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聖マンショ伝「帰らざる丘」・No.0031

立体言語学から導く「中世の肖像」④後編

(バロック)サンタ・マリア・デラ・ヴィットリア教会のファザード 
サンタ・マリア・デラ・ヴィットリア教会のファザード(バロック様式)


 バロック建築(Baroque Architecture)は、1590年頃から盛んになった建築様式である。建築そのものだけではなく、彫刻や絵画を含めた様々な芸術活動によって空間を構成し、複雑さや多様性を示すことを特徴とする。特に内部空間の複雑な構成は、他の建築様式とは際立った特色となっていた。バロックという語源はポルトガル語のBarocco(歪んだ真珠)といわれ、元々は一部に見られるグロテスクなまでに装飾過剰で大仰な建築に対する蔑称であったのだが、のちに広く17・18世紀の美術・建築に見られる傾向を指す様式概念として用いられるようになった。
 そうしたバロック建築は、彫刻や絵画、家具などの諸芸術が一体となった総合芸術となっていることを特徴とする。現代的な視点では、彫刻や家具といったものは建築とはあまり関わりなく存在しているが、バロック建築において、これらは建築とは不可分の要素であった。このような芸術活動には、莫大な知識の集積と多くの芸術家を抱えられるだけの資本が必要であったが、これを支えたのが世俗化された教会権力と絶対王政であった。
 そのバロック建築は、宗教改革によって低下したカトリック教会の政治的権威を芸術活動によって補おうとしたシクストゥス5世や、パウルス5世などの活動により、16世紀末から17世紀初期にかけてローマで始まった。やがてイタリアでのバロック建築は衰退するが、絶対王政を敷く大国フランス王国に継承され、太陽王ルイ14世のもとで絶頂期を迎えた。バロック建築は、さらに当時の強国であったオーストリア大公国、プロイセン王国、ロシア帝国などにも波及し、ボヘミアでは独特なバロック建築を生み出す。しかし、他に比べ王権力が弱いイギリスなどではフランスやオーストリアのようなバロック建築はあまり取り入れられなかった。
 またバロック建築は彫刻や調度品が建築の一部を形成するため装飾に対する嗜好性が見られ、後期にはサロン文化の隆盛に伴って、室内装飾に重点が置かれるロココと呼ばれる傾向を示すようになる。しかし、18世紀になるとロココの繊細で洒落たデザインは軽薄で軟弱なものと批判されるようになり、フランスでは新古典主義建築の勃興とともに衰えることになる。しかし19世紀の様式氾濫期になると、このバロック建築が国家建築を飾るのにふさわしい様式として再び復興した。そのような(ネオ・バロック)も、また近代建築運動の隆盛によって終息することになる。
 それでは伊東マンショが体験したローマと北イタリアの初期バロック建築について考察してみることにする。

サン・ピエトロ大聖堂2 サン・ピエトロ大聖堂

 バロック建築の着想は、一般にミケランジェロの設計したサン・ピエトロ大聖堂の荘厳性や崇高性のなかにはじめて現れると考えられているが、そのデザインは、ほかならぬ彼自身のマニエリスム的な厳格さの中に埋没し、それ以上の展開を見せることはなかった。1520年代のミケランジェロやラファエロ・サンティらの芸術活動のなかに、バロックへの萌芽が見られることはしばしばこれを指摘している。

サン・ピエトロ大聖堂

ミケランジェロ ミケランジェロ

 17世紀に入ると、武力をも辞さなかった対抗改革の宗教的厳格さは退潮し、異端審問などはローマではほとんど行われなくなった。政治的な重要性が低下するにつれて、芸術によって信者をつなぎ止めるため、ローマ教皇や枢機卿は壮大な教会や宮殿を建設することに熱心なパトロンとなった。バロック建築は 1590年代のローマに始まり、こうした風潮が世間を支配するようになる1630年から1670年にかけて開花していった。

 カルロ・マデルノは、1606年にサン・ピエトロ大聖堂の身廊部分とファサードを設計し、1626年にそれを完成するまで同聖堂の主任建築家として、そしてローマの主導的な建築家として活躍した。彼は最初の本格的なバロック建築としてパラッツォ・マッティを設計(1598年)したが、バロック建築史のなかで最も重要なのは、彼が最晩年に設計したパラッツォ・バルベリーニである。北イタリアの別荘に着想を得たプランを持つこの宮殿は、部屋の繋がりも楕円の第二階段もパラーディオの概念に基づくものだが、中庭を持たないH型の平面はそれまでには全く見られない新しい形状であり、後期バロック建築の宮殿建築の発展において重要な意味を持っている。この建築には、ローマ・バロック建築を代表する二人の芸術家、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニとフランチェスコ・ボッロミーニが参加しており、正面ファサードは主にベルニーニが、細部装飾についてはボッロミーニが携わった。

 ジャン・ロレンツォ・ベルニーニは、マデルノ亡き後、ローマの彫刻と建築の第一人者となった。彼はミケランジェロと同じ彫刻家として出発し、絵画を遺し、最も重要な建築を設計し、そしてミケランジェロと並ぶほど重要な芸術家とされる。しかし、両者の芸術的アプローチは全く異なる。ベルニーニは初期の作品では、マルティーノ・ロンギと同じく表現の選択肢を増やし、これを複雑に組み合わせることによって強い印象を与えるようなデザインを用いた。サン・ピエトロ大聖堂内部の天蓋付き祭壇(1624年設計)はこの典型で、ねじれ円柱や相互にかみ合う破風などのダイナミックな構成は、大聖堂内部の広大な空間の中でペテロの墓所を示す効果的な焦点となっている。しかし、これの形態はミケランジロをはじめとするマニエリスム芸術家の好みにはまったく合わないと思われる。
 やがて彼は、建築の空間そのものを意識的に構成するようになる。サン・ピエトロ大聖堂のレッタ広場(正面前の台形の広場)、オブリクァ広場(楕円形の広場)、そしてそれを取り囲む列柱廊にもそれは見られるが、より重要な作品はバチカン宮殿のスカラ・レジアである。そこでは敷地のいびつさを逆に利用し、両壁を収斂することによって空間の奥行きを矯正している。
 フランチェスコ・ボッロミーニは、すでに初期の作品において旧習を無視したバロック建築の独特な空間を生み出した。サン・カッロ・アッレ・クアトロ・フォンターネ聖堂の内部は、サン・ピエトロ大聖堂のドームを支える主柱に収まるほどの非常に小さな空間だが、初期バロック建築の最も重要な空間構成を持っていると言われている。彼の構築した空間は、どのような要素がどのように組み合わされているのか、一見しただけでは判らない。内部空間と外部空間の複雑な合成は彫塑的で、揺れや歪みという言葉によって修飾される。空間を複合・統合して作り上げていくその造形力はベルニーニよりも強烈だが、それゆえにベルニーニは、ボッロミーニの建築を妄想的であると断じた。さらに、彼は代表作となるサンティーヴォ・アッラ・サピエンツァ教会堂の設計に着手し、バロック建築の嗜好する空間を最も説得力のあるかたちで実現させた。ボッロミーニの建築は特殊なものに見えるが、同時に空間を扱う一般解を提示しており、その経験はやがてドイツのバロック建築に引き継がれた。

 ボッロミーニの空間処理方法は、イタリアではその真意をほとんど理解されることのないまま模倣されたが、グァリーノ・グァリーニはボッロミーニの方法をもとに独創的な空間をつくりあげた。ただし、彼の活躍の場はローマでなくてトリノである。また、彼は芸術家であるよりは、修道士、哲学者、そして数学者であった。数学的合理性に基づく空間を複雑に交差させる細部の処理方法は、彼が数学者であることに由来するかもしれないが、それゆえ、彼の建築は直接的な後継者をみなかった。ベルニーニやボッロミーニの造形がローマ的で個性的であるのに対し、サン・ロレンツォ聖堂などグァリーニによる装飾は、やはり個性的ではあるが、よりあか抜けた印象を与える。
 ローマと北イタリアの初期バロック建築は、ベルニーニ、ボッロミーニの後、カルノ・ライナルディ、ピエトロ・ダ・コルトーナによってさらに独創的で多様な造形を形成するが、彼らの底流には常に量塊と彫塑性に対する好みが流れていた。しかし、17世紀末にはイタリアの造形力は衰退し、後期のバロックはフランスの影響を受けた古典的なものに移行する。そして、以後、ローマの芸術的地位は一地方並にまで転落し、イタリアが建築芸術を主導する立場に立つことはなくなるのである。伊東マンショは、この萌芽の時期にイタリアを訪れた。

ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ

 こうした伊東マンショの動向に着目したのが、マンショ没(1612年)の34年後にドイツのライプツィヒで生まれたゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz)であった。

ドイツのライプツィヒ ライプツィヒ(ドイツ)
ドイツのライプツィヒ地図 位置

 彼のことについては②中編Ⅰにて触れたが、その中で彼がカトリックとプロテスタントの統合を構想していたことを述べた。話は少し東郷茂徳のことに飛ぶが、1937年(昭和12年)に彼は駐独大使として再びベルリンへ赴任することになる。この際にはナチスが勃興しており、状況は以前とは一変していた。対外的にはオーストリア、チェコスロバキアなどへ侵攻しつつある状態にあり、ドイツ国内的にはベルリンのシナゴーグがナチスによって焼き討ちされるなど、ユダヤ人迫害が顕在化しつつあった。元々ドイツ文学に深く傾倒し、ドイツ文化や建築様式に深い理解があった東郷はナチスへの嫌悪を感じざるを得ず、ナチスと手を結びたい陸軍の意向を受けていたベルリン駐在陸軍武官大島浩や、日本と手を結びたいナチスの外交担当ヨアヒム・フォン・リッベントロップと対立し、駐独大使を罷免されることになる。そうした心痛した帰国間際に東郷は親交のあったカール・ユーハイム(日本におけるバームクーヘンの生みの親)からの紹介で一冊の古書を入手した。

カール・ユーハイ カール・ユーハイム

 1937年当時のカール・ユーハイムだが、妻エリーゼはユーハイムの振る舞いに尋常でないものを感じ、ユーハイムを精神病院に入院させることにする。しかし当のユーハイムには病識がなく、病院からの脱走を繰り返すなど問題行動を繰り返したため、ドイツに帰国させて治療を受けさせることにした。東郷が古書を入手したのはこの時期である。東郷はその後のユーハイムへの回想に触れて「数年後ユーハイムは病から回復し日本へ戻ったものの明るかった性格は一変し、以前のように働くこともできなくなっていた。さらに1941年に開戦した大東亜戦争の戦況が悪化するにつれ、物資の不足により菓子を作ろうにも作ることができなくなった。1944年には店舗の賃貸契約を打ち切り、工場だけを稼働させることにした(工場ではドイツ海軍の兵士に支給するパンが焼かれた)」と独房の外伝に記している。その東郷は、1938年(昭和13年)に駐ソ大使として赴任した。それ以前の状況としては、1936年(昭和11年)に締結された日独防共協定の影響で日ソ関係は悪化しており、前任の重光葵が駐ソ大使として赴任している間ついに好転することはなかった。その後、東郷と対するヴャチェスラフ・モロトフソビエト外相とは、日ソ漁業協商やノモンハン事件勃発後の交渉を通じていくうちに互いを認めあう関係が構築され、東郷は「日本の国益を熱心に主張した外交官」として高く評価される。こうした状況の好転を踏まえ、東郷は悪化するアメリカとの関係改善、および泥沼化する日中戦争(支那事変)の打開のため、日本側はソビエトの蒋介石政権への援助停止、ロシア側は日本側の北樺太権益の放棄を条件とした日ソ中立条約の交渉が開始され、ほぼまとまりつつあった。そんな多忙極まる日々にあっても、ドイツで得た奇遇ともいえる古書を愛読したという。

中世の古書 
東郷が入手した「ライプニッツのノート」・・「神学と日本人」Theologie und der japanische


 その古書こそが、ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツの手記として書き遺された「神学と日本人」Theologie und der japanischeである。これを東郷は「ライプニッツのノート」Leibniz-Notizenと呼んでいる。これはライプニッツが自然神学を起草するための資料でもあった。おそらくこれを東郷がノートと呼称したように、出版された古書の類(たぐい)ではない。書き古された分厚い束のノートなのである。

 その冒頭には「古い革袋には、新しい酒は入れられる」Um die alte Ledertasche, wird der neue Wein eingegangen.と断定し、バイブル福音の断食の問答についてライプニッツの所信が述べられていた。
 この断食についての問答であるが、《そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。だれも、織りたての布切れを取って、古い服に継ぎをあてたりはしない。新しい布きれが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする》と「マタイによる福音書」にはある。
 ライプニッツはカトリックとプロテスタントの統合を構想する中で『イエスのひとびとへの語りかけというものは、一部族宗教に過ぎないユダヤ教という枠組みを乗り越え、世界宗教(普遍宗教)への跳躍というひとつの挑戦だったから、世界宗教「として」のキリスト教が誕生した。新しいパラダイムは、古いパラダイムに準拠する。だから旧約と新約で聖書となる。しかし、摂受されるだけと見てしまうとそこが盲点となる。準拠は脱構築の出発点にしかすぎず、跳躍によってそれが完成されると見て取るしかはない。信仰の新たなパラダイムは、常に古いほうを駆逐する』と記している。
 ライプニッツはこうした統合の構想への過程に伊東マンショを介在させた。現在からの観点では、天正遣欧少年使節のバチカン訪問はイエズス会のトリックが明らかであるが、ライプニッツはすでに当時においてそう解析を終えている。そのライプニッツにおいて伊東マンショという存在は新しいワインなのであった。

ワイングラス

 モナドロジーの立場に立つライプニッツからすれば、認識は主体と客体の間に生じる作用ではなく、したがって直観でも経験でもない。自己の思想をロックの思想と比較しながら明確にする試みとして、大著「人間知性新論」を執筆したが、脱稿直後にロックが亡くなった(1704年)ため公刊しなかった。ライプニッツの認識論には、無意識思想の先取りもみられる。また、フッサールやハイデガーなどを初めとする現象学の研究者から注目を集め様々に言及されている。さらに彼は、20世紀後半に至って、「必然的真理とは全ての可能世界において真となるような真理のことである」といった可能世界意味論に基づく様相理解の先駆者と見なされるようになった。このような考え方は、ルドルフ・カルナップの『意味と必然性』を嚆矢とし、その後アーヴィン・プランティンガやデイヴィッド・ルイスなどの影響もあり、ライプニッツの様相概念についての通説として定着した感がある。その他、最近では、最晩年(1714年)に著した『中国自然神学論』が注目を集め、比較思想の観点からも(洋の東西を問わず)研究が進められつつあるのだが、こうした観点の初めに伊東マンショの実在をライプニッツは研究したことになる。そのライプニッツは、同時代の著名な知識人とはほぼすべて交わったと考えてもよいくらい活動的であった。ライプニッツが生涯に書簡を交し合った相手は1000人を優に超える。それらの王侯貴族から全くの平民にまで及んだ書簡相手の内でも特に重要と目されている人物としては、『形而上学叙説』をめぐって書簡を交わしたアントワーヌ・アルノー、デカルト主義者の自然学者にしてピエール・ベールの友人としても知られるブルヒャー・デ・フォルダー、晩年の10年間にわたり130通に及ぶ書簡をやり取りしたイエズス会神父のバルトロマイウス・デ・ボス(ライプニッツはルター派である)、最晩年の2年間、アイザック・ニュートンの自然学及び哲学との全面対決の場ともなったサミュエル・クラーク(ニュートンの弟子であり友人でもあった)などがいる。東郷が獄中でも手にし続けた「ライプニッツのノート」Leibniz-Notizenには、そのバルトロマイウス・デ・ボス神父から得た伊東マンショに関する情報が収められている。

 ライプニッツは三十年戦争の後遺症がまだ残っていたドイツという後進国出身の悲哀を味わらなければならなかった。父はライプツィヒ大学の哲学教授で彼に幼いころから読書を教え、彼も14歳で同大学に入学し、2年後に卒業するのだが、当時のドイツの大学はイギリスやフランスに比べて立ち遅れていた。従ってライプニッツの理論を正当に理解・評価できる人はあまりいなかった。ライプニッツが外交顧問、図書館長として仕えたハノーファー選帝侯エルンスト・アウグスト妃ゾフィーと、その娘ゾフィー・シャルロッテ(プロイセン王フリードリヒ1世妃)と、エルンスト・アウグストとゾフィーの孫ゲオルク・アウグスト(後のイギリス王ジョージ2世)の妃のキャロライン(ドイツ語名はカロリーネ・フォン・アンスバッハ)らは、この哲学者を尊敬した。1700年に王妃ゾフィーの招きでベルリンに行き科学アカデミーの創設に参加して、初代総裁に就任している。しかし5年後に王妃ゾフィーが肺炎で死去すると、ベルリンはライプニッツにとって居心地のいい場所ではなくなってしまった。ハノーファーでも1714年に選帝侯妃ゾフィーが死去し、息子の選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒが同年にイギリス王ジョージ1世となってイギリス国王を兼任すると、キャロラインも皇太子妃となってイギリスに移住した。ジョージ1世はライプニッツを煙たく思っていたのでイギリスに連れて行くことはせず、ハノーファーに残された。ライプニッツは政治的な支援者を失い、周囲の空気は冷たくなった。晩年のライプニッツは侯家の家史編纂というつまらない仕事に携わり、他には自分を理解してくれる外国の学者や友人とひろく文通をかわすだけであった。こうした心情もあり、その文通者は国内外あわせて千人を超えていたのである。

 東郷茂徳がそのようなライプニッツの遣る瀬無い心情を自身の体験や境遇と重ね合わせながら「ライプニッツのノート」Leibniz-Notizenを肌身離さず愛読し続けたことは、その妻エディー(東郷エヂ)が遺した日記によって吐露されている。またその日記からは「東郷茂徳がライプニッツのノートを基に、伊東マンショの生涯を外交官の視点で辿り行こうする」東郷の果てしない願望も垣間見える。そんな東郷も1948年(昭和23年)11月4日、軍事裁判は東郷の行為を「欧亜局長時代から戦争への共同謀議に参画して、外交交渉の面で戦争開始を助けて欺瞞工作を行って、開戦後も職に留まって戦争遂行に尽力した」と認定して有罪とし、禁錮20年の判決を下された。東郷は後に「法の遡及」を行い、「敗戦国を戦勝国が裁く」というこの裁判を強く批判する一方で、国際社会が法的枠組みによって戦争を回避する仕組みの必要性があり、新しい日本国憲法第9条がその流れに結びつく第一歩になることへの期待を吐露している。こうした眼差しの先に日本の中世の肖像として伊東マンショの姿が東郷の脳裡にはあった。東郷は未曾有の日本のエポックに当事者として直面しながらライプニッツのノートからそれを学び省みたのである。それはライプニッツが日本の天正年間を重要なエポックとして捉えたように、東郷もまたそれを日本の貴重なエポックとして重要視したのであった。

 8月6日のアメリカの広島への原子爆弾投下、8月8日のソ連の対日参戦という絶望的な状況変化が日本に訪れると、事態の急変を受けて、8月9日午前、最高戦争指導会議が開催された。東郷は「皇室の安泰」のみを条件としてポツダム宣言受諾をすべきと主張する。しかしこの会議の中、長崎に第二の原子爆弾が投下された。戦争終結後、東郷は東久邇宮内閣に外相として留任するよう要請されたが、「戦犯に問われれば、新内閣に迷惑がかかる」として依頼を断り、妻と娘のいる軽井沢の別荘に隠遁した。しかし、「真珠湾の騙し討ちの責任者」という疑惑を連合国側からかけられて、9月11日に東條元首相とともに真っ先に訴追対象者として名前が挙げられる。こうして終戦の翌年、1946年5月1日に巣鴨拘置所に拘置されて、翌月には極東国際軍事裁判が開廷された。

