スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

聖マンショ伝「帰らざる丘」・No.0011

禅の精神に繁栄された伊東マンショの人生。その名は吉川英二に伏せられた密やかな花である。
 禅寺で座禅をすると、背中を棒でピシャリとうたれ、叱咤激励の「喝」が大声で飛んできて我に帰ることになる。これは自分を保ちながら、意識と無意識の世界を究め、更には、その奥の真理へと到達する為、禅師が放つ軌道修正の一喝である。
禅 禅修行

 その禅僧の高名な一人に澤庵 宗彭(たくあん そうほう、天正元年12月1日(1573年12月24日) - 正保2年12月11日(1646年1月27日))がいる。澤庵 宗彭は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての臨済宗の僧であるが、但馬国出石(現兵庫県豊岡市)に生まれた。
澤庵 宗彭 澤庵 宗彭
 フィクション上では、しばしば宮本武蔵と結び付けられる。例えば、吉川英治作の小説『宮本武蔵』では武蔵を諭すキーパーソン的な役割を担っているのだが、史実において武蔵と沢庵和尚の間に接触のあった記録は無い。吉川自身も「武蔵と沢庵和尚の出会いは、自身による創作である」と明言している。したがってこれは正真正銘のフィクションである。
宮本武蔵4 小説「宮本武蔵」

 それでは、吉川英治がなぜそんなフィクションの創作を成したのかについては、当時、澤庵宗彭と一時の交流を結んだ人物について吉川が描こうとしたが、その筆を断念した経緯があったからだ。つまりその人物は吉岡の胸の内に密かに伏せられ、代人として澤庵宗彭が宮本武蔵と係わることになる。
吉川英治 吉川英治

 この吉川によって伏せられた人物をご紹介するための前座として、まず三馬漱太郎の日常記からお楽しみいただける話題を少しご提供したい。無関係のように感じられても重要な接点として宮本武蔵の実像に連なる。
 三馬漱太郎は本年の2月中旬、ボストン大学では独自の企業を招いて創業初のセミナーを開いた。これはアメリカ国内の新たなる挑戦であると思う。アメリカがついに日本の「就活」を実戦しようと志向したからだ。
ボストン大学1 ボストン大学

 アメリカは日本と同様に不景気である。不景気はどの国家でも若者の雇用促進を低下させるものであるが、リーマンショック以降のアメリカ全土にて数多くの学生が就業率の著しい降下に悩んでいる。そのためボストン大学では、この2月の2日間で150社の企業を集め就活のセミナーを開催した。企業は国内外からの公募で選び、同大学の学生は850人が参加するという大規模な内容であった。この企画を提案したのは三馬漱太郎である。
 平素のアメリカでは組織的な就職活動を行うアシスト的慣習がない。このため「就活セミナー」の前には、事前に学生を講堂に集め、三馬漱太郎がボストン大学の首脳陣を集め「喝」を入れてセミナー開催の意義を唱えたことを説明しつつ、学生には身だしなみやストレッチの重要を教授して当日の会場に送り出した。
 会場には企業ごとのテーブルがならび、学生が企業と一対一で話せる気軽な雰囲気のスタイルを追求したブースを演出した。険悪な景気状況を考えると、これで功を奏したとは思えないが、このセミナー以降、アメリカ国内では就活関連のイベントが多くなる気配であるので、三馬漱太郎は少々落ち着かない気分である。
 キリスト教国家であるアメリカにおいて「喝」とい真理を理解していたたくためには仏教の法理を説き、日本ならではの座禅の法理を説きながら、人間の豊かさとは何かと論じならなければならず、何かと面倒である。ましてアメリカの青年に喝を説くということは、骨のいる作業であった。このため昨年の秋には京都禅寺ツアーなるものを事前計画し、その体験の中から禅の世界を感じていただくためにボストン大学関係者53名を引率した。
 滞在5泊6日の慌ただしい体験ツアーであったが、その中の大徳寺境内を案内しつつ澤庵宗彭の禅修行について解説した。
大徳寺 大徳寺山門

 澤庵宗彭は天正元年12月1日(1573年12月24日)に秋庭綱典の次男として但馬国出石に生まれた。父・綱典は但馬国主山名祐豊の重臣であった。
 8歳のとき但馬の守護山名家は織田信長の侵攻に遭い配下の羽柴秀吉に攻められて滅亡し、父は浪人となる。そのため沢庵は10歳で出石の唱念寺で出家し、春翁の法諱を得た。
 また14歳で同じく出石の宗鏡寺に入り、希先西堂に師事。秀喜と改名した。天正19年(1591年)、希先西堂が没すると、この間に出石城主となっていた前野長康は、大徳寺から春屋宗園の弟子・薫甫宗忠を宗鏡寺の住職に招いた。すると沢庵も宗忠に師事する事になった。
 文禄3年(1594年)、その薫甫が大徳寺住持となり上京したため、沢庵もこれに従い大徳寺に入った。大徳寺では三玄院の春屋宗園に師事し、宗彭と改名した。薫甫の死後、和泉国堺に出た。堺では南宗寺陽春院の一凍紹滴に師事し、慶長9年(1604年)沢庵の法号を得た。慶長12年(1607年)、沢庵は大徳寺首座となり、大徳寺塔中徳禅寺に住むとともに南宗寺にも住持した。慶長14年(1609年)、37歳で大徳寺の第154世住持に出世したが、名利を求めない沢庵は3日で大徳寺を去り、堺へ戻った。元和6年(1620年)、郷里出石に帰り、出石藩主・小出吉英が再興した宗鏡寺に庵を結んだ。これを名付けて投淵軒という。
 以上が沢庵に関する概要であるが、その沢庵の書き記した不動智神妙録をみることにする。
不動智神妙録は澤庵禅師が徳川将軍家兵法指南役の柳生宗矩に宛てた書籍である。澤庵禅師に関しては、調べてみる程に完成された人物で、生き方に無理が無い。すなわち不動智神妙録とはそのような澤庵禅師の思想である。禅を極めた人間。儒を極めた人間。神道を極めた人間。これは恐らく、他の学びを極めた人間も口にしている共通の思想であろう。そこには「何事も真理は含まれているから、発する場所や成り立ちは違えども、極めた時には同じ場所へ辿り着き理解し合える」という達人の境地が描かれていた。
 そんな沢庵も当初は平凡な一人間であった。不動智神妙録が成立する期間における沢庵が接した人物を調べてみると、田中國廣いう刀鍛冶との奇妙な出逢いがあった。田中國廣に関しては先のコラムで少し触れたが、國廣は日向国(現宮崎県綾町)に生まれた。
田中國廣2 田中國廣像

 日向国に生まれ日向伊東家に仕えた田中国廣には、伊東家ゆかりの人物の注文打ちが残されている。そこには山伏修行時に鍛えたと銘がある。不動明王像と「武運長久」の文字、梵字を彫った「山伏国広」は國廣の傑作である。
 やがて伊東家を離れ諸国を巡り、足利学校にて鍛刀。領主の長尾顕長の求めに応じて打った、「山姥切国広」(長尾顕長が北条氏政から賜った相伝備前の長船長義の写し)がこの時期の最高傑作である。
天正18年(1590年)信濃守受領。慶長4年(1599年)ころから京堀川に居住したことから堀川國廣とも呼ばれた。弟子に、出羽大掾国路、国安、国弘、国貞等あり、堀川一派として大いに栄え、これを俗に「堀川物」と呼ばれるが、堀川國廣なる男は新刀の祖「埋忠明寿」と比肩する刀工であった。
國廣 國廣作「山伏国広」

 そんな堀川國廣を沢庵禅師が京の堀川端に訪ねたのは関ヶ原の戦いで高名な1600年晩秋のことである。石田三成はその10月1日、家康の命により六条河原で斬首された。享年41。首は三条河原に晒された後、生前親交のあった春屋宗園・沢庵宗彭に引き取られ京都大徳寺の三玄院に葬られた。その沢庵が堀川國廣を訪ねることになる。生前の石田三成が親しく交際していた刀鍛冶であったからだ。そこで沢庵は不動明王像が彫られた「山伏国広」なる銘刀に触れると共に、巧みな刀鍛冶の精神を身に刻みこんだことになる。同時に沢庵は國広から天正遣欧少年使節の見聞録を聞き及んだ。田中國広は日向伊東崩れ(俗にいう伊東一族の豊後落ち)の際に伊東マンショ(8歳)を背負って豊後まで落ち延びた男である。これらの経緯の中から沢庵の不動智神妙録なるものが生まれた。沢庵は武門の子として生まれるが8歳の身で放浪し禅僧となる。國広の語る伊東マンショは選択した道こそ違うものの分身のように感じられたという。こうして伊東マンショ像を通して沢庵は不動智神妙録の青眼を得たことになるのだが、キリシタンと宮本武蔵の接点を避けた吉川英治は、その小説「宮本武蔵」の中で伊東マンショの名を巧妙に伏せた。
 生前の吉川英治は「文芸には文道としての花がある。華道がそうであるように一流の武芸者に花を添えるには、やはり名の有る花が似つかわしように思えた」と語っている。吉川英治が伊東マンショの名を伏せず、宮本武蔵との交流を描いたとするならば、小説・宮本武蔵はまた大きく違った内容となっていたであろう。

                                        三馬 漱太郎
スポンサーサイト

聖マンショ伝「帰らざる丘」No.0010

世界の細菌学の権威者「野口英世」の強靭な意志は伊東マンショの生涯を規範として生まれた。
野口佐代助 これは大正5年に撮られた古い写真である。撮影場所は北海道野付牛町。後列左から二人目が野口佐代助、次男清三(後列右端)の家族とともに写っている。この男が細菌学者「野口英世」の父である。
 その野口佐代助は、耶麻郡中小松村(現猪苗代町の小平潟)の小桧山惣平の長男として、嘉永4(1851)年に生まれた。佐代助が生まれた小桧山家は室町時代の連歌師「猪苗代兼載」と同じ紋所を持つ佐藤家の分家に当たり、佐代助には兼載の血が流れている。猪苗代兼載という人物については後半で述べることにするが、この兼載が関連して青年期の野口英世は「志を得ざれば再び此の地を踏まず」という信念を持つようになり一つの格言を遺すことになった。
野口英世 野口英世

 この格言は青年期の英世が上京の際、猪苗代の実家の柱に彫りこんだ言葉である。その「志を得ざれば」の源泉が「伊東マンショ」をお手本とされたことは未だこの世に知られていない真実である。コラムNo.0010ではこれらに関連して述べてみたい。
 野口英世の母「シカ」の存在は世に知られているが、ここではまず父・野口佐代助について語る必要がある。
野口佐代助2  野口佐代助

 佐代助の生まれた耶麻郡中小松村の同地には学問の神様として近郷の信仰を集めている小平潟天満宮があり、この集落には学問を尊ぶ風習が綿々と続いていた。佐代助が農民でも字が書けたのは、寺子屋に通っていたためだと伝えられている。英世の母シカは夫の佐代助のことを「おとっつぁは、天神様を背負ってきたんだべ」と、英世の頭の良さは夫に似ているとの例えをしていた。
野口英世と母シカ 英世と母シカ

 その佐代助が16歳であった慶応4(1868)年の戊辰戦争で、村の何人かと西軍の輸送隊として徴用された。戦争の最前線に出された佐代助は、惨憺さんたんたる光景を目の当たりにし、この時から酒を飲むことを覚えたという。
 戊辰戦争も終わり、世も明治と変わって新しい世の中になった明治5年、佐代助は三城潟の名主二瓶橘吾(きちご)の口利きで、三城潟の野口清太郎の養子となり、野口家の一人娘シカと結婚する。野口家の養子となった佐代助は、養家の農業を営むとともに、月輪村の佐瀬家に奉公に行っていた。
 明治10年、関都駅逓局(現月輪郵便局)が開局されると、佐代助は逓送人として働くことになる。明治20年からは、地元三城潟に三ツ和郵便局ができ、その時からは同局に転勤、三ツ和局―関都局間、三ツ和局―若松局間の逓送に従事、磐越西線郡山―若松間が開通するまでの約25年間にわたり務め、逓送人の前半生であった。
 佐代助の末の子清三が、北海道の野付牛町(現北見市)に住んでいた時、佐代助は同居したことがある。大正4年、英世が15年ぶりに帰郷するので、いったん三城潟に帰ったが、また北海道に戻った。コラム冒頭の写真がこの折りの肖像である。
 しばらくすると佐代助は三城潟に帰り、英世の猪苗代高等小学校時代の恩師小林栄のもとに住み込み、農事を手伝っていた。栄は、桑園、果樹、野菜の栽培、さらに養蚕も行っていたので、それ相当の仕事があった。栄のところには郡の農業技師が巡回してきて常に指導していたので、一般農家ではできないような珍しい農作物を作っていた。栄の家に出入りする人は多かったが、佐代助は子どもたちをかわいがっていたので「じいや、じいや」と言われて慕われていたという。
 英世がアメリカで活躍するころになると、英世が着た古着が佐代助のもとに送られてきていた。その中には、カバンや靴なども入っていて、佐代助は喜んで使用していた。佐代助には洋服などは似合わないが、佐代助は小柄だったので英世が着ていたものが合ったようだ。
 小林栄は著書『博士の父』で佐代助について次のように書いている。
 「多くの人は、父が酒飲みで家人に難儀をさせたことを悪く言うが、それではあまり気の毒だと思う。父上は決して悪い人ではない。まことにさっぱりとした良い人で、無邪気な人である。
 その体は小作りで、博士は父に似ていると思う。手先の器用な人で、農業などをしても巧者な人であった。感心なことに、博士の自慢話は少しもしたことがない。これはなかなか偉いことと感心していた。それに、月一度は必ず自分の生まれた村にある小平潟天神に参拝して、博士の成功を祈っていた」と。
小林栄 小林栄

 この小林栄は猪苗代高等小学校の教頭であった。野口英世はそんな小林栄に優秀な成績を認められ、小林の計らいで猪苗代高等小学校に入学する。英世の左手を治すための手術費用を集める募金活動も先頭に立って彼が行なったし、生涯に渡る英世の研究費用等を大きく援助した。こうした経緯の中にあって野口佐代助の位置づけは大きい。その佐代助は大正12年、72歳で病没した。お墓は野口家菩提寺・長照寺にある。
 そんな野口佐代助が、室町時代の連歌師「猪苗代兼載」と同じ紋所を持つ佐藤家の分家に生まれ、佐代助には兼載の血が流れていることは冒頭でふれた。このコラムの後半として、その猪苗代兼載と伊東マンショとの接点について述べてみる。
 猪苗代兼載(いなわしろ けんさい)享徳元年(1452年) - 永正7年6月6日(1510年7月11日))は、戦国時代の連歌師である。陸奥国(後の岩代国)会津の猪苗代城主の家に生れたが、早い時期に出家した。19歳のとき「河越千句」に参加し連歌師心敬の教えを受け、宗祇とも交流する。連歌界での活躍は目覚しく、38歳で北野連歌会所奉行及び師匠となっている。周防国山口の大内政弘の後援を得て、宗祇の「新撰菟玖波集」の編纂にも参加している。50歳のとき関東に下り、各地を巡り、下総国古河で没した。なお、和歌を二条派の尭恵に学んでいる。宗祇とともに連歌の最盛期を作り出した。
猪苗代兼載 猪苗代兼載

