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聖マンショ伝「帰らざる丘」・No.0026

日本の歴史は「中世」のところで極端に分断されているために、今、その中世における「真の実在」が問われている。

 歴史とは今に繋がっている。都内人形町の駅前にそんなリアルさを感じさせる場所がある。そのリアルとは視覚には映らないのだが、駅前(地下鉄日比谷線/都営浅草線)に一軒の店構えが220年前からあり続けていることを知ると、その現代の空間に、かってきっと馬がポカポカと歩いていて、この場所に二本差の武士が買い物に来たり、馬の鞍を見にきたりしていたことを想像してしまう。「RON」とは、そんなプレミアム付きの喫茶店である。

喫茶店「RON」
 人形町のこの地に矢島家が店を構えて約220年(創業は江戸天明期の1780年)になる。今は喫茶店だが、当初の江戸期には馬具商という商売をしていた。馬具商というのは、武家総合雑貨商といっていいだろう。たとえば武士が使用する刀、鎧(よろい)、兜(かぶと)、薙刀(なぎなた)、馬の鞍(くら)や鐙(あぶみ)などをとり扱っていた。その馬具商の後両替商となり、明治期には唐物商(洋傘などの輸入洋品を扱う店)をし、現在はRONという喫茶店(昭和40年から)を営んでいる。写真はそのRON(ロン)の12代目の店構えである。

喫茶店「RON」2

 日本の書籍の中にずしりと重い本がある。この本を読んでいない人と日本を語るのは遠慮したいものだ。漱太郎は喫茶店「RON」で、最初に読みおわったとき(大学1年)に、そんな気分になったことを今でもよく憶えている。
 それほどに、本書からうけた衝撃は大きかった。あまりに大きくて、本書「中世の文学」の思索の跡をそのまま引用しないで日本を語るにはどうすればいいか、漱太郎はずっと病気に罹ったようなもので、その影響から脱出するのにたっぷり10年以上がかかってしまった。

中世の文学 中世の文学

井蛙抄 井蛙抄

 1956年(昭和31年)に読売文学賞・文芸評論賞を受賞した「中世の文学」、その著者である唐木順三は『井蛙抄』の挿話から、この一冊の思索を始めている。「文覚上人、西行をにくまれり」である。出家の身でありながら数寄に遊んだ西行についての文覚の印象を突端に置いて、以降、唐木は「数寄とは何か」という思索にふけるのであった。

唐木順三 唐木順三

西行 西行

 いったい数寄はディレッタンティズムなのかという問いが始まり、中世の初期では数寄が「外形を極微のところまで凝縮した栄華」だったことをつきとめる。それがしかし、鴨長明で変わってくる。「数寄に対する執着にのみ頼ることが数寄」ということになっていく。ここで風雅を友とする数寄が生まれた。
 さらに継いで数寄の背後にある「すさび」が問題になる。そこには「心理を離れた裸形の現実」がある。それは『徒然草』の思想でもある。裸形の現実を見つめると、そこには無常が見える。無が見える。そこで吉田兼好は、数寄の心をいったん否定する。

徒然草 徒然草
徒然草2
吉田兼好 吉田兼好

 しかし、思索はそこにとどまらない。唐木順三の「すさび」はさらに「さび」にまで進む。「さびはすさびと同じ語源をもちながら、すきをも止揚する」。そこにあらわれるのが世阿弥である。世阿弥は数寄を「せぬ隙」にさえ見とどけた。
世阿弥 世阿弥と能
松尾芭蕉 松尾芭蕉

 ここから松尾芭蕉へは直線的に一跳びである。唐木はそのことをしるして、序文をおえる。そして、このあとを、長明、兼好、世阿弥、道元、一休、芭蕉という順で、ゆっくりと日本の中世を初期から後期へと紐解いていく。
 長明について、唐木は「類型」と「類型を脱する」の両方を思索する。そのため、定家の「有心」をたどり、好奇心が類型をつくりながらもそこを脱していく経過に目をとめる。
 しかし、長明はその経過をたどろうとはしなかった。長明はむしろ「数寄の最後」を最初から狙っていた。その「数寄の最後」が長明の発心なのである。最後が最初であった。唐木はそこまでを確認して、ついで兼好の生き方に入っていく。
 その吉田兼好を見ていくと、「数寄」が好みを積極化していくのに対して、「すさび」はよしなごとであってなぐさみであるように、そこに受動というものがはたらいていることがうかがえる。それが兼好の「つれづれ」だった。だからこそ「あぢなきすさび」という奇妙な感覚も兼好の言葉になっていく。どうもそこには「質の変化」というものを観照する目がはたらいている。

 中世初期の『方丈記』や『平家物語』では、存在するもの、盛んなるもの、すなわち「有」が発想の中心にあった。それが『徒然草』では、存在するもの、有るもの、形あるもの、不動のものは、かえって「仮」である。兼好にとっては「変化の理を知らぬ人」は「愚なる人」なのである。
 これを唐木は「無有観」と見た。それは道元を先取りするものでもあった。
世阿弥は、唐木の思索にとって「すさび」を「さび」にまで進めた人である。世阿弥によって、王朝の荒涼寂寞は中世の枯淡幽静になっていく。
 ここでは有心はあきらかな無心にまで進む。たとえば「せぬ隙」は態と態との厳密な間であり、「時分の花」とは芸能者が一定の時間の中でのみ感得できる緊張の開花である。ここから「見の能」「聞の能」の先の「心の能」が出てくる。この「心の能」に「寂々としたもの」と「冷え」があらわれる。これが世阿弥の「さび」だった。
こうして道元の「道得」や「横超」が見えてくる。とくに唐木は道元が「梅華」「行持」「有時」の巻で展開した思索に目を注ぐ。そこにあらわれるのは「而今(にこん)」ということである。つまり「いま」ということである。

道元 道元

 しかし、道元の而今は、古仏のすべてに出会うための而今なのである。そこには時間の横超がある。その重畳がある。これが道元の「現成」であり、「身心脱落」である。いわば同時契合なのだ。唐木はそこにライプニッツのモナドロジーを思う。そして、あらかじめ設定された予定調和の否定を思う。
 道元は数寄を捨てたが、一休は同じく禅者でありながら、その数寄をほいほいと弄んだ。
しかし、唐木にはそのような一休がいささかわかりにくいらしい。一休は長明が依拠した庵を捨てたからである。そのあたりのわかりにくさが、本書のなかでも一休の章を甘いものにさせている。そこで唐木は、一休の二度にわたる自殺行に目を転んじようとする。そしてそこから一休以降の時代をおおう「風狂」「風流」を見る。『狂雲集』に分け入る。けれども、ここでは唐木はついに唐木らしくない。
 唐木がふたたび唐木らしい思索をとりもどすのは、やはり芭蕉においての風流の意味を解く姿にあるようだ。芭蕉の章は、ほかの唐木の著書と同様、渋い光に満ちている。唐木の思索はつねに松尾芭蕉において結晶にとどいていく。
 唐木は松尾芭蕉によって「象徴が生まれる場所」がどういうものであるかをときほぐす。「松のことは松に習い、竹のことは竹に習う」ということをあかす。そこに「さび」が立っていくところを見る。
 この最後の章で、唐木は次の主題を見出している。それは「無用」とは何か、「無常」とは何か、「無為」とは何か、ということだった。とくに連歌師・心敬への注目が、そのことを兆していた。
 こうした唐木のいう無用となるモノを考えるとき、現在放送されている日曜の大河ドラマNHKの「平清盛(たいらのきよもり)」の視聴率がはかばかしくないことに漱太郎は一抹の危うさを抱くのである。

 平安後期から鎌倉時代に至る経緯とは、中世の黎明であり、その正体の内では日本人が海外を意識し始める時代であった。そういう意味合いから平家物語を読み解くには、この物語が成立するために横超した時間の真相を知る必要がある。しかし、ここらは背景であるから、文学性優先の物語の中では触れられることはない。だが、面白いとか、面白くないとかにかかわらず、この時期の武士の台頭する時間こそが現代をひもとく日本史において重要なのであるから、この時期に平家物語が出世する必然さを感じることが重要なのである。これは、日本において武士なるものが台頭する時代に、果たしてヨーロッパでは何がどうなっていたのか、という小さな島国である日本の外に横たわるカテゴリーを孕んでいるところが極めて重要というのに等しい。
 中世の、その時代の、日常生活のささやかな哀歓を巧みに、繊細に描き出している様々な文学はもちろんすばらしい。しかし、文学形式は本来、等身大の個人の生をはるかに凌駕した巨大な主題を容(い)れることのできる融通無碍な器でもある。そうして政治や歴史をめぐる壮大な問題意識を中核に据えている。一個人の知識や想像力ではとうてい見通しが利かないような大問題に真っ向から立ち向かおうとする企図を孕ませる。ところが単なる共感の頷き合いを当てにしていては、ここらが見えてこないことになる。文学とは、政治学や社会学の論文とはまったく違う形で、「歴史」を問題化することができるのであるから、捉える人の想像力によっては、外洋をも超えて、融通無碍の世界史へと拡がり結び合わさることになろう。こんなことを念頭に据えたものだから、久しぶりに人形町へと足を運び、初めて唐木順三の「中世の歴史」を読んだ喫茶店「RON」の席に座り、改めてその著書を読み返してみた。するとその著書の視覚には無いが、しかし同史上に孕ませている外洋の光景が比較されて浮かんでくる。RONとはそういう暗渠へと通じる店なのである。

喫茶店「RON」3 喫茶「RON」の灯り

 13世紀(日本では鎌倉時代)、モンゴル軍によって残酷な殺戮と共に持ち込まれたペストの猛威で、ヨーロッパはその人口の3分の1を失うことになる。こうした中で起きた身の毛もよだつ、陰惨極まりない狂気の「魔女裁判」や、不思議であり且つ滑稽でもある「動物裁判」など、(キリスト教の)暗黒部分を内蔵した中世ヨーロッパは、なんとかイスラムの強圧に対抗しながら、次第に内陸部からその活動の舞台を再び地中海そして外洋へと視点を移していくことになった。
 まだスエズ運河の開通していなかった当時、ヴェネティアを筆頭に多くのキリスト教国家群は、地中海の制海権をイスラムと争いながら台頭と衰退を繰り返していた。
 しかしながら、当時のヨーロッパ王侯貴族、それに富裕層を虜(とりこ)にしたのは、地中海での抗争に敗れたものの、ペルシャ湾・紅海という地の利ならぬ海の利を得たアラビア商人たちのダウ船によって、海のシルクロードを経由して持ち込まれる、(胡椒に代表される)東インド・東南アジア諸国の物産であった。

胡椒 胡椒
ダウ船 ダウ船

 ダウ船とは、1本か2本のマストに一枚ずつの大きな三角帆(ラテンセイル)を持つイスラーム圏の伝統的な小型の木造帆船で、シンドバッドの仲間たちは、季節風を巧みに利用して、インド洋・アラビア海を乗り切っていったのである。
 当時マレー半島南岸に栄えたマレー系イスラム港市国家マラッカ王国(1402年~1511年)には、香料貿易の中継港としてインド、中東からダウ船が蝟集して殷賑を極め、東インド・東南アジアにおけるイスラム系商人の拠点となっていた。
 ちなみに、彼らは、西洋諸国とは正反対に、そうした当該地域の国々へイスラム教を広める役割をも果たしていったのである。
 ところがその、後ポルトガルによって、アフリカの希望峰を回ってインドや東南アジアに到る新航路の開発によって、インド洋・アラビア海の制海権をも制し、大航海時代の幕が切って落とされ、次第に東インド・東南アジア・チャイナの珍奇且つ貴重な物産の交易権を把握していく。
 その後スペインの後ろ盾を得たコロンブスによって、西へ進むことでアジアに到る新航路だと信じて大西洋へ進出するのだが、その結果新大陸の発見によって、続々と富を幸を求めての航海が始まった。
 新航路の発見は、地中海で制海権を把握した国々から、大西洋に面したポルトガル・スペインにつづいて、オランダそしてイギリスという、かつての辺境にあった国々に光を当てていったことになる。しかもそうした国々は、国内の物産に恵まれぬところから、海洋立国としてのアイデンティティを明確にしていくことになった。
 さて、当時西洋の民がいかにこの地の物産を欲したか。文明の海洋史観を考察すると、この地は、「コショウ(胡椒)に代表されるクローブ(チョウジ=丁子)・ナツメッグ(ニクズク=肉豆蒄)・シナモン(ニッケイ=肉桂)などの香辛料にとどまらず、木綿・絹製品・砂糖・コーヒー…、という豊かな物産を生み育みそして交易する東南アジアの多島海であった」ことになる。
 それだけではない。モンスーン地帯である東南アジアの熱帯雨林という自然が生み育んだ、豊かな植生が生んだ再生(継続)可能な贈り物、「紅茶・ゴム・バナナ・ココナッツオイル・コプラ……」などの物産であり、いまや乱伐によってすでに失われいしまった白檀・伽羅木・栴檀、紫檀・黒檀という香木や銘木、それに枯渇に瀕しているチークやラワン材という有用樹があった。
 さらに加えて、この地域では、ルビー・サファイア・エメラル・真珠・翡翠(ひすい)・珊瑚という宝石・貴石、それに金・銀という貴金属まで産出し集積された。こうした豊穣の品々が、当時のヨーロッパでいかに持て囃され、いかに巨大な富をもたらしたか。
 その後の当該地域の有り様を見れば、日本による大東亜戦争終結まで、ほとんど全ての地は西洋列強の植民地と化してしまった事実であり、そしてその尖兵として活躍したのが、(イエズス会を中心とした)カソリックの神父たちだったのである。
 日本におけるキリシタン禁令を考えるとき、問題視しなければならないことは、GHQによって、真実がすっぽりと覆い隠された戦後日本の歴史教育は、そうした西洋列強およびキリスト教の負の遺産をも漏らさずに隠蔽したため、当時秀吉・家康のキリシタン迫害の面のみが強調されてきたことである。
 したがって現代の私たち日本人が知り得たのは、日本文化を理解してそれを正確に本国に伝えようとした、イエズス会のフランシスコ・ザビエル(1506~1552年1)やルイス・フロイス(1532~1597年)くらいであったため、二十六聖人の殉教(1597)や踏み絵という非人道的行為、それに島原・天草の乱(1637~1638年)迫害ばかりが強調されてきた経緯があるために、中世の正体に日本人はまことに疎いのである。

ルイス・フロイス ルイス・フロイスの像

 従って『日本人とは何か』を考えるとき、秀吉のキリシタン禁令の理由について、二十六聖人の殉教以降も自由に布教していたのだが、天正7年(1587)にイエズス会が長崎を勝手に「教会領」にしたことを怒って、以下五箇条の詰問状を同支部長ガスパール・コエリョ(1530-1590年)に突きつけたという事実は重いのである。それは・・・・、
1.いかなる権威で秀吉の臣下を親者に強要するのか。
2.なぜ(信者・門弟に)神社仏閣を破壊させるのか。
3.なぜ仏教の僧侶を迫害するのか。
4.なぜ耕作に必要な牛を殺して食用にするのか。
5.なぜ支部長ガスパール・コエリョは、その国民が日本人を購入してインドに輸出するのを黙認するのか。ということであった。
 この秀吉の詰問に対してガスパール・コエリョは、自分たちの罪ではなく、「売る日本人がいるからで、彼らも厳罰にしてくれれば解決する」という回答をした。 
 また当時、西洋列強による東アジアの植民地化の実情は、逐次日本の施政者の耳にも達していたため、そうした彼らの極東政策の危険性と同時に、その尖兵としての役割を担ってきたキリスト教の持つ、もう一つの顔をしっかりと見抜いていたのである。
 その後日本は、家康の鎖国政策へと進むのだが、家康の側近、外交顧問になった三浦按針(英国人ウィリアム・アダムス(1564~1620年)、それに長崎平戸に、唯一貿易の窓口を開かれたオランダのいずれも、カソリックに対抗する新教徒の国であったことと無縁ではないであろう。
 いずれにしろ、爾来500年近く経過しながら、依然として1桁台で、しかもごく低い入信率に止まっているイエズス会の事実こそ、なおこれはその後のマルキシズムにも通じるのだが、その裏にいかにも危険(秀吉の感じた危うさ)なものを察知する、ある種の民族的英知の存在を窺わせるのである。
 ということは、本能的に一神教の持つ「性悪説」を嗅ぎ取る能力持つ、理屈・理論を超えた「不文律の文化=智恵」を持つ大衆が現存する一方、教義・教典には一切踏み込まず、現世的な奉仕面に価値観を見いだす単純な信徒と、西洋発の不毛なイデオロギーにすぐさま翻弄されてしまう「地頭(じあたま)の悪い」者が、極わずかだが存在することを意味している。
 ところがその一方で、敗戦後GHQ及びソ連コミュンテルンの巧妙極まりない謀略によって、まんまと(縄文以来の)本能である『平和』への絶対的希求を刷り込まれてしまい、まるで言霊のと言うより「護符」のように、『憲法9条・戦争放棄』を唱えることで平和が成り立っていると、信じて疑わない人たちを生み育ててきたかのようであって、これを逆転させたいご意見があることも漱太郎は承知しているのだが、それにしてもじつに滑稽なのである。
 しかもその反面、戦いの内にでも、且つ敵であっても、そこはかとない憐憫の情「滅びの美学」を抱き、「昨日の敵は今日の友」として、また死せる者は区別なく神仏に帰すという、善意に満ちた「不文律の文化=智恵」を、アメリカの宗教戦争史観によって、違法な「極東裁判」「A級戦犯」を正当化することを正しい倫理観と錯覚する民に、ものの見事に変身してしまった事実は、何かモノ哀しい平和観の強要さえ思わせるのである。
 この2つの相反する倫理観・価値観を、なんの疑問もなく内在している、不可思議極まりない日本人の真の本質とは、一体奈辺にあるのだろうか。こうした無謀な経緯には、日本人のいかにも中世の正体への無知が働いている。したがって一概に戦勝国アメリカの性にしてしまうのも愚かである。

