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伊東マンショの正体を科学する No.0008

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 世界は大航海時代。日本は戦国「下克上」の世。同時期にキリスト教が伝来する。織田信長の比叡山焼き討ちのころに、また室町幕府が終焉しようとするころに、日向国一円に勢力する豪族の伊東家に数奇な運命を宿す一人の男児が誕生した。
 この男児が後に天正遣欧少年使節の正使となる伊東マンショ。
 だがこの人物についての実像を記す資料は今日に乏しい。その背景には当時の混乱と錯覚とが不遇にも交錯する日本史の実情がある。つまり記録として残せない深い闇の淵に置き去られた。
 No.2631ファイル・データはこの歴史人の正体に迫る研究をシリーズ構成でつづる資料コラム。中世の街道を往来した人物との交流を織り重ねながらマンショの足跡の真相を編集する。・・・・伊東満所

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Vislumbres de Mansho está enterrado en la historia de España
 フェリペ2世に謁見した伊東マンショは1584年11月26日にマドリードを出発した。そして1585年3月1日にイタリアのリヴォルノに到着する。この間、約3ヶ月。スペインに伝わる一冊の史書をひもときながら歴史の地下に埋もれたマンショのエピソードを紹介しクローズアップする。
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 ムルシアに秘められたエピソード

     辻斬りZ W50H50 gif  ① 「伊東マンショが見た水の都ムルシア」
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         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

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     ムルシアはセグラ川と密接でその肥沃な土地の周囲には山々が連なるアラブを起源とするスペインでも古い都市の一つである。山々はこの古代都市の平野を囲むように座り、ギルドの通りに一歩足を踏み入ると、そこにはまず大聖堂の塔、市のシンボルの一つが現れる。そのムルシアには2000年以上に渡り人々が居住する。またこの居住地を取り囲むようにしてエミールAbderramanII世はセグラ川のほとりに城壁を築いた。
 そして城壁が築かれたのは、13世紀にカスティーリャ王国の一部となるまでの間、Mursiyaのムーア人の領域が重要性を得るために始めたのが最初で、エミールAbderramanII世による城壁の完成はその後のことだ。
 現在も市内にはそのムーアの過去の遺跡が数多く残されている。
 さらに旧市街は、ギルドの名残りを保つ歴史の街でもあり、セグラ川に隣接してプラテリア(銀の)、Trapería(パーズ)とVidrieros(ガラス切り)などの地名が当時を物語る。

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 ムルシア(Murcia)は、スペイン南東部の都市で、ムルシア州の州都。セグラ川に面する。人口は約42万人でスペイン第7位。衛星都市を含めたムルシア都市圏は56万人で、都市圏としてはスペイン第12位。

 825年、ムルシアは「メディナト・ムルシヤ」という名前で、アンダルスを支配した後ウマイヤ朝のアミール、アブド・アッラフマーン2世によって建設された。
 アラブ人はセグラ川の流れの利点を活かし、複雑な灌漑用水路のネットワークを作り上げた。これによって町は繁栄し、近代の灌漑システムの先取りとなった。12世紀にアラブ人の地理学者イドリースィーは、この町を人口が多く、強く要塞化されていると述べている。たしかにこの古代の先取技術は未だ現代に通用する。
 コルドバのカリフが倒れると、ムルシアは順にアルメリア、トレド、セビリャの支配下に入った。1172年、ムワッヒド朝の支配下に入ったが、1223年から1243年までは独立した王国となった。
 1243年、アルフォンソ10世に率いられたカスティーリャ王国はムルシアを奪い、多くの移住者が北カスティーリャとプロヴァンスから移住した。1296年、ムルシアとその領域はアラゴン王国に引き渡されたが、1304年、トレラス条約によって最終的にカスティーリャ王国に編入された。そして18世紀になると、ムルシアは絹織物業によって繁栄し、教会や記念碑の多くはこの時期に建てられている。

 Cartagena City Murcia Spain

 Tourist Information Video for Cartagena Murcia Spain. Only 20 mins from Hacienda del Alamo. カルタヘナムルシアスペインの観光案内。ハシエンダデルアラモからわずか20分。


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Episode gif エピソード・マンショ ①

 ムルシアはセグラ川に沿って市街地が形成されている。
 この川は、アンダルシア州を源泉とする延長325kmの川だ。そして流れはスペインの南東部沿岸の海へと注ぐ。じつは伊東マンショはこの川と関して一つの出来事を体験した。
 だが少し本旨から道草して現代の目線でこの川を述べると、セグーラ川 (スペイン語:Río Segura、ラテン語:Thader、アラビア語: وادي الأبيض Wadi al-Abyad, 「白い川」)は、ハエン県に源を発し、アルバセテ県、ムルシア州、アリカンテ県を流れる。
 上流域には水力発電用ダムがあり一定の水量を保つ。下流域では半ば干上がることすらある河川であるが、雨季である秋に突然土砂降りの雨が降ると洪水を起こすことがある。
 20世紀では1946年、1948年、1973年、1982年、1987年、1989年に洪水が発生した。多発、そのために1990年以降運河が掘削され、治水目的のみの排水地がつくられた。
 よって河川の蛇行が改善され、あふれ出た水の排出が改善されたことで、水量が低位置に抑えられている。現在もベガ・デル・セグーラ沖積平野は、非常に生産的な農業地帯で、果実・野菜・生花が生産されている。しかし反面ムルシア地域を含むセグラ川下流域は、ヨーロッパ有数の汚染河川である。近年の水質管理、排水浄化施設の設置で状況はやや改善に向かってはいる。


 セグラ川に沿いグアダルマールセグラへと散歩。約一時間半片道かかるが、軽食用アダルのバーやレストランが川沿いにたくさんある。町と海の素晴らしい景色と、アダル城の城壁を回る歩道があるが、この歩道からまた町への入り口は、古い水車小屋エリアで大噴水の景色を見ることができる。


 セグラ川の氾濫。(1946年)

 モンテロ家に伝わる史書の記しによると、伊東マンショがこのムルシアに到着したのは1584年12月5日とある。マドリードを発った日から9日後のことだ。
 途中、ラ・マンチャ地方をのんびりと一行は進んでいる。マンショはベルモンテ城で一夜を過ごしたことは前回のファイル7番にて触れた。なぜこうも長閑な歩行となるのかは、ムルシアから次の進路となるアリカンテの事情に左右される。
 一行はそのアリカンテの港から帆船による航海でローマへと向かう予定が組まれていた。この出航の準備に時間が必要であったようだ。もしその調整時間が不必要であったならベルモンテ付近からはアリカンテに向かう最短の道は他にもあった。よほどムルシアに重要な要件がない限り、ムルシアからアリカンテを辿ると少し遠回りとなる。したがってムルシアを訪れることは出航待ちの時間調整も兼ねていたことになる。


 ムルシアとその自然環境のハイライトで現在を救済する地質学的起源を説​​明する教育ドキュメンタリー。


 中世のムルシア

 史書伝によると伊東マンショがムルシアに滞在した期間は15日、半月はこの街で過ごしている。
 到着したのが12月5日であるから、冬季半ばのことであった。しかしムルシアは地中海性気候の影響を受けたステップ気候である。地中海に近いために、『半乾燥・地中海性気候』と一般的に称され、夏は暑く冬は温暖である。おそらくマンショの当時もそうであったろう。使節一行はこの比較的暖かい土地で旅の体調を整えようとした。

 史書をひもとくと「El muchacho siguió mirando la estrella de la noche un par de días.少年は数日間、夜の星を見続けていた」とあり、その後「El muchacho fue observar el flujo del río Segura.少年はセグラ川の流れを観察していた」とある。そして「Escuchó bien hablar de los agricultores.彼は農民の話によく耳を傾けた」と記す。さらに「Boy que expresaron su interés en el caudal del río, estaba dibujando una imagen de un foso o al río. 川の流れに関心を示した少年は、堀や川の絵を描いていた」ことを記している。そしてこの記述の最後に「El nombre del niño es Mancio.少年の名前はマンショ」だと伝える。

 このことは伊東マンショがムルシアの「灌漑システム」に関心を強めたことを物語る。おそらく日本には無い水の文明に驚き、不思議さを感じたのであろう。スケッチをしたとあるが、残念ながらその所在は不明である。なお特筆すべきことは彼が「天文に関心を示した」ことだ。史書には「Había oído hablar de curiosidad constelaciones.彼は好奇心で星座の話を聞いていた」とある。

 ムルシアに複雑な灌漑用水路のネットワークを作り上げた後ウマイヤ朝(こうウマイヤちょう756年~1031年)は、イベリア半島に興ったウマイヤ朝の再興王朝のことである。
 これを西カリフ帝国とも呼ぶ。日本での通称は後ウマイヤ朝であるが、史料や外国の研究者はアンダルスの(またはコルドバの)ウマイヤ朝と呼んでいる。
 この後ウマイヤ朝は、アッバース朝に匹敵するほどの繁栄の時代に達した。
 10世紀の地理学者イブン・ハウカルは、当時のコルドバはバグダードには敵わなかったが、エジプト、シリア、マグリブのどの都市よりも大きかったと伝えている。
 10世紀のコルドバは世界でも有数の大都会であり、史料によると人口は50万を下らなかったと推測されており、西欧で最大の都市であった。こうしたコルドバは洗練した文化の都ともなり、すでにクリスタル・ガラスの製法は9世紀後半にコルドバで生まれ、金銀細工の技術も発達する。
 また、バグダードからコルドバの宮廷によばれたジルヤーブは琵琶の演奏や歌手として名声を博し、バグダードの優雅な文化をコルドバにもたらした。
 彼がもたらしたものは、例えば、フランス料理の原型となった料理コース、ガラス製の酒杯、衣服を季節ごとに着替える習慣、髪の手入れ、白髪抜き、歯磨きの使い方、などである。

 10世紀半ば、コルドバの西北7キロの小高い丘にザフラー宮殿(花の宮殿の意味)が建造され、大理石だけでも4000本が使われ、宮中には40万巻の書籍が集められた。
 おそらく、当時の世界で最も輝く宮殿であっただろう。
 統治下で、さまざまな宗教や民族が共存しえたことは、この王朝の繁栄に大きな貢献をもたらした。一部のキリスト教徒は移住したが大部分はイスラムの支配下で信仰の自由を許されて暮らした。ユダヤ教徒も西ゴート王国時代には冷酷な扱いを受けることが多かったが、イスラム支配下では自由と繁栄を享受した。また、イスラム文明が極めて高度な文明であったので、それを土着のスペイン人がすすんで受け入れたことも安定したムスリム社会を形成した理由だろう。

 ムルシアの歴史上の特性をそう考えてみると、伊東マンショという人物は日本人の誰よりも一早くムスリム社会の文明を実際に体験した。その眼差しの一端が彼を灌漑システムの文明技術へと向かわせたといえる。したがってこの15~6歳の日本少年は、歴史的に驚異的な実体験を果たしたのだ。
 しかもそこに接近する意識が受身ではなくポジティブであるのだからマンショの精悍な性格もが浮き彫りとなる。これこそがじつに驚異的だ。





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Vislumbres de Mansho está enterrado en la historia de España
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 アリカンテに秘められたエピソード

     辻斬りZ W50H50 gif  ②「伊東マンショを魅了したスペインの黄金文明」
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         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

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     アリカンテ(Alicante)は地中海に面する港湾都市(人口約32万人)。
     物流拠点として重要な役割を果たすほか、アルミニウムなどの工業も盛ん。温暖な気候が続くため、保養地、海水浴場として多くの観光客も集める。近隣の都市としては、20キロ南西にエルチェ、70キロ南西にムルシアが位置している。
 歴史的には、紀元前3世紀、フェニキア人の植民市・カルタゴの名門であるバルカ家によって建てられた。
 当時はアクラ・レウケと称される。しかし、ローマとの第二次ポエニ戦争にカルタゴは敗れ、アクラ・レウケもローマの支配下におかれた。ローマの統治下ではルセンツムと称された。
 8世紀にイスラーム勢力に征服され、13世紀までその支配は続いた。
 その後はアラゴン王国の支配下に入り、15世紀後半のカスティリャ王国とアラゴン王国の合併によってスペインの支配下に入った。18世紀初頭のスペイン継承戦争では、一時フランス・ブルボン家の軍に街が包囲された。1936年に勃発したスペイン内戦では、人民戦線側を支持する勢力が強かったが、フランシスコ・フランコ将軍を中心とした反乱軍が最終的には勝利した。

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 地中海に面し、気候が温暖なアリカンテはコスタ・ブランカの中心的なリゾート地。 かつてローマ人に「光の都」(Lucentum)と、ギリシア人に「白い砦」(Akla Leuka)と 呼ばれていた。
 Alicante(現地の言葉ではAlacant)という地名はアラビア語の「Al-Laqant」に由来する。港沿いの遊歩道は幾何学模様のタイルが敷かれ、椰子の木が立ち並び、カラフルな椅子に座って憩う人々の姿があり明るい雰囲気に包まれている。主要都市からの距離はマドリード:432km、バルセロナ:544km、バレンシア:182km。



 この街からは紀元前3~4世紀の遺物や、また当時のものと見られる40以上の墓所が発見されている。ウエルタスとサンタ・ポラのふたつの岬に挟まれた地中海沿岸のアリカンテは、古くから港町として発展してきた。
 8世紀にイスラム教徒支配下に入り、13世紀末にジャウマ2世によりレコンキスタされ、14世紀初頭にはアラゴン王国の勢力下に。当時すでに、現在と同じドライフルーツ、羊毛、ワインを中心とした商業が盛んに行われたていたという。
 その後、17世紀にはフランス軍の攻撃で町が荒廃するも、18世紀にマドリードと結ぶ鉄道が開通したのをきっかけに、新大陸アメリカとの交易で再び繁栄。現在は、地中海岸のリゾート地コスタ・ブランカ(白い海岸)の中心地として、多くの観光客が訪れる町である。夏は海水浴、冬は避寒を求める観光客が、国内外から大勢押し寄せる。
 18世紀に作られたバロック様式の市役所などもあるが、アリカンテの魅力はなんといってもビーチだろう。パーム・ツリーが並ぶ整備された遊歩道の先が、ビーチになっている。海岸沿いは、大規模、中規模とりまぜてホテルが林立している。
 ここで、とても夢のないことを言ってしまうと、新しく開発された町ではないこともあって、町の中心にあるビーチの雰囲気は、日本の「熱海」かもしれない。静かに海水浴を楽しみたいなら、近くにある町からやや離れたビーチまで足を伸ばすほうがいいだろう。アリカンテを囲むウエルタスとサンタ・ポラの岬からは、広々とした地中海を見晴らすことができる。
 アリカンテは海沿いの街なので魚介類は新鮮だし、米どころであるタラゴナ-バレンシア-ムルシアのラインの間に位置するので、とりわけ米料理は美味に感じる。
 そしてポピュラーな魚介類は、ヒメジ、イワシ、マグロ、エビ、ヤリイカにコウイカなど。
 A la Planacha「ア・ラ・プランチャ」とあれば、これらを鉄板焼きしたものという意味だ。また、隣のバレンシアはパエージャ発祥の地であるし、ムルシアは特別な方法で生産する水分の少ない高級米の産地。この地方には米と魚介をふんだんに使った料理が何種類もある。
 D.O.(原産地呼称制度認定)Alicante「アリカンテ」は古くからワインの産地として知られてきたが、90年代になって一気に設備や原材料の見直しが行われてから、高品質なものが生産されるようになった。デザートワインとしては、甘口のMoscatel「モスカテル」(マスカット)種のものがおすすめとなろう。
 また、クリスマスに食べられるTurro'n「トゥロン」(ハチミツ、砂糖、卵白とトーストしたアーモンドを混ぜて作る、アラビア伝来の菓子)の産地としても有名で、これはスペインに二つしかないトゥロンの原産地呼称のひとつに認められている。


 コスタブランカ地方のアリカンテの海岸は約160キロ。この海岸線には、日光浴やスイマーのためのビーチ、スキューバダイビングのための岩の入り江の他、テーマパーク、サファリ公園、自然保護区、魅惑的な村、洞窟、滝などと共に、エキサイティングな祭り、国際的に有名なゴルフコースもある。


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 Alicante (Espagne)

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Episode gif エピソード・マンショ ②

 幾度か訪れているスペインではあるが、その中で記憶に残る意外な旅の出逢いがある。それは一度、日時を定める意味合いもなくただ目的地のみ意識して訪れたスペインは、Semana Santaセマナ・サンタ)の真っただ中であった。なので、その時期にスペインを訪れると、どなたでも下の動画のごとく神秘な光景に遭遇するだろう。

 何を祝う祭りかというと、話はキリスト教にまつわる。キリストが刑を受け、復活するまでの1週間を祝うお祭りである。毎年、3月末~4月初めの1週間が、このセマナ・サンタにあたる。英語では「イースター」と呼ばれるものだ。
 この熱烈な信者、好奇心の強い人、観光客やグルメなど、様々な人々が祝う情熱と楽しみの溢れる一週間、セマナ・サンタ(聖週間:Semana Santa)はふたつの顔を見せてくれる。
 ひとつは、カトリック教信者にとってその年の最も大事な時期であり、キリストが人間の罪をあがなうために自ら犠牲になったことを思い出すために様々な行事が催されること。
 そしてもうひとつは、その他の人々にとってセマナ・サンタはパソ(Paso:行列の神輿)やナザレノ(Nazareno:フードつきのマントを着用し受難者の格好をした人々の行列)の姿を見物する絶好の機会となることだ。さらに、この時期だけしか味わえないデザートやお菓子などを、スィーツ店やレストランなどで楽しむ習慣も異国人には魅惑な出逢いとなる。
 このセマナ・サンタにキリストの受難を再現する習慣は、スペインで最も伝統のある行事のひとつ。
 首都マドリードでも、当然のことながらセマナ・サンタを祝う伝統については、長い歴史がある。15世紀から毎年、新約聖書に記述されているキリストの死、磔の刑そして復活の再現が行われてきた。数日間にわたって催される行列で使われる神輿は、華やかに飾られ、20人あまりの男性が担いで教会の外へ運びだす。行列はプラド通り(Paseo del Prado)、アルカラ通り(calle Alcalá)、マヨール広場(Plaza Mayor)などの場所を巡る。これはマドリードだけに限らない。この期間、スペイン国内では各地域で特色のあるセマナ・サンタが行われる。

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 アリカンテのセマナ・サンタ。
 教派別に表現が違う。受難週(じゅなんしゅう:プロテスタント)、聖週間(せいしゅうかん:カトリック)、受難週間(じゅなんしゅうかん:正教会)、(英: Passion Week, Holy Week, 西: Semana Santa)とは棕櫚の主日(枝の主日、聖枝祭)から、復活祭(復活大祭)の前日までの一週間を指す。この週の木曜日は「聖木曜日」(「洗足木曜日」、「聖大木曜日」)、金曜日は「聖金曜日」(「受難日」、「受苦日」、「聖大金曜日」とも)、土曜日は「聖土曜日」と呼ばれる。これはイエス・キリストがエルサレムで受けた苦難を記憶する事から「受難週」等の名がつけられている。受難週の各曜日における出来事を福音書の記述に従って行う伝統は、エルサレム教会で2~3世紀頃から行われていたようである。今日でも正教会、カトリック教会、聖公会では各曜日に様々な行事が行われている。ただ、プロテスタントでは教派や国によって採用する行事にばらつきがある。

 アリカンテ(Alicante)での伊東マンショの動向をみるとき、このイースターにちなんだ料理について考えてみたい。モンテロ家に伝わるトメリョソ(Tomelloso)の歴史書には、伊東マンショがアリカンテで口にした料理が記されている。
 史書伝に「Los ingredientes que se utilizan qué? . この食材は一体何なのでしょうか」と質問が記され、また「¿Es lo mismo que los que comí en Macao antes.  これは私が前にマカオで食べたものと同じです」と伝えている。マンショはその「何か?」を体験した。

 ドイツなどでは、このイースターにはウサギをかたどったパンを食べたりする習慣があり、ヨーロッパの他の国々をみても、どちらかというと、羊の肉や、鶏肉、ソーセージなど動物性食品を摂る習慣が多い。スペインはというと、塩漬けの干ダラを使った料理を食べることが多いようだ。スペインではこの塩漬けの干ダラ(バカラオ)を食べることが多く、普段の料理にも登場する。
 そしてデザートでは、「torrijas(トリハス)」と呼ばれる、パンから作られるスイーツを食べる。これはバゲットなどを砂糖やハチミツを入れたミルクに浸して、溶き卵に通して、フライパンで焼く。似たモノでは、フレンチトーストみたいな感じであろうか。そしてセマナ・サンタの間は、学校や会社が休日になるのが大半なので、スペインではそれぞれ家で過ごしたり、遠出をして過ごしたりしている。

 伊東マンショがアリカンテに到着したのは1584年12月22日。少年使節の一行はアリカンテ近郊で年を越すことになる。年が明けて出航する支度は整えられた。したがって聖夜はアリカンテで迎えた。このときその食卓にセマナ・サンタ(イースター)の料理と同様のモノが並べられたと記されている。

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 バカラオ(西: Bacalao、葡: Bacalhau バカリャウ、伊: Baccalà バッカラ)は、タラ(鱈)の塩漬けの干物、またはそれを用いた料理を指す。南ヨーロッパ諸国、スペインやポルトガルの植民地であった中南米諸国、そしてタラの捕獲地である北欧諸国を中心に食べられている。
 スペイン語圏において、単にバカラオというとタラを指すが、むしろ塩漬け干ダラのバカラオ・エン・サラソン(Bacalao en salazón)を意味することが多い。
 塩漬けにして乾燥した場所で数ヶ月保存する。1匹丸ごと保存加工されたタラの塊はバカラーダ(bacalada)と呼ばれ、ほぼ三角形の形をしている。主な生産地は北欧諸国と北アメリカの北東部である。保存性の高いバカラオは航海中の食料に向き、三角貿易で盛んに取引されたため、タラの産地から遠いブラジルや西インド諸島、西アフリカでもよく食べられている。かつては庶民的な食材であったが、1990年代にタイセイヨウダラの資源量が激減して以来、価格が上昇した。
 同じく塩蔵されるタラ科スケトウダラ属の魚ポラック(en:Pollock)とよく混乱されるが、バカラオはタラ科マダラ属の魚(英語:Cod 、コッド)を用いる。 また北欧諸国のルーテフィスク(no:Lutefisk)は乾燥させた鱈を灰汁で柔らかくゼリー状にしたもので、塩蔵はしていないため、バカラオとは異なる。

 バカラオは塩漬け保存、この方法で保存すると、ココチャス(kokotxas、喉肉)などの肉、卵、骨、肝臓、浮き袋など料理に使える多くの部分を取り除くことになる。塩漬けで数ヶ月乾燥させると三角形の平らな形となり、持ち運びが楽になるとともに、少ない量であれば重ねて積むこともできる。
 塩蔵された魚は大量に塩が用いられているため、そのままで食べることはできない。調理の約24時間前から冷水で塩抜きする。塩抜きの途中で1度か2度水を変えるが、その頻度はタラの大きさによって異なる。塩抜きが完了したらすぐに調理を始めるべきである。また塩抜きの段階で薄くはがれた細切れの肉片は「バカラオの切れ端」(migas de bacalao 、ミガス・デ・バカラオ)として別売りされることがある。

 こうしたバカラオは、スペイン・ポルトガル・イタリア・フランスおよび中南米諸国と係わりが深い。これらのカトリック文化圏では、謝肉祭の最終日(マルディグラ 、太った火曜日の意)の翌日である灰の水曜日から復活祭の前日までの40日間を四旬節といい、かつてはこの期間中に小斎として鳥獣の肉を絶つことになっていたため魚を食べた。
 20世紀後半以降は四旬節のうち、灰の水曜日とキリストが十字架にかかった聖金曜日のみ、あるいは受難と同じ曜日である毎週金曜日に鳥獣の肉を食べない習慣となっている。南欧や中南米では聖金曜日を含む四旬節の最後の1週間に当たるセマナ・サンタ(聖なる1週間、Semana Santa)用の伝統食が確立されており、タラとくに塩漬けのバカラオはセマナ・サンタの象徴的な食べ物となっている。



 スペインにおいてタラはセマナ・サンタに食べる伝統的な魚であり、スープ、フライ、コロッケ、トルティージャなど様々な料理に用いられる。アルゼンチンでも肉食を避ける日はマグロを詰めたエンパナーダとともにバカラオのシチューが代表的な食事となっている。バカラオが手に入らない場合はサメの肉(カソン、cazón)で代用する。エクアドルとコロンビアではファネスカ(es:FanescaまたはJuanesca)というバカラオのスープを食べる習慣がある。また、この時期 ブラジルでも、スカンジナビア諸国から大量のタラを輸入しており、その量は世界最大となっている。近海の魚でなく敢えて遠方の寒流に棲むタラを食べるのは、宗教的な伝統食であること、三角貿易と旧宗主国であるポルトガルの食生活の名残であることとされる。
 しかしメキシコは例外で、セマナ・サンタの時期ではなくクリスマス・イブに食べる。カトリック教徒はクリスマス前の待降節期間中も四旬節同様肉食を避けるためである。

 史書伝では伊東マンショの質問に「Se Bakarao. Un plato de bacalao. それはバカラオ。タラの料理です」と応じたと記されている。どいやら以前の寄港地であるマカオでも一度食べたことがあるようだ。マンショは九州の日向国に生まれた。鱈という魚は北方の食材、食感は記されてないが、伊東マンショはアリカンテで鱈料理を体験した。

 19世紀半ばのアリカンテ。(1853年から1866年)。
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Vislumbres de Mansho está enterrado en la historia de España
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 サンタ・ポールに秘められたエピソード

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 Fastighetsbyrån Gran Alacant & Santa Pola

 アリカンテから南にバスで約30分の隣町サンタ・ポーラは、漁港であり、あるいは夏に賑わう海水浴場でもある。じつは、この地にも伊東マンショは足跡を残した。
 この情報を基に漱太郎も何度かサンタ・ポーラを訪れている。
 ところが近年、バスが街中に入ると急に初めてきた街のような気がしてきた。かってこんなに建物が密集している地域ではなかったはずだ。そう思っている間に乗車したバスは海岸通に入っていき、次の停留所で乗客の殆ど全員が降り始めた。道路の向かい側は砂浜である。どうにも記憶にあるサンタ・ポーラとは違う。

  しかし終点のようだと思って私も降りる。バスはそのまま直進していった。かつてこの街を訪れた時も終点まできたのだが、そこは海岸ではなく、周囲に植栽の多いロータリーであったと思う。そして、バスはそこから折り返すためにしばらく停車していたはずだ。以前はたしかにそうであったと記憶する。

 そう思いながらしばらく海を眺めていたが、海岸近くには高い建物が多く増えており、その背後にピソや戸建ての住宅も増えている。大型スーパーや商店なども多くなっている。どうやらこれは「う~ん、サンタ・ポーラも住宅バブルに飲み込まれたな?!」と呟いた。「とにかく以前食事したことのある漁港に近いバルに行ってみよう」そうすれば街がどのように変化したのかが判るかもしれない。

 そして市内地図を片手にとりあえず漁港を目指した。かつてこの漁港で夕方の競り市を見学したことがあった。また、その近くのバルで食事をしたこともある。バスを降りた海岸は西の方で、近年、街は西の方へと広がったようだ。港は東側にあった。その港にはかつて見なかった広い駐車場ができている。またその先に見える岸壁にはタバルカ島行きの客船が停泊しており、出発時刻が近づいているのか、急いで走りこむ客の姿が見られた。

 昼間の漁港には船舶の姿は見られず、競り市を見た建物が薄汚れた側壁を曝している。その近くに見つけた、食事の不味かったと鮮やかに記憶するあのバルも心なしか寂れて客足も途絶えているように思われた。この日、真夏の海水浴場と人出の多い街中や高い建物の商店街を見歩いたせいか、漁港の寂びれて古びた施設を見ると、サンタ・ポーラはすっかり様変わりした印象であった。これはまさに日本におけるバブル崩壊後にみせた同様の荒廃を感じさせた。

 そう強く思えるのには、この港の南エリアに砂と塩湿地の広がるサリナスデサンタポーラの自然公園(salinas de santa pola)があるからだ。かってサンタ・ポーラの街はこの広大な湿地湖と一体となって独特の風土をつくり上げてきた。その貴重な歴史性と比較すると、どうにも近代のリゾート開発は、やはり魅力を欠いて画一である。



Episode gif エピソード・マンショ ③

 前述の通り伊東マンショは聖夜24日にバカラオ(鱈料理)を馳走されたわけだが、その鱈に関連してマンショは隣町のサンタポールまで足を運ぶことになった。
 クリスマスとはキリスト教の教会暦における降誕祭。
 一般には馴染まないが、教会暦の一日は日没から始まり日没に終わる。降誕祭は24日の日没からクリスマスが始まり、25日の日没にて終わる。したがって24日の昼間は「クリスマスイヴ」ではなく、24日の日没以降がクリスマスイヴ(聖夜)となる。
 史伝によるとその聖夜に出されたバカラオの一件に絡んで「Mancio mostró interés en saber cómo hacer Bakarao. マンショはバカラオの作り方に興味を抱いた」とある。そして「Mansho estaba interesado en la tecnología de producción de sal. マンショは塩の生産技術に関心を示した」と記されている。さらに「Se sorprendió a grandes cantidades de sal apilados sobre la mesa. 彼はテーブルの上に盛られた大量の塩をみて驚いた」とある。

 史伝ではアヨセ・ロラ(Ayozw Lora)という男性がいた。そのアヨセに誘われて伊東マンショがサンタ・ポーラを訪れたのが12月28日のことであった。
 アヨセはバルセロナにあるCardona(カルドナ)の岩塩を採掘していた男である。そしてマンショはこのアヨセ・ロラから天日塩田の説明を聞いた。マンショの語学力で果たしてどれほどの理解を示したかは不明だが、史伝によると「Mansho escribió con entusiasmo, una descripción de la Ayose. アヨセの説明をマンショは熱心に書きとめた」とされる。

 こうして伊東マンショは次に、サンタ・ポールから南約30マイルに位置するトレビエハ(Torrevieja)という街にアヨセに誘われて訪れた。このトレビエハにはサリナス湖という塩湖があった。伊東マンショはそれほど強く塩というものに関心を示したようだ。

 そこで先に世界の塩事情について少し述べる。

 地球上の生物は原始の海水中で発生した。
 このことに起因して、塩は多くの生物にとって必須の物質であり、人類の生活に欠かせないものである.生活に欠かせない物質として空気と水があげられるが、空気はいたる所に存在し、人類は水と食料を入手できる所を生活の場とした。水や食料と比べれば塩の必要量はわずかであり、かつ塩の産出地が適当に偏在していることから、ある特定の場所で塩が生産され、またきわめて古くから塩の交易が行われた。塩の歴史は人間の歴史とともに始まったといえよう。

塩 1 W600

 古代エジプト人が天然塩の採集から、干潟に簡単な溝を設け、天日塩田の祖型ともいえる方法に到達したであろうことは十分に想像されるが、しかし現在にその確証はない。
 バビロニアでは塩泉、塩井等から得た塩水を天日で結晶させたといわれている。また地中海東部のフェニキア人が、海運、交易で活躍したのは、紀元前12~6世紀のことだ。彼らは死海付近の岩塩のみならず、はるか2000マイル離れたスペインの岩塩床から塩を採掘し、またカヂスの天日塩を積み出して地中海沿岸に売りさばいていた。そのスペインのカヂスは地中海から大西洋に出てすぐのところにある。近くのサンフェルナンドに水深が浅く口が狭い湾があり、この湾全体が天然の塩田となっていた。狭い湾口を春締め切っておくと、夏期の太陽熱によって蒸発し、やがて塩の析出がはじまる。これは古来サンフェルナンドのソルトパンといわれ、天然の天日塩田。フェニキアおよび古代ローマ人は、ここから乾魚や塩漬魚とともに、塩を積み出したのだ。

 地中海沿岸の気候は降水量が少なく、とくに夏期雨が少ないので天日製塩に適しており、現在でも各所に天日塩田がある。この地中海の真中に突出したイタリア半島では、ローマに近いコルネトー・タルキニアにおいて、古来海水を放置し天日を利用して製塩を行ってきたが、その品質はよくなかった。ローマ市4代目の王アンクス・マルキウスはその改善をはかって、ティベル河口のオスティアに塩田をつくり、さらにローマまで道路を建設したのが、紀元前630年頃と伝えられる。この道路を塩道路という。後にローマ帝国の版図の拡大にともなって、塩輸送のための道路も拡張され、国内の主要都市はもちろん、中央ヨーロッパから今のイギリスにまで達した。これらの道路の建設や警備にはローマの兵士が当たり、また兵士の給料は塩で支払われた。今日のサラリーという語はラテン語の「salarium」に由来している。オーストリアのウィーンの西北、サルツブルグは、現在岩塩の産出で著名である。その近くのハルシュタット(ケルト語で塩の場所を意味する)では、紀元前1000~500年頃岩塩の採掘が盛んに行われ、塩の交易を通して中部ヨーロッパの文化の一中心地をなした。

 ヨーロッパの塩生産拠点と製塩会社をみると、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、ハンガリー、ブルガリアには塩の生産拠点はないことがわかる。しかしヨーロッパには多くの岩塩鉱があり,乾式採鉱とともに溶解採鉱も行われ,そのかん水を原料としたせんごう工場も数多くある。特に地中海沿岸には多くの天日塩田があり,岩塩を溶解採鉱したかん水を天日蒸発させて天日塩を生産している塩田もある。

中世の食生活と塩に関する事例』(13~15世紀)

○塩の生産

(1)塩の質と費用は、生産方法によって変化した。

 A.最良の塩は「塩水の井戸から汲み上げられた水を煮詰めて作る」or「海水の浸み込んだ泥炭を燃やす」ことで作られた。
 B.泥炭は乾燥させた後に燃やすと、塩を含んだ灰が後に残る。これを水に溶かし、煮て水分を抜くと、綺麗で上品な白色の塩が残る(この塩はずいぶん尊ばれたが、生産過程は不愉快かつ退屈だった)。
 C.14,15世紀には、フランス西部のブルヌフ湾(ロワール河口)から新しい塩がもたらされるようになった。ここでは「海水を浅い人工の池に集めて、そこで長い夏の間に太陽によって蒸発させる」方法を採った。
 D.これは最小限の費用と労力で生産できたから、起業家たちはこれを「天からのマナ」と呼び、全ヨーロッパに輸出して大儲けした。

(2)しかし天日塩には見かけに残念なところがあった。

 A.人工池に集まった埃・ゴミを取り除いて塩を精製する試みがほとんどor全くされなかったのが原因だった。
 B.蒸発だと、煮た時と同様の穀粒のように綺麗な塩は後に残らない(現代でも天日塩に関する記述には「黒い」「灰色の」「緑の」という形容詞が用いられている)。また「粗大な」「ザラザラした」「粗い」とも表現される。

○食卓と塩

(1)現代と同様に、塩加減の好みは客によって異なるから、塩入れは食卓に必要不可欠だった。出された塩の質は(パンと同様に)「晩餐の主人役の財政状態」「主人役の客に対する評価」を知る手掛かりを与えてくれた。

(2)慎重な一家の主は、使用目的(使用者)に応じて異なる種類の塩を買い求めた。


 A.もちろん、白くてきめ細かくて綺麗な塩が最上だった。節約家は自分で塩を煮沸・精製する方法を実行して、白くて小さな塩を手に入れた。
 B.中世の優雅さは「パンを四角に切る」「塩を滑らかにする」ことを求めた。塩を滑らかにする方法として、幅2インチ・長さ5インチの象牙のヘラを推奨している事例がある。

