレオタイプですらない。

 ということは、どういうことか。カルメンとはジプシー女を借りたメリメの乾坤一擲の仕掛けだったということだ。それゆえ、カルメンとドン・ホセ(ドン・ナヴァロ)が愛し、歪み、罵倒しあい、塗(まみ)れ、狂気に走り、諦め、その顛末を悔恨すらしないのは、そして、そのような物語に多くのファンがついたということは、さらにその物語の解釈がかなり多様になりえたのは、そこに恋愛ナラティヴィティのアーキタイプが隠されているからだったのだ。

 メリメが仕掛けた『カルメン』は、そもそもが「語りもの」なのである。実はフランス製のスペイン浄瑠璃なのだ。
 語っているのがスペインのナヴァーラの男ホセ・ナヴァロで、あるときの勝負事が咎められ、いまはセヴィリアの煙草工場の衛兵勤務についている。そういう設定なのだ。このホセ・ナヴァロがあれこれ縷々切々と語る話を、「私」が聞き役になって、それが物語になっていく〔つまり一人称語りなのである〕。しかし「私」はホセと初めて出会ってからいったん別れ、小説の途中でまた出会う。そのときはすでにカルメンを殺してしまったあとになる。しかし一方、「私」は、ホセとは別にカルメンとコルドヴァの橋の上でも会っている。

 だから最初は「私」がナヴァロと出会う場面に、やがてカルメンを殺害することになる男の輪郭と印象を知るうえで重要な伏線が張られているわけだ。また、二度目に出会ったときは、「私」も読者も、ホセがその後どのようなカルメンとの葛藤をもったかは知ってはいない。男の「語り」が進むうちに、その異常な物語の顛末が見えてくるというふうになる。

 このため、物語はカルメンという男の誰もが御せない女性を、読者もまた御せないままに進む。その「あいだ」を巧みに作っているのは、「私」と、その「私」に向かったホセが一部始終を話そうとする「語り」の意志である。そこがオペラでは、カルメンを登場させるための演出の準備から入って、一気にアリア「ハバネラ」へ持っていく。こちらは、もっぱらのカルメン劇場なのである。

 話は、こう始まっている。「私」はスペインに歴史調査のための旅行にきた者で〔つまりはこれこそメリメがやりたい仕事にあたるわけだが〕、コルドヴァで案内人を雇い、2頭の馬を買って、カエサル(シーザー)の『ガリア戦記』と着替えのシャツ数枚で、カチェナ平野の山沿いを旅をしていた。

 それで馬の水飲み場を見つけたところ、そこに屈強そうで、獰猛な風体で、追剥めいた男がいた。片手に馬の轡(くつわ)をとり、片手で短銃を握っている。もっとも「私」はたいした所持品がないのだから、びくつくこともないだろうと、火口(ほぐち)を持っていないかと言葉をかけ、葉巻も見せることにした。「やります、セニョール」と、この男が言った[スペインでは葉巻一本のやりとりが近東でパンと食塩を分け合うほどに重要なのである]。
 こうして「私」はホセ・ナヴァロと知り合った。聞けば、お互いにこのあとは「烏亭」という宿屋に泊まる。それなら一緒に行こうということになったのだが、案内人がいっこうに落ち着かない。理由をただすと、「あいつは名うてのお尋ね者なんでんよ」という。200デュカスの賞金もかかっている。それで適当に付き合ったまま、二人は別れて別々の道に進む。
 これがプロローグだ。ここまでで、獰猛で短銃を持っている男がお尋ね者でありながら、「私」にはそれほど度し難い人物とは思えない何かを秘めているらしいことが感じられてくる。

カルメン 2 杉捷夫訳(岩波書店)


 その後、「私」は数日をコルドヴァですごした。ドミニク派の僧院の文庫に、古代ムンダに関する興味ある写本が見つかりそうだと聞いたからだ。コルドヴァでは日没近くにグァダルキヴィール川の右岸に大勢の者たちが集まる。女たちが水浴びをするのを見物するためだ。

 ある宵、「私」は橋の欄干にもたれて葉巻を吸っていたところ、水際の階段からジャスミンの花束を髪にさした小柄な女が上がってきた。黒一色の衣裳を貧しげにまとい、「私」に近づくとムマンティーヤ(スペイン女性のかぶりもの)をすらりと肩にすべらせた。いい匂いねとフランス製の葉巻の煙りをかいでいる。とても大きな黒い目をしていた。「私」はふとこの女と氷菓子を食べたくなって誘ってみたところ、いいけど、でも何時頃かしらと言う。
 懐中時計を鳴らしてみたら、女はたちまち「あら、イギリスの旦那ね」と顔を向けた。当時、懐中時計は紳士の印であって、他人の気をひくための強力な小道具だった。「私」は、いや、フランス人だと告げて、今度は「アンダルシアの人だね」と当ててみた。女は笑いながらはぐらかしていたが、「いやだわ、ジプシーだとわかってらっしゃるくせに」と言う。

 とんでもない美人だ。だいたいジプシーは汚れているのが相場だし、化粧にも関心がない。一方、スペインでは美人は“3つの黒”が秀でていなければならない。それは目と睫毛と眉だ。その点からいってもジプシーでこんな美人はめったにいない。唇はやや厚く、髪は黒くて艶やかだ。そして全貌が異様に野性的なのである。それがカルメンだった。

 われわれは氷菓子のあとは夜の散歩をし、カルメンが導く家に入った。水差しとオレンジ一山とタマネギ一束が置いてある。彼女は古いトランプと磁石と干したカメレオンで「私」を占い、われわれは他愛なく笑いあった。と、そのとき、その怪しげな家にドン・ナヴァロが入ってきた。「おや、これはこれは旦那でしたか」と。
 物語は、ここでやっと糸がちょっとだけ結びあう。「私」はカルメンが男を前にするとしだいに活気づき、挑発的になっていくのを感じるのだが、それもつかのま、男は「私」を夜の町に連れ出すと「ここをまっすぐ行けば橋の袂に出ますぜ」と放り出した。これでわかるように、そのころジプシー女を美しいと思う感覚など、ヨーロッパに皆無だったのだ。ジプシー女に関心が集まるのはメリメが『カルメン』を書いてから、ビゼーがそれをオペラにしてからのことなのである。

 かくてこうしてお膳立てが揃ったわけである。「私」はいったんコルドヴァを離れてアンダルシア各地の調査に入り、マドリードに向かう途中に、ドミニク派の僧院に寄ることにした。
 ところがそこで神父から意外な話を聞かされる。悪行をはたらいていたドン・ナヴァロがやっと捕まって、明後日に特赦なしの絞首刑にかけられるというのだ。そのため神父は懴悔の儀式をさせる担当になっているという。「私」は頼みこんで男に会うことにした。そこで、男が縷々語りはじめたのは‥‥ということで、ここからがいわゆるカルメンとの恋と葛藤の物語になっていく。