 こうした猪苗代兼載の足跡の中に日向国・伊東家との縁がある。伊東マンショの曽祖父・伊東尹祐(ただすけ)と祖父・伊東義祐(よしすけ)(1512年~1585年)は日向伊東氏第10代当主であるが、尹祐は和歌を二条派の尭恵に、義祐はその後の同じく二条派系統に学んでいる点で猪苗代兼載と深い関係があった。そんな兼載を祖とする佐藤家に連なる兼載系統の小桧山家には伊東マンショについての口伝が綿々と語り継がれている。それらは伊東尹祐と交流した猪苗代兼載による親密な関係から派生した代々に語り継がれている直伝である。第10代佐土原城主の伊東義祐のころに小桧山家にも伊東マンショに関する記録が口伝として遺された。
 そんな小桧山家に生まれた野口佐代助は幼少の英世に伊東マンショ像を熱心に語り伝えた。青年期の野口英世が格言として遺した「志を得ざれば・・・」とは、マンショの志を範とした。父佐代助はこころ篤くマンショの人物像を英世に語り伝えたのであろう。こうした経緯は英世という命名にも影響を与えた。
 その英世とは「世にすぐれる」という意味を持つ。名付け親は小林栄であるのだが、小林は小桧山家口伝から範とする「英(すぐる)」を伊東マンショに求めたようだ。「清作」という名を22歳で「英世」と改名した野口英世のその後の業績には目覚しいものがある。
 清作は22歳で血清療法の開発などで世界的に名を知られていた北里柴三郎が所長を務める伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)に勤め始めると「英世」と改名した。後年、その名は「世界の英世」となった。また、後世において野口英世がクリスチャンであったことはあまり知られていないが、その経緯にも伊東マンショとは深い結びつきがある。メリー・ロレッタ・ダージス メリー・ロレッタ・ダージス 
 英世の妻メリー・ロレッタ・ダージス(1876年6月1日 - 1947年12月31日)について述べると、さらにその結びつきは深まる。
 メリーはアメリカ合衆国ペンシルベニア州スクラントンにて炭鉱労働者の父アンドルー・ダージス、母フランセスの長女として生まれた。
 ダージス家はアイルランド系移民であった。ハイスクール卒業後、ニューヨーク市に移り、ニューヨークのレストラン(一説には、酒場)でロックフェラー医学研究所の野口英世と意気投合することになる。そこで英世は結婚話を持ちかけ、1911年4月10日にメリーは英世と結婚した。
 野口英世は基礎医学の分野で数々の業績をあげ世界的な名声を得て、ノーベル生理学・医学賞にノミネートされるほどの大学者になるが、それには妻メリーの献身的な支えがあった。1928年5月21日、英世がアフリカのアクラで黄熱病によって死去した後も、医学博士野口英世未亡人として慎みをもって余生を過ごしている。そんなメリーも1947年12月31日、ニューヨーク市にて動脈血栓のため亡くなった。
ウッドローン墓地  ウッドローン墓地
野口英世の墓 野口英世の墓
野口英世の墓2 英世とメリー夫人の墓標


 墓所は英世と同じニューヨーク市ブロンクス区ウッドローン墓地にある。英世とメリーとの間には子供はなかったが、メリー夫人は男児の人形を肌身離さず大切に愛玩していたという。マンショと命名されたその青い目のドールはメリーの亡骸とともにウッドローン墓地に埋葬された。
青い目の人形 メリー夫人の愛玩「マンショ」

そのウッドローン墓地はマンハッタンから北上し、途中「ヤンキー・スタジアム」を右手に見ながら車で40分程移動したニューヨーク州ブロンクス区にある。

                                        三馬 漱太郎

聖マンショ伝「帰らざる丘」No.0009

伊東マンショの足跡を追いかけながらイタリアについて感じること。No.0009ファビオ・ランベッリと「随想記イタリア」。
イタリア国旗


 2月20日は天正遣欧少年使節が日本を出発した日である。この日付が近くなると、いつしか長崎の港を自然に想い描くようになっていた。それは長年の追跡取材で染みついた三馬漱太郎の習性である。そうして長崎の港に幾たび訪れたことだろうか。前回のコラムでは長崎街道について触れたが、終点のこの港から先に広がる海峡を眺めると、さらに長崎からはローマへの道が広がっている。

 1950年代、漱太郎のイタリアは、皇帝ネロとルネサンスと、そしてオードリー・ヘップバーンの『ローマの休日』だけだった。60年代、私のイタリアン・テイストはアントニオ・グラムシらのイタリアン・コミュニズムが気になったことを除けば、フェリーニやパゾリーニの映画でほとんど占められていた。
 このため一時はブニュエル、ヴィスコンティ、フェリーニ、ベルイマン、アントニオーニ、パゾリーニしか観なかった。ブニュエルとベルイマン以外はすべてイタリア人だ。なぜイタリア人のつくる映画はあんなによかったのだろうか。近年では、より様々ことを考えている。
 70年代になると、一人のイタリア作家が漱太郎の憧れになった。イタロ・カルヴィーノだ。こんなに「方法の魂」に満ちた作家はかつていなかった。文学を超えている。
長崎港1 長崎港(古画)
 
 ウンベルト・ボッチョーニからルイジ・ルッソロまで、未来派に夢中になったのもこの時期だ。日本ではいまだ未来派についてちゃんとした理解がされていないように思うのだが、イタリアが未来派を輩出したこと、そこにダヌンツィオの宣告文学やマリネッティのおっちょこちょいがあったことは、もっと正確に受け止められるべきであろう。
 未来派を追っかけたついでに、プログレッシブ・ロックの「アレア」に痺れた。「アレア」を知っているだろうか。デビュー以来、イタリアでは最も独創的で衝撃的なジャズロックというふうに受け取られていた。ブリティッシュ・ロックにもジャーマン・ロックにも、むろんアメリカン・ポップスにもないものが躍如していた。他方、「ドムス」の編集デザインのポリシーにも脱帽した。
 80年代、突如としてアルマーニを筆頭にしたミラノ・ファッションが日本を席巻しはじめた。やがて「イタ飯」が大流行し、いままでスパゲッティだと思っていたものが「パスタ」だというふうになった。えっスパゲッティじゃいけないの? ピザも電話をすると届くようになった。なんだか変なイタリアが一気に押し寄せてきた。
 ほぼ同時に、町の珈琲屋に突如としてエスプレッソやカプチーノというメニューが出現した。漱太郎にはその意味がさっぱりわからず、なぜ若い子が得意気に「わたし、カプチーノ」「俺、エスプレッソ」と言っているのか、自分だけが取り残されたような気がしたものだ。
ミラノのドゥオーモ ミラノのドゥオーモ
 そういう中で、エットーレ・ソットサスやアレッサンドロ・メンディーニのデザインワークの実験的細部がドどっと紹介されて、目を見張った。アルマーニやベネトンばかりがイタリアじゃないのが、これでよくわかった。
漱太郎はダンテに耽り、ウェルギリウスや古代イタリア神話やルネサンス神秘主義に酔った。
 そうして90年代、ウンベルト・エーコの汎記号論と、ジャンニ・ヴァッティモの「弱い思想」に驚いた。
 エーコの方法はカルヴィーノとは異なるイタリアの知性の極北を示してつねに多義的でたのしく、ヴァッティモは絶対性や客観性に依拠する「強い理性」を切り崩す手口がみごとだった。なんだ、フランスのポストモダン思想よりおもしろいじゃないか。そう、感じた。それらはいくぶん九鬼周造の「異質性の導入」を思わせもした。
 こうして21世紀に入ると、漱太郎はイタリアが新たなネットワーク自治を試みていることに気がついた。そしてアントニオ・ネグリによって、久々にイタリアの政治感覚が何たるかを知ることになる。
 それとともにファビオ・ランベッリに出会い、『イタリア的考え方』によって、実はまったくイタリアを知っちゃいなかったことを知ったのである。
 そのファビオとは何度か話しこんだ。実におもしろいイタリア人だ。イタリアのラヴェンナの生まれで、京都大学を振り出しに、ヴェネツィア大学の日本文化科を出て東京外語大で山口昌男に学んだ。山口先生の薫陶を受けたからおもしろいのか、イタリア人の日本研究者だからおもしろいのかは、わからない。
ファビオ・ランベッリ ファビオ・ランベッリ
 その後はカリフォルニア大学やスタンフォード大学やウィリアムズ大学で教職をとって、いまは札幌大学教授である。だから、れっきとした知識人であるのだが、ちっとも堅くない。ラザニアのように柔らかく、どこからでも切れる。話はどこにでも飛んでいく。喋っているととまらない。日本語はかなり堪能である。しかも(フランス語も英語も堪能である)。
だから日本文化やサブカルについて、ファビオと議論するのは避けたほうがいい。うっかり密教や修験道や神道のことを持ち出そうものなら、たちまち精度の高い蘊蓄を披露され、ときにたじたじになる。専門が比較宗教学だからその手のサブジェクトに詳しいのは当たり前ともいえるものの、その見方が格別にいいのだ。小津安やニンテンドー文化や「もえ」についても話さないほうがいい。めっぽう詳しい。そういうファビオという男性が案内するイタリアは、日本人の予想を大きく裏切ることになる。
一時、ご夫婦でイタリア旅行を何度もエンジョイしている野田一夫先生が、「あのファビオ・ランベッリはいいね。ぜひ君との対談を聞きたいね」と言っていた。
それが、どのように日本人のイタリア観を裏切るかというと、たとえば、イタリアのどの店でもカンツォーネなんて聞こえてこないという説明だ(むろんカラオケはばっちり流行した)。
 イタリア人は歌うこと(カンターレ)は好きなのだが、日本人が好きな「サンタ・ルチア」「オー・ソレ・ミオ」「帰れソレントへ」をカンツォーネなどとは思っていないし、パヴァロッティのように突如として人前で大声で歌うことなんてない。そういうことが好きなのは日本人のほうなのだという説明なのである。
 だいたいイタリア人は店では歌わないらしい。そういう店も少ない。イタリア人は家族とともに歌う。イタリア人にとっての歌は社会であって家族であって、不安や恐怖をあらわすための文化表象なのだとファビオは語る。だからイタリアを代表する「カンタウトーレ」(シンガーソングライター)は、悲劇的な自殺をとげたルイジ・テンコが歌った『待ってみて』のほうにあるというのだ。
 イタリア人を「イタ公」と呼び、陽気で明るくて、怠け者だが、女の子を口説くのだけは熱心な連中だとみなすようになったのがいつごろのことなのかはわからないが、ファビオのいう『イタリア的考え方』とは、このようなイメージがほとんど当たっていないことをこんこんと説明している。つまりは、「アレグリーア」(陽気で楽しく生きること)では、イタリアを説明できないというのだ。
そのファビオによると、イタリアの本質はむしろ「暗い」のだ。「フルビツィア」(能動的な不信)によって成り立っているというのだ。
 このことは、セリエAで知られるサッカー王国も、イタリアン・サッカーとしてはあくまでも「カテナッチョ」(守備)をモットーとしていることにもあらわれているのだという。
 これらは何に由来するのか。イタリア人に滲みこんでいるカトリックの宗教観に由来する。
イタリアの高校では3年間にわたってダンテの『神曲』をみっちり読むようになっている。漱太郎も何度か聞かされたのだが、イタリアのデザイナーやアーティストと話していると、たいてい好きな『神曲』の場面の一節や二節を話してくれる。日本のデザイナーやアーティストで『源氏』や『枕』や『方丈記』の一節を語る者はほとんどいない。好きな芭蕉の句が決まっているアーティストだってほとんどいないだろう。
 ところがイタリアではダンテは生きる知恵なのである。アートとダンテは切り離せないのだ。それとともにその知恵はイタリア社会の宗教観に組みこまれている。その宗教観は地域のカトリック教会とともにつくられていて、イタリア社会のありとあらゆるところに生きている。無宗教の者すらカトリック宗教観についてはかなり深い知識をもっている。
バチカンの遠景 バチカンの遠景

 そもそも日本の自民党に当たるのは、イタリアではキリスト教民主党なのである。90年代まで、イタリアはずっとキリスト教民主党を中心に内閣をつくってきた。戦後の首相は大半がこの正当の有力者が占めてきた。
日本と同様にたいていは短命な内閣だが、そのかわりずっと連立を組んできた。一党独裁というわけではない。あまりに生活に結びつきすぎているといったほうがいい。
 キリスト教民主党はバチカンと教会と結びついていて、神父が選挙運動することなんて日常茶飯事になっている。党が全国各地にもっている事務所にも地域の信仰感覚が組みこまれている。政教分離の日本とは根本的に違っている。
 加えて、イタリアにはどの町にも「バール」があって、エスプレッソやカプチーノを立ち呑みしながら、語りあったり、新聞を読んだり、ときに政治議論をする。そういうバールの性格は地域に根差している。ACミランのファンが集うバールとユベントスを応援するバールは違う。かつての18世紀のイギリスのコーヒーハウスに近い。バールはキリスト教民主党とも、また共産党・社会党・社会民主党・共和党といった政党の活動拠点とも重なる。
このように、イタリアにおけるカトリシズムは日本人の想像を超えて政治や生活の細部に及んでいる。どんな町や村でも守護聖人を祝う祝日をもっている。ミラノでは聖アンブロシウス、トリノでは聖ヨハネ、ナポリでは聖ジェンナーロ、ローマでは聖ペテロ。が、そのくせそうしたカトリシズムに喘ぐのだ。
 ピエトロ・ジェルミの『イタリア式離婚狂想曲』という映画で、イタリア人がいかにキリスト教によって離婚しにくくなっているか、おおいに笑わせられたけれど、あの映画に近い社会習俗はいまでもイタリアで生きているのだ。
 ファビオは、こうしたカトリシズムの浸透がイタリア独特の「家族社会主義」と「悲観主義」とを醸成しているのだという。それが「フルビツィア」(能動的な不信)というものになっているというのだ。
 イタリア文学には「ヴェリズモ」(真実主義)という流れがある。これを代表するのはジョヴァンニ・ヴェルガで、イタリアの高校生なら誰でも知っている。日本でいえば漱石や谷崎や川端や三島にあたる。そのヴェルガの『マラヴォリア家の人々』や『マストロ・ドン・ジェズアルド』は、さまざまな人間模様がいかに工夫されようと挫折や破局をともなうということを描いた。「フルビツィア」だ。イタリア的悲観主義なのだ。
 しかし、これがイタリア文学が見通してみせた“真実”なのである。確実なことなんて何もないということ、アイデンティティなんて守れないということ、そのことを感知することをイタリア文学は示し、またそのことを甘受することをイタリア人は恐れていない。
 いまおもえば、そのような悲観主義のを象徴的に映像化してみせたのが、ヴィスコンティやパゾリーニだった。私はファビオと語り合いながらすぐにそのことに思い当たった。
 とくにパゾリーニはイタリア文化のひとつの極点を示していた。三部作『デカメロン』『カンタベリー物語』『アラビアンナイト』では人間の古典的社会像がどういうものであったかを描き、『テオレマ』『アポロンの地獄』『王女メディア』では神秘というものの起源にひそむ本質を告示した。
 そのパゾリーニが撲殺されて劇的な死を迎えたということは、日本人にとって三島由紀夫がどのような死に方をしたかということに匹敵する意味をもったのである。ちなみにパゾリーニも三島もホモセクシャルなのである。
ぼくはファビオとまだまだ話してみたいことがいっぱいある。イタリアのことももっと知りたいが、ファビオと話していると日本がわかるのだ。それは伊東マンショという男の実像を求め続けていると日本が見えてくること同じようなものである。
 そのファビオは、日本がイタリアのネットワーク社会や「南方知」をもっと知るほうがいいと言っている。日本が親和性をもつべきはアメリカやアジアではなく、ヨーロッパの、とりわけイタリアではないかとも奨めている。これはごくごく暗示的なことにすぎないが、なにしろシェイクスピアの作品のうちの13がイタリアを舞台にし、モーツァルトのオペラのうち6つがイタリア語の作品なのである。
 しかし、いや、ファビオはイタリアに学べと言っているのではない。もともと日本もそういう社会だったのではないかというのだ。
 ふりかえってみると、日本とイタリアは似ているとも似ていないともいえる。皇室とバチカン、古代ローマと奈良平安朝、ルネサンスと五山文化、イタリアン・バロックと慶長寛永寛文社会、明治維新とガリバルディらのイタリア統一、昭和軍国主義とイタリア・ファシズム‥‥。比較したいことも少なくない。
 その作業や判定は両方の国をよく知るファビオや、塩野七生さんや、『イタリア~な日本人』を書いたマリーノ・マリンらの判定にまかせるしかないが、イタリア贔屓の漱太郎としてはそろそろジャパニーズ・イタリアンな思想を応援するほうにまわろうかという気分にもなっている。まずはレオナルド・シャーシャを、この連載コラムのどこかでとりあげてみたい。
長崎港2 現在の長崎港