 西洋が東洋に、特に日本に近づこうとし影響した動向を年表につまびらかにすると・・・・、
1298-1299  
• 詩人ルスティチェロ・デ・ピサによって、マルコ・ポーロ『東方見聞録』口述の事実が判明。カタイオの東にある大きな島シパンゴ(ジパング) の存在 がヨーロッパ人によって初めて注目される。
• 鴨長明は出家の後、建暦2年(1212年)に『方丈記』を成立。
• 吉田兼好の『徒然草』は鎌倉時代末期、1330年8月から1331年9月頃にまとめられた。
マルコ・ポーロ マルコ・ポーロ

1492
• クリストヴァン・コロンボ(コロンブス)が西方を経て極東にたどりつく決心を秘め、アンダルシア地方パロスを出発。
• 猿楽を深化させていった世阿弥の『風姿花伝』(1400年ごろに成立)。
1498 
• ポルトガル人、インドに到達。ここでマラッカまでのアジア情報を収集。
1500     
• ペドロ・アルヴァレス・カブラルの船隊、インドにおいて東洋に関する新情報を入手。中国に関する正確な知識を初めて得る。
1502     
• マルコ・ポーロ『東方見聞録』ポルトガル語版、リスボンで出版される。
『東方見聞録』ポルトガル語版 東方見聞録

1506     
• ドン・マヌエル一世、イスパニアの進出にさきんじてマラッカに基地を設けるようインド副王を命ずる。
1508     
• ドン・マヌエル一世、マラッカ探索のための遠征隊を派遣。司令官ディオゴ・ロペス・セケイラ。
1509     
• ディオゴ・ロペス・セケイラ、マラッカに到達するも、イスラム商人の脅迫にあい、やむなく即却。
• 初めて中国人に遭遇する。
1510     
• ドン・マヌエル一世、第二次マラッカ遠征隊を派遣。司令官ディオゴ・メンデス・デ・ヴァスコンセロス。しかしゴアにおいて、アフォンソ・デ・アルブケルケ。より遠征続行を阻止される。
1511
• アフォンソ・デ・アルブケルケ、マラッカを征服。ひきつづき東アジアの探索に着手。
1512 
• 親王フェルナンド、喜望峰経由で、東アジアへ使節派遣を考慮するも、断念。アントニオ・デ・アブレウとフランシスコ・セラン、香料(チョウジ、ニクズクなど)の産地であるモルッカ諸島に到達。
1513     
• ジョルジェ・アルヴァレス、マラッカ司令官に派遣され、中国のカントン付近に到達。バルボア、パナマ地峡を横断して、太平洋を発見。
• 親王フェルナンドは、イスパニアの関心が極東アジアではなく、新大陸にあることを確信する。
1514     
• トメ・ピレス、『スマ・オリエンタル(東方諸国記)』をマラッカにて書き終える。日本に言及されたポルトガル最初の記録である。
1515     
• 中国に向け初のポルトガル使節を載せた船隊、ポルトガルを出帆。
1517
• ポルトガル大使トメ・ピレス、広東に上陸。
1519     
• カルロス五世の命により、フェルナン・デ・マガリャンイス、(マゼラン)、モルッカ諸島探索に出発。
1520     
• フェルナン・デ・マガリャンイス、大西洋と太平洋を結ぶ水路(マゼラン海峡)を発見(10月)。
1521     
• マガリャンイス船隊、東アジアに到達。マガリャンイスはルソン人との戦いで死亡。
• ポルトガル商人、広東から追放される。
1522     
• セバスティアン・デル・カノがイスパニアに到達。モルッカ諸島をめぐる葡西両国間の外交的紛争始まる。
• ポルトガル人、モルッカのテルナーテ島に要塞を建設。
• ポルトガル人、中国海域への進出を切望するも、越冬基地を見出し得ず。
1524     
• 東アジア産品の分配に関し、葡西間の交渉始まる。「モルッカ帰属問題」が焦点に。
1525     
• ホフレ・デ・ロヨサの指揮下、イスパニアより東アジア探索のための遠征派遣。モルッカのティドーレ島に本拠を設ける。
1526     
• ドン・ジョアン三世、マラッカ司令官に中国との交易再開を勧告。
1529     
• サラゴサ条約締結。ポルトガルは、モルッカ諸島のイスパニア支配下にあることを認め、三十五万ドゥカドで諸島の統治権を買収(四月十五日)。
1531     
• ドン・ジョアン三世、私設商人の非合法交易を規制するため、中国海域へ船隊派遣を命ずるも、実現にいたらず。
1542     
• ポルトガル商人、福建省のリャンポー(寧波)に拠点をおく。
1543     
• 種子島にポルトガル人の漂着。ヨーロッパ人の日本初来。
1544     
• 日葡交易始まる。これよりポルトガル商人、薩摩および豊後の港に渡来。
1545     
• リャンポーを追われたポルトガル商人、チンチェオ(泉州または漳州)に本拠定むる。
1547
• 日本人、初めてマラッカに上陸する。
• 日本人、初めてゴアに上陸する。
• 日本列島発見の噂流れる。
1549     
• フランシスコ・ザヴィエル率いる初の宣教師一行、鹿児島に上陸する(八月十五日)。
1550
• ポルトガル商人、平戸港を発見。
• ゴア当局、日中間貿易の独占を宣言、以後、毎年、特権的な官許商人にのみこれを遂行させることを決定。
1551     
• フランシスコ・ザヴィエル、インドに帰る。新たにコスメ・デ・トーレス、日本布教長となる(十一月)。
1552     
• 豊後の大名大友義鎮(宗麟)、ゴアに到達する。
• ザヴィエルの日本関係書翰、イタリアで印刷される。
• 中国入国を願いつつ、シャヴィエル、華南のサンシャン島において死去(12月)。
1552-1554  
• この頃、レオネル・デ・ソウザの努力により、中国政府との交渉に成功。東シナ海におけるポルトガル人の影響増大。
1554     
• ポルトガル商人広東に戻る。
• 大友義鎮へ派遣される。
• 日本人ベルナンド、ポルトガルでイエズス会イルマンとなる。
1555     
• ベルナンド、日本人として初めてローマを訪れる。
• 信濃朝日山の戦いにおいて、武田氏、火縄銃を使用する。
• ルイス・デ・アルメイダ、イエズス会に入会。府内に病院を、のち孤児院を設立する。
1556     
• 豊後出身のパウロとロウレンソ、日本人初のイエズス会士となる。
• イエズス会士、山口より追放され、府内が布教の中心地となる。
1557     
• ポルトガル人、マカオに居住を許可される。
• ポルトガルの摂政ドナ・カタリーナ、大友義鎮にドン・ジョアン三世の死去を伝え、ポルトガル国王と豊後「王」との友好を確認。
1558     
• イエズス会士、平戸より追放されるも、マカオからの商人は平戸入港を継続する。
1559     
• ガスパール・ヴィレラ神父、ロウレンソおよび日本人の同伴を得て京都に入り、キリシタン布教を始める(九月)。
1560     
• 織田信長、桶狭間の合戦に勝利、一躍注目を浴びる。
1561
• 大村純忠とイエズス会との接触始まる。
1562     
• イエズス会士の影響をうけ、ポルトガル商人、大村領横瀬浦で交易を行なう。
1563
• 大村純忠、初のキリシタン大名となる。
• ベルナルド、の敵対者によって破壊される。
1564     
• ポルトガル商人、平戸に戻る。
1565     
• マカオからの南蛮船、大村領の福田に来航。ポルトガル人は平戸の大名と決裂。
• メキシコからのイスパニア人、フィリピンに居住しはじめる。
• 松永久秀、幕府の実権を奪い、宣教師を都より追放す。
1567     
• 織田信長、美濃を制圧。
1568     
• 織田信長、入京する。
1569      
• 織田信長、初めてイエズス会士と会見し、その京都滞在を許する。
• 九州制覇をねらう毛利氏が大友氏に敗れ、豊後の勢力、九州で強化される。
• 日本人キリシタン、三万人を超える。
• 伊東マンショ生まれる。
1570      
• フランシスコ・カブラル、新たに日本布教長となる。
1571      
• 長崎、ポルトガル人による日中貿易の玄関となり、キリシタン布教の中心地ともなる。
1573      
• 織田信長、将軍足利義昭を追放する。
1575  
• 織田信長、長篠の合戦で武田氏を撃破。火縄銃の連続射撃が効果発揮。
 
1576  
• 有馬の大名有馬義直が受洗。
• 織田信長、安土城の建設を始むる。
1578      
• 織田信長に対する荒木村重の謀叛に際し、高槻城主高山右近、信長側に味方する(11月-12月)。
• 耳川の戦い(12月)。薩摩の擡頭により、大友氏の勢力にかげりが見えはじめる。
1579
• イエズス会士巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ、来日する。
1580
• 大村純忠、長崎をイエズス会に寄進する(6月)。
• ヴァリニャーノ、日本人聖職者養成の確固たる方針を打ちだす。日本人最初のセミナリオが建てられる。
• 有馬城主有馬晴信、洗礼を受ける。
• イスパニア国王フェリーペ2世、ポルトガル国王を兼任する。
1581      
• 日本のミッションが副管区に昇格。初代副管区長にガスパール・コエリョが就任。
1582      
• 天正遣欧使節、ローマに向けて長崎を出発(2月)。
• 日本人キリシタン、15万人を突破する。
• 本能寺の変(2月21日)。
• 豊臣秀吉、明智光秀を山崎の戦いに破り、信長の後継者となる(7月2日)。
1583      
• イエズス会、明国にて布教活動を始める。
• 薩摩の島津氏の支援を受けた有馬の鎮純、ポルトガル人より提供された武器を用いて、竜造寺隆信を破る。
1585      
• 天正遣欧使節、ローマ訪問。
• ローマ法王庁「エクス・パストラリス・オフィシオ」なる勅書を発布し、日本におけるイエズス会の独占的普及権を認める。
• 豊臣秀吉、関白となる。
1586       
• 長崎、薩摩の島津氏により占領される。
• 九州のキリシタン大名、イエズス会副管区長とともに、秀吉の仲裁を求める。
1587       
• 薩摩軍、府内を占拠(1月)。
• 秀吉、九州に進出(四月)。
• 大村純忠、死去(5月4日)。
• 大友義鎮、死去(6月6日)。
• 島津義久、秀吉に降伏(6月)。
• 秀吉、伴天連迫放令を発布(7月25日)。
• 長崎、秀吉の完全支配下に入る。
• 豊後領主大友義統、キリスト教を棄てる。
1588       
• ローマ法王庁、豊後府内に司教区の設置を主張(2月)。
• アレッサンドロ・ヴァリニャーノ、ゴア副王の使節として秀吉のへ派遣される。
• 初代日本司教セバスティアン・モライス、モザンビークで死去。
1589       
• ポルトガルのフランシスコ会托鉢修道僧、日本普及の意思を示す。
1590       
• 関白秀吉の天下統一達成。
• ヴァリニャーノ、長崎に到着。同時に天正少年使節、帰国(7月)。
• ペドロ・ゴメス、新たに副管区長となる。
1591       
• 秀吉、日本全国の戸籍調査を行なう。
• 京都にてヴァリアーノ、秀吉に謁見。キリシタン抑圧が緩和(3月3日)。
• 大友義統、教会と和解。
1592       
• ドミニコ会士を中心とするマニラからの初使節、来日。秀吉より教会建設の許しを得る。ポルトガルおよびイスパニア両国間で普及保護権をめぐる論争おこる。
• 秀吉の第一次朝鮮侵略。キリシタン大名もこれに加わり、以後、朝鮮にキリスト教が伝わる。
1593
• フランシスコ会士を中心とするマニラからの使節、来日。秀吉より教会建設の許しを得る。普及保護権をめぐる葡西間の論争激化。
1595       
• オランダ人、初めてインド洋に進出、南アジアの諸島で交易を始める。
1596       
• 日本司教ドン・ペドロ・マルティンス、秀吉に謁見(11月)。
• 日本人キリシタン、30万人となる。
1597       
• サン・フェリペの乗組員と日本政府とに意思の疎通を欠き、秀吉、再度キリシタンに圧力をかける。
• フランシスコ会士は国外退去を命ぜられる。
• 長崎で26名の殉教者出る(2月5日)。
• 日本司教ドン・ペドロ・マルティンス、離日。
• 秀吉の第二次朝鮮侵略。
1598       
• ドン・ペドロ・マルティンス、マラッカ付近で死去(2月5日)。
• ドン・ペドロ・マルティンスの補佐たりしドン・ルイス・デ・セルケイラ神父、長崎に到着(8月5日)。
• 秀吉、死去(9月16日)。
• イスパニア国王フェリーペ三世、ポルトガル国王を兼任。
• イエズス会とフランシスコ会、長崎殉教事件をめぐり相互を非難。
1599       
• セルケイラ、これまでの二年間に約7万の受洗者ありと報告。
• 日本軍、朝鮮より撤退。
1600       
• ローマ法王庁、ポルトガル勢力圏通過を条件に、托鉢修道僧の日本普及を認める。
• 新副管区長としてフランシスコ・パシオ神父が着任。
• 豊後沖でリーフデ号遭難。オランダ船の日本初漂着(4月)。
• 関が原の戦い。徳川家康の全国的支配権ほぼ確立(10月21日)。
1600-1610   
• この頃、東シナ海で南蛮船に対するオランダ船の海賊行為、頻発する。
• 日本各地で散発的にキリシタン迫害が起こる。
1601       
• イエズス会士木村セバスティアンとルイス・二アバラ、日本人初の司祭となる(9月21日)。
1602       
• オランダ東インド会社。設立される。
• アウグスチノ会、布教を始める。
• 幕府、朱印状を交付して、日本人の海外交易活動を奨励。
1603       
• 徳川家康、征夷大将軍となる。
• ドミニコ会、日本での布教を始める。
1605       
• 家康、征夷大将軍の職を息子の秀忠に譲る。
1606       
• ルイス・デ・セルケイラ司教、家康に謁見。
1607       
• イエズス会副管区長、家康および秀忠に謁見。
1608
• ローマ法王庁、日本布教をすべての会派の宣教師に許す。
• 有馬晴信配下の日本人、マカオで、ポルトガル人と紛争を起こし、マカオ官憲に射殺される(マカオ騒擾事件)。
1609       
• オランダ人、平戸に商館を設置。
1610       
• マカオ騒擾事件がきっかけとなり、長崎に入港していた南蛮船の包囲を受ける。船長アンドレ・ペソアは南蛮船を撃破して自決(1月26日)。
• 日本‐メキシコ間の定期航路開設を求めて、幕府、イスパニアとジ条約を結ぶ(7月4日)。
1611       
• イエズス会日本副管区が管区に昇格。初代管区長にヴァレンティン・カルヴァーリョ就任。
• メキシコからの反応なく、日本とイスパニア間の関係微妙化。
• マカオからの南蛮船船長ヌノ・ソトマイオール、幕府とポルトガルの関係を緊密化。
1613       
• イギリス人、平戸に商館を設置。
1614       
• 幕府、キリシタン禁教令を発布。前線教師の国外退去を決定(1月17日)。
• セルケイラ司教、死去(2月16日)。
• 大半の宣教師、日本を追放される。なお数十人の宣教師は日本に潜伏(11月)。
• 大坂冬の陣。
1615-1623   
• この頃、多数の宣教師が商人に変装して日本へ密入国。
• 大坂夏の陣。豊臣秀吉滅亡。
1616      
• キリシタン発覚者は即時処刑される旨発布。
• 徳川家康没する(6月1日)。
• 日本の対外交渉、平戸と長崎のみに限定される。
1618       
• マカオ当局、これまでの大型の「黒船」に換えて小型のフラガタ船を日本へ送るようになる。
1619       
• 新日本司教ドン・ディオゴ・ヴァレンテの日本航海をマカオ当局が阻止。
1620       
• キリシタン迫害、北日本でも始まる。
1621       
• イスパニア国王フェリーペ四世、ポルトガル国王を兼任。
1622       
• マカオ、オランダの執拗な攻撃を撃退。
1623       
• 徳川秀忠、将軍職を息子の家光に譲る。
• 平戸のイギリス商館、閉鎖。
• ポルトガル人の長崎永住、禁じられる。日本人と結婚し、子供のあるものは息子のみを伴っての離日が求められる。キリシタンの迫害、さらに激化し、信徒には過酷な拷問が科せられる。
• 日本とイスパニアの国交断絶。
1624
• オランダ人、台湾に根拠地を設ける。
1627       
• ゴア当局、日中間貿易の一括管理を提案するも、マカオ商人はこれに反対。
1628       
• イスパニア国王フェリーペ四世、日本での布教活動を15年間イエズス会の独占下におくことを決定するも、インドの顧客官、この決定を反故とする。
• 台湾で生じた日蘭両国間の騒事件により、オランダ東インド会社の船は日本入国を禁じられる。
• ポルトガル、ふたたび日本で通商を許された唯一のヨーロッパの国となる。
1632       
• 徳川秀忠死去。家光が幕府権力を確立。
1633       
• オランダ人、平戸での通商を再会。
1634       
• 長崎で出島の建設始まる。
• この頃、残留宣教師は10名程度となる。
1635       
• 御朱印船の廃止。日本人の海外出国禁止。
1636       
• ポルトガル商人、出島の完成を「祝う」。
1637       
• 島原の乱。一揆軍にキリシタン多く加わり、幕府、ポルトガル人を煽動者とする口実を得る。
1638       
• 原城、オランダ船の艦砲射撃にさらされて陥落、一揆軍約3万7000人、幕府に皆殺しにされる(3月12日)。
1639       
• 幕府、ポルトガル人の入国を禁止。オランダ商館が平戸から出島に移される。
1640       
• 通商回復を願ってマカオ当局、日本への使節を派遣するも、使節一行は捕縛、処刑される。
• ポルトガル、新国王ドン・ジョアン四世のもと、イスパニアから再独立(12月1日)。
1642-1643    
• この頃、最後の宣教師密入国が偶発する。
1644       
• ポルトガル国王ドン・ジョアン四世、ゴンサロ・シケイラ・デ・ソウザを大使として日本に派遣。
1647
• シケイラ・デ・ソウザ、長崎に到達するも、ただちに国外退去命令が伝達される。
1685       
• 日本漂流民、マカオ当局によって送還されるも、国交回復の要請は拒絶される。
• 俳人松尾芭蕉による紀行文『奥のほそみち』元禄15年(1702年)刊。
 と、いうような外交の経過の中で日本人の動向と意識が明らかになる。

