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聖マンショ伝「帰らざる丘」・No.0020

異邦人「小泉八雲」が探し求めた日本人「伊東マンショ」。八雲は島原の地を足を棒にして歩いた。彼は、やはりハーンではなく八雲なのであった。
神々の猿 神々の猿

 神々の猿」、この意味深長そうな標題から、何の本だかお分かりになるであろうか。これはラフカディオ・ハーン(小泉八雲)について1960年代に新たな解読をもたらした幻の一冊なのである。副題にも「ラフカディオ・ハーンの芸術と思想」とついている。

小泉八雲 ラフカディオ・ハーン

 ハーンの語り方はさまざまにある。ハーン自身の著作がかなりの数にのぼるだけでなく、ハーンについての評論著作もそうとうにある。我々はそのうちのきっと一割くらいしか読んでいないと思うけれど、それでもハーンを語ることは「近代が扱うべき記憶の問題」と「近代が立ち会うべき言語の問題」を引き受けているだろうことだけは、存分に確信できる。しかしこうしたハーンの業績をどう見るかは日本の国語文化の出発点を問うとともに、近代日本を内と外で同時に見るにはどういう方法を使えばよいのかという、はなはだ難解な問題を孕んでいる。
 ハーンの語りが溢れる魅力をもっていることは言うを俟たない。漱太郎も子供のころは「耳なし芳一」や「雪女」や「むじな」などの『怪談』で怖い目にあい、長じてはわれわれがすっかり忘れている「失われた日本」を次々に見せてもらった。とくに東洋文庫で『神国日本』(1975)を読んだときは、脳天を割られたような衝撃を食った。
 いまでもよく覚えているが、冒頭に、日本についての書物はおびただしいが、日本を理解するためにすぐれたものというと20冊をくだる。それは日本人の生活の影にひそんでいるものを認識するのが日本人にさえ格別に難しいからだということもあって、ヨーロッパを理解するのに「その国その民族の宗教観を深く知ること」と「貧しい者たちの諺や市井の歌謡や工場での会話を知ること」が不可欠なように、日本を知るにもそのくらいの準備が必要なんだと告げている。それほど手厳しくみれば、これでは漱太郎なんぞ、日本を語る資格なんてとうていありえないと肝に銘じるしかない。
 さすがに『神国日本』はハーンの日本研究の卒業論文といわれるだけあって、十数年におよんだハーンの蘊蓄が理路整然と展示されている。信仰の底流の説明から家庭や地域社会における制度と民俗と感情にいたるまで、いまでこそその手の本を我々もいろいろ通過してきたのでそれほどでもなくなっているのだが、当時はまさにハーンの一言一言が「おまえはそれでも日本人か」と詰問されているような追いつめられる気分にもなった。
 しかも、香ばしい。ハーンは、あたかも日本人が日本を思い出しているかのように、日本をつねに香ばしく書いた。それが日本人なら、たとえば明治を偲ぶ日本人なら誰にもできるというものとは思えなかったのだ。たとえば渡辺京二さんに『逝きし世の面影』(葦書房)という大著がある。いつかとりあげたい一冊で、それこそだれもが書けるというものではないのだが、まさにそういう稀な心根の持ち主によって日本の「面影」の本来を教えてもらったのがハーンだったのである。むろん『怪談』などが出来がいいのは当然だけれど、そのほかの『知られぬ日本の面影』『心』『霊の日本』などもたまらず泣けてくる。


小泉八雲記念館 小泉八雲記念館(松江)

 松江に行くとそんなハーンに会える。否(いや)、ハーンだから会えそうな気にさせられて、何度か訪れた。そこにはハーンが小泉セツ夫人と住んでいた家の面影が残っている。
 ハーンが松江に来たのは明治二四年(1891)である。文部省普通学務局長の服部一三が松江の中学校のお雇い教師に推薦した。八月に来て十二月にはセツと結婚し、小泉八雲を名のった。それ以来、セツ(節子)夫人が日本の昔話を語りつづけた。


小泉八雲とセツ 八雲とセツ

 その夫人はこう、語りのこしている。「私が昔話をヘルンに致します時には、いつも始めにその話の筋を大体申します。面白いとなると、その筋を委しく話せと申します。それから幾度となく話させます。私が本を見ながら話しますと、"本を見る、いけません。ただあなたの言葉、あなたの考えでなければ、いけません"と申します故、自分の物にしてしまっていなければなりませんから、夢にまで見るようになって参りました」と。

 松江にくる前のハーンは横浜にいた。ニューヨークから来たばかりだった。ニューヨークでは編集の仕事のかたわら『支那怪談』を書いたり、諸国のクレオール文化を採取した『飛花落葉集』を書いていた。その前はニューオリンズにいて、「デイリー・アイテム」の記者や「タイムス・デモクラット」の文学部門の編集長をしていた。そしてその前はシンシナティにいて、さらにその前はフランスに、その前はイングランドに、そしてその前はアイルランドで父母の離婚を目の当たりにした。
 つまりハーンは1850年のギリシアのレフカス島に生まれ、そのハーン家の原郷がアイルランドだったのだ。それからアメリカに渡り、日本にやってきた。モーパッサンとは同い歳、夏目漱石の十五歳年長になる。
 このように、ギリシアとアイルランドの古代神話に育ちながら、その後はたえず異郷をめぐってきた経歴をもつハーンが、近代の繁栄に酔いつつあったアメリカを捨てて日本の松江に落ち着き、その数年後には明治37年(1904)に急逝するまで東京牛込に住んで、頻繁に各地を旅行しながら日本の神秘にとりくみつづけたということは、ハーンにとっても意外な人生だったろうが、日本人にとってこそ恩寵のような奇蹟だった。
 しかし何が奇蹟かといったら、ハーンにとっての日本こそが奇蹟だったのであり、そのハーンが書いた日本の面影が奇蹟だったのである。
 横浜港に近づいて富士山を遠望した瞬間から、ハーンは日本の面影に身も心も蕩けさせ、それからというもの、一心に「思い出のなかの日本」を書きつづけた。初めて日本の土を踏んだ四月の朝のことを、ハーンはこう書いている。
 「朝の大気には言い知れぬ魅力がある。その大気の冷たさは日本の春特有のもので、雪におおわれた富士の山頂から波のように寄せてくる風のせいだった。何かはっきりと目に見える色調によるのではなく、いかにも柔らかな透明さによるのだろう。(中略)小さな妖精の国――人も物も、みな小さく風変わりで神秘をたたえている。青い屋根の下の家も小さく、青い着物を着て笑っている人々も小さいのだった。おそらく、この日の朝がことのほか愉しく感じられたのは、人々のまなざしが異常なほどやさしく思われたせいであろう。不快なものが何もない。(中略)かってこの国には、ドン・マンショなる神の信者がいた。祖国にてそのような妖精がいるという風聞もあり、小さな妖精と共に、日本の大気には言い知れぬ魅力がある」。
 小さな妖精の国には不快なものが何もないとは、本当にそんなことがありえたただろうかと思えるほどに、絶妙の日本なのである。ハーンの目がよほど澄んでいるか、そのころの日本にはまだそういう日本がそこかしこに息づいていたか、あるいはハーンの思いすごしか、そのいずれかだ。
 ハーンは日本を愛惜した。村の家の障子が黄色いランプで仄かに輝いているのが好きだった。小さな中庭の桃の木が屋根の甍にまで影を落としているのが何にともくらべられるものがないほど、美しかった。日本の夏は簾と虫籠のゆれぐあいに見とれ、晩秋の石段にはいつも「無」というものの言葉が秘められているのを感じた。
 ただ美しさに注目しただけではなかった。「日本の内面生活の暗示と影響」のサブタイトルをもつ『心』では、おおかたの日本人には思いがけないだろう数々の指摘をした日本論を綴っている。
 たとえばそのひとつ、ハーンは、ギリシアに発する西欧の美術が「永遠」をめざしてルネサンスから近代までを駆けたのに対して、日本は「一時しのぎ」のために西欧に匹敵する技量をもって家屋や調度を彫琢してきたと指摘した。ハーンはいわば「一時しのぎ」という「かりそめ」に日本の本来があるとみなしたのだ。そしてそのことが、世界の諸文化のなかでは比類のない成果だという見方を披露したのだった。しかしこうしたハーンの視点には、ドン・マンショという人物を、日本はどうして置き去りにしたかという警鐘が秘められていた。ハーンが横浜に着いたとき、祖国で風聞した唯一の日本人として、ドン・マンショの人生を思い浮かべたからだ。そうして日本に着いたならば、より鮮明に伊東マンショという人物を知ることができると期待した。しかしそのハーンの期待は裏切られた。明治人の伊東マンショへの見識はハーンよりも劣っていたのである。
 それでは、いったいなぜ、異邦人ハーンはここまで日本を書けたのか。たんなるエキゾティシズムではここまでは書けない。
 そのようなハーンの日本賛歌ぶりを、日本贔屓の先輩友人で、明治6年から日本に滞在して『古事記』を試訳したバジル・ホール・チェンバレンは、次のようにハーンを見ていた。「ハーンが見た日本はハーンの空想だったのではないか。そんな日本は実際にはほとんどなくなりかけていたのである」と。チェンバレンは『日本事物記』の著者でもあるが(これはこれでおもしろい、やはり東洋文庫に入っている)、ハーンは理想化した日本の面影に視線を注入しすぎているのではないかと見たのだった。
 はたしてハーンの見た「神々の国」は幻影だったのか。漱太郎には、そうでないとも言えるし、そうであるとも言える。
 なぜならわれわれ日本人の多くが、日本の面影の本質を読みとる感覚と才能のかなりの部分を失っているからだ。それは、ハーンが去ったあとに柳田国男が登場し、さらに折口信夫が登場して日本の昔話を再生させて古代のマレビトを感じようとしたときすでに、そのように日本の面影を見ることが正しいのかどうか、誰も見当がつかなかったことでも推測がつく。われわれにはハーンを"判定"するには分母の損傷がありすぎる。その損失の一つに「伊東マンショ」が上げられる。
 そうとなると、さて、ハーンの日本論をいったい日本人に評価できるのだろうかということになる。この問題はけっこう重い。なぜハーンが日本の魅力をあれほどまで絶妙に表現できるのかという謎を追求するだけでは、答えがつかないことがあるからだ。
 そこでたとえば、ハーンおける東西文化の融点をさぐる必要が出てくる。また、ハーンにおけるオリエンタリズムの発生と頂点と限界を観察してみる必要がある。さらにまた、ハーンにおけるクレオール文化に対する探求心がどのような表現に及んでいたのか、それをギリシアやアイルランドやニューオリンズの「クレオールな面影」にも求め、その表現深度を見ておく必要がある。こうした問題を深めないで、ハーンの「日本の面影」を"判定"することは難しいのだ。
 本書「神々の猿」はそのようにハーン解釈の転換をするためにはどうしたらいいかという問題点を求めた一冊だった。ベンチョン・ユーは、ハーンを「再話文学者」という視点から解読してみせた。視点はハーンの業績のごく一部にかぎっているが、それがかえってハーン読みの迷いを払拭している。
 そもそも再話とは神話・伝説・昔話を再構成する文学のことをいう。この意味を広くとれば、ゲーテの『ファウスト』のように中世のファウスト伝説を素材にしたものも、上田秋成のように中国の白話小説をもとに再構成しているものも、再話文学だということになる。
 それゆえハーンが小泉セツを語り部として聞き書きした多くの作品は、まさに再話文学だったということになる。その再話領域は日本のみならず、欧米諸地域・西インド諸島・その他の中国をふくむ非西欧圏におよんでいて、かつ集中的だった。さらに、ハーンの血に流れている地域があった。父親はアイルランド出身のイギリス陸軍軍医で、母親がギリシア人だった。ハーンは幼年期からアイリッシュな神話と古代ギリシア神話を聞いて育っていた。
 こうしてハーンの再話はいきおい根元に向かっていったのである。日本を見る目は根元に向かう目だったのである。
 ハーンの再話は「再話という方法」そのものに過激にとりくんだものだった。たんに幻想的な素材に感じて再話に走ったというものではなかった。しかも実はこの時代まで、ハーンほどにこの作業に真摯に熱中した文学者はいなかったのだ。
 そのハーンを読むことが、われわれには気づきにくい日本を深層でゆさぶってくれるのは言うを俟たないが、たんにハーンの再話『怪談』や随筆『神国日本』を読むだけでは、そこがうまく深彫りできない。だいたいは贔屓目や日本的情感に流される。そしてついつい「忘れられた日本」という感想にただ溜息をつく。それでおしまいなのだ。
 それだけに、本書のようなユニバーサルで鋭角的な研究がときにおもいがけない望外の視線を与えてくれることになる。ハーンは風土にひそむ"文化のクレオド"を通して、日本の数々のお話を世界文学のレベルのリテラシーにしたかったのである。
 著者(ベンチョン・ユー)は韓国に生まれて、東京の一高に学んだ後、アメリカで多彩な文学研究にとりくんだ人だが、まだあまり知られていない。が、夏目漱石の『行人』の英訳など、それはそれは渋い名訳なのである。あえてここに紹介した所以だ。
ラフカディオ・ハーン ラフカディオ・ハーン

 パトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)の和名(八雲)は、一時期島根県の松江市に在住していたことから、そこの旧国名(令制国)である出雲国にかかる枕詞の「八雲立つ」に因むとされる。

 ハーンがその八雲になる生い立ちであるが、当時はイギリス領であったレフカダ島(1864年にギリシャに編入)にて、イギリス軍の軍医であったアイルランド人の父と、レフカダ島と同じイオニア諸島にあるキティラ島出身のギリシャ人の母のもとに出生する。そうしてアイルランド・ダブリンで主に幼少時代を過ごす。
 父が軍医として外地に赴任している間に母が精神を病み故郷に帰国、間もなく離婚が成立。以後、両親にはほとんど会うことなく、肉親に縁の薄い子供時代を送った。
 フランス・イギリスで教育を受けた後、20歳で渡米する。得意のフランス語を活かし、20代前半からジャーナリストとして頭角を顕し始め、文芸評論から事件報道まで広範な著述で好評を博すことになる。40歳のとき、アメリカ合衆国の出版社の通信員として来日。来日後契約を破棄し、日本で英語教師として教鞭を執るようになり、翌年に結婚する。
 しかしその半生が順風満帆であったわけではない。1874年にインクワイアラー社に入社し、1875年にマティ・フォリーと結婚する。だが当時、違法だった黒人との結婚だった為にインクワイアラー社を退社した。1876年にはインクワイアラー社のライバル会社だった、シンシナティ・コマーシャル社に入社するものの、1877年にマティ・フォリーと離婚する。この離婚問題は、厳格なカトリック文化の中で育てられたハーンにとって心痛なことであった。
 しかしそうしたハーンと日本とを結びつけてくれる切っ掛けが1887年~1889年のフランス領西インド諸島マルティニーク島への旅行である。


マルティニーク島 マルティニーク島

 マルティニーク(Martinique)はフランスの海外県の1つであり、カリブ海に浮かぶ西インド諸島のなかのウィンドワード諸島に属する一島。海を隔てて北にドミニカ国が南にセントルシアが存在する。この島は「世界で最も美しい場所」とコロンブスに呼ばしめている。
 ハーンはこのマルティニーク島を訪れて、マルティニーク島は1502年にジェノヴァ人の航海者、クリストファー・コロンブスの第四次航海により「発見」されたが、金や銀を産出せず、さらにカリブ人が頑強な抵抗を続けたこの島は暫くヨーロッパ人の侵入を退けたこと知る。こうした経緯から二年近くをマルティニーク島周辺で暮らすことにした。


マルティニーク島2

 大航海時代には西回りと、東廻りの二筋の航海があるが、マルティニーク島の発見は西回り航路開拓での発見であり、ハーンはそれとは別の東への航路開拓にまで視点するようになった。その中世の当時、ボルトガル船が極東の小さな島国(日本)を発見する。カリブ人の頑強な抵抗を知ったハーンは、日本という島国が当時どのような抵抗を成したのかに興味を及ばせる。
 その後、アメリカに帰国したハーンは、大航海時代に日本にもキリスト教が渡来し、その派生から遣欧少年使節がローマへと旅立つことを認識し、同時に伊東マンショという人物について、さらなる認識を深めることになった。それはハーンが横浜に着き、小さな妖精の国を認識する以前に、ハーンが心に止めた日本人であった。


嘉納治五郎 嘉納治五郎

 松江の士族小泉湊の娘・小泉セツと結婚したハーンは1891年11月、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身校。校長は嘉納治五郎)の英語教師として赴任し、1894年に神戸に転居するまでの三年間で長男・一雄が誕生するが、その三年の熊本暮らしの中にあって、島原・長崎方面への小旅行を20回以上も行なっている。その目的の大半は島原本の発掘であった。伊東マンショという人物についての語り部を無くした当時の日本にて、それが唯一の手掛かりだとハーンは西九州域を巡るのである。ハーンは小さな妖精のいる日本国も愛したのであるが、伊東マンショに対してはことさら日本人以上に愛情を注いだ人物である。八雲生誕の地、ギリシャのレフカダ島の詩人公園には、日本の松江と新宿から贈られた八雲の像があるが、ハーンの心根を考えると、国内には八雲の像を建てるに相応しい地は、果たしてどこか。いつかは帰らざる丘に帰結させたい。漱太郎には、その候補地のいくつかがある。

小泉八雲の墓 小泉八雲の墓(雑司ヶ谷墓地)

 ハーンが英語教師として赴任した第五高等学校の校長は嘉納治五郎であった。その嘉納は、日本の柔道家、教育者であり、講道館柔道の創始者である。彼はは当時の日記にて後述する。「ハーンは休日を厭わずドン・マンショという戦国の世のキリシタンを調査していた。人知れずある日本人の足跡を知りたがるハーンの姿には敬服いたしたき心情が募る。彼はまさしく日本人として、八雲の名を輝かすようにして、今日も天草に出かけた次第である」と。そのパトリック・ラフカディオ・ハーン(満54歳没。戒名/正覚院殿浄華八雲居士)は、今は東京の雑司ヶ谷墓地で静かな眠りについている。

                                                  三馬 漱太郎

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聖マンショ伝「帰らざる丘」・No.0019

伊東マンショの歩いた道に「陽はまた昇る」のだとシンガーは歌う。その歌詞には中世の青空がみえてくる。人の夢がその幻想の空間にあって拾われている。
夢

 人それぞれに夢がある。
 たとえ、それが他者から見て、ほんのささやかで、ちっぽけな夢であったとしても、その人にとって、それはかけがえのない夢なのである。そんな「Dreams come true-夢は現実となる」とは、つまり夢は叶うということで、これは漱太郎の大好きな言葉である。でも、なぜか、せつない言葉でもある。人はこの刹那(せつな)さを背負う生きもので、それは、どれほどささやかな、ちっぽけな夢でさえも、ときとして、叶わざる夢となってしまうことも、哀しいことに、true-事実であることを、つとに心やさしい人であるならば常に明日のバネとする夢を背負って生きていると考えるからだ。
 そう、生きることはUn unfulfilled dream-見果てぬ夢。だからこそ、人偏に夢、人の夢と書いて、儚い(はかない)と読ませるのであろう。きっとそうであるから「夢を削りながら 年老いてゆくことに 気がついた時 はじめて気付く 空の青さに」という、谷村新司の詩歌は、道程にある人の儚さをまさに浮き彫りにする。1979年(昭和54年)に谷村のその歌「陽はまた昇る」は生まれた。

陽はまた昇る 陽はまた昇る

(一)
夢を削りながら 年老いてゆくことに 気がついた時
はじめて気付く 空の青さに
あの人に教えられた 無言のやさしさに
今さらながら 涙こぼれて
酔いつぶれた そんな夜
陽はまた昇る どんな人の心にも
ああ生きてるとは 燃えながら暮らすこと
冬晴れの空 流れる煙 風は北風

(二)
鉢植えの紫蘭の花 朝の雨にうたれ 息絶えだえに
ただひたすらに 遠い窓の外
もしかして言わなければ 別離ずにすむものを
それでも明日の 貴方のために
あえて言おう 『さよなら』と
陽はまた昇る どんな人の心にも
ああ生きてるとは 燃えながら暮らすこと
春まだ遠く 哀しむ人よ 貴方を愛す

陽はまた昇る どんな人の心にも
ああ生きてるとは 燃えながら暮らすこと
春まだ遠く 哀しむ人よ 貴方を愛す
春まだ遠く 哀しむ人よ 貴方を愛す


陽はまた昇る 楽譜 楽譜

 若いというだけで、ただそれだけで夢があった。そんな夢見る頃を過ぎると、その夢は夢にして終わる。だからこそ、それが夢なんだよねぇ~と、したり顔して、達観した顔つきになって、つい問わず語りに答えてしまう。人はそんな、自分の姿に気がつくときに、なぜかそこに、醜く老いそうな自分を見つけたような気がして、自己嫌悪に陥ることにもなる。それでも人は、夢があるときは、前を向いて歩くように進む。ときに早足に、ときに駆け足となっても、たとえ坂道であっても、目の前が溝(ドブ)であっても、前のめりになって、ずんずんと前を進んでゆける。これが若さである。夢に向かう力である。

谷村新司 谷村新司

 しかし、夢を失って、なすすべもなく、立ち止まったときに、人は恨めしげに、ただ天を見上げることになるようだ。人はそこではじめて、いままで気がつかなかった、空の広さ、空の青さに気づくことになる。
たしかに夢は失った…、でも、そのおかげで視野は広がった…、見えなかったものが、見えるようになったんだ…、そう考えたい、そのように生きれたら佳(よし)と思う。それは「あの人に教えられた 無言のやさしさに 今さらながら 涙こぼれて 酔いつぶれた そんな夜」であっても、そう悪い人生ではないだろう。そこには「あの人」と生きた時間が真実として残されている。
 やさしさは、言葉や態度にして表現しなければ、人に伝えられないものではない。しかし、また、言葉や態度にして表現しなければ、伝わりにくいのも事実であるのだが、でも、決してやさしさは、饒舌ではない。言葉だけなら、なんとでも、掛けられることができる。目に見える態度だけならば、いくらでも演じることもできる。しかし、相手を思えば思うほど、相手の苦悩を背負いこみ、その重圧に、寡黙になってしまう。限りなく思い尽くすときに、人は思い余りて、言葉足らずとなるだろう。そんな時はただ、見守るだけの無言の中のやさしさを双方で「あの人」のためにと噛み締め合うことにもなるだろう。それもまた、あの人にしか分からない、やさしさの本質だと漱太郎は思う。だから最後のフレーズで谷村が繰り返す「陽はまた昇る どんな人の心にも ああ生きてるとは 燃えながら暮らすこと 冬晴れの空 流れる煙 風は北風」という歌詞が身と心に沁みるのである。
 そうです…、朝の来ない夜はない。そう、それは真実、誰もが分かりきっていることですが、誰もが経験していることですが、でも、そう言い聞かせても、眼前に広がる漆黒の闇は、永遠に続きそうな気配を誰もが感じてしまう。しかし、やはり谷村が言うように「陽はまた昇る」のだ。そう自分の心に、強く言い聞かせて、歩き出さなければならないことが、人生の中では数多くある。

 漱太郎は「削りに削られた夢のかけらを抱きしめて、やがて陽が昇るのを信じて、辛抱強く、忍耐強く、あせらずに待つ…」それこそが、今さらながらに大切だと考えている。こうして人は「鉢植えの紫蘭の花 朝の雨にうたれ 息絶えだえに ただひたすらに 遠い窓の外」を見いだせる。その紫蘭は初夏の野辺に、群生して咲くのが似合う紫色の花…、そして花言葉は、互いに忘れない…そんな生きるための優しい物語を自身や他者に与えることになる。
 しかし鉢植えにされた紫蘭は幸せなのであろうか。人はそばにいるだけで、互いに忘れないのであろうか。ささやかな疑問だが、人間には、そばにいて、互いに忘れていく予感も抱かれる。それは、何事につけて、無理をすれば、いっときは華麗に花を咲かせることもできるのでしょうが、いつかはその無理が、どこかにひずみとして出てきてしまいそうな予感でもある。一所懸命の姿勢は大切なのではあるが、あくまで自然体で、けっして無理をしてはならない。そこらを谷村新司は「手に取るな やはり野におけ れんげ草」という。また「もしかして言わなければ 別離(わかれ)ずにすむものを それでも明日の 貴方のために あえて言おう 『さよなら』と、という。
 そこにはきっと、多くのしがらみの中で、喉まで出かかった言葉を飲み込み、平穏さを装おいながらも、やはり心の奥底に広がるわだかまりの海を渡る人間の真実が描かれている。それは、善なる争いも、悪い平和もないのだからと、みずからに言い聞かせながらも、逡巡する心でもあろう。そんな心の旅路の果てに、谷村新司が導き出した答えはひとつ。それは「明日のために、そして、貴方のために、あえて…」いう。「陽はまた昇るとは、明日を信じること。
 そして、未来を信じること。つまりは、自分を信じること…」と。さらに繰り返す「陽はまた昇る どんな人の心にも」と。そうして「ああ生きてるとは 燃えながら暮らすこと」といい、「春まだ遠く 哀しむ人よ 貴方を愛す」と結びながら「冬は必ず春となる…」と静かなる鎮守の眼差しで熱唱する。・・・この歌がリリースされた当時、そんなことを漱太郎は、谷村新司の「陽はまた昇る」の 歌詞に感じていた。