 ここからはすべてドン・ナヴァロ(ドン・ホセ)の「語り」に切り替わる。これがメリメのナラティヴィティだった。一方、オペラのほうはここからの出来事だけで構成される。バスクの男ドン・ホセがセヴィリアの煙草工場で衛兵になっていたとき、カルメンに出会うのである。

 ちなみにこのときのカルメンの衣裳が鮮烈で、メリメはそんなつもりではなかったろうが、ここからすべてのカルメン幻想が立ち上がる。黒いワンピースに真っ赤なペチコート。白い絹の靴下とモロッコ皮の靴には火色のリボン。そして唇の端にはアカシアの花。そんな恰好で牝馬のように腰をブリブリふって歩いていたのだ。マリリン・モンローの母型はここにあったのだ。ホセは言う、「旦那、こんな女を見たら、誰だって麻除けの十字を切るはずてさあ」と。魔除けの十字を切ったのはホセだけではない。これによって世界中のカルメン・ファンがぞくぞく・くねくね・しはじめた。

 このあとの話はよく知られている。カルメンが煙草工場の女工たちと喧嘩をはじめ、衛兵ホセがしょっぴくことになったのだが、カルメンに頼まれてこれを見逃し、ここから「男の躓き」と「恋慕の逆上」と「人生の転落」が始まっていく。

カルメン 3 平岡篤頼訳(講談社)


 古びた一軒の家でカルメンは二人が買い物したばかりのものを床にぶちまける。このあと壊した皿のかけらをカスタネットにして踊り狂う場面は、ホセをこそ狂わせた。営倉入りを覚悟でその家に朝までいることにしたホセに、しかしカルメンは、さあ、これで貸し借りはなしよ、さようならと言ってのける。

 これでは男の火が燃え上がらないわけがない。邪険にされたままならなんとか火焔もおさまるが、ホセが城門で歩哨の任務についていたとき、貸し借りなしのはずのカルメンが近寄ってきて、「仲間の密売人たちを城門から通させてね」と言ってくる。不覚にもホセはこの願いを叶えるのだが、こうしてカルメンは何かを頼むために擦り寄っては、そのつど去ってしまうようになる。

 その後は、カルメンの「そぶり」のすべてが嫉妬をかきたてる。連隊の仲間にカルメンが見せた「そぶり」は挑発としか思えない。ついついホセはその男を殺してしまった。それならそれで見捨てるのかというと、そこがおかしい。カルメンは負傷したホセの傷口を手当し、逃げようと言う。ホセもこれで捕まれば銃殺刑だから、出たとこ勝負にカルメンとともに密売人のアジトに入る。つまりは、ホセは体も心もめちゃくちゃ、ずたずたなのである。悪漢というものは、たいていこういうときは純情なのだ。

 かくてカルメンが闘牛士のリュカス(これがオペラのエスカミーリョ)に色気をふりまいていると知ると、ホセは「二人でアメリカに行こう」と迫る。むろんそんなことを受けるカルメンじゃない。
 闘牛場から帰ってくるカルメンを馴染みの家で深夜まで待ちつづけたホセは、ついに堪忍袋の緒を切った。明け方、馬に乗せて修道僧のあばら家にカルメンを押し込むと、「もう一度だけ言う。おれと一緒に暮らしていく気はないんだな」とすごむ。カルメンは「いや、いやっ」と言うだけである。オペラでは、このあたりプリマンドンナの演技が難しいのだ。

 ホセは決意した。「おまえを殺してやる」。カルメンは平気の平坐で言ってのける、「そうなると思っていたわ」。ホセは短刀で二突き、胸を刺す。カルメンは声も立てずに黒い目を閉じた。そしてホセは「私」に向きなおって、こう、しみじみと言う。「いまでもあの女の大きな黒い目がじっと私を見つめているような気がします」‥‥と。
 これで長い「語り」が終わる。ホセは墓穴を掘り、十字架と一緒にカルメンを埋めると、コルドヴァまで一気に馬で走り続ける。そして「私」は話の結末に、ジプシーというものがどういう者たちなのかを、カルメンの素性や個性とはまったく関係なく書き綴る。

カルメン 5 工藤庸子訳(新書館)


 メリメの『カルメン』とはこういう仕掛けの物語なのである。

 いったい何が書いてあったのかといえば、カルメンの「そぶり」と「たち」を書いた小説なのだ。そこにアンダルシアとセヴィリヤの風土を加え、そこにほんの一摘みのジプシーの異様をはらはらとふりかけたのだ。

 そうなのである。この恋愛ナラティヴィティの逸品は、カルメンの「そぶり」と「たち」に「風土と宿命」を込めてみせたのだ。このメリメの狙いはまんまと当たった。そしてカルメン幻想ばかりが肥大した。かくして案の定、これを読む者にも、これを演出する者にも、オペラを見た者にも、必ず次のセリフが飛んでくることになったのだ。「気をつけたほうがいいわよ。わたしという女は、人に何かをしてはいけないと言われると、さっさとそれをしてしまうたちだから」と。

 そうしてこのフランス製のスペイン浄瑠璃、かくして一巻の終わりとなる。
 この『カルメン』は平岡篤頼訳(講談社)と、杉捷夫訳(岩波書店)、工藤庸子訳(新書館)などがある。本著書を読むと、改めてオペラ作品の深みにある意味合いを深くし観賞感をも倍増させる。つまりはオペラの行間を埋めてくれる新たな楽しさが生まれる。

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 Opera

Georges Bizet - CARMEN - 1. Akt / 1st Movement



Georges Bizet - CARMEN
Komische Oper, 1. Akt
Libretto: Henri Meilhac / Ludovic Halévy
Carmen: Anita Rachvelishvili
Don José: Jonas Kaufmann
Michaela: Adriana Damato
Escamillo: Erwin Schrott
Mercédès: Adriana Kucerová
Frascita: Michele Losier
Chor und Orchester der Mailänder Scala / Choer e Orchestre de la Scala di Milan
Musikalische Leitung: Daniel Barenboim
Inszenierung und Kostüme: Emma Dante


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話題の書籍・『ファッションは語りはじめた 現代日本のファッション批評』

きつつきF  書籍の森
鹿F

『ファッションは語りはじめた 
 現代日本のファッション批評』
  動く本


 新しいファッションの在り方について問題意識を持つ気鋭の書籍。

 ファッションの在り方を批評する書籍『ファッションは語りはじめた 現代日本のファッション批評』が、昨年2011年8月24日に刊行されている。

ファッションは語りはじめた 1

 この本が野心的な取り組みだと思うのは、日本のストリートブランドを批評するという困難さに正面から向き合っている点だ。批評の上でアーカイブしつつ、従って“古さ”を想起させるリスクを引き受けつつも参照軸としての批評を成り立たせようという意気込みを感じる。