 喫茶店「RON」(昭和40年から)の時間経過は未だわずかでしかないが、220年と受け継がれた老舗の灯りの下にある一席からは、さまざまな形の中世の正体が浮き彫りとなってくる。馬具商から始まった営みの時間の中にあってこそ、唐木順三が著書に旅した中世の時間が彷彿となってくる。

喫茶店「RON」4

 なぜ漱太郎が、冒頭の唐木順三の「中世の文学」を引き出してみたのかは、思春期の少年である伊東マンショが、いきなり国家と歴史の闘争空間に巻き込まれるという、この悪夢のような体験を共に享受したいからである。
 混迷極まる天正期に遣欧した四人の少年らは、ひたすらその時代に内閉しながらも、互いが外洋と向かい合って繊細なコミュニケーションの触手を伸ばしてゆく。4人は時代の嘘や虚栄心、勘違いやすれ違いに翻弄されつつ、いかにその内閉から解き放たれ、いかにして自身を「ひらいて」ゆくかという真摯な自問を、それぞれが誠実に追求した生涯として、拘った時間を終えた。彼らは風通しの悪い密閉空間で、わが国特有の同質化の圧力に耐えながら生きたことになるが、その中で特に伊東マンショは、四十余年の人生の時間を、見事に圧縮しおおせている。この情動に、脱帽のほかはない。


                                             三馬 漱太郎
喫茶店「RON」5 喫茶「RON]の位置図

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聖マンショ伝「帰らざる丘」・No.0025

戦乱の世の日本において伊東マンショは「清潔」であった。常に下着は白色とし、身には香水『 No.4711. 』の原形(王妃の水)をまとわせていた。

春眠

Dawn in Spring
I am in bed, disturbed by the bright dawn.
I hear early birds sing hither and yon.
Since last night the rainy winds have blown hard,
Flowers may have fallen to carpet the yard.
Meng Hao Ran


 朝の目覚めが満ち足りていることの喜びを感じる春眠の季節となり、昼間はポカポカと汗ばむ陽気でもあるから、快い「入浴」と「香水」についての歴史を綴ろうと思う。

No. 4711. 2 No.4711

 写真は現在ドイツのケルンにて生産されている『 No.4711. 』である。この原形こそが中世イタリアの名高いアクアミラビリス(奇跡の水)なのであり、その神秘さを今日に引き継いでいる。

 現代の私たちにとって入浴とは、衛生的な生活をするために欠かせないものである。しかし、ヨーロッパでは、入浴をしなくても「清潔」であった時代があった。清潔の意識は入浴と香水の歴史と深い関わりをもつ。そこで本コラムNo.0025では中世の人々の清潔について述べることにする。

 香りの歴史は古く、BC3000年頃始まった、古代エジプトにまでさかのぼるのであるが、一説には、火を使うことによって生じる煙から、初めて人間は "香り" を得たと言われている。

香り

 「香り」を表す「Perfume」はラテン語の「Per Fumum」(煙によって立ち昇る)が語源であることからも頷けるところがある。火によって生じる煙は、香りとともに天に昇っていき、どこか、神と通じるものがあったようだ。
 そんな古代エジプトでは、香料は神聖で悪を排除し、悪から身を守るものとされ、神への供物の防腐目的であったり、ミイラを作る時の防腐剤、など宗教的な目的に多く利用されていた。また一方で、香りの持つ神秘的な力は宗教的な目的のみに留まらず、特権階級の人々の間では、権威を表す小道具のひとつとして、そしてまた人を魅了する美容の目的でも用いられていた。こんな香りの神秘の力を愛用し、その力を大いに利用して権力の座に就いたのが、世界三大美女のひとりクレオパトラであった。

クレオパトラ クレオパトラ
アントニウス アントニウス

 中でも、ローマ政治の実権を握ったアントニウスに初めて近づく場面は有名である。クレオパトラは、自分の乗った船に "クローブ" というバニラに似た香料を大量につけ、その芳香をなんとナイルの両岸にまで漂わせて自分の存在を強烈に印象付けたのである。そして、初めてアントニウスを自分の部屋に迎え入れた時は、床一面にバラの花を敷きつめたと言われている。
 クレオパトラは常に香りを欠かさず、香料をたっぷり入れた香水風呂に毎日つかってはセクシーな香料をくまなく体に塗り込んでいた。現代でもある香水風呂につかるなんて風習は、こんなに太古の昔からあった。

 ただ、クレオパトラが一日に使う香料は、今の日本円に換算すると20万円にも相当する。それを毎日とは・・・、なんとも贅沢な話である。クレオパトラは、その美貌と香りの魔力でアントニウスをすっかり虜にし、彼の力を借りて、ついにエジプト女王としての権威を手にし、また、女性としての魅力を保ち続けたのである。

 香りの文化は瞬く間に各国へと伝わった。
 エジプトからイタリアへ香りの文化が伝わる際、香水に地中海の花の香りを取り込む工夫が加えられた。この工夫は現代の香水でも脈々と生き続けている。実は、現代、私たちが手にする香水のほとんどは、フローラルを中核にし、それに様々な香料を微量にブレンドすることにより、色々な系統の香りを演出しているのである。
 そうしてヨーロッパの各国へ伝わっていった香りの文化は、そこで様々な伝説を産み続けてきた。

 香りが結びつけた恋の伝説で最も古いものは、BC950年頃、アラビア南西端に位置するシバ国の女王とヘブライ王国(現、イスラエル)のソロモン王とのロマンスである。

シバの女王 シバの女王

 シバの女王は、頭脳明晰なうえ絶世の美女として、その名は遠い他国まで届いていた。このシバ国は、香料の豊かな国として非常に繁栄していたし、一方、ソロモン王は博学で知恵が良くはたらく、としてまた非常に評判の高い国王であった。
 ソロモン王の評判を耳にし大いに興味を抱いたシバ女王は、ひとつソロモン王を試してみようと試み、幾つもの難問を用意しヘブライ王国へ出向く。これは、ある種の知恵比べを挑みにいったようなものである。
 ところが、ソロモン王はシバ女王よりも一枚上手で、用意された難問をことごとく解いた上、シバ女王を上回る自分の知恵力を見せつけ、逆に、美しいシバ女王の心を完全にとらえてしまうのである。
 伝説によると、ソロモン王は出された難問を次々と解きながら、シバ女王の特に美しいと噂の脚を一目見てみたいと思い一計を案じた。それは、ある宮殿にシバ女王を招き入れ、ところが、その床には一面に水が張られているという奇策であった。奥でシバ女王を呼ぶソロモン王のところまで行くためには、シバ女王はその水溜りを横切るしかない。だからといって、着ているドレスを水びたしにすることも、勿論その場で脱ぎ捨てることも出来ない。
困惑したシバ女王は、仕方なくドレスの裾をたくし上げ、その類稀な脚線美をソロモン王の目に晒した瞬間、シバ女王は 「あっ!」 と声をあげた。水を張ったと見えたその床は、一面鏡貼りだったのである。賢明なシバ女王も、もう笑うしかなかった。ソロモン王に一杯食わされたことを感じながらも、もうソロモン王には敵わぬことを覚り畏敬の念さえ抱き始めたのである。
 しかし、シバ女王の心をとらえたのはソロモン王の明晰さだけではなかった。
 実は、ヘブライ王国にはシバの国では見たことも聞いたことも無いような珍しい香料が豊富にあった。珍しい香料の数々を紹介され、さらにソロモン王から白檀の香りを発する宮殿を案内された頃には、もう芳香に包まれたシバ女王は感嘆を通り越し、尊敬と愛情の想いを抱いてしまっていた。
 こうして二人は、自然に芳しい香りのしとねで愛を交わすことになる。すっかりソロモン王を愛してしまったシバ女王は、後に莫大な金塊と、ありあまる程のシバ国の香料をソロモン王にプレゼントした。

 さらに時代が下り、ローマ時代の5代目皇帝ネロの時代になると、宴会で香料がふんだんに使われるようになる。
 この時代、時の権力者たちは自分の宴会で如何に贅沢に香りを演出するかを競い合った。ネロ皇帝の催した宴会は有名である。
 ネロの合図とともに、天井から無数のバラの花びらが舞い降り、さらに銀のパイプを通してバラの香りの水がテーブルに降り注がれた。いやはや、ここまでくると、かつての日本のバブル期を越える贅沢な時代がこんな古代の時代にもあったことに驚かされる。
 とは言え、これらの話は、いまだ香りの歴史の黎明期ともいえる。原料は100%天然の素材で、大変高価なものであったから、香りを楽しむのは、ほんの一握りの特権階級の人々の間の賜物だった。

 ローマ帝国崩壊後、ヨーロッパでは香りの文化は一時的に中断の時期に入ることになる。
 十字軍遠征により、香料が豊富な東方との交易が盛んになり、さらに調香師が現れることにより、ヨーロッパでは再び香りの文化が開花する。現代の香水の基盤ともなるアルコールに香料を溶かす製法が確立したのも、実はこの時期のことであった。
 この当時、ハンガリーには次ぎのような伝説がある。
 ハンガリー王カーロイ1世の王妃エリザベートは戦争で亡くした夫に代わり20年にも渡って国を治めていた。しかし、エリザベートも年齢を重ねるにしたがって、それまでの苦労のせいもあり次第に容姿に衰えが出てくる。さらに追い打ちをかけるように、リューマチにも冒されてきた。すっかり元気を失ったエリザベートを何とか元気付けようと、側近の一人が、若くて凛々しいポーランド王の肖像画を見せた。その途端、エリザベートの全身に電流が走った。若いポーランド王に一目惚れをしてしまった王妃エリザベートは、何とか若返りたいと強く願うようになり、ある日森の奥に住むと言われている隠者を訪ねることになる。

エリザベート2 エリザベート

 しかし途中で道に迷ってしまい森の中をさまよい歩くうち、道端に寒そうに凍えているひとりの隠者を見かけた。哀れに思ったエリザベートは惜しむことなく自分のまとっていたマントと食べ物を与えた。エリザベートの心の美しさに感激したその隠者は、一枚の紙をエリザベートに渡した。それは霊験あらたかな水の処方書であった。

 城に帰ってきたエリザベートは早速その処方を錬金術師に作らせた。ローズマリーの花等を使い、出来上がったものは今までにない香水であった。あまりの香ぐわしさに、エリザベートは毎日その香水を全身に塗ったそうである。すると不思議なことに、薄皮がはがれるようにリューマチが治ってきたばかりでなく、日に日に容姿が若返ってきた。こうして、すっかり健康、若さ、そして新たな香りを手に入れた王妃は、ある日ハンガリーを訪れてきたポーランド王を今度は逆に一目惚れさせてしまうことになる。そして二人は結婚し、二つの国は栄えたということであるが、ときにエリザベート女王72歳の高齢だったそうである。
 これは伝説であり寓話でもあるが、実際は「そこに、高齢となったエリザベート女王の、日々衰える光景をただ黙って見過ごせない一人の女性がいた。イタリア出身の修道尼マリア・クレメンティネは王妃の悩みを救うため、試行錯誤を重ねて・・・」出来上がったのがその香水であった。

 エリザベートが身に付けたその香水は「ハンガリーウォーター」と名付けられ、別名「若返りの水」とも呼ばれた。

ハンガリーウォーター 現在のハンガリーウォーター

 そんなハンガリアンウォーターがハンガリー国外で最初に登場したのは1370年で、香水好きで知られる当時のフランス王シャルル5世に献上された。ハンガリアンウォーターは香水、そして治療薬としてヨーロッパ各地で愛好され、その人気は18世紀にオーデコロンが登場するまで続くことになる。
 中世ヨーロッパでは、他の似たようなハーブ・花を原材料とする化粧品と違い、ハンガリアンウォーターは香水だけでなく治療薬として様々な用途に使用された。その有効性は1683年、ニコラス・カルペパーの著書「ロンドン薬局方」に記載されている。
 そしてその「ハンガリーウォーター」は実に400年もの長きに渡ってヨーロッパの各国で人々に愛用され続けた。残念ながら、当時の「ハンガリーウォーター」の正確な処方書は現存しないが、現代に至る研究においてそのハンガリーウォーター 約50mlの作り方は「ローズマリー4滴、レモン6滴、ローズ2滴、ローズウォーター5ml、ネロリウォーター5ml、精製水40ml、無水エタノー1ml(※無水エタノールは精油を混ぜやすくするためほんの少し入れる)」と再現されるのだという。

 新しい製法が、エリザベート女王の、その時から始められたのは歴史的な事実である。この、アルコールに香料を溶かす製法がそれまでの製法に比べ、香水としての効果をどれほど優れたものにしたか・・・。それは600年以上経った今もなおその製法が続けられていることからも容易に理解することができる。

 また、現在、香水のメッカとでも言うべきフランスでは、当初香水は別の目的で用いられていた。南フランスのグラースは、もともと皮革産業で繁栄していた街であった。ただ、その産業過程でいかんともしがたい悩みがひとつある。それは、"皮革製品の匂い" である。特に手袋などはなめしの匂いが手についてそれが幾日も落ちないので、人々の悩みは深刻なものにまで達していた。そこで、香料を皮革製品にしみ込ませる方法が発案され、それが大歓迎をされたのである。やがて不況とともに皮革産業が衰退し、更にイタリアの調香師がフランスに来るに及び、それまでの皮革産業に代わり香水産業が発達するようになった。ほんの一部の人々の間での愉しみだった香水が、一般庶民にまで広く伝わるようになるのはこの頃からである。

 そんな香水の歴史と深く係わるのは、まず古代の入浴の歴史であるが、ローマ人は、とてもおしゃれで、男女ともに浴びるように香料を使い、一日に何度も風呂に入った。しかも、後年のヨーロッパ人のように体臭をごまかすためでなく、純粋に香りを楽しむために香料を使っていた。

 紀元前1850年頃には香水を製造していたとされる最古の工場跡地はギリシアで発掘されている。また、アルコールに溶かす香水が作られるようになったのは、イスラム社会でアルコールの製造法がヨーロッパに伝えられてからである。それまでは油脂に香りを吸着させた香油やポマードが使用されていた。前述した14世紀にハンガリー王室で使用された、ローズマリーを原料としたもの(ハンガリアンウォーター)がそれである。その後、ルネサンス期のイタリアで発展し、ヨーロッパ各地に広まっていった。しかし、16世紀から19世紀までのヨーロッパでは、風呂に入ると梅毒などの病気になりやすいと信じられたため、入浴という行為が一般的でなく(国王ですら一生で3回しか入浴しなかったという記録がある)、そのための体臭消しとして発達していくことになる。

 こうした経緯は、キリスト教が4世紀にローマ帝国に入ってきて、「キリスト教は、香りを神々に捧げることは偶像崇拝と非難し、香料の個人的使用も、軽薄あるいは贅沢と考えた。そして、官能に身を任せる異教徒への嫌悪感から、キリスト教徒は身体を洗うことまでやめてしまい、創造主に認められた人間の身体なら当然の、汗と脂の匂いを発散することを誇りに思うようになった」のだということを唱えるようになったことにも理由はある。

 ところが以降、中世の入浴となると、13世紀、風呂屋はギルド(中世より近世にかけて西欧諸都市において商工業者の間で結成された各種の職業別組合)に編成され、日常生活に溶け込み、気軽に利用されるところだった。例えばフランスの場合108スー(スーはフラン以前に流通していた銅貨だが、1スー=5サンチーム)で、「蒸し風呂にくわえて、桶風呂、ブドウ酒、さらに寝台を追加注文」できた。しかも体を清潔にすることだけが、この時代の人々の目的ではなかった。この時代の一般人は、風呂屋に行き、さまざまな楽しみを得ていたのである。

 ところで庶民の入浴はどうかというと、中世の風呂は混浴で、風呂屋は売春宿としての機能があった。人々は風呂屋に、男女の逢引や、快楽、お祭り騒ぎのために行っていた。風呂屋では、不埒な生活を送る男女がたむろし、暴力事件や売春、人殺しなどの犯罪が起こっていた。
 世間は社会を動揺させ、堕落させる風呂屋に危惧を抱いた。そういった理由のため、風呂屋は閉鎖されていった。教会も「蒸し風呂屋は淫売宿と同じように恥ずべき商売である」と批判した。

