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聖マンショ伝「帰らざる丘」・No.0035

Logic to "X 「中世地夭叱正記」外伝
天正の羅針盤 
伊東マンショ長崎出航の前夜と、二廉の男たち。

 天正の羅針盤⓵を引き継ぎ⓶へと話は移る。

 しかしその前に一人のワン公をご紹介したい。愛称を「レット(Rhett)」という。

ボストン大学のマスコット「レット(Rhett)」2
 「レット(Rhett)」

 現在約30,000の在学生に囲まれ市民からも親しいアイドルとなっている、この場合(市民権をもつ)レットは、一頭とか一匹とは決して呼ばないで、ひとりの人間として扱ってほしい。写真の、ボストンテリア風貌のこの人がレットである。そうして彼はいつも「スカーレット」色の赤い玉を身につけている。これは彼が、自身の名と玉とが永遠に一体でありたいと考えているからで、そのプライドが玉の赤さに現れている。また、さらにそのスカーレットの赤色はボストン大学のシンボル・カラーでもあるから、つまり彼はボストン大学のマスコットとしてこの世に誕生した。ちなみに誕生日は1922年12月15日である。

ボストン大学のマスコット「レット(Rhett)」3

ボストン大学のロゴイメージ

 そのボストンテリア公の名前「レット(Rhett)」は、ボストン大学のスクールカラーがスカーレットなのにちなんで、名付けは「風と共に去りぬ」の主人公スカーレット・オハラに恋した登場人物レット・バトラーの「レット」からとつけられた。そこにはレット君にボストン大学をレット・バトラーのように限りなく愛してほしいという願いがこめられている。

風と共に去りぬ 
映画「風と共に去りぬ」一場面

 『風と共に去りぬ』(Gone With the Wind)は、マーガレット・ミッチェルの時代長編小説であるが、題名は南北戦争という「風」と共に、当時絶頂にあったアメリカ南部の貴族的白人文化社会が消え「去った」事を意味する。マーガレット・ミッチェルはこの作品を南北戦争下のジョージア州アトランタ市を背景に、アイルランド系移民の父とアメリカ南部のフランス系名家出身の母を持つ気性の激しい南部の女、スカーレット・オハラの半生を、彼女を取り巻く人々共々壮大に描いた。

マーガレット・ミッチェル  マーガレット・ミッチェル

アメリカ南北戦争 (チャタヌーガの戦い)
  アメリカ南北戦争 (チャタヌーガの戦い)

 この作品の舞台は、奴隷制が残る1860年代のアメリカ南部・ジョージア州。南北戦争のころであった。そのころの日本は幕末から明治維新期で、比較して想い起こせるものは戦いの性格こそ違うが、戊辰戦争(ぼしん)である。そうして、この戊辰戦争(王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦)から経た日本は近代国家の基幹の多くを西洋より学ぶことになった。いや学ぶというよりも、明治人が総力で吸収した。こうした吸収の現実を振り返ることのできる窓が、漱太郎におけるボストン大学であろうか。

戊辰の役  戊辰の役

 その大学の窓から日本の近・中世期を想い描こうとしていると、ふと「アメリカには猫はいない」という曲を思い出した。これはS・スピルバーグ制作指揮によるアニメ映画「アメリカ物語」の挿入歌である。

アメリカ物語 
アメリカ物語


S・スピルバーグ  S・スピルバーグ

 この作品について多くは語らないが、スピルバークはユダヤ系で、映画の主人公はロシアを追われたネズミの一家であった。そのストーリーは、アメリカという国は自由の国で、猫はいない。不条理な暴力や迫害はない。ネズミの一家はそう信じてアメリカへ渡る筋立てである。しかし、アメリカにも猫はいた。このようなアニメ映画の印象を抱きながら最近ニューヨークを訪れる機会がり、漱太郎はしばらくご無沙汰であったリバティ島に建つ自由の女神(Liberty Enlightening the World)が見える場所まで立ち寄ってみることにした。そうして敢えてモノクロームで撮影する。この光景こそが、世界各地からアメリカに到着した移民たちを迎える最初の輝きだったはずだ。

自由の女神
自由の女神(Liberty Enlightening the World)

 この自由の女神はフランスから贈られ、1886年に完成して、移民たちの「希望」を象徴する松明(たいまつ)を掲げ、数多(あまた)の異邦人を迎え入れた。現在も受け入れ続けている。人種の坩堝(るつぼ)といわれるニューヨークの所以(ゆえん)がここにある。

アメリカ物語
アメリカ物語

 アニメ映画「アメリカ物語」の主人公、そのネズミはユダヤ人の暗喩(あんゆ)である。それは紀元前から、離散を繰り返してきた、あのユダヤ人であった。日本の戦後に生まれ、その少年少女だったらアニメ「魔法使いサリー」の主題歌は覚えがあろう。あの旋律の響きは「クレズマー」なのであった。
 一般論としてのクレズマー( Klezmer)は、東欧系ユダヤ(イディッシュ)、アシュケナジムの民謡をルーツに持つ音楽ジャンルのひとつ。有名な曲に「ドナドナ」もある。元来、クレズマーとは、ユダヤ人の「楽士」を意味する言葉なのである。
 この「クレズマー」は、主に放浪のユダヤ人楽士によって、ユダヤ人の結婚式などの儀式の際にさかんに演奏された音楽、特に黄金期の19世紀末から20世紀初頭には、西ヨーロッパからの移民のユダヤ人たちが活動の場を広げ、様々な音楽に影響を与えている。
 日本における学生時代にフォークダンスで聞き覚えのあろう「マイム・マイム」も同系列の音楽で、これらの傾向として、日本人は、楽しい旋律の奥に、何か漠然とした哀愁を感じさせ、そのことを記憶されている方も多かろうと思う。しかし、そのようなクレズマーの旋律に琴線をくすぐられたのは現代の日本人ばかりではなく、中世の時代にもそんな日本人がいた。

映画『キングス・オブ・クレズマー』より 
映画『キングス・オブ・クレズマー』より


 ローマより帰国した遣欧少年使節の一行が、聚楽第で西洋音楽(ジョスカン・デ・プレの曲)の演奏を秀吉に披露する。このジョスカン・デ・プレの曲こそが、その原型こそが、さらにクレズマーの原型なのである。このクレズマーに関しては、また機会を得てその多くを語らなければならない。聚楽第で演奏された楽曲がジョスカン・デ・プレではないからだ。

9伊東マンショ  伊東マンショ

ジョスカン・デ・プレ  ジョスカン・デ・プレ

 厳密にはそういうことになるこの旋律には、当時宣教師となって日本へやって来た人々の、特に改宗徒コンベルソあるいはマラーノ(例えば1552年に貿易目的で来日したポルトガル商人のルイス・デ・アルメイダ)とが密接であり、哀愁の源泉にはそれらがユダヤ教からクリスチャンへと改宗せざるを得なかった経緯と深く関わるからである。中でもマラーノはキリスト教徒以上にキリスト教的に偽装した表向き改宗した隠れユダヤ人であった。このマラーノ系の人には、コロンブスもその一人、スピノザ、マルクス、フロイトなどがいる。その他の系列も関わるのだが、クレズマーに共通していえることは、表向きは改宗したが、むしろそれゆえにユダヤ信仰を深めた者たちの刻んだ哀愁が旋律の源泉となっている。またさらに、その源泉を遡れば、クレズマーの響きとは、イスラエルから追われた放浪者の慟哭とも重なり合う。アメリカ大陸への移民にはそれらの血涙を受継ぐユダヤ人らが数多くいた。

 そのクレズマーはさて置き、聚楽第で西洋音楽(ジョスカン・デ・プレ曲の原型に近いクレズマー)の演奏を秀吉に披露した、その日から遡ること約9年前に、長崎を密かに出航する異国船があった。1582年2月20日(天正10年旧暦1月28日)に、その数隻の船は長崎港を出港しマカオへと向かっている。

 この船はローマへ派遣される4名の少年を乗せた使節船であった。ローマへと誘って随行するアレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父(イエズス会宣教師)は、自身の手紙の中で、使節の目的を「第一はローマ教皇とスペイン・ポルトガル両王に日本宣教の経済的・精神的援助を依頼すること。第二は日本人にヨーロッパのキリスト教世界を見聞・体験させ、帰国後にその栄光、偉大さを少年達自ら語らせることにより、布教に役立てたいということであった」と説明している。このヴァリニャーノ神父が当時の東インド管区の東端に位置する日本(口ノ津港)にたどり着いたのは1579年(天正7年)7月25日のことであった。

アレッサンドロ・ヴァリニャーノ2  アレッサンドロ・ヴァリニャーノ

 アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父は、1581年(天正9年)、イエズス会員のための宣教のガイドラインとして『Il Cerimoniale per i Missionari del Giappone(日本の風習と流儀に関する注意と助言)』を執筆した。その中で、彼はまず宣教師たちが日本社会のヒエラルキー(階層制や階級制の支配構造)の中でどう位置づけられるかをはっきりと示している。彼はイエズス会員たちが日本社会でふるまうとき、社会的地位において同等であると見なす高位の僧侶たちのふるまいに習うべきであると考えた。これによって、当時の日本社会のヒエラルキーにしたがい、イエズス会員の服装、食事から振る舞いまで全てが細かく規定されていたのである。

 具体的にはイエズス会員たちは、高位の僧侶たちのように良い食事を取り、長崎市中を歩く時も日本の彼らにならって従者を従えて歩いた。しかしじつは、このようなやり方が「贅沢」であるとして日本のイエズス会員たちは当時のヨーロッパで非難されている。そのような非難は托鉢修道会からだけでなく、イエズス会内部でも行われた。だが内部からの(じつに不実な態度)としての非難はあるものの、布教活動の当事者としてのその行為には、意外と内部の知られざる大きな布教効果を伴っている。ある種、贅沢とみせることが、日本人には魅力なのだ。あるいは魔力だったのかも知れない。したがって不実な態度とはならない、と日本人大名らはみた。宣教師らの背後には何やらモノ珍しい海の彼方の文化や物品という宝刀ごとき輝きがあった。この宝刀の輝きに魅せられた当時の日本人は数多(あまた)いた。典型がキリシタン大名と呼ばれた領主らであろうし、また交易で名を成した商人もいる。

 中世では出生の不明という人物はじつに多い。この「じつに」というところに「世間の大混乱」がある。この大混乱を因みにして移動した人間の背景(出自)を記すことが手薄にされた。下記の人物もその一人である。しかし歴史にその名は有名となった。父の名も母の名も不明にして、だが出身を大和国(1520年)とする、おそらくこの人物が大和から泉州の堺に移動するのは1530年代半ばのことであり、後に商人として大成するこの人物に天正遣欧少年使節団出航の一件が依頼され、彼(彦右衛門)がその荷仕度を整えた。

 ポルトガル船

 その大和の彦右衛門という男は堺へと出る。そうして納屋宗次(泉州堺の豪商)の居宅に身を寄せた。納屋衆(なやしゅう)とは倉庫を所有していた堺の商人であり、後に会合衆(えごうしゅう )といわれ町政にも参加する。この宗次の紹介で、やがて武野紹鴎(たけのじょうおう)堺の豪商で茶人に師事し茶を学ぶようになり、1540年代になると武野紹鴎の女婿(義理の息子)となって、彦右衛門は紹鴎の茶器などの一部を譲り受けた。これを切掛けに彦右衛門は茶人として世に出ることになった。

武野紹鴎(たけのじょうおう)  武野紹鴎

 1551年(天文20年)天王寺屋主人で堺の豪商の津田宗達(津田宗及の父)の茶会に招かれる。また1554年(天文23年)大徳寺塔頭大僊院に百七十貫を寄進し、1555年(弘治元年)に武野紹鴎が死没すると、その息子の宗瓦は未だ5歳の子供だったため、この後見人となる。したがって武野家の私財と茶器などの管理一切を任された。彦右衛門が「今井宗久(いまいそうきゅう)」と名乗るのはこのころであった。

今井宗久  今井宗久

今井屋敷跡 堺市堺区中之町東1
 今井屋敷跡 堺市堺区中之町東1

 そう名乗るころの時勢をみると。世に名高い川中島合戦は、第一次合戦:天文22年(1553年)から第五次合戦:永禄7年(1564年)の五段という11年間に及んでついに決着の無い戦いであったが、1555年とはその第二次合戦のころで、この戦いを別名「犀川の戦い」ともいう。このころ武田晴信は南信の伊那郡を制圧すると同時に、関係改善が図られていた相模国の後北条氏、駿河国の今川氏と三者で同盟を結び、特に北関東において上杉方と対峙する北条氏と共同して上杉氏と対決していくのだが、その上で、長尾氏の有力家臣北条高広に反乱を起こさせて謀反を誘導する企てをするも、しかし長尾景虎は北条高広を降し、背後にいる武田晴信と長尾景虎との対立は益々深まる時期であった。

 さらにこの時代の下克上の広範囲を見渡すと、西国では、厳島の戦(いつくしまのたたかい)が安芸国厳島で毛利元就と陶晴賢との間で、加賀国では朝倉景隆による一向一揆攻めが行われ、中心とあるべき禁裏では・・・将軍とは有名無実の存在で、三好長慶とその家臣松永久秀の傀儡であった。そのため足利義藤は細川晴元と協力して長慶との戦いを始めたが、敗れて近江朽木に逃れ、以降5年間をこの地で過ごした。なお、亡命中の同23年(1554年)2月12日、名を「義輝」に改めている。その義輝はこのころ、大友氏から鉄砲と火薬の秘伝書『鉄放薬方并調合次第』を手に入れたりしているから、鉄砲を切に所望する将軍のこの危機感に、近畿内における治安秩序の崩壊が如実に顕れていて、近畿一円の一帯が無法地帯同然であったことが容易に判別できる。
今井宗久の立ち位置とはこのように不安定で波乱の渦中に晒されていた。

京都御馬揃えの信長(辻村寿三郎の創作人形))
京都御馬揃えの信長(辻村寿三郎の創作人形))

 13代将軍足利義輝の結末となる(永禄の変)から3年後の1568年(永禄11年)、初めて織田信長が上洛した際に、今井宗久は「松島の茶壷、紹鴎茄子と呼ばれる名茶器」を献上する。これで信長に気に入られると、15代将軍足利義昭から大蔵卿法印の位を授かることになった。こうして信長と宗久は親密となる。そのことは後の、1568年(永禄11年)信長が堺に対して矢銭二万貫を課した折りに宗久が(会合衆との調停役)を担い、1569年(永禄12年)に信長は堺を直轄地とし、宗久に2200石を与え代官に任命したことに顕れている。さらに今井宗久は、1569年(永禄12年)摂津五カ庄の塩・塩合物の徴収権、淀過書船の利用(淀川の通行権)を得る。1570年(元亀元年)長谷川宗仁とともに但馬銀山(生野銀山)を支配した。これらを全て成し得る、その背後である後ろ盾には信長という絶大な権力があった。そんな今井宗久が安土城へと向かったのは1581年初秋のことである。

安土城復元模型 安土城復元模型

 その天正9年(1581年)、信長は絶頂期にあった。2月28日には京都の内裏東の馬場にて大々的なデモンストレーションを行なっている。いわゆる京都御馬揃えであるが、これは信長をはじめ織田一門のほか、丹羽長秀ら織田軍団の武威を天下に示すものであった。このときの馬揃えには正親町天皇をも招待している。ビロードのマントや西洋帽子の着用が功を奏したのか、これによって3月7日、天皇は信長を左大臣に推任した。

 9日にこの意向が信長に伝えられ、信長は「正親町天皇が譲位し、誠仁親王が即位した際にお受けしたい」と返答した。朝廷はこの件について話し合い、信長に朝廷の意向が伝えられる。24日、信長からの返事が届き、朝廷はこれに満足した。しかしどうしたことか4月1日、信長は突然「今年は金神の年なので譲位には不都合」と言い出した。これで譲位と信長の左大臣就任は延期されることになった。

織田信長 織田信長

 この真意は、織田軍の力を見せ付けると同時に、朝廷への圧力、示威行動であった。譲位に応じない天皇を譲位させるための圧力とみ、具体的には左大臣推任への圧力だとみる。したがって左大臣就任の儀など鼻から信長の眼中には無かったことになる。この年の織田軍の勢いは、鳥取城を兵糧攻めで落とし因幡国を攻略、さらには岩屋城を落として淡路国を攻略した。また同年の9月には、織田信雄を総大将とする4万人の軍勢が伊賀国を攻め(第二次天正伊賀の乱)、兵力差は如何ともしがたく、今井宗久が安土城へと出向くころは、半ば攻略されたようなもので伊賀国は織田氏の領地となろうとしていた。

 今井宗久が安土城を急ぎ訪れたのには、この伊賀国の一件が絡んでいた。しかし急いで出向いたわりには退散がいかにも早い。小半時もせず宗久はまた堺へと首を返した。伊賀勢はほぼ全滅に近い打撃を受けていたのだが、百地丹波をはじめ生き残った者達は伊賀南西端の柏原城に立てこもっていた。そこで織田勢はこの小城を三万の大軍で包囲し、翌日は落城と誰もが思っていた。しかし今井宗久が安土城を出立したその夕刻、信長から信じられない命令が通達された。伊賀を「力攻めはするな。和議を整えて残兵を退去させた上で無血入城せよ」という。信長自身の方針か、誰かが信長を動かしたのか、その真相を知るものは今井宗久ただ一人だった。伊賀攻め大将の織田信雄とて、それはわからない。しかしこうして百地丹波は生き延びて紀州へ逃れ、歴史の表舞台から消えた。

 さて、このとき宗久と信長とが交わした密談とは何か。

 1992年春、漱太郎は大阪心斎橋の古書屋「中尾松泉堂」において『昨夢庵抜記』なる古書二冊を入手した。今井宗久の著作とするものに茶会記録の『今井宗久茶湯書抜』や『今井宗久日記』などがあるが、これも宗久の手によって編まれた。二冊というのは、この古書が半ばで二分割されているためで、前「茶」記が宗久の手で、後「湯」記が嫡男宗薫の手とするものであり、合わせて「茶湯」として符合させた備忘の二人作である。二つがそう符合された工夫にこの古書の価値がある。宗久と宗薫はこれを秘匿しようとしてそう工夫した。

百地三太夫の伝説像
百地三太夫の伝説像

 以下はこの『昨夢庵抜記』の内容を整理(茶湯事を除く)して「百地丹波」の正体を、大まかに述べる。これによって、今井宗久がそそくさと安土城を早退した、そのなぜ故の鍵が握られる。

 「百地三太夫」なる人物は講談や小説などでは忍術の達人で、石川五右衛門の師匠として描かれることの多いこの人物、しかし百地家の系図にはその名はない。さてその実体であるが・・・。

 百地三太夫は架空の人物と見る向きも多いが、そうではない。昨夢庵抜記によると三太夫は1571年に百地清右衛門の子として伊賀国名張中村に生まれた実在の人物である。前述の天正伊賀の乱以前は名張竜口の地に住んでいた。乱の少し前に喰代(ほおじろ)の里へ伯父の百地丹波とともに移っている。したがってこの記録(昨夢庵抜記)に見る限り、天正伊賀の乱で国人の頭領的存在となった人物は三太夫ではない。なぜなら当時三太夫はまだ10歳だったからだ。
 百地氏は伊賀の竜口と喰代、大和の竜口にそれぞれ拠点があり、その一族も多い。喰代のほうは戦国期に砦を築いただけで、どうやらその本拠は竜口にこそあった。また、「百地」は「ももち」と読むのが普通だが、当時の現地では「ももじ」と読んだ。この『昨夢庵抜記』の「茶」段によると、乱は柏原城を開城して終結したが、このとき三太夫を含む百地丹波守以下百名ほどは高野山に下り、やがて紀州根来の里に定着したとある。「百地三太夫」はこれをもって歴史から消えるように思われるのだが、本書の中の時間をしばらく下ると思わぬところで今度は「湯」段で「百地丹波」の名が再び現れてくる。