 同書には、ファッションの在り方について問題意識を持つ書き手やクリエイターがジャンルを越えて寄稿。ブランド、ファッション写真、様々なファッションムーブメント、身体などを対象に、鋭い分析を行っている。編集は、ファッション情報サイト「high fashion ONLINE」のチーフエディターを務める西谷真理子が担当。

 掲載内容は、批評家の千葉雅也と服飾文化研究者の蘆田裕史による対談や、A BATHING APEやアンダーカバー論などを分析する日本のファッションブランド論。さらに、芸術祭「スペクタクル」シリーズの運営に関わるドリフターズ・インターナショナルによるファッション研究座談会、ストリートやサブカルチャーから生まれたファッションの流れやムーブメントを黒瀬陽平(カオス*ラウンジ)らが読み解く論考などが掲載されている。

 また、『ACROSS』編集部による『ストリートカルチャー&ファッション年表 1989‒2011』も収録されており、ファッション界の変革を社会の動きと同時に俯瞰することが出来るだろう。
西谷真理子 編/蘆田裕史、千葉雅也、鈴木親、林央子、井伊あかり、黒瀬陽平、田村有紀、高野公三子、藤原徹平、金森香、中村茜、川田十夢、神田恵介、山縣良和、他 著/A5判/280頁(フィルムアート社)

ファッションは語りはじめた 2
 現在進行形の日本のファッションをめぐるさまざまなことばを結集し、変わりはじめているファッションの輪郭を引き直す、クリエーションとクリティークの最前線!!

 ファッションクリティーク元年!!

 新しいファッションの在り方について問題意識を持つ気鋭の書き手/クリエイターが、ファッションの外部/内部を問わず集結。現代日本のファッションを位置付け、研究の視座を提供することで、現代ファッションのシフトチェンジの可能性を探る。同時代のファッションを語る言説や文脈の不在を今一度考えて、紡ぎ直していくための一冊である。


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Best Of Paris Haute Couture Spring/Summer 2012




書籍の森・・・「ヘレンケラーはどう教育されたか」新玉の一冊。

鹿F

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小鳥F  書籍の森   動く本


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ヘレンケラー 2

Helen Adams Keller

 ヘレン・アダムス・ケラー(英: Helen Adams Keller、1880年6月27日 - 1968年6月1日)は、アメリカ合衆国の教育家・社会福祉事業家である。自らも重い障害を背負いながらも、世界各地を歴訪し、身体障害者の教育・福祉に尽くした。

 1887年、彼女の両親アーサー・ケラーとケイト・ケラーは聴覚障害児の教育を研究していたアレクサンダー・グラハム・ベル(電話の発明者として知られる)を訪れ、彼の紹介でマサチューセッツ州のウォータータウンにあるパーキンス盲学校の校長アナグノスに手紙を出し、家庭教師の派遣を要請する。3月3日に派遣されてきたのが、同学校を優秀な成績で卒業した当時20歳のアン・サリバン(通称アニー)であった。アン・サリバンは、小さい頃から弱視であったため(手術をして当時はもう見えていた)自分の経験を生かしてヘレンに「しつけ」「指文字」「言葉」を教えた。おかげでヘレンは、諦めかけられていた「話す」ことができるようになった。彼女はその後約50年にもわたってよき教師として、そして友人として、ヘレン・ケラーを支えていくことになる。