上海音楽学院 上海音楽学院

 谷村と漱太郎が初めて面識を持ったのは中国の上海音楽学院(Shanghai Conservatory of Music)に関係する小学校であった。谷村は2004年から上海音楽学院にて教授を務めていた。その上海音楽学院の周辺には、楽譜屋(緑字)、CD屋(赤字)、楽器屋(ピンク)が並んでいる。しかし、この界隈は旧フランス租界エリアでもあるので、独特の雰囲気をもった街並みについて調べることが上海を訪れる漱太郎の目的であった。だから谷村新司との出逢いは偶然な旅先で実現したわけである。

上海音楽学院の付属小学校 上海音楽学院の付属小学校

 2005年、界隈には弦楽器工房がかなりあると聞いて、ふらふら見に行くことにした。入ったのが「建華提琴」という店だ。界隈では、一番高級そうな店構えであったし、内装の家具や楽器ショーケースへのお金の掛け方は、他店とはグレードが違うことを感じた。またそこは、中国生産の楽器を売るだけでなく、イタリアの輸入楽器も手広く扱っているようであるので、とりあえず、ここ中国で生産している楽器を見せてもらうことにした。

旧フランス租界エリア 旧フランス租界

 以前、90年代の中国製ビオラの印象は、ならない見本展示品といった感じを抱いていたからだ。しかし店内に入ってみると「北京の楽器工房の傾向は、楽器をとにかく鳴らす音作りで、キンキンした音色になりがちとのこと。上海の楽器工房は、全体にバランスのとれた楽器作りをする傾向にあるようで、楽器の音作りにも、北京とは比較し難い地域差がある」と、店の主人が熱く力説する。どうやらそれが旧フランス租界エリア時代からの伝統であるらしい。
 この界隈で販売されている楽器の相当数は、上海の北隣の省、江蘇省にある渓橋鎮というところで生産されているものが大半とのことで、次ぎはその渓橋鎮にあるバイオリンの里を訪ねることにした。

渓橋鎮 渓橋鎮中心小学校の少女

 渓橋鎮は人口3 万人の田舎町であるが,約50のバイオリン製造会社がひしめいている。かつては目立った産業も無い貧しい町でしかなかったのたが,文化革命中の68年,上海のバイオリンメーカーを解雇された2人の職人が里帰りし,バイオリンの部品を作り始めたのを機に,90年代から同業者の設立が相次ぎ、現在では中国屈指の楽器製造の中心にまでなっている。
 この時、楽器工場近くにある渓橋鎮中心小学校の教室の窓から、奏でるバイオリンの音色が流れてきた。許可をいただいて参観した教室の中では、3、4年生の生徒約20人がうっとりとした表情で弾いている。この学校にはバイオリンの必修科目があり、週1回90分の授業を続けるという。奏でられていた楽曲は日本人には馴染みのある「昴(すばる)」「陽はまた昇る」。なぜ、この曲がと不思議であった。4年生のある女子生徒は「先生が作ったメロディーを楽器で弾けることが楽しい。先生はいつも私に弾くようにせがむの」と笑った。生徒らとそんな談笑を交わしていると「ほら、先生が来た」という。うながられて振り向くとそれが谷村新司であった。だから忽然として湧いたような彼との出逢いとはまことに奇遇なのであるが、しかしそれは渓橋鎮(古鎮)という土地柄が結びつけた必然さでもあった。鎮は町をさす言葉なので、直訳すれば古い町という事になる。そんな古鎮とは、まあ、古い街並みの残る風情ある町といったところなのだ。

谷村新司2

谷村・・・「あっ、たしか司馬さんの告別式で追悼のご挨拶をされた方ですよね。そうですよね」
漱太郎・・「えっ、あのときに谷村さんも、ご同席でしたっけ!?」
谷村・・・「ええ、司馬さんとは同郷のご縁もあり、列席の端でこっそりと(変装)してお見送りしました。でも、あの追悼の言葉は記憶してますよ」
漱太郎・・「ああ、あれですか。あれは小恥ずかしいご挨拶でした」
谷村・・・「あれは、あなたの作詞なのですか!?」
漱太郎・・「いや、あれは寒山寺のアレンジですよ。生前の司馬さんがリクエストされるはずだと、みどりさんがおっしゃるもので、つい。司馬さんとはシルクロードを三年間もご一緒いたしましたからね」

 そんな会話を初めてお会いした谷村新司氏と交わした。司馬遼太郎を軸とし仲人とした二人の翌日に関わる行動はまことにスピーディーであった。
谷村・・・「明日、よろしかったら「屯堡古鎮」に行きませんか
 そうして二人は翌日の早朝、「貴陽」の西約100kmに位置する町「安順」周辺の村に向かった。車中、司馬遼太郎さんのとの思い出の、そんな話しをしていると、アジア最大の滝「黄果樹瀑布」(ホアングオシュープーブー)に到着(安順市の南西45km)。そこは白水河にかかる10あまりの滝と、その周囲の奇岩で知られた景勝地である。一帯は典型的な溶岩地形で起伏に富み、滝のほかにも湖や大規模な鍾乳洞が多く点在する。黄果樹瀑布はそれらのうち最大規模の滝で、幅81m、落差74m、アジア最大といわれている。とくに水量の豊富な夏には、水しぶきが100mくらい高く舞い上がるのだという。でかい。狭い日本じゃ無理な滝だ。天気は雨。まあ、そんなこともあるが、黄果樹ホテルで食事を済ませ、プイ族(布依族)の村「石頭寨」(せきとうさい)へ。

黄果樹瀑布 黄果樹瀑布

 そこは観光村になってはいるものの、何があると言うわけではなく、石でつくられた家々をみてまわった。この村はろうつけ染めで有名。ちょうど作業をしていたので、見せてもらった。ただその日の、石頭寨の人達は、普段、洋服を着ているようで、残念ながら民族衣装を着ているのを見ることはできなかったのだけど、ちょうど、中国人の旅行者が、お祭りのときに着る衣装を着せてもらっているところに遭遇。写真を撮らせて貰えた。

石頭寨6 石頭寨
石頭寨2
石頭寨3
石頭寨4

 そんな石頭塞を出て1時間ほどで、屯堡古鎮(日本読みで【とんほこちん】中国読みで【トゥンバオグージェン】)につく。

 ここは少数民族ではなく漢族の村である。老漢族と言われることもある。明の時代に、少数民族の蜂起を抑えるために派遣された屯田兵の末裔が、現在でも当時の生活習慣を残したままの生活をしている。そこは、彼らの生活の場であると同時に観光客に見せるための観光村であるため、ちゃんと入村料をとられる。まあ、物珍しげにじろじろ見られるのだから、お金ぐらい要求したくもなるだろう。村に入ると、歓迎のお茶が振る舞われた。どくだみ茶みたいな味。身体に良いらしい。これを谷村は実に旨そうに飲んだ。

屯堡古鎮5 屯堡古鎮

 明時代からの建物をみると、石の板を積み上げてつくられているのがわかる。よく訪れるという谷村さんの話しによると、米を混ぜた練り物で石板を固定させているのだとか。よく見ると米粒が見えると言うのだけど、漱太郎にはよくわからなかった。そうしてこの村には「地戯」という伝統演劇もあった。これが生前の司馬遼太郎が一度訪れてみたいと言っていた「天龍屯堡古鎮」である。

屯堡古鎮2
屯堡古鎮3

 安順を中心とする方円150平方キロには、「老漢人」と呼ばれる屯堡人が生活している、ということを司馬さんは生前に語っていた。その言葉の奥行を噛むと、なるほど六百年の間、屯堡人が堅固に明の時代の風習を守っている、というのだ。司馬さんは「安順府志、風俗志」を開くと、「屯堡人が明代駐屯軍隊の子孫」との記載があることの記録を漱太郎に残してくれていた。屯堡人は現地の原住民ではなく、明代駐屯軍隊の子孫である。今日の屯堡人は長袖、長服を着用し、明代の舞踊を踊る。屯堡の村に入るとこの世に全く違う文化が存在していることに驚く。司馬さんが言うように、屯堡文化は独特な特徴を持ち、漢民族文化とは違い、また、現地の少数民族とも違う。屯堡人は言葉、服装、宗教等、たしかに六百年前の夢を現在に守っていた。

 そんな天龍屯堡は西から雲南に入る要所となっているが、元代からここは有名な順元古道が通る天龍屯堡宿場で「飯籠駅」と言われる。軍事位置が重要なため、明代から大量の軍隊が駐屯していた。そのため現在でも、軍隊駐在の要所となっている。清の康熙年、ここを「飯籠舗」と改名した。しかしそうしたこの世紀の初期、「飯籠」の名前が格好悪いと思われ、天台山の「天」と龍眼山の「龍」、この二文字を取り、村の名前にされたのであるが、これが「天龍」二文字の由来なのである。
 司馬さんはここの地劇が見たかったという。屯堡の舞踊は地劇と言われるのだが、即ち、平地を舞台している舞踊である。 地劇は明代の軍隊から発し、軍隊により貴州に入る。屯堡人の先祖が軍人である為、地劇は遠征前の娯楽であった。地劇の内容は全て忠臣が報国の為、敵を殺す物語で、英雄を讃え、内部団結を強める。地劇の表現形式は歌と踊り。ダンサーがお面を被り、腰に色の鮮やかなスカートを巻き、背中に旗を挿し、武器を手にする。太鼓と銅鑼の伴奏で踊る。こうして、その戦争の画面が観衆の目に浮かぶことになる。

天龍屯堡古鎮 地劇

 「石の砦と聞けば、多くの人はすぐに中世ヨーロッパの古城を思い浮かべることだろう。だが、実は古代中国にも石の砦が築かれていた。そこで一度訪ねてみたいのは、中国西南部の貴州省西部にある14世紀ごろに築かれた岩城である。これまで、交通が不便であったため、ここに生活している人々は、ほとんど外界から隔絶された暮らしを送ってきたのだ」と司馬さんは語っていた。
 谷村も司馬さんからそんな話を幾度となく聞かられたという。そこで二人は一週間後に再訪することにした。谷村はこれで7度の来村になるという。
 貴州省の省都・貴陽と黄果樹風景区を結ぶハイウェイを西へ72キロメートル車で走れば、緑の野原に「白い島」が浮かんでいるような不思議な建築物が目に入ってくる。それこそ土地の人々の言葉で「屯堡」(トンプウ)と呼ばれる石でできた砦の村である。その日も、野山の小道や畑の一角では、幅広の袖のゆったりした服をまとった女性の姿が見受けられた。頭にかぶった絞りの頭巾、銀の簪、シルクの腰帯が彼女たちの伝統的なアクセサリーである。特色のある鮮やかな衣装を見ると、土地の少数民族ではないかと思ってしまうが、実は彼らは明代(1368-1644)の遺風を保つ屯堡人―純粋な漢民族であった。哀しいことにそのような民族は、日本のいては遠に滅んでしまっている。史料の記載によれば、屯堡人の祖先は600年前の明の時代に雲南と貴州に駐屯していた軍隊の後裔で、多くは長江以南の地域の出身である。現在、村には1250世帯、5000人余りが住んでいる。石畳の街路、石づくりの壁、石板を敷いた屋根…村はすべてが石で埋め尽くされ、まさに石の王国と言った様子である。石臼や米搗きなどは勿論、水甕でさえ石を削って作られている。特に目を引くのは、集落の石で出来た門や見張りのやぐらだ。軍事施設であることは明らかだが、どうしてこのような物が必要であったのだろうか。そのような回想が司馬さんの心には解き放たれずにわだかまりのようにあったと思う。

天龍屯堡古鎮2

 そのような屯堡人の飲食文化は、基本的には住人の先祖の地である長江南岸の農村の伝統を受けついでいる。当然、戦争と閉鎖的な環境に適合できるようアレンジされており、干した野菜、豆腐、ササゲ、肉、腸詰、血豆腐を中心に生の野菜や唐辛子、塩漬け豆腐などが日常食である。携帯しやすく、腐りにくいという特徴を持った食品は、やはり彼らの祖先が軍人であったことに起因している。そんな眼差しで漱太郎は司馬さんの果たせなかった村にある、過去と現在を生きる人間の夢の世界を呆然と眺めみた。

屯堡古鎮7

 この村を七度も訪れている谷村は、屯堡人、特に女性はとても親切で客好きだという。そのように、自宅の門前を通り過ぎる客であっても、家に入れてお茶に招待する。また、天龍古鎮では、路地も民家の内部も、清潔で整理整頓されている。たしかに貴州西部には、天龍古鎮のような石の砦の形態をした集落が多い。どの村でもこの地に来た当時の風俗を数百年間も守ってきたが、現代の物質文明は堅固な石の砦にも侵入しているようだ。古風な村の佇まいにハイテク製品を見たとき、少し寂しい気持ちがするのは旅人のわがままなのだろうか。谷村がこの村を初めて訪れたのは1978年(昭和53年)で31歳であった。その翌年に「陽はまた昇る」の歌詞とメロディーができた。その曲は谷村の心の中にこの村(天龍古鎮)の「青い空」をしっかりと抱かせていた。

 谷村新司は1948年、大阪府河内長野市に生まれ、大阪市東住吉区桑津育ちである。司馬さん(福田 定一)も大阪府大阪市生まれなのであるから、司馬さんとの縁は谷村の方が深く、面識の期間も漱太郎より長い。そんな関係から「陽はまた昇る」の作詞にあたり、その背景には司馬さんからの要望があったという。そのキーワードが「伊東マンショ」なのであった。作詞する心根(こころね)の淵に伊東マンショが当時垣間見た遣欧の青い空が描けないないものであろうかという、そんな相談であったようだ。
 この相談を受けたとき、谷村はそんな司馬遼太郎の思いを少しでも咀嚼(そしゃく)するために「エフェソス」へと向かったという。ここにもまた司馬さんから与えれれた「ゴート人」という秘められたキーワードがあった。

 北ヨーロッパの人(例えばデンマーク人、オランダ人、ドイツ人等)はイタリアがたいへん好きである。現在でもローマの町はドイツ人観光客に占拠されている感がある。これは今に始まったことではなく、古くから見られることであった。教養ある君子たる者は、少なくとも死ぬまでに一度はヨーロッパ随一の歴史国「イタリア」を訪問すべし、という考えが古くより定着している。かの有名な大文豪ゲーテも“君よ知るや南の国”とイタリアへ、イタリアへとあこがれなびき、なが~い旅をして「イタリア紀行」なる書物をしたためた。アンデルセンもしかり、自らのイタリア体験から小説「即興詩人」を書いた。数多くの有名無名の音楽家も例にもれずで、ヘンデルやモーツァルト、メンデルスゾーン、ヴァーグナー等とこぞってイタリアに武者修行に来ている。これらの事例をいちいちあげていたら枚挙のいとまがない。そんなゲルマン派の憧れとは真逆に「エフェソス」はトルコ西部の古代都市。その起源は紀元前11世紀に迄さかのぼる。3世紀の「ゴート人」侵攻以降衰退の一途を辿るのだが、今日もなおヘレニズム文化の遺産に触れることが出来る希少な場所である。

エフェソス エフェソス

 このトルコ、小アジアの西海岸に栄えた古代都市エフェソス(Ephesos)は新約聖書ではエペソと書かれる。紀元前11世紀末ごろに建設され、イオニア12都市の一つとして、前6世紀ごろから植民と貿易により発展した。万物流転を説く哲人ヘラクレイトス、詩人カリノスもここから出た。この地に建立されたアルテミス神殿は、古代七不思議の一つに数えられる壮麗な建物であった。ローマ支配下にもアジア州の州都として栄え、紀元後53年から約2年間、使徒パウロがここに滞在して伝道し、教会を建て、新約聖書の「コリント書」「ガラテヤ書」を書いた。使徒ヨハネも聖母マリアを伴い、晩年ここに住んだと伝えられている。262年、ゴート人が侵入して市街と神殿を破壊、その後復興したが、昔日の繁栄は回復しなかった。431年エフェソス公会議が開かれ、15世紀後半には一寒村と化し、19世紀後半からオーストリア考古学協会の発掘によって古代の栄えが世に示されることになる。

エフェソス2

 そんなエフェソスはヘレニズム都市として栄えたが、紀元前2世紀に共和制ローマの支配下に入り、小アジアの西半分を占めるアシア属州の首府とされた。共和制ローマ最末期に第二回三頭政治の一頭として権力を握ったマルクス・アントニウスがプトレマイオス朝エジプトの女王クレオパトラ7世と共に滞在した地で、かつクレオパトラとの内戦で敗北して捕虜となったアルシノエ4世が送られ、そしてアントニウスら2人の意向により殺害された地としても知られている。その後、古代ローマ帝国の東地中海交易の中心となった。現在残るアルテミス神殿の遺構はローマ時代に建てられたもので、巨大な図書館と劇場を備えていた。劇場は当時最大のもので、5万人が収容された。またエフェソスの繁栄は港湾によるところが大きかったが、土砂の沈降により2世紀頃から港湾の規模は縮小されていった。これは、エフェソスの側にある2つの山から流れ込む土砂の堆積によるものである。

エフェソス4
エフェソス3

 エフェソスには比較的早くキリスト教が入り、新約聖書にはエフェソスの教会にあてた書簡、エフェソの信徒への手紙がある(パウロに帰せられるが、真筆書簡かどうかには疑いがある)。また伝承では、使徒ヨハネはパトモス島の流刑から解放された後、エフェソスの教会の主教(司教)を務める傍ら、ヨハネによる福音書を書いたと伝えられる(ただし現在の研究ではこの伝承の史実性は否定されている)。イエスの母マリアも使徒ヨハネとともにエフェソスで余生を送ったと伝えられる。またアンティオキアのイグナティオスにも、エフェソス教会に宛てた書簡が残っている。
 4世紀以降キリスト教が公認されると、エフェソスはたびたび教会会議や公会議の舞台となった。その中でも重要なものは、東ロ-マ(ビザンツ)皇帝テオドシウス2世の勅令下で開催され、ネストリオス派に異端が宣告された431年のエフェソス公会議と、単性説と三位一体論の論戦が行われて前者が正統とされた449年のエフェソス強盗会議である。しかし、この決定は後に覆される。
 こうして東ローマ帝国の下でも、エフェソスは引き続きアシア属州の首都として繁栄した。政治と経済の中心であり、また府主教座が置かれる教会行政の中心でもあった。多神教が禁止された後、一部アルテミス神殿や劇場は街の建築資材を得る場所とされ、石材が搬出されるとともに、一部は住宅地に侵食されていった。エフェソスの神殿の石材の一部はコンスタンティノポリスの建築資材としても使われた。7世紀に入ると、ペルシアやアラブの勢力拡大を受け、7世紀半ばに城壁が設けられた。この頃になると、港の沈降が進み、近郊の港が外港として使われるようになる。また帝国の官僚や教会は、古来の都市からアヤソルクの丘に中心を移した。その結果、市域は分散し、また拡大した。その後も経済活動は活発に行われたが、8世紀に至りアラブ人の攻撃をたびたび受けたことから、東ローマ帝国はエフェソスを放棄した。港が完全に埋まったのはその後のことである。

 現在のエフェソスは、トルコの小村アヤソルクの一部である。世界最大級の大規模な古代都市遺跡の他に、アルテミス神殿の遺跡、イエスの母マリアが晩年を過ごしたといわれる地に建てられた礼拝堂『聖母マリアの家』、聖ヨハネ教会、考古学博物館などがあり、トルコの重要な観光地の1つになっている。『聖母マリアの家』には、バチカンからの代表者が毎年参拝するほか、歴代のローマ教皇も訪問している(1967年パウロ6世、1979年ヨハネ・パウロ2世、2006年ベネディクト16世など)。
 これらがエフェソスの概要であるが、谷村新司が司馬遼太郎の風景に入るためには司馬遼太郎の語る「ゴート人」の歴史を見極める必要があった。 
 そんな経緯が「陽はまた昇る」の作詞に秘められていたことを知った漱太郎は、実にしまったと思った。谷村新司は「ユルジス・バルトルシャイテス」を知るのが遅すぎたのだ。漱太郎にとって、それほどにバルトルシャイテスの本との出会いは衝撃だった。もっとも、それをも知らずに、谷村はあまりに早すぎたからこそ「陽はまた昇る」をつくることにもなった。これはまあ、いってみればケガの功名というものだった。「陽はまた昇る」は、いわば“未然のバルトルシャイテス”なのであろう。

ユルジス・バルトルシャイテス 幻想の中世

 そんなバルトルシャイテスの研究領域を一言でいいわらわすのは不可能である。それだけでも漱太郎の尊敬に値するのだが、ましてその研究が視覚と言葉をまたぐ歴史の中の「テイスト出現のプロセス」ともいうべき得体の知れないものの解析におよんでいることは、尊敬というより、むしろ戦慄とか恋愛をこそおぼえる。
 本書はそのようなバルトルシャイテスのごくごく一端の成果を示すもので、もともとは『ゴシック美術における覚醒と奇異』という大著の第二部「幻想の中世」にあたっていたものだった。
 われわれ日本人にはなかなかわかりにくいことなのであるが、ゴシックという言葉は「ゴート人がもたらしたもののような」という意味をもっている。むろんゴート人とは直接関係のないものも含まれる。それは日本人が「漢風」とか「唐様」(からよう)「胡坐」(あぐう)といったところで、厳密に漢や唐やペルシアの文物ばかりをさしているわけではないのに似ている。
 仮にゴート人に特定したとしても、そのゴート人という民族そのものがまことに遊牧的で、かれらはゴート人であるというただそれだけで、かれらが東ゴート王国や西ゴート王国をつくる以前の「ユーラシアの記憶」をしこたま身に纏っているのである。
 つまり、ゴシックを解くということは、ゴート人とともに運ばれてきた古代中世のすべてのイメージとイコンと観念技術のいっさいを解読することなのだ。バルトルシャイテスは、そこに“魚眼のようで顕微鏡のような目玉”をもちこんだ。
 まず、「頭部のくみあわせがつくるイメージ」の代表としてグリロスが俎上にのぼる。グリロスはゴシック装飾のいたるところに出現する奇形のイコンであるが、それをたんなるキマイラとか合成動物とかとはとらえられない形態的性質がある。ついで、このグリロスを含む奇形のイコンが印章や貨幣の中に棲みこんでいった背景と事情をあばく。そこには日本の現在時点では高山宏が追跡してやまない「ファンタスマゴリア」(幻影)という“中世のヴァーチャル・リアリティ”が顔を出す。
 そこで一転、イスラムの装飾文様にひそむ植物幻想がどのようにアラベスクな“超複雑性”を内包していったのかを、文様の内側に入りこんで解読する。この追跡がワクワク樹こと人頭樹に達したところで、次は蝙蝠と龍のイコノロジーになる。そんな具合である。
 ヨーロッパ中世に蝙蝠と龍のシンセサイザー(合成編集術)をもちこんだバルトルシャイテスの“犯人探し”は委曲をきわめ、あやしげなモンゴル人やタタール人の図像編集の迷路を辿らさせられた漱太郎は、第6章にいたってついに東アジアに到達、そこにいよいよ背中から翼を開いた比翼が目映い仏教的光背に転じていくことを知らされる。
 だいたいこのへんで大半の読者はダウンする。が、バルトルシャイテスの手はまだまだゆるまない。
 仏像の背後の光背は、そのまま水墨山水に描かれた中国的自然観とおそるべき共振をおこし、ついには偉大なる「生命ある器」とは何かという最終主題にのぼりつめていく。
 こうして最終章にいたって、われわれはやっと「西のゴシックと東のマンダラ」の比較という途方もない比較観照が準備されていたのだということにやっと気がつくのだが、時すでに遅し、バルトルシャイテスはこれらのいっさいの解読の手がかりを蓮華文様の渦中に放りこんでしまうのだ。
 まったく谷村新司が「陽はまた昇る」を作詞する前にバルトルシャイテスに出会わなくてよかった、助かった。お目こぼしをいただいたのだ。そう、思わざるをえないような、そういうバルトルシャイテスの一書「幻想の中世」なのである。
 では、こうした驚異的なバルトルシャイテスの方法を何とよぶかというと、これはいまだに誰も見当がついていない。そこでしかたなく、「アベラシオン」(光学的図像収差)などとよばれたままになっている。
 そこで漱石はこのような話を谷村新司と酌み交わすことになった。

