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Ron「漱」World 聖マンショ伝

聖マンショ伝 第一章「帰らざる丘」 No.0002

 伊東マンショの生涯をシリーズでご紹介するにあたり「街道を行く」シリーズの1冊に注目したい。この司馬遼太郎の小説は、地の文章に解説や余談が多くて随筆みたいな風貌だが、内容は多少の演出があってフィクティシャスに感じるスタイルである。ともかく司馬遼太郎とは不思議な小説家だ。

司馬遼太郎5 この黒縁の眼鏡から司馬遼太郎は南蛮をみた。

 日本人にとって、ながらく日本・唐・天竺の三つしかなかった文明世界に、突然飛び込んできたのが「南蛮」文明だった。しかも、面白いことに、その伝道の中心人物フランシスコ・ザビエルは、フランスでもスペインでもなく、バスクの人だった。司馬遼太郎は、そこで、この旅路の前半は、バスクという国をめざしてパリからフランス南西部を横切って進む。
バスク バスク地方の概要図
 そのバスク文化を理解するための第一の資料として、司馬遼太郎があげるのは、近代日本に宣教師としてやってきた、バスク出身のS・カンドウ神父の著作だ。「バスクは風と水と光の国だと形容される」とカンドウ神父は書く。そして、起源未詳のピレネー山脈先住民であるバスク民族の世界を、いとも魅力的に描き出す。騎士道精神と熱烈な信仰に支えられたザビエルは、その光輪の中に定置される。

 バスク人は、見かけはフランス人やスペイン人とさほどちがわない。バスク名物のベレー帽も、フランス人の象徴のように思われている。彼らのアイデンティティを支えるものは、その気質と、バスク語だけである。スペイン語とは、バスク語の音韻の上に乗ったラテン語なのだが、そのスペイン王国からも、国民国家論を信奉するフランス共和国からも、存在を無視され迫害された歴史がある。

 しかし、この司馬遼太郎の旅行記は、そうした剣呑な雰囲気をうまく筆先でさばいて取り払い、ひたすら純朴で美しい「常世の国」バスクを描き出している。これを読んで、バスクに行きたくならない人は少ないだろうと思う。それだけ、司馬遼太郎が楽しんで書いた渾身の旅行記と言える。
南蛮のみち1

 通常であれば南蛮の道Ⅰの次に南蛮の道Ⅱを読むのであろうが、三馬漱太郎の場合はポルトガルがきっかけだったので南蛮の道Ⅱをまず読み終えた。
 司馬遼太郎の南蛮の旅は、パリから入り、バスクを抜け、マドリードを経てリスボンに向かうコースを取っている。司馬遼太郎の街道をゆくは、それぞれの話しが完結するようにまとめられているのでどこから読んでもいいのだが、街道ごとに司馬自体の主題がたてられているので読み通した方が主題の理解に近づける。

 たとえば、南蛮の語は、タイ・ジャワ・ルソンなどの南洋諸島を指したが、さらにそこを経由して日本に来た西洋人や文物をも意味するようになり、やがてポルトガルやスペインに限定され、ポルトガルによってキリスト教がもたらされたことからキリシタンの意味にも使われるようになった。そのため、南蛮を調べると、ポルトガルから来た文物とか日本でのキリシタンと弾圧などが中心になってしまう。しかし、司馬さんの主題は、日本にキリスト教を布教しようとする背景に何があったのか、日本にキリスト教をもたらしたフランシスコ・ザビエルとはどういう人物で、なぜイエズス会に入ったのか、そもそもイエズス会はどのような背景で生まれたのか、など人間の生きようとするかたちを見つめようとしていて、いつもながら引き込まれてしまう。

ザビエル ザビエル

 フランシスコ・ザビエル(1506~1552)は、バスク地方の出身である。ときおり、バスク独立闘争がニュースで流れるから聞いたことがあるかもしれない。バスクという国は存在しないがバスク人の誇りはいまも続いていて、バスクについての話しも考えさせられる。さてザビエルだが、バスク(いまのスペイン・ナバラ州)のザビエル城で育ったが、城主である父はナバラ国の首都パンブロナの宰相で、スペインの攻撃にあって殺されてしまう。パンブロナ城に入ったスペイン軍の守備隊にやはりバスク人であるイグナチウス・ロヨラ(1491~1556)がいて、その後の攻防戦で大けがをする。