ヘレン・ケラーはどう教育されたか

ヘレンケラー 1

これはヘレン・ケラーの様子をしるしたサリバンの手紙からなる書。 サリバン 著/遠山 啓・槙 恭子 訳

 障害児が十分に教育可能であることを事実で証明した本記録は、障害児教育に携わる人々や全ての子らを賢くしたいと願う人々に大きな示唆を与える。

ヘレンケラー 5

写真は、サリバン先生と指話を交わす7歳のヘレン

著書の内容・・・・
      はしがき
      サリバン女史の手紙
      ヘレン・ケラーの話し方について
      訳者あとがき


 下記は訳者の遠山啓による、はしがきの文章である。サリバン書の内容はここに手堅く述べられている。したがってその全文をご紹介しよう。

 はしがき・・・・・・・・・・・・

 すべての子どもを賢くすこやかに育てることが、教育という仕事の目標でなければならない。そのことに正面から異議をとなえる人はおそらく一人もいないだろう。
 しかし、建前はそうであっても現実はどうであろうか。現在の学校の現実はこの建前どおりになっているだろうか。一人の子どもも落後させることなしに毎回の授業は進められているのだろうか。いまの学校は、子どもたちを優等から劣等へと一直線に序列づけ、優等生をちやほやし、劣等生をおとしめる選別のための機関となり果てていないだろうか。
 数年前の全国教育研究所連盟の調査によると、半数以上の子どもが学校の授業から取り残されているという。それはたしかに驚くべきことであったが、もっと驚くべきことは、教育界がこの調査結果に少しも驚かなかったことである。
 もしこれが学校の給食のばあいだったらどうなっていただろうか。ある日のある学校の給食で半数以上の子どもが消化不良を起こしたとしたら、たぶん大騒ぎになっていただろう。ただちに調査が開始され、材料の仕入れ先から、料理人の健康状態まで徹底的に究明されるにちがいない。ところが子どもの精神的給食ともいうべき授業で消化不良を起こしても誰一人驚かないのはなぜだろうか。
 それはいまの学校がすべての子どもを賢くするという目標を事実上放棄して、何パーセントかの子どもが落後するのは当然であり、その落後する子どもを選び出してそれを切り捨てることを学校の任務とさえ考えているからである。そのような現実のなかでもっとも冷い待遇を受けているのはいうまでもなく障害児である。
 最近ようやく障害児教育の重要性がみとめられるようになったことは喜ばしいことであるが、その内実に立ち入ってみると必ずしも満足できる状態ではない。一個の人間としての障害児の権利がみとめられた、というより、普通学校の授業の邪魔になるからこれを別のクラス、別の学校に入れて隔離しようという考えが強いのである。
 盲、聾、ちえおくれ、身体障害等の子どもは少なくないが、その一部分しか学校に行くことができないでいるし、また学校に通っている子どもも、適切な教育を受けているとは言い難い。本来ならば普通児にくらべて特に手厚い教育を受けなければならない子どもたちが、厄介者あつかいされている、というのがいつわりのない実情である。
 このような実態を改めていくことは今後の教育の重要な課題であるが、このためにはまず障害児が十分に教育可能であることを事実によって証明して見せる必要がある。
 そのことを何よりも鮮やかに立証してみせたのはヘレン・ケラーであり、彼女の教師アン・サリバン女史であった。
 ヘレンがサリバンの手によってどのような教育を受け、どのように言語を獲得していき、人間らしい思考力と行動を身につけていったかを知ることは、まさにその証明となるはずである。
 盲、聾、唖という三重の障害を背負ったヘレンが、どのような人間にまで成長したか、その結果だけを見れば、たしかに奇跡というほかに言いようのないことであるかも知れない。
 ヘレン・ケラーは数回わが国を訪れ、大きな感動をまき起こしたが、どちらかというと奇跡を目撃したいという好奇心の対象となっただけで、着実な障害児教育の出発点とはならなかったようである。そのことは、本書のような貴重な記録が今日まで訳出されなかったことによっても、立証されているとも言えるだろう。
 本書を詳しく読めば、ヘレン・ケラーが決して奇跡の人などではなく、すぐれた教育の結果であることが分かるだろう。
 そこにはたしかに二つの恵まれた条件があった。
 その一つは、ヘレンから光と音とを奪った幼時の熱病は、彼女のすぐれた脳には一指も触れることがなかったことである。
 第二に、ヘレンの師サリバン女史が稀にみるすぐれた教育者であったことである。
 その二つの条件がそろっていたことは一つの僥倖であったかも知れないが、それから先は、きわめて合理的な教育法の生み出した当然の結果であったというべきであろう。
 そこでどのような教育が行なわれたかについて私たちはつぎの二つの記録を持っている。一つはヘレン・ケラー『わたしの生涯』(角川文庫)であり、もう一つはここに訳出された『ヘレン・ケラーはどう教育されたか――サリバン先生の記録――』である。
 前者は教育を受けた側の記録であり、後者は教育を授けた側の記録である。このように、一つの教育の営みを両方の側から記録した例は珍しいことであるかも知れない。
 この本によってサリバンという人がどのようにすぐれた教師であったかを知ることができるだろう。
 絵画とか、音楽には天分というほかはないような特別な才能を持った人がいるが、教師にもそういう人がいる。
 教室のなかで、子どもたちの表情や動作から、瞬間的に子どもたちの心の動きを洞察して、臨機応変の処置のとれる人がいる。そういう人はやはり生まれつきの天分をもった人というほかはない。サリバン女史はそのような天分を最高度に持ち合わせた人だったらしい。
 ヘレンと会った最初の日に、一服する間もなく、サリバンは doll という字を教えようとするが、これなども普通の人にはできないことである。
 また甘やかされていたヘレンをきびしく訓練するために家族から引きはなして、一軒家に住むことにする。これも二十歳を越したばかりの若い娘にはなかなかできないことである。
 ヘレンが言葉を獲得していく過程が詳細に記録されているが、これも幼児の言語教育に大きな示唆を与えるものであろう。
 とくにおもしろいのは、ネズミが出てきたときのエピソードである。サリバンはこの小さな偶然事をすぐさま教育の材料として利用してしまう。
 この本は障害児の教育にたずさわっている人々にとって汲みつくすことのできない教訓を提供してくれることはもちろんであるが、もっと広く、普通児の教育にたずさわっている人々にも数々の示唆を与えてくれるだろう。
 この二人の記録を併せ読んだ後ですべての人はつぎのように感ずるであろう。
 「この人を見よ。
 ここにすばらしい二人の人がいる」と。

  一九七三年二月   /遠山 啓


                    ヘレンケラー 3

ヘレンケラー 4


ヘレン・ケラー 輝ける魂



 あなたの顔を日の光に向けていなさい。そうすれば影を見なくてもすみます。いつも真理に目を向けていなさい。そうすれば、あなたの心から不安や心配は消えます。
 問題と対峙しなさい、でも決してそれに支配されてはならない。
 その問題から、忍耐と思いやりを学ぶのです。
 自分や他の人の人生に どんな奇跡を引き起こすか分からない。・・・・・・・ヘレン・ケラーの言葉


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書籍の森・・・「存在と時間」。時間を考える一冊。お薦め書籍。

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時間とは何か?


マルティン・ハイデッガーという人物をご存知であろうか。

Martin Heidegger

 ハイデガーの『存在と時間』は、20世紀最高の哲学書と言われている。確かにその内容は他の追随を許さないほど卓越した思考に満ちており、漱太郎もこの本に絶大な影響を受けてきた一人である。この『存在と時間』の到達した実存論的な考え方、人間のあり方に関する分析が優れていることは否定できないし、これからの時代においてますます重要になってくることは間違いない。

ボストン大学8

時間の存在 5

 そのハイデガーがまず問題の中心に据えたのは、「存在とは何か」ということであった。これまでの哲学は存在している対象を認識しようとしてきたわけだが、ハイデガーは存在それ自体の意味を問うのである。この存在論的な問いを解くには、あらゆる存在を規定する私たち自身、つまり人間の存在(ありかた)を現象学的に分析する必要があるのだ。では、眼の前に広がる「いま、ここ」の場において、人はどのように存在しているのだろうか。

時間の存在 1

 『存在と時間』の「第一篇 現存在の予備的な基礎的分析」に書かれているのは、この世界において私たちがどのように存在しているのかという、その存在の仕方(あり方)である。といっても、客観的世界が存在して、その中で人間がどのように存在しているか、という視点で考えてはならない。現象学的に考える限り、客観的世界の実在性を前提にするのではなく、眼の前の「いま、ここ」において現れている世界を問題にしなければならないのだ。

                              時間の存在 4

時間の存在 6

 それは貴方自身の主観的な世界であり、その意味で貴方のような存在(人間)を「現(=いま、ここ)」としての存在、「現-存在」と呼ぶことができる。また、現存在は「世界の内に存在している」というあり方をしているので、このあり方を「世界-内-存在」と言い換えることもできるのだ。そして『存在と時間』の前半では、世界-内-存在を「世界の世界性」「共存在」「内存在」に分けて分析を進め、貴方自身を含む人間の存在本質を明らかにしようとしているのである。

                              時間の存在 2

時間の存在 3

 『存在と時間』("Sein und Zeit"、1927年)は、ドイツの哲学者マルティン・ハイデッガーの主著。「ものが存在するとはどういうことか」というアリストテレス『形而上学』以来の問題に挑んだ著作であるが、実際に出版された部分は序論に記された執筆計画全体の約3分の1にすぎない。『存在と時間』は実存主義や構造主義、ポスト構造主義などに大きな影響を与えた。
       この存在と時間に関しては数多くの書籍がある。

時間の存在


 時間を便利な道具として捉えるか、¬時間に支配され奴隷として捉えるかは、一人、一人の視点の問題で¬あろう。物事は多面的に捉えることができ、なおかつ、¬一つの面として捉えることもできる。それは貴方が暮らす町の中で見る風景と、同じ町¬を見るのに山の上からだと景色が全く違うのと同じ事であろうと思¬うが・・・・・、その時間の存在となかなか難解である。しかし、人間はもっと時間について考えてみてはどうだろうか。

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吉田松陰の書籍 二冊。書籍の森・・・・特選!!。by 漱太郎