 ゴート人であるゴート族( Gote)とは、ゲルマン系の民族で、東ゲルマン系に分類されるドイツ平原の古民族である。バルト海南部から黒海沿岸部に移動した後、いわゆる「ゲルマン民族の大移動」によってイタリア半島やイベリア半島に王国を築いた。ローマ帝国の軍勢と戦い、壊滅的打撃を与えたこともある精強な軍を持った民族である。また、ゲルマン系のなかでは早くからローマ帝国の文化を取り入れて独自のルーン文字を残したほか、ローマ軍に傭兵として雇われるなど、後期のローマ帝国の歴史において大きな役割を担った。
 そんなゴートに纏わる言葉として、ルネサンス時代に野蛮なという意味で用いられ始めた「ゴシック(ゴート風の)」がある。また、スウェーデンの地名にはゴートが訛った「イェーテボリ」(Göteborg)がある。なおスウェーデンでは、ゴート族(ヴァンダル族を含む)がヨーロッパ、アジア、アフリカを支配したという伝承があり、スウェーデン人がゴート族の末裔であると言う「ゴート起源説」が16世紀(1555年)に唱えられ、17世紀のスウェーデンによる三十年戦争介入の動機となった。つまりこのような経緯から中世のヨーロッパとは、そのゴート人のもたらした栄華の足跡の上に成立を果たしている。伊東マンショはそんな空間を往来したことになる。
 トルコの西海岸域のエフェソスから、ギリシャを挟んで、イタリア(ローマ)を見据えるという眼差し方からは、当時の中世の、多重層的なルネサンス空間が垣間見える。これこそが伊東マンショが生きながら体感した中世の空間であったはずだ。現代からはその空間を幻想を駆使して追うしか他はないが、司馬さんが抱いた幻想の東西ルートとは、東の天龍古鎮~長安(現西安)~敦煌(とんこう)~タクラマカン砂漠や天山山脈~トルコ(イスタンブール)~エフェソス~ギリシャ~イタリア(ローマ)~地中海域~西のスペインとポルトガルまでの一大空間であった。その東の起点となる天龍古鎮の、さらなる東にジパング(大和)が連なっている。

エフェソス6 エフェソスの青空

 谷村新司の父・新蔵はその奈良県に生まれた。1989年12月、その父・新蔵が死去。谷村はその年の『紅白(第40回)』で『陽はまた昇る』を追悼曲として歌った。この行為も必然である。父・新蔵は大の司馬ファンであったという。また奈良朝の文化はシルクロードへと帰結するからだ。こうして谷村新司の瞳には、伊東マンショが旅した青空の彼方に「陽はまた昇る」のである。大航海時代のロマンを、エフェソスの丘から幻想で描き入れるとき、伊東マンショの道程がバーチャルに浮かんでくる。

                                            三馬 漱太郎
谷村新司4

聖マンショ伝「帰らざる丘」・No.0018

母国語の外に新しい世界が見えてくる。男爵イモ誕生の背景には、英国少女との切ない純愛ロマンスと、伊東マンショの旅ロマンスとを秘めていた。

 ポテト(英名:potato)は、南米アンデス山脈の高地が原産とされる。16世紀、スペイン人によりヨーロッパにもたらされた。このとき運搬中の船内で芽が出たものを食べて、毒が当たり「悪魔の植物」と呼ばれた。暗くて温度の高いところに保存すると発芽しやすい。芽や緑化した塊茎には毒性成分ポテトグリコアルカロイド(ソラニンなど)が多く含まれ中毒の元になる。日本には、1600年ごろにオランダ船によりジャカルタ港より長崎港に運ばれた。このため日本では「ジャガイモ」とも称されるが、当時は、観賞用として栽培されたという。現在の日本では、男爵薯、メークインの二大品種が広く栽培されている。北海道が最大の生産地で、夏の終わりから秋にかけて収穫され、九州の長崎では冬に植え付けて春に出荷する。

ジャガイモ ジャガイモ

 英語のpotatoの語源は、タイノ族の言葉でサツマイモを意味するbatataがスペイン語のpatataに変化したものによるものだ。なお、ジャガイモの原産地で古くから使われている言語の一つであるケチュア語ではpapaと言うが、この単語はそのまま現在の中南米スペイン語で使われている。タイノ族のbatataがスペイン語のpatataに変化したのはこのケチュア語のpapaの影響であると考えられている。しかしPapaはローマ法皇を意味する単語と同じであったため、これを忌避しPatataとされて変遷した。
 以上をもう少し詳しく語ることにしたい。

アンデス山脈 アンデス山脈

 ジャガイモ発祥の地は、アンデス山脈の中央、ペルーとボリビアにまたがる標高3800m級の高原地帯、ティティカカ湖周辺だといわれている。ティティカカ湖の周辺では現在でもさまざま種類のジャガイモが栽培され、ジャガイモの祖先とみられる種類も存在する。1533年、インカ帝国はスペイン人によって滅ぼされ、スペイン人はポトシ銀山などで産する膨大な銀や黄金などを奪って本国に送ったが、その時ジャガイモもヨーロッパへと渡る。

ティティカカ湖 ティティカカ湖

 ジャガイモ普及の道筋はおぼろげな輪郭しか分かっていない。ジャガイモはその後も飢饉や戦争のたびに多くの人々の命をつなぎ、この後世界中の食糧供給に貢献する。米国でのジャガイモの本格栽培は、アイルランドからの移民の手で行われたとみられ、ジャガイモは「地球を一周した食物」といわれた。寒冷地でも栽培可能というのがジャガイモの繁殖の力である。それが普及に大いに役立った。アンデスの4000メートル級の高地で生まれたジャガイモは、北ヨーロッパなどの寒冷地でも豊かな収穫をもたらしたし、地下に大きなイモを作るので鳥などに食い荒らされることもなかった。生産性の高さも普及を後押し、「同じ面積の耕地で、ジャガイモは小麦の三倍の生産量がある」とアダム・スミスにも高く評価された。

アダム・スミス アダム・スミス

 ジャガイモというと、アイルランドの飢饉の話が有名である。英国による支配は、アイルランド人を南部、東部の豊かな農地から追い出し、石ころだらけの西部の地へと押し出されていた。16世紀にもたらされたといわれるジャガイモは、岩だらけのやせた土地でもよく育ったが、そこにジャガイモ飢饉が襲いかかる。アメリカで起こった「ジャガイモ疫病」は、あっという間にアイルランドに上陸、惨事の背景には、栽培されていたジャガイモのこの病気に対する抵抗性が弱かったこと、そしてアイルランドの気候変動があったという。なぜアイルランドの被害は餓死者100万人と、ほかの地域よりもずば抜けて大きかったのか。他の国々でもジャガイモは全滅したが、他の作物も栽培していたために飢饉を回避できた、しかしジャガイモに頼り切っていたアイルランドでは、ジャガイモ疫病による大飢饉から逃れようがなかった。産業革命時代には「貧者のパン」と言われたジャガイモ、産業革命の時代、労働者の衣食住はきわめて劣悪であった。わずかな賃金でも買えて、調理も簡単なジャガイモは労働者の味方、ジャガイモの重要性を見抜き、普及を訴えた一人がアダム・スミスであった。第二次大戦後になってもベルリン中心部の公園にはジャガイモが植えられた。ドイツの市民農園も同じ時期ほとんどがジャガイモ畑となり、人々を飢えから救ったという。ソビエト崩壊で食糧品が高騰したロシアでも、人々は別荘でジャガイモを栽培して危機をしのいだ。

ジャカルタ ジャカルタ

 日本では1600年頃、オランダ船によって、インドネシアのジャカルタから長崎港に輸入されたジャワ芋が日本にジャガイモが登場した最初で、ジャカルタがジャカトラと当時呼ばれていたため、ジャカトライモと呼ばれ、そこからジャガイモの名がついたというのが定説である。
 輸出が急速に伸びるのは明治三十年代からで、香港、ウラジオストク、中国、朝鮮などへの輸出も増加、明治四十年代には全国の輸出ジャガイモの約4割が長崎港から積み出されるようになった。ジャガイモは南米アンデスの高地を原産地とする寒冷作物、生育適温は10~23度とされている。それを長崎という温暖地で栽培するにはには品種改良や病害虫対策が不可欠だった。
 長崎県総合農林試験場では温暖地向けで二期作の可能な品種作りを目指した。ここの農林試験場で開発された温暖地向けジャガイモは、今では千葉県から沖縄県にまで広がった。「男爵」は日本のジャガイモを代表する品種である。この「男爵」を日本にもたらしたのは函館船渠(現函館ドック)専務などを務めた男爵川田龍吉である。

男爵イモ 男爵イモ

 川田龍吉は1856年、川田小一郎の長男として高知に生まれた。小一郎は同じく土佐郷士出身で後に三菱会社を興す岩崎弥太郎と出会い、意気投合、弥太郎が大阪に開いた英語塾で龍吉に英語を学ばせる。小一郎は龍吉に英国への造船留学を命じる。龍吉の留学先は造船の本番場、スコットランドのグラスゴー。龍吉は留学から6年目、グラスゴーの書店で運命の出会いをする、その相手は書店の店員で敬虔なクリスチャンのジニー・イーディーである。異国で示しされた親切をきっかけに、二人はたちまち恋に落ち、手紙をやり取りし、休日などによく、グラスゴーの街角で焼きジャガイモを食べた。だが、二人の恋は実らなかった。

川田龍吉 川田龍吉

 結婚を固く約束して帰国した龍吉だったが、父親の小一郎は頑としてそれを認めなかった。帰国後の川田龍吉は、三菱製鉄所の技師として活躍、グラスゴーで学んだ技術を後進に伝えた後、日本郵船を経て、横浜ドックの初代社長となり、我が国初の石造りドックを完成させている。1906年函館船渠会社の専務となった龍吉は、函館郊外の七飯村農地を購入、英、米の種苗業者に11種類の種イモを注文した。その中のひとつの品種は、淡い紫色の花をつけ、株を引き抜くと丸い大きなジャガイモが鈴なりについていた。これが「アイリッシュ・コブラー」と呼ばれる品種で、北海道の気候、風土にぴったりと合った。このジャガイモはたちまち全国へと広がっていく。そして川田龍吉男爵にちなんで「男爵(イモ)」と呼ばれるようになるのである。
 ジャガイモに最初に接したスペイン人、中南米の現地人がジャガイモを「パパ」と呼んでいたのを聞き、そのまま本国に伝えた。しかしパパはローマ法王(papa)」、恐れ多いため、それに近い発音の「パタタ(patata)」となったといわれる。英語の「ポテイトウ(potato)」もここからきている。こうして世界各地に普及するジャガイモとは大航海時代がもたらした賜物であって、この時代のスペインではそのジャガイモを焼き芋として食した。天正遣欧少年使節の正使者・伊東マンショもマドリードでこの焼き芋を食べたことが資料として遺されている。おそらく少年使節らが日本人としては初めてジャガイモなるものを口にしたのであろう。しかもこうした日本人の初体験は新聞記事となって当時の各都市へと伝播された。
 それでは、これらの経緯とジャガイモである男爵イモとが関係が深いために、もう一度、男爵川田龍吉の話に戻ることにしたい。

百通の恋文が伝える「男爵イモ」の純愛

 大正13年に、北海道の農場事務所で、金庫の奥深くから一房の金髪が発見さそれから50年以上を経て、昭和52年に数多く積まれた蔵書の間から100通近くの英文の手紙が発見された。宛名はリョウであり、差出人はジニー・イーディー、住所は英国のグラスゴー市。1883年1月から84年6月の短い間に出されていた。男爵川田龍吉(りょうきち)には、秘められた恋があった。

グラスゴー市 グラスゴー市

 龍吉は土佐の郷士の出であったが、父小一郎が同郷の岩崎弥太郎の下で仕事をして出世して、父の意志で15歳から英語を学び始めた。やがて、船舶修理のために横浜に築いた三菱鉄工所の技術力を高めるために、英国への留学を命じられた。父が、来日していたグラスゴーの造船所のオーナーに息子の教育を頼み込んだのだ。1877年、21歳で英国に留学した。
 その留学は長かった。造船所の現場で実習生として技能を身につけ、工学の知識を修得するためにグラスゴー大学に学んだ。留学は6年目になった。勉学に熱心な龍吉はしばしば書店に足を運んだが、そこで女店員ジニーと知り合った。そうして手紙をやり取りし、休日などによく、グラスゴーの街角で焼きジャガイモを食べた。この焼きジャガイモを最初に食べる際にジニーは「伊東マンショという日本人が同じモノを食べた」ことを龍吉に教えたという。この時の龍吉はジャガイモといものを初めて口にした。それなのに300年も前に口にした日本人がいたことに驚いたようだ。これを機に川田龍吉は「母国語の外から新世界がみえてくる」ことを感じたという。

少女1 ジニー・イーディー

 ジニーからの最初の手紙は、龍吉が探していた地図を購入する意志があるのかどうかを確認する簡単なものであった。二人はたちまち恋に落ちた。手紙の宛名は、カワダ様からリョウ様に、そしてリョウに変わった。
 ジニー・イーディーは1864年の生まれであり、龍吉とは8歳の開きがある。両親は織物工場に勤めていたが、父とは別れて母と二人でつつましく暮らしていた。とても真面目な敬虔な娘であり、書店に通うほかは日曜日に教会に行くだけの生活であった。龍吉は、毎週ジニーの家を訪問するようになった。
ジニーの恋文は、純情そのものである。
「リョウへ。あなたからのお便りを待ちこがれています。だってきのうの夜、汽車に乗れたのか、とても心配なのですもの。私は、たぶん今ごろあなたは暗く長い道のりをレンフリューまで歩いていらっしゃるのだろうと思いつつ起きていました。本当に間に合っていればいいのですけど。」
 ジニーに愛されたのだが、龍吉は健康がすぐれず、仕事は辛く、憂鬱な気分におそわれる日が少なくなかったようだ。
「リョウへ。すばらしいお天気でしたね。こんな美しい日にあなたが悲しい気持になっていなければよいとおもいます。教会に行く途中、すべての人を幸せにしてあげたい気持でした。(中略)
私の幸福における唯一の影は、あなたが恐らく部屋で悲しそうに座っているのではないかという思いでした。あなたが幸せでいることを知ることができたら、きっととてもうれしかったでしょうに。」
「リョウへ。今夜は一人で部屋に座っています。母はもう床につきました。身体の具合がとても悪いのです。今夜はあなたのことばかり考えていました。考えすぎて、ほら、手紙の書き出しに水曜日夜と書くかわりに、あなたがここにいた月曜日の夜と書いてしまいました。」

 しかし手紙は、純情な気分に溢れたものから、切実な内容を含んだものに変わっていく。日本からの留学生と英国娘の恋の成就には、大きな壁があった。 
「いとしいリョウ。きょうは、あなたから前に頂いた四通の手紙をくり返し読みました。ああいとしい人、あなたをほんとうに悲しい気分にさせてしまいましたのね。あなたの前のお手紙には、はいとお答えします。あなたのご両親が承知され、母も一緒に行かせて頂けるのなら、もうぐずぐず言ったりしません。こんなに返事が遅れて本当にごめんなさい。だけど仕方がなかったのです。考えなければならないことがそれこそ山ほどあるのです。」
 明治の初期に、いとしい恋人と一緒とはいえ、はるか遠くにあって国情もよくは分からぬ日本に母を連れて向かうのには、想像を越えるほどのたいへんな決心が必要であったに違いない。若い娘の恋の力には絶大なものがある。
 1年半ほどの間にジニーが出した百通ほどの恋文の大半を、現在では読むことができる。長いもの、短いものさまざまであるが、異国に淋しく暮らす日本人への切々たる思いにホロリとさせられる。昔の純愛はこのようなものであった。毎週のように会っていながらも、深い思いを手紙で伝えたくなるのだ。恋文が恋には欠かせないものであった。そして手紙であるから、いまも残っている。二人の熱愛に思いを馳せることができる。
 熱愛むなしく悲恋に終わったが、それは龍吉が川田家の長男で、しかも小一郎は功績を上げて男爵に叙せられて名門になっていたからだ。異国の娘を嫁にするわけにはいかなかった。帰国した龍吉は造船技師として活躍したが、後に英国に似た風土の北海道に農場を開いて、ジャガイモの栽培を始めた。それが男爵イモなのである。


                                          三馬 漱太郎

聖マンショ伝「帰らざる丘」・No.0017

今も花開く戦乱の世から受け継がれし梅の白さに中世の面影が蘇る。手植えされた伊東マンショの愛と友情の記憶。

今年は梅の花の開きが遅いという。開花日が平年値より20日以上も遅れている。どうやらこれは冬の寒さが長引いたからのようだ。気象庁の観測点でみると3月5日夕刻までに国内の29ヵ所で開花したが、この内27ヵ所の梅は平年よりも遅れている。
 そんな訳で昨日(15日)、三時間ほど自由時間ができたので都内の梅処を散策することにした。すると、やはり予報通り開花が遅れている。かの東日本大震災は花の心をも痛めているのであろうか。東風(こち)吹くかばの例えなどあるが、東北から都内に吹く風は心もとない。東京ではほんの数輪が半開し、大半は蕾のまま赤い頬を痛めるようにして寒空に淋しくあるだけであった。
 ここ10年間で1,2番の寒さ、しかも寒気が緩む期間が平年の冬と比較すると非常に少ないのだ。梅に限らず、冬の寒さは春の花を遅咲きにさせる。この状態ではサクラの開花も遅くなる。春に咲く花の多くは、昨秋ごろ蕾(つぼみ)の中に「原基(げんき)」と呼ばれる、花のもとをつくる。しかし寒気が緩まないとその成長が鈍くなってしまう。これが開花の遅れにつながってくる。東京の窓辺にそんなことを感じながらいると、5年ほど前に写した、さる梅の写真を思い起こし、そっと引き出してみた。

白梅2

 この写真の梅は、熊本県人吉市の「切原野」というところの、さらに奥山に平年なら2月中旬には開花しているであろう一樹である。

 そうしてこの梅が「伊東マンショ」との縁で結ばれ中世より球磨地方にて白花を咲かせ続けていることから、本コラムNo.0017では、その縁(えにし)の馴初めをご紹介したい。そうして今回も日本人と「異国」を結ぶ運命の糸をたどり寄せることにしよう。

 写真の梅に関する口伝は相当古くから現熊本県球磨地方にはあった。しかし、それを確証するべき資料が乏しかったこともあり、伊東マンショに通じ合う信憑性(しんぴょう)が疑られてきた。この写真はそれらをようやく覆すことになった証として一般にご披露する。本ブログを最後まで読み通していただくと、伊東マンショを想い、彼との巡り会いを祈りながら記念樹として手植えされた梅花であることがご理解いただけるものと考える。
それはさる中世に生きた剣豪と関わる。梅の一樹は深く伊東マンショとの友情の上に成立し、その剣豪は伊東マンショの病死を悲しんでこれを手植えしたのであった。

 漱太郎はこうした口伝が剣豪の志を継ぐ人々によって語られていたことを喜びに思う。口伝に子孫が篤く語り続けるから、後世において新たな考証を加えようとする人々を勇気づけてくれる。大変な感謝である。
剣豪・宮本武蔵が生きた同時代に、武蔵と力量並び立つ剣豪がいた。その人物を丸目蔵人佐長恵(まるめくらんどのすけながやす)という。九州で最初に名をとどろかせた剣豪(タイ捨流の祖)である。
 この「タイ捨流」は、戦国時代から江戸時代初期にかけて九州一円に広まった。熊本県人吉市には、「タイ捨流」を代々に伝える人が現にいる。

 その剣技は、新陰流の真髄に真言密法を取り入れ、自分も生かし、相手も生かす「活殺剣法」で、形の最大の特徴は、右半開に始まって左半開に終わり(逆足)、すべて袈裟(けさ)斬りに終結する独特の構えにある。 
袈裟懸け(斜め斬り)に斬り下げ斬り上げるほか、体を飛び違えたり、空手で相手の目を打つなど豪壮な形から成る。代々球磨の人吉地方に伝えられ、昭和37年、12代小田夕可(せつか)が県の無形文化財に指定されるが、38年に死去したため指定が解除された。しかし同年、山北竹任(たけのり、小田夕可の実子)が13代を伝承する。現在は十四代師範を門弟であった木野敬夫が受継いでいる。

「タイ捨」の「タイ」には、体、太、対、待の意味があると説明されるが、これは免許皆伝書に「理と業とよく合って修行工夫の結果、久しくて悟あるべきこと 依りて仮名に書きたるはいづれにしても心通じ心広く達するの意なり」と書かれていることによる。

タイ捨流2

タイ捨流3

 そうしたタイ捨流は、あらゆる刀法に合致する流儀で、槍、なぎなた、居合、手裏剣、鉄砲合術に、また馬術二十あまりの奥義が含まれている。
 そんな奥義からみると、太刀の構が体に合致した斜に開き、実戦に通用する袈裟に斬る、力学的にも刃筋の点からも切れ味は合理的である。タイ捨流は、これらのことを戦場の体験によって編み出した必殺の剣で、他の流派にない、右半開に始まり左半開に終わる終結形である。

山北竹任 タイ捨流13代宗家・山北竹任

 今から20年前のことになるが、このタイ捨流13代宗家(山北竹任)の長期使用した木刀の所在(行方不明)を確認している途上で、タイ捨流と伊東マンショに相応の接点があること漱太郎は見聞した。
 13代の使用した木刀がどうしたことか香港に現存するというのだ。この、ことの真意を確かめるために漱太郎は香港まで足を踏み入れると、そこからまた真意の背景が二、三転し、その確証を得るためにマカオまで足を運ぶこととなった。
 李博士(Shau Kee)という人物が木刀を所持するという。またその他にも歴史的に価値のある古文書等を所持するというのである。しかし20年前の一度の追跡では李博士の行方は拾えなかった。
そうしてこの20年内に香港に5度足を運ぶことで李博士にようやくお会いすることができた。それが2007年のことであった。
李博士(Shau Kee) 李博士(Shau Kee)

 湾仔に建つ香港芸術中心といえば、アート関連の公演やセミナーなどが行われる施設だが、館内に本格的なイタリアンレストランがあることはあまり知られていない。
 「カジュアルな空間で本場のイタリアの味を楽しんでもらいたい」とシェフのマルコさん。カフェとしても利用できる入口付近と落ち着いて食事ができる奥のコーナーに分けられた店内からは、それぞれビクトリアハーバーが見渡せ、くつろぎの空間が広がっていた。
Assaggio Trattoria Italiana2 Assaggio Trattoria Italiana レストランの所在地は「6/F., Hong Kong Arts Centre, 2 Harbour Road, Wan Chai, Hong Kong」である。店名を『Assaggio Trattoria Italiana』という。写真はベネチア出身シェフのマルコさん得意料理「ZUPPETTA DI PESCE CROSTACEI DEL GIORNO」である。
 このAssaggio Trattoria Italianaはミラマーグループが運営する。その株式会社(ミラマーグループ)は、1957年に設立された。グループは、香港、中国本土、米国でホテルやサービスアパートメント、不動産投資、食品・飲料、旅行サービスをカバーする多様な事業展開を行なっている。そんなミラマーグループの会長が李博士(Shau Kee)であった。
 漱太郎はイタリアンレストラン『Assaggio Trattoria Italiana』でビクトリアハーバーを見渡しながら李博士の到着を待っていた。しかし、このときにはすでに李氏から事前に分厚いお手紙をいただき、経緯の概ねは察しられていた。

丸目蔵人佐長恵 目蔵人佐長恵

 タイ捨流の祖「丸目蔵人佐長恵(まるめくらんどのすけながやす)」は17歳の時、天草の豪族で本渡城主「天草伊豆守」に刀槍(中条流)を師事する。19歳の時上洛、「上泉伊勢守(かみいずみ のぶつな)」と試合って敗れたことから、入門し伊勢守の門弟となる。上泉伊勢守は陰流から「奇妙を抽出して」新陰流を大成したことで知られるが、丸目はその信綱のもとで修行すること数年、永禄年間に「足利義輝」の御前で師匠の打太刀をつとめている。日本の古武道に関心のあった李博士(Shau Kee)は、若いころの一時期、日本に留学していた際にタイ捨流の手ほどきを受けた経験の持ち主だった。
 蔵人守は京より帰国して、相良家18代の「相良義陽」に仕えて「間諜狩り」のようなことをやっていたが、 永禄9年(1566年)弟2人と門人1人を連れて2度目の上洛をし、清水寺に参籠した。
  その翌年、「上伊勢守」から免許を下賜された。その後またしても九州を出て江戸へゆくが、 伊勢守の死を知り、帰国するや「タイ捨流」を開き、こうして「タイ捨流」は、戦国時代から江戸時代初期にかけて九州一円に広まった。
 「タイ捨流」を開いてからの「蔵人佐」は、20代藩主の「相良長毎(ながつね)」から新知117石を拝領して、剣術指南役となった。しかし、晩年は「切原野」に隠棲し、もっぱら原野の開墾にあたった。5町3反歩の水田、6反歩の畑地など開いたという。冒頭でご紹介した「梅の写真」は、おそらく蔵人佐がこの時期に至る境涯のころに手植えしたものであろう。第6代小田七郎右衛門藤原定矩の手記にはそれを指し示す覚書が遺されている。一つにはここに伊東マンショとの深い接点がある。
 丸目蔵人佐は天文9年(1540年)に八代に生まれる。父は「丸目与三右衛門尉」。相良家6代の「遠江守定頼」の3男の後胤という。遠江守である相良定頼(さがら さだより)は南北朝時代の武将。相良氏第5代当主・相良頼広の子である。通称は相良八郎。この相良一族の勢力をみると、代々が所領を譲られると、その後、南北朝の動乱期に乗じて日向国や肥後国に勢力を拡大した。その当時、日向国には伊東一族の勢力があった。この伊東一族の血縁として伊東マンショは生まれる。しかしこうした敵対勢力間にあっても南北朝の動乱期を双方が生き延びるためには、闘争と譲歩の血なまぐさい交感があった。こうした状況下にあって伊東マンショと丸目蔵人守は数奇な出逢いを果たした。そんな晩年に隠棲した蔵人佐は寛永6年(1629年)に没。墓は「切原野」の「堂山」にある。それは唐突な隠棲であったのだが、この経緯と伊東マンショとは無縁ではない。剣豪・蔵人守が伊東マンショと果たしてどのような接点があるのかについては小西行長の動向に秘められていた。