 明日は2月20日である。生憎のボストン生活で少年使節らが出航した長崎港には行けないが、それと同様に、久しくお会いしないファビオ・ランベッリと語らってみたくなった。

                                             三馬 漱太郎

聖マンショ伝「帰らざる丘」No.0008

伊東マンショの越えた「日見峠」と「異邦人・雲海」との出逢い。長崎街道を行く中世の旅。No.0008

日見峠4

東海道が整備される以前、日本のあらゆる街道の中で長崎街道ほど重要な街道はなかったであろう。長崎街道は新しい文明の往来する日本の貴重な街道であった。その距離は約223.8kmで、その間にある多くの峠を伊東マンショは越えたことになる。
 日本史上において幾多の著名な人物がこの街道を往来したことか。それらの人物達は皆、南蛮の文化に意図的に通じ合おうとし、峠に立つ旅人となり、かの幕末の吉田松陰が初めて生国の外に目指したのもこの長崎街道であった。
 その長崎街道(ながさきかいどう)は、豊前国小倉(福岡県北九州市小倉北区)の常盤橋を始点として、肥前国長崎(現長崎県長崎市)に至る路線である。57里(約223.8km)の道程で、江戸時代には途中に25の宿場が置かれていた。小倉城下の馬借町を拠点として伊東マンショが布教活動を行なっていたことは前回のNo.0006宮本武蔵に関するコラムで既に述べたが、長崎街道においては更に一人の異邦人との交流があったことを忘れてはならない。
 宮本武蔵と佐々木小次郎が戦った巌流島の決戦は1601年のことであるが、その7年前の1594年に伊東マンショは長崎街道のと或る峠において、と或る人物と出逢うことになる。この出逢いにより両人共にそれぞれの進むべき道を確信することになるのである。その出逢いの峠を「日見峠」という。
日見峠5 日見峠遠景

 長崎街道は小倉と長崎をできるだけ最短距離で結ぶため直線状に整備された。このため、遠賀川沿いや佐賀平野など平坦な箇所もあるが、概して道程は険しく、最大の難所である冷水峠(福岡県飯塚市・筑紫野市間)や、最後の難所である日見峠(長崎県長崎市)のほか、現在の佐賀県と長崎県の県境である俵坂峠(佐賀県嬉野市・長崎県東彼杵町間)などがある。これらの難所の多くは、筑前国・筑後国・肥前国の三国の境界が接する地点である。そこには現在も福岡県と佐賀県の境界である三国峠(福岡県筑紫野市(筑前)・福岡県小郡市(筑後)・佐賀県基山町(肥前)間)などの難所もあった。
その数多い峠の中で、二人の出逢いは日見峠であるのだが、この峠は、鎖国時代の中にあって、唯一、異国文化の岐路となり当時の新しい文明を支えた貴重な峠であった。
日見峠2

 二人が出逢う以前の1592年、その日見峠を越えた朝鮮人がいた。その男は、豊臣秀吉が朝鮮半島に出兵した文禄・慶長の役(壬辰倭乱・1592~98年)で捕虜となり、後に佐賀藩の書家・学者として仕えた洪浩然(こうこうぜん)という男である。
 その子孫が2012年2月17日、韓国から来日し、佐賀市にある浩然の墓に参るほか、日本側の洪家の子孫と400年の歴史を超えて“再会”を果たすという連絡を三馬漱太郎が知ったのは2011年の10月であった。
 来日するのは浩然の兄の子孫29人。県立名護屋城博物館(唐津市鎮西町)の企画展「洪浩然とその家系」(17日~4月8日)に合わせた来日で、日本側の子孫から寄贈されている遺品を見るほか、墓がある佐賀市の阿弥陀寺参拝などを予定しているという。
洪6 洪浩然の墓(阿弥陀寺)

 日本側の洪家関係者は佐賀県内をはじめ、東京都在住で直系の澤田多惠子さん(62)=東京都=ら30人が駆けつけて出迎える。一行は17日に福岡空港で合流して名護屋城博物館に向かい、佐賀市内に宿泊。18日は阿弥陀寺と高伝寺に参拝し、徴古館で鍋島家の関連資料を見学する予定である。
 その予定の同日夜は鳥栖市に宿泊し、子孫にあたる西村隆夫さん(78)経営のレストラン「花やしき」で“家族会”を開くそうだ。西村さんは「母が元気なころは韓国の研究者が訪ねてきたこともあったが、まさか韓国の子孫が分かるとは考えもしなかった。交流ができるのは素晴らしい。再会を楽しみにしている」と、その感慨の深さをボストンの三馬漱太郎に知らせてくれた。
 浩然は鍋島直茂軍に捕らえられた時、12歳だった。佐賀城下に連行された後、京都五山で学び、儒学と書の大家として初代藩主勝茂に厚遇される。1657年、勝茂の死去に際して76歳で殉死した。その本名が「洪雲海」だったことが既に判明している。
 福岡県・英彦山の鳥居に刻まれた銘文(写真)がある。佐賀県・徳善院の鳥居の額も洪浩然の筆跡である。浩然は日本史上においてメジャーではないのかも知れないが、日本人の記憶に止めるべき意義を有した人物であると三馬漱太郎は考えている。
洪7 英彦山の鳥居

 洪浩然(こう・こうぜん/1582~1657)は、文禄の役勃発の翌年(文禄2年・1593年)の「晋州(チンジュ)城の戦い」の際に、鍋島直茂軍によって捕らえられて佐賀に連行され(当時12歳)、その後鍋島直茂・勝茂父子の側近くに仕えた人物で、書家・学者として有名であることは既に述べたが、明暦3(1657)年4月、勝茂の死の報に接した洪浩然は、自邸で「忍 忍則心之宝(忍ぶはすなわち心の宝)、不忍身之殃(忍ばざるは身のわざわい)」と書き遺し、阿弥陀寺(現佐賀市木原)で「追い腹」を切りました(殉死)。 その阿弥陀寺には、洪浩然と洪家一族の墓がある。
洪3 浩然の書

 洪家・西村家の御子孫の澤田多恵子さん、西村慶子さん、西村潤三さんと三馬漱太郎との交流は20年以上も続いている。こうした交流の場で、幾度となく日見峠のことが大きな話題になっていたのだが、洪浩然がこの日見峠で伊東マンショと出逢い、その経緯について洪家系の人々は特に熱く語られるのである。
 鍋島家文書によると1594年1月11日「羽柴秀次は、鍋島直茂へ(鈍金)2巻の献上を謝す。また高麗国静謐と累年在番を慰労する」とある。この詳細は白江範秀に伝達させた旨が記されている。この伝達を受けるために鍋島家の代参として日見峠へと向かったのが洪浩然であった。
日見峠 日見峠の関跡

 このとき浩然は来日して二年目、まだ日本語に馴染めずたどたどしい言葉しか繰り出せずに代参としての責務に悩みながら峠を目指したのだという。浩然14歳のことだ。
 その浩然は羽柴秀次の使者・白江範秀との対面にあたり守備良く役目を果たせるのかに全く自信がなかった。そんな理由から、浩然は三日前から峠の小さな宿に到着し白江の到着に備えた。浩然はその小さな宿の名を刀鍛冶の営む「田中屋」であると覚書に記している。これは後の回想ではあるが、その宿の名が浩然にとってはいかにも奇妙であったからだ。
 文禄4年(1595)7月8日、関白豊臣秀次は、秀吉より高野山で蟄居することを命ぜられる。これに聚楽第の秀次は重臣たちを集め、どう対処かを相談させた。この時、三好家譜代の士で、秀次の乳父である白井範秀は言う。「秀次様にはいささかの誤りもありません。皆これ、石田三成などの讒言であり、高野山に移られる必要などあるでしょうか?と。どうか私、粟野、熊谷のうち一人を伏見にお遣わし下さい。太閤殿下の御不審の事、逐一申し開きいたしましょう。その上で太閤殿下がお聞き入れ無く、押して討ち滅ぼそうと軍勢を派遣されるなら、この聚楽城を枕として討死するつもりで戦いましょう。この聚楽城を持ってすれば何万騎が攻め寄せようと、恐れるほどのものですか。
 聚楽を攻めあぐねる事態になれば必ず、太閤自らご出馬があり、自身で御謀反の仔細を聞こうとなさるでしょう。その時こそ罪なき次第を一々に申し開きするのです。その言葉をお聞きなされば、太閤殿下の疑念も解消されるでしょう」と。
 秀次はこれを聞いて「汝の言葉、善いと思う。だが高野山に登れといわれているのに、聚楽に居ながらにして申開きをすると言うのはこれは不義であろう。とにかくご命令通りに高野山に移り、高野山からお前たちを使わして申し開きをすべきだろう。「そのようにしよう。」「それは甚だ悪いお考えです!こちらに誤りの無いことを一言も伝えることなく太閤殿下の命令に従うのは、世の中の人々に”やはり関白はなにか間違いを犯したのだ”と推量されます!。「どうかお考え直しを!」
 しかし秀次はこれを聞かず、高野山に登った。すると直ぐに追っ手が来て、たちまち切腹となった。この時にいたって秀次は、白井の言葉に従わなかったことを後悔したと言う。白井範秀はこのことを予め覚悟していたので、諸人に構わず京に戻り、日頃より頼んでいた四条の聖雲院を訪れ仔細を語ると、そこで殉死して果てた。人々、彼の死を大いに惜しんだと言う。秀次事件のさい、秀次のブレーンの一部に聚楽で籠城という計画があったのは確かなようだ。かなり大規模で堅固な城郭だったと言う聚楽の防御力をバックに秀次が免罪闘争をした場合、はたしてどのような結果になったか、興味深い空想である。このような空想を浩然は「田中屋」という宿名を回想しながら自らも「かの宿の主の刀鍛冶とは果たして誰なのか」と空想したと伝えている。
 浩然はなぜそのような回想をするかに至ったかについて次のように書き留めている。「白江範秀という御使者の言に礼節を尽くし無心にてあたかも父上のお言葉の如く接しなささいませ」と、助言せし人物がいたという。またその人物は弘法大師・空海の神秘をそこに説いたという。この助言によって浩然は日向国に高屋山陵という日本の聖地があることを知らされた。またその聖地にほど近い位置に「黒貫の寺」があるという。
 こうした浩然の書き遺した一条から「田中屋」という宿名と「黒貫」の由来をたどりながら到着してみると、そこは伊東マンショが生まれた現宮崎県西都市都於郡(とのこうり)にある黒貫寺であった。また助言した刀鍛冶の行方を探りあてると「田中國廣」なる人物となった。黒貫寺は真言宗の寺で伊東家の菩提寺であり、田中國廣は現宮崎県綾町に生まれた名高い刀工である。このように長崎に近い日見峠には伊東マンショに関する秘話が刻まれている。
黒貫寺 黒貫寺
田中國廣 田中國廣の像

伊東マンショと洪浩然、洪浩然と田中國廣、田中國廣と伊東マンショ、この三者が織り成した関係の詳細は後のコラムにて述べることにしたい。今回は洪家ゆかり人の来日の知らせをいただき、かって訪ねた日見峠からの遠景を思い出したために、その一部を取り上げみた。長崎街道には伊東マンショの面影を数多く忍ばせている。

「帰らざる丘」聖マンショ伝・No.0007

伊東マンショはザッケローニ家の先祖を助けた命の恩人であった。
 アルベルト・ザッケローニ(Alberto Zaccheroni)をご存知であろうか。1953年4月1日生まれの現在57歳。 彼は三馬漱太郎と同年齢のイタリア・エミリア=ロマーニャ州出身のサッカー指導者である。
 2012年1月10日、三馬漱太郎は半月ほどボストンに赴くのだが、そのザッケローニが成田空港に出向いてくれ、見送り前の小1時間ほど空港のラウンジで久しぶりの再会を果たした。彼の温かい眼差しの奥には、いつもサッカー・マンとしては異色の趣きが漂っている。
アルベルト・ザッケローニ監督 アルベルト・ザッケローニ監督 
 ザッケローニは地元メルドラでサッカー選手をしていた。しかし肺の病気や怪我に苦しみ、20歳を前にして引退した。現役時代のポジションはサイドバック。その後は、家業のペンションの従業員を務めたり、保険代理店を経営したりしながら、指導者の道を目指した。
アルベルト・ザッケローニ監督5