 しかし貴族の入浴となると少し様相が違う。貴族、ないしは少なくとも名士級の人物にとって、入浴は高貴な身分であることを誇示する機会だった。また、接待や宴会の場でもあった。
 1375年版の『著名言行録』には、入浴宴会の光景の挿絵がある。部屋の真ん中には風呂桶が置かれ、その中で入浴する男女が居る。風呂桶の横のテーブルについた身分の高そうな人々が、それを眺めながら食事をしている。入浴宴会は、客に喜ばれるもてなしで、接待側の気前の良さを示し、座を盛り上げる。
 だが入浴は水への不安につながることになる。
 ヨーロッパの人々は16世紀頃から水に対して恐怖心を持つようになった。皮膚は、穴(毛穴)だらけで脆く、そこから水が浸透する。水が浸透した皮膚は、あらゆる病毒の影響をうけやすくなる。身体の内部に浸透した水は身体の調子を狂わせる、と恐れられるようになった。毛穴を通して、身体に悪いもの(病毒)が入ってきて、身体にいいもの(体力・活力・体液)が出て行ってしまうと考えられた。
 そうなると、さすがの入浴も禁止になる。水への恐怖がささやかれるようになった頃、ヨーロッパではペストが大流行していた。入浴は、「入浴したあと肉体と体型が柔らかくなり、毛穴が開き、ただちにペスト性の蒸気が身体内に入り、急死の原因となる」と、恐れられ、禁止された。入浴すると、「身体が脆弱になる」「体力と活力が大きく害われる」と考えられたからだ。もともと、ヨーロッパの人々にとって入浴とは娯楽でしかなかった。死の危険を犯してまで続ける習慣ではなかったのだ。そのため、16世紀には入浴の習慣が完全に消滅してしまった。
原因の分からない伝染病、そこから生じた水への恐怖、社会の風紀を乱す風呂屋への批判があいまって、入浴の拒絶へとつながったのだろう。したがって16世紀の後期に遣欧した天正の少年使節にも入浴の記録は一切残されてない。
 しかし、入浴をしなくなったからといって、清潔にしようという気持ちが人々になくなってしまったわけではない。現代の私たちの感覚ではそう思ってしまうところだが、中世には中世の「清潔」があった。
 ペストの発生が衛生的生活への第一歩となる。中世の「清潔」について述べようと思う場合、ペストの重要性は、社会に多大な影響を与えたことに起因する。そのペストは、衛生的生活への第一歩を人々に踏ませたのである。
 ヨーロッパで一番有名なペストは、1347年~1351年のペストである。このペストで、ヨーロッパの約三分の一が犠牲になった。また、ペストはその後も何度もヨーロッパを襲う。ペストの恐怖が収まるのは、18世紀頃である。
 そのペストの原因と感染経路について述べると、ペストは、齧歯動物、特にねずみの疫病である。ねずみに寄生したねずみノミによって、ねずみからねずみへ、ねずみから人間へとペストが伝染していく。
 ペストに感染したねずみが人間の生活空間に病原菌を運び、そこに住む人間や、そこにあるモノに取り付いた蚤がまた違う場所に運ばれることによって、ペストは広まっていった。
 人間への感染は、蚤に刺されることによって伝染する皮膚感染と唾液や喀痰の飛沫によって鼻かぜやインフルエンザのように鼻とのどを通して伝染する飛沫感染がある。
 そんなペストの対処法として、人々は、スパイスを焚くことで町を消毒し、スパイス(スパイスの中には香料となるものがたくさんあった)で香水をつくり身体を消毒した。外出するときには、ペストにかからないようにポマンダーをよく持ち歩いた。香り高い花の花束や、香水をふりかけたハンカチを携帯する人もいた。香水やポマンダーなどを手に入れられない貧しい人達はタールを塗ったロープを持ち歩いたり、臭い靴下を匂い袋かわりにしていた。また、糞便の匂いの出もとが健康でさえあれば、その強烈さがペスト感染予防になると考えられていた。
 ペストにかからない身体にするには、食事療法が良いとも考えられていた。また、「昼寝、日光にあたること、暑い所、蒸し暑い所に住むこと、風呂に入ることも良くない。」とも言われていた。
 この、14世紀ヨーロッパの人々のペスト対処法は、現代の常識では、どこかひっかかるところがある。現代の私たちなら、伝染病から身を守るために、外から帰ってきたとき手を洗う、うがいをする、風呂に入り身体を清潔にする、掃除・洗濯をして身の回りを清潔に保つ、栄養を採る、よく寝る等の対処法を考えるが、それが、14世紀の人々には重視されていない。
 特に注目すべきは、「日光にあたること」と「風呂に入ること」が良くないことだと考えられていたことだ。日光には殺菌効果があるし、風呂は身体を清潔に保つ方法である。このことにより、健康な生活=衛生的な生活でなかったことが良く分かる。そして、この対処法がどれほどペスト伝染を食い止めることが出来たのか、と疑問に思うのである。
 しかし、そうすると中世の清潔とはいかがなものであったのか。ペスト対処法が衛生を無視する理由は、当時の、中世の人々にとっての「清潔」を知ることでしか分からない。
 まず害虫が居て当たり前なのである。中世のヨーロッパでは、身体に虫が湧いているのは当たり前のことだった。人々の生活には、ノミ・シラミ・南京虫・ハエなどがつきものだった。14世紀のイタリアの小さな村では、シラミ退治は愛情や敬意を表す機会だったという。
 「うようよと這い回る生物は、身体のなかから生まれる。害虫が涌くのは、身体の内部がどこかおかしくなっていること、どこかが退化していることの証拠である。」と言い、それに対する対処法も、害虫が発生しないような身体にするため食事をコントロールすることだった。なぜなら、「身体にかかわるすべてのことを決定するのは食事である」と、考えられていたからである。害虫の発生と不潔はまったく結びつかなかった。
 それでは手と顔は洗ったのか。当然、中世においても手と顔を洗うことが推進されるようになる。それは、“衛生的な行為”ではなく、“道徳的な義務”だった。
 もともと、手と顔を洗うことは、宮廷の近習に教え込まれた規則だった。「汚い手で主君の給仕をすべきでない」なぜなら、礼儀に反し、失礼な行為になるからである。当時、その手から病気が移るからというそういう概念はない。
 手と顔を洗うことは、他人の目に見える所の垢を落とすという、社交術だったのである。
 そうなると下着は替えたのか。これも清潔の一歩として、16世紀、下着が積極的に替えられるようになる。汗をかけば不快と感じ、下着を替えるようになる。“下着を替えること”が“身体を洗う”のと同じくらいの効果をもっているとされる。水の危険性を考えれば、もっと安全とみなされた。「下着は、汗や汚れを吸い取ってくれる」「垢が白い下着にしみこむ」と、衛生学者も本気で考え、人々に伝えた。旅を重ねる伊東マンショが、毎日下着を替えるようになるのは、スペインのフェリペ2世に謁見した後からであると記録に残されているが、遣欧少年使節は、このような衛生文化の薫陶も受けている。
 つまり中世ヨーロッパ社会では「清潔=上品」なことであったようだ。16~17世紀には、下着が白くて、上質のものを身につけてさえいれば、服装は華麗でなくても「清潔」であるとされた。伊東マンショが遣欧よりの帰国後、病死するまでの間を白い下着を着用したという記録もあるが、それは彼がヨーロッパ人の清潔を体験した賜物であったわけだ。
 しかし清潔にすることは、経費、人手、手間が必要だった。なので、上流人の証でもあったのだろう。それが、清潔=“上品なこと”“礼儀正しいこと”“エレガントなこと”と、なったのだ。また、中流階級にとって、清潔とは“慎ましい格好”のことであった。
 イエズス会の記録によると、帰国後の伊東マンショは常々に香水をふりかけていたという。衣服そのものが身体の汚れを綺麗にしてくれると考えていたヨーロッパの人々にとって、香水は重要なものだった。不快な匂いを隠し、散らしてしまい、心身を強くし、よい刺激を与える効果のあるものだと考えられていた。香水は、体を綺麗にし、汚れをぬぐい去ってくれるものとまで思われていたようだ。
 このように、中世の清潔は現代でいう清潔とはかけ離れたものだった。当時の、身体の衛生に対する無関心さがなければペストはこんなにも流行しなかっただろう。なぜなら、当時はねずみやノミが人間の生活環境に居て当たり前だったからだ。そして、身体の衛生を保つのに多少は役に立っていたと思われる入浴も、止めてしまったからだ。

 しかしこのペストによって大きく変わったこともある。中世におけるペストによる社会的変化は多数あるが、ここでは、衛生に関することだけに留めておこうと思う。今後の衛生に関わる変化は、入浴の禁止と、公衆衛生への関心である。
 イタリアでは、1531年にペスト条例が出された。そこには、浴場に行くことの禁止や、通りの舗装、排水溝・下水渠の清掃、ゴミの窓からの投げ捨て禁止、ゴミの路上への放置の禁止、ゴミ収集所へゴミを運ぶことの義務、塵芥処理者の任命が書かれていた。
 この条例に人々がすぐに従いはしなかったが、「公衆衛生の整備が疫病対策の緊急課題として認識されていた」ことが、注目に値するだろう。ただ、今日的な意味での公衆衛生観の形成は18世紀になってからである。また、ペスト菌は、1894年に発見されている。
 ペストが流行した時、ヨーロッパには衛生的な生活はなかった。しかし、ペストへの調査を進めていくうちに、不潔な通りや、ゴミの処理状況に目が向けられるようになる。そして、清潔にも感心が深まっていく。衛生的な生活へと足を踏み出した頃、ペストも終息していくのだ。ともかくも、これらを体験し清潔を身に付けた伊東マンショとは、当時の日本人には見られない一風稀な見識をまとわせて帰国したことになる。

 11世紀末から始まった十字軍の遠征によって、麝香(じゃこう)をはじめ東洋のさまざまな香料がヨーロッパに持ち帰られた。そしてベニスの商人たちの手により香料やスパイスが広く取引されるようになってくる。

 国際映画祭で有名な南フランス・カンヌの北西17kmの丘陵に、グラースという町がある。現在、世界の香料の中心地ともいうべきこの町は、12世紀末頃には皮革工業が盛んであった。16世紀になって、イタリアはフィレンツェのトンバリレという人が、初めてこの町に香料を紹介して大きな変化が起こることになる。というのは、香料が皮の臭いを消すのに役立つため、この町で大いにもてはやされたのである。その後、マルセーユなどで盛んになった石鹸に香料が使用されるようになり、グラースは香料の中心地として発展していった。グラース地方の温暖な気候、風土は、ジャスミン、ローズ、ラベンダー、オレンジフラワーなど、多くの香料植物の栽培に適しており、この町は「香料のメッカ」とまで呼ばれるようになったのである。

 香料をアルコールに溶かした現在の香水やオー・ド・トワレのようなものが初めて作られたのは16世紀末のこと。折しもこの時期に遣欧少年使節の一行がヨーロッパに旅をした。香水はフランスアンリ2世の夫人であったカトリーヌ・ド・メディチが、イタリアのフィレンツェからの輿入れの時に持ってきて、世に知られるようになったといわれている。
 オーデコロンの誕生には諸説があってはっきりわかっていないが、大筋は以下の通りである。
 前身はイタリアで発売された「アクア・ミラビリス(すばらしい水)」で、17世紀末か18世紀はじめにケルンに紹介され「ケルンの水」となり、18世紀後半に七年戦争やナポレオンの遠征でプロイセンに侵攻していたフランス軍兵士がケルンから大量にパリに持ち帰り、「オーデコロン」と呼ばれ流行し始めた。ナポレオンによってフランス革命の嵐がおさまり、ギロチンの露と消えたマリー・アントワネットの愛好していたバラやスミレなどを主体とした香水が、彼女の死後急激に流行し始めたのはなんとも皮肉な話である。ナポレオンの天下はわずか10年で終わりを告げたが、グラースの町は革命の余波を受けながらも、香料植物の栽培や香料の製造はますます発展を続けていくことになる。
 イタリアの古都、フィレンツェ。中世の街並みがそのままに残る世界遺産のこの都市は、ルネッサンス発祥の地、メディチ家の栄華を伝える街としても知られている。

サンタ・マリア・ノヴェッラ サンタ・マリア・ノヴェッラ

 その市街の一角に、世界最古の薬局として800年もの歴史を誇る「サンタ・マリア・ノヴェッラ」は当時の面影そのままに佇んでいて、歴史あるサンタ・マリア・ノヴェッラ教会を運営するカトリックでも最も古い修道会のひとつ、ドミニコ修道会の教義、癒しの実践として生まれたサンタ・マリア・ノヴェッラのプロダクトは、創業当初の教えを頑なに守り続けている。
サンタ・マリア・ノヴェッラ「王妃の水」 サンタ・マリア・ノヴェッラ「王妃の水」

 「香りの芸術」と称されるフレグランス、伝統のレシピで作り続けられる「癒しの芸術品」。その多くは、ヨーロッパの歴史とともに歩み、メディチ家、ナポレオン、王侯貴族たち…現代でも多くの作家、俳優など著名人に愛されてきた。フィレンツェという街が持つ芸術的な空気、歴史、文化、そのすべてを癒しの思想と共に封じ込めたのがサンタ・マリア・ノヴェッラであろう。また癒しに満ちた高貴な香りを堪能いただき、“フィレンツェ・スタイル”の豊かな時間を日々の中でお愉しみいただけることこそ、そんなサンタ・マリア・ノヴェッラが現在までに存在し続ける誇りなのであろう。

 イエズス会の記録によると「ドン・マンショにはモンテゼーモロ(モンテツェーモロ)家より返礼品として奇跡の水(アクア・ミラビリス)が与えられた」という。伊東マンショとモンテゼーモロ家との接点についてはコラムNo.0016で触れたが、ドン・マンショはペストで亡くなられた遺族のために砂金の詰まった木箱を大学に託している。アクア・ミラビリスはその感謝の返礼としてマンショに与えられた。

 1792年にドイツの銀行家ウイルヘルム・ミューレンスは結婚する際に修道士から 『 アクアミラビリス(奇跡の水) 』 と記された羊皮紙の処方箋を送られた。その神秘性に気付いたミューレンスは自宅に小さな工場を作り、素晴らしい香りの蒸留液の生産を始める。そのミューレンスはその香りの液体を自分の住む街にちなみ 『 ケルンの水 』 と命名した。ドイツ語で 『 ケルニッシュ・ヴァサー 』 フランス語に訳すと 『 オーデコロン 』 である。今では普通名詞のように使われているが、これがオリジナルなのである。その植物の生命力を生かし天然の素材から作られるその製法には、200余年に及ぶ伝統が貫かれている。

ケルン(ケルン大聖堂) ケルン市内(ケルン大聖堂)

 この『 ケルンの水 』 の処方箋はミューレンス家の歴代の社長しかみたものはいない。処方箋の秘密は、1810年にナポレオン皇帝により、第二次世界大戦後に連合軍により、処方箋を公開するように迫られたが、その際にも秘密を守り抜いた。だからその処方箋は、未だ尚、秘密のベールに包まれている。

ケルンの水 ケルンの水(No.4711)

商品名の 『 No.4711. 』 とは、1794年にナポレオン軍に占領された際に、ミューレンス家に与えられた区画整理の番号で、現在もこの地で製造されている。
ケルンの水2

                                              三馬 漱太郎

聖マンショ伝「帰らざる丘」・No.0024

伊東マンショのみつめた地図には、現代の日本人が時代空間をスキップしながらスケッチしたことの1000倍以上の詳細な歴史文脈が描かれている。

海図

 東アジア世界を塗り替えた世界帝国としてのポルトガルやスペインを見るとは、さて、どういうことなのか。これまでの西洋史観で見てはいけない。
 ユーラシアの地図を見ると、近代以降の世界の価値観をリードしたアルプス以北の西欧諸国は、ユーラシアの西北端に位置している。小麦・大麦・粟などに依拠したエジプト・メソポタミア・インダス・黄河の四大農耕文明圏をつなぐラインより、これはかなり北側になる。
 一方、農耕文化と穀物文化がつくったユーラシア・アジア文明は、その生産力と食糧需給力によって大きく人口を伸ばしてきた。農業技術もかなり先頭を走りつづけていた。それに比較すると、西欧世界が北魏時代の6世紀に成立していた『斉民要術』に匹敵できる農業技術に達したのは、やっと18世紀のことだった。そのように貧しかった西欧が隋唐時代の世界の中心だったなどということはありえない。
 そもそもが紙・羅針盤・印刷術・火薬・鉄火器のどれひとつとっても、ヨーロッパで発明されたものなんてなかったのだし、キリスト教は西アジアから伝播し、ゲルマン民族の大移動は中央アジアのフン族から始まったのである。カール大帝のフランク王国ですらイスラームの勃興がトリガーを引いたことで成立したようなものだった。
 仮にその後の「ヨーロッパの誕生」が世界主人公としてのアイデンティカルな自意識を早くつくりえたのだとしても、それもまたイスラームの勢いが十字軍運動をよびさましたからだった。
 だからヨーロッパで大航海パワーが拡大して、15世紀半ばにウォーラーステインのいう「世界システム」がヨーロッパに成立したなどというのは、かなりおかしな説なのである。それを言うならモンゴル帝国の勃興と拡大が始まった13世紀のアジアにこそ、もっと早期の「世界システム」の大胆な開闢があったというべきなのであろう。
 それだけではない。そのモンゴル帝国のずっと前に、東アジアから中央ユーラシアにかけて五胡十六国が動きまわり、そのうえで魏晋南北朝につづく陏唐帝国が成立して、陸のシルクロードとも海のシルクロードともつながって、世界最大の交易圏を形成していたのだった。さらには仏教圏がキリスト教の版図以上の領域をもってユーラシアを覆っていた。
 まさに世界帝国にふさわしい。それが証拠には、唐は儒教・仏教・道教だけでなく、回教(イスラーム)も景教(キリスト教ネストリウス派)さえその懐ろにかかえていたけれど、ローマ帝国は異教の受容はせいぜいがミトラ教やマニ教までで、それもたちまち異端扱いをしてしまった。
 おまけにローマやラテン社会は当時のユーラシア最大の宗教である仏教のことなどとんと知らなかったのである。この時期、仏教を知らないヨーロッパがどうして「世界システム」の牙城たりえようか、という疑問符を考慮しながら世界地図をみると、これは「これまでの西洋史観で世界を見てはいけない」ということになる。
 当時、唐の仏教は充実していた。なぜなのか。その理由を解くにはたんなる仏教イデオロギーの分析だけでは足りない。当時の中国というステートがアジア・ユーラシアのダイナミックな動向を“活用”していたことに目を致す必要がある。それには、従来のユーロ・セントリズム(西洋中心主義)や、その逆のシノ・セントリズム(中華中心主義)に片寄った史観をぶっとばす必要がある。
 そうすれば、中国仏教にはすでにシルクロードをへたユーラシアのさまざまな特色がまじっていたことが見えてくる。
 こう考えると現代の日本人は、いつまでも既成の西洋史観に甘んじて世界の動向をみてはいけないようだ。特に、中世の大航海時代という西洋史観に日本人は翻弄されている。なぜ中世の大航海時代というものが勃興したかについては、東洋史観を重視した西洋諸国があったからで、天正期における遣欧少年使節はその西洋によって動かされているのであるから、当時の西洋人の史観に立場しなければ、日本人(井の中の蛙)にその真相はみえてこない。