 大坂の陣や島原の乱も終わってようやく平穏な世の中になった1640年、伊賀城代家老に「藤堂釆女」なる人物が任命された。この人物、元の名を保田元則といい、父は千賀地半蔵則直とある。すなわちこれは服部半蔵正成の兄なのであった。

 その保田元則は、紀州に隠棲していた百地丹波の子(保武)を呼んで伊賀藩士に取り立て、伊賀の名門藤林家を再興させた。そしてこの藤林保武が、後に忍術書の最高峰と言われる「萬川集海」を著すのであった。また、紀州に残った弟の正武も、忍術新楠流の開祖となり、これも名高い「正忍記」を著すことになる。つまり、忍術秘伝書の双璧と呼ばれるこれら二書は、どちらも百地丹波の子によって完成されたのであった。このことを大まかに纏めると、改易された服部家に代わって半蔵の甥が伊賀の城代家老になって国を治め、百地丹波の子が藤林家を再興し「萬川集海」「正忍記」を後世に残したことになる。
 このことを泉下の半蔵正成が喜ぶかどうかはわからないが、と、宗薫が感慨をふくみ綴るのだが、ちなみに丹波は一度伊賀に帰ってきたものの伊賀には住まず、天正伊賀の乱の最後の砦・柏原城にほど近い大和国竜口に隠棲して生を終えた、とこの古書二冊は記している。尚、当コラムの趣旨として重要なところを最後の結び目の箇所で言い卆(お)えている。

 そうして卆える抜として「此書保武養記也」と結筆した。つまり『昨夢庵抜記』とは「この書は養子・保武の記録」であることを末尾に記している。これを踏まえると、茶の段と湯の段に数多くみられる「殿」という一文字の表しは「織田信長」を示し、宗久と信長の密談の証として、その表し方を養子(保武)に家伝相伝の茶事を伝え遺す形式にみせかけて門外に秘蔵されたモノなのである。つまり密談後に、百地家の種子(保武)は今井家で密かに扶養された。

 これを受けてもう少し時代を下らせてみる。

 今井宗薫(いまいそうくん)が堺に今井屋敷を構え1300石の旗本今井家を成立さる以前、大坂の陣では関東方内通の疑いを受け、嫡子宗呑と高野山に逃れたことがあった。

 この宗薫という男は、富商にて茶人(茶湯の天下三宗匠)でもあった今井宗久(そうきゅう)の嫡子なのであるが、武野紹鴎の外孫(宗久は武野紹鴎の女婿・義理の息子)の茶の湯者として秀吉にも出仕していたから、関ヶ原後の彼は、豊臣と徳川という狭間においてよほど胆を逞しくせねば生きていけなかった。父宗久が、将軍・足利義昭にも茶湯をもって近侍し、織田信長の堺に対する矢銭徴課に当たっては、即座にこれに応じた経緯もある。

 以降、その宗久は信長に重用され、さまざまな特権を得た。信長の死後には羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)にも仕え、堺の万代屋宗安、住吉屋宗無(山岡宗無)とともに秀吉の御咄衆を務める。また茶頭として天正15年(1587年)に秀吉が主催した聚楽第落成の交歓茶事北野大茶会にも協力をし、所蔵茶器が当時第4位を占める大茶人となっていた。しかし、秀吉は徐々に宗久よりも新興の薬種商・小西隆佐や千利休らを重用しはじめたのである。

 その薬種商の小西隆佐(こにし りゅうさ)だが、やはり堺の豪商の一人であった。いや、一代で成り上がっている。名を「立佐」ともいう。この立佐は豊臣家の家臣でもあった。つまり商い上手で世渡りに長けた男であったからだ。平たく語ればこの人物が小西行長の父親である。二男の弥九郎(行長)をまず備前国岡山の商人、魚屋(ととや)九郎衛門の養子に出す。その後、油屋弥九郎となった行長は備前の宇喜多家に出入りするようになり、宇喜多直家の信頼を得ると、御船組員に選ばれた。立佐は秀吉に仕えるかなり前の、永禄8年(1565年)、ルイス・フロイスの師事を受けてキリシタンとなった。洗礼名(霊名)をジョウチンという。さらに正室(ワクサ)もキリシタンで洗礼名をマグダレーナといった。
 秀吉に仕えるのは天正13年(1585年)からで、河内国・和泉国における豊臣氏の蔵入地の代官(和泉守)に任命され、天正15年(1587年)の九州征伐では兵糧の補給役を命じられている。

 さて、今井宗薫が大坂の陣では関東方内通の疑いを受け、嫡子宗呑と高野山に逃れたことの話に戻るのだが、その後、宗薫は豊臣方による堺占拠の際に捕らえられていた。じつはこの一件を示す古文書の中に前述した『昨夢庵抜記』の存在が記されている。
 この在記について漱太郎が心得たのは昭和50年5月、イギリスのエリザベス2世夫妻がイギリスの国家元首として初めて日本を訪問した、たしか7日だから、その印象もこれに重なり、京都元町思文閣の古書部(大和大路東入る)陽明文庫特別公開の折りに鎖された扉を射止めたような瞬きが今の目にも明らかにある。そのときは何故、近衛家伝来の古文書(こもんじょ)の記録にそのような記述が留められたのか、やや不可解はあった。

 しかしそれは、伝世の古文書が整理され、新たな書物が収集された際の、17代当主の近衛信尹(のぶただ・1565年~1614年)によって差し挟まれた希少な文書である。その信尹は三藐院(さんみゃくいん)と号し、「寛永の三筆」の一人に数えられる能書家で教養人であった。「陽明」とは、近衛家の別名であり、近衛家の屋敷が大内裏の14門の1つである陽明門から発する近衛大路沿いにあったことにちなむものである。したがって、しばらくはこの門をくぐることにする。

 その古文書によると、織田有楽斎は堺占拠の際に捕らえられた今井宗薫を赦すなど穏健的行動をとっていた。だが嫡男の頼長は片桐且元殺害を計画し織田信雄を大坂方の総大将に担ごうとするなど、その過激行動を幕府側に警戒されていた。したがって有楽斎とは対立している。
 また頼長は冬の陣では仮病と称して攻撃に加わらないなどの不審な行動が多く、夏の陣前に「自分を司令官にしろ」と主張して諸将の反対にあい出奔したのであった。この頼長の奇行のため、父の有楽斎は城内での立場を失ってしまった。有楽斎の大坂城退去にはそのような一因もある。
 この出奔した織田有楽斎の嫡男・織田頼長の、出奔先を追跡してみると、その幾多の資料の端々に『昨夢庵抜記』の存在が記されていた。存在は判るが、いずれにもその内容が記されているわけではない。頼長は大坂城退去後、京都に隠遁し、茶の湯に専念して有楽流を継承する。頼長は豊臣家の部将であったために、長益(有楽斎)は領地を分与することを控え、幕府も領地を与えず、大名に列することはなかった。そんな織田頼長を平たく言えば、豊臣・徳川の争いにあって織田家再興を企てた人だ。出奔して京都に隠棲するまでの間、しばらくは泉州堺にいた。其処(そこ)がどういう経緯か、小西家に匿われている。こうして匿われる因みが、やはり『昨夢庵抜記』の記す内容に潜むようにあった。

 小西隆佐は朝鮮出兵が始まると肥前名護屋城に入るが、まもなく発病して堺から京都に戻り、そのまま死去したのであるから、当時は遠にこの世にはいない。そこで追跡を重ねると、小西宗家を継いだのはやはり小西如清(じょせい)である。一説では関ヶ原のとき東軍方に捕まりその後不明と、今日の歴史上ではそうなっているが、事実はそうではない。
 敗戦濃厚とみた時点で戦場出奔なのである。そもそも小西家は堺代官を名乗るものの、武士にあって武士にあらず、家系の性根は商人なのである。養子に出された二男の行長にしろ、武力よりも対外貿易にその才を発揮し、対馬の宗義智とともに朝鮮との貿易窓口を担当していたことなどは、彼の素地が商人出身であったからではないか。したがって如清の武に根性はなく、おそらく武とは形のみで腕は左前、ただ便宜上関ヶ原に加わった。兵卒の頭数にも入っていない。そうでもしないことには、商売の棚が勢い回らなかった。だから敵前逃亡されても、武士にあらずものを、東軍である敵方も再三しつこく追うはずもない。武門においては弟小西行長の陰にあって如清の存在は比較できぬほど薄い。小西行長が石田三成とともに京都六条河原で斬首されたこともあり、強烈なその惨たらしさと磊落の哀れさに呑まれ、如清の所業など風聞もなく消え飛んだのであろう。

 そもそも如清という名、これは跡目名である。つまり商家を世襲する者が名乗る継名であった。父隆佐も商家であることを名乗るとき如清を使っており、そう名乗る如清はたしかに家業を継いでいた。この如清が織田頼長を一時匿ったというのなら、過去の経緯をして動機もあろうし筋も通ることになる。なによりの証拠は『昨夢庵抜記』を小西如清が、さらに奥深い処へと運び去ったところにある。如清はこれをさらに秘匿した。

 どうやら『昨夢庵抜記』は当時の混乱にあって今井家から織田有楽斎の手に渡っていたようである。どの時点でその手に譲渡されたかは不詳だが、おそらく大阪方による堺占拠以前あるいは直前かであったのであろう。その時期の詮索は別として、そうであれば織田有楽斎の手元から頼長が勝手に拝借したものと推察は立つ。しかし小西家における如清の、その不幸なところは、父の小西隆佐と弟の小西行長が秀吉に寵愛され、豊臣政権で重みを置く存在である地位まで上り詰めた事により敵方から無視できない勢力として如清を含めた小西一族が認識された点にある。故に小西行長が西軍として旗色を示した事は小西如清・長右衛門父子にもそれ相応の東軍からの攻撃はあったと考えるのが自然ではある。この「それ相応の東軍からの攻撃」と「キリシタン禁令」の二つを考慮しなくては、なぜ『昨夢庵抜記』を秘匿しなければならなかったのかの全容は理解できない。

 日本において政策としてキリスト教への弾圧が始まるのは1612年の禁教令からであり、明治初期まで続いた。しかしこれは狭義の意味での禁教令で、広義の意味では、もっとも早い禁教令は永禄8年(1565年)と同12年に正親町天皇が出した追放令である。そうして1587年の豊臣秀吉によるバテレン追放令がある。あるいは時代を近代まで下ると、明治政府による五榜の掲示(第3札はキリスト教・邪宗門の禁止)までも含まれる。

第3札はキリスト教・邪宗門を禁止した
五榜の掲示(その第3札でキリスト教・邪宗門を禁止した)

本能寺の変 本能寺の変

 正親町天皇が出した追放令、これは京都から宣教師を追放するという主旨であったが、織田信長によるキリスト教保護政策もあってさほど効果は無かった。効果がなかったというより、むしろ信長の勢力に禁裏の口が自然圧された。以上、このように綴り紐解くことのできる近衛家『陽明古文書』と今井家『昨夢庵抜記』とを重ね圧すように開いてみると、天正9年(1581年)の秋から翌初夏にかけての足跡(安土城を退出してから本能寺の変にいたる今井宗久の行動)が明らかとなる。
 しかし、この詳細を明らかに暴くためには時間を天正9年から天正5年に遡り、再び松井康之の肖像を追わねばならない。

 この続きはコラムNo.0036・・・天正の羅針盤⓷にて

陽明古文書蔵の信長公記
陽明古文書蔵の信長公記

陽明古文書

陽明古文書




                                        三馬 漱太郎
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聖マンショ伝「帰らざる丘」・No.0034

Logic to "X中世地夭叱正記外伝・・・天正の羅針盤 
       伊東マンショ長崎出航の前夜と、二廉の男たち。

 There is a portrait hidden in the middle ages. They revive by this logic and episode.

高桐院17 昭和57年当時の高桐院

 「」を懐(いだ)いて生きる、ということを理解すると、武士の歩いた「世間」が見通せる。その世間には、おのれを絶つ死、討たれる死の、死が二つあり、この両死の小さな間隙(かんげき)に「」がある。この間隙を突いて武士は生きた。突き出た者は生き延びて、突き出せぬ者は淘汰される。だからあらゆる家が、存亡を懸けて、突き出て生きる術を心得た「一廉(ひとかど)の武者が家に座ること」を必須とした。これを継ぎ、継ぎ、継ぎて行き、存続させることに家は懸命となった。これが武家の宿命であろう。家紋を世間に向かって立て、そこを一門とするために懸命であった。こうしてようやく一門が建つ。家紋が建てばさらには常勝の武家を求めた。この門をくぐり、一門を守る者だけが武門なのである。武門は死八分、生二分という。これは表裏一体の五分よりも分が悪い。武者は今日二分の生を得て、八分の死を退けることで、今を生き延びた。この有り様が家柄となる。世間体(せけんてい)のそれが家格なのである。家格にはそんな武家の性質を抱えこむ。突き出る家格とは、何か。家臣を養える家格とは、何か。より一廉【優れる・勝れる】の、その上を志す、その武門において、あらゆる男たちが美妙なる生き方した。さらに、この美妙なる男たちとは、一廉に飽き足らず、さらに切り開き、二廉(ふたかど)の道を生きた。

高桐院15 彩ればまた別の趣きがある。2012。

 下克上という壮絶な時代下を生きて「時が過ぎてしまうと、いい思い出しか残らない」と、いう。そんなしっとりとした美妙な哲言を現在に遺し、63回の冬を永訣として、不在へと向かった一人の武人がいた。松井佐渡守康之である。長い試練と葛藤を、さらりとそう振り返ることのできた今際(いまわ)の美妙な顔が連想の中にもすがすがしい。武門の人が、この仙面の美妙なる表情になるまでに、一体どんな挑戦をし続けてきたのだろう。この男にとって、耐えて得られるモノもあるが、武門が乱世にしがみつくのは凡慮な生き方でダサいのである。この男が愛しいと思う人々は、皆そのように言う。これを咥(くわ)えた胸板のそこには、砂礫の大地を草鞋(わらじ)一つで走り続けた涯(はて)に、稀(まれ)な数寄者が抱く境地があった。

高桐院の新緑15
 座るという文化が日本にはある。これは西洋の椅子に掛けるという文化とは違う。この座るには、正座、端座なのどがあり、そこに美妙の幽かな美意識が生まれる。それが座る、あるいは座り直して、己を見る工夫となる。

"After the time passes away completely, only good recollections remain."

高桐院の近く藪 訪ねる道・・・雲水の影

 この境地を考えるとき、この国(日本)には一つの作法があることが分かる。

高桐院4 
回想する道に浮かぶ・・新緑の寺院・・その道

 松井佐渡守康之が言い遺した「いい思い出しか残らない」という文言の裡(うち)には、この人の生涯でしか宿らない肖像が去来したのであろう。そう廻る回想の窓を開こうとすると、回向(えこう)する茶会に招かれて織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、千利休らの沓音(くつおと)を聴くことになる。にじり口をあけた二畳の茶室では、上座も下座もなくさせて、夏には風炉を置き、冬には炉を切るその趣にまかせて、墨蹟窓からの光に照らされたその床には、面々それぞれに執り合わせた掛け軸や花をあしらい、点前(てまえ)を面々に進める、悉皆(しっかい)と閑かな佐渡守(さど殿)の美妙の姿が現れる。また傍らには伊東マンショ祐益と巡り会った日々時々の回想も廻りくるのである。春光院殿前佐州大守英雲宗傑大居士、願わくば、そなたからもっと聞きたい、と思うところから、この松井康之の生い立ちに絡め、伊東マンショに関わるエピソードを随所に施して、二廉(ふたかど)の男達の始終を物語ることにする。

高桐院13
窓を開くという・・・日本の哲理

 それでは・・・回向の窓から、まず京都・高桐院(こうとういん)の風景をながめながら戦乱の世がもたらした武門の美意識へと歩調を合せてみたい。順次切り挟むアングルの多くはその回廊である。冒頭のモノクローム写真は30年前に写したものだ。今回、これに新緑の絵の具を流しこみたくて再度訪れてみた。晩秋を見納めた松井康之が永久(とわ)の眼を閉じたのが真冬のことであった。おそらくその眼差しには春陽を越えてきたる新緑の輝きがあったと思う。新緑には生命が萌芽した後の、延命な漲りがある。紅葉の侘(わび)よりかは、むしろ新緑に潜む寂(さび)こそがこの人物の美妙には相応しい。その光の揺らぎにきっと顕れてくれる兆しを、こころに期待しながら京都北区紫野へと向かってみた。

高桐院 表門 高桐院の表門

そこには当時天下一と呼ばれた千利休愛蔵の灯籠がある。

高桐院の墓2 明智ガラシャ玉の墓塔(千利休の秘蔵燈篭)

高桐院の地図2 羅針盤(大徳寺概図)

 市バスなら「大徳寺前」または「建勲神社前」下車し、北へ約100mほど進む。車なら大徳寺方面の道を選ぶことになる。大徳寺は応仁の乱後、一休和尚が復興した鎌倉時代創建の寺ある。その時代創建が物語るように、中世の事象を垣間見るのなら、この大徳寺山内がよい。一休復興の寺も歳月を経て広大な境内となった。現に、大徳寺町という一町をつくるほどの、その山内境内はまことに広大である。大徳寺の大本山の山号を龍寶山(りゅうほうざん)と称するが、そう呼称するように大徳寺とは、龍寶山を大核として成り立っている。臨済宗大徳寺派の寺々により、20寺を超える塔頭「(たっちゅう)本山寺院の境内周辺にある関連寺院」が大境内に立ち並んでいる。これが大徳寺なのだ。したがって中・近世の日本の雰囲気を色濃く残している。20寺超の内、その一つ、高桐院を訪ねた。

大徳寺(朱塗りの山門) 大徳寺(朱塗りの山門)

 高桐院(臨済宗大徳寺派大本山大徳寺の塔頭の一つ)は細川幽斎や忠興と結ぶ彼(松井佐渡守康之)ゆかりの寺院なのである。開基(創立者)は細川忠興、開山は初代住職の玉甫紹琮(ぎょくほじょうそう)で、開山した玉甫紹琮は細川忠興の叔父で父幽斎の弟にあたり、慶長7年(1602年)に創建された。本堂前の庭園は通称「楓の庭」と呼ばれる簡素ながら四時趣のある庭で、一面の苔地の中に一基の灯籠が身に一石を投じる工夫で据えられている。書院は意北軒(いほくけん)と呼ばれ、千利休の邸宅を移築した。松向軒(しょうこうけん)は利休の茶を忠実に継承したといわれる忠興好みの茶室である。これは豊臣秀吉が催した北野大茶会の際につくった茶室を寛永5年(1628年)に移築した。松向軒という名の由来は忠興の法名である松向寺殿三斎宗立からとっている。また庭園には忠興と明智ガラシャ玉の墓塔となる春日灯籠があるのだが、忠興はこの燈籠を生前こよなく愛し,自ら墓標に指定した。以前、この石灯籠は千利休が愛用した灯籠である。しかしこれを秀吉が欲しがったため、灯籠の一角を壊して召し上げられるのを逃れたといわれる灯籠であり、利休が切腹の前に遺品として忠興(三斎)に贈ったものだ。さらにまた、細川家墓地(細川家12代までの墓碑)から藪を挟んだ裏手には非公開の墓地がある。忠興とガラシャの嫡男で追放された細川忠隆こと長岡休無や、出雲阿国、名古屋山三郎、森鴎外の著作「興津弥五右衛門の遺書」で有名な興津弥五右衛門などの墓もある。こうしてここが寺(御霊を弔う鬼籍の地)であることにより、ただ佇むだけで中世を偲ぶことになる。創建の期を同じくするこの地は、中世の「生」現在と「死」不在の、言わばこの不安定な身もふたもない乱世の世間で生じた不可逆性をあらわに垣間見させてくれて、不思議にも、これはそことみごとに重なり合う、武門の美妙を思い知らせてくれるのである。そもそも戦乱の人物(開山した玉甫・忠興の叔父)を本堂前にてお祀りされていることが、じつに生生しい。それはそれで外にはなく創建の意識が具体的であるのだから、由(よし)、この高桐院で、一つ、心の筋立てなど叱正していただくのもよい。