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            吉田松陰の書籍 二冊

風雲児たち 吉田松陰 6

 安政の大獄で処刑された、吉田松陰の墓が小塚原回向院にある。その墓には「松陰二十一回猛士墓」と刻まれている。写真が吉田松陰の墓である。

風雲児たち 吉田松陰 3

 この「二十一回猛士」というのは、松陰の号で、人生で二十一回、猛を奮って大事をなさんという意味をもつ。
 どうして二十一回なのか、みなもと太郎のマンガ『風雲児たち 幕末編 第十七巻』(リイド社、2010)に、わかりやすくておもしろい絵解きがあったのでご紹介したい。

風雲児たち 吉田松陰 1

 『風雲児たち』は、1979年から書き続けられている大河マンガで、2012年の現在もまだ終わりそうな気配もない大ロングセラーなのだ。こうなるとマンガ本だからといって疎かには出来ない。漱太郎はこのマンガの大ファンで、ずっと読み続けている。深堀された歴史内容が、みなもと太郎の手によって平明かつ明解によみがえるのである。
 二十一回猛士のいわれは下のとおり。(P125~127)

風雲児たち 吉田松陰 2

 吉田寅次郎が名乗った「松陰」と「二十一回猛士」の由来についてもう少し掘り下げてみる。

 号(ごう)とは、名や字以外に人を呼ぶ際に使われる称号のことで、文人たちが好んで使用したもの。吉田松陰の諱は矩方(のりかた)で、通称は寅次郎だが、「松陰(しょういん)」と「二十一回猛士(にじゅういっかいもうし)」の号のほうがよく知られている。

 では、「松陰」と「二十一回猛士」の由来は何なのか?。

 一番有名な号である「松陰」は、吉田松陰が尊敬していたという江戸時代後期の思想家・高山彦九郎の諡(おくりな)「松陰以白居士」からとったものだと言われている。(松下村塾同様に、松陰の出生地・松本村にちなんでいるとの説もある。あるいは、両方に由来しているのかもしれない)

 嘉永4年、江戸遊学中の松陰(当時はもちろん松陰とは名乗っていない)は、水戸学の代表的思想家・会沢正志斎が著した「高山彦九郎伝」で高山彦九郎の存在を知り、大きな感銘を受けたという。

 高山彦九郎という人物は、林子平・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」(ここでいう「奇人」は、「優れた、傑出した人物」という意)と言われる人物で、松陰が生まれるより50年近く前の江戸時代後期を生きた先駆的な尊皇思想家。全国をくまなく遊歴し、様々な人物と交流する中で勤皇思想を説いた。

 松陰が兄に「武士たるものの亀鑑このことと存じ奉り候」と高山彦九郎のことを書き送っていることや、後に書くこととなる辞世の句「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」と、高山彦九郎の辞世の句「朽ち果てて身は土となり墓なくも心は国を守らんものを」との類似、松陰門下である高杉晋作や久坂玄瑞、久坂玄瑞を通じて吉田松陰を心の師と仰いでいたという中岡慎太郎が、細谷村(現在の群馬県太田市)にある高山彦九郎の墓を訪ねていることを考えると、松陰の中で高山彦九郎の影響が非常に大きかったであろうことは想像に難くない。

(群馬県太田市にある高山彦九郎記念館の学芸員の方によると、「『松陰』の号が高山彦九郎の戒名『松陰以白居士』からとったものだという確定的な資料的根拠はない」とのことだが、「吉田松陰が高山彦九郎を知った時期と『松陰』という号を使い始めた時期が重なることや、辞世の句の類似などから考えると、その可能性が高いと推定される」とのこと)

 それでは、もうひとつの号である「二十一回猛士」の由来は何か。

 吉田松陰が自分の人生の中で二十一回全力で物事にあたるという決意を表した号で、二十一回という数字に関しては、吉田松陰の姓である「吉田」から来ている。

 「吉」の字を分解すると「十一」と「口」になり、「田」の字を分解すると「口」と「十」になる。 これらを強引に組み立て直すと、「十一」と「十」、あわせて「二十一」、 「口」と「口」をあわせて「回」になる。また、松陰の実家の姓である「杉」の字を分解し「十」「八」「彡(三)」の三つの数字に見立て、 合算すると、これもまた「二十一」になる。

 「猛士」というのは、松陰の通称が寅次郎であり、「虎=猛獣」にちなんで、勇猛な士という意味を込めて「猛士」とした。自分の二つの姓「吉田」と「杉」とを引っかけた回数「21回」は必ず、猛を奮い、誠を尽くして全力で物事を実行するんだという、松陰の並々ならぬ決意を感じさせる号だと言える。(安政元年に書かれた「二十一回猛士の説」のなかで、松陰はこれまでに①東北旅行のための脱藩したこと、②藩士としての身分をはく奪されたにもかかわらず、藩主に意見具申したこと、③ペリー来航時の密航「下田渡海」、の3回「猛」を発したとの考えを示している)。

風雲児たち 吉田松陰 9

 みなもと太郎のマンガ『風雲児たち 幕末編 第十八巻』(リイド社、2010)には、安政の大獄が吹き荒れ、大老井伊直弼の暴走?と、吉田松陰の自爆?が描かれている。ついに日本への帰還を果たしたシーボルトとイネの再会もあり、何度読み返しても新鮮で相変わらずの面白さだ。マンガ小説でしか描けない真相もある。しかし漱太郎の唯一の不安は、連載開始後、30年を経ても一向に完結する気配がないことだ。

風雲児たち 吉田松陰 7

 『風雲児たち』は、日本の漫画作品の第一部として、1979年(昭和54年)7月から同年11月の7回を潮出版社が刊行した雑誌『月刊少年ワールド』に、翌1980年(昭和55年)から同社刊行の『コミックトム』に連載された。全212話ほか外伝がある。また、『月刊コミックトムプラス』での連載『雲竜奔馬』(1998年(平成10年)~ 2000年(平成12年))を挟んで、2001年(平成13年)よりリイド社刊の雑誌『コミック乱』において、続編にあたる『風雲児たち 幕末編』を連載中である。

風雲児たち 吉田松陰 8

 単行本は、潮出版社希望コミックスで全30巻。なお30巻目は番外編として薩摩藩家老平田靱負を軸に「宝暦治水事件」を描く。2000年(平成12年)から2002年(平成14年)にかけて、希望コミックス収録分はリイド社より再編集(巻末エッセイ、ギャグ注など付記)され、「ワイド版」として大判単行本全20巻が刊行された。その「幕末編」は、現在リイド社SPコミックスとして刊行中となっている。

風雲児たち 吉田松陰 10

猫F

 吉田松陰が残した言葉の中で、漱太郎が最も強く印象に残つているのは、遺書『留魂録』に書かれた次の言葉だ。少し長いが、折角なのでわかりやすいよう古川薫の現代語訳で引用しよう。