巣鴨拘置所 巣鴨拘置所

 裁判は1947年(昭和22年)12月15日に東郷の個人反証に入り、この日「電光影裏、春風を斬る」とその心境を色紙にしたためて望んでいる。A級戦犯として禁固20年の刑が下された東郷は、1950年(昭和25年) 黄疸により米陸軍第361病院(現同愛記念病院)に入院した。同7月23日、動脈硬化性心疾患および急性胆嚢炎の併発により死去。その67歳の亡骸(なきがら)は青山霊園にある。漱太郎はこの霊園に墓参の手土産として三度ほどバームクーヘンを手向けた。無論、ユーハイムの製品である。日本人で最初に伊東マンショの正体に近づこうとした人物はこの鬼籍の人しかおるまい。機を得て「ライプニッツのノート」の詳細については述べようと思う。亡骸は1978年(昭和53年)10月17日、「昭和殉難者」として靖国神社に合祀されたのであるが、靖国に伊東マンショやライプニッツはどうにも不釣合いで、東郷は青山霊園(東京都港区)でこそこの二人の御影を温めながら抱き合わせて眠るのであろうから、やはり御霊(みたま)を偲ぶなら青山である。

青山霊園 青山霊園(東京都港区)

 その人が「眠」るとはどういうことか、象形において「眠」は「民」の原字であり、その「たみ」は被支配層の人々であり、官や公に対応しその行為の対象となる人々が眠らされることである。伊東マンショが歴史の中に眠らされたように、東郷茂徳もまた地下深く眠らされた。写真はその東郷の墓標である。日本の終戦は、東郷の目を針で刺し、目を見えなくさせることによって迎えた。しかしこの墓標の前に佇むと、東郷は確かに眼を鋭く見開いて見えてくる。ロレードである黒い丸ぶち眼鏡の、その眼の奥底には中世を生きた一人の青年が得難い肖像として据えられていた。

カール・ユーハイ3

 人間や動物の精神や生命は、モナドの表象・知覚の能力によって説明される。これを逆に補うと、そこから、すべてのものにはそれぞれの度合いに応じて精神や生命があるということにもなる。そのモナド(Monad)とはライプニッツの案出した存在を説明するための概念である。霊が霊に作用するというとき、ひとつのありうるモデル、描像としては、作用するモナドから何かが出て、作用されるモナドの窓の中へ入るという構図が考えられるのだが、東郷の墓前では無意識にライプニッツに馳せるからか、生前の東郷が親交を深くした諸氏の霊が、あらかじめ時刻を合わせた数十の時計のような神が配剤した創造の時点で予定され調整された調和ある揺らぎの中にあって、ついつい一人の中世の肖像を知覚させられていることを感じてしまう。その墓とは人の存在を説明するためのモナドなのである。

原爆ドーム2

 原子論がアトムと呼んだものは物質の最小単位、粒子のことだが、ライプニッツのいうモナドは精神である。①前編の冒頭でも掲げたこの写真だが、これをアトムで見るか、モナドで見るのかで、死と生の両極にかけ離されてしまう。しかしモナドとは万能なもので自在な変換が可能である。リトルボーイの爪痕であるこの原爆ドームも、モナドへの変換で中世の肖像を想い描くにいたる。

小村寿太郎 小村寿太郎

 東郷茂徳は1926年(大正15年) 在米大使館主席書記官としてワシントンへ赴任することになるが、その帰国後の1929年(昭和4年)に青山霊園を訪れた。そこには小村寿太郎の墓がある、その墓参である。この墓参後に東郷はドイツ大使館参事官として赴任する。その折りに「ライプニッツのノート」を入手した。そのライプニッツの手記として書き遺された「神学と日本人」Theologie und der japanischeの日本人とは「伊東マンショ」なのであるが、安政2年(1855年)9月16日に日向国飫肥藩(現在の宮崎県日南市のほぼ全域および宮崎市南部)の下級藩士・小村寛平と梅子の長男として生まれた小村寿太郎と伊東マンショとの関係は、飫肥藩の初代藩主が伊東祐兵であるからじつに深い。

小村寿太郎の墓 小村寿太郎の墓

 東郷はノートの入手後にその関係の考察を深めたようであり、いつの日か寿太郎の故郷(飫肥)を訪うことを願っていたが、それは叶わず今、同じ霊園に互いの棺が隣人として結ばれたごとく納まっている。ただし漱太郎には東郷茂徳が墓の忘却される人の死が痛々しい。同じ墓碑域にある東郷家の墓には花が手向けられているが、茂徳の墓に花は無し。

東郷茂徳の墓 東郷茂徳の墓

東郷茂徳3


                                            三馬 漱太郎

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聖マンショ伝「帰らざる丘」・No.0030

立体言語学から導く「中世の肖像」③中編Ⅱ

東郷茂徳2 東郷茂徳

 東郷 茂徳・とうごう しげのり「1882年(明治15年)12月10日から1950年(昭和25年)7月23日」は日本の外交官、政治家。太平洋戦争開戦時及び終戦時の日本の外務大臣である。欧亜局長や駐ドイツ大使及び駐ソ連大使を歴任、東條内閣で外務大臣兼拓務大臣として入閣して日米交渉にあたるが、日米開戦を回避できなかった。鈴木貫太郎内閣で外務大臣兼大東亜大臣として入閣、終戦工作に尽力した。にもかかわらず戦後、開戦時の外相だったがために戦争責任を問われ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で禁錮20年の判決を受け、巣鴨拘置所に服役中に病没する。その東郷は剛直で責任感が強く、平和主義者である一方で現実的な視野を併せ持った合理主義者だったが、正念場において内外情勢の急転に巻き込まれて苦慮するケースが多かったと言える。
 東郷茂徳は豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に島津義弘の帰国に同行した朝鮮人陶工の子孫である。陶工達が集められた「苗代川」(現在の日置市東市来町美山)と呼ばれる地域では幕末まで朝鮮語が使われていたという。薩摩藩は苗代川衆を保護、優遇し藩内の身分は士分とした。父・朴寿勝は優れた陶工で、横浜や神戸にも積極的に出かけ、外国人にも焼き物を売り込む実業家としての手腕にも長けていた。なお元帥海軍大将の東郷平八郎とは血縁関係はない。
 旧制の第七高等学校造士館(のち鹿児島大学)に進学。ちなみに同じ鈴木内閣の農相だった石黒忠篤とは高校時代以来の親友だった。そこに赴任していた片山正雄に師事したことがきっかけで、東郷はドイツ文学への理解を深めていった。その後、東郷は東京帝国大学(のち東京大学)文科大学独逸文学科に進学し、また東郷の師の片山も学習院大学教授として赴任。片山は、自らの師でドイツ文学者の登張信一郎を東郷に紹介し、三人で「三代会」を結成した。
 1905年(明治38年)5月、大学の文芸雑誌『帝国大学』臨時増刊第二「シルレル記念号」に、フリードリヒ・フォン・シラー作『戯曲マリア・スチュアルト』(マリア・スチュアルトはスコットランド女王メアリー・ステュアートのこと)を題材とした文芸批評が掲載された。これは東郷の唯一の文芸批評である。また、翌年1月に片山が著した『男女と天才』に登張とともに序文を寄せ、この時に「青楓」の雅号を用いている。