高桐院3

高桐院5

高桐院6

高桐院10

 晩春から夏は境内・・・楓と竹林の青葉の美しさと緑の濃さに圧倒される。初秋から晩秋は庫裡へ・・・向かう長い石畳の参道は静かに変化する紅葉がいい。初冬から晩冬の雪はなおさらであろうか。ここには風景が春に起変、夏に承変、秋に転変、冬に結変とめぐる風があり、その風の流れに乗り合わせてみると四季折々の回想の窓からは、戦乱の世のロジック(武門が規範とした行動論理)を起承転結にみることになる。

高桐院8

高桐院の新緑

高桐院の紅葉3

高桐院の雪9

 ちなみに当コラム「随筆書留」のエスコート・キャップとして、特定のエピソード区分として見出しになる部分のみを色彩文字にし、適時に仕分けして編集する。そのおおむねは、伊東マンショ祐益のエピソードは「■」茶系文字、宮本武蔵は「■」緑系文字、古田織部は「■」青系文字、織田有楽斎は「■」赤系文字の彩色ロジックとなる。

高桐院の地図 大徳寺境内図

 天正19年正月2日、千利休が奥州一揆鎮圧に向かった細川家の重臣松井佐渡守(康之)へあてた手紙の文面が遺られている。当時、細川忠興と松井康之は出陣して奥州二本松(現福島県)にいた。ちなみに【天正18年(1590年)に遣欧の使者として日本に戻ってきた伊東マンショ祐益は、翌年(天正19年閏1月8日)に聚楽第で豊臣秀吉と謁見する。これはマンショが長崎港を出航して以来、約9年の年月が流れていた。したがってこの隔世が何を物語るかといえば、じつに秀吉は彼ら(少年使節4銘)をえらく興味深く気に入り、正使者を担ったマンショには特に強く仕官を勧めるのだが、司祭になることを決めていたマンショは何の迷いもなく実直にこれを断った。これをまた素直に了承した秀吉と、地下に断りを入れた両者における隔世の感とは、相互の抱き方において秀吉には確執すら生じないほど、指食は振るが震わすほどの独占欲が掻き上がらないという、ある種、遠い夢の彼方で揺らされて満足する秀吉がそこにいるだけで、お互い小さな交感は残したものの、二人はここで天と地の差をもって大きく擦れ違った。しかし日本語でもってこの場面を正確に描くことは、じつにしんどい。未だ言葉数が足りない。それほど二人の感情表現は微妙であり、されどそこらを美妙に描きたいのであるが、これは一言の日本語では不可能に近い。そこで英語なら大胆にもバッサリとやれる、とボストンでもこういう風にして解釈の末尾を添え結ぶのであるが、伊東マンショは秀吉の脳裡でスルー(through)したのだった。このthroughという英語表記の何と便利なことか。「貫通して~」「通過して~」「突き破って~」「見抜いて~」「離れて~」といった意味を表すこの英単語には、この一言あって、その後は、受け取り次第という便宜性が語り手に確保されている。ここはその方便で、相互をスルーすることにしたい。その後、司祭になる勉強を続けるべく天草の修練院に入り、コレジオに進んで勉学を続けた】。したがって、遣欧少年使節の一行が聚楽第で西洋音楽(ジョスカン・デ・プレの曲)の演奏を秀吉に披露する、その時分には、政宗と対峙すべく松井康之は奥州にいた。以下は千利休がその康之に宛てた手紙の要約である。※(準ずる現代語訳に変換。原文は下記に一部掲載)

高桐院の新緑15

一、 浅野弾正と一緒に二本松に同陣していることは、奇特というか名誉なことですね。
   上様(秀吉)の耳にもそのことは入っていますよ。
一、 奥州の一揆が蜂起したのは、ひとえに政宗が謀反を企てているからだと上様のお耳に入れました。
一、 政宗は羽忠(蒲生氏郷)を攻略するつもりのようだが、氏郷が油断しているように見えるので、
  (原文だと羽忠政宗武略之覚悟、羽忠油断無様に被思食候)
   上様は去年28日、中様(秀次)、家康様の両名に折紙をよこし、
   そちらへ向かわせることにしました。このことは弾様(浅野長政)へも取次があったと思います。
一、 政宗は去年4日、黒川に陣替えして、会津と二本松の間を通行できないようにしてしまった。
   これはまぎれもなく謀反の意図があるということだ。氏郷が会津に無事帰城するまでは、
   政宗が何を言おうと、すべて裏表がある、と上様はおっしゃっていました。
一、 霜台(浅野長政)から政宗へ、ご返事があったことは承っています。上様と全く同じ思し召しです。
   会津への通路を切り取った以上、政宗が何を言っても、申し開きは無理でしょう。
一、 上様は三月一日、奥州へ出馬することに決まりました。


高桐院14

 この記録については下記に原文の一部を抜粋をする。この『兼見卿記』(かねみきょうき)を書き記したのは吉田兼見(よしだかねみ)であり、松井文庫モノの大半はその写しである。吉田兼見(天文4年・1535年から慶長15年8月20日・1610年10月6日))は、堂上家の支脈である吉田家の9代当主であった。京都の吉田神社神主の神道家で、細川藤孝(幽斎)の従兄弟である。はじめ名は兼和とう。天正14年(1586年)に兼見と改名した。公家方として従二位・神祇大副・左衛門督の官位があるためか、織田信長や明智光秀とは常々親密な関係であった。

高桐院の丸窓

 例えば小説などにある信長を念頭においては、これはいかにも「らしくない」逸話なのだが、比叡山焼き討ちのとき、延暦寺を焼く事に不安を抱いた信長が相談に訪れたとされる人物がこの吉田兼見である。信長も一廉(ひとかど)の生な人間として仏ごころを持ち合わせていたようなので妙にホッとさせられる。焼き討ちの5日以前の深夜、二人は琵琶湖東岸の長浜磯近くの蛭子(ひるこ)の杜で密会した。これも兼見卿記にそう記している。ここにいう蛭子とは現在の長浜市の南、彦根市とはほぼ中間ぐらいの距離になる湖の河畔に世継という交差点があるが、これはその東に建つ蛭子神社にあたる。

高桐院12
高桐院の茶室5

 また兼見は、本能寺の変に際して、勝者・明智光秀に会いに出向き、銀50枚をもらった。しかしこれは兼見には致命寸前の、いたっては甚だ軽率な誤算だったが、そこがまた逆に公家方らしくもある。逆転はなんと数日でもって、備中より早返しをした秀吉に勝利の軍配が上がったからだ。後日、羽柴秀吉にそのことを指摘され、その銀50枚を秀吉に差し出している。が、どうして兼見とはなかなか侮れぬ男なのであった。それはこの男の桁外れに多勢な交流と破格な幅の広さに顕れている。そのような吉田兼見の『兼見卿記』とは、じつにその内容が多彩で広範で緻密な記録なのである。特に天正年間における所見、交流、風俗、文化など、雑記もふくめ多種混成の備忘録めいた総合書留とでもいうべきモノであった。この卿記だけをながめても、そこには莫大な人脈が潜んでいる。頻繁に情報を与え、あるいは与えて貰う、交換する、この繰り返しを可能とする、そうとうな多方面への行動力と情報網力を備え蓄えていた。

高桐院11

 そのことを記述において明確に示すには、吉田兼見のその資料を持ってすれば、さほど難しいことではない。むしろ簡単で、一例を持ってすれば処理できる。そこで卿記から抜粋して災害の一件を揚げてみたい。そうして記述に従いその大まかを述べたとしても、情報の緻密さその正確さ、これを可能とすることの機能的なネットワーク網というものが、およそ一人の人間のみの術で成せるかどうか、の、判断、理解、納得、大方は騙(かた)づくと思う。では『兼見卿記』のその辺りを開いてみる。

高桐院の桜 高桐院の桜

 日本海側で津波があったのは、天正13年(1585)11月29日であった。同年は羽柴秀吉が豊臣を名乗り関白になった年である。当該の条では2カ所書かれていて、1回目は地震直後、2回目はある程度事態が判明してから追加情報を書いたと思われる。
 地震が起きたのは同日子の刻(深夜零時頃)とされる。
 兼見の自宅も長く揺れて、しばらく止まらなかったようだ。このことを「地妖凶事如何(いかが)」と兼見は地震の不気味さを日記に記している。翌30日に、兼見が吉田社の境内を見て回ったら、神壇の石垣の多くが崩れ、文庫の二階の北側の軒が一間(2メートル近く)欠け落ちていたことを発見した。そしてこの日も「地動今日に至るも止まず、切々地動しおわんぬ」と書いており、余震が止まなかったことがわかる。そして、その後判明したことを書き加えている。

高桐院の新緑6

 京都では壬生の堂塔が倒壊し、あちこちの民家が壊れており、「数多(あまた)」の死者が出た。さらに、日本海側その他の被害として、「丹後・若州・越州、浦辺波を打ち上げ、在家ことごとく押し流す、人死ぬ事数知らずと云々、江州・勢州もってのほか人死ぬと云々」と、ある。
 日本海側の丹後・若狭・越前(現在の京都府から福井県)に津波が押し寄せ、沿岸部の民家をすべて押し流し、数え切れないほどの死者が出たとあり、また近江や伊勢でも死者が出たと記されている。さらに12月に入ると、越前の丹羽長秀に仕えていた兼見の妻の兄佐竹出羽守からの知らせで、地震で家が倒壊して兼見の妻の妹が圧死したとも記されている。兼見の親戚からも死者が出ていた。
 余震の記事は、その後も12月1日、3日にもみられる。朝廷では、地震が終息することを願って祈祷することを決定し、兼見に7日間の祈祷が命じられたという。

高桐院の新緑12

 『兼見卿記』は織豊時代の研究では非常に重要な一次史料で、学界においても信頼性が高い。したがって、その記述はかなり正確だと考えてよい。しかも、兼見は、丹後田辺城主細川幽斎・忠興父子と親戚(兼見の息子兼治の妻は幽斎の娘)で、その関係から、日本海側の情報を入手して日記に追記したと思われるし、記録として、日本海側の大津波だけでなく、近江や京都、さらに東海地方の伊勢方面まで被害が広範囲に広がっていることまでも記しているのであるから、そう記そうとするほど相当大きな地震だったと推定もされるし、これを正確に伝え残そうとする緊急な災害時にあって、そんな緻密な記しが述べられるところが日頃から情報網を密にしてる左証なのではないか。当時の筆記技術として、まとめの稚拙さはあるが、内容の本質性は、活きた情報としての機能性は、現代の地方紙や官庁広報に劣るモノではない。また現代の記者でも、手紙、人間の手足、あるいは馬ぐらいの通信手段しか持たされないとすれば、吉田兼見の瞬時に対応して一連的に情報を引き出しながら編集を迅速に終えるという術は、おそらく二三人束にしても敵わぬのではないか。下記は、利休が松井康之の二本松へ宛た書状原文である。

高桐院の新緑10

 『松井康之宛千利休書状』(天正19年正月2日)抜粋〔松井文庫古文書より〕
    政宗去四日ニ黒川へ陣替候て
    会津二本松無通路様ニ候
    於無粉謀反兎角
    羽忠会津へ無帰城候へハ
    政宗何事を被申候ても皆
    表裏と被 仰出候
    不慮之御辛労奉察候
    政宗へ従霜台御返事之趣
    承候 上様被 思召と
    呉ゝ同前ニ候何事を被申
    候ても会津通路取切候上ハ
    不入儀候
    上様来三月朔日可被出
    御馬ニ相定候此方何も
    相替事無御座候可御
    心安候与一様朝暮放申候
    霜台へ以書状申候御届所
    仰候御事繁結句いかゝと
    存以書状も不申上候由申度候
    御留守を無事御門迄御
    見舞いをハ細々申入候右之
    趣被仰候て可給候 恐惶謹言
    正月二日    宗易 花押
    松井佐渡守殿
            回鳳


高桐院の高札

 以下は吉田兼見の(「兼見卿記」を通してみた天正年間の社会・公家の数寄空間」の記録。その中で1591年天正19年正月から、28日利休切腹までの記録を抜粋し、細部は整理して除外させ、閏(うるう)月が重なる年でもあるから、そこを考慮して日付順に要点だけを並べてみた。この間、約60日(2ヶ月)分となる日数における吉田兼見の周辺で、ここに記される面々(じつに多数有名)の出入と対応の、過密な連なりには極短い文字数で短縮してみても、濃厚な情報で満たされている。

高桐院の茶室

 1591年天正19年 正月、利休、奥州二本松逗留の松井康之に書状を送る。8日昼・油屋紹左。9日朝・堀尾弥助ら。10日朝・戸田勝隆ら。13日・秀吉、前田利家、施薬院全宗、「黒茶碗使用」。15日朝・毛利輝元、安国寺恵瓊。15日不時・あいか殿。15日昼・大友義統ら。16日昼・佐竹義宣。17日朝・小西立左、小西如清。22日晩・道慶ら。25日朝有馬則頼、高山南坊。25日昼・牧村政吉ら。26日昼・秀吉、織田有楽斎。27日昼・長束正家・山内橘内。晦日・戸田勝隆。閏正月2日晩・宰相(宇喜田秀家か?)3日朝・松井康之同日昼・伊丹屋紹無、万代屋宗安ら。4日夜・本願寺光寿ら。5日昼・糟屋内膳ら。10日朝・福地三河ら。11日朝・毛利輝元、佐瀬与三右衛門、林肥前守、少庵。11日夜・島津義弘、天野屋宗也。13日晩・織田有楽斎、立阿弥。15日昼・戸田勝隆ら。16日昼・桑山重晴、青木一矩ら。20日ころより大徳寺山門の利休木像が問題視される。22日利休、細川忠興に書状「引木の鞘」の茶碗を贈る。24日朝・徳川家康、跡見、本田忠勝ら七人。29日細川忠興に書状。二月13日、秀吉利休を追放。利休堺に下り蟄居。細川忠興・古田織部、淀川岸畔にて利休を見送る。松井康之宛書状、見送りのお礼。25日切腹の命令。利休辞世。遺産処分状。利休木造聚楽の戻り橋にて磔。26日京の利休屋敷に入る。28日利休切腹。京雷雨。・・・・・・

高桐院の椿 銘

 天正19年兼見、本宅を兼治へ譲り、千秋月斎旧宅へ移る。

 細川忠興宛利休書状(天正19年閏正月二十九日)
    今朝参礼本望ニ候、仍生貝のあふりかい一あり数二百ケ、先其まゝ賞玩仕候、別而珍物是か初に  被下候、又宗無一儀あしきニ及候、もす屋にとてもの御事候、態々御尋所仰候、一笑々々、恐惶謹言
      閏正月二十九日               宗易    花押
                            より
    〆  羽與様  回答              休
 文中・・宗無・・は山岡宗無、もす屋・・京都の萬代屋某のことであろう。山岡宗無は、住吉屋とも号し、堺の酒屋で、利休に付いて茶湯を学び、秀吉に仕えて四百石を領し、和歌・書道・剣法にも通じた。文禄4年7月没。本書の文意は、何らかの理由で宗無が比で吉井不首尾であったと云うことであろうか。萬代屋某というのは、利休の女が嫁いだ先で、その人はこの頃すでに没しているので、ここでは、利休の女そのものを指すのであるかもしれない。・・・利休処罰の原因を語る一史料となるかも分からぬ。

千利休 千利休

 またそれを示唆させるべく文献の活用と提出の具体は、元来の原本『兼見卿記』に添付されるところの「史料纂集」(続群書類従完成刊行)所収の「兼見卿記 第1巻」「兼見卿記 第2巻」の存在もあり、こうして新たな史料纂集としての当コラムに助成していただいた影写本、謄写本を所蔵する機関の、東京大学史料編纂所、宮内庁書陵部、尊経閣文庫、静嘉堂文庫、天理図書館、高野山大学関連など、また個人名を引き出せば諸氏際限もなく、よって紙上(コラム面)にて(合掌)としよう。

高桐院の緑

 さて・・・・多少別件で間合いとしたが、先の足取りを追うことにする。
 松井康之が奥州に出陣したこの年の1月22日に、・・・・病が悪化し小田原征伐には参加できなかった豊臣秀長が死去すると、ほぼ一ヶ月を経た2月28日、堺の蟄居先から京都へと呼び戻された千利休に秀吉は切腹を命じた。
この松井康之が奥州に出陣した天正19年(1591年)とは、千利休の自害後、8月に豊臣秀吉の子鶴松(幼名・捨)がわずか2歳余という短さで死去し、その名代を急いで転がすようにして11月に秀吉の養子となった羽柴秀次が、12月には豊臣秀次として関白の任に座らされ、そうして翌20年には先鋒として大黒の名馬を秀吉から贈られた小西行長1万8700が釜山に上陸すると、清正に先んじて漢城を占領し、総じて日本から約15万の大軍で朝鮮を攻め立てる文禄の役(朝鮮では「壬辰倭乱」と呼ぶ)の始まりを予兆させる時期でもあった。

 またこれら海を越えた大戦乱の予兆は天正・文禄・慶長年間における多くのキリシタンらが苦難の道に晒される、極めて暗い兆しをも孕ませていた。文禄の役の際の進軍、戦闘の模様は、小西軍の従軍僧であった天荊(妙心寺・臨済宗)の『西征日記』に詳しく記されている。

高桐院の紅葉8

 この内、平壌の戦いではアゴスチノ行長の弟・小西ルイス与七郎と従兄弟・小西アントニオ、一門の日比谷アゴストなどが戦死者となった。この大戦を前に先鋒としての先陣の座を争って二番隊となった加藤清正から小西行長は文治派と見なされて「薬問屋の小倅」と侮られ、その反発として行長は、朝鮮出征のとき、軍旗として当時の薬袋である紙の袋に朱の丸をつけたものを使用したという。しかしそれよりもむしろ、多数がキリシタンの天草衆を率いるキリシタン大名に、熱心な日蓮宗信者であった清正を退けさせてまで行長に先鋒を担わすという戦略の構図が秀吉の手中にあって奇妙に焦臭(きなく)い。しかも現存する五山版『春秋経伝集解』荘公第三の巻に内題の下に「豊臣行長」の印が押されたものが発見されているが、これは行長に豊臣姓を下賜させ先鋒を奮起させようとした可能性がある。