(3)塩を使用する場合には、どんな食べ物も塩の中に突っ込んではならなかった。

 A.変わりに「塩をナイフの先に取り、客自身の敷板の上に置いた」(1600年頃の木の敷板には、塩を入れる部分が作られていた)。
 B.時には即席の塩入れとして、パンを切り取って臨時の敷板とした。
 C.塩入れを綺麗に保つために、一度出された塩を塩入れに戻すのは避けなければならなかった(過度の節約は戒められた)。
 D.塩は全員が使ったから、銘々の食卓に用意されたが、それとは別に主人の席のすぐ傍に「宴会の中心である名誉ある席」であることを示す、象徴的な塩が置かれた。他の塩は必要がなくなれば食事の途中に片付けられたが、この象徴的な塩だけは、最初から最後まで食卓の上にあった。

(4)塩入れはいつも陳列され、客の目を喜ばせ、所有者の権威を確かなものにする意図が込められていた。

 A.このため塩入れは、出来る限り最も高価な材質で作られ、その上材質に応じた装飾が施された。
 B.材質には「銀、金メッキした銀、金」がとても好まれ、装飾の例として「本体はめのう製で、金の蓋付き、その取っ手をサファイア1個と真珠4個で飾った」ものがある。
 C.中世文化の特徴を示す当時の格言に「質素なことは面白くなく、幻想的なことは面白い」というのがある。これに従って、塩入れはありとあらゆる形を装って食卓に出された。「ライオン」「竜が中から這い出してくるえぞばい貝の殻」などがある。

(5)ヨーロッパ大陸で最も人気があったのは船の塩入れだった。

 A.フェリペ2世とともに絵に登場するものは「手間をかけて作られた菓子で、蜘蛛の糸のような索具・非常に小さな錨・小型の大砲・ごく小さい袋や俵」まで表現されていた。
 B.船は塩だけでなく、ナプキンや刃物類も置けるほど大きいものもあった。
 C.このサイズだと、人気の家としての魅力を全て備えていた。「船首楼のところで旗を掲げている小さな人形が8体集まった船形の塩入れがあり、これを食卓の上を堂々と進ませて、祝宴中のぎこちない間を和らげた」こともある。

(6)素晴らしい塩は財産であり、困窮の際には保証となった(塩の重さ・価格を慎重に記録した!)。古い塩を手に入れた新しい所有者は、好みや流行にあわせて塩を溶かして作り変えるまでした。

 聖夜にはフェリペ2世より贈られた青い船形の塩入れがあり、そこには山盛りの聖塩が少年使節一行の前で銀色に輝いていた。モンテロ家に伝わる史書伝は「El niño estaba fascinado por el misterio de la sal gradualmente.  少年は徐々に塩の神秘に魅了された」と伝える。

Salinas de Santa Pola 地図 W600
Salinas de Santa Pola 8 W600

Salinas de Santa Pola 塩田 W600
salinas de santa pola 塩田 1 W600

 サンタ・ポーラの天日田園(今昔物語)

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ライン黒 W600
Vislumbres de Mansho está enterrado en la historia de España
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Torrevieja gif
 トレビエハに秘められたエピソード


 トレビエハ(Torrevieja)は、バレンシア州、アリカンテ県の都市。コスタ・ブランカに面した観光都市で、サンタ・ポールの南約30マイル(metric mile:1マイルの長さは1500メートル)に位置する。このトレビエハの面積は約71平方kmで、領域内には通り、砂浜、潟がある。20kmもの海岸線は、ラ・マタ海水浴場など多くの海水浴場がある。年間の平均気温は、12℃から25℃の間である。

スペイン南東部沿岸マンショの足跡 W600


 スペインの南東海岸をトレビエハに向かって。





Episode gif エピソード・マンショ ④

 18世紀まで、ここトレビエハにはサリナス湖という塩湖があり、スペイン王家が所有していた。そして1802年まで、トレビエハ(古い塔を意味する)には地名の元となった監視塔があるだけで、他に塩鉱で働く者や漁民の家が点在していた。
 1803年、カルロス4世はサリナス湖管理をラ・マタからトレビエハへ移す布告をし、住宅建設が許可される。しかし1829年、地震によって人口が打撃を受け、だが後に徐々に復興した。これで塩の生産と貿易が決定的となり、1931年にはアルフォンソ13世によって工業都市に昇格す。19世紀の手工業生産は、一般消費のためのリネン生産、麻及び綿に制限されていた。停泊地が塩の積み荷の障害となったが、1945年以降に港が建設された。

 19世紀半ば以降、ここで精製された塩はスウェーデン船とオランダ船によって基本的に運ばれている。塩の海外市場の重要性は20世紀半ばまでであった。トレビエハで採れた塩は1/4がスペイン国内で売られ、残った塩は輸出された。19世紀、トレビエハは、ベガ・バヤ地方で生産される品物の積み出し港であった。
 そして近年の地元経済は観光業で非常に伸びている。
 イギリス人、スカンディナヴィア半島からの人々、ドイツ人はここで一年中暮らす強力な一団で、スペイン人観光客はトレビエハに休暇用住宅を所有する。2004年以降、トレビエハは在留イギリス人が多いムニシピオとして国内1位となり、現在は在留イギリス人人口が約12,000人となった。

フェリペ2世 W600

 フェリペ2世は、1527年神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王としてはカルロス1世)とポルトガル王マヌエル1世の娘イザベルとの間に生まれた。
 スペイン王にして神聖ローマ皇帝に選出された父カルロス1世は、当時のヨーロッパで最大の勢力を持ち、ヨーロッパ以外の広大な領土とあわせて、その繁栄は「太陽の沈まない国」と形容された。なお、現在のフィリピン共和国、フィリピン諸島などの「フィリピン」は、1542年、スペイン人のコンキスタドールによってラス・フィリピナス諸島と命名されたことに起源を発するが、これは、当時アストゥリアス公だったフェリペの名に由来する。そのフェリペは1556年11月16日、父の退位によりオーストリアを除く領土を受け継ぎ、スペイン王フェリペ2世として即位した。このとき28歳であった。また既に1521年にオーストリア大公、153年にドイツ王となっていた叔父フェルディナントも、この時に皇帝位を継承した。こうしてハプスブルク家は、スペイン・ハプスブルク家とオーストリア・ハプスブルク家に分化する。

 しかしフェリペ2世は、1556年の即位と同時に膨大な借金も受け継いだ。このため翌1557年に最初の破産宣告(国庫支払い停止宣言:バンカロータ)をせざるを得なかった。在位中にこれを含め、4回のバンカロータを行っており、フェリペ2世の時代の厳しい国庫事情が伺える。しかしイタリア戦争においては1559年、カトー・カンブレジ条約でフランスのイタリアに対する要求を放棄させた。

 折しもこのころに宗教改革は始まっている。
 宗教改革とは、16世紀(中世末期)のキリスト教世界における教会体制上の革新運動である。ルターの贖宥状批判がきっかけとなり、以前から指摘されていた教皇位の世俗化、聖職者の堕落などへの信徒の不満と結びついて、プロテスタントの分離へと発展した。

 ルターによるルター教、チューリッヒのツヴィングリやジュネーヴのカルヴァンなど各都市による改革派教会、ヘンリー8世によって始まったイギリス国教会などが成立する。また、当時はその他にアナバプテスト(今日メノナイトが現存)など急進派も力を持っていた。

 これには要因のひとつとして、16世紀は近代国家の萌芽の時代で、それまで各地域からの教会税はバチカンの収益となっていたが、近代国家の誕生とともに、各国は経済的な理由から自国の富がバチカンに流れることを可とせず、自国内に止めておくことをむしろ歓迎し、それぞれの地域の教会が、ローマと絶縁することを積極的に後押ししたことが背景にある。また、宗教改革の理念が拡大・浸透するうえでは、グーテンベルクによる印刷技術が大きな役割を果たしたといえる。

 このことからドイツ、フランスなどではローマ・カトリック勢力がプロテスタント勢力と争い、凄惨な闘争を繰り広げた。これを宗教戦争という。
 主なものに、カッペル戦争(スイス、1528年・1531年)・シュマルカルデン戦争(ドイツ、1546~1547年)・ユグノー戦争(フランス、1562~1598年)・三十年戦争(ドイツ、1618~1648年)・八十年戦争(オランダ、1568~1568年)があった。

 これに対し、カトリック内部でも改革の必要性は認識されていたが、プロテスタント運動が引き金となり、カトリック教会ではトリエント公会議を開催した。また、他を非難するよりまず自ら戒め、規律正しい宗教生活しようとロヨラやザビエルらが中心となりイエズス会が設立された。イエズス会はその後、キリスト教の大分裂を防ぐべく欧州各国に勢力を伸ばし、非ヨーロッパ諸国への布教活動を行った。
 これを対抗改革(対抗宗教改革)運動と呼ばれ、東アジアや日本への布教はこの延長であった。この宗教改革が無かった場合、日本への布教は随分遅くに行われたであろう。伊東マンショはこの時期の最中を生きた。それは改革の渦中といってよい。
 そしてこの宗教改革とスペインの塩とは重大で密接な関係があった。

 塩は生活にとりまた宗教上重要な物質であり、経済的側面、政治的側面などにおいて諸国の関心を誘っていた。当時の塩は、人間の生存と生活にかかわる全ての社会現象を理解するための原点をなしている。スペインの動向は、この物質における生活の意義を十分に象徴していた。
 塩は国の秩序を取り戻すよい手段である。否応なしに世界規模の商業を生じさせるからである。諸国家が関わりあうだけにそれだけいっそう重要なものとなる。また国家および商人にとって致富源である。

 その塩は欠くべからざるもので、手に入れるための障害をことごとく克服し、可能なあらゆる便益を利用する。したがって重量商品である塩は、河川路や大西洋の船舶で運ばれた。採掘されなかつた岩塩鉱山はひとつもない。また、塩田は地中海または大西洋で太陽に恵まれた国、すべてはカトリックの国であるが、そこに限られていた。北部地域の漁夫は、プロテスタントであるが、彼らは太陽の国のそれを必ず必要とする。スペインによる厳重に制御された塩の統制、生命を脅かして改宗を迫る、この抑えようもない酷い取引の要求を、これ以上物語るものはない。伊東マンショが体験した塩とは、当時の体制のそのものであった。

 したがって史伝に「Para Ayozw, el rey ordenó que. 国王はアヨセに命じられた」とある。前もってアヨセはフェリペ2世より少年らを塩田に案内するように命じられていた。それは少年使節の一行が日本に帰国して以降の国王の布石なのであった。さらにアヨセはトレビエハから南のカルタヘナという街に伊東マンショを案内する。
 一行はそのカルタヘナで年越しをした。この出来事は次回ファイルにてご紹介する。

トレビエハ塩田 1 W600
トレビエハ塩田 2 W600

 現在、地中海沿岸には数多くの塩田が散在している.規模の小さいものが大半であるが、中には100万トン/年の生産能力をもつ機械化された近代的な塩田もある。それは「CSMEのGiraud塩田」で10,000haの面積をもち,そのうちの700haが結晶池である。8~15 cmの塩層を形成し,年2回収穫する。
 そしてトレビエハには「Nueva Compania Arrendateria de las Salinas de Torrevieja社Torrevieja塩田」がある。
 スペインの首都マドリードの南東約400kmの地中海に面したTorreviejaにあるこの塩田も120万トン/年の能力をもっている。1400haのTorrevieja湖がその結晶池である。
 原料としては海水のほかに隣接している700haのLa Mata湖で濃縮された海水と54km内陸にあるPinosoから溶解採鉱されたかん水を直径45cmの配管で供給している。このようにかん水供給に特徴があるため、通常の海水濃縮で析出してくるきょう雑物が少なく,品質の高い塩が得られている、結晶他の底はかたい塩の層になっているがその上に薄い粘土層があり、その上に塩を析出させ塩層が5cm以上になると収穫を始める。
 塩の収穫は通常の塩田のようににがりを排出して採塩する方式ではなく、水深0.7mの浅い湖にに示す採塩船を浮べてスクレーパー付き掻き取り棟で採塩する珍しい方式である。
 収穫された塩はホッパー部から底が浅く平たい3.5トン積みのハシケに積まれ、曳舟で10隻ぐらいつないで湖中央まで敷設されているベルト・コンベアーのところに運ばれる。そこでハシケごとひっくり返して塩をベルト・コンベアーに移しかえる。
 塩は必要に応じてかん水、海水、淡水で洗浄し、粉砕、乾燥されて製品となる。このような特殊事情からこの塩田は機械化されているとはいえ、装置規模が小さく前近代的な感じはまぬがれない。しかしこれは歴史的に重要なシンボルである。






                      シリーズ連載・次回No.fileに続く
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伊東マンショの正体を科学する No.0007

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 世界は大航海時代。日本は戦国「下克上」の世。同時期にキリスト教が伝来する。織田信長の比叡山焼き討ちのころに、また室町幕府が終焉しようとするころに、日向国一円に勢力する豪族の伊東家に数奇な運命を宿す一人の男児が誕生した。
 この男児が後に天正遣欧少年使節の正使となる伊東マンショ。
 だがこの人物についての実像を記す資料は今日に乏しい。その背景には当時の混乱と錯覚とが不遇にも交錯する日本史の実情がある。つまり記録として残せない深い闇の淵に置き去られた。
 No.2631ファイル・データはこの歴史人の正体に迫る研究をシリーズ構成でつづる資料コラム。中世の街道を往来した人物との交流を織り重ねながらマンショの足跡の真相を編集する。・・・・伊東満所

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         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

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 少年使節一行がポルトガルのリスボンを出発したのが1584年9月5日、下記の図はその後一行が辿った旅の工程概要である。9月8日にエヴォラに到着し7日後の9月15日に出発する。
 そして国境を越え9月29日にはスペインのトレードに到着した。さらに10月19日にトレードを発った一行は、10月20日にマドリードに到着する。ようやく11月14日、フェリペ2世に謁見した一行は、11月26日にマドリードを出発した。こうしてマドリード滞在は約1ヶ月間に及んだ。
 そのマドリードからはラ・マンチャ地方を南下し、ムルシアを経てアリカンテ港より航路に変えてマヨルカ島のアルクディアに到着する。この島からまた船旅でローマを目指すのだが、このように伊東マンショは9月29日にトレードに到着して以降、約2ヶ月ほどをスペイン国に過ごすことになる。
 またローマより岐路もその一部の都市が重なる。ローマを発ったマンショが再びマドリード(モリソン)に到着しフェリペ2世に謁見するのは1585年9月14日、往路で謁見した日より10ヶ月後のことであった。

マンショの旅 スペイン W600

 この少年使節の一行長崎を出航したのが1582年2月20日。
 そしてマカオを経てゴアに到着したのが1583年11月20日であった。この年の1月20日までマカオに滞在したのであるから、長崎出航からマカオ出航までの間が約11ヶ月を要した。
 こうして喜望峰を回り(1584年5月10日)、リスボンに上陸したのが8月11日であった。これは長崎を出航して以来約2年半の歳月を費やしている。
 そんな伊東マンショらの航海を偲ぶのであれば、現在そのことを仮に思い起こさせてくれそうな帆船が一隻だけある。それがポルトガル海軍の所有する「サグレス号」である。
 私は今、2010年に長崎に寄港したそのサグレス号の勇姿を思い出している。

NRP Sagres 1 W600

 N.R.Pサグレス号(ラテン文字 N.R.P SAGRES)は、ポルトガル海軍所有の大型練習帆船である。
 サグレス名としてポルトガル海軍史上3代目の船であり、一般に「サグレスIII」として知られており、帆に描かれたヘンリー航海王子ゆかりのキリスト騎士団の十字紋章は有名。
 船名であるサグレスとは、ポルトガル南端に位置するアルガルベ地方ヴィラ・ド・ビスポに属する町の名であり、大航海時代の原点となり、ヘンリー航海王子が航海学校を設立したサグレス岬に由来する。なおNRPとはNavio da República Portuguesa(ポルトガル共和国海軍)の意。
 この3檣(しょう)バーク型帆船は、当初ドイツ海軍船「アルバート レオ シュラーゲターとして1937年ドイツ、ハンブルクにある造船会社ブローム・ウント・フォスにて起工進水し、練習船として運用されていた。
 第二次世界大戦後、サグレスは連合国によって収用され、その後アメリカ合衆国によって没収される事となる。1948年にアメリカ合衆国が5000ドルでブラジルへと売却、リオデジャネイロへと曳航されブラジル海軍の練習船グアナバラとして運用された。
 1961年10月10日、老朽化していた練習船サグレスIIの代替船としてポルトガル海軍が15万ドルで購入し、1962年1月30日以降、「N.R.PサグレスIII」と改名し1978年、1983年共に1年間の世界航海などを経て現在に至っている。
 そして再び2010年1月19日に出航(本船にとって3回目の世界一周航海)。同年12月にリスボンへ帰港予定の世界航海中であり、7月には明治政府とポルトガルとの間で修好通商条約締結150年記念として17年振りに日本(横浜港)へ寄港している他、種子島、長崎へと寄航した。

NRP Sagres 3 船内 W600

 上の画像の中央に銘版があるのだが、ハンブルグの「Blohm & Voss」造船所にて1937年の建造。以降~1948年まではドイツ海軍の練習船「Albert Leo Schlageter 号」であった。そしてアメリカ軍に接収された後、更に売却先のブラジル海軍で1948~1961年「 Guanabara 号」として活躍する。やがて1962年にようやく、ポルトガル海軍の「NRP SAGRES」として再び就役した。したがってサグレス号は独逸~亜米利加~伯剌西爾~葡萄牙と、実に4カ国を渡り歩いた帆船なのだ。長崎に寄港時73歳である。(総トン数:1940トン  全長:70.4メートル  全幅:12メートル  喫水:6.2メートル  帆総面積:1979㎡:16.5ノット  ディーゼル機関 MTU 12V 183 TE92:最大9ノット )

 ポルトガルの帆船「サグレス号」長崎出港

 2010年8月3日、17年ぶりに長崎に入港したポルトガル海軍の帆船「サグレス」が 8月8日午前10:00に長崎を出港した。

 Regresso do NRP Sagres - 2010

 O Navio-Escola Sagres regressou a Lisboa da Volta ao Mundo no dia 24 de Dezembro, uma viagem que durou cerca de 11 meses e durante a qual fez escala em 28 portos, tendo percorrido 40.000 milhas e realizado 5.500 horas de navegação, foi ainda visitado por cerca de 300.000 pessoas.
2010年12月24日、約11ヶ月40,000マイルにも及ぶ5500時間の長航海を終えたサグレス号はリスボン市民約30万のために第28埠頭に接岸した。


アントニオ・ロペス・ガルシア 7 W600

 訪れたスペインは夏本番、2011年8月、涼を求めて美術館に行くのなら、スケールの大きな芸術作品に触れてみたいと思いマドリード市内の企画展に足を運んでみた。
 そこには澄んだ青空とマドリードの町並み。だが人影はなく、時が止まったようなセピア色の世界が広がっている。私は作者が「セピア色の青空」という言葉をそこで初めて聞いた。それはスペインの画家アントニオ・ロペスの油彩画であった。写真と錯覚するほど精妙な描写で、このロペス画家は「スペイン・リアリズムの巨匠」と呼ばれる人気作家だ。作者は、過去の時間をも尊重して忠実に描き、同時に自己の感情も表現すことを試みてきた。上の両作品は、完成までに数十年の歳月を必要とする。そこには中世の光までもが輝いていた。

アントニオ・ロペス・ガルシア 6 W600

 アントニオ・ロペス・ガルシア Antonio López García

 超絶的な技巧と鋭い観察眼で、空間の匂い、そして時間の移ろいさえリアルに描き出すと­いわれる画家。それがアントニオ・ロペス。現代のリアリズム絵画を代表するス­ペインの巨匠である。
 ロペスは1936年、スペインの地方都市に生まれた。画家だった伯父に才能を見いださ­れ、14歳の時、ピカソも通ったマドリードの名門美術アカデミーに、最年少で入学する­。ベラスケスを始めとする、まっすぐに本質をえぐり出すスペイン・リアリズムに強い影­響を受けながら、常に実験的な表現を模索してきた。代表作「グラン・ビア」は、朝日に­照らされたマドリードの町並みに神秘的な美しさを感じ、毎年夏の朝6時半から20分だ­け筆を入れ、7年をかけて完成させた執念の大作だ。
 このNHKの番組では、日本で初めて行われる個展に合わせ、初来日を果たしたロペスにインタビュー­。スペインでの制作風景を取材した貴重な映像とともに、圧倒的なリアリティに秘められ­た独自のリアリズムの世界をひもとく。


 マドリードでの企画展を観た後日、私はアントニオ・ロペス・ガルシアのアトリエを訪ねた。
 彼がラ・マンチャ地方のトメリョソ(Tomelloso)で生まれたからだ。そのトメリョソについては前回のファイル6で触れたが、彼の実家は馬車博物館の近くである。

 彼は、日常的な光景を細部に引きずられない迫真的な描写で的確に描き出す一方、『アトーチャ』(1964)や『皮を剥がされたウサギ』(1972)のように演出の色合いが濃い、ドラスティックな作品もある。一作に膨大な歳月を掛けることも珍しくない。
 例えば『フランシスコ・カレテロ』(1961~1987)のように、20年以上の時間を割き、それ故にこそ堅固で荘重な文理・テクスチャーとよく探究された諧調・色価を備えた絵画を制作している。然るに寡作であって、2回目の個展以降、24年もの間作品をまとめて発表する機会を持たなかったという逸話がある。塑像などのいわゆる立体作品も手掛けている。しかし、ロペス自身は「他人がどういおうとすべて私の作品は絵画である」と述べる。また、ロペスを扱った映画もある。それが『マルメロの陽光』である。彼はその陽光こそを伊東マンショが体験したのではないのかと語り、川の物語を聞かせてくれた。

 タホ川(スペイン語:El Tajo 発音:[ˈtaxo])、テージョ川(ポルトガル語:O Tejo 発音:[ˈtɛʒu] テージュ)は、イベリア半島で最も長い全長1008kmの川である。
 そのうち上流側の約700kmがスペインにあり、河口側の約300kmがポルトガル領である。間の47kmは両国の国境となっている。
 この大河は、スペイン東部アラゴン州テルエル県のアルバラシン山地に源を発し、アランフエス、トレド、タラベーラ・デ・ラ・レイナを流れ、50kmほどスペインとポルトガルの国境を形成したあとポルトガルに入り「テージョ川」と名前を変えて、コンスタンシア、サンタレン、リスボンを経て大西洋に注ぐ。
 画家アントニオ・ロペス・ガルシアが語るこの大河を遡るようにして伊東マンショはローマへと向かったのだ。ロペル氏はそう熱くマンショの旅を透視する。

 天と地の間スペイン「テージョ川」 (マンショの見た大河


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     辻斬りZ W50H50 gif  ② 「伊東マンショが見た中世の城郭」
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         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

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 「キホーテの道(ルタ·デル·キホーテ)」の真っ只中に位置し、ベルモンテは詩人フレイルイス·デ·レオンの発祥の地として知られているだけでなく、印象的な15世紀の要塞がある。のためだけではありません。またその旧市街は、近郊の歴史文化を合わせ特徴ある遺産宣言をする。
 マドリードを11月26日に発った少年使節の一行は、初冬のこのベルモンテを通過した。

 ベルモンテ城は、丘の中腹に位置し、その外側五角形の複合体はゴシックゲートを持っており、町に走る街の壁にリンクされている。三角形の内部のハイライトは、ムデハル格天井、しっくい、ゴシックレリーフである。その他の地域内の建物は、ドンファンマヌエルの宮殿アルカサル。村の名ベルモンテの語源はベッジョ・モンテ(Bello Monte)美しい山に由来する。(マドリッドからは約157km)。

Castillo de Belmonte 1 W600
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 スペインの城塞としてはずいぶん遅く、15世紀になっての築城。
 要塞というよりは、宮殿として機能していたようだ。しかし大きな胸壁を頂く城壁は、そう簡単に陥落できそうにない堅牢な趣をみせる。内部は、19世紀、ナポレオン3世妃エウヘニアの修復工事により、多分にアフランセサード(フランス化)されている。
 築城主はフアン・パチェーコ。15世紀後半カスティーリャ王位を巡る内戦で鍵を握った人物である。彼の祖父フアン・フェルナンデス・パチェーコが、戦功によりエンリケ3世からここを領地として与えられ、その娘マリアを経て、パチェーコ家3代目領主が、1419年にベルモンテの旧アルカサルで生まれたフアンというわけだ。
 フアンは、フアン2世の治世で寵臣アルバロ・デ・ルーナに仕え、45年、王よりベルモンテ周辺からアラゴン西部、アリカンテまで至るビリェーナ伯爵領を与えられると、それまでアラルコンの管轄にあった生地ベルモンテを広大な伯爵領の首都として、56年、村の名の由来と言われる「美しい山(Bello Monte)」の上に、新城建設を命じた。
 この間にも、フアン2世を継いだエンリケ4世に影響力を及ぼし、元の主人デ・ルーナ失脚に荷担。宮廷で不動の地位を獲得していく。
 当時、カスティーリャは最後の内戦前夜。彼にとって、王家を巡る混乱は領地拡大の絶好のチャンスであった。これは対立する両陣営にとって不可欠な存在となることで、混乱をあおり、権力を手中に治めようという魂胆だったようにも見える。まずは、王妃の愛人と言われた政敵ベルトランを重用し始めたエンリケ4世に対抗して、王の異母弟アルフォンソ(イサベル一世弟)を王として担ぎ上げ、その裏で、エンリケ4世と密約も交わし、イサベル(後のカトリック女王)と弟のペドロ・ヒロンの結婚を画策した。
 ところが、結婚式を間近に控えて花婿が急逝する。享年40であった。毒殺の可能性も高い。続いて、67年にはアルフォンソ死去。享年14。これも毒殺との噂がある。万策尽きたかに見えたフアンはイサベルの王位継承を認めるものの、69年、イサベルとアラゴン皇太子フェルナンドが結婚すると、エンリケ4世の娘(少なくとも彼の妃の娘)フアナ・ラ・ベルトラネハ支持に回る。しかし、74年、今度はフアン本人が急逝する。これもまた毒殺との噂が伝えられる。
 天守閣(Torre de Homenaje)がさほど高くなく、どの塔にも胸壁が付いていないのは、内戦により工事が中断されたまま、カトリック両王の新城建設禁止令を受けて、あえて完成を見あわせたために、現在でもその名残を止めている。

 この城郭のシルエットの美しさはソフィア・ローレンの『エル・シド El Cid 』でひろく知れ渡るところとなった。城ができ、まちが形成され、コロンブスの最初の航海時にお供をしたガブリエル・バラオーナや高名な詩人フライ・ルイス・デ・レオンなどがここで生まれており、村史をさらに飾っている。

 CASTILLO DE BELMONTE


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 じつは、このベルモンテ城で伊東マンショが一夜を明かしたという伝承がラ・マンチョ地方に伝え残されている。しかしこれは、グァルティエーリ『天正遣欧使節記』には一切見受けられない出来事である。そうした不可思議さもあって、このベルモンテ城を執りあげてみた。

グァルティエーリ『天正遣欧使節記』 W600

 グァルティエーリの『天正遣欧使節記』。
 著者グィード・グァルティエーリ(Guido Gualtieri, 16th cent.)はイタリアの文学者で、ローマ教皇グレゴリウス13世(Gregorius XIII, 1502-1585, 在位1572-1585)の没後に教皇となったシクストゥス5世(Sixtus V, 1521-1590, 在位1585-1590)の側近として活躍した人物である。
 このころ、イエズス会日本巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano, 1539-1606)の企画で、1582年(天正10)に九州の三大名(大友宗麟、大村純忠、有馬晴信)が連名で派遣した天正遣欧使節一行が、1585年に当時の教皇グレゴリウス13世に謁見した。このことはキリスト教の広がりと共に、教皇の権威が日本にまで及んだものとしてさかんに喧伝され、多くの冊子に纏められてヨーロッパ諸国に伝えられた。本書もその種のもので、初版は本書と同年の1586年にローマで出版されている。

 本書の構成は14章からなり(但し章立てに間違いがあり、第7章が重複している)、第1章では日本の紹介、第2章は天正遣欧使節団の背景、第3章は日本出発からゴアまで、第4章はポルトガルまで、第5章はポルトガル滞在について、第6章はスペイン旅行、第7章はイタリアについて、第7章(重複)はローマでの謁見、第8章は教皇について、第9章はローマからボローニャまで、第10章はフェラーラでのこと、第11章はヴェネツィアでのこと、第12章はマントヴァについて、第13章はミラノとジェノヴァについて、第15章はリスボンから帰国までが書かれている。また、付録にはシクストゥス5世から九州の三大名へ宛てた書簡と使節団歓迎の挨拶文が掲載されている。
 なお、使節一行は教皇に謁見して間もなく同教皇の死にあい、その葬儀に参列したあと、新教皇にも謁見、帰途に就きスペイン、ポルトガルを経てアフリカ南端の喜望峰をまわって1590年(天正18)に8年半ぶりで帰国した。本書には使節一行の往路・復路含めての旅の出来事が記されている。
 しかし第6章には、ラ・マンチャ地方に伝わるベルモンテ城での一件は記されていない。

トメリョソの歴史書 W600

 このモンテロ家に伝わるトメリョソ(Tomelloso)の歴史書には「Mansho pasó la noche en el castillo. El niño estaba mirando, un molino de viento que brilla en el sol de la mañana.  Mancioは城で夜を過ごした。少年は、朝の太陽の下で輝く風車を見ていた」と記されている。


                      シリーズ連載・次回No.fileに続く
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伊東マンショの正体を科学する No.0006

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 世界は大航海時代。日本は戦国「下克上」の世。同時期にキリスト教が伝来する。織田信長の比叡山焼き討ちのころに、また室町幕府が終焉しようとするころに、日向国一円に勢力する豪族の伊東家に数奇な運命を宿す一人の男児が誕生した。
 この男児が後に天正遣欧少年使節の正使となる伊東マンショ。
 だがこの人物についての実像を記す資料は今日に乏しい。その背景には当時の混乱と錯覚とが不遇にも交錯する日本史の実情がある。つまり記録として残せない深い闇の淵に置き去られた。
 No.2631ファイル・データはこの歴史人の正体に迫る研究をシリーズ構成でつづる資料コラム。中世の街道を往来した人物との交流を織り重ねながらマンショの足跡の真相を編集する。・・・・伊東満所

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     辻斬りZ W50H50 gif  ① 「M・クンデラが透視するスペインのマンショ」
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         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

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     ミラン・クンデラ(Milan Kundera)は、小説執筆の傍ら、文学評論を手掛けており、小説を「世界を相対的に捉えようとする、ヨーロッパが独自に生み出した芸術の形式」だと考え、セルバンテスをその最大の先駆者に位置づけている。このようにドン・キホーテの作者であるセルバンテスの存在を位置づけた。
 また現代世界の運命と現実を捉えた小説家としてカフカ、ムージル、ヘルマン・ブロッホ、ハシェクらを高く評価し、中央ヨーロッパに現れたこれらの作家たちの系譜を継ぐものとして自らの作家活動を行っている。

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 クンデラはチェコスロバキア共産主義政権に抵抗した作家として認知されている。

 しかし彼は、1950年、西ドイツに亡命しスパイとして諜報組織に加わった元チェコスロバキア軍兵士がプラハに潜入した際、その立ち寄り先を知人から聞かされたクンデラが当時のチェコスロバキア共産党秘密警察に密告し、その結果スパイが逮捕されたとする記録が2008年10月に明らかになった。
 これは、政府系「チェコ全体主義体制研究所」が発見したもので、チェコ地元誌「レスペクト」によって報じられ、文書のコピーも掲載された。元兵士は逮捕後、ウラン鉱山での強制労働を含め、14年間服役したという。

 クンデラ本人は、この件について「作り話」と全面否定し、秘密警察による文書の偽造・捏造の例があることから真偽は定かではないが、クンデラの作品には裏切りの物語が多く、特に小説『冗談』では友人の告発によって大学を追放され、鉱山送りにされた主人公が描かれるなど類似点が多いため、これらは実体験に基づいて書かれた作品なのではないかという臆測も飛び交っている。少し余談だが、彼はそんな人物だ。

 クンデラはチェコスロバキアのブルノ生まれ。プラハの音楽芸術大学 (AMU)を卒業。
 1963年発表の短編集『微笑を誘う愛の物語』で本格的な創作活動に入る。
 1967年に発表した共産党体制下の閉塞した生活を描いた長編小説『冗談』でチェコスロバキアを代表する作家となり、当時進行していた非スターリン化の中で言論・表現の自由を求めるなど、政治にも積極的にかかわるようになった。
 そして1968年の「プラハの春」では、改革への支持を表明したことによって、ワルシャワ条約機構軍による軍事介入の後、次第に創作活動の場を失い、著作は発禁処分となった。
 1975年、レンヌ大学の客員教授に招聘されたためフランスに出国する。1979年にチェコスロバキア国籍を剥奪され、1981年にフランス市民権を取得した。このころから、母語のチェコ語ではなくフランス語で執筆活動を行う。1984年発表の『存在の耐えられない軽さ』が世界的なベストセラーになり、フィリップ・カウフマンによって映画化もされた。


 Milan Kundera - INTERVIEW 1968
 Milan Kundera talks about his novel "The Joke" 小説"ジョーク"に関するミランクンデラ会談。プラハの春で、改革への支持を表明した当時のインタビュー。

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The Unbearable Lightness of Being - Official Trailer 映画「存在の耐えられない軽さ」

 In 1968, a Czech doctor with an active sex life meets a woman who wants monogamy, and then the Soviet invasion further disrupts their lives. Based on a novel by Milan Kundera.Starring: Daniel Day-Lewis, Juliette Binoche, Lena Olin
 1968年、アクティブな性生活を持つチェコの医者は一夫一婦制を望んでいる女性を満たして、その後ソ連の侵略はさらに自分たちの生活を破壊する。ミランクンデラの小説に基づく映画。出演:ダニエル·デイ=ルイス、ジュリエット·ビノシュ、レナ·オリン。



 前回のファイルで少し触れたが、
 クンデラは、「私が固執したいことはただひとつ、セルバンテスの不評を買った遺産以外のなにものでもない」と結びながら、『小説の技法』の草稿文には、さらに次の一節がある。

 《 かつて宇宙とその価値の秩序を支配し、善と悪を区別し、個々のものとに意味を付与していた神がその席を立ち、ゆっくりと姿を消していったとき、馬にまたがったドン・キホーテが、もはやはっきりと認識かることができない世界に向かって乗り出した。「至高の審判官」がいなくなったいま、世界はその恐るべき曖昧性(多義性)をあらわにしたのである。こうして、唯一の神の「真理」が解体され、人間によって分担される無数の相対的真理が近代に向かって散らかされたのである。そしてそれとともに、その世界のイメージであってモデルであるような小説が生まれたのである。だが驚異は引き続き小説のモデルに根源を含ませていた。そのモデルが日本の少年とするのだから神の真理は再び解体される。実際にみたそのモデルによって、また分担される無数の相対的真理が近代に向かって散らかされたのである。 》と。

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 ここでクンデラが語る日本の少年とは「伊東マンショ」のことである。
 そのことを知ったとき、クンデラがそう起想したマンショの実像が、今日までの日本人にはそうとは映らないクンデラとは遠く乖離する実像があることが不可思議であった。またそこには、ドン・キホーテの作者ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラが求めたマンショの実像とも同時に日本人の想いが乖離する実情がある。そう思えたときに、さらにそこには日本人が感知でき得なかった中世史から欠落する伊東マンショの真相像を抱いた。そうなると日本において中世より語られるマンショ像とは、日本史観のみに偏る曖昧な領域に置かれた偏光の像でしかないことになる。このことは一体何を那辺(なへん)にして考えるべきなのか。彼の意図が那辺にあるのかわからない。私はこの真相を解き明かすことに相応の時間を費やした。