 1983年、30歳で当時セリエC2のチェゼナティコの監督に就任。その後、指導者として経験を積み、ウディネーゼ、ACミラン、SSラツィオ、インテル、トリノFC、ユヴェントスFCとイタリアのクラブの監督を務める。「ビッグ3」と呼ばれるACミラン、インテル、ユヴェントスをすべて率いた経験を持つのは、ジョバンニ・トラパットーニとザッケローニのふたりだけである。
 ACミラン監督時代には、就任初年度の1998-1999シーズンにセリエAでリーグ優勝しスクデットを獲得。同年のイタリアサッカー選手協会年間最優秀監督賞を受賞した。そのザッケローニは、イタリアサッカー伝統の超守備陣形のカテナチオではなく、攻撃重視の3-4-3フォーメーションを好む監督として知られている。
そんなザッケローニ氏であるが、異色だと感じるのは、彼が幾度となく体験した解任劇をつぶさに聞かされ続けてきたからだ。
 ウディネーゼ時代は、
 1995年から1998年まで率いたウディネーゼでは、大胆な攻撃サッカーを展開。得点王となったビアホフやアモローゾを擁して1997-1998シーズンを3位という好成績で終え、UEFAカップ出場権を獲得した。この実績が認められ、翌シーズンからACミランの監督に就任することになった。
 だがACミラン時代は、
 ウディネーゼから移籍させた教え子のビアホフやヘルヴェグに加え、ズボニミール・ボバンらを中核として優勝争いを展開。終盤に失速したラツィオを逆転しスクデットを獲得する。しかし、翌1999-2000シーズンのCLでは最終節でガラタサライに逆転負けを喫し1次リーグで敗退。選手層の薄さもあってリーグ戦も3位に終わる。翌シーズンは自らのシステム3-4-3を貫こうとしたことで、4バックを標榜するベルルスコーニ会長と対立。チームも低迷(CL2次リーグ敗退)したことにより、シーズン途中で更迭され、後任にチェーザレ・マルディーニが就任した。
 またSSラツィオ時代は、
 2001-2002シーズン序盤にCLでの敗戦により解任されたディノ・ゾフの後任としてSSラツィオの監督に就任。ミラン時代とは異なり4バックも用いる柔軟な采配を見せたものの、CLではグループリーグの突破に失敗。ローマダービーで1-5の惨敗を喫するなどリーグ戦も6位と低迷。最終節にインテルの優勝を阻止する勝利(4-2)を挙げ意地を見せたが、シーズン終了後に解任された。
 しかもインテル時代には、
 2003-2004シーズンの途中、エクトル・ラウル・クーペルの解任を受けてインテルの監督に就任。当初は無敗で快進撃を続けたが、CLはグループステージで早々に敗退。ホームのアーセナル戦では1-5の大敗を喫した。リーグ戦も4位に終わり、翌シーズンのCL出場権は確保したものの、モラッティ会長の信頼を得られずシーズン終了後に辞任。これは後任候補にロベルト・マンチーニが浮上していた中での実質的な解任であった。
 トリノFC時代でも、
 2年のブランクの後、2006年9月、セリエAに昇格したシーズン開幕3日前にカイロ会長と対立したジャンニ・デ・ビアージが退任したトリノFCの監督に急遽就任する。だが、チームは下位に低迷、2007年2月のACキエーヴォ・ヴェローナ戦では、エースのアレッサンドロ・ロジーナを外して惨敗するなどリーグ6連敗し、途中解任された。
 はたまたユヴェントス時代には、
 3年のブランクの後、2009-2010シーズン途中より、成績不振で解任されたチーロ・フェラーラの後任としてユヴェントスの監督に就任した。契約期間はシーズン終了までの4ヶ月。しかし、チーム状態の改善に失敗し、ELでは、決勝トーナメント2回戦の第2戦でフラムFCに1-4と大敗を喫して敗退。また、リーグ戦は7位に終り、CL出場権も逃した。率いたリーグ戦17試合の成績は6勝4分7敗と負け越しであった。就任直後は3-4-1-2を、後に中盤菱型の4-4-2を使用した。シーズン終了後、契約更新されなかったにもかかわらず、2010年5月に行なわれたユヴェントスの北米ツアーに監督として同行。指揮をとったニューヨーク・レッドブルズとの試合には1-3で敗れた。
彼から直接聞かされた解任談を要約すると以上である。
 しかし彼は根っからの陽気なイタリア人である。連なる解任劇を自らがさもパロディーのシアターでも眺めみるような間接的な口調で笑い飛ばしてきた。

アルベルト・ザッケローニ監督4

 そのようなザッケローニ氏と会話を交わし続けていると、破綻や失敗というものが怖さや辛さというものを全く感じさせなくなるから、彼はやはり異色なのだ。おかげで氏からはたくさんの勇気をいただいた。
 かくして彼の日本代表時代が始まることになる。
 2010年8月30日、サッカー日本代表監督に就任。これは2年契約で2年間の延長オプション付きである。緊張感を保つため本人は単年契約を希望していた。これが母国イタリア以外の国での初めての監督就任であり、ナショナルチームを率いるのも初となる。
 ザッケローニは8月30日に契約合意し、9月4日のパラグアイ戦、9月7日のグアテマラ戦はビザの関係で指揮を取れないためスタンドで観戦した。
 代表監督としての初采配は10月8日に埼玉スタジアム2002で行われた国際親善試合で、アルゼンチンに日本代表史上初めて勝利した。
 また011年に行われた就任後初の公式大会であるAFCアジアカップで優勝へ導いた。国内リーグでの優勝経験はあるものの、国際大会では自身初のタイトルとなった。
 監督に就任してから1年間無敗が続いていたが、しかし、順風満帆ではない。2011年11月15日の2014 FIFAワールドカップ・アジア3次予選対北朝鮮戦にて、すでに日本は予選通過を決めていたものの0-1で敗れ、無敗記録は16試合で途絶えた。対北朝鮮戦であるところが、いかにもザッケローニ氏らしい敗戦である。
この敗戦が評価を下げたのか、アメリカのスポーツサイト・FOXスポーツが発表した「2011 In Review: Best Masterminds(2011年サッカーベスト指導者TOP10)」において第10位に選ばれた。しかしIFFHS(国際サッカー歴史統計連盟)が1月2日、「2011年世界の代表監督ランキング」を発表。日本代表のアルベルト・ザッケローニ監督が5位にランクインする。
サッカー

 父のアダモ・ザッケローニが語るには、幼少の頃にジュースのフタを選手に見立てて、よくフォーメーションを考えていた。また、日本代表監督の話があった際はとても喜んでいて、自分からお金を払ってでも日本に行きたいとしており、一流の指揮官を目指す為に代表監督のキャリアを積みたかったとしている。また、少し前には、スペインの名門レアル・マドリードの監督候補に名前が挙げられた。
 こんなアルベルト・ザッケローニ監督には二つのエピソードを述べねばならない。
 エピソード「1」
 2010年10月8日、監督と中田英寿の対談が行われた際に、「日本にいいイメージを持っていたからね。だから国によっては断った。過去に外国の強豪クラブや代表チームからオファーをもらったこともあるが行く気にはなれなかった」「日本は自分たちの特徴に合わせたサッカーをすべきだと思う。つまり今のテクニカルなサッカーをスピードに乗せてやることだ。確実に言えることは私は日本の伝統を変えていくつもりはない。その伝統の中に入っていくのはこの私であって日本人が私に合わせるのではない」と語った。

アルベルト・ザッケローニ監督2

 エピソード「2」
 2011年2月5日、チェゼナティコで市民表彰を受けた際の記者会見で日本について、「教育、しつけ、清潔さ。すべてが素晴らしい。物価は2倍だが、お金を払うのも気持ちいいぐらい」「私は半分日本人だと思っている。日本に恋している」「大変感謝している。君が代を歌えるように努力したい」と語った。
 この二つのエピソードからも知れるようにザッケローニ監督は日本との相性について、いつもポジティブである。しかもそのポジティブ性には明確な原点があり、言動力となるエネルギー源がイタリアにあった。
 1984年に三馬漱太郎はイタリアの港町(チェゼナティコ)を訪ねた。チェゼナティコ(Cesenatico) は、人口25,375人のイタリア共和国エミリア=ロマーニャ州フォルリ=チェゼーナ県のコムーネの一つである。
 そこはアドリア海に面した漁師町であるのだが、訪問の目的は「レオナルド・ダ・ヴィンチが設計したという美しい港と運河」の調査。今も中世の船が停泊しているなど、風情のある街である。滞在期間は約一ヶ月ほどであった。
チェゼナティコ チェゼナティコの港
 この街にあるアドリア海北部最大級の魚市場に出向くと魚介類の豊富さには驚かされた。さすがにイタリアの台所である。知る限りほとんどの近海魚が水揚げされており、欧州全域から大型の魚が運ばれて来ていた。アドリア海は地中海の北側に位置し、特に強い海流があるわけではないので、魚が定着し、とても優しい味に肥えているという市場関係者の話通りにサバ、鰹、ヒラメ、かれい、鯛、ぶり、ぼら、かさご、エビ、たこ、貝類など新鮮かつ豊富な姿で水揚げされていた。その市場関係者は「マグロはイタリアではトンノと呼ばれている」語ってくれたが、その人がアダモ・ザッケローニなのである。つまりアルベルト・ザッケローニの父親であった。
チェゼナティコ3

 そのアダモは「日本のからすみにあたるボッタルガにも、まぐろのボッタルガとぼらのボッタルガと二種類あり、どちらも高級食材として重宝されている」と言い「こうしたアドリア海の食材を数多く使い、日本のお寿司を創作しみるのもいいのではないか」と指南してくれた。その指南は「日本料理はやはりこうした新鮮な季節の食材を活用する事に長けているだろう。つまり世界中どこででも活躍の機会を創出できるものだからね」とまでコメントを足し加えるほどに日本という国に深い理解を示し、愛情が注がれていた。
アダモ 父アダモ(還暦当時)

 そこで本コラムNo.0007の本題に入ることにする。
 ザッケローニ家では数百年語り継がれている、とある伝承があった。その事をアルベルト・ザッケローニ監督の父アダモから聞かされとき、三馬漱太郎はまた一つ歴史上の日本人の足跡に新しい情報を書き加えたことになる。
五百年以前、ザッケローニ家の先祖はイタリアのピサで暮らしていた。その祖先の一人にマロンセという人物がいる。そのマロンセが「3月で雪の降る寒い夜中、石工の仕事仲間と食事会に出て、川沿いを歩いていた時の事、まだ道があると思って、一歩後ろに下がったら、そこは運河・・・・・ドボ~ン」マロンセの友人は、振り返った時に姿が突然消えたので、焦ったそうだ。その焦りからか、友人も足元を滑らせて一緒に運河へと転落したそうだ。
先祖が洋服のまま、暗い運河に落ちてしまうなんて、注意力が無いだけかどうかは何とも言い難い気分だが、とアダモは表情を渋くして話し始めた。
 結果、運良く通りがかりの青年が落ちた二人を見つけ、腕を伸ばして何とか引き上げてくれたそうだ。暗くて、登るところも無かったので、そのままだったら凍え死んでいたのであろう。こうして二人を助けてくれた人物を明るい場所で確認したが、その人はイタリヤーノではなかった。びしょ濡れで凍えそうな二人を見て、その黒い髪をした黒い瞳の青年は、二人の体を温める為に枯葉と枯木とをかき集め焚火を用意してくれたそうだ。
 その恩人こそが当時日本から使者として遣わされローマへ向かっていた日本人であり、伊東マンショであった。こんな伝承を今に遺すザッケローニ家では日本人とは恩ある人なのである。
アルベルト・ザッケローニ監督3

 以来、アダモの子息であるアルベルト・ザッケローニ監督とは妙な奇縁で結ばれている。そのアルベルトに初めて会ったのが1984年。そのころアルベルト・ザッケローニは、セリエC2のチェゼナティコの監督に就任して二年目の31歳であった。当時そのアルベルトが現在の日本代表監督を務めるなど想像だにもしなかったが、長い友好の中でアルベルトに最初にワサビ飯を試させたのは三馬漱太郎なのであるから、二人ともそろそろ、そんな過激な飲食は控えなければならない年齢になったことを省みると、現在チューブ入りのワサビが大好物であり、白米にもワサビを混ぜ込んで食べるほどであるアルベルト・ザッケローニ監督の健康が少々心配になっている。
アルベルト・ザッケローニ監督6 ワサビ飯


                                 三馬 漱太郎

「帰らざる丘」聖マンショ伝・Mancio No.0006

宮本武蔵は伊東マンショの教理によって五輪書の境地に至る。その出逢いは小倉城下であった。
宮本武蔵3

 世界中でお手本と信じられていた米国民主主義のあり方に疑問を投げかける三馬漱太郎が30年前にはいた。その頃の1975年当時の心境を思い起こしてみると、21世紀となった現在、その疑問は益々深まっている。
1975年4月30日のサイゴン陥落時がベトナム戦争の終戦であったが、敗戦国・日本の復興期に育った三馬漱太郎にとって、この戦争期に感受した青年の胸中とはまことに薄暗いものであった。
アメリカ

 そもそもベトナム戦争(英語: Vietnam War)は、インドシナ戦争後に、ベトナムの南北統一を巡って起こった戦争であるし、第一次インドシナ戦争の延長上にある戦争のため、第二次インドシナ戦争とも言われる。
これは宣戦布告なき戦争であるため、ベトナム戦争がいつ開始されたかについては諸説あり、ベトナム人同士の統一戦争という観点からは、南ベトナム解放民族戦線が南ベトナム政府軍に対する武力攻撃を開始した1960年12月という説が一般的である。だが、アメリカ合衆国と北ベトナムの戦争という観点からは1965年2月7日の北爆を開戦とする説もあり開戦の背景はまことに複雑化した大戦であった。
ベトナム戦争 ベトナム戦争

 この大戦に至る経緯の時計を巻き戻してみると、1945年8月15日に日本軍が連合国に対して降伏したことに始まる。
 日本が降伏すると、アジアやアフリカにある多くの植民地で、支配国である連合国の疲弊を好機と見て、軍事行動を伴う激しい独立運動が発生した。この動きは、植民地の維持を目論む連合国と、植民地からの解放を欲する植民地国民の間で紛争が頻発したことを物語る。
 アジアやアフリカ、特にアジアの独立運動は、戦勝国であるソビエト連邦政府とアメリカ政府のいずれかによって指導・支援されている例が多かった。ヨシフ・スターリン政権のソビエト連邦は、ハリー・トルーマン政権のアメリカに対抗する為に、世界中を共産化するため、共産主義の労働者階級・革命勢力を支援した。そして、米ソ共に核兵器を保有していることから、直接戦争を起こすことを避けて「冷戦」と呼ばれる構造を成立させた。
 この米ソの対立は、ベルリン封鎖や朝鮮戦争やキューバ危機に見られるように「代理戦争」という形で表面化した。資本主義の盟主を自認するアメリカ政府は、中華人民共和国の成立や、東ヨーロッパでの共産主義政権の成立を「ドミノ倒し」に例え、一国の共産化が周辺国にまで波及するという「ドミノ理論」を唱え、アジアや中南米諸国の反共主義勢力を支援して、各地の紛争に深く介入するようになった。この米国民主主義主導の戦争が21世紀の今日まで延々と続いているのである。
 そろそろ、こうした連鎖を断ち切れないか、という思いが三馬漱太郎の心には強くある。人間と国家、そうして興国と強国、侵略と紛争の歴史が人類に課せられた永遠の命題ではないであろう。闘争から派生する幸福があろうはずもないが、人間はその愚かさを牽引し続けている。そんな歴史の中で尊い命の花が数多く散っていった。その思いが一つには「帰らざる丘」と題する小説化の原潜でもあるのだが、そう志向すると「伊東マンショ」という人物は、その人生の岐路において多様な人間と接し、日本人が前に進もうとする場合に多大な指針を秘めた興味尽きない日本人なのである。
 その接点の一人として浮上する人物が「宮本武蔵」であった。
戦国の世にあって、宮本武蔵は剣を本分として身を立てようした。一方の伊東マンショは教理を本分として身を施そうとした。果たして伊東マンショは宮本武蔵の生涯に一体何を施したのか。この意外な接点の中から「五輪の書」は誕生したのだ、と、そう三馬漱太郎は考えている。
宮本武蔵2 剣豪・宮本武蔵

 それではまず、宮本武蔵という人物の概要像を述べつつ意外な歴史の真相を解き明かしてみることにしょう。まさに真実とは小説より奇なるもので、人間の生身とはフィクションより生臭いものである。
 宮本 武蔵(みやもと むさし)天正12年(1584年)~正保2年5月19日(1645年6月13日))は、新免武蔵藤原玄信のことであり、江戸時代初期の剣豪。兵法者である。
 二刀を用いることで有名な二天一流兵法の祖でもあり、水墨画家・工芸家としても知られる人物である。
名字は宮本、または新免、通称は武蔵(いわゆる百官名)、本姓は藤原、諱は玄信(はるのぶ)である。幼名は辨助(べんのすけ、弁助、弁之助とも)、号は二天、また二天道楽。著書『五輪書』の中では新免武蔵守 藤原玄信を名乗った。
宮本武蔵 二天一流