高桐院の紅葉11

 その予兆の、12年前のことになるが、天正7年(1579)9月、雲林院式部大輔を主将とする三千が篭る丹波鬼ヶ嶽城を攻めていた明智光秀のもとに、細川忠興が重臣の松井康之らの手勢を率いて駆けつけた。光秀は、この婿の加勢を喜んだ。【このころ伊東マンショは10歳。7歳のとき薩摩・島津氏との戦いに破れ伊東氏の居城は落城、落武者となった幼いマンショは、遠縁だった大友宗麟の領地に逃れ、これに紛れる1579年は流浪のときにある】。またこの年の7月25日に宣教師バリニャーノが来日し、このころ日本におけるキリシタンは推定10万人とも伝えられているが、下克上の真下(さなか)にあった松井康之に、それら遥か異国のことは未だ無縁のモノであったろう。只、松井康之は敵兵三千が立篭る丹波鬼ヶ嶽城を懸命に攻めていた。※(小説として回想)

高桐院の紅葉6

「では忠興殿、大手門(表口)を攻め候え!」
「手柄の機会を回していただけるか、かたじけない」
だが、光秀の命に従わない者もいた。
「ふっ、馬鹿正直に大手から攻めていては、いつ落とせるか分からぬわ」
細川家臣の古田左介は、城の裏山から搦手門(裏口)を打ち破って攻める事を企て、山の間道へ押し入った。
左介は途中、城方の物見と遭遇し、一騎討ちの末これを下したり、木の根、岩の角に取り付いたりしながらやっとの思いで城の裏山によじ登る事に成功すると、一息に坂を駆け下り、搦手(からめて)をこじ開けて大音声を発した。
「古田左介、一番乗りして敵を討ち取ったるぞ!」
「ちッ!左介に出し抜かれたか!」
これを見た忠興が発奮し、相手をしていた騎馬武者を突き伏せ、首を取ってみせると、それが合図としたように、全軍一同に城へ攻めかかった結果、城主の雲林院こそ逃がしたものの、城を落として二百余を討ち取り、城方の救援に駆けつけた、名だたる赤井悪右衛門直正を撃退する大戦果を上げた。
褒美として五百石を与えられた左介は、その後も戦功を重ねて信長の直参に取り立てられて織部を名乗り、千利休に弟子入りして茶道の達人となった。すなわち、これが古田織部である。


高桐院の紅葉

 細川家(綿考輯録・めんこうしゅうろく)の記録はこうなので、信長公記等で織部を最初から信長直参とするのには疑問が残る。しかしこの丹波鬼ヶ嶽城の一戦が松井康之と古田織部とを引き合わせる最初の場面となった。「我死ても此道に志あらん人ニハ、古田(織部)、長岡(細川忠興)に随て習ふへし」とは千利休最後の言葉である。
 松井康之は利休がいうその「古田」と「長岡」、この二人と生涯を共に過ごした。利休が自害(賜死)した天正19年2月28日(1591年4月21日)のこの年、三人の年齢は、松井康之41歳、古田織部47歳、細川忠興28歳で、忠興の父・細川幽斎は57歳になっている。

高桐院の紅葉13

 その幽斎が48歳のころ、天正10年(1582年)に本能寺の変が起こると、細川藤孝は上役であり、親戚でもあり、なによりも親友だった明智光秀の再三の要請を断り、剃髪して幽斎玄旨(ゆうさいげんし)と号して丹後の田辺城に隠居した。こうして忠興に家督を譲った。【本能寺の変(天正10年6月2日)が起こる4ヶ月ほど前の2月20日に遣欧少年使節団は長崎を出航した】。しかしこのころになると松井康之の周辺事態として、光秀の三女明智玉の難儀な一件もからむこともあり、キリシタンの動向には極めて敏感であった康之は、使節団がローマへと出航したという風聞は承知していたであろう。当時の康之は、信長にも近く、秀吉にも近くしていた。何よりも織田信長においては、遣欧使節団が仕立てられた背景にあっては陰ではあるにせよ、信長という黒幕仕立てによって、それらが可能と成った経緯(いきさき)がある。風聞ではあるにせよ康之はその経緯の詳細を把握できる立場にいた。

本能寺の変の7日後に明智光秀から細川幽斎 (藤孝)・忠興に宛てた書状。
本能寺の変の7日後に明智光秀から細川幽斎 (藤孝)・忠興に宛てた書状。

明智光秀 明智光秀

 また綿考輯録によると、織田有楽斎は千利休亡き後に茶の第一人者となっていた古田織部と共に、秀吉の遺児である秀頼のいた大阪城での茶の湯に招かれた。茶会では、豊臣家重臣であった加藤清正が秀吉に献上した茶器が使われ、出席者は秀吉や清正に敬意を表すようにこの茶器を押し頂くのが決まり事になっていたのだが、織部はそれに従わなかった。この様子を笑って見ていたという有楽斎は茶会が終わった後、織部に「くつろぎなされ。」と枕を差し出して、二人で座敷に寝転がり、側仕えの者に点(たて)させた茶を寝ながらに飲むという無礼講を行っている。そうして起き直って有楽斎は「茶器に山城守殿でも映りましたかな」と気随な目で織部をみると、織部はこくりと頷き「これも弔いにて」と拳で裾を堅くしたという。つまり茶人は茶席にて師である利休の点前をもってしか弔えぬという暗示だった。利休の死を弟子たちは誰も賜死だとは思ってはいない。ここにいう山城守(やましろのかみ)とは松井康之である。

高桐院の初冬

 ある日、松井康之は、茶を点(たて)る古田織部を前にして、次ぎのような話をさりげなく織部から聞かされる。・・・・茶の湯の大嫌いな若侍がいた。あんなものは武士の嗜む物ではない、と、いつも高言していた。それを聞いた悪友の一人が、「しかし、お前の義兄は茶の湯好きとして有名ではないか」と、逆し口をつける。痛いところを突かれた若侍、「軟弱な義兄を懲らしめねばならぬ」と、義兄、中川清兵衛の屋敷に忍び込み、彼自慢の茶の湯釜を盗み出した。せっかく盗んだ茶の湯釜である、これで一つ茶の湯の真似事でもしてみよう、と、悪友たちに囃されながら、彼も一通りやってみた。すると「これは…以外に面白いものではないか?」。真似事をしているうちにふと、若侍の中に、そんな感情がわいてきた。・・・・織部はそんな話の余韻を残しなだら点た茶を差し出したが、結末を聞かずとも茶を手前にされた康之には分かった。この若侍、後に天下一茶の湯宗匠、古田織部と呼ばれることになる。

高桐院の雪8

 織田有楽斎は、卑怯者と誹(なじ)られようとも屈しない人物で、そもそも武門そのものが質(たち)に合わなかった。彼は千利休を師とすることで、師匠が追及した「侘び茶」をやがて離れた。利休が打ち立てた茶の湯に習ってみると、その定型を破壊したくなった。次々に破壊しながら非定型の美「破調の美」に到達する。これは歪みや焼け損ないの茶器を尊ぶことの美意識の革命であった。茶室の床幅に合わない掛軸は二つにきってしまったりする。その織部が用いた「破調の美」の表現法に器をわざと壊して継ぎ合わせ、そこに生じる美を楽しむという方法がある。その実例として、大きさを縮めるために茶碗を十字に断ち切って漆で再接着した「大井戸茶碗」(銘須弥 別銘十文字)がある。加藤唐九郎は「利休は自然の中から美を見いだした人だが作り出した人ではない。織部は美を作り出した人で、芸術としての陶器は織部から始まっている」というが、もっともである。下克上を生きたからこの独自の術伎は生まれた。

高桐院の雪12

 「時が過ぎてしまうと、いい思い出しか残らない」と、しっとりという。これは康之だから遺しえた言葉かもしれない。その思い出とは人によって作られるモノ。おそらくその一人が古田織部なのであろう。または織田有楽斎なのであろう。そうして後に具体的な出逢いを果たす伊東マンショなのであろう。おぼろげに行く永訣の脳裡には、多種多様な人々が往来した。あるいは去来した。

高桐院の雪7

 利休七哲(りきゅうしちてつ)とは、千利休の高弟七人「蒲生氏郷を筆頭に、細川忠興(三斎)、古田重然(織部)、芝山宗綱(監物)、瀬田正忠(掃部)、高山長房(右近/南坊)、牧村利貞(兵部)」を指す。この七哲に康之を加えてもいい。しかしここに加えられないところに松井康之の稀有な人生がある。この康之には、利休の死亡に臨み「(死)のない人生に意味はない」と、死後、利休の首は一条戻橋で梟首されたのであるが、その首級のごとき仕打ちの打首をみて言い遺したという。康之にとっての茶とは、あくまでも武門の下にある。嗜みとして茶を咥(くわ)えたが、重きの一等はやはり武門(死際を重ねてくぐる生の鍛錬)なのであった。ならば松井康之の死には、どのような意味があったのであろうか。松井康之の死は慶長17年1月22日(1612年2月23日)。伊東マンショの死は慶長17年(1612年)11月13日。つまり伊東マンショは松井康之の逝去を見届けるようにして同年に病死した。それはヨーロッパ帰国から22年目のことであった。鬼籍の人になる前の松井康之の枕には、果たしてどのようなマンショ像があったのであろうか。その光景は当時の小倉城下に実在する。

高桐院の雪16

 その松井佐渡守康之は、天文19年11月1日(1550年)に松井山城守正之と荒川治部大輔澄宣の娘のもとに誕生した。

 誕生する7年前の1543年、異国船が漂着し種子島に鉄砲を伝来させた。これによって日本の戦が大きく様変わりすることになる。そうして康之が生まれる前年の8月15日(天文18年7月)フランシスコ・ザビエルらの一行が鹿児島に上陸し、キリスト教が日本国に伝来した。鉄砲と新しい宗教の概念、この二つが下克上の終焉を大きく揺さぶることになる。松井康之は幼少のころから13代室町将軍足利義輝の傍らに兄とともに仕えていた。

高桐院の雪14

 しかし永禄8年5月19日(1565年6月17日)、三好三人衆と松永久秀らの軍勢が京都二条御所を襲撃し、足利義輝は弑されてしまう。この将軍襲撃が永禄の変である。【この1565年の時点で伊東マンショの誕生は未だ無い。日向国における伊東一族は薩摩の島津軍勢力によって、10代に及ぶ栄華のその影は希薄化され存亡の危機を向かえようとしていた。1565年、伊東三位入道義祐は、飫肥を領する島津豊州家と日向南部の権益をめぐって争い、長い一進一退の攻防を繰り返していた】。

高桐院の椿「雪中花」3 高桐院の椿「雪中花」

 康之の兄新次郎勝之は、将軍義輝の下に討死をする。これはキリスト教伝来から16年後の大事件(下克上の唯)であり、ルイス・フロイスの『日本史』によれば、事件前日の永禄8年(1565年)5月18日には、義輝は難を避け、京を離れるためにいったん御所を脱出しているのだが、しかし、奉公衆ら義輝の近臣は、将軍の権威を失墜させると反対し、義輝とともに討死する覚悟を示して説得を行ったため、義輝は不本意ながらも御所に戻ったという。多勢に無勢の中、将軍方の防戦も難しく、昼ごろには義輝主従全員が討死し、生母の慶寿院(近衛尚通の娘で12代将軍足利義晴の正室)も自害した。義輝正室(近衛稙家の娘)のほうは近衛家へ送り届けられたが、義輝の寵愛を受け懐妊していた側妾の小侍従(進士晴舎の娘)は殺害されている。

高桐院 細川家歴代之墓。中央正面は初代細川幽斎の墓 細川家歴代之墓(中央正面は初代細川幽斎の墓)

 このとき松井康之は足利義輝公より拝領の念珠を持って、おじ玄甫霊三と伊勢に参宮し、その帰路にあった。勢洲山田の吉沢主水宅で、この変を聞く。とたんに領地は簒奪押領され、家臣は分散、親戚は関東に松井八郎広経のみ。聴松院や吉田盛方院方に隠れ暮らし、不肖とばかり名を胃助康之と改める。このとき康之は15歳であった。

 義輝の死の直後、松永久秀(弾正・だんじょう)らは義輝の弟で鹿苑院院主周暠を殺害、義輝のもう1人の弟で大和興福寺一乗院の門跡覚慶を幽閉した。だが、これを救出したい。2ヵ月後の7月28日に、義輝の近臣一色藤長と松井康之は、興福寺一乗院より覚慶(後の足利義昭)を助け出すと、新たな将軍擁立を謀っていた細川藤孝と行動を共にすることになる。

高桐院 書院「意北軒」の内部 書院「意北軒」

 翌年2月、近江矢島にて覚慶は足利義秋(後に義昭)と名乗り改めて還俗した。以後、松井康之は足利義昭に従い、若狭武田氏や越前朝倉氏を頼って足利家再興を図ろうとするが、目的を果たないまま、結局、足利義昭は、細川藤孝や明智光秀の働きかけによって、織田信長に担がれて上洛、ようやく将軍職に就くことができた。
 永禄11年、足利義昭が越前朝倉に見切りをつけて、織田信長を頼ったとき、松井康之は義昭の旅宿美濃の立政寺を訪問する。このとき足利義昭は、細川に縁故ある者ということで、藤孝の手に入るよう命じた。以降、康之は藤孝の下で幕府軍として働くことになった。それよりは一足先に越前を発っていた明智光秀はすでに織田信長の食客となっていた。

高桐院の鳳来 鳳来
高桐院の鳳来2

 康之は、初陣の江州箕作城攻めは十九歳である。また、三好・松永勢による京・六条本圀寺の足利義昭襲撃では、桂川の戦いで武功を上げ、足利義昭は康之に朱塗り柄の鑓を与えた。
 その後、細川藤孝が山城国青龍寺の旧知を回復すると、康之は客分として遇され、藤孝の養女(沼田上野介光長の娘)を娶(めと)ることになる。そうして細川藤孝が織田信長の従将となってからは、藤孝の下で処々に出陣、軍功を上げた。このころが永禄12年であるから【1569年に伊東マンショは生まれる。本名を祐益(すけます)とするマンショは、日向国主伊東義祐の孫として、伊東氏の家臣である伊東祐青の子(母は伊東義祐の娘・町上)として、日向国都於郡(とのこおり)、現在の宮崎県西都市に生まれた】。
 藤孝が丹後国十二万石の大名になると、細川家の軍制が整備されて、家老・壱万三千石・右備えとなり、左備えの細川玄蕃頭興元とともに働き、生涯五十余度の合戦に出陣し、武功高く、細川藤孝・忠興父子のみならず、時々の為政者に厚く遇されるようになる。

高桐院9

 豊臣秀吉は直臣として康之を欲しがり、石見半国十八万石をもって召抱えようとする。しかし康之は、細川藤孝への恩顧を理由にこの誘いを断る。このとき、秀吉が与えた茶壷が十八万石の壺と称される「深山」である。徳川家康も同調して、家康愛用の「縄簾」という水差が贈られた。また、織田信長以来の知行山城国八瀬村や神童寺村の領地は、豊臣秀吉からも徳川家康からも安堵され、松井家由緒の領地となり、百六十石余のわずかな領地なのだが、徳川幕府の下、これが細川家の家臣でありながら徳川直参という性格を帯びる基になった。

高桐院の井戸

 さらに徳川家康は松井康之を大名並に扱った。この大名に順ずる家格は以降松井家代々に及ぶことになる。これは徳川家康が、秀吉に劣らず松井康之を強く認め、秀吉と同じように、康之を直臣にしたいとの
思いを抱いていた証とでもいえるのであろう。家康は康之へ豊後速見郡壱万七千石余の代官を命じ、康之からは一切の税を取らない。これは康之に領地を与えたようなものである。さらに家康は、康之の二男吉
松を徳川家直参として仕えさせることを所望し、家康と康之二人の間にこの密約が結ばれた。

 吉松とは、後の興長のことである。このとき、松井家二代興長の定めは家康の下に行くことになっていた。しかし康之の嫡男興之が朝鮮の役で戦死したため、密約は反故(ほご)とされ、興長に松井家を継がせることにした。これを家康は渋々了承したという。

高桐院の新緑5

 そうさせた康之も、細川忠興が三十万石の大名として豊前小倉に入った後、京都で細川幽齋が亡くなると、その二年後の(慶長17年)1612年、幽齋の後を追うように豊前小倉で没した。康之は63歳の生涯であった。康之没の二年後に大阪冬の陣、翌元和元年大阪夏の陣と、天下は徳川氏へと移ってゆく。
 こうして創業の時代は終わりを告げる。徳川幕府の下、歴代の家を守る時代が始まった。徳川の世のはじめに、松井家家臣団の中にも、家督を守るため養子による家の継承が発生した。橋本、中山、下津・後藤の四家らである。

高桐院の紅葉17

 戦国、織豊期と戦いに明け暮れた武士たちも、元和偃武をもって、戦闘から離れた平和な生活に入っていくのであるが、こうした、松井家と共に戦国時代や、徳川の三百年を生きてきた人々を松井家先祖由来附・御給人先祖附の中に訪ねて見ると、そこに織り成された人間模様の中に、また知られざる新しい発見がある。松井家の先祖由来附からは康之初期の家臣を、御給人先祖附からは松井家に仕えた人々の、その縁類関係の詳細を探訪する中に日本の中世を形成した幾多の肖像と出逢うことになる。

高桐院の紅葉16

 それでは松井佐渡守康之と、その家臣たちをみてみたい。

 永禄8年、松井康之は江州矢島に逃がし隠した足利義昭の下へ馳せ参じた。将軍義輝が松永久秀に急襲されて弑されたとき、康之は叔父玄圃霊三と伊勢神社参拝に出かけており、帰途義輝生害の知らせを聞いて駆けつけては、大和興福寺一乗院に幽閉された門跡覚慶を救出する。その覚慶を隠棲させた江州矢島に改めて訪れた。このとき、康之譜では「潜ニ彼地え馳参候処、義昭公御感被成直ニ御館を警衛仕候」と記されている。康之は単騎で駆けつけたのではない。八人の者とともに警護を担う。まだ15歳ではあったが、康之にはすでに足利幕臣大外様松井としての格式があった。

高桐院の雪15

 永禄11年(1568年)、若狭武田氏や越前朝倉氏を頼って幕府再興を目指した足利義昭一行は、細川藤孝や明智光秀の尽力で織田信長を頼ることになる。織田信長に招かれた足利義昭は、美濃国立政に逗留して信長に面会した。このとき、康之譜は「相従候者共召連、義昭公の御旅館濃州立政寺え参上仕候処、其志御感ニて、幽齋様は御由緒も有事ニ付、幽齋様御手ニ加り候様被仰付候」と記している。従っていたのはどんな人達だったのかは分からない。漱太郎も数十年来、八方に手を尽くしてみたが分からない。しかし近年、先に示した原本『兼見卿記』に添付される関連古文書からの、ふとした疑問箇所から、その人物と思われる存在が、精査を繰り返すうちに顕れてきた。その作業にあっては、趣きの異なる著者も異なる25種の古文書を突合せ、あるいは突き放しては除外するなど、たった一行の文章をこの世に蘇らせるという何とも不摂生な夜間作業の連続の中にて、古文書に赤外線を充てたところの、暗室の闇中に遺体のように顕れた。ここにその名をスパッと指し示すと、その一名は「茶屋四郎次郎」である。記述では当初から「中島の縁在り」といずれもが、そうであったため「茶屋」と「中島」の関連性が全く手薄なのであった。考えて思い起こすと、その正体を発覚させようとした時間の中に、只今、五名の先逹であり友人であった御人が冥土にてご活躍である。であるから、ここに捕えて名を証す機に、合わせてその居士5名様にご伝言致したい。

細川藤孝(幽斎) 晩年の細川藤孝(幽斎)