 今日、私が死を目前にして、平安な心境でいるのは、春夏秋冬の四季の循環ということを考えたからである。<略>私は三十歳で生を終わろうとしている。いまだ一つも成し遂げることがなく、このまま死ぬのは、これまでの働きによって育てた穀物が花を咲かせず、実をつけなかったことに似ているから惜しむべきかもしれない。だが、私自身について考えれば、やはり花咲き実りを迎えたときなのである。<略>人間にもそれにふさわしい春夏秋冬があるといえるだろう。十歳にして死ぬ者には、その十歳の中におのずから四季がある。二十歳にはおのずから二十歳の四季が、三十歳にはおのずから三十歳の四季が、五十、百歳にもおのずからの四季がある。<略>もし同志の諸君の中に、私のささやかな真心を憐み、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになろう。<古川薫訳>

 松陰は門下生に恵まれた。彼が撒いた種子は、明治の世になって、門下生たちによって次々と実っていった。松陰が人生の最期に披露したこの死生観には、読む人の胸を強く打つものがある。人生を四季に擬へ、三十歳で死ぬとしても花咲き実りを迎えているのだから、平安な心境でいられるというのである。夭逝の人生にもそれぞれの四季がある。
 これは松陰の覚悟と言ってもいい。だが単に泰然と死を受け容れるという、たゞの諦念ではなく、遺志が種子として後世に受け継がれていくという世界観をも示唆している。

 ノーベル賞学者の野依良治が次世代スパコン開発予算の問題で「歴史という法定に立つ覚悟ができているのか」と言った発言が話題となったが、一流の人は同じような大局観を持つていると思えるのが松陰の次のような言葉である。

 大事なことは、おのれをかえりみて疚しくない人格を養うことだろう。そして相手をよく知り、機を見るということもよく考えておかなければいけない。私の人間としての在り方がよいか悪いかは、棺の蓋をおおった後、歴史の判断にゆだねるしかない。

 こうした遠方を見ることのできる大局観を持った人間にとって、志半ばで早世しなければならないことは辛いことだ。遠方を見渡しているがゆえに、歴史の結果が気になるのだ。
 しかしそれでも松陰は自若としている。死の前日にあっても、激烈な感情を爆発させたりはしない。それは、上記の人生観、死生観があったからであらう。

風雲児たち 吉田松陰 5

 松陰は静かに刑場に向かった。その人生は30年で終焉したが、それから150年経つた今日、その遺志、精神は、今なお生き続けていると言える。古川薫の「吉田松陰 留魂録」にはそのような心情が現代語訳で平明に全注訳されている。

 「留魂録」は、吉田松陰が処刑される直前に松下村塾門下生たちに向けて書いた、その名の通り「魂の遺書」だ。牢獄の中から、愛弟子たちへ切々と最後の訓戒を訴え、また、死に直面した松陰が悟り得た死生観を書き記したその内容は、格調高く、人間としての矜持に満ちており、読む者の胸を打たずにおかない。
 事実、「留魂録」は、それを読んだ長州藩志士達のバイブルとなり、「松陰の死」自体とともに、明治維新へと突き進む原動力の一つとなった。松陰が、明治維新の事実上の精神的理論者とされる由縁だ。

 吉田松陰というと、松下村塾門下生たちへの凄まじいまでの感化力からか、ドラマや漫画では、ある種の狂人的な描かれ方をされることが多い。人間を絶対的に信用した愚直なまでのその行動をみると、常人にはない突き抜けた一面を松陰が持っていたことは確かだろう。それが吉田松陰の魅力でもある。

 「留魂録」の静かでありながら情熱的な文章を読むと、そんな松陰の、突き抜けた高い精神、志を肌で感じることが出来る。松陰門下の志士たちが師の遺志を継ぎ、歴史のうねりに次々と身を投じていった理由の一端がこの中にはある。

 それだけではない。処刑を前にして、生死を度外視し、あるいは死を望み、生を希求した後、転じて死を覚悟するに至る、揺れ動く松陰の心境が率直に語られている部分などは、歴史上の偉人としてではない、人間・吉田松陰の息づかいも同時に感じることが出来るのだ。

 数奇な経緯を経て、幸運にも松陰が書いた「留魂録」は現代に伝わり、現在、講談社学術文庫から廉価な文庫本としても出版されている。この文庫本には、原文と共に現代語訳文、注釈がついており、松陰の格調高い文章そのままに、平易で分かりやすい名文となっている。

風雲児たち 吉田松陰 11

 訳注者は、幕末期の長州藩や人物を取り挙げた歴史小説・随筆などを主題の多くにしている山口県出身の直木賞作家・古川薫氏。松陰に対する理解、造詣が最も深い人物の一人であり、留魂録の現代文訳の適任者と言えるだろう。

 また、巻頭には松陰が「留魂録」を記すまでの成立背景・事情を記した解説が、巻末には、松陰の足跡、思想の変遷を記した「史伝・吉田松陰」も併せて収録されている。そこからは、「単純な排外思想の攘夷論などではなく、欧米の情勢を把握し、先進文明を積極的に吸収しようと開明的な方向に視線を据えていた松陰の姿が浮かび上がってくる」。この本は、吉田松陰の多面的な人間像を知るのに最良の一冊と言っていい。

 古川薫はこの文庫の「あとがき」でこう述べている。

 「過去、私は吉田松陰の評伝も書いてきたが、多面的で巨(おお)きなこの人物の全体像を浮かびあがらせるのは、いかようにしても私ごときには至難の業である。むしろ、『留魂録』の原文をじっくり読むことが、松陰理解への早道であるかもしれない。歴史を動かした大文章に凝縮されたひとつの人間像をとらえるのに、その五千字が短すぎるということはないだろう」と。

 炎の教師・吉田松陰から幕末志士たちに向けられた魂のメッセージ。これは、拝金・功利主義社会を生きる現代の私たち日本人にも、訓戒を与えているのかもしれない。

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若き数学者のアメリカ・・・・・書籍の森。藤原雅彦の数学的ロジックの魅力

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若き数学者のアメリカ 2   若き数学者のアメリカ 1

若き数学者のアメリカ  藤原正彦/著


『国家の品格』を書いた藤原正彦が、若き日の苦悩を描く、感動の米国武者修行!物語。


 藤原は1972年の夏、ミシガン大学に研究員として招かれる。セミナーの発表は成功を収めるが、冬をむかえた厚い雲の下で孤独感に苛まれる。翌年春、フロリダの浜辺で金髪の娘と親しくなりアメリカにとけこむころ、難関を乗り越えてコロラド大学助教授に推薦される。知識は乏しいが大らかな学生たちに週6時間の講義をする。自分のすべてをアメリカにぶつけた青年数学者の躍動する体験記なのだ。