バスク2

 ザビエルは、没落したとはいえ名門であり、パリの聖バルブ学院に入学する。やがて、軍人を諦めたロヨラが神の騎士になろうとして聖バルブ学院に入学し、1537年にイエズス会を起こす。当時は宗教改革が進んでいるときで、ロヨラはプロテスタントに対抗し、ローマ・カトリックの教義に戻ることを主張し、回心を説いた。その説得でついにザビエルもイエズス会に入ることになる。おりしも、大航海時代全盛のスペイン・ポルトガルは布教という名目でアジアへの進出を目指しており、イエズス会と符合することになる。ということで、日本に初めてイエズス会・ザビエルによってキリスト教がもたらされたのである。

 三馬漱太郎はスペインに1954年の春に初めて訪れている。この司馬遼太郎の本にはマドリード周辺が描かれており、何度か座右の書として持参した。
 実はスペインが初めてのヨーロッパであり、セビリア、コルドバ、グラナダ、トレドなどを回るうちにキリスト教文明とイスラム文明のしのぎを削る相克、あるいは混在に強烈な印象を受け、この本の主題が小さくなってしまった。このときの旅の印象は、私をトルコのイスラム建築、イタリアのキリスト建築、さらに北アフリカのモロッコ・チュニジア・エジプトの建築へと展開させていった。途中、一息して旅の足跡をみるとポルトガルが気になりだした。かつてはスペインとともに大航海時代の幕開けをし、日本にはいち早く鉄砲やキリスト教によってヨーロッパの存在を伝えた国である。そこで2007年の暮れ、七度目のポルトガルを訪ねることにし、マドリードとともにポルトガルを描いているこの本をもう一度読み通した。

 そもそも南蛮とは中国で南方の野蛮人を指す言葉として用いられ、転化して日本では南洋諸島を指す言葉として使われてきた。しかし、大航海時代に南洋諸島を拠点にポルトガル人がキリスト教の布教のため渡来したことから、ポルトガル人あるいはスペイン人を南蛮人と呼び慣わすようになったとされる。わざわざ南蛮と題したこの本を読み終えてみると、司馬遼太郎は、はるか彼方の日本にまでキリスト教を布教しようとした南蛮人の精神と、大航海時代に栄えたにもかかわらずいまや世界の表舞台から一歩退いてしまったそのわけを明かそうとしたように思える。
 前半マドリードでは天正遣欧少年使節団が登場する。伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチーニョ、中浦ジュリアンのいずれも14~15才のまさに少年が、1584年リスボンに到着し、マドリードでスペイン全盛期のフェリペⅡ世に拝謁、さらにローマ法王グレゴリウス13世に謁見して1590年に帰国するのだが、すでにキリスト教は異端視され、彼らの役目は悲劇として終演する。司馬遼太郎は少年たちの壮大なパノラマの真の意味を探ろうとして、当時ゲルニカが展示されていたプラド美術館には目もくれず、4少年がフェリペⅡ世に拝謁したサン・ヘロニモ修道院を探し当て、訪ねるのである。4少年にとっては法王との謁見であっても、キリスト教側では日本の王子が全権を持っての拝謁とされた。となれば日本はキリスト教下に入ったことであり、当時、世界はトルデシリャス条約(1494年)によってスペインとポルトガルに二分されていたため、日本はポルトガルの支配下に入ったことになり、スペインもその利権を取りたがっていた、という構図が浮かびあがる。やはり歴史は見たい側からだけ見てはだめなのである。

 後半ポルトガルでは大航海時代が主題になる。スペインに王位を狙われ続けてきたポルトガルは、ジョアン1世の時にイギリスと同盟(1386年)を結び、王妃をめとる。その子どもの一人がエンリケ航海王子で、海を目指し、アフリカへ、さらに喜望峰を回りインドへ、そしてマカオや日本、ブラジルに到達することになる。その栄華がジェロニモス修道院などに表れているのだが、しかし、植民地からの収奪による繁栄であったため産業が育たず、国力を失ってしまった。哀調をおびたファドがその気分を歌い上げているのかも知れない。歴史におぼれてはいけないということでもあろう。
 