 茶屋四郎次郎(ちゃやしろじろう)は、公儀呉服師を世襲した京都の商人で後の豪商である。当主は代々「茶屋四郎次郎」を襲名する習わしがある。その茶屋の、正式な名字が中島氏であった。この中島が茶屋の姓を名乗るようになるのは、信濃守護小笠原長時の家臣であった中島明延が武士を廃業し、大永年間(1521年~1527年)に京に上って呉服商を始めたのがはじまりである。つまり武家から商家へと生業を変えた。そこで姓も変わる。茶屋の屋号は、将軍足利義輝がしばしば明延の屋敷に茶を飲みに立ち寄ったことに由来する。この茶屋家は、屋敷を新町通蛸薬師下る(現在の京都市中京区)に設け、160年にわたってそこを本拠とした。茶屋四郎次郎の正しく詳しくは「初代:茶屋 清延(ちゃやきよのぶ)天文14年(1545年)から慶長元年閏7月27日(1596年9月19日)」である。明延の子で「茶屋家初代」とされる人物が「清延」であった。後年の記録では、若い頃は家康に仕え、三方ヶ原の戦い等で活躍して橘の家紋を賜ったとされている。本能寺の変の際、堺に滞在中であった徳川家康一行に早馬で一報し、後世に「神君伊賀越」といわれた脱出劇の際、物心ともに支援を行った。この恩により、徳川家康の御用商人として取り立てられ、後に徳川家の発展と準じて茶屋家も豪商となった。

高桐院の椿「雪中花」2 細川家墓所に咲く「雪中花」

 しかし前述し探しあてた「茶屋四郎次郎」とは、この「清延」ではない。清延は(1545年)に生まれるのであるから、永禄11年(1568年)の時点で23歳であるのだが、この当時の清延は父明延の名代として泉州堺の商棚であった今井宗久の商いを手伝っている。平たくいえば父明延が今井家に清延を商い修行に出した。しかも清延は、足利義昭が美濃国立政に逗留して信長に面会した日時の前後、その美濃国とはほど遠い真逆の豊後国にいた。その用向きは大友氏との商談であり、今井宗久が自身の名代として出向くように計らったものであった。この記録(大友鉄砲手配の儀)は大友氏側の古文資料と今井家日記のいずれにも明らかにみられる。そうなると、足利義昭が信長に面会した折りの従者とは、未だ茶屋の号を名乗る以前の「中島明延(なかしまあきのぶ)」通称が四郎左衛門尉ということになる。この折り47歳である。そうして某記述には、この中島が公卿方を退いたことの故として、小笠原長時に仕えていたが負傷して武士をやめたという。そうして呉服商となる。その呉服商が茶屋を称するようになった由来は,その記録ではさらに詳しく記されている。

高桐院の雪11

 旧主小笠原長時が武田信玄に信濃を逐われ,一時,上杉謙信の保護を受けたあと,三好長慶を頼って京都に逃れ,将軍足利義輝の弓馬の師範となったことと密接に関係する。そのころ,明延は自分の屋敷に茶屋を作り,茶の湯三昧の生活を楽しんでいたが,長時に伴われた義輝がしばしば茶を飲みに立ち寄る。この折りに長時が側人に「四郎左」は居るかとたずねると、側人は「茶屋に」と指で差し、長時が「おお四郎左は、茶屋か」といって、将軍足利義輝を茶屋に案内したという。これで,いつしか「茶屋」と呼ばれるようになったという、記されている。この某記録とは、後々で執りあげる今井宗久の手で記された『昨夢庵抜記』であった。そうしてこの記を後々に開きみるところで、本能寺の変事が明らかになると共に、この変事以前に長崎を就航した天正遣欧少年使節の、その出航前夜の動向が明らかになる。しかし話がここに至るまでには、その布石となろう数多くの事情と変事について筆を進めねばならない。

高桐院2

 また立ち返り、前述に戻るのであるが・・・・・、
 ところで、「幽齋との由緒」とはどんな由緒であろうか。家督を継いだ新二郎勝之亡き後、松井康之には二人の姉と一人の妹がいた。姉の一人は細川陸奥守輝経に嫁ぐ。細川輝経は細川藤孝嫡子忠興の養父である。次姉は角田因幡守藤秀に嫁ぎ、妹は吉田盛方院宮内卿法印浄勝に嫁いでいる。細川藤孝(幽齋)は三渕晴員の二男であるが、将軍義晴の子として、和泉半国守護細川元常に養子に入った。三渕の祖は足利義満の子、掃部頭持清である。
 また、細川元常と三渕晴員は兄弟である。元常の弟が三渕に養子に入って三渕晴員と名乗る。細川藤孝が姪を養女にして康之に娶わせた後は、藤孝と康之は義理の親子、忠興にとって康之は義兄ということになる。こうしたことが「幽齋との由緒」なのであった。

高桐院の新緑9

 永禄11年9月、織田信長は足利義昭を擁して京へ上る。
 三万余の軍勢が美濃岐阜城を出立した。ところが、路地を治める佐々木氏六角承禎が三好・松永党に組与して道を塞いで抵抗する。このときの箕作城攻めが康之の初陣であった。ときに康之19歳、敵首を討取り大きな働きぶりをみせた。
 織田軍は京を抜いて、一気に城州西岡青龍寺城を攻める。西岡青龍寺城は細川藤孝相伝の居城である。永禄八年以来三好三人衆の一人岩成主税が押領していた。康之は城攻めの先手を進んだ。青龍寺城を攻落すると細川藤孝が入城し、本貫の地は回復された。

高桐院の茶

 このころの康之にはまだ領地が有るわけではない。翌月織田軍は、大軍を擁して摂津国、河内国に侵攻し、三好左京太夫義継、松永久秀などを降参させて、畿内を平均にし、藤孝・康之も織田軍と共に働いた。
 こうして10月15日、足利義昭は征夷大将軍に任ぜられ、足利家の再興が成る。
 しかし永禄十二年、またしても三好三人衆が京都本圀寺の足利義昭を襲った。藤孝も康之も城州西岡青龍寺城にいたが、急を聞いて京へ向かい、桂川で三好釣垂、岩成主税軍と戦った。
 「此之節幽齋様の御人数も既に敗走可仕躰ニ相成候付、康之陣頭に進み御人数ヲ励まし、崩れ口に取って返し槍を合せ、敵を討取、志水新之丞・同悪兵衛を初め御人数何れも相働き、家来坂井与右衛門・杉崎作左衛門・村尾四方助も槍を合せ・・・・・」と、康之譜にある。

 三名の名がここに出てくるのだが、これらは松井胃助康之糟糠の臣である。彼らは常に康之の下で働いている。杉崎作左衛門は康之乳母の子で、坂井与左衛門一良は康之を慕って、織田彦五郎信友の家臣から青龍寺城にやってきた紅顔17歳の青年であった。これ以降天、康之の下には常に坂井与左衛門がいた。    康之はこの桂川での戦功を足利義昭に感賞され、朱柄、鞘は植雉子尾、穂長一尺の鑓を拝領する。これには余程の感激があった。
 「此節手柄の面々ニ鑓・太刀の御恩賞は類も有りつれとも、御懇命を以御杯被下、別て面目を施候とて、及老年候ても折々物語り仕候由御座候」と康之譜に記されている。

高桐院の茶室3

 春には青龍寺城下に賄料五十町と屋敷を藤孝から与えられ、藤孝養女、じつは沼田上野介光長の娘と縁組をする。沼田上野介光長の妹が細川藤孝の妻麝香である。これによって康之にも生活の根拠ができた。
 年号は(元亀)へと改元される。この元亀とは、永禄の後、天正の前の三年間の年号である。戦乱などの災異のため改元されたのであるが、わずか三年でまた改元されることになる。こうした異例の改元事は当時の戦乱における災いの多難さを、下克上の波乱を、如実に象徴させている。それは日向国でも同様であった。【元亀3年(1572年)5月、島津貴久の死去と肝付氏の侵攻により動揺している島津氏の加久藤城を相良義陽と連携して攻めた際に、伊東側は3000の軍勢がありながら、島津義弘率いるわずか300の寡兵に大敗(木崎原の戦い)する。伊東祐安、伊東祐信ら五人の大将を初め、落合兼置、米良重方など伊東家の名だたる武将の多くが討死してしまった。これ以降、真幸院攻略の戦いは頓挫することとなる。この大敗を契機として、伊東義祐の勢力は次第に衰退してゆく】このため南九州の世相には中心(近畿)と同じような暗雲が色濃く立ち込めていた。

高桐院の紅葉10

 元亀元年7月には、石山本願寺と三好党が合体して野田福島の要害に立て篭もる。織田信長はこれを討つために出陣、足利義昭・細川藤孝・松井康之も出馬する。しかし京が留守になったその背後を衝いて、浅井・朝倉の軍が侵攻した。これによって京の醍醐、山科が火に包まれた。
 10月、藤孝は山城御牧城に立て篭もった一揆勢を、和田伊賀守惟政、一色式部少輔藤長と共に攻める。康之は真っ先に鑓を合せてこの敵を討取り、五ヶ所も鑓傷を受けながら奮戦、敵を追い散らした。康之の傍を離れず敵首を討取っているのは坂井与左衛門であった。

 元亀2年秋10月、城州住山に三好兵庫頭長勝などが四千の兵を率いて出張した。これに藤孝・康之・三渕大和守などが対陣して、戦いは乱戦、三渕家深入りの様子で危うく見える。藤孝は横合いから敵に割って入り、自ら敵と鑓を合せ、三好家の宇野孫四郎を討取った。
 このとき、藤孝の鑓が折れて、やむなく太刀打ちを強いられる。敵が藤孝に群がる中、細井壱岐守が横槍をいれて藤孝に助勢する。壱岐守家老真鍋伊右衛門は、間隙を縫って自分の鑓を藤孝に渡した。藤孝の周りでは康之が敵を討ち、坂井与左衛門が首を取り、有吉将監が手に合う敵を討ち取った。
 これを終えると次は、山城国山田の城である。織田信長に降伏していた松永久秀が叛旗を翻し、久秀の一味奥田三郎兵衛が山田城に立て篭もっていた。康之と坂井与左衛門がここで働く。大和国多門山城には、久秀の倅松永久通が立て篭もっている。藤孝・康之・三渕大和守がこれを攻めた。

高桐院の紅葉9

 また元亀3年は、河内高屋城に三好一味の山口六郎四郎等が立て篭もり、織田信長軍から佐久間右衛門尉・柴田修理亮が三万の兵を率いて出陣した。将軍家からは、藤孝、三渕大和守が出陣する。康之はここでも先に進んで働いている。
 この頃、足利義昭と織田信長の間が上手くいかなくなっていた。細川藤孝が上野中務少輔清延の讒言により、青龍寺城に蟄居したのもこの頃である。康之は、藤孝の潔白を証明するには自分が腹を切って明らかにするしかないと決心し、いつでも切腹できるよう、他出の時も常に供の者に明衣と小脇差を箱に入れて準備させていた。

高桐院の新緑4

 天正元年11月、織田信長は、三好党殲滅を目指して河内国若江城の三好左京大夫を攻める。藤孝・康之は、貝堀の砦を攻め破った。その七月、織田信長は、「城州乙訓郡桂川を限西地一円」を藤孝に与えた。
 翌天正2年、藤孝は河内国に出陣して三好の残党を狩り行うが、康之もお供した。
 天正3年には、織田信長が上洛して、藤孝に丹波国船井・桑田の両郡を付属させる。これは大阪石山本願寺攻めの布石であった。ここでも康之は働きをみせるが、越前一向一揆攻めに「康之終始働き、家来共も越前・加賀両国の城攻めに相働き・・・」とある。丹波国船井城主の田中理右衛門が康之に従ったのはこのころであった。

高桐院の紅葉2

 天正4年、康之に嫡男禅門が誕生するも、康之に閑(ひま)は無い。三月から本願寺光佐が石山城を築いて紀伊・越前の門徒を集め、毛利氏と連携して織田信長への対決姿勢を鮮明にした。すると信長は藤孝、康之、惟任日向守光秀、荒木摂津村重他を大将として三万余の軍勢で石山城を囲むことになる。
 5月5日河内国若江で、藤孝は、佐久間信盛・松永久秀と共に先陣を切る。このときの松永久秀は織田方である。織田軍の先駆けは康之であった。そこに坂井与左衛門が従う。さらに河内国堀溝城へ、山城国稲屋妻城へ、と転戦再度、さらに河内国花田城を攻めた。

高桐院の紅葉4

 片や遠国の日向では【木崎原の戦いから4年後の天正4年(1576年)には、伊東四十八城の一つである長倉祐政が治める高原城が島津義久の3万の兵に攻められる。伊東義祐は援軍を出すも圧倒的な兵数差のため一戦も交えず、高原城は水の手を断たれやむなくこれに降伏した。その翌日には小林城と須木城を治める米良矩重が義祐への遺恨から島津に寝返り、後難を恐れた近隣の三ツ山城、野首城、さらに三ツ山と野尻の堺にある岩牟礼城までも島津に帰する。これによって島津氏領との境界線である野尻と青井岳が逼迫の事態に陥った。野尻城主・福永祐友は何度も義祐に事態打開を訴え出たものの、直参家臣によって訴えはもみ潰されてしまった。義祐の家臣団は、境界の実情を知っていながらも、義祐の栄華驕慢の日々を諫止することが出来なかった。これは義祐がうるさい事を言う家臣は遠ざけ、自分に都合のいい家臣だけを側近にしていたためであった】。

細川家家系図 細川家系図

 天正5年和泉貝塚の戦いでは、夜陰に紛れて城から逃げ出し、密かに舟で退散する敵勢を康之手の者が発見する。追討する康之勢に、素早く細川忠興が出馬して追いついた。散々に敵を討つ。織田軍は進攻して、藤孝・康之は雑賀の一揆衆数千と遭遇、戦闘激しく、雨、雷が戦況を混乱させた。ようやく敵首五十余を討取ると、根来・雑賀を攻め破り、畠山家を滅ぼした。
 その8月、一旦は信長に降った松永久秀が、再度逆心して大和国信貴山の居城に立て篭もる。信長は、何故か久秀に甘かった。さすがに今回だけは許しがたく殲滅を期して、織田信忠・藤孝・惟任日向・筒井順慶をそこに差し向けた。その手始めは、松永党の森勘解由左衛門が立て篭もる片岡城攻めであった。

高桐院の入口

 11月1日、城門を開いて突き出してきた敵勢に真っ先に駆け入って鑓を合わせたのは、藤孝嫡男細川与一郎忠興、15歳の初陣である。藤孝二男頓五郎興元は一つ違いの14歳、兄に遅れじと轡(くつわ)を並べた。康之がこれに続き、ここでも坂井与左衛門は決して康之の側を離れようとはしなかった。
 激戦であった。藤孝勢討死三十余、惟任光秀勢討死二十余の被害を出しながら総勢必死に攻め込んで松永を滅亡した。久秀は殿主に火を放ち火薬で爆発して果てた。このとき、松永久秀は織田信長垂涎の茶釜「平蜘蛛の茶釜」を小脇に抱えて爆死しする。康之譜には「家来共首数多討取申候」と書付けられている。

高桐院の雪2

 日向国では【翌天正5年(1577年)に入り情勢はますます悪化する。6月には、南の守りの要である櫛間城が島津忠長によって攻め落とされた。義祐は飫肥城主である三男・祐兵に櫛間(くしま)への出兵を命じたものの、逆に忠長に反撃され、飫肥本城に敗走。敵に飫肥城を包囲されてしまった。また同じ頃、日向北部の国人・土持氏が突如門川領への攻撃を開始したため、伊東家は、北は土持、南と北西からは島津氏の侵攻を受けることになったのである。義祐は窮する事態にどう人心一新を図ったものかと、次男・義益の嫡男で嫡孫の義賢に家督を譲ることにした。さらに同年12月、野尻城主・福永祐友が、島津方である高原城主・上原尚近の説得を受け入れ、島津方に寝返ってしまった。福永氏は伊東氏とは姻戚関係にあったため、この謀反は、義祐は勿論、他氏族への大きな衝撃となった。これを知った内山城主の野村刑部少輔(野村松綱の子、文綱)、紙屋城主・米良主税助も島津方に続々と寝返ったため、佐土原の西の守りは完全に島津氏の手中に収められてしまったのである。さすがの義祐も事態の深刻さを受け止め、12月8日、領内諸将を動員してまず紙屋城奪回の兵を出した。ところが、途中で背後から伊東家譜代臣の謀反の動きを察知。即座に反転して佐土原に帰城した。翌12月9日、佐土原城で事態打開の評定が開かれた。南の島津方は飫肥を越え、佐土原へ攻め寄せるのは必至な状況で、籠城して島津軍を迎撃する声はなかった。同日、城を包囲されて逃亡してきた祐兵も佐土原城に帰着する。もはや義祐には残された選択肢はなかった。同日正午過ぎ、義祐は日向を捨て、次男・義益正室の阿喜多の叔父である豊後国の大友宗麟を頼る決断を下したのであった】。

 そこで伊東一族の面々は【本拠である佐土原城を捨て、豊後を目指す義祐一行の進路上に、新納院財部城主・落合兼朝も島津氏に迎合して挙兵した報せが入った。落合氏は伊東氏が日向に下向する以前からの重臣で譜代の筆頭格であったが、義祐の寵臣・伊東帰雲斎の専横が元で子息の落合丹後守を殺されており、それを深く恨んでいた。この落合藤九郎の裏切りにより、義祐は己の今までの愚行に気付き切腹しようとするが家臣らにこれを止められる。そこで一行は財部に入るのを諦め、西に迂回し米良山中を経て、高千穂を通って豊後に抜けるルートを通ることにした。女子供を連れての逃避行はかなり辛く苦しく、また険峻な山を猛吹雪の中 進まねばならず、当初120~150名程度だった一行は、途中崖から落ちた者や、足が動かなくなって自決したものなどが後を絶たず、また島津からの追撃や山賊にも悩まされ、豊後国に着いた時はわずか80名足らずになっていたという(豊後落ち)。その中には後に天正遣欧少年使節の一人となる伊東マンショの幼い姿(当時7~8歳)もあった】。こうした伊東家の豊後落ち(伊東崩れ)がみせる新旧逆転の惨劇こそが九州における下克上の典型であり、討たれ伊東家は滅亡寸前の現況であった。

 こうして【ようよう豊後に到着した伊東義祐は大友宗麟と会見し、日向攻めの助力を請うた。宗麟はその願いを受け、また自身も日向をキリスト教国にする野望を抱き、天正6年(1578年)に門川の土持氏を攻め滅ぼし、耳川以南で島津氏と激突(耳川の戦い)した。しかし大友氏は島津氏に大敗を喫してしまう。こうした大友氏の大敗は、居候同然の義祐一行への風当たりに繋がり、また宗麟の息子が祐兵夫人を奪おうとしているとの噂があったため、義祐は子の祐兵ら20余人を連れ(義賢は大友に残される)伊予国に渡って河野氏を頼り、河野通直の一族・大内栄運の知行地に匿われることになった】。この時点で置き去りにされた伊東マンショの行方は一時不明となる。しかしこうした難儀の背景の陰で彼はキリシタンとなる。おそらくこの零落で孤独な環境が彼に与えられなければ、伊東マンショ祐益という人物はこの世に実在化することはなかったであろう。