小西行長の像 小西行長の像

 小西行長は、天正17年(1589年)宇土城築城に当たり、城普請の加勢を天草五人衆に要請したが、五人衆(栖本・上津浦・大矢野・志岐・天草)之に従わず、小西行長と天草連合軍は戦いとなり、行長は、3千の兵を袋湾(富岡)に差し向けたが、志岐の城主「志岐麟泉」一挙に全軍を屠ってしまった。
 あわてた小西行長は、「加藤清正」に援軍を依頼する。加藤清正は1万の兵を以て志岐城を破り、さらに、仏木坂に「木山弾正」を破り、「天草伊豆守」を下した。
 「天草伊豆守」は、キリシタン名を「ドン・アンドレア」と言い、熱心なキリシタンである。
 天正17年11月25日、本渡の城に「伊豆守種元」は、1300余名のキリシタンとともに運命をともにしたが、此の際の婦人の奮闘は雄々しく天草の人々の語り種として永く伝えられている。
 天草一族の中の、河浦城主「天草主人」は生き残って「小西行長」に仕え、その子孫は深海小学校の教師として赴任した事もある。
 こうして天草を平定した小西行長は、「豊臣秀吉」の命を受け浦々水夫を60才以下15才までを徴して、朝鮮出兵の準備をする。
 以上の動向の中に、丸目蔵人佐長恵もまた数多くのキリシタンらと接しながら青年期を過ごした。17歳の折に丸目蔵人佐が、天草の豪族で本渡城主「天草伊豆守種元」に刀槍(中条流)を師事したことは先に触れている。「天草伊豆守」は、キリシタン名を「ドン・アンドレア」と言い、熱心なキリシタンであった。そんな素養のある天草伊豆守のもとで若い蔵人佐は2年間修行した。それは1557~59年のころとなる(伊東マンショの生まれる10年前)。
 1549年(天文18年)、フランシスコ・ザビエルの鹿児島上陸を機に、日本のキリスト教伝道が始まった。天草では、1566年(永禄9年)に、天草郡苓北(れいほく)町志岐の城主志岐麟泉がキリシタンの布教を許したのが始まりとされる。その後、本戸(熊本県本渡市)城主天草伊豆守鎮種がルイス・デ・アルメイダ神父を招き洗礼を受けたことから、天草全土にキリスト教が広がる。
 この年譜からみると丸目蔵人佐が修行していた時代の天草伊豆守はまだキリシタンではない。しかし、大英博物館に所蔵されている「天草林学」の付属印刷所によって作られた通称「天草本」には、天正19年(1591年)から23年(1595年)の間に丸目蔵人佐長恵は天草にいたことが記されている。この時期は天正遣欧少年使節が帰国した後の数年と重なる。当時、イエズス会宣教師が運営する学校「コレジオ」が「林学」と訳された。そのコレジオは我々には大学と訳した方が分かりやすい。つまり「天草林学」とは天草にあったキリシタンの大学であった。
 コレジオという天草林学は10年制の大学である。文法学級を3年(語学課程)、哲学と古典文学学級を3年(一般文学学級3年)、神学を4年(専門課程)ほど教授した。語学過程ではラテン語、ポルトガル語、日本文学、ローマの古典文学などを学び、一般教養過程にて自然科学をテキストとした暦学や気象学を教え、神学ではキリスト教の教義を教えた。
 これら天草のコレジオに係わる本や資料は、「天草学林」の付属印刷所によって作られ、現在でも少量だが残されている。その所蔵が「天理図書館」「東洋文庫」「大英博物館」など、十数ケ所はある。それらの中で「天草本」と確かに天草で印刷されたと明記されたもの8種、推定されるもの4種が「平浦(下平)」の港から、今を去る386年の昔、現在の下平分校付近から船積みされたのであるが、内2冊が「天理図書館」へ、1冊が「飯島幡司」氏によって保管され、その他は「大英博物館」などに保管されている。
 この大英博物館蔵の天草本に丸目蔵人佐の名が見受けられ、蔵人佐は天草林学にあって情報指南兼食客であったようだ。その丸目蔵人佐はこのコレジオで遣欧使節の正使として帰国した伊東マンショと巡り合った。この経緯を考えてみたい。
 さて李博士(Shau Kee)と、ようやくお会いできた日の話に戻ることにする。一時期タイ捨流を学んだという李氏は2冊の天草本(大英博物館蔵の写本)を手に携えてこられた。そうして長細の木箱にはタイ捨流第13代宗家(山北竹任)の使用した木刀が収められていた。本コラムでは、それらの入手経路の仔細については触れない。経路には触れないが、帰国後に鑑定し木刀は正真であることが分かった。
 そうして李氏はシエフのマルコさんを呼ぶと、しばらくした後にマルコさんはさりげなく別に用意されていたであろう黒いファイルを携えて現れた。李氏は受け取るとファイルから数枚の写真を抜き取りながら微笑んでいる。テーブルに並べ終えると「これはキリシタンの壷」だという。この写真をみせながら李氏は多少の伊東マンショと蔵人守についての説明を加えた。
 そのキリシタンの壷は、高さ約45センチ、直径35センチほどのものである(李氏の採寸記録)。口は折り曲げて作られ、胴に古い文字で、「愛」と書いてあり、軸薬も小豆色で古めかしい。たしかに「亜衣」とは、キリシタンが考え出した言葉で、神の人に対する思いで、仏教では「慈悲」と伝え、キリシタンでは、「愛」と伝えた。日本には、それまで「愛」と言う言葉はなかったのである。
 漱太郎はこの「愛の壷の実品」がマカオに存在することを李氏から知らされた。実物をみたい。このようにしてマカオまで足を運ぶことになる。
 しかしマカオ行きの前に再確認しておきたい場所があった。天草の河浦町である。中世時代の河浦町は天草氏の居城地であった(実はこの愛と明記された壷は、天草にも現存する)。この壷が創作された当時、キリスト教の布教により「コレジオ」(宣教師養成を目的とする神学校の最高学府)が誘致され、ラテン語、哲学、神学等の学問や、グーデンベルク印刷機による金属活字本等、西洋文化が花開く。
 1591年(天正19年)には、大友宗麟等の名代の使節としてヨーロッパに渡ってローマ法王に謁見した伊東マンショを含む天正遣欧少年使節の4人の少年たちが帰国してこのコレジオに入所している。彼らが持帰った金属印刷機(グーテンベルク印刷機)と、それによって印刷刊行された貴重な数々の天草本のほかに天草キリシタンに関する資料等が河浦町のコレジオ館に展示されている。漱太郎はこれらの資料等を再確認した後にマカオへと向かった。
丸目蔵人佐が天草にいたという天正19年(1591年)の1月頃、兵庫の室津において、総会長巡察師ヴァリニャーノの調停により小西行長は天草殿(種元の嫡男・天草弾正忠久種)と天草合戦の正式講和を成立させる。そこで天草殿は宣教師ヴァリニアーノに天草学林の誘致を行う。当然、ここには伊東マンショも所在する。
 小西行長は、本渡の地を返還し、天草殿を家臣とする。『小西行長預置書状』 に「天草殿を本砥の代官とする(和暦3月10日付け)」とある(資料 横浜市天草家蔵)。 この頃天草殿は、本城の本砥城へと居住地を変更した。
 天草学林は本渡の地に創建(5月3日以降、7月24日までの間で)。天草殿は、本砥城から1レグア(5~6Km)のところに200から数千人で数箇所の丘を切り開いて、天草コレジオ(天草学林)を建設した。7月25日天草学林で、ヴァリニアーノは4人の少年使節らをイエズス会に入会させ、天草殿を食事会に招待した。このことは『フロイス記』に記す。 また肥前名護屋城の築城が開始された。
 1592年に関しては、ヴァリニアーノの『日本巡察記』の「日本管区及びその統括に属する諸事の補遺(1592年筆)」によると、天草の状況について記録「そこには五つの司祭館が あるほか、学院が天草に移された。・・・」 とある。五つの司祭館とは、90年に裁決された「志岐・河内浦・栖本・上津浦・大矢野」のこと。 イエズス会の本拠地・学林は計画どおり 天草・本渡に移ったことになる。秀吉が朝鮮出兵のため肥前名護屋城に下って来、関白の迫害からのがれるため、天草学林は一時的に分散。 本部及び奥天草の大江と久玉に三分の一
づつ四ヶ月間疎開させた。これは『フロイス記』『PIREZ.S.Jの記録』にある。
 秀吉、名護屋城に入る。秀吉の朝鮮出兵日本軍16万(文禄の役)。天草弾正忠(天草殿)は小西配下として釜山に到着した。1593年をみると、大友義統、朝鮮出兵中の不行跡を問われ、豊後国を没収されるとある。これらが日本国内に現存する資料群(フロイス記の写しモノも含む)から拾える情報である。
 しかしこれらは資料としては、まことに乏しい。なぜ当時の天草モノ(つまりキリシタンに関する資料)の多くが海外へと移されたかについては、文禄元年(1592年)以降の小西行長における動向から、島原の乱までの経緯にて明らかとなる。
 文禄2年(1953年) 小西行長は、平壌において明将「李如松」に囲まれて退く。文禄2年5月、小西行長は、明の使節「謝用○」を連れて「名護屋」に帰る。
 この時代の島原の住人たちは、小西行長の、その幕下として行動を共にした。今に残る小西の家紋入りの「陣太鼓」は、その遺品として「法螺貝」と共に伝えられたのである。そして、太鼓は太鼓だけのものでなく2千石以上の武士が持ち常備器とされた証でもあった。
 それは黒うるしの「胴」に朱の「九曜の紋」が入った実に立派なものであった。鉄砲10人、弓5人、槍5人、槍持ち2人、太鼓2人、鐘1人、法螺貝1人、大将1人、小荷隊10人(馬)、以上が2千石取りの侍が用意する人員と馬と武具であり、これを小西行長は幕下にあたり当然の義務とした。
 こうしてキリシタンは、小西行長の朝鮮出兵後も普及する。島原の全域に通じるが、特に深海を中心とする「宮野河内」「上平」「下平」「浅海」などに、明治維新までお寺がなかったのは為政者が、「天草久種」(ドン・ジョアン)「天草伊豆守種元」(ドン・アンドレア)「小西行長」(ドン・アコスチノ)など洗礼を受けた武将たちであり、行長はキリシタンに転宗した者には、一年間の年貢を免除した。そして、領土内に「神社」や「お寺」の存在を認めず焼き払ったためである。しかし江戸初期の島原の乱後、「浄土宗」や「浄土宗新宗」が湧いたように進出したときは、島原内のキリシタン資料は空っぽになったのである。
 李博士(Shau Kee)氏から実物の所在を知らされた「キリシタンの壷」も天草の乱後に、仏法者の破壊から密かに逃れマカオへと移された。この壷が製造された当時の天草林学に関わる資料には、ドン、マンショと丸目蔵人佐の友好を証す壷であったこと記す。つまりその愛の壷はマンショの手と丸目蔵人佐の手をつなぐことを目的として造られた(このことがマカオにて鮮明となる)。
 伝統的な保管技術の高さもあり英国の資料は漱太郎の体験から生かせることが多い。李博士が所有する資料も、島原本の写しではあるが、そこには実際の内容の保管状態も良いせいもあるが、英国人の手によって欧米者に分かりづらい箇所には、補填の資料が別に綴じられている。マカオへ向かうときには、その写し資料を李氏から一時借用して香港を発った。
 そうして2007年の初秋、漱太郎はマカオへと着いた。
 マカオは香港からは南西に70km離れている。そのマカオと香港間は、約1時間で結ぶ高速船が毎日24時間運航されている他、ヘリコプターによる定期便(15分ほど)も頻繁に運航されていることから、香港からは日帰りでマカオを訪れることも容易で手軽である。
マカオ2 マカオ地図

 中華人民共和国マカオ特別行政区を通称としてマカオ(Macau)と呼んでいる。1999年までポルトガルの植民地であったマカオは、中国大陸のヨーロッパ諸国の植民地の中ではもっとも古く、域内に植民地時代の遺構が数多く点在する。このため、2005年7月15日に、マカオの8つの広場と22の歴史的建造物がマカオ歴史地区という名前で世界文化遺産に登録された。このマカオの歴史を述べるにはとても紙数が足りない。足りないのだが、しかし本コラムでは、カトリック教会の宣教師でイエズス会の創設メンバーの1人であるフランシスコ・ザビエルが、ポルトガル政府の支援の下、マカオを拠点に東南アジア各地でキリスト教の布教活動を行っていたこと、またこの頃のマカオは、日本が鎖国するまでは長崎との貿易で繁栄を極め、しかし、その後は明清交替期の動乱や広東(広州)の対外開放により、アジアにおける一大貿易港としてのマカオは次第に衰えていったことだけは述べておきたい。
 香港のセントラルにあるフェリーターミナルからマカオ港の客船ターミナルまで、TurboJET社が運航するジェットフォイル(ボーイング929)に揺られた。李博士(Shau Kee)氏からの紹介状もあり、キリシタンの壷を所有する人物とはザ・ベネチアン・マカオ(The Venetian Macao)で会うことになっている。
 このカジノリゾートは、2007年7月に完成し8月に開業したばかりのラスベガス・サンズが2番目に建設したホテルであった。イタリアのベネチアをモデルに設計されたことは李氏から聞かされていた。それは聞くまでもなく日本でも各メディアに注目されて、8月28日華々しくオープンしたアジア最大の複合エンターテイメント高級リゾートである。

ザ・ベネチアン・マカオ ザ・ベネチアン・マカオ

 そこは東京ドームより広い巨大カジノスペースがあり、報道の限りではまさに夢の国。ホームページにいたっては「マカオに行ってベニスにいる気分になれるの?!」と思ってしまう。しかしこれを(鵜呑みにしすぎた!)。ちなみにベニスを思わせる運河はとても小さい。目の肥えた日本人にはどうってことないと思う。建物はせめてディズニーシーレベルかと思ったのだけど……。実にがっかりした。事前に「だいじょうぶか?」と酷評するサウスチャイナモーニングポストの記事を見ていれば、こんな期待はしていなかったのではないかと腹立たしい。人口の5パーセントがココで従事することになる計算らしく、そこらを手筈万端で開業したというのだが、考えてみれば、高級ホテルに見合うwell educatedな人材がそんな簡単に調達できるとは思えない。
 それにしてもお粗末過ぎた。サービスのレベルがホテルのレベルに全くついていけていないのだ。チェックインが2時間待ち。ピーク時のフロントスペースは人の山盛り。15時チェックインが部屋にたどりついたのは17時を過ぎていた。とりあえず怒りで沸騰しそうな脳みそを何とかしようとスパの階へ降りるも、この日は全て予約でいっぱい。チェックイン後すぐに行った宿泊客にサービスもできないなんて日本ではとても有り得ない。
 チェックイン担当の従業員が、忠実にマニュアルにしたがおうとする努力は認めよう。しかしキーボードのブラインドタッチは覚えよう。そして人差し指だけで押すのはやめてくれ。こんな具合だから明日の朝食が心配になる。「おっと!この調子だと明日の朝食も早く予約しておいた方が無難だな」と・・・。が、……電話が込み合っていて繋がらない。
 しかたなくフロントに行くと(部屋から20分かかります!!)「ここに電話してください」とまた同じ番号を告げてくる。だから「つながらないんだってば」と事情を繰り返し説明する。「ここに電話してください」→「つながらない」と言われるケースはマニュアルにはなかったのか、言葉につまるフロントの彼女。「だからさぁ、何度電話してもあなたの言うスィートダイニングダイヤルなんてやつは、こみ合ってて予約できないんだよ」とかみつくことになる。この時点で漱太郎は相当キレかけていた。しかし、そこへマネジャー級と見られる白人従業員が登場。別のカウンターにてようやく無事に朝食の予約が完了はしたが、朝食の予約にも一苦労であった。ここまでですでに極度の精神疲労、神経衰弱を引き起こしている。しかも、翌日の朝食、7時に頼んだのに10時に来た。ここでの催促やりとりは省略したい。ご想像におまかせする。
 「こんなクソホテルさっさとおさらば!チェックアウトだ」と朦朧と思いつつ「まさかこれも行列?!なんてね~」と笑えない怖い想像をしながらカウンターへ向かうが「ほッ」、5人くらい並んでいるだけであった。
 さて「お支払い」なのだが、なんとHK$248の朝食料金のみである。「We don't charge any room charges.」と、これを言われたとき、漱太郎は「えっ、当たり前でしょ、冷蔵庫の中のもの手つけてないもん」と思ったのだが、余計にかかった費用のことかと思い、改めて表示された金額を見て唖然とした。部屋代の約2700ドルの数字がどこにもない。「えっ?これだけ?なんで?」。そんな漱太郎に再び「We don't charge any room charges.」と、おどおどしながら繰り返す彼女なのである。ふ~ん「We don't charge any room charges.」ですか。そうなのだ。部屋代一切なしという。これはきっと「相当苦情がひどかったのか、経営側もてんやわんやだったのでしょうか」と思ったが、ふと、昨夜お会いしたドナ・アイダ(Donna Ida)婦人の顔が思い起こされた。李氏にご紹介された婦人である。それはほんの30分ほど挨拶を交わし終えた後の彼女を浮かべたのだが、別れ際にポツリと「これで料金を取ったら今後の経営にひびくでしょうね……」と辺りの混雑を見回しながら言い放った、その困惑気味の渋い表情であった。その笑みがまた実に奇縁なのだ。
 それにしても「HK$248のみ」とは思い切った処置であろう。3000室という巨大ホテル内の実態は十露盤(そろばん)で想像した状態とはまったく違っていた。これは、抗しがたい進歩の願いをこそ、抗しがたい退行の呪いと見なければならない。この街の造りは、バリアフリーのバの字も感じない、そこがマカオの魅力なのだ。時代を大胆に前に進めるのは賢しらな「正の理念」ではなく、一見しては寂寞を装う「負のCPU」なのであるから。従って「部屋代がタダになったとはいえ」自分史上最悪の気分を味わいながら外に出た。
 ドナ・アイダ(Donna Ida)婦人のご自宅は日本人観光客が殆ど姿を見せない場所の裏側にあるという。昨夜、手渡されたメモ紙「美副将大馬路 Avenida do Coronel Mesquita」の、その場所とは、媽閣廟、蓮峯廟と並ぶ、マカオ3大名刹の1つ、それが「観音堂」である。マカオ半島の北部、住宅が多い街の中に建っている。世界遺産でもない為か、たしかに日本人に限らず観光客を見かけない。しかしこの場所は地元人の信仰も厚く、いつもお供え物や線香が絶えていないように思えた。門から中に入るとても開けた空間の敷地内には3つのお堂があるのだが、この観音堂は、ただのお堂としての歴史だけではない。1844年、アヘン戦争後、清朝・アメリカ間で交わされた友好通商条約(モンハ条約)が締結された場所なのであった。
 マカオにはポルトガル人と中国人の他に、約1万人のマカオ人(マカニーズ)と呼ばれる独自の民族が住んでいる。彼らはポルトガルとインド、マレー、中国、そして日本人との混血なのである。なぜ日本人がというと、弾圧されたキリシタンの一部が難民となってマカオへやって来たからだ。当時のマカオには日本人用の神学校があって、正面の大きな壁だけが残っているセントポール寺院も日本人キリシタンたちが建てた。
 そんな現在のマカニーズ(土生葡人)はポルトガル人としてのアイデンティティを持ち、ポルトガル語と広東語を都合して話している。大航海時代のポルトガルは女性を船に乗せることを禁止して、各地へ派遣した兵士に現地女性との結婚を奨励した。旧ポルトガル植民地であったマカオ(澳門)にはマカニーズのほか、マラッカのユーラシアン、東ティモールのトパッセ、インドのゴアンなどポルトガル系混血住民が住んでいる。ドナ・アイダ(Donna Ida)婦人もこのマカニーズなのだと李博士(Shau Kee)から聞いていた。しかも先祖には、日本人キリシタンたちが建てたというセントポール寺院に関わる人物がいた。つまりアイダ婦人には日本のキリシタンの血も混ざり合っている。