 そこで地図は重要である。その地図には人間の史観が秘められているし、なぜ地図を作ろうとしたのかの意図が秘められている。

 日本ではじめて地図が作られたのは、いつ頃だったのか?という素朴な疑問から日本におけるそれをひもとくと、 646年、あの有名な「大化改新の詔」の中で、各地の地図を朝廷に提出するよう記されている。これが記録上もっとも古い地図の起源にあたる。
 その後、奈良・平安時代にも、国家の一大プロジェクトとしての日本地図作成を記録上にみるとこができるが、いずれも伝存する図がないため、残念ながらその内容を確認することはできない。
 そもそも実用の面から考えると、地図はその内容が常に最新である必要があって、古くなった図は廃棄される運命をたどることになるのだから、貴重であるがゆえに、紙を漉き直して再利用する時代のこと、なおさら古い地図は残らなかったのであろう。

行基 行基

 その中で、「行基図」は、奈良時代の僧、行基(668~749)が作ったという伝承つきの地図である。その行基(ぎょうき)は、僧侶を国家機関と朝廷が定め仏教の一般民衆への布教を禁じた時代に、禁を破り畿内を中心に民衆や豪族層を問わず広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬された。また、道場・寺を多く建てたのみならず、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所を、困窮者のための布施屋9ヶ所等の設立など社会事業を各地で行った。朝廷からは度々弾圧されたが、民衆の圧倒的な支持を背景に後に大僧正として聖武天皇により奈良の大仏(東大寺ほか)建立の実質上の責任者として招聘される。この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。
 行基図は現在確認することのできるものではもっとも古い日本図で、お世辞にも正確な地図といえないその図のスタイルは、山城国を中心に七道を貫く線を引き、そこへ丸みをおびた形の国を並べたものであった。しかし、この行基図は飛躍的発展をとげる江戸時代に至るまで、ながく日本図のスンダードとして利用され、写図や版本が江戸初期まで作られている。

行基図2 現存最古の日本地図(行基図)

 写真の地図は、14世紀初頭に成立した百科全書に収録される「行基図」である。「大日本国図」という表題が付けられているが、江戸時代以前にはこうした「行基図」が日本地図のスタンダードとして流布し、江戸時代初期まで日本地図としての命脈を保った。
 そのような「行基図」とは、こんにち江戸期以前の日本図の伝存がほとんど確認できない中、「拾芥抄(しゅうがいしょう)」記載の本図は、14世紀の行基図を知る資料として貴重であり、なお、慶長年間にはじめて刊行された本書は、印刷されたもっとも古い行基図を掲載する書籍としても知られている。

 しかし時代を下り16世紀に入ると、貿易とキリスト教布教を目的とするポルトガルやスペイン船が日本にやってきた。彼らが火縄銃に代表されるヨーロッパ文明・技術をもたらしたことは有名であるが、地図もその一つであった。
 ながい航海を無事に乗り切るために、正確な方位・縮尺・緯度を明示する航海のための地図(海図)が日本にもたらされた。これらの海図を「ポルトラーノ」と呼ぶ。 日本人の朱印船貿易家たちも、この「ポルトラーノ」を用いるようになり、やがて自分たちでも制作するようになる。行基図などと比較して、その日本のかたちが正確であることに驚かされる。 しかし、江戸時代、鎖国によって日本人が海外に行くことが許されなくなると、その図が制作されることもなくなってくる。ポルトラーノは、その用いられた期間がとても短いものであったので、現在わずかに数点が確認されるだけの貴重な地図となっている。

「ヒロート之法加留多」ひろーとほうかるた 「ヒロート之法加留多」ひろーとほうかるた(鷹見泉石)

 写真は文化8年、鷹見泉石が書き写した地図(寛文11年頃(1671)原図成立 文化8年(1811)鷹見忠常書写 鷹見家歴史資料)である。このように、方位線を八方に示し内陸部の情報を省き海岸線を強調した表現形式の図を「ポルトラーノ(方位線海図)」という。江戸時代初期の日本では、この図法の地図を「加留多(カルタ)」と呼んでいた。ポルトガルやスペイン船が日本に渡航していた16世紀、その航海で実践的に使用された海図である。 原図成立年は寛文11年頃、日本を描くそのかたちから、幕府が編纂した「寛永国絵図」をもとにして作られた日本図ではないかと推定もできるが、今やその詳細はわからない。しかしながら「行基図」形式の図などと比べてもわかるように当時、国内最高の精度をもった地図であった。 驚くことに、現在、同系統の「カルタ」は、これを含めて国内にわずか8点確認されるのみという貴重な図であり、本図の資料的価値はきわめて高い。 図右下は縮尺の表記。また緯度1度分の距離を「四十三里七合半」と表記している。

ベハイムの地球儀 ベハイムの地球儀

 現存する最古の地球儀は、1492年にニュルンベルクでマルチン・ベハイム(1459?~1507)が製作したものである(写真)。直径50.7センチの金属製で、羊皮紙でできた12片の舟型世界図が貼られている。6色の絵の具を使って画家に描かせた、たいへん美しく緻密なものである。描かれている世界図は当時としては標準的なもので、コロンブスが使用していた地図と似かよっている。このころ新大陸はまだなく、アジアが東方へ極端に引き伸ばされることによって、太平洋とアメリカ大陸のスペースを埋めている。アフリカの南端は周航可能に描かれている。カタロニア図と同じように、事物にちなんだたくさんのイラストが散りばめられていて、不明な地域には想像上の動物なども描かれているが、聖書に由来するものはかなり少なくなっている。

 大航海時代の先鞭をつけたスペインやポルトガルは、発見した土地を地図に描いていくのだが、彼らの航海は国家事業としておこなわれることが多く、地図が印刷・出版されることはほとんどなかった。特にポルトガルでは国家機密扱いになっていたうえ、1755年の地震で多くが失われてしまった。
 16世紀になると、海の主役はスペインから新興国家オランダに移っていく。それとともに地図出版の主役もイタリアからオランダに移っていった。自由な貿易と手工芸が盛んな土地柄であったことが背景にあった。メルカトル、オルテリウス、ブラウなど多くの地図制作者が工房を構えて、絢爛豪華な地図を出版するようになる。
 同時に地図の形態も変化していく。もはや地中海を中心にした1枚刷りだけでは、要求を満たすことはできない。そこで全世界図、地域図、都市図など多種多様の地図が出版されるようになってくる。1570年にはオルテリウス(1527~1598)が、70図からなる初の世界地図帳『地球の舞台』を出版し、ヨーロッパ中で大好評を得た。1595年にはメルカトルも『アトラス』を出版し、世界図の投影法についてもいろいろ考案されるようになった。コンタリニは極投影による円錐図法、1538年のメルカトルの世界図は復心臓型図法(南北両半球を多円錐図法で投影したものを横に寝かせて並べた図法)、1542年のアグネスは長円形のアピアヌス図法(エイトフ図法に近いが平極)、1700年のドゥリールは両半球型の平射方位図法を用いている。写真はオルテリウスが1570年に作成した世界図である。

オルテリウスが1570年に作成した世界図 オルテリウスが1570年に作成した世界図

 このように大航海時代の地図制作者は、探検からもたらされる新しい情報を取り入れ、陸地の形を変化させていった。しかしまだ中世以来の伝統や宗教観から完全に脱却したわけではなかった。さすがに“エデンの園”は姿を消していくのだが、装飾のためのイラストは残っていた。また実際に確認された情報と古い時代の地図から引用した情報を区別することなく描いていた。地図制作者が完全に科学的な態度で臨むようになったのは、18世紀になってからのことである。この変化は地図製作の中心地、つまり海上の支配圏を握っていた国の移り変わりから見ることもできる。13世紀、異教徒に囲まれた地中海で交易をしていたイタリアの時代は、地中海の外はイラストで埋められていた。15~16世紀、黄金や香料の獲得と布教に熱心なスペインとポルトガルの時代には、想像の大陸が描かれてた。17世紀、貿易で富を成したオランダの時代になると、投影法の考慮など科学的な態度が見られるようになってくる。17世紀末、国家と教会を分離して科学を振興したフランスとイギリスの時代になると、非科学的な要素は一掃されてしまうことになる。

メルカトルが1569年に作成した地図2 メルカトル制作地図

 写真はメルカトルが1569年に作成した地図である。その1569年とは伊東マンショが日向国に誕生した年であるのだが、織田信長がフロイスより見せられたのはこのメルカトルの地図であった。また最後の写真は天正遣欧少年が長崎を出航する当時(1582年)にポルトガル船が使用した世界地図である。伊東マンショらは最初の寄港地(マカオ)にて、この地図をみながら世界観(西洋史観)を学んだ。このじつに小さな一枚の地図から、彼らは以後、動かぬ東洋史観と動かそうとする西洋史観との狭間で新鮮な生涯者として翻弄されることになる。そこには日本人が置き去りにした西洋史観がみえてくる。


                                             三馬 漱太郎

聖マンショ伝「帰らざる丘」・No.0023

戦乱の世に散る二つの花。織田信長を一樹の枝垂れサクラだとすれば、伊東マンショはその一輪の白い花びらである。

 戦乱の絶えなかった1560年代の京都では、キリシタン達が貧民救済や戦争による負傷者などの救援活動を組織的に行った。彼らは、貧しい者のために寄金を募り、クリスマスや復活祭には食事を提供したり、飢饉の際には炊き出し等の慈善活動を行なっている。
 これらに関連するイエズス会の資料を調べていると、永禄3(1560)年4月、京都の嵯峨野ではクリスマスにキリシタン100余名が集まり盛大な降誕祭を祝ったという。4月という季節がじつにおもしろい。どうやら織田信長の発案により、このクリスマス会は強いてサクラの花の下で催されたようだ。

夜桜 修司のサクラ(伊王島)

 漱太郎は先日、コラムNo.0022でご紹介した長崎(伊王島)に咲く寺山修司の手植え桜の一樹(しかも夜陰の中の桜)がみたくなって訪れてみた。冒頭でつづる桜の下で開催されたクリスマス会の逸話は、その伊王島の夜桜をながめつつ、ふと思い出されたもので、写真はその折りの一枚である。

 はなびらを 幾重かさねど 夜桜の あはれましろき 人のくらやみ

 これは、人が誰も見ていないところで命の営みに全力を尽くしたであろう伊東マンショにオマージュ(賛辞)をおくりたくて詠んだ歌である。手植えした張本人である寺山修司は、この桜の花を見ずに他界した。わずか一夜の伊王島の小さな旅であったが、その旅で漱太郎は「人が亡くなったとき、亡くなった人にとって自分は何だったのか、自分にとってその人は何だったのかを考える」忸怩(じくじ)たる思いを抱いた。

寺山修司 寺山修司

《 生きて、生き抜いてください。それが私にとっての幸せなのです。あなたが生き抜いてくださるなら、わたしの心もあなたと共にあるはずです。形に添う影のように、いついつまでも、あなたの傍に寄り添えることでしょう 》・・・という、これは伊東マンショの最期の遺言である。マンショは病死する直前に、自身の看病に明け暮れていた「八重」という女性へ、最期の凛とした言葉のたたずまいで接しながら享年43を散らした。漱太郎は伊王島の夜桜を眺めながら、兆した春を冬に戻したらなるまいと思った。

 そんな伊東マンショがこの世に生をうける2年前、堺の教会にいたイエズス会司祭ロイス・フロイス(Luis Frois 1532~97)は、永禄11(1567)年の堺近郊で起きた織田信長と松永久秀との戦いで、クリスマス休戦を申し出る。両陣営にいた約70名の武士が、堺の教会に集い、ミサや懺悔を行い、料理を持ち合い仲良く食事もした。翌日、再び敵味方に別れて戦場に戻ったという。
 このころザビエル来日から30年が経過し、日本におけるキリシタンは13万人に達していた。来日したイタリア人巡察師ヴァリニャーノ(Alesandro Valignano)は、若い日本人聖職者や在日ヨーロッパ人聖職者の教育機関である神学校・学院、修練院等を開設し、画期的な布教方針を樹立する。信長の寵愛を受けたフロイスや都地方区の修院長オルガンティノ、キリシタン大名の高山右近の功績で、京都南蛮寺の建立(1576年)安土セミナリヨ(神学校)の開設(1580年)に成功した。

南蛮寺 南蛮寺跡

 このように織田信長の保護を得たイエズス会は、京都布教の拠点として四条坊門姥柳(うばやぎ)町に3階建ての聖堂を建立し、南蛮寺と呼ばれた教会は新しい京の名所として賑わい、門前には南蛮帽やロザリオなどの南蛮グッズを売る店も現れる。各教会には合唱隊もでき、オルガンの伴奏で賛美歌が歌われ、荘厳なミサが挙げられた。信長は町の教会を訪問しては、オルガンやヴィオラ、クラボ、ハープ、フルートの音色に酔いしれたという。この頃の降誕祭はさぞや盛大だったのであろう。1580年代には、信者数も60万人になっていた。
 織田信長亡き後天下をとった豊臣秀吉は、当初は信長と同様にキリシタンを優遇し、南蛮貿易を推進していた。秀吉自身も南蛮趣味に凝った時期もあり、お花見で家来達に南蛮衣装を着させたり、寝室には大型のベッドも置かれた時期もあった。
 天正11(1583)年のクリスマス、大阪に作られた教会で、京都・堺・河内・摂津等からキリシタンの大群衆が集い、盛大なミサが挙げられている。伊東マンショは、1583年12月20日(天正11年旧暦11月7日) マラッカ・コチンをへてインドのゴアに着く。しばらくゴアに留まるのだが、大阪の教会で盛大なミサが挙げられたことを当地で風聞した。
 その伊東マンショが帰国の途上にある天正15(1587)年、九州征伐に勝利した秀吉はバテレン追放令を発布する。これはマンショらにいかにも逆境のようであるが、しかしすぐに追放されたのではなく、天正遣欧使節が帰国した1590年頃にはキリスト教と南蛮文化はもっとも栄えている。
 こうした繁栄は、秀吉の死の直後の慶長4(1599)年、長崎でのクリスマスの模様がフェルナン・ゲレイロ編『日本諸国記』に詳細に「降誕祭は学院の前の非常に立派な庭で荘厳に、また大勢の群集を集めて行われた。神学校の生徒達は4時間以上も聖なる主の降誕について非常に深く信心を表した。藩主の大村は全ての貴人を伴ってこの目的だけに来訪した。彼らは全てを非常な威厳、充分な秩序、そして代表する人物の地位に相応しく大いなる壮麗さをもって挙行した。ヨーロッパのいかなる地方においても快く迎えられ賛美されただろう。肥後でもまた、小西行長がこの祭典を真摯に祝い、2.3ヶ月前に改宗した全てのキリシタン1000名以上を饗応した」と記されている。

伊王島からの外洋 伊王島からみる東シナ海の展望


 伊王島から展望する長崎の外海(東シナ海)の遥か彼方には南蛮の国があったのだが、その往時の南蛮船を想い描きながらたたずむと、秀吉の目論んだ、キリスト教を抜きにした南蛮貿易から得る実質的な知識や文物、長崎を直轄領にして南蛮貿易を独占しようとした政策は、やがて徳川家康に受け継がれ、寛永16(1639)年以降、三大将軍家光によりキリシタン禁止を主な理由にした鎖国政策に引き継がれていった人の世の歴史を省みることになる。

 そんな歴史のそもそもに、宣教師と共に来日した外国兵を受け入れ、国籍を問わず自らの兵として登用したり、能力主義を重視して、足軽出身の秀吉などを登用したりと合理的で革新的な織田信長がいた。彼は宣教師を通してさらに大きな世界を意識したのであろう。お気に入りのフロイトに布教活動を許す代わりに、海外の情報や文化を吸収し、政治参謀としての役割をさせていた。そこから信長の思い描く”天下”は、秀吉・家康とは明らかに違っていた。