                  この続きはコラムNo.0035・・・天正の羅針盤 ⓶ にて

高桐院の茶室4

高桐院の新緑8

茶道1


                                            三馬 漱太郎


正マンショ伝「帰らざる丘」・No.0033

日本中世史の実像② 後編
細川家系譜における下克上の時間。その光と影。

 時代の区分表記に「下克上」がある。殉教と讃えられるのは明智ガラシャ玉がこの時代を生きたからだ。さて、その下克上とは何か。

下克上

 中世の武家社会において、主君は家臣にとって必ずしも絶対的な存在ではなく、主君と家臣団は相互に依存・協力しあう運命共同体であった。そのため、家臣団の意向を無視する主君は、しばしば家臣団の衆議によって廃立され、時には家臣団の有力者が衆議に基づいて新たな主君となることもあった。こうした意識の中にあって、下位の者が上位の者を政治的・軍事的に打倒して身分秩序(上下関係)を侵す行為が働くことになる。

応仁の乱 応仁の乱

 事例を上げると、一族衆が宗家の地位を奪って戦国大名化することなどは枚挙にいとまがないほどであるが、例えば、島津忠良(しまづただよし)・南部晴政(なんぶはるまさ)・里見義堯(さとみよしたか)らがいる。島津忠良は島津の支族ながら宗家と争い薩摩を統一、南部晴政は将軍の一字を拝領し当時分裂していた南部氏を統一、里見義堯は後北条氏と関東の覇権をめぐる争いを続け房総半島に勢力を拡大した。またその他、河内守護家畠山氏や管領家細川氏では守護代による主君廃立がたびたび行われた。陶晴賢(すえはるかた)による大内義隆の追放・討滅といった例もある。中央政界においても、赤松氏による6代将軍足利義教(よしのり)の殺害(嘉吉の乱)、細川政元による10代将軍足利義材(よしき)の廃立(明応の政変)、松永久秀による12代将軍足利義輝の殺害といった例があり、将軍位すら危機にさらされた。

<br />嘉吉の乱(義教の首塚のある安国寺) 
嘉吉の乱(義教の首塚のある安国寺)


足利義教 足利義教

 しかし、このような戦国期の流動的な権力状況の中心原理(下克上)を、日本だけではなく、世界標準で捉え直す考えが主流となってこそ、中世の正体はみえてくる。日本では下克上時代、世界では大航海時代、これでは適正な比較実証が困難となろう。大航海時代の実質こそ地球規模での下克上ではないか。航海技術の進化は、下克上意識を地球規模で働かせようとして得た副産物であろう。日本における下克上時代とは、外洋からさらなる下克上で攻め込まれようとする期間でもあった。

大航海5

 それでは日本の、この下克上時代を検証するための資料の、主なモノを順追って[No] /著者名/【史料・書籍名】の区別で拾い上げると、[1] 本城惣右衛門【本城惣右衛門覚書】、[2] 信長公記【太田牛一】、[3] 吉田兼見【兼見卿記】、[4] 勧修寺晴豊【晴豊公記】、[5] 山科言経【言経卿記】、[6] 奈良興福寺・塔頭多聞院の僧・英俊を始め三代【多聞院日記】、[7] 著書不明【蓮成院記録】、[8] 今井宗久【今井宗久茶湯日記書抜】、[9] 津田宗及【宗及茶湯日記自會記】、[10] ルイス・フロイス【イエズス会日本史】、[11] 竹中重門【豊鑑】、[12] 大久保忠教【三河物語】、[13] 松平忠明【当代記】、[14] 松平家忠【家忠日記】、[15] 野々口政太郎【籾井家日記】、[16] 宇野主水【宇野主水日記】、[17] 能勢市兵衛【柏崎物語】、[18] 牧亟大夫【細川忠興軍功記】、[19] 著者不明【綿考輯録(細川家記)】、[20] 著者不明【総見記】、[21] 川角三郎右衛門【川角太閤記】、[22] 小瀬甫庵【甫庵太閤記】、[23] 小瀬甫庵【信長記】、[24] 吉田家?詳細不明【武功夜話】、[25] 佐久間常関【佐久間軍記】、[26] 著者不明【明智軍記】、[27] 著者不明【豊臣記】、[28] 立入宗継?【立入左京亮入道隆佐記】、[29] 大村由己【惟任退治記】、[30] 大村由己【任官之事】、[31] 大村由己【天正記】、[32] 香川正矩、香川景継【陰徳太平記】、[33] 江村専斎【老人雑話】、[34] 稲葉正義【稲葉家譜】 、[35] 御所に仕える女官達【御湯殿上日記】、[36] 江岑宗左【江岑夏書(逢源齋夏書)】、[37] 湯浅常山【常山紀談】、[38] 松浦鎮信【武功雑記】、[39] 著者不明【義残覚書】、[40] 著者不明【続武者物語】、[41] 著者不明【祖父物語】、[42] 徳富蘇峰【近世日本国民史・織田信長】等々がある。これらは漱太郎が常々底本として読み返しては引き出してみる歴史資料の極一部ではあるが、その[42]の徳富蘇峰による【近世日本国民史】に次ぎの興味深い一文がある。

 そこには「後戸(五島)・平戸・長崎にて、日本人を男女を問わず数百人ずつ黒舟が買いとり、手足に鉄の鎖をつけ舟底へ入れて運び去るは、地獄の責苦にもまさって、むごい有様である」といった、これを実地にみた大村由己(おおむらゆうこ)の『九州動座記』の奴隷売渡しの実況が挿入されている。

 その大村由己は豊臣秀吉の祐筆頭で、これは当時の公文書を、徳富蘇峰が書き写してそこに挿入させたものである。前記の資料の内、大村由己の著書としては[29] 大村由己【惟任退治記】、[30] 大村由己【任官之事】、[31] 大村由己【天正記】がある。歴史家としての名声は山路愛山とならぶ明治人・徳富蘇峰は歴史について「所謂(いわゆる)過去を以て現在を観る、現在を以て過去を観る。歴史は昨日の新聞であり、新聞は明日の歴史である。 従つて新聞記者は歴史家たるべく、歴史家は新聞記者たるべしとするものである」と語っている。

 さらに同時代の貴重資料を海外に求めると、ポルトガル国王ドン・セバスチャンの勅令が、現存している。そこには「朕、国王は、この勅令をもって布告す」とし、「従前印度地方における奴隷日本人に関し、朕の得たる報告において正当なる事由なし。よって今後は日本人を、奴隷に捕らえたり、購入したる者は、その財産没収となしその一半を朕の国庫に納め、一半を告発する者に下付すべし、1571年3月12日」とある。
 この年号(1571年)は日本の元亀二年、織田信長が姉川合戦で勝った翌年で、延暦寺の焼討ちをして僧俗数千を殺した年にあたる。

歌劇「ドン・セバスチャン」より 歌劇「ドン・セバスチャン」より

 そこでまず年代順に、ポルトガル国王ドン・セバスチャンの勅令を読み、次ぎに大村由己のいう内容を読み、相互に比較しながら引き出せるモノは、奴隷売買の実態である。そうしてこれは、現代までの日本史において秘しされてきた日本人奴隷の実在の、その規模を明確に示す資料なのである。

 さてここで確認できることは、従来の日本史では、「ギネア海岸からのアフリカの黒人を、聖ドミニコ派の宣教師が、現在のリスボンを集散地として、南米へ送りこんでいたが、天文十二年(1543年の鉄砲伝来)以降は、現在のマカオが、ポルトガル人による日本人奴隷の一大集散地だった」といった事実が隠されていることだ。徳富蘇峰もここに着目した。

 大村由己の『九州動座記』の奴隷売渡しの記録から、その臨場感を仮想してみることにすると、現在と違い、マカオと九州間を航海した黒舟は百トン以下だったわけで、だからそれに、数百の日本人が奴隷として押しこまれ、ディーゼル・エンジンや蒸気機関のない昔、季節風だけで動く小型の帆船によるマカオへの旅と、さらに、そこから印度への輸送は、アフリカからの黒人奴隷が大西洋一つ渡るだけで済んだのに比べ、これはかなり悲惨だった。

 このように日本人が戦国時代に奴隷に売られて、男は印度から馬来半島方面のポルトガル領の植民地に、容色のよい女は、魔女裁判によって多くの女性を焚殺したヨーロッパへ送られていたことは、あまり知られていないのだが、しかしこれが下克上の裏面に現実としてあった。

  天文十二年以降においても、古くは源平合戦の起因となる神戸福原からの原住民を奴隷輸出された事実や、室町時代においても、四国の三次氏や山口の大内氏は、日本原住民を捕らえこれを明国や南蛮船に売っていた事実がある。

南蛮貿易 南蛮貿易

 西暦1603年(慶長八年)の書簡に、「ゴア(印度)人民のスペイン国王フェリッペ二世陛下の城砦を守っているのは、白人の五、六倍もいる日本人奴隷で、好戦的な彼らは鉄砲をもち土民を撃退している」とある。インドやマカオでは、奴隷の日本人が、「軍人」として使役されていた。さて、この書簡がスペイン国王の名宛なのは、ポルトガル国王セバスチャンがモロッコで行方不明となり、その妻が代り、のちエンリケ親王が国政をみたが急死していた。この当時はスペイン王がポルトガル王を兼ねていたからである。

鉄砲伝来の地門倉岬(種子島) 鉄砲伝来の地門倉岬(種子島)

 天文十二年に銃器が種子島へ渡来してから、器用な日本人は直ちにそれをまねて精巧な銃も作った。しかし、硝煙とよばれた硝石は、現在でもそうだが日本では一片も産出しない。みな輸入に依存するしかなかった。日本という国は、鉄砲があっても火薬がなくては戦争ができぬ立場にあった。宣教師を仲介とした日本人奴隷の売買と転売の裏面では、戦国大名の火薬入手への手段が関して深く結びついている。そうしてここと連なる、その多くがキリシタン大名である。

硝石 硝石

 [31] の大村由己【天正記】(天正年間の豊臣秀吉を記録する軍記物)に関わる資料には「アテネの人口は市民九万に対して奴隷は三十万いたから、憲兵や警官のごとき仕事は奴隷の仕事であった」と書かれ、文禄の役では秀吉に従って肥前名護屋まで従軍した大村由己は、そのような古代都市の話までを宣教師から吹聴されて、バテレン追放令を起案し草稿する過程で秀吉への報告資料として聴取している。

 ところで、その『天正記』について「誤りが多い」と筆誅を加えた者がいた。
「前編①」で述べた松井康之(まついやすゆき)である。秀吉とほぼ同時代を生きた彼は、関ヶ原の戦いで忠興と共に東軍に組与する中で「梅安の『天正記』を見るとうそが多い。三分の一はあったことだ。三分の一は似たことがあった。三分の一は全くなかったことだ。(中略)いろいろこう書くのは、考えてみれば自分が目をかけた人びとのことを形もないことを書くと見える。それなら書く者は知恵があってないようなものだ。それで『天正記』は梅安の嘘(うそ)が多いと評判が悪い」と、論破している。梅安とは大村由己の号(藻虫斎梅庵)をいう。その梅安は初め僧籍にあったが、還俗して豊臣秀吉に御伽衆として仕えた。

 松井康之の仕えた細川藤孝(幽斎)に「武士の知らぬは恥じぞ馬茶の湯 恥より外に恥はなきもの」という一首がある。ここに藤孝(幽斎)の〈武〉第一義の精神が吐露されている。 しょせん、騎馬の技術に代表されるようなあらゆる武技も、いかにも精神の修養のカタマリのようにみえる茶の湯も、それは<武士(もののふ)>確立の鍛錬の道具に過ぎない。では、和歌の道は何かといえば、それは<風雅の道>である。そしてこの<風雅>こそ、藤孝(幽斎)が歌道を通じて人々に伝える<武士の道>なのであった。
 ならば藤孝(幽斎)のいう<風雅>とは何か。<風>とは、君臣が互いに諫めあう様をいう、<雅>とは、卿、大夫の純正な言葉をいうのである。それが敷島の道である二条流歌道の精神なのであった。
 つまり<武士の道>とは、おのれ等の協働の行く末に対して忌憚なき論議と、今上に仕え禁裏を運営する卿・大夫との心を開いた至誠の言行をいうのである。それが、藤孝(幽斎)の和歌の道を通して具現された。ここに細川藤孝(幽斎)の<武士の道>がある。
 だから、古今伝授などを御家の芸として伝えようなどとは思わない。古今相伝が田辺篭城の我が身を援けたことは、己の恥ではあっても微笑得意とするところではない。まして、倅(せがれ)に相伝して、我が家の芸として保とうなどと一顧だにしたことはない。尤(もっとも)親の思いとして倅が継いでくれるのはこれほどうれしいことはない。
 藤孝(幽斎)の武士の道、それは、倅忠興の茶の湯執心への警鐘として忠興が手に入れた自慢の茶葉を沸騰した釜の湯に入れて駄目にしてしまうといった藤孝の対応をみればわかるだろう。そこには、松屋が「玄旨は茶の湯に一円にカマワヌ人なり」(「茶道四祖伝書『三斎公伝書』・松屋会記:松屋久政」という藤孝(幽斎)の茶の湯に対するスタンスがある。

 きっと、幽斎に茶の湯への意見を聞けばこうである。
「知るも知らぬも茶の湯とて、闇座敷の四畳半、坪の内には伊那の篠・蔦や葡萄を這わせつつ、鋳かけをしける手取や、土瓶の口の欠けたるを、面白しとて、もてはやし、よき物もたぬ侘び数寄は、せめての事に役に立つ、道具一つも苦労せで、伊勢天目や古茶杓、信楽物の水こぼし三服たつれば水あまり、座敷も畳みもぬれわたるほど小さき水下にて、三人よりも人あれば、中々会もせざりけり。さて、慳貪の癖として、小勢なれども繕はず、茶碗のささやなんどをば、昔がかりと、そしりおき、鮑の貝や鉋掛、足をつけての飾り物、食われぬ花や杉の葉を、色にまぜて物入れて、物語には何やらん、定家の菖蒲、牧渓の達磨、舜挙が草花、玉澗が山水などと、知らざりし耳にも入らぬ雑談にきわめて、我も知らざりし虚堂の文字は面白やと、年にも足らぬ人たちの、ささやき歩くおかしさよ」と。
 だから蒲生氏郷が、細川家のお道具を拝見いたしたい、と日を約して、当日、幽斎は、細川家代々の武具・槍・太刀などを飾って見せた。
 氏郷は、茶道具をみたかったのだが・・・幽斎は、ただ、道具と承ったので武具をお見せしたのだ、茶道道具ならたやすいことと、おもむろに名物茶器を取り出して見せた。というようなことをやってみせるのだ。なぜなら<武士の道>の第一義は<戦>であるからである。

 戦闘に賭ける死生を忘れた行動を担保するものが日常の鍛錬であり、その鍛錬の科目が騎馬、弓術、剣槍他であり、また和歌・連歌であり書であり、茶の湯、蹴鞠等などなのである。
 文武とは、文と武があるわけではない。文武一如が<武の道>なのである。それが<武士>の踏み行うべき<道>なのであった。これは今の現代の感覚にない。茶道にしろ、武道にしろ、藤孝(幽斎)のいう文武一如が<武の道>ということが忘れ去られている。

 漱太郎は未だ少しも武士道を理解しないけれど、細川藤孝(幽斎)の、少なくとも<武士>の踏み行うべき<道>として文武一如の鍛錬があった、と漱太郎は思う。無論、武士以外の文芸は、それ一個の文芸としてあったのだと思う。ここでは武士の文武を言っている。
 だから武士にとっての文武一如ということは、後世、士道忘却と謗られた細川家熊本藩士横井小楠でさえ「文武一途の事」において確りとその一如たるべきことを力説することに何の違和感もない。あの共和主義者横井小楠に於いてなお武士の道における文武は一如でなければならなかった。
 それは、小楠と真っ向対極に位置する熊本敬神党の人々にとっても同じであったのだ。このように時代は下り隔たっても武門の有り様の伝統は引き継がれているのである。そうした藤孝(幽斎)の思いを直接引き継いだのが松井康之なのであった。

 その彼の辞世をみて見よう。「やすく行道こそ道よ是やこの これぞまことのみちに入りけり」とある。この辞世だけを単独に読めば、一体何が道であり、なぜ「やすく行」けるのやら、「まことの道」が何であるのかは判然としない。しかし、この辞世を藤孝(幽斎)と協働して築き上げてきた近世細川家草創の道程に繋げて読めば、あるいはむしろ藤孝(幽斎)その人を敬愛し、その後を慕い、藤孝の人的後継たらんと心した康之の心根を想って読めば、まさしく道は藤孝の<武士の道>であり文武一如の道なのである。
 そんな藤孝(幽斎)の薫陶を享受すればこそ康之は、己の進むべき道の足下には灯りがあったということになろう。だからこそ、「やすく」行けるのである。そしてその道こそ、藤孝の示す道、文武一如にして不断の処世なのであった。それはまた、死生を超えた先に己の生を全うすることである。そうすれば今日の処世は苦痛も悔恨も己に与え得まいということ・・。細川藤孝(幽斎)も、松井康之も、そこに己の精神の安定の地を見たのかもしれない。
 それは何故(なぜ)か。足利家の零落を目の当たりにしながら、足利家再興の思いを捨て得ないでいたからである。
 藤孝(幽斎)は兄弟の死に始まり兄弟の追放による足利家の滅亡を目の当たりにした。康之もまた兄弟の死による足利家没落により所領も人もすべてを失った。そのすべてを失った中から、彼等は今残されて世間に身を顕している。お互いに、このお家再興へのプレッシャーは重かろう。

 しかし、である。
 藤孝(幽斎)は、その幼少期を文章博士の家である清原の家で育った。康之もまた、その幼少期を南禅寺の玄甫霊三の教育の下に育った。彼ら二人の幼少期に育まれた三つ子の魂は何か、それは変転極まりない世の無常を知りつつ生きていける文章の世界である。四書五経詩文の世界である。儒仏神混交した日本の学である。
 その無常を生きんが為に、彼ら二人は現実の戦乱を乗り越えていく合理の精神を身に装って己を補強しつつ、明日の死を眼前に据えて世間を生きた。そこには坊主のウソである方便も、武門のウソという武略も存したハズである。するともう、御家の再興はなればなったでよかろうし、己の生も今日を凌いで生きたれば生きたというだけのこと、と観念できたのである。

細川藤孝(幽斎) 細川藤孝(幽斎)

 だから幽斎は、日頃、秀吉の御伽として阿諛追従の歌を読みながらも、あの千利休と秀吉との確執の真只中で、利休の切腹回避の為に徳川家康を、秀忠を、動かそうなどと平気で働くのであった。細川忠興は、切腹を申し渡されて堺へ下る利休を堂々と見送るのである。松井康之は遠く奥州二本松から早飛脚をたてて利休を見舞うのである。

千利休 千利休

細川家が千利休から受け継いだ茶入れ(利休尻ふくら)
細川家が千利休から受け継いだ茶入れ(利休尻ふくら)

 利休のことのみならず、あるいは亦、幽斎も忠興も足利義輝の遺児たちを確りと見守ろうとするのである。明智光秀の子(明厳梵徹は光秀の子という)や末流を養うのである。荒木村重の子を育むのである。利休の倅道安を引き取るのである。
 尾池の養継嗣として育ち、後年、尾池道鑑と名乗った足利義輝の倅は、細川忠利の招きで親子共々熊本に住まいするのである。そうした育みの中で、尾池道鑑は時を得、宮本武蔵と山鹿温泉に滞留して語り合うのである。
 これは如何であろうか。
 そこには日常を突出せずに生きようと心した幽斎の心の芯にある<武士の道>の真実が見えないであろうか。幽斎のこころを確りと胸に落とした忠興や康之の姿が見えないだろうか。しかし、幽斉の斡旋も虚しく、利休切腹の裁断であった。ここに至って、せめて、利休の介錯は我が手で、という忠興の思い入れを、幽斎もまた静かに黙過することになる。