 今回で7度目となるマカオの漱太郎には、この街の夜が少し妖しげになるということも知っている。マカオと接している中国側の都市・珠海の税関付近には、「マカオ3ヵ月観光ツアー」を扱う旅行社がいくつもあって、ツアー参加者たちは飛行機に乗るわけでも列車に乗るわけでもなく、歩いてマカオにやって来て、そのまま3ヶ月間「自由行動」をする。
 これらの女性はほとんど中国本土から「マカオ3ヵ月観光ツアー」でやって来た人たちである。しかしこれが妖しい。マカオ観光なんて普通は半日、じっくり見て回っても3日もあれば十分なのに、それを3ヵ月も滞在するというのは、と怪しさは深まる。これは、ようするに最初から金稼ぎ目的なわけで、これぞ「買春ツアー」ならぬホントの「売春ツアー」なのだ。
 さらには「男性向けの3ヵ月ツアー」もあって、こちらの参加者たちはマカオへ着くなり、道っ端で「ガンが治る最新の薬(実はただの胃薬)」や「不老長寿の電波を出すコイル(実はただの銅線)」といったアヤシイ物を売りさばく。ようするに「ペテン師ツアー」である。マカオ随一の繁華街・新馬路は、昼間はかなり閑散としているが、夜になると道端にアヤシイ女性がたくさん立ち歩き、かなりアヤシイ感じになってくる。
 こんなマカオの街で暮らすブラジルをよく知るドナ・アイダ(Donna Ida)婦人に言わせると、マカオのポルトガル語は100年前のポルトガル語だそうである。となると「マカオから見たらブラジル人の喋るポルトガル語は100年未来の言葉?まさかね」と答え返す、とアイダ(Ida)婦人は「それが分かるのもマカオの魅力ですよね」と笑った。
 香港から運航しているジェットフォイルは新しいターミナルに着く。これとは違い、半島の反対側には古い港がある。 かつてはマカオの玄関口で、香港や中国本土へ行く船、今は橋が開通して廃止になったがタイパ島やコロアネ島へ行くフェリー、そうして遠くポルトガルのリスボンへ向かう船が発着していた。こうしたポルトガル行きの船は1961年に中間寄港地だったゴアがインド政府に占領されてから、運航停止になったままだそうである。そうしてドナ・アイダ(Donna Ida)婦人が所有する「キリシタンの壷」もこの港にたどり着いた。
 今ではこの港の周りはすっかり廃れて、ゴーストタウンのようである。マカオの玄関口だった当時には、この一帯にホテルや旅館が建ち並んでいた。現在では「3ヵ月ツアー」の女性観光客が根城にする宿になるか、労務者むけのドヤになるか、はたまた廃業してしまうとかで、まともなホテルは1~2軒しか残ってはいない。とある風格ある建物には「広州大旅社」という看板が出ているのだが、90年代半ばにマカオへ来たときはまだ営業していたと思う。アイダ(Ida)婦人が言うには「間もなく廃業して火事になった」ようである。補強してペンキを塗り直したところを見ると、観光資源として保存されるのかも知れない。
 港から中国本土にかけての埋め立て地には木造のスラムが密集していた。マカオの人口は30年間で2倍になったという。しかし黒居民(ヤミ市民)と呼ばれる中国本土からの不法入境者も多く、取り締まりも香港と比べてかなりルーズである。そういえば、大韓航空機を爆破した北朝鮮の工作員「蜂谷真由美」こと金賢姫も「西側社会で暮らす訓練」ということで、中国人になりすましてマカオで生活していたことがある。ポルトガルが投げやりな統治を続けていたマカオは、格好の北朝鮮の工作基地でもあった。
 現在、マカオ人のうち約8割が広東出身者で占めている。広東人の商売に対する情熱は、どの省の人々より強い。「商売せずに冨は得られず」という意識が一般の市民にまで浸透している。ある広東人は自らの民族を「永遠に金銭を追いかけている人種である」と言い切る。まさにこれが「東西南北中、財を成すには広東」といわれる所以であろう。しかしこれらが大航海時代の野望と少しも違っているとは思えない。マカオに渡ったキリシタンの壷もそんな夢の中にある。アイダ(Ida)婦人は漱太郎にその壷を静かにながめさせながら、ふと「李博士(Shau Kee)さんは、ここは写していないわ」と言って、壷を逆さにしては微笑み、その器底を見させてくれた。
 そこには「M et M」「Enim ad amor」「Prunus duo florem iungit.」「1593」とラテン語の染書きがあった。つまり訳すと「MとM。愛をあなたへ、ふたりは梅の花で結ばれている。1593年」となる。「Prunus(プラナス)」を広義にサクラ属とするも、どの花をもって解釈するかで花の種は異なることになる。アイダ(Ida)婦人はただニンマリとしていたのだが、漱太郎にはふと「これはやはり梅の花だ」と思い当たる、さる古文書があった。
 その柳生家外伝によると、柳生石舟斎が息子、柳生宗矩が将軍家指南役として天下一を標榜すると丸目は怒って江戸に赴いた。「我こそ天下一の使い手」と立て札を立てて御指南役の柳生但馬守宗矩に一戦を挑んだ。だが、勝ち目が薄い上に勝っても利がないと踏んだ柳生宗矩は「柳生は東の日本一、丸目殿は西の日本一」と言って事無きを得た、とある。これは、まことしやかの講談ではない。この話には後談としての尾ビレがあった。
 そのとき丸目は、柳生家と取引を行い、相良藩にも忍者の組織を持つことを認めさせようと迫ったが、それは叶わず、この後丸目は柳生新陰流に対する挑戦状として使った日本一の立て札を清水寺に奉納した。しかし、これが残されて放置していると天下の柳生新陰流の名に傷が付くとして柳生宗矩は忍びを放って清水寺ごと焼いてしまった。これが清水寺炎上の原因になる。その立札には一輪の梅の花が描き添えられていた。丸目は「足利義輝」の御前で師匠の打太刀をつとめている。梅花はその名誉の輝きであると柳生家はみた。そうであるから、その後の柳生家の代々では白い梅の花を忌みている。
 梅はポルトガル語で「Ameixa(アミーサ)」という。しかし、そういう異国の言語を用いても、なかなか日本の梅の白さは偉人の胸に描けないものだ。梅とプラムでは似して異なるものであるから、漱太郎は「これは日本に咲く梅の花のことだ」とドナ・アイダ(Donna Ida)婦人に伝えた。するとアイダ婦人は「É capaz de compreender.(分かります)」と心外そうな表情で答え返し、なるほど、これが日本人キリシタンの血を今日に通わすマカニーズなのかと、その豊かな笑みをみながら恐縮した。
 そんなアイダ婦人がふと「今から私の店に行きませんか」という。そんなアイダ婦人の笑みは、やや不敵にも感じられた。
 マカオの街には「葡国菜」(ポルトガル料理)の看板を掲げたレストランはいくつもあるが、本格的なマカニーズ料理を出す店はわずかしかない。
 マカニーズの料理が素朴な家庭料理で、よそ行きの料理ではないことが、外であまりお目にかかれない主たる理由だが、最近では人々の食生活が多様化し、伝統料理を受け継ぐ若い世代が少なくなったことも背景にあるという。
 さて、このマカニーズ料理というのは、いったいどんな料理なのだろうか。10年近く前、『澳門雑誌』という刊行物にマカニーズの歴史文化を紹介する特集があったが、この中でマカニーズの家庭料理について説明した下りに、「そのレシピは一族の歴史そのもの」と書かれていた。それが、漱太郎にはとても印象に残っていた。
 アイダ婦人がマカニーズ特有の料理店を営んでいることは、李博士(Shau Kee)氏から聞いている。
 大西洋、インド洋、そして南シナ海と大海原を駆けた大航海時代の歴史が凝縮されたレシピ……。そのひとつひとつのレシピから一族の歴史が見えてくるとは、なかなか歴史ロマンをかきたててくれる料理ではないだろうか。
繰り返すようだが、人口約54万人のマカオで、わずか3%という少数派のマカニーズの人々は、中国語で「土生葡人」と呼ばれる。「マカオ生まれのポルトガル人」という意味だが、純粋なポルトガル人ではない。祖国ポルトガルを離れ、海を渡ったポルトガル人男性と、かつてポルトガルの支配下にあったインドのゴア、マレーシアのマラッカなどの女性の後裔である。17世紀初頭、マカオに渡った日本人キリシタンの血も混ざったといわれている。中国人との婚姻は清代に入った17世紀末ごろから徐々に進んだ。中国人との混血が比較的遅いのは、中国人社会がクリスチャンをすぐには受け入れなかったためだ。
 彼らは様々な民族が混じり合ったエキゾチックな顔立ちと、ポルトガル語、マレー語、広東語、日本語などが混ざったクレオール語の一種である「Patuá(パトゥワ)」という言語を持つ。そして、彼らの先祖がマカオにたどり着くまでの道のりで得たスパイスや食材に中国の料理法も加わった独自な食文化を育んできた。
 考えてみれば、日本の天婦羅や、金平糖、カステラなどの南蛮菓子も、ポルトガル人が日本に伝えたものだ。ポルトガルからの海路を辿ってくると、マカオの先に長崎がある。
 歴史に「もし」はないが、日本がキリシタンの弾圧もせず、鎖国もしていなければ、もっと多くの味が日本の食卓にも並んでいたかもしれないと、漱太郎の想像はふくらむのだった。
 1987年、ポルトガルと中国の両政府が話し合い、99年12月にマカオを中国に返還することを決めた。これによりマカニーズを取り巻く環境は大きく変わっていった。中国化が進むマカオで今、マカニーズの若い世代が自らの文化を守ろうと動き始めている。
 こうした中で、マカニーズ料理も見直され始めたようだ。マカニーズのセシリア・ジョルジ氏による『土生葡人飲食文化』(2004澳門土生教進会出版)などマカニーズ料理の歴史や作り方を写真入りで詳しく紹介する本も登場している。そして昨年には、「土生葡人美食聯誼会(マカニーズ美食連誼会)」なる組織も誕生した。そうした了見までには、5年前の漱太郎は至ってはいなかった。そうゆう体たらくもあり、あのときは「マカニーズ料理を、ポルトガル料理やイタリア料理、フランス料理のようにひとつの料理のジャンルとして高めていきたいですね」と婦人につぶやいた。
 しかし満面の笑みで迎えてくれたドナ・アイダ(Donna Ida)婦人は、こう意気込みを語ってくれた。「中国の影響以外にも、ほかの西洋諸国の人たちと結婚したり、海外へ移住したりして、マカニーズの社会は少しずつ変わっていきました。このままではマカオに残された伝統の味が失われると、危機感を抱いたのだ」と彼女は店を開いた訳を言う。
 そんなアイダ婦人が今、行っている作業は、マカニーズの各家庭に伝わるレシピの収集だ。各家庭にレシピの提供を頼むという地道な作業を続けている。
 それぞれの家庭が受け継いできたプライベードなレシピであるため、同じ名前の料理があっても、家庭の数だけレシピがある。そこで、できるだけ多くのレシピを集めてマカニーズ料理を研究し、マカオを代表する料理として体系化していくという試みだ。ドナ・アイダ(Donna Ida)婦人は、これを一生の仕事として続けていきたいとのだと話した。それは門外不出のレシピを追って行く中世の旅である。
 しかしながら、どれだけレシピが集まったのかと尋ねてみると、予想外の答えが返ってきた。実は、レシピを公開したがらない家庭が多いのだという。マカニーズの社会では、「我が家のレシピ」が思いのほか特別なものらしい。
 どうやら伝統的なマカニーズ料理の後継者が少ない理由の一つに、この「秘密主義」もあるようだ。 レシピが一族の歴史そのものと語られていたように、おいそれと赤の他人に教えるわけにはいかないのかもしれない。
マカニーズのご家庭の食卓にお邪魔して、本格マカニーズ料理をいただいてみたい……漱太郎のそんな一抹の期待は、ここではかなくも砕け散った。
 それにしても、レシピが門外不出の特別なものであればあるほど、それを手に入れた時の喜びはひとしおだろう。
 ドナ・アイダ(Donna Ida)婦人は、エンパダ(魚角)と呼ばれる魚パイのレシピを手に入れた時の話を嬉しそうに語ってくれた。これは、クリスマスに食べる料理で、ポルトガルやブラジルにも似たような料理があるが、アイダ婦人が得たレシピは、南洋の魚を使う特別な一品だという。しかもこの料理は、中世の当時、迫害から逃れてきた日本のキリシタン女性がそもそも考案したものだという。
 かつてマカオにエンパダの名人と呼ばれる老女がいた。みながその名人からレシピを聞き出そうとしていたが、誰一人として教えてもらえなかった。このエンパダだ日本人キリシタンの血を継ぐ人物であった。しかし、アイダ婦人だけがその名人に見込まれ、彼女からエンバダのレシピを伝授された。これを「奇跡の魚パイだ」と彼女は言う。
 まるで拳法の奥義を伝授する師匠と弟子を見ている気分で漱太郎は話を聞いた。将来、彼女の手元に数々の「奇跡のレシピ」が集まることを祈りながら……漱太郎はアイダ婦人と共に彼女の店に向かった。
 幸いにも、事前に李博士(Shau Kee)氏から「マカニーズ料理の母」ともいえる女性がやっている食堂(アイダ婦人の店)を教えてもらった。
 そうして少し早い夕飯時に、漱太郎は静かな住宅地の中にあるその店、ドナ・アイダ(アイダ婦人)が経営するマカニーズ食堂「Riquexó(利多)」に着いた。正確にはその店を「利多餐廳/Riquexó」という。人力車の(リキシャ)という名前が付いた創業30年近くになる店である。所在は「澳門士多紐拜斯大馬路69号。TEL:+853-2856-5655」であるから、マカオに足を運ばれる際には是非お立ち寄りいただきたい。
 店に入ると、ご近所の住人らしき人々が早々と食事をしていた。メニューはない。おかずが並べられたカウンターで食べたいものを指差して注文する方式だ。よく冷えた白ワイン(ポルトガル産)がカウンター脇の冷蔵庫の中に並び、その近くの棚には赤ワイン(イタリア産)が並べられていた。どうして二つの産地ワインを白と赤に明らかに分かるように並べるのかと尋ねると、アイダ婦人は、それには何も答えずに微笑んで終えた。
 そこに短パン、サンダル姿の中国人男性が一人、店に入ってきて、冷蔵庫からポルトガルの白ワインの小瓶を取り出すと、カウンターでいくつかおかずを頼んで席に腰をおろした。ここでは、やはり晩酌の酒がワインなのである。
 カウンターのトレーに並んだおかずを拝見すると、鶏モモ肉のカレー煮込みのほか、マカニーズ料理の定番ともいえる豚のひき肉とポテトを炒めた免治、バリシャオとタマリンドで豚バラ肉を煮込んだ鹹蝦猪肉、ブラジル料理でもお馴染みの肉と豆の煮込みであるフェジョアーダがあった。こうした注釈もアイダ婦人からこっそり教わった。
 そして、テーブルには昔ながらの手作り菓子が並ぶ。今では家庭でほとんど作られなくなったという蟲仔餅や椰角のほか、ケーキやプリンがあった。
 アイダ夫人は御年72歳。マカオにわずかしかご存命でないというパトゥワ語世代のマカニーズである。そのご年齢とは思えないほど若々しく、今も現役で店を切り盛りしている。
 「以前はたくさんのポルトガル人が店に来たけれど、みんなマカオを去ってしまって、今では地元の中国人客が来るようになったわね。どこで料理を習ったかって? 子供の頃、母が作っているのを見ながら覚えたのよ。それを自分なりにアレンジしたの。我が家の歴史? あまりよく知らないわ」とさりげなくいう。
 アイダ夫人は若い頃、マカオの老舗カジノホテルのリスボアでシェフとして働いていた。当時はマカニーズ料理の知識を請われ、国内外でマカニーズ料理を教えていたが、きちんと覚えた人はいなかったと苦笑いする。ただ、彼女のレシピは子供たちや数箇所のレストランに受け継がれたという。こうして伝統の味とともに「歴史」が引き継がれて行くのだろう。漱太郎は免治と鹹蝦猪肉を注文し、一番端の席に着いた。ポルトガル、アフリカ、インド、マレーと旅を続け、マカオに根を下ろしたこの素朴な味は、パンよりは白いごはんによく合った。そして、どことなく懐かしい味がした。
 アイダ夫人は今も毎日、店に出る。マカニーズの家庭料理を中心にポルトガルの家庭料理や魚の蒸し物などの中華料理も出す。その中には(蟲仔餅/Genete)という毛虫のような形なので、この名が付いたマカオの名物菓子がある。これは片栗粉と卵黄、バターやラードを使い、口の中で溶けるように崩れる。マカニーズの社会では、クリスマスなど人が集まる祭事によく食べられたモノだとう。また「椰角(椰撻)/Coqueira」という砕いたココナッツの実をふんだんに使った焼き菓子もある。これは、かつてポルトガル領だったインドのゴアにも似た菓子があるという。
そんなアイダ婦人はポルトガル人の軍人だったご主人との間に一男二女をもうけた。娘は一人、ポルトガルに嫁に行き、もう一人の娘が店を手伝う。息子さんは今、上海でマカオ料理店を経営している。
 漱太郎が生前に親しくさせていた先人に、あのアップルを創業したスティーヴ・ジョブスがいた。そのジョブスが「日本において、1582年に始まる遣欧少年使節の出現は突然であり、かの偉業は深く調べるに値する」という言葉は大いなる励みであった。その言葉通り、この日本における史実とは神秘でもあるが、後世において貴重なのである。今は密やかなストーリーとしか伝わらないかもしれないが、伊東マンショと交流した人々の歴史と重なり合うと、さらにその影響の偉大さは莫大なものであるのだ。
 彼ら少年使節の動向は、もし戦国の世の混乱期でなかったなら、明治維新にも匹敵するほどの革命的な要素を孕まさせていた。マカオにて所有されている「キリシタンの壷」は、一人の剣豪の余世の有り様を形成したにすぎないのかもしれないが、伊東マンショの示した愛は、その剣豪を闘争から遠く引き離し、雨読晴耕の天の下に暮らす人間の至福の有り様に導いている。その意味を忌みて人生の本質を問わねばならない我ら日本人は先人の導きに感謝すべきではないか。日本人という人間は、歴史上の人間の支えによって「人間」たり得てることが多い。こと伊東マンショとは、そのような人物であった。このような事は、史上まれなことではなかったが、伊東マンショと丸目蔵人守という二人の友情を共に哀しむことは、まことの「絆」が求められている現代、漱太郎としては日本人の魂を入れ直す冒頭の写真に託したい。それは日本人として最初の「愛」という言葉の絆で結ばれる二人が現存したからである。このことを漱太郎は遠くマカオにて教えられた。
 ドナ・アイダ(Donna Ida)婦人は中世において日本を離れ未だに日本を第一の故郷とするキリシタンの末裔である。そんな異国の地にあって日本人キリシタンの血縁は伊東マンショの偉業を日本人より強く尊んでいる。その梅の香はもう球磨地方に漂っているのであろう。「切原野」の梅はまことに白く可憐だと思う。いつまでもその白さとは密やかであって欲しい。伊東マンショの生涯を祈る梅は、山のあなたの空遠くにある。それはまた愛の墓標でもあった。
                                            三馬 漱太郎

聖マンショ伝「帰らざる丘」・No.0016

響け震災の地。鎮魂のバイオリン。このバイオリンは十年後に「マンショ」と命名されて東日本を巡回する。
 東日本大震災は全世界の人々に記憶された。
 それは日本における観測史上最大の規模(マグニチュード (Mw) 9.0)を記録しこともあるが、この震災による死者・行方不明者は約2万人以上であったこと、さらには被害を受けた東京電力福島第一原子力発電所が、全電源を喪失して原子炉を冷却できなくなり、大量の放射性物質の漏洩を伴う重大な原子力事故に発展したことの未曾有さを物語る。また同時にこの一年間で震災関連死(震災のショックと避難生活の疲労による死亡)とされる人々が1365人に達っしたことも記憶の奥底に強く鮮明に刻まれる要因となった。

東日本大震災2 東日本大震災の爪痕

 ようやく一年目が訪れる。一周忌でもある。その3月11日に流れる鎮魂の音色について綴りたいと思う。全世界で記憶されたから、全世界で鎮魂の音色が流れるといい。本コラムNo.0016では、日本から発信されるその旋律の背景を語ることにする。
 三者はそれぞれが「よみがえり」ということを考えていた。そこに三馬漱太郎の立体言語学の手法が加わることで万事「四者語入・ししゃごにゅう」と相成るのかどうかという試みが本年スタートする。
 2月末にその入魂式をやった。魂はViolin(バイオリン)の中に入れた。少々ロングランの試みであるが、成就は十年後ぐらいを一応のメドと踏んでいる。成就すると幸いである。

バイオリン 
 
 その十年後の心トキメク再会を、今から待ち遠しく思う。三者とは「中澤宗幸(なかざわ むねゆき)」、「ルカ・コルデーロ・ディ・モンテゼーモロ(Luca Cordero Lanza marchese di Montezemolo)」、「勝本華蓮(かつもと かれん)」であり、この異色配剤のコラボレーションだからこそ織り成せる鎮魂の旋律の魅力を、十年後に噛み締めてみたい。
 東日本大震災で津波に流された松の木(被災松)が、楽器職人の手でバイオリンに生まれ変わり、震災から1年の3月11日の追悼式で初披露される。その後は世界中の演奏者千人に弾き継いでもらう構想である。未曾有の大震災であるがために、未曾有の追悼の手法がこの一年模索されてきた。
バイオリン2

 深い悲しみという起点に、鎮魂という終点を創りたい、と三者の考えていた「よみがること」への願いは、このバイオリン・ドクターによる「鎮魂のバイオリン」に託され、地球上のあらゆるところで紡ぎ継がれて、きっとその追悼の連鎖は世界共通の言語となるであろう。そう期待したい。
 中澤宗幸(なかざわ むねゆき)現71歳。
 1940年、兵庫県の木材店に生まれる。血液型による人物分析が好きで、自身はB型である。明治生まれの父親からヴァイオリンの手ほどきを受け、後の弦楽器製作の夢を見出す。ヨーロッパに渡り、弦楽器製作、特に名器の修復・鑑定技術を学ぶ。1980年、東京と長野にアトリエを構え、世界中の学校や博物館などからの依頼を中心とした名器の修復を手がける。葉加瀬太郎氏をはじめ国内外のアーテイストのヴァイオリン・ドクターとして演奏を支ええている。また若い演奏家を支援し育成に情熱を捧げている。NAGANO国際音楽祭もその活動の一環である。2004年カンヌ国際芸術祭(日仏現代芸術祭)弦楽器の部コートダジュール国際芸術賞受賞。弦楽器に関する翻訳本と著書多数、テレビ番組になるなど、メディアからも多くの取材を受けている。

中澤宗幸 中澤宗幸

 そんな中澤が昨年の秋に被災地を訪ねた。
 岩手県陸前高田市である。その高田松原で7万本が1本を残して津波に流された惨状を見て、中澤は胸を痛めたという。こうして中澤はその流木を楽器に加工することを思い立つ。

被災松 被災松

 これまでにバイオリン約200台の制作を手がけた中澤は、ストラディバリウスなどの世界中の名器を修理してきた。「松の木はまちの歴史を知っている。形を変えて人を元気づけ、鎮魂してくれる」と中澤は語る。
 そんな中澤の著書に「ストラディバリウスの真実と嘘」があるのでご紹介したい。内容としては、ヴァイオリン製作者ストラディヴァリウスの創ったヴァイオリンはなぜ素晴らしいのでしょうか? 製作から300年という年を経ても益々価値を高め、1挺数億円で取引される名器ストラディヴァリウスの知らざれるエピソードをまじえ、ストラディヴァリウスの修理・修復および真偽鑑定で世界的に活躍する中澤だからこそ知る神秘的なこの楽器の真実が語られている。
ストラディバリウスの真実と嘘 ストラディバリウスの真実と嘘
 ストラディヴァリウスは「雑音」やうねりが多く、名演奏家でもそう簡単にはいい音が出せない、難しい楽器だという。また演奏家の音を吸収する不思議な力があるそうだ(クライスラーの楽器をフランチェスカッティが弾いても、クライスラーが弾いているように聞こえる!)。またニスや使う木材、修復の技法など、修復家ならではの話も実に興味深い。
 著書の後半は、自身の修業や演奏家との交流について筆を割く。またヴァイオリン売買の失敗譚や、裁判所の依頼で贋作鑑定したら30年近く前に自分が作った楽器だったなどの話も面白い。しかもストラディヴァリウスによる演奏が聴けるCD付き。聴きながら読めば、いっそう楽しめる。

 鎮魂のバイオリンを語るためには、さらにもう一冊、別人の著書をご紹介したい。それが「尼さんはつらいよ」である。
 著者は、灯明ゆらめくお堂で経を読む、清らかで優雅な尼さんなんて今や「絶滅危惧種」ですよ、と世間が抱く「美しい誤解」に危機感を抱く。そんな危機感は「ほとんどの尼寺は経済的な支えとなる檀家(だんか)を持たず、後継者難も深刻で、男性の僧が跡を継ぐ例も多い」という現実が根底にある。

尼さんはつらいよ 尼さんはつらいよ

 勝本華蓮(かつもと かれん)現57歳。
 1955年大阪府生まれ。1991年、天台宗青蓮院門跡にて得度(現在も所属)。京都大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。専攻はインド仏教学・パーリ学。花園大学非常勤講師、叡山学院専任講師、ケラニヤ大学パーリ学仏教学大学院客員研究員等を経て、現在、東方学院講師・叡山学院講師。
 著書に『座標軸としての仏教学』、『現代と仏教』(ともに佼成出版社)、『チャリヤーピタカ註釈』(国際佛教徒協会)等のほか、翻訳書『原始仏典』第6巻・第7巻(共訳、春秋社)があり、研究論文を多数執筆。最近は雑誌『サンガジャパン』第4号での対談やNHK教育テレビ「こころの時代」に出演など活動を広げる。
勝本華蓮2 勝本華蓮

 この勝本華蓮が異色であることは、かってバブル期の1980年代に、広告デザイナー・プランナーとして忙しく働いていたという体験にある。広告界は常に産業・経済の渦中にあって機能するため生々しく、尼家業とは対局であることから、勝本は生々しさの反動から、次第に生死や輪廻(りんね)に関心が向く。そこに祖母の死や仏教者との出逢いも重なり、立ち上げた広告会社をたたんで比叡山へ。そうして36歳の時に天台宗で得度(とくど)した。
 後まもなく関西の由緒ある尼寺に入る。ところが、お経を唱えるなど仏教者らしい時間は一日に10分ほど。あとの大半は家事や先輩尼の雑談のおつきあい。このときのことを勝本は「お釈迦様は自由を説いたのに、私は心身ともにがんじがらめ」だと語る。そうだから、半年で去り、勝本いわく「尼寺から出家しちゃいました」という。こうして、さらに高みにある学僧の道を歩くことにした。大学院に入ると、南アジアに伝わるパーリ仏教所で博士号を取る。今は大阪のマンション暮らし。日々論文を書き、仏教学者の中村元氏が創設した私塾などで教壇に立つ。 こんな経験や尼さんの境遇を書いた「尼さんはつらいよ」への勝本の願いは「志のある尼僧が失望しないですむ環境をつくりたい」にある。勝本は「尼僧を好奇の対象にせず、幻想も色眼鏡もない、ありのままを知ってほしい」ともいう。
 以上の経歴を持つ勝本華蓮が本年3月11日に中澤宗幸の制作したバイオリンを披露する前座でお経を読むのである。つまり勝本もまた中澤と同様に大震災での人々の深い悲しみに心を痛めていた。つまり3月11日には「尼さんはつらいよ」と等身大の尼の声で「被災者はつらいよ」とお経を通じて語り掛ける。その手には被災松で造られた数珠が握られる。

被災松3 被災松の数珠

 こうした鎮魂の起点を、ロングランの終点を目指そうとした計画した人物が背景にいた。それがルカ・コルデーロ・ディ・モンテゼーモロである。
 そのルカ・コルデーロ・ディ・モンテゼーモロであるが、イタリアの実業家であり、現在はイタリアの自動車メーカーフェラーリの会長を務めている。
 Luca Cordero Lanza marchese di Montezemoloである「Montezemolo」1947年8月31日生まれは、現66歳。
 日本のマスメディアでは「モンテゼモロ」、「モンテゼモーロ」などとも表記されることが多い。しかし本来のイタリア語発音に準じ日本語表記した場合は「モンテツェーモロ」が一番近い。そんな意味合いから、氏をご紹介するときは、日本の場合に限るが、モンテツェーモロさんと発音すると微笑んでいただけるから、漱太郎も嬉しいのである。

ルカ・コルデーロ・ディ・モンテゼーモロルカ・コルデーロ・ディ・モンテゼーモロ 

 会食の場では短縮させていただき気軽に「モロさん」と呼ぶ。例のイタリアのチンザノで乾杯するときは特に親しげにそう呼ばせていただいている。どうしてそうなのかは、そんな彼には「伊東マンショ」との関わりが深いのであるから・・・・。
 そのモロ(molo)は、ボローニャ近郊(イタリア、エミリア=ロマーニャ州の都市)の侯爵家の娘の息子として生まれる。当時母親は未婚であり彼は私生児であった。その為もあり、その後上司となるフィアットのジャンニ・アニェッリ会長の「息子」との噂が立つこととなる。ローマ・ラ・サピエンツァ大学在学中にラリードライバーとして頭角を現すものの、家族の反対もありプロドライバーにはならずに終わった。この人物もまさに異色なのである。
ボローニャ2 ボローニャ