 現在、自筆とみなされている有馬直純宛書状・長岡佐渡守宛書状には「宮本武蔵玄信」と記し、長岡佐渡守宛書状には「二天」の号も書いている。熊本市弓削の墓碑は「新免武蔵居士」、養子伊織が武蔵死後9年目に建てた『新免武蔵玄信二天居士碑』(小倉碑文)には「播州赤松末流新免武蔵玄信二天居士」とある。武蔵死後71年目の『本朝武芸小伝』(1716年)で「政名」なる名が紹介された。これを引用した系図や伝記、武蔵供養塔が広く紹介されたことから諱を「政名」とする武蔵の小説、紹介書が多数あるが、二天一流門弟や小倉宮本家の史料に、この「政名」は用いられていない。逆に史的信頼性が完全に否定された武蔵系図等で積極的に用いられていることから「政名」なる諱を否定する意見もある。
巌流島 巌流島の決闘

 京都の兵法家吉岡一門との戦いや巌流島(山口県下関市)での試合が、小説、時代劇映画、テレビドラマ(時代劇ドラマ)等の題材になりその名は現代に一役有名になった。
その武蔵の著書である『五輪書』は、現代も人生哲学書として、あるいは経営、スポーツなどの指導書としても読まれ、日本のみならず翻訳されて世界各地で愛読され影響を与え続けている。国の重要文化財に指定された『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』他にも『正面達磨図』『盧葉達磨図』『盧雁図屏風』『野馬図』など優れた水墨画・鞍・木刀などの工芸品が現在に伝わっている。
 『五輪書』には13歳で初めて新当流の有馬喜兵衛と決闘し勝利、16歳で但馬国の秋山という強力の兵法者に勝利、以来29歳までに60余回の勝負を行い、すべてに勝利したと記述される。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは従来、父無二の旧主君であった新免氏が宇喜多秀家配下であったことからそれに従って西軍に参加したと言われてきたが、父の新免無二が関ヶ原の戦い以前に東軍の黒田家に仕官していたことを証明する黒田家の文書(『慶長7年・同9年黒田藩分限帖』)が存在することから、父と共に当時豊前を領していた黒田如水に従い東軍として九州で戦った可能性が高い。
 この説に従う黒田家臣・立花峯均による武蔵伝記『兵法大祖武州玄信公伝来』(『丹治峯均筆記』・『武州伝来記』とも呼ばれる)では、黒田如水の軍に属して九州豊後の石垣原(今の別府市)で西軍大友義統軍との合戦に出陣し、出陣前の逸話や冨来城攻めでの奮戦振りの物語が語られている。    
『五輪書』には「廿一歳にして都へ上り、天下の兵法者にあひ、数度の勝負をけつすといへども、勝利を得ざるという事なし」と記述される。
 天正12年(1584年)に武蔵が生まれたと考えると、これは慶長9年(1604年)武蔵20歳のことになる。「天下の兵法者」は、『新免武蔵玄信二天居士碑』(小倉碑文)に記された「扶桑第一之兵術吉岡」、すなわち吉岡一門と考えられる。この戦いは、文芸作品等でさまざまな脚色がされ有名である。
 武蔵が行った勝負の中で最も広く知られているものは、俗に「巌流島の決闘」といわれるものである。これは慶長年間に豊前国小倉藩領(現在は山口県下関市域)の舟島(関門海峡に浮かぶ巌流島)で、岩流なる兵法者(一般的に「佐々木小次郎」と称される人物)と戦ったとされるものだ。
 大坂の役(慶長19年(1614年) - 元和元年(1615年))では従来、豊臣方として参戦したと通説の如く語られるが、これは根拠のない俗説である。実際は水野勝成の客将として徳川方に参陣し、勝成の嫡子・勝重(のち水野勝俊)付で活躍したことが数々の資料から裏付けられている。
 その後、姫路城主本多忠刻と交渉を持ちながら活躍。明石では町割(都市計画)を行い、姫路・明石等の城や寺院の作庭を行っている。『海上物語』ではこの時期、夢想権之助(神道夢想流開祖)と明石で試合したことが伝えられている。(同記事のある『二天記』ではこの試合は江戸でのこととされるが、この記事は『二天記』の原史料である『武公伝』には記載されていない。)
 元和の初めの頃、水野家臣中川志摩助の三男三木之助を養子とし、姫路城主本多忠刻に出仕させるが、三木之助は寛永3年(1626年)に亡くなった忠刻に殉死する。宮本家は三木之助の実弟が後を継ぎその後も存続したが、同じ年に播磨の地侍田原久光の次男伊織を新たに養子とし、宮本伊織貞次として明石城主小笠原忠真に出仕させている。伊織は寛永8年(1631年)20歳で小笠原家の家老となっている。
 寛永15年(1638年)の島原の乱では、小倉城主となっていた小笠原忠真に従い伊織も出陣、武蔵も忠真の甥である中津城主小笠原長次の後見として出陣している。乱後に日向国延岡城主の有馬直純に宛てた武蔵の書状には「拙者も石ニあたりすねたちかね」と一揆軍の投石によって負傷したことを伝えている。また、小倉滞在中に忠真の命で宝蔵院流槍術の高田又兵衛と試合したことが伝えられている。
 寛永17年(1640年)熊本城主細川忠利に客分として招かれ熊本に移る。7人扶持18石に合力米300石が支給され、熊本城東部に隣接する千葉城に屋敷が与えられ、家老以上の身分でなければ許可されない鷹狩りが許されるなど客分としては破格の待遇で迎えられる。 同じく客分の足利義輝遺児足利道鑑と共に忠利に従い山鹿温泉に招かれるなど重んじられている。翌年に忠利が急死したあとも2代藩主細川光尚によりこれまでと同じように毎年300石の合力米が支給され賓客として処遇された。『武公伝』は武蔵直弟子であった士水(山本源五左衛門)の直話として「士水伝えて云、武公肥後にての門弟、太守はじめ長岡式部寄之、沢村宇右衛門友好、その他、御家中、御側、外様、及陪臣、軽士に至り千余人なり」とこぞって武蔵門下に入ったことを伝えている。この頃余暇に製作した画や工芸などの作品が今に伝えられている。
 寛永20年(1643年)熊本市近郊の金峰山にある岩戸の霊巌洞で『五輪書』の執筆を始める。また、亡くなる数日前には「自誓書」とも称される『獨行道』とともに『五輪書』を兵法の弟子寺尾孫之允に与えている。
正保2年5月19日(1645年6月13日)千葉城の屋敷で亡くなる。墓は熊本市龍田町弓削にある通称武蔵塚。北九州市手向山に養子伊織による武蔵関係最古の記録のひとつである『新免武蔵玄信二天居士碑』、通称「小倉碑文」がある。
五輪書 五輪書

 武蔵の兵法は、初め円明流と称したが、『五輪書』では、二刀一流、または二天一流の二つの名称が用いられ最終的には二天一流となったものと思われる。後世では武蔵流等の名称も用いられている。熊本時代の弟子に寺尾孫之允・求馬助兄弟がおり、肥後熊本藩で二天一流兵法を隆盛させた。また、孫之允の弟子の一人柴任三左衛門は福岡藩黒田家に二天一流を伝えている。
 この宮本武蔵は1584年の生まれ、また伊東マンショは1569年の生まれであるから、伊東マンショが15歳の年上ということになる。武蔵が生まれた1584年とは天正遣欧少年使節が長崎を出航して後2年のことだ。当然、お互いが両人の存在を知るよしもない。しかし、この二人の接点は、伊東マンショが帰国してから小倉においてイエズス会の布教にあるとき、奇遇な出逢いを果たすことになった。
 それは宮本武蔵が佐々木小次郎との決闘で、巌流島の戦いに備える或る宵のことであった。
 ここに証す、この史料は昭和になり司馬遼太郎が小説『真説宮本武蔵』の題材にしたことから、有名になり武蔵側の記録に対する吉岡側の記録と豊前国小倉藩に関連して紹介される機会が多いことに由来するのであるが、巌流島の決闘とは、天明2年(1782年)に丹羽信英によって記された兵法先師伝記では「慶長六年、先師十八歳」とあり、慶長6年説をとる。これらでは武蔵が京に上り吉岡道場と試合をする前の若年の頃に巌流島の試合が行われたこととなる。その慶長6年とは関ヶ原の戦いの翌年、1601年であるから、天正遣欧少年使節が日本に帰国してから11年後の事であった。伊東マンショ33歳、宮本武蔵17歳ということになる。
 『二天記』によれば、この試合は武蔵側から申し入れたものであり、細川藩の家老職に就いていた長岡佐渡輿長の屋敷を訪ね、「小次郎がこの地に留まっているようですが、絶妙な剣と聞き及んでおります。願わくば、私と兵法比べをさせて下さいませんか。あなたは父・無二斎ゆかりの方ですからお願いするのです」と、試合の斡旋を依頼したことになっている。
 またこの二天記に付随する記録によれば、このとき長岡佐渡輿長の屋敷にはバテレンの日本人が居て武蔵はその男の異様な服装に驚いたと記されている。この人物が当時小倉城下で布教活動をしていた伊東マンショなのであった。
 小倉城と小倉藩をみると、1569年(永禄12年)、中国地方の毛利氏が現在の小倉城のある場所に城を造り、1602年(慶長7年)、細川忠興が今のような城を築いた。
 関ヶ原の戦いで徳川方の武将として活躍した忠興は、小倉を中心に約39万9千石の土地を治めました。後、1632年(寛永9年)、2代目藩主細川忠利は肥後国へ移り、変わって播磨国から譜代大名の小笠原忠宗が小倉に入国することになるのだが、伊東マンショが生きたこの頃、九州の玄関口であった小倉は、大変な賑わいを見せていた。
こうした小倉城下の賑わいと伊東マンショの小倉を拠点とした布教活動の目的は決して無縁ではない。
小倉城 小倉城

 細川忠興といえばガラシャ夫人である。
そもそも細川忠興(1563~1646)は、織田信長・豊臣秀吉につかえ、丹後国(京都府)を与えられた。その忠興の忠は、織田信忠(信長の子)の一字をもらって名付けられ、秀吉の死後、徳川家の家来となり、関ヶ原の戦いでも活躍した。小倉藩主としては歌や茶を好み、海外貿易にも力を入れた。そうした小倉城下づくりとは多様で斬新な文化に富んでいた。そんな城下町小倉の賑わいのある町並みとはイエズス会の布教活動には格好の拠点なのであった。
 小倉とキリスト教の関係をみると、1549年(天文8年)、スペイン人のフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、平戸(長崎県)・博多・小倉・山口と伝道活動を行ないました。毛利勝信が城主の時、小倉のキリスト教信者が増え始め、細川氏の代となってからはさらに増えた。
 忠興の妻・玉(洗礼名:ガラシャ)は関ヶ原の戦いの数日前に亡くなったのであるが、そのガラシャとの契り深い接点から忠興は小倉でキリスト教を保護した。江戸時代の初め、小倉城下にはキリスト教信者が2,000人いたと記録されている。
 ところが、1612年(慶長17年)、忠興は急にキリスト教を禁止する命令を出した。そして、教会を壊したりキリスト教信者を処刑したりした。これは、江戸幕府がキリスト教が国を乱すと考え、禁止するように命じたからである。こうした弾圧を逃れるために小倉での布教活動を断念して長崎に向かった伊東マンショが他界(病死)するのが1612年のことである。
 小倉藩はキリスト教信者を見つけるために、キリストやマリアの像を踏む「踏絵」をさせた。こうして、小笠原氏の代にはキリスト教信者はほとんどいなくなった。
 それでは、その伊東マンショと宮本武蔵との出逢いへと立ち戻ることにするが、既に巌流島の戦いの前に、宮本武蔵は長岡佐渡輿長の屋敷にいたバテレンの日本人(伊東マンショ)、その男の異様な服装に驚いたことは述べた。このときが最初の面識であった。しかし、ここでは互いに口は閉ざしたままであったようだ。
 小倉とは、本州と九州を結ぶ場所にあったため、町は大変賑わっていたことも先に述べたが、その当時の特徴として、宿屋が集まっていた京町・室町付近(現JR小倉駅から西小倉駅付近)には、小倉織(木綿の織物で当時の小倉藩の特産品)を売る店があった。これを一例として、小倉には、仕事をそのまま町の名前にした町名が多数ある。これは、江戸時代から同じ仕事をしていた人が同じ町に多く住んでいたからである。その町名の一つに「馬借町」があり、これは馬を使って生業を成す人々の暮らす町であった。
小倉北区馬借町2 馬借町

 門司城代田沼延元の家伝によると、その延元が門司にいた時、ある年、宮本武蔵玄信が豊前へ参上して、二刀流の剣術の師範をいた。その頃、佐々木小次郎と申す者がいて岩流の兵法を遣い、これも師範をしていたとある。双方の弟子共が師の兵法の優劣を申し立て、武蔵と小次郎が兵法の試合を致すことに決まり、豊前と長門の間の彦島(後に巌流島と言う)で出合った。双方、弟子は一人も連れて参らぬことに決まり試合を致したところ、小次郎は打ち殺されてしまった。しかしこの家伝では「小次郎は約束通り弟子は一人も参りませんでしたが武蔵の弟子達はやって来て隠れておりました」と伝えられる。また「その後、小次郎は息を吹き返しましたが、あの隠れ潜んでいた武蔵の弟子達が集まってきて後で打ち殺してしまいました」とも伝えている。
 このことが小倉へと伝えられると、小次郎の弟子達は徒党を組んで、是非とも武蔵を討ち果たそうと大勢で舟島へ押し渡った。このため「武蔵は難を逃れて門司へ逃げてきて、ひたすら延元様をお頼り申し上げますので(延元様は)お引き受けなさって、(武蔵を)城中へお置きなさったので武蔵は無事に運をお開き申し上げました」と伝わる。これは小説ではなく、真相の記述なのであるから、剣豪・武蔵ファンにとっては心外なことではあるが、史実とはつまり不要な虚像を叩き潰す、という次第である。
 その後、田沼家では宮本武蔵を豊後へと送り遣わすこととした。
この模様を家伝にみると「伊東三之丞と申す馬乗りに鉄砲の者どもをお付けになられて道を警護させ、無事に豊後へ送り届け、武蔵を無二斎と申すものに渡し申しました」とある。この伊東三之丞と申す馬乗りが「馬借町」に暮らす住人であった。つまり伊東マンショの変名である。
 小倉城下町では、城を中心にまわりに家来の武士が住み、それを囲むように町人が住んでいた。 また、小倉は中津街道や長崎街道の出発点であったので「九州のすべての道は小倉に通じる」と言われていた。城下町から街道に通じる門は八ヶ所あるが、香春口門(今の田川郡香春町に通じる門)や中津口門(今の大分県中津市に通じる門)はそれぞれ「香春口」「中津口」として、地名に残されている。馬借町はその中津口付近にあった。
馬借 馬借の図