登張竹風の写真『登張竹風遺稿追想集』より  登張竹風『登張竹風遺稿追想集』

 その東郷、初めは登張の影響でドイツ文学者を志していたが、1912年(大正元年)に外務省に入省し、1919年(大正8年) - 1921年(大正10年)に対独使節団の一員としてベルリンに東郷は赴任した。このときドイツは、第一次世界大戦敗戦後に成立したワイマール共和国下での、カップ一揆が勃発するなどの混乱期にあったが、日独関係は比較的安定した状態にあった。また、東郷はこの赴任時にドイツ人エディ・ド・ラロンド(建築家ゲオルグ・デ・ラランデの未亡人)と出会い、恋仲となる。ドイツから帰国後、反対する両親を説得して、1922年に帝国ホテルで挙式した。
 その後、1937年(昭和12年)~1938年(昭和13年)に駐独大使となったが、この際にはナチスが勃興しており、状況は一変していた。対外的にはオーストリア、チェコスロバキアなどへ侵攻しつつある状態にあり、ドイツ国内的にはベルリンのシナゴーグがナチスによって焼き討ちされるなど、ユダヤ人迫害が顕在化しつつあった。元々ドイツ文学に深く傾倒し、ドイツ文化に深い理解があった東郷はナチスへの嫌悪を感じざるを得ず、ナチスと手を結びたい陸軍の意向を受けていたベルリン駐在陸軍武官大島浩や、日本と手を結びたいナチスの外交担当ヨアヒム・フォン・リッベントロップと対立し、駐独大使を罷免される。
 東郷は、1938年(昭和13年)に東郷は駐ソ大使として赴任した。それ以前の状況としては、1936年(昭和11年)に締結された日独防共協定の影響で日ソ関係は悪化しており、前任の重光葵が駐ソ大使として赴任している間ついに好転することはなかった。その後、東郷と対するヴャチェスラフ・モロトフソビエト外相とは、日ソ漁業協商やノモンハン事件勃発後の交渉を通じていくうちに互いを認めあう関係が構築され、東郷は「日本の国益を熱心に主張した外交官」として高く評価された。こうした状況の好転を踏まえ、東郷は悪化するアメリカとの関係改善、および泥沼化する日中戦争(支那事変)の打開のため、日本側はソビエトの蒋介石政権への援助停止、ロシア側は日本側の北樺太権益の放棄を条件とした日ソ中立条約の交渉が開始され、ほぼまとまりつつあった。
 しかし、第2次近衛内閣が成立し、松岡洋右が外務大臣となると、北樺太の権益放棄に反対する陸軍の意向を受け、東郷には帰朝命令が出されてしまう。松岡は暗に東郷の外務省退職を求めるが、東郷は逆に懲戒免職を求めて相手にしなかった。
 なお、その後に松岡が締結した日ソ中立条約は、日独伊三国同盟が成立していたこと、北部仏印進駐によってアメリカの対日経済制裁が強まってしまっていたこと、ソ連とナチスドイツとの関係が悪化したことなどによって、当初東郷が意図していたようなアメリカとの関係改善には繋がらなかった。結果としてソ連がナチスドイツの侵攻に備えるための意味と日本の大陸での南進への間接的な援護との意味しか持たないものとなった。加えて、日本側の北樺太権益の放棄もない代わりに、ソ連側の蒋介石政権への援助停止も盛り込まれない内容となったことにより、東郷には不満が残る結果となった。このとき、外相経験もある元老西園寺公望が、死の床で松岡によって東郷が駐ソ連大使を更迭されて、外務省から追われそうだという風説を聞いて、深く慨嘆したと言われている。
 1941年(昭和16年)10月、東條内閣に外務大臣として入閣する。首相に任命された東條は、もともとは対米強硬派であったが、昭和天皇から直接、対米参戦回避に尽くすよう告げられてただちに態度を改め、対米協調派の東郷を外相に起用したのである。東郷も天皇と東條の意を受けて日米開戦を避ける交渉を開始した。まず北支・満州・海南島は5年、その他地域は2年以内の撤兵という妥協案「甲案」を提出するが、陸軍の強硬な反対と、アメリカ側の強硬な態度から、交渉妥結は期待できなかった。
 このため、幣原喜重郎が立案し、吉田茂と東郷が修正を加えた案「乙案」が提出された。内容としては、事態を在米資産凍結以前に戻す事を目的とし、日本側の南部仏印からの撤退、アメリカ側の石油対日供給の約束、を条件としていたが、中国問題に触れていなかった事から統帥部が「アメリカ政府は日中和平に関する努力をし、中国問題に干渉しない」を条件として加え、来栖三郎特使、野村吉三郎駐米大使を通じて、アメリカのコーデル・ハル国務長官へ提示された。
 その後アメリカ側から提示されたハル・ノートによって、東郷は全文を読み終えた途端「目も暗むばかり失望に撃たれた」と述べ、開戦を避けることができなくなり、御前会議の決定によって太平洋戦争開戦となった。吉田茂は東郷に辞職を迫ったが、今回の開戦は自分が外交の責任者として行った交渉の結果であり、他者に開戦詔書の副署をさせるのは無責任だと考えたこと、自分が辞任しても親軍派の新外相が任命されてしまうだけだと考えてこれを拒み、早期の講和実現に全力を注ぐことになった。
 1941年(昭和16年)12月1日の御前会議において、昭和天皇から東條英機首相に対し、「最終通告の手交前に攻撃開始の起こらぬように気をつけよ」との注意があった。また、野村吉三郎駐米大使からも11月27日付発電で、「交渉打ち切りの意思表示をしないと、逆宣伝に利用される可能性があり、大国としての信義にも関わる」との意見具申があった。
 このため東郷は、永野修身軍令部総長、伊藤整一軍令部次長ら、交渉を戦闘開始まで打ち切らない方針だった海軍側との交渉を開始。山本五十六連合艦隊司令長官も上京し、「無通告攻撃には絶対に反対」と表明したことなどから海軍側も事前通告に同意し、ワシントン時間7日午後1時(日本時間8日午前3時)に通告、ワシントン時間7日午後1時20分攻撃、とする事が決定した。しかし、駐ワシントン日本大使館の事務上の不手際によって、当初予定より1時間20分遅れたワシントン時間7日午後2時20分通告(真珠湾攻撃開始1時間後)となってしまった。また一方、これらの日本側の状況をアメリカ側の首脳陣は「マジック」と呼ばれる暗号解読によって外交通電内容(交渉打ち切り)をほぼ把握していたが、アメリカ各地へ事態を知らせる警告は、至急手段を避けて行われていた。
 開戦直前まで日米交渉を継続したことが、アメリカ側からは開戦をごまかす「卑劣極まりないだまし討ち」として、終戦後に東郷が極東国際軍事裁判で起訴される要因の一つとなった。しかし、法廷において東郷は、海軍は無通告で攻撃しようとしたことを強調し、軍に責任を擦り付けようとしていると反感を呼んだ。
 東郷は開戦後も「早期講和」の機会を探るために外務大臣を留任したが、翌年の大東亜省設置問題を巡って東條首相と対立して辞任した。外務省と別箇に大東亜省を設置する事で、日本がアジア諸国を自国の植民地と同じように扱っていると内外から見られる事を危惧したことや「早期講和」に消極的な東條内閣に対する一種の倒閣運動だったと見られる。
 1944年(昭和19年)7月9日のサイパン島陥落にともない、日本の敗戦が不可避だということを悟り、世界の敗戦史の研究を始めた。獄中で認めた手記『時代の一面』には「日本の天皇制は如何なる場合にも擁護しなくてはならない。敗戦により受ける刑罰は致し方ないが、その程度が問題である。致命的条件を課せられないことが必要であり、従って国力が全然消耗されない間に終戦を必要と考えた」と記している。
 1945年(昭和20年)4月、東郷は終戦内閣である鈴木内閣の外相に就任する。「戦争の見透かしはあなたの考え通りで結構であるし、外交は凡てあなたの考えで動かしてほしいとの話であった」という鈴木貫太郎首相の言葉を受けて入閣した東郷は、昭和天皇の意を受け終戦交渉を探った。当時、ヨーロッパでは既にドイツの敗北が必至の情勢まで悪化しており、アメリカが太平洋戦争へ戦力をさらに投入してくることや、ソ連が攻めてくる可能性があるなどの状況となっていたにもかかわらず、陸軍を中心に本土決戦が叫ばれ、事態は猶予のない状態になっていた。
 1945年5月中旬の最高戦争指導会議で陸軍参謀総長の梅津美治郎が、ドイツの敗戦後、日本とは中立状態にあったソ連が極東に大兵力を移動しはじめていることを指摘し、ソ連の対日開戦の可能性を指摘、対ソ交渉の必要性が議題になった。そこで東郷は、ソ連を仲介して和平交渉を探るという方策を提案した。これに対し陸軍大臣の阿南惟幾は、日本は負けたわけではないので和平交渉よりもソ連の参戦防止を主目的とした対ソ交渉とすべきだとして東郷の見解に反対する。結局、鈴木首相が間に入り、まずソ連の参戦防止を第一目的とし、和平交渉はソ連の側の様子をみておこなうという方針が決定された。この会議で、ソ連への参戦防止のため、ソ連への代償として樺太の返還、漁業権の譲渡、満州国の中立化などの条件が決定された。
 この決定を受けて東郷は、ソ連通の広田弘毅元首相を、疎開先の箱根に滞在していたマリク駐日ソ連大使のもとに派遣し、ソ連の意向をさぐることにした。マリクと広田は旧知の間柄であった。しかし2度の会談ではお互いが自らの意見は明確にせず、相手の具体的要求を探る形に終始した。マリクにはソ連の対日参戦の意向は知らされていなかったが、モロトフ外相に対する会談の報告には「具体的な要求を受け取らない限りいかなる発言もできないと回答するつもりだ」と記した。これに対してモロトフはこの立場を支持し、今後は広田からの要請でのみ会談をおこない、一般的な問題提起しかなければその報告は外交クーリエ便だけにとどめよと訓令した。その後、広田とマリクは最後の会談をおこなったが、成果をあげることなく終わった。モスクワにあってソ連の動向を探っていたソ連大使の佐藤尚武はソ連を仲介とした和平交渉の斡旋を求める東郷の訓令に反対する意見を具申したが、東郷の受け入れるところとはならなかった。
 この最高戦争指導者会議の対ソ交渉の決定により、それまでスウェーデン、スイス、バチカンなどでおこなわれていた陸海軍・外務省などの秘密ルートを通じておこなわれていた講和をめぐる交渉はすべて打ち切られることになった。ソ連大使時代に苦労をした東郷はもともとソ連外交の狡猾さを知り尽くしていたはずにもかかわらず、東郷は結果的にはソ連に期待する外交を展開してしまったわけである。これについては、ソ連大使時代から気心を通じていたモロトフ外相の心情に期待したのだという説もあるが、当時外務省で東郷に直接仕えていた加瀬俊一が証言するように、強硬派の陸軍が、ソ連交渉だけなら(中立維持のための交渉という前提で)目をつぶるというふうな態度だったため、東郷はそれに従ったのだ、というふうに解釈されるのが一般的である。また昭和天皇がソ連交渉には好意的であったことも東郷の考えに影響していた。東郷自身はポツダム宣言受諾後の8月15日に枢密院でおこなった説明の中で、米英が「無条件降伏ではない和平」「話し合いによる和平」を拒否する態度だったために話し合いに事態を導きたかったが、バチカン・スイス・スウェーデンを仲介とした交渉はほぼ確実に無条件降伏が前提になるとみられたので放棄し、ソ連への利益提供で日本の利益にかなうよう誘導して終戦に持ち込むことが得策とされたと述べている。
 ソ連側の態度が不明なまま時間は推移していく中、6月22日、天皇臨席の最高戦争指導会議の場で、参戦防止だけではなく、和平交渉をソ連に求めるという国家方針が天皇の意思により決定された。鈴木・東郷・陸海軍は近衛文麿元首相をモスクワに特使として派遣する方針を決め、7月に入り、ソ連側にそれを打診した。しかしソ連側は近々開催されるポツダム会談の準備のため忙しいということで近衛特使案の回答を先延ばしにするばかりであった。こうして7月26日のポツダム宣言に日本は直面することになる。
 ポツダム宣言を知った東郷は、「1.この宣言は基本的に受諾した方がよい 2.但しソ連が宣言に参加署名していないので、ソ連とこの宣言の関係をさぐり、できればソ連を通じて条件の緩和をはかることも考えられる」という結論を出し、参内して天皇と話しあった。天皇は「いろいろな議論の余地もあろうが、原則として受諾するほかはあるまい。近衛にソ連に行ってもらわなくとも、直接に連合国側と交渉できるということは、何かにつけていいのではないか。この際は、戦争終結に力を致してもらいたいと思う。」と述べ、受諾に基本的賛成の立場であった。同時に天皇は宣言の具体的な点についてはソ連を通じた折衝で明らかにしたいという東郷の意見にも賛同し、木戸幸一との会談の後、モスクワでの交渉の結果を待つという東郷の意見を認めた。
 しかし阿南陸相は東郷の見解に猛反対し、ポツダム宣言の全面拒否を主張する。またもともと和平派的立場だった鈴木首相と米内光政海軍大臣は、「この宣言を軽視しても大したことにはならない。ソ連交渉で和平を実現する」という甘い認識のもと、ポツダム宣言には曖昧な見解であった。結局、ポツダム宣言に対しては「受諾も拒否もせず、しばらく様子をみる」ということになった。しかし、アメリカの短波放送がすでに宣言の内容を広く伝えたためこれを無視できないとして、コメントなしの小ニュースとして国内には伝えることとした。だが、7月28日朝刊には「笑止」(読売新聞)「黙殺」(朝日新聞)といった表現が現れた。28日午前に東郷が欠席した大本営と政府の連絡会議では、阿南と豊田副武軍令部長・梅津美治郎参謀総長が政府によるポツダム宣言非難声明を強硬に主張、米内海相が妥協案として「宣言を無視する」という声明を出すことを提案し、これが認められた。同日、鈴木首相の会見は「ポツダム宣言を黙殺する」という表現で報じられた。鈴木は実際には「ノーコメント」と言ったという記者の証言も残されているが、実際の報道は「黙殺」と表現され、連合国はこの古めかしい日本語に対し「reject(拒否)」という意味を与えてしまったのである。
 こうして8月6日のアメリカの広島への原子爆弾投下、8月8日のソ連の対日参戦という絶望的な状況変化が日本に訪れることになる。
 このような事態の急変を受けて、8月9日午前、最高戦争指導会議が開催された。東郷は「皇室の安泰」のみを条件としてポツダム宣言受諾をすべきと主張し、米内海相と平沼騏一郎枢密院議長がこれに賛成した。しかし阿南陸相は、皇室の安泰以外に、武装解除は日本側の手でおこなう、占領は最小限にし東京を占領対象からはずす、戦犯は日本人の手で処罰する、との4条件説を唱え、これに梅津陸軍参謀総長と豊田副武海軍軍令部総長が同意して議論は平行線になった。特に東郷・米内と阿南の間では激しい議論が続いた。「戦局は五分五分である」という阿南に対し「個々の武勇談は別としてブーゲンビル、サイパン、フィリピン、レイテ、硫黄島、沖縄、我が方は完全に負けている」と米内は反論した。また「本土決戦は勝算がある」と主張する阿南・梅津に対し「もし仮に上陸部隊の第一波を撃破できたとしても、我が方はそこで戦力が尽きるのは明白である。敵側は続いて第二波の上陸作戦を敢行するに違いない。それ以降まで我が方が勝てるという保証はまったくない」と東郷は主張した。
 この会議の中、長崎に第二の原子爆弾が投下されている。会議は深夜にいたり、天皇臨席の御前会議となった。鈴木首相は議論の収集がつかない旨を天皇に進言、結論を天皇の聖断にゆだねる旨を述べた。天皇は外務大臣の案に同意であると発言、またその理由として陸海軍の本土決戦準備がまったくできていないこと、このまま戦いを続ければ日本という国がなくなってしまうことなどを述べた。こうしてポツダム宣言の受諾は決まった。その受諾案において東郷は「皇室の安泰」という内容を(国体護持を講和の絶対条件とする抗戦派への印象を和らげるため)「天皇の国法上の地位を変更する要求を包含し居らざることの了解の下」としていたのに対し、平沼の異議を受け「天皇の国家統治の大権に変更を加うるが如き要求は之を包含し居らざる了解の下」と変更が加えられた上で、天皇が受諾を決定したのである。
 東郷は原爆投下について、スイス政府などを通じて抗議するように駐スイスの加瀬俊一公使へ指示するに促し、「大々的にプレスキャンペーンを継続し、米国の非人道的残忍行為を暴露攻撃すること、緊急の必要なり… 罪なき30万の市民の全部を挙げてこれを地獄に投ず。それは「ナチス」の残忍に数倍するものにして…」と述べた。また宣戦布告を通告してきたマリク・ソ連大使に向かって直接、中立条約に違反したソ連の国際法違反に厳重に抗議をしている。
 日本の降伏に関して、天皇や皇室は終戦後の日本の混乱を収拾するために必要な存在であると認識は、連合国の政府に少なからず存在した。しかし「天皇の統治大権に変更を加えない」という受諾案はアメリカ首脳の間に波紋を与えた。トルーマン大統領は、ホワイトハウスで開いた会議で「天皇制を維持しながら日本の軍国主義を抹殺することができるか、条件付きの宣言受諾を考慮すべきか」と問いかけた。出席者の中でフォレスタル海軍長官やスティムソン陸軍長官、リーヒ海軍元帥は日本側回答の受諾を主張したが、外交の中心人物であるバーンズ国務長官が「なぜ日本側に妥協する必要があるのかわからない」と反論して、トルーマンがこれに賛同する。フォレスタルが「(連合国側が)降伏の条件を定義する形で日本の受諾を受け入れる」という妥協案を示し、トルーマンがこれを受け入れてバーンズに回答文の作成を命じ、天皇皇室に関しては曖昧にこれを認めるという回答文が日本側に8月12日に提示されることになった。
 この「バーンズ回答」によると、天皇は「連合国最高司令官の権限に従属する(subject to)」こと、そして「天皇制度など日本政府の形態は日本国民の意思により自由に決定すること」と記されていた。これは巧みな形で天皇・皇室の維持を認めている曖昧な文章であった。阿南陸相、梅津参謀総長などはこの回答に対し、天皇皇室に関して曖昧なので連合国に再照会すべきだと強硬に主張し、ふたたび政府首脳は議論の対立に陥った。東郷と米内海相は再照会は交渉の決裂を意味するとして反論したが、当初はポツダム宣言受諾に賛成していた平沼枢密院議長が陸軍に同意するなどして事態は混乱、12日深夜、失意と疲労に満ちた東郷はいったん辞任を表明しかけてしまう。東郷の辞意に驚いた鈴木首相は再度の御前会議により事態の収拾をはかることを東郷に約束、辞意を翻させた。
 こうして14日、昭和天皇が二度目の「聖断」として東郷支持を涙を流して表明したことにより、陸軍の強硬派もようやく折れ、ポツダム宣言受諾を迎えた。阿南は終戦の手続きに署名したのち論敵だった東郷を訪れ、「色々とお世話になりました」とにこやかに礼を述べ、東郷も「無事に終わって本当によかったです」と阿南に礼を述べた。あらゆる意味で几帳面な東郷は宣言受諾に際し、連合軍先方に、日本陸軍の武装解除は最大限名誉ある形にしてもらいたいと厳重に注意通告し、阿南はそのことを東郷に感謝していると述べて立ち去った。阿南は鈴木首相にも別れを告げたのち、翌15日未明、自殺する。人前で涙など見せたことのない東郷だが、阿南自決の方に「そうか、腹を切ったか。阿南というのは本当にいい男だったな」と落涙した。
 戦争終結後、東郷は東久邇宮内閣に外相として留任するよう要請されたが、「戦犯に問われれば、新内閣に迷惑がかかる」として依頼を断り、妻と娘のいる軽井沢の別荘に隠遁した。しかし、「真珠湾の騙し討ちの責任者」という疑惑を連合国側からかけられて、9月11日に東條元首相とともに真っ先に訴追対象者として名前が挙げられた。終戦の翌年の1946年5月1日に巣鴨拘置所に拘置されて、翌月には極東国際軍事裁判が開廷された。
 弁護人には同じ鹿児島県出身であり、最初の外務大臣時代の外務次官だった西春彦(後の駐英大使)と、アメリカ人弁護団唯一の日系人であるジョージ山岡らが付き、娘婿の東郷文彦が事務を担当した。
 裁判は1947年(昭和22年)12月15日に東郷の個人反証に入った。この日「電光影裏、春風を斬る」とその心境を色紙にしたためて望んでいる。検事側と東郷・弁護人らの激しい応酬が繰り広げられた。特に巣鴨拘置所での嶋田繁太郎元海軍大臣とのやり取り(開戦の時の証言で「摺り合せを要求された」と東郷が受け取った件)について紛糾して当時の話題となった。開戦時及び終戦時に外相の地位にあった東郷は、対米開戦の際海軍は無通告攻撃を主張したが「余は烈しく闘った後、海軍側の要求を国際法の要求する究極の限界まで食い止めることに成功した。余は余の責任をいささかも回避するものではないが、同時に他の人々がその責任を余に押し付けんとしても、これに伏そうとするものではない。」と、如何に軍国主義者と対立してきたかを、口述書に述べた。これに対して、永野修身の担当弁護人のジョン・ブラナンが、海軍が無通告攻撃を主張した証拠があるのか、と東郷に質問した。すると、「裁判が開廷してから、嶋田と永野から、海軍が奇襲をしたがっていたことは言わないでくれ」と脅迫を受けたかのような証言をした。この発言を「海軍の名誉に関する重大事」と判断した嶋田は、証言台において「よほど彼の心中にやましいところがなければ、私の言ったことを脅迫ととるはずかない。すなわち彼の心の中にはよほどやましいところがある。と言うのが一つの解釈。」また「まことに言いにくい事ではありますけども、彼は外交的手段を使った。すなわち、イカのスミを出して逃げる方法を使ったと。すなわち言葉を変えれば、非常に困って、いよいよ自分の抜け道を探すためにとんでもない、普通使えないような『脅迫』という言葉を使って逃げたと。」と反論した。東郷個人としては、昭和において自分が体験・経験した事を全て公にする事によって日本、そして自分自身の行動が連合国側の指摘するような「平和に対する罪」に該当する事を否定する事を主眼においており、決して悪意あるものではなかったが、被告人の間でも見解が異なる事も決して少なくなく、嶋田の弁護人だった法制史学者の瀧川政次郎を始め、被告人・弁護人達の批判の対象となった。
 それ以外にも、木戸幸一が、天皇が、和平を望む発言をしたことを自分に伝えなかったこと、梅津美治郎が前述の通り本土決戦を主張し、和平を拒み続けたことも述べた。特に梅津とは声を荒らげてやり合う場面も見せ、木戸に対しても、木戸の担当弁護人のウィリアム・ローガンが尋問を開始しても発言を止めず、しびれを切らしたローガンが「貴方は木戸を好かないのでしょう」と言う場面もあった。
 このように、結果的には自分の立場のみを正当化する主張に終始したと見られたことを、重光葵は「罪せむと罵るものあり逃れむと 焦る人あり愚かなるもの」と歌に詠んで批判している。
 1948年(昭和23年)11月4日、裁判所は東郷の行為を「欧亜局長時代から戦争への共同謀議に参画して、外交交渉の面で戦争開始を助けて欺瞞工作を行って、開戦後も職に留まって戦争遂行に尽力した」と認定して有罪とし、禁錮20年の判決を下された。
 東郷は後に「法の遡及」を行い、「敗戦国を戦勝国が裁く」というこの裁判を強く批判する一方で、国際社会が法的枠組みによって戦争を回避する仕組みの必要性があり、新しい日本国憲法第9条がその流れに結びつく第一歩になることへの期待を吐露している。だが、1960年(昭和35年)の日米安全保障条約改訂において、憲法第9条の精神を尊重することを重視して軍事的な同盟では平和がもたらされないと考える西春彦や石黒忠篤(東郷の親友、当時参議院議員)らと交渉の担当課長として日本の平和と安全のためには条約改訂は欠かせないとする東郷文彦らが激しく対立して、後に文彦が著書で暗に西を非難するという、東郷の遺志を継ぎたいと願う人達が対立するという事態も発生している。
 東郷は以前から文明史の著書を執筆して戦争がいかにして発生するのかを解明したいという考えを抱いていたが、心臓病の悪化と獄中生活のためにこれを断念し、替わりに後日の文明史家に資するために自己の外交官生活に関わる回想録の執筆を獄中で行い、『時代の一面』と命名する。だが、原稿がほぼ完成したところで病状が悪化、転院先の米陸軍第361病院(現同愛記念病院)で病死した。

東郷茂徳4 時代の一面

 しかしこの獄中で執筆した大戦外交の手記ともいえる「時代の一面」には、起草のメモ書きが外伝として遺されている。また、手記からは一切感じられないが、余命と向き合うこの外伝には「祖先は韓国人であり、妻はドイツ人であった。五歳の時に「朴」から「東郷」に姓を変えた」という葛藤の内心が吐露されて綴られている。漱太郎はこれらの手記や外伝の解析を試みる経過の中で「我々日本人は60余年前、何に、どう負けたのか。負けてどうなったのか。これを知ることなしに、いかなる勉強も意味を持つことはないのではないだろうか」という課題を抱かされてきた。

 東郷茂徳が太平洋戦争の開始時と終戦時の外務大臣で、戦後東京裁判でA級戦犯として懲役20年の判決を受け、その2年後に病死したことは既にのべた。後に亡骸(なきがら)は靖国神社に祀られて今にいたっている。そんな東郷が明治15年に生まれた時は「朴茂徳」という名前で、5歳の時の明治19年に「東郷茂徳」となったことは、それは名前から分かるように、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に島津藩に拉致された朝鮮人陶工集団の子孫であったことに起因する。
 なぜ名前を変えたかについて、日本社会からの厳しい差別のまなざしを避けるために、他家への入籍・分籍という戸籍操作によって日本式の名前に変えざるを得なかった、という説が流布していたが、この通説については、明治19年ごろに既に朝鮮人差別があったということになり、少し不可思議だと漱太郎も感じていたのだが、萩原延寿『東郷茂徳 伝記と解説』をみると、名前を変えたのはそのような理由ではないことが記されている。
 東郷の故郷の苗代川は、上述の歴史的経緯をもった陶工人の村で、ほとんどが朝鮮姓であった。彼らは気位が高く、薩摩藩では士族と同等の扱いを受けていた。ところが、明治5年の壬申戸籍作成の際に、彼らは平民身分とされてしまった。これに対して「士族編入之願」を繰り返し願い出たが、すべて却下される。何とか士族になろうとして、没落士族から「士族株」を購入して戸籍を変え、「士族」身分と記載されるようになった、という経緯があった。つまり西南戦争後の鹿児島は貧窮士族が多く、士族株の売買が可能だったのである。「朴」家も明治19年に「東郷」家と名前を変えた。これは民族差別ではなく、江戸時代から続く身分差別に起因するものであった。

薩摩焼 薩摩焼(白さつま)

 豊臣秀吉の朝鮮出兵の折、島津義弘が連れ帰り、東市来町美山に住み着いて薩摩焼きを興した43人の朝鮮人陶工たちがいた。彼らこそが鹿児島県を代表する工芸品である薩摩焼の技法を、美山に花咲かせた陶工たちなのである。東郷茂徳はその末裔として1882年(明治15年)に生まれたことになる。茂徳の父、朴寿勝(じゅかつ)は優れた陶工であり、1886年(明治19年)には士族株を購入、東郷姓に改めた。長男の茂徳は大変な勉強家で、第七高等学校(現・鹿児島大学)時代のドイツ語教師(片山正雄)との出会いを通して、またこの片山から紹介された登張信一郎と交流するようになり、ドイツ文学に興味を持つようになった。

 その片山孤村(かたやまこそん)・本名(正雄)は、明治-昭和時代前期のドイツ文学者である。明治12年8月29日に山口県に生まれ、東京帝大卒、三高教授などをへて九州帝大教授となる。大正4年ドイツ語辞典の執筆に着手し,昭和2年わが国最初の本格的な独和辞典「双解独和大辞典」を完成させた。昭和8年12月18日死去(55歳)。著作に「最近独逸文学の研究」などがある。
 登張竹風(とばりちくふう)・本名(信一郎)もまたドイツ文学者である。1873年10月2日広島県江田島に生まれ、広島中学(現広島国泰寺高校)、山口高等中学校を経て東京帝国大学卒業する。母校旧制山口高校教授として赴任、当時の同僚に西田幾多郎、教え子にやがて法科に転じた河上肇やドイツ文学者として知られた片山孤村がいた。1901年、高山樗牛が「美的生活論」を発表すると、「美的生活論とニイチエ」を発表して樗牛に賛同し「美的生活論争」を惹き起こした。1902年『ニイチェと二詩人』『気焔録』でニーチェ主義を標榜する。東京高等師範学校教授となったが、その唱道する超人思想を危険視され職を追われた(当時の新聞は少年臀肉切取事件の裁判批判の筆禍で辞職と報じたが、誤解)。その後一時新聞記者をした後、本能に基く美的生活を高唱した小説『あらい髪』を書いて文名を高めた。1910年、第二高等学校に赴任、その磊落な気風から土井晩翠、粟野健次郎とともに二高の三大名物教授と称される。1927年、定年前に退職、帰京して再び浪々生活の後、法政大学、上智大学、満州建国大学教授を務めた。文壇でも特異の論調を張り、個人主義思想に多大な影響を与え、同年代の姉崎嘲風、笹川臨風と並び明治の三風として聞こえた。1908年、自然主義全盛の時代に泉鏡花とともにハウプトマンの幻想劇『沈鐘』を訳し、1921年『ツァラトゥストラ』の序章を親鸞に則して訳註、論評した『如是経序品』を著し、1935年には全訳を『如是説法ツァラトゥストラー』として刊行した。ニーチェを我国に初めて紹介、また初の独和辞典『大独和辞典』(1912年)の編纂でも知られ、日本における独文学界の草分けの一人である。泉鏡花の小説『婦系図』の登場人物・酒井俊蔵のモデルという説もあるが、これは定かではない。

 それでは東郷茂徳と、登張竹風との交流の中に伊東マンショとの関係を明らかにしたい。東郷は1912年(大正元年)に外務省に入省したころに登張竹風の出身地(江田島)を訪れた。そうして二人は登張の出身校である津久茂小学校の校庭で語らい、古鷹山の山頂(標高392メートル)から江田島の海をながめた。その山頂からは、東に呉湾、灰が峰、西に宮島弥山、南に四国石槌の連峰、北は向宇品広島市の眺望が広がる。鏡のごとくすむ江田島の海、松籟(しょうらい)を聞きながら山頂の岩肌に腰を下ろしてみると、登張は自身が日向伊東一族の末裔であることを静かに語りはじめた。写真は漱太郎が訪れて写したその山頂である。

古鷹山山頂(江田島) 古鷹山山頂(江田島)