 そうしてローマ大学卒業後に弁護士を目指しアメリカのコロンビア大学に留学した後、1973年にエンツォ・フェラーリの招きで当時成績不振に陥っていたF1のスクーデリア・フェラーリのマネージャーとして加わり、その後1975年にニキ・ラウダがドライバーズチャンピオンを獲得するなど見事にチームを立て直す。1977年まで同職を務めた後、フェラーリの親会社であるフィアットの役員に就任した。またその後、ジャンニ・アニェッリ率いるフィアット社の役員職と、フィアット傘下の出版社や、ベルモット酒「チンザノ」の社長を兼務した。さらに1990年に行われたFIFAワールドカップ・イタリア大会の大会事務局長に就任すると、大会を見事に成功させる。
 1991年にはエンツォ・フェラーリ亡き後のフェラーリに社長兼マネージングディレクターとして再度入社。当時F1チームの慢性的な成績不振を抱えていた上、市販車の品質にも大きな問題を抱えていたフェラーリの建て直しに着手した。あるいはスクーデリア・フェラーリにジャン・トッドをチーム監督に招聘したのを始め、その他の必要な人材を確保。その結果スクーデリア・フェラーリは1999年から2004年まで6年連続してコンストラクターズ・タイトル・チャンピオンに、ミハエル・シューマッハが2000年から2004年の5年連続でドライバーズ・チャンピオンを獲得した。
 また、フェラーリ社の市販車の品質も大きく改善させ、その品質で高い評価を得た355や456を開発し市場投入させた。また同じくフィアット傘下で高級スポーツカーメーカーとして有名なマセラティをフェラーリ傘下に収め、フェラーリとともに品質改善を行い、売り上げを急増させた。そうして2004年6月1日に、フィアット会長のウンベルト・アニエッリの死去に伴いフィアット会長に就任する。

フェラーリ フェラーリ

 それではモロ氏と伊東マンショとの関わりを述べるには大切な要素でもあるから、イタリアの自動車メーカー「フィアット Fiat」について記すことにする。
 フィアット(Fiat)は、イタリア・トリノを拠点とする同国最大の企業グループである。社名のフィアットとはFabbrica Italiana Automobili Torino の略で、「トリノのイタリア自動車製造所」を意味する。
 トリノ市のリンゴット地区に本拠を置くことから、フィアット本社工場と「リンゴット」はしばしば同義とされている。当社は「フィアット、陸に、海に、空に」のスローガンの元、自動車のみならず、鉄道車両や船舶、航空機の製造などの産業分野全般を掌握し、出版、金融等にも進出している。かつては「フランスはルノーを持っているが、フィアットはイタリアを持っている」とまで評された。
 そのように、かつてのフィアットは航空機メーカーとしても名を馳せていた。特に軍用機の発注が数多くあった。
 第一次世界大戦後、フィアットはポミリオやアンサルドといった小規模な航空機メーカーを吸収し、1930年代にはフィアット CR.32やフィアット CR.42といった有名な複葉戦闘機を世に送り出した。第二次世界大戦では、ダイムラー・ベンツ製のエンジンを搭載した戦闘機フィアット G.55、優れたデザインの爆撃機フィアット BR.20などをイタリア空軍に提供した。さらに、イタリア軍向けにフィアット レベリM1935重機関銃など機関銃を製造していた古老の企業なのである。
 1938年(昭和13年)には大日本帝国陸軍がイ式重爆撃機を輸入して使用していた。第二次世界大戦前より自動車の輸入が行われていたが、戦後幾つかの変遷を経て1980年代に入ると、ジヤクス・カーセールス、チェッカーモータース、サミットモータース(住友商事)の大手3社によって全国展開されている。
 そんなフィアット(Fiat)の経営陣が「伊東マンショ」と「中澤宗幸のバイオリン」や「異色の尼僧」で創造する世界規模のバイオリン・ミサとの接点に関心を示してくれた。奇縁とはまことに不思議なものである。こうした経緯もモロ氏の尽力が大いにあった。
 1990年4月、フィアットグループオートモービルズは日本法人「アルファロメオジャパン株式会社」を設立することになる。アルファロメオ車を販売するディーラー網「アレーゼ」の整備を始めるのだ。同年11月にはアレーゼにおいて「フィアット」ブランド車の取り扱いも開始し、社名を「フィアットアンドアルファロメオモータスジャパン」へと改称した。
 さらに1997年の「フィアットオートジャパン株式会社」への改称を経て、2007年8月より現在の社名「フィアットグループオートモービルズジャパン株式会社」を使用して、フィアット・ブランド及びアルファロメオ・ブランド車の輸入・販売を行っている。ディーラー網の名称は、2003年からアレーゼに代えて「アルファロメオ」へと変更されているが上記2ブランドの併売は従前同様である。ランチアの正規輸入は現在行われていないが、ガレージ伊太利屋が並行輸入し販売を行っている。
 このような販売戦略の企画上にあって日本人「伊東マンショ」の名と地位は「アルファロメオ」の中に人知れず支えられて生き続けている。フィアット(Fiat)の経営精神の中に伊東マンショの心根が育まれ続けられているからだ。このように伊東マンショ像といものは、日本では希薄でもイタリアでは明確な偉人としての好印象がある。
 日本の道路を走るアルファオメロの勇姿をみるたびに、三馬漱太郎はイタリア人が伊東マンショという日本人を忘れていない記憶であることの誇りを思うのである。

ルカ・コルデーロ・ディ・モンテゼーモロ2 ルカ・コルデーロ・ディ・モンテゼーモロ

 昨年秋、久しぶりにボストンのホテルラウンジでフィアットのルカ・コルデーロ・ディ・モンテゼーモロ会長と会食する機会に恵まれたが、氏こそが伊東マンショの功績を支えてくださるイタリア紳士なのである。しかし紳士だからという理由だけではない。その顕影の精神の背景には亡き母への追慕の念があつた。すでに先で述べたが、モロ氏はボローニャ近郊の侯爵家の娘の息子として生まれた。その侯爵家に伊東マンショとの縁が連なるのである。
 ボローニャといえばイタリア、エミリア=ロマーニャ州の都市。ルネサンス期、ジョヴァンニ2世の治世が1506年で終わると、ローマ教皇ユリウス2世軍はボローニャを包囲し、自分の宮殿用にと芸術作品を略奪した。この頃から、ボローニャは教皇領の一部になり、枢機卿に支配され、毎回2ヶ月間選出されるゴンファロニエーレ(gonfaloniere、裁判官)が議員となり、8人の長老コンスルがそれを補助した。1530年、サン・ペトロニオ大聖堂正面で、神聖ローマ皇帝カール5世が教皇クレメンス7世によって戴冠した。この戴冠の席にモロ氏の母の血統が名を連ねていた。

ボローニャ ボローニャの位置

 しかし16世紀終わり(つまり1500年代の後半)にペスト流行があり人口を7万2000人から5万9000人へ減らした。だが教皇領時代の支配は多くの教会やその他の宗教施設が建設され、古いものが修繕された。ボローニャには96箇所の修道院があり、これはどのイタリア他都市よりも多かった。この時代にボローニャで活躍した芸術家らは、アンニーバレ・カラッチ、ドメニキーノ、グエルチーノといったヨーロッパに高名をとどろかせた者らを含むボローニャ派を形成したのである。
 そんな中で、ボローニャ大学は1088年創立で、ヨーロッパ最古の大学であり、中世を通じヨーロッパの英知の中心地であり続け、キリスト教国から学者を惹きつけてきた。ストゥディウムは、どの講師も個々の学生から手当を集めて教育する制度をゆるやかに組織したもので、元々この大学から知られるようになった。初期の大学のストゥディウムの状況は市の至る所に広まって、多様なカレッジが特殊な国籍の学生を支援するため創設された。このような成り立ちから遣欧少年使節もボローニャ大学を視察した。
 その当時、モンテゼーモロ(モンテツェーモロ)家が大学の運営に携わつていた。そのモロ家の口伝によると、伊東マンショはペストで亡くなられた遺族のために砂金の詰まった木箱を大学に託したという。そうした背景にはイエズス会の意向が働いているのだが、その善意はイタリア全土に伊東マンショらの名を知らしめることになった。
 そうしてマンショから直に受け渡しを整えたのがモロ氏の母親の祖先カマール・モンテゼーモロだと伝えられている。折しも、そのペストでモンテゼーモロ家に連なる親族86名が亡くなっている矢先のことでもあり、善意の人の印象は時を超えても、モロ家の面々が伊東マンショへの恩恵を今に温めているように、伊東マンショの志は常に現在である。
 そういう歴史的な経緯もあり、氏は日本人以上に博愛の方であり、ルカ・コルデーロ・ディ・モンテゼーモロ会長ほど日本史の裏面に精通されているイタリア人はいないとさえ思える。

 さて本コラムで述べようとする「鎮魂のバイオリン」についての話に戻ることにしたい。
 現段階において中澤宗幸、勝本華蓮、ルカ・コルデーロ・ディ・モンテゼーモロの三者に面識は皆無である。接点があるとしたら、彼らが今日に求め続けている「蘇らせたいモノ」への分母だけであったろう。中澤は東北の被災者の鎮魂のために制作したバイオリンを通じて希望を与えたいと考えた。勝元は人間としての尼僧の声を通して弔いと被災地に灯明を照らしたいと考えた。モロは恩人である日本人(伊東マンショ)との縁を通じて日本人の力添えになることを考えていた。このように三者には、三者三様の蘇らせたいモノがあった。
 世界的な人脈に明るいモロ氏は世界の音楽関係者らに「勝本が灯明をてらす被災地で、中澤のバイオリンからはきっと希望が蘇る。しかし重要なことは、震災を風化させないようにしたい。そうして日本人・伊東マンショの精神を世界に派生させたい。10年以上かかるかもしれないが、弾く人も聴く人も、世界中がその琴線に触れることになる」と願い、世界のバイオリン演奏者千人に弾いてもらう計画を提案した。
 この計画の終点はすでに決められている。その地はボローニャである。モンテツェーモロ家の故郷である。漱太郎はその終点地までのロングランから目が離せない。千人の演者が弾き続けることで、世界の絆を結び、ぜひ震災を風化させないようにしたいものである。
 帰り際にモロさんは微笑みながら「3月11日に弾かれるバイオリンは、10年後にボローニャにて『マンショ』と命名されるであろう」と言った。きっとそれは成就されるのであろう。

                                           三馬 漱太郎
鎮魂 被災地への鎮魂

聖マンショ伝「帰らざる丘」・No.0015

今宵は、松本幸四郎に「ラ・マンチョのマンショ」を演じさせたい気分である。
 ボストンより帰国してみると「ボイスケアのど飴」が詰まる1グロスの段箱が届いていた。これは漱太郎が仕上がりを楽しみにしていた新商品である。さっそく口に放り込んでみた。なるほど、ほどよいメントール感のある味わいに仕上げられている。この深い味わいは、のど飴を追求する「カンロ」と国立音大の声楽科とが共同開発した商品。
ボイスケアのど飴 ボイスケアのど飴

 ボイスケアも立体言語学の一領域であるために7つのハーブを使用して滑らかで爽やかな咽喉空間になるよう調合されている。今宵はこの飴をなめボイスケアをしつつ「帰らざる丘」にひそまる伊東マンショの旅の行方を考えてみたい。さて・・・・・・・、

 人間の言葉とは新しく進化する。その言葉からは時代の生々しい観念がみえてくる。そこでスペインの中世を論じる場合に考察してみたい造語を一つご紹介したい。それは「リブロ・エスコルソ」という表現である。

ホセ・オルテガ・イ・ガセト ホセ・オルテガ・イ・ガセト

 ホセ・オルテガ・イ・ガセト(José Ortega y Gasset)というスペインの哲学者がいた。彼は1883年5月9日にマドリードに生まれる。そうして1955年10月18日までを生きた。このオルテガが、こう書いている。「ドン・キホーテは観念の密林だ、リブロ・エスコルソだ」と。そのリブロ・エスコルソという言葉は「書物がもつ遠近法世界」といったことをいう。書かれた当時、そんな言葉はなかったのであるから、おそらくはオルテガの造語だろう。オルテガはこの造語を用いて『ドン・キホーテ』は書物のなかに観念の密林をすべて入れこんだだけでなく、その見方のパースペクティヴを「世界」としてつくったというのだ。コラムNo.0015では、このオルテガのいうリブロ・エスコルソの遠近空間を通してNo.0014の続編としての伊東マンショの旅をたどり寄せてみることにする。
ドン・キホーテ3

 オルテガはスペインを「世界」にしたのは『ドン・キホーテ』だったという。しかし、こういう見方はいくつもあった。91歳で亡くなった現代スペインを代表する詩人ダマソ・アロンソも、「スペインのすべてが『ドン・キホーテ』にこめられている」と書いた。であるから、その世界である「スペインの密林」に足を運ばねばならなくなった。それらは、かの江戸川乱歩の屋根裏からのぞきみる夜の散歩者の気分でもある。
 スペインの密林をそっと歩き始めると色彩が見えてきた。漱太郎にとってスペイン・バロックは憧憬と謎と暗合に満ちている。そうして今宵はかたやドン・キホーテの「ミゲル・デ・セルバンテス」がいて、かたやスペイン文化のマニエリスムを代表する詩人「ルイス・デ・ゴンゴラ」が机の上の左右にいた。

ルイス・デ・ゴンゴラ ルイス・デ・ゴンゴラ

 ゴンゴラは1561年の生まれ、二人は15歳くらいしか離れていない。そこにセルバンテスの5歳年上のマニエリスムの巨匠として知られる画家「エル・グレコ」がクレタ島から渡ってきて入りこみ、最後にセビリヤに、かのマネが「画家の中の画家」と呼んだ「ディエゴ・ベラスケス」が宮廷をほしいままのようにして登場する。
エル・グレコ2 エル・グレコ
ディエゴ・ベラスケス ディエゴ・ベラスケス

 この4人に机上が占有されてみると、これはいったい何なんだというほどのスペイン・バロックの甘美で苛烈な開闢である。この一連の動向こそが、その後の近世ヨーロッパの秘密の大半を握る物語芸術の原点だった。
 なかでもセルバンテスの役割はとびぬけていた。『ドン・キホーテ』という大部の書物はスペインという民族の記憶の国家にさえなった。
 こうなるとドン・キホーテの世紀と呼んでいい。その世紀とは、『ドン・キホーテ』の前篇が刊行された1605年をはさむ数十年にわたる年代のことをさす。帝国スペインの太陽が昇り、世界を照らし、そしてその太陽が秋の落日のごとく沈んでいった時代なのである。つまりこの渦中で伊東マンショも生きたことになる。そうしてその渦中こそがオルテガのいうリブロ・エスコルソの遠近空間に広がる密林なのであった。

 カルロス1世に始まりフェリペ2世に継がれたハプスブルク朝スペイン帝国は、地中界世界を制して絶頂期を迎えると、南米にも次々に植民地を広げ(これがインカ帝国滅亡につながる)、1571年にはオスマントルコ軍をレパントの海戦で破って「太陽が沈まない国」と言われるまでに膨れあがった(フェリーペ2世はポルトガルも併合した)。
 24歳のセルバンテスにとっても、レパントの海戦は兵士として参加できた生涯の最も忘れえぬ一戦となっている。キリスト教カトリックの大義を守るために命を賭して闘ったということは、セルバンテス最大の誇りなのである。しかもこのとき戦火に左腕を失って「レパントの片手男」という異名をとったことも、セルバンテスの大いなる自慢となった。
けれども栄光もそこまでだった。それから僅か17年後、スペインの無敵艦隊はエリザベス1世のイギリス艦隊に木っ端微塵に敗れてしまう。これをきっかけにスペイン帝国の凋落が始まった。
 以降、植民地も次々に失っていく。しかしそれを含んでなおこの時代は、セルバンテスとゴンゴラとエル・グレコとベラスケスの時代、すなわちドン・キホーテが旅した空想の世紀なのである。スペインが世界史上唯一の栄光と挫折を体験したことがドン・キホーテの世界をつくったとすれば、また伊東マンショも同じ空間を垣間見たことになる。このような意味でドン・キホーテと伊東マンショは一体なのである。
 スペインにおける『ドン・キホーテ』の意義は、こうなると日本人が想像をしていたよりもはるかに大きい日本人の意義となろう。スペイン語のインテリジェレは「中を見る」「内部を読む」という意味をもっているようだが、まさに『ドン・キホーテ』はスペインのインテリジェンスそのものなのである。同じく『伊東マンショ』は日本のインテリジェンスそのものなのであった。いや、必ずしも知性という意味だけではない。それもあるけれど、ありとあらゆる意味をこめた“最大級の情報戦略”という意味におけるインテリジェレになっているようだ。
 そもそも『ドン・キホーテ』は、物語のなかで物語を追慕するという構造を現出させている。作中人物ドン・キホーテは自分の過去の物語を書物にしながら進む騎士であり、その書物を抱えたドン・キホーテの体験を、セルバンテスが次々に新たな物語にして『ドン・キホーテ』という書物にしていった。そういう重層的追想構造になっている。ここにすでにバロックの萌芽が見られるのは言うまでもないけれど、そこにはさらに、民族が体験すべき国家的情報の記録がその情報の物語化を進めるという戦略的インテリジェンスを萌芽させていた。こうした戦略性の中に立たなければ伊東マンショの意義はみえてこない。
 だから『ドン・キホーテ』はふつう評されるような騎士道パロディの物語なのではない。パロディであったとしても、そこにはアナロギア・ミメーシス・パロディアの3原則のすべてを織りこんだパロディア・オペラというべきだし、しかも、そのようなアナロギア・ミメーシス・パロディアは、スペインという帝国の隆盛と衰退に対応し、そこで退場せざるをえなくなっていった「騎士の本来」の物語ともなりえていた。こういう文学はめったにない。
 たいへんな計画だったのだ。尋常ではない構想だったのだ。まさにスペインそのものをバロックにしてしまう、すぐれて知的な魔術であった。
 セルバンテスはどうしてそのようなスペインのインテリジェレをこめた『ドン・キホーテ』を書く気になったのか。このことに関してはNo.0014でその要因の一つが伊東マンショにあることに触れた。すでにセルバンテスが予想外ともいえるほどの歴史知識や宗教知識の持ち主だったことはわかっている。また、エラスムスの人文主義にも、ウェルギリウスからアリオストにおよぶ古代ローマこのかたの劇作や劇詩に通じていたことも証されている。
 しかし、そういうことだけでは、セルバンテスがどうして『ドン・キホーテ』を書く気になったかという説明はできない。インテリジェレとしての『ドン・キホーテ』が生まれた理由はわからない。それを理解するには、ひとまずはセルバンテスの波乱に富んだ生涯を追ったほうがいいだろう。なぜならセルバンテス自身がドン・キホーテそのものの二重化されたインテリジェレだったのだから・・・・。
 『ドン・キホーテ』を最初に読む場合、誰もが経験することなのだが、ともかく物語を追うことだけを使命にしたようなアサハカな読書で、いっこうに深まらないで終わる。また、これはなんだか数ページすら体に入ってこなかった(こういうこともよくある)。しかしその後にグスタフ・ルネ・ホッケの『文学としてのマニエリスム』でルイス・デ・ゴンゴラのバロック魔術、いわゆるゴンゴリスモに毒されてみると、さらにその後に幻惑のスペイン・バロックを形象しえた表象の歴史の秘密を知りたくて、バロック逍遥を悠然と楽しみたくなるのだが、ここに至ると、そこにいっこうに『ドン・キホーテ』が入ってこないのが無性に気になってくる。そうして、やっとひとこごちがつくのは、ギュスターヴ・ドレの稠密なエッチングが作り出した『ドン・キホーテ』を見てからのことではないか。おそらくは少しの真髄に触れるためには、長いトンネルとなる。ともかくも、こうしてドン・キホーテ体験がやっと始まるわけである。
 それでも『ドン・キホーテ』の密林を読むには著者セルバンテスの生涯が絶対に欠かせないことは、強調しておきたい。そのようなとき、岩波文庫に半世紀ぶりに新訳をもたらした『反ドン・キホーテ論』や、それをくだいた『ドン・キホーテの旅』などを参考になさるといい。新しい考察が試されている。
それではこれよりセルバンテスが『ドン・キホーテ』を書きあげるまでのことをざっと綴ってみたい。少し前コラムと重複するが、彼はまさに波瀾万丈の人生。しかし、これで彼がドン・キホーテになれたことが分かる。
ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラは、1547年にマドリード近郊の大学の町アルカラ・デ・エナーレスに生まれて、徳川家康やシェイクスピアと同じ1616年に死んでいる。ちなみに伊東マンショが長崎で病死したのは1612年である。
アルカラ・デ・エナーレス3 アルカラ・デ・エナーレス

 父親ロドリーゴはイタルゴ(下級貴族)で、外科医をやっていた。外科医といっても当時は傷の手当をしたり、刺絡や罨法(あんぽう)をほどこす程度のもの、まともな医師とはみなされてはいない。おまけに父親はひどく耳が悪く、一家はかなり苦しい生活を強いられた。そのためいつも借金をせざるをえなくなるのだが、打開のためにバリャドリードに引っ越したりするものの、父親は借金の手続きの悪さで投獄されてしまった。
 貧しい日々をへたのち、フェリーペ2世が首都をマドリードに移した1561年に、セルバンテス一家もマドリードに引っ越した。14歳のときである。そのころのマドリードは騎士道精神が熱狂的にもてはやされる町だった(これがのちの『ドン・キホーテ』の発端になる)。
 15歳になってセビリヤのイエズス会の学校に学んだ(セルバンテスはけっこう誠意のあるキリスト教徒)。セビリヤは詩人フェルナンド・デ・エレーラや劇作家ローベ・デ・エルダが人気を集めていて、セルバンテスはその目眩く劇詩の魅力にも引きずりこまれた(このあたりから自身の内なる作者性にめざめていったのだろう)。
 やがてマドリードに戻ったセルバンテスは、21歳のときに人文主義者ロペス・デ・オーヨスの私塾に入り、ここでエラスムスにどっぷり浸かった(このときのエラスムスへの傾倒はのちの教養の広がりとなる)。が、それもつかのま、セルバンテスはある男に重傷を負わせたかどで逮捕され、右腕の切断と10年間の流刑を言い渡されるという事件に巻きこまれた。
 ここから彼は片腕一本の半生を歩むことになる。
 なんとか這々の体で逃亡したらしいのだが、その逃亡の行き先がローマであったというところが、これまたのちのちのセルバンテスの文芸的素養の発揚にとって欠かせない体験になった。さる枢機卿の従僕になったのだが、その時期にウェルギリウス、ホラティウスからアリオスト、サンナザーロ、カスティリオーネなどを読み耽っていた。この読書はとびきりだ(実はセルバンテスは長らく諧謔だけの作家だと思われていたのだが、アメリコ・カストロが『セルバンテスの思想』を発表して以降は、セルバンテスがただならない知識人でもあったということになった)。
マドリード マドリード