 そこで伊東マンショとの関係に入る前に、先ずどうしても私の、『存在の耐えられない軽さ』への書評を述べながら、クンデラという小説家を理解して頂く必要がある。クンデラは、言葉の原郷から発現するものをぴったり表出する方法を確立していること、そこに深すぎるほどの作家としての滋味を感じさせる。それは『生は彼方に』を読んだあたりでほぼつきとめられていたのだったが、本書『存在の耐えられない軽さ』によってさらに動かぬものとなった。この作品はやはりとんでもなくよくできているのだ。

 しかし、しかしである。
 そのように良く感心するにいたったのはクンデラの術中にはまっているかもしれないと、何度も自信がぐらついたのだ。こんなふうに「読まされている」のは、私がクンデラの仕掛けた虚構としての言語社会の鏡像に入りこんでしまったからなのか、それともそれを越えてクンデラが本当の告白だけをしているのか、あるいはだれにも理解されずに言葉を紡ぐ深遠にいるのか、そのあたりの「判読」でずいぶん迷ったのだ。

 その理由を書くのは「感心する」理由を書くよりどうやらずっと難儀しそうなので、できれば書かずにすませたいが、それでは大事なところを避けて通るようなので、せめて次のようなクンデラの小説作法の一端を紹介して、そこから、私のちょっとした悩みの見当が奈辺にあったかを暗示しておきたいとおもう。

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 読んでもらえばすぐわかるように、『存在の耐えられない軽さ』の第1行目には、「ニーチェの永劫回帰という考え方はニーチェ以外の哲学者を困惑させた」と書いてある。

 こんな始まりかたはとても小説の冒頭とはおもえない。いったい何をする気だという感じがする。まして、ニーチェである。けれども、『冗談』も『生は彼方に』も、そして『不滅』も、クンデラはいつもこのように、自分の思索の奥底に揺動するものから、物語を書きはじめるのである。
 そして次のパラグラフには、こともあろうに「永劫回帰の世界では、われわれの一つ一つの動きに耐えがたい責任の重さがある」、つづいて「もし永劫回帰が最大の重荷であるとすれば、われわれの人生というものはその状況の下では素晴らしい軽さとしてあらわれうるのである」などと書く。

ニーチェ 3

 これでは小説家に説教されているようで、とうてい気楽に小説を読むわけにはいかない。少なくとも私は、ニーチェに導かれて小説を読みたくはない。
 それでもまだクンデラは手をゆるめない。次の行ではこの物語の主題をあっさり明示してしまう。いや、臆面なく、あるいはぬけぬけとといったほうがいいかもしれないが、「だが重さは本当に恐ろしいことで、軽さは素晴らしいことであろうか?」というふうに。

 これでは、『存在の耐えられない軽さ』という標題がそのまま主題であるんですよというカラクリを冒頭からキャプション説明しているようなもので、とうてい物語にはなりそうもない。ふつうなら、こんな書き出しの小説なんて、絶対に読む気はおこらない。なんという理屈だと思いたくなるに決まっている。少なくとも私はそういう性(たち)だった。 ところが、そのように読者が気まずい思いをするかしないかという直前、それは小説を読みはじめてせいぜい数分後であるのだが、クンデラはすばやく次のように書いて(まさに読者の退屈な表情を測ったかのように)、そのまま虚構と現実のあいだにわれわれを連れ去ってしまうのだ。

 「私はトマーシュのことをもう何年も考えているが、でも重さと軽さという考え方に光を当てて初めて、彼のことをはっきりと知ることができた。トマーシュが自分の住居の窓のところに立ち、中庭ごしに向こう側のアパートの壁を眺めて、何をしたらいいのか分からないでいるのを私は見ていた。トマーシュがテレザと会ったのはその三週間ほど前のことで、ある小さなチェコの町でであった。二人は一時間も一緒にいたであろうか。彼女はトマーシュを駅まで送り、彼が汽車に乗り込むまで、待っていた」と。

 これがクンデラなのである。
 ここから先は一瀉千里、われわれはトマーシュとともにクンデラの正確な思索の揺動をたどってしまうのだ。
 どうだろうか。私がちょっと悩んだ理由がおわかりいただけただろうか。

 ようするに、クンデラは小説の書き方を小説にするべく、小説という散文様式を選び、その選び方そのものにクンデラの思想と物語の展開とを重ねているわけなのだ。
 だから、クンデラの言葉のすべての選び方の目に私の目を合わそうとしたとたん(それ以外の読み方があるとはおもえないが)、私はまんまとクンデラの術中にはまってしまう(と見えてしまう)わけなのだ。
 しかし、結局はそれでいいわけなのだろう。最初の数分こそいつもギョッとさせられるが、読みはじめたらやはり停まらないのは、それでもクンデラは作家が作品の中でどのように言葉を選ぶかという意味で、完璧なストーリーテラーであるからだ。
 以上で、私の悩んだ事情の説明はおわる。ただし、これではあまりにサービスが足りなすぎるだろうから、少しだけ"付け足しの解説"をする。

 クンデラは小説を「反叙情的な詩」ととらえている作家なのである。
 もともとは詩人だった。セルバンテス、フローベール、ゴーゴリ、カフカ、ジョイス、ゴンブロヴィッチ、ブロッホ、セリーヌ、ナボコフを評価しているのはそのためだ。

8人の作家たち

 しかしクンデラは、「小説」というものなど世界に存在しないと考えている。
 クンデラにとっては、フランス人の小説、チェコ人の小説、日本人の小説というものがあるだけなのだ(これはものすごく正しい)。そのうえで、作家というものは自分が「書こうとする世界の様式」を問いつづけるために書くのだと結論づける(これもものすごく正しいのに、なかなか実行されていないことだ)。加えて、何を言葉として選択したのかということを読者に伝える以外に、作家が読者に伝えるものなどないのだと宣言をする(まさにこの宣言がクンデラだ)。
 だからクンデラは、ひとつだけ例をあげておけば、チェコスロバキアを舞台に書いていることがほとんどなのだが、小説の中では一度も「チェコスロバキア」という合成語をつかわなかった。どうしても地域の特定な呼び方をしたいときは、あるいはさせたいときには、「チェコ」か「スロヴェニア」か、あえて「ボヘミア」と書いた。
 それが自分の体に入っている言葉だったからである。また、作品に責任をとれるところだった(こういうところは、日本では井上ひさしのような作家をのぞいて、日本の作家にも徹底されていないところだ)。

 こんな選択自身が、クンデラをして作品を律義につくりあげさせてきたわけなのである。これで、よりもう少しはおわかりいただけただろうか。私としては、これだけでも『存在の耐えられない軽さ』の秘密の大半を説明したことになるのだが……。
 が、余計なことを言うと、もう半分のことがこの作品にはひそんでいる。さらに"付け足し解説"をしておくのだが、それは「キッチ」とは何かの秘密にかかわっていた。

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 「キッチ」とはキッチュのことだ。そういえば、ああ、分かったと思う人が多いだろうが、クンデラはその「ああ、わかった」を非難する。
 ヘルマン・ブロッホが『キッチ』を書いたとき、これがフランス語で「キッチュ」と訳され、がらくたを愛する感覚というふうに解釈された。日本でいえば風呂屋のペンキ絵とか駄菓子の包装絵のようなものである(当時、日本人の誰もがそうおもっていた)。
 けれどもそれはまったくの誤解であるとクンデラはいう。
 クンデラによると、キッチとは「あばたをえくぼと化する虚偽の鏡を覗きこみ、そこに映る自分の姿を見てうっとりと満足感にひたりたいという欲求」のことなのだ。

 このキッチの感覚は19世紀のドイツの歴史が生んだもので、多くの者が「近代という非現実的なもの」を信用したがっていた。それは「軽さ」を標榜する感覚だった(日本でいえば「軽チャー」である)。それはそれでいい。しかし、社会主義とその反動に苛まれた激動のプラハに育ったクンデラにとっては、キッチの復権は存在を危うくするものなのである。
 そのためクンデラは、存在(これは社会と関与している)がキッチ(これも社会の中で見捨てられずに立ち上がってきたものだ)によってどのように危うくなるかということを、プラハにひそむキッチを通して書こうとした。
 どうだろうか。わかってもらえただろうか。本書はキッチという「未熟を装う存在」を書くために選ばれたクンデラの方法の様式だったのである。そうであれば「未熟を装う存在として置かれていいる伊東マンショ」の、その存在性に今少し視線を注いで真相を正しておこうということになる。

     辻斬りZ W50H50 gif  ② マドリード「ラ・マンチョ地方のマンショ像」
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         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

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     チェコ出身、フランス在住の亡命作家ミラン・クンデラ、このお定まりの肩書きを繰り返されることに、おそらく、グンデラ自身は、飽き飽きしてきたことだろう。
 あるいは、今では白けた笑いを浮かべるかもしれない。「小説」という一芸術を、歴史的、政治的カテゴリーに還元する仕方で理解しようとする知的野蛮に、しばし、クンデラは苦々しい思いを味わってきた。「小説」は、歴史の証言でなければ、政治のプロパガンダでもない。
 しかし、こう問うことはできようか。歴史に「If」は許されないとしても、もし、クンデラが政治的な理由によってチェコを去り、母国語の読者を失い、フランスに居を移し、外国語を表現媒体とせざるを得ない、という状況に追い込まれなかったら、彼の文学世界はどのようなものになったのだろうか?。
 確かに、クンデラの辿った亡命という運命は、過酷なものであったに違いないが、彼の作家としての軌跡を辿ってみるならば、痛ましい喪失と引き換えに、「亡命」が作家としての彼に特有のヴィジョンを与えたことは、疑いを容れぬ事実であるように思われる。

 実存の探求の場、めくるめく世界の多様性と相対性のカーニバル。人間のキッチュな欲望に向けられた容赦ない視線。意志よりも、個人にふりかかる歴史や宿命といった「非人称的」な力の方が圧倒的であるような世界。こうしたクンデラの思考と作品世界の基調は、抒情詩と決別し、小説を自らのフィールドとするにいたった時から(すなわち、共産主義下のチェコでの青春時代から)フランス在住の作家となり四半世紀を経た今日まで、一貫していると見ることができる。この基調トーンの中にあって、祖国チェコを離れ、時間を閲するほどに、ますます明確な形をとって現れてくるテーマというのがある。

 そのひとつが「ヨーロッパ」という理念である。
 そしてこの理念のヨーロッパに、彼の伊東マンショはいた。

 それではクンデラの「ヨーロッパという理念」について、ドン・キホーテが生まれた、あるいは伊東マンショが滞在したスペイン・マドリードを起点として考えてみたい。クンデラが「ヨーロッパ」と言う時、そこに込められているものは何なのか、どのように彼の思考および作品の中で「ヨーロッパ」は形象化されていくのかについて考えてみたい。この形象化の源泉に伊東マンショは立っている。

 クンデラがマドリードに一時滞在したのは1983年のことであった。
 1979年にチェコスロバキア国籍を剥奪され、1981年にフランス市民権を取得した。このころから、母語のチェコ語ではなくフランス語で執筆活動を行っている。フランスに移り住み再び言論・表現の自由を確保したそのクンデラがマドリードに一時滞在した翌年、1984年に発表した『存在の耐えられない軽さ』が世界的なベストセラーになり、フィリップ・カウフマンによって映画化された。

 このクンデラのマドリードでの一時滞在とは果たしてどのような意味を付帯させるのか。
 またクンデラはそこで何を感受したのか。いかにも密かだが、このマドリードは重要なのである。

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 マドリード(Madrid)は、スペインの行政の中心地(首都)である。
 また、マドリード州の州都でもあり、マドリード県(マドリード州の唯一の県)の県都でもある。イベリア半島における経済の中心地の1つともなっている。

 人口は約325万人。2011年の近郊を含む都市圏人口は541万人であり、世界第57位、欧州では第5位となる。欧州の首都の中では最も標高が高い。

 そしてここはスペイン中央部のメセタ地帯のマンサナーレス川沿いに広がる。近郊にはモストレス、アルカラ・デ・エナーレス、ヘタフェなどの都市があり、マドリード首都圏を形成している。
 2012年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス・人材・文化・政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第18位の都市と評価された。欧州ではロンドン、パリ、ブリュッセル、ウィーンに次ぎ第5位である。
 このマドリードは2012年のオリンピックと2016年のオリンピックの開催地に立候補したがどちらも敗れた。そして現在2020年のオリンピック開催地を東京・イスタンブルとで争っている。

 Walking in Madrid, Spain マドリード市内

 LA CIUDAD DE MADRID マドリード

 Madrid 2020 Masterplan

 The Madrid 2020 Masterplan takes you through the installations that would be used during the 2020 Olympic Games, 80% of which are already built and ready to use.マドリッド2020マスタープランは、すでに構築され、使用する準備がされている80%のうち、2020オリンピック大会の間に使用されるインストールを介して表示されている。

 こうした現代の繁栄から4、500年を遡ってみると、
 1561年、フェリペ2世はマドリードを永久的王都と決めた。
 この決定はマドリードの歴史、社会、経済のあらゆる面とその地勢に変化をもたらした。

 15世紀の終わり、マドリードの人口は約12,000人に達し、市内のあらゆる土地に新しい建物が建ち並んだ。サンタ・クララ修道院(1460年)、ラテン救貧院(1499年)、サン・ヘロニモ・エル・レアル修道院(1503年)、ヘロニマ女子修道院(1509年)、フランシスカ女子修道院(1512年)、司教礼拝堂(1520年)、アトーチャ聖母教会(1523年)といった新しい施設が建設されたり、1529年には「王宮病院」やブエン・スセソ救貧院が太陽の門の方へ移転して、網の目のような都市の広がりはそれまでとは違う方向へも伸びていった。
 1535年、主に「コムニダーデスの反乱(コムネーロスの反乱)」(1520年から1521年)以後始まった新たな土地への入植で、マドリード市の面積は72ヘクタールに増えた。さらに、サン・フェリペ・エル・レアル 修道院(1546年)、アントン・マルティン修道院(1552年)、デスカルサス・レアレス修道院(1559年)の建設が、マドリード市が拡張する傾向に拍車をかけた。この建造物反乱の後、マドリードではアルカサルへ逃げ込んだ人を除いた、ほとんどの住民に特殊なウイルス性の病気が蔓延する。

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 1536年からマドリードのアルカサルにいたカルロス1世は、そこをより宮廷的で宮殿の趣を取り入れたものにするため、また政治的法律的環境も整えるために改革を始め、この改革が要因となって、1561年フェリペ2世がマドリードにスペイン王国の宮廷を設置した。
 この決定は、マドリードが、国王、その家族、随員が住むところになったというだけでなく、マドリードに国の中央機構や宮廷勢力に引きつけられた人々が波がのように押し寄せてきて、マドリード市に巨大な影響を及ぼした。
 1535年に72ヘクタールだったマドリード市の面積は、1565年には134ヘクタールになり、16世紀の終わりには282ヘクタールと、瞬く間に約4倍となる。同じく、住宅数も1563年には2,520件であったのが、1571年には4,000件を超え、フェリペ2世治世末期には7,590件以上となった。つまり、家屋件数が3倍となり、年間150件の住宅が建設されたという計算になる。
 人口データからも、1561年には12,700人だった人口が、1571年には42,000人、1584年には55,000人、そして1597年には90,000人に達した。わずか40年の間にマドリードの人口は4倍半に膨れ上がり、カスティージャ王国のほかの都市の人口増加率をはるかに上回り、ヨーロッパの20大都市のひとつとなった。

 このマドリード市の新しい住宅地は(アルカラ、カレーラ・デ・サン・ヘロニモ、アトーチャ、エンバハドーレス、トレドなどから)マドリードへの街道沿いに発達していったので、後に「ハプスブルグ(アウストリア)家のマドリード」といわれるようになった範囲はこうした街道を中心軸として構築されていき、重要な都市整備が成された。
 それは、1577年セゴビア通りが以前フアン・デ・エレーラが建設した同名の橋まで開通したことと、その後、道路拡張と、今日マジョール広場となっている有名なアラバル広場(1581年)などの新しい商業広場の建設のため、中世の城壁とほとんどの城門を取り壊したということになる。
 このような「宮廷の影響力」に引き付けられ、たくさんの職人、商人、貴族、そして、ビクトリア(1561年)、サンティシマ・トリニダ(1562年)ラ・メルセ(1564年)、カルメン・カルサード(1573年)、サント・トマス(1583年)、サンタ・アナ・イ・サン・エルメネヒルド(1586年)、ドーニャ・マリア・デ・アラゴン(1590年)、さらには、アグスティノス・レコレトス(1592年)などの新しい修道会の人々が、マドリードにやってきて住み着くようになった。

 しかし、宮廷がマドリードへやってきたことは決して「よいこと」ばかりではない。宮廷随員、官吏、貴族、聖職者たちがマドリードに滞在するために、国王が、こうした選ばれた移住者たちの宿泊先として、マドリードの住宅の20%を徴用する命令を下した。
 しかし、それでも十分ではなかったため、すぐにまた「国王の宿泊大権」と呼ばれた王権を行使して、マドリードの住宅の半分を確保するよう命令する。これにより当然、多くのマドリードの住民が、国王の下僕たちを泊めるにはふさわしくないような家の建設や家の内装改修工事をした。これらの家は「悪意の家」と名づけられ、ほとんど役に立たず、また、宿泊の提供を拒んだ家には新しい税が課せられた。この新税の税収は国王の下僕たちの滞在費に当てられた。伊東マンショは、このようなマドリードの発展の上に立ち会ったことになる。



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 クンデラがマドリードに一時滞在した1983年、その5月9日に、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が、地動説を支持したガリレオ・ガリレイに対する宗教裁判の誤りを認めた。
 この件がクンデラをマドリードに向かわせるのであるが、その根底には前年の事件をクンデラは秘めていた。

 1982年5月、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、ポルトガルのファティマを訪れていた際、教皇が進める第2バチカン公会議に基づく改革やバチカン・モスクワ協定に反発していた聖ピオ十世会のスペイン人神父、ジュアン・マリア・フェルナンデス・クロンに銃剣用ナイフで襲われ、怪我を負った。
 神父はその場で取り押さえられ、6年の判決を受け、3年服役した。襲撃事件そのものは知られていたが、教皇が出血を伴う怪我をしていたことは2008年10月15日になって公表された。教皇の元側近であった枢機卿の回顧録を基に製作されたドキュメンタリー映画の中でナレーターを務めた枢機卿自身が明らかにしたからだ。

 ここで問題はその近年のことではない。クンデラの滞在先がマドリードであっことにある。

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 ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei)の業績として今日においてもあまり知らないモノの一つに、関数尺を改良したものがある。これは、さまざまな計算を行うことができた。また分度器の機能も持っており、天体の観測に使用できた。またガリレオはパドヴァ大学教授時代にこのコンパスを販売し、使い方を教えることで収入を得ていた。
 そのガリレオはイタリアの物理学者、天文学者、哲学者である。
 そしてパドヴァ大学教授、その業績から天文学の父と称され、ロジャー・ベーコンとともに科学的手法の開拓者の一人としても知られる。1973年から1983年まで発行されていた2000イタリア・リレ(リラの複数形)紙幣にガリレオの肖像が採用されていた。
 しかしそうしたガリレオ・ガリレイは、彼の支持した地動説を口実にして異端審問で追及される。そしてこの問題が決着したのが上記の1983年、その5月9日なのだ。約400年間という長い年月を要した。これが世に名高い「ガリレオ裁判」である。

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 今日の大問題として、ガリレオが地動説を唱え、それを理由に有罪判決を受けたことはかなり有名だ。
 このことから、当時地動説を唱えるものはすべて異端とされ、それによって科学の発展が阻害された、という考えがされてきた。しかし現在では、ガリレオが神父たちよりもキリスト教の本質をよく理解し、科学的な言葉でそれを説いていたために快く思われず、でっちあげの偽裁判で有罪判決を受けたのではないか、と指摘されている。そう、これは既に現代社会の常識である。この奇妙に長い間放置された裁判が「ガリレオ裁判」なのだ。
 そしてこの年月の間に、ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラも、伊東マンショも他界した。

 その「ガリレオ裁判」とは・・・・・、

 ガリレオが地動説について言及し始めると、ドミニコ修道会士ロリーニと論争になり、ロリーニはローマ教皇庁検邪聖省(以前の異端審問所が名を変えたもの)にガリレオが唱えている地動説は異端であると訴えた。この裁判の担当判事はイエズス会員ロベルト・ベラルミーノ枢機卿 (Francesco Romulo Roberto Bellarmino)。このときの判決文はバチカンの秘密文書室に保管されているが、第2回の裁判までの途中で偽造された疑いが濃厚である。 その内容は、次のようなものであった。

 「太陽が世界の中心にあって動かず、大地が動くという上記意見を全面的に放棄し、そしてその意見をふたたび話してでも書いてでも、どのような仕方においても抱かず、教えず、弁護士しないようよう命じられ、申しつけられた。さもなければ聖省はかれを裁判にかけるであろうと。この禁止令にガリレオは同意し、従うことを約した」

 しかし、この判決文にガリレオの署名はなく、第2回の裁判においてもガリレオは見たことがないと主張している。

 1630年ガリレオは、地動説の解説書『天文対話』を執筆した。
 この書は、天動説と地動説の両方をあくまで仮説上の話として、それぞれを信じる2人とその間をとりもつ中立者の計3人の対話という形を取って、地動説のみを唱えて禁令にふれることがないよう、注意深く書いてあった。ガリレオは、ベラルミーノの判決文の内容から、地動説を紹介しても、その説に全面的に賛同すると書かなければ問題はないと考えて出版許可をとり、ローマ教皇庁も若干の修正を加えることを条件に出版許可を与えた。そして『天文対話』は、1632年2月22日、フィレンツェで印刷、発行された。

 翌1633年、ガリレオは再度ローマ教皇庁の検邪聖省に出頭するよう命じられる。
 被疑は、1616年の裁判で有罪の判決を受け、二度と地動説を唱えないと誓約したにもかかわらず、それを破って『天文対話』を発刊したというものだった。
 ガリレオが、あえてこの書をローマではなくフィレンツェで許可をとったこと、ローマ側の担当者に、序文と書の末尾だけしか送らずに許可をとったこと、ガリレオが事情に詳しくないフィレンツェの修道士を審査員に指名したことなどが特に問題とされた。
 ただし、全文が数百ページあるという理由で序文と末尾の送付で済ませることには事前にローマ側担当者も同意しており、ガリレオが指名したフィレンツェの審査官は正規のフィレンツェの異端審問官であった。
 さらに、書の表紙に3頭のイルカが印刷されていることさえ、それが教皇に手下がいるという意味だというねじ曲げた解釈をする者がローマにおり、問題とされた。ただしこの3頭のイルカは、フィレンツェの出版業者のマークで、他の書籍にも印刷されていたため実際には問題にはならなかった。

 裁判でガリレオは、ベラルミーノ枢機卿が記した「ガリレオは第1回の裁判で地動説の放棄を誓っていないし、悔い改めが強要されたこともない」という証明書を提出して反論する。
 しかし検邪聖省は、ガリレオを有罪とするという裁判記録を持ち出して再反論した。この裁判記録には裁判官の署名がなく、これは検邪聖省自らが定めた規則に沿わないものであった。
 しかし、裁判では有罪の裁判記録を有効とし、ガリレオの所持していた証明書は無効とされた。
 第1回の裁判の担当判事ベラルミーノは1621年に死去しており、無効の根拠を覆すことはできなかった。この結果、ガリレオは有罪となった。
 検邪聖省側の記録には、地動説を「教えてはいけない」と書いてあったが、ガリレオが提出した「ベラルミーノ枢機卿の証明書」には、教えることの是非についての記載はなかった。裁判ではこの命令が実際にあったという前提で進められた。ガリレオ自身はそう言われたかどうか記憶にないがなかったとは言い切れないと答えている。1616年にガリレオとベラルミーノ以外の人物もいたことになっており、これについてはガリレオも認めているが、その人物が誰で何人いたのかについては不明のままであった。

 さらに1633年の裁判の担当判事は10名いたが、有罪の判決文には7名の署名しかない。残りの3名のうち1名はウルバヌス8世の親族であった。もう1名はこの裁判にはもとから批判的な判事だったとされている。ただし、判決文に7名の署名しかないのは、単に残りの判事は判決当日、別の公用で裁判に出席できなかっただけではないかという推測もされている。なお、全員の署名がなくても、有罪の判決は有効とされた。
 以上が裁判経過の概要である。

 この「ガリレオ裁判という非常識なバイオリズムに揺らされた空間」に世界は400年もの間晒されていた。その空間に世界のあらゆる事象が影響する。それを悪影響とみなせば伏魔殿のバイオリズムとなる。ヨーロッパとはその中心なのだ。

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 さて、クンデラがマドリードに一時滞在した1983年、その5月9日に、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が、地動説を支持したガリレオ・ガリレイに対する宗教裁判の誤りを認めた。
 この件がクンデラをマドリードに向かわせるのであるが、その根底に、前年の事件(ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、ポルトガルのファティマを訪れていた際、教皇が進める第2バチカン公会議に基づく改革やバチカン・モスクワ協定に反発していた聖ピオ十世会のスペイン人神父、ジュアン・マリア・フェルナンデス・クロンに銃剣用ナイフで襲われ、怪我を負った)をクンデラが意に秘めていたことは前に述べた。
 そこでクンデラには一度訪ねたい場所が改めて強く意識させられた。

 ドン・キホーテの作者ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラは、スペインを代表する大文化人であり、現在スペインに関係する多くの文学賞や施設などに彼の名が冠されている。
 1976年にはスペイン教育文化スポーツ省が、スペイン語文学に貢献してきた作家の業績に対して送るセルバンテス賞が創設され、スペイン語圏内における最高の文学賞とされている。また1991年にはスペイン語の教育及びスペイン文化の普及を目的としたセルバンテス文化センターが設立され、20カ国以上に支部を置いている。また、ユーロ硬貨のうち10、20、50セント硬貨のスペイン国内発行分の片面にはセルバンテスの肖像が刻印されている。クンデラはマドリードにて、このセルバンテスの時間と、ガリレオの時間を対比しようとした。無論、そこには小さな東洋の少年・伊東マンショの動向もある。クンデラにとって、この3者が交差した場所がスペインのマドリードなのであった。
 だがこれはM・クンデラの中においてのみ起こる交差なのだ。現実には顕在化しない交差だが、彼の体内では潜在化されていた。その彼の視線に従えば、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が400年後の1983年に3者を交差させてくれたことになる。

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 セルバンテス文化センターの紹介

 セルバンテス文化センター(Instituto Cervantes)は、1991年にスペイン政府によって設立された、スペイン語教育及びスペイン語圏の文化普及を目的とした施設。スペイン語の教育と文化の普及を目的とした国営施設で、世界40カ国、72箇所に展開されており、本拠地はマドリードと作家ミゲル・デ・セルバンテスの生誕地であるアルカラ・デ・エナーレスに置かれている。日本では、東京都千代田区に2007年9月からオープンしており、その規模は各国のセンターの中で最大級である。 スペイン語講座のほか、スペイン語圏諸国の文化を紹介するイベントなどを行っている。 各界の著名人なども呼んで講演会を行うこともある。またスペイン語検定試験(DELE)も実施している。

 スペイン語版の日本童話「うさぎとカメ」アニメ編

 セルバンテス文化センター活動から波及されて諸外国の文化を紹介するプログラム制作も積極的に推進されている。上の例は、スペイン語が解らなくて­も楽しめる語学教材。

 セルバンテス文化センター東京のスペイン語コース


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セルバンテス文化センター(Instituto Cervantes) ロゴ W600


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 漱太郎がイタリアの元王家であるサヴォイア家の一員「アイモーネ・ディ・サヴォイア=アオスタ」氏に誘われてマドリードを訪れたのが1987年、M・クンデラが滞在した年より4年後であった。

 M・クンデラの行方追ってみると、彼はマドリードから南下してラ・マンチャ地方に向かっている。そのM・クンデラは何よりも先ず一番にヘロニモ修道院を訪ねた。伊東マンショがサン・ヘロニモ修道院におけるスペイン皇太子宣誓式に参列したのが1584年11月11日である。そこでクンデラは往時の伊東マンショ像にヨーロッパの実情を重ね合わせた。

 

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 San Jerónimo el Real de Madrid サン・ヘロニモ・エル・レアル修道院

 1584年11月11日、スペインの首都のマドリードの中心地にあるサン・ヘロニモ・エル・レアル王立修道院礼拝堂で国王フェリペ2世の皇太子であるフェリペの立太子礼が行われ、貴族や各国の大使の馬車あるいは警備の馬そして見物する群衆など、その礼拝堂付近では大混雑になった。賓客達が聖堂に入ってから、一団の馬車が到着し、はるばる日本からやってきた天正少年使節団、その正使者が伊東マンショ。
 その後、少年使節団はフェリペ2世に謁見し、警備隊長はロゴリドであった。そのロゴリドがフェリペ皇太子の母親のアナ王妃の小姓になったのは12歳のときであり、アナ王妃はフェリペ2世の四人目の花嫁で、神聖ローマ帝国の王女である。ロゴリドはそのアナ王妃が亡くなると、近衛隊に転じ、やがて警備隊長となる。
 そんなロゴリドは少年使節団の謁見の場に同席し、日本から使節団を引率してきたメスキータ司祭は少年使節団を彼に紹介するが、ロゴリドは日本の衣裳の特異な外観に驚き、またフェリペ2世に献上された精巧な蒔絵箱や気品のある陶器、さらに屏風絵などに心を動かされ、日本という国に強く惹きつけられた。

 そしてロゴリドがそう語る内容が当時の新聞に載せられた。
 この新聞こそが監獄の中でミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラが見た記事であった。こうしてドン・キホーテ物語の下敷きに伊東マンショが挿入される。
 クンデラにとってそれは中世ヨーロッパを語る上での重要な象徴となった。

 伊東マンショがローマへと向かうためマドリードを出発したのは1584年11月26日。その後使節一行はスペインを南下してアリカンテまでを旅する。
 その工程間にラ・マンチョ地方がある(下の図)。セルバンテスはその道程にあるマンショの姿を実際に見た。その姿が後に監獄でみた新聞の記事によって蘇りドン・キホーテの構想となって深化するのであった。そのためにクンデラもまたラ・マンチョ地方の光景上に立たねばならなかった。 

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Castile-La Mancha ラ・マンチャ地方地図 W600
Castile-La Mancha 地方の起伏 W600
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 Castile-La Mancha「ドンキホーテの土地」


 カスティーリャ=ラ・マンチャ州(Castilla-La Mancha)は、スペインを構成する自治州の一つである。 州都はトレド。カスティーリャ・イ・レオン州、マドリード州、アラゴン州、バレンシア州、ムルシア州、アンダルシーア州、エストレマドゥーラ州と接する。
 19世紀に県制度が導入されて以降、この州の県とマドリード県は「新カスティーリャ」(Castilla la Nueva)地方を構成していた。1978年憲法で自治州制度が導入されてからは、大きな経済格差のために、マドリード以外の地域は切り離されて別の州となった。その自治州政府はフンタ・デ・カスティーリャ=ラ・マンチャ(Junta de Castilla-La Mancha)。
 「ラ・マンチャ」とは、マドリードの南に広がる平原で、風が強く標高の高い地域である。「マンチャ」の名はアラビア語の「乾いた土地」に由来する。ミゲル・デ・セルバンテスの『ドン・キホーテ』の舞台となっているが他には、ひまわり、風車小屋、マンチェゴ・チーズでも有名である。またトレドとクエンカは、「古都トレド」「歴史的城塞都市クエンカ」として世界遺産に登録されている。

 セルバンテスのドン・キホーテを不朽の名作にしている一つの要因は、舞台となったラ・マンチャ地方の貧しい生活ぶりを赤裸々に描写していることにある。
 郷士ドン・キホーテの先祖はイスラム掃討のための国土再征服運動で手柄をたて、その恩賞として報土を譲り受けるが、これが非生産的な荒れ野ばかり。一向に暮らし向きが良くならないため、過去の栄光に逃避しようというのがドン・キホーテの「遍歴の旅」だ。
 ラ・マンチャ地方は経済的生産性の低い地方ではあったが、戦略的には重要であり、トレドを例とするよう多くの要塞が築かれている。その周辺に住民の住む町が発生するという城砦町が要所、要所に散在する。通信用の見張り塔も多く、岩山のあちこちに廃墟として残されている。ここにはアルマグロのように広大な高原を統治するための拠点として戦功の大きかったカラトラバ騎士団の騎士たちへの報償の地として与えられている町もある。
 スペイン特有の風土を醸し出すメセタ高原、この高原の南半分に広がり多くの文人を魅惑しているのがラ・マンチャ地方、ドン・キホーテの里であり、赤茶けた大地と青空は、オリーブ畑と風車を引き立てている。伊東マンショらはこの高原の道を通り南のアリカンテに向かった。

 La Mancha, por los siglos de los siglos (Toledo, Ciudad Real, Cuenca y Albacete)永遠であれラ·マンチャ、(トレド、シウダードレアル、クエンカとアルバセテ)


 「中世史」についての基本的な理解は結局二つの点に絞られるのではないか。
 その第一点は、ミラン・クンデラ(Milan Kundera)の「ヨーロッパ論」を引くまでもなく、「中世における侵略と戦争は政治の延長」ということ。これは現代にも相通じるが、もっと噛み砕いていえば、侵略や戦争という帝国の国策は「政治の失敗」に起因しているとの理解が必要だ。

 第二点は、侵略と戦争は「非日常の倫理・道徳が支配する空間」であり、平時の日常とは逆転した空間を創りだすという意味になる。特に15世紀から16世紀の帝国総力戦ではそれが明確になった。そしてこの侵略の記憶が後世において遠ざかることはない。

 この2点の基本的な理解に欠けると中世史の正体は見えにくい。だからラン・クンデラの「ヨーロッパ論」は、真の中世史観の確立を我々が成し得ているのか、との問いを突きつけている。
 このクンデラのヨーロッパ論を今少し深堀りにしてみたい。

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         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

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 クンデラがみずからの文学観、小説観を語る際に用いるキーワードとして「ヨーロッパ」という言葉を使うようになったのは、フランス亡命以後、しばらくしてからであり、1983年に発表した論文「誘拐された西欧——あるいは中央ヨーロッパの悲劇」(“Un Occidant kidnappé ou la tragédie de l’Europe centrale”)においてである。
 つまりそれは彼がスペインのマドリードおよびラ・マンチャ地方を訪れた以後のことだ。

 クンデラが、この論文の中で主張しているのは、ポーランド、ハンガリー、ルーマニア、チェコスロヴァキアなど、戦後の共産主義革命による政治的な経緯から「東欧」と呼ばれている諸国の本来は、そもそも歴史的には「中欧(Europe centrale)」と呼ぶべきであって、「中欧」とは単に地理的に確定されたものではなく、「一つの文化であり、運命」であるはずであるにもかかわらず、そのことは、全西欧文明からは、省みられていない、ということである。この文章から伺われるのは、政治的な経緯から、ヨーロッパの周縁とみなされることになったこれら中央ヨーロッパの国々が、むしろ、国家の枠組みを越えた、「ヨーロッパ」という文化の総合を示し、担ってきたはずだ、という並々ならぬ確信であり、また、その確信と表裏の、「中欧」への無関心、ひいては、中欧の体現する文化的な価値への無関心に対する絶望感である。