茶道イラスト

 利休切腹の介錯人は、細川忠興家臣山本三四郎、同神戸喜左衛門であった。その幽斉の黙過は(といっても忠興が当主であるからして、忠興の一存でよいのだが)、倅忠興もまた後年、堀田正成が御道具拝見致したしと望んだのに対し、忠興は正成を招じて武具を見せる、という幽斎と全く同じ行動をするその素地を充分に涵養していること、そのことを幽斎もまた分かっていたからの行為なのである。

 そうして、幽斎の足利家御供衆という血統や、幽斎の実家三淵のお部屋衆などという血統は忠利にくれてやった。自分は奥州細川家の大外様衆の家を継いで幽斎とは別家であると主張する忠興がいた。その独立自尊の精神こそ、幽斎も自ら涵養し倅たちにも求めた細川家存続への最大の効果的<武士の道>の薫陶の成果であったのではあるまいか。
 そのことは、兄忠興の家老に納まる事を自らの矜持に於いて肯んぜず、傲然と離反して茂木藩主として徳川家康に仕えた興元の行動にも見出せるのである。
 先の堀田正成の道具拝見の事については、後に正成が、何故茶道具でなく武具を見せられたのかと忠興に尋ねると、忠興は答えて、武士が「道具」といえば武具のことといい、茶の湯は武事を治めて後のこと、と付けたという。
 こうして、藤孝(幽斎)から康之、忠興と<細川家の風雅の武士の道>は伝承されていくのであった。「歌 連歌 乱舞 茶の湯を嫌う人 育ちのほどを知られこそすれ」とは、細川幽斎の歌である。

 源維義(みなもとのこれよし)を起源とする源為義流が松井氏である。この松井氏は山城国を出身とし、同国葛野郡松井の出の士族であった。その葛野郡松井庄は、現在の京都市右京区西院松井町で、為義の子供たちの多くは、保元・平治の乱に巻き込まれて戦死または処刑されたが、京六条堀河邸に父・為義と共には居らず、維義のように他所に居住した者や養子となった者もいた。また、西院松井町の域内にはかつて後院(天皇の隠居所)としての淳和院が存在し、淳和天皇の女院が隠棲の寺をその域内に建立してこれを松院と称したという。松院は後代松井寺と呼ばれ、この地の名称の源となった。そうして、淳和院は別当職を代々源氏長者(当時は村上源氏が世襲)がつとめ、源氏にゆかりの深い施設(淳和院)なのである。

淳和院跡の石碑 淳和院跡の石碑

 維義子孫の松井氏はこの後、山城国を中心に発展分岐し、室町期には松井康之や松井友閑(松井友閑は、元商人だが、信長に祐筆(秘書)として登用された後は、堺政治所(代官)となり、この時には、信長の命令で家康の接待をしている。また、石山本願寺開場時には、信長側近の目付けとして活躍した人物である)などを輩出した。系統としては、この康之の流れが室町幕府御家人として足利氏に仕え、のち和泉上守護家細川氏の細川藤孝(幽斎)に付属して肥後八代城主となる(但し、山城国綴喜郡松井出身説もここに重なる)。
 また建武年間に足利尊氏に味方し、今川範国に属して山城国から遠江国に移住して二俣城主になる系統(遠江松井氏)があり、この二俣城主の系統から更に分かれて三河国に移住、三河で吉良氏・松平氏に属して江戸時代に至り徳川譜代大名や旗本となる三河松井氏(松井松平家)などがあるから、これらを含む松井家の系譜というものは、この広範囲において流動をみせながらも、月時(とき)におよべばその同族らが情報網化する力を保有させた。細川家に俗気がなく洒脱であったことは、そのような力を松井康之が担保させていたこととも深く関わる。

 そんな「御家草創」松井佐渡守康之と長岡佐渡守興長の松井家文書・先祖由来附、御給人先祖附をみると、これは松井家の草創期について詳しく触れられている。その詳細は次回のコラムNo.0034にてご紹介したい。

小倉城5 小倉城

 さらに話を進めると、コラムNo.0006の中で「二天記」に付随する記録によれば、「このとき長岡佐渡輿長の屋敷にはバテレンの日本人が居て武蔵はその男の異様な服装に驚いたと記されている。この人物が当時小倉城下で布教活動をしていた伊東マンショなのであった」と述べているのだが、伊東マンショ(変名・伊東三之丞)はその屋敷への出入りを松井家より許されていた。細川家および松井家が、これを向え入れて保護し助成しようとする意識内には、明智ガラシャ玉の一件もあるのだが、それらの多くはやはり御家流儀としての洒脱さにこそある。

上野焼  上野焼の曾祖「金尊楷」

 そうして次回No.0034では陶工の金尊楷(きんそんかい)・(後に上野喜蔵高国と改名)という人物をご紹介し、これまた松井家と深く通じ、等しく伊東マンショとも交流をする。これら当時としては異色者どうしの関係のつながりであるが、この異色をも溶かしこむ伎倆(ぎりょう)にみる懐深さというものは、やはりそれは細川家および松井家に源泉としてある、かって将軍家の重臣であったことに重きの意義をおいて文武一如の道を下克上の中で鍛え上げようとした両家得意の顕現であろう。下克上における両家の処世伎はさらに奥深い。

ドン・マンショ
ドン・マンショ


                                             三馬 漱太郎

聖マンショ伝「帰らざる丘」・No.0032

日本中世史の実像① 前編
細川家系譜における天正の時間。その光と影。

松井康之 松井康之

 日本の中世史における一人のキーパーソンとして、松井康之(まつい やすゆき)という人物が実在したことを少しご紹介してみたい。この松井康之は、1550年(天文19)から1612年(慶長17)を生きた。つまり戦国時代から江戸時代初期にかけての武将である。

 京都の郊外に松井城はあった。松井氏の居城である。康之はこの城で生まれた。松井氏は康之の曽祖父の松井宗富が8代将軍・足利義政に仕えて以来、代々室町幕府の重臣として仕えていた家柄にある。その松井家は山城守(しろやまのかみ)に任ぜられることが多く、康之の父は松井山城守正之という。清和源氏をそもそもの祖とする松井氏には、大きく二つの流れがある。清和源氏為義流の源維義(松井冠者)を祖とする松井氏①と、源満政を祖とする松井氏②である。またその①の源維義流には、三河松井氏(松井松平家)と、遠江松井氏もあるのだが、室町将軍家の御家人の松井氏もやはり同流である「山城松井氏」であった。

 この山城松井氏は、山城国松井に移住した渡来系の百済人でもある。続日本紀によれば、天平宝字5年に松井連を朝廷より下賜されている。ここに、居住地とした綴喜郡松井村などが見られるが、時代を重ねるにつれ同国の松井氏には清和源氏出身の流れも加わってきた。
 しかし長い歴史の時間軸でみれば、この松井氏は戦国という政治的動向にもまれる中において、江戸時代には、肥後熊本藩主細川氏の筆頭家老で実質の八代城主になった。こうした同氏の、京都から熊本へと移動する変遷にあって、松井康之は中世の重要な局面を後世に把握させえる貴重なキーパーソン役を果たしたといえる。

 松井氏が、室町時代には、足利将軍家に仕える幕臣であったことは述べた。足利義輝が永禄の変(永禄8年・1565年)で殺害されると、松井正之の子松井康之は、同じく足利将軍家に仕えていた細川藤孝(幽斎)と共に、義輝の弟・足利義昭を将軍に擁立するために行動するようになる。
 康之は、義昭が尾張・美濃の大名・織田信長を頼ったときにその宿所を訪れ、やがて細川藤孝の下で動くようになる。藤孝の子・細川忠興と明智光秀の娘(玉)の婚礼における玉姫輿入の際には請取役を康之が行っている。

 信長の下で細川氏は丹後国の領主となり、康之は丹後国松倉城を任せられた。生涯五十余度の合戦に出陣し、武功も高く、石田三成の家老・島左近や上杉景勝の家老・直江兼続らと並ぶ名家老ともいわれた。康之の働きぶりをみた豊臣秀吉は石見半国18万石を与えると申し出たが、康之は細川家に仕えることを希望してこれを辞退する。秀吉は、康之が信長から拝領していた山城国相楽郡神童寺村及び愛宕郡八瀬村の知行安堵の朱印状に「深山」という茶壺を添えて贈ることにした。この茶壺は、後世に「十八万石の壺」と呼ばれた。

松井家の銘器「南蛮締切耳付水指」 松井家の銘器「南蛮締切耳付水指」

 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いには、康之とその子・松井興長は藩主細川忠興に従って戦い、徳川方の勝利に貢献する。戦後、細川家は豊前・豊後国(現在の福岡県と大分県の一部)39万石余りの大名となり、康之は豊後国木付(杵築)城を任せられて2万5千石の領地が与えられた。興長は康之の次男として天正10年(1582年)に生まれるのだが、慶長16年(1611年)に康之が隠居すると、松井の家督を相続した。寛永9年(1632年)細川家が豊前・豊後から肥後熊本藩に国替になると、松井興長には玉名・合志郡に3万石が与えられた。

 以上のように松井家は松井康之の時代から急速に細川家と縁を深め、子の松井興長にいたる年間を細川家に主従することになる。さて、肥後八代城主と松井興長の関わりについては後編にて後述することにして、宮本武蔵らの登場などは少々お待ちいただくが、その前に関連する中世のキリシタン史について触れてみることにする。

 細川忠興と明智玉との婚礼にあたり、松井康之は、玉姫の輿入請取役を行なっている。これもやはり松井康之が世に生きる宿命としてこの役を担ったのであろう思うと、と或る井戸を覗きこんでみたくなる。それが大阪の「越中井」(えっちゅうのい)である。
 大阪市地図で大阪城南側方面を拡大して見ていただけるとより分かりやすいかと思おもうが、地下鉄谷町線谷町4丁目駅から徒歩で法円坂を東へ、上町筋を渡り右手に難波宮跡公園をみながら進み、公園を過ぎてまもなく南に、谷町4から現地(越中井)まで10分程度である。またJR森ノ宮駅・中央線や、地下鉄長堀鶴見緑地線森ノ宮駅から歩いても同程度の距離にある。現在の所在地は(大坂府大阪市中央区森の宮中央2丁目12)となっている。

越中井4

 昭和初期まではこの辺りに「越中町」という町名が存在していたので解り易いのであるが、中世のころ、この一帯は武家屋敷群であった。越中井の「越中」とは細川忠興の当時の官位・越中守(えっちゅうのかみ)であったことから、当時その屋敷を「えっちゅう殿」と呼んだ。越中井とは、すなわち「えっちゅう殿」の屋敷にあった井戸という意味になる。その井戸跡が大阪府史跡第2号という立札とともに史跡として保存されている。この遺跡にて明智玉を偲ぶことができる。現在は蓋をされた小さな遺跡だが、その暗渠の井戸深くに明智玉の人影がある。

越中井2 越中井
越中井

 この明智玉の生涯を讃える後世の明治期になって「細川ガラシャ」という名の日本人が歴史の中に登場するようになるのだが、しかしその名は後世のキリスト教徒ら言うた通称である。前近代の日本は夫婦別姓であり、北条政子・赤橋登子・日野富子などの例に照らせば「細川」姓でこの女性を呼ぶのは明らかな間違いで、正しくは「明智 玉」として実在が解釈されるべきである。

 したがって通称される細川ガラシャは本名を明智玉(お玉)という。ガラシャとは洗礼名である。どうにもこの和訳しづらい洗礼名は、「グレーシア」というラテンの響きが桃山風の日本読みになった。その玉の父が明智光秀(本能寺変の首謀者)である。

明智光秀 明智光秀

 この父をもったということに、玉(たま)の第一の、そして決定的な宿命のルーツがある。玉の母親(煕子・ひろこ)のほうは妻木勘解由左衛門(つまき かげゆざえもん)の家から光秀のところに嫁いできた。そこにも多少の宿命が投影するのだが、そうして、その玉が嫁いだ先が細川家の忠興だった。これは細川幽斎こと細川藤孝の長男である。のちに茶数寄の名人の一人と評された藤孝=幽斎には、将軍足利義春の御落胤だという噂がつきまとうのである。また、その藤孝の子の忠興と玉の結婚は信長の命令によるものだった。ここに第2の宿命が待っていた。後にご説明することにしたいが、これには細川家という弱肉強食の世で延命を懸命に重視する家の宿命も関与した。

細川忠興 細川忠興

 しかし第3の、そして玉にとっての最大の宿命は何だったかといえば、玉が育った時代そのものが喉の奥まで当時の男と女の定めを咥(くわ)えこんでいたということである。玉であるガラシャが光秀の娘であったこと、信長の命令によって16歳で細川家に嫁いだこと、その父が信長を暗殺したこと、それらのすべてが玉を変え、後に不在の人とした。後談として、細川家と玉の輿入れの仲介者となった松井康之は明智玉の非業の死にあたって生涯悪夢に悩まされ続けたという。

 その明智玉はデウスを信じて受洗する。キリシタンになった。当時、これで玉の宿命が決まらないはずがない。案の定、関ヶ原合戦の戦端が開かれた当夜、玉は38歳で自害(実際には自害ではなく家来に殺させた)する。
 と、いうふうに、ふつうならこう記述する。けれども三浦綾子は、そうはこの物語を書かなかった。玉は、みずからキリシタンとしての第4の、神に導かれる宿命を選んだと書いた。だから、玉がガラシャとして選んだ死は自害ではなく、家老の小笠原少斎に討たせた天礼への昇華だったのだ、と。三浦綾子は自身がクリスチャンと視点で、明治期に通称された細川ガラシャをみつめる視線で、これを描いた。ともっとも、これだけではガラシャ玉の波瀾万丈の宿命の物語はわかるまい。父・明智光秀の謀反はどう玉にかかわったのか。光秀が信長を本能寺に襲ったことは玉にとってどんな意味だったのか。夫の細川忠興は玉をどう見ていたのか。キリシタンたち、たとえば三木パウロや高山右近はどんな役回りだったのか。とかく細川ガラシャという通称される人物視点だけでは、実在というものが遮断され、明智玉が自らで不在の人となる、その周辺の時間を説明しないとわからないことが多すぎる。

三浦綾子 細川ガラシャ夫人 三浦綾子著書「細川ガラシャ夫人」

三浦綾子 三浦綾子

 しかし最初に述べておくべきことは、玉は夫の細川忠興には決意を秘めてキリシタンに走っても、父の光秀に背いたことはなかったということである。
 明智は美濃の可児あるいは恵那に居城をもつ土岐一族の一門で、水色桔梗の紋で知られる。ただし光秀の青年期に明智家は急成長しつつあった斎藤道三一族の勢力に押され、光秀はいったん越前の朝倉義景に仕えた。玉が生まれたのはその越前でのこと、永禄6年(1563)だった。三女である(ただしこの場合、長女と次女は養女である)。ちなみに伊東マンショは、その6年後に生まれている。
 明智玉の生まれた、この年は桶狭間の合戦の年でもあって、今川義元が敗死する。このころまでの明智光秀は不遇だったといってよい。玉が5歳のときに、やっと光秀は信長に重用された。その光秀と信長の関係にはいろいろ複雑なところがある。なにしろ主君(信長)殺しの犯人なのだから、複雑な関係があったと想定できるだろうが、それがなまなかではなかった。なかで一番有名な関係は、光秀の叔母が斎藤道三に嫁いでいたこと、道三と叔母のあいだに生まれた濃姫が信長に嫁いで、やがて正室となったことである。こう書いただけでは、まだ解りにくいだろうが、この関係だけでも光秀は信長の掌中に入らざるをえない。しかも義理の叔父となった道三を、信長は駆逐した。
 それだけではない。光秀はことごとく信長に翻弄された。それでついに謀反をおこしたということになっている。しかし、必ずしもそれだけの理由で光秀が「敵は本能寺」と決断したかどうか、疑問が残る。三浦綾子もこの小説の3分の1ほどをつかって、その疑問を静かに投げかけた。

 それにしても、明智光秀ほど評価が定まらない武将はいない。主君に謀反をおこしたために逆臣のレッテルを貼られ、「三日天下」しかとれなかった戦略戦術家としても、まったく計画性がなかったかのように思われてきたのだが、日本史上、そんな謀反者はザラにいたし、そういう連中はたいてい計画性がなく破滅した。うまく立ち回れたのは尊氏や家康くらいのものなのに、そんななか、なぜか、光秀ばかりが必要に嫌われている。

 その一方で、光秀には秀吉の「中国大返し」のあと、山崎で農民の槍に突き殺されたのではなく、辛くも逃亡して生き延びたという説が早くからつきまとってきた。落ちのびて姿を変えて怪僧天海として活躍したというのは半村良が『産霊山秘録』に採用した突飛な話だし、これも半村が好んだのだが、坂本龍馬が明智一族の血を引いていたという一部の地方文書から、きっと光秀は土佐にまで流れていったのだという説もある。そもそも光秀は本能寺に信長を討ってはいないというさらに突飛な説も、八切止夫(やぎり とめお)をはじめいくつもあらわれた。これは光秀が本能寺に着く前に、信長はすでに別の"犯人"に包囲され、自害していたというものだ。

 最近の研究では、静岡大学の小和田哲男がそういう説なのだが、光秀が逆臣や謀反人扱いをうけたのはほんのちょっとした"差"によるもので、ごくわずかに時計の針が変わっていたら、秀吉以下、何人もが信長を殺していた逆賊になっていただろうというのが定説になっている。
 好き嫌いで語れば、漱太郎は光秀を描いた小説では藤沢周平の『逆軍の旗』が好きなのだが、そこでも光秀は秀吉との対決のために「お主殺し」をひらめいたというふうになっている。秀吉が光秀との争いに勝っていれば、秀吉こそが信長を殺していたということが暗示されている。ちなみに藤沢周平は、戦国武将のなかでは明智光秀に最も惹かれてきた、と書いていた。同情を根拠に引き込むのでは、やはりこれも小説である。

 明智玉という女性は、そういう毀誉褒貶定まらぬ光秀の娘なのである。たえず時代の波頭に振りまわされ、砂に足をとられ、そのつど天空を仰いで踏みとどまった。三浦の小説では玉がキリシタンに惹かれる経緯に多くのページを割いているのだが、むろんそこにはいくつもの伏線と経緯があった。

 6歳のときに信長がルイス・フロイスを引見した。7歳のときに父が京都奉行になった。光秀が暇にまかせて開いていた軍学塾の評判を信長が聞いて、登用したためだ。けれども光秀はこの職には満足していない。光秀はある事情で知り合った年上の細川藤孝(幽斎)から将軍足利義昭を紹介されて、そのころはむしろ将軍のほうに敬意を払っていた。
 ところが藤孝が信長の配下になってからは、信長の言うことを聞くようになり、坂本城に入った。信長は楽市楽座のあと、この坂本城を拠点に比叡全山を焼く。やむなく光秀はこれを扶けたが、一方で僧侶を逃がしていたとも言われる。のちに光秀が天海だったという風聞が流布したのは、このときの光秀の配慮を比叡の僧がおぼえていて流布したのだという説が起因する。
 信長はそういう巧妙に立ち回る光秀の使い道を考えていた。悪用法といってよい。秀吉と競わせるようにも仕向けた。玉が12歳のときは、藤孝(幽斎)の息子与一郎と玉が同じ歳なのを知って、「おまえたちは一緒になるとよい」と言った。二人に言ったのではなく、父親の幽斎にそう諭したのだ。それがその通りになった。与一郎は青年忠興として玉を迎えた。天正6年(1578)、互いに16歳である。信長は二人の結びの神などではなく、藤孝の子を光秀と縁組させておけば、操りにくい光秀を動かすときに細川家を使えばよいと見抜いていたのである。細川が強い側に靡く一族であることをとっくに信長は知り抜いていたのである。