 彼の脳裡ではローマの体験はさらに初期バロック的に旋回していく。1570年、イタリア駐在のスペイン軍に入隊すると、ローマ、ナポリ、ミラノ、フィレンツェに駐留し、ルネサンス最後の残香を胸いっぱいに吸いこみ、そこに高揚していたマニエリスム(方法主義)を嗅ぎつけた。
 そのときである、法王ピオ5世が地中海を挟んで対峙してきたオスマントルコ軍とのあいだに戦端をひらくことを決意した。法王は法王庁・スペイン・ヴェネツィアの連合艦隊(いわゆる「神聖同盟」連合軍)の司令官に、スペイン国王フェリーペ2世の異母弟であるド・フワン・デ・アウストゥリアを任命した。弱冠24歳のこの司令官は、23歳のセルバンテスにとっては恰好の憧憬の的となる(むろんドン・キホーテのキャラクターに反映された)。
 やがてトルコ軍がキプロスを占領し、戦乱の火ぶたが切って落とされた。こうして翌年、あのレパントの海戦となり、セルバンテスは左腕に名誉の負傷を受け、おそらくは義手の男となったのだ。が、さきほども述べておいたけれど、セルバンテスはそれが自慢なのである。そんな戦歴には褒賞も贈られた。
 25歳、青年の勢いはますます高揚していった。今度は名将ローペ・ムデ・フィゲローアの率いる歩兵部隊に所属すると、またまたトルコとの戦火の只中に突進する。ローペ将軍はレパントの海戦でまっさきにトルコ軍の旗艦に飛び込み、敵の司令官の首を刎ねた猛将だった。ドン・キホーテが真似ないわけがない。
 かくてスペイン艦隊の一員として各地を転戦したセルバンテスは、28歳になった1575年、ガレーラ船「太陽号」(エル・ソル)に乗りこみ、船団を組んでナポリから出港すると意気揚々の凱旋帰国の途についた。
 ところが運命というものは怪しいもの、この船団がフランス海岸の沖で海賊船に襲われてしまう。セルバンテスらはことごとく捕虜となり、あまつさえセルバンテスの軍鞄にはナポリ総督の推薦状が入っていたため、大物とみなされて巨額の身代金を留守家族に課せられた。
 この海賊の一団はすべて背教者たちである。それゆえ、捕虜たちはキリスト教徒として幽閉されるか、ガレーラ船の漕ぎ手として駆り出されるか、つまりは徹底して奴隷扱いされた。すでにアルジェの一画には、そうしたキリスト教徒が2万5千人も収容されていたという。片腕が義手だったセルバンテスは奴隷のほうにまわされた。
 こうして5年にわたる奴隷生活が強いられる。セルバンテスは果敢にも4度にわたる脱走を試みるのだけれど、ことごとく失敗する。
 ここまでが「ドン・キホーテの夢」そのものであったセルバンテスの栄光の前半生である。ここからは身代金を払わざるをえなかったこともあり、33歳以降のセルバンテス一家はかなり悲惨な日々をおくる。 そして今度は、ドン・キホーテの「負の認識」のほうが蓄積されていく。
 祖国スペインのほうは、こうしたセルバンテスの変転する境涯をよそに、さらに大帝国に向かっていた。フェリーペ2世がポルトガルを併合して、首都をリスボンに移していた。中庸になっていた男は焦った。
 セルバンテスはなんとか生活の糧を得るため、スペイン無敵艦隊の食糧を調達する徴発係にもぐりこむ。セビリヤ、コルドバ、ハエン、グラナダの各地を巡っては、小麦・大麦・オリーブを集める仕事に精を出してみた。途中、この当時の食糧徴発は教会や教会領の産物からの徴発が多いため、各地の教会とつねにいざこざがあり、セルバンテスも二度に渡って破門されるという憂き目を負った。
 そのさなかの1588年、スペイン無敵艦隊がイギリス艦隊に撃沈されたのだ。セルバンテス41歳の7月のことだった。絶頂などというものは、決して持続するものではなかったのだ。時代は大英帝国の時代になっていった。
 むろん軍隊での仕事はすっかりなくなった。もはやすべてのことを変更しなければならなかった。やむなくマドリードで俳優になったり、セビリヤで宿屋の雇われ主人などをした。そしてこの時期、ついに自分は劇作をめざす執筆で身をたてることをひそかに決意したようなのだ。ロマンセを書いたり、セビリヤの興行主と6本の戯曲を書く契約などをしたり、48歳のときになるが、サラゴサの詩作コンクールで入賞したりしている。セルバンテスは非実行者になったのだ。
 しかし非実行者になってみると、実行者の存在というものが実に恨めしい。そのような眼鏡でみると思い出された「伊東マンショ」という東洋の実行者がまことに夢のように恨めしくなった。そこで彼はいまさら実行者にはなれずとも虚構の執行者にはなれるという予感めくものを働かせるようになる。
 さて、ここから先は54歳ころに『ドン・キホーテ』前篇を執筆しつづけ、1605年の58歳のときにその前篇が出版され、さらに10年をへた68歳のときに後篇を出版し、その翌年に永眠するという後半生になるのだが、それは「セルバンテスがドン・キホーテになる」という一事にすべて集約されていることなので、あえて事跡を追うこともないだろう。ずっと苦しい生活が続いていたと思ってもらえばいい。
 かくして、今夜の渉猟はいよいよセルバンテスにとっての『ドン・キホーテ』がどういうもので、それがスペインにとっての、そして日本人のわれわれにとっての何であったのかという、その話になってくる。
 かつてドストエフスキーは『ドン・キホーテ』のことを、「これまで天才が創造した書物のなかで最も偉大で、最も憂鬱な書物だ」とも、「これまで人間が発した最高にして最後の言葉である」とも評した。
 べつだんドストエフスキーに従う必要はないけれど、この指摘はかなりイミシンである。つまり、かって放浪の苦悩のなかの街角でみた伊東マンショの堂々たる姿は、まして少年でもあり憂鬱なのである。「偉大で、憂鬱」「最高にして、最後」とは、そこに正と負にまたがる告示があるということだ。
 そこには少なくとも別々の価値をもつ物語が二つ以上あるということだ。一つの世界しかあらわさなかったルネサンスを脱却したのがバロックであった。ルネサンスが円の一つの中心をめざしたのに対して、バロックは楕円の二つの焦点のように、複数の中心をもちかかえることを選んだ。ドストエフスキーが『ドン・キホーテ』に正と負の両方の価値を見だしたのは、そこだったろう。ドストエフスキーにとって『ドン・キホーテ』はすでにあまりにも激越な二つの対比構造を告げていたのであろうと、漱太郎は思っている。

アンドレ・マルロー アンドレ・マルロー

 アンドレ・マルローには、心が狭くなったり苦しくなったりするときに読む本が3冊あったらしい。それが『ドン・キホーテ』と『ロビンソン・クルーソー』と『白痴』だった。これもすこぶるイミシンだ。マルローは伊達や酔狂でものごとの価値を口にはしない男だ。そのマルローが伊達や酔狂の文学とも思われてきた『ドン・キホーテ』を、『白痴』と並べたのだ。そこにダニエル・デフォーも入ってくる。これについては『モル・フランダーズ』を読んでもらえばわかるだろう。
 ハインリッヒ・ハイネは生涯にわたっておそらく数度、ウィリアム・フォークナーは毎年必ず『ドン・キホーテ』を読んだという。これもやはりイミシンだ。ハイネの民族の血液と革命の旗印の問題、フォークナーの滾る憎悪と逆上を想像すれば、そのイミシンの意味が伝わってくる。
 日本人でここまで『ドン・キホーテ』に熱意(ZEST)をこめた作家はいないようだけれど、かように『ドン・キホーテ』は世界中の大物たちをゆさぶってきた。
 それくらい、『ドン・キホーテ』は巨怪なのである。しかし、過不足ないところをいえば、ミラン・クンデラの見方が最も妥当なのではないかと思われる。今回は、そのことにも注目してみたい。クンデラは『小説の精神』の「不評を買ったセルバンテスの遺産」というエッセイで、次のようなことを書いている。それを簡素に要約しておく。
  フッサールとハイデガーによって、世界に何かが欠如したままになっていることがあきらかになった。それは「存在の忘却」という問題である。これは「認識の熱情」の現代的高揚とともに、それとは裏腹に喪失しつつあるものだった。「認識の情熱」なら、デカルトこのかたいくたびも視点と方途を変えて盛り上げてきた。けれども「存在の忘却」はデカルト的なるものではまったく掬えるものとはなってこなかった。
 これを掬ったのは、おそらくセルバンテスの『ドン・キホーテ』なのである。世界を両義的にものとして捉え、絶対的な一つの真理のかわりに、互いにあい矛盾するかもしれない二つ以上の相対的な真理を掲げ、そこに刃向かうすべての主義主張と幻影に対決していくということを教えたのは、唯一、セルバンテスの『ドン・キホーテ』だったのである と。
 こうしてクンデラは、「私が固執したいことはただひとつ、セルバンテスの不評を買った遺産以外のなにものでもない」と結んだ。『小説の技法』には、さらにこんな一節がある。
  かつて宇宙とその価値の秩序を支配し、善と悪を区別し、個々のものとに意味を付与していた神がその席を立ち、ゆっくりと姿を消していったとき、馬にまたがったドン・キホーテが、もはやはっきりと認識かることができない世界に向かって乗り出した。「至高の審判官」がいなくなったいま、世界はその恐るべき曖昧性(多義性)をあらわにしたのである。こうして、唯一の神の「真理」が解体され、人間によって分担される無数の相対的真理が近代に向かって散らかされたのである。そしてそれとともに、その世界のイメージであってモデルであるような小説が生まれたのである と。
 クンデラが『ドン・キホーテ』を、一つの真理をめざしたルネサンスを脱したバロック的な意味におる小説の誕生とみなしていることはあきらかだ。その小説の精神とは「複合性」である。クンデラは、その方法にしか「存在の忘却」を描く方法はないのではないかということを、デカルトに対するライプニッツの、またルネサンスに対するヴィーコのバロック精神として継承したいと書いたのだ。
 さて、以上のことを前提として『ドン・キホーテ』を見ると、この物語に650人の人物が登場し(これはトルストイの『戦争と平和』の550人を上回る)、35件にのぼる前後の脈絡をこえたエピソードが乱舞しているなか、ドン・キホーテとサンチョ・パンザが入れ替わり立ち代わりして「説明」をしつづけているこの前代未聞の物語が、実は時代錯誤の主人公の物語ではなく、ましてセルバンテスの悲嘆から来た妄想の物語でもなく、むろんたんなる騎士道精神の謳歌のパロディでもないことが、忽然としてあきらかになってくる。
 よくよく物語の発端とその後の展開を見てみれば、書物が書物を書き替えつづけている「リブロ・エスコルソの書物がもつ遠近法世界」の最初の方法の提示からくるものだったということに気がつくはずなのだ。 では、もう少し手短かに漱太郎の立体言語学で種明しをしてしまうことにする。
 実は『ドン・キホーテ』の主人公はドン・キホーテではない。ラマンチャの片田舎に住む50がらみのアロンソ・キハーノという郷士が主人公なのである。
アロンソ・キハーノ アロンソ・キハーノ

 そのキハーノが昔の騎士道物語をふんだん読みすぎた。読みすぎてどうなったかというと、それらの書物に書いてあることのすべてが真実や真理であって(つまり一つの真理で!)、それはすべてキハーノが生きている現在のスペイン(つまり16世紀末から17世紀にかけてのスペインの社会)にことごとく蘇るべきものであると確信してしまうのだ。これはキハーノの妄想である。狂気である。
 けれどもこれが妄想であって狂気であることを示すために、セルバンテスはキハーノをキハーノに終わらせないようにした。そこで、郷士キハーノは鎧兜に身をかため、遍歴の騎士ドン・キホーテと名のり、隣村の農民サンチョ・パンザを従士にして、痩馬ロシナンテにまたがって旅をすることにさせた。
 このキハーノがキホーテになるところが、セルバンテスのインテリジェレなのだ。ここにバロックの「ずれ」を誕生させた。
 このことは、前篇の表題が『機知に富んだ郷土ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』で、後篇が『機知に富んだ騎士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』になっているところにも如実にあらわれている。「郷士」が「騎士」に変わっていったのだ。ということは、ドン・キホーテとは、キハーノの頭のなかにつめこまれた“物語の言葉”をもって、それを現実のスペイン社会にぶつけていく作中の語り部としての第二の(リアル・バーチャルな)主人公なのである。ここにすでに物語の相対的二重性が用意されていたわけなのだ。
 それならば、『ドン・キホーテ』はプラトン以来の対話篇だったのである。しかも書物の中の言葉だけによって、新たな書物を綴っていくための対話篇なのだ。『ドン・キホーテ』は対話の小説なのだ。キハーノがソクラテスならば、ドン・キホーテがプラトンなのである。
 とはいえセルバンテスは、17世紀のスパニッシュ・プラトンをつくりたかったのではなかった。そこに「スペインという世界そのもの」を現出させ(フォークナーの「ヨクナパトーファ」やマルケス「マコンド」のように)、そこから世界は両義的にしか語たれないことを、その価値はつねに多義的にならざるをえないことを、それは書物が書物を辿るように間テクスト的に編集されていかざるをえないことを、そうしないかぎりは「世界読書」の奥義(複合的な真理)などはあらわれてこないことを、満身創痍で示したのである。
 いまや漱太郎は、この『ドン・キホーテ』はジェネラル・アナロジーの物語だろうと思っている。ラブレーやボッカチオの伝統を踏まえて、ハイパー・ポリフォニーの原理を発見した巧妙な空間からなるテクストだと感じている。
 念のために述べれば、『ドン・キホーテ』はジェネラル・アイロニーの物語ではない。それなら戯作として読めばいい。そうではなく、『ドン・キホーテ』にはアナロジーとアブダクションのすべての可能性がつまっている。ミハイル・バフチンが指摘したようなポリフォニーの文学ではなかったのだ。ハイパーポリフォニーなのだ。その多声性は、キハーノとキホーテの両方が一対になって絡みついている。簡略だが、これが種明かしだ。およそのところは当たっているだろう。ところが、それでもなお立体言語学的には、実はこの物語がまだまだぴったりこないという憾みが残っている。それは、この物語がまさに「スペインそのもの」であるということにある。
 日本人はスペインが苦手なのではないか。日本の中世史にはそんな疑問が残る。平面でながめると、たしかにスペインという国はおもしろい。ダリもガウディも、ガルシア・ロルカもオルテガもとびきりだ。ヴィクトル・エリセの映画は他の国ではつくれまい。カタルーニャやバスクのナショナリズムを覗くのは、ときにどんな民族や部族の今日のありかたよりも深い過激というものを感じることがある。しかしわれわれは、いや日本人は、そうしたおもしろみを語るにあたって、すでにあまりにもスペインを一知半解したままに見すぎてしまったのだ。
 そもそも1492年を「いい国みつけたコロンブス」とおぼえたところでまちがった。この年にイスラム教徒からの国土回復戦争が終わったことや、この年にユダヤ人追放令が行使されたことが見えていなければならなかったのである。また、ここからマラーノとしてのスピノザの宿命が始まっていく。
 これは、オクタビオ・パスを読んでメキシコを感じるように、オルテガの『ドン・キホーテをめぐる思索』を読んでスペインを感じるように、そこに感じるものが深ければ深いほど、日本人に「スペインという物語の起源」をわからなくさせていくものなのだ。その起源に『ドン・キホーテ』があるというのだから、これはやっぱりお手上げとなろう。
 ポルトガル語の“barroco”は「歪んだ真珠」のことである。スペイン語の“berrueco”は岩のごつごつした手触りだ。このバロックのもつコノテーションは、これからも世の人間をさまざまところへ誘うだろうが、まだ郷土であって、仮想の騎士であったドン・キホーテの手触りには届いていないのだ。それを綴るには、今度は漱太郎のバロック論を先に開陳しなければなりますまい。が、それはまた別の夜の遊蕩としてみたい。

ドン・キホーテ2

 キハーノとキホーテの両方が一対になって絡みついている、その多声性とは、声楽学として立体化するとミュージカルとなる。ここらでもう一粒のボイスケアのど飴を放り込みながらスペインのマドリードを思い起こしてみると、その道を通過した伊東マンショを眺めみたセルバンテスの印象の中からドン・キホーテの種が生まれ、その妬みのそれがバロックの萌芽と絡み合いながら多重虚構の深層的なスペインの密林世界を構成した。裏返せば、それはセルバンテスがそれを成し得るだけの素材が、伊東マンショが往来した当時の道の辺にはあったことになる。それはまた、伊東マンショらが日本人として初めてスペインのバロックを実際に瞳で捉えたということに等しい。これはやはり憂いえる真実である。今宵は、松本幸四郎に「ラ・マンチョのマンショ」を演じさせたい気分である。

                                          三馬 漱太郎

聖マンショ伝「帰らざる丘」・No.0014

ドン・キホーテの旅は中世の遣欧使節者「伊東マンショ」の風貌を虚構の骨格として誕生させた。ラ・マンチャの道に東洋人の神秘性が秘められている。
 チンザーノ(Cinzano)は、イタリアの酒類製造会社である。ベルモットやスプマンテを製造し、1757年にチンザーノ家の兄弟が創業した。日本では(チンザノ)で知られ、そのチンザノと言えば社名ではなくベルモットの製品名をさすほどにチンザーノのベルモットは有名である。また、イタリアで初めてスパークリングワイン(スプマンテ)を製造した。写真は「日本ではベルモットの代名詞的存在」であるチンザノである。そのチンザーノ社は1786年、時の権力者サヴォイア家の公式な納入業者となった。

チンザノ チンザノ(Cinzano)

 下の写真はそのサヴォイア家の紋章である。その「Casa di Savoia」家は、かつてイタリアのピエモンテとフランス及びフランス語圏スイスにまたがるサヴォイア一帯を支配していた辺境伯貴族の家系であった。
 そんな家系を継ぎながら1713年、スペイン継承戦争の結果シチリア王国の王位を獲得、1720年にハプスブルク家とシチリア島、サルデーニャ島の交換を行い、サルデーニャ王国の王位を代わりに得た。イタリア統一運動時に核となり、統一後はイタリア王家となる。

サヴォイア家の紋章 サヴォイア家の紋章

 しかし第二次世界大戦後の1946年6月、王制の是非を問う国民投票により王制廃止が決定して共和制となると、一族は国外追放を余儀なくされた。イタリア憲法でサヴォイア家は2002年までイタリアへの入国を禁じられていた。
 そのイタリアの元王家であるサヴォイア家の一員「アイモーネ・ディ・サヴォイア=アオスタ」氏に初めてお会いしたのは三馬漱太郎が大学院を卒した初夏の軽井沢での奇遇なめぐり逢いからであった。
 氏は1967年の生まれであるから、当時は10歳ぐらいの少年である。そんな異国の少年にとって14歳ほど年齢差のある青年は気軽で格好の家庭教師的存在であったようだ。

プッリャ公アイモーネ アイモーネ・ディ・サヴォイア=アオスタ

 軽井沢には追分宿郷土館というものがある。
 追分宿は、江戸時代に「中山道と北国街道」の二つの道が合流する宿場町として繁栄した。その館内には、追分宿の旅籠・茶屋・問屋の民俗資料と近世宿駅制度を研究する上で重要な歴史資料、本陣土屋家の古文書等を中心に展示・公開している。氏とのめぐり逢いはそんな郷土館の入口での背中越しにあった。背後からふいに「Ciao」と声かけられざまに肩口を軽くポンと叩かれた。以来、毎週土曜日の午後には日本語教師として氏の別荘に足を運ぶことになった。

追分宿郷土館2 追分宿郷土館(軽井沢)

 その少年が現在43歳のアイモーネ・ディ・サヴォイア=アオスタこと称号プッリャ公を名乗る生粋のイタリア人である。その氏名(Aimone di Savoia Aosta)をイタリア語全名で綴ると(Aimone Umberto Emanuele Filiberto Luigi Amedeo Elena Maria Fiorenzo di Savoia Aosta)となり、第4代アオスタ公アイモーネの直系の孫にあたる。2006年に父アメデーオ(第5代アオスタ公)がサヴォイア家家長・サヴォイア公を称するようになった。氏は現在、アオスタ公の公位継承予定者に与えられる称号プッリャ公(duca di Puglia)を名乗っている。

アイモーネ・ディ・サヴォイア=アオスタ2 アオスタ家の紋章

 袖すりあうも他生の縁というが、約30年の交流の期間でアイモーネ・ディ・サヴォイア=アオスタは一度も元イタリア王家の血筋にあたるとは口にしたことはない。漱太郎としては、近年ふいに称号プッリャ公を名乗られて面食らっている。そんな事とはつゆ知らず、1987年、彼が二十歳になる記念だと言ってスペイン旅行に招待されたのだが、その旅行記のことを、先日渋谷で彼とお会いしチンザノで飲み明かしたこともあって貴重な体験を一つ思い出した。

ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ
 Don Quijote de la Mancha

 Don Quijote de la Manchaという著書をご存知であろうか。翻訳すると『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』となる。こう訳すると「ああ、あの」ミュージカル「ラ・マンチャの男」を思い起こされる方も多いはずだ。そうして日本人なら、きっと松本幸四郎の名演技を思い浮かべるであろう。
 この著作者ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラ(Miguel de Cervantes Saavedra, 1547年9月29日 アルカラ・デ・エナーレス - 1616年4月23日)は、中世スペインの作家である。

ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラ ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラ

 そのセルバンテスは、イダルゴ(下級貴族)の家の次男として生まれる。父は外科医であったため、セルバンテスはコンベルソ(カトリックに改宗したユダヤ教徒)ではないかという研究者もいる。
 彼は少年時代から、道に落ちている紙切れでも字が書かれてあれば手にとって読むほどの読書好きであったが、各地を転々とする生活であったので、教育をまともに受けられなかったという。
 だが1564年ごろ(伊東マンショが生まれる5年前)、マドリードに転居したセルバンテスはルネサンスの人文学者ロペス・デ・オヨスに師事することになる。後にオヨスはセルバンテスを「我々の親愛なる弟子」と呼び、高く評価した。1569年にローマに渡り、ナポリでスペイン海軍に入隊するまでの生い立ちについては、あまり解明されていない。この時期に、セルバンテスが決闘相手に傷を負わせた罪を告発する文書が残っているが、同名の別人かどうかは定かではない。
 セルバンテスはスペイン最盛期の象徴であるレパントの海戦(1571年)において被弾し、左腕の自由を失った後も4年間従軍を続けた。そして本国へと帰還する途中、バルバリア海賊に襲われ捕虜となる。
 このとき仕官のための推薦状を持っていたことが仇になり、とても払えない巨額の身代金を課され、アルジェで5年間の虜囚生活を送る。この間、捕虜を扇動して4回も脱出を企てるがことごとく失敗。このとき処刑されなかった理由は、推薦状により大物と見られていたためと思われるが、これも定かではない。ようやく三位一体会(キリスト教の慈善団体)によって身請けされ本国に戻ったが、仕官を願うも叶わず、1585年に彼の最初の牧人小説『ラ・ガラテーア』を出版するが、これはあまり評価されなかった。
 1585年に父親ロドリーゴが亡くなると、セルバンテスの家庭は本人・姉・妹・姪・妻・娘(私生児)の六人家族となり、稼ぎ手の少ない家計は逼迫した。セルバンテスは無敵艦隊の食料調達係の職を得てスペイン各地を歩き回って食料を徴発するが、教会から強引に徴発した罪で投獄され、さらに翌年アルマダの海戦で無敵艦隊が撃破されたため職を失う。
 その後なんとか徴税吏の仕事に就くが、税金を預けておいた銀行が破産、30倍の追徴金を負債として負うこととなり、これが払えず1597年に投獄されることになる。そのセビーリャの監獄の中で、彼は、ピカレスク小説『グスマン・デ・アルファラーチェ』(1559年)の作者マテオ・アレマンもいたというが、セルバンテスは『ドン・キホーテ』(1605年)の序文で、牢獄において構想したことをほのめかしている。
 その『ドン・キホーテ』の成功にもかかわらず、版権を安く売り渡していたため、生活は良くならなかった。しかし、その後も創作活動は続き、有名なものに『模範小説集』(1613年)、『ドン・キホーテ 後編』(1615年)、遺作『ペルシーレスとシヒスムンダの苦難』(1617年)などを世に送り出した。そうして彼は1616年、69歳でその波瀾に満ちた人生を終える。
 イギリスのシェークスピアと死亡した日が同じであるとされることが多いが、当時はヨーロッパ大陸とブリテン島とで異なる暦を使用しており、実際には同じ日ではない。これは、1582年にローマ教皇がユリウス暦からグレゴリウス暦へ暦の変更を決定し、大陸のカトリックやプロテスタントの国々が順次変えていったのに対し、当時のイギリスは、カトリック教会の権威が及ばないイギリス国教会が優勢だったために新しいグレゴリウス暦を受け入れることが遅れたからであった。
 そのような彼が死後に名が知られたわけではない。当時からスペイン語圏による世界的大文学者であった。同時代および後世に多大な影響を与えた。同時代人のシェイクスピアは『ドン・キホーテ』を読んでいたと言われる。チャールズ・ディケンズ、ギュスターヴ・フローベール、ハーマン・メルヴィル、フョードル・ドストエフスキー、ジェームズ・ジョイス、ホルヘ・ルイス・ボルヘスらは、影響を受けた文学者たちのうちのほんの一部である。
 そのセルバンテスの小説『ドン・キホーテ』をもとにしたミュージカル作品がラ・マンチャの男 (Man of La Mancha)である。脚本デイル・ワッサーマン、音楽ミッチ・リイ。1965年にブロードウェイでリチャード・カイリー主演で初演され、ニューヨーク演劇批評家賞などを受賞、5年6ヵ月のロングラン公演を記録した。現在も世界中で公演されている。

ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ5 ミュージカル「ラ・マンチャの男」

 日本では1969年より松本幸四郎が主役を務める公演が名高いが、「市川染五郎」時代の1970年にはブロードウェイにわたって主役を英語でもこなしており、その熱演は今や伝説となっている。
 脚本は、セルバンテスが小説『ドン・キホーテ』を着想したのは、セビリアで入牢中であったという事実をもとにしている。セルバンテスと牢獄の囚人たちの現実、彼らが演じる劇中劇における田舎郷士アロンソ・キハーナの「現実」、そしてキハーナの「妄想」としてのドン・キホーテという多重構造となっている。当初はテレビドラマとして書かれた。これをミュージカルにすることを提案したのが製作者アルバート・シェルダンと演出家のアルバート・マールである。
 ちなみにこのミュージカルのあらすじを見てみよう。
 舞台は中世のスペイン。劇作家ミゲルデ・セルバンテスはカトリック教会を冒涜したという疑いで逮捕、投獄される。牢獄では盗賊や人殺しなど囚人たちがセルバンテスの所持品を身ぐるみはがそうとする。セルバンテスは、自分の脚本を守るため、「ドン・キホーテ」の物語を牢獄内で演じ、囚人たちを即興劇に巻き込んでいく。
 ミュージカル・ナンバーとしては、タイトル曲『ラ・マンチャの男~われこそはドン・キホーテ(Man of La Mancha - I, Don Quixote)』、ドン・キホーテが宿屋の下働きかつ売春婦のアルドンサを高貴な姫と信じて歌う『ドルシネア(Dulcinea)』などが知られる。なかでも『見果てぬ夢(The Impossible Dream)』は、本作品のテーマとして、中盤でドン・キホーテが歌い、ラストでも大合唱によって繰り返される。なお2001年に全米で巡業された公演では、1966年に『見果てぬ夢』をヒットさせた(ビルボードのチャート35位まで上昇した)歌手ジャック・ジョーンズ自身がドン・キホーテ(ミゲルデ・セルバンテス)役を演じた。
 しかしスペインでは「ドン・キホーテ」では通じない。(ドンは呼び掛けの称号のため)、定冠詞を付けて「エル・キホーテ」(el Quijote)と呼ばないと理解されにくい。
 また前編の正式な原題は、El ingenioso hidalgo Don Quijote de La Mancha(英知あふれる郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ)という。セルバンテスは前編の序文の中で、牢獄の中でこの小説の最初の構想を得たことをほのめかしている。彼は生涯において何度も投獄されているが、おそらくここで語られているのは税金横領の容疑で入獄された1597年のセビーリャ監獄のことであろう。(ただし、「捕虜の話」など話の本筋ではない挿話のいくつかは、それ以前に書いたものである)。
 セルバンテスは釈放後、バリャドリードで多くの家族を養いながら前篇を書き上げ、1605年にマドリードのファン・デ・ラ・クエスタ出版所から出版した。おかげで前篇はたちまち大評判となり、出版した年だけで海賊版を含め6版を数え、1612年には早くも英訳が、1614年には仏訳が登場した。だが作品の高い評価にもかかわらず、版権を売り渡してしまっていたためセルバンテスの生活は依然困窮していた。
 後編は、Segunda parte del ingenioso caballero Don Quijote de La Mancha(英知あふれる騎士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ 第二部)として1615年に同じくファン・デ・ラ・クエスタ出版所から出版された。前篇と同様に大評判となったが、セルバンテスは相変わらず貧しいまま、ついに1616年に没した。
 前篇はセルバンテスの短編集としての色合いが濃く、作中作「愚かな物好きの話」(司祭たちが読む小説)、「捕虜の話」、「ルシンダとカルデーニオの話」など、ドン・キホーテとは直接のかかわり合いのない話が多く挿入されている。また、前篇の第一部(ドン・キホーテ単独の一泊二日の遍歴)も、ひとつの短編小説としての構成をもっている。後編ではこの点を作者自身反省して、そのような脱線を無くしている。
 この物語をもう少し詳しく述べると、ラ・マンチャのとある村に貧しい暮らしをする郷士が住んでいた。この郷士は騎士道小説が大好きで、村の司祭と床屋を相手に騎士道物語の話ばかりしていた。やがて彼の騎士道熱は、本を買うために田畑を売り払うほどになり、昼夜を問わず騎士道小説ばかり読んだあげくに正気を失ってしまった。
狂気にとらわれた彼は、みずからが遍歴の騎士となって世の中の不正を正す旅に出るべきだと考え、そのための準備を始めた。古い鎧を引っぱり出して磨き上げ、所有していた痩せ馬をロシナンテと名付け、自らもドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャと名乗ることにした。最後に彼は、騎士である以上思い姫が必要だと考え、エル・トボーソに住むアルドンサ・ロレンソという田舎娘を貴婦人ドゥルシネーア・デル・トボーソとして思い慕うことに決めた。
 その用意がととのうと、彼はひそかに出発した。冒険を期待する彼の思いと裏腹に、その日は何も起こることなく宿屋に到着した。宿屋を城と思いこみ、亭主を城主だと思いこんでしまっていたドン・キホーテは、亭主にみずからを正式な騎士として叙任してほしいと願い出る。亭主はドン・キホーテがいささか気の触れた男であることを見抜き、叙任式を摸して彼をからかうが、事情を知らない馬方二人が彼の槍に叩きのめされてしまい、あわてて偽の叙任式を済ませた。
 翌日ドン・キホーテは、遍歴の旅にも路銀や従士が必要だという宿屋の亭主の忠告に従い、みずからの村に引き返すことにした。だが途中で出会ったトレドの商人たちに、ドゥルシネーアの美しさを認めないという理由で襲いかかり、逆に叩きのめされてしまう。そこを村で近所に住んでいた百姓に発見され、ドン・キホーテは倒れたまま村に帰ることになった。
 打ちのめされたドン・キホーテの様子を見た彼の家政婦と姪は、この事態の原因となった書物を残さず処分するべきだと主張し、司祭と床屋の詮議の上でいくつか残されたものの、ほとんどの書物が焼却され、書斎の壁は塗りこめられることになった。やがてドン・キホーテが回復すると、書斎は魔法使いによって消し去られたと告げられ、ドン・キホーテもそれに納得した。遍歴の旅をあきらめないドン・キホーテは近所に住む、いささか脳味噌の足りないサンチョ・パンサという農夫を、手柄を立てて島を手にいれ、その領主にしてやるという約束のもと、従士として連れていくことにした。ドン・キホーテは路銀をそろえ、甲冑の手直しをして二度目の旅に出た。
 やがてドン・キホーテとサンチョは3〜40基の風車に出くわした。ドン・キホーテはそれを巨人だと思いこみ、全速力で突撃し、吹き飛ばされて野原を転がった。サンチョの現実的な指摘に対し、ドン・キホーテは自分を妬む魔法使いが、巨人退治の手柄を奪うため巨人を風車に変えてしまったのだと言い張り、なおも旅を続けるのだった…。
 こんな小説を成したミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラという男について語る若かりしプッリャ公の話に三馬漱太郎は大いなる興味を抱いた。二十歳のプッリャ公と約2週間ほどスペインに滞在しドン・キホーテに関する周辺を二人で調査した。そうして1597年のセビーリャ監獄当時のこと、その一つの真実にたどり着いた。

ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ6 ドン・キホーテ
 
 今となっては松本幸四郎の名セリフ「事実とは、真実の敵である」という言葉が実感として身に沁みるのである。その監獄の当時、ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラが獄内で目にしたものが「天正遣欧少年使節」に関する古いイタリアの新聞記事であった。1597年といえば、遣欧少年使節が帰国して7年後のことであるが、どうやらスペインのセビーリャ監獄では、新鮮な話題のようであったようだ。中世の当時は情報も現代と違いかなりスローなのである。セルバンテスはその新聞を何ども読み返すうちに、無敵艦隊の食料調達係の職を得てスペイン各地を歩き回って食料を徴発していた時期のことを思い出した。
 セルバンテスはマドリードの街角で日本という未知なる遥かな国から国王の使者としてローマへと向かおうとする遣欧少年使節と遭遇もしたし、フェリペ2世との謁見話も聞き及んでいた。そんな記憶を新聞の内容と照らし合わせると、街角でみた少年使節の風貌が鮮明なものとなって現れた。
 1547年生まれのミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラは、伊東マンショよりも22歳も年上である。その彼が遺した手記に、そのような内容がある。またそこには「Mancio、ああ、彼こそが真実のキホーテだ」と書き記されている。どうやらセルバンテスは監獄でみた新聞記事から発想を得て、また記憶の中に眠る少年使節者の珍像をもって『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』の構想を大きくしたようである。つまりセルバンテスは東洋からの正使者・伊東マンショの風姿をお手本とし「みずからが遍歴の騎士となって世の中の不正を正す旅に出るべきだ」と考えるドン・キホーテなる男を創作したことになる。
 この物語では現実と妄想が交錯するのだが、ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラは東洋人の神秘性に触れて遥かなる国からの旅人・伊東マンショの現実を自身の妄想の中に置いた。
                                            三馬 漱太郎

聖マンショ伝「帰らざる丘」・No.0013

豊臣秀吉の夢の跡「聚楽第」から眺め見たキリシタン信仰の光と影。

 聚楽第(じゅらくだい)は、山城国京都の内野(平安京の大内裏跡、現在の京都府京都市上京区にあたる)に安土桃山時代の末期、豊臣秀吉が建てた政庁兼邸宅である。当時は豊臣氏のことを聚楽第殿(聚楽亭殿)とも称した。
聚楽第 聚楽第跡の石標

 その聚楽第は、現在では地形にわずかに痕跡をとどめる程度で、明確な遺構は残っていない。他所に移築されたとの伝承がある建造物も少なくないが、いまのところ聚楽第の遺構と確認された建造物はない。どうやら厳密にみれば「梅雨(つゆ)の井」が松屋町通下長者町上ル東入ル東堀町内にあるが聚楽第遺構との確証はない。
聚楽第図屏風 聚楽第図屏風

 現代の日本人はキリスト教についての知識を増やしている。そうであるなら四百年前のキリシタンの歴史を知ることが現代のわたしたちと深く関わってくると思われるので、コラムNo.0013では先ずキリシタン追害の理由から始めたい。

キリシタン遣害の理由

 宣教師ルイス・フロイスが暴君と呼ぶ豊臣秀吉が「伴天連(ばてれん)追放令」を発したのは、1587年7月24日(天正15年6月19目)でした。これは天正(てんしょう)の禁令として知られる第1回のキリシタン禁止令である。それ以後徳川時代にかけて、次々に発せられた禁止令の理由をまとめると、次の五つになる。
バテレン追放令 バテレン追放令

(1)植民地政策
 キリシタンの宣教は西欧諸国の植民地政策と結びついていた。それは、初めに宣教師を送ってその国をキリスト教化し、次に軍隊を送って征服し植民地化するという政策である。秀吉は早くもそのことに気づいて主君信長に注意をうながしている。
 ポノレトガル、スペインのようなカトリック教国は強力な王権をバックに、大航海時代の波に乗ってすばらしく機能的な帆船や、破壌力抜群の大砲を武器として、世界をぐるりと囲む世界帝国を築き上げていた。その帝国が築き上げた植民地や、その植民地をつなぐ海のルートを通って、アジアへと何百、何千という人々がビジネスを目的に飛び出して行った。それらはアジアでの一獲千金を夢見る冒険家たちである。
 そうした中にカトリックの宣教師たちも霊魂の救いを目指して、アジアに乗り出して来るのであるが、彼らが求めたのは、霊魂の救いだけではなく、経済的利益でもあった。
 ザビエルがゴアのアントニオ・ゴメス神父に宛てた手紙から引用すると、「神父が日本へ渡航する時には、インド総督が日本国王への親善とともに献呈できるような相当の額の金貨と贈り物を携えてきて下さい。もしも日本国王がわたしたちの信仰に帰依することになれば、ポルトガル国王にとっても、大きな物質的利益をもたらすであろうと神かけて信じているからです。堺は非常に大きな港で、沢山の商人と金持ちがいる町です。日本の他の地方よりも銀か金が沢山ありますので、この堺に商館を設けたらよいと思います」(書簡集第93)
 「それで神父を乗せて来る船は胡椒をあまり積み込まないで、多くても80バレルまでにしなさい。なぜなら、前に述べたように、堺の港についた時、持ってきたのが少なけれぱ、日本でたいへんよく売れ、うんと金儲けが出来るからです」(書簡集第9)。
 ザビエルはポルトガル系の改宗ユダヤ人(マラーノ)である。金儲けには抜け目ない様子が、これらの手紙を通じても窺われる。
 ザビエル渡来の三年後、ルイス・デ・アルメイダが長崎に上陸した。この人も改宗ユダヤ人で、ポルトガルを飛ぴ出してから世界を股にかけ、仲介貿易で巨額の富を築き上げましたが、なぜか日本に来てイエズス会の神父となった。彼はその財産をもって宣教師たちの生活を支え、育児院を建て、キリシタン大名の大友宗瞬に医薬品を与え、大分に病院を建てることになる。
(2)奴隷売買
 しかし、アルメイダが行ったのは、善事ばかりではなく、悪事もあった。それは奴隷売買を仲介したことである。
 豊臣秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録をみると「キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいばかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫び、わめくさま地獄のごとし」とある。どやらこれは事実であろう。ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであったことになる。
 キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが、天正少年使節団として、ローマ法王のもとにいったが、その報告書を見ると、キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。
 さらに少年使節団の書いた見聞録では『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』とある。
 日本のカトリック教徒たち(プロテスタントもふくめて)は、キリシタン殉教者の悲劇を語り継ぐ。しかし、かの天正遣欧少年使節団の書いた(50万人の悲劇)を、火薬一樽で50人の娘が売られていった悲劇をどうして語り継ごうとしないのか。キリシタン大名たちに神杜・仏閣を焼かれた悲劇の歴史を無視し続けるのか。これは宗教者といえども一人の人間であることの左証なのであろう。臭いものには蓋をする。このようなことが日本でのキリスト布教活動の裏面にはあった。
 それは日本だけではない。当時、数千万人の黒人奴隷がアメリカ大陸に運ばれ、数百万人の原住民が殺され、数十万人の日本娘が世界中に売られた事実を、考え、語り継ごうとする、その勇気と真摯な態度が現代の日本人に求められているのではないか。三馬漱太郎にとって「火薬一樽につき日本娘50人」の暗い記録はいかにも重石である。
 それは「植民地住民の奴隷化と売買というビジネスは、白人による有色人種への差別と資本力、武カの格差という世界の格差の中で進行している非常に非人間的な『巨悪』であったと考えるからだ。
 豊臣秀吉は準管区長コエリヨに対して、「ポルトガル人が多数の日本人を奴隷として購入し、彼らの国に連行しているが、これは許しがたい行為である。従って伴天連(バテレン)はインドその他の遠隔地に売られて行ったすべての日本人を日本に連れ戻せ」と命じている。
(3)巡回布教
 さらに秀吉は、「なぜ伴天連たちは地方から地方を巡回して、人々を熱心に煽動し強制し'て宗徒とするのか。今後そのような布教をすれば、全員を支那に帰還させ、京、大阪、堺の修道院や教会を接収し、あらゆる家財を没収する」と宣告した。
(4)神杜仏閣の破壊
 またさらに秀吉は「なぜ伴天連たちは神杜仏閣を破壊し神官・僧侶らを迫害し、彼らと融和しようとしないのか」と問いた。神杜仏閣の破壊、焼却は高山右近、大友宗瞬などキリシタン大名が大々的にやったことである。これは排他的唯一神教が政治権カと結びつく時、必然的に起こる現象であろう。
(5)牛馬を食べること
 さらに加えて秀吉は「なぜ伴天連たちは道理に反して牛馬を食ぺるのか。馬や牛は労働力だから日本人の大切な力を奪うことになる」と言った。
 以上、豊臣秀吉からの五つの詰問に対するコエリヨの反応は、極めて傲慢で、狡猪な、高をくくった返答でしかなかった。高山右近を初め多くのキリシタン大名たちはコエリヨを牽制したが、コエリヨは彼らの制止を聞き入れず、反って長崎と茂木の要塞を強化し、武器・弾薬を増強し、フイリピンのスペイン総督に援軍を要請した。
 これは先に巡察使ヴァリニヤーノがコエリヨに命じておいたことである。しかし、頼みとする高山右近が失脚し、長崎が秀吉に接収されるという情勢の変化を見てヴァリニヤーノは、戦闘準備を秀吉に知られないよう秘密裏に急遽解除した。
 これらの経過を見るかぎり、ポルトガル、スペイン両国の侵略政策の尖兵として、宣教師が送られて来たという事実を認めるほかないであろう。
 これらの疑問は豊臣時代だけでなく、徳川時代300年の間においても、キリシタンは危険であり、キリシタンになればどんな残酷な迫害を受けるかわからないという恐怖心を日本人全体に植え付けることになったが、これらはキリスト教の日本への土着化を妨げる大きな要因になった。
豊臣秀吉 家紋 豊臣家の家紋

秀吉のバテレン追放令について
 国内向けとみられる法令は11カ条からなっている。一条から九条までの内容は「キリシタン信仰は自由であるが、大名や侍が領民の意志に反して改宗させてはならない」また「一定の土地を所有する大名がキリシタンになるには届けが必要」「日本にはいろいろ宗派があるから下々の者が自分の考えでキリシタンを信仰するのはかまわない」などと規定している。
 注目すべきは次の十条で「日本人を南蛮に売り渡す(奴隷売買)ことを禁止」し、十一条で「牛馬を屠殺し食料とするのを許さない」としていることである。
 以上の内容からは「右近が高槻や明石で行った神社仏閣の破壊や領民を改宗させたことを糾弾」「有力武将を改宗させたのはほとんどが右近によってで、右近に棄教をさせることで歯止めがかかると見た」「バテレン船で現実に九州地方の人々が外国に奴隷として売られていること」などが分かる。秀吉の追放令は、ある意味で筋の通った要求だった。
 さらに重要なのは、日本の民と国土は、天下人のものであり、キリシタン大名が、勝手に教会に土地を寄付したり、人民を外国に売ることは許されないということである。天下統一とは、中央集権国家の確立にほかならない。キリシタンは、その足元を乱す、かつての一向宗と同じ存在になる危険性があると秀吉が感じていたことが理解できる。
 「バテレン追放令」は、キリシタンが対象であるかのように見えて、実は日本が新しい時代を迎えるため何が課題かを暗示する極めて重要な出来事だったのである。
 近年解読されたイエズス会文書館所蔵の資料から、日本で布教を続ける宣教師達が本国と連絡を取り合いながら、キリシタン大名を競合して「日本占領計画」を持っていたことが判明した。
ヨーロッパ最強と謳われたスペインの海軍力がその背景だった。となると、追放令は、その計画を察知した秀吉の自衛対抗的措置だったことになる。弾圧を強める秀吉に対して、宣教師側は四国・九州攻撃と日本国内への軍事基地の建設まで企てていた。頂点に達した両者の緊張は、秀吉の死よって終止符を打つ。しかし、キリスト教禁制はその後も徳川幕府2世紀半の鎖国政策に引き継がれていった。


                                             三馬 漱太郎

聖マンショ伝「帰らざる丘」・No.0012

京都・凹凸詩仙堂の白い山茶花は伊東マンショの潔白を祈念する記念樹。その白さが日本文化を支え続けている。

 ボストンより帰国した三馬漱太郎は京都へと足を運んだ。目的は宮本武蔵と吉岡一門の決闘で有名な一乗寺下り松の近くにある詩仙堂丈山寺である。その詩仙堂とゆかりのある変り種の武士の存在が現代においても微笑ましいからであった。
詩仙堂丈山寺2 京都・凹凸詩仙堂の山門

 その凹凸詩仙堂は石川丈山を抜きにしては語れない。石川丈山は、隷書、漢詩の大家であり、わが国における煎茶(文人茶)の開祖と言われている。
詩仙堂丈山寺 詩仙堂丈山寺の庭

 石川丈山は、徳川家康に仕え武勲をたてただけでなく、平素から読書に親しみ詩を好んだ武士である。三十三歳で隠退後は藤原惺窩について朱子学をおさめ、駿河清見寺の説心和尚に禅を学び、五十九歳で詩仙堂を造営し、没するまでの三十余年を、清貧の中に聖賢の教えを自分の勤めとし、詩や書や作庭に寝食を忘れてこれを楽しんだ風雅な文化人でもあった。
石川丈山 石川丈山
 詩仙堂の庭は当時でも代表的な名園であったが、後世修理が加わった今でもその趣をそこなうことなく現代に引き継がれている。
 石川丈山(いしかわ じょうざん、1583年(天正11年) - 1672年6月18日(寛文12年5月23日))は、江戸時代初期の文人。もとは武士で大坂の役後、丈山と號するようになる。
 江戸初期における漢詩の代表的人物で、儒学・書道・茶道・庭園設計にも精通していた。幕末の『煎茶綺言』には、「煎茶家系譜」の初代に石川丈山が記載されており、煎茶の祖とも言われる。
 名は初め重之、後に凹、通称は初め三彌、後に嘉右衛門、字は丈山、号は六六山人、四明山人、凹凸窠、詩仙堂、大拙、烏麟、山木、山村、藪里、東溪、三足など、様々にある。
 この石川丈山は、三河国泉郷(現在の愛知県安城市和泉町)の代々徳川家(松平家)に仕える譜代武士の家に生まれた。一途な性格で早く功を挙げたいと思い、大叔父のもとで武芸を学んだ。1598年(慶長3年)徳川家康の近侍となり、その忠勤ぶりに信頼を寄せられた。大坂夏の陣に参加した際は一番乗りで敵将を討ち取って功をあげるが、この時の軍律では先陣争いを禁止していたため、論功行賞どころか蟄居の身となった。そこで武士をやめて妙心寺に入った。この変り身は武士としてはいかにもユニークである。
 1617年(元和3年)頃、知人・林羅山の勧めによって藤原惺窩に師事し、儒学を学んだ。文武にすぐれると評判になった丈山には各所から仕官の誘いが多かったものの、仕官するつもりはなかった。しかし病気がちな母を養うために紀州(和歌山県)和歌山の浅野家に数ヶ月、また板倉重宗の勧めに従って安芸(広島県)広島藩の浅野家に13年ほど仕えた。母が亡くなると引退を願い出たが許されず、翌年強引に退去し京に出て相国寺の近くに睡竹堂をつくり隠棲し始めた。
 さらに4年後、洛北の一乗寺村(比叡山西麓)に凹凸窠(詩仙堂)を1641年(寛永18年)に建てて終の棲家と定めた。この時、洛東の隠者木下長嘯子の歌仙堂(三十六歌仙の肖像を掲げていた)に倣って、中国歴代の詩人を36人選んで三十六詩仙とし、狩野探幽に肖像を描かせて堂内2階の四方の小壁に9面ずつ掲げた。そのため凹凸窠は詩仙堂の名で知られるようになった。
 丈山は煎茶に親しんだと伝えられると共に、作庭に長じたとも言われ東本願寺只穀邸(渉成園)の庭園は石川丈山の手になるものと伝えられている。 清貧を旨として学問に没頭し30数年を過ごし、90歳で死去した。なお、鷹が峰の本阿弥光悦、八幡の松花堂昭乗と共に、幕府の意を受けて京中の監視をしていたとの説もあるが定かではない。
 なぜ石川丈山が武門を閉じてそのような人生を歩き始めたかについては、本阿弥光悦の遺した記録の中に手掛かりがある。
本阿弥光悦 本阿弥光悦
 本阿弥光悦(ほんあみ こうえつ、永禄元年(1558年) - 寛永14年2月3日(1637年2月27日))は、江戸時代初期の書家、陶芸家、芸術家。書は寛永の三筆の一人と称され、その書流は光悦流の祖と仰がれる。
 そんな光悦は、刀剣の鑑定、研磨、浄拭(ぬぐい)を家業とする京都の本阿弥光二の二男二女のうち長男として生まれた。父光二は、元々多賀高忠の次男片岡次大夫の次男で、初め子がなかった本阿弥光心の婿養子となったが、後に光心に実子が生まれたため、自ら本家を退き別家を立てた。光悦もこうした刀剣関係の家業に従ったことと思われるが、手紙の中に刀剣に触れたものは殆どみられない。今日ではむしろ「寛永の三筆」の一人に位置づけられる書家として、また、陶芸、漆芸、出版、茶の湯などにも携わったマルチアーティストとしてその名を残している。
 この光悦は、洛北鷹峯に芸術村(光悦村)を築いたことでも知られるが、元和元年(1615年)、光悦は、徳川家康から鷹峯の地を拝領し、本阿弥一族や町衆、職人などの法華宗徒仲間を率いて移住した。
 それは王朝文化を尊重し、後水尾天皇の庇護の下、朝廷ともつながりの深かった光悦を都から遠ざけようというのが、家康の真の意図だったとも言われるが定かではない。光悦の死後、光悦の屋敷は日蓮宗の寺(光悦寺)となっている。俵屋宗達、尾形光琳とともに、琳派の創始者として、光悦が後世の日本文化に与えた影響は大きい。そんな本阿弥光悦が刀剣の事について書き遺した珍しい唯一の見聞があるのだが、どうやら光悦は1590年7月に長崎に出向いていた。そのことがその覚書より窺える。
 1590年7月に天正遣欧少年使節は長崎に帰港した。光悦はその帰港直後の長崎で伊東マンショに出逢っている。光悦の語る刀剣とは、その折りに伊東マンショが身に付けていた珍しい西洋の双刃の脇差であった。つまりこれはマンショがスペイン国王のフェリペ二世より賜った短剣なのである。その折りに光悦は8年に渡る航海記録の珍しい話をマンショから聞かされた。そのような話は後に光悦から石川丈山へと語られた。
 その西洋の珍しい双刃の短剣の束には象牙の彫りでスペインの城郭が描かれていたという。その図案を光悦は写した。おそらくそれが光悦が最初に見聞した西洋の工芸力なのであろうか。そのような技工が西洋にあることを石川丈山にも伝えた。このことを起因にして丈山は日本文化の憧憬化として作庭や文芸に興味を新しくしたと伝えられている。このような視点から眺めみる凹凸詩仙堂の庭という情景はまた格別である。
さざんか 詩仙堂の山茶花

 その詩仙堂には白い山茶花(さざんか)の大樹が今も生命を受け継ぎ毎年冬季になると、その可憐な白を丈山の作庭に散らすのであるが、その潔白の鮮やかさは新しい伝道の最中に命を閉じた伊東マンショ(43歳)の生涯を祈念するようにして丈山が植えた山茶花である。毎年、その花が咲き、その花が散り終えると京都では春を迎えることになる。三馬漱太郎にとって詩仙堂の山茶花の白は、京都および日本に春を告げる花信でもあった。

                                      三馬 漱太郎
プロフィール

三馬漱太郎

Author:三馬漱太郎
Welcome to Ron「漱」World
Sotarou Miuma
立体言語学博士
Social Language Academy Adviser
応用社会言語科学研究員

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