 第26回 日本エッセイスト・クラブ賞に輝いた。

 漱太郎は以前、この題名のイメージに惹かれて買ってみた。珍しくどんな本かも考えずに買ったせいか本書を勝手に、数学を国家的に利用することを推進し始めたアメリカの話と見当違いな想像をしてしまった。しかし、あれ~、全然数学の話じゃないのだ。どういうことかと思ったら、”若き”が”アメリカ”ではなく”数学者”にかかっていたわけである。とんだ間抜けな勘違い、無駄な出費だった、と落胆したものの読んでみると中身は興味深くじつに面白いじゃないか。決して悪い買い物ではなかった。無駄などころか、とても運が良かったのである。

若き数学者のアメリカ 3

 あらすじ・・・・と、感想

 まず理知的な文章がキラリと光る。
 本書を気に入っている点として、理知的で美しい文章とその優れた分析力がありその中を泳げる。

 本書の著者が数学者であることが関係しているのか、全体的に冷静な視点で論理的に物事を語ろうという姿勢が強く見られる。

 例えばラスヴェガスでカジノに嵌ってしまって、虎の子の300ドルを失ったという話がある。それを要約してしまえば、負けたのが悔しくて感情にまかせて勝負を誤ったという話なのであるが、これが「くやしい!ふざけるな!」という感情的な賭博師の回顧などでは終わらない。

 その場面で、なぜ自分は賭けに出たのか、周りのプレイヤーの様子は、勝負に対する理論的考察は、という止めどない冷徹な思考が存分に語られることになる。ひたすら周りに対して「なぜこれはこう存在しているのか」と、問い掛け続ける観察者の視点が特徴的といえるであろう。

 文章を読むと一見「本当は悔しくないのか」と思ってしまうのであるが、ちゃんと読めば無感情なわけではない。ただその場全体の様子を観察し分析するために達観し、自分自身の感情も観察対象とする距離の取り方が目立って悔しがってないように見えるだけなのだ。

 この事象、その事象から受ける感情、その感情を想起する自身とは如何なるものなのか。なぜこの山は美しくないと感じるのか。なぜ少女の言葉に涙が出るのか。なぜなぜなぜ。このようにひたすらに内省し、事実を理論に昇華させる努力が数多く見られる。そのせいか事実に対する描写よりも、その事実に対する著者の分析が数多く重ねられる。それが不思議な読後感として残る。その分析の優秀さは数学に対してだけではなかった。このように社会、人物、文化すべてに対する分析が優秀であることは珍しいことだと思う。

 数学者は室内で閉じこもっていて社会に対しての視点は乏しいものであると思っていたのだが、こんなにも人文的な分析力も持っているのかと驚かざるを得ない。これはそんな本である。

 次に、じつにエネルギッシュな数学者である。

 著者が数学者ということで、理屈屋であり詩的な側面はない、叙事的であり叙情的でない、という印象を持つと、すでのそれは誤りである。本書の目を見張るべきところは、徹底的に冷静に観察をするものの感情のほとばしりを蔑ろにせず、どんな情感が想起されたかを丹念に描いているところであろう。

 外面は硬い皮膚に覆われているものの、内面は熱くたぎっている。そんな印象である。したがって読んでいて「淡々と話が進むなぁ」と不満げに思ったことは一度もなかった。物語らしく上手く纏められているせいか一気に読み進めることができ、読後感も好印象の一言に尽きる。

 この精緻な分析と詩的な語りの融合ということを鑑みると、本書が名エッセイであると持て囃されているという事実に確かな手応えの納得できた。

 藤原正彦(ふじわら まさひこ、1943年7月9日 - )は、日本の数学者。専門は数論で、特に不定方程式論。お茶の水女子大学名誉教授で、『国家の品格』などを著したエッセイストとしても知られている。

 妻は、お茶の水女子大学で発達心理学を専攻し、カウンセラー・心理学講師・翻訳家として活動する藤原美子。気象学者藤原咲平は大伯父、美容家メイ牛山は大叔母にあたる。

 戦後いずれも作家となった新田次郎、藤原てい夫妻の次男として、満州国の首都新京に生まれる。ソ連軍の満州国侵攻に伴い汽車で新京を脱出したが、朝鮮北部で汽車が停車したため、日本への帰還の北朝鮮から福岡市までの残り区間は母と子3人(兄、本人、妹)による1年以上のソ連軍からの苦難の逃避行となった。母・藤原ていのベストセラー『流れる星は生きている』の中でも活写されたこの経験は、本人のエッセイの中でも様々な形で繰り返し言及されており、老いた母を伴っての満州再訪記が『祖国とは国語』(2003年)に収録されている。

 藤原が小学生の一時期、長野県諏訪市にある祖母宅に1人移り住む。このときの自然体験は、後に自身の美意識の土台となっている。このころ図工の先生であった安野光雅から絵と、数学の面白さを教わる。

 アメリカ留学記『若き数学者のアメリカ』(1977年)が話題となり、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。以後エッセイストとして活動。身辺雑記からイギリス滞在記や科学エッセイ、数学者の評伝に至るまで対象はじつに広い。

 これはそんな藤原正彦が昭和56年に書いた本だ。

 1972年、ミシガン大学の研究員として招かれた若き数学者こと、藤原先生の物語である。1年の予定が、その後コロラド大学で教鞭をとることになり、結局3年間にわたったアメリカでの生活について綴られている。

 初めての海外で、アメリカ人に負けてたまるか!と悲壮なる決意を抱いて海を渡る若き先生がいた。途中で寄ったラスベガスでカジノに興じるシーンでは、数学者らしく確率論をふりかざしてみるものの、見事に大敗をする。ほとんどの所持金を使い果たし日本の両親に送金を頼む手紙では「一度はやってみたかた。負けたがおもしろかった」と強がっちゃったりもする。

 その後、大学での奮闘ぶりが続くのだが、次第に順応して、アメリカの大学生や研究者の分析、はてはアメリカ人論まで論じるほどになっていく。初めての講義では、ドキドキして校舎のまわりをぐるぐる回ったり、教室に入った途端、かわいい女の子をめざとくみつけてチェックしたり、女の子達がみなノーブラなのに喜んだり(?)と、藤原先生のお茶目な面は昔からかわらないようだ。小さい子が大好きで、近所の子どもの人気者になったという話はちょっと意外だった。

 そうした先生自身のエピソードとは別に、個人的に興味深かったのは、アメリカの大学生の話である。アメリカの大学は日本と比べてはるかにたくさん勉強させられるということは知っていたけど、先生曰く大学に入る時点での知識は日本の学生に遠く及ばないのだという。というより、高校まではほとんど勉強らしいことをしていないレベルだと語る。日本のような受験戦争がないコトを思うと、まあ当然かもしれない。これは日本と対比するなどするとじつに面白い一冊だ。