 どうやら伊東三之丞と申す馬乗りは、この中津口を拠点にし、豊前、豊後、日向を往来する人物であったようだ。
 この伊東三之丞という男の覚書が田沼家に家伝されているが、そこには「武蔵と小次郎は、どちらが先着したかはともかく刻限通りに立ち会った。小次郎の技は水平斬りの返し技「虎切」。同時に降り出した両者の剣であったが小次郎の剣は武蔵に見切られ、武蔵の木刀は小次郎の頭蓋を砕いた。武蔵の打ちは片手打ちであった。片手打ちなら間合いを稼ぐことが出来る。武蔵は二刀を用いて鍛錬する理由を「片手にてとりならはせんため也」と言う。さらには「両手にて太刀をかまゆる事、実の道にあらず」とも言っていた。武蔵の剣は二刀流ではなくて片手剣法なのである」云々と記している。
 この覚書にたどり着いた時、司馬遼太郎と三馬漱太郎は、口をポカンと唖然とし大いに驚いた。史実とはやはり不可思議である。「おもろい」と言って司馬遼太郎は大声で笑った。
 小次郎の計算では、武蔵は一撃目を後ろに引いて交わすはずであった。水平振りの利点は後ろに下がるか受け止めるかしか避ける術が無いところである。そして計算通り武蔵は引いた。が、計算外だったのは武蔵が間合いを切りながら片手で長大な木刀を振り下ろしてきたことである。次の瞬間、小次郎の意識は途絶えた。これが決闘の真相である。
 しかし、小次郎の身体は反射的に虎切を完遂した。すなわち、決め技となるはずだった振り返しの一撃である。その切っ先が武蔵の袴を斬ったかどうかはわからないが、武蔵はこれも間合いを外してかわし、即座に二撃目を打ち込んだ。武蔵に罪はない。小次郎の返し太刀に反応したに過ぎないからだ。尋常の勝負はこれで終わった。武蔵はとどめを刺さなかった。当然のことである。武蔵にとっては純粋な腕比べであったのだから、おそらく両者に交わされていたであろう「一撃の約」を守ったはずだ。後談して、司馬遼太郎はこのような言葉で巌流島の決闘を結んでいる。
 先日、三馬漱太郎は博多への所用の帰途に小倉城下に立ち寄ってみた。巌流島の決闘後、両者の運命はこの小倉から東西に引き分かれ合う。武蔵は東の江戸に、マンショは西の長崎へと。しかし、その武蔵は「二天記」の記述によれば、その数年後にはまた再び西へと逆戻りし長崎の地を踏むことになる。この行動こそが宮本武蔵の大きな心境の変化であった。武蔵はその長崎で、伊東三之丞なる男の行方を探し足を棒にして訪ね歩くのである。
 宮本武蔵と伊東マンショが出逢った当時、そうして小倉から中津へと宮本武蔵を護衛した道中でマンショが武蔵に何を語って聴かせたかの詳細は定かではないが、それがキリストの教理であり遣欧の体験記であったことは大方の想像は巡らすことができよう。
金剛山の洞窟 金峰山の洞窟(熊本)

 五輪書、その書名の由来は密教の五輪(五大)からで、それになぞらえて「地・水・火・風・空」の五巻に分かれる。この空の巻は、兵法の本質としての「空」について書かれている。これらは、寛永20年(1643年)から武蔵の死の直前の正保2年(1645年)にかけて、熊本県熊本市近郊の金峰山にある霊巌洞で執筆された。
 空の巻は、万里一空である。「山水三千世界を万里一空に入れ、満天地とも攬る」という心を題に、「乾坤をそのまま庭に見る時は、我は天地の外にこそ住め」と綴った。天地の外に住むというのが武蔵らしいところで、修行者としてどこか凡人とは他所に目を向ける気概がある。空じているといえばたしかにそうであるが、その空を目の端に捉える余裕がある。
 つまり、その余裕とは何か。
 武蔵は寛永14年には島原の乱の帷幕に参じたともいうが、ともかくも細川忠利五十四万石の熊本の地に現れたのは、寛永17年(1640)の8月のこと、巌流島の決闘から28年もたってからのことであった。
小説ではなく真実として、そのあいだ、何をしていたかは実はまったくわからない。熊本に現れてからはまるで禅僧めいて、宮本二天として絵筆をもつ日々のほうが多い。《闘鶏図》《蘆雁図》など、さすがに気韻生動の呼吸をもっている。
 五輪の書とは、地水火風空の“五輪五大”にあてはめて武芸兵法の心得を綴ったもので、地の巻から順々に空の巻に進んでいく。その最後に「独行道」を書いたのが死の数日前だった。それが万里一空の心境である。これを三十五ヵ条の覚書にまとめた。
 武芸書だから剣法の実技について書いてあるかというと、これがあまりない。むしろ心得ばかりであり、ときに禅書と見まちがう。それでは武芸に関係のないことばかりかというとそうではなくて、ほとんどの文章が武芸の構えや用意や気分にふれている。この、就いて離れ、放して突き、離れて着くところそこが武蔵の到達した境地なのである。武蔵はその至る境地について「満たされる所」だと述べている。また伊東三之丞なる日向国生まれの男はバテレンの文字を地べたに刻みながら「mancio」と名乗り「万象の理は、すべてデウスによって満たされる所へと導かれるのだ」と語ったのだという。これが宮本武蔵が万里一空の心境に達っする源泉となった。つまり五輪書は伊東マンショの伝道によって導かれたことになる。ともかくも、小倉城の頂きからの眺めの中では両人とも天地の外に住んでいる。そんな回想を抱きつつ三馬漱太郎はJR小倉駅へと向かった。

                                     三馬 漱石太郎

伊東マンショの見た黒人男性「弥助」

 伊東マンショら四人の少年が天正遣欧使節として長崎を出航するのは1582年2月20日のことであった。
 三馬漱太郎が毎年訪れるその2月の中に回想する出来事が、この四人の少年の旅立ちの場面である。しかし、そうした2月の中で重なる一つの別の光景がある。それは天正使節の出航する前年、1581年の2月23日である。

 その天正九年(1581年)2月23日。

 織田信長は初めて黒人なる人間をみた。
 来日中の巡察師・ヴァリアーノ神父が織田信長と謁見し、この折に信長はヴァリアーノが伴う黒人と対面した。
弥助 弥助

 日本人が多くの外国人と接するようになったのは、やはり天文十二年(1543年)の種子島。ポルトガル人が漂着して、鉄砲を伝えた以降からである。それまでにも外国人は来日していたが、ほとんど中国人や朝鮮人で、見た目には日本人と、そんなに変らない東洋系の人々であった。しかし、この鉄砲伝来をきっかけに、ポルトガル人はもちろん、スペイン人やイタリア人といった見た目にも明らかに外国人(南蛮)の人たちが続々とやって来るようになった。
 鉄砲伝来から6年後の天文十八年(1549年)に、あのフランシスコ・ザビエルが来日し、本格的にキリスト教の伝道活動を始めるようになる。
 これらのヨーロッパの人たちは、日本に来航する船の水夫として、アフリカの黒人奴隷を連れている事が珍しくなく、当然、日本の人々も、彼らを目にする事となってきた。
 現在に残る最初の黒人来日の記録は、天文十五年(1546年)に薩摩の山川港に入港した船に乗っていた黒人(姓名不詳)である。とにかく山川港では、何日もその噂で持ちきりで、大勢の人が何キロも離れた村から見物に訪れ、大変な騒ぎだったようである。
ヴァリニャーノ ヴァリニャーノ

 そして、上記2月23日のヴァリアーノの一件。
 ヴァリアーノは天正七年(1579年)に来日して、九州の各地を巡り、その後、堺から京の都に入り、天正九年には京都の南蛮寺(教会)に滞在していました。このヴァリアーノが、黒人を連れていたために、近所は大騒ぎ。南蛮寺の門前には見物人が押し寄せ、けが人が続出と記録に残る。
織田信長 家紋 織田家の家紋

 この事が、織田信長の耳に入り「会ってみたい」という事になり、天正九年(1581年)2月23日のこの日の謁見・・・となったわけだ。
 生まれて初めて黒人を見た信長は、どうしても、その肌の色が信じられません。疑問に思った事は何でも自分で確かめないと気がすまない性格の信長であるから、「墨を塗ってるかも・・・」と、とうとう、タライを持ってきてゴシゴシと体を洗う事になりました。しかし、当然の事ながら洗っても洗っても、肌の色は変りません。そのために信長は非常に驚いた。
 一目でこの黒人を気に入った信長は、即、ヴァリアーノ神父から彼を譲り受けますが、ヴァリアーノ神父が奴隷として扱っていた彼を、信長はきちんと、側近として従者の列に加えることにした。
 この黒人は、アフリカ・モザンビークの出身で、身長182cmの大きな体格。しかも、力も強く、相当頭も良かったみたいで、この時すでにカタコトの日本語を話していたらしい。そこで信長はますます気に入って、「弥介・・・弥介」と呼んで、おおいにかわいがり、どこに行くにも連れて行ったと言う。その寵愛ぶりは、側近の森蘭丸と同じくらいかわいがっていたみたいである。
 ・・・で、この黒人の「弥介」さん。
 当然の事ながら、本能寺の変の時も、信長さんのそばにいまた。もちろん主君を守って戦いますが、信長が、本能寺に火を放って自刃した後、本能寺を脱出し、二条御所にこもっていた信長の息子・信忠のもとへ馳せ参じ、今度はここでも戦い続けた。
 しかし、朝になって、「もはやこれまで・・・」と信忠以下、家来たちが自害し始めた頃、たまたま彼に近づいた明智光秀の家臣が降伏をうながすと、素直に刀を渡し、それに応じたと言う。
 光秀は、「彼は状況を知らないし、日本人でもないのだから、処刑せずに国に送り返せ」と言ったとそうだ。
 しかし現在の日本史の、ここで、弥介という黒人の消息はピタリと無くなっている。殺されはしなかったものの、その後の行方は全く分からない。
 南蛮寺に身柄が送られたというが、光秀が命じたように国に帰ったのか?
 そのまま日本のどこかで暮らしたのか? 以後、不詳の人物である。
 だが、伊東マンショら天正遣欧少年使節の軌跡を追うと、インドのゴアで四人の少年が日本から来た一人の黒人男性と対面している記録が存在する。本能寺の変は1582年7月に起こった。少年使節が長崎から旅立った5ヶ月後の事件である。少年使節の一行はその事件を知るよしもなかったが、黒人「弥助」はどうやらヴァリアーノ神父のもとに送り返されたようだ。
 記録によると、その黒人は喜望峰へと回る使節一行の船がゴアを出航する際に、四人の少年を港の岸から見送っている。

                                       三馬漱太郎

伊東マンショとチョコレート

中世のロマンに心はせる2月14日の歴史コラム。

バレンタイン5 2月の一枚の絵(つばき)

 立春を過ぎてみると、日本の女性はチョコレート情報に敏感になる。春は猫が恋する季節でもあるのだが、日本人女性の多くが「2月14日」を意識する。これは今や日本の風物詩となって定着した。
 当ブログ・コラムは聖マンショ伝に関する時事を述べるものであるが、その伊東マンショの生きた時代背景を考察すると「バレンタイン・デー」とも重なり合い、伊東マンショが日本人として初めてチョコレートなるモノを口にした人物であるから、その歴史の現在を綴ることにする。
バレンタイン1

 初めにValentine’s-Dayに由来する「聖バレンティヌス」について。
 このバレンタインこと聖バレンティヌスと呼ばれる人は二人いて、どちらが「聖バレンタイン」なのかは二つの意見に分かれる。その(1)は、296年頃にローマで殉教したローマ北方のフラミニア街道に埋葬された司祭。その(2)は、ローマで処刑されたウンブリアのテルニという町の司教。
バレンタイン4 聖ウァレンティヌス

 また、なぜ聖バレンティヌスの祝日が恋人たちの祝日になったかについても多数の意見がある。たとえばこれはローマのルペルカリア祭あるいはジュノー祭が原形であるという説、この頃の季節に鳥が配偶者を選ぶからだという説、などなどがそれである。
 これらの聖バレンティヌスに関する断片的な話をつなぎ合わせると次のようになる(この解釈には、両方のバレンティヌスが混合して成立した可能性が高い)。
 当時のローマ皇帝クラウディウス(在位268-270)は強い軍隊を作るため兵士の結婚を禁じていたが、バレンティヌスはそれを無視して兵士の結婚式を執り行ってやった。これをとがめられてバレンティヌスは逮捕され処刑されることになったが、このときアステリオという判事の手で取り調べを受けた。
 このアステリオには目の見えない娘がいたが、この娘が取調中のバレンティヌスと密かに心を通じ合わせるようになり、その愛の力で彼女の目が奇跡的に直ってしまった。それを知ったアステリオはバレンティヌスに感謝し、一家そろってキリスト教に改宗してしまった。
 ところがその件が市長に知られると市長はアステリオの一家を逮捕し全員処刑した。そしてバレンティヌスは悪の張本人として数々の拷問を受けたあげく最後は棒でなぐり殺された。
 この話のポイントは「1.結婚が禁止されている恋人たちを結婚させてやった」ということと「2.愛の力で目を直した」ということのようだ。どちらも愛と関連しており、そこから恋人たちの守護者とされるようになった。
これらの故事からバレンタイン・デーが始まることになる。
 中世ヨーロッパで聖バレンタインは愛の守護神とみなされるようになり、14世紀頃からこの日に恋人たちが贈り物やカードを交換するとか、その日の最初に出会った異性を「バレンタインの男性」「バレンタインの女性」と向こう一年間呼び合うという風習などが出来てきた。
 そしてこれが第一次世界大戦後にアメリカで急速に恋人達の日として普及し、日本でも昭和50年代前後から「女性が男性にチョコレートを贈って愛を告白する日」として広まりました。現在国内の調査によれば約60%の女性がこの日にチョコレート等の贈り物をしているとのことで、チョコレートの消費量もこの時期に年間の2割程度を消費しているようである。
 なお日本で最初にバレンタインデーの広告を出したのは昭和11年の神戸モロゾフだそうで、その後戦争の時期を経て昭和30年代ころにデパートが単純に恋人に贈り物をする日として宣伝するようになった。
 チョコレート業界では昭和33年にメリーの営業主任であった原邦生氏(後社長)がヨーロッパの知人からバレンタインの話を聞き、新宿伊勢丹デパートでキャンペーンセールをしたものの、最初の年はそのコーナーではチョコレートはわずか5個!170円分しか売れなかったとのことだ。その頃からメリーと森永だけが毎年バレンタインの広告を出していましたが、やはり定着するには昭和50年頃を待たなければなりませんでした。
バレンタイン2 カカオ

 そこでチョコレートとココアの違いを考えてみたい。
 日本の場合、バレンタインの主役ともいうべきチョコレートですが、これとココアは兄弟のような関係にある。どちらもカカオ豆から作られる訳ですが、どのようにそれが違うかは以下のチョコレートの歴史を見て頂くと分かる。 なお、カカオ豆といい、ココア豆ともいうのですが、基本的に採れたばかりの豆はカカオ豆と呼んで、これを乾燥させたり、焙煎したり、発酵させたりして加工を加えたものはココア豆と呼んでいる。また、このココア豆をすりつぶしたものを「ココアマス」といい、その中に含まれる油脂分を「ココアバター」という。
大航海5 大航海時代

 1582年に長崎を出航した天正遣欧少年使節団一行はローマへと向かう長い船旅の中で古代メキシコのチョコレートを食した。これは意外に知られてない史実である。時代は大航海時代の中期、このころスペイン人は中米で見つけたカカオを砂糖と一緒に煮た「チョコラテ」を栄養剤として飲んでいたのであるが、少年使節団も船中の栄養食としてチョコラテを飲み込んだと記録が伝えられている。
伊東マンショ8 伊東マンショ

 そのチョコラテであるが・・・・・、
古代メキシコではカカオ豆のことをカカオトルと呼んでいました。これは苦い汁という意味で、これがヨーロッパに伝えられた時、いつのまにかトルが取れてカカオになってしまったのだ。古代メキシコではカカオ豆はケツァルコアトルが授けてくれたものとされており、BC2000年ころから栽培されていたとも言われる。
 ここでアステカ流の呼び名では、樹の名前がカカバクアルイトル、実の果肉部がカカバセントリ、種がカカオトルで、そのカカオトルでつくった飲み物をショコラトルと言っていました。これが「チョコレート」の語源ですが、このように実際チョコレートという代物は、ほんの100年ちょっと前までは飲み物だったのである。 つまり伊東マンショは、このチョコレートの原型をローマへと向かう船中で食べた最初の日本人なのだ。
バレンタイン3 カカオを飲むミシュティカの王たち