 クンデラが、フランスのレンヌ大学に招聘されたのを機に、自著の発禁処分を受けプラハ音楽芸術大学映画学部での助教授の職をも追われた故国、チェコを後にしたのは1975年のことである。論文「誘拐された西欧——あるいは中央ヨーロッパの悲劇」が執筆されるまでの年月は、クンデラにとって、西欧の大国たるフランスで、「東欧からの亡命者」として、他者の様々な屈曲を孕んだ目に曝された時間でもあったはずである。この論文は、文化論の体裁を取ってはいるが、その悲嘆のトーンは、異郷での他者による認知と、自らのアイデンティティの間のひりひりするような齟齬を生きた経験なくしてはありえなかったような切迫感を帯びている。

 1979年、フランス亡命後、初めての小説作品である『笑いと忘却の書』(Le livre du rire et de l’oublie)が出版される。
 実は、この作品が問題となってクンデラはチェコスロヴァキアの市民権を奪われ、81年にはフランス国籍を獲得することになるのだが、祖国からは弾かれ、しかしフランスに帰化するでもない、生活の現実としては、最も不安定な時期に執筆された作品である。
 この作品の中には、幾分かは、クンデラの分身であろうと思われる、チェコから来た、フランスへの亡命女性タミナが登場し、タミナのアイデンティティの危機が描かれていく。この作品は、クンデラの小説のキャリアの大きな転換点を示した作品といってよい。それ以前の作品が、あくまで具体的なチェコの風土と歴史に根差し、リアリズム的な手法を手放していなかったのに対し、この作品に描かれるのは、どこかシュールな、具体的な地理上の対応が想像しにくいような、そのような空間であり、時間である。

 作品は、7つの章に分かれ、また章の一つ一つは、番号を付された数頁の断章により成っており、断章と断章、あるいは、章と章の間に、思いもかけない反復や照応が見られる。それは、一つの物語を時間の系列に沿って順に読んでいくのとは違ったスリリングな驚きを与える。
 クンデラはこの作品を「変奏形式の小説」と呼んでいるが、あるモチーフを少しずつ変えながら繰り返し、その反復とずれによって、リニアな叙述とは別の仕方で新たな認識をもたらす、ということを、小説の技法として身につけたのである。クンデラ自身、こうした「変奏の技法」は、「亡命」という危機を乗り越えようとした結果、辿り着いたものであると述べているが、故国を離れ、母国語の読者を失うという危機は、皮肉にも新たなテーマと表現技法の発見の契機となったのである。

 それにしても、『笑いと忘却の書』における極度のアイデンティティ・クライシスと、論文の中で示された失われた「中欧」、「ヨーロッパ」というアイデンティティへの希求とは、まさしく表裏一体だとは言えないだろうか。祖国チェコから根こぎにされることと、彼の中の「ヨーロッパ」像の懐胎は、悲痛な仕方で結びついているように思われる。

 クンデラにとって「小説」とは、単なる文学の一ジャンルを指す名称ではなく、それ自体が、ある精神のあり方、一種の立場を表すものであると映っている。クンデラは、実際に交わされた会話として、『裏切られた遺言』Les testaments trahis(1993)の中に次のような奇妙なやりとりを書き付けているが、それは、「小説」というジャンルを選びとったのが、実存的な決意に基づくものであることを窺わせるとともに、小説という芸術の内的原理に沿ってではなく、政治的な文脈において小説家を理解しないと気がすまない世間に対する苛立ちが端的に現れたものでもあると思われる。

 「クンデラさん、あなたは共産主義者ですか?——いいえ、私は小説家です。」「あなたは左翼ですか、それとも右翼ですか?——いいえ、そのどちらでもありません。わたしは小説家です。と。

 Milan Kundera - L'identità L'アイデンティティ(1997年)

 この小説の主人公は、シャンタルとジャンマルク。一目で恋に落ちた後、長い間共存している。彼は年下で、不安定な仕事に、彼女は少し年上だが、広告代理店では良い仕事を持っており、両方を維持し得る。物語は、ある小さな町に始まるノルマンディー 。それはどこか幻想と現実の間の境界であった。

 クンデラの評論を読むと、「文学」、「作家」という概念が比較的希薄であるのに対し、「小説」というジャンルがことのほか、大きく、重く、特別な意味合いを込めて語られているのがわかる。
 クンデラは、文学上のキャリアを、マヤコフスキーや、エリュアールのような叙情詩人として出発させた。しかし、スターリン主義の絶頂期にあって、叙情的態度がことのほか賞揚される時代に青春を過ごし、叙情とテロル、叙情と全体主義が不分明に馴れ合っているのを見、叙情的な高揚が、自我と世界との批判的距離を無くさせ、盲目的なものになってしまうことに危険を覚え、また、いたく心をきずつけられたという経緯がある。
 クンデラにとって、叙情詩を書くことをやめ、小説の執筆を始めることは、叙情の精神とは反対の、「相対性」の支配する世界に身を捧げる決意と共にあった。
 1975年に執筆された『生は彼方に』(La vie est ailleurs)は、共産主義下の独特の叙情的高揚と、その裏面を描いた一種の詩人批判の小説であり、詩の叙情性の持つグロテスクさに向けられた容赦ない批評であると言ってよい。
 チェコの批評家クヴェトスラフ・フバチークも指摘するように、クンデラの小説においては、一貫して叙事的要素が中心的な役割を占めている。それは「叙情的精神」の負の側面に受けた痛手が、クンデラのその後の著作活動の性質を深く規定しているからなのである。

 「小説」というジャンルほど、曖昧模糊とし、多様で、定義し難いジャンルもないが、クンデラの小説観は、実に確信に満ち、明快である。クンデラは『小説の精神』L’art du roman(1986)の中で次のように語っている。

 しかし、この知恵とは何でしょうか、小説とは何でしょうか。「人間は考え、神は笑う」という、みごとなユダヤの諺があります。この格言に触発されて、私は好んで次のように想像します…つまり、ある日、フランソワ・ラブレーは神の笑いたもうのを聞き、こうしてヨーロッパの最初の偉大な小説の構想が生まれたのだと。小説という芸術が神の笑いのこだまとして誕生したという考えは気に入っています。と。

 「神の笑いのこだまとしての小説」とは、何とも、大らかなユーモアに満ちた把握である。クンデラによれば、神が笑うのは、人間が考えても、真実は人間から逃れ去ってしまうからであり、複数の人間が考えれば、たがいに考えることは違い、また、人間が自分がそうであると考えているものでは決してないという、その根本的な滑稽さからなのである。小説とは、性急に判断を下すのではなく、あくまで世界の多様性と相対性を、その豊かさまるごと描き出すことが可能なジャンルである。判断を宙吊りにし、真面目とも不真面目とも判別できないようなあわいで、実験的な思考も可能となる。
 「小説の精神」とは、「不確定性を不確定性としてうけとめる聡明さ」に発するものであり、絶対的真実を追究する宗教やイデオロギーとは、ベクトルを異にする。クンデラの思い描く「神の笑いのこだまとして生まれた芸術」である小説の敵は、アジェラスト(ラブレーの造語であり、笑わない者たちという意味)、紋切り型の無思想、キッチュであるという。そして更にクンデラは、こうした三つの敵と闘う小説という創造的空間は、近代ヨーロッパとともに生まれ、またそれは、ヨーロッパのイメージそのものであると断言するに至る。

 「小説」というジャンルを実存的に選び取ったクンデラの目に、このように「小説」と「ヨーロッパ」は分かちがたく結びついている。「小説の精神」のイメージとしてのヨーロッパ、とは無論、幾分の理想化を孕んでいよう。クンデラ自身、それが「ヨーロッパに抱く夢」であり、また、その夢は何度も裏切られたと語っている。小説の精神としてのヨーロッパという夢とその裏切りというモチーフは、殊に亡命後の彼の作品の中に恒に見え隠れしているように思われる。以下、彼のテクストを読み解く中から、その具体相を明らかにしてみたい。

 クンデラは、母国語の読者を失うこととなり、翻訳者の協力を得て、作品を外国語(まずフランス語)で発表する事態となったが、各国語に翻訳されたものの中に、翻訳者による自らのテクストの暴力的な改変ともいえるものがあるのに彼は大いなるショックを受け、その後、自作品の翻訳を点検し、訂正する作業に膨大な時間を費やすことになる。そうした作業の中で、クンデラは、自らが用いる用語ひとつひとつに思いをめぐらす機会を得、自らのキーワードを集めて、一種の定義集たる個人用辞書を執筆することを思い立つ。
 この「辞書」は「七十三語」(“Soixante-treize mots”)と題され、文字どおり、73のキーワードとその定義が並んでいるのだが、注目されるのは、その中に、正しく「ヨーロッパ」という項目が存在することである。少し長いが全文を引用しよう。

 ヨーロッパ Europe中世期、ヨーロッパの統一は共通の宗教に基づいていた。近代を迎えるに及んで、宗教はその地位を文化に(文化的創造に)明け渡し、文化はヨーロッパ人がそれによって自分を認識し定義し同定する、さまざまの至高の価値の実現となった。ところで現在、今度は文化がその地位をあけ渡している。だが何に、誰にか。ヨーロッパを統一できるような至高の諸価値が実現するのはどの領域であろうか。技術的偉業だろうか。市場だろうか。民主主義の理想、寛容の原則をかかげる政治だろうか。しかし、その寛容がもう豊かな創造や力強い思考をなんら擁護することがないならば、それは、空疎で無用なものになるのではないか。あるいは、文化の退位を天にも昇る心地で身を任すべき一種の解放と受け止めることができるだろうか。私にはわからない。私はただ、文化はすでに屈服してしまったと自分が承知していると思っているだけである。こうしてヨーロッパの自己同一性のイメージは遠ざかる。ヨーロッパ人。つまりはヨーロッパに郷愁をいだく人。

 この記述から窺われるのは、クンデラがヨーロッパというものを、「文化」を自らのアイデンティティの根幹としていること、またヨーロッパは「文化」を至高の価値の実現とするような共同体であったはずであるのに、もはや「文化」がそのような主導的な価値たりえなくなっているとする彼の苦い歴史認識である。このテクストが書かれたのは、1986年のことであるが1993年、ヨーロッパには、EUが成立する。
 無論、その統合の原理は、「文化」ではなく専ら、政治・経済的な合理性を根幹とするものであった。時代の趨勢に照らしてみても、クンデラのこのヨーロッパ観は、多分にユートピア的な、感傷的といってよいトーンを帯びているといわざるを得ない。

 このような、失われた「ヨーロッパ」というイメージ、喪失と幻滅を語る一方で、ユートピアとしての「ヨーロッパ」という観念、ヨーロッパの文化と芸術の歴史の栄光は、クンデラの中で、ますます大きな存在となってきているように思われる。
 クンデラの小説や評論の中には、ゲーテやベートーヴェン、ラブレーやセルバンテス、ヘルマン・ブロッホやストラヴィンスキーに至るまで、全ヨーロッパ的な名声を得るにいたった芸術家たちへの言及が数多く見られ、自らをそうした、全ヨーロッパを巻き込む大きな歴史の流れの中に位置づけ、ヨーロッパ文化の嫡子たりたいとする、並々ならぬ意欲と衿恃がありありと感じられる。まるで「ヨーロッパの偉大なる文化と芸術」がみずからのアイデンティティの起源そのものであるかの如くである。
 自らの拠って立つジャンルである「ヨーロッパ小説」をめぐって、『裏切られた遺言』の中でクンデラは次のように述べている。

 私が「ヨーロッパ小説」について語るのは、たんにそれを中国小説から区別するためだけではなく、その歴史が超国家的なものであることを言うためでもある。フランス小説、イギリス小説、あるいはハンガリー小説は、それに固有の歴史をつくりだすことはできず、それらはみな、国家の枠組みを越えたひとつの共通の歴史に参加しており、その歴史によって、小説の進化の意味と個々の作品の価値があきらかとなる唯一のコンテクストがつくりだされる、ということを言うためでもある。と。

 こうした、国家の枠組みを越えた「大きなコンテクスト」に言及するクンデラに対し、チェコ時代の作品も視野に収めつつ(当然、チェコ語テクストの読解も進めつつ)クンデラについて、現在、最も包括的で、綿密な研究を重ねている赤塚若樹は、「クンデラのまなざしは、以前はチェコ文学とヨーロッパ文学の両方に注がれていたのに、彼がフランスに渡ってからは、だんだんその焦点がヨーロッパ文学のほうに移動していき、それにともなって、いつしかチェコ文学がなおざりにされ、ヨーロッパ文学の理念だけが「ユートピア」としてひとり歩きを始めてしまった。」と述べている。さらに、「クンデラの文学に輝きをあたえているものは、チェコの歴史と彼が生きた経験的現実、チェコの歴史的現実がもたらす具体性なのではないか」として、フランスを舞台にした作品『不滅』以後の小説には、「著しい衰退」が見られるとの厳しい評価を下している。

 確かに、クンデラの文学にチェコ固有の歴史と現実の経験の具体性を求めようとするならば、「ヨーロッパ小説」たる、フランス移住後のクンデラの小説には、失望を禁じざるを得ないだろう。しかし、共産主義下のチェコでのしたたかな経験を経て、「西側」と呼ばれていた大国の一つであるフランスに移り、やがてクンデラのパースペクティブに「ヨーロッパ」と呼ぶほかない大きなイメージが浮かび上がってきたことは、彼の小説の別の次元の認識力へと明らかに繋がっていると、筆者は考える。クンデラの文学における「チェコ性」そのものより、強いられた移動を経ることによって、チェコにもフランスにも通底する「ヨーロッパ性」ともいうべきものに確かな表現のリアリティを与え得たところにこそ、クンデラの文学の独自性があるのではなかろうか。

 Žert (1969年Žert(ジョーク)からクリップ)


 またクンデラは、『小説の精神』所収「不評を買ったセルバンテスの遺産」(L’héritage décrié de Cervantes)の中で、次のように述べている。

 最後の逆説の時代が小説家をかり立てるのは、時間の問題をもはや個人の記憶というプルースト的問題に限定することではなく、集団の時間の、ヨーロッパの時間の謎に——老人が自分自身の過去の人生を一瞥のもとに把握するように——自分の過去を見、おのれを総括し、おのれの歴史を把握すべく振り返るヨーロッパの時間の謎に拡大することです。と。

 ここには、「ヨーロッパの時間の謎」が、クンデラにとって小説の不可欠のモチーフであることが語られている。実際、クンデラの小説の中には、ヨーロッパの歴史そのものを、彼なりのパノラマのもとに捉えようとする貪欲な視線がある。もちろん、その歴史の描き方は、登場人物の実存に降りかかるものとして、あるいは、実存のモチーフと何らかのアナロジーで結ばれるものとして、個人の歴史との具体的な連関と照応を保ったかたちを取っている。

 例えば、『笑いと忘却の書』の中には、ヤナーチェク音楽院の院長を務め、ベートーヴェンに関する研究を残した音楽学者であったクンデラの父の死の場面が描かれているが、クンデラは、それを「インターナショナル」を歌うピオニール協会の子供たちを交錯させながら描いている。フサークが「子供のみなさん! みなさんは未来です」「子供のみなさん、けっして後ろを見てはいけません!」と叫ぶ声が父の病室にまで届いてくる。子供をうまく政治的な祝祭に取り込む共産主義の、一種硬直した盲目的進歩主義が、一人の人間の死と重ね合わせられることによって、浮き彫りになっていく。
 そして、クンデラの父が亡くなる1年前、息子に連れられ散歩に出かけた折り、ソ連軍占領下のチェコで、至るところに据え付けられたスピーカーから無節操に流れる騒音と化した音楽、「歴史の重荷を忘れ、生きる喜びに身を任せるよう人々を誘う」その騒音を耳にしたのち、父が「音楽の愚かさだよ」という言葉で、何かを伝えようとする、というエピソードが語られる。辛そうに、やっとの思いで発せられた父の言葉を息子であるクンデラは解釈しようとするのだが、その件は以下のようである。

 彼はそれで何を言いたかったのか? 一生の情熱であった音楽を侮辱したかったのだろうか? いや、そうではない。音楽の原初の状態というものが、音楽の歴史に先立つ状態というものが、初めての問い、初めての省察、一つのテーマと一つのモチーフとの戯れという考え以上の状態というものがあると言いたかったのだと私は思う。音楽のそうした原初形態(思想のない音楽)のなかに、人間の実体と不可分の愚かさが反映される。音楽がそうした原初的な愚かさを越えた所にまで高められるためには、精神と心情との計り知れない努力が必要だった。それなのに、数世紀に渡ってヨーロッパの歴史に張り出していたその素晴らしいカーブが、ちょうど打ち上げ花火のように軌道の頂点で消えてしまったのだ。音楽の歴史は死を免れないが、ギターの愚かしさのほうは永遠だ。今日、音楽は元々の状態に立ち戻った。それは最後の問いと最後の省察のあとに来た状態、歴史のあとに来た状態なのだ。と。

 クラシック音楽の研究に終生打ち込んだ父が辿り着いた音楽の認識の煮詰められた形がここにある。『笑いと忘却の書』の中には、言葉の困難と闘いつつ、ベートーヴェンのソナタに関する本を執筆しつつある父が、ベートーヴェン最後のピアノソナタである作品(111)の変奏について、やはり何か重要なことを伝えようとするのだが、言葉にならず、それは何だったのかと、息子クンデラが考察する場面がある。そこでクンデラは、変奏曲という形式は、外界の無限へと貫いて行く旅ではなく、あらゆる事物の内に隠されている内的世界の、無限の多様性の内部に人を導くものである、と考えを進めていく。こうしてクンデラは西欧の音楽の探求のひとつの極点について思考しようとしている訳であるが、それだけに、そうした探求を無化してしまうかのような、「音楽の愚かさ」という言葉は衝撃的なのである。

 すべての人間を兄弟にしてしまう音の単純な組み合わせ、魂なき叫びの単調なリズム。ヨーロッパの音楽家たちが数世紀に亘って営々と続けてきた「高尚な」芸術的探求とははすかいに、人間の愚かさと結びついた音楽の深い根がある。そのようにクンデラは看破する。ヨーロッパの歴史の栄光と、「人間の実体と不可分の愚かさ」と。
 この両極の緊張のただ中に、鮮烈な実存の姿が描き出されていることが、クンデラの小説の無視しえない特徴なのではなかろうか。しかし、栄光と愚かさの間に紡ぎだされる物語は、何と哀しく、滑稽なのだろう。クンデラの祖国であるチェコには、民衆に根強く浸透した人形劇の伝統があるが、「繰り人形」とは、歴史の皮肉に翻弄され続けた小国の人々の精神構造に親和性を持つ、ひとつのメタファーであるとも言えるかも知れない。クンデラの小説の中でかたられるヨーロッパの歴史=物語には、何か、神の繰り人形としての愚かな人間たちの、壮大な寓話とでもいった趣がある。

 上に述べたように、亡命後に初めて執筆された『笑いと忘却の書』のなかには、明らかに、「ヨーロッパ」のモチーフが姿を表しているのであるが、この小説から5年後に発表されることになる『存在の耐えられない軽さ』L’insoutenable légèreté de l’êtreは、「ヨーロッパ」というもの、「ヨーロッパ人」というものを総体として捉えようとする熾烈な意志が更に明確化しており、登場人物や場面設定自体に「ヨーロッパ」を浮かび上がらせる力学が一層緻密に張り巡らされているように思われる。

 この小説は二組の男女を中心として展開していく。一方がプラハの外科医トマーシュとチェコの寒村出身のテレザであり、もう一方は、トマーシュの元愛人で放浪の芸術家であるサビナ、そして彼女の新しいパートナーである、ジュネーブの学者フランツである。思い切って単純化を試みるなら、前者のカップルは、人生のメタファーとして「軽さ」を選ぶ者と「重さ」を選ぶ者との組み合わせであり、後者は、裏切りを人生の基調としキッチュなものに対する距離感を持つ者と、ヨーロッパ知識人の一つの典型、それも篤実ではあるがキッチュなものに取り込まれやすい人物との組み合わせであると言うことができよう。この二組の男女の物語は交錯しつつ展開していくのだが、共産主義下のチェコの歴史的な現実を堅固な背景としつつも、主人公たちの都市から田舎へ、あるいは、ヨーロッパからアメリカへ、第三世界へ、といった移動も伴い、また、豊富な脱線的エピソードが挿入されるために、小説の見えない主人公である「ヨーロッパ」の像は、より、総括的で多角的、立体的なものになっていく。

 この小説の中で、徹底的な問いと探求の中心となっているのは、ヨーロッパの心性が生み出した「キッチュ」の精神である。「キッチュ」とは何であるかを、格言風の言葉でもって、あるいは様々なエピソードによって、明らかにしていくのである。クンデラの考える「キッチュ」とは、端的にいえば、「糞の否定」であり、「存在との無条件の同意」である。クンデラによれば、ヨーロッパのすべての信仰の影には、創世記の一章があり、世界が正しく創造され、存在はよいことであるとする思考があるという。クンデラはこうした「存在との無条件の同意」に由来する様々な感情や人のふるまいを検証していくのである。音楽に対する感受性の問題も、性愛の場に介入してしまう腸の音も、集団での輪舞への郷愁も、叙情詩のパトスも、全体主義の美的な理想も、配偶者の死をうけいれる心情も、すべて「キッチュ」の心性との関わりで眺められるのである。

 この小説の第6章は、「大行進」と題され、ここでは、フランツが参加する、カンボジアの共産主義政権に抗議してヨーロッパの左翼が組織した大行進のエピソードが語られ、左翼的な人々を惹き付ける観念、イメージがつくりだす、「政治的キッチュ」が徹底的に検証される。作品の中でヨーロッパの政治的キッチュが、どれほど突き放された目で眺められているかは、以下の文章に明らかである。

 フランツは、「大行進」の栄光が、そのなかで歩んでいる者達の喜劇的な虚栄と同じものであり、ヨーロッパの歴史の壮大な喧騒ががぎりない静寂のなかで終わってしまい、もう歴史と沈黙のちがいがないということを認めることができなかった。と。

 『存在の耐えられない軽さ』においては、個人のレベル、また集団や政治のレベルで、キッチュの心性が語られ、物語の進行とともに、キッチュの像は重層的なものとなり、やがて、ヨーロッパの総体としてのキッチュが、大きな歴史のパースペクティブの中に浮かび上がってくるのである。

 クンデラが、フランスに居を移して15年の歳月を経て、長編『不滅』L’Immortalité(1990)が執筆される。この作品で初めて、フランスが小説の舞台の中心となる。『存在の耐えられない軽さ』の中には、物語の時間的な進行がストップするような、エッセイ的、哲学的な文体による一種の「逸脱」の手法が際立ってきていたが、『不滅』では、このエッセイ的、哲学的な断片の比重が増してきている。
 『不滅』は、『存在の耐えられない軽さ』と同じく7部で構成され、対照的な性格を持つ姉妹アニェスとローラを中心にした現代の世界の物語の展開してゆく奇数の部と、過去の時間に溯って歴史の奥行きの中に哲学的な視線を投げかける偶数の部が、ひとまず区分けされて進行する。次第に、現代の物語と歴史の奥行きとが複雑に交錯し、少々あざといと言いたくなるほど巧妙な照応を見せていく。現代の物語は、具体的なエピソードと、大胆な見取り図でもって提示された「ヨーロッパ」の心性に照らされて、特有の位置づけが為されていく。
 クンデラはこの作品の中で、ヨーロッパの心性を代表するものとして、「音楽」と「ホモ・センチメンタリス」という言葉を掲げている。「ホモ・センチメンタリス」とは、ラテン語であてこすったクンデラの造語であるが、ヨーロッパ文明の生み出した「感情を価値に仕立てる」人格の典型として提出され、小説全体にわたって、完膚なきまでに諷刺の対象とされる。「真実の愛はつねに正しきものである」つまり、愛は人間を無罪にするという確信に基づき、善と悪の基準が主観的であるようなキリスト教文化が、この人格の方を生み出したのだとクンデラは考えている。そして、その起源を12世紀の宮廷風恋愛に見定めている。現代に至る歴史の流れを踏まえてクンデラは、ヨーロッパにおいて音楽はこうした人格のタイプと密接に連関しあっているものであると考えている。

 クンデラは言う。「ヨーロッパ。偉大なる音楽とホモ・センチメンタリス。同じ揺籃に並んで寝ている双生児」。クンデラがヨーロッパの心性の根幹にあるとする音楽は、ことに、ロマン派的なものである。この小説の中には、音楽へのロマン派的な思い入れへの諷刺が散見される。たとえば、主人公ローラは、ロックには我慢ならない大のマーラーファンとして描かれ、典型的な「ホモ・センチメンタリス」にあたるのだが、かなり冷笑的に描かれており、またアニェスについても、父の葬儀にマーラーの『第9交響曲』の「アダージョ」を流したいと思ったが、式で涙を他人に見せるのをはばかって、事前に何度もプレーヤーに掛けて聴き、「十三度目には、パラグアイの国歌がすぐ目の前で演奏されるくらいにしか心を動かされなかった」そして、葬儀で涙を流さずにすんだ、という何やら人を喰ったようなエピソードがはさまれている。
 音楽の引き起こす感動や陶酔にどこか醒めた視線を投げかけずにはいられないクンデラは、この小説の中で、「絶対的に現代的であること」をモットーとしているアニェスの夫、ポールに次のような台詞を吐かせている。

 僕はショパンの葬送行進曲を聞きながら死ぬより、子供の片言を背景にして死にたいね。そしてこれも言っておこう。悪のすべては、死の賛美であるあの葬送の行進から来ているのだとね。葬送がもっと減れば人は、もっと死ななくなるだろう。と。

 何か価値の高いもの、理想を求める心情とつながる音楽は、悲劇や戦争を導くものと同じ根から発しているとの考えが述べられている。この断片では死の賛美の問題が触れられているが、小説は、題名が示す通り、「不滅」、つまり肉体は死んでも、栄光として滅びずに生き残るという観念を、一見遠く離れていると思われるような日常的な些事や歴史上の事実を折り込みながら、次第に幾重にも取り巻いてゆくように、この作品は進行していくのである。死してなお栄光が残るという観念、そしてそこから生み出される欲望がヨーロッパ的な心性の根幹にあること、またそのことが現代の人間の存在にどのような影を落しているのかを、クンデラは批判的な観点からこの小説に盛ろうとしたのだと思われる。音楽、殊にクラシック音楽は、「不滅」を求めてやまないヨーロッパ的心性の典型であると捉えられているのである。

 次に挙げる『不滅』の断片には、ヨーロッパの「不滅」の心性の捉え方が良く表れているように思われる。これも、ポールの発言である。

 わたしは、これら全ての交響曲の完璧さに異議を唱えているのではないのです。ただその完璧さの威光に異議を唱えているんです。それら超崇高なる交響曲は無用の大聖堂でしかない。人間には近付けないんです。非人間的なんです。昔からずっと我々はそういう威光を誇張してきました。そのせいで劣等感を持たされました。ヨーロッパは自身を五十ほどの天才的な作品に還元してしまったのですが、ヨーロッパはそれをまるで理解してこなかったときている。この酷い不平等をよく理解してください。全てを代表する五十の名声に対して、何も代表することのない何百万ものヨーロッパ人? 階級の不平等なんてちっぽけなことですよ、一方を砂粒に変え、しかるに他方には存在の意味を授ける、この形而上的な不平等に比べればね。

 クンデラはこの小説の中で、ベートーヴェンやゲーテ、リルケ、ロマン・ロランなどを俎上に載せ、彼らの作品そのものではなく、後世の人々がその生涯に付与していった様々の伝説的な価値を次々に手玉にとっていく。偉大な芸術家達は「威光」の欲望にとりつかれた人間、あるい「ホモ・センチメンタリス」として、一種滑稽な存在として脱神話化されていく。

 La otra aventura. Programa . MILAN KUNDERA

 番組放送2011年。名門出版プレアデスに組み込まれ、プラハへの列車旅行を自覚するミランクンデラの戦いについて時間を語るコルタサル。彼の小説と彼のジャーナリズムを通じてホルヘIbargüengoitiaの仕事におけるユーモアの戦いに近づく新しいテーブル出版の世界。

 クンデラの評論や談話においては、広くヨーロッパの芸術全般にわたる熱烈なオマージュが見られるが、彼は、地理上の祖国を失った自分にとっての祖国=chez soi、つまりは、自己が本当に自己でいられる場所とは「ヨーロッパ文化」そのものである、と亡命の中で芸術家としての生をまっとうしたストラヴィンスキーに自らを重ね合わせるようにして述べてもいる。「ヨーロッパ」へのあまりにも強い愛着と、容赦ない「ヨーロッパ」の寓話化は、作用・反作用の関係にあると言ってよいかもしれない。

 ビロード革命を経、「正常化」した祖国チェコに、帰国するという道をクンデラはとらなかった。最新作『無知』Ignoranceは、亡命者のチェコへの帰還とその失望をオイディプスの神話に重ね合わせて描いたものだが、クンデラは今後もフランスに住まい、汎ヨーロッパ的という他ない小説を書き続けるだろう。クンデラの小説の中に、ヨーロッパの歴史と心性を真正面に捉えようとする記述は他にも数多く、さらに分析の対象としたいところである。以上、クンデラにとっての「ヨーロッパ」のエッセンスをいささか粗描した。

 ミラン・クンデラの表現に再び注目してみたい。クンデラは『小説の精神』の「不評を買ったセルバンテスの遺産」というエッセイで、次のようなことを書いている。
 《 フッサールとハイデガーによって、世界に何かが欠如したままになっていることがあきらかになった。それは「存在の忘却」という問題である。これは「認識の熱情」の現代的高揚とともに、それとは裏腹に喪失しつつあるものだった。「認識の情熱」なら、デカルトこのかたいくたびも視点と方途を変えて盛り上げてきた。けれども「存在の忘却」はデカルト的なるものではまったく掬えるものとはなってこなかった。これを掬ったのは、おそらくセルバンテスの『ドン・キホーテ』なのである。世界を両義的にものとして捉え、絶対的な一つの真理のかわりに、互いにあい矛盾するかもしれない二つ以上の相対的な真理を掲げ、そこに刃向かうすべての主義主張と幻影に対決していくということを教えたのは、唯一、セルバンテスの『ドン・キホーテ』だったのである 》と。

 そしてこの草稿文には《 そのモデルが日本の少年とするのだから神の真理は再び解体される。実際にみたそのモデルによって、また分担される無数の相対的真理が近代に向かって散らかされたのである 》とする記述が残されている。

 近年、ミラン・クンデラの新しい評論集『出会い』の翻訳が出た(西永良成訳、河出書房新社、原書は2009年刊)。これは「新しい」といっても中身はまったく新しくはない。『存在の耐えられない軽さ』の作家は、けっして新しいものをありがたがったりはしないからだ。モダンの後にポスト・モダンなどというバカな物差しにも縁がない。

 今年84歳(2013年現在)になったこのチェコからの移住作家(いまでは「亡命」という言葉も間尺に合わなくなってしまった)の「別れの儀式」の手始めとのことだが、ここには、クンデラに親しい文学や絵画それに音楽との「出会い」を語ったエッセーを集めてある。巻頭のフランシス・ベーコン論も読ませるが、「ブラックリスト、あるいはアナトール・フランスに関するディヴェルティメント」が、クンデラの嗜好や批評的意識の立ち位置をよく示していておもしろい。

 「ブラックリスト」とは、「流行」とか「風潮」が排除するものを、教会や警察のやり方で示した表現だが、フランスの文学界はそれ自身の「ブラックリスト」をもっていて、クンデラに馴染みの作家もそのなかに入れられていた。シュルレアリストが「死亡宣告」を下して以来、アナトール・フランスはその筆頭にあって、そんな作家に関心があると言ったら、パリの「趣味のよい」文化人たちを白けさせてしまうのだ。

 もちろんこのような「同化傾向」は、抑圧と排除のメカニズムとして全体主義体制のもとでは国家的に働いている。チェコからフランスに亡命した(1975年)直後、クンデラは「好意的な」フランス人たちの間で当たり前になっているそんな風潮に触れてしまった。
 ところが、「ブラックリスト」によってほぼ永遠に葬られているこの作家(フランスの国名を筆名にした)は、チェコで青春期を過ごしたクンデラにとっては日常の糧のような作品を書いた作家だった。フランス革命期の恐怖政治(「テロル」の時代!)を扱った『神々は渇く』は、革命の正義の名のもとに親しい者たちをも次々と断頭台に送った「邪悪な」青年の話である。クンデラはこれを例外的な歴史的悲劇の一コマとしてではなく、人間の日常生活を描いた作品であるかのように淡々と読んでいる。

 その中にこんなくだりがある。
 
 のちになってブロート(小説の主人公ガムランに告発される友人)のことを考えながら、わたしは共産主義の時期に体制に反対するふたつの基本式な態度があることに気がついた。ひとつは信念に基づく反対、そしてもうひとつは懐疑に基づく反対。教訓的な対立と反道徳的な対立。ピューリタン的な対立とリベルタン(自由思想)的な反対。前者は共産主義がイエスを信じないことを非難し、後者は共産主義が新しい〈教会〉に変わろうとしていることを非難する。前者は共産主義が堕胎を認めることに憤慨し、後者は共産主義が堕胎を困難にすることを非難する(このふたつの態度は、共通の敵に眼を曇らされ、両者の相違をほとんど見ていなかった。その相違は共産主義が消え去ったあとになってから、ますます強く際立ってくるようになった)。

 カトリックでもコミュニズムでもなく、「西」でも「東」でもないというクンデラの「中欧」の位置のありようがここにも読み取れる。

 また、この見方は、今では「ブラックリスト」に入れるまでもなく忘れられた旧ソ連の作家、アレキサンドル・ジノヴィエフを想起させる。77年に西欧に亡命を余儀なくされたこのへそ曲りは、「自由の空気の味はどうですか?」とマイクを突き付ける西側ジャーナリストに、「君たちは何もわかっていない、あの国ではそんなものは必要ないのだ」と一喝して嫌われ、みずから「醜いアヒルの子」を自認、やがて訪れたペレストロイカ、西側を熱狂させたペレストロイカに対しても「西側かぶれの指導者たちが企てた愚策」とこきおろし、『カタストロイカ』を書いて反論、西側ジャーナリズムからは「狂犬」扱いされて、「20世紀のカッサンドラ」としてソ連崩壊のがれきの中に消えていった。

 彼もまた、「私は歴史(理性)を信じている」という命題は「私は神を信じている」という命題と同型であるとして、「私は神を信じる、のではない」の「のではない」に賭けた作家だった。「のではない」は単純な否定ではない。「信じる」ことに安んじ、自らを正当化することの否定であり、根本的な留保だ。だがその「留保」は消極的だというわけではない。「無」は純然たる虚無ではなく、限定の不在にほかならず、ある意味ではそれは無限の充溢である、と気づいたのはベルクソンだったが、ジノヴィエフは「信」の対象を立てることを拒否しながら、生身の生存を全力で肯定する人でもあった。

 どういうわけかこの頃、「東方」に縁がある。ギリシア、東欧、旧ソ連...、「西洋(オクシデント)」が「東(オリエント)」に望見した地域だ。ついでに想起しておくなら、バルカン半島にはイスマエル・カダレがいた。『砕かれた四月』も忘れがたい作品である。

 クンデラの本に戻れば、随所にこの作家独特の「歴史を斜めに泳ぐ」創見が散りばめられているが、「近代」に殉じるようにもみえるこの作家が、その予期せぬ変奏ともいえるクレオール文学に魅了され、パトリック・シャモワゾーの『すばらしいソリボ』を、口承と書くこととの稀有の出会いとして賞賛していることも印象的だった。私にはクレオール文学の紹介に労をとってきた友人がいるが、その者としては嬉しいことであろう。

 Castilla - La Mancha - un paseo por las nubes カスティーリャ ラ·マンチャ「雲の中を歩く」


 それにしてもM・クンデラがマドリードからラ・マンチャ地方を訪ねたのには一人の人物に会うための最大の目的があった。
 ラ・マンチャ地方にトメリョソ(Tomelloso)という町がある。