織田信長2 織田信長

 日本経済の中枢(堺)を押さえたのは織田信長だった。信長はトップダウン式の強力な指導力を発揮して、1570年代初期の段階で外洋型帆船を持つ有力な海軍を保有し、また野戦では大量の鉄砲と大砲を運用させる。さらに高性能の最新兵器を揃える経済力も、日本の中枢での経済活動と海外での貿易促進で得ることの両輪を工夫した。
 そうして信長は、ヨーロッパの物産を得るために無軌道な海賊行為を停止させ、刃向かうものを容赦なく海の果てであっても追い立てた。これが日本初の海賊に対する法律となると同時に、日本の外に対して効力を持たせた法律ともなった。何しろ織田の軍船は、海賊を捕らえるとそれが日本人以外の唐人(中華系)、朝鮮人の国が関わっていても容赦なく処刑していった。彼の苛烈な性格と合理的で先進的な感覚が、東アジアの海に秩序としてもたらされたのだ。これは他の戦国大名にはあまり見られない例であり、商人や諸外国からも好意的に見られた。また海賊からの脅威を受けていたポルトガル人からも大いに感謝され、信長がポルトガルとの優先的な交易権を得るようになる。
 一方で信長などの有力な戦国大名は、自らのお墨付きを与えることでの交易安定を狙って朱印状を発行。1570年代からは、日本の有力者の多くが朱印船貿易に手を広げるようになる。
当時の織田信長の関心は、関東や奥州にはなかった。彼は堺など旧石山本願寺近くにその身を置き、新たな天下布武の拠点づくりを始めていたのだ。
 それが大坂城の築城である。
 新たな巨大都市を一から建設するこの大事業は、当時まだ入り江や中州が多かった大坂平野の中心部を徹底的に改造する大土木工事ともなった。人夫10万人以上が常に投入され、建設開始から3年で一定の形を形成するようになる。規模の大きさを現すものとしては、河川の大幅改修工事そのものが都市の防衛と地域の開発を兼ねていたこと挙げることができる。この時、内陸部で入り組んでいた大和川と淀川がほぼ真っ直ぐ海に向けた形にすげ替えられ、その内側は重厚な堤防としての役割と城郭としての土塁役割を兼ねるものであった。据えられた石造りの幅広い橋梁にも丈夫な門扉が建設され、朱雀門、玄武門とされた中央城郭より先に建設された巨大な城門は、訪れる者全ての度肝を抜いた。
 また広大な敷地内に設けられた都市区画は、無数の水路(堀)によって効率的な物流網が確保されており、堺と京、博多、そして安土から多くの商人を移住させる事で短期間に都市の建設を達成している。
 さらに、この時得られた高い土木技術は、その後日本各地に伝えられ、日本人達は雄壮な城塞を次々に作り上げ、町を道を橋を築き上げていく事になる。
 大坂の建設を本国につぶさに報告したイエズス会宣教師のヴァリニャーニの手記には、天地創造のようだという趣旨の言葉を見つけることができる。
 また大坂の街造営には異国情緒溢れる異人居留区も作られたのだが、その中核には本格的な西洋建築の大きなカトリック教会も建設された。一見これは、それまでの信長同様にキリスト教への保護政策のように見えた。しかしその翌年、『宗門法度』が信長の名により発布される。そこでは、日本では宗教の自由は何人であれ犯すことが出来ないとされた。いわゆる「信教の自由」が世界に先駆けて布告されたのだ。だが一方では、門を叩く者以外に強引な宗教勧誘を行う事が禁止された。また宗教に関わる者が政治に深く関わった場合、武器を持った場合、人道にもとる行い(殺人、強姦、強盗、人身(奴隷)売買)をした場合、それぞれ最高死罪を以て罰すると決められた。人に教えを与える者には、俗世に関わることなく自らにも厳しくなければならないとしたからだ。この法度(法律)は、神は信じるものだが、宗教者は敬われるものだという日本人的考えから、問題なく受け入れられた。
 そうしてこれにより積極的な宗教活動は日本域内では禁止されたに等しく、以後キリスト教の布教は大きな減退に見舞われる事になる。要するに立派な教会は、彼らの鳥籠(とりかご)だったわけだ。しかし宣教師達もただで泣き寝入る気はなく、今度は西洋の優れた文物や学問を餌に、日本人を自主的に教会に呼び込もうとした。これが後に西洋風大学へと発展していく事になる。
 なお大坂の街には、大きな人工の入り江を持つ港湾部が建設されたが、その一角には巨大な造船所がいくつも建設され、日本中の富と資材を集中した一大プロダクションセンターとなっていた。目的はむろんアジア交易の覇権確立のためである。またそれは、西洋人に来てもらうばかりではなく、日本人の側からも積極的に海外へと出ていくための準備でもあった。

織田信長3


死のふは一定 しのび草には何をしよぞ 一定かたりをこすよの

 織田信長は、この小歌を好んで謡っていたという。「死は必ず誰にも訪れるもの。生前をしのぶたよりとして、生のある間に何をしておこうか。人はそれをよすがとして、きっと思い出を語ってくれるであろうよ」と謡っている。はかない人生の中に、永遠に消えない何かを刻みたい。信長は、常にそう考えていたのかもしれない。

 そう感じさせる出来事は、18歳で家督を継いだ直後から起こっている。信長への反発が家督争いへと発展し、兄弟が次々に反旗を翻す。しかし信長は、ことごとく謀叛を制したばかりか、尾張統一まで実現してしまう。
 さらに、桶狭間の戦いでは「海道一の弓取り」と讃えられた今川義元を撃破。全国に名を轟かす武将となる。さらに徳川家康と同盟を結んで三河方面の脅威を消し、本格的に美濃攻略に着手。永禄10年(1567)に美濃一国を手中に収める。本拠地を尾張小牧山から岐阜に移したこの頃から、天下布武という朱印を用いはじめた。誰も考えていなかった天下統一の旗を公然と掲げたのだ。翌、永禄11年(1568)には、足利義昭を奉じて上洛。後見人となり天下統一への一歩を踏み出す。しかし、将軍とは名ばかりの義昭は不満を募らせ、密かに武田信玄・朝倉義景ら大名や、本願寺・比叡山などに書状を送り信長包囲網を築き上げる。ここから信長の苦闘の日々が始まった。姉川の合戦、本願寺との石山合戦、そして三方ヶ原の合戦。次々に立ちふさがる強敵との戦いながら、信長は活路を見出し続ける。元亀4年(1573)7月には、足利義昭自身が挙兵したが失敗。信長包囲網は上杉謙信の死により崩れ、天正8年(1580)には本願寺との和睦を成立させる。天正10年には、武田氏討伐に乗り出し武田勝頼を討った。最後の宿敵を葬り天下統一に王手を賭けた信長は、1週間かけて駿河・遠江を横断し清洲に凱旋する。この旅に同行したのは家康だった。それは、裏切りが当たり前の戦国の世で20年にわたり同盟を守り続けた二人だけが分かち合える特別な時間だったろう。本能寺の変が起こるのは、このわずか一ヶ月後。「是非に及ばず」と言い残し、信長は紅蓮の炎に消える。信長は口ずさんでいた小歌の通り、歴史に忘れられない足跡を刻んでその生涯を閉じた。

本能寺跡 本能寺跡の碑

                                                           三馬 漱太郎

聖マンショ伝「帰らざる丘」・No.0022

魔術にかけられた伊東マンショは青い花の咲く国で生まれ蘇る。その魔法は精神の究極の表現者ノヴァーリスによってかけられた。

青い花

 いよいよ現代の科学技術で青い花が生まれるようになった。そうした青い花のことを想うと、つい青い花の灯火にて本など読んでみたくなる。今宵はそんな春爛漫の気分である。
 読書というものには偶然が関与すると思う。それは、夜中に街を歩いていて、ふと見上げた星々の何に目をとめたかという偶然と同じである。いつ、どこで、どんな本に出会ったか。そのなかには、一連の星座をかたどる本のうちの一冊に出会うような偶然もあった。
 たとえばドイツ・ロマン派にいつ出会えたか。これはその後の読書航海図のひとつの運を決めている。彷徨する海上でどんな星に出会えたかということに近い。その星も、ゲーテでは大きすぎるし、ヘルダーリンではあまりに微に入りすぎている。
ゲーテ  ゲーテ
ヘルダーリン ヘルダーリン

 ホフマンかノヴァーリスか、あるいはジャン・パウルかティークか。これらは北斗七星やオリオン座といった星座である。一度、目についたら全天はこの星座から始まっていく。ちょっと冬めく書籍の夜陰なら、アルニムかブレンターノというところ、これはさしずめスバルや猟犬座であろう。運がよければ最初からシュレーゲル兄弟という連星に出会うということもある。
 ドイツ・ロマン派に出会うこと、それは、読書においてどのように「夜の思想」に出会えたかということであり、どのように「夢」と「電気」と「彗星」を同時の刻限に観相できたかということを物語る。その同一刻限に見るロマン派の光景というものは、出会ってみなければ決してわからない結晶的な雰囲気というものを伝えてくれる。漱太郎のそれとはノヴァーリスの『青い花』からが始まりであった。

ノヴァーリスの「青い花」 ノヴァーリスの「青い花」

 当時、というのは中学3年のころのことだが、読む前からこんなに読むことを憧れていた作品はなかったと思う。読む直前にすでに胸がはちきれていたといってよい。
 ノヴァーリスという作家がいること、父親はハルデンベルク男爵でザクセン製塩所の長官であったこと、そのノヴァーリスが『青い花』というドイツ浪漫派を代表する魔法のような、この世のものともつかない作品を書いたこと、原題は「ハインリッヒ・フォン・オフターディンゲン」という主人公の青年の名であること、ノヴァーリスには14歳で婚約したゾフィーという少女がいたこと、そのゾフィーはすぐ重病に罹って死んでしまったこと、ノヴァーリスもまたわずか29歳で死んでしまったこと。
 そういうことを下を向きながらまるで秘密をあかすかのようにぼくに教えてくれたのは、二つ歳上だが同郷に生まれた岩切の文代ちゃんだった。
 彼女はノヴァーリスだけではなく、海老を紐に結わえて散歩させていたネルヴァルのことや、いくつものシャンソンや、アーデンに旅をしたランボーのことなども、小さな声で教えてくれた。そんなことを知っている女子高生がいることは驚嘆のかぎりではあったが、何も知らなかった漱太郎には、そのことが驚嘆すべきことであることも、わからなかった。そうした秘密の作家たちの菫色の事情の数々を告げてくれた彼女は、いまドイツの大学で日本文学を教えている。
 それから漱太郎は『青い花』がずうっと憧れだったのである。けれども、それに出会ったのは大学1年のときだった。
 だからこれを最初に読んだときは、あまりに気分が高揚しすぎていて、まるで夢遊病患者のようだった。浮き浮きしすぎて、話にならなかったのである。
 そのときの印象をまずは書いておく。岩波文庫の小牧健夫訳だった(その後、斎藤久雄訳も読んだが、ここでは都合により国書刊行会のドイツ・ロマン派全集「ノヴァーリス」に入っている薗田宗人訳をとりあげておきたい。英訳も手にしてみたが、これはハインリッヒがヘンリーになっていて、とうていノヴァーリスのものには思えなかった)。
 ようするに夢なのだ。「まどろみ」の中の逆旅(げきりょ)なのである。暗い森を抜けていけば出会える幻想の象徴があるとしたら、それが青い花なのである。
 これを読みはじめてすぐに自分がハインリッヒ・フォン・オフターディンゲンになってしまっていた。読み方もおかしかった。ひたすら電気的で結晶的なフレーズを探して読んでいるようなもので、その言葉がどんな前後の脈絡をもっているかということなど、まったく意に介していなかった。ひたすらに見知らぬ夢を、いちずに見果てぬ夢を見られれば、それでよかったのである。
 作品のどこからどこまでが夢で、どこが地の描写かということもはっきりしないまま読んだ。なにしろ父といい、商人といい、老人といい、ハインリッヒといい、登場人物がみんな夢の話をするのだから、それも長い夢の話ばかりがひしめいているので、まるで幻覚剤をのんだまま映画を見ているようなのである。
 ノヴァーリスがそうした夢と現実の境界に、ほとんど溝を引かなかったということもある。ノヴァーリスはどこが出来事で、どこが夢であるかなどということを分別などしたくなかったのである。それがノヴァーリスのやりかたであり、漱太郎はそのノヴァーリスに園丁のごとくに従った。
 そうした夢の話のなかでは、クリングスオールの物語が圧巻だった。とくに神のような婦人がギニスタンに渡された紙片をうけとるたびに、それを水に浸し、それを引きあげるたびに文字が消え残っていくというくだりにさしかかってからは、たいへんだった。ファーベルの所作のひとつひとつがただならない。
 ともかくも、ざっとそんなふうに夢の中の住人のように読んできたものだから、『青い花』が第2部「実現」の半ば、霊感と寓話が重なって鉱物世界の円頂である天界からの啓示をうけようというまさにそのとき、ぷっつりと未完におわってしまったことが信じられなかった。漱太郎は岩切の文代ちゃんに、『青い花』が未完の物語であることを聞いていなかったのだ。

ノヴァーリス ノヴァーリス

 さて、いったんノヴァーリスに出会ったということは、ヘッセの『車輪の下』や漱石の『三四郎』を読んで、ヘッセや漱石をつづけて読みたくなるというような、そんな生易しい冒険ですませられる後日談を用意してくれはしない。
 ノヴァーリスは、いったんその輝きに出会ったら、もはや忘れることのできない星座のひとつの星なのである。
 まずはノヴァーリスの只中に入リ、『日記』『断片』『ザイスの学徒』を読み耽る。これでノヴァーリスとハインリッヒがぴったり重なると、次はノヴァーリスを生んだ時代の哲学に入っていく。ここで天界の旅を終えられればまだ軽症である。が、とうていそんな程度では終わらない。
 漱太郎もそうであったのだけれど、ようするにアルベール・ベガンがのちに解説した「ロマン的魂と夢」という世界の中へ、すなわちリヒテンベルクにおける「内気な神秘主義と虚無の関係」に始まって、ティークのセレーネ幻想とアルニムの北極星の鏡をへて、ホフマンの悪魔の霊液によって砂男になりきってしまうというような、そういうドイツ・ロマン派的遍歴を通過しつづける巡礼者になるしかなくなってくるわけなのだ。
 しかし、それがなんとも快楽なのである。ディシプリンなのである。ドイツ・ロマン派との密約とはそういうものである。ただし、以上の最初の熱病によってホフマンやティークやノヴァーリスの何かが“理解”できたかというと、そういうことはない。ただただドイツ・ロマン派の宇宙ウィルスによる天の麻疹(はしか)に罹ったというだけなのである。
 ノヴァーリスだけについての特別な熱病もある。それがノヴァーリス・ウィルスというものだ。
 英語圏で最初にこの麻疹に罹ったのはトマス・カーライルであった。カーライルはノヴァーリスを“ドイツのダンテ”というよりも“ドイツのパスカル”と呼びたいと書いて、とりわけ『ザイスの学徒』の数学的神秘を漂わせる哲学に酔った。『ザイスの学徒』は、漱太郎が大学時代にいちばん傾注した作品である。
 ハインリッヒ・ハイネにあっては「ノヴァーリスはどんな生命をも鉱物的結晶にしてしまうアラビアの魔術師である」といい、『青い花』については、この作品で出会うすべての登場人物が、ずっと以前から一緒に暮らしたことがあるように思えてくる不思議について、しきりに感心してみせた。
 メーテルリンクはノヴァーリスを精神の究極の表現者と名付け、ニーチェは「経験や本能にひそむ聖なるものはノヴァーリスによって発見された」と見た。ふだんは口うるさい連中もこぞって熱病に罹っていった。たとえばゲオルグ・ルカーチは「ノヴァーリスだけがドイツ・ロマン派の唯一の、そして正真正銘の詩人である」と絶賛し、ヴァルター・ベンヤミンは「精神的形象における観察の理論の樹立者」とさえ呼んだ。そんななか、ノヴァーリスに最大の心理学的実相のすべてを見出そうとしたのはディルタイである。ディルタイは「ノヴァーリスの自然は世界心情そのものである」と結論づけた。
 ところでノヴァーリスの『青い花』を読んだ者は、たいたいが未完におわった第2部「実現」を空想したくなる。その作業に最初にとりくんだのは同時代人のフリードリッヒ・ティークだが、以来、多くの文学者が第2部の構想を予想した。
 漱太郎にもいまやだいたいの見当はつく。ハインリッヒ・フォン・オフターディンゲンは戦火のイタリアにおもむき、戦場の先頭にたち、そこで名も知らぬ皇帝の息子と出会ってギリシアに旅をするはずなのだ。しかし、のちのネルヴァル同様に「東方への憧れ」こそ癒しがたく、ハインリッヒは東方の知に向かい、エルサレムの神秘とペルシアの童話とバラモンの少女に「青い花」を求めてひたむきになるにちがいない。さらには「日本」へと目を向ける。
 そしてハインリッヒは帰還する。ハインリッヒはオデュッセウスなのである。ただし、ドイツのオデュッセウスであった。そしてマティルデの死に出会う。ファーベルと電気石とがその驚きを伝えたはずだった。悲しみにくれるハインリッヒはさまようが、ここでハインリッヒに一冊の古文書が渡される。これを渡したのはおそらくは皇帝である。
 そこには「青い花」に関する最後の謎が書いてある。その場所は果てしない場所である。そこへ行くには長い旅が必要となる。そこは地上の植物も鉱物も見られない国である。しかしながら、そここそが「青い花」の国なのだ。
 ハインリッヒはここで「青い花」を摘み、マティルデの呪縛を解くことになるだろう。あらゆる石が歌をうたい、木々が古代文字になる。マティルデは蘇り、ハインリッヒは天界に詩を読んでいく。その詩こそ、かつてハインリッヒが見知らぬ男から最初に聞いた夢の中の「青い花」なのである。そうして、その見知らぬ男の正体がイエズス会宣教師「バリニャーノ」【Alexandro Valignano】なのである。
 バリニャーノ[1539~1606]はイタリアの宣教師。イエズス会の東洋巡察使として1579年(天正7)から1598年(慶長3)にかけて3回にわたって来日する。大友宗麟(おおともそうりん)ほか九州諸大名を教化し、また、活字印刷機をもたらし、キリシタン版を出版した。そうしてマカオで病没となる。ノヴァーリスの設定する名も知らぬ皇帝の息子こそが「伊東マンショ」であり、第2部で、ハインリッヒ・フォン・オフターディンゲンは伊東マンショの幻影と出合わせて、ギリシアに旅をさせるはずなのだ。ノヴァーリスはマンショの幻影の中に「青い花」をみつけた。だから、ハインリッヒは日本で「青い花」を摘み、マティルデの呪縛を解くことになるだろう。