 三馬漱太郎がポルトガルを強く意識したのは、ポルトガルがイベリア半島をスペインとで分かち合っているという地理的な知識もあるが、スペインの旅で強烈に感じたのは、イスラムに対するレコンキスタ(国土回復運動)で、その終盤、イスラムに対抗していたカスティリア、アラゴン、ポルトガルのうち、カスティリアのイサベル王女とアラゴンのフェルナンド王子が結婚(1469年)、スペインが誕生し、最後のイスラム王国グラナダを奪還(1492年)したことであった。
 その後、スペインのカルロス一世はハプスブルク家を継ぎ、神聖ローマ皇帝に選ばれる(1519年)など、スペインは黄金時代に入っていく。当然、ポルトガルへの食指が動かないはずはない。スペインの古都トレドを流れるタホtajo川はイベリア半島を西に下り、ポルトガルに入ってからはテージョtejo川と名を変え、リスボンで大西洋に出るのである。スペインの南の古都、コルドバやセビージャはグアダルキビル川沿いに位置し、大西洋への地の利はいいが、いつイスラムが巻き返してくるか分からない。アフリカ進出、そして新大陸発見など、大航海時代を仕切るには、ポルトガル併合は必須であったに違いない。
 もちろん、ポルトガルもスペインの狙いは感じていたはずである。そもそもスペインにしろ、ポルトガルにしろ歴史的な都市はローマ帝国時代の植民都市である。ポルトガルの国名にもなったポルトportoもローマ帝国時代の積出港といわれる。イスラムに支配されていたころこのあたりはポルトカレと呼ばれ、レコンキスタでこの地を奪回したのがフランス貴族であったため、彼がポルトカレ公爵としてここを治めるようになった。彼の息子エンリケスは、領内貴族の支援を受け、イスラムを撃退、カスティリアからも分離独立を勝ち取り、ポルトガル王国が成立した(1143年)。エンリケスは次にコインブラに都を移しながらイスラムを追撃し、リスボンに進出する。その後、リスボンに都が移され(1249年ごろ)、間もなく大航海時代(1415年~)に入っていくが、スペインの脅威を感じるポルトガルはイギリスとの同盟を結び、安定を図ろうとする。
 その一方で、ポルトガルはアフリカへ進出、さらには喜望峰を回り(1487年)、ゴア征服(1510年)、マラッカ征服(1511年)、そしてついに1543年種子島漂着、1549年ザビエル来日、1581年宣教師ヴァリニャーノ、信長と会見、1584年には天正遣欧少年使節団がリスボンに上陸することになる。ポルトガルの歴史によって日本の歴史が動いたと言っても過言ではないのである。にもかかわらず、ポルトガルがアフリカやアジア、ブラジルの富の収奪で国家をなしてきたため、ポルトガル内に産業基盤が成長せず、植民地での原資の消失、列強の植民地への進出、植民地の独立などによって、近代の波に隠れてしまい、明治以降の日本はむしろ近代の列強に目を向け、ポルトガルとの縁が薄れてしまった。
 この本「南蛮のみち」からは、ポルトガルの栄光と苦難、そして日本との結びつきを豊富な写真で理解することができる。また体質的にもポルトガルは日本とウマがあうことが窺える。

 このように司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズのひとつ「南蛮のみち」は、フランスから始まりスペインへと旅してゆく紀行文なのだが、一つの山場として両国の国境にすむバスク人たちが大きなテーマとなっている。

 フランスから日本に渡って、初めてキリスト教を伝えたザビエル神父が最初に紹介されている。そこもザビエルの信仰や当時の修道士の暮らしぶりなど伺えて良いところだが、そのあと、スペインに向かう前、両国間のバスク人に焦点をあてている。
 この本では、バスクの地を訪れて、バスクの人たちとふれあい、その言葉や風俗習慣、考え方を探ってゆくようすが興味深い。タイトルにもある「南蛮」のイメージのルーツをそこにひとつ、見ていこうとするねらいもあるようだ。
 司馬遼太郎の小説は時代劇にしても、本筋を離れて「余談になるが……」とわき道にそれて、その余談が延々と続くのだけど、そこに歴史をわかりやすく縦断してみせる独自の司馬史観があって面白い。「街道をゆく」シリーズはその真骨頂であろう。

 カンドウ神父という方がいる。ザビエル神父とは違い現代の人物だけど、この人もバスク出身ということで取り上げられている。信仰厚く、日本で人々の慈善に勤めてくれた方だという。感動させられる生涯だ。
 1925(大正14)年に来日、日本の人と文化を愛し、日本語も堪能でエッセイも多く残している。そのなかで、故郷のバスクのことを「風と水と光の国」だと愛着を持って描いている。そこに司馬遼太郎は魅かれて興味を持った。