 そのショコラトルの作り方・飲み方であるが・・・・・、
 カカオ豆を土器に入れて焙煎し、石板の上に置いて石の丸棒で砕き、ドロドロになるまですりつぶす。 これをモリネットとよばれる撹拌棒で激しくかきまぜ水に溶かしビールのように泡だった飲み物として飲む。 また、これに唐辛子を入れて飲む場合もあった。
 このショコラトルというのはココア豆をすりつぶしただけの飲み物ですので、名前の通り、非常に苦い飲み物でした。これが1521年にアステカを滅亡させたコルテスによってスペインに持ち込まれた時、スペイン人たちはこれに砂糖を入れることを考えました。以来チョコレートに砂糖は必需品となった。
 このチョコレートの渡来と普及にあたって、
 スペイン王室はこのチョコレートの販売で非常に大きな利益を得ましたので、このチョコレートの製法を門外不出にしていました。そのためカカオ豆をつんだ船をおそった海賊がその価値が分からず「羊の糞め」といって捨てていたという話もある。
 しかし、これも長くは続かず、1606年にイタリア人カルレッティがチョコレートの製法をイタリアに伝えました。つまりイタリアこそ、チョコレート製法の発祥地なのである。少年使節団が8年5ヶ月の長旅を終えて長崎に帰港するのは1590年であるため、この話はその16年後のことだ。
 更に1615年スペインの王女アンナがフランスのルイ13世に嫁いでフランスにチョコレートを飲む習慣を伝えたのを契機にチョコレートはフランスの貴族たちにファッショナブルなドリンクとして広まることになる。
 この新しいドリンクはすぐにヨーロッパ中に広がって、イギリスなどではあちこちにチョコレートハウスがオープン。国はチョコレートに税金をかけた。この頃、チョコレートに毒を入れて殺すというチョコレート殺人事件までがイギリスでは起きている。
 19世紀にチョコレートの製造会社が続々誕生しました。この中にはヴァン・ホーテンのように現在まで続いている会社もある。この頃からチョコレートの4大発明といわれるものが次々と生まれました。
 4大発明のその(1)、「ココアパウダー」。
 最初の発明はヴァン・ホーテンによる「ココアパウダー」の発明である。 それまでのチョコレートはココア豆の55%がココアバターなのでお湯にとかしてもなかなか均一になりませんでした。そこでヴァンホーテンはココア豆をしぼって、ココアバターを半分ほど取り除き、脂肪分を20-30%程度にしたココアマスの粉を作ることに成功する。この粉は今までのココアマスを直接溶かすのに比べて、非常に簡単にお湯に溶けてくれました。
 また彼はココア豆の有機酸をアルカリで中和することも考案しました。これは現在ではダッチプロセスと呼ばれており、ココアの製法の基礎になっています。ココア豆に炭酸ナトリウムを加えて中和したのち焙煎するもので、酸臭のないココアが作れる。
 4大発明その(2)、「イーティングチョコレート」。
 さてこの時点までのチョコレートというのはあくまで「飲むもの」でした。ところがここで大革命が起きる。ヴァンホーテンの製法ではココアバターが余ってしまうのですが、イギリスでこの残ったココアバターを固めて食べるということを考えた人がいました。これは「イーティングチョコレート」と呼ばれ、お湯に溶かさずにそのまま食べられる簡便性と長期保存が効くということで、人気を得ることになった。 つまりチョコレートはココアを作った残りのリサイクル利用で作られたものだったわけだ。
 4大発明その(3)、「ミルクチョコレート」。
 しかし、この「イーティングチョコレート」にはミルクが入っていませんでしたから、けっこう苦みのある味でした。牛乳を混ぜようという試みもあったのですが、牛乳は水分が多く、ココアバターは油脂ですから、なかなか混ざらなかった。当時はまだ粉ミルクもありませんでした。
 ところが、1875年、スイスのダニエル・ペーターは、その困難と思われていたミルク・チョコレートの製造に成功する。水力を利用した機械で2昼夜撹拌を続けて、きれいに混ぜ合わせてしまいました。2昼夜混ぜる内には牛乳の水分もかなり蒸発し、ミルクが入っているにも関わらず保存性のよい、そしてマイルドな味のチョコレートが誕生しました。
 4大発明その(4)、「コンチ」。
 4大発明の最後は、一般の人にはちょっとなじみのないものですが「コンチ」というものだ。これは1880年にスイスのルドルフ・リンツが発明したものですが、要するに砂糖の粒子を細かくする機械で、これを使って作ったチョコレートは舌にざらつきのない、なめらかな感触のチョコレートとなりました。
 これらがチョコレート製法の歴史であるが、伊東マンショが船中でチョコラテを飲んだ頃、そのチョコレートはあまりにも油っぽく、飲み込むには一緒に水が必要であったようである。
 大航海時代、そのカカオは貨幣と同等の価値を持って流通した。スペイン国はそのカカオの存在を100年もの間秘した。それほどカカオとは高価なモノであった。その高貴な香りと苦味を、伊東マンショは日本人として初めて口にした人物といえる。現代のValentine’s-Day歴史には、このような中世のロマンも秘めているわけで、伊東マンショ没後400年に当たる本年の2月14日とは、日本人にとってまた格別な歴史の中の現在である。
 クリストファー・コロンブスが中央アメリカ島部に到達した後、スペインにカカオがもたらされた。コロンブスの息子によれば、最初にチョコレート(カカオの実)を見たヨーロッパ人はコロンブスで、1502年のコロンブス最後の航海時であった。ただし、コロンブスがチョコレートを飲んだという記述はない。
 16世紀のスペイン人のイエズス会神父で、伝道のためペルー、後にはメキシコにて暮らしていたホセ・デ・アコスタは次のように書いている。
 非常に不快な味のするかすや泡があり、体験したことがないほど気分が悪くなる。だが現地の者たちには大変尊ばれており、高貴な来訪者をもてなすのに用いられる。この国に慣れ親しんだスペイン人ならば男女を問わずこの飲み物に貪欲となる。彼らはそれを飲むことで暑さや寒さその他さまざまなものが和らぐと言い、唐辛子を大量に入れる。さらに胃腸に良くカタル予防になると肌にも貼り付ける。
 日本のチョコレートに関する記述は、18世紀の長崎の遊女がオランダ人から貰ったものを記したリスト『長崎寄合町議事書上控帳』に「しよくらあと」として登場するのが最初で、同年に記された『長崎見聞禄』にも「しょくらとを」に関する記述がある。また、1873年の岩倉使節団がフランス訪問中にチョコレート工場を見学したという記録がある。岩倉はこのとき初めてチョコレートを口にするのであるが、その約300年以前に伊東マンショはチョコレートを口にしているのだ。

                           三馬漱太郎

「帰らざる丘」MANCIO

「この国のかたち」と伊東マンショ伝
 歴史とは現在の物語で、現在が歴史なのである。どんな時点をとっても、その時点に歴史的現在がある。
 いま、日本は2012年の現在に突入した。大相撲初場所では大関の把瑠都が初優勝し白鵬は常連の影を希薄したが、消費税引き上げ問題が騒々しくなった以外、とくに目新しいことはない。北朝鮮問題も、債務超過も、憲法の自主制定も、外交貿易関係も、日米同盟の今後すら、何も見通せない。何かが失速したままになっている。
こういうことについて、司馬遼太郎は生前にほとんど意見を表明しなかった。
司馬3 司馬遼太郎

 いっさいの政治的コミットメントもしなかった。それなのに、司馬こそは日本を憂い、日本を熟知していると思われてきた。なぜなのか。司馬の小説の中に意見もコミットメントもあると思われたからである。
そんな司馬遼太郎を知るためには、試みに、これらの政治課題を100年前のこと、あるいは200年前のことと見直してみるとよい。
 100年前なら明治半ばのこと、伊藤や山県や井上や松方が自衛隊の遠方派遣を論じあい、デフレ対策を練っている。実際にも大隈と松方は日本資本主義最初のデフレに対処していた。200年前なら元禄から享保にかけた時代になるが、家斉の老中の水野忠成が北朝鮮の日本人拉致問題にとりくんで、異国船打ち払いを日本海で決行しようとし、小田原では藩主大久保忠真が民間のイノベーター二宮尊徳を登用して、教室崩壊の打開を相談している。300年前ならば‥‥? 新井白石が日米同盟の明日を勘案しているはずだ。
 なんだかありそうなことばかりであろう。こういうふうに、歴史と現在はいつでも入り交じる。
 こう考えることは特別なことではない。近年のイギリスではチャーチルの政治外交が見直され、中国では黄宗羲(17世紀に中国のルソーといわれた歴史家で、抗清運動を主導した)が浮上しつつあった。いつだって、歴史は現在であって、現在が歴史なのである。ことに司馬遼太郎は、たえずこのようなことを考えながら、作品に挑んできた。そこに日本人は、自分の現場を思い合わせてきたし、司馬はそこを筆で魁ている。
たとえば、貧困のため学資を得られなかった秋山好古は無償の陸軍士官学校に入り、ヨーロッパの戦争戦略を習得しながら、それとはまったく逆の果敢な襲撃に打って出ることを決意した。好古は「本当の自分」を殺し、「期待される自分」になる意志をもたなければならなかったのだ。御存知、『坂の上の雲』の一場面である。読者はこの好古の決断に我が身を寄せる。
 河井継之助は慶応4年5月2日の小千谷会談にすべての人生を賭けた。それまで周辺に、「天下になくてはならぬ人となるか、あってはならぬ人になれ」と言ってきた信条がいよいよ試されるときである。『峠』の有名なクライマックスのひとつだ。こういう場面に、読者は現在の我が身をおいた。
 清河八郎は「兵をもたぬ天皇」に対して、自身がその最初の兵たらんとした。しかしこんな大芝居で奇怪な行動を、誰が許すものか。山岡鉄太郎は悩みながらも、清河を守ることを決意する。「ただ惜しいことに背景をもたぬ。あの男はたった一人だ。あの男が英雄らしくなるまで私が見守ろう」。これは『燃えよ剣』である。山岡の胸中に託して、自分がさしかかっている人事を律したいと思った読者も、数多くいたはずである。
 司馬の作品がこのように読まれていたことは、確実だ。司馬自身もそのことを希って、一行ずつを彫りこんだ。歴史小説というものは、当然ながら、歴史を「刻々の現在」の展開として描く。
 どんなに“地の文”が歴史記述っぽくあろうとも、嘘っぽくあろうとも、そこで交わされる登場人物のセリフは、その刻々の“現在”を告げている。オノレ・バルザックのように、“地の文”を現在的に書ける作家なら、なおさらだ。司馬もまた、『竜馬がゆく』においてパスティシュ風の手法をさまざま実験し、それをその後の作品で磨いていった。こういうふうに、来る日もくる日も歴史を現在として書き続けている作家は、その思考そのものが歴史的現在になっている。司馬遼太郎は、とりわけそういう一人だったのである。
 とくに戦争体験のある司馬においては、45歳をすぎるころから、日本を左右する出来事や言動がしだいにのっぴきならないものになっていた。こういう人は、歴史を学んでいるのではなく、歴史観をつくろうとしているのでもなく(よく司馬史観などといわれるが、こんなものじゃなかった)、はなっから歴史に生きている。
 しかしこれは、作家だけに任せてよかったことではなかったとも言わなければならない。また作家なら作品に向かえばいいが、歴史と現在を交じらせなければならないのは、日本そのものなのである。今日の日本人なのだ。三馬漱太郎は、こういう日本人には、むしろ小説よりも、司馬の赤裸々の歴史語りを読んだほうがいいと思っている。
 ところが『手掘り日本史』や『歴史のなかの日本』や『明治という国家』などの例外はあるものの、司馬はなかなか赤裸々な語りをしなかった。その理由はのちにも書くが、司馬はあんなにも大作を書きながらも、場面主義なのである。3分、5分、1時間の場面に、歴史的現在の渦中にいる人間がどのように臨んだか、そこを書いてきた人だった。それがつながって大河小説になっていただけだった。
 しかし、ついに観念したのか、その司馬が晩年極まって、「文藝春秋」に6年にわたって歴史語りを書いた。大半の課題を小説になしてきた司馬が、ついに赤裸々の寸前に至ったのである。それが『この国のかたち』である。以下、本書のごくごく一画を勝手に切り取って、なぜ司馬においては歴史が生きていたのかを覗いてみたい。そのキーワードは「異胎」とする。
 司馬遼太郎は自分が軍服を着て、同期生とともに中隊に属していたという自分の実人生史そのものを引きずることを、いっときも忘れなかった人だった。ことに軍服を着ていた戦前の日本が「異胎」の時代にあったということを引きずった。その「異胎」は、統帥権についての異様な解釈が、昭和日本に罷り通ったことによって成立していた。
 ところが、司馬はこの「異胎の時代」をついに小説にしなかった。半藤一利によると、いっときはノモンハン事件を舞台とした作品を構想したようだが、挫折したらしい。司馬自身は「ノモンハン事件のようなバカバカしい事件をおこす昭和前期国家の本質がわからなければ、この作品は書けない。その錠前をカチンと開ける鍵を手作りでつくりたい。しかし、それがつくれないままなのだ」と弁明した。
 司馬がついに「昭和」を書かなかったことについては、すでに多くの評者たちが「書けなかったからだ」という意見をのべている。しかし、書けなかったのならなおさらのこと、三馬漱太郎は司馬を書けなくさせた「異胎」のところで、いま日本人の多くが本気の立ち往生してもいいように思うのだ。
 では「異胎」とは何なのか。そもそも明治憲法は、三権が分立しているという意味では十分に近代憲法になりえているものだった。軍の統帥権は形式的ながら、三権とともに天皇がもっていた。そこへ大正末期から昭和初期にかけて、統帥権が三権を超越するという陸軍の解釈が浮上した。
 軍の解釈によると、統帥権の基本には「帷幄上奏権」というものがあった。天皇の統帥権の輔弼者である軍の統帥機関(陸軍は参謀本部で、海軍は軍令部)が、首相や国会にはかることなく戦争行為を始めることについて、単独で上奏できるというのである。帷幄(いあく)とは『韓非子』にも出てくる野戦用テントのことをいう。
 この帷幄上奏権に加えて、明治憲法においても天皇は「無答責」にあったから、これで軍部は勝手に戦争に邁進していった。それどころか、作戦も何もかもにおいて、日本の政治家と官僚は天皇をカサに利用するようになった。これが「異胎」の時代なのである。司馬遼太郎はこの時代を自分が生きていたことに異和感をおぼえ、そこには「日本」がないのではないかと感じた。
 明治維新というのは、一言でいえば、日本を植民地にするまいという攘夷運動と、まったく同じ意図による開国運動が交じったところでおこった。
 それまでの日本は平気で鎖国を通すような、無防備国家だった。無防備ですんだのは、世界が遠洋航海を産業化できないでいたからにすぎず、その態勢が整ってからの列強は、一気にその爪をアジアに到達させつつあった。それがのっぴきならないところまで逼迫したのが、1840年のアヘン戦争である。
 イギリスはすでにジャーディン・マジソン商会のアヘン貿易で巨額の富を得られることを知っていた。だから、これをうまく活用しようとしていた。そこへ林則徐がアヘンを虎門海岸で焼き捨てたものだから、イギリスはここぞと清国に攻めこんだ。連戦連勝である。いや、蹂躙だ。アメリカによるアフガニスタン戦争やイラク戦争とまったく同じである。結局、5港の開港と賠償金が要求された。
 これでアジアの孤高が破られた(ブッシュのアメリカも中東の孤高をいまもって破ろうとしている)。次は日本に押し寄せる番である。ついでにいえば、この時期まで中国も朝鮮も同じく鎖国状態だった。
 当時の江戸幕府の日本には、大名同盟の盟主としての将軍が統括する政治社会システムがいきわたっていた。だから統帥権は将軍がもっていた。
 この軍事統括権が、江戸時代最後に執行されたのは、長州征伐だった。が、幕府はこのとき、なんと代理をおいてしまった。総大将を尾張徳川の慶勝にした。続く戊辰戦争のときも、すでに慶喜が早々に大政奉還をしていたため、日本という一国の統帥権がどこにあるのか、またまた曖昧になった。
 そして幕府は倒壊、そのまま維新への突入である。この突入は王政復古のかたちをとったから、トップには幼少の天皇が立った。
 こうしてできた明治政権は軍隊をもっていない。軍隊をもっていない革命政権は、世界史上、例がない。
 そこで、薩長土の3藩が1万の藩兵を自主的に提供した(この抜け目なさこそ明治政府を幕末だけでなく維新後も、3藩がリードできた理由だ。すでに清河八郎が妄想したことでもあった)。かくて一部の藩兵は近衛兵となった。けれども次の廃藩置県の断行には、他藩がどれほど反発するかわからない。イギリス公使パークスは「きっと大変な流血を見るだろう」と予想した。が、廃藩置県はあっけないほどにスムーズに済んだのである。理由はただひとつ(と、司馬は書いている)、「一君万民の気性」がこの国に流れていたからだ。
 そう、司馬は判断した。幕府は領国領民の思想で統括支配をしてきたのだが、農民を中心とする多くの日本人には、天皇の“臣民”の意識のほうが強かったのだ。これを見た近衛都督の山県有朋は、徴兵制によって一気に国軍をつくる計画に着手した。しかし国民皆兵とはいえ、その実態は農民や庶民である。桐野利秋は「いったい山県は、土地百姓を集めて人形の軍隊をつくるつもりなのか」と揶揄した。
 機を見るに敏感な山県は、自分の不評を察知して西郷隆盛に職を譲り、とりあえず西郷が陸軍大将として近衛軍を統括した。山県はこれを官僚としてコントロールする立場にたった。こうして鎮台(のちの師団)が用意され、やっと徴兵制が進んだ。このあたりのことについては、司馬は『世に棲む日々』で山県の胸中去来するものを描いている。
 いまさら説明をするまでもなく、ここで意外なことがおこった。西郷が下野をした。陸軍大将のままである。
 軍事統帥という点からみれば、これはまことに奇妙なことだった。ますます統帥権は曖昧になってきた。しかも、この変則事態を誰もが調整できないまま、大久保・木戸・山県と、西郷が、対立した。これが西南戦争である。この内戦は「陸軍大将西郷の私兵」と「徴兵された国軍」との衝突、という異様な恰好になった。
 これらの事態の進捗のうえ、やっと明治憲法が出来上がってきた。議会もできた。すでに西郷・大久保・木戸は死んでいた。主役は伊藤たちに移っていた。そして、その明治半ばに発布された憲法には、但し書きのように天皇の統帥権が書きこまれた。
 けれども天皇の軍隊がどこで牛耳られるのかは、あいかわらずはっきりしない。伊藤をはじめとする政治家たちは、議会よりも軍事よりも、政党をどうつくるかということに熱中した(今日と同じことである)。
 加えて、もうひとつ奇妙なものが出てきた。西周が起草し、井上毅が検証した「軍人勅諭」である。
 フランスのお雇い外国人ボアソナードから、「これでは法体系とまぎらわしくなるではないか」と注意をうけた内容だった。なぜならそこには、天皇が教育方針を統帥していたからだ。
 こうして「統帥の混乱」が深まっていく。この曖昧で奇妙な状態が、昭和の統帥権問題にまで続いたのである。
 それは、昭和5年(1930)のこと、浜口雄幸が海軍の統帥部の反対を押し切り、ロンドン海軍軍縮条約に調印したときである。軍部・政友会・右翼は、これを「統帥権干犯」として、激しく糾弾した。「干犯」は北一輝の造語だった。浜口は東京駅頭で狙撃され、死んだ。以降、昭和史は日本をみるみるうちに“統帥権国家”に仕立てていったのだ。
 司馬はこのような日本をあえて「異胎」がつくった国と呼び、「別国」とも言ったのである。本来の日本ではない日本、という意味だ。
 では、この「別国」ではない日本とはいったいどこにあったのか。それを「この国のかたち」として司馬は追い求め、検証し、その途次に亡くなった。
 司馬が求めた「この国のかたち」には、答えはなかった。本書「この国のかたち」からも必ずしも答えは得られない。
この国のかたち この国のかたち