Tomelloso gif

トメリョソ 1 W600
トメリョソ 地図 W600

 Semana Santa 2012 - Domingo de Ramos - Tomelloso トメリョソの町でパームサンデーの物語。

 イベリア半島南部に広がるラ・マンチャ地方の平原、D.O.バルデペーニャスの赤茶色の表土が、やや白味がかった石灰質を含んだ土壌へと変化する。
 これがD.O.ラ・マンチャのトメリョソに入った合図となる。
 M・クンデラはラ・マンチャのワイナリー「VERUMヴェルム」を訪れた。

 古くから世界でも最も大きなワイン生産地として知られるラ・マンチャ。
 この地方でワインの首都と言われるトメリョソは、広大な畑の中央に位置する。また歴史的にも高いワイン生産の技術を持ち、代々新しい技術に投資を行ってきた生産者たちは、現在トメリョソを高品質のワインと蒸留酒の産地として知らしめるべく、彼らの知識と経験を活かし生産を行っている。

 Wines from Spain 2010 Promotional Video

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 ラテン語で「真実」を意味する「VEURUM」という名は、大地に対し、ワイン造りに対し、また、すべてに対して真実でありたいという、ロペス・モンテロ家が代々受け継いできた思いを表している。

 このヴェルムの畑の歴史は1788年、ロペス・モンテロ家の先祖に当たるホセ・ロペスが受け継いだ畑に遡ることになる。1961年、ホアン・アントニオ・ロペスが蒸留酒製造所を設立し、世界的な成功を収めた。彼の死後、2005年に4人の息子たちがヴェルムを設立する。所有する畑は約200ヘクタール。標高およそ400メートルの平原に位置し、表土から3メートル下にある石灰岩を基盤岩とする。

 5つに区分されたこの畑では、カベルネ・ソーヴィニョン、メルロー、テンプラニーリョ、カベルネ・フラン、アイレン、シャルドネ、ゲヴュルツトラミネール、ソーヴィニョン・ブラン等、様々な品種が栽培されている。さらに、原産地統制委員会の研究機関の後押しもあり、失われつつある土着品種の再生を手掛けるプロジェクトの一環として土着品種の植え付けも予定されている。気候は、夏は暑く冬は寒く、昼夜の寒暖差が20℃もある大陸性気候で、ブドウ生産に適した土地柄といえる。

 ワイン造りにはモスト・フロール(フリーラン果汁)のみを使用し、全ラインナップ合わせての年間生産量8万本程度のの限定生産を行っている。また、古く中世より、人々は水分を貯めるこの厚い岩盤を掘り下げ、地下貯蔵庫として用いてた。ヴェルムは、今世紀初頭、親会社である蒸留酒製造会社の地下に高さ7メートル、面積8000㎡の広大な地下セラーを完成させた。

 そして、恵まれた土地に限りない愛情を注ぎ、類まれなるセラーを利用し、この土地の素晴らしさを100%活かしたいという、ワインメーカーエリアス・ロペス・モンテロの考えは、自然と有機栽培にたどり着く。さらにそれは、伝統を重んじながら、効果的な新技術も積極的に取り入れるせい新が「真実」の探求につながっている。

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ホセ・ロペス・モンテロ W201H268           ホセ・ロペス 書籍 W200H268

 このワイナリー「VEURUM」であるロペス・モンテロ家には、祖ホセ・ロペス(José López Montero)によって語り継がれるトメリョソ(Tomelloso)の歴史書がある。
 その内容の中に天正遣欧少年使節が描かれている。これは祖ホセ・ロペスが家伝とされる代々に継がれた伝承を残そうとして記した歴史書だ。その一節に「El nombre de ese chico es Mancio. Como un mensajero del rey, Se trata de un niño japonés que llegó a España. Ahora, se dirigen a Roma.  あの少年の名はマンショという。国王の使者として、スペインに来た日本人の少年だ。今、ローマへと向かっている」と記し、ラ・マンチャ地方を南下してローマに向かう少年使節一行の旅姿を伝えている。

 1983年に、この古書の内容を確かめるべくしてM・クンデラはトメリョソにやって来た。
 またそこにはドン・キホーテの著者ミゲル・デ・セルバンテスと伊東マンショに関する故実についても記されている。「Prototipo de Don Quijote es Mansho.ドン・キホーテのプロトタイプはマンショである」と。つまりこの古書には、ドン・キホーテの源泉は伊東マンショの姿であり、それをセルバンテスが描き出したと書き記している。
 この事実を確認した私もまたそれ以降、ワイナリー「VEURUM」に度々訪れるようになった。

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 ワイナリー「VEURUM」の現代表醸造家Elías Lopez Montero(エリアス・ロペス・モンテロ)は広大な葡萄畑を見つめながら語る。
 VERUM BODEGAS Y VIÑEDOSは200haの葡萄畑を所有しているが、その中で最も良い葡萄を厳選して、毎年8万本だけVERUMのワインとなり得る、と。
 また石灰岩層は、この地域の絶対的な主役だと語るエリアスは、恵まれた土壌に感謝と敬意の心を常に忘れない。トメリョソの土壌は特殊で、とても貧しく、表土はたった25cm~30cmのみで、その下は、3mの厚みを持つ石灰岩層を基盤としているからだ。その根は石灰岩層につき葡萄を育て、丹念に手をかけることで特別な個性を与えられる。そしてエリアスはワインの醸造だけでなく、葡萄の作付から全ての指示を統括する。さらに絶滅の危機にさらされているこの地域の、アリビーヨ、モラビア、などの土着品種葡萄を作付してラ・マンチャの風土特性を守り続けている。

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 ワイナリーVERUMのあるトメリョソにはエリアス・ロペス・モンテロお勧めの特別なレストランがある。
 その「VINOS Y TAPAS」は、米料理が有名だ。
 何度かVERUMの白(ゲヴェルツトラミネール&ソーヴィニオンブラン)をチョイスした。エリアスの葡萄畑を見た後、この地元の料理とワインはまた格別である。
 特にチーズのサラダはレベル高い。じつに美味しい!アロスバンダ。米料理に定評があるのがまったくもって頷ける。アリオリと一緒にいただくと美味しさが一段と増す。この恵まれた自然の恩恵と、醸造家の匠の技が加わり、「VERUM」のワインが誕生したのだということを、実際訪れて実感することができた。

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 伊東マンショがローマへと向かうためマドリードを出発したのは1584年11月26日。
 その後、使節一行はスペインのラ・マンチャ地方を南下してアリカンテ港から出航するのだが、その1584年から429年の歳月が流れた(2013年現在)。

 翌2014年には430年となる。そして2019年には伊東マンショの生誕450年記念を迎える。上述したようにロペス・モンテロ家には、祖ホセ・ロペス(José López Montero)によって語り継がれるトメリョソ(Tomelloso)の歴史書がある。
 この歴史書はモンテロ家がラ・マンチャ地方の伝統文化を絶やさないよう代々の責務として保管してきたものだ。中世における天正遣欧少年使節一行のラ・マンチャ地方を通過する光景はこうしてトメリョソの人々の間で大切に語り継がれている。

 ワイナリー「VEURUM」の現代表Elías Lopez Montero(エリアス・ロペス・モンテロ)は節目となる2019年に向けて生誕450年記念に相応しい醸造家としてのワイン開発計画を明らかにした。
 この計画は今後6年の歳月をかけてVEURUMのプライドを指し示す商品開発となる。
 開発のテーマは「中世当時のラ・マンチャの醸造と風景」を掲げる。
 折しもこの完成予定年には、マノエル・ド・オリヴェイラ(Manoel de Oliveira)監督と世界的ベストセラー小説「ハリー・ポッター」シリーズの作者、J・K・ローリングの脚本による伊東マンショを主人公とする映画化の完成予定と重なるのだが、映画制作関係者もこのワイナリー「VEURUM」の記念ワイン開発は一連に関わる重要なプロジェクトと位置づける。
 そしてJ・K・ローリングは2013年7月、早速VEURUMを見学した。さらに完成したワインはローマ法王に届けられバチカンを祝福する一品となる。この期待を背負いVEURUMの蔵人らは6年間の試練場へと突入した。

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                      シリーズ連載・次回No.fileに続く
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伊東マンショの正体を科学する No.0005

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 世界は大航海時代。日本は戦国「下克上」の世。同時期にキリスト教が伝来する。織田信長の比叡山焼き討ちのころに、また室町幕府が終焉しようとするころに、日向国一円に勢力する豪族の伊東家に数奇な運命を宿す一人の男児が誕生した。
 この男児が後に天正遣欧少年使節の正使となる伊東マンショ。
 だがこの人物についての実像を記す資料は今日に乏しい。その背景には当時の混乱と錯覚とが不遇にも交錯する日本史の実情がある。つまり記録として残せない深い闇の淵に置き去られた。
 No.2631ファイル・データはこの歴史人の正体に迫る研究をシリーズ構成でつづる資料コラム。中世の街道を往来した人物との交流を織り重ねながらマンショの足跡の真相を編集する。・・・・伊東満所

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         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

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     前回に引き続き司馬遼太郎の「司馬史観」に少し触れる。
     バスク地方からスペインのマドリードまで着いたホテルで、司馬遼太郎の『街道をゆく22南蛮のみち』(1984 朝日新聞社刊)を再び読んでいたら、その冒頭いきなり「こんなホテル」と吐き捨てる女性が登場して、その名前に、すこしばかりハッとなった。
 司馬や担当編集者らがパリ市内で泊まっている、団体客ご用達のアメリカ式巨大ホテルを「いやだねえ、そばまできて、帰ろうかとおもった」などと流ちょうな日本語で揶揄(やゆ)した、このフランス人女性は、名をカトリーヌ・カドゥという。司馬は取材コーディネーションをつとめてくれた彼女を、親しみをこめて「カトリーヌ嬢」と呼んでいた。このカトリーヌ・カドゥは、黒澤明の通訳をつとめたり、永井荷風の仏訳本を出したり(『おかめ笹』『腕くらべ』)と、語学力をいかした仕事が多いことで高名な女性だ。そしてフランスで長年日本映画の紹介や普及につとめてきた。

 このカトリーヌ・カドゥの監督した新作ドキュメンタリー映画が、近年開催中のカンヌ国際映画祭の〈カンヌ・クラシック〉部門で上映された(『Kurosawa, la voie』)。それは、ベルトルッチ、呉宇森、アンゲロプロス、キアロスタミ、宮崎駿、スコセッシら、世界各国11人の映画作家が、黒澤明の映画について語るというもの。クリント・イーストウッドが、「この日本人映画監督が第7芸術にどのような影響を与えたのか」とも説明しているのだが、偶然その彼女と最近お逢いした。

カトリーヌ・カドゥと司馬 W600
 司馬遼太郎記念館


 そこで司馬遼太郎に関するエピソードを一つ思い出した。 

 司馬遼太郎は『南蛮のみち』を、つまり、伝道師フランシスコ・ザビエルの故郷であるスペイン北部バスク地方をたずね歩く紀行文を書くのに、マドリーなどスペイン国内の都市ではなく、パリを旅程の起点としている。このスタートの仕方が、司馬らしくて面白いと感じる。そして司馬が「中世の民の巡礼のみちすじを模倣したのだろうし、ザビエルの留学先カルチェ・ラタンから遡行したかったのだろう」と連想していた。
 だがカトリーヌ・カドゥの話を聞いてみると「どうも、そう単純ではなそう」なのである。司馬がパリを始点にして南下する旅の発想は、旅の事前にカトリーヌ・カドゥとの出逢いがあったようだ。

 そこには『ザヴィエルの書簡抄』という書籍が深く関わっていた。

 司馬は旅の前にこの上巻を読了する。このことをカトリーヌ・カドゥが薦めたという。この上巻は(アルーペ神父、井上郁二訳、岩波文庫)。カトリーヌ・カドゥが話すには、彼女が和辻哲郎の「鎖国」からパジェスの本をへて、同系列の本の三つめだ。そして司馬は「どう旅の計画をたてるか、途中、いろいろ寄り道はしているけれども、いちおう今年の本筋はキリスト教関連のことになるだろうという予感がある。といっても、べつに殊勝な発心をおこしたわけではない。ただ、いままで縁遠かった宗教というものが少しだけ身近なものに感じられるようになってきたというだけのことだ」と言いつつパリに向かったということだ。

聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄 上巻 W600

 さて本書だが、まず「緒論」がすばらしい。サビエルといえば、だれでも名前くらいは知っているが、さて彼がどんな人物だったかを知る人は意外に少ないのではないか。多くの宗教者と同じく、彼にも回心があった。イグナチオ・デ・ロヨラとの出会いである。その間の経緯が、この「緒論」にくわしく書かれている。
 「緒論」だけでも読み物としてじゅうぶんにおもしろいが、これを読めばどうしてもつづく書簡集に読み進みたいという衝動にも似た思いが勃然とおこってくる。まことにイントロダクションとしては申し分ない。で、つづく書簡集だが、これにはいちいちその前に解説がおかれていて、また後に註がついている。この解説がまたすばらしい。それぞれの書簡の読みどころを的確におさえていて、後の註とあいまって間然するところがない。
 そして、書簡にみられるサビエルその人の面目はどうかといえば、これはもう信念の人というしかない。全身全霊、神の恩寵だか聖寵だかに満たされていて、彼がたどった地上の足跡だけみても偉観とするにたる。真の達人にあっては、観照的生活と活動的生活とがけっして矛盾するものではないことを、彼の全生涯が証明しているかのようだ。
 というわけで、この本は上巻がおもにインドでの布教を扱っていて、下巻ではいよいよ日本での伝道のことが語られる。サビエルその人の口から当時の日本の様子がうかがえるのだ。われわれにとっては書簡集の核心といってもいいだろう。ひとつつけ加えておくと、この本を読んでまた気になった本として、イグナチオの「霊操」と聖女テレジアの「霊魂の城」がある。

 『ザヴィエルの書簡抄』には日本人のことが次のように記されている。

 例えば「私達が今までの接触によって識ることのできたかぎりにおいては、この国民は、私が遭遇した国民の中では、一番傑出している。日本人はたいてい貧乏である。しかし、武士たると平民たるを問わず、貧乏を恥辱と思っている者は一人もいない。かれらには、キリスト教国民の持っていないと思われる一つの特質がある。―それは、武士がいかに貧困であろうとも、平民の者がいかに富裕であろうとも、その貧乏な武士が、富裕な平民から、富豪と同じように尊敬されていることである。彼らは侮辱や嘲笑を黙ってしのんでいることはない。日本人は妻を一人しか持っていない。窃盗はきわめてまれである」と。

 その後、ザヴィエルは各地を歩き、さまざまな質問に出会う。

 そして「日本人は私の見た他の如何なる異教国の国民よりも理性の声に従順の民族だ。非常に克己心が強く、談論に長じ、質問は限が無いくらいに知識欲に富んでいて、私たちの答えに満足すると、それを又他の人々に熱心に伝えてやまない」とある。

 そのザビエルは下野国足利庄五箇郷村(現・栃木県足利市)にあった学校、「足利学校」を「日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー(坂東の大学)」と記し、高く評価した(「イエズス会士日本通信」上)。

 足利学校


 ザビエルの日本での活動は京都以北での記録は無い。司馬遼太郎は「そのザビエルが、坂東の足利学校を評価するきっかけをどこで得たのか」に注目する。
 ザビエルは、全国での宣教の許可を『日本国王』から得るため、インド総督とゴアの司教の親書とともに後奈良天皇および足利義輝への拝謁を請願。しかし、献上の品がなかったためかなわなかった。また、比叡山延暦寺の僧侶たちとの論戦も試みるが、拒まれた。これらの失敗は戦乱による足利幕府の権威失墜も背景にあると見られ、当時の御所や京の町はかなり荒廃していたとの記録がある。
 京での滞在をあきらめたザビエルは、滞在わずか11日(約1カ月との説もある)で失意のうちに京を去った。山口を経て、1551年3月、平戸に戻る。
 ザビエルは、平戸に置き残していた献上の品々を携え、三度山口に入った。


 旅人・語り 杉本理恵子                              資料構成・監修: by Sotarou

 1551年年4月下旬、大内義隆に再謁見。それまでの経験から、貴人との会見時には外観が重視されることを知っていたザビエルは、一行を美服で装い、珍しい文物を義隆に献上した。
 献上品は、天皇に捧呈しようと用意していたインド総督とゴア司教の親書の他、望遠鏡、洋琴、置時計、ギヤマンの水差し、鏡、眼鏡、書籍、絵画、小銃などがあったとされる。
 これらの品々に喜んだ義隆はザビエルに宣教を許可し、信仰の自由を認めた。また、当時すでに廃寺となっていた大道寺をザビエル一行の住居兼教会として与えた(日本最初の常設の教会堂)。ザビエルはこの大道寺で一日に二度の説教を行い、約2カ月間の宣教で獲得した信徒数は約500人にものぼったという。
 また、山口での宣教中、ザビエルたちの話を座り込んで熱心に聴く盲目の琵琶法師がいた。彼はキリスト教の教えに感動してザビエルに従い、後にイエズス会の強力な宣教師となるロレンソ了斎であった。

 このロレンソ了斎1526年(大永6年)、肥前白石(現在の平戸市)にて生まれた。目が不自由であったため、琵琶法師として生計を立てていたが、1551年(天文20年)山口の街角でフランシスコ・ザビエルの話を聞きキリスト教に魅力を感じ、ザビエルの手によって洗礼を授かり、ロレンソという洗礼名を受ける。

ローマのイエズス会の古文書館に保存されているザビエルの手紙群 W600

 ロレンソはザビエルが日本を離れた後もイエズス会の宣教師たちを助け、キリスト教の布教活動に従事した。1559年(永禄2年)、コスメ・デ・トーレスの命を受けガスパル・ヴィレラと共に京に入り、苦労の末に将軍足利義輝に謁見し、キリスト教布教許可の制札を受けた。
 また、当時の京都の実質的な支配者だった三好長慶にも会い布教許可を得る。さらにキリスト教に対し好意的でなかった松永久秀が、宗論のためにヴィレラを自らの領地である奈良に招いた時には、ヴィレラ自身が赴くのは危険すぎるということでロレンソが派遣された。ここでロレンソは理路整然と仏僧を論破し、その疑問にことごとく答える。論議の審査のため、その場に居合わせた高山友照はこれに感心し、自らの城にロレンソを招き教えを請い、友照は子の高山右近や家臣などと共にヴィレラから洗礼を受けた。そのロレンソは1563年(永禄6年)に正式にイエズス会に入会、修道士(イルマン)となった。
 司馬遼太郎が推察するには「このロレンソが足利学校の歴史由来をザビエルに伝えた」とする。しかし、直接はそうなのであるが「発端を握るのは鹿児島のベルナルドであったろう」と結論に迫る。

 足利学校の創建年代については長らく諸説が論争となっている。
 しかし一応、平安時代初期、もしくは鎌倉時代に創設されたと伝えられる中世の高等教育機関で、室町時代から戦国時代にかけて、関東における事実上の最高学府であった。
 室町時代の前期には衰退していたが、1432年(永享4年)、上杉憲実が足利の領主になって自ら再興に尽力し、鎌倉円覚寺の僧快元を庠主(しょうしゅ、校長のこと)に招いたり、蔵書を寄贈したりして学校を盛り上げた。その成果あって北は奥羽,南は琉球にいたる全国から来学徒があり、代々の庠主も全国各地の出身者に引き継がれていった。第7代庠主、九華が北条氏政の保護を受けて足利学校を再興し、学生数は3000人と記録される盛況を迎えた。この頃の足利学校の様子を、キリスト教の宣教師フランシスコ・ザビエルは述べている。
 足利学校では入学者には僧俗、身分を問わず学徒名を与えた。
 7代の九華は学徒名で、実際は臨済宗の僧侶である。玉崗瑞璵(ぎょっこうずいよ)という名だった。九華は大隅出身で、伊集院氏の一族だ。大隅から遠く離れた北関東で足跡を残したことになるが、よほどの学識の持ち主だったのだろう。現在、同校の鎮守として稲荷大明神が現存しており、九華が再建したという棟札(むなふだ)が残っていて、棟札には「大隅産島津的孫伊集院一族瑞璵九華」と署名されている。

 これに至る経緯については、生前、その司馬さんより手紙を頂いた。その中で「ミステリー作家ではないので謎の人物として終わらしたのでは気質が萎える。正体の証は難しいが、正体には近づく限り近視眼者として尽くしたい」と語り遺された。やはりこの言葉に司馬史観の真骨頂が現れている。

司馬書簡より W600

 さらに司馬は「ザビエルの布教計画は後のイエズス会のそれとは一線を画すものであった」ことに強く関心を示した。

 ザビエルは日本人をヨーロッパに派遣し、キリスト教会の実情とヨーロッパ社会を知らせ、同時にヨーロッパ人に日本人のことを知らせようとした。しかし後続のフランシスコ・カブラルは日本人が外国語を学ぶことを許さなかったし、ヴァリニャーノが「日本巡察記」に「日本人にキリスト教も仏教と同じくいろいろな宗派に分かれていると知られると布教に悪影響を及ぼす恐れがある」と記し、ヨーロッパの宗教は統一されていると教えていた。
 ザビエルは同僚を通じてスペイン国王に「日本を占領することを企てないように」と進言する。そして堺にポルトガル商館を建て、自分がそこの代理人になってもいい、と書簡で書き送った。

 これらを確かめた後、司馬遼太郎はパリへと旅立った。

フロイスのひく杖に導かれるロレンソ了斎 W600

 だが司馬はそのパリに発つ1ヶ月前に鹿児島に立ち寄ることにした。

 司馬遼太郎には気がかりな人物が「足利学校の一件に絡み」一人いたのである。
 それが「ベルナルド」という鹿児島出身の日本人だ。イエズス会の記録にベルナルドという洗礼名のみ記録され、日本名は現在も知られていない。しかし彼こそが、日本人初のヨーロッパ留学生であり、日本人として初めてローマ教皇とも対面した人物なのだ。

 1549年8月15日に日本に到来したフランシスコ・ザビエルは鹿児島で宣教を行ったが、ベルナルドはザビエルから最初に洗礼を授けた日本人である。以降2年間、ベルナルドはザビエルに同行してその活動を支え続けた。

 ザビエルは1551年11月5日に日本を離れたが、このとき5人の日本人を帯同させる。ベルナルドもその一人であった(他の4人は大友義鎮の家臣であったとされる上田弦佐なる武士と、日本名不明のマテオ(山口出身)、ジョアン、アントニオという青年たちであった)。一行はマラッカからコチンをへて、1552年2月にポルトガルの東洋における拠点都市ゴアにたどりついた。

 1552年4月、中国入国を目指すザビエルは、ベルナルドらと別れてゴアを出帆、上田弦佐もこれに同行した。2人はその後別れ、上田は日本に帰り、ザビエルは上川島に入った。残ったベルナルドとマテオの2人はゴアでイエズス会学校に学んだが、マテオはゴアで病を得て世を去った(ジョアンとアントニオの2人のその後の消息は不明)。

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 しかし、一人残されたベルナルドは、1553年3月にポルトガルに向けてゴアを出発する。同年9月にリスボンに到着した。長い航海の疲れからベルナルドは病床に就いたが回復し、1554年2月からコインブラの修道院で暮らした。イエズス会員としての養成を受けることになったベルナルドの様子については、長上からローマのイグナチオ・デ・ロヨラのもとに書簡で報告されていたが、ベルナルドの強い信仰心と真摯な姿を聞いたロヨラはベルナルドをローマへと招いたのである。この前に、フランシスコ・ザビエルは友人のイエズス会ポルトガル管区長シモン・ロドリゲスに宛てて次のような手紙をしたためている。「マテオとベルナルドはポルトガルとローマを見たくてインドまで私に着いてきて・・・彼らの望みは祖国に帰り、同胞にその話を聞かせる事・・・ベルナルドは私の日本滞在中に実によく面倒を見てくれ・・・我々の大切な友人であり・・・」と。


 こうしてローマ行きの指示を受けたベルナルドは、コインブラを発って1554年7月17日にリスボンを出発した。陸路スペインを抜け、バルセロナから船でイタリアにわたった。慣れない土地での長旅はベルナルドの体に負担を与え、ベルナルドは再び体調を崩したようだ。

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 シチリアからナポリを経由したベルナルドがようやくローマに到着したのは1555年1月のはじめであった。ローマにおいてベルナルドはロヨラと対面しただけでなくローマ教皇パウルス4世への謁見をも許された。ローマにおいてロヨラは常にベルナルドの健康を気遣っていたという。

 約1ヶ月間ローマおよびその近郊に滞在して1555年10月18日、ローマを離れたベルナルドは海路スペインに向かい、そこから陸路をとってリスボンに戻ったのは1556年2月12日であった。再びコインブラにやってきたベルナルドはコインブラ大学などで学んでいたが、積年の疲労から再び床に就き、そのまま衰弱して1557年3月のはじめにコインブラの地でこの世を去った。

 司馬遼太郎は天正遣欧少年使節の以前に彼がいて「東洋から来たベルナルドの深い信仰と清い生き方は、ヨーロッパのイエズス会員たちにその死に至るまで大きな感銘を与えた」ことを出身の地である鹿児島で想いを馳せようと考えたようだ。

 ヤジロウの案内でザビエルはまず薩摩の薩摩半島の坊津に上陸、その後許しを得て、1549年8月15日に現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した(この日はカトリックの聖母被昇天の祝日にあたるため、ザビエルは日本を聖母マリアに捧げた)。
 同年9月には、伊集院城(一宇治城/現・鹿児島県日置市伊集院町大田)で薩摩の守護大名・島津貴久に謁見、宣教の許可を得た。ザビエルは薩摩での布教中、福昌寺の住職で友人の忍室(にんじつ)と好んで宗教論争を行ったとされる。日本人初のヨーロッパ留学生となるベルナルドにはこの時に出会った。
 このベルナルドがローマ教皇パウルス4世への謁見をも許されたのが1555年、それは伊東マンショが日向国に誕生(1569年)する14年前の出来事であった。

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 「南蛮の道・・・司馬遼太郎語録
 ロヨラはバスク地方の小さな町の城主の子として生まれた。ロヨラは軍人だった。彼は30歳のときまでは世俗の虚栄におぼれていた。特に、むなしい大きな名誉慾を抱き、武芸に喜びを見出していた。

 1520年、フランス軍の侵入。かなりの間攻撃が続いたあと、一発の砲弾が彼のはぎに当たった。ロヨラは傷痍軍人として生家のロヨラ城に戻った。…かれは全身を他者に投与してしまうことを考え続けた。自分自身を一切否定し、それによって本来的な自分を生かそうと考え続けた。

 パリ大學でロヨラもモンテーギュ学院に入った。ザヴィエルを口説いてこれを僧侶にし、命も名も要らぬ勇者に仕立てねばならなかった。この間、ロヨラは同室のザヴィエルをつかまえては、説き続けていた。

 「私は、地上の英雄になりそこねた。いまはイエスのためにマリアのために騎士になろうとしている」と。

 「君、思いをひそめたまえ。君は学問をして浮世の栄達をもくろんでいるようだ。君ならきっと富も名誉も得るだろう。しかし全世界を得たところで、なにになる。生命が尽きればそれだけのことではないか。聖書にその意味の言葉があることをよく考えてもらいたい。<おれと一緒にやろう>」と。

 この旅の途上で思いかえしてみると、ロヨラがいなければ、更にロヨラが妖気をもってわがザヴィエルに迫る事がなかったなら、ザヴィエルが日本に来ることもなかった。
 イエズス会も存在しないし、こんにち、上智大学のキャンバスの中の多くの青春も、その場所には存在しない、ということになる。

 さらに司馬さんは語る。
弥陀は創造主ではないが宇宙における唯一絶対の存在である。その点で神と変わらず、また神は愛であり、弥陀が慈悲である点でも、変わらない。ただ親鸞における弥陀は、たとえ不信の者でも、むしろ不信の徒であればこそ追っかけても救う、という点が、ザヴィエルの神の厳しさと異なる。ただすべて救われるという親鸞的な世界には、偽善がないかわりに、敬虔、崇高、高潔、或いは純潔といった要素もすくないようであり、キリスト教とくらべ、美学的にはどこか寝転んでよだれを垂らしている感じがしないでもない」と。

 そしてバスクの現実の民族に直接触れて「<バスクは独立した国です。文化的にも……>と彼女はまずいった。<そこにいる人々は、誇り高い民です。ピレネーのフランス側の麓のバスクはフランス国の一地方ですが。しかしフランスは一度もバスク地方を植民地にしたことはありません。ですからフランス人としてはバスクに胸が痛まないのです。フランス人に少しもコンプレックスを持たさないというのは、たいした民族です。バスクは独立の文化を持っていますが、文化的にフランスやスペインから影響されることもなく、むしろ双方に影響を与えました>」と、いう末裔の言葉に、屹立として生きるバスク人の正体を垣間見た。

Mesa de los Tres Reyes 2 W600

Mesa de los Tres reyes メサ・デ・ロス・トレス・レジェス(三王の台地)

 現在のヨーロッパの人々は、ほとんどがその昔、中央アジアやコーカサスからからヨーロッパに移動してきた人々の子孫である。つまり、言葉や民族をはじめ、今日ヨーロッパ的なものといわれるものの根源は、ヨーロッパの土地の外から持ち込まれてきたことになる。
 そのなかで、バスク人はおそらく、もともとヨーロッパ(イベリア半島北部、もしかしたらフランスの一部も)に住んでいた古ヨーロッパ人の末裔、元からそこにいた人たちだった。

 バスク語をはじめとするバスク人のルーツはよく分かっていない。系統が同じ言語としては、これまでも、イベロ語(東地中海がルーツと思われるイベロ人の言語、非ヨーロッパ言語、イベリア半島に長く住んでいた)、北アフリカのベルベル語、コーカサスの非ヨーロッパ言語、北米にまで及ぶといわれるデネ・コーカサス大語族に属する言語、などが挙られてきたが、どれも仮説の域を出ず、現在はバスク語は系統の分からない孤立語、という意見が多数を占めている。語彙の研究から、氷河期を生きた古人類の直接の子孫ではないか、という意見もあるほどだ。

Mesa de los Tres Reyes 地図 W600

 バスク地方のスペイン側では、スペイン語以外にもいくつかの言語が公用語になっているが、そのひとつのバスク語は、バスク自治州全域とナバラ州の一部で話される言語である。
 スペインの他の公用語であるカタルーニャ語は、なんとなくスペイン語とイタリア語とフランス語のミックスのように感じるし、スペイン語とイタリア語とフランス語自体も、スペイン語に似ている部分が結構あるので、聞けばなんとなく内容を想像できたりするが、バスク語はどの言語とも似ていない不思議な言語なのだ。
 しかし聞きようでは、むしろ、響きとしては日本語に近いような気もする。
 このバスク語は、フランコ独裁時代には、カタルーニャ語などの他の言語と共に、使用を禁止されていた。特にバスクの大きな都市では統制が厳しかった。したがって現代の都市部の年配層のバスク人はバスク語をほとんど理解できない状況となっている。

 という話を司馬遼太郎は、取材旅をしたバスク地方のチョコレートショップで、60代くらいのご婦人から聞いている。これは私も同じように現地にて聞いた。逆に若い層は、学校で必ずバスク語を習うので、実生活で使わないバスク人も知識としてはバスク語を知っているという実情がある。ただし、学校で習うのは、標準バスク語で、村々で話される方言のバスク語に至っては通じず対応が難しい。

 そこで古来由しいバスク語を聞くには、メサ・デ・ロス・トレス・レジェス山(Mesa de los Tres reyes )の山麓に暮らすバスク人に求めることになる。司馬もその方向を訪ねるのだが、ザビエルが生まれたザビエル城周辺の山岳に等しい辺境の集落には現在でも確かなバスク語がしっかりと根付いている。

ザビエル直筆のサイン W600
 ザビエル直筆のサイン

 ザビエルとは、バスク語で「新しい家」の意味である。
 「Etxebarria(家 etxe)」+ 「新しい(barria)」のイベロ・ロマンス風訛りで、彼の生家である城(ナバラ王国・現ナバラ州、バスク語ではナファロア王国)の名でもあった。
 「Chavier」や「Xabierre」などとも綴られることもあるが、「Xavier」はポルトガル語で発音はシャヴィエル。当時のカスティーリャ語でも同じ綴りで発音はシャビエルであったと推定される。現代スペイン語ではハビエル「Javier」。ただし、彼はバスク語及びナバラ語のバイリンガルだった。
 かつて日本のカトリック教会では慣用的に「ザベリオ」(イタリア語読みから。サヴェーリョがより近い)という呼び名を用いていた(例:下記「聖ザベリョ宣教会」や「ザベリョ学院」)。その他日本では「サビエル」も用いられる(例:山口サビエル記念聖堂)。だが、現地バスク地方においてザビエルでは通じず、名はロマンス語読みに近いが姓はラテン語読みに近いために、カタカナ呼びにして「シャヴィエル」なら比較的通用する。

  私は現地のバスク人に何度もザビエルの名を確かめてみたが、そのとき新井白石の『西洋紀聞』に「むかし豊後国に、鬼怪ある家あり。ポルトガル人の来れるを、かしこに按置す。ポルトガル人、其壁上にクルスをかきしに、そのゝちは彼怪やみぬ。国司此事をきゝて、不思議の事におもへり。一年を経し後に、フランシスコシヤヒヱル来たりしかば、国司やがて、其法をうけしといふ。そのフランシスコシヤヒヱルといふは、ポルトカルの語也。ラテンの語に、フランシスクスサベィリウスといふ、これ也。」とある、この新井白石の言葉を想い起こした。

Basque Country: Identity



     辻斬りZ W50H50 gif  ② 南蛮の道「ドンキホーテとマンショとの交差」
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         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

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Madrid.gif                       スペイン国旗 gif

     バスク地方から南下してスペイン国の首都・マドリードまできた。
 さて、ここから先は、司馬遼太郎の街道を行くと別れ、独自で訪ね歩いて発見したマドリードの見聞録とする。

マドリード・ストーリー B W600

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 伊東マンショがスペインのマドリードに到着したのは1584年10月20日。
 そしてマドリードを出発するのが11月26日。
 その間に、サン・ヘロニモ修道院におけるスペイン皇太子宣誓式に参列し、またフェリーペ2世に謁見する。この約1ヶ月間のマドリード滞在において伊東マンショの周辺では一体何が生じたのか。彼はマドリード市民に美貌の眼差しを向ける。東洋の使節者に、市民らはそう感じた。

 このマドリードでの伊東マンショと出逢うには、少しイタリアへ余談の道草をして、先ず一人の人物のことを語らねば先に進めない。

 チンザーノ(Cinzano)は、イタリアの酒類製造会社である。ベルモットやスプマンテを製造し、1757年にチンザーノ家の兄弟が創業した。日本では(チンザノ)で知られ、そのチンザノと言えば社名ではなくベルモットの製品名をさすほどにチンザーノのベルモットは有名である。また、イタリアで初めてスパークリングワイン(スプマンテ)を製造した。写真左は「日本ではベルモットの代名詞的存在」であるチンザノである。そのチンザーノ社は1786年、時の権力者サヴォイア家の公式な納入業者となった。

チンザノとサヴォイア家の紋章 W600

 右上の写真はそのサヴォイア家の紋章である。その「Casa di Savoia」家は、かつてイタリアのピエモンテとフランス及びフランス語圏スイスにまたがるサヴォイア一帯を支配していた辺境伯貴族の家系であった。
 そんな家系を継ぎながら1713年、スペイン継承戦争の結果シチリア王国の王位を獲得、1720年にハプスブルク家とシチリア島、サルデーニャ島の交換を行い、サルデーニャ王国の王位を代わりに得た。イタリア統一運動時に核となり、統一後はイタリア王家となる。

 しかし第二次世界大戦後の1946年6月、王制の是非を問う国民投票により王制廃止が決定して共和制となると、一族は国外追放を余儀なくされた。イタリア憲法でサヴォイア家は2002年までイタリアへの入国を禁じられていた。
 そのイタリアの元王家であるサヴォイア家の一員「アイモーネ・ディ・サヴォイア=アオスタ」氏に初めてお会いしたのは三馬漱太郎が大学院を卒した初夏の軽井沢での奇遇なめぐり逢いからであった。
 氏は1967年の生まれであるから、当時は10歳ぐらいの少年である。そんな異国の少年にとって14歳ほど年齢差のある日本青年は気軽で格好の家庭教師的存在であったようだ。

アオスタ家 W600

 軽井沢には追分宿郷土館というものがある。
 追分宿は、江戸時代に「中山道と北国街道」の二つの道が合流する宿場町として繁栄した。その館内には、追分宿の旅籠・茶屋・問屋の民俗資料と近世宿駅制度を研究する上で重要な歴史資料、本陣土屋家の古文書等を中心に展示・公開している。氏とのめぐり逢いはそんな郷土館の入口での背中越しにあった。背後からふいに風音でも滑るごとく「Ciao !」と声かけられざまに肩口を軽くポンと叩かれた。以来、毎週土曜日の午後には日本語教師として氏の別荘に足を運ぶことになった。

 その少年が現在45歳のアイモーネ・ディ・サヴォイア=アオスタこと称号プッリャ公を名乗る生粋のイタリア人である。その氏名(Aimone di Savoia Aosta)をイタリア語全名で綴ると(Aimone Umberto Emanuele Filiberto Luigi Amedeo Elena Maria Fiorenzo di Savoia Aosta)となり、第4代アオスタ公アイモーネの直系の孫にあたる。2006年に父アメデーオ(第5代アオスタ公)がサヴォイア家家長・サヴォイア公を称するようになった。氏は現在、アオスタ公の公位継承予定者に与えられる称号プッリャ公(duca di Puglia)を名乗っている。

 袖すりあうも他生の縁というが、約30年の交流の期間でアイモーネ・ディ・サヴォイア=アオスタは一度も元イタリア王家の血筋にあたるとは口にしたことはない。漱太郎としては、近年ふいに称号プッリャ公を名乗られて面食らっている。そんな事とはつゆ知らず、1987年、彼が二十歳になる記念だと言ってスペイン旅行に招待されたのだが、その旅行時のことを、数年ぶりに再会した東京渋谷で、彼と会食を交わし楽しくチンザノで飲み明かしたこともあって、貴重な体験を一つ思い出す機会があった。
 彼と過ごしたその旅先がスペインのマドリードに通じ重なることになる。

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 Don Quijote de la Mancha. Capítulo 1.