勝竜寺城 勝竜寺城の碑

  細川家に嫁いだ玉が安穏な結婚生活をおくれたわけがない。忠興は幽斎藤孝とともに石山本願寺攻めに出陣したままに、執拗で頑強な抵抗に手こずっていたのだから、ほとんど留守がちだった。玉は最初の最初から一人で生きることを強いられた新妻だった。

 そこであるとき紹介された清原佳代とちょくちょく会うようになっていく。清原家は細川家の親戚にあたる高位の公家で、佳代はその息女である。玉がデウスを知るのはこの佳代からのことだった。
 清原枝賢(しげかた)は、とても興味深い公家である。唯一神道の吉田兼倶の曾孫にあたっていて、和漢に通じる宮内卿でありながら、前代未聞のキリシタン公家になった。そのきっかけというのが、松永久秀がキリシタンを封じ込めんとして画策した法華宗徒と宣教師ガスパル・ヴィレラとの宗論に立ち会って、かえってキリシタンに感動してしまったというものだ。この前後に高山右近の父親の飛騨守もヴィレラの宗論に参加して感化をうけ、高山ダリオとして入信していた。これらは、この時代の激しい価値観の変動を象徴する。
 結局、その父親の感化が娘におよび、清原佳代は清原マリアとなり、そのマリアがやがて玉の侍女として仕えて、玉がついにガラシャ(西洋の宣教師視点では細川ガラシャ夫人)になったのである。清原家はそういう扇が閉じて開いていく役割をもっていた。

 ちなみに松永久秀は名器「平蜘蛛の釜」を所持していた茶の湯大名としても有名だが、それを欲しがった信長に逆らい、信長に烈火のごとく怒られて、釜を城から落として自害した。当時は、こういう男も目白押しの世の中だった。

 ここから先、光秀が本能寺に信長を討つまでに数年しかたたない。また、この間、キリシタンの動向が有為転変するのもまことに慌ただしいほどに劇的である。その劇的な事情をつぶさに知ってみることは、日本史をまったく新しい観点から読みかえるには急務のことであろうと思うのだが、そこは追い追い、ここではそのことを書くにはコラムの紙に暇がない。なかで、三浦綾子の小説ではとりわけ高山右近が重視されている。
 安土桃山期のキリシタンの動きほど、日本史をまったく新たな光で浮上させてくれる変遷史はない。とくに九州の大伴宗麟や大村純忠の西国の動向が先行して目立つのであるけれど、天正遣欧少年使節団の動向も特異なのであるけれど、それをべつにすれば畿内の動きこそさまざまな可能性に満ちて大きく、もしそのまま日本の中央部にキリスト教が定着していたら近世日本は見ちがえるほどに変わっていて、たとえばルネサンスとほぼ同じほどの稀有の充実がおこっていただろうと思わせる。それほどに、畿内キリシタンのあいだではありとあらゆる西洋による"実験"がめまぐるしく動いていた。その中心に光となり陰となっていたのが高山右近だったのである。

マニラ時代(最晩年)の高山右近 マニラ時代(最晩年)の高山右近

 すでに右近の父親がヴィレラによって高山ダリオになっていた。当時は大和沢城の城主だった。この城に宣教師ロレンソを招いたとき、高山一族はことごとく受洗した。右近が12歳のときのこと、これが高山ジュスト右近の誕生である。
 右近はその後、父が高槻領主和田惟政の家老となると摂津に赴き、そこから京都布教に精を出し、教会やセミナリヨの建設に尽力する。天正3年の三層に聳えた輝く聖堂いわゆる南蛮寺は、フロイスとオルガンティーノの指導にもとづいて、ほとんど右近がプロジェクト・マネージャー役を引き受けて完成したものだった。
 当然、玉は右近の噂を聞いている。憧れていた。ところが信長が光秀に荒木村重を攻めさせたとき、右近が信長側についたと聞かされて気が動顛した。玉の姉が荒木の嫡男に嫁いでいて、それを父の光秀が攻めていることと、それに右近が加担しているかのように見えたからである。が、右近はやむなくそのような行動をとっただけで、やがて信長がそのような右近に心証をよくすると、ただちにキリシタン布教の拡張を願い出ることに奔走した。
 玉はそうした右近の心映えを知り、しだいに自分も右近のような覚悟をもつことを決意しはじめるというのが、三浦の、この小説の伏線になっている。これは史実の実在を深く探索した解釈である。
 右近のその後も劇的であった。
 本能寺に信長が討たれると、明智方に加担していた多くの関係者が討たれるか左遷されるのであるが、そのなかに三箇アントニオや三木パウロもいて、これらがことごとく殉教した。難を免れた右近は秀吉によって大坂に移された教会やセミナリヨをいっとき引き受けるものの、突然のバテレン追放令によって明石に転封され、教会も破壊される。このとき右近を呼んだのが加賀の前田利家である。ジュスト右近は能登に迎えられ、ここにキリシタン小国をつくろうとする。これが慶長元年前後のことであった。

 利家はそのような右近をおもしろがって、さらに能登に2館、金沢に1館の聖堂を建てさせた。内藤ジョアンが右近のもとではたらいた。しかし家康によるキリシタン全国迫害がはじまると、能登・金沢のキリシタンたちは七尾の本行寺に隠れ、右近もついにマニラに流される。その後の右近がどうなったかは、もはやこのコラムの主題をはるかに超えてくる。詳しくは、これまた傑作のキリシタン小説である加賀乙彦の『高山右近』を読まれるとよい。これは泣かずにはいられない。

 これでは話が先にやや進みすぎたので書きにくくなってしまったが、では、明智玉であるガラシャがどうなったかであるか、それを手短かにご紹介しておく。

味土野女城・細川ガラシャ隠棲の地 味土野女城・明智玉隠棲の地

 二度にわたって寂寞の地に居することを強いられた。最初は丹後宮津に、次には丹後の味土野(みとの)に、である。最初の宮津は細川忠興の居城になったのだから左遷でも幽閉でもないが、実際にはそれに近かった。味土野(現在の京丹後市弥栄町須川付近)のときはまさに幽閉だった。父が信長を討ったことを咎められての、夫と別居しての居宅幽閉である。忠興は秀吉の手前、これを受容した。しかし先にも書いておいたように、細川一族はこのような延命策をとるのは得意だったのである。
 2年後、玉はやっと大坂の忠興のもとに戻ることが許されるのだが、もう夫のことなど何も信用していない。忠興は玉の留守中に側室に子を産ませていた。

 玉は決断をする。清原マリアの先達でバテレン禁断の『こんてむつすむん地』(キリストにならいて)を読み、これをすべて暗記すると、天正15年(1587)に入信して、セスペデス神父とコスメ修士のもと、晴れて「明智ガラシャ玉」になった。

細川ガラシャ 明智ガラシャ玉

 これを聞いた忠興は驚いて、キリシタン信仰を捨てることをガラシャに迫るが、玉は動じない。そのうち忠興は秀吉の暴挙に加わって朝鮮に渡り戦場を駆けめぐる。どちらにせよ玉は放っておかれたのだ。忠興は2千余の首を挙げて帰ってきた。そんなことが玉に快挙に見えるはずはない。
 その後に秀吉が死ぬと、天下は大荒れとなり、戦国の世を駆け抜けたすべての武将が敵味方に分かれることになった。五大老の一人の家康と五奉行の一人の石田三成が眦(まなじり)を決して対立した。このとき三成が前田利家に近づき、家康が利家と対立した。細川家は密かに家康についた。利家のほうには高山右近の動静がある。玉は固唾をのんで成り行きを見守りつつも、信仰を深めていた。

 ここで三成が軽挙に走った。細川忠興に家康暗殺の計画を相談したのである。慶長4年(1599)、利家が死んだ。事態は家康のほうに動く。加藤清正・福島正則・黒田長政らは三成を討つ気になっていた。これに忠興も加担した。家康はこのような翻意をよろこばない。家康は細川を討つつもりになった。そこで細川家は懸命の釈明に出る。人質も差し出した。翌年、家康は細川を許すかわりに、忠興に三成征討を命じた。

 関ヶ原の一戦の裏で何がやりとりされたかは、想像を絶する。その大半がフェイントと裏切りと寝返りと虚偽で塗りつくされている。
 なかでも忠興・三成の関係が玉の生死を決めた。それがまた関ヶ原の運命を左右した。忠興は玉を残して出陣するのだが、これを見て三成が最初に打った手が、忠興を制して細川家を締めあげれば家康が折れてくるという勘違いの読みだったのである。三成は細川が寝返りすると思いこんだのだ。
 しかし三成はそれを勘違いとは思わずに、そのためには早々に加藤清正・福島正則・黒田長政の妻子を人質にとることを決めた。そんなことしか思いつかなかったのではなく、この時代はそんなことしか戦乱の発端にならなかったのだ。その人質の重要な候補に細川邸に残るガラシャ玉がいた。
 こうして三成が家康打倒の兵を挙げたのが慶長5年の7月17日である。三成挙兵の報を知ると、ガラシャ玉は家人に申し渡して、居宅から一歩も動かずに死を待つように言い渡した。それから数刻後、三成の使者が玉のもとにやってきた。玉は一人部屋に入ると白無垢を着て、天主デウスに祈りを捧げた。そして、「明智の一族はすべて非業の死を遂げる」とそっと加えた。
 つづいて家来を呼ぶと火を放たせ、家中に火薬を撒かせた。みずから絹をかぶり、そのまま轟音とともに果てた。これは関ヶ原の戦端が開かれた7月17日の夜のことである。38歳の昇天だった。
 キリシタンは自害を禁じていた。それを玉は守った。その日が必ずくると信じて――。この辺りを三浦綾子は苦々しく書いている。「玉の死は大きく徳川方の士気を鼓舞し、結束を固めることになった。天下分け目の関ヶ原の合戦において、徳川方を勝利に導いた一因に、実にこの玉の死があった」というふうに。
 そして、さらにこう書き継いで小説を閉じた。「逆臣光秀の娘という恥を見事に雪(そそ)ぎ、立派な最期を遂げた玉のことを思うと、わたしはふっと、あのホーソンの『緋文字』の女主人公が浮かぶ。罪ある女としての印の緋文字を終生胸につけなければならなかったその女主人公は、信仰と善行とによってその緋文字を罪のしるしから尊敬の印に変えてしまったことを思う」と。

大阪市東淀川区の崇禅寺にあるガラシャの墓 崇禅寺のガラシャの墓(大阪市東淀川区)

 ここに紹介した三浦綾子の作品『細川ガラシャ夫人』はだいたい新潮文庫で読める。同じく新潮文庫に『千利休とその妻たち』がある。高山右近が利休七哲に数えられる経緯はこちらのほうに詳しい。『母』は角川文庫にある。明智光秀に関する文献は少なくないが、ここでは小和田哲男『明智光秀』、藤沢周平『逆軍の旗』、桜田晋也『明智光秀』全3冊、それに八切止夫の『信長殺しは光秀ではない』というあからさますぎるような本もある。あるいは加賀乙彦『高山右近』は傑作であり、右近はマニラで客死した。

 ここにはまったく言及できなかったのだが、実は細川藤孝がどのように戦国の世を切り抜け、利休に称賛される数寄の茶人となったのかということは、多岐にわたる謎と含蓄と虚実皮膜を含んでいて、興味がつきない。そこなら、たとえば桑田忠親の『細川幽斎』などにあたられるとよい。さらに、気になっていたものに安部龍太郎の『関ヶ原連判状』というとんでもない仮説を吐露した時代小説がある。連歌と和歌の「古今伝授」の切り紙が関ヶ原の決戦の決定的な鍵と鍵穴になっていたというお話だ。ここでは関ヶ原はガラシャをとりまく幽斎・忠興・三成・家康・利家のからみで発端し、あっというまに収束していったということになる。すべてが明智光秀の非業に結びついていたというものだ。

 しかしこれらは実に小説である。あくまでも小説なのであるから、歴史の正体を実証しようとさせる性質のモノではない。特に日本の中世史の南北朝以降からの戦国期をまたぐ間の正史資料というものは混乱に埋もれて、その多くが伝説めいている。それは応仁の乱によって、はじまる下克上の、相当の間、焼失した奈良の大仏殿が不在であったことにも証明されるように、補うにはじつに数多くの資料が国内に不在なのである。

 そうであるため、この期間の資料を当時のイエズス会に求めると、明智玉の動向の一旦を如実に指し示すことになる。天正14年(1586年)に、玉には次男の忠利(幼名・光千代)が生まれたが、病弱のため、玉は日頃から心配していた。天正15年(1587年)2月11日(3月19日)、夫の忠興が九州へ出陣すると(九州の役)、彼女は彼岸の時期である事を利用し、侍女数人に囲まれて、身を隠しつつ教会に行った。教会ではそのとき復活祭の説教を行っているところであった。玉は日本人のコスメ修道士にいろいろな質問をする。コスメ修道士は後に「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と述べる。玉はその場で洗礼を受ける事を望んだが、教会側は彼女が誰なのか分からず、彼女の身なりなどから高い身分である事が察せられたので、洗礼は見合わされた。細川邸の人間たちは侍女の帰りが遅いことから玉が外出した事に気づき、教会まで迎えにやってきて、駕籠で玉を連れ帰った。教会は1人の若者にこれを尾行させ、彼女が細川家の奥方であることを知った。

 その後、再び外出できる見込みは全く無かったので、玉は洗礼を受けないまま、侍女たちを通じた教会とのやりとりや、教会から送られた書物を読むことによって信仰に励んでいる。この期間に清原マリアをはじめとした侍女たちを教会に向かわせて洗礼を受けさせていた。しかし九州にいる秀吉がバテレン追放令を出したことを知ると、玉は宣教師たちが九州に行く前に、大坂に滞在していたイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいを得て、自邸で清原マリアから密かに洗礼を受け、ガラシャ、つまりグレーシア(Gratia、ラテン語で恩寵・神の恵みの意)という洗礼名を受けた。それまで、彼女は気位が高く怒りやすかったが、キリストの教えを知ってからは謙虚で忍耐強く穏やかになったという。しかしバテレン追放令が発布されていたこともあり、彼女は夫・忠興にも改宗したことを告げなかった。イエズス会の資料からはこのような行動がよみとれる。

 また、九州から帰ってきた細川忠興は5人の側室を持つと言い出すなど、ガラシャに対して辛く接するようになる。名を変えたガラシャ玉は「夫と別れたい」と宣教師に打ち明けた。当時のカトリックでは離婚は基本的に認めていなかったので、宣教師は「誘惑に負けてはならない」「困難に立ち向かってこそ、あなたの幸福は磨かれる」と説き、思いとどまるよう説得されるもした。そうして関ヶ原の戦いが勃発する直前の、慶長5年(1600年)7月16日(8月24日)、夫忠興が徳川方につき上杉討伐のため不在となった隙に、大坂玉造の細川屋敷にいた玉を、西軍の石田三成は人質に取ろうとしたが、ガラシャはそれを拒絶した。その翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませると、ガラシャは家老の小笠原秀清(少斎)に槍で部屋の外から胸を貫かせて死んだ(首を打たせた”の記述もある)。これは、キリスト教では自殺は大罪であり、天国へは行けないという教えがあったためだ。その38歳の、辞世の歌として、「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」と詠んだとある。それを見届け、この後、小笠原はガラシャの遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自らも自刃する。このことを、細川家の先祖由来附には「大阪越中屋敷へ、御奉行衆より人質の儀、達て被申ニ付、女房衆自害、家へ火をかけ、小笠原少斉、稲富伊賀守、河喜多岩見、両三人腹を切り申旨候事」と記されている。したがって辞世の歌も灰塵に化したであろうし、そもそも辞世は遺されたのであろうか、これは伝説に過ぎないモノと解釈した方がよかろう。ガラシャの死の数時間後に、神父グネッキ・ソルディ・オルガンティノは細川屋敷の焼け跡を訪れている。グレーシアの骨を拾い、堺にあったキリシタン墓地に葬った。細川忠興はそのような玉の死を悲しみ、慶長6年(1601年)にオルガンティノにガラシャの教会葬を依頼して葬儀にも参列した。後に遺骨は大坂の崇禅寺へ改葬される。その他にも、京都大徳寺塔中高桐院や、肥後熊本の泰勝寺等、何箇所かガラシャの墓所とされるものがあるが、これらの多くは供養の墓碑である。

細川ガラシャ辞世 明智ガラシャ玉の辞世

 なお細川屋敷を三成の兵に囲まれた際に、玉であるガラシャは世子・細川忠隆の正室で前田利家の娘・千世に逃げるように勧め、千世は姉・豪姫の住む隣の宇喜多屋敷に逃れた。しかし、これに激怒した忠興は忠隆に千世との離縁を命じ、反発した忠隆を勘当廃嫡してしまった。しかし忠隆の子孫はのちに細川一門家臣・長岡内膳家〔別名:細川内膳家〕となり、明治期に細川姓へ復している。

 こうした明智ガラシャ玉をモデルにした戯曲が作られた。それが「気丈な貴婦人(グラーシャ)」である。初演は神聖ローマ帝国のエレオノーレ・マグダレーネ皇后の聖名祝日(7月26日)の祝いとして、1698年7月31日にイエズス会の劇場でオペラとして発表された。脚本は当時ハプスブルグ家が信仰していたイエズス会の校長アドルフが書き、ヨハン・ベルン・シュタウトによって作曲がなされる。これが、日本人が主役として構成された史上初のオペラである。
 ここでガラシャの死は殉教と設定された。夫である蒙昧かつ野蛮な君主の悪逆非道に耐えながらも信仰を貫き、最後は命を落として暴君を改心させたという解釈である。当時のヨーロッパでは「武士道」と言う観念や武家社会の礼法が理解されていなかった為に、この戯曲はオーストリア・ハプスブルク家の姫君たちに特に好まれたとされる。戯曲の内容に日本人・明智玉としての実在感はなく、西洋主義に構成されている。彼女たちは政治的な理由で他国に嫁がされる細川ガラシャを自分たちの身の上に重ね、それでも自らの信仰を貫いた気高さに感銘を受けたと伝えられる。またこの戯曲に、マリア・テレジア、マリー・アントワネット、エリーザベト皇后たちも尊敬と感銘を受け、その生き方に深く影響を受けたとされている。

マリア・テレジア  マリア・テレジア

マリー・アントワネットとマリー・テレーズ王 マリー・アントワネットとマリー・テレーズ王

 これとは対照に、創作人形作家の辻村寿三郎の世界にあるガラシャには、人形匠から捉えた中世の世相感を表現しようとする人魂をも哀れに漲らせている。これは邦人がみせる人形を媒体とした明智玉の情念の揺らぎなのであろうか。
以上を前編の段として閉じることにするが、明智玉が生涯を享けた38年という歳月をひもときながら洋と邦の視点を対比しなければ中世という時代の正体は看取れない。後編においては、その暗部にさらに照準させてご紹介することにする。

創作人形作家辻村寿三郎のガラシャ 創作人形作家・辻村寿三郎の「ガラシャ」


                                             三馬 漱太郎
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三馬漱太郎

Author:三馬漱太郎
Welcome to Ron「漱」World
Sotarou Miuma
立体言語学博士
Social Language Academy Adviser
応用社会言語科学研究員

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