 どちらかというと司馬は、ふだんから日本がどこから道を踏み外したかということを問う作業に、永年の問題意識を集約してきた人なのだ。
 しかしながら本書を通読してみると、やはり司馬の日本についての見方が随所に吹き出している。とりわけ神道的なるものを重視して、これを「真水」(まみず)とみなしているのが、目立っている。
 本書第5巻では「神道」という項目が7回ぶん続いて、一番多くのページをさいている。司馬はなぜ神道的なるものにこだわったのだろうか。そのことを、ここでは「異胎」との対比として、少しだけだが、述べておきたい。
 司馬遼太郎が感じていた真水とは、古神道的なるものである。教義などはもっていない神道だ。ただその一角を清らかにしておけば、いつのまにかそこに神が影向するという、そういう動向のことだった。
 司馬はそのような真水の代表的な場所として、伊勢の滝原をあげている。伊勢神宮から30キロほど離れたところにある神域である。伊勢神宮をそっくり小型にしたような印象がある。20年ごとの遷宮もおこなわれている。三馬漱太郎はさるテレビ番組スタッフと伊勢の水銀鉱山跡を探したときに、行ってみた。
 この滝原については、学者たちもほとんど研究してこなかった。神道論者も議論してこなかった。つまり、言挙げされたことがあまりない。しかしながら、本居宣長ふうにいえば、こういう場所こそが日本の神奈備なのである。真水、なのである。ここでは、若水(わかみず)の「若」という文字が何かを象徴しているように、年が改まるごとにたえず何かが若返っている。時も、所も、そこを訪れた人も若返る。司馬が「異胎」とまったく逆の日本を感じるところとは、このような若水を何度ものめる日本だった。
 司馬はこのような神道的なるものに、ながらく親近感を抱いていたようである。けれども、ついに司馬自身はそのことについての言挙げをしなかった。そういうものは「斎き」さえすればいいと、そう考えていた。
これは三馬漱太郎の推測にすぎないが、司馬遼太郎という人は歴史的現在についてすら「斎き」を考えていたように思われる。
 『この国のかたち』には、鎌倉幕府や徳川システムや明治の教育制度についての、いろいろな議論が書いてある。これらは、そのような「かたち」をもっているものだ。司馬はこの「かたち」にはたえず注文をつけ、それを律した人々に、つねに表情と体温を与えてきた。その表情がいかに歪もうとも、その体温がいかに冷たくなってしまおうとも、「日本というかたち」に挑んだ者たちには、表情と体温を付することを忘れなかった。
 なぜ、そのようなことをしたのかということについては、司馬自身が次のように書いている。「科学がいかに進んでも、人事における性が不可解なものとして残るであろうように、男がその人生を噛みこませてゆかざるをえないものとして、権力がある。人事における権力もまた、性とならんで永遠に不可解なものである。私は、このことを書きたいらしい」、と。
 司馬が言う「かたち」とは、つまりは権力にまつわって見えてくるものなのである。権力にまつわって自身を忘れ、狂い、静まり、蠢く者たちがめざしたもの、それが司馬の言う「かたち」なのだ。
しかし、日本には「かたち」とともに「こころ」がある。司馬自身は「かたちの人」ではなく「こころの人」だった。それだけに、司馬は日本の「こころ」については言挙げをしないと決めていた。そして、それでも言挙げせざるをえないと感じたのが、「異胎の時代」の日本だったのである。これがはたして意図的だったかどうかはわからないが、本書「この国のかたち」を読んでそういう感想をもった。
 惜しむらくは、多くの知識人が司馬と対談を交わしながら、その一点を司馬に問いたださなかったことである。
司馬は対談の雄でもあって、つねに相手の言葉を引き出すほうに自分の役割を寄せていた。ついつい、みんなが聞きそびれたのであろう。もっとも松本健一などはそのような司馬の本懐を読みとっていた。三馬漱太郎もそう読みとるよう工夫してきた。
 少し話を変えよう。ここからは司馬遼太郎への注文に見えるかもしれないが、むしろ司馬読者への注文だと思ってもらいたい。
 まず、ぼく自身のことだが、三馬漱太郎は、司馬遼太郎の小説のよい読者ではなかった。最初のうちは、あの“改行”の多すぎる書き方が煩わしかったし、スピードがなさすぎるのも、面倒だった。
 女を書くのもヘタクソだった。『燃えよ剣』には司馬にはめずらしい睫毛の長い美しいお雪が出てきて、「雪は、たったいまから乱心します」と言う。まだ20代だったぼくは、このセリフにたいそう感心して、いつかそんな女に会いたいとまで思ってしまったのだが、こんなことを女に言わせるようでは、この人は女を書けないとも思った。
 案の定、その後は女の描写はからっきしで、こういうところが男の読者の崇拝を集めているのかとも思われた。「漢」と綴って、オトコと読むけれど、司馬はこの「漢」ばかりを書いたのである。
 しかし一方、『この国のかたち』もそうなのだが、『空海の風景』や『街道をゆく』などの、司馬ならではの独自の文体によるエッセイには、男だ女だということを超え、まさに歴史的現在をヴィヴィッドに際立たせる魅力が横溢している。三馬漱太郎はこの文体のほうには、感服してきた。
 けれどもこういう文章のほとんどは、「日本のこころ」ではなく、「日本のかたち」を問題にしている。そこが司馬の赤裸々な言葉に耳を澄ましたい者が難儀するところだった。が、だからこそ、この「かたち」にひそむ「こころ」を抜き出して読むことが、いま、多くの司馬ファンに求められている。
 司馬は、文章については、こんなふうに書いている。
 「文章というもの、あたかも登山用ナイフのようなもので、缶切りにも栓抜きにもノコギリにもなるし、ときに磁石にも通信機の用もはたす」。
 登山用ナイフとは、多様な実用にはたらく文章ということだ。どういう種類の、どういう時代の日本人の生き方にも通用する文章という意味だろう。司馬遼太郎がどのように文章を重視してきたかをよく告げている。
 またまた話を変えるが、さきほど司馬は「漢」としてのオトコを書いたと言ったが、文字の比較でいえば、「漢」には「和」が対比される。その「和」(和魂)には「荒」(荒霊)が対比される。
 そのてんでいうと、司馬は「漢」や「荒」は書いたが、実は「和」は書けなかった。司馬は和らぐ文化論は書けなかったか、書かなかったのだ。
 たとえば本書「この国のかたち」にはしばしば、室町のある時期まで日本の貴族はのんきなもので、地下(じげ)人の暮らしを考えるような者はいなかったと書いている。そして、だからこそ北条早雲のような人物が画期的な例外で、領国政治というものを発明しただけでも比類がない。保母さんのように農民の面倒を見た。こういう早雲を「野暮」の代表とすれば、同時代の足利義政などさしずめ「いき」だろうが、ここには日本人の暮らしはなかった、と書いている。
 しかし、さて、どうか。義政の東山文化を踏襲したのは、たしかに農民ではなかったが、まずは禅林や下京の町衆であり、それがしだいに小京都モデルとして全国に散り、やがては茶や料理や床の間として日本の暮らしに定着していったわけである。
 けれどもなぜか、司馬遼太郎はこういうことについては過小評価した。よくいえば文人趣味を俎上にのぼらせなかったのだが、それだけに「和」の文化を歴史的現在として語りにくくした。世の司馬ファンはまことに多いけれど、三馬漱太郎の印象では、その大半が文化音痴であるのは、司馬の「ますらをぶり」によっていた。
 これは司馬が後世にのこした課題であろう。むろん日本文化論など、司馬が書かずともゴマンとあるけれど、残念ながら司馬のような登山ナイフをもって日本の文化を議論している者は、いまのところほとんどいない。
 文化を議論しているのに、誰もが文章が堅すぎるし、態度が硬直しすぎている。本当は、司馬のナイフによる“文化斬り”が、必要だったのである。思はゆいことではあるが、三馬漱太郎はこの30年間、この司馬が残してくれた領域に、小いちゃなナイフをもって臨んできたように思われる。
 さあて、本年の現実に戻ってみたい。
 正月の番組で梅原猛と叡山の僧侶が「日本の誇り」についての対談をしていた。その録画をボストンで越冬する際にみた。仏教や京都を二人で自慢しているのだが、まったくつまらなかった。
 あらためて日本の文化については旧態然の知識人しかもてはやされていないことを、暗澹たる気分でながめた。こういう具合では、よろしくない。日本文化のどこを見るかについては、よほど大胆なナイフを自在に使わなければならないのである。
 たとえば、梅原や僧侶のように、今日の京都の文化度などを見ているのでは、何もわからない。いまの京都には文化は希釈されすぎている。これについては司馬遼太郎も、本書第6巻の「祖父・父・学校」で、かつての京都のことを書いていた。京都詰めの新聞記者となった司馬は、6年にわたって“最後の京都文化”を京大と西本願寺に見取ったのだった。
 けれども、そういう京都は、いまはない。いま、京都は歴史を学ぼうとすらしていない。京都は歴史的現在を捨てている。とくに京都の仏教からは当分、何も出てきそうもない。ここにかかわれば、いまだに手が焼けるだけなのだ。こういう京都をいっときも“誇り”とすべきではないだろう。司馬読者の諸君、壬生の義士が動くべきなのは、いまなのである。以前の大河ドラマの、SMAPの一人に近藤勇を託してところで、どうなることか…・・・。
 No.0003ではブログ面の大半を司馬遼太郎論として割いた感があるが、その彼のいう「異胎」の一つに「天正遣欧少年使節」の姿が重なるからだ。司馬はその少年らの軌跡を「重要と言いつつ」上梓しなかったからだ。三馬漱太郎には、もし司馬が書いていたら、こう書こうとしたのではないか、という手応えを感じている。
 その司馬と一度だけ伊東マンショの生誕地を訪れたことがある。
都於郡城1 都於郡城への道(とのこうり)

 案内役を務めた三馬漱太郎は昭和57年夏に司馬と二人で都於郡城(現宮崎県西都市)の城址に立った。
都於郡城3 都於郡城址の本丸かたの景観

 眼下には三財川のたゆとう宮崎平野が広がっている。こ山城を伊東一族は拠点とした。そこで司馬はその景観をながめながら「これも歴史の重要な現在だ」とつぶやいた。それは飛ぶが如くの裏面にあった司馬の言葉である。
都於郡城2 城址に建つ伊東マンショ像

 今後、三馬漱太郎が書こうとする「帰らざる丘」とは、その本丸の小高い丘を題材する。その丘からは「南蛮のみち」が広がり「ローマへの道」に通じている。それは司馬が心に潜在化させていた日本初期クリスチャンの「異胎の道」でもある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三馬漱太郎
プロフィール

三馬漱太郎

Author:三馬漱太郎
Welcome to Ron「漱」World
Sotarou Miuma
立体言語学博士
Social Language Academy Adviser
応用社会言語科学研究員

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。