 ノヴァーリス(Novalis, 1772年5月2日 - 1801年3月25日)は、ドイツ・ロマン主義の詩人・小説家・思想家・鉱山技師である。シュレーゲル兄弟らと並ぶ初期ロマン主義の中心人物であった。本名フリードリヒ・フォン・ハルデンベルク(Friedrich von Hardenberg)。筆名の「ノヴァーリス」はラテン語で新開墾地を意味する。
 ハルツ(当時はクアザクセン、現在はマンスフェルター・ラント)のオーバーヴィーダーシュテットの貴族の家庭に生まれ、この土地でハルデンベルクは幼少時代、少年時代を過ごした。ハルツはドイツの中北部の東方に位置する。「シュタイン-ハルデンベルクの改革」で知られるプロイセン宰相カール・アウグスト・フォン・ハルデンベルク(1750年 - 1822年)とノヴァーリスは親戚である。

ハルツの街 ハルツの街
 ハルツ山は古くから神秘的な山で、特に中世では魔女の住む山として認知されてきた。その後、ゲーテやハインリヒ・ハイネらがハルツに滞在し、紀行などで記した。 また、鉱山としても開発され、多くの地下資源が産出された。写真はそのハルツ山のボーデ渓谷である。

ハルツ山地の地図 ハルツ山地の地図
ボーデ渓谷 ボーデ渓谷

 父ハインリヒ・ウルリヒ・エラスムス・フライヘル・フォン・ハルデンベルク(1738年 - 1814年)は厳格な敬虔主義者であり、ヘルンフート同胞教会の一員であった。2度目の結婚でアウグスティーネ・ベルンハルディーネ・フライフラウ・フォン・ハルデンベルク(旧姓ベルツィヒ)との間に11人の子をもうける。2番目の息子ゲオルク・フィリップ・フリードリヒ・フライヘル・フォン・ハルデンベルクが後に「ノヴァーリス」と名乗ることになる。幼少時代には家庭教師の厳格な教育を受けた。9歳の時に赤痢にかかり、後遺症で胃の弛緩を患う。この病気を機に詩的、知的才能が花開いたと伝えられている。

 そんなノヴァーリスの作品の特徴は、ゾフィーの死、いわゆる「ゾフィー体験」を中核にする神秘主義的傾向、とりわけ無限なものへの志向と、中世の共同体志向にある。前者についてはゾフィーの墓の前で霊感を受けて作られた詩『夜の賛歌』に、後者は中世のミンネゼンガーを主人公にする小説『青い花』(原題は『ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン』)や、宗教改革前の世界をキリスト教というひとつの文化的背景によって民族性を超えた普遍的地盤をもつ共同体として称揚した評論『キリスト教世界あるいはヨーロッパ』にことに顕著に現れている。
 ノヴァーリスが日本人「伊東マンショ」と見聞にて出逢うのは、1785年、父がザクセン選帝侯国の製塩工場長に任命されたことにより、1786年4月に一家をあげてヴァイセンフェルスに移住し、1790年10月までアイスレーベンのルター・ギムナジウムに通い、修辞学と西欧古典文学を学ぶころであった。
 さらに10月末からイェーナ大学に入学し、法学を学ぶのだが、1791年10月ライプツィヒ大学へ転学し、法学のほかに哲学、数学を学ぶことになる。また伊東マンショの幻影として、そこに「青い花」の咲く国を妄想し始めるのは1793年にヴィッテンベルク大学へ移り、翌年、法学試験に合格したころであった。この年、ノヴァーリスは当時12歳の少女ゾフィー・フォン・キューンと出会い、翌春に婚約を結ぶが、彼女は重病に倒れる。鬱蒼とした気分のまま大学を首席で卒業し、秋には両親のもとに帰ることになった。その後、裁判所書記の見習いとしてザクセンのテンシュテットへ行き、実務を学ぶことになるのだが、小説「青い花」の構想を成したのは、この裁判所書記時代であった。
ゾフィー・フォン・キューン2 ゾフィー・フォン・キューン

 彼の文才はゾフィー・フォン・キューンという少女と出会うことで未踏の暴走を始めたと言える。彼女との悲惨な恋愛体験は、彼の文学作品に大きな影響を与えることになる。彼女はノヴァーリス(22歳)と歳が離れ、この時12歳。そして彼女が13歳になる直前、非公式ながら婚約をする。だが病弱な彼女は、1795年には重病に倒れる。3回にも及ぶ手術を経ながらも彼女は回復することなく、1976年に死去した。しかし、これは彼に大きな精神的な痛手を与えるとともに、彼女との間に一種の霊的交感を引き起こすことにもつながった。
 この時、彼は自殺を大真面目に考えたのだが、知識欲と学問への情熱が、それを押し留めた。霊的交感の中に棲むゾフィーが、東方の国に咲く「青い花」のことを、繰り返し繰り返し語りかけたからだ。
 その後ノヴァーリスは、1797年にはフライベルクの鉱山学校へゆき、鉱物学と自然科学一般を学び、1799年には製塩所で順調な出世をとげた。その鉱物学を学ぶなかで、マルコ・ポーロのいう黄金の国「ジパング」に憧れる。
 だが、彼は結核に冒されていた。1800年に病状は悪化する。同年、彼はチューリンゲンの地区管使長に任命されたが、病気ゆえにそれを辞退せざるを得なかった。そして、1801年に29歳の若さで夭折するのである。
 ともあれ、ノヴァーリスは、自分の創作活動を行うにあたって、膨大な研究と取材を行い、凄まじい量の暗喩、シンボルを作中に散りばめた。だから、これを真面目に注釈しようとしたら、分厚い本が一冊出来上がってしまうであろう。実際、ここで紹介したのも、彼の思想の片鱗にすぎない。青い花の咲く国に生まれた人物として、ノヴァーリスは伊東マンショを魔術として描いたのであるから、日本とはノヴァーリスの宇宙では「青い国」なのである。このような小説「青い花」と伊東マンショとは、ハルツ山という古くから神秘的な山で、特に中世では魔女の住む山として認知されてきた霊山の、その顕現によって結びつけられたのかもしれない。漱太郎にはノヴァーリスのいう「青垣」に言霊(ことだま)を感じるのだが、それはまさに大和の言霊のように響きわたるのである。
 ノヴァーリスは1794年11月にテンシュテット(Tennstedt)に滞在していたが、旅行で同地のグリューニンゲン(Grüningen)のフォン・ロッケンティーン家を友人と共に訪ね、そこで初めてゾフィーに出会った。
 そのとき、彼女は12歳の少女であり、ノヴァーリス自身は22歳であった。しかし若年にしてゾフィーは極めて聡明でウィットに富み、その神秘的な存在はノヴァーリスを魅了した。
 ノヴァーリスはゾフィーに恋をし、彼女の両親に結婚を申し出るが、余りにもゾフィーが幼すぎることを理由に、この提案は拒否された。しかし、ゾフィーが成長し、ノヴァーリスがしかるべき社会的地位を得た暁には、二人の結婚は認めるとされ、ゾフィーは事実上のノヴァーリスの婚約者となった。
 ノヴァーリスがゾフィーを心より愛し、とりわけその夭折の後、ゾフィーを崇拝し神秘化して捉えていたことは事実で、これはノヴァーリスの「ゾフィー体験」とも呼ばれる。しかし他方で、ゾフィー自身がノヴァーリスのことをどのように思っていたのかは明瞭には分からない。それにしてもノヴァーリスはゾフィーのイメージを詩作品のなかに「ジパングを知る女性」として表現した。
 そんなゾフィーは聡明であると共に、イマジネーションに富み、短い出会いの期間を通じて、ノヴァーリスに詩的インスピレーションを多数与えた。しかしゾフィーは、1795年11月に病にかかり、病床の人となってそのままに回復することなく、1797年3月19日に帰らぬ人となった。それは15歳の短い生涯であった。
 ゾフィーが存命中、彼女から得たインスピレーションと、彼女の夭折によって、ノヴァーリスのロマン主義思想は大きな影響を受けた。『夜の讃歌』(Hymnen an die Nacht,1800年)はゾフィーの存在とその死において記されたともいえる。ゾフィーはこの美しい詩作品により、永遠のいのちをこの宇宙にあって得たともいえるのだが、同時にそこには伊東マンショも蘇るように生きている気にさせられる。そういうドイツ・ロマン派の力は侮れないものであろう。

青い花2

                                             三馬 漱太郎

聖マンショ伝「帰らざる丘」・No.0021

4人の人物と伊東マンショのエピソード。伊王島のサクラが花散らすときに中世の境がみえてくる。

サクラ1

 別れといえば昔より、この人の世の常なるを、と、古来よりやまと人は梅とサクラの二つの花で春を哀しみながら渡りきた。梅とサクラの境に、季節は別れから出逢いに移る。この二つの花の境が人の世の「今日の境」でもある。その今日という日は、もっと生きたかった人の今日でもあった。写真(平成18年撮影)は長崎「伊王島」のサクラである。コラムNo.0021では、このサクラに結ばれる4人の人物の接点をご紹介することにしたい。

 マッチ擦る つかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの祖国はありや

 これは寺山修司の今日の境の歌である。

 どうやらこの歌の背景は詠まれた字面からは読み込めぬ秘められた奥行があるということなので、成蹊大学を訪ねることにした。もう三十年も前(昭和58年)の話なのだが、成蹊大学では当時、明治時代の有名な歌人、前田夕暮の長男で、亡父の短歌結社を受け継いだ前田透さん(昭和56年(1981年)、『冬すでに過ぐ』で第15回迢空賞を受賞)が文学部教授をつとめていた。

前田透 前田 透

 その時すでに60代半ば、胃の全摘手術をしたばかりでやせ衰え、それでもひょうひょうとした風情の前田透さんは、研究室でお会いした際に、じつに深い哀悼の眼差しを漱太郎に向けられ、寺山修司「1983年5月(昭和58年)、河北総合病院に肝硬変のため入院、腹膜炎を併発し、敗血症で死去。47歳没。戒名は天游光院法帰修映居士」についての、惜別の思いを語られた。それは「もっと生きたかった人の今日」のお話でもあった。しかし、そう語られた前田透も翌年、不慮の交通事故死(昭和59年1月)により、墓碑に「わが愛するものに語らん 樫の木に日が当り 視よ冬すでに過ぐ」と刻み遺されて他界された。で、あるから本コラムは、もっと行きたかった人(前田透)の今日のことでもある。さらに、その惜別の道は「伊東マンショ」へと通じ重なる。
修司の短歌「マッチ擦る・・・」について前田透は次ぎの言葉を漱太郎に投げ掛けた。

・・・・・寺山が、どこの海を詠んだのかで、彼の真意が解りますよ。
漱太郎・・・彼の出身地(津軽)の海でしょうか。
・・・・・いいえ、北とは真逆の暖かい海(長崎)なのですね。
漱太郎・・・私には海の寒色が目に広がりますが・・・。
・・・・・彼は演出家、脚本家でもあった。だから、この歌も、わざとらしいほど大げさで、あけっぴろげに世界に踏み出そうとする歌風を想わせる。しかしそう素直に想うと、打ちのめされる。たしかに色に例えると寒色なのでしょう。だが、それは形而下の色。形而上の色に真相がある。修司はこの歌を読むために海を選択したわけではない。別の目的で訪れた海をながめながら、マッチを擦ることにした。その真相については、松本清張さんが直接本人(寺山)から聞かれたそうだ。

松本清張 松本清張


 その松本清張が最初に哲学者の全集を購入したのはベルグソンとサルトルで、その最初の1冊はベルグソンが『笑い』で、サルトルが『自由への道』だった。これは生前にご本人から直に聞いた話であるが、その後はほんの少しの余裕ができると、ぽつぽつと二人の全集を集めたそうだ。

ベルグソン ベルグソン
サルトル サルトル

 なぜ、このような“とりあわせ”になったのかは当人も分からないという。しかし当時は、大それた意図などで入手したわけではなかったが、振り返り思うと、その「笑い」と「自由」を主題にした2冊は「ヨーロッパのもうひとつの精神の原点を暗示するものだった」と語る。その「もうひとつの精神」というのは、キリスト教精神に対するもうひとつの考え方という意味である。

 ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』の修道院に隠されていたのはアリストテレスの形而上学と古代ギリシアの風刺世界だった。キリスト教は「誰かに笑われること」を一番惧れたのである。誰かとは、さよう、人間である。人間が神を笑うこと、このことが許せなかったのだ。
 しかし、神々はずいぶん前から笑われていた。プリニウスによると、アペレスの弟子クテシロはゼウスを滑稽な神として描くのが得意だった。3世紀後半の護教論者アルノビウスが異教徒を論難したのも「みだりに笑うこと」だった。古代ローマ帝国では「サトゥルヌス」と「フェスケンニア」の二つの詩型が中心になっていたが、紀元後のペトロニウスやルキアーノとなると風刺と滑稽がいずれの詩型や戯曲でも前面に出てきた。
 帝政ローマの没落期は詩や演劇よりも歌が流行し、その歌がみだらなものになっていく。デカダンな帝国末期では立派な芸術作品よりも歌や踊りが流行するのは当然で、それこそ人間らしいことなのだが、そこがキリスト教には許せない。はやくも笑いの弾劾に乗り出した。4世紀に、すでにアウグスティヌスがこれらの歌や踊りを「忌み嫌うべきもの」とよんだのを先駆として、312年のマインツの宗教会議、589年のナルボンヌの宗教会議でも、歌舞音曲を「くだらぬもの、かつ悪魔的なもの」と規定した。
 逆に、中世のヨーロッパのいたるところに登場する悪魔たちは、その初期は笑いや風刺のウィルスをもたらすためのキャリアーたちであって、しかもしばしば中世独得の謎々に絡んでいるような寓意に関連していた悪戯(いたずら)の担い手にすぎなかった。それを本格的な悪魔に仕立てていったのは、やはりキリスト教である。
 松本清張の話を聞いていてよくわかったのは、中世社会に笑いを象徴する6つのキャラクターが並んで躍り出ていたということである。「悪魔」と、「動物」と「道化」と「吟遊詩人」と、そして「愚者」と「死者」。
 そのような話をお聞きした後日に考えてみると、動物はイソップ以来の伝統でわかりやすい。そこには寓意の混淆が生きている。道化は宮廷道化に昇格する前は民衆のあいだでの人気者だった。最初はMother Folie(愚母)とよばれていたらしく、それが教会組織を真似て、教皇や枢機卿や大司教をもじって遊ぶ「お人よし祭」とか「馬鹿の会」によるカーニバル形式になっていくと、そこで歌われる特定の歌をもちまわって唄う者もあらわれてくる。ヒットソングの切り出しである。
 これが吟遊詩人だった。最初はラテン語でミムスといった。アングロサクソン語ではグリーグモン(ここからグリーマンが派生していく)、そこに所作がつくミムスはパントミムスとよばれた。少し笑いがともなうばあいは、冗談を意味するジョクスやジョカリにもとづいてジョクラトールとなり、これがフランス語でジョングルールとなった。
 これらジョングルールたちのあいだから、専門の役柄が生まれていく。この役柄は誰かに仕えて身のまわりのことに気を配るミニステルが原型で、そこからメネストレルやミンストレルが自立し、物語の語り部になっていった。
 死者の登場がいちばん遅いのだが、いったん登場するとこの象徴力は死神の風刺性にむすびついて強靭になり、やがてダンス・マカブルの嵐となって中世社会を吹き荒れた。
 松本清張が言うように、これら6つのキャラクターがいずれも「笑い」と「自由」を背中あわせにもっていたことは、ブラントの『阿呆船』やエラスムスの『痴愚神礼讚』やボッシュの絵だけばかりに注目しすぎていた見方を、もっともっと気楽にもさせてくれる。
 キリスト教とは別のもうひとつの社会で、どのように民衆的なスターが生まれていったかということを知ることは、ヨーロッパを遊ぶには、これはどうしても必要な観点なのである。

オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯 オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯

 たとえばオイレンシュピーゲル。ドイツで生まれたこの民衆的英雄は、もともとはブラザー・ラッシュなどの手柄話の好きな主人公の物語を母型として育っていった。それがそもそもは風刺や滑稽のドラマトゥルギーをしっかり基礎にして成立していったことが、おもしろい。「ポン・モ」(とんち話)も「王様の失敗」も「ロビン・フッド」(ロビン・グッドフェロウ)も、いずれもカリカチュアの歴史の産物なのである。
 今日の日本でビートたけしを頂点とする芸能界が何をしているかを見れば、以上の原則はすべていまだに繰り返され、いまだに研鑽を続けているのだということが、よくわかる。明石家さんまも、まさに中世的カリカチュアの餌食であり、愚者であり、英雄なのである。
 マルティン・ルターをかなり激越な文書で批判したトマス・ミュルナーというパリ大学の文学士でフラシスコ会の修道士がいたが、そのミュルナーは当時の人間のすべてを分類すると、結局は「下品な者」か「愚か者」の二つになると言ったものだった。
 松本清張とは哲学について語るためにお会いしたのではない。「三位入道」という短編小説についての耕論をお願いしていた。つまり伊東三位入道義祐を、しかもその晩年をチョイスし、なぜ描き出そうとされたのか、直に著者の口で耕してもらいたかった。しかし「点と線」のような耕論を、なるほど氏らしく拝聴した。
 そうした松本清張の当時の口調を思い出して、最近、本書を手に取り返してみることにした。トーマス・ライトの『カリカチュアの歴史』である。