 現在の江田島は、広島湾の中心に位置し、東西約5、5キロ、南北約12キロ、周囲約36、8キロの島で、南は佐伯郡能美島大柿町と陸続きで接している。北は、海上約8、3キロを隔てて広島市と向かい合い、高速艇で江田島切串港から広島宇品港まで14分、小用港から宇品港まで20分、フェリーボートで切串港から宇品港まで30分である。東は、海上約6、5キロを隔てて呉市と相対し、小用港から呉港までフェリーボート20分の運行もあり、なお、南部陸続きで早瀬大橋、音戸大橋を経て本土と結ばれている。しかし、古代の江田島(約1千年前)は、安摩庄に属し、わずかな漁民が住んでいたが、中世の戦国時代から落武者や庶民が渡り住んで先住民ととともに浦々を開いてきた。当時、四国の河野秀清は細川頼之に敗れて能美島の松尾山にその弟の通重は江田島亀山(鷲部)に逃れて、江田島全島を押領し、後に姓を吉原、更に久枝と改めて明治初年まで代々庄屋を務めている。この流れとは別に、天正5年(1577)12月、日向の伊東三位入道義祐は島津の猛攻に耐えかね、ついに日向から逃げ出し豊後の大友宗麟を頼ることになった。世に名高い伊東の豊後落ちであるが、一族に連なる一人の人物が放浪を経て江田島に流れ落ちた。
 米良山中を経て、高千穂を通って豊後に抜けるルートを通るこの豊後落ちの道程、女子供を連れての逃避行はかなり辛く苦しく、また険峻な山を猛吹雪の中 進まねばならず、当初120~150名程度だった一行は、途中崖から落ちた者や、足が動かなくなって自決したものなどが後を絶たず、また島津からの追撃や山賊にも悩まされ、豊後国に着いた時はわずか80名足らずになっていた。以後の経緯は省くことにするが、その落武者の一人が黒木宗右衛門尉である。
 豊後に到着した義祐は大友宗麟と会見し、日向攻めの助力を請うた。宗麟はその願いを受け、また自身も日向をキリスト教国にする野望を抱き、天正6年(1578年)に門川の土持氏を攻め滅ぼし、耳川以南で島津氏と激突(耳川の戦い)する。しかし大友氏は島津氏に大敗を喫してしまう。大友氏の大敗は、居候同然の義祐一行への風当たりに繋がり、また宗麟の息子が祐兵夫人を奪おうとしているとの噂があったため、義祐は子の祐兵(すけたけ)ら20余人を連れ(義賢は大友に残される)伊予国に渡って河野氏を頼り、河野通直の一族・大内栄運の知行地に匿われた。その後、天正10年(1582年)に義祐らは伊予国から播磨国に渡る。そこで祐兵は織田信長の家臣・羽柴秀吉に仕えていた同族の伊東長実の縁を得て、その斡旋で秀吉の扶持を受けるようになった。この時、義祐は秀吉への謁見をすすめられたが「流浪の身たりとも、藤原三位入道が何ぞ羽柴氏に追従せむ」と返答し、頑なに謁見を固辞したという。祐兵の仕官を見届けた義祐はしばらく播磨国に留まっていたが、天正12年(1584年)に黒木宗右衛門尉と共に中国地方を気儘に流浪し、やがて周防国山口に至って旧臣宅に滞在した。その後義祐は黒木を撒いて独りで旅をしていたが、病に侵され祐兵の屋敷のある堺へ向かった。しかし便船の中で病衰し、面倒を嫌った船頭に砂浜に捨て置かれた。偶然にもそれを知った祐兵の従者に発見され、堺の屋敷で7日余り看病を受けたものの、甲斐無く死去した。享年73であった。片や義祐と行きはぐれた黒木宗右衛門尉は主人の行方を探し求めながら、伊予国河野一族の伝手(つて)もあり江田島の亀山(鷲部)に逃れた。その黒木宗右衛門尉は後に姓を登張(とばり)と変えた。このような見聞の回想が東郷茂徳の獄中の外伝には記されている。またその登張(黒木宗右衛門尉)の後談によると、伊東三位入道義祐の放浪の目的の一つに、豊後国にて逸れた外孫祐益(後の伊東マンショ)の捜索があった。息子祐兵が仕官を果たしたのであるから、再会の機を得られるならば祐兵のもとで血縁を復帰させてあげたかった。そうであるなら主人義祐と逸れた黒木宗右衛門尉の胸の内にも祐益の行方が後々まで遺された。

登張竹風の生家跡 登張竹風の生家跡

 登張竹風からそのような話を聞かされた東郷茂徳は、そのとき自身が陶工「朴」の末裔であることを自覚させられたという。東郷茂徳の曾祖は伊東マンショと同時代の人だからである。またこれはコラムNo.0008で述べたが、佐賀藩の書家・洪浩然(こうこうぜん)の名を東郷は同時に思い浮かべるのであった。初期の薩摩焼(苗代川焼)においては豊臣秀吉の文禄・慶長の役の際に、捕虜として連行されてきた朝鮮人が島津義弘の保護の下に発展させた。同じく浩然は鍋島直茂軍に捕らえられ、佐賀城下に連行された後、京都五山で学び、儒学と書の大家として初代藩主勝茂に厚遇される。つまりこの二つは祖国を等しくする。この時点で、伊東マンショと洪浩然の接点など知る由もない東郷なのであるが、登張竹風と過ごした江田島での時間は、東郷の心情をさらなる中世へと誘うようになった。
 そうして東郷茂徳が再び広島を訪れたのは4年後の1915年である。8月5日に開館した「広島県物産陳列館」の式典に、登張竹風、片山孤村と共に主席した。これはこの一年前に奉天総領事館(現中国の瀋陽)に赴任した東郷が一時帰国した際に片山孤村の招きに応じたものであった。ドイツ文学を通じて三者の交流はドイツ様式の建築美術までに興味をそそぐようになる。この折りに東郷はチェコ人の建築家ヤン・レッツェル(Jan Letzel)と面識をもつ。その翌年1916年(大正5年)に東郷はスイス・ベルン公使館開設に伴い、外交官補として赴任し、1919年(大正8年)には対独視察団の一員としてベルリンへ赴任することになった。ベルリンの滞在は約2年間である。このときドイツは、第一次世界大戦敗戦後に成立したワイマール共和国下での、カップ一揆が勃発するなどの混乱期にあったが、日独関係は比較的安定した状態にあった。東郷はこの赴任時にドイツ人エディ・ド・ラロンド(建築家ゲオルグ・デ・ラランデの未亡人)と出会い、恋仲となる。仲介者はヤン・レッツェルである。ドイツから帰国後、反対する両親を説得して、1922年(大正11年)帝国ホテルで挙式した。

聖心女子学院の正門 聖心女子学院の正門

 現東大医学研究所の北側に隣接して聖心女子学院の正門がある。これも建築家ヤン・レツルの作品である。校舎もレツルの設計であったが、関東大震災で倒壊し正門しか現存していない。シォン風に日本の城門のイメージをいかした瓦屋根を使って不思議な雰囲気を醸し出してる。写真は漱太郎が写したものであるが、通りから緩やかな坂になっている並木道の突き当たりが正門である。この女学院の風景を東郷はこよなく愛し好んだ。建物の前には誰もが佇めるが、建築という芸術の深淵には、なかなか触れにくい。だが東郷は、その建築の奥庭に咲く花を、そっと剪(き)って素人にも手渡してくれる。獄中で綴った外伝にはネオ・バロック的およびゼツェシオン風建築の美学が記されていた。

聖心女子学院の正門2

 そのネオバロック様式(Neo‐Baroque style)とは、フランスでナポレオン3世の第二帝政の出現(1852)とそのパリ改造計画(1853‐70)を契機として起こったバロック建築様式の復興をいう。ビスコンティLudovico Visconti(1791‐1853)とルフュエルHector M.Lefuel(1810‐81)は,ルーブル宮殿新館でイタリア・バロック風の彫塑的な壁面とマンサード屋根を組み合わせ,これは,いわゆる〈第二帝政式〉として流行した。また,C.ガルニエのオペラ座(1861‐74)はその豪華壮麗さで世界を驚かせ,当時帝国主義的競争の渦中にあった先進諸国は,ネオ・バロック様式こそ国家の威信を最もよく表現する建築様式とみなして,いっせいに採用するようになった。例外なく日本(明治政府)においてもそうであった。しかしこのネオバロック様式の美を咀嚼するためにはバロック建築様式の時代へと興味は移行する。東郷茂徳もそうであった。彼はドイツ文学を基軸に、自身が陶工「朴」の末裔であることを念頭に、中世の建築へと思いを馳せている。東郷は外伝の中で「私の時代(明治から大正)に眺めみれるネオ・バロックの様式美とは、伊東マンショの見たバロック建築様式が原型なのであるから、マンショの体験が隔世を超えて今日の日本に根付くことを慮(おもんばか)ると、眼を閉じてみたまえ、その時、きみに見えるもの、きみの驚きはそれだ」と記している。東郷茂徳享年68は、獄中の病棟で閉じた眼の内に中世の肖像をみて旅立った。・・・・・この続きは立体言語学から導く「中世の肖像」④後編でご紹介する

C.ガルニエのオペラ座 C.ガルニエのオペラ座


                                             三馬 漱太郎

聖マンショ伝「帰らざる丘」・No.0029

立体言語学から導く「中世の肖像」②中編Ⅰ

ヤン・レッツェル ヤン・レッツェル

 ポーランド国境に近いボヘミア・ナーホトで生まれた設計者ヤン・レッツェルは、1900年プラハで美術専門学校に入学し、ヤン・コチェラ教授の指導を受ける。彼はコチェラから石やコンクリートによるシンプルな近代建築の手法の影響を受けたほか、ユーゲント・シュティールやアール・ヌーヴォーの影響も吸収した。エジプトで働いた後、1907年(明治40年)に来日、ゲオルグ・デ・ラランデの事務所を経て1909年に独立する。そうして1918年、チェコ独立後、公使館の臨時商務官を務めた。関東大震災の直後に、チェコに帰国し、1925年にプラハで死去することになる。

日清戦争 日清戦争

 当時の広島市は、日清戦争で大本営がおかれたことを契機に軍都として急速に発展していった。経済規模の拡大とともに、広島県産の製品の販路開拓が急務となっていた。その拠点として計画されたのが「広島県物産陳列館」である。1910年(明治43年)に広島県会で建設が決定され、5年後の1915年(大正4年)に竣工した。
 そのヤン・レッツェルの前に師であるゲオルグ・デ・ラランデについて触れる。George de Lalande(1872年-1914年)はドイツ出身の建築家である。日本で設計事務所を開き、風見鶏の館(神戸市)をはじめとする作品を残した。彼はドイツのヒルシュベルクで建築家の家に生れ、ベルリン工科大学を卒業し、上海、青島で仕事をした後、日本を訪れている。先に日本で事務所を開いていたドイツ人リヒャルト・ゼールが帰国したため建築設計事務所を引き継いだ。実績としてはドイツ世紀末の様式であるユーゲント・シュティールの高田商会(1914年築・関東大震災で罹災、現存せず)などで知られている。そうして朝鮮総督府の仕事のため京城(ソウル)へ出張中に肺炎で倒れ、内地に戻って亡くなった。故人の妻エディは、子どもを連れてドイツに帰国したが、後に外交官・東郷茂徳(後の外務大臣)と再婚した。歴史とはまことに皮肉なエピソードを潜ませるもので、この東郷茂徳と形骸となる原爆ドームとは密接な関係で奇縁を結ぶことになる。

ゲオルグ・デ・ラランデ ゲオルグ・デ・ラランデ

東郷茂徳 東郷茂徳

 1888年(明治21年)、日本の官庁集中計画をドイツのエンデ・ベックマン事務所が引き受けることになった。明治21年といえば、5年前に鹿鳴館が完成し、大日本帝国憲法が発布される前年である。この年日本で初の本格的喫茶店が「可否茶館」と言う名で下谷黒門に登場した。店内には玉突き台やトランプ、内外の新聞雑誌等を置き、更衣室や200坪の庭もあり、コーヒー1銭5厘、牛乳2銭という豪華な喫茶店だったようで、多くの文士などが訪れている。が、もり蕎麦が1銭程度の頃で、しかも苦いものが美味しいとされていない時代だけに、さほど人気にはならず、数年で閉店になった。喫茶店が再びブームとなって脚光を浴びるのは、その後30年以上経てからである。さらにこの年の土日にかけて鎌倉、江ノ島、箱根方面へ遊覧客や避暑客が押し寄せるようになり、この頃から週末のレクリエーションや避暑が広がってゆく。夏と言えば、現在も懐かしい飲み物として売られている「ラムネ」が登場したのもこの年である。当時は「玉ラムネ」と呼ばれ、大阪酒造組合が日本橋に支店を出店して販売したのが、瓶の中にガラス玉が入った玉瓶で、その斬新さからとても人気だったようである。そしてこの後数年してブームとなったのが、この玉を取り出して遊ぶビー球遊びであった。皇居及び二重橋が完成し、以降「宮城」と称する事を宮内庁が告示したのもこの年、明治21年であった。

エンデ・ベックマン建築事務所員 エンデ&ベックマン建築事務所員

外務卿時代の井上馨 外務卿時代の井上馨

 日本の外務大臣井上馨は、西洋式の建築による首都計画(官庁集中計画)により近代国家としての体制を整えようとしており、1887年、エンデ=ベックマン事務所と日本政府は契約を結んだ。ベックマン、エンデ、所員のヘルマン・ムテジウス、リヒャルト・ゼール、カルロス・チーゼ技師(煉瓦製造)、ブリーグレップ博士(セメント製造)、ジェームス・ホープレヒト(ベルリン都市計画の父と呼ばれる)ら総勢12名が来日し、計画に関わることになる。まずベックマンらが来日し、都市計画などの案を作成した。当初の計画(ベックマン案)では日比谷・霞ヶ関付近に議事堂、中央官庁などを集中して建築する壮大な都市計画案であったが、後に縮小される。エンデはベルリンで作成した設計図を持って、翌1887年に来日する。奈良や京都などの社寺も見学して、同年帰国した。(その後、日本の古建築のデザインを採り入れた和洋折衷様式の議事堂計画案なども作成したが、採用されなかった)。
エンデの帰国後まもなく、井上が条約改正の失敗により失脚したことで官庁集中計画は破棄された。議事堂・司法省・裁判所の3棟については設計が続けられたが、結局、1890年にはエンデ=ベックマンに契約解除が通告された。後にエンデ=ベックマン設計の司法省、裁判所だけが実現したことになる。しかしリヒャルト・ゼールはその後も日本に留まり、1896年に横浜で建築設計事務所を開設し、教会堂やミッションスクールの工事を主に手がけた。

リヒャルト・ゼール(同志社大学クラーク記念館) リヒャルト・ゼール設計(同志社大学クラーク記念館)

 このようなドイツ人技師の繋がりある関わりの中で広島県物産陳列館(後の原爆ドーム)は建設されることになるのだが、そうしてこのドイツとの奇縁を結びつけるものがバームクーヘンでもあった。

バームクーヘン

 そう、ドイツの伝統菓子、バウムクーヘンである。ドイツでは「Der König der Kuchen お菓子の王様」と称えられ、ドイツ菓子組合のシンボルにもなっている、特別なお菓子でもある。このバウムクーヘンを、日本で初めて焼きあげた人物がドイツ人のカール・ユーハイムなのであった。

カール・ユーハイ カール・ユーハイ

 1908年(明治41年)にそのカール・ユーハイムは青島(チンタオ)、ホーエンツォレルン通りの菓子店に勤め、翌年1909年に店を譲り受け、独立する。1913年(明治45年・大正元年)に、青島、プリンツ・ハインリッヒ通り14番地に、菓子・喫茶の店ユーハイムを開店させた。しかしそのカール・ユーハイムは、第一次世界大戦の捕虜として日本へ連行され、5年間の収容所生活を余儀なくされる。だが1919年(大正8年)3月4日~12日に広島県物産陳列館(現原爆ドーム)でバウムクーヘンを出品・即売することになる。その後、ドイツ人ユーハイム夫妻は日本を永住の地と定め、横浜に会社設立(1921年)。翌年3月、日本における一号店を開設した。しかし1923年(大正12年)9月1日、関東大震災で横浜の店が倒壊し、避難船に乗って神戸へ移住。エキゾチックな元町居留地を目の前に見る元生田署前に夫婦でユーハイムを開設する。このユーハイムが六甲山上で他界したのは1945年、終戦の前日(8月14日)のことであった。そうしたカール・ユーハイムは、純正素材がおいしさの秘密(Exquisiter Geschmack durch feinste Zutaten)、一切れ一切れをマイスターの手で(Stück für Stück von Meisterhand)、革新が伝統を築く(Tradition durch Innovation)という菓子づくりの精神を貫いた。

カール・ユーハイ2 カールとエリーゼ

 こうした創業者の精神は、婦人エリーゼ・ユーハイムによって小さく、ゆっくり、着実に3S(small, slow, steady)の堅実な経営方針によって現在に継承されている。1947年、主人を亡くしたエリーゼ・ユーハイム一家は連合軍の命によりドイツへ強制送還となるが、ユーハイムと運命を共にした従業員がユーハイムを再興し、組織を株式会社に改め、生田神社西に店舗を設立しつつ、1953年(昭和28年)にエリーゼ・ユーハイムを再び日本に迎えることになった。このような経緯に深く関わるのが、東郷茂徳の妻エディー(元ゲオルグ・デ・ラランデ婦人)なのであった。やがて1959年(昭和34年)、ユーハイムは東京に渋谷店を開設し、さらに翌年、神戸・住吉に本社、並びに工場を建設することになる。また1963年(昭和38年)には「株式会社ユーハイム商店」を「株式会社ユーハイム」に変更しほぼ日本全国の主要百貨店に出店する。やがて(1971年)5月2日、エリーゼ・ユーハイムは六甲山の麓で他界することになるのだが、この折りの遺品の中に東郷茂徳の妻エディー(東郷エヂ)が遺した日記と元夫ゲオルグ・デ・ラランデの記録ノートが発見されることになった。これが「伊東マンショ」と「ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz)」との接点を結びつける貴重な資料なのである。

 そのライプニッツ(1646年7月1日- 1716年11月14日)は、17世紀中期から18世紀初期にかけて哲学者、数学者、科学者など幅広い分野で活躍した学者・思想家として知られているが、政治家であり、外交官でもあった。17世紀の様々な学問(法学、政治学、歴史学、神学、哲学、数学、経済学、自然哲学物理学、論理学等)を統一し、体系化しようとした。その業績は法典改革、モナド論、微積分法、微積分記号の考案、論理計算の創始、ベルリン科学アカデミーの創設等、多岐にわたる。

ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ2 ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ

 そんなライプニッツは稀代の知的巨人といえるのだが、その彼が、どうして見知らぬ東洋の伊東マンショに注視したのかは、いかにも不可思議である。しかしこの不可思議に直面したときに、ライプニッツのイノベーション(中世時代を省みた新しい活用法)の彼方が見えてくる。東郷茂徳の妻エディーが遺した日記には(伊東マンショと東郷茂徳とユーハイムとの関わり)が記され、ゲオルグ・デ・ラランデの記録ノートからは(東郷茂徳とライプニッツとの関わり)が読み解ける。そうして両記を折衷すると(ライプニッツと伊東マンショとがイノベーション上で符合する)こととなる。ここにはまた、広島県物産陳列館(後の原爆ドーム)の設計者ヤン・レッツェル、日本で最初にバームクーヘンを作って紹介したカール・ユーハイム、その夫人のエリーゼ・ユーハイム、外交官・東郷茂徳(後の外務大臣)、その夫人のエディー(東郷)、そうしてゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツからなる6名の成した「仕事」から絡み織られた中に、イノベーションとしての伊東マンショが介在することになる。