 「Don Quijote de la Mancha」という著書をご存知であろうか。音読すると『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』となる。こう発音すると「ああ、あの」ミュージカル「ラ・マンチャの男」を思い起こされる方も多いはずだ。そうして日本人なら、きっと松本幸四郎の名演技を思い浮かべるであろう。
 この著作者ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラ(Miguel de Cervantes Saavedra, 1547年9月29日 アルカラ・デ・エナーレス ~1616年4月23日)は、中世スペインの作家である。

ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラ W600

 そのセルバンテスは、イダルゴ(下級貴族)の家の次男として生まれる。父は外科医であったため、セルバンテスはコンベルソ(カトリックに改宗したユダヤ教徒)ではないかという研究者もいる。

 彼は少年時代から、道に落ちている紙切れでも字が書かれてあれば手にとって読むほどの読書好きであったが、各地を転々とする生活であったので、教育をまともに受けられなかったという。

 だが1564年ごろ(伊東マンショが生まれる5年前)、マドリードに転居したセルバンテスはルネサンスの人文学者ロペス・デ・オヨスに師事することになる。後にオヨスはセルバンテスを「我々の親愛なる弟子」と呼び、高く評価した。1569年にローマに渡り、ナポリでスペイン海軍に入隊するまでの生い立ちについては、あまり解明されていない。
 この時期に、セルバンテスが決闘相手に傷を負わせた罪を告発する文書が残っているが、同名の別人かどうかは定かではない。
 セルバンテスはスペイン最盛期の象徴であるレパントの海戦(1571年)において被弾し、左腕の自由を失った後も4年間従軍を続けた。そして本国へと帰還する途中、バルバリア海賊に襲われ捕虜となる。

 このとき仕官のための推薦状を持っていたことが仇になり、とても払えない巨額の身代金を課され、アルジェで5年間の虜囚生活を送る。この間、捕虜を扇動して4回も脱出を企てるがことごとく失敗。
 このとき処刑されなかった理由は、推薦状により大物と見られていたためと思われるが、これも定かではない。ようやく三位一体会(キリスト教の慈善団体)によって身請けされ本国に戻ったが、仕官を願うも叶わず、1585年に彼の最初の牧人小説『ラ・ガラテーア』を出版するが、これはあまり評価されなかった。

 1585年に父親ロドリーゴが亡くなると、セルバンテスの家庭は本人・姉・妹・姪・妻・娘(私生児)の六人家族となり、稼ぎ手の少ない家計は逼迫した。セルバンテスは無敵艦隊の食料調達係の職を得てスペイン各地を歩き回って食料を徴発するが、教会から強引に徴発した罪で投獄され、さらに翌年アルマダの海戦で無敵艦隊が撃破されたため職を失う。

 その後なんとか徴税吏の仕事に就くが、税金を預けておいた銀行が破産、30倍の追徴金を負債として負うこととなり、これが払えず1597年に投獄されることになる。
 そのセビーリャの監獄の中で、彼は、ピカレスク小説『グスマン・デ・アルファラーチェ』(1559年)の作者マテオ・アレマンもいたというが、セルバンテスは『ドン・キホーテ』(1605年)の序文で、牢獄において構想したことをほのめかしている。

 その『ドン・キホーテ』の成功にもかかわらず、版権を安く売り渡していたため、生活は良くならなかった。しかし、その後も創作活動は続き、有名なものに『模範小説集』(1613年)、『ドン・キホーテ 後編』(1615年)、遺作『ペルシーレスとシヒスムンダの苦難』(1617年)などを世に送り出した。そうして彼は1616年、69歳でその波瀾に満ちた人生を終える。

 イギリスのシェークスピアと死亡した日が同じであるとされることが多いが、当時はヨーロッパ大陸とブリテン島とで異なる暦を使用しており、実際には同じ日ではない。これは、1582年にローマ教皇がユリウス暦からグレゴリウス暦へ暦の変更を決定し、大陸のカトリックやプロテスタントの国々が順次変えていったのに対し、当時のイギリスは、カトリック教会の権威が及ばないイギリス国教会が優勢だったために新しいグレゴリウス暦を受け入れることが遅れたからであった。

 そのような彼が死後に名が知られたわけではない。当時からスペイン語圏による世界的大文学者であった。同時代および後世に多大な影響を与えた。同時代人のシェイクスピアは『ドン・キホーテ』を読んでいたと言われる。チャールズ・ディケンズ、ギュスターヴ・フローベール、ハーマン・メルヴィル、フョードル・ドストエフスキー、ジェームズ・ジョイス、ホルヘ・ルイス・ボルヘスらは、影響を受けた文学者たちのうちのほんの一部である。
 そのセルバンテスの小説『ドン・キホーテ』をもとにしたミュージカル作品がラ・マンチャの男(Man of La Mancha)である。脚本デイル・ワッサーマン、音楽ミッチ・リイ。1965年にブロードウェイでリチャード・カイリー主演で初演され、ニューヨーク演劇批評家賞などを受賞、5年6ヵ月のロングラン公演を記録した。現在も世界中で公演されている。

Musical「ラ・マンチャの男」Man of La Mancha 近年の状況(ブロードウェイ・ミュージカル2002・03年)


 日本では1969年より松本幸四郎が主役を務める公演が名高いが、「市川染五郎」時代の1970年にはブロードウェイにわたって主役を英語でもこなしており、その熱演は今や伝説となっている。
 脚本は、セルバンテスが小説『ドン・キホーテ』を着想したのは、セビリアで入牢中であったという事実をもとにしている。セルバンテスと牢獄の囚人たちの現実、彼らが演じる劇中劇における田舎郷士アロンソ・キハーナの「現実」、そしてキハーナの「妄想」としてのドン・キホーテという多重構造となっている。当初はテレビドラマとして書かれた。これをミュージカルにすることを提案したのが製作者アルバート・シェルダンと演出家のアルバート・マールである。

ミュージカル「ラ・マンチャの男」 W600

 ちなみにこのミュージカルのあらすじを見てみよう。
 舞台は中世のスペイン。劇作家ミゲルデ・セルバンテスはカトリック教会を冒涜したという疑いで逮捕、投獄される。牢獄では盗賊や人殺しなど囚人たちがセルバンテスの所持品を身ぐるみはがそうとする。セルバンテスは、自分の脚本を守るため、「ドン・キホーテ」の物語を牢獄内で演じ、囚人たちを即興劇に巻き込んでいく。
 ミュージカル・ナンバーとしては、タイトル曲『ラ・マンチャの男~われこそはドン・キホーテ(Man of La Mancha - I, Don Quixote)』、ドン・キホーテが宿屋の下働きかつ売春婦のアルドンサを高貴な姫と信じて歌う『ドルシネア(Dulcinea)』などが知られる。なかでも『見果てぬ夢(The Impossible Dream)』は、本作品のテーマとして、中盤でドン・キホーテが歌い、ラストでも大合唱によって繰り返される。なお2001年に全米で巡業された公演では、1966年に『見果てぬ夢』をヒットさせた(ビルボードのチャート35位まで上昇した)歌手ジャック・ジョーンズ自身がドン・キホーテ(ミゲルデ・セルバンテス)役を演じた。

 しかしスペインでは「ドン・キホーテ」では通じない。(ドンは呼び掛けの称号のため)、定冠詞を付けて「エル・キホーテ」(el Quijote)と呼ばないと理解されにくい。

 また前編の正式な原題は「El ingenioso hidalgo Don Quijote de La Mancha(英知あふれる郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ)」という。
 セルバンテスは前編の序文の中で、牢獄の中でこの小説の最初の構想を得たことをほのめかしている。彼は生涯において何度も投獄されているが、おそらくここで語られているのは税金横領の容疑で入獄された1597年のセビーリャ監獄のことであろう。(ただし、「捕虜の話」など話の本筋ではない挿話のいくつかは、それ以前に書いたものである)。

 セルバンテスは釈放後、バリャドリードで多くの家族を養いながら前篇を書き上げ、1605年にマドリードのファン・デ・ラ・クエスタ出版所から出版した。
 おかげで前篇はたちまち大評判となり、出版した年だけで海賊版を含め6版を数え、1612年には早くも英訳が、1614年には仏訳が登場した。だが作品の高い評価にもかかわらず、版権を売り渡してしまっていたためセルバンテスの生活は依然困窮していた。
 後編は、Segunda parte del ingenioso caballero Don Quijote de La Mancha(英知あふれる騎士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ 第二部)として1615年に同じくファン・デ・ラ・クエスタ出版所から出版された。前篇と同様に大評判となったが、セルバンテスは相変わらず貧しいまま、ついに1616年に没した。

 前篇はセルバンテスの短編集としての色合いが濃く、作中作「愚かな物好きの話」(司祭たちが読む小説)、「捕虜の話」、「ルシンダとカルデーニオの話」など、ドン・キホーテとは直接のかかわり合いのない話が多く挿入されている。また、前篇の第一部(ドン・キホーテ単独の一泊二日の遍歴)も、ひとつの短編小説としての構成をもっている。後編ではこの点を作者自身反省して、そのような脱線を無くしている。

 この物語をもう少し詳しく述べると、ラ・マンチャのとある村に貧しい暮らしをする郷士が住んでいた。
 この郷士は騎士道小説が大好きで、村の司祭と床屋を相手に騎士道物語の話ばかりしていた。やがて彼の騎士道熱は、本を買うために田畑を売り払うほどになり、昼夜を問わず騎士道小説ばかり読んだあげくに正気を失ってしまった。

 狂気にとらわれた彼は、みずからが遍歴の騎士となって世の中の不正を正す旅に出るべきだと考え、そのための準備を始めた。古い鎧を引っぱり出して磨き上げ、所有していた痩せ馬をロシナンテと名付け、自らもドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャと名乗ることにした。
 最後に彼は、騎士である以上思い姫が必要だと考え、エル・トボーソに住むアルドンサ・ロレンソという田舎娘を貴婦人ドゥルシネーア・デル・トボーソとして思い慕うことに決めた。

 その用意がととのうと、彼はひそかに出発した。
 冒険を期待する彼の思いと裏腹に、その日は何も起こることなく宿屋に到着した。宿屋を城と思いこみ、亭主を城主だと思いこんでしまっていたドン・キホーテは、亭主にみずからを正式な騎士として叙任してほしいと願い出る。亭主はドン・キホーテがいささか気の触れた男であることを見抜き、叙任式を摸して彼をからかうが、事情を知らない馬方二人が彼の槍に叩きのめされてしまい、あわてて偽の叙任式を済ませた。

 翌日ドン・キホーテは、遍歴の旅にも路銀や従士が必要だという宿屋の亭主の忠告に従い、みずからの村に引き返すことにした。だが途中で出会ったトレドの商人たちに、ドゥルシネーアの美しさを認めないという理由で襲いかかり、逆に叩きのめされてしまう。そこを村で近所に住んでいた百姓に発見され、ドン・キホーテは倒れたまま村に帰ることになった。

 打ちのめされたドン・キホーテの様子を見た彼の家政婦と姪は、この事態の原因となった書物を残さず処分するべきだと主張し、司祭と床屋の詮議の上でいくつか残されたものの、ほとんどの書物が焼却され、書斎の壁は塗りこめられることになった。
 やがてドン・キホーテが回復すると、書斎は魔法使いによって消し去られたと告げられ、ドン・キホーテもそれに納得した。遍歴の旅をあきらめないドン・キホーテは近所に住む、いささか脳味噌の足りないサンチョ・パンサという農夫を、手柄を立てて島を手にいれ、その領主にしてやるという約束のもと、従士として連れていくことにした。ドン・キホーテは路銀をそろえ、甲冑の手直しをして二度目の旅に出た。

 やがてドン・キホーテとサンチョは3~40基の風車に出くわした。
 ドン・キホーテはそれを巨人だと思いこみ、全速力で突撃し、吹き飛ばされて野原を転がった。サンチョの現実的な指摘に対し、ドン・キホーテは自分を妬む魔法使いが、巨人退治の手柄を奪うため巨人を風車に変えてしまったのだと言い張り、なおも旅を続けるのだった。

 以上、物語の概要である。

 Documental - Don Quijote de la mancha.


 こんな小説を成したミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラという男について熱心に語る若かりしプッリャ公に三馬漱太郎は大いなる興味を抱いた。
 そして二十歳のプッリャ公と約2週間ほどスペインに滞在しドン・キホーテに関する周辺を二人で調査する。すると1597年のセビーリャ監獄当時のこと、その一つの真相にたどり着いた。

Don Quijote de la Mancha B W600

 
     辻斬りZ W50H50 gif  ③ 南蛮の道「ドンキホーテと複層するマンショ像」
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         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

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 今となっては松本幸四郎の名セリフ「事実とは、真実の敵である」という言葉が実感として身に沁みるのである。
 その監獄の当時、ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラが獄内で目にしたものが「天正遣欧少年使節」に関する古いイタリアの新聞記事であった。
 1597年といえば、遣欧少年使節が帰国して7年後のことであるが、当時どうやらスペインのセビーリャ監獄で、これは新鮮な話題のようであったようだ。

 中世の当時は情報伝達も現代と違いかなりスローなのである。
 セルバンテスは監獄の中でその新聞を何ども読み返すうちに、無敵艦隊の食料調達係の職を得てスペイン各地を歩き回って食料を徴発していた時期のことを思い出した。

 セルバンテスはマドリードの街角で日本という未知なる遥かな国から国王の使者としてローマへと向かおうとする遣欧少年使節と遭遇もしたし、フェリペ2世との謁見話も聞き及んでいた。そんな記憶を新聞の内容と照らし合わせると、街角でみた少年使節の風貌が鮮明なものとなって現れた。

 1547年生まれのミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラは、伊東マンショよりも22歳も年上である。その彼が遺した手記に、そのような内容がある。この手記を発掘するまでの経緯や保管実態については後で述べることにしたい。

 またそこには「Mancio、ああ、彼こそが真実のキホーテだ」と書き記されている。どうやらセルバンテスは監獄でみた新聞記事から発想を得て、また記憶の中に眠る少年使節者の珍像をもって『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』の構想を大きくしたようである。
 つまりセルバンテスは東洋からの正使者・伊東マンショの風姿をお手本とし「みずからが遍歴の騎士となって世の中の不正を正す旅に出るべきだ」と考えるドン・キホーテなる男を創作したことになる。
 この物語では現実と妄想が複雑に交錯するのだが、ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラは東洋人の神秘性に触れて遥かなる国からの旅人・伊東マンショの現実を自身の妄想の中に置いた。

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 人間の言葉とは新しく進化する。その言葉からは時代の生々しい観念がみえてくる。そこでスペインの中世を論じる場合に考察してみたい造語を一つご紹介したい。それは「リブロ・エスコルソ」という表現である。

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 ホセ・オルテガ・イ・ガセト(José Ortega y Gasset)というスペインの哲学者がいた。彼は1883年5月9日にマドリードに生まれる。そうして1955年10月18日までを生きた。このオルテガが、こう書いている。「ドン・キホーテは観念の密林だ、リブロ・エスコルソだ」と。そのリブロ・エスコルソという言葉は「書物がもつ遠近法世界」といったことをいう。書かれた当時、そんな言葉はなかったのであるから、おそらくはオルテガの造語だろう。オルテガはこの造語を用いて『ドン・キホーテ』は書物のなかに観念の密林をすべて入れこんだだけでなく、その見方のパースペクティヴを「世界」としてつくったというのだ。
 このように何とも不可思議な解説を加えるのだが、後半は、このオルテガのいうリブロ・エスコルソの遠近空間を通して伊東マンショの旅をたどり寄せてみることにする。

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 オルテガはスペインを「世界」にしたのは『ドン・キホーテ』だったという。
 しかし、こういう見方はいくつもあった。91歳で亡くなった現代スペインを代表する詩人ダマソ・アロンソも、「スペインのすべてが『ドン・キホーテ』にこめられている」と書いた。
 であるから、その世界である「スペインの密林」に足を運ばねばならなくなった。それらは、かの江戸川乱歩の屋根裏からのぞきみる夜の散歩者の気分でもある。

 スペインの密林をそっと歩き始めると色彩が見えてきた。漱太郎にとってスペイン・バロックは憧憬と謎と暗合に満ちている。そうして、かたやドン・キホーテの「ミゲル・デ・セルバンテス」がいて、かたやスペイン文化のマニエリスムを代表する詩人「ルイス・デ・ゴンゴラ」が机の上の左右にいるようだ。

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 ゴンゴラは1561年の生まれ、二人は15歳くらいしか離れていない。そこにセルバンテスの5歳年上のマニエリスムの巨匠として知られる画家「エル・グレコ」がクレタ島から渡ってきて入りこみ、最後にセビリヤに、かのマネが「画家の中の画家」と呼んだ「ディエゴ・ベラスケス」が宮廷をほしいままのようにして登場する。

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ディエゴ・ベラスケス A W600

 この4人に机上が占有されてみると、これはいったい何なんだというほどのスペイン・バロックの甘美で苛烈な開闢(かいびゃく)である。この一連の動向こそが、その後の近世ヨーロッパの秘密の大半を握る物語芸術の原点だった。

 なかでもセルバンテスの役割はとびぬけていた。『ドン・キホーテ』という大部の書物はスペインという民族の記憶の国家にさえなった。
 こうなるとドン・キホーテの世紀と呼んでいい。
 その世紀とは、『ドン・キホーテ』の前篇が刊行された1605年をはさむ数十年にわたる年代のことをさす。帝国スペインの太陽が昇り、世界を照らし、そしてその太陽が秋の落日のごとく沈んでいった時代なのである。つまりこの渦中で伊東マンショも生きたことになる。そうしてその渦中こそがオルテガのいうリブロ・エスコルソの遠近空間に広がる密林なのであった。

 カルロス1世に始まりフェリペ2世に継がれたハプスブルク朝スペイン帝国は、地中界世界を制して絶頂期を迎えると、南米にも次々に植民地を広げ(これがインカ帝国滅亡につながる)、1571年にはオスマントルコ軍をレパントの海戦で破って「太陽が沈まない国」と言われるまでに膨れあがった(フェリーペ2世はポルトガルも併合した)。

 24歳のセルバンテスにとっても、レパントの海戦は兵士として参加できた生涯の最も忘れえぬ一戦となっている。キリスト教カトリックの大義を守るために命を賭して闘ったということは、セルバンテス最大の誇りなのである。しかもこのとき戦火に左腕を失って「レパントの片手男」という異名をとったことも、セルバンテスの大いなる自慢となった。

 けれども栄光もそこまでだった。
 それから僅か17年後、スペインの無敵艦隊はエリザベス1世のイギリス艦隊に木っ端微塵に敗れてしまう。これをきっかけにスペイン帝国の凋落が始まった。

 以降、植民地も次々に失っていく。しかしそれを含んでなおこの時代は、セルバンテスとゴンゴラとエル・グレコとベラスケスの時代、すなわちドン・キホーテが旅した空想の世紀なのである。
 スペインが世界史上唯一の栄光と挫折を体験したことがドン・キホーテの世界をつくったとすれば、また伊東マンショも同じ空間を垣間見たことになる。
 このような意味でドン・キホーテと伊東マンショは一体なのである。

 スペインにおける『ドン・キホーテ』の意義は、こうなると日本人が想像をしていたよりもはるかに大きい日本人の意義となろう。スペイン語のインテリジェレは「中を見る」「内部を読む」という意味をもっているようだが、まさに『ドン・キホーテ』はスペインのインテリジェンスそのものなのである。
 同じく『伊東マンショ』は日本のインテリジェンスそのものなのであった。いや、必ずしも知性という意味だけではない。それもあるけれど、ありとあらゆる意味をこめた“最大級の情報戦略”という意味におけるインテリジェレになっているようだ。

 そもそも『ドン・キホーテ』は、物語のなかで物語を追慕するという構造を現出させている。
 作中人物ドン・キホーテは自分の過去の物語を書物にしながら進む騎士であり、その書物を抱えたドン・キホーテの体験を、セルバンテスが次々に新たな物語にして『ドン・キホーテ』という書物にしていった。
 そういう重層的追想構造になっている。
 ここにすでにバロックの萌芽が見られるのは言うまでもないけれど、そこにはさらに、民族が体験すべき国家的情報の記録がその情報の物語化を進めるという戦略的インテリジェンスを萌芽させていた。こうした戦略性の中に立たなければ伊東マンショの意義はみえてこない。

 だから『ドン・キホーテ』はふつう評されるような騎士道パロディの物語なのではない。
 パロディであったとしても、そこにはアナロギア・ミメーシス・パロディアの3原則のすべてを織りこんだパロディア・オペラというべきだし、しかも、そのようなアナロギア・ミメーシス・パロディアは、スペインという帝国の隆盛と衰退に対応し、そこで退場せざるをえなくなっていった「騎士の本来」の物語ともなりえていた。こういう文学はめったにない。

 たいへんな計画だったのだ。尋常ではない構想だったのだ。まさにスペインそのものをバロックにしてしまう、すぐれて知的な魔術であった。

 セルバンテスはどうしてそのようなスペインのインテリジェレをこめた『ドン・キホーテ』を書く気になったのか。このことに関しては、要因の一つが伊東マンショにあることには触れた。
 すでにセルバンテスが予想外ともいえるほどの歴史知識や宗教知識の持ち主だったことはわかっている。また、エラスムスの人文主義にも、ウェルギリウスからアリオストにおよぶ古代ローマこのかたの劇作や劇詩に通じていたことも証されている。

 しかし、そういうことだけでは、セルバンテスがどうして『ドン・キホーテ』を書く気になったかという説明はできない。インテリジェレとしての『ドン・キホーテ』が生まれた理由はわからない。それを理解するには、ひとまずはセルバンテスの波乱に富んだ生涯を追ったほうがいいだろう。なぜならセルバンテス自身がドン・キホーテそのものの二重化されたインテリジェレだったのだから・・・・。

 『ドン・キホーテ』を最初に読む場合、誰もが経験することなのだが、ともかく物語を追うことだけを使命にしたようなアサハカな読書で、いっこうに深まらないで終わる。また、これはなんだか数ページすら体に入ってこなかった(こういうこともよくある)。しかしその後にグスタフ・ルネ・ホッケの『文学としてのマニエリスム』でルイス・デ・ゴンゴラのバロック魔術、いわゆるゴンゴリスモに毒されてみると、さらにその後に幻惑のスペイン・バロックを形象しえた表象の歴史の秘密を知りたくて、バロック逍遥を悠然と楽しみたくなるのだが、ここに至ると、そこにいっこうに『ドン・キホーテ』が入ってこないのが無性に気になってくる。そうして、やっとひとこごちがつくのは、ギュスターヴ・ドレの稠密なエッチングが作り出した『ドン・キホーテ』を見てからのことではないか。おそらくは少しの真髄に触れるためには、長いトンネルとなる。ともかくも、こうしてドン・キホーテ体験がやっと始まるわけである。

 それでも『ドン・キホーテ』の密林を読むには著者セルバンテスの生涯が絶対に欠かせないことは、強調しておきたい。そのようなとき、岩波文庫に半世紀ぶりに新訳をもたらした『反ドン・キホーテ論』や、それをくだいた『ドン・キホーテの旅』などを参考になさるといい。新しい考察が試されている。

 それではこれよりセルバンテスが『ドン・キホーテ』を書きあげるまでのことをざっと綴ってみたい。彼はまさに波瀾万丈の人生だ。しかし、これで彼がドン・キホーテになれたことが分かる。
 ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラは、1547年にマドリード近郊の大学の町アルカラ・デ・エナーレスに生まれて、徳川家康やシェイクスピアと同じ1616年に死んでいる。ちなみに伊東マンショが長崎で病死したのはその4年前の1612年である。

アルカラ・デ・エナーレス W600

 Alcalá de Henares
 スペインの首都マドリード市内から35キロ、アルカラ·デ·エナレスはユネスコの世界遺産。
 15世紀末から16世紀初頭にシスネーロス枢機卿の発案により大学都市の建設が始まり、1499年にサン・イルデフォンソ学校が創設された。ヨーロッパのほかの大学都市とは異なり、アルカラ・デ・エナーレスでは最初から町全体が大学都市として計画されたことが特徴である。その後も大学施設が拡充され、学術・文化の中心地として発展を遂げた。



 父親ロドリーゴはイタルゴ(下級貴族)で、外科医をやっていた。
 外科医といっても当時は傷の手当をしたり、刺絡や罨法(あんぽう)をほどこす程度のもの、まともな医師とはみなされてはいない。おまけに父親はひどく耳が悪く、一家はかなり苦しい生活を強いられた。そのためいつも借金をせざるをえなくなるのだが、打開のためにバリャドリードに引っ越したりするものの、父親は借金の手続きの悪さで投獄されてしまった。

 貧しい日々をへたのち、フェリーペ2世が首都をマドリードに移した1561年に、セルバンテス一家もマドリードに引っ越した。14歳のときである。そのころのマドリードは騎士道精神が熱狂的にもてはやされる町だった(これがのちの『ドン・キホーテ』の発端になる)。

 15歳になってセビリヤのイエズス会の学校に学んだ(セルバンテスはけっこう誠意のあるキリスト教徒)。セビリヤは詩人フェルナンド・デ・エレーラや劇作家ローベ・デ・エルダが人気を集めていて、セルバンテスはその目眩く劇詩の魅力にも引きずりこまれた(このあたりから自身の内なる作者性にめざめていったのだろう)。

 やがてマドリードに戻ったセルバンテスは、21歳のときに人文主義者ロペス・デ・オーヨスの私塾に入り、ここでエラスムスにどっぷり浸かった(このときのエラスムスへの傾倒はのちの教養の広がりとなる)。が、それもつかのま、セルバンテスはある男に重傷を負わせたかどで逮捕され、右腕の切断と10年間の流刑を言い渡されるという事件に巻きこまれた。

 ここから彼は片腕一本の半生を歩むことになる。
 なんとか這々の体で逃亡したらしいのだが、その逃亡の行き先がローマであったというところが、これまたのちのちのセルバンテスの文芸的素養の発揚にとって欠かせない体験になった。
 さる枢機卿の従僕になったのだが、その時期にウェルギリウス、ホラティウスからアリオスト、サンナザーロ、カスティリオーネなどを読み耽っていた。この読書はとびきりだ(実はセルバンテスは長らく諧謔だけの作家だと思われていたのだが、アメリコ・カストロが『セルバンテスの思想』を発表して以降は、セルバンテスがただならない知識人でもあったということになった)。

Madrid W600

 Leisure Tourism in Madrid

 彼の脳裡ではローマの体験はさらに初期バロック的に旋回していく。1570年、イタリア駐在のスペイン軍に入隊すると、ローマ、ナポリ、ミラノ、フィレンツェに駐留し、ルネサンス最後の残香を胸いっぱいに吸いこみ、そこに高揚していたマニエリスム(方法主義)を嗅ぎつけた。

 そのときである、法王ピオ5世が地中海を挟んで対峙してきたオスマントルコ軍とのあいだに戦端をひらくことを決意した。法王は法王庁・スペイン・ヴェネツィアの連合艦隊(いわゆる「神聖同盟」連合軍)の司令官に、スペイン国王フェリーペ2世の異母弟であるド・フワン・デ・アウストゥリアを任命した。弱冠24歳のこの司令官は、23歳のセルバンテスにとっては恰好の憧憬の的となる(むろんドン・キホーテのキャラクターに反映された)。

 やがてトルコ軍がキプロスを占領し、戦乱の火ぶたが切って落とされた。
 こうして翌年、あのレパントの海戦となり、セルバンテスは左腕に名誉の負傷を受け、おそらくは義手の男となったのだ。が、さきほども述べておいたけれど、セルバンテスはそれが自慢なのである。そんな戦歴には褒賞も贈られた。
 25歳、青年の勢いはますます高揚していった。今度は名将ローペ・ムデ・フィゲローアの率いる歩兵部隊に所属すると、またまたトルコとの戦火の只中に突進する。ローペ将軍はレパントの海戦でまっさきにトルコ軍の旗艦に飛び込み、敵の司令官の首を刎ねた猛将だった。ドン・キホーテが真似ないわけがない。

 かくてスペイン艦隊の一員として各地を転戦したセルバンテスは、28歳になった1575年、ガレーラ船「太陽号」(エル・ソル)に乗りこみ、船団を組んでナポリから出港すると意気揚々の凱旋帰国の途についた。

 ところが運命というものは怪しいもの、この船団がフランス海岸の沖で海賊船に襲われてしまう。セルバンテスらはことごとく捕虜となり、あまつさえセルバンテスの軍鞄にはナポリ総督の推薦状が入っていたため、大物とみなされて巨額の身代金を留守家族に課せられた。

 この海賊の一団はすべて背教者たちである。
 それゆえ、捕虜たちはキリスト教徒として幽閉されるか、ガレーラ船の漕ぎ手として駆り出されるか、つまりは徹底して奴隷扱いされた。すでにアルジェの一画には、そうしたキリスト教徒が2万5千人も収容されていたという。片腕が義手だったセルバンテスは奴隷のほうにまわされた。

 こうして5年にわたる奴隷生活が強いられる。セルバンテスは果敢にも4度にわたる脱走を試みるのだけれど、ことごとく失敗する。
 ここまでが「ドン・キホーテの夢」そのものであったセルバンテスの栄光の前半生である。ここからは身代金を払わざるをえなかったこともあり、33歳以降のセルバンテス一家はかなり悲惨な日々をおくる。 そして今度は、ドン・キホーテの「負の認識」のほうが蓄積されていく。

 祖国スペインのほうは、こうしたセルバンテスの変転する境涯をよそに、さらに大帝国に向かっていた。フェリーペ2世がポルトガルを併合して、首都をリスボンに移していた。中庸になっていた男は焦った。
 セルバンテスはなんとか生活の糧を得るため、スペイン無敵艦隊の食糧を調達する徴発係にもぐりこむ。セビリヤ、コルドバ、ハエン、グラナダの各地を巡っては、小麦・大麦・オリーブを集める仕事に精を出してみた。途中、この当時の食糧徴発は教会や教会領の産物からの徴発が多いため、各地の教会とつねにいざこざがあり、セルバンテスも二度に渡って破門されるという憂き目を負った。

 そのさなかの1588年、スペイン無敵艦隊がイギリス艦隊に撃沈されたのだ。セルバンテス41歳の7月のことだった。絶頂などというものは、決して持続するものではなかったのだ。時代は大英帝国の時代になっていった。
 むろん軍隊での仕事はすっかりなくなった。もはやすべてのことを変更しなければならなかった。やむなくマドリードで俳優になったり、セビリヤで宿屋の雇われ主人などをした。そしてこの時期、ついに自分は劇作をめざす執筆で身をたてることをひそかに決意したようなのだ。ロマンセを書いたり、セビリヤの興行主と6本の戯曲を書く契約などをしたり、48歳のときになるが、サラゴサの詩作コンクールで入賞したりしている。セルバンテスは非実行者になったのだ。

 しかし非実行者になってみると、実行者の存在というものが実に恨めしい。そのような眼鏡でみると思い出された「伊東マンショ」という東洋の実行者がまことに夢のように恨めしくなった。そこで彼はいまさら実行者にはなれずとも虚構の執行者にはなれるという予感めくものを働かせるようになる。

 さて、ここから先は54歳ころに『ドン・キホーテ』前篇を執筆しつづけ、1605年の58歳のときにその前篇が出版され、さらに10年をへた68歳のときに後篇を出版し、その翌年に永眠するという後半生になるのだが、それは「セルバンテスがドン・キホーテになる」という一事にすべて集約されていることなので、あえて事跡を追うこともないだろう。ずっと苦しい生活が続いていたと思ってもらえばいい。

 かくして、今回の渉猟は、いよいよセルバンテスにとっての『ドン・キホーテ』がどういうもので、それがスペインにとっての、そして日本人のわれわれにとっての何であったのかという、その話になってくる。

 かつてドストエフスキーは『ドン・キホーテ』のことを、「これまで天才が創造した書物のなかで最も偉大で、最も憂鬱な書物だ」とも、「これまで人間が発した最高にして最後の言葉である」とも評した。

 べつだんドストエフスキーに従う必要はないけれど、この指摘はかなりイミシンである。つまり、かって放浪の苦悩のなかの街角でみた伊東マンショの堂々たる姿は、まして少年でもあり憂鬱なのである。「偉大で、憂鬱」「最高にして、最後」とは、そこに正と負にまたがる告示があるということだ。

 そこには少なくとも別々の価値をもつ物語が二つ以上あるということ。一つの世界しかあらわさなかったルネサンスを脱却したのがバロックであった。ルネサンスが円の一つの中心をめざしたのに対して、バロックは楕円の二つの焦点のように、複数の中心をもちかかえることを選んだ。
 ドストエフスキーが『ドン・キホーテ』に正と負の両方の価値を見だしたのは、そこだったろう。ドストエフスキーにとって『ドン・キホーテ』はすでにあまりにも激越な二つの対比構造を告げていたのであろうと、漱太郎は思っている。