 日本の高校が知識を詰め込むのに対し、アメリカの高校は「いかに自分の意思を論理的に表明するか」「問題に直面したとき、どう考え、どう対処していくか」「議論において問題点をどう掘り出し展開するか」に重点が置かれているのだという。

 その結果、「日本の学生に比べて知識においてはかなり見劣りするのに、精神的にははるかに成熟しているように思われる」と。「どちらの教育にも一長一短はあるが、ひとつだけ感ずることは、知識というものは、必要になれば学校で教わらなくても自然に身についてくるものであるのに対し、論理的な思考方法とか表現方法は、若いときに身につけないと後になってはなかなかむずかしいということだ」という。

 ここに登場する話は、今から約40年近く前のアメリカ社会のことではあるが、されど、こうした差は今でもあまり変わらないのかも知れない。どうにも戦後の日本人というモノが、社会的に成熟しないのは、この差なのかも知れないと考えさせられてしまう。そんな一冊である。だから今だからこそ、改めて読み直す価値のある一冊だ。

若き数学者のアメリカ 4  円と点の回転

藤原正彦が語る数学者列伝「関孝和



関孝和、旧姓は内山氏、通称新助。字は子豹、自由亭と号した。

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天声人語で尻取り書籍 「きけ わだつみのこえ」 8月の一冊

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天声人語で尻取り書籍

戦後67年目のこの一冊・・・8月15日の哀悼。

2012年8月15日(水)・・・・ 天声人語(朝日新聞)コラムより

 古代ギリシャの詩人ピンダロスは歌う。「戦いは知らざる人には甘美なれど、知る人はその近づくをあまりにも怖(おそ)れる」。世のため国のため、勇ましい男たちが活躍するなど絵空事で、現実の戦争はむごく醜い▼本紙が募った「八月の歌」の入選作に、〈赤紙とおびただしい血と燃える火と赤、赤、赤のノンフィクション〉がある。愛知県立起(おこし)工高3年、長野薫(かおり)さんの一首だ。途方もない戦争の真実に絶句するのも、若い世代には貴い経験だろう▼終戦から67年、日本は幸いにも殺し合いをしていない。人口の78%が戦後に生まれ、悲惨を語れる人は2割いようか。「フィクション」が紛れ込まないよう、体験談を大切に語り継ぎたい▼戦没学生の遺稿集『きけ わだつみのこえ』(岩波書店)にも歌がある。〈激しかりし敵火の中に我と生きし邦子(くにこ)の写真眺めつ想(おも)う〉。早大を出て、敗色漂う1944(昭和19)年秋からフィリピンなどを転戦した陸軍中尉である▼新妻への手紙には「何百枚でも邦子の写真が見たい」とある。その人を二度と抱くこともなく、24歳の彼は鹿児島沖で戦死した。愛する者への思いに今昔はない。これを軟弱とさげすむ世には戻すまい▼「わだつみ」の出版に尽くした医師中村克郎さんは、1月に86歳で亡くなった。語り部、伝え手を連れ去る歳月は、非情にして優しく、滴るばかりの悲しみをセピア色に染めてゆく。しかし私たちが時の癒やしに甘えては、平和を知らずに息絶えた人に顔向けできない。

きけ わだつみのこえ

「きけ わだつみのこえ」(岩波書店)

 その表紙には・・・・酷薄な状況の中で,最後まで鋭敏な魂と明晰な知性を失うまいと努め,祖国と愛する者の未来を憂いながら死んでいった学徒兵たち.一九四九年の刊行以来,無数の読者の心をとらえ続けてきた戦没学生たちの手記を,戦後50年を機にあらためて原点に立ちかえって見直し,新しい世代に読みつがれていく決定版として刊行する、とある。

 「わだつみ」は「海をつかさどる神」である。この本は、太平洋戦争で敗戦するまでの日本の15年戦争で命を失った、戦没学生七十五名の遺稿集である。

 例えば、その学徒の中に、宮崎龍夫がいた。1919年東京生まれ。1943年東京帝国大学理学部人類学科入学、翌年6月入営。1945年7月、マニラ東方で戦病死する。満26歳であった。

 入営後の秋、戦地に向っていた。「船はまだ高雄を出ない。およそ想像を絶した船上生活も三週間の長きに亘る。…幽鬼のさ迷うに似たよろめきをもって歩く兵あり、怒号咆哮する兵あり。品性と情緒を失える最中にあって、旅の子は愛情を求め、故郷の山河、父母、妻の顔をなつかしく思い浮かべる。…」と。戦場ヘの船がまだ日本近海にあった時は次のように書いた。「眼前の島を眺めつつ胸中に去来するものは、魂のふるさと、湖の秋景色である」と。その湖、それは、野尻湖ではなかったか。想いを少年の日の東京YMCA長期少年キャンプ・野尻学荘に馳せたのではなかったか。野尻学荘を詠んだ彼の詩があるのだ。

 そびゆる妙高 朝日に映えて
 芙蓉のみずうみ静けきほとり、
 ふねうかべては、ちからをあはせ、
 火をかこみては、おもいを深め
 高き望みに、ひたすらすすむ


 このように「きけ わだつみのこえ」には、75色の背景があり、それぞれの慟哭がある。戦没者を静かに追悼する8月に相応しい一冊である。その深い哀しみを紡ぐ彼らの声は、未来を共に築こうとする若者たちであった。

お知らせと次回予告!!

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ドン・マンショ お知らせ・・セキセインコ gifセキセインコ gifセキセインコ gifセキセインコ gif

 只今、聖マンショ伝「帰らざる丘」のNo.35以降に関します内容につきましては編集作業を行なっていますので、今暫く小休止いたします。いよいよNo.36より後編に突入。その後編部での伊東マンショは、さらに多様な人物と廻り会いながらキリシタンとして過酷な運命を辿る。そこでは、現在までの歴史記述には無い、正体としてのマンショ像を実証される。是非、ご期待いただきたい。・・・・・by 漱太郎

残暑お見舞い申し上げます。

 下記映像にて束の間の清涼をお感じ下さい。また当コラム小休止の間、三馬漱太郎の「辻斬り備忘録」にもご訪問いただければ、また別嗜好の漱太郎ワールドを展開中!!。独自の視点で現在の情報をピックアップしてコラム化しています。どうぞウエルカム!!。

JION WATERFALL / OITA 2011 [慈恩の滝]


慈恩の滝(大分県)

聖マンショ伝「帰らざる丘」は只今、次回号の編集作業中!!!!

花ひらくF 神戸 Image Song by SOTAROU
ステレオ1 Violet Bell
                                     ヴァイオレット・ベル

                       song by 漱太郎


プロフィール

三馬漱太郎

Author:三馬漱太郎
Welcome to Ron「漱」World
Sotarou Miuma
立体言語学博士
Social Language Academy Adviser
応用社会言語科学研究員

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