 その「仕事」とは、広義には人の能動的な活動全般をさすが、物理的には物体に力が働き、それが動いた時、力が物体に仕事をし、物体は外力から仕事を受けたという。この物理的な仕事概念が、ぼんやりとした形であれ、知覚されたのは太古の巨石時代であった。通常の人力を超えた「大きな力」が、物理の仕事を、広い意味での人間の仕事から分離させたのだ。それより前の狩猟採集の時代には、投げる、打ち込む、持ち上げる、持ち歩く、引っ張る、担ぐなどといった動作を一人か二人、もっと多くなってもチームワークでまかなうことができた。農業が始まり、剰余生産物をめぐって支配と侵略が横行し、王のための宮殿や墳丘墓が築造されるようになり、一時に10人、100人の規模の労力が必要となった。人力では間に合わず、丸太(コロ)、楔、テコ、滑車などといった道具が使われた。全体の労力が莫大となれば、一人当たりの労働者に加わる力も増え、危険もそれなりに増す。当時の労働者の多くは被征服民衆であり、現場監督者は同じ仲間で知能の優れた者であったから(支配者は、そうすることで巧妙に仕事の能率を高めた)、監督者は仲間の労働を少しでも軽減しようとしてこれらの単一機械を発明したと思われる。古代ギリシャの人々は、これらの機械によって力を節約したとき、ふと気がついた。「力を半分にすると、力による移動距離は2倍に伸びる。力は節約できたが、力と移動距離との積は、少しも節約できないではないか」。こうした歴史の過程を踏まえて、ライプニッツは力学の黄金法則を導き出すことになった。
 そしてこの「力と移動距離の積は一定である」ということを「力学の黄金法則」と呼んだのだ。この力学の黄金法則がアラビアを経てヨーロッパに伝えられ、19世紀の前半、フランスの土木技師にして物理学者グスタフ・ガスパール・コリオリ(1792-1843)が、それをひとつの物理量として扱ったらどうかと提案した。パリ大学物理学科のポンスレー教授が賛成し、【kg×m】という単位を提案した。仕事ができるのも、仕事をする能力を蓄えているからで、それをエネルギーと呼ぼう、という発想がそこから生まれた。仕事を、ギリシャ語でエルゴンという。それに接頭語エンを付けて、エン・エルゴン、これがエネルゴンとなり、ドイツ語でエネルギー、英語でエナジイとなったのだ。
 このエネルギーが単一概念として成立したのは19世紀半ば。こうして、WorkDone(なされた仕事量)という概念と量が物理量として確立されたのである。もっとも、それ以前にもガリレイは「仕事」の概念を持っていたし、ライプニッツは運動エネルギーに当たるものを「活力」と名づけていた。18世紀にはベルネーイが初めて「エネルギー」という言葉を使い、また高いところにあげられた物が持つ位置エネルギーを「潜力」と呼び、運動エネルギーとの変換を論じた。
 数学には記号がつきものだとおもわれている。そんなことはない。数学記号がないころから数学はさかんだったし、数式が言明しているメッセージ内容には、必ずしも記号は躍っていない。
 数学的能力と記号的能力も、べつものである。記号の力を借りない数学的思考はいくらでも可能だし、既存の数学に対応していない記号的思考はいくらでもある。急に引き合いにだすけれど、三浦梅園やウンベルト・エーコには記号的能力はあろうが、数学的能力はほとんどないだろうし、ニュートンやホイヘンスは記号的能力に頼る必要がないほどに数学的能力に長けていた。
 しかしいったん記号が定着し、それがしだいに体系性をもっていくと、数学的思考と記号的思考のあいだの峻別はあいまいになっていって、とくに、記号というものがどれくらい実体を指示しているかという議論や、思考はどれくらい記号の助けを借りているかという議論をしているうちに、記号的数学こそが数学だという観念をどこかに押しやることができなくなっていった。
 とくに代数学が記号で表現されてからは、この問題は、大きな謎とも、人間思考の本質を解く鍵とも、逆に、思考を阻む壁とも見えてきた。こうした問題を考えようとするとき、つねにその中央にあらわれてくるのがライプニッツなのである。

ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ 計算機 ライプニッツの計算機

 もともと代数学と記号化とは関係がないものだった。アル・フワリズミーの代数学、いわゆるアルジェブラには記号がまったく使われていなかった。
 代数学の呼称のルーツとなったアルジェブラが、プラス・マイナス記号もアラビア数字も使っていないということは、そのころはまだ、文章上のレトリックとして代数を“綴っていた”ということになる。代数は思考の文法に所属していたともいえる。
 それがラテン世界に入ってきて、これを写本するプロセスで省略記号を考案しているうちに、いわゆる代数記号に発展していった。たとえばアラビア語で1次元の未知数はシャイといい、それをラテン語ではレースというそうだが、その頭文字のRを独特の筆記文字で書くうちに代数記号になっていったという例が、記録上でも明確であるらしい。
 考えてみれば、文法や文体に所属する代数ならば、地域や国や民族や風習によって、代数は変わっていくものだったのである。
 しかし、それを記号化していくとなると、そこには共通性や共有性が問われることになる。距離と温度と質量をつなげる数学が必要になり、ポンドとドルと円には交換レートが必要になり、それらを“交ぜても”計算できる方法が必要になる。
 こうして未知数がだんだん記号になっていくとなると、ついでデカルト以前に代数学にとりくんでいたヴィエトが既知数も記号化して、幾何学的な解析はすべて記号代数学で展開できるようにした。これを継承したのがデカルトで、そこでは代数によって思考も方法も精神規則も説明できるというふうに、主張されるようになった。
 その代数思考をライプニッツが批判するところから、数理哲学思想史上の思考と数学と記号をめぐる巨大な幕があく。これが知のバロックの開幕なのである。
 ライプニッツが数学と記号のあいだに立っていたとき、その目はまず先行のデカルトに注がれていた。
 デカルトは『方法叙説』で幾何学を重視したのだが、この文章は読みにくいだけでなく、ニュートンが指摘しているように誤りも多いものだった。しかし、その訴えるところには実に大きなものがある。そこで、このデカルトの幾何学論には当時からいくつものコメンタリーがついて、しかもフランス語版からラテン語版にも移し替えられていた。その間に、デカルトが考えていることは「普遍数学」というものだという定説ができあがっていったのである。
 ライプニッツが目を注いだのは、このデカルト的普遍数学の、定まりきらない雄叫びのようなものだった。実はデカルト自身はそこまで考えきってはいなかったのである。
 しかし、ライプニッツはそのデカルト的普遍数学に挑み、そこに量概念しか機能していないという欠陥を見いだした。たとえば、代数的な離散量と幾何学的な連続量をそのままごっちゃにして扱っているという欠陥である。ライプニッツは、もし普遍数学というものがあるのだとしたら、そこには量だけではなく、もっと広くて多様なカテゴリーが扱われるべきだと考えたのだ。「質」や「関係」だって扱われるべきだと考えたのだった。
 マテマティカとは、そもそもは「学ばれるべきもの」という意味である。その原形には、プラトンのマテシスがある。
 マテシスやマテマティカは、想起されるべきすべてのものを学習記憶するための方法なのだ。そうだとすれば(まさに、そうなのだが)、そのマテシスやマテマティカは、いったん“記号の森”を通過して、そのうちから最も適切な記号群を連れ帰ってもよかったのである。そういうことをしても、平気なはずなのだ。
 こうしてライプニッツは当時の普遍数学の欠陥を前にしつつ、そこに記号をもちこんで、これを普遍記号学として確立する構想をもつにいたったわけである。
 1666年はライプニッツがまだ20歳。しかしこの年に執筆された『結合法論』(デ・アルテ・コンビナトリア)には、その後のライプニッツの構想がいろいろなかたちで発露した。こんなに独創に富んだ仮説は、当時も今日も、めったに見られない。それにしても20歳とは凄いのではないか。
 ライプツィッヒ大学でアリストテレス哲学とユークリッド幾何学を学んでいたライプニッツは、すでにいくつもの問題が対比的に自分の前に聳え立っていることに感づいていた。神の語り方と人間の語り方の対比、普遍の論理と個別の論理の対比、名前をもつ力(唯名論)とそこに物事がある力(実在論)という対比――。などなど。これらを前にしていたライプニッツは、はやくも二人の教師からすばらしいヒントを引き出していたようだ。哲学のヤーコプ・トマジウスからは幾何学と精神の関係と「モナド」の意味を、数学のエアハルト・ヴァイケルからは哲学と科学の和解の方法とその和解のための論証の方法を――と。
 このときすでにライプニッツの胸中には、新たな「普遍学」を確立するという思いがいっぱいに膨らんでいたようだ。そのキーワードは「コンビナトリア」。すなわち「結合」である。
 かくて哲学の修士・法学の学士を得たライプニッツが、つづいて哲学の教授資格のために書いたのが、「結合に関する算術的論議」という論文と、それを一冊の書物にまとめた『結合法論』だった。ここに、ライプニッツをして有名にさせた「人間思想のためのアルファベット」というアイディアが開花する。
 新構想にとりくみたいライプニッツに一番大きな示唆を与えたのは、おそらくライムンドゥス・ルルスのアルス・コンビナトリア(結合術)だったろう。
 ルルスはこれを「アルス・マグナ」(大いなる術)とよんでいた。ライプニッツも「アルス・マグナ」を作りたい。そう志向した。
 13世紀のカタロニアでこの秘策を構想したルルスのアルス・コンビナトリアは、まさに三浦梅園にこそ見せたかったものである。
 ルルスは6系列からなる一種の範疇表を作成して、そこにBからKまでの9個の文字を用いて、絶対的述語・相対的述語・問い・主語・徳・悪徳などのプラトン的な9個の範疇(カテゴリー)を動かそうとした。とくにそのうちの絶対的述語と相対的述語は字母Aと字母Tの円に配当されて、概念が主語から述語へ、述語から主語へ置換できるようにした。
 驚くべきは、第四図と称されたクアルタ・フィグラが3つの同心円で構成されていて、そのうちの内側の2つの円が回転することによって、3個ずつの文字のすべての組み合わせが得られるようになっていることだ。なんだか遺伝アルゴリズムを思わせる。
 ルルスが構想したのは、限定されたいくつかの用語(テルミエ)をつかっての、あらゆる問いに応じ、そこから各種の学を構成することが可能な「ローギッシェ・マシーネ」(論理機械)なのである。それゆえ、それは論理術にも普遍術にも記憶術にも使えそうなものだった。けれども、その根幹にあったのは、なんといってもアルス・コンビナトリアという編集術なのである。
 ルルスのアルス・コンビナトリアは梅園の条理学のようには孤立しなかった。各方面に猛烈に吸収されていった。ライプニッツ以前、それは多くの学術と神秘思想と記憶術に採用されている。
 とくに、ニコラウス・クザーヌス、ピコ・デッラ・ミランドラ、アグリッパ、ジョルダーノ・ブルーノ、カンパネッラ、パラケルスス、ヨハン・ハインリッヒ・アルシュテート、アタナシウス・キルヒャーに特有された。
 この顔ぶれでわかるように、アルス・コンビナトリアはしだいにスペインからイタリア・ルネサンスへ、それからフランス・イギリスへ、そしてそれらが瀘過され尾鰭をつけて、ついに最も濃いものがドイツへと波及していったことが見てとれる。
 ドイツにルルスが色濃く波及した理由には、ひとつには、クザーヌスの『知の無知』とアグリッパの『学の不確実さと空言』のあいだでアルス・コンビナトリアをめぐる熾烈な論争があって、それがアルス・コンビナトリアを新たな論理マシーンとして議論できる素地にしていたことであろう。
 もうひとつには、おそらくルルス主義がカバラ思想と結び付いたことである。カバラでは、もともとセフィロートというフォーマットによって神の知の流出の組み合わせの可能性を追求していたし、そこではヘブライ文字のローテーションによる「文字と瞑想との対応関係」も重視されていた。それがもともと文字を重視するドイツの風土で新たな可能性への転換がはかられる契機ともなっていったのではないかと、漱石は考えている。
 一方、むろんルルスに対する容赦ない批判もあった。ブルーノのばあいは9個の文字が不足きわまりないとして30個の文字を持ち出して、それをギリシア文字とヘブライ文字の混合セットにしたくらいだから、批判というより批判的継承をしたほうであったけれど、ベーコンとデカルトになると、批判は痛烈になっていた。
 とくにデカルトは、自身で普遍数学を標榜するに至っていたところだったから、ルルスのような“魔法”には断固として与(くみ)しようとはしなかった。
 このとき、若きライプニッツが『結合法論』をひっさげて登場してくるのである。
 さきほども述べたように、ライプニッツはデカルトの普遍数学に疑問をもっていた。あんなものは「普遍」の名にふさわしくないと考えていた。ライプニッツは書いている、「申し上げておきますが、私はデカルト主義者ではありません」と。
 では、ライプニッツは何をめざしたのか。アルス・コンビナトリアを論理学まで高め、そこに普遍的な記号代数を関与させ、「発見の論理学」ともいうべきを確立することをめざしていた。それが「人間思想のためのアルファベット」というアイディアだったのである。
 さてところで、さきほどからの漱太郎は、こうしたライプニッツが提示した知のバロックの周辺についての何かの感想を書こうと思って、1階の書棚から取り出した『ライプニッツ著作』を地下の書斎の机上にずらりと置いて、あれこれ考えをめぐらしていたのだった。
 一冊開いては、また別の一冊を開き、そこでちょっと文章を打ち、また一冊を開いて読んでは、また別の一冊を読む。そんなことをしていた。そのうち、この著作にちりばめられたライプニッツの思索の痕跡や、それこそ草稿に残響する手の痕跡などが、隅々から潮騒のような音を立ててせりあがってきて、はからずも中世時代の遠い日にかかわった記憶が蘇ってきたようで、いささか感傷的な気分にもなっていたのだった。
 20歳のライプニッツが『結合法論』で提案した「人間思想のためのアルファベット」は、せいぜい25、6個くらいの単純概念の記号化によって、ありとあらゆる「発見の論理学」を湧出させるシステムがつくれるのではないかということだった。
 ただし、ライプニッツはルルスや梅園のように円盤の上に概念や記号を置こうとはしなかった。円盤を動かすのではなく、概念や記号そのものを動かすこと、すなわち「計算」によって複雑な複合概念をつくりだすことを考案した。円盤の構造は、その動きの集積によって与えられると考えたのだ。
 いま、『結合法論』やその後に書かれた『普遍的記号法の原理』などを見てみると、数をあらわす数字と概念(名辞)をあらわす数字を区別していること、定義のメンバーにクラスをつくり可付番集合にしていること、いろいろの情報概念を分母の上に乗せてその総和が一定になるようにしていること、冠詞のないラテン語にギリシア語からの借用をおこしていることなど、独得の工夫があったことが伝わってくる。
 いかに先行する成果を点検したうえでのこととはいえ、よくぞ、そんなことまで考えたものである。とくに思考や論理を「計算」の対象にしたことは、ライプニッツにおいてこそマテマティカが(そして今日に至ったコンピュータをめぐる計算技術思想が)、ここに初めて自立したとさえ、いいたくなる洞察だった。
 とりわけ、概念の結合のために円盤を動かすのではなく、概念を動かすことが結合を生むのだという着想こそは、そこでギイッと音がして、全ヨーロッパの思索の歴史の転換がいま、そこで、おこったかのようだった。ところが、ライプニッツはこれを完成させはしなかった。「思想のアルファベット」は実行に移されなかったのだ。
 ニュートンと競った微積分や、パスカルのものより性能が高い四則演算器を作成したライプニッツが、アルス・コンビナトリアのためのシステム設計に着手もしなかったのは、まことに残念である。
 若すぎて気移りしたのかもしれないし、ルルスの延長では限界があると思ったのかもしれない。また、批判的であれ、これ以上はデカルトにかかわりたくないと思ったのかもしれないが、ひょっとすると、ライプニッツにはニュートンやパスカルのような対抗者や好敵手がどうしても必要だったのかもしれない。そんなふうにも思える。
 そう思いたくなるのは、その後のライプニッツはまるで新たな好敵手を探すかのようにして、ジョン・ロックに正面から対抗して『人間知性新論』を書き、また晩年には、なかなか出会えなかったバルーフ・スピノザに自ら近づき、その接近の度合いに応じて大胆な神学的形而上学を次々に仮説していったからである。
 しかしながら、では、これでライプニッツが発見論理学や普遍記号学を捨てたのかというと、むろんまったくその逆である。このあとのライプニッツは実に多様な領域で、この実現にこそ向かっていく。
 ライプニッツの全思索のなかでつねに一貫していたのは、人間の本性や知性に合致した認識というものがあるとすれば、それは直観的認識だけでできあがっているのではなくて、必ずや記号的認識を随所に交えているものであるはずだというものなのである。
 いろいろの理由によって、青年期のライプニッツは、人間の知は神の知に近づこうとしているという確信をもっていたはずだった。本当なら、人間は神のような直観的世界像をもったままでいられるはずだとも想定したはずだ。当然だろう。
 そうであるからこそ、人間は神に近寄るためにアルス・コンビナトリアとしての道具を使ってでも、その可能性に向かうべきだと考えたのであったろう。だから、当初のライプニッツにとっては「思想のアルファベット」は道具にすぎなかったのである。記号は援用されるべきものだった。さらにいうなら、このころまでのライプニッツは、数学や科学が神の知に匹敵しないまでも、十分に自立しうるシステムになれるとも確信していなかったようだ。
 けれども、ここからがやっぱりライプニッツらしいのであるが、1672年から1676年までにわたったパリ滞在期において、ライプニッツは大きな転換をとげ、さらにさらに長躯躍動することになる。ここではのべないが、かの「微積分の発見」をしたのもこの時期だった。ライプニッツはこのパリ滞在期のあいだのどこかで、記号法が普遍数学や普遍論理学になりうることを、一挙に悟ってしまったのである。
 そのころもうひとつ、ライプニッツが躍動したことがある。それは百科全書についての構想が芽生えたことだった。
 ライプニッツには当初から、人間が世界のなかでふれうる全知を通過したいという普遍計画のようなものがあった。それを百科全書の実在への計画というなら、ライプニッツはずっとその計画の手を休めたことはない。
 けれども実際に百科全書の役割を明確にし、その構想がどのようなものであるべきかを提示したのは、パリ滞在以降になってからのことである。『ブルス・ウルトラ』という計画書も書いている。
 それは驚くべきことに、われわれが知るチェンバースやディドロが編集構成したような百科全書ではなかった。いわば、その百科全書のアーキテクチャそのものが、「思想のアルファベット」に対応できるエンジン機能をもつような、そういうエンジン付きのデータベース構造の提案だったのである。
 その計画は、第1部門が「普遍学の基礎」として、第2部門が「普遍学の範例」ととして機能するようになっていて、のちの『普遍学の基礎と範例』や『普遍的記号法』を読むとわかるのだが、知の目録と、それを使う方法と、その構造全体が見せる枠組の意味とが、相互に対応できるものに按配されていた。しかもそれぞれの要素は、つねに記号対応をはたしているというような、そういうものだった。
 ここにおいてライプニッツは、数学的思考と記号的思考の「あいだ」を、埋めきったのである。少なくとも、どうすれば埋めきれるかを読みきった。
 すなわち一言でいうのなら、ライプニッツが構想した百科全書とは、「方法の知」のための百科全書構造だったのである。
 これを漱太郎ならば、ライプニッツにおける「エディトリアル・エンジンを搭載したリレーショナル・エンサイクロメディアの計画」の発表などとよびたい気がするのだが、仮にそんなふうにふざけて名付けたとしても、ライプニッツはまだまだそんな程度の発表で満足はしなかったのだ。彼は、まったくもって手がつけられないバロックの天才である。
 このライプニッツの「方法の知」は、1937年に著された下村寅太郎の『ライプニッツ』(現在はみすず書房で刊行中)では、「それは一つの領域ではなく世界の、ある存在ではなくすべての、存在の原理の探求なのである」と書かれている。
 このような、なんといっても数理派ライプニッツの話なのであるから、まだまだ、綴っておきたいことが続くのである。
 漱太郎は長いあいだにわたって『単子論』(モナドロジー)を読みまちがってきたということだ。岩波文庫の河野与一訳で読んだのだが、あまりにも注解が本文に押し寄せるように介入していて、そうとうに読みにくかった。
 それで思いきって漱太郎なりのノートを作った。のちにそれにもとづいて『漱太郎のモナドロジー・ダイジェスト』を書いたのだが、いまだに納得できないでいる。何度もそれを試みようかとも思っていたのだが、ついにやめた。しかし、いつか再挑戦したい項目である。また、いまもなお『人間知性新論』よりも『弁神論』のほうに圧倒的に惹かれてしまうのだが、その理由を深くは考えていない。前者がロックに対する反論で、後者がゾフィー・シャルロッテの思い出を前提にしていることもあるだろうが、漱太郎としては『弁神論』こそが、その後のゲーテから手塚治虫におよんだ「悪」の扱いの原型に見えるからでもある。さらに、これはちょっとばかり重要なことだろうが、ライプニッツが生涯にわたって主張を譲らなかったこと、「主語はすべての述語を包摂し、すべての述語は主語に内属する」という考え方には、半分は賛成するとしても、残り半分をのちのゴットフリート・フレーゲの「述語が主語を包摂する可能性」のほうにも賭けておきたいのである。
 あるいはデカルトを採り上げ、ここではあえてライプニッツとの比較を書いておくことにすると、それは分かりやすくいうのなら、デカルトがつねに「混乱」に対して「明晰」を、「不明瞭」に対して「判明」もって臨んだとすれば、ライプニッツは「不十分」に対しては「十全」をもって立ち向かい、「直観」と「経験」に対しては、「原初性」と「記号性」をもって、その行く手の世界像の掴まえ方を大きく変えたことの違いである。
 このデカルトとライプニッツの分かれ目がヨーロッパ近代の思潮を大きく分けていくことになる。
 たしかにライプニッツは前半期にあっては、人間の本性や知性を神に近づけるという構想も発想ももっていたけれど、結局は人間の知性に限界を感じたはずなのである。そうでなければ、このバロックの天才があんなにも多彩大量の情報発信をしなかったのである。また、二進法を発明しようともしなかったはずなのだ。そのことも付け加えておきたい。
 二進法についてだが、これはどこから眺めても傑作中の傑作である。『0と1の数字だけを使用する二進法算術の解説、ならびにこの算術の効用と中国古代から伝わる伏羲の図の解読に対するこの算術の効用について』は、今日のコンピュータ屋が全員読むべきだ。もうひとつ付け加えると、このライプニッツの発想と三浦梅園の発想を、そろそろ誰かが徹底的に比較してみるべきだろう。
 ライプニッツにおいては、「調停」もしくは「折衷」こそが、最も勇気のある科学であって哲学なのである。大いに縮めていえば、漱太郎がライプニッツから教わったことは、このことに尽きるのかもしれない。なぜなら、「調停」と「折衷」とは、つまり「編集言語学」のことなのだ。
 ゲーテは、ライプニッツがモナド(単子)という用語を、ときには平然と「蟻のモナド」とか「モナドの霊魂」というふうに使うのを読んで感動した。ディドロは、ライプニッツが一人でプラトンとアリストテレスとアルキメデスを演じられることにたじろいだ。二人とも自分の専門をさておいたところでライプニッツを称賛した。
 いっときライプニッツは、カトリックとプロテスタントの統合を構想していたことがあるのだが、このような高邁ではあるが無謀なライプニッツに拍手を送ったのは、量子力学者のマックス・プランクだった。プランクはライプニッツから自然神学を読みとったのである。
 どうやらライプニッツを語ろうとすると、その当人が専門をさておいて自分が知らないライプニッツのほうへ横超してしまうようになるらしい。
 これはノヴァーリスや宮沢賢治を語ると、誰もが青い花めいたり、交流照明電燈めくということではない。バッハやヴォルテールを語ると、ついついフーガになったり、カンディドっぽくなるということでもない。ライプニッツに幾何学や社会論があって、それを眺めてきた専門の数学者や社会学者たちが、数学以外でも存分に輝くライプニッツや社会哲学を逸脱してなお大胆に遊ぶライプニッツに、我知らずに別の本分をさぐろうとしてしまうということなのだ。
 数学者の彌永昌吉がライプニッツの幸福感を述べ、宗教社会学者のフォイエルバッハがライプニッツにひそむ結晶構造を語ろうとしたのは、そういうせいだった。
 こういう魅力がライプニッツだけにあるとは言わないが、専門家たちからお門ちがいの数々の矢に射られながら、その矢を300年にわたって受けつづけ、なおいっこうにライプニッツ像が確定しないというところに、やはり「途方もないライプニッツ」があったのだ。
 こういう例は、ライプニッツ以外にはなかなか思いつけない。これはレオナルドの天才とはちがっている。両者とも万能は万能だが、その奥に分け入ってみると、その細部の脈絡から突如として天才的な発想が躍り出てくるというような、そういう才能をもっているのがライプニッツなのである。レオナルド・ダ・ヴィンチの才能はすべて外側にあらわれている。
「一八九四年九月二二日 土 雨。ライプニッツの如くなるべし。禁茶禁烟、大勉学す」。この一文はこの年月日に、南方熊楠が記したメモである。大変な決断である。「ライプニッツの如くなるべし」だなんてことは、さすがに熊楠をもってしか言いえないことだろう。
 ただし、ちょっと変なのは「禁茶禁烟」である。まるで飲茶喫煙などしているとライプニッツが帰還する彗星のように遠のくとばかりに、二つのあいだの因果関係を暗示している。これは、困る。ライプニッツを追うには茶も煙草も禁断しなければならないというのは、困るのだ。漱太郎は飲茶と喫煙だけで生きているような男なのである。この件については、熊楠先生といえども、抗議をしておきたい。しかしこれとは別に意外な人物がライプニッツに思いを注ぎこんでいた。外交官・東郷茂徳である。この東郷とライプニッツとの関わりの中に、伊東マンショとの結び目が明らかとなる。・・・・この続きは立体言語学から導く「中世の肖像」③中編Ⅱでご紹介する。