 若い頃のフランシスコ・ザビエルは神学とは無縁で、将来は哲学の研究に捧げようと思っていたのに、カルチェラタンでイグナチウス・ロヨラに出会ったばっかりにイエズス会に入り、ポルトガル王の支援で日本に伝道に来る事になった。。。人の運命って数奇なものだなと思います。司馬遼太郎一行はザビエルの出身地、スペインのバスク地方を訪れ、実家のお城を見学する。
 茶道の所作は、キリシタンの司祭のミサの所作に影響を受けているのは?、とか、秀吉以後、港湾部に首都を作るようになったのはリスボンをモデルにしたのでは?、とか、当時のスペイン・ポルトガルが日本に与えた影響について語られている。
1549.jpg 1534年
 日本とポルトガルの接点は1543年である。ポルトガル船が種子島に漂着し鉄砲が伝来した。しかしこれは日本人側による視点、ポルトガル人が日本という国を発見し上陸した年でもある。以後、日本の形成を大きく揺るがそうとする出来事が数多く起きることになる。その一つにキリスト教の伝来が上げれれる。その異国の宗教がもたらした新しい文化の中に伊東マンショは生きた。天正遣欧少年使節の正使者となった伊東マンショの生涯を、次回からがシリーズで追跡することにする。

                                        三馬 漱太郎

 
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中世史の耕論と解論・2012「帰らざる丘」連載記
2012年、この一枚の写真から新年をスタートすることにする。
伊東マンショ6

旅のはじまり・・・・・
 My刊「Ron史」とは筆者・三馬漱太郎の人物歴史論。年間を通して一人の歴史人をコラム論としてシリーズ化しつつその人物の足跡をご紹介したい。この初回No.0001が、その旅のはじまり・・・である。
 
 本年のテーマとなる人物は1569年に日向国(現宮崎県)に誕生した。その1569年とは中世の戦国時代。戦乱の世に生きた人物である。本年はこの歴史人の没後400年。日本史の中に埋没さえせてはならない日本人である。

 旅の初めに・・・この人物を丹精を込めて刻み上げた彫刻家がいた。

 その彫刻家への回想の窓を開きつつ渋谷駅へと向かった。京王井の頭線に揺られながら神田川に沿って走ると井の頭公園駅に到着。しかし目的のスポットを目指すためには近距離の終点吉祥寺駅で降りた。井の頭恩賜公園は東西に細く伸びた公園である。その公園内の最西端に自然文化園はある。御殿山の西界隈である。

 この自然文化園の南隅に目的の彫刻館がある。

 吉祥寺駅から歩いてすぐであるから、駅前のコンビニでワインを買って、昔からある公園入り口の焼き鳥屋さんで焼き鳥を買った。ひとまず公園でのんびりピクニックを満喫。真冬なのに公園の池では白鳥ボートがあって、たくさんのカップルや家族連れがボートを楽しんでいた。 やはり、東京の都会の喧騒から離れて、人間らしくのんびりとするにはもってこいの公園なのである。

 目的の彫刻園内には、アトリエ館、彫刻館A館、彫刻館B館の3館があり、野外にも彫刻が展示してある。主に北村西望の作品が数多く展示されている。

 その北村 西望(きたむら せいぼう、1884年 - 1987年)は、彫刻家。本名は、北村西望(きたむら にしも)。日本を代表する美術家の1人であり、特に代表作である大作「長崎平和祈念像」は有名。そう考えると、この彫刻館を懐の中に抱え込む井の頭公園とは、東京の中の「長崎」なのである。

 北村西望は長崎県南高来郡南有馬村(現・南島原市)に生まれた。郷里の原城本丸跡には天草四郎の立像があるが、これも西望の作品である。都内にて長崎の歴史観を展望するのなら、ここ自然文化園が格好のエリアとなろう。西望は長崎に由来する人物には気概の魂を込めて作品化した。上記写真はその一連にあって西望が刻んだ「伊東マンショ」像である。

 その伊東マンショは1569年~1612年を生きた。日本人初の遣欧使節「天正遣欧少年使節団」の正使者として遥かローマまでの間を8年5ヶ月を経て帰還した。その旅は1582年2月に長崎港を出航する。その当時13歳であった少年のローマへの眼差しを西望は、さも永遠の魂として遺そうとしたのであろう。像と真向かうとその気魄がみなぎっている。次回からは、この伊東マンショの生涯に関する歴史ロマンを一枚の写真を添えながら大航海時代やルネサンス期の時事を綴り、皆様に歴史ロマンをお楽しみ頂けるようシリーズ化する。

                                 三馬 漱太郎
プロフィール

三馬漱太郎

Author:三馬漱太郎
Welcome to Ron「漱」World
Sotarou Miuma
立体言語学博士
Social Language Academy Adviser
応用社会言語科学研究員

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