トーマス・ライトの『カリカチュアの歴史』 トーマス・ライトの『カリカチュアの歴史』

 本書にはいろいろ教唆されるところが多い。19世紀半ばに書かれた本書ではあるが、今日の研究者が見せる冷たさがない。衒いはあるが、それは趣味が生きているせいで、読んでいてじつに温かい。
 なによりも、思想がない。日本語で500ページをこえる大著(幸田礼雅 訳)なのに、ひたすらカリカチュアとグロテスクを描いた者たちへの共感に満ちているだけで、いっこうに理屈を持ち出さない。研究というのでもない。いわばアマチュアなのだ。こういう本は日本にもいくらでもあるが、ようするに私的考証がゆきつくところの愉しさなのである。
 トーマス・ライトはケンブリッジでイギリス中世の歴史が好きになって、聖史劇を追っかけた。やがて版画家のフェアーホールトと知りあい、1849年に『3人のジョージに治められたイングランドの歴史』という版画入りの本をつくっている。
 本書の後半ではジャック・カロからウィリアム・ホーガスにおよぶ近代風刺画の流れを追っているが、この部分はのちの研究者たちがさらに充実させている。
 ところで本コラムは本書の評論が目的ではない。松本清張が伊東三位入道義祐を描く上で、なぜ晩年の「愚か者」のみを短編として切り抜いたか、ということから手引きして、松本清張の視野にあったはずの伊東マンショ像を辿ろうと思う。
 そもそも松本清張が描いた「三位入道」には当初、「伊東マンショの祖父」という副題がつけられていた。清張はそこを構想の段階で削り落としている。削ぎ落とすことで長編仕立てから短編小説に構成を差し替えた。したがって執筆の際には長編構成に耐え得る相当の資料が手元にはあった。三位入道という小説とは、そんな膨大な資料を背景に秘めた著書なのである。
 松本清張は、伊東マンショをどうやら中世的カリカチュアの餌食として成立させることを断念した。ここらが、どうにも清張らしい。しかしその理由はいたってシンプルである。どのように膨大な資料を探索しても、伊東マンショの誕生日が不詳であったからだ。ここは清張の生い立ちと深い関係がある。書こうか、書くまいかするうちに、松本清張はペンネームの(せいちょう)から本名(きよはる)の赤子の我に帰った。

 清張に出生について公式には、福岡県企救郡板櫃村(現在の北九州市小倉北区)出身とされ、現在に至るまで「松本清張=小倉生まれ」とされている。しかし実際には、広島県広島市の生まれである。幼児期から児童期は山口県下関市で育ち、小倉に定住したのは小学校5年生、10歳、11歳からと推定される。父・松本峯太郎は鳥取県日南町の田中家出身で、幼少時に米子市の松本家に養子入りした。青年期に広島市に出奔、書生や看護雑役夫などをする。当地で広島県賀茂郡志和村(現在の東広島市志和町)出身の農家の娘で、広島市内の紡績工場で働いていた母・岡田タニと知り合い結婚。松本清張に関するほぼ全ての年譜では、この後「当時日露戦争による炭鉱景気に沸く北九州に移ったものらしい」と書かれ、この後に清張は小倉で生まれたと書かれている。
 しかし、読売新聞のインタビューでは、清張自身が「生まれのは小倉市(現北九州市)ということになっているが、本当は広島なの。それは旅先だったので、その後、すぐ小倉に行ったものだから、そこで生まれたことになっている」と話している。このインタビューの清張の言い回しは少し分かり難いが、両親が出会い定住していた広島を「旅先」と表現したとは考えられないため、「それは旅先だった」の「それ」は小倉を指していると解釈するのが妥当である。いずれにしても清張は、広島で生まれて、その後に小倉に移ったことを、親から聞いていたか何らかの確証があって、早くから認識していたものと推定される。実際の誕生日に関しては、松本清張記念館にも展示されている清張の幼児期の記念写真の台紙の裏に、「明治四十二年二月十二日生、同年四月十五日写」と墨書されており、残されている幼児期の他の肖像写真にも、「明治四十二年二月十二日 同年六月二十七日写 松本清治」と書かれている。両親が自分の子の誕生日を二度にわたりしかも同様に誤記する可能性は低いことから、1909年2月12日が清張の実際の誕生日であると推定される。また、広島市内で撮影したとみられる清張の幼児期の写真や台紙に記載のある写真館は、当時の商工業者名簿や関係者の証言で、広島市内に当時実在したことが確認されている。したがって12月21日は、出生届が受理された戸籍上の誕生日の可能性が高い。
 これら整理すると、清張は実際には1909年2月12日に広島市で生まれ、2枚目の写真が撮られた同年6月27日までは少なくとも広島に居住、出生届を出したとされる同年、12月21日頃までの間の、どの日かに清張一家は広島を出て、どこを転々としたのか、或いは直前に小倉に行ったのかは不明だが、小倉で同年12月21日頃に出生届を提出、その後、祖父母のいる下関市に移動し下関で定住したもの、と考えられる。
 姉2人は乳児のときに死亡している。間もなく1910年、下関市旧壇ノ浦に転居。家の裏は渦潮巻く海で、家の半分は石垣からはみ出し、海に打った杭の上に載っていた。ここで通行人相手の餅屋を始める。だが3年後に、線路建設のためダイナマイトで火の山麓を崩していたのに巻き込まれる。地滑りのため家が押し潰され、同市田中町に移った。父はあらゆる下層の職業を転々としたが、学問については憧憬を持ち、夜手枕で清張に本を読ませて聞かせた。両親には一人っ子のため溺愛された。10歳、11歳まで下関にて育つ。
 1916年、菁莪尋常小学校に入学。1920年、家族で小倉市に移ったため、天神島尋常小学校に転校。古船場町の銭湯の持で暮らしていたが、のちにバラック家を借り、そこに住んだ。家の前には白い灰汁の流れる小川があり、近くの製紙会社から出る廃液の臭気が漂っていた。1922年、板櫃尋常高等小学校に入学。両親は大八車を転がし露天で生計を立てていたが、翌年、一家は飲食店を開業した。
 このような幼・少年期の情操の体験が、誕生日を不詳とする伊東マンショの人生を描く上で重なると、描こうとする清張の心の大きな抵抗となった。
 芥川龍之介や菊池寛の短編小説に若い頃から関心を寄せていた清張は、特に短編小説を好んで執筆した。初期はほとんどが短編作品であり、文学的な意味での完成度において、短編作品を高く評価する論者も少なくない。これらの作品ではとりわけ、「何らかの意味で劣等感を抱いたり、社会的に孤立したりしながら、心の底では世の中を見返してやりたいという熱烈な現世欲を抱き、そのためにかえって破滅するような孤独で偏執的な人間像」好んで取り上げている。「三位入道」も、これらに類似する趣向の短編であった。また冒頭に掲げた寺山修司の短歌「マッチ擦る つかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの祖国はありや」とは、伊東マンショ像も視野にしようとした短編・三位入道に深く係わることになる。

寺山 修司 寺山修司

 歳の差において26歳下の寺山修司は、どのような経路で松本清張が描こうとした短編・三位入道の背後にあった真相を心得たかについては定かではないが、「マッチ擦る・・・」の一首を誕生させた寺山修司の動向に関しては、清張と修司が交わした往復書簡が遺されている。その書簡に残される「つかのま海に霧ふかし」の海が、前田透さん(実父・前田夕暮)のいう「長崎の海」なのであった。書簡によると、その海は長崎の「伊王島」とある。漱太郎は、このような見聞を得て、その伊王島に行くことにした。

聖ミカエル天主堂 聖ミカエル天主堂

 伊王島は長崎港から約10KMの海上に浮かぶ小さな島である。伊王島の港に発着する高速船(約20分)を降り、海岸沿いにひたすら進むと、やがて高台の上に聳える天主堂が見えてくる。これが二人の書簡に記された「聖ミカエル天主堂」であった。離島の教会堂であり、馬込教会聖ミカエル天主堂ともいい、別名沖ノ島天主堂ともいう。現在、外海側の伊王島と隣接する内海側の沖ノ島の、2つの島をあわせて伊王島町で、天主堂はその別名の通り、内海側の沖ノ島にある。
聖ミカエル天主堂2
聖ミカエル天主堂3

 昭和初期の幾度かの大型台風により崩壊した初代の聖堂にかわって、昭和6年 (1931) に建て替えられた現在の聖堂は、対災害、耐震を考慮された鉄筋コンクリート造であるが、約80年も経っているとは思えないほど、その外観は写真のように奇麗であった。また、コンクリートを厚めに使用しているため、全体的にぼってりとした感じのゴシック建築は、ゴシックという言葉の持つ近寄りがたいニュアンスとは違って、親しみの持てる柔らかな印象である。尖塔の上に乗る三つ葉のクローバーの十字架の、葉の部分が大きく作られていることが、可愛さの増していかにも離島に相応しい。

聖ミカエル天主堂5

 そんな天主堂の横から裏手へ回ると、明治時代の創建当時に造られたんではないかと思える、まことに味のある階段があった。修司が書簡にも記録されているために、その景観を体験するために登ってみた。高台に登ると、天主堂の上層部が目の前に現れる。天主堂越しに、そこからは長崎の海が見渡せ、抜群の眺望である。

聖ミカエル天主堂6

 島民の約60パーセントがカトリック信者という数字は、行政区域では国内で最も信者率が高い。1970年に公開された山田洋次監督の松竹映画『家族』には、当時の天主堂が記録されているのだが、映画は「カトリック信者だった炭鉱マンの家族が島を離れ、北海道まで行く道中を通して、家族とは何かをといかける」作品である。山田洋次は、それだけカトリック信者がいる離島に、興味を抱いた。

聖ミカエル天主堂7

 この離島の歴史もまたキリシタン弾圧との戦いであった。禁教の時代、交通不便な島であるため、潜伏するのに都合が良いことから、島原の乱以降、天草他の各地からキリシタンが避難してきた。明治初期までの、弾圧の厳しい時代には、島の人達は、集落全員が船で他所に避難し、追求が緩めばまた戻ると言った苦難を続けてきた。伊王島とはそんな島なのであるが、馬込教会は、禁教令下の明治4年(1871年)、椎山小聖堂として建てられた小さな教会堂が前身であった。しかし、それ以前のこの場所の歴史をひもとくと、伊東マンショが療養に訪れた足跡を遺している。
 寺山修司が主宰した天井桟敷という劇団名はマルセル・カルネの映画『Les Enfants du Paradis(邦題:天井桟敷の人々)』に由来するが、寺山曰く、「(好きな演劇を好きなようにやりたいという)おなじ理想を持つなら、地下(アンダーグラウンド)ではなくて、もっと高いところへ自分をおこう、と思って『天井桟敷』と名付けた」という。これは、かつて日本に存在したアングラ劇団で、演劇実験室を標榜した演劇グループである。1967年1月1日に結成された。
 寺山は1971年(昭和46年)『書を捨てよ、町へ出よう』で劇映画に進出し、サンレモ映画祭でグランプリを獲得する。このころフランスのニースで作家ル・クレジオと2日間語り明かすことになる。

ル・クレジオ2 ル・クレジオ

 そのジャン=マリ・ギュスターヴ・ル・クレジオ(Jean-Marie Gustave Le Clézio)のデビュー作である『調書』(1963年)は、上述したサルトルやカミュのほか、幻視的作風からランボーやブレイクに、また互いに位相の異なる切れ切れの断片を挿入する作風からゴダールの映画作品などとも比較され、ヘンリー・ミラーと関連付ける声もあった。
 デビュー作に続いて発表された短編集『発熱』(1965年)は、サリンジャーの作品を意識して日常に潜む小さな狂気が拡大していく様を克明に描いている。続く長編『大洪水』(1966年)は、ランボーの「大洪水」を意識して書かれており、また作中には、ル・クレジオが8歳の時、ナイジェリアへの渡航中に書かれた事実上の処女作「黒人オラジ」(Oradi noir)が挿入されている。これらの作品に、匿名性の高い登場人物たちを軸としながら西欧の「都市」を描いた『戦争』(1970年)、パナマでの生活をもとに、インディオの技芸と西欧文明の産業芸術との衝突をテーマにしたエッセイ『悪魔祓い』(1971年)、スーパー・マーケットを舞台とし、広告時代の人間の解放の可能性を問いかける『巨人たち』(1973年)などが続く。
 このようにル・クレジオの初期の作風は言語実験的な傾向の強いものであったが、中南米への興味と平行して次第に平明、簡素な文体に移行していった。この傾向は「大きいと同時に小さい」神話的な人物、ナジャナジャを主人公とする、見えるものの「向こう側」への時空旅行を描いた『向こう側への旅』(1975年)あたりからはじまり、エッセイ『地上の見知らぬ少年』(1978)における世界の美の再確認作業を通じて強化され、『モンドその他の物語』(1978年、邦題『海を見たことがなかった少年』)において、完全に獲得されたものとなる。それらは「努めて獲得された平明さ」となって、ル・クレジオは子供の読者を獲得し、また作中でも子供が描かれることが多くなった。しかし実は、これらの基軸をなすモチーフがル・クレジオにはあった。そのモチーフが「伊東マンショ」である。
 ル・クレジオはフランスのニースにイギリス籍の父とフランス籍の母との間に生まれた。18世紀末のフランス革命期に「長髪を切ることを拒んで」ブルターニュからインド洋モーリシャス島に移ったブルトン人の移民の家系である。父母の国籍が異なるのはモーリシャス島がフランス領からイギリス領に移行したためであって、父母はいとこ同士。父の職業は医師であり、ジャン=マリ(ル・クレジオ)は8歳の時、イギリス軍に外科医として従軍した父に従い家族でナイジェリアに滞在した。ナイジェリアではフランス語と英語の環境で育ち、この間に集中的に読書をし文学に目覚めた。作家デビュー前は英語で書くかフランス語で書くか迷ったすえ後者を選んだと言う。1968年にモーリシャスが英連邦王国の一員として独立して以降はフランスとモーリシャスの二重国籍となる。
 ブルトン人 (フランス語: Bretons、ブルトン語: Breizhiz、ガロ語:Bretoned)とは、フランス、ブルターニュ地方に主として暮らすケルト系民族のこと。彼らの先祖は4世紀から6世紀にかけてグレートブリテン島南西部から移住してきた。ブルターニュという地名は彼らにちなんでおり、一部の人々は今もケルト語系のブルトン語(最近はブレイス語と呼ばれる)を話している。フランス国外、カナダ(主としてケベック州)、アメリカ合衆国、イギリス、アイルランドにもブルトン人のコミュニティーがある。
 またブルトン人は、改革派教会、無宗教の少数派とともに、カトリック教会信徒が優勢である。ブルターニュは、フランス国内有数のカトリック教会への信仰堅固な地である。1970年代から1980年代の間、日曜日のミサへの出席が取りやめられたが、その他の宗教行為、例えば巡礼は復活された。これはブルターニュの七聖人の地を回るトロ・ブレイスである。キリスト教に根ざした伝統は信者・非信者の両方に大切にされており、ブルターニュ文化や歴史記念物の象徴とみなされている。そんなブルターニュを訪れると意外に伊東マンショの足跡が庶民の間に語り継がれている。その詳細については、また後のコラムに譲ることにするが、二日間ル・クレジオと語らった寺山修司は、伊東マンショという日本人についてル・クレジオから詳しく聞かされた。

 この話を聞かされてから「おなじ理想を持つなら、地下(アンダーグラウンド)ではなくて、もっと高いところへ自分をおこう、と思って『天井桟敷』と名付けた」という寺山は、伊東マンショの足跡に自らが近づこうとし、そこから新たな天井桟敷を模索するようになる。じつは伊東マンショが長崎の伊王島にて療養していた記録もル・クレジオから聞かされた。
 その時、寺山修司はル・クレジオから「もしも、彼の療養の地を訪れる機会があったならば、是非サクラの記念樹を手植えして欲しい」と頼まれる。冒頭の写真は、そんな寺山が植樹したサクラである。この植樹のために寺山は伊王島を訪れた。そうして「マッチ擦る・・・」の歌は生まれた。
 しかし寺山が聖ミカエル天主堂裏の高台で、ポルトガル船の往時を偲びながら、実際にマッチを擦ったわけではない。寺山は、寺山らしい歌風にマンショを掌に乗せて、中世の面影である灯りを擦った。マンショをマッチに擦り替えるあたりが寺山の才能であろう。

海霧 伊王島の海霧

 松本清張と寺山修司とが交わした往復書簡には、寺山が植樹したサクラの背景が詳細に描かれている。寺山もまた清張と似たような出生「僕は、走っている列車の中で生まれ、ゆえに故郷はない」を秘めているのだが、その寺山が歌う「身捨つるほどの祖国はありや」の下句には、病死する伊東マンショの心情が密かに重複されて偲ばれている。寺山が伊王島を訪れた折り、長崎の島々は海霧に覆われていた。そんな寺山修司は「愛されることには失敗したけど、愛することなら、うまくゆくかも知れない。そう、きっと素晴らしい泡になれるでしょう」という言葉を遺している。

さくら 寺山修司手植えのサクラ(伊王島)

                                           三馬 漱太郎

プロフィール

三馬漱太郎

Author:三馬漱太郎
Welcome to Ron「漱」World
Sotarou Miuma
立体言語学博士
Social Language Academy Adviser
応用社会言語科学研究員

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