                                         三馬 漱太郎

聖マンショ伝「帰らざる丘」・No.0028

立体言語学から導く「中世の肖像」①前編

 構造機能主義応用言語学のことを通称して「立体言語学」という。自然(nature)および人間・人為の所産 (arts) を研究対象とし、文理工融合(学際)化させた領域の学問である。Linguisticsの分野によっては実験による実証ができないために非科学とされる研究対象もあるのだが、人文学分野の研究におけるlinguistics編集の場合は、次ぎのような資料を提起して人為の所産を実験(科学)することもある。つまり、この資料1では「戦後の混乱もあって、原子爆弾投下による惨禍についての認識が1946(昭和21)年当時不足していたと思われる」こと、「商業広告に登場するほど、原子爆弾投下を肯定的にとらえる考え方が、当時の日本人にあった」こと等を明らかに示している。またこれは国家というものが破綻したときに、新しい秩序を受け入れる混乱もあるのだが、これに乗じて必要かつ正しい情報が様々に遮断されたケースとしての一例である。

原子爆弾広告 資料1

 原子爆弾投下による被害は、広島の場合、死亡・行方不明者約12万人(当時の広島市の人口約32万人)、5年以内に約20万人が死亡、長崎の場合、死亡者約7万4千人、5年以内に約14万人が死亡した。この悲惨な数値を研究対象とするとき、資料1(トンボ鉛筆広告)を具体に視覚化させることも研究上の実験であり、立体言語学が人為の実証をめざすための一方法論を形成させる要素となる。

 言語(げんご 英: Language)とは、コミュニケーションのための記号の体系であり、狭義には人間の音声による音声言語を指すが、広義には身振りなど音声以外の要素も含み、また動物間のコミュニケーションや、あるいは自然界の発する跫音(きょうおん)、さらにはコンピュータに指示するための記号体系を指す場合もある。学域複層の体系を形成させようとする立体言語学の領域では、日本語や英語のように自然発生的に生まれた言語を自然言語と呼び、これに対して人為的に創作された言語を人工言語と呼ぶ。後者には、もっぱら人間同士によるやりとりを目的としたエスペラント、コンピュータの操作を目的としたプログラミング言語、それから人間にもコンピュータにも適したロジバンといったものがある。また自然言語は、母語とする人々の存在を失うと使用されなくなり死語(廃語)と呼ばれる領域も含まれる。
 さらには文字(英: character, letter)は、言語に直接結び付いて意味を表す符号や記号である。「言語に直接結び付いて」とは、文字が音声言語の発音そのものを表すということでは必ずしもない。もっぱら具体的な事物を表す記号からなる文字の体系(象形文字)も存在するし、文字が表す語の意味は一定だが文字の発音は言語によって異なりうる体系(漢字など)も存在する。このため特に日本国での立体言語学においては、漢字研究は重要な要素となる。中国では戦国時代までに、文字を意味する語として「書」「文」「名」などが用いられるようになっていたが、これらは文字以外の意味も持っていた。秦の中国統一にともない、秦の語彙「字」が公式に用いられるようになり、漢代に入って文字を表す語として定着した。いっぽう「文字」という語のたしかな初出は、前漢の司馬遷による『史記』である。これは、紀元前3世紀に始皇帝を顕彰するために建てられた琅邪台刻石碑文の「車同軌、書同文字」(車の軌幅を統一し、書の文字を統一した) を引用したものだが、碑文では韻律を整えるために「文」に「字」の字を付加しただけで、当時は「文字」という熟語は使われていなかった。『史記』以降になってはじめて、「文字」という語が「言語を書き記すための記号」の意味で用いられるようになった。したがってこのような歴史時間の経過を踏まえないと日本語の正体をみ誤ってしまう。

 例えば「」という漢字をみると、漢字の多くは一字の成り立ちに濃厚な事柄を秘めているのだが、「民」の字は「目を突き刺している形」を表している。すなわち「視力を失った人を民と呼び、神への奉仕者」を意味した。この象形がいつしか「たみ、ひと」の意味で使われるようになった。こうした意味の変化には「知らしむべからず」という作為が働いている。おとなしく権力に従わせる対象を「民」と呼んだのである。あるいは、そのようにして自由を奪った人(奴隷)を意味させていた。「民」を用いた熟語は数多くある。民意、民間、民業、民権、民主、民衆、民主主義、民族、国民、市民、市民活動などがそれであるが、これらの熟語の原潜として、民に目隠しをし、民を侮る、思い上がった人たちがいたことになる。言語環境にはこのような伏魔殿の臭いを踏まえて蔑(さげす)みを解釈し得ることも重要であり、冒頭に掲げた不用意で軽率な企業行為としての資料1は、欺瞞(ぎまん)の上塗りを感じさせる伏魔広告の一例であろう。戦後の混乱期の中で、多くの日本人をさも誠実そうに欺いている。

原爆ドーム2

 そこで、この建物は人類の「負」の行為を記憶するために遺された。破壊された残骸が何を物語るかを知らない日本人はいない。そう断言できるほどに、戦後から今日までにじつに数多くの学童が修学(平和学習)のためこの地(広島)を訪れている。訪れた誰もが向かい合うと、この形骸はまことに無惨である。人類が繰り返してはならぬ最大のもの(人類が初めて核兵器を使用した必要悪)を実感させられるのだから、1996年(平成8年)、人類の負の遺産として、この形骸となった無惨な建造物「原爆ドーム」の姿が公式にユネスコの世界遺産として登録されると、一躍その知名度は世界的に高められた。それが被爆建造物「Atomic Bomb Dome」の姿である。

 しかし人類の犯した、あるいは冒した負の世界遺産とは何か、その必要悪の「負」の明確な定義はいかにも曖昧(あいまい)である。世界遺産条約の中で「負の遺産」が正式に定義されているわけではない。原爆ドームの登録審議は、1996年12月にメキシコのメリダ市で開催された世界遺産委員会会合において行われた。このとき、アメリカ合衆国は原爆ドームの登録に強く反対し、調査報告書から、「世界で初めて使用された核兵器」との文言を削除させる。アメリカ国民の中では「原爆使用は百万人のアメリカ軍将兵をダウンフォール作戦での戦没から救った」とする原爆投下を肯定的に捉えている傾向が強い。戦勝国アメリカは亟(すみやか)なる戦争終結を導いた核使用の正義をそこに成立させている。
 また、中華人民共和国は、「日本は戦争への反省が足りない」として審議を棄権している経緯がある。これは被害国意識から生じた理論の一例であろう。国境があり、その国力を競うことを世の常の正義として戦争の意義を保持し続けるのであれば、負の遺産への合意など不要なのである。
 この是非はともかくも、昭和20年8月(1945年)の記憶を日本人だけは風化させてはならない。世界を代表する平和の象徴とされるようになり、登録後に広島を訪れる海外からの様々な来日者も増加した。そのことが風化を前進させることを拒む枷(かせ)として期待される性質の可能性もあるが、ユネスコ登録の以前、一人の少女の言葉によってこの建造物は救われている。少女は小さな可憐な胸の裡(うち)に「ドームを存在させる意義」を希求した。そのことに重大な意味がある。これは小さな祈りのようだが歴史を省みて霊長類の未来を拓くには大きな祈祷の象徴となるだろう。

 戦後、原爆ドームは原子爆弾の惨禍を示すシンボルとして知られるようになったが、1960年代に入ると、年を追って風化が進み、危険であるという意見が起こっていた。一部の市民からは「見るたびに原爆投下時の惨事を思い出すので、取り壊してほしい」という根強い意見もあり、存廃の議論が活発になる。広島市当局は当初、「保存には経済的に負担が掛かる」「貴重な財源は、さしあたっての復興支援や都市基盤整備に重点的にあてるべきである」などの理由で原爆ドーム保存には消極的で、一時は取り壊される可能性が高まっていた。だが、流れを変えたのは1人の女子高校生、楮山(かじやま)ヒロ子の日記であった。彼女は1歳のときに被爆し、15年後の1960年、「あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、おそるべき原爆のことを後世に訴えかけてくれるだろうか」等と書き遺し、被爆による放射線障害が原因とみられる急性白血病のため16歳で亡くなった。

楮山(かじやま)ヒロ子 楮山ヒロ子と日記

 その日記を読み感銘を受けた平和運動家の河本一郎が中心となって保存を求める運動が始まることになった。このような経緯から1966年に広島市議会は永久保存することを決議した。翌年保存工事が完成し、その後風化を防ぐため定期的に補修工事をうけながら、現在まで保存されている。市民の募金と広島市の公費により1989年に行われた2回目の大補修以降、3年に一度の割合で健全度調査が行われ、広島市単体での保存・管理が続いていたが、被爆50年にあたる1995年に国の史跡に指定され、翌1996年12月5日には、ユネスコの世界遺産(文化遺産)への登録が決定された。ユネスコの負の遺産の定義は不明確なまま登録されたのであるが、被害の当事者として16という若さで惨禍の祖国にて永眠した少女・楮山(かじやま)ヒロ子の「いつまでも、おそるべき原爆のことを後世に訴えかけてくれるだろうか」という情動の発露こそ、真実で純粋な無双の定義なのではなかろうか。またこの少女の定義は世界遺産として登録を認められたことにより「人類はその負債を解明し続ける義務」を帯びることになった。さらにその義務はこの地球上から原爆ドームという惨禍の遺言が姿を消滅させるまで帯びるのであろうし、そのことを成就させて後に、この「負」の遺産は「正」の遺産となって未来人に看取られるのであろう。

ゴレ島(セネガル) ゴレ島(セネガル)

 このような日本の原爆ドームを含めた負の遺産登録は現在19である。それらを登録の順に記すと、①ゴレ島(セネガル)1978年、②アウシュヴィッツ=ビルケナウ(ポーランド)1979年、③ヴォルタ州やグレーター・アクラ州とセントラル州やウェスタン州の城塞群(ガーナ)1979年、④キルワ・キシワニとソンゴ・ムナラの遺跡群(タンザニア)1981年、⑤カルタヘナ港の要塞群と建造物群(コロンビア)1984年、⑥ポトシ市街(ボリビア)1987年、⑦トリニダとロス・インヘニオス渓谷(キューバ)1988年、⑧ソロヴェツキー諸島の建造物群(ロシア)1992年、⑨原爆ドーム(日本)1996年、⑩ロベン島(南アフリカ共和国)1999年、⑪ザンジバル島のストーン・タウン(タンザニア)2000年、⑫バーミヤン渓谷の古代遺跡群(アフガニスタン)2003年、⑬クンタ・キンテ島と関連遺跡群(ガンビア)2003年、⑭海商都市リヴァプール(イギリス)2004年、⑮モスタル旧市街の古い橋の地区(ボスニア・ヘルツェゴビナ)2005年、⑯アープラヴァシ・ガート(モーリシャス)2006年、⑰ル・モーンの文化的景観(モーリシャス)2008年、⑱ビキニ環礁の核実験場跡(マーシャル諸島)2010年、⑲オーストラリアの囚人遺跡群(オーストラリア)2010年、となる。

 これらの内、じつに12登録地が中世時代に関わる負の遺産である。その、それぞれの負とは、原爆ドームと同じように未来者がその負債を背負うことでもあろう。世界の列強となる国々が興国として躍動を始めた中世の時代には、負の遺産は数知れず人知れず遺されてきた。登録された負の遺産の多くが、奴隷化に侵された当時の遺跡群である。当然これらには負債が帯びせられている。
 そんな中世時代に生きた伊東マンショの生涯の陰影の中に浮かぶ正体を追跡するために、今回のコラムは少し遠回りしながら追いかけてみようと思う。遠回りのため、情報量も多く、前編①、中編Ⅰ②、中編Ⅱ③、後編④と四段に分けて綴ることにする。
 それには重要な理由がある。今日までの歴史上において、最も伊東マンショなる人物に興味と関心を抱いたドイツ生まれの学者(哲学者・数学者)がいるからだ。その名を「ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz)」という。またこれは「原爆ドーム」とも深い関わりを持ちながら、様々な奇遇を絡め結び、やがてライプニッツの革命に至る遠大なエピソードを秘めている。しかし、その名「原爆ドーム」とは仮称なのであり残骸としての負の異名なのである。この被爆建造物には本名があった。負債の弁償への第一歩とは、まずその本名へと復帰させてあげることであろうか。それではこれより「中世の肖像」前編①の応用言語学としての実験を開始する。

ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ3 ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ

 原爆投下当時は「広島県産業奨励館」と呼ばれていたし、その元は「広島県物産陳列館」として1915年(大正4年)4月5日に建設され同年8月5日に開館した。したがってこれが原爆ドームの本名である。これをチェコ人の建築家ヤン・レッツェル(Jan Letzel)が設計を担当した。

広島県物産陳列館 広島県物産陳列館

 ドームの先端までの高さは約25mあり、ネオ・バロック的な骨格にゼツェシオン風の細部装飾を持つ混成様式の建物である。設計技師レッツェルの起用は、当時の寺田祐之広島県知事によるものであり、寺田は前職の宮城県知事時代、レッツェルの設計した松島パークホテルを見て彼に物産陳列館の設計を任せることを決めたといわれる。さらに同じころ、レッツェルは宮島ホテル(1917年竣工。現存せず)の設計も手がけている。物産陳列館の設計料は4,575円。当時広島市の土地は坪当たり24銭から4円で、石工の日当は90銭から1円10銭、新橋-広島駅間の汽車の運賃は三等で5円17銭、二等7円75銭、一等13円33銭であり、広島市の人口は13万(1915年)であった。