アンドレ・マルロー W600

 アンドレ・マルローには、心が狭くなったり苦しくなったりするときに読む本が3冊あったらしい。それが『ドン・キホーテ』と『ロビンソン・クルーソー』と『白痴』だった。これもすこぶるイミシンだ。マルローは伊達や酔狂でものごとの価値を口にはしない男だ。そのマルローが伊達や酔狂の文学とも思われてきた『ドン・キホーテ』を、『白痴』と並べたのだ。そこにダニエル・デフォーも入ってくる。これについては『モル・フランダーズ』を読んでもらえばわかるだろう。

 ハインリッヒ・ハイネは生涯にわたっておそらく数度、ウィリアム・フォークナーは毎年必ず『ドン・キホーテ』を読んだという。これもやはりイミシンだ。ハイネの民族の血液と革命の旗印の問題、フォークナーの滾る憎悪と逆上を想像すれば、そのイミシンの意味が伝わってくる。

 日本人でここまで『ドン・キホーテ』に熱意(ZEST)をこめた作家はいないようだけれど、かように『ドン・キホーテ』は世界中の大物たちをゆさぶってきた。

 それくらい、『ドン・キホーテ』は巨怪なのである。しかし、過不足ないところをいえば、ミラン・クンデラの見方が最も妥当なのではないかと思われる。今回は、そのことにも注目してみたい。クンデラは『小説の精神』の「不評を買ったセルバンテスの遺産」というエッセイで、次のようなことを書いている。それを簡素に要約しておく。
 《 フッサールとハイデガーによって、世界に何かが欠如したままになっていることがあきらかになった。それは「存在の忘却」という問題である。これは「認識の熱情」の現代的高揚とともに、それとは裏腹に喪失しつつあるものだった。「認識の情熱」なら、デカルトこのかたいくたびも視点と方途を変えて盛り上げてきた。けれども「存在の忘却」はデカルト的なるものではまったく掬えるものとはなってこなかった。

 これを掬ったのは、おそらくセルバンテスの『ドン・キホーテ』なのである。世界を両義的にものとして捉え、絶対的な一つの真理のかわりに、互いにあい矛盾するかもしれない二つ以上の相対的な真理を掲げ、そこに刃向かうすべての主義主張と幻影に対決していくということを教えたのは、唯一、セルバンテスの『ドン・キホーテ』だったのである 
》と。

 こうしてクンデラは、「私が固執したいことはただひとつ、セルバンテスの不評を買った遺産以外のなにものでもない」と結んだ。『小説の技法』の草稿には、さらにこんな一節がある。

 《 かつて宇宙とその価値の秩序を支配し、善と悪を区別し、個々のものとに意味を付与していた神がその席を立ち、ゆっくりと姿を消していったとき、馬にまたがったドン・キホーテが、もはやはっきりと認識かることができない世界に向かって乗り出した。「至高の審判官」がいなくなったいま、世界はその恐るべき曖昧性(多義性)をあらわにしたのである。こうして、唯一の神の「真理」が解体され、人間によって分担される無数の相対的真理が近代に向かって散らかされたのである。そしてそれとともに、その世界のイメージであってモデルであるような小説が生まれたのである。だが驚異は引き続き小説のモデルに根源を含ませていた。そのモデルが日本の少年とするのだから神の真理は再び解体される。実際にみたそのモデルによって、また分担される無数の相対的真理が近代に向かって散らかされたのである。 》と。
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 上の文字で押さえた「そのモデルが日本の少年とするのだから」とする事項をクンデラが何処からこれを引き出したのか、今回の重要な事項となる。その鍵をマドリードで発掘し追跡することになるのだが、少々複雑となる。先ずクンデラという人物の周辺を執り上げる必要もあり、これは次回File6の主要テーマとして紹介することになる。
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ミラン・クンデラ 2 W600

 クンデラが『ドン・キホーテ』を、一つの真理をめざしたルネサンスを脱したバロック的な意味におる小説の誕生とみなしていることはあきらかだ。
 その小説の精神とは「複合性」である。クンデラは、その方法にしか「存在の忘却」を描く方法はないのではないかということを、デカルトに対するライプニッツの、またルネサンスに対するヴィーコのバロック精神として継承したいと書いたのだ。

 さて、以上のことを前提として『ドン・キホーテ』を見ると、この物語に650人の人物が登場し(これはトルストイの『戦争と平和』の550人を上回る)、35件にのぼる前後の脈絡をこえたエピソードが乱舞しているなか、ドン・キホーテとサンチョ・パンザが入れ替わり立ち代わりして「説明」をしつづけているこの前代未聞の物語が、実は時代錯誤の主人公の物語ではなく、ましてセルバンテスの悲嘆から来た妄想の物語でもなく、むろんたんなる騎士道精神の謳歌のパロディでもないことが、忽然としてあきらかになってくる。

 よくよく物語の発端とその後の展開を見てみれば、書物が書物を書き替えつづけている「リブロ・エスコルソの書物がもつ遠近法世界」の最初の方法の提示からくるものだったということに気がつくはずなのだ。 では、もう少し手短かに漱太郎の立体言語学で種明しをしてしまうことにする。
 実は『ドン・キホーテ』の主人公はドン・キホーテではない。ラマンチャの片田舎に住む50がらみのアロンソ・キハーノという郷士が主人公なのである。

アロンソ・キハーノ W600


 そのキハーノが昔の騎士道物語をふんだん読みすぎた。
 読みすぎてどうなったかというと、それらの書物に書いてあることのすべてが真実や真理であって(つまり一つの真理で!)、それはすべてキハーノが生きている現在のスペイン(つまり16世紀末から17世紀にかけてのスペインの社会)にことごとく蘇るべきものであると確信してしまうのだ。これはキハーノの妄想である。狂気である。

 けれどもこれが妄想であって狂気であることを示すために、セルバンテスはキハーノをキハーノに終わらせないようにした。そこで、郷士キハーノは鎧兜に身をかため、遍歴の騎士ドン・キホーテと名のり、隣村の農民サンチョ・パンザを従士にして、痩馬ロシナンテにまたがって旅をすることにさせた。

 このキハーノがキホーテになるところが、セルバンテスのインテリジェレなのだ。ここにバロックの「ずれ」を誕生させた。

 このことは、前篇の表題が『機知に富んだ郷土ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』で、後篇が『機知に富んだ騎士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』になっているところにも如実にあらわれている。
 「郷士」が「騎士」に変わっていったのだ。
 ということは、ドン・キホーテとは、キハーノの頭のなかにつめこまれた「物語の言葉」をもって、それを現実のスペイン社会にぶつけていく作中の語り部としての第二の(リアル・バーチャルな)主人公なのである。ここにすでに物語の相対的二重性が用意されていたわけなのだ。

 それならば、『ドン・キホーテ』はプラトン以来の対話篇だったのである。しかも書物の中の言葉だけによって、新たな書物を綴っていくための対話篇なのだ。『ドン・キホーテ』は対話の小説なのだ。キハーノがソクラテスならば、ドン・キホーテがプラトンなのである。

 とはいえセルバンテスは、17世紀のスパニッシュ・プラトンをつくりたかったのではなかった。そこに「スペインという世界そのもの」を現出させ(フォークナーの「ヨクナパトーファ」やマルケス「マコンド」のように)、そこから世界は両義的にしか語たれないことを、その価値はつねに多義的にならざるをえないことを、それは書物が書物を辿るように間テクスト的に編集されていかざるをえないことを、そうしないかぎりは「世界読書」の奥義(複合的な真理)などはあらわれてこないことを、満身創痍で示したのである。

 いまや漱太郎は、この『ドン・キホーテ』はジェネラル・アナロジーの物語だろうと思っている。ラブレーやボッカチオの伝統を踏まえて、ハイパー・ポリフォニーの原理を発見した巧妙な空間からなるテクストだと感じている。
 念のために述べれば、『ドン・キホーテ』はジェネラル・アイロニーの物語ではない。
 それなら戯作として読めばいい。そうではなく、『ドン・キホーテ』にはアナロジーとアブダクションのすべての可能性がつまっている。ミハイル・バフチンが指摘したようなポリフォニーの文学ではなかったのだ。ハイパーポリフォニーなのだ。その多声性は、キハーノとキホーテの両方が一対になって絡みついている。
 簡略だが、これが種明かしだ。およそのところは当たっているだろう。ところが、それでもなお立体言語学的には、実はこの物語がまだまだぴったりこないという憾みが残っている。それは、この物語がまさに「スペインそのもの」であるということにある。

 日本人はスペインが苦手なのではないか。
 日本の中世史にはそんな疑問が残る。平面でながめると、たしかにスペインという国はおもしろい。ダリもガウディも、ガルシア・ロルカもオルテガもとびきりだ。ヴィクトル・エリセの映画は他の国ではつくれまい。カタルーニャやバスクのナショナリズムを覗くのは、ときにどんな民族や部族の今日のありかたよりも深い過激というものを感じることがある。しかしわれわれは、いや日本人は、そうしたおもしろみを語るにあたって、すでにあまりにもスペインを一知半解したままに見すぎてしまったのだ。

 そもそも1492年を「いよ国みつけたコロンブス」と覚えたところで間違えた。
 この年にイスラム教徒からの国土回復戦争が終わったことや、この年にユダヤ人追放令が行使されたことが見えていなければならなかったのである。また、ここからマラーノとしてのスピノザの宿命が始まっていく。
 これは、オクタビオ・パスを読んでメキシコを感じるように、オルテガの『ドン・キホーテをめぐる思索』を読んでスペインを感じるように、そこに感じるものが深ければ深いほど、日本人に「スペインという物語の起源」をわからなくさせていくものなのだ。その起源に『ドン・キホーテ』があるというのだから、これはやっぱりお手上げとなろう。

 ポルトガル語の“barroco”は「歪んだ真珠」のことである。スペイン語の“berrueco”は岩のごつごつした手触りだ。このバロックのもつコノテーションは、これからも世の人間をさまざまところへ誘うだろうが、まだ郷土であって、仮想の騎士であったドン・キホーテの手触りには届いていないのだ。それを綴るには、今度は漱太郎のバロック論を先に開陳しなければなりますまい。が、それはまた別の機会の遊蕩としてみたい。

ドン・キホーテ2

 スペインのマドリードを思い起こしてみると、その道を通過した伊東マンショを眺めみたセルバンテスの印象の中からドン・キホーテの種が生まれ、その妬みのそれがバロックの萌芽と絡み合いながら多重虚構の深層的なスペインの密林世界を構成した。
 裏返せば、それはセルバンテスがそれを成し得るだけの素材が、伊東マンショが往来した当時の道の辺にはあったことになる。それはまた、伊東マンショらが日本人として初めてスペインのバロックを実際に瞳で捉えたということに等しい。これはやはり憂いえる真実である。

                                          
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                      シリーズ連載・次回No.fileに続く
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 世界は大航海時代。日本は戦国「下克上」の世。同時期にキリスト教が伝来する。織田信長の比叡山焼き討ちのころに、また室町幕府が終焉しようとするころに、日向国一円に勢力する豪族の伊東家に数奇な運命を宿す一人の男児が誕生した。
 この男児が後に天正遣欧少年使節の正使となる伊東マンショ。
 だがこの人物についての実像を記す資料は今日に乏しい。その背景には当時の混乱と錯覚とが不遇にも交錯する日本史の実情がある。つまり記録として残せない深い闇の淵に置き去られた。
 No.2631ファイル・データはこの歴史人の正体に迫る研究をシリーズ構成でつづる資料コラム。中世の街道を往来した人物との交流を織り重ねながらマンショの足跡の真相を編集する。・・・・伊東満所

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     辻斬りZ W50H50 gif  ① 南蛮の道「司馬遼太郎の視点する中世」
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         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

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南蛮の道街道をゆく 2 H72

     伊東マンショの生涯を透視するにあたり、特異な視点から中世を見る「街道を行く」シリーズの1冊に注目したい。この司馬遼太郎の小説は、地の文章に解説や余談が多くて随筆みたいな風貌だが、内容は多少の演出があってフィクティシャスに感じるスタイルである。ともかく司馬遼太郎とは不思議な小説家だ。

 どう不思議かといえば一つには、幕末の越後長岡藩家老・河井継之助のような本来はマイナーな人物が、一般の人々の間に人気が高いのは、あきらかに司馬の小説の影響であり、他にも、江戸時代の商人・高田屋嘉兵衛や、幕末の軍政家・大村益次郎、幕末明治の政治家・江藤新平、新撰組の創設者・清河八郎等々も、司馬小説以外ではあまり描かれない人物にもかかわらず、司馬小説の影響で知名度の高い人物となったことだ。人々は「歴史的人物としての彼ら」ではなく「司馬作品の登場人物としての彼ら」を愛しているともいえる。

 仮にそんな司馬が伊東マンショを主人公にしようとする場合、どう切り撮ろうとするのかの鍵が「街道を行く」に潜むように思えてくる。今回は、この司馬史観でマンショの事情に触れてみる。

司馬遼太郎 2 W150H295司馬遼太郎をスケッチする gif W450

 今年で17年目の「菜の花忌」が過ぎた。
 司馬遼太郎は1996年(平成8年)2月12日に他界する。
 最後の面影はその1月、「街道をゆく 濃尾参州記」の取材を終え日の夕刻の表情だ。そして「あと半年で、73の老人になるよ」と少しの言葉を交わして、ふッと笑われた。だがその連載中の2月10日深夜に吐血して倒れ、国立大阪病院(現:国立病院機構大阪医療センター)に入院、最期は腹部大動脈瘤破裂のため12日の午後8時50分という。翌朝に訃報を伝えられたが、72歳だった。
 濃尾参州記の旅宿で「今年の秋にはもう一度スペイン北部を訪ねたい」と語られた。これは楽しそうな旅になる、そう予定した矢先の訃報なのである。脳裏に遺された「半年後の73」が名残言葉となっている。

 司馬遼太郎、筆名の由来は「司馬遷に遼(はるか)に及ばざる日本の者(故に太郎)」から来ている。
 こう名付けたが、戦国(中世)・幕末・明治を扱った作品が多く、『街道をゆく』をはじめとする多数のエッセイなどでも活発な文明批評を行った。その司馬の作品、司馬の価値観はさまざまに語られてきた。

 司馬は、物語とは直接関係ないエピソードや司馬自身の経験談(登場人物の子孫とのやりとりや訪れた土地の素描)などを適度に物語内にちりばめていく随筆のような手法も司馬小説の特徴の一つであり、そこに魅了されている読者も多い。と、みると、歴史小説家としてはスコット(スコットランドの詩人、作家。「ランメルモールのルチア」)以来の人物中心主義の流れを汲んでおり、直接には司馬遷における『史記』列伝の形式を範にした作家と評することができる。

 特に後年は、小説から遠ざかり随想や批評を主としたが、抽象的な思索や哲学性よりも具体的な歴史評論や文明批評を主にし、合理的思考を掲げて考証を行ったところに特徴がある。じつは今回、司馬を執り上げるのは、このことに重きがある。「南蛮の道」を語る司馬の中には「小説家」と「歴史評論家」の二人の司馬が合作して取材するからだ。
 第二次世界大戦における日本のありかたに対する不信から小説の筆をとりはじめた、という述懐からもわかるように、司馬の考え方は狂信的なもの、非論理的なもの、非合理なもの、神秘主義、いたずらに形而上学的なもの、前近代的な発想、神がかり主義、左右双方の極端な思想、理論にあわせて現実を解釈して切り取ろうとするなどの帝国陸軍的な発想の対極に位置するものであり、司馬はこれらを否定的に書くか、エッセイなどで否定している。司馬は近代合理主義がこれらに対局するものと考え、その体現者こそが司馬の愛する人物像であった。

 司馬の歴史観を考える上で無視できない問題は、合理主義への信頼である。だから実証性の高い歴史小説という分野での司馬の評価の高さにつながってくる。

司馬遼太郎 1 W600

 この黒縁の眼鏡から司馬遼太郎は南蛮をみた。

 日本人にとって、ながらく日本・唐・天竺の三つしかなかった文明世界に、突然飛び込んできたのが「南蛮」文明だった。しかも、面白いことに、その伝道の中心人物フランシスコ・ザビエルは、フランスでもスペインでもなく、バスクの人だった。司馬遼太郎は、そこで、この旅路の前半は、バスクという国をめざしてパリからフランス南西部を横切って進む。そのバスク文化を理解するための第一の資料として、司馬遼太郎があげるのは、近代日本に宣教師としてやってきた、バスク出身のS・カンドウ神父の著作だ。

 「バスクは風と水と光の国だと形容される」とカンドウ神父は書く。そして、起源未詳のピレネー山脈先住民であるバスク民族の世界を、いとも魅力的に描き出す。騎士道精神と熱烈な信仰に支えられたザビエルは、その光輪の中に定置される。

 バスク人は、見かけはフランス人やスペイン人とさほどちがわない。バスク名物のベレー帽も、フランス人の象徴のように思われている。彼らのアイデンティティを支えるものは、その気質と、バスク語だけである。スペイン語とは、バスク語の音韻の上に乗ったラテン語なのだが、そのスペイン王国からも、国民国家論を信奉するフランス共和国からも、存在を無視され迫害された歴史がある。

 しかし、この司馬遼太郎の旅行記は、そうした剣呑な雰囲気をうまく筆先でさばいて取り払い、ひたすら純朴で美しい「常世の国」バスクを描き出している。これを読んで、バスクに行きたくならない人は少ないだろうと思う。それだけ、これは司馬遼太郎が楽しんで書いた渾身の旅行記といえる。




 Oi ama Euskal Herri. 「ああ、バスクの母よ」 バスク地方の歌謡。
 Benito Lertxundi dituen abesti arrakastatsuen artean, abesti hau lore ederra da.訳は「この歌はベニーLertxundiの曲の中では美しい花のある歌だ」となる。ベニートLertxundiは バスクに生まれたシンガー•ソングライターで、バスク音楽に特別なコミットメントを示し、バスクの文化や伝統を響かせる。これを司馬遼太郎は好んだ。

 住民は歴史的にはいわゆるバスク人であり、スペイン内の他地域とは、文化的には差異が大きい。スペイン国内では経済先進地域であり、他地方からの移民も多く、そのため州公用語のバスク語は少数言語状態にあり、公営テレビの「ETB」はそのチャンネルでスペイン語放送もせざるを得ないのが現状である(カタルーニャ州やガリシア州では公営テレビでは固有語による放送しか行っていない)。

 司馬はこの「バスク語」に注目する。
 この司馬の注目が分からないことには、何故、司馬が南蛮の道を行くのにフランス・パリから南下してスペインとの国境を超えるルートを選定したのかが理解できない。ともかくも司馬遼太郎にとって「国境」の越え方が問題であった。この国境を南のマドリードあたりから北上して近づくと、それは司馬にとって無意味なのである。だがパリからの南下が正解ということではない。司馬は直接バスク地方に真上から飛び降りたかったであろう。街道を行くというテーマ上、司馬はスペインよりフランスに先ず足を踏みおくことを選択した。司馬の視線はあくまでも「南蛮の道」に固執して行く道を定義しようとした。
 それはバスク語(euskara)が孤立した言語で、現在でもバスク人によってしか話されない言葉だからだ。
 司馬はこの「孤立した言語」を先ず旅中に楽しもうとした。

 その「バスク」の名は、英語あるいはフランス語の「basque」の音訳であり、もともとはローマ帝国期に現在のスペインナバラ州やアラゴン州にいたヴァスコン人(Vascones)の名に由来する。ヴァスコン人とバスク語話者は完全には一致していなかったと考えられているが、中世にはVasconesという名称はバスク語を話す人々を指すために使われるようになった。スペイン語における伝統的な呼称「vascuence」も「ヴァスコン人の」を意味するラテン語の vasconice に由来する。

 文章は一般にラテン文字で表記される。音韻論的な特徴としては舌端音と舌尖音の区別があり、文法的な特徴としては能格と絶対格を使用する格の体系であることが挙げられる。語彙にはラテン語・スペイン語起源のものが多く見られる。なおスペインではフランシスコ・フランコ将軍の時代、使用禁止になっていた。こうした背景を踏まえてか、司馬はバスク地方を訪ねる前に、簡単な単語を引き出し何度も繰り返してバスク語のイントネーションを耳奥に焼き付けていた。言語の響きからバスクの風土を押えようとする。そしてパリから南下する折りにヘッドホンをあてたまま「これでは、まるで幼児教材に聞き入る園児レベルだね」と微笑みかけた。

 バスク語は、他の欧米言語との共通点の少なさゆえに印欧系言語話者には習得が難しいとされる。
 司馬遼太郎は、紀行文集『街道をゆく』の中で「ローマの神学生のあいだで創られたバスク語学習にちなむ(神話)」として、神からどんな罰を与えられても全くひるまなかった悪魔でさえ、3年間岩牢にこもってバスク語を勉強する罰を課されると神に許しを乞うた、という話を紹介している。

 これは司馬がフランスのバイヨンヌにあるバスク民族博物館で「かつて悪魔サタンは日本にいた。それがバスクの土地にやってきたのである」と挿絵入りでバスク語の歴史を描いた装飾品を見たからである。またそう書かれて飾られているのは、彼らバスク人が、同じく印欧系言語話者からみて習得の難しい日本語と重ね合わせているからだ。「悪魔、そう感じさせる日本人が今からこの地方を訪ねるのは、なかなか楽しいではないか」と司馬は語りかける。

 だから先ず旅の始めにバイヨンヌの話となるが、この都市を語るにはラブール地方という広域を押さえて歴史性を考える必要にかられる。どう必要で、司馬がどう重要視したかは、追ってご理解いただけるであろう。

 そこで旅の冒頭ながら司馬さんを見習い「少し余談だが」と、ラブール地方に向かう前の起点とするにふさわしいと思える古城の街「トゥール」へ道草する。

バスク地方へ地図 W600

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 パリからTGVに乗って1時間ちょっとのところに、トゥールという街がある。
 ルイ11世紀時代はフランスの首都もおかれていた由緒あるこの街には、当時の面影が残る旧市街をはじめ、いくつかの歴史的建造物が残っている。街自体は小さく、ほとんどの見所へは徒歩で行ける。

 このトゥール(Tours)は、フランスの中部に位置する都市で、アンドル=エ=ロワール県の県庁所在地である。そして古代ローマ時代、トゥールはトゥロネンシス(Turonensis)として知られていた。3世紀の半ばには聖ガティアヌスがローマからトゥールに派遣されている。また、4世紀の後半には、後に聖人となったトゥールのマルティヌスがこのトゥールの司教であった。さらに第二次世界大戦で、パリ陥落を前に、フランス政府はトゥールに移転したが、間もなくボルドーへ退避した。

 ここに「トゥールの道」がある。古代からある巡礼の道だ。
 フランスからは、巡礼の中心地であった都市を拠点として4つの道がピレネー山脈に向かっている。その一つがトゥールの道で「パリ - オルレアン - トゥール - ポワティエ - サント - ボルドー - オスタバ=アスム」の順路となる。つまりキリスト教の聖地であるスペイン、ガリシア州のサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路。おもにフランス各地からピレネー山脈を経由しスペイン北部を通る道を指す。トゥールはこの巡礼道の重要な通過起点地とされた。


Tours en Touraine

 1000年以上の歴史を持つ聖地への道は、今も年間およそ10万人がフランスからピレネー山脈を越えてゆく。スペインに入ると、巡礼の拠点の街がまた見えてくる。そこには巡礼事務所があり、名前を登録し、巡礼者の証明となる手帳を受け取る。巡礼者の数が増えると共に、道沿いには無料の宿泊所が整備されてきた。11世紀の礼拝堂を修復した宿泊所などもあり、こちらの宿では中世さながらの「洗足の儀式」が行われる。巡礼者の足を水で清め、旅の無事を祈る。食事も用意される。これらは巡礼を支える人々の無償の奉仕で成り立っている。徒歩によるスペイン横断は、イベリア半島内でもおよそ800kmの道程である。長い巡礼を続けることは、人々にとって信仰と向き合う貴重な時間となる。
 司馬はこのトゥールという街で、気の遠くなる巡礼の時間を思いながら一夜を過ごした。


Tours France

 トゥール駅はオルセー駅(今はオルセー美術館)の建設に携わることになる建築家ヴィクトール・ラルーの設計で建てられた。なので、どことなくオルセー美術館のデザインに似ている。駅構内の壁もとてもフランスっぽくて本当に美術館のようだ!。そんなトゥール駅を出て10分ほど歩くとトゥール美術館が見えてくる。

 館内にはイタリアの画家をはじめルーベンス・ドラクロワ他近代美術・陶器作品など数多くのコレクションに出会える。美術館を出るとすぐ横には、3世紀から13世紀に渡って建築され続けたゴシック様式の代表ともいえるサン・ガシアン大聖堂があり、大聖堂前の広場から見上げても観きれないほど大きさは圧巻。この大聖堂内部の様々な美しいステンドグラスは必見で、一つ一つを丁寧に見ていくと数時間はかかってしまいそうなほど!全てに物語があり、それぞれの解説パネルがフランス語で展示されている。

 大聖堂を出て歩いてしばらくするとトウール城が見えてきた。
 しかし現在「城」とは名ばかりで、場内では、芸術家達の特別展示に使われている。そのため「フランスのお城」といった豪華な面影はあまり残っていない。特別展示は有料だが、常設展示は無料なので花の咲く季節は敷地内に咲く花々を眺めながら見学するのもオススメ。
 そして駅から30分ほど歩いたところに旧市街がある。

 そこに残る15世紀頃の町並みは、まるでおとぎ話の世界のようだ。どうやら暖かい季節になると、この旧市街の中心にあるプリュムロ広場ではカフェがテラス席を出し、常に満席なほど賑わっているらしい。そんな話を司馬さんから聞いた。なるほど中華やイタリアン、地元のレストランなどが軒を連ね、日曜日でも営業している店もあり休憩としてのカフェ探しや食事でのレストラン探しはここでするのがオススメ。ドリンクはだいたいどこも2ユーロから、ランチは10ユーロから。バーは夜中まで営業している店がほとんどである。

 じつは一度、慣れない左ハンドルマニュアル車を運転しながら、パリから古城で有名なこのトゥールの街まで来た。司馬さんが宿泊した、そこはシャトーホテルっていう、フランスの古城を改装したホテルだ。フランスの郊外には、こういったシャトーホテルが数多くある。
 中はもちろん城、☆はついてなくとも、5つ星ランクのホテルだと思える。司馬が取材で利用したホテルだが、値段はそう高くもない。一部屋15000円くらいだ。パリの中心部の狭いホテルと同じくらいなので、個人的には断然こっちのがいい!。庭はとても広い。庭師みたいなひとが何人かいたが、他の宿泊者はほとんど見かけなかった。トゥールの街近辺、ロワール地方の古城は世界遺産に登録されている。一応このホテルも古城なわけで、世界遺産の一つなのかと思える仮想気分の宿泊が楽しめた。

 古城に宿泊した司馬遼太郎の眼差しは、ここより南下して始まろうとする。司馬は古城に宿泊して巡礼道を見定めた。南の国境を彼方に少々ワインで脳ミソを浸しておいたと後に語っている。当然、そんな楽屋裏の出来事は書籍では語られることはない。したがってこれは「南蛮の道・外伝」を含む司馬史観ともなる。


Best of Tour de France

Tracé du Tour de France 2013

 ツール・ド・フランスまたは(ル・)トゥール・ド・フランス(仏: Le Tour de France)とは毎年7月にフランスおよび周辺国を舞台にして行われる自転車プロロードレースである。
 1903年から開催されているが、主催は傘下にスポーツ新聞レキップや一般紙ル・パリジャンなどを抱えるフランスの大企業・アモリ・スポル・オルガニザシオン (ASO, Amaury Sport Organisation)。この名称はフランス語で「フランス一周」を意味する。毎年7月に23日間の日程で行われるステージレースで距離にして3300km前後、高低差2000m以上という起伏に富んだコースを走り抜く。山岳コースはそれぞれ3日ほど繰り広げられ、それぞれピレネー山脈とアルプス山脈を使うことが多いため、これをピレネーラウンド、アルプスラウンドと呼ばれる。この区間の平坦基調ステージは、主にこの二つの山脈の間を移動するために設定されているが、この緩急をつけたレイアウトと平坦ステージの多さ、ポイント賞のシステム(後述)などもあり、スプリンターが一番ポイント賞を獲得しやすいグランツールとなっている。そうしてこの区間で最もバスク地方に接近する。


司馬遼太郎の書斎

Dr Donut W100H100 gif南蛮の道・その外伝 W500H100

 ラブール(フランス語:Labourd)またはラプルディ(バスク語:Lapurdi)は、フランス領バスクの地方。ピレネー=アトランティック県のバイヨンヌ小郡に相当する。

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 ラブールは穏やかな海洋性気候である。地形は丘陵で、東と南に向かって標高が高くなっていく。山はそれほど高くない。ラブール最高峰のラ・ルヌ山は標高905mである。アドゥール川、ニーヴ川、ニヴェル川、ビダソア川が流れる。アドゥール川下流域は平坦である。
 バイヨンヌとブコーを含めて面積は858平方kmであり、バスク国全体の約4%である。およそ20万5千人の人口があり、フランス領バスクの3地方中で最も多い。このラブールに(バイヨンヌとブコー)の二都市を含めない場合、人口は15万2千人ほどである。

ラブール地方 地図 W600

 北をアドゥール川と接するラブールは、地理的にも歴史的にも海とつながりが深い。大規模な第四紀の堆積物の蓄積で海から得た土地であり、この地にはヴァスコン人が定住した。
 ローマ帝国の表面的な占領時代の後、彼らは半独立公国ヴァスコニア公国を建国し、ウード公はトゥール・ポワティエ間の戦いでサラセン人と戦っていた。
 海はこの地方の歴史的進化で大きな役割を果たしてきた。
 バイヨンヌはラブールの首都の機能が与えられている。12世紀まで、バイヨンヌが州単位の行政から切り離されていたのは事実である。ラブールの歴史的な中心はユスタリッツになった。

 1152年のアリエノール・ダキテーヌとイングランド王ヘンリー2世の結婚後、ラブールの土地はイングランド王のものとなり、複数の陰謀の舞台となった。主役の1人は、バイヨンヌの貿易と経済を発展させたことで有名なリチャード獅子心王である。
 こうしてイングランドの影響は1450年まで続いた。エィエール城で平和条約に調印した後、ラブールはフランス王国に返還される。そして1609年には国務院顧問ジャン・デスパニェとピエール・ダンクルが魔女裁判を導くことになる。
 こうしたラブールは、フランス国内であるため、公用語はフランス語である。古くから住民が話すバスク語の他、対スペイン国境の街アンダイエなどではスペイン語を話す。アングレットやバイヨンヌではガスコーニュ語を話す住民もいる。
 そして、この地方のバスク語の方言は、ラプルディ方言である。

 バスク語(euskara)は、スペインとフランスにまたがるバスク地方を中心に分布する孤立した言語で、おもにバスク人によって話されている。スペインのバスク自治州全域とナバラ州の一部ではスペイン語とともに公用語とされている。現在、約66万5800人の話者がバスク地方に居住し、すべてスペイン語またはフランス語とのバイリンガルである。
 バスク語の方言は音韻・形態・語彙の地域的な変異が比較的大きく「村ごとに異なる」ともいわれる。伝統的には六つから九つに分類されている。
 主なものは、ビスカヤ方言、ギプスコア方言、高ナファロア方言(北・南)、低ナファロア方言(東・西)、ラプルディ方言、スベロア方言(スベロア方言・エロンカリ方言)が確認される。ラブールのそれがラプルディ方言となる。
 しかしバスク国民党の毎月のスローガンにおいては、「今おそらく最も北バスクでバスク人であることの思い入れがないのは、ラブール住民である」と述べる。つまりこれには長い期間におけるバスク人の生活意識の転換があり変遷がある。まことにこの地方の歴史は複雑なのだ。



Baiona gif  街道をゆく 2 H72

Baiona, Pontevedra


Casco Histórico de Baiona


 バイヨンヌはビスケー湾からアドゥール川をさかのぼった、ニーヴ川との合流点に位置する。ピレネー=アトランティック県ではポーに次ぐ規模で、バイヨンヌ・エ、バイヨンヌ・ウェスト、バイヨンヌ・シュドの3つのカントンの小郡庁所在地でもある。バスク地方においてはピレネー山脈以北の北バスクの1地域、ラブールの主要都市だ。市街中心部はアドゥール川とニーヴ川によって3つの区域(大バイヨンヌ・小バイヨンヌ・サンテスプリ)に分けられ、それぞれの区域は橋で結ばれている。

 大バイヨンヌ(グランド・バイヨンヌ)には、アドゥール川左岸、市庁舎やサント=マリー大聖堂があり、市の中心部で、シャトー・ヴュや市の観光案内所がある。
 小バイヨンヌ(プチ・バイヨンヌ)には、アドゥール川とニーヴ川にはさまれた商業地域。バスク博物館、ボナ美術館、シャトー・ヌフなどがある。
 サンテスプリ(アドゥール川右岸)には、シタデルの南東にサンテスプリ(聖霊)教会やフランス国鉄のバイヨンヌ駅がある。

 現代のバイヨンヌは近郊の都市であるビアリッツ、アングレットとともにコミューン(自治体)連合を形成している。1972年からの交通インフラ整備を皮切りに、1999年からはバイヨンヌ=アングレット=ビアリッツ都市圏共同体(略称はB.A.B)として地域経済の活性化や環境保護、高等教育の分野で地域協力を行なっている。また、バイヨンヌからスペインのサン・セバスティアンまではユーロリージョンとして、国境を超えた自治体同士の連携がはかられている。



 歴史については、紀元前3世紀、ローマ人によって駐屯地(カストルム)が置かれ、ラプルドゥム(Lapurdum)と呼ばれた。この名は北バスク国の1地方名ラプルディ(ラブール)に今日も残っている。
 続いてヴァスコン人(バスク人の祖先)がこの地を支配、彼らによってバイヨンヌと名付けられた。バイヨンヌという地名はバスク語で「川」を意味する語に由来する。

 840年になると、現在のデンマークからヴァイキングがバイヨンヌに到達、その後も、9世紀から10世紀にかけてバイヨンヌはヴァイキングの侵攻を継続的に受けることになる。

 アキテーヌ公領に吸収されていた1152年、女性領主であるアリエノール・ダキテーヌがのちのイングランド王ヘンリー2世と再婚したことにより、バイヨンヌは12世紀から15世紀にかけてイングランドの支配下に置かれた。この結果、スペイン国境に近い軍事的要衝でもあったことから、百年戦争以降、英仏間でバイヨンヌをめぐる争いが繰り返されることになる。そのため、武器生産もさかんとなり、銃剣はその地名にちなんで「バヨネット」と呼ばれた。

 アドゥール川やバイヨンヌ港の整備が進むと、バイヨンヌ経済はタラ漁や捕鯨といった漁業およびその加工業で潤った。16世紀後半にはイベリア半島からユダヤ人たちがサンテスプリに移り住み、彼らがもたらした技術と知識によってバイヨンヌでチョコレートの生産が始まった。20世紀にフランコの独裁政権から庇護を求めてやって来たスペイン・バスクの人々は小バイヨンヌをその拠点とした。

 日本でいうと幕末のころ、1854年にパリと鉄道で結ばれる。こうしてビアリッツで休暇を過ごす人々の観光拠点となった。その後、経済は一時低迷したが、20世紀に近郊のラックに油田が発見され、石油関連産品や周辺地域の農作物などの輸送の要として活況を取り戻しつつある。バイヨンヌ港はラック油田産出のイオウや原油、ランド県やピレネー=アトランティック県産のトウモロコシや肥料、木材などの積み出し港である。年間の貨物取扱量は約400万トンで、フランス国内で第9位の規模である。