松島パークホテル 松島パークホテル

宮島ホテル 宮島ホテル

 それでは少し余談ではあるが、広島のこの物産陳列館が原爆ドームとして負の遺産に登録されたのかに関連して、現在の「日本はなぜ負債大国になったか」をご説明することにしよう。中世の負を疎かにすることにより、現代の負は迷走を続けている。中世の負は現代の負でもある。歴史解明の意義は一つにはこの負の連鎖への手掛かりを求めることでもあるから、是非、次ぎを慎重に読み解いていただきたい。

ポール・サミュエルソン1 ポール・サミュエルソン

 アメリカを代表する経済学者ポール・サミュエルソンが2009年12月13日死去した。そのPaul A. Samuelsonは1915年5月15日に(アメリカ)インディアナ州ゲーリーのユダヤ人家庭にて生まれ、2009年12月13日にマサチューセッツ州の自宅で他界(94歳)したことになる。彼は経済学を数学的に精密化し、モデル科学として立脚させた立役者とされる。また新古典派経済学にジョン・メイナード・ケインズのマクロ経済学的分析を組み合わせた新古典派総合の創始者としても著名である。
 今の学生にはほとんど知られていないだろうが、1970年を過ぎるころは、彼の教科書の影響は絶大だった(初版は1948年に発行)。日本人にとって彼の最大の功績は、マル経を追放して「近経」を主流にしたことだろう。しかし漱太郎の同世代では、近経を勉強したのは経済学部の学生だけで、法学部卒の人々の多くはいまだにマルクスを卒業できない。現在の民主党政権の中枢には70年安保のころの活動家が多く、マルクス的な温情主義が残っている。
 ただサミュエルソンの教科書には、学生でもわかる矛盾があった。前半のミクロ理論では、需要と供給が一致しないときは価格が動いて両者を一致させると教えるのに、後半のマクロでは失業(労働の超過供給)は市場では解決できないと教えるのだ。これは素直に考えると、賃金(労働サービスの価格)が高すぎるためで、賃金を下げれば失業はなくなるはずだ。ところがサミュエルソンの教科書では、そういうことは起こらないと教える。この新古典派総合は、ミクロ的な基礎を欠いた非論理的な折衷だったのである。

ポール・サミュエルソンの経済学書 ポール・サミュエルソンの経済学書

 失業の問題を普通の経済学のロジックで説明したのが、フリードマンの自然失業率だった。アカロフは、60年代にサミュエルソンが、フリードマンの有名な会長講演より前に自然失業率の概念に気づいていたと書いている。しかしサミュエルソンやソローなどの「リベラル」は、多分に政治的な理由から自然失業率理論を批判し、「ケインジアン対マネタリスト」論争が起こった。
 この論争の最大の争点は貨幣数量説ではなく、自然失業率を認めるかどうかだった。前者(通貨供給のk%ルール)は否定されたが、後者は理論的にも実証的にもフリードマン側の圧勝に終わった。80年代以降は自然失業率を精緻化した「合理的期待」理論が主流になり、「新しい古典派」や新ヴィクセル派となって今に至っている。学問的には、サミュエルソンのころの素朴ケインジアンはもう存在しないのである。
 ところが永田町や霞ヶ関にはいまだに素朴ケインジアンが生き残っており、「不景気のときは財政出動が当たり前だ」と公言する政治家が多い。こういう連中やリフレ派に共通の欠陥は、フリードマンが(ヴィクセルにならって)導入した自然率の概念を理解せず、政府が裁量的な介入によって自由に経済をコントロールできると考えることだ。サミュエルソンの新古典派総合は、経済学界では忘れ去られたが、政治の世界ではまだ生きており、その負の遺産は今もわれわれを苦しめているのである。

 そのことを踏まえ負の遺産としての「日本はなぜ負債大国になったか」を考えてみたい。繰り返すが、平和時に政府が借金を増やす理由は、富に対する課税を怠ったことに起因することになる。現在の財政政策の悲劇は、生産的な産業投資よりも、非生産的で寄生的な富の方が簡単に税金逃れができる点にある。過剰の富や、不労所得者の所得へ課税する代わりに、必需品や生産的な直接投資、労働者階級への課税を増加すれば、産業の発展や繁栄は抑制されてしまう。
 また税制の改正は、金融および不動産投資家に、寄生的かつ投機的な収益を求めることを奨励する。この新しい財政哲学は、世界競争に向けた生産性や生産高拡大のための再投資に必要な収益を産業界から奪いかねない。
 国民はこの「新しい」税制政策がいかに深刻な影響を与えるか理解していない。日本はなぜ借金大国になったかを考えると次ぎのようになる。
 1965年から30年の間に、日本は国家債務ゼロから世界最大の負債国へと転落した。日本の負債が他の国に見られない特性を持つのは、それが必然的なものではなく、純粋に政治的な理由から生まれた点にある。
 政府が借金をする伝統的な理由は戦争である。生死を賭けた戦いは、通常の税収入では賄えないため、借金で対処する。220年前、イギリスが米国植民地を相手に戦争をしていた時、アダム・スミスは、戦争のために増税すると有権者が戦争に反対するため、政府は借金を行い国民の負担を軽減したかのように見せかけるが、長期的にはより高くつく、と語っている。

アダム・スミス アダム・スミス

 その言葉通り、日本の場合、過去半世紀の間、戦争を行っていない。米国の軍事プログラムへの援助以外は、日本の軍事予算はほぼゼロに近かった。財政の赤字の多くは、金融および不動産部門への課税を怠ったことに起因する。
 平和時に政府が借金を増やす理由は、主に国内の政治的失敗、つまり富に対する課税を怠ったことに起因する。すなわち、平和時の国家債務は海外との戦争ではなく、国内の階級闘争の結果、生まれたものである。冷戦が事実上終結した今日、国内に階級闘争が舞い戻ってきたようだ。
 階級闘争の本質は経済力を政治権力に転換することである。ほぼ決まって勝者となる富裕階級にとって、階級闘争の目的は自分達の所得や富に対する税金を削減することにある。その結果、税制は富裕者への累進制を弱めるよう改正され、賃金労働者や消費者の税負担が高くなる。日本の場合も、今日の財政赤字と国家債務は、最も裕福な階級に対する課税を怠ったことが原因となっている。
 しかし、現在の財政政策の悲劇は、生産的な産業投資よりも、非生産的で寄生的な富の方が簡単に税金逃れができる点にある。不正な富の方が税金を削減しやすいのは、それがより多くの経済価値をもたらすからではなく、ただ単に最も収益性が高く、強い影響力を持つためである。過剰の富や、不労所得者の所得へ課税する代わりに、必需品や生産的な直接投資、労働者階級への課税を増加すれば、産業の発展や繁栄は抑制されてしまう。
 税制の改正は、金融および不動産投資家に、寄生的かつ投機的な収益を求めることを奨励する。新しい税制は、製品やサービスの生産を促進するのではなく、負債を増やした銀行や賃貸料を上昇させた投機家たちに資金援助をしているのだ。この新しい財政哲学は、世界競争に向けた生産性や生産高拡大のための再投資に必要な収益を産業界から奪いかねない。
 日本の大蔵官僚が新しい税制哲学を異口同音に支持しているという現実は、戦後形成された金融、不動産分野がいかに政治的に攻勢に転じてきたかを端的に表している。金融、不動産分野は、米国製の「無価値」経済学を利用して、大々的な広報活動を繰り広げ、金利や賃貸料の上昇で経済のコスト構造を押し上げること以上に生産的な方法は、従来の金儲けの手法(例えば工場の建設)にはないと主張している。
 この「無価値」の富は、主にFinance(金融)、Insurance(保険)、Real Estate(不動産)産業とその不労所得者の収入であり、それらの頭文字を取って一般にFIRE分野と呼ばれている。
 不労所得者の収入は、貸し手と地主が事前に規定する固定利用料(家賃と利子など)から成る。企業の成功如何で増減する収益とは対照的に、これらの固定料金は、経済の成長や支払い能力とは無関係に、いやおうなしに要求されるものである。ある人の収入が他の人の支出になる「ゼロサム・ゲーム」がそうであるように、不労所得者が要求する料金は、債務者の基本資産を削るところまで利益を食いつぶしてくる。
 この結果、貯蓄は直接投資にではなく、融資や不動産投機に回される。こうして、経済の生産的資源は増えずに、金融や不動産投機による不労所得者の収入が増加する。
 国民はこの「新しい」税制政策がいかに深刻な影響を与えるか理解していない。事実、バブル以降の日本は、金融および不動産分野で膨張する富に対する課税を躊躇してきた。このことは、日本を含む世界の国々が歴史的に税制の基盤を地租に置いてきたという事実とは極めて対照的である。国王や天皇は、土地の支配権および所有権を官僚に移管した。もともと地主は、宮殿を守ったり、兵力などを含む軍事的ニーズをカバーするために、その土地から生まれる余剰農産物(および作物の用益権や農民の労働力)の大半を国に提供することになっていた。しかし、地主は次第に、そのような土地からの収益を社会のために使用するという義務を果たさなくなった。実際、地主にそのような「自由」を与えたことが、自由企業制や真の私有財産の基盤となったのである。
 過去1世紀の間に、課税対象に最も適しているのは「不労増価分」、すなわち、社会の繁栄(あるいは単に通貨インフレ)に起因する土地や資産価値の増加分であるという考えが広まった。例えば、公共の交通機関や道路、電気、その他税金で実施される基盤整備によって、土地の不動産価値は一般に上昇する。税金を使ったおかげで値上がりした分の賃貸料を取り戻すには、通常固定資産税を徴収することによって、その増加分が国民に還元される。
 しかし税金が徴収されなければ、税金を使ったことによって生まれた利益は不労所得投資家の手元に残る。そして不労所得者階級が強力になればなる程、政治家をうまく操って自分達の税金を削減させようとする。その結果、財政赤字と国家債務が増加するのである。
 今回、日本が他国と異なる点は、バブル経済のさなかに負債が増大した点にある。そしてこのバブルこそ、先例のない程の巨額な不労増価を意味している。
 バブル経済の真っただ中に国債残高が増加した原因を見つけるのはそれほど困難ではない。バブル経済は、不動産価格を一般家庭の手の届かないところまで押し上げたのに加え、不動産億万長者を生み出し、不労所得者の地位を不動のものにした。
 FIRE分野の力が強力になると、その分野が1つの階級を形成し、自分達の利益が課税対象とならないようにするために、公共利益に反する活動をする。その一方で自分達の目的を支持させるよう政府の政策に影響を与える。その結果、不動産分野が従来支払っていた税金は他の分野に振り替えられる。こうなると、借金をしてでもさらに不動産を購入した方が儲かるようになり、不動産分野は借金だらけになっていくのである。そして不動産の所有者はこの借金状態を強調して、金融機関と共に、業界は多額の借金を抱えているので、もっと減税すべきだと主張するのである。さらに、不動産投機家はローンの利子分を課税所得から控除することが認められていたために、このプロセスにはさらに拍車がかかった。
 このような厄介な行動形式は、日本に限ったことではない。過去4,000年の文明化の歴史を通じて一貫して描かれてきた変遷の型である。しかし、日本の場合興味深いのは、バブルが繰り返されることがないよう増税を呼びかけるのではなく、逆にバブル崩壊を口実に、不動産や銀行の富に対して減税が叫ばれている点である。
 最も裕福な不労所得者層が税金を逃れようとした結果、日本にほぼ慢性的な財政危機が生まれた。さらに、他の諸国の場合と同様に、既存の負債に対する金利も公的債務を増加させている。過去の負債に対する利払いが負担となって、結局毎年、財政赤字を生むことになる。国家が税収入、厳密には不労所得の富に課税をして歳出を賄わない限り、今回の累積債務から逃れることは難しい。問題は、税金を逃れようとするFIRE分野の既得権益の経済力に対抗するだけの政治権力を結集させる能力が一般国民にない点にある。その結果、政府は借金で金利を賄い、毎年国家債務を増加させていく。つまり、このことは、公債が指数関数的に複利で増加することを意味する。
 米国の財政赤字を資金援助するために、日本がいかに借金を増加させたか。これも問題だ。
 日本の国債残高増加にはもう1つの要因がある。国内の富裕者に対する減税や金融部門(最も顕著なのが住専)の救済、税金逃れに忙しい富裕階級への利払いといった負担の他に、米国の財務省にも資金援助している点である。金や円、その他の通貨ではなく米ドルで外貨準備高を保有することで、日本の中央銀行は結局、1996年4月時点で、財務省に2,045億ドル(20兆円)を融資している。
 1996年7月のSurvey of Current Businessによれば、日本の民間部門の財務省証券の保有高を含めると、日本は米国財務省に対して昨年末時点で、2,230億ドルをも貸し付けている。これは、1994年末の数字、1,690億ドルに比べると31%の伸びになる。それに加えて、日本の公的機関および民間部門は米国の銀行に880億ドルも預金をしており、1995年末時点において日本から米国への融資総額は3,100億ドルにものぼった。これだけの金額を日本は米国に融資していながら、日本政府は財政赤字を増やし、その結果、日本国民に対する負債を増加させているのである。
 日本の国債残高の驚くべき増加は大問題である。
 日本政府にほとんど負債のなかった1965年から、日本のGDPと国債残高を比較してみると、過去30年間、国債残高は爆発的に増加し、1,000倍以上に膨れ上がった一方で、GDPは4倍の増加に止まり、その結果、国債残高はGDPの半分以上にもなった。言い換えれば、1965年以来政府が増加させてきた負債を返済するには、日本国民や日本企業が1年間に生産する金額の半分が必要であるということである。 
 日本の国債残高増加の国内の原因をみると、日本の国債が、雪だるま式に増加した原因を明らかにしている。1980 年以来、日本は国家の歳入を上回る金額を支出し、その差を借金、つまり国債の 発行で補ってきた。あるいは、政府は歳出の増加に合わせた増税をしなかったとも言える(つまり 日本のトップ10%の富が増加した分だけの税を徴収しなかった)。その代わり何をしたかというと、FIRE分野に税制上の優遇措置を与えたのである。さらに日本政府は、優遇措置を与えたそのFIRE分野から借金もしている。日本政府は1980年 以来平均で、支出予算の15%以上を借金で賄っているのだ。
 しかし日本の借金の原因は、実際には税率が下げられた裕福なFIRE分野ではなく、公共政策の受益者である残りの国民の責任にされているが、本来の責任は主に日本のFIRE分野と、さらには米国の経済・軍事プログラムを支援した点にある。
 日本の国債の統計は、他の国とは異なる分類になっており、1つの勘定に統合されていない。収入と支出の計算書(赤字の場合は税金で経常支出をカバーできないことを意味する)と様々な資本財(インフラ)支出に関する「資本」のバランス・シートの2つに分かれている。日本では、この2つをカバーするために2種類の国債が発行されている。資本予算の資金繰りのための建設国債と、物理的な資本資産の建設以外の支出に関する経常赤字を穴埋めするための赤字国債である。
 問題は資本予算と経常予算を区別しようとする場合で、ほとんどすべてが「資本支出」と見なされてしまう。例えば、すべての教育費は「人的資本の形成」と見なすことができる。ニューヨーク市は、長い間、橋梁など都市基盤の維持費も単に資本予算として計上してきた。創作力のある会計士なら、循環論法と曖昧な定義付けでかなり柔軟な解釈を行い、事実を曇らせることができる。そのようにして日本も、負債を政策の失敗によるものではなく、正当で当然なものであるかのように見せかけてきたのである。
 特定の支出を別枠にしているのは、国債の発行を正当化するためである。これが正当化されるのは、公共の交通機関や通信から港の開発などの建設プロジェクトまで様々な資本財の価値が長年持続するためである。インフラ整備のプロジェクトが一般に国債で資金繰りされるのはこのような考えが基盤になっており、その国債の償還は、少なくとも基本的には、これらの公共事業から得られるサービスの流れと関連していると考えられている。しかし、国債には金利の支払いという問題が伴い、それ自体が蓄積されていく傾向があることを忘れてはならない。
 また日本の国債残高を増大させた要因に利払いがある。
 過去の借金に対する利払いが、日本政府が借金を重ねる重要な理由になっている。過去15年間に、日本政府が、年間予算のうち平均10兆円を毎年借金しなければならなかったことを考えると、この間、こうした借金を処理する年間コスト(国債費)は平均13.1兆円であり、これは年間予算の20%以上に達している。国債の処理費用は、政府歳出の主要項目なのである。
 これらの負債処理コストは、「納税者」から、税金の正当な支払い負担を逃れた「不労所得者」へ公的資金が移動することを意味する。つまりFIRE部門が税金を逃れた結果、政府は財政赤字となり、税金で徴収できなかった資金を借金する。政府は借金に対する金利の支払いを必要経費として落とすことを金融および不動産投資家に認めた。それによって、不動産部門は課税対象の利益を全く上げていないように見せかけることができるわけである。そして日本政府は、実際そのような税制上の優遇措置を与えた金融部門から借金をしているのである。
 この税金の抜け穴のおかげで不動産投機家はより多くの資金をふところに残すことになり、さらに不動産投機家はそれを金融部門に金利という形で支払っている。銀行その他の金融機関は、課税対象の収入を稼いでいないという幻想を作り出し、この金利収入に対して資本の損失や他の控除を主張する。もちろん、長年にわたって金融機関はキャピタル・ゲインを上げているが、様々な形態の非課税「積立金」として別枠にすることで税金を逃れてきた。そして、これらの積立金の一部は、財政赤字の資金繰りのために発行される国債に投資されてきた。つまり金融部門は、税金を払わないことに対して、金利という報酬を受けているのである。
 もちろん、このような政策をとっているのは日本だけではない。同じようなプロセスは米国でも見られる。事実上、日本は、経済全体にFIRE部門の資金援助をさせるという「米国製」の税制度を採用したと言える。
 産業の近代化と輸出の増加によって、日本は戦後目覚ましい経済発展を遂げた。しかし不動産および金融部門の収益に対して課税を怠り、さらには富と間接費を正しく区別しない財政政策によって、この成長もストップする恐れがある。
 このままの政策では日本が負債から抜け出すことはできない。それどころか、ますます日本経済は負債の泥沼に引きずり込まれていくであろう。
 あるエコノミストは、自国に対する借金なのだから、負債の規模は問題ではないと主張する。しかし、厳密に見ればこの借金は、日本の一般的な納税者が、自分の収入に見合っただけの納税をしていない一部の階級に対して持つ借金なのである。これは税収入を国債保有者の手に移していることに他ならない。さらに厳密に言えば、労働者や産業資本は、FIRE部門を儲けさせるために税金を払っていることになるのだ。
 さらにひどいことには、予算が削減されても債権者への利払いは絶対的に変わらない。予算削減によってしわ寄せをくうのは、常に9割の国民のためにある公衆衛生や福祉などの社会福祉プログラムなのである。
 日本人の貯蓄高は驚くべき程高いが、同時に多額の借金も抱えている(特に住宅ローン)。どの国でも、最も裕福な少数の家庭が、企業、政府、地方自治体と共に残りの国民に負債を負わせる傾向にある。より少数の家庭が、より金持ちになっていく。第二次世界大戦後の米国、そしてラテンアメリカ、ヨーロッパ、現在はロシアでもこのような現象が起きている。
 確かに、負債処理コストの一部は、国債償還費に回される。しかし、これは日本が毎年、その負債の一部の支払い期限を延長していることに他ならない。
 第三世界の累積債務が激増した1970年代にブラジルがとったこの政策は「ブラジル症候群」とも呼ばれている。日本政府は、金利支払い分を銀行から借金することで、毎年、負債の支払い期限を延長できると信じていた。銀行が不安を感じ始めれば、債務国政府の支払う金利は高くなる。しかし、金利さえ支払えば必要なだけ資金を得ることは可能だった。こうして、金利は、毎年、融資の元金の中に組み込まれていったのである。
 このような政策の結果、年々増加する国債残高の中で、過去の国債の処理費用に向けられる割合が増えていった。こうして、政府は悪循環に陥り、過去の借金を清算するためにまた新たな借金を繰り返さなければならなくなった。
 第三世界に限らず、米国もこのような政策をとっている。米国の国債の金利は、現在、年間2,000億ドル(20兆円)にのぼっており、これは軍事費をも上回る金額である。ここ数年、金利の支払いは米国の財政赤字の約80%を占めている。日本は米国からの提案を受けて政策を決定しているのだから、米国の財政政策を真似ていると言われても仕方がない。米国のエコノミストは、米国が第三世界と同様になったと述べている。それが事実であるとすれば、日本も同じ部類に入る危険性は十分にある。以上が現代日本の負債事情であり、その要因となろう主な概要である。
 1970年代のスタグフレーション(不況下のインフレ)に、サミュエルソンは有効な対策を提唱できず、マネタリストのミルトン・フリードマン、合理的期待形成学派のロバート・ルーカス、成長論のロバート・ソロー、「赤字財政の政治経済学」の著者ジェームズ・ブキャナン、ポストケインジアンのジョーン・ロビンソン等、様々な立場から批判を浴びた。彼が急速にその影響力を喪失させることとなったのは、中世からもたらされた「負の経済論」を消化しきれていなかったからだ。
 これらと同様に、あるいはそれ以上に、負の遺跡原爆ドームに関する負債の問題は深刻であろう。金銭の不始末に手をこまねいている日本に、果たして心の負債を処理でき得るのであろうかと思うと、いかにも心重たいものがあるのだが、さて置き、先に話を進めるとして、広島県物産陳列館(後の原爆ドーム)の設計者ヤン・レッツェル(Jan Letzel, 1880年4月9日 - 1925年12月26日)は、ポーランド国境に近いボヘミア・ナーホトで生まれた。・・・・この続きは立体言語学から導く「中世の肖像」②中編Ⅰでご紹介する。