バイヨンヌのチョコ W600

 グランバイヨンヌのポンヌフ通り(Rue Pont Neuf)を歩くと両側にはチョコレート屋さんが並んでいる。サンジャンドリュズのパリエス「Paries」はバイヨンヌにもある。パリエスは司馬さんお気に入りの一品であった。
 カカオが新大陸からスペインに持ち込まれ、バスク地方に持ち込まれた。言ってみればフランスの中で最初にチョコレートがもたらされた地域だ。そのせいか、本当にバイヨンヌにはチョコレート屋さんが多い。そして老舗「Daranatz」のショーウインドウが美しい。
 フランス中にある(上写真)のアトリエ・デュ・ショコラ(L'Atelier du Chocolat)はバイヨンヌに工場を持つ。またポンヌフ通りを歩くだけで、たくさんのショコラティエ、パティスリー。その数多いショーウインドを見ているだけでも、チョコの香りがしてきそうだ。





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バスク地方地図 W300H418司馬遼太郎 街道をゆく gif W300

 『南蛮のみちI』は、司馬遼太郎の紀行文集『街道をゆく』の第22巻。
 本書は1984年3月に朝日新聞社より刊行され、1988年10月に朝日文庫化された。フランシスコ・ザビエルの故郷バスクを中心に司馬が旅をする。バスクがフランスとスペインの境にある事に司馬が深く関心を持ったエピソードがある。しかし、今回は刊行された年度以降、司馬から聞きおよぶ書籍には載らない司馬の口述も織り交ぜてみたい。

 スペイン側にバスク自治州があるが、歴史的な「バスク国」(広義の「バスク地方」)には、スペインのナバーラ州の一部およびフランスのピレネー=アトランティック県の一部(フランス領バスク)が含まれる。
 統一された「バスク国」の概念は近代バスク民族運動の中で展開され、現在も「バスク国」全体の独立を目指す運動がある。四方を海に囲まれて侵し難い日本国の人間には、この領土の成立は複雑すぎる。

 バスク(広義)は伝統的に7つの地域からなっており、Zazpiak Bat(サスピアク・バット、7つが集まって1つとなる)は、バスク人のスローガンである。
 Hegoalde(南部)と呼ばれる4つの地域(Laurak Bat)はスペイン内にあり、Iparralde(北部)と呼ばれる3つの地域はフランス内にある。およそ2万平方キロメートルの広さとなる。
 そして南バスク(スペインバスク)4地域は、いずれもスペインの県に位置づけられている。このうち西部の3地域「アラバ(Arabako Probintzia)、ビスカイア(Bizkaiko Probintzia)、ギプスコア(Gipuzkoako Probintzia)の3県」は、1979年以来バスク自治州(Euskadi)を構成する。「バスク3県」とも呼ばれる、バスク(広義)の中核的な地域である。

バスク 4 W600

 そして東部の1地域は、1県(ナファロア県Nafarroa)で1982年よりナバラ州Navarraを構成している。面積はバスク州3県を合わせたより大きい。このナバラ州の正式名称を「Comunidad Foral de Navarra」とするが、そのforal(名詞形fuero)は、封建時代に遡る用語で、特定の階級や地域に認められた法律のことである。
 かつてナバラ王国がピレネー山脈を挟んでこの一帯を統治していた。ナバラ王国はもともとパンプローナ王国と呼ばれ、824年頃にイニゴ・アリスタがフランク王国に反乱を起こして建国する。1512年、アラゴン王フェルナンド2世によって山脈から南側はスペインに統合された。
 またフランス側に分かれた地方はバス=ナヴァールと呼ばれ、現在はフランスのピレネー=アトランティック県の一部であるフランス領バスクになっている。ナバラ王エンリケ3世が1589年にフランス王アンリ4世として即位した後、歴代のフランス王はナバラ王を兼ね、フランス側のナバラは1791年まで別の王国として存続した。


                                            Euskadi Basque Country by Sotarou

バスク縦断の地図 W600

 ピレネー山脈をはさみ、スペインとフランスの両側ににまたがるバスク地方。そこに住む人々はバスク人と呼ばれ、ヨーロッパの他の地域とは異なる言語を持ち、独特の文化を育んできた。近年では美食とアートの都としても注目を浴びている地域である。先ずそんなバスク地方の中でもスペインバスクの魅力をご紹介する。
 スペインといえば、 強い日差しに荒涼とした大地というイメージが強いが、バスク地方は「緑のスペイン」と呼ばれるほど緑豊かで、美しい山々と清らかな水に恵まれた地域。
 そこにスペイン北部屈指の湾岸都市「ビルバオ」がある。
 ビルバオ(スペイン語:Bilbao、バスク語:Bilbo)は、スペイン北部の都市。バスク州ビスカヤ県の県都である。人口は約35万4千人で、スペイン第10位の都市である。

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 スペイン北部屈指の港湾都市であるため、現在では、スペイン内外からの移民も多い。約20キロ東には、ナチスの爆撃、パブロ・ピカソの絵画で知られるゲルニカが、約70キロ北西には、サンタンデールが位置する。



ビルバオ 1 W600H350

 スペインの主要都市の1つだが、大都市とは思えないほど緑が多くとても穏やかな街だ。元々は鉄鋼業で栄えた街で、経済的に裕福なため、マドリッドやバルセロナに比べると治安がいい街である。

ビルバオ 3 W301H246 ビルバオ 2 W290

 街の小路に入るとこんなかわいらしい風景に出会うことができる。鮮やかな色の壁なのにとても趣がある。ベランダに飾られた花がスペインらしい。(右)こちらもビルバオのストリート。ちょっとノスタルジックな感じがして素敵だ。

ビルバオ 4 W600

 カラフルな建物が立ち並ぶ道を通りぬけていく真っ赤なバスは、バスク語でビルバオを表す「bilbo」のロゴがトレードマークのビルバオ市民の足、「ビルボバス(bilbo bus)」。こんなちょっとしたところにもバスクらしさを垣間見ることができる。バスの他には、市内をトラムが走っているので、トラムに乗って街を散策するのも楽しい。

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 そしてビルバオといえば、建築界の鬼才、フランク・ゲーリーによって設計されたグッゲンハイム美術館。港町として栄えてきたビルバオの地域性を意識してデザインされたものだが、ネルビオン川に浮かぶ一艘の船のようで、グッゲンハイム美術館を真上から見ると、バラの花びらのようにもみえるのだ。

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 また色とりどりの花が植え込んであるグッゲンハイム美術館の番犬「Puppy(パピー)」は、子犬と言うには少々大きい12.4m。季節や年によって異なる模様のパピーを見ることができるが、季節の移り変わりの時期には、お着替え中ということもある。どうせなら、めいいっぱいお花で着飾ったパピーを見てみたい。



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 こちらは、ビルバオ旧市街の南端に位置するサン・アントン教会。15世紀に建てられた石つくりの歴史のあるロマネスク様式の教会だ。そして、サン・アントン教会のたもとにあるアーチ型の石橋はサン・アントン橋。グッゲンハイム美術館のような超近代建築と、このような歴史的建造物が違和感なく溶け込んでいるというのも、ビルバオという街の魅力の1つである。

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 ビルバオを流れるネルビオン川にかかるビスカヤ橋は、世界最古の運搬橋として世界遺産に登録されている。橋から吊るされているゴンドラには、車6台と300人ほどが乗ることができ、24時間営業で、現在でも市民の交通手段として使われている。高さ50mという高さの橋の上部は歩道になっているので、港や湾を眺めながら歩くこともでき、高さが平気な方は海風を感じながらスリルと爽快感を味わえるはずだ。

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 なめらかなカーブが美しいズビズリ橋。歩行者専用の橋で、床はガラス張りになっている。夜は下からライトアップされるので、日が落ちてから歩くとロマンティックさは倍増。さらに奥に見えるツインタワーは、日本人建築家磯崎新が設計したイソザキタワー。日本からはるか遠くの地で、日本人の活躍を見るのはなんともうれしい思いにしてくれる。

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 そしてビルバオの主要駅のアバンド駅の構内に入ると、素敵なステンドグラスが出迎えてくれる。また一度見たら忘れられないいかつい顔のおじさんの銅像。ステンドグラスとミスマッチのようで不思議とマッチしている。

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 バスク地方を訪れて、やはり驚くことの1つに、道路標識や、看板など至る所にバスク語を見つけることができることだ。この案内も、上からバスク語、スペイン語、英語表記となっている。バスク語の起源は未だ謎のままで、世界で最も難解な言語の1つと言われている。悪魔がバスク人を誘惑するためにバスク語を習ったが、7年かかって覚えたのは『はい』と『いいえ』だけだったなんていうジョークもある。文法的には、ヨーロッパの言語よりも日本語の方が近かいとも言われていて、この言語はやはり興味深い。

ビルバオ 12 W600

 サッカーファンなら訪れてみたいアスレティック・ビルバオのホームスタジアムであるエスタディオ・サン・マメス。このアスレティック・ビルバオはバスク人のみしか入ることのできない特殊なクラブであるが、レアル・マドリードとFCバルセロナと並んで、リーガ・エスパニョーラ創設以来1度も2部リーグに降格したことのない名門クラブ。日本のJリーグに置き換えると、大阪人のみを起用したガンバ大阪が100年近くも1部リーグで戦い続けているようなもの。そう考えるといかにバスク人のフットボール技術がすごいのかが分かる。これは一つのバスク文化である。

 このビルバオの歴史をみると、1300年6月30日、ビスカヤの領主ディエゴ・ロペス・デ・アロ5世によって、川岸の漁村(現在は旧ビルバオと呼ばれる)の対岸であるネルビオン川左岸に建設された。ビルバオの名前の由来は確かではないが、古スペイン語の「bel vado」(よい浅瀬)やバスク語の「bi albo」(2つの川岸)から来ているという説もある。ビスカヤの領主はビルバオに特権を与え、町は発展した。町はサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の途上にあったため、それにちなんで「サンティアゴ教会」(聖ヤコブの教会)が建設された。さらに15世紀には町を巡る貴族間の戦争が起き、3度の洪水に見舞われてダメージを受けたが、町は再建され市壁を越えて成長を続ける。伊東マンショが生きた16世紀にはメリノ種の羊毛をヨーロッパ北部へ輸出する港となり、スペイン黄金時代には北スペインでの商業・金融の中心地となった。


                                         Bilbao World Design Capital 2014


     辻斬りZ W50H50 gif  ② 司馬で回想する南蛮の道「ザビエルの故国へ」
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         ユーラシア大陸最先端の国ポルトガルに上陸した伊東Mancioの足跡

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Navarra gif  街道をゆく 2 H72

ナバラ州Navarra 3 W600


大きな地図で見る

 ナバラ州は、北の山岳地域、中央のパンプローナ盆地、そして南の河岸地域と、大きく三つに分けることができる。そしてそれぞれがさらに細かな地域に分けられている。
 州の北部にはピレネー山脈が横たわり、フランスとの国境を形成する。標高の高い山々が見られるのは東側で、西に行くにしたがって標高が下がり、ビダソア川(Bidasoa)の盆地周辺でバスコス山地とつながっている。州内で最も標高が高いのはメサ・デ・ロス・トレス・レジェス(Mesa de los Tres Reyes 三王の台地)と呼ばれる台地で、最も高いところで標高2,434m。そしてピレネー山脈の山間にはアラゴン川により形成された広大な谷が広がっている。
 ピレネーの手前に横たわる支脈はウエスカ山脈で、ペニャ・デ・イサガ(Peña de Izaga)、イドコーリ(Idokorri)、サリキエタ(Zarikieta)、アルチュスバ(Artxuba)、イスコ(Izko)、サルビル(Sarbil)、サトゥルステギ(Satrustegui)、サン・ミゲル(San Miguel)、ウルバサ(Urbasa)といった山々がこれに含まれる。一方、県の南部には、オリベテ(Olivete)やサン・グレゴリオ(San Gregorio)といった標高の低い山々が点在する。
 またナバラの河川は主に二つの水系に分けられる。一方はエブロ川を中心とする地中海側の水系であり、もう一方はアラシェ川(Araxe)、レイサラン川(Leizaran)、ウルメア川(Urumea)、ビダソア川(Bidasoa)などの河川からなるカンタブリア海側の水系だ。
 エブロ川の支流には、エガ川(Ega)、アメスコア川(Amezkoa)、アラゴン川(Aragon)、エスカ川(Eska)、イラティ川(Irati)、シダコス川(Cidacos)、アルガ川(Arga)、アラマ川(Alhama)、ケイレス川(Queiles)などがある。エブロ川は南部にトゥデラ(Tudela)を中心都市とする大きな盆地を形成する。またその北部にはアラゴン州と隣接する広大な「ラス・バルデナス」(Las Bardenas)と呼ばれる平原がある。さらに州内にはいたるところに美しい谷があり、特にバスタン(Baztán)、ロンカル(Roncal)、サラサール(Salazar)、ビダソア(Bidasoa)、シンコ・ビヤス=マレレーカ(Cinco Villas-Malerreka)、ウルサマ=バサブルア(Ultzama-Basaburua)、ララウン(Larraun)の谷などは特筆に価しそうだ。
 バスク出身のS・カンドウ神父の著作に「バスクは風と水と光の国だと形容される」と神父は書く。まさしくその言葉通りの風光がある。



 通常であれば南蛮の道Ⅰの次に南蛮の道Ⅱを読むのであろうが、三馬漱太郎の場合はポルトガルがきっかけだったので南蛮の道Ⅱをまず読み終えた。

南蛮の道 二冊 W600H200

 司馬遼太郎の南蛮の旅は、パリから入り、バスクを抜け、マドリードを経てリスボンに向かうコースを取っている。この『南蛮のみち』をつまり、伝道師フランシスコ・ザビエルの故郷であるスペイン北部バスク地方をたずね歩く紀行文を書くのに、マドリーなどスペイン国内の都市ではなく、パリを旅程の起点とした。このスタートの仕方が、司馬らしくて面白い。中世の民の巡礼のみちすじを模倣したのだろうし、ザビエルの留学先カルチェ・ラタンから遡行したかったのだろう。
 途上、フランス・バスクの中心都市であり、ロラン・バルトの育ったところとして知られるバイヨンヌで、聖なる固有名詞だと思っていた「ザビエル(Xabier)」という単語が、この地方ではごくありふれた男子の名前であることを知って、司馬は愕然としてしまう。しかし現代日本では、これは子どもでも知っている事柄だ。シャビ(シャビエル)・アロンソや、シャビエル・プリエトといった有名フットボーラーがバスク人であることなど、少年たちにとっては、ごくごく常識の範疇となっているからだ。と、いう余談は置いて、司馬遼太郎の街道をゆくは、それぞれの話しが完結するようにまとめられているのでどこから読んでもいいのだが、街道ごとに司馬自体の主題がたてられているので読み通した方が主題の理解に近づける。

 たとえば、南蛮の語は、タイ・ジャワ・ルソンなどの南洋諸島を指したが、さらにそこを経由して日本に来た西洋人や文物をも意味するようになり、やがてポルトガルやスペインに限定され、ポルトガルによってキリスト教がもたらされたことからキリシタンの意味にも使われるようになった。そのため、南蛮を調べると、ポルトガルから来た文物とか日本でのキリシタンと弾圧などが中心になってしまう。しかし、司馬さんの主題は、日本にキリスト教を布教しようとする背景に何があったのか、日本にキリスト教をもたらしたフランシスコ・ザビエルとはどういう人物で、なぜイエズス会に入ったのか、そもそもイエズス会はどのような背景で生まれたのか、など人間の生きようとするかたちを見つめようとしていて、いつもながら引き込まれてしまう。司馬はザビエルの男性を見出そうとした。歴史にいるザビエルではなく、ザビエルという男が歩いた道を歴史にしようとする。

ザビエルザビエル W337H350

 フランシスコ・ザビエル(1506~1552)は、バスク地方の出身である。ときおり、バスク独立闘争がニュースで流れるから聞いたことがあるかもしれない。バスクという国は存在しないがバスク人の誇りはいまも続いていて、バスクについての話しも考えさせられる。さてザビエルだが、バスク(いまのスペイン・ナバラ州)のザビエル城で育ったが、城主である父はナバラ国の首都パンブロナの宰相で、スペインの攻撃にあって殺されてしまう。パンブロナ城に入ったスペイン軍の守備隊にやはりバスク人であるイグナチウス・ロヨラ(1491~1556)がいて、その後の攻防戦で大けがをする。
 ザビエルは1525年、19歳で名門パリ大学に留学。聖バルブ学院に入り、そこで自由学芸を修め、哲学を学んでいるときに同室になったのがフランス出身の若きピエール・ファーヴルであった。そこに同じバスクから来た37歳の転校生イニゴ(イグナチオ・デ・ロヨラ)も加わる。以後一度もザビエルは故郷バスクには帰ることは無かった。
 1529年、ザビエルの母が死亡。その4年後、ガンディアの女子修道院長だった姉も亡くなる。この時期ザビエルは哲学コースの最後の課程に入っていたが、イグナチオから強い影響を受け、聖職者を志すことになる。


Pamplona gif  街道をゆく 2 H72


パンプローナ(Pamplona) バスク語イルーニャ(Iruña) Navarra


 ローマ帝国期、バスク人の遠祖はいくつかの部族に分かれていたが、ひとつの民族的な集団として広い領域に分布していた。少なくとも、アキテーヌと険しい中央ピレネー山脈からアンドラまでの地域を含んでいた。ローマ人の登場により、いくつかの道路や研究の進んでいない小さな町、使い回された田舎の入植地が残されている。パンプローナは有名なローマの将軍ポンペイウスによって築かれ、セルトリウスに対抗するための遠征の司令部として使われた。
 パンプローナ牛追い祭り(正式名サン・フェルミン祭)が毎年7月6日から14日まで開催されることで有名。またここはアメリカの小説家、アーネスト・ヘミングウェイの長編小説『日はまた昇る』の主な舞台にもなっている。
 そんなパンプローナは、クエンカ・デ・パンプローナで知られる円形の谷の中にあり、ナバラ州の中間に位置する。クエンカ・デ・パンプローナは、エブロ川谷とともに北の山地とつながる。気候とクエンカの風景は、2つの主なナバラ州の地理上を二分する、地方の間にある個性的な変わり目である。フェリペ2世は市南側に星型要塞の建物建設と、全ての城壁の現代化を命じた。16世紀終わりから18世紀にかけて建てられた城壁は現在も残っている。また街の中央にある十字路は、ナバラ州の非常に異なる自然の間をつなぐ重要な通商路となってきた。
 その十字路の、ナバラ州都のパンプローナからザビエル城までは東南に52kmとなる。パンプローナから車で約1時間。住所「Plaza San Francisco Javier S/N ,Javier 31411」。

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ザビエル城 2 W600


                                         ザビエル城 EI CASTILLO DE JAVIER



 ザビエルは、没落したとはいえ名門であり、パリの聖バルブ学院に入学する。やがて、軍人を諦めたロヨラが神の騎士になろうとして聖バルブ学院に入学し、1537年にイエズス会を起こす。当時は宗教改革が進んでいるときで、ロヨラはプロテスタントに対抗し、ローマ・カトリックの教義に戻ることを主張し、回心を説いた。その説得でついにザビエルもイエズス会に入ることになる。おりしも、大航海時代全盛のスペイン・ポルトガルは布教という名目でアジアへの進出を目指しており、イエズス会と符合することになる。ということで、日本に初めてイエズス会・ザビエルによってキリスト教がもたらされたのである。

 イグナチオの感化を受けた青年たちが集まり、1534年8月15日、イグナチオ、ザビエル、ファーブルとシモン・ロドリゲス、ディエゴ・ライネス、ニコラス・ボバディリャ、アルフォンソ・サルメロンの7人が、モンマルトルの聖堂において神に生涯を捧げるという誓いを立てた。
 これが「モンマルトルの誓い」である。この時のミサは、唯一司祭の資格を持っていたファーブルが執り行った。一同は教皇パウルス3世の知遇を得て、叙階許可を与えられたので、1537年6月、ヴェネツィアの教会でビンセンテ・ニグサンティ司教によって、ザビエルもイグナチオらと共に司祭に叙階された。彼らはエルサレム巡礼の誓いを立てていたが、これは国際情勢の悪化で果たせなかった。

 この司馬遼太郎の本にはマドリード周辺が描かれており、私も何度か座右の書として持参した。
 実はスペインが初めてのヨーロッパであり、セビリア、コルドバ、グラナダ、トレドなどを回るうちにキリスト教文明とイスラム文明のしのぎを削る相克、あるいは混在に強烈な印象を受け、この本の主題が小さくなってしまった。このときの旅の印象は、私をトルコのイスラム建築、イタリアのキリスト建築、さらに北アフリカのモロッコ・チュニジア・エジプトの建築へと展開させていった。途中、一息して旅の足跡をみるとポルトガルが気になりだした。かつてはスペインとともに大航海時代の幕開けをし、日本にはいち早く鉄砲やキリスト教によってヨーロッパの存在を伝えた国である。以後、幾度もポルトガルを訪れる。そこで2007年の暮れ、15度目のポルトガルを訪ねることにし、マドリードとともにポルトガルを描いているこの本をもう一度読み通した。

 そもそも南蛮とは中国で南方の野蛮人を指す言葉として用いられ、転化して日本では南洋諸島を指す言葉として使われてきた。しかし、大航海時代に南洋諸島を拠点にポルトガル人がキリスト教の布教のため渡来したことから、ポルトガル人あるいはスペイン人を南蛮人と呼び慣わすようになったとされる。わざわざ南蛮と題したこの本を読み終えてみると、司馬遼太郎は、はるか彼方の日本にまでキリスト教を布教しようとした南蛮人の精神と、大航海時代に栄えたにもかかわらずいまや世界の表舞台から一歩退いてしまったそのわけを明かそうとしたように思える。
 前半マドリードでは天正遣欧少年使節団が登場する。伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチーニョ、中浦ジュリアンのいずれも14~15才のまさに少年が、1584年リスボンに到着し、マドリードでスペイン全盛期のフェリペⅡ世に拝謁、さらにローマ法王グレゴリウス13世に謁見して1590年に帰国するのだが、すでにキリスト教は異端視され、彼らの役目は悲劇として終焉する。
 しかしこれを終焉としたのでは今日の史観が許すはずもない。天正少年使節者が何を体験し、どう意識したのかを再認識するとき、司馬としては大きな使命感を覚えた。終焉とする既成観念は時代権力による無体な暴力的忙殺であったはずだ。司馬が鎖国から明治維新における日本治世の動向を考察した場合、より合理的な問題として導くべき視線だけは消さぬようにした。

マンショと天正少年使節 W600H195


 司馬遼太郎は少年たちの壮大なパノラマの真の意味を探ろうとして、当時ゲルニカが展示されていたプラド美術館には目もくれず、4少年がフェリペⅡ世に拝謁したサン・ヘロニモ修道院を探し当て、訪ねるのである。
 4少年にとっては法王との謁見であっても、キリスト教側では日本の王子が全権を持っての拝謁とされた。となれば日本はキリスト教下に入ったことであり、当時、世界はトルデシリャス条約(1494年)によってスペインとポルトガルに二分されていたため、日本はポルトガルの支配下に入ったことになり、スペインもその利権を取りたがっていた、という構図が浮かびあがる。やはり歴史は見たい側からだけ見てはだめなのである。

 後半ポルトガルでは大航海時代が主題になる。スペインに王位を狙われ続けてきたポルトガルは、ジョアン1世の時にイギリスと同盟(1386年)を結び、王妃をめとる。その子どもの一人がエンリケ航海王子で、海を目指し、アフリカへ、さらに喜望峰を回りインドへ、そしてマカオや日本、ブラジルに到達することになる。その栄華がジェロニモス修道院などに表れているのだが、しかし、植民地からの収奪による繁栄であったため産業が育たず、国力を失ってしまった。哀調をおびたファドがその気分を歌い上げているのかも知れない。歴史におぼれてはいけないということでもあろう。
 
 三馬漱太郎がポルトガルを強く意識したのは、ポルトガルがイベリア半島をスペインとで分かち合っているという地理的な知識もあるが、スペインの旅で強烈に感じたのは、イスラムに対するレコンキスタ(国土回復運動)で、その終盤、イスラムに対抗していたカスティリア、アラゴン、ポルトガルのうち、カスティリアのイサベル王女とアラゴンのフェルナンド王子が結婚(1469年)、スペインが誕生し、最後のイスラム王国グラナダを奪還(1492年)したことであった。
 その後、スペインのカルロス一世はハプスブルク家を継ぎ、神聖ローマ皇帝に選ばれる(1519年)など、スペインは黄金時代に入っていく。当然、ポルトガルへの食指が動かないはずはない。スペインの古都トレドを流れるタホtajo川はイベリア半島を西に下り、ポルトガルに入ってからはテージョtejo川と名を変え、リスボンで大西洋に出るのである。スペインの南の古都、コルドバやセビージャはグアダルキビル川沿いに位置し、大西洋への地の利はいいが、いつイスラムが巻き返してくるか分からない。アフリカ進出、そして新大陸発見など、大航海時代を仕切るには、ポルトガル併合は必須であったに違いない。

 もちろん、ポルトガルもスペインの狙いは感じていたはずである。そもそもスペインにしろ、ポルトガルにしろ歴史的な都市はローマ帝国時代の植民都市である。ポルトガルの国名にもなったポルトportoもローマ帝国時代の積出港といわれる。イスラムに支配されていたころこのあたりはポルトカレと呼ばれ、レコンキスタでこの地を奪回したのがフランス貴族であったため、彼がポルトカレ公爵としてここを治めるようになった。彼の息子エンリケスは、領内貴族の支援を受け、イスラムを撃退、カスティリアからも分離独立を勝ち取り、ポルトガル王国が成立した(1143年)。エンリケスは次にコインブラに都を移しながらイスラムを追撃し、リスボンに進出する。その後、リスボンに都が移され(1249年ごろ)、間もなく大航海時代(1415年~)に入っていくが、スペインの脅威を感じるポルトガルはイギリスとの同盟を結び、安定を図ろうとする。

 その一方で、ポルトガルはアフリカへ進出、さらには喜望峰を回り(1487年)、ゴア征服(1510年)、マラッカ征服(1511年)、そしてついに1543年種子島漂着、1549年ザビエル来日、1581年宣教師ヴァリニャーノ、信長と会見、1584年には天正遣欧少年使節団がリスボンに上陸することになる。ポルトガルの歴史によって日本の歴史が動いたと言っても過言ではないのである。にもかかわらず、ポルトガルがアフリカやアジア、ブラジルの富の収奪で国家をなしてきたため、ポルトガル内に産業基盤が成長せず、植民地での原資の消失、列強の植民地への進出、植民地の独立などによって、近代の波に隠れてしまい、明治以降の日本はむしろ近代の列強に目を向け、ポルトガルとの縁が薄れてしまった。

 この本「南蛮のみち」からは、ポルトガルの栄光と苦難、そして日本との結びつきを豊富な写真で理解することができる。また体質的にもポルトガルは日本とウマがあうことが窺える。

 このように司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズのひとつ「南蛮のみち」は、フランスから始まりスペインへと旅してゆく紀行文なのだが、一つの山場として両国の国境にすむバスク人たちが大きなテーマとなっている。

 フランスから日本に渡って、初めてキリスト教を伝えたザビエル神父が最初に紹介されている。そこもザビエルの信仰や当時の修道士の暮らしぶりなど伺えて良いところだが、そのあと、スペインに向かう前、両国間のバスク人に焦点をあてている。
 この本では、バスクの地を訪れて、バスクの人たちとふれあい、その言葉や風俗習慣、考え方を探ってゆくようすが興味深い。タイトルにもある「南蛮」のイメージのルーツをそこにひとつ、見ていこうとするねらいもあるようだ。
 司馬遼太郎の小説は時代劇にしても、本筋を離れて「余談になるが……」とわき道にそれて、その余談が延々と続くのだけど、そこに歴史をわかりやすく縦断してみせる独自の司馬史観があって面白い。「街道をゆく」シリーズはその真骨頂であろう。

 カンドウ神父という方がいる。ザビエル神父とは違い現代の人物だけど、この人もバスク出身ということで取り上げられている。信仰厚く、日本で人々の慈善に勤めてくれた方だという。感動させられる生涯だ。
 1925(大正14)年に来日、日本の人と文化を愛し、日本語も堪能でエッセイも多く残している。そのなかで、故郷のバスクのことを「風と水と光の国」だと愛着を持って描いている。そこに司馬遼太郎は魅かれて興味を持った。

 若い頃のフランシスコ・ザビエルは神学とは無縁で、将来は哲学の研究に捧げようと思っていたのに、カルチェラタンでイグナチウス・ロヨラに出会ったばっかりにイエズス会に入り、ポルトガル王の支援で日本に伝道に来る事になった。司馬は「まことに人の運命って数奇なものだ」と語る。司馬遼太郎一行はザビエルの出身地、スペインのバスク地方を訪れ、実家のお城を見学する。
 そこで、茶道の所作は、キリシタンの司祭のミサの所作に影響を受けているのは?、とか、秀吉以後、港湾部に首都を作るようになったのはリスボンをモデルにしたのでは?、とか、当時のスペイン・ポルトガルが日本に与えた影響について語っている。後年、司馬は「スペイン史観とポルトガル史観は、日本にとって正確な史観を組み立てる最重要とすべき遺産なのだ。私も更に念入りに洗い直さねばならない。どうやらその時がきた」と、南蛮の道にした取材時を回想して、そう語ってくれた。

 日本とポルトガルの接点は1543年である。ポルトガル船が種子島に漂着し鉄砲が伝来した。しかしこれは日本人側による視点、ポルトガル人が日本という国を発見し上陸した年でもある。以後、日本の形成を大きく揺るがそうとする出来事が数多く起きることになる。その一つにキリスト教の伝来が上げれれる。その異国の宗教がもたらした新しい文化の中に伊東マンショは生きた。

 イエズス会(ラテン語:Societas Iesu)は、キリスト教、カトリック教会の男子修道会。宗教改革以来、イエズス会員は「教皇の精鋭部隊」とも呼ばれた。このような軍隊的な呼び名は創立者イグナチオ・デ・ロヨラが修道生活に入る以前に騎士であり、長く軍隊ですごしたことと深い関係がある。古くの日本では「イエス」の漢訳が耶穌であることから耶穌会(やそかい)とも呼ばれていた。

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 1534年8月15日がイエズス会の創立日とされる。
 パリ郊外のモンマルトルの丘の中腹のサン・ドニ聖堂(現在のサクレ・クール聖堂の場所にあったベネディクト女子修道院の一部)にイグナチオ・デ・ロヨラとパリ大学の学友6名の同志が集まり、ミサにあずかって生涯を神にささげる誓いを立てた。1534年8月15日、これをして創立日とする。彼ら7名は清貧・貞潔の誓いとともに「エルサレムへの巡礼と同地での奉仕、それが不可能なら教皇の望むところへどこでもゆく」という誓いを立てた。
 3年後の1537年、一行はイタリアへ赴き、教皇から修道会の認可を得ようとする。当時の教皇パウルス3世は彼らの高い徳と学識を見て、まず彼らの司祭叙階を認めた。
 ファーヴルはすでに司祭叙階されていたため、他の6名が6月24日にヴェネツィアで叙階を受ける。そしてオスマン帝国と神聖ローマ帝国のカール5世の間で行われていた争いのために、地中海を渡ってエルサレムに赴くことができなかったため、彼らはとりあえずイタリア半島にとどまって説教をしながら、奉仕の業に専念した。
 そして翌1538年の10月イグナチオはファーヴルとライネスの二人を連れて再びローマを訪れ、会憲の許可を願った。審査した枢機卿会の面々はほとんどが好意的にこれを評価したため、教皇パウルス3世は1540年9月27日の回勅『レジミニ・ミリタンティス(Regimini Militantis)』でイエズス会に正式な認可を与えた。このとき、与えた唯一の制限は会員数が60名を超えないようにということであったが、この制限は1543年5月14日の回勅『インユンクトゥム・ノビス(Injunctum Nobis)』で取り払われた。こうしてイグナチオは会の初代指導者(総長)に選ばれ、会員たちをヨーロッパ全域に学校や神学校設立のために派遣する。
 司馬遼太郎はこの経緯を念入りに確認した。
 そして司馬は、会が発展するに伴ってイエズス会の活動分野が三つに絞られていったことに注目する。
 第一は「高等教育」であり、ヨーロッパ各地で学校設立の願いを受けてイエズス会員は引く手あまたであったこと。イエズス会員は神学だけでなく古典文学にも精通していることが特徴であった。
 第二の活動分野は「非キリスト教徒を信仰に導く宣教活動」であった。
 第三はプロテスタントの拡大に対するカトリックの「防波堤」になることであった。
 このようなイエズス会員の精力的な活動によって、南ドイツとポーランドのプロテスタンティズムは衰退し、カトリックが再び復興する。
 これらを踏まえた上で司馬遼太郎は、別の機会でパリのモンマルトルに佇んだとき「死人のごとき従順(perinde ac cadaver)」という言葉を強く思い出したという。そう語る司馬さんの眼光は黒眼鏡のレンズに少し振動を与えるほど輝いた。それは70歳ぐらいだったと思う。

 その「死人のごとき従順」とは、イグナチオが1554に改定した会憲での言葉である。
 そこにはイエズス会が総長をトップとする組織であることが明記され、教皇と会の長上への絶対的な従順を会員に求めたとき、イグナチオは「死人のごとき従順(perinde ac cadaver)」という言葉を用いている。そして以後、彼のこの座右の銘はイエズス会の変わらぬモットーとなった。
 またそこには「神のより大いなる栄光のために(Ad Majorem Dei Gloriam)」という趣旨を含む。これは「どんな活動でもよい意志をもって精力的におこなえばかならず神の国のためになる」という精神を表していた。

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 パリ紀行「モンマルトルの誓い」
 Anversの地下鉄駅を出ると正面に白亜のサクレクール寺院が見えてくる。モンマルトルの丘に向かって正面に見える寺院を眺めながらスタンケルク通り(Rue de Steinkerque)の坂を上がる。この通りを登って、途中トロワ・フレール通り(Rue des Trois Freres)から右手に曲がるとイヴォンヌ・ル・タック通り(Rue Yvonne Le Tac)、この通りの11番地にオクシリヤトリス派の礼拝堂がある。
 ここはサン・ドニとその仲間たちがこのあたりで首をはねられたと伝えられている。そしてマルティリオム 「殉教者の記念堂」 として中世に聖堂が建っていた場所だ。その昔、この地下聖堂の中で、1534年8月15日、イグナチオ・ロヨラ、フランシスコ・ザビエルなど7人の同士が、ローマ教会のために宣教師となる事を誓い合った。上写真はその場所である。



 イグナチオが「死人のごとき従順」という言葉を遺した1554年から26年後の1580年(天正8)、11歳になった伊東マンショは有馬のセミナリオに入校する。
 このとき伊東マンショはイグナチオの信仰精神を宿したといえる。
 その1580年とは、石川本願寺が織田信長に降伏し、6月イギリス商船が平戸に来航した。そしてスペイン王フェリペ2世がポルトガルを併合。翌年にはオランダがスペインから独立した。天回するこの状況が天正遣欧少年使節の長崎出航の夜明け前である。

 いわゆる大航海時代というものは、アジア及び新大陸に対し「富とキリスト教徒」を要求した。このためイエズス会の東洋に対する布教活動も、ポルトガル本国の政治的・経済的進出から切離しては考えることのできない性質を有している。イエズス会の布教活動は、ある場合には軍事侵略の良きパートナトーであり、またある場合には貿易活動の良きアドバイザーとさえなった。特に日本においては、イエズス会士の貿易活動がその顕著な傾向として特長づけられる。
 ザビエルによって拓かれた日本布教の道は、その後継者達によって踏み固められていくこととなる。


南蛮屏風に描かれたイエズス会士とフランシスコ会士 W600


                      シリーズ連載・次回No.fileに続く
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           MANCIO
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三馬漱太郎

Author:三馬漱太郎
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Sotarou Miuma
立体言語学博士
Social Language Academy Adviser
応用社会言語科学研究員

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