ヤン・レッツェル2 ヤン・レッツェル                                     三馬 漱太郎

聖マンショ伝「帰らざる丘」・No.0027

16世紀ポルトガルと、17世紀オランダからの視界。日本にも大航海時代があり、朱印船貿易はやがて鎖国へと連なる。

 日本が「鎖国」といわれた対外政策をとった江戸時代の直前、七万人ともいわれる日本人がアジアに展開していた時代が存在した。

荒波

 これを「日本の大航海時代」と呼ぶのは少し誇張に聞こえるが、確かにポルトガルやスペイン、オランダが相次いで日本に迫ってきただけでなく、16世紀の後半から17世紀の前半にかけて、日本人も勇躍、海を超えて現在のベトナムやタイにまで展開していたのである。世界史の中でこのような日本史を熟慮する時、世界のダイナミズムを受け止めるとともに、日本も内在するエネルギーをアジアに放ち、それが再び日本を突き動かすという相関の力学に気づかざるをえない。

朱印船貿易 朱印船 

 徳川家康は貿易に極めて積極的であった。関ヶ原の戦いの年(1600年)に大分に漂着したオランダ船リーフデ号を浦賀にまで回航させ、乗員のウィリアム・アダムズやヤン・ヨーステンを外交や航海術の顧問として登用して、通商の拡大を試みた。幕府を開いた次の年(1604年)には「異国渡海朱印状」という貿易許可証を発行し、最初の朱印状を携えた29隻の朱印船が海を渡った。200人~300人の乗組員と「商客」といわれた商人が乗船していたというが、幕末に太平洋を渡った咸臨丸(625トン)が96人の乗員だったことを考えると、千トン級の大型船だったことに驚かされる。

ウィリアム・アダムズ ウィリアム・アダムズ

異国渡海朱印状 渡海朱印状

 中国式ジャンク船と西洋式ガレオン船に和式を加えた折衷スタイルで、多くは長崎で建造された。「鎖国」に向けて幕府は1609年以降、500石以上の大型船の建造を禁止し、日本は大型船建造技術を一旦は失うが、17世紀初頭に大型船建造技術を保有していたことに注目したい。1604年から幕府が海外渡航を禁止した1635年(寛永一二年)までの31年間、朱印状を与えられた南洋渡航船が356隻も海を渡った。これに伴い、海外渡航した日本人は累計約7万人、南洋に移住した日本人は7千人から1万人と推計される。

茶屋四郎次郎 茶屋四郎次郎

 船主として朱印船をアジアに送った担い手は「豪商」といわれた京都の茶屋四郎次郎、角倉与一、長崎の荒木宗太郎だけでなく、あのリーフデ号のW・アダムズやヤン・ヨーステン、平戸の中国人商人の首領たる李旦などの「外国人」、小倉の細川忠興、平戸の松浦鎮信、島原の有馬晴信と松倉重政、熊本の加藤清正、佐賀の鍋島直茂、薩摩の島津忠恒などの「西国大名」であった。
 この海外展開によって日本人が集団的に居住した「日本人町」は7カ所、安南(現在のベトナム)にツーラン、フェフォの2カ所、呂宋(現在のフィリピン)にマニラなど2カ所、カンボジアにプノンペンなど2カ所、シャム(現在のタイ)のアユタヤであったという。貿易を扱う商人が主であったが、関ヶ原や大阪の陣の敗残浪人、追放されたキリシタンなども少なくなかった。

山田長政 山田長政

 この頃海外に雄飛した象徴として、伝説的に語り継がれてきたのが山田長政である。駿府の商人の息子だった彼は、1612年(慶長17年)23歳で朱印船に乗って長崎からシャムに渡航。アユタヤに入った長政は、アユタヤ王朝の護衛隊長にまで昇りつめるとともに、交易商人として財をなして日本人町の頭領となる。日本との修好にも努め、二代将軍秀忠の時代、1621年にはソンタム国王が日本に派遣した使節を仲介した。スペイン軍の侵攻を迎え撃つなどの功績で国王の信任を高め、王朝の高官にまで昇進したが、ソンタム国王の死去を境として運命は暗転、権力闘争と内乱に巻き込まれ、41歳で戦傷のため異国の地での数奇な人生を終えた。

倭寇 倭寇の図

 しかしこのような17世紀の日本人の海外展開の伏線として、「倭寇」の存在がある。
「前期倭寇」と区分されるが、14世紀~15世紀にかけて対馬・壱岐・松浦や高麗・済州島の海人に、徒党を組んで朝鮮半島や中国の沿海部で海賊行為を働く者がいた。1368年に成立した中国の明王朝は海外渡航を禁止して「海禁政策」に踏み込んだが、倭寇による治安撹乱への対応という性格もあった。倭寇の実態は必ずしも日本人だけの海賊ではなく、朝鮮人や中国人のアウトローが流れ込んだ混成略奪集団であった。明や高麗が倭寇鎮圧に動き沈静化を見せたが、16世紀になって再び活発になったのが「後期倭寇」であった。
 明の海禁政策によって密貿易が盛んになり、密貿易者が中心になって中国沿海部などで略奪行為を働いたのが「後期倭寇」である。日本人はせいぜい二割以下で、大部分は中国人であった。
 先行して登場したポルトガルが1517年に遣明大使を北京に送ったが、皇帝との謁見を拒否され密貿易に転じたことは、当時、密貿易や海賊行為は特異なことではなく、遅れてアジアに参入したオランダ東インド会社でさえ、競合者にすれば海賊行為を働く危険な存在だったことを物語る。17世紀の同社の記録に残る日本人傭兵について興味深い記述がある。「その国(日本)では厳しい法律、数人の独裁者によって抑えられているが、そこで子羊のような存在が、国から出ると悪魔のような存在になる」(C・フレデリック『一七世紀オランダ人が見た日本』、)。これは日本人論につながる記録だと考える。

C・フレデリック C・フレデリック

 国際法の父といわれるオランダ人グロティウス(1583~1645年)が『戦争と平和の方法』を書いたのは1625年であった。やはり17世紀オランダの産物であり、それまでの世界では「国際秩序」という考えは無かったといってよい。30年戦争の最中に書かれ、国の交戦権という概念を確立し、戦争を終結させてオランダのスペインからの独立を確定した「ウェストファリア条約」の基本思想になった書である。「暴力的侵攻も略奪も当然」という混沌とした状況に、国際的秩序を構想する論理が芽生えたのが17世紀であった。

グロティウス グロティウス

 改めて考えれば、16世紀末の豊臣秀吉による朝鮮出兵は東アジアにとって究極の組織だった倭寇であったといえよう。「文禄の役(壬申倭乱)」(1592~93年)と「慶長の役(丁酉再乱)」(1597~98年)の評価は、歴史を考える者にとっての特別な謎である。一般に、「天下統一」を果たした秀吉が仕掛けた「無謀な対外戦争」、諸大名の勢力を削ぐための狂気の膨張主義とされる。合理性を欠いた野心とするのが今日的には妥当な評価だが、秀吉のスペイン国王への書簡などを読むと、ポルトガル・スペインの接近という外圧を受け止めて、少しずつ世界状況が見えてきた中で、外圧が内圧を高めて外に弾けた力学を感じる。それは、この朝鮮出兵が朝鮮半島を揺るがし、明国の滅亡を早め、東アジアにおける「国民国家」形成を促す契機ともいえるからである。
 織田信長は交易にも積極的で、キリスト教にも支援的であった。イエズス会の宣教師フロイスやヴァリアーノとも何度となく面談し、安土にはセミナリオの建設さえ許した。信長を継いだ秀吉も交易を重視したが、いつしかキリスト教を危険だと感じるに至った。彼が決定的にスペイン・ポルトガルを危険と感じたのは、1596年のスペイン船漂着事件であった。
 朝鮮出兵の最中、サン=フェリッペ号がフィリピンからメキシコに向かう途中、土佐の浦戸に漂着。秀吉は五奉行の増田長盛を派遣して積荷を没収、事情聴取した。船長は世界地図を示し、いかにスペインが強大であるかを語り、多くの国土がスペイン領となった理由を「宣教師を送り込み、信者が増えたところで反乱を起こさせ、その混乱に乗じて軍隊を送り込み、領土化する」と述べたという。事実、キリスト教の宣教師が植民地化の先兵となった事例は多く、秀吉の疑念を決定づけた。また、当時朝鮮出兵のため九州に出陣していた秀吉は、長崎の土地がキリスト教会に寄進されている現実に驚き、危機感を高めた。秀吉がキリシタン26人を捕え、長崎で磔殺した(二六聖人の殉教)のは、漂着事件の二か月後であった。

 徳川幕府の時代となり「交易は続けたいが、キリスト教は危険」という心理の中で、31年間の「朱印船貿易」の時代を迎える。そして、欧州の政治力学が次第に日本の歴史にもインパクトを与えていく。カソリックのスペイン・ポルトガルに対するオランダの対立が持ち込まれてくるのだ。
 アジアに先行したポルトガルであったが、1580年にスペインに併合され、再独立までの60年間、日本においては本能寺の変の二年前から「鎖国」体制を完成させたとされる寛永16年(1639年)の第5次鎖国令(ポルトガル人の国外追放)に至るまで、厳密にはスペイン・ポルトガルは一体であった。
 リーフデ号以来、遅れて日本に登場したオランダが、本国がスペインへの独立戦争を戦っていたこともあり、スペイン・ポルトガルの排除へと動き始める。W・アダムズやヤン・ヨーステンなども、自ら朱印船貿易の担い手となりながら、幕閣への影響力を高め、「カソリック国スペインの危険性」を耳打ちし続けた。キリシタン弾圧の中で、1637年には島原の乱が起こり、驚愕した幕府に対するオランダ商館長ニコラス・クーケバックルによる「スペイン・ポルトガルの排除と朱印船貿易の中止」の進言が決定づける。「オランダは宗教ではなく経済(交易)に徹し、出島による幕府管理下の朝貢貿易の形式を順守する。日本による朱印船貿易はスペイン・ポルトガルの報復や海賊行為を考慮すれば危険であり、オランダ東インド会社に任せたほうがよいこと」を説き伏せたのである。

  ところで、日本において「鎖国」という言葉が登場したのは1801年、江戸時代も後期に差し掛かっていた。1690年に長崎出島のオランダ商館で二年間働いたドイツ人医師ケンペルが書いた『日本誌』(1727年)を長崎通司だった蘭学者志筑忠雄が百年も経ってから翻訳し、幕府の海禁政策を「鎖国」と訳したことに由来する。厳密にいえば造語であり、原書(蘭語版にも英語版にも)に「鎖国」に相当する記述はない。志筑はロシアの接近(1792年の根室来航など)に強い危機感を抱き、「鎖国」の重要性を強調する表現に至ったと思われる。
  近年、「鎖国」に関して新しい視界を提起する研究や著作が発表されている。大島明秀「『鎖国』という言説」(ミネルヴァ書房、08年)、ロナルド・トビ「『鎖国』という外交」(小学館、08年)、松方冬子『オランダ風説書と近世日本』(東大出版会、07年)、大石学『江戸の外交戦略』(角川書店、09年)、速水融編『歴史の中の江戸時代』(藤原書店、11年)などは、「鎖国」といわれた時代を世界史との相関で柔軟にとらえ直す視座を刺激する。漱太郎もこのコラム連載を通じて、鎖国とは日本人にとって何だったのかを深く掘り下げていきたい。そこからは、「鎖国」という戦略外交が存在したこと、遮蔽された時代ではなく実は世界との持続的「交流」が存在したこと、日本にとって「国民国家」への自立と自覚のプロセスだったことが見えてくるであろう。

 さて本コラムの途中で挟んだ山田長政だが、彼は、駿河の大名の籠担ぎから身を起こしている。その山田長政の活躍した17世紀には、シャム(タイの旧名)は今のバンコク王朝ではなく、アユタヤに首都を置くアユタヤ朝が支配していた。

アユタヤ アユタヤ王朝の遺跡

 アユタヤは、チャオプラヤー川と数多くの支流を通じてもたらされるタイ内陸からの物流とタイ湾を通してやってくる東南アジア交易網とが結びつく地点にあるという地の利を生かして、古くから交易が盛んな豊かな国であった。17世紀のはじめまでには、アユタヤ市の南東に各国からやってきた外国人達の集まる外国人町が出来、日本人も自分たちの町を作っていた。この日本人町の人口は最盛期で1500人に上ったといわれ、山田長政の活躍した頃には商人だけではなくキリシタン・関ヶ原の役、大阪落城後亡命した浪人なども多くやって来ていた。

アユタヤ日本人町 アユタヤ日本人町の碑

 長政の出生(1590年ごろ)は駿河国の駿府馬場町とされるが、伊勢や尾張とする説もある。沼津藩主・大久保忠佐に仕え、六尺(駕籠かき)をしていたが、その後1612年に朱印船で長崎から台湾を経てシャムに渡ったことになっている。しかし『台湾通史』によると、山田長政が台湾を経てシャムに渡ったのは、1604年であったことが分かる。ここに8年の誤差があるのだが、この空間の狭間に、知られざる彼の実像があった。金地院崇伝(こんちいんすうでん)の『異国日記』という文献の中に、「山田仁左衛門長正」なる人物がなぜシャムへ渡航するようになったのかが判る。
 金地院崇伝とは幕府の公文書を写した『異国日記』(京都・南禅寺金字院所蔵)である。
 慶長12年(1607)に徳川家康が大御所として駿府城に在城するようになると、駿府は経済的に一挙に活気づいた。その異国日記にもあるが、外交政策の中枢が駿府におかれ、朱印状は駿府城から発行された。国際都市の様相を呈す城下には海外雄飛の気運が高まり、駿府の豪商たちも朱印船貿易に関わってゆく。滝佐右衛門、太田治右衛門はそうした商人だった。
 さらに家康と共に移住した家臣団は、駿府の文化水準を格段に上げていた。浅間通り周辺には家康を支える優秀な人材が居住する。西草深(現在のNHK静岡放送局裏)には林羅山(はやしらざん)の屋敷があり、その界隈は羅山の号「夕顔巷」をとって、夕顔小路と呼ばれた。羅山は徳川家康より四代にわたり将軍の侍講を勤めた儒学者である。家康が駿府城内に設立した図書館「駿河文庫」を管理し、『大蔵一覧』『群書治要』など多くの典籍の刊行を指揮した。これらの書籍の印刷には銅活字を用いた駿河版が使われ、作業には臨濟寺や清見寺の僧が動員された。羅山が晩年に江戸で家塾として開いた昌平黌は、後に官営の学校(昌平坂学問所)に発展し、武士の学問の礎を築いた。
 そんな駿府の、宮ヶ崎には前述の金地院崇伝が住んでいた。黒衣の宰相と呼ばれた崇伝は、家康が最も重用した側近である。宗教顧問であると同時に外交事務を担当して外交文書を起草した。彼らは家康の二大ブレーンとして徳川家を支え、二人が起草した「武家諸法度」によって幕府の体制は揺るぎないものとなった。このころ豊臣から徳川へと、時代が大きく回転するその中心が駿府にあった。少年から青年時代にかけての長政は、そうした空気を肌に感じていたのである。

アユタヤ4

 金地院崇伝によると、長政は滝佐右衛門、太田治右衛門らの商人と関わることになる。その長政が17歳(1607年)のときに約2ケ月ほど長崎に滞在する。当時の航海は季節風を利用したため、各国の商船は風向きが変わるまで、停泊した交易地に長期間滞在したのだが、長政は滞在した長崎で出航の算段を立てていた。この滞在期間に「アユタヤの南東に各国の外国人たちが集まる外国人町が作られ、日本人もまた自分たちの町を形成していた」ことを知る。これを詳細に伝えたのが伊東三之丞であった。この伊東三之丞についてはコラムNo.0006で述べたが、三之丞は伊東マンショの変名である。時代は、日本の朱印船貿易が盛んになる一方で、豊臣残党の浪人や、すでに弾圧が始まりつつあったキリシタンたちも、密かに国外へと脱出していた。こうした日本へ戻れない事情を持つ人々と貿易に関係する商人・船員たちが合流し、アユタヤ郊外の日本人町は最盛期には、千五百人とも三千人とも八千人ともいわれる邦人が在住していた。豪商の船に便乗してアユタヤへと密航を決意した長政が17歳であったのなら、伊東マンショは37歳であった。

アユタヤ5 アユタヤの風景
アユタヤ2 王朝の遺跡

 山田長政が関わったキリシタンの一人に、後に日本国内で壮絶な殉教死をとげるペトロ岐部がいる。長政は自身はそもそも浅間神社信仰だったが、伊東マンショに接しているうちに他の宗教に対しても寛容になったという。その長政はアユタヤの地で、日本人町にキリシタン教会の設立を許し、キリシタンと深い交流をすることになる。

アユタヤ3

                                              三馬 漱太郎
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Author:三馬漱太郎
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Sotarou Miuma
立体言語学博士
Social Language Academy Adviser
応用社会言語